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川島芳子生死の謎(『経済界』2011.5.10)
元日本銀行副総裁 藤原作弥
昨年、中国東北地方を旅行した際、長春の歴史博物館(偽満皇宮博物館)を訪れた。これまで何度か見学したが、皇帝溥儀の寝室や宅、遊戯室のある同徳殿まで全館を公開していたので丹念に見て回った。
同徳殿2階の回廊から1階の大ホールを見下ろした時ある既視感にとらわれた。映画「ラストエンペラー」の中の、密会中の満映理事長・甘粕正彦と宮廷女官長・川島芳子が1階下の溥儀を皇后・婉容の様子をのぞき見るシーンを思い出したから(もっともこの場面は監督ベルトリッチの創作)である。
川島芳子と言えば、同博物館の売店で『川島芳子生死之謎解密』(李剛・何景方著、吉林文史出版)が眼に入ったので早速購入した。
折から日本では「昭和二十三年、祖国反逆罪の罪名で死刑になったはずの川島芳子は実は替え玉で本人は昭和五十四年まで生きていた」という説が話題になっていた。本書はそれを科学的に裏付ける歴史研究書だった。
私は山口淑子さんとの共著『李香蘭・私の半生』(新潮社)を取材・執筆する過程で、川島芳子のことはかなり調べたつもりである。日本人でありながら中国人と出自を詐称して満映女優として国策に利用された山口淑子。清朝・粛親王の王女でありながら日本人・川島浪速の養女となり満州国建設に協力した川島芳子。2人のヨシコは戦後、祖国反逆罪に問われるが、一人は無罪、もう一人は死刑と明暗を異にした。
実は川島芳子は金の延べ棒十本で看守を買収し、北京刑務所を脱出、死の迫った病人の女囚がその身代わりになって銃殺刑を受けたのが真相と本書は明かし、芳子は長春郊外に身をやつし、長春と浙江省の国清寺という寺院の間を往復していたと主張する。生存説を立証したのは、義理の孫娘に相当する長春在住の女流画家張玉さんで「方おばさん」の遺品として数々の証拠品も所有している。
張玉女史と面談した松本市の川島芳子記念館館長、穂刈甲子男氏や山口淑子さんによれば同説の信ぴょう性は「フィフティー・フィフティー」。いずれにせよ川島芳子の生存には蒋介石や周恩来もかかわっていたとの説もあり、このミステリーまさに「事実は小説より奇なり」の面白さがある。
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藤原作弥:1942年言語学者の父に従って朝鮮の清津に移住する。1944年満洲の興安街に転居するが、1945年ソ連軍の侵攻により脱出、1946年帰国。1962年に東京外国語大学を卒業し、時事通信社に入社。大蔵省や日本銀行の担当記者、解説委員などを経た後、1998年に日本銀行副総裁に就任。2003年に副総裁退職後、日立総合研究所取締役社長などを歴任。
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