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三国連太郎氏逝く−−アマゾンに書かれた「飢餓海峡」への賞賛の数々
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/6455209.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=6445842&id=1899204766
三国連太郎氏が他界されました。
若い頃に見た、「切腹」、「飢餓海峡」、「越後つついし親知らず」、「神々の深き欲望」、「皇帝のいない八月」等の映画における三国氏が、脳裏に浮かびましたが、私は、「切腹」と「飢餓海峡」の三国氏が、最も強い印象として残って居ます。
その「飢餓海峡」(1965年)について、私が7年前に書いた一文をお送りします。
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不遇の巨匠が残した名作−−人間の業を描いた恐ろしい作品,
2006/6/19
By 西岡昌紀
人間の業(ごう)を描いた、日本映画の名作である。三国連太郎が演じる犬飼(いぬかい)には、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』に登場するあの罪人の面影が有る。−−『蜘蛛の糸』の罪人が、或る時、蜘蛛を助けた様に、犬飼は、逃亡中に出会った娼婦に金を与える。しかし、まさに、その助けた娼婦の為に、自分の殺人犯としての過去が露呈しそうに成り、その為に、自分が一夜愛したその女を殺してしまふ。−−悲劇は、左幸子が演じるこの娼婦が殺される原因が、彼女の限り無い善良さに在る事である。その人間の業についての物語を、白黒映像と、富田勲の素晴らしい音楽が、いかに深く、鮮烈な物にして居る事か。(ただし、後半は、やや冗長である。)
この映画を監督した内田吐夢(1898−1970)は、不遇な監督であった。1980年前後に、東京池袋の文芸座で、内田吐夢監督が戦前作った『土』を観た時、私は、そのリアリズムに驚嘆した。−−疑い様も無く、この傑作(『土』)を作った内田吐夢監督は、黒澤明や溝口健二に並ぶ、大監督である。−−しかし、その内田監督が、戦後、黒澤明や溝口健二の様に世界的名声を得る機会を得なかったのは、内田監督が、満州に渡り、戦後永く中国大陸に残った為、日本映画の黄金期であった1950年代に、自分が本当に作りたい映画を作る機会を逃したからではないか?と、私は、思って居る。しかし、その内田吐夢監督が、晩年、この名作(『飢餓海峡』)を作り得た事は、幸いであった。この名作の普及と共に、内田監督の傑作『土』のDVD化を強く望む。
(西岡昌紀・内科医)
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三国氏の訃報に接して、私もこの一文を書いたアマゾンの「飢餓海峡」のページを開いてみました。
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http://www.amazon.co.jp/%E9%A3%A2%E9%A4%93%E6%B5%B7%E5%B3%A1-DVD-%E4%B8%89%E5%9C%8B%E9%80%A3%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/B000066AER/ref=sr_1_1?s=dvd&ie=UTF8&qid=1366084421&sr=1-1&keywords=%E9%A3%A2%E9%A4%93%E6%B5%B7%E5%B3%A1
(クリックしてお読み下さい)
アマゾンのこのページに書かれた多くの方々の感想をお読み下さい。これだけ多くの人々が、これだけ感動して居るのです。
内田吐夢監督とともに、この映画を残した三国連太郎氏の偉大さに、ただただ、打ちのめされる思ひがしました。
そして、この映画(「飢餓海峡」)は、深く宗教的な作品である事を感じました。三国氏は、親鷲に帰依して居たと読んだ事が有りますが、氏が親鷲に帰依して居た事と、氏がこの映画に出演した事は、偶然ではないと、昨日の訃報に接する中で思ひました。
「戒名はいらない、散骨して誰にも知らせるな」と言ふ三国氏の遺言に、私は、逆に、三国氏の深い宗教心を感じます。
「飢餓海峡」は、私の人生に大きな影響を与えた映画でした。
三国氏の御冥福を、心よりお祈り致します。
平成25年4月16日(火)
西岡昌紀
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<三国連太郎さん死去>「凛とした威厳」佐藤浩市さんが語る
毎日新聞 - 2013年04月15日 20:04
俳優の三国連太郎さんが14日に亡くなったことを受け、息子で俳優の佐藤浩市さんが15日午後、東京都内のホテルで開かれたドラマの制作発表の後、報道陣の質問に応じた。「死に顔はこの数年の中で一番、凜(りん)としていて『三国連太郎』の威厳があった」と思いを語った。
三国さんは11年春に遺作となった「わが母の記」の撮影を終えた後、体調が思わしくなく、1年前からは東京都内の療養型宿泊施設に入り、リハビリに励んでいたという。
佐藤さんによると、三国さんは13日夜以降、嘔吐(おうと)を繰り返すなど体調が急変、そのまま帰らぬ人となった。佐藤さんは死に目には会えなかったという。「それほど苦しむことなく他界できたという報告を受けました。いつかこういう知らせが来るだろうと覚悟していたので、悲しいという思いはなかった」と言葉をかみしめるように話した。
子供のころ両親が離婚し、佐藤さんは母に育てられた。父としての三国さんについては「世間一般論としての親子ということで会話はできないです。僕と彼の間にあったのは役者という言葉だけ」と複雑な思いも。2人が最後に対面したのは1日。佐藤さんが映画のロケで米ニューヨークにたつ直前に病院を訪れ、言葉を交わしたという。
生前、三国さんは「戒名はいらない、散骨して誰にも知らせるな、三国連太郎のままで逝く」と話していたといい、佐藤さんは「本当にあの人は三国連太郎として、役者として生きたんだ。そして、そう生きることの孤高さを守り続けながら、芝居に関わってきたんだということを感じました」と時折、目に涙を浮かべた。【鈴木隆、小松やしほ】
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