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漢字の大家、藤堂氏と白川氏の論争
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投稿者 矢津陌生 日時 2012 年 12 月 21 日 21:41:18: fqfGCq6zf5Uas
 

ほぼ40年前「藤堂明保と白川静の論争」が話題となった。わたし自身はこの論争は知らなかったが、最近漢字のクイズ番組のネタとして白川氏の説がよく紹介されることから入門書(小山 鉄郎/著「白川静さんに学ぶ『漢字は楽しい』『漢字は怖い』」)を読んだ。藤堂氏の本は高校生のころ読んだ記憶があるが、白川氏の労作は「字統」(字源辞典)「字訓」(古語辞典)「字通」(漢和辞典)の大三部作、図書館で見ただけで圧倒されてしまう。    

白川氏と藤堂氏にはこんな経緯があった。1970年に白川静氏の本『漢字──生い立ちとその背景』が岩波新書として発刊された。当時東京大学教授であった藤堂明保氏がその本の解説書評で白川氏の書いている内容を全否定し、編集方針まで非難した。白川氏は後日藤堂氏の意見に反論し、藤堂氏はその反論を無視した。藤堂・白川論争は「立命館教授が、東大教授に全面否定された」という話が多くの野次馬の興味を引き注目されたが、白川氏の反論を藤堂氏が無視したので噛み合わないまま終わった。

当時60歳無名の新人白川静の岩波新書新刊である「漢字」に箔をつけようと、すでに漢字学の権威であった55歳の東大教授に岩波の編輯者が書評を依頼した。岩波の編集者は、同じ漢字学の学者として、推薦文ぐらいは書いてくれると思ったのだろう。ところが、藤堂氏は、書評を頼まれた新刊の本の解説の中で「著者の漢字解釈を全否定」した。しかも「こんなひとにこんな本を書く資格はない」、さらには「こんな本を企画し、書かせた、編集者、出版社の誤りだ」とまで書いたそうだ。

岩波の担当集者はさぞやびっくりしただろう。岩波はそれをそのまま本として出してしまった。ふつうはとめるのであろうが、著名な東大教授が書いたものに書きなおしのお願いしたり、没にしたりすることなど不可能であったのだろう。同じ学者としてこの書評はあまりに一方的で、理屈より感情が勝って、書評の域を逸脱している。ふつうは書評を断るだろう。立場と権威をふりかざしての怒りはちょっとみっともない。

よく売れた藤堂氏の著作「漢字の起源」が出たのは1965年。論争の5年前である。白川氏の「漢字学」とは明らかにちがっている。岩波の編集担当者は対立することは分かっていたであろうが、さすがに学者がそこまで感情的に書くとは思わなかったのだろう。しかし問題発生後に後戻りもできずそのまま発刊した。結果的に話題を呼んで、本を売るためにはいい宣伝になったのだろう。その時、編集者がどう対処したのかにも興味がある。

白川氏の反論では「自分の意見が異なる考えの藤堂さんに否定されるのはかまわないが、編輯者まで否定されるのはたまらない」と書いている。「藤堂氏の書評は書評としての礼節を缺いている」と感想を述べている。結果的には白川氏も藤堂氏の激烈な酷評で得をしたのではないのだろうか。これくらいでつぶれるような研究内容ではない。しかし、権威をふりかざす象牙の塔はいただけない。名門大学の権威とか良識とはこんなものなのだろうか。また、「白川先生が国立大の教授だったらずっとまえに文化勲章だった」という白川ファンの声も無残である。

両学者の違いを簡単に言うと、白川説では漢字の意味は象形重視であり「最初に字ありき」、藤堂説は漢字の意味は音重視であり「最初に音ありき、字は後」である。素人ながら感想を述べると、文字はその発生時点では祭祀での呪術に使用した支配者の独占物であった。多くの人が使うようになると口から発する音と結びつく。従ってある時期までは呪術的な意匠(デザイン)であったものが、多くの人に使われるようになると言葉としての音と結びつく。支配者が新たに呪術で使う象形が必要になれば、また形が先になると想像できる。

従って、ある時は「最初に象形があり」、またある時は「最初に音があって字に結び付けた」の両方があっても不思議ではないように思う。素人目にはどちらもありだと思う。仮説は説明の通りやすいものが残っていく。漢字以外の文字でも同じような研究がされている筈だ。アルファベットも最初は象形から入り、後に音を表す記号に変わった。論争はあってしかるべき、論争を潰してはいけないと思う。使うか使わないかは受け手が決めれればいい。

意見の違う藤堂教授に書評を頼んだ岩波新書の編集者の選択は結果的に正解だったと思う。学問は活発な論争が必要であり、名門大学の権威などで口封じなどは決してしてはならない。普通新刊の書評を頼まれたら、誰しも好意的書評を書くが、藤堂教授は全面否定の文章を書いた。だが、とんでもない展開をして多くの人の興味を引いたので、それなりに書評の役割を十分に果たしたともいえる。

少し具体例をあげると、ある漢和辞典の「名」という説明には「夕方は暗くて、自分のなまえを言わなければならないので、夕と口で、名まえをいう意とした」と出ている。これは中国の後漢の西暦紀元100年に許慎という学者が著した最古の字典『説文解字』にそう書いてあるらしい。それを鵜呑みにした説明である。編集者は首を傾げなかったのだろうか。

一方、白川静『常用字解』では「夕と口とを組み合わせた形。夕は肉の省略形。口は〓(サイ、Uの内側中腹に横棒を一本引いた形)で、神への祈りの文である祝詞(のりと)を入れる器の形。子どもが生まれて一定期間すぎると、祖先を祭る廟に祭肉を供え、祝詞をあげて子どもの成長を告げる名という儀礼を行う。そのとき名をつけたので、『な、なづける』の意味となる」と説明してある。

どちらの説に得力があるだろうか?明らかに説得力では白川説が勝る。因みに「口はクチではない」と指摘したのは白川氏が始めてである。『字統』の「口」の項で「卜文・金文にみえる字形」を精査した説明がある。殷時代の占いに使った甲骨文字(卜文・卜辞)や、殷周時代の青銅器に刻まれた文字(金文)を気の遠くなるような時間をかけて調べた。中国古代国家の呪術的な世界に、殷周時代の漢字が呪術と切り離せない形で発生してきたと説く。

白川説を全否定した藤堂明保教授の研究成果が『学研漢和大字典』である。文字が生まれる前、言葉は音声として存在した。言い換えれば、字源に先立って音源があった。そこに注目し、「同じ音声は共通した意味を持つ」として、「単語家族」という概念を立てた。漢民族は、事物の外形や感触を軸にして、同じような性状のものを一括して同じことばか近似のことばで言いあらわすという習慣をもっていたため、音の似たものは、原則として共通のイメージが浮かびあがる。

たとえば、(青)は、草の芽や、井戸の水のように、すがすがしく澄みきった色をあらわしている。清(澄みきった水)――晴(澄みきった空や太陽)――精(澄みきった米)――睛(澄みきったひとみ)――請(澄みきった目でものを言う)(以下略)非常に整った非の打ちどころのない芸術品とも言えるまでのまとめ方である。学者としても芸術家としても通用している。日本人研究者らしい、日本人受けする説である。

これも科学である、説の違いは研究者の感性の違いである。現象をどうとらえ、どう見るかはその説を受け取る側の感性によって判断される。説得力がある方に軍配を上げるしかないではないか。50年後か100年後にこの説を超えるものが漢字圏の国から出てくるかもしれない。外国語の学習を自分の身において考えれば分かりやすい、文字から入るか、音から入るか、結局両方学習しなくてはならないが、個々人によってその取り組み方は違ってくる。どちらが正しいと争うより、早く理解した方が得であろう。理論はそのあとでいい。

一見すると無益な論争を繰り広げたように見えるが、藤堂教授は8年後自説を盛り込んだ「学研漢和大字典」を出版(1978年)、漢和辞典として今もよく売れているそうである。白川教授も集大成として「字統」(1984年)、「字訓」(1987年)、「字通」(1996年)の三部作を出し、漢字の大家として揺るぎない評価を得ている。何の問題なく両立するものである。

矢津陌生ブログ http://yazumichio.blog.fc2.com/blog-entry-233.html より転載
 

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