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本書のタイトルは、一般的には『身体意識を喪失した日本人』と名付けられるべきものと、著者は言う。
主にスポーツを題材にしながら、身体意識を喪失してきた日本人の深刻な事態に警鐘を鳴らす。
引用は限定した部分しか提示できないが、昭和30年代から急速に進んだ身体意識の喪失に目を開かされると残念無念というほかはない。
身体意識というものに目覚めさせられた者は、一人でも多く、その復活に日々精進を重ねていきたいものと思う。
高岡英夫氏は、人間国宝的存在だと深く深く感銘した。氏の持てる全教義が日本社会のなかに広く深く浸透し、日本人が本来備えていた身体意識が復活・定着していくことを切望せずにはいられない/仁王像
〔かつて日本がスポーツ強国であった秘密〕
その秘密は、主に次の三点に集約される。
一つ。身体意識。これはあらゆる人間の認識活動の源泉であり、また運動制御の根底をなすと同時にその高度化の決定的システムともなるもの。頭ではなく身体の全細胞で活き活きと感じ、全細胞を隅々まで活かしきって働き、自分が生かされているということを全細胞の微細な深みにわたって感受する“意識の働き”もしくは“心身統一的情報システム”と考えてよい。
二つ。日本の伝統の中に連綿と受け継がれ築き上げられてきた、人間の全人的能力の開発法。例、丹田呼吸法、筋力運用法、精神力強化法など。
三つ。“技”を対象化し無上に練磨する知的・上達的伝統。これはすでに江戸時代において世界の極に達しており、その後の日本は、明治以降その遺産をあたかも貯金で食いつなぐように食い潰してきたと言えるほどのものであった。
〔「ハラが立つ」から「頭に来る」へ〕
「怒る」という情動をそれまでの日本人は身体の中の“腹部”の身体意識つまり“肚(腹)”をもって成立させ認識していた。
「肚(腹)」を使って心持ちや情動を表す言い方は大変古く、平安時代からある。ザッと見積もっても一千年間日本人を支えてきた言葉が、昭和30年以降の僅かな期間に失われていってしまった。
武術・武道も、能・歌舞伎・文楽・邦楽・茶・華も、そして礼法も、一切の武芸―技芸が、「気が通い」「身にしみる」身体意識を「身をもって知る」認識力を根底とし、「肚を括り」「気の入った」生き様の中から鍛え抜かれた「足腰」に支えられたところの「心気息一致」の「筋金入りの技」によってのみ、創造され、伝承され、発酵させられできたことは、紛れもない事実なのである。
〔「身体意識の衰え」が社会をダメにする〕
「感動」の「動」は「身体運動」の「動」であって、身体で感じ、身体で悦び、身体で怒り、身体で泣き笑うことができない者には、「感動」そのものが存在し得ない。
〔科学技術より優先すべき身体意識〕
すべての身体意識強化装置が本来の能力を発揮していたら、…選手自身はもとより、コーチも科学者も、行政関係者も企業人も、すべての人々が豊かで繊細な身体意識を持ち、「筋金入り」の身体・精神・組織力を持ち、「肝っ魂がすわり」「肚を括った」生き方を当然とする社会が、合理的・計画的なる西洋文明−文化の英知を導入し得たとすれば、そこには想像を絶するほど見事なアスリートが輩出していたことでしょう。
【出典】『ハラをなくした日本人』高岡英夫/恵雅堂出版’92年
(付記)
「感動」だが、マラソンの有森選手がコートに入ったとき、大観衆の拍手を全身で浴びて気持ち良かった、と言ったことや水泳の北島選手が「チョー気持ちいい」と表現したのは、身体の全細胞で喜び・快感を味わっていたのだ。
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