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森雅子の著書「西王母の原像」へのリアクションの一つとして御手洗勝の「黄帝」関連反駁論文があり、若干の立腹ぶりだが、東洋古代史の学者としては当然なのか。古くはラコーベリーが神農はサルゴンと言い、石川三四郎・鹿島昇は黄帝がサルゴンと言い、森雅子は黄帝がマルドゥークと述べる。これら四人の識者は東西の歴史・伝説等の比較から論説したが、御手洗勝ら東洋古代史の学者はどちらかというと「東洋古代史の世界だけで全てを解釈したい」の感で、当然といえば当然だが、井上英一らと比べると視野を意図して狭めているとしか思えない。
さて、先日NHK「世界遺産の旅」で秦始皇帝陵墓付近出土人骨のDNA分析から「ペルシア人らしい」旨の検査結果が披露された。兵馬俑などから推定される秦の軍事組織は多くの民族から成る旨が知られていたし、土居光知・三上次男の対談本(「東西文化の流れ」)で三上が「秦の郡県制はアケメネス朝のサトラップ制に似る」「戦国時代後半から西方の文物・技術の伝播がみられる」旨を指摘し、由水常雄はガラス製造技術が中国戦国時代に伝播し、オリエント製と思われるソーダガラスのトンボ玉が洛陽から出土した旨を述べ、川瀬勇(「日本民族秘史」)はヘブライ大学付属の東洋関連史料館で、ヘブライ語で書かれた紀元前256年頃の道路標識が中国で発見された旨の史料を見たという。
森雅子「后羿叙事詩の復原」(「中国の歴史と民俗(伊藤清司先生退官記念論文集)」第一書房)では、ギルガメッシュ叙事詩との類似性を指摘。川崎真治は、殷青銅斧の(人物を獣が挟むような)文様・周原甲骨字にみる(「人」のような字の隣に獣のような字がセットになった)文字、更に、インダス文明期遺跡とメソポタミア文明期遺跡出土物にみる(人を獣が両側から挟むような)絵・文様などから、ギルガメッシュ文様が系列的に類似性が確認できるから中国殷代に伝播した旨を指摘。水上静夫さんは殷代の麦・ヒツジは中近東から来た旨を指摘するなど、一部の識者に前漢武帝期の張騫以前にも東西交流が行われた旨の指摘があったが、上記人骨新証拠は根底から東洋古代史観を変え得ると思われる。
つまり、古代オリエント情報が中国の伝承伝説として「土着化」し、それらを各地に伝わる伝承情報(昔から中国に伝わる伝承)として司馬遷が中国各地を旅してまとめたのが「史記」とすれば、鹿島説(「史記」=古代オリエント借史説)の可能性すら出てくる。
その前哨戦は飯島・新城の天文学論争に見られ、新城説が有力とされている。しかし、観象受時暦は四分暦の前段階で比較的高度な暦と位置づけねばならんし、原始的暦なら「伝来説」(飯島説)となる(「史学雑誌」111-5,194p)し、上記新証拠などから飯島説の復活もありうるのでは。因みに、飯島説では「史記」の原資料とされる「春秋」などが定説より後世のものとされているし、甲骨文字史料も戦国文字の一種とされ、説として修正必要な箇所もあろうが、それらは今後期待したい。また、平勢隆郎説についても上記(「史学雑誌」111-5,194p)で浅野裕一による批判があり、一部ほころびがあるようで万能ではないようだ。失礼ながら敬称略。
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