投稿者 寅蔵 日時 2010 年 3 月 01 日 23:02:57: 8X/teMCB5Xc.E
岡田茂吉の医学論より抜粋
(主に昭和20年代の論説)
===============
こっけいなお話
この薬はよく効くとか、アノ薬は効かないなどと言われる
また、あのお医者さんはいい薬を出すとか、あの病院は効かない薬を出すとか、わけ
の分からない話をよく聞く。
薬が効いても病気が治らない
薬が効くのと病気の治るのとは似て否なるもので、根本的に異っている。
薬が効くというのは
苦痛が一時治まるだけの事であって、病気そのものが治るのではない。
病気と苦痛の判別
医学の考え方は病気と苦痛とは離るベからざる一体のものと解している苦痛が治れば
共に病気も治るものと思っている。
病気と苦痛との判別がつかなかったのである。
病気が治らない理由
医学が如何に進歩したとしも、原因を無くさず逆に原因を造る療法では病気の治らな
いのは当然である。
真の病理とは
病気とは薬毒の固りに対し、自然浄化作用が起って排除される苦痛であるから言わば
発病が主でそれに苦痛が伴うのである。
主客転倒
それを医学は間違えて苦痛が主で病気が伴うように思ったので言わば主客転倒である
。
この逆理によりて薬を以て苦痛を抑える。
この考え方で生れたのが医療である。
史上空前の大発見
世界史上空前の大発見といってもよいほど、長い間にわたって世界人類だれもが気づ
かないできた新説である。
二重のマイナス
一層厄介な事は薬が毒化し、次の病原となる事も知らなかったので、二重のマイナス
である。
薬で苦痛が緩和する理も科学的説明は出来ない
あるのは何々の薬を服めば効くとするだけの事である。
新薬
新薬を作ろうとする場合、本来なら最初理論科学が生まれ、次いで実験科学に移るべき
だが、そんな事はないらしい。
その殆んどが偶然の発見か推理による実験
偶然の発見
英国の化学者が医学に関係のない実験の際、偶然発見された青苔の一種がペニシリン
六〇六回のマグレ当たり
合同発見によるサルバルサンにしても六百六回の実験の結果、漸く完成したのである
から、これは根気戦術によるマグレ当り。ゆえに別名六百六号とも言う。
決定的殺菌剤
あらゆる病菌にしても何十年前から研究を続けて来たにかかわらず、今もって決定的
殺菌剤は生れないでいる。
薬剤の切り札、抗生物質
近来発見の御自慢の抗生物質にしても、最初は素晴らしい評判だったが、近頃になって
逆効果を認め再研究の繰り返し。ついにはすべの抗生物質が効かない耐性菌が病院か
ら発生。
新薬
何病に限らず、決定的効果ある薬はまだ一つもないので、だからこそ次から次へと新薬
が生まれる訳である。
冒険
不確実で危険(副作用のない薬はないという)な薬剤をもって病を治そうとするな
どは“冒険”と言ってもいいくらい。危険な賭けでも・・
動物実験
動物実験を唯一の方法としているが、思うほど科学的根拠はなく、単なる推理推測によ
って、多分この薬なら効くだろうというマグレ当り的な実験方法。だから効かない場合
は次から次へと何回でも試してみる。 さらには人体実験へ。
薬の非永久性
何種類かの動物を何千何万四殺してもなお成功しないという話もある。
真の科学とはそんなアヤフヤなものではなく、確実な合理的根拠によって研究し真理
を把握したものであって、効果も決定的で永久性であるべき筈である。
非科学性
或期間がすぎると無効果となり、次から次へと新薬が生まれる
どこに科学的理論があるのだろうか。
流行商品
つぎつぎと表れては消えて行く流行品と同様に、薬にもはやりりすたりがある訳で、一
種の流行商品ではないか。
生活用品ならいざ知らず、人間生命に関する重要なものとしたら許さるべきではある
まい。
欺瞞行為
多くは短期間の実験によって売出すのであるから、若し効果のない場合、あるいは副作
用のため害を受けるなどは、欺瞞行為ともなるのでは。
軽卒
よく新薬発表当時は救世主のごとくマスコミを通じて称賛されたものが、いつの間に
か(そんな時は知らされない)消えてしまう。
それを鵜呑みに信じてすぐ飛びつく大衆も同様。
犠牲
害があるから使用中止、回収などと、発表されるが、その長いあいだ使わされたため犠
牲になる大衆は一種の被害者であり、それで済んでしまうのでは、残るのは薬害病者と
売薬業の利益だけ。
事実を考えて見よ 医学の革命書 27頁
病気とは体内に溜まっている毒素を排除させる浄化作用であって、この浄化作用は体
力が旺盛であればある程起こるものであるから、丹に病気を起こさないようにするだ
けなら体力を弱らせれば言い訳である。
双方法としては薬を体へいれることで、位置も言う通り薬とは実は毒であるから体へ
入れる程弱るのは当然であるから、この原理を応用したのが現代医学の注射であるか
ら
学理の魔術 医学の革命書 28頁
学理とさえ言えば、何でもかんでも無条件に信じてしまう。全く絶対的とも言える。
処が学理が絶対でない事は、学理は常に変遷している。‥
現代人は学理を主にするところに問題がある。‥
何よりも生きた事実とその結果を第一とし、学理を第二にするようになれば‥‥
全部療病者たれ 医学の革命書 33頁
人類から病を除くには人間一人一人がお医者さんになることで、それが出来たら理想
的でこれ以上の方法は無い。‥
医学は科学か
今日何人と雖も現代医学を以て科学であると信じないものはないであろう。
然し乍ら私は科学ではない―と言うのである。
本来自然料学とはあるがままの自然の実体を堀り下げて、其の法則を探求し、規準を
生みそれによって人類の福祉に貢献する事でなくてはならない。
従而毫末の独断も自然無視も許さる可きではない。
それに就て、其の前提として知らねばならない事は、先ず人間と獣類との相違である
。
科学は人間も獣類も共に動物の範疇に入れているが、其の事自体が既に独断以外の何
物でもない。
彼の医科学はモルモットや廿日鼠を研究して、それを人間に当嵌める事を以て唯一の
方法としている。
右に就いて人間と動物との相違点の種々面から考える必要がある。それは殆んど根本
的ともいうべき相違である。
即ち人間は唯心的であり、動物は唯物的である。例へば宗教、哲学、芸術、恋愛、同
情等の精神活動は動物にはない。又唯物的にみても形態、動作、体質、食餌、生活等
人間との相違の余りにも著しい事である。彼はあしが四本あって尾があり、全身の厚
皮、厚毛は勿論言語も臭覚も聴覚も凡ての違ひさは之以上書く必要はあるまい。
以上の如くであるから、今日の動物実験は自然科学ではなく自然無視科学である。
彼のロックフェラー研究所の碩学アレキシス・カレルのノーベル賞を貰った名著「人
間と未知なもの」の要旨を一言にして言へば現代科学は「人間に就ては何も知らない
」という事である。
次に私は種々の例を挙げてみよう。
茲に医家の家族の一員が病気に罹ったとする。
然るに不思議な事には大抵は主人である医家が診療しないで友人等の他の医師に依頼
するのは周知の事実である。
常識で考へてさへ大切なる家族の生命をして自分の手にかけず他人の手に委せるとい
う事は可笑しな訳である。それは全く自己の医術に自己が信頼出来得ないからであろ
う。
実験上自分が診療するよりも他人に委せた方が結果が良いからである。之に就ては医
家をして説明はなし得ないであろう。
然し私は斯う思うのである。
医家は浄化停止法であるから、医療を加ヘる程病気は悪化する。わが家族である以上
熱心に能う限りの療法を行う。勿論薬剤も高級薬を選ぶであろう(高級薬程薬毒が強
烈である。)から結果は悪いに決っている。
然るに他人に於ては普通の療法を行うから悪化の程度が少ない。それで成績が良いと
いう訳である。
又医家に於て斯ういう経験がよくあると聞いている。
それは是非治したいと思う患者程治り難く、あまり関心を持たない患者は反って治り
が良いという事である。
之等も前者と同様の理由に由るのである。
又少し難病になると、医師の診断は区々である。一人の患者に対し五人の医師が診断
する場合、恐らく五人共診断が違うであろう。
之等も料学的基準がないからで、全く非科学的というも敢えて侮言ではあるまい。
そうして医学の診断及び療法が如何に無力であるかを、実例を以て示してみよう。
それは故帝大名誉教授長与又郎博士の死である。
同博士は癌研究に於ては世界的権威とされている。妙な事には同噂士は余程前から「
自分は癌で斃れる」と言われていたそうで、果せる哉死因は癌であった。
病中各名国手も博士自身も疾病は肺臓癌と診たのであったが、死後解剖の結果、癌の
本原は腸にあって、それが肺臓へ移行したとの事であるから腸癌の方は生前発見され
なかったのである。
之によってみると左の結論になる。
70、71
一、長与博士程の大家が自身の癌発生を防止し得なかった事。
二、自身の腸癌を発見し得なかった事。
三、博士自身は因より著名の国手多数が腸病の発見も治癒も不可能であった事。
今一つの例を挙げてみよう。有名な故入沢達吉博士の死因は盲腸炎という事である。
其の際各地から恩師の病を知って走せ参じた博士は無虜百弐拾数名の多きに達したと
言われる。
之だけ多数の博士が頭脳を絞り、博士自身も苦慮されたであろうが、最も治癒し易い
盲腸炎の如きが治癒し得ず死に至った事は、医学の無力を実証して余りあると思うの
である。
其の時博士は次の如き和歌を詠んだそうである。
「効かすとは思ヘどこれも義理なれば人に服ませし薬われ服む」
そうして医家が診断に臨むや、過去に於ける父母や兄弟姉妹の死因病歴及び患者の病
歴等数に入り細に渉って問ひ質し、それ等を参考として診断を下すのである。
勿論患者の身体のみでは適確なる診断を下し得難いからであろう。私は思う。本当に
進歩した医学であるとすれば患者の肉体を診査しただけで病原は判るべきである。
然るに本療法の診断に於ては、十人の治療士の診断は同一であり、又現在患者の肉体
診査のみにて適確なる診断を下し得るのである。
そうして真の医術とは如何なるものであるかを述べてみよう。先ず施療の場合聯かも
患者に苦痛を与えない事、寧ろ快感をさヘ伴う程でなくてはならない。
又治癒迄の期間が速やかなる事を条件として何年経るも再発しない事、又発病以前よ
りも健康を増進する事等の諸条件が可能でなくてはならないのであって、斯る医術こ
そ進歩せるものと言う可きである。
然るに現在医学の現実を見るがいい。前述の如き条件とは凡そ反対である。
即ち診断の不正確、注射や手術による病苦、長期間を要する療養、余病や再発の危険
、手術による不具等によってみても其の価値は知らるるであろう。
左の記事は、医博国島貴八郎氏著「結核と人生」より抜萃したるものである。
「我々が医学を学ぶ一番最初に教わる言葉は“病気は自然に治る”という事である。
赤ん坊の時から自然によって生れ出る力、自然に身体に生じて来る力に依ってのみ病
気は治るのである。
という、生物はじまって七十万年の昔からの真理を教はるのが、医学の第一時間目で
ある。
今日の腸チブス、肺炎の辿る経過も、五十年前、百年前の医学の発達しなかった時代
も少しも変らないのであって、どんな博士が診ようが、薮医者が診ようが、金持ちの
チブスも貧乏人のチブスも同じく四週間はかかるのである。
若し病気が医者と薬だけで治るものならば、百年前に四週間かかったものならば、今
日に於ては三週間なり二週間で治るという事になる可きであるが、依然としてチブス
は四週間かかるのである。
また急性肺炎の場合も同様で百年前のものも現代のものも一週間かかるのである。
薬の効く時間ではなくて、チブスなり肺炎なり微菌に侵されると、自然にそれに抵抗
する力が湧き上って、それ等の毒素を薄めて遂にそれを克服し、組織を復旧するのに
要する時間なのであるから、百年前も今も変りはないのである。」
以上の例によってみても医学が進歩せりというのは、一種の錯覚心理に由るのである
と共に非科学的なりと断じても異議は挿めないであろう。
◆病気の真因 より
凡そ人間が此の世の中に生を享くるや、遺伝徹毒や最初に述べた天然痘毒素を
主なるものとして、種々の毒素を保有している事は前項に述べた通りである。
そうして之等の毒素の支障によって健康が完全に保持出来得ないから、生理的
に体外に排泄せらるベく、断へず自然浄化作用が行はれるよう造られているの
が人体である。
然し乍ら自然浄化作用が行はれる場合或程度の苦痛が伴うので、その苦痛過程
を称して病気というのである。此の例を説明するに当りて一般的に最も多い病
気即ち感冒を採上げてみよう。
感冒だけは如何なる人と雖も体験しない者はないであろうからである。
然るに感冒は今以て医学上原因不明とされているが、私の発見によれば之は最
も簡単なる浄化作用の一種に過ぎないのである。
それは先ず感冒に罹るとすると、発熱、頭痛、咳嗽、喀痰、鼻汁、食慾不振、発汗、倦
怠感、節々の痛苦等が伴うのである。
之等に就て詳細説明するについて――
先づ浄化作用とは如何なるものであるか、私は之を大別して第一と第二に分類
する。
第一浄化作用とは血液中にある種々の毒素が身体各局所に集溜固結するのであ
る。
集溜すベき局所としては、凡て神経を集中する局所及び人体静止の場合の下部
である。
そうして集溜毒素は時日を経るに従ひ漸次硬化する。俗に凝りと名づくるもの
もそれである。此の場合苦痛は全然無い事もあり、あるとするも肩の凝り位の程
度である。
次に第二浄化作用であるが、之は第一浄化作用である固結が或程度を超ゆる場
合、自然排除作用が発生する。その際排除し易からしめんため液体化せんとする
作用が即ち発熱である。
発熱の高下は固結の毒素の性(60、61P)
質と硬軟と量と患者の体質とに因るのである。よく運動後疲労の結果往々発熱
するのは、運動が浄化促進の役目をするからである。
そうして液体化した毒素は、発汗、喀痰、鼻汁等によって、体外ヘ排泄せられるの
である。
此の場合の咳嗽は喀痰を排泄せんがためのいはばポンプ作用ともいうべきもの
であり、又鼻汁を排泄謄せんがための嚔である。故に咳嗽の後は必ず吐痰があり
、嚔の後は必ず鼻汁が出るにみても明らかである。
又食慾不振は発熱と吐痰と服薬のためである。
頭痛及び節々の痛苦はその部に固結する毒素が溶解し、液体となって排除され
ようとしての運動が神経を刺激するからであり、咽喉部の痛みは喀痰中に含ま
れている毒素が粘膜に触れるため粘膜を刺戟し加答児を起すからで、声が嗄れ
るのも右の理によりて声帯に加答児を起すからである。
以上の如きものが感冒であるから、何等の手当を施さず服薬もせず放置してお
けば順調に浄化作用が行はれる故、短時日に治癒するのである。
この様に自然治癒であれば保有毒素が軽減するを以て、それだけ健康の度を増
すのである。
右の如く惑冒は最も簡単な浄化作用であるから大いに推奨すべきに拘わらず、
世人は感冒を恐れ、感冒に罹らぬ事を医学は第一条件としているが、それは如何
に誤謬であるかを知るであろう。
昔から感冒は万病の基などと請うが、実は感冒こそは万病を免れ得る唯一の手
段である事を首肯すベきである。
感冒の原因に不明である医学は、罹病の場合種々の方法を行う。
その方法とは撤頭徹尾浄化作用停止である。
それは先づ発熱に対し解熱剤を与え水冷や湿布法を行う。之は折角発生した第
二浄化作用を第一浄化作用の状態にまで還元せしめようとする。
即ち溶解し初めた毒素を再び固結せしめんとする手段である。従而固結するだ
けは下熱、喀痰、鼻汁其の他の痛苦は軽減するから病気軽快と錯覚しそれが全く
固結した場合、医師も患者も治癒したと思うのであるが、何ぞ知らん実は第二浄
化作用発生以前の状態に還元したまでであるから再発するのが当然である。
そうして茲に注意すべきは還元治療による薬剤使用と氷冷湿布等の浄化停止方
法が次の罹病に対しより増悪の原因となる事である。故
に大患の原因は小浄化作用発生の場合、その都度薬剤等によって度々停止する
以上、その毒素が累加し増大され、一時に大浄化作用発生となるためである。
右の如くである以上、今日医学の進歩したというのは、浄化停止方法が進歩した
までで、実際は病気を治癒させる進歩ではなく、病気を治癒させない進歩という
事になる。
即ち小患で済むべきものを大患にまで発展させるのである。此の様な誤謬を進
歩と錯覚し、貴重な生命と健康を害う現代人は、宴に哀れむべきであると私は思
うのである。
次に第二の人口増加率逓減と死亡率減少と並行するという事は如何なる訳かを
説明する。
先づ欧州文明国に於て近年伝染病や肺結核が著減したという事を以て社会衛生
の進歩に因るものと一般は信じているがそれは一部の理由とはなるが、真の理
由ではない。
勿論衛生施設の完備が或程度の効果はあるが、それよりも大きな原因は体力の
低下のためである。
体力低下が伝染病減少の原因になるとは読者も不思議に想うであろうが、真相
は次の如きものである。
元来伝染病や結核等は体力旺盛による強力浄化の為であるから、体力低下の民
族は浄化不発生又は微弱であるのは当然である。
劣等民族に伝染病が多いという事は、衛生に無関心である事よりも体力強盛に
因る事の方が有力な原因である。
右の理論を判り易くする為、人間の健康を三種に分けてみよう。
即ち第一種の人は完全健康体で無毒であるから、浄化作用即ち羅病することは
ないが斯ういう人は極稀である。
次に第二種の人は有毒者にして体力強盗なるが為浄化作用が起り易く、小患又
は大患に時折羅る。先づ此の種の人が大多数である。
次に第三種の人で有毒者でありながら、体力劣弱なる為浄化作用が発り得ない。
起っても微弱である。
ただ此の種の人は運動等によりて体力が多少強盛になった場合起るのである。
故に斯ういう人の場合は早速薬を用いて安静にすれば還元するから一時快復す
る。故に之等の人は過労を避けようと努めるのである。
然るに今日の医学は、第二種の人を第三種にする事を治療道と考へ努力する。そ
の例として都会児童や医師の子女即ち最も医師に触れる機会の多い者及び今日
の医学衛生の理論を忠実に守る人程虚弱者であるとい
う事実がそれを物語っている。
然し乍ら第二種の人を第一種に改善しようとしても、現代医学では到底不可能
である。
そうして死とは如何なる理由によるのであるかというと、世人は病気のためと
思うているが、実は病気に因る死は極く稀れであって、その大部分は衰弱のため
である。
それは病気即ち浄化作用を抑圧するからである。何となれば曩に説いた如く医
学は浄化停止を行うに対し肉体は浄化を反發するという訳で相克的に苦痛が増
加する。
それが為衰弱は増加し、終に死の転機に及ぶのである。
医学によって体位低下せる文化民族は浄化微弱によりて強烈なる浄化が起り得
ない理由によりて大患が少なく、それが死の機会を延長する。即ち弱体乍ら漸く
生命を保ちつつ生存するという訳である。
然るに今日の文化民族が未だ体力旺盛でありた時代は強烈なる浄化即ち大患に
羅り易い。
医療はそれを強圧する為摩擦する一衰弱する一死ぬという訳である。
その証左として死亡率の高い時代ほど人口増加も亦高いという統計が表はれる
のであって、之が人口問題第二の謎の解説である。
(黴菌と病気との関連について)抜粋集
......とかいうのは、そのものの存在理由が不明であるからである。
即ち人類文化がそれを発見するまでに進歩していないからである。此の意味に於て、凡
ゆる病菌と雖も人類の生存上有用の存在でなくてはならない筈である。
万有一切は人間に必要なもののみで、不必要なものは一つもないのである。
従而、病気なるものも、其の病原である処の徴菌と雖も、悉く大いに必要の存在である
に拘わらず、それを無用有害物として忌避し、絶滅させる事のみに専心しているが、之
こそ全く根本が判らないからである。故に、微菌その物の本体さえ分ったなら之程人間
の健康に有用なものはないのである。
病原とは、いつも言う通り、人間には絶えず毒素即ち毒血が溜まるので、それを排除し
て了わなければ活動に不便を及ぼすから、毒血を排除し浄血者にすベく自然浄化作用
というものが発生する。其の際の苦痛が病気であるから、言わば病気とは、体内の清掃
作用なのである。例えば、人間は誰しも外袈である皮膚に垢が溜まると、入浴という清
潔法があるが、中身である五臓六腑にも同様垢が溜まるので、其の清掃作用が病気とい
うものである。
病気になるや、痰や、横、目脂、麓、盗汗、下痢、腫物、湿疹等の汚物排除作用が起るではな
いか、だから出るだけ出てしまえば後はサッパリとなって、健康は増すのである。
処が不思議も不思議、斯んな入浴などと違って、一文の金も要らずに済む結構な掃除を
一生懸命止めて出さないようにする、それが医学であるとしたら、何と馬鹿々々しい間
違いではあるまいか。何が間違っているといって、之程の間違いは恐らく外にあるまい
。従って此の間違いのために健康な肉体を弱くされ、長生きの出来る体を早死するよう
にされて、平気処か有難がっているのだから、今日の文化人なる者は全く「哀れなる者
よ、汝の名は文化人なり」である。処がもっと厄介な事がある。それは汚物を出さないよ
うにする其の手段に汚物を用いるのであるから、反って汚物を増す結果になるという
誤り方である。従って此の道理さえ判ったなら、病気程結構なものはない事を知るであ
ろう。
抑々伝染病と雖も、趣の疾患と等しく浄化が頗る強烈であり、従而、急速に生命を奪わ
れる為に人間は怖れるのである。
根本さえ分うてみれぼ何の心配も要らないばかりか寧ろ伝染病に羅ればそれだけ健康
は増すのである。
其の何よりの証拠は伝染病が治ると当分は発らないばかりか、病種によっては一生免
疫となり、健康はよりよくなるのである。
人体血液中の汚濁が或程度膿厚になった場合、汚濁の排除作用が発生する。
その排除作用を一層促進すべき必要が病菌の存在理由となるのである。病菌が先づ食
物又は皮膚面から侵入するや病菌と雖も生物である以上、食生活に依らなければ生命
を保持し、種族の繁殖を計る事の出来ない事は他の一般動物と同様である。
病菌の食物とは血液中にある汚濁である。
濁血多有者程病菌の繁殖に都合の好い状態に置かれている訳である。
此の理由によって
発病者と未発病者との区別は、即ち
発病者は濁血者であり、不発病者は浄血者であるという事になる。
又保菌者というのは濁血少量者であって、病菌が繁殖する程でもなく死滅する程でも
ないという中間的状態である。
病菌なるものは人間中の濁血保有者に対し速やかなる浄血者たらしめんが為の掃除夫
ともいう可きものである。
徽菌という微生物は最初濁血所有者の血液中に入り込み、濁血を浄血にする役目をす
るのである。それはどういう訳かというと、濁血というのは血液中に有ってはならない
言わば不純物が存在しているのである。
面白い事には、不純物という微粒子は、実は微菌の食物になるのであるから微菌はそれ
を食いつつ非常な勢を以て、繁殖し食うだけ食うた奴から排世物に混りて体外へ出て
しまうから順次濁りは減り、遂に浄血者となるのである。其の際の発熱は微菌が濃度の
濁血では食い難いから、液体に溶解して食い易くする為である。だから此の理が判った
なら、徹菌というものは、全く人間体内を清浄にする掃除夫なのであるから大いに歓迎
すべきものなのである。
此のような有用微生物を、医学は強力なる逆理的浄化停止を行う以上、死を招く結果と
なるのである。
それのみではない。医学は免疫と称して、種々の伝染病の予防注射を行うが、之が又人
問の浄化力を弱らせ体力低下の因となるのである。
韮で注意すべき事がある。近来膝下に小腫物の発生が多いが之は、予防注射の薬毒が下
降し溜結し排除されんとする為で、放任しておけば、自然治癒するから何等心配する必
要はない。
医学に於ては、白血球が赤血球中の病菌に対し食前作用を行うというが、右の原理を知
る以上問題にはならないであろう。
抑々伝染病なるものは、最も急速に行われる浄化作用であって、之程結構なものはない
のである。というのは今日の人間は非常に血が濁っている。此の原因はいつもいう通り
無暗に薬を体内に入れるからで、薬は元々毒であって其の毒が血液へ吸収されて濁血
者となるのである。
処が濁血者は虚弱で病気も売り易いから、韮に自然は其の濁りを排除すべき浄化作用
が発るので、人体は実によく出来ているのである。
処が面白い事には其の濁りを解消する作用として微菌という微生姦が発生して其の仕
事をする。
即ち微菌は其の濁りの微粒子を喰いつつ繁殖するのであるからつまり濁血の不純物こ
そ徴菌の食物になる訳で殖菌作用ではなく食毒作用である。
右のように浄化作用が起るという事は人間ばかりではない。地上一切の物に対しても
同様で之が万有の原則である。即ち暴風雨も雷火も空間の浄化活動であり、戦争も火災
も洪水も勿論それである。
従って人体も血液が濁れば浄化が発るのは自然の生理作用であるから伝染病に罹らな
いようにするには、血液を濁らせない事である。では浄血者になるにはどうすればいい
かというと茜だ簡単である。即ち薬を用いなければいい、何となれば人間が生きるに必
要なものは自然に作られる。
五穀、野菜、魚鳥獣肉、水等がそれであるから、それを飲食していれば決して病気に罹る
筈はないのである。
何よりもそれ等悉くに味があるという事は、其の物自体が食うべきものである事を教
えている。それをどう間違えたものか、苦い薬を服んだり不味いものを栄養などと言っ
て食うのは如何に自然に反するかが分るであろう。そればかりか結構な浄化作用を悪
い意味に解釈し薬という毒物で一時抑えをする其の方法が医療であるから之程間違っ
た話しはあるまい。以上の理が分ったなら伝染病は恐ろしくないばかりか健康上必要
なものである。
浄霊とは微菌の食物である血液の濁りを解消して了う神力であるから、微菌の食物が
ない以上仮令伝染しても繁殖出来ず死滅して了うのば当然で之が根本的伝染病防止法
である事が分るであろう。
一体濁血というものは、どうして出来るかという事で、之も万有相応の理によりて、実
に合理的に造られるのである。
というのは人間は、神様の定められた役目を自覚し、それを正しく行えばよいが、多く
の人間はつい不正や、過ちを冒し易いので、その結果霊が曇り、霊が曇ると血が濁るの
で、それが病の元となり苦るしみとなるのだから、つまり過ちに対する刑罰という訳で
、斯うしないと人間は正当に役目を果さないのみか、世の中へ害を与えるから止むを得
ず神様は、そういうように造られたのである。
従って人間が正しい行いさえすれば、濁血者とならないから、徹菌は湧かず、病気は此
の世から無くなるのである。之が真理であってみれば、病菌というものは人間が作って
人間自身が苦るしむのであるから、何と愚かな話しではないか
今日の人間は非常に血が濁っている。此の原因はいつもいう通り無暗に薬を体内に入
れるからで、薬は元々毒であって其の毒が血液へ吸収されて濁血者となるのである。
処が濁血者は虚弱で病気も売り易いから、韮に自然は其の濁りを排除すべき浄化作用
が発るので、人体は実によく出来ているのである。
処が面白い事には其の濁りを解消する作用として微菌という微生姦が発生して其の仕
事をする。
即ち微菌は其の濁りの微粒子を喰いつつ繁殖するのであるからつまり濁血の不純物こ
そ徴菌の食物になる訳で殖菌作用ではなく食毒作用である
========================
千島・松下実験学説とホメオパシー実践論説等と合わせて検証するべきでしょう。
個人個人の精査は、先ずは否定論から始まり、残されたものがあなたの真実です。
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