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蒋介石はなぜ終戦後に対日賠償金請求を放棄したのか? それは日中戦争は中国側から戦争を仕掛けたことが明らかだったからだ。
http://www.asyura2.com/09/china02/msg/124.html
投稿者 TORA 日時 2009 年 5 月 06 日 13:00:00: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu191.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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蒋介石はなぜ終戦後に対日賠償金請求を放棄したのか? それは
日中戦争は中国側から戦争を仕掛けたことが明らかだったからだ。 

2009年5月6日 水曜日

「日中戦争はドイツが仕組んだ」 阿羅健一:著
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4093878145_1.html

ファルケンハウゼン中将 ドイツ軍事顧問団長


◆『秘史発掘「日中戦争はドイツが仕組んだ」副題:上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ 阿羅健一 著 小学館』を読む 2月20日  Ddogのプログレッシブな日々
http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/23952258.html

本書は主に独逸軍事顧問団の中国との接近から、第二次上海事変における皇軍と国民党軍の死闘の様子、国民党軍の壊走と、顧問団の引き上げの経緯が克明に著されています。


私は大きな思い違いをしていたのだ、ナチス独逸は友好国ではなかったのだ!日独防共協定(S11/11/25)成立後の盧溝橋事件(S12/7/7)、第二次上海事変(S12/8/13〜11/30)においてドイツ軍事顧問団は、単なる軍事顧問ではなく、兵器の供給、作戦の立案から訓練、防御陣地の構築まで国民党軍を指導し、戦闘を指導し続けた。更に日本軍との戦闘に参加、戦死者までだしている。


独逸軍事顧問団の指導により構築された上海郊外の堅固な陣地は、トーチカとクリークに守られた民家を要塞化した防御陣地であった。更に優秀なドイツ製の最新兵器で武装し、顧問団に訓練を受けたた国民党軍精鋭部隊は手ごわく、第二次上海事変では日本軍は旅順攻略に匹敵する戦死傷者41,924名(旅順攻略戦59,408名)を出したのである。


記事は実際に掲載されなかったが、同盟通信の松本重治上海支社長(「日米同盟静かなる危機」に続きまた登場)が月刊誌「改造」に「上海の戦いは日独戦争である」と書いていた。


上海戦終結後も止まることの無いナチス独逸の二股外交、中国支援は続き、昭和12年11月6日、日独伊三国同盟締結は、なんと上海戦の最中であった!日独伊三国同盟軍事にもかかわらず、驚く事に日本軍の南京入城時(S12/12/13)国民党軍を指導していたのはドイツ軍事顧問団だったのである。

独逸軍事顧問団は日独伊三国同盟を推進したリッペンドロップが外相に就任し、昭和13年7月5日副総裁へスの再三の命令で漸く顧問団29名が引き上げる最後の日まで、戦争を指導し続けたのであった。それでも元ナチ突撃隊員シュテネン大尉など残った者までいた。


本書では意図的に皇軍の南京入城についての記述はさけているが、本書を読むことで永年の痞(つかえ)えが一つ取れたことがある。南京大虐殺のと呼ばれるプロパガンダ事件において、日本軍が残虐行為を行ったと証言するジョン・ラーベ(John H. D. Rabe, )は、日本の同盟国としての独逸の実業家として、日本軍の虐殺行為の中立的証言者であるかのような、虐殺肯定派は重宝がっているのだが。

ドイツは同盟国でも、中立国でもなく、日本と実質的に戦闘を行った中国軍の独逸軍事顧問団側の証言である。しかも、中国国民党軍を大得意客とする武器商人のシーメンス社の社員であり、南京ではナチス党員であることを公言していたことを考慮すると、ラーべの証言は客観性にかける偽証である可能性が高い。


なぜ、同盟国ドイツの民間人が同盟国である日本を貶める偽証をしたのか永年疑問であった。信長を除いて伝統的に虐殺を行わなかった日本の軍隊、当時の皇軍の規律を考えれば、虐殺は考えにくかったのだが、同盟国ドイツ人が証言したということは、皇軍が南京で市街戦を予防する為に便衣隊を処刑したことを誤解していたのではないかと思っていました。中国側のプロパガンダほどではないにしても、虐殺が行われたのではないかという疑問を持っていた。しかし、本書を読むことで漸く納得でき、永年の痞(つかえ)えが取れました。ただ、戦争ですから、便衣隊と誤認された一般市民も処刑された可能性は否定しません。


なお、本書で南京入城について記述が少ないかというと、著者、阿羅健一氏は、南京虐殺否定派の論客で、おそらく南京虐殺は史実として取り上げる必要もないと考えているのだろう。実に筋が通っている。


上海戦の国民党軍85万人のうち皇軍に旅順以来の多大な犠牲が出てはいたが、国民党軍85万人のうち戦死傷者333,500名と、精鋭部隊を致命的壊滅状態にまで追い込んだ日本軍の強さは異常であり、鉄壁の防御陣地を構築し、軍事訓練を重ねた独逸軍事顧問団ファルケンファウゼン将軍のプライドは踏みにじられた。彼らが執拗に同盟国の日本軍攻撃にこだわったのか、単なる経済的理由だけではなかったことが、容易に想像つく。


第一次世界大戦は日英同盟であった為、日本は独逸に宣戦し植民地としていた青島を攻めた。ベルサイユ条約でドイツの持っていた権益である南洋諸島、チンタオ山東省を日本が奪取した。独逸にとってアジア=中国であり、日本=敵対国家であり続けたのである。


ソ連の重化学を独逸が指導する代わりに独逸に航空機と戦車の訓練場を提供するラパロ秘密協定を結んだり、民間航空会社ルフトハンザを設立しパイロットを養成したり、あの手この手で連合国の目を欺いてベルサイユ条約以降独逸軍を再建したのはハンス・フォン・ゼークト将軍であった。


ライバル、ヒンデンブルグが大統領となると、ゼークト将軍は辞任を迫られ中国国民党の軍事顧問団となったのである。


日本を引き込み、長期戦に持ち込む ドイツ顧問団は日本軍との戦いも指導することになる。 昭和七(1932)年1月、第一次上海事変が勃発した。戦いの後半、中国軍はヴェッツェル中将ら軍事顧問団が訓練していた第87師と第88師を投入してきた。直接ではないけれど、これが日本軍との戦いにドイツ顧問団がかかわった初めである。 昭和八年三月、日本の熱河作戦は万里の長城を挟んだ戦いとなった。このときヴェッツェル中将は中国軍の指揮を執った。

ヴェッツェル中将がかかわったのは戦術だけであったが、続くゼークト大将とファルケンハウゼン中将は戦争指導にまでかかわるようになっていた。しかも、対日敵視政策、対日強硬策を自ら進言しだしたのだ。

「日本に対して中国が強くなるためには武器も必要であろうし、飛行機も必要であろう。けれども自分がドイツにおける国防軍を編制し、国防軍を動かした経験からするならば、今最も中国がやらねばならぬことは、中国の軍隊に対して日本に対する敵愾心を養うことだ」中国軍の強化策を蒋介石から問われたゼークトはこのように答えた。

この考えは、蒋介石だけでなく中国の軍人の思想を貫き、それが核となり、やがて中国人全体の反日感情となっていった。秘密警察組織である藍衣社が特別な力を持つようになったのも、ゼークトの献言による日本敵視政策を取り入れるようになってからである。

地網を構築する、といった具体的準備も献策した。 このころファルケンハウゼンは、北支での戦いを主な対日戦と考えており、中国軍が近代戦に適応できないことを認めると共に、長期戦に持ちこむためには中国政府の抗日姿勢が大切だ、と説いている。

1935年10月1日には、漢口と上海にある租界の日本軍を奇襲して主導権を握るように進言していた。漢口と上海の租界では日本の海軍特別陸戦隊が邦人の保護のため駐屯しており、この日本軍を奇襲しようというのである。日独防共協定締結の約一年前にドイツ人が中国にこの様に献策していたのだ。

ファルケンハウゼンは中国の敵を、日本が第一、共産党を第二と考え、日本軍を叩く過程において中国軍が勝利を収めていけば共産党を消滅させえると予測していた。しかし蒋介石は安内攘外であり、主要な敵は誰であるかという基本が違っていた。ファルケンハウゼンの進言を受けて蒋介石は何応欽軍政部長と相談するが、何応欽も、直ちに日本と戦うというファルケンハウゼンの考えに反対だった。

「ファルケンハウゼン中将の熱心さはわかるが、外人顧問は外人顧問であり、無責任な存在にとどまる。国運をゆだねるべき相手ではない」何応欽はこう指摘した。 しかし、ファルケンハウゼンの対日戦の進言は執拗に続けられた。

昭和11年(1936)4月1日になると、今こそ対日戦に踏み切るべきだ、と蒋介石に進言する。「ヨーロッパに第二次世界大戦の火の手が上がって英米の手がふさがらないうちに、対日戦争に踏み切るべきだ」(後略)


◆【特別掲載】「バカ右翼」と官僚が反日プロパガンダを助けている/兵頭 二十八
http://www.geocities.jp/monthlynucleus/pr_h28_0001.html

●蘆溝橋開戦説そのものがシナの宣伝
 蘆溝橋で最初の一発をどちらが撃ったのか、という「敵」の設けた論点に、日本の現代史家は夢中になっている。

 1937年7月の蘆溝橋事件が支那事変の始まりである、と言い始めたのは蒋介石の宣伝チームであった。1941年に日本が米国に対して動員先制開戦し、その後、米国が同盟者となった蒋介石の宣伝に同意したことで、これが定説になる。

 蘆溝橋の衝突とは、よくある国境警備隊同士の銃撃戦にすぎない。日支両軍に「動員先制開戦」の痕跡はない。参謀本部による開戦プログラムが走っていないのだ。このような小競り合いは、今日も世界中の国境で起きている群小イベントである。パリ不戦条約は、国境警備軍同士の衝突を「戦争」だとは想定していないのだ。

 たとえば1979年2月のシナ軍によるベトナム侵攻の前から、シナとベトナムの国境では、散発的な銃撃や砲撃は日常化していた。ただし参本の開戦プログラムを走らせ、動員先制開戦をしたのはシナであり、ベトナムではなかった。だから1979年の侵略者はシナ以外にないのだ。

 同様に1937年の侵略者も、8月13日にドイツ軍事顧問団が書いた開戦プログラムに基づいて数十万の将兵を動員・展開して上海の日本租界を殲滅するための一斉攻撃を仕掛けた蒋介石のシナ正規軍に他ならない。支那事変はこの8月13 日から始まる。やはり上海に租界を維持し、シナ空軍の盲爆によって13日に死者を出している米国も、この事態を正確に知っていた。ただし彼らは、極東でのトラブルに巻き込まれる面倒を厭い、わざわざ日本人の肩を持つようなマネもしなかった。だからその国際宣伝は、一義的にまず日本政府自身がせねばならない仕事であった。ところが日本政府はそこでほとんど「宣伝責任」を果たさなかったのである。

 日本政府は、無法な侵略に反応して内地から邦人救出のための部隊を急派し、杭州湾に上陸し、血に飢えた侵略軍を撃退し、南京まで追いかけて蒋介石を膺懲せんとした。

 このとき派遣軍の参謀たちが、捕虜にしたシナ兵を裁判によらずに銃殺することを部隊に敢えて禁じなかった。そして戦後に、1万人以上の便衣のシナ兵捕虜を銃殺した責任を、すべて末端の兵隊に転嫁した。南京郊外において日本軍内の予備役兵の素質が悪いためにハーグ条約が広範に破られたのだというストーリーは、B級戦犯の訴追および刑死から免れたい当時の参謀たちには都合がよいが、その卑劣な責任逃れの言説が、「南京市内で民間人30万人が殺された」とするシナ発の捏造宣伝のうらづけ材料として利用されることになった。そして米国人も、広島と長崎への原爆投下が明瞭なハーグ条約違反たることを内心認めるがゆえに、広島と長崎の合計死者(当初は数万人、後には二十数万人と呼号された)を確実に上回るハーグ条約違反の民間人殺人を日本が南京でしでかしていたとするシナの宣伝を、大いに歓迎するわけである。

 事変勃発直後における、外相(元首相)の広田弘毅の国際宣伝上の大きなしくじりは、日本軍が上海戦線からの追撃戦を成功裡に遂行しているさなかに、蒋介石に講和を呼びかけたことだ。勝っている側、それも侵略を撃退しつつある正義の陣営が、凶悪な犯罪者(上海の日本人の大虐殺を企図していたことは疑いもない)に向かって講和を呼びかけるなど、近代外交の常識ではあり得べからざることだろう。広田は受験エリートでキャリア外交官だったが、近代精神は有していなかった。そしてシナ式の、正邪を捨象する信じられないスタンドプレーに走ったのである。しかしこれを聞いた世界では、とうぜんのことであるが、今次事変に関し、日本が何か重大な後ろ暗い負い目があるのに相違ないと信ずることになった。

 また、侵略軍隊の壊滅後、とうとう蒋介石の方から停戦講和を願ってきたときに、時の首相の近衛文麿は、「居留民の保護」ならびに「侵略者膺懲」という大目的を達成していたにもかかわらず、理由もなくこれを拒絶した。爾来、支那事変は泥沼化し、あたかも日本がシナ全土の征服を執拗に進めているかのような「外形」を生じた。

 1948年にA級戦犯として死刑になった7人のうち、文民の広田、そして軍人の土肥原、松井、板垣の計4名は、1937年に蒋介石に恥をかかせ、また8月13日の「蒋介石の侵略」をよく知っていた者として、蒋介石からの特別な死刑要求によって東京裁判で訴追リストに加えられた冤罪者である。蒋介石は、この4名を吊るし首にすることで、自分が侵略者であった過去を戦後世界の「正史」の上で永久に否定できると思ったのだ。

 4名はパリ不戦条約の違反には無関係であった。1941年の対米動員先制開戦プログラムに、彼らは関与する立場ではない。では、どのようにして「カテゴリーA」の戦犯にされ得たのであろうか?

 この不可能を可能にさせたのが「田中上奏文」という捏造宣伝だった。

 田中義一が首相のとき、昭和天皇に、シナ征服と世界征服の大計画をこのように打ち明けました──とする杜撰な作文が1929年にシナ文で書かれ、ついで英文にされて、1930年代の米国で流布した。

 日本外務省はこれをすっかり放置していた。1980年代からアイリス・チャンのブラック・プロバガンダを今日に至るも放置しているのと同様に。

 東京裁判のキーナン首席検事は、米国人のインテリだ。彼は、日本政府から反論もされず十数年も流布している「田中上奏文」が、まさか偽文書だとは思わなかった。キーナンは、蒋介石からの強い死刑要求と、この偽文書と、1937年に日本軍が戦闘を停止していないという「外形」に基いて、広田、土肥原、松井、板垣に「カテゴリーA」の罪状をあてはめたのだった。

●A級戦犯の外務省に国際宣伝はできない
 日本海軍は、ライバルの陸軍省に日本国を統制支配させることになる「対ソ開戦」を阻むべく、米国に対する動員先制開戦の音頭を取る必要があった。奇襲が惨憺たる返り討ちに終わらぬようにするには、開戦の予告はできない。そこで、宣戦布告をラジオでするという方法を避け、面倒な暗号電文(それも、日米交渉は打ち切ると言うのみ)の手交とさせ、奇襲を成功させた。東郷茂徳(ハルノートは最後通告であると上奏して天皇に開戦を納得させた)と外務省は、海軍との「米国騙し討ち」の共同謀議に深くコミットしたのだ。

 「A級戦犯」とはパリ不戦条約違反のことであるから、野村大使の通告が真珠湾攻撃よりも早かったとしても、東條、木村、武藤、永野修身、伊藤整一、山本五十六、そして東郷が、同条約違反の首謀者とされることは動かぬ。この重大責任から先輩を庇い、省の威光を保ちたい外務省は、戦後も、先の大戦について事実を説明する言葉をほとんど持たないのである。かくして「北京コミンテルン」の対外マスコミ部門も、反日宣伝工作は、し放題というわけである。

 2005年12月24日の英紙『フィナンシャル・タイムズ』は、小泉純一郎首相がその前の週に靖国神社を参拝したのは、大東亜戦争の「侵攻」の被害者に謝罪をしないという外交上の態度であり、それは、シナが日本の国連安保理の常任理事国入りに反対をする完璧な理由であると、シナを代弁するような記事を載せた(同紙は同年2月15日にも、小泉氏のシナに対する強気の態度は右翼的で好ましくないと説教するV・マレット氏の署名記事を掲載)。そもそも日本はシナに侵略はしていない。シナこそ侵略者である。また、自衛隊の最高指揮官たる首相が陣没軍人に敬意を表するのは統率上当然で、それを自粛し自衛隊の士気が低下すれば、首相が日本の国防を脅かすことになる。それこそ国家叛逆だ。しかし、日米離間を狙う北京の狡猾な宣伝工作に、バカ右翼や外務省では、とても有効な反駁はできかねるのである。

ドイツ軍事顧問団によって訓練されドイツの最新鋭の兵器で武装していた中国軍


(私のコメント)
日中戦争が何時どのようにして始まったのかは、日本の歴史教科書でも盧溝橋事件からというのが定説になっていますが、これは正しいのだろうか? しかし盧溝橋事件は単なる偶発事件であり9日には停戦協議が成立している。だから盧溝橋事件が日中戦争の始まりというのは無理がある。これ以降も25日の郎坊事件、26日の広安門事件を経て29日の通州事件など立て続けに起きているが、日本は不拡大方針で中国の挑発の乗らなかった。

日中戦争が始まったといえるのは8月13日の包囲していた中国軍と国際租界の日本海軍陸戦隊の交戦が始まりであり、わずか5000人足らずの海軍陸戦隊では守りきれるものではなかった。この作戦計画を立てたのはファルケンハウゼン中将らのドイツ軍事顧問団であり、上海疎開の周囲にはトーチカ陣地が築かれていた。これらのゼークトラインを築かせたのもドイツ軍事顧問団だ。

これらの状況は「日中戦争はドイツが仕組んだ」という本に書いてあるそうですが、この本は読んでいない。しかし実態からすると日本とナチスドイツとの戦争であり実質的に戦争を指揮していたのはドイツ軍事顧問団だった。中国軍兵士はドイツ製の最新兵器で武装された蒋介石の最精鋭部隊だった。

蒋介石から見れば攻撃を仕掛けて日本海軍陸戦隊が引き揚げてくれれば大勝利だし、日本から増援部隊を送り込んでくれば、トーチカとクリークによって防備が固められた中国軍によって大損害を出して日本に大打撃を与える事ができると読んだのだろう。実際に日本軍は4万人以上の戦死傷者を出して大損害を受けた。しかし中国軍も85万の兵士が参加して33万人もの戦死傷者を出して中国の大敗北に終わった。

しかし日本を中国との全面戦争に引きずり込む事には成功して、それが日米戦争にまで発展して行く。まさに第二次上海事変が歴史の曲がり角であり、盧溝橋ではない。もしあの時点で兵を引いていれば米国との戦争も避ける事が出来ただろう。その点で近衛首相の責任は重い。もし石原莞爾中将の言うように上海から日本人が全部引き揚げていたら困ったのは上海租界にいる欧米人たちだろう。

日中戦争が第二次上海事変から始まったとすれば、蒋介石が賠償を放棄したのは当たり前であり、蒋介石が徳を持って放棄したと言うのはプロパガンダだ。賠償金を強引に要求すれば戦争を仕掛けたのは蒋介石の方だと言うことになりやぶ蛇になるおそれがあった。85万もの兵士を動員するには直ぐに出来るものではなく先に動員をかけていたのは中国の方だ。

しかし戦後の日本の歴史教科書では中国共産党のプロパガンダをそのまま教えている。NHKなどのマスコミも「アジアの一等国」の特番に見られるように中国共産とのプロパガンダをそのまま放送している。日本の歴史学者たちはそれに迎合するか沈黙して、日中戦争は日本が仕掛けた事になってしまっている。日本はコミンテルンやナチスドイツやルーズベルトの謀略に巻き込まれて嵌められたのだ。

日本の歴史教科書ではいずれも盧溝橋事件に関連付けて全面的な侵略戦争を始めたということを書いているが、全面戦争を始めたのは蒋介石の中国軍だ。日本の歴史家はこの事をどうして主張しないのだろうか? 最近では中国人の林思雲氏が大規模戦争は中国が始めたと指摘しているが、日本の歴史家や戦史家は思考が停止してしまったのだ。


◆国際会議「南京を想い起こす」 2007年11月21日
http://hwhj.s269.xrea.com/nanjing/main.html

◆日本の教科書、1

1937(昭和12)年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋で、演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件がおこった。翌朝には、中国の国民党軍との間で戦闘状態になった(盧溝橋事件)。現地解決がはかられたが、やがて日本側も大規模な派兵を命じ、国民党政府もただちに動員令を発した。以後8年間にわたって日中戦争が継続した。
同年8月、外国の権益が集中する上海で、二人の日本人将兵が射殺される事件がおこり、これをきっかけに日中間の全面戦争が始まった。日本軍は国民党政府の首都南京を落とせば蒋介石は降伏すると考え、12月、南京を占領した(このとき、日本軍によって民衆にも多数の死傷者が出た。南京事件)。しかし、蒋介石は重慶に首都を移し、抗戦を続けた。
新しい歴史教科書、西尾幹二ほか、東京、扶桑社、2001年

◆日本の教科書、2

7月7日、北平(北京)郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突する事件が発生した(盧溝橋事件)。現地では停戦がいちおう成立したが、このさい中国に一撃を加えて抗日運動を屈服させ、華北の資源・市場を獲得しようとの意図から、近衛内閣は派兵を決定し、「北支事変」と称した。戦火は8月には上海に拡大し(第2次上海事変)、9月には「支那事変」と改称され、宣戦布告のないまま日本は中国に対する全面的な侵略戦争に突入した(日中戦争)。
日本史B、直木孝次郎、東京、実教出版、1998年

◆中国の教科書

盧溝橋事件のあと、日本軍は大量の援軍を送り、北京、天津、上海、その他の地に大規模な攻撃を仕掛けた。日本は軍事力に依存し、すみやかに戦闘をして勝利し、三ヶ月以内に中国を滅亡させようとした。この中華民族存亡の危機に際して、全国の人民は一致団結し、中国近代史上空前の規模の全民族反侵略戦争を展開した。...
歴史、8学年、上巻、北京、北京師範大学、2001年


(私のコメント)
学校の歴史教育で日中戦争は盧溝橋で始まったと教えているから、日本人は教科書に書かれている事が本当だと思い込んでしまう。自分で考える訓練がされていないから相手の言うペースに嵌められてしまう。アメリカの教科書では広島長崎の原爆は戦争を早く終わらせる為だと教えているが、ならばなぜ朝鮮戦争やベトナム戦争で使用しなかったのか? 原爆はもともと非人道的兵器でありジュネーブ条約でも禁止されている残虐な兵器であった。

日本がアメリカとの戦争を避けられないとするならば、1898年にアメリカ軍によって侵略されたハワイ王国解放戦争としてパールハーバーを攻撃したといったようなプロパガンダをなぜ打てないのだろうか? だまし討ちというのならハルノートをもって宣戦布告とみなしたとすればだまし討ちにはならない。日本の外務省にはそのようなプロパガンダを打てる機関がない。蒋介石は戦争では負け続けたがプロパガンダで勝利した。プロパガンダにはプロパガンダで対抗するしか手はない。

 

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コメント
1. 2018年10月13日 01:42:29 : 4M2IdbCCcw : 9JBkOp3PoKI[3] 報告
明らかに自分に非がある問題からどのように逃れるか?
それは、問題をできるだけ細かく分割するのである
そうすると必ず非難している側の見当違いや矛盾が出てくる
出てこなければ、出てくるまで細分化する
出てきたら、それをもって全体化するのだ
おまえの非難は明らかにここが違う
だから非難全体が間違っている、と

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