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http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/5223807.html
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武満徹氏(1930−1996)は、私が愛してやまない作曲家です。
武満氏は、日本を代表する作曲家、と言ふより、20世紀を代表する作曲家であったと、私は思ひます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E6%BA%80%E5%BE%B9
(Wikipedia武満徹)
武満氏は、その生涯に、実に多くの作品を残しました。しかもその作品は、言はゆる「現代音楽」の枠を超えて、映画音楽やポップスまで、実に多彩なジャンルに渡りました。
その作品の中には、ニューヨーク・フィルやウィーン・フィルによって演奏される様な作品も有れば、石川セリさんが歌った様な作品も有り、20世紀の作曲家の中でも、実に幅の広い作風を持った作曲家に一人でした。
小林正樹監督や黒澤明監督の作品の音楽を作曲した武満氏は、同時に、テレビドラマやCMの為の音楽をも、自身の芸術の一部として作曲したと、私は思ひます。
武満氏は、又、作曲家として作曲に専念する一方で、文筆家として多くの文章や著作を残して居ます。それらの中には、音楽に関する物ばかりでなく、美術や映画に関する文章も有れば、政治や社会に関する物も有りました。私は、例えば、湾岸戦争(1990年)から間も無い頃、武満氏が、テレビの報道の在り方について論じ、報道番組は、音楽を使ふべきではない、と書いておられた事がとても印象に残って居ます。作曲家である武満氏が、作曲家であるからこそだったのでしょう。報道において、音楽の持つ心理的効果が、人々を誤った方向に誘導する事を危惧して、報道番組における音楽の使用に警鐘を鳴らした事が、とても印象に残って居ます。
作曲家としてのみならず、そうした意味においても、武満氏は、戦後の日本社会における貴重な存在であったと思ひます。
その武満氏が他界して、もう16年に成ります。
武満氏は、1996年の冬、癌との闘病生活の後、東京の虎ノ門病院で人生最後の日を迎えました。ところが、武満氏が他界する数日前、不思議な事が有った事を、武満氏の奥様である武満浅香さんが、武満徹氏の没後10年に出版されたその著書『作曲家・武満徹との日々を語る』の中で、インタビューアーの大原哲夫氏の質問に答える形で回想しておられます。
その不思議な出来事とは、雪です。
雪が何故不思議な出来事だったのか?以下のインタビューをお読み下さい。
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武満「それまでそれほど調子も悪いようには見えませんでしたし、その前々日、17日は、珍しく東京は夕方から雪が降りはじめ明日は大雪になるかもしれないという予報でした。東村山まで帰れなくなるかもしれないと私のあしを案じた徹さんが『あしたは来なくていいよ』と言うので、私も少し疲れていたので、ひさしぶりに一日休ませてもらいました。」
大原「それが18日のことでその前日17日の夜、東京にはめずらしく大雪が降ったんですね。」
武満「そうです。それで徹さんはたまたまNHKのFMで《マタイ受難曲》を全曲聴いたのです。とても不思議な気がしますね。もし私が行っていればラジオはつけなかったし、雪で私も初めて休んだ日だったし、見舞客ももうだれも面会に来ない。ラジオをつけたら、《マタイ受難曲》をやっていた。外は雪がずうっと降っていて、一人、静かになりながら、大好きな《マタイ受難曲》を聴けたんですから。」
大原「マタイの全曲のプログラムをFM放送でやることはめったにありませんし、雪が降って、自動車の音もしない。きっと静かな心境で聴けたんでしょうね。」
武満「雪の日ってなんかしーんとして静かですものね。19日に行ったとき、『昨日は《マタイ受難曲》を全部聴いたんだよ。いやぁバッハはすごいね。僕らはクリスチャンじゃないんだけどなんだろう・・・』ってそれは静かなおだやかな表情でした。今まであまり考えないようにしていても、どこかで自分の病気の深刻さはもう、そのときはわかっていたと思います。私は想像するだけですが、《マタイ受難曲》を聴くことで、もう自然のままに安らかに大いなるものに生命を委ねる心境になったのではないでしょうか。きっと静かに旅立って行くための道しるべになったような気がしてなりません。私は何か深い恩寵(おんちょう)のようなものを思わずにはおられませんでした。」
(武満浅香『作曲家・武満徹との日々を語る』(小学館・2006年)261〜262ページより)
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不思議な話です。
武満夫人が上のインタビューで語った通り、武満氏は、バッハのマタイ受難曲を深く愛しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%82%A4%E5%8F%97%E9%9B%A3%E6%9B%B2
(Wikipedia:マタイ受難曲)
中でも、そのマタイ受難曲の中の一曲であるアリア「憐れみたまえ、我が神よ」を非常に深く愛した武満氏は、新しい作品の作曲に取り掛かる際には、作曲を始める前に、このアリア(「憐れみたまえ、我が神よ」)をもう一度聴くのを常としたそうです。
武満氏は、そのアリア(「憐れみたまえ、我が神よ」)を、外に雪が降るその夜一人で聴き、この世を去ったのでした。
それから16年が経ちました。
御冥福をお祈りします。
平成24年(西暦2012年)2月20日(月)
武満徹氏の命日に
西岡昌紀(内科医)
武満徹氏が愛したタルコフスキーの映画『サクリファイス』のラストシーンです。
↓
http://www.youtube.com/watch?v=QeQCb5uyIFY
(クリックして御覧下さい)
武満氏が愛した『マタイ受難曲』第47曲「憐みたまえ、わが神よ」が流れる中で、これまで声が出なかった少年が、「初めにことばありき、なぜなのパパ?」とつぶやくシーンです。(スウェーデン・ゴットランド島にて)
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