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藤沢周平、生涯ただ一度の応援演説
イル・サンジェルマンの散歩道 June.12.2013
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藤沢周平は、エッセイ集「帰省」のなかで、生涯に一度の選挙応援演説について語っています。1976年の総選挙で藤沢が応援したO氏とは・・・
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29日の夜、私は2区から今度の衆議院議員選挙に出たO氏の選挙演説会にひっぱり出された。むろん選挙の応援演説などということは、生れてはじめてのことであり、私には似あわないことだった。
ふだん私は、こういうことには慎重な方である。それは、ほかのひとはいざ知らず、非力な作家である私など、特定のイデオロギーに縛られたら一行も物を書けなくなるだろうという気がするからである。また政治家の人間の把え方と、作家の人間をみる眼は違うという考えもある。
<中略>
こういうわけで、私は日ごろきわめて非政治的なところで仕事をし、生活している。むろん物書きにも一市民としての政治との接触はあるから、選挙のときには希望をこめて、あるいは憤りをこめて一票を投じる。だがその程度である。政治家とも面識がなく、政党ともコネクションがない。またそれが必要とも思わない。
しかし11月になって、東京を発つことになったとき、私は鶴岡に帰ったらO氏の方から電話があるかも知れない、と思い、話をしろと言われたらやるしかないと思っていた。O氏は、私の友人であるが、私はただ友情だけでそう考えたのではなかった。
<中略>
私がよりよい政府が出来、いい政治をしてくれることを期待する気持ちは人後に落ちない。疑いながらも、いつかもっとよくなるだろうと期待しないわけにはいかない。
そういう期待の支えになるのは、歴史の進歩ということである。複雑怪奇な軌跡を残しながらも、人間集団は少しずつ進歩してきた。もはや奴隷を首切る専制君主は現れないだろうし、封建制度の世の中に戻ることもないだろう。人間が人間らしいゆとりを持って生きられる時代がくるだろうと、それを政治に期待し、望むのは正しいのだと私は思う。昔からそういう望みが、少しずつ人間を解放し、歴史を進歩させてきたのである。
こういう人間の望みを汲みあげ、現実に生かして行くのが、政治の原型だろうと思う。私が政治家としての0氏を尊敬するのは、そういうことである。O氏は人間の政治に対するナイーブな願望を、政治の上に生かそうと懸命であるだけでなく、彼自身政治とはそうしたものでありたいと願っていると私には見える。それは政争の権謀術数の中で、多くの政治家が失なってしまった、政治に対する初心のことである。
政治家を志したとき、彼が抱いたであろうその初心は、いまも変ることなく、営営と彼を人のためにつくさせるのである。彼がやるように、誰かが出来るかと問いたい。少くとも私にはとうてい出来ない。彼がやっていることを考えると、観念的な懐疑論など、ロに出せるものではない。
応援演説をしたことで、私は姉たちから少し非難めいたことを言われたが、意に介さなかった。周囲にそう言われるだろうことは、百も承知でしたことである。私はただ一人、政治家として尊敬できる人間のために喋ったのだ。
O氏は落選したが、新聞で読んだ彼の敗戦の言葉はいさぎよく、彼に対する私の考えが間違っていないことを示していた。彼の中には、彼を知ってから二十数年、一貫して変らない信頼できるものがある。
無責任なことを言えば、落選もまた悪くない。O氏は彼を支持した票にこもる願いを実現するために、もう何かをはじめているだろう。郷里はいま冬で、彼はその雪のある風景の中に立っている。だがその冬は、そんなに長い冬ではないだろうという気がするのである。
(「グラフ山形」昭和52年2月号『周平独言』)
<解説> 阿部達二
「雪のある風景」に登場するO氏とは小竹輝弥のことである。小竹は鶴岡市の出身で藤沢とおなじ山形師範に進み、夏冬の休みにはよくおなじ列車に乗り合わせて四時間の旅をともにした。
小竹はのちに共産党の県会議員として活躍し、昭和51年衆議院選挙に出馬する。藤沢の生涯ただ一度の応援演説はこのときのことであり、文中に「私は姉たちから少し非難めいたことを言われた」とあるのは、小竹の出身母体を指すであろう。
開票の結果、小竹は落選(次点)したが四万票に近い票を集め、県内の共産党候補としては空前の票数と言われた。藤沢の演説は少なからぬ効果をあげたと考えていいだろう。小竹はいまも健在で山形県商工団体連合会の会長をつとめており、平成15年の寒梅忌(毎年1月末の日曜日に鶴岡市で開かれる藤沢を偲ぶ集い)に出席して当時の思い出を語った。
* 「イル・サンジェルマンの散歩道」のブログ主はフランス在住の日本人。主に文化的な記事、特に教科書の紹介などを通じて、フランス社会について論じている。
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【関連記事】
http://homepage3.nifty.com/sizenrankato/minpou/minpou2010/minpou2010.09.19/newpage3.html
エッセイを読む/『帰省』D―雪のある風景」、小竹輝弥とのこと 青山 崇民報藤島2010年9月19第761号
昭和51年11月、小竹輝弥の衆議院選応援演説に立つことになる。講演嫌いの周平にとって生涯唯一の記念すべきことである。だから周平もその様子を「雪のある風景」として、当時発刊されていた『グラフ山形』昭和52年2月号の連載「周平独言」に掲載した。 しかし『周平独言』が単行本化されたとき6本が除かれた。「比較的一般の読者にわかりやすいものだけをおさめた。」(「あとがき」)ということからである。はたして「雪のある風景」は「一般の読者にわかり」にくいのだろうか。さいわい『帰省』に掲載されたので誰もが目にすることができるようになった。その解説者は、「今読み返してみるとけっして私的雑事にとどまらず、創作、文学者と政治というシリアスな問題を含んでいるので、当時の著者の意に反して改めて収録することにした。」という。詳細は省くが、文学者と政治家の営みの違いなど私的雑事でないすぐれた部分があるのである。 だから私には納得しがたいことが二つある。一つは周平のあとがきにかかわることで前述したことであるが、周平がそう考えたとは思えない。外圧を感じるのである。二つは解説者の「今読み返してみると」ということである。周平とかなり共にしてきた編集者である。ここは肯けない。いずれにしろ周平と政治をタブー視する姿が垣間見えるのである。
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