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長野県松本市の新聞『市民タイムス』2010年6月15日より転載
川島芳子は生きていた 中島嶺雄
去る五月下旬から六月上旬にかけて、久しぶりに中国の長春を訪問した。私が学長を務める国際教養大学と中国東北部で最大最高位の吉林大学との交流協定締結のためであった。「熱烈歓迎日本国際教養大学中嶋嶺雄校長来訪」のネオンサインも掲げられていて、中国側のホスピタリティにあらためて感心した。
その一方、私が松本市出身であることも知っている長春市の文化人の方々が私の訪問を待っていてくれて、彼らが最近新たに調査し検証したという川島芳子の生存説を一生懸命に説明しようと私を囲んでくれた。その新しい調査記録は、この五月末に吉林文史出版社から李剛・何景方共著の『川島芳子生死の謎』というタイトルで出版されたばかりであり、私の教え子で現在吉林農業大学で教鞭を執る野崎晃市君が日本語に訳して、この六月初旬に東京の星雲社から日中同時出版されている。
私たちの松本市にゆかりの深い川島芳子が当時の国民政府当局発表のように昭和二十三年(一九四八)年三月に「漢奸」として北京で銃殺されたのではなく、実は長春郊外の新立城で昭和五十四(一九七九)年正月に七十二歳で死去するまで三十年以上も生きていたという事実は、長春ではすでに新聞やテレビでも報道されている。右の本も早速書店に並んでいた。
私が今回驚いたのは、川島芳子が身分を隠して「方おばあさん」として生きていた時に可愛がられ、沢山のことを教えられたという張玉さんとその実母で「方おばあさん」の幼女だったという段霊雲さんと私の会見であった。張玉さんは一九六七年生まれの女流画家であるが、「方おばあさん」と過ごした十二歳までの幼少期のことを実によく覚えていて、とても上品で物知りの「方おばあさん」は松本に住んでいた時の思い出を克明に語っていたと詳しく話してくれた。美しいアルプスの山々、松本城のスケッチ、浅間温泉、馬に乗って通った女学校時代、さらには信州に伝わる「姥捨て」伝説のことなどを、「方おばあさん」が故郷を懐かしみながら、時には涙ながらに語ってくれたというのである。張玉さんは「方おばあさん」に習ったという「蘇州の夜」や「蘇州夜曲」など戦前に李香蘭が歌った曲や「赤とんぼ」など小学唱歌を私に歌って聞かせてくれた。
言うまでもなく「東洋のマタハリ」とか「男装の麗人」とも呼ばれた川島芳子は、清朝の粛親王の第十四王女として生まれ、郷里松本が生んだ国士川島浪速の養女となって、松本には15歳から6年間住んだとされている。その生存説が確認されたとなると、松本市蟻ケ先木沢の正麟寺にある川島浪速の墓に分骨されたのは芳子の遺骨ではなく、実際は浙江省天台県の国清寺に葬られたのだという。
昨年3月に松本を訪れた張玉さんは川島浪速と芳子の墓を詣でたというが、そのときに彼女は「私はここに埋葬されているのは川島芳子ではないと知っています。私の方おばあさんが本物の川島芳子だからです。私が哀悼をささげたのは「替え玉」になった可哀想な人のためです」と述べたという。
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