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http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/5549870.html
新藤兼人監督が他界されました。100歳でした。
(新藤兼人監督について)
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%97%A4%E5%85%BC%E4%BA%BA
この訃報を聞いた時、私は、昔、私が中学生の時に読んだ、或るインタビュー記事を思ひ出しました。
そのインタビューとは、今から45年前(1967年)、東京新聞に掲載された、或るロシア人作家へのインタビューです。
私が、そのインタビューを初めて読んだのは、私が中学生だった1970年か1971年の事です。東京新聞の記事から、或る単行本に再録されたそのインタビューを読んだ時、中学生だった私が受けた強烈な印象は、今も忘れる事が出来ません。
そのインタビューを何故、私が最近読み直したかは、後でお話しますが、そのインタビューの一節を以下に御紹介したいと思ひます。
東京新聞がインタビューしたそのロシア人作家とは、ロシアがソ連であった時代に、共産主義体制の中で、そのソ連の政治体制を批判する作品を次々に発表し、作品を発禁にされた後、1973年にソ連から追放されたアレクサンドル・ソルジェニーツィンです。
そのソルジェニーツィンが、ソ連から追放される前、まだソ連に居た時代に、東京新聞がソ連国内で行なったソルジェニーツィンへのインタビューの一節に、こんな箇所が有るのです。そのインタビューの中で、ソルジェニーツィンが、日本と日本人について語った部分です。
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(以下引用)
わたしは常に、充実させて書く、つまり少ない分量の中にぎっしり盛りこむよう心がけています。遠く離れた、わきの方から見ているわたしには、この特徴は日本の民族的性格の中で重要な特徴の一つに思われます。−−地理的状況そのものが、日本人の内にこうした特徴を育てあげたのです。このことはわたしに、日本人の性格との「親近性」の感じを与えてくれます。とはいうものの、これには、日本文化に対するなんら特別な勉強の裏付けはまったくないのですが(例外は、山鹿素行の哲学です。彼の哲学との、ごく表面的な接触ですら、ぬぐいがたい印象をわたしにもたらしたからです)。
人生の大部分というもの、あるいは自由を剥奪され、あるいは生計の資をもたらす唯一のものであった数学や物理にかかりきりだったわたしは、残りの時間を自己の文学的な仕事にあててきたため、現代の世界文化のさまざまなできごとあまり通じていませんし、外国の現代作家や、芸術家、演劇、映画などもろくに知りません。
このことは日本に関してもいえます。日本の芝居はかぶきをたった一度見ることができただけですし、日本の映画も三本しか見ていません。それらの中で強い印象を残したのは「裸の島」でした。わたしは、常に容易ならぬ自然条件の中で発揮される、日本民衆のなみはずれた勤勉さと才能とを、深く尊敬しています。
(「ソルジェニツィン集・新しいソビエトの文学6」(頸草書房・1968年)に「わが文学を語る」と言ふ題で収められた1967年1月の東京新聞紙上のインタビューより(同書333ページより))
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ソルジェニーツィンが日本のジャーナリストのインタビューに答えて語ったこの告白を読んだ時の驚きは、今も忘れる事が出来ません。
誰もが知る通り、ソルジェニーツィンは、第二次大戦中、東プロイセンで、友人への手紙の中でスターリンを批判し、その手紙を検閲によって当局に読まれた結果、逮捕され、シベリアに流刑とされます。およそ10年のシベリアへの流刑の後、ソルジェニーツィンは名誉を回復され、当時のソ連で作家としての地位を獲得するものの、ソ連の体制を批判し続けた為、1973年、ソ連から西ドイツ(当時)に追放されるのですが、追放される6年前、彼は、日本の新聞のインタビューに答えた際、日本と日本人について、この様な事を語って居たのです。
これを読んで、私は、何と偉い人だろうと思った事が忘れられません。
人生の大切な10年間をシベリアで過ごし、外国の文化に触れる機会も殆ど無かったにも関はらず、ソルジェニーツィンは、日本にこれだけ関心と知識を持ち、当時中学生だった私が名前すら知らなかった山鹿素行について語ったのみならず、「日本の芝居は歌舞伎を一回見ただけ」、「日本の映画も三本しか見て居ない」と言って、日本の文化への渇望とも呼ぶべき関心を抱いて居たからです。
これを読んだ時、中学生の私は、自分が、いかに自分の国(日本)の文化について何も知らないかを痛感させられたのでした。そして、ソルジェニーツィンと違って、これだけ自由な国で、幾らでも物を学ぶ事が出来るのに、自国の文化について何も知らない自分を恥ずかしく思ったのです。
そのソルジェニーツィンが日本と日本人について語った、このインタビューの中で、彼が、「強烈な印象を受けた」と言って絶賛した日本映画が、お読みの通り、新藤兼人監督の「裸の島」だったのです。
(裸の島について)
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%B8%E3%81%AE%E5%B3%B6
「裸の島」は、新藤兼人監督の1960年の作品です。
この作品は、瀬戸内海の小島に小作人として生きる夫婦の生活を一言(ひとこと)の台詞(せりふ)も無い、無声映画の様な手法で描いた作品です。水の少ない小島に、毎日小舟で水を運び、島の急な斜面の畑に植えられた作物の水を与え続ける、貧しい農民の生活を、林光(はやしひかる)氏の美しい音楽に重ねて描いた映画で、世界中で公開され、絶賛された新藤兼人監督の代表作です。特に、ソ連では、1960年のモスクワ映画祭でこの作品がグランプリを受賞した為、旧ソ連では、「ゴールイ・オーストロフ(裸の島)」と言ふロシア語の題名で、広くこの作品が知られる事と成りました。
(ソルジェニーツィンがこの作品を見る機会を得たのも、そうした経緯で、この作品がソ連国内で広く見られた為でしょう)
この映画(「裸の島」)に描かれて居るのは、もちろん、その貧しい農民の夫婦の生活です。しかし、同時に、その夫婦の生活の場である瀬戸内海の海と島を描く事によって、この映画が、ロシアを含む世界中の人々に、日本の自然の美しさと非情さを、共に強烈に印象づけた事は想像に難くありません。そんな美しくも非常な自然の中で生きる日本人とは、どんな人々なのか?と、当時、この映画を見た世界の人々は思ったに違い有りません。
このインタビューを読み、私は、この映画(「裸の島」)を見たいと、切望しました。しかし、当時は、まだVHSすら無い時代で、古い映画を見るには、その作品が名画座などでリバイバル上映されるのを待つか、或いは自主上映会などに足を運んでその作品を見る以外、方法は有りませんでした。
ですから、私が、「裸の島」を見たのも、それから4、5年経ってからの事でしたが、それはともかくとして、このインタビューを読んだ当時中学生の自分が、「自分は、何と自分の国(日本)の文化を知らないのだろう」と思った時の事は、今も忘れる事が出来ません。
その、上に引用したソルジェニーツィンが「裸の島」について語った言葉を、私は、最近、ふと思ひ出しました。
その理由は、東日本大震災の被災地に関する報道に接し、現地で暮らす人々の事を思って居た時、ソルジェニーツィンが上のインタビューで「裸の島」について語って居る事と、テレビで見る被災地の光景が、私の心の中で、ふと重なったからだったのです。
東日本大震災の後、世界中の人々が、被災地で苦難に耐えて生きる日本の民衆の姿に感動し、絶賛の言葉を送り続けて居る事は、皆さんの知る通りですが、数週前、被災地の春を伝える報道を見て居た際、私は、世界の人々が、被災地で黙々と生き続ける日本人を称賛する言葉と、1960年代に、ソ連の反体制作家(ソルジェニーツィン)が、「裸の島」に描かれた、厳しい自然の中に生きる日本の民衆の姿への感動の言葉が、余りにも似て居る事に、私は、不意に気が付いたのです。
新藤兼人監督が、「裸の島」で描いた日本人と自然の関はりの光景は、ソ連の反体制作家(ソルジェニーツィン)をこれだけ感動させた訳ですが、今、世界の人々が、報道を通じて、被災地に生きる日本の民衆の姿に感動して居るのも、これと同じ事ではないのか?私はそう思ひ、ソルジェニーツィンが、「裸の島」について語った言葉が、今、被災地に生きる日本の光景についての予言ででもあったかの様な不思議な気持ちに捉はれたのでした。
その矢先に、新藤兼人監督の訃報を、昨日聞き、私は、その不思議な気持ちを更に深めて居ます。
心より御冥福をお祈り致します。
平成24年(西暦2012年)5月31日(木)
西岡昌紀(内科医)
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http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=2032895&media_id=2
<新藤兼人さん死去>「人間」を鋭く洞察
(毎日新聞 - 05月30日 21:15)
ドキュメンタリー映画「陸に上がった軍艦」の撮影で、カメラの前に立つ新藤兼人監督=兵庫県宝塚市で2005年9月16日、西村剛撮影
自主独立の映画製作を貫き、100歳で亡くなる直前まで旺盛な創作意欲を持ち続けた映画監督・脚本家の新藤兼人さんが、29日死去した。幾度も苦境を乗り越え、映画芸術を追求した生涯だった。
◇最後まで創作意欲旺盛
生家が破産して苦しい少年時代を過ごし、映画に憧れ、つてを頼って京都の新興キネマに現像係として入社。後に美術部に移り、脚本家を志す。戯曲集を読破するなど独学で脚本を研究した。
1944年、召集されて広島・呉海兵団に入団。ここでの理不尽なしごきや、同期の若者がほとんど戦死したことなどから、反戦の思いを強く抱くようになった。復員後は松竹で「安城家の舞踏会」「わが生涯のかゞやける日」などヒット作の脚本を手がけ、評価を確立。しかし会社の方針に反発して独立プロ「近代映画協会」を設立する。アクションやメロドラマまで、依頼があれば職人的に脚本を書く一方で、監督として描きたいテーマを追求した。
近映協は厳しい経営が続くが、60年、農民一家の孤島での生活をセリフを一切排して描いた「裸の島」が翌年、モスクワ国際映画祭グランプリを受賞して息を吹き返した。スタッフ、キャストが合宿する方式で、少人数、低予算の映画作りを継続した。
「裕福だった生家の没落で養った」という観察眼で、きれい事を排し低い視点から人間と社会を見つめた。その洞察は「母」(63年)、「性の起源」(67年)など、性や欲を捉えた作品に結晶。また戦争や核兵器への憤りは「原爆の子」(52年)、「第五福竜丸」(59年)、「一枚のハガキ」(11年)などで繰り返し描かれた。自らが年齢を重ねるにつれ、老いもテーマとなった。「午後の遺言状」(95年)、「生きたい」(99年)などでは、老いと死をユーモアを交えて描いた。
「生きている限り、生き抜きたい」と語っていたとおり、孫で映画監督の風(かぜ)さん(35)と2人で暮らし、最後まで生活の全てを創作にささげた。最後の作品となった「一枚のハガキ」が毎日映画コンクール日本映画大賞を受賞し、今年2月の表彰式には車いすで出席した。
最近は体調を崩し静養していたが、29日朝に容体が急変、風さんが見守る中、息を引き取った。
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