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≪出口王仁三郎/鎌田東二≫
宗教と芸術の関係にすいて、出口王仁三郎は「芸術は宗教の母である」という言い方をしています。たとえば折口信夫は、宗教が芸術の源だといっていますが、これはきわめて説得力のある言い方で、常識的にもわかりやすいものです。つまり、古くからの人類のいとなみのなかで、超越的、神秘的なものを感得したときに発現してきたものが宗教だとすれば、あらゆるものは宗教から始まっているといえるということです。だから宗教が芸術の源にある、根源の部分であると言えます。
出口王仁三郎はしかし違う。その反対だと言う。芸術が基だと言ったのです。彼はこれについては確信犯です。宗教というものも、宗教という形になる前がある。赤ちゃんのほやほやの状態がある。「うたごころ」、詩情、ポエジーとも言えます。そしてそれは自然の産出力であり、生成力で、美の根源でもある。
『霊』や『霊感』をもっとも鋭敏に感じ取るのが詩人と祭司(祭官者)である。その詩人と祭司が本来は同一であったとノヴァーリス(ドイツ・ロマン主義の詩人)は主張する。『詩人と祭官者とは、始めは一なるものであった。そして後代にいなってのみ彼らは離れた。純真な詩人はけれどもつねに祭官者でもある。純真な祭官者がつねに詩人であるように』と。ウィリアム・ブレイク(画家、詩人)も、宗教の根源に『ポエジー』や『霊感』があったと直覚した。その直覚に私も基本的に賛成する。『詩』がわからなければ宗教はけっして理解できないし、同様に、『霊感』がわからなければ宗教も芸術もその成り立ちのところから理解できないだろう。
ここで興味深いのは、(『霊界物語』のなかで)左手に芸術、右手で宗教といっているところです。左手に芸術といっているところに、出口王仁三郎が芸術を高く評価いていることがうかがえます。というのは日本の宗教的シンボリズムは神観は左上位です。ですから日が垂れてくる、満ち満ちてくるより霊的な方角が左=日向かし=東で、それに対して右=西はより下位の物質的な世界を表象します。だからここで、左手でより霊的で霊性的なものとして芸術をいい、右手で宗教をいっているところがたいへん興味深いのです。
しかし、後には反対のこともいうんです。
「そもそもこの二つのものは、ともに人生の導師たる点においては相一致している。しかしながら、芸術はひたすら美の門より人間を天国に導かんとするもの、宗教は真と善の門より人間を神のみもとにいたらしめんとする点において、少しくその立場に相違があるのである。」
要するに、美の門から入るか、真と善の門から入るかの違いであるというのです。人間の知恵の根幹には真善美という三つの最高価値があり、そのうち真と善とが宗教や学問に関わり、美が芸術にかかわるというわけです。
【出所】鎌田東二他『生き方と心に学ぶ〔日本編〕』ロブリオ出版‘07年
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