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19年間捜し求めた我が子は米国にいた 「捨てられた」と思い、国際養子縁組で海を渡った
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投稿者 sci 日時 2011 年 7 月 15 日 00:43:12: 6WQSToHgoAVCQ
 

http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20110712/221439/?ST=print
日経ビジネス オンライントップ>アジア・国際>世界鑑測 北村豊の「中国・キタムラリポート」
19年間捜し求めた我が子は米国にいた 「捨てられた」と思い、国際養子縁組で海を渡った

2011年7月15日 金曜日
北村 豊


 江蘇省の夕刊紙「揚子晩報」は2011年5月11日付で『19年にわたる不思議な子捜しの記録、子供は米国人にもらわれていた』という記事を掲載した。この記事は非常に大きな反響を呼び、読者から多数の投書が殺到したため、同紙は5月12日、13日と連日にわたって記事に関する疑問の解明と記者による追跡リポートを掲載し、6月28日にはその後の推移を報じた。同紙が報じた「子捜し」の全貌を取りまとめると次の通りである:

ワンタンを食べ始めた息子を残し

 安徽省蕪湖市繁昌県は省都・合肥市から南東に直線距離で約120キロメートルに位置する農村である。1992年、その繁昌県の新林郷郭仁村の農民“李緒文”は妻の“付桂花”と長男の“李祥”を連れて生まれて初めて出稼ぎに出た。李祥は1987年生まれで当時5歳、3歳年下の次男“李順”は実家の祖父母に預けていた。出稼ぎ先は江蘇省の蘇州市にある建築現場で、李緒文は左官、付桂花は下働きとして働いた。

 建築現場で働き始めて数カ月が経過した1992年の5月、農繁期が近づいたので、妻の付桂花は実家に戻って農作業を手伝う必要があった。また、長男の李祥も間もなく6歳になることから、実家に戻って小学校入学の準備をしなければならなかった。5月15日の夜10時過ぎ、李緒文は鉄道の蘇州駅まで妻子を見送り、列車の中から手を振る2人に別れを告げた。2人の乗った列車は翌日の早朝に南京駅に到着し、南京駅で蕪湖行きの列車に乗り換える。乗り換えは1回だけで、何も問題のない列車旅である。李緒文は何の心配もなく2人を見送ったのだったが、それが李祥との別れになろうとは思ってもみないことだった。

 5月16日の早朝、列車は南京駅に到着し、付桂花と李祥の親子は下車した。李祥が空腹を訴えたので、程なくして南京駅付近でワンタンの屋台を見つけた付桂花は1杯のワンタンを注文して李祥に食べさせた。ワンタンを美味しそうに食べ始めた李祥が「母ちゃん、喉が渇いた」と言うので、付桂花が李祥のお椀を見るとまだ半分以上残っている。水はどこかで買ってくるしかないが、その近辺にはお店はない。近くの店を探して水を買って来るには少々時間がかかるだろうけど、李祥はワンタンを食べているから問題ない。気軽にそう判断した付桂花は、李祥をその場に残したまま走って水を買いに出かけた。ところが、水を買った付桂花が4〜5分後に屋台の場所に戻ってみると、そこには李祥の姿はなかったのである。

事実を受け止められず記憶喪失に

 李祥はどこ。どこに行っちゃったの。見つからない、どこにいるの。付桂花は気の狂ったように安徽省の方言で叫びながら、李祥を求めてあちこちを探し回った。筆者にもこれと同じような経験がある。1988年当時、北京に駐在していた筆者一家は年末年始の休暇を香港で過ごした。香港に到着して3日目であったろうか、あるショッピングセンターでちょっと目を離した隙に当時3歳の娘が突然いなくなった。筆者の脳裏をよぎったのは誘拐されたのではという不吉な予感。妻には6歳の息子から目を離さないよう言いつけると、娘の名前を呼びつつショッピングセンターの中を必死で走り回った。筆者にはものすごく長い時間に感じられたが、実際は5〜6分ほどであっただろうか、息子と一緒に娘を探していた妻がふとショッピングセンターの外に設置されていた遊園地の方を見ると、娘が1人でジャングルジムに上って楽しそうに遊んでいたのだった。娘を捜し回る筆者は顔面蒼白で目を血走らせて狂人のようだったと、今でも妻は筆者をからかうが、筆者には付桂花の気持ちがよく分かるのである。

 その日は、李緒文一家にとって最悪の日となった。大事な息子が行方知れずとなったばかりか、母の付桂花は息子を見失った事実を受け止めることができずに精神に異常を来して記憶喪失となってしまったのだった。1992年当時はまだ通信が不便で、電話による連絡も容易ではなかったし、李祥文一家は初めての出稼ぎに出て間もないこともあり、蘇州の現場にいる李緒文や蕪湖の実家にいる祖父母が南京で付桂花と李祥の身に起こった事態を知る由もなかった。

 その後、精神に異常を来した付桂花は南京市の“遣送站”<注1>に収容され、それから1週間ほど過ぎた頃、ぼさぼさ髪に垢まみれの付桂花が蕪湖の実家に姿を現した。付桂花の変わりようを見て驚いた祖父が問い質してみると、どうやら孫の李祥は行方知れずとなったらしい。息子の李緒文に事態を伝えようにも連絡が付かないが、一方では僥倖に頼る気持ちがあり、急いで捜せば李祥は見つかるはずと考えた。そこで、各地の親戚に声をかけて、南京および蕪湖周辺の都市で李祥捜しを展開したが、いくら探しても何らの痕跡すらも見つからなかった。ただし、親戚が蘇州の李緒文に事態を伝言してくれたことで、李緒文は長男の行方不明と妻の記憶喪失を知ったが、この時既に事件から半月以上の時間が経過していたのだった。

<注1>政府が運営する地方出身のホームレスを故郷へ送還する施設

いつ来るか分からない連絡を待った

 事件を知った李緒文は仕事を辞めると南京へ駆けつけて李祥の行方を捜した。一緒に南京入りした数人の親戚は出稼ぎに出たばかりの農民や農作業していた農民で、南京は誰にとっても初めての大都会であった。彼らはバスにも乗ったが、ほとんどは歩きであった。彼らは李祥が慣れ親しんでいるのは工事現場だという思い込みで、いくつもの工事現場を回ったし、李緒文は数カ所の派出所も回ったが、結局のところ、半月捜して何の手掛かりもつかめなかった。

 後に李緒文は、「あの頃は何をやっても納得が行かなかった。出稼ぎに出たばかりで、何も分からなかった。新聞に尋ね人の公告を出すとか、南京市内の派出所をすべて回るとか、孤児院に連絡するとかすれば、李祥は見つかったかもしれなかった」と述べているが、世間知らずで気が動転していた李緒文はやみくもに南京市内を探し歩くだけで、効果的な方法を何一つ考え付かなかったのであった。

 李祥の写真を街中に張り出すこともできたのではないかという記者の質問に対して、李緒文は「あの頃は実家が貧乏で、写真なんてものは撮ったことがなかった。俺と女房が結婚した時も写真を撮ることなどなく、結婚届けに名前と住所を書いて終わりだった。李祥も生まれてから行方不明になるまで1枚の写真すら撮ったことなかった」と述べている。従って、李祥を探す際には、「身長が1メートルくらいで、色が白くて、肥ってはいない男の子」と尋ねるしかなく、こんな子供はいくらでもいるから、正に“大海撈針(海に落とした針を探す)”であった。

 唯一の証人である妻の付桂花は記憶喪失で、細かいことは何も分からず、ただ南京で李祥が行方不明になったことだけが間違いのない事実だった。その後も李緒文は年平均4〜5回は南京に出向いて李祥の手掛かりを探し求めた。これと並行して、李祥文は安徽省の各地にいる親戚たちに李祥捜しの協力を依頼したし、出稼ぎ先の蘇州でも同僚や知人にも協力を要請した。1998年に携帯電話が流行し始めると、李緒文は当時年間の稼ぎが1〜2万元であったにもかかわらず、7600元を投じて携帯電話を購入し、電話番号を協力者たちに伝えて、携帯電話を肌身離さず、いつ来るか分からない連絡を待ったのだった。

15年目に転機が訪れた

 こうして李緒文による李祥捜しの日々は過ぎて行ったが、15年目の2007年になって遂に転機が訪れたのである。それは、姪の1人が李緒文に「南京の“夫子廟(孔子廟)”一帯は行方不明になる人が多いと聞いているけど、夫子廟の派出所には聞いてみたの」と提起したのがきっかけだった。この一言が長年閉ざされていた付桂花の記憶の扉をこじ開け、彼女が李祥を連れて行ったのは夫子廟付近だったということを思い出させた。1992年当時、南京から蕪湖へ向かうには、蘇州からの列車が「南京駅」に到着したら、「南京南駅」まで移動して撫湖行きの列車に乗り換える必要があったが、夫子廟はこの南京南駅に近接していた。恐らく李祥を連れた付桂花は南京駅で下車してから南京南駅まで約10キロメートルの道のりをバスで移動し、夫子廟周辺の屋台で李祥にワンタンを食べさせたのだろう。

 これを糸口として付桂花を連れて南京入りした李緒文は夫子廟派出所に出向き、事情を説明して19年前の記録を調べてくれるよう懇請した。李緒文の話を聞き、付桂花の哀れな姿を見て大いに同情した女性所長は早速に古い資料を調べてくれたが、幸運にも派出所には1992年5月16日付の迷子記録が残されていたのだった。そこには「群衆が1人の男の子を連れてきた。6歳、自称“李強”、住所:安徽省新寧県繁盛郷、父:李樹文、母:楊桂花」と書かれてあった。安徽省の方言の関係で、李祥が李強、李緒文が李樹文、付桂花が楊桂花となり、住所は繁盛県新林郷が新寧県繁盛郷となっていたが、この少年こそが李祥であることは間違いなかった。

 派出所の記録では、“李強”は迷子として派出所に連れてこられた当日に“南京市児童福利院(児童福祉施設)”(以下「福利院」)へ送られていた。福利院では2カ月間にわたって収容した子供の公告を出し、心当たりの人を待つのだが、“李強”には引き取り手は誰も現れなかったと書かれていた。この事実が判明してすぐに、付桂花が李緒文の姪に付添われて福利院を訪ねた。2人はことが順調に運ぶようにと、2000元(約2万6000円)の品物を買って福利院に寄付して、福利院の院長に事情を話して協力を要請した。その結果、院長からは、確かにそのような子供がいたし、自分自身がその子に勉強を教えたという回答があった。しかし、院長はこれに続けて、「その子は福利院で3年間を過ごした後、1995年に米国人の養子となってもらわれて行ったので、もう捜さないで欲しい」と述べたのだった。

正式なルートでは情報の入手は不可能

 院長によれば、福利院では“李祥”と正しい名前で呼ばれていた子供は非常に聡明で、福利院に引き取られた子供は誰もが改名するのに、自分は李祥だとして改名しなかったのだという。また、李祥は両親に捨てられたと思い込んでおり、福利院ではずっと内向的であったのだという。2人は院長に李祥の米国の住所を教えて欲しいと懇願したが、院長からは、「米国の住所は分からない。例え分かったとしても、規則で教えるわけにはいかない」と取りつく島もない回答があっただけであった。こうして2007年の転機の時期は過ぎて行った。

 このように長年にわたって李祥捜しに奔走した李緒文であったが、努力の甲斐あって蘇州での出稼ぎ生活は大きな変化を遂げていた。2002年には蘇州に家を購入し、今では200人前後の建築工事チームを抱える身分となり、年収も平均で20〜30万元(約260万〜390万円)に達していたし、次男の李順は大学生となっていた。2010年に李緒文の子供捜しの話が遠い親戚で法律関連の仕事をしているケ鵬の知るところとなった。ケ鵬は法律を通じて問題の解決に協力すると申し出てくれ、李緒文はケ鵬にすべてを委ねることを決意した。

 ケ鵬の調査によれば、李祥は「江蘇省国際結婚・国際養子縁組手続きサービスセンター」(以下「江蘇省サービスセンター」)を通じて米国の家庭に引き取られたので、このルートをたどれば李祥にたどり着くと思われたが、中国の“収養法(養子縁組法)”では明確に里親の秘密保持が規定されており、さらに国際的な養子縁組では相手国の法律も加わり、正式なルートでは情報の入手は不可能と判断された。そこで、ケ鵬は米国留学時代の同級生に側面からの調査を依頼したところ、李祥は米国の里親の下で恵まれた生活を送っており、現在は大学院の修士課程に在学していることが判明した。ただし、李祥は両親に捨てられたと思っており、両親がいたとしても認めたくないと考えているというのであった。

既に24歳の修士課程の学生であった

 この知らせを聞いた李緒文は何としても里親の情報を得て、自分から李祥に実情を説明しようと決意した。そうこうするうちに、李緒文とケ鵬が5月下旬に協力を要請する手紙を出していた北京の「中国児童福祉・養子縁組センター」(以下「中国センター」)から返書を受け取った。そこには、李緒文が捜している李祥は米国の家庭に引き取られ、現在既に24歳の修士課程の学生であるとあった。こうして李祥が米国で元気に暮らしていることは公式に確認されたのである。これは19年間を李祥捜しに費やした李緒文と付桂花にとっては何ものにも代えがたい喜びであった。

 中国センターの返事にはさらに、「5月末に李緒文の手紙を受領した後、早速に関係書類を調べ、中国国内にある米国の養子縁組組織の職員と打ち合わせ、6月上旬に養子縁組組織から里親と李祥本人に連絡を取った。里親の意見は李祥の意向を尊重するというものであったが、李祥は修士課程の卒業試験を目前にしており、今は李祥の気持ちをかき乱したくない」と書かれていた。

 李祥の卒業試験が終わった頃、中国センターは李緒文の手紙を翻訳したものを養子縁組組織経由で里親と李祥宛に送った。6月末時点で、李緒文は里親と李祥からの返事を待っている状況にある。中国センターは養子縁組組織に心理学の専門家に李祥のカウンセリングを行ってもらうよう依頼しているとのことで、李緒文は中国センターの周到な対応に感謝している。李緒文は、何としても李祥と対面して、両親が片時も李祥を忘れず、19年間ずっと捜し続けていたことを伝えて、親に捨てられたという李祥の誤解を解きたいと考えている。その上で、李祥が実の父母を受け入れるか否か、帰国するか否かは、すべて本人次第だと李緒文は思っている。

 渡米費用の工面は全く問題ないので、条件さえ整えば、李緒文は付桂花を連れていつでも米国へ旅立てるように準備をしているとのことだが、李祥は果たして彼ら夫婦を受け入れてくれるだろうか。李祥が実の両親と対面して誤解を解き、彼らを里親と並ぶ存在として受け入れてくれることを望むのは筆者だけではないだろう。

海外養子縁組は1985年に始まった

 中国では1985年に外国人旅行者に広東省で女の赤ん坊を養子とするのを認めたのが海外養子縁組の始まりであった。1992年に上述の「養子縁組法」を制定して間もなく、「外国人の中国における養子縁組登記規則」が制定され、外国人家庭が中国に来て中国人孤児と養子縁組をすることが許可されることとなった。米国の統計によれば、1991年以降に米国公民が中国から引き取った養子の累計は約7万人以上に及んでいる。中国は2010年に世界第2の経済大国となったが、同年に中国から養子縁組で米国家庭に引き取られた中国人孤児の総数は3401人に上っている。

(北村豊=住友商事総合研究所 中国専任シニアアナリスト)

(注)本コラムの内容は筆者個人の見解に基づいており、住友商事株式会社 及び 株式会社 住友商事総合研究所の見解を示すものではありません。
このコラムについて
世界鑑測 北村豊の「中国・キタムラリポート」

このコラムはニューヨーク、ロンドン、サンノゼ、香港、北京にある日経BP社の支局と協力しながら、米国や欧州はもちろんのこと、世界経済の成長点とも言えるブラジルやロシア、インド、中国のいわゆるBRICs、エネルギーや国際政治の鍵を握る中近東の情報を追っていきます。記者だけではなく、海外の主要都市で活躍しているエコノミスト、アナリストの方々にも「見て、聞いて、考えた」原稿を提供してもらいます。

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著者プロフィール

北村 豊(きたむら ゆたか)
北村 豊

住友商事総合研究所 中国専任シニアアナリスト
1949年長野県生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。住友商事入社後、アブダビ、ドバイ、北京、広州の駐在を経て、2004年より現職。中央大学政策文化総合研究所客員研究員。中国環境保護産業協会員、中国消防協会員
 

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