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木下昌明の映画批評『いわさきちひろ〜27歳の旅立ち〜』
●海南友子監督『いわさきちひろ〜27歳の旅立ち〜』
無垢な童画に潜む意志と祈り――いわさきちひろの生涯を追う
海南友子監督のドキュメンタリー『いわさきちひろ〜27歳の旅立ち〜』を見るまでは絵本画家の印象しかなかった。
それも輪郭線のない淡い色彩の子どもばかりの。それでいて妙に忘れ難い独特の表現を記憶していた。ところが、こうした絵に彼女の秘めた苦難の人生があると知って驚いた。
映画は戦後、ちひろが画家になろうと単身、疎開先から上京するところから始まり、幾多の逆境を乗り越える様子が彼女の絵、日記、写真と黒柳徹子ら当時を知る人々の話とで構成される。ちひろが1974年に55歳で亡くなったことと、これまで物語の説明のための挿絵でしかなかった童画を、子どもの内なる感性を描いて“感じる絵本”として独自の領域を究めた画家だったことがわかった。
が、筆者は27歳以前の波乱にとんだ戦時下のちひろに強くひかれた。父は陸軍参謀本部の建築技師、母は大日本青少年団主事として戦争推進の側で活躍していたこと。その母の意向で好きでもない青年と無理やり結婚させられ、旧満州の大連で過ごすが、夫との関係を拒否し続け、ついに夫を死に至らしめたこと。さらに国策の「大陸の花嫁」事業で、母に協力する形で花嫁たちをともなって再び満州に渡っていること、東京大空襲で命からがら逃げたこと――など、戦争で拭いきれない傷痕を負うことによって、戦後初めて自立への道を歩もうと決意したことが理解できたからだ。
写真のちひろはいつも柔和な表情を浮かべているが、どっこい、その表情の奥に自らの意志を貫こうとする気迫がひそんでいる。子どもの絵を通して、平和に生きることがいかに大切か、彼女の祈りに似た気持ちも伝わってくる。
特に、病に苦しみながら描いたベトナム戦争批判の画集を見ると、彼女の戦争での苦しみと今の福島の若い母たちの声なき声とが重なって聞こえてくる。しみじみといい映画です。(木下昌明/『サンデー毎日』2012年7月8日号)
*7月14日より東京・ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次公開 写真は映画ポスター
〔追記〕 いわさきちひろについて、もっと知りたい方は、飯沢匡・黒柳徹子の『つば広の帽子をかぶって――いわさきちひろ伝』(講談社)を読まれるといい。わたしにはこれが、ちひろ関連の本のなかで一番面白く刺激的だった。特に、つぎの飯沢の一文などは胸をうった。「――あの悲しむべき(中国残留)孤児たちは、『ちひろ』の母が、先頭に立って日の丸と君が代の高鳴る中に『産めよ殖やせよ』と号令をかけ、女子青年団主事として引き連れていった処女たちが、未来に大きな夢を描いて作った子孫たちであった」云々とあり、これは「『ちひろ』の終生忘れられない痛恨事であったにちがいない」と語るくだり。そこに、ちひろの自立への原点を、わたしはみる。
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いわさきちひろホームページ
http://www.chihiro-fukyu.co.jp/top.html
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