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ベートーヴェンの真実−−彼の手紙が語らない事    西岡昌紀
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/569.html
投稿者 西岡昌紀 日時 2012 年 1 月 23 日 20:38:36: of0poCGGoydL.
 

*

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1816222677&owner_id=6445842
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/5115997.html


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ベートーベン手書きの手紙公開へ、苦しい経済状況など訴え
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1873878&media_id=52

ベートーベン手書きの手紙公開へ、苦しい経済状況など訴え
(ロイター - 01月11日 16:10)


[ベルリン 10日 ロイター] ドイツ北部リューベックで、ベートーベン(1770─1827)が自身の病気や金欠を嘆いている手書きの手紙が出てきた。この手紙を遺産贈与の一部としてもらい受けたリューベック音楽大学ブラームス・インスティチュートによると、手紙は10万ユーロ(約980万円)以上の価値があるという。

6ページに及ぶ署名入りのこの手紙はベートーベンが53歳の時に書いたもので、ハープ奏者で作曲家のフランツ・アントン・シュトックハウゼンに対し、自身が1823年に完成させた有名なミサ曲「ミサ・ソレムニス」の買い手がいないかと尋ねている。

手紙の中でベートーベンは、患っていた目の病気のことや、おいの学費などで経済的に厳しい状況にあることなどを切々と訴えている。手紙は受取人の子孫である音楽教師が所有していた。

西部ボンにあるベートーベンの生家を利用した博物館「ベートーベンハウス」のミハエル・ラーデンブルガー氏はロイターに対し、手書きの手紙は非常に価値があると指摘。昨年、ベートーベンが書いた買い物メモはオークションで7万4000ユーロで落札された。同氏は「ベートーベンの手紙は珍しく、手紙の長さや私生活に関する記述を考えると、今回のものは非常に興味深い」と語った。

ブラームス・インスティチュートは来週、この手紙を一般公開する。


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この記事を読んだ皆さんの多くは、「そうか。ベートーヴェンはやっぱり貧しかったんだ」とお思ひに成るかも知れません。そして、ベートーヴェンの事を、「ベートーヴェンは、矢張り、難聴に加えて、貧困にみ苦しんだ苦悩の英雄だったんだ。」とお思ひに成るのではないでしょうか。

でも、ちょっと待って下さい。ベートーヴェンは、本当に貧しかったのでしょうか?

こう言ふ見方をする人も居るのです。

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(以下引用)


 よくよく考えますと「ベートーヴェンはなんと幸福な人だったのだろう!」と感嘆することさえできます。幸福とは何か、幸福な人生とは何か、これは人によって考え方が違いますから、だれにでも当てはまる答えはありません。ドイツの思想家ヒルティが「幸福論」という有名な大きな本を書いています。そのなかで、「自分の仕事に我を忘れて、完全に没頭できる人はもっとも幸福である。」といっています。ベートーヴェンはピアノ演奏と作曲に没頭して生涯を終えました。ブロイニング夫人が、
「またラプトウスがはじまった。」とよくいったように、ベートーヴェンは熱中型の人でした。他人がどう思おうと関係なく、自分の意志を貫いて「芸術」音楽に一生を捧げたのです。このことから、ヒルティの意味で、本当に幸福な人であったといえると思います。
 彼はさらに続けて、
「自然の休息による中断以外は、絶え間なく有益な活動をしている状態こそ、地上で許された最上の幸福な状態である。」ともいっています。ベートーヴェンはたくさんお恋愛事件や甥の養育問題、年金訴訟など、音楽以外の「雑事」に気を散らしていた間にも、決して音楽のことを忘れず、人々に感動を与える音楽を作り続けていたのですから、ベートーヴェンはヒルティの幸福を絵に描いたような人であったといえるのではないでしょうか。後世の多くの人々がベートーヴェンの伝記を読んで、結果的にそのような判断を下しているだけではありません。ベートーヴェンのピアノの弟子であったチェルニーがすでに、
「ベートーヴェンは、生きている間から幸福であった。」と証言しているのです。
「ベートーヴェンほど幸せな芸術家はいなかったし、今もいない。」
「ベートーヴェンは1800年にはすでに、モーツァルトの芸術的地位とハイドンの社会的地位を併せもったものを手に入れていたのです。」
「ベートーヴェンは青年時代からすでに、貴族や上流階級からあらゆる可能な援助と保護を与えられ、尊敬を受けていました。晩年になって、奇妙な振る舞いが目立った時期でも、物笑いの種にされる、などということはありませんでした。ベートーヴェンはいつでも特別な存在として、賞賛され尊敬され、その偉大さを理解できなかった人たちからでさえ認められていたのです。」

(滝本祐造『偉大なる普通人/ほんとうのベートーヴェン』(KB社・2002年)218〜219ページ)

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滝本祐造(たきもとゆうぞう)

1932年、京都市に生まれる。京都大学大学院美学美術史専攻。大谷大学教授を経て、京都市立芸術大学音楽学部教授。音楽美学、ピアノ教育。1998年定年退官後、京都ベートーヴェン研究所主宰。中国西安音楽学院栄誉教授。主要著書「ドイツ民謡選」(共著、三修社)、世界の名著「近代の芸術論」(共訳、中央公論社)、「西洋文化と音楽」(共訳、音楽之友社)、「ピアノの基礎」「モーツァルトの本質」「ベートーヴェンの本質」「日本音楽と中国音楽」(美学社)、「ベートーヴェンの独創性」(北京世界知識出版社)論文「源氏物語の音楽」「道教音楽」「ハンスリックの音楽美学について」「真宗大谷派の声明」「音楽という術語について」など


(滝本祐造『偉大なる普通人/ほんとうのベートーヴェン』(KB社・2002年)に書かれた著者略歴)

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私は、ベートーヴェンを深く尊敬する人間です。もちろん、この本を書いた滝本先生もそうでしょう。ですが、もし、この記事が、ベートーヴェンについて、皆さんにそう言ふ印象を与えるとしたら、私は、ちょっと待って頂きたいと、思ふのです。

滝本先生は、こう続けます。

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(以下引用)

 人はよく、ベートーヴェンは不幸な音楽家であった、といいます。そして、「生涯貧乏に苦しんだ音楽家だったではないか」。「難聴に苦しんだ音楽家であった」、「失恋ばかりして一生結婚できなかった」、このような人を本当に幸福といえるのか、と反論する人も多いと思います。しかし、この本を読んできた皆さんなら、きっとこのような反論を跳ね返すだけの用意ができたと思います。このような反論は、ベートーヴェンを不幸な人間に仕立て上げ、それでもなお「傑作」を作った音楽家だ、と「楽聖」ベートーヴェンを強調するための舞台装置であったのですね。

(滝本祐造『偉大なる普通人/ほんとうのベートーヴェン』(KB社・2002年)219〜220ページ)

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「そんな筈は無い!」とおっしゃる方の為に、滝本先生は、こう述べます。

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(以下引用)

 つまり、ベートーヴェンは決して、人が考えているほど貧乏ではなかったということを、本書から十分読み取って下さったことと思います。パトロンからたくさんの年金を生涯受け続けていたし、名曲や「パンのための仕事」を出版して、お金が次々と入ってきていたし、音楽会やピアノのレッスンからも臨時に高額の収入がありました。
 病気や引っ越し、甥の養育費や裁判費用など、たくさんの出費があったのに、人にお金を貸したり、甥に遺産を残すだけの余裕があったのです。モーツァルトは借金を残したまま死にました。ベートーヴェンもときには借金をしましたが、全部返してまだあまったのとは、はなはだ対照的です。ベートーヴェンは決して大金持ちではありませんでしたが、反対に、貧乏で生活が困ったというほどではなかったのです。作曲のためとはいえ、同時にいくつもの家を借り、夫婦の召使を雇ったり、気に入った客人にはごちそうしてもてなす人のうおいベートーヴェンだったのですから、本当に貧乏なら、とてもこんなことはできなかったでしょう。
 借金とはいえないかも知れませんが、ベートーヴェンは作曲の依頼と引き替えに高額の「前金」を受け取りながら、約束を果たさないまま死んでしまいました。いくつもありますが、ヴォルフマイヤーが頼んだ「ミサ」や、イギリスのフィルハーモニー協会からの「交響曲」もそのなかに含まれています。これは明らかに約束違反ですが、両者ともベートーヴェンを尊敬していたので抗議はなされず、うやむやにされたままです。逆にベートーヴェンの方は、ガリチン侯爵に約束違反だとして、使者をロシアにまで送り、執拗に作曲料の残額の取り立てを迫りました。その争いは死後にまで持ち越されました。結局、遺族がお金を受け取り、これまたベートーヴェン側の勝利でした。
 あるとき、良識ある友人のブロイニングが、ベートーヴェンに意見したことがありました。それは、ベートーヴェンが物乞いのように、
「自分は貧乏だ、お金がない、何とかして欲しい。」
と、知り合いに手紙を書いているのを見て、
「もし今、金がいるのなら、人に頼らないで、自分の預金を下ろして使えばいいではないか。」
というのです。このとき、ベートーヴェンはが、10,000フローロングもの大金を銀行に預けていることを、ブロイニングは知っていたからです。ベートーヴェンは、友人の忠告に耳を貸しませんでした。ベートーヴェンが貧乏だったと主張する人は、このベートーヴェン自身の手紙や日ごろの言動の忠実な記録を鵜呑みにして、その根拠にしているのです。ベートーヴェンはお金の不足や困っていることをよく友人に訴えていますが、ベートーヴェンは人の同情を得て、お金を手に入れることが上手だったのですね。だから、お金に関しては、ベートーヴェンは決して「聖人」ではありません。こざかしいくらいまったくの普通の人であったのです。

(滝本祐造『偉大なる普通人/ほんとうのベートーヴェン』(KB社・2002年)220〜222ページ)

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滝本先生は、更に、ベートーヴェンの難耳も、実は、後世の人々が思って居る程重度の難聴ではなかったのではないか、と論じておられます。それは、この記事とは直接は関係しないので割愛しますが、話をこのロイターの記事に戻せば、責める積もりは有りませんが、この記事の筆者は、ベートーヴェンの実像について、滝本先生が書いておられる様な研究が有る事を知らずにこの記事を書いて居る様に思はれます。

音楽史に限らず、科学史や数学史においても、或いは軍事史や政治史においても、歴史には、常にこうした落とし穴が存在します。史料へのアプローチにおいては、決して、史料を額面通りに受け取ってはいけないと言ふ事です。

ロイターのこの記事は、その事を、反面教師として教えて居ます。


(なーんて医者ごときが歴史の事柄に口をはさむと、又お叱りを受けるのでこの辺にしておきます。)

平成24年(西暦2012年)1月22日(月)


                   西岡昌紀(内科医)


(広告ボイコットは御遠慮下さい(笑))


 

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コメント
 
01. 中川隆 2012年1月24日 02:09:32 : 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q


>手紙の中でベートーベンは、患っていた目の病気のことや、おいの学費などで経済的に厳しい状況にあることなどを切々と訴えている。

>ベートーヴェンは決して大金持ちではありませんでしたが、反対に、貧乏で生活が困ったというほどではなかったのです。

>ベートーヴェンが貧乏だったと主張する人は、このベートーヴェン自身の手紙や日ごろの言動の忠実な記録を鵜呑みにして、その根拠にしているのです。

>史料へのアプローチにおいては、決して、史料を額面通りに受け取ってはいけないと言ふ事です。

西岡昌紀さんはベートーヴェンが1813年以降、何故 急にお金に困る様になったのか御存じ無いのですか?


この1813年というのは ベートーヴェンに初めての子供が生まれた年なのです。 もちろん不倫の子なので、周りの人が協力してスキャンダルにならない様に関係文書をすべて抹殺して、記録としては残っていないのですが。

ブルンスヴィック家やブレンターノ家の関係者の日記で、ベートーヴェンのスキャンダルに関係すると思われる箇所だけ全て切り取られて無くなっているのは有名な話ですよね:

1812年といえば、「不滅の恋人」への手紙が書かれた年であり、不滅の愛人とされるアントニーン・ブレンターノとの何かが、この2つの作品、特に第8交響曲の内容に投影されていることは間違いないであろう。

残された日記には、「1812年10月、私はB(ブレンターノだといわれている)のためにリンツにいた」と書かれており、この間に完成された第8交響曲がロマンチックな曲想であるのも納得できる。いかなる思いで、リンツでこの曲を完成したのだろうか。第3楽章のトリオで聞くことができる牧歌的な旋律は、ベートーヴェンが「不滅の恋人」との思い出の場所で得たもの、手紙が書かれたカールスバートで聞いた郵便馬車のポストホルンの旋律から作られたと言われている。

1813年の日記に書かれた、

「服従、おまえの運命への絶対服従、ただそれだけが、おまえに犠牲的行為をさせることができるのだ…奴隷になるまで」

ではじめられる日記から、「不滅の恋人」との関係が、悲劇的な展開に至ったと推測される。弟のカール・カスパールの病状が悪化したのもこの年である。ベートーヴェン自身の健康も優れなかったようだ。


この年、ベートーヴェンが大金を必要としていたことで、当時、金策をして大金を得ていたにもかかわらず、ベートーヴェンは生活に困窮していた。その理由は、青木さんの著書で推測されている。

かつて「あなたの心臓が私のために打つときはいつ来るのか…私の心臓は…死ぬまであなたのために打ち続けるでしょう」と書き送った相手、ヨゼフィーネの経済的な困窮を救うためだと言う。

彼女の子供ミノナの父親はベートーヴェンである可能性があり、ヨゼフィーネのために力を尽くしたとしても不思議ではないとのことである。

http://blogs.yahoo.co.jp/nypky810/folder/1515897.html


生涯独身だったベートーベンは、実は一度「婚約」をした(と、されて)います。その相手が、テレーゼ・ブルンスヴィックという人。この人はとても頭の良い人だったらしく、後に、当時まだ一般的ではなかった幼稚園を開設し、オーストリア・ハンガリーの幼児教育の基礎を作る教育者となりました。

その妹のヨゼフィーネ・ブルンスヴィックという人がいて、この人は姉ほどの知性派ではないにせよ、美人で儚げな人だったようです。……後に資産家のダイム伯爵と結婚しますが、実は! 婚約者の姉テレーゼよりも、こっちの妹ヨゼフィーネの方こそ、ベートーベンの真の恋人だった! とされています。


ここでまた謎が出てくる。ベートーベンは愛する妹ではなく、何故その姉と婚約したのか??

ヨゼフィーネはどうも、家同士の問題とかで「愛のない結婚」をさせられた節がある。本人はベートーベンを憎からず思っていたのでしょうが、耳が悪く強情で不細工、将来性もないベートーベンは、結婚相手とはふさわしくなかった。そのせいもあって別な資産家と結婚したようです。

ところがその結婚が不幸だった。夫ダイム伯爵は三十才も年上で話も合わない。おまけに資産家のはずなのに借金も多かった。

で、結婚五年後この夫が、旅先で急死してしまいます。四人の子供を抱えて当方に暮れるヨゼフィーネを、ベートーベンはなにくれと無く援助したらしい。二人が本格的に恋に落ちたのは、どうもここからのようです。


未亡人とはいえ独身だから、この恋は良いんじゃないか、というのは、現代の尺度ですね。当時はまだ、未亡人がおいそれと再婚すると不貞と言われた時代です。夫が亡くなったとはいえ、伯爵家の母として子供を育てる義務もある。平民のベートーベンとは、所詮「身分違い」なわけですし、好き合っていたとしても「道ならぬ恋」だったのです。

この一種のスキャンダルを隠すために、妹をかばうために、姉テレーゼは、ベートーベンと「偽装婚約」を、したのではないか。

普段から独身主義を公言し、それを周りに認めさせるほどの才女ぶりを発揮してきた姉なら、これも変わり者同士の婚約とは言われても、身分違いもある程度超えられる。スキャンダルではない。妹との一件をもみ消すにはちょうど良い。で、ヨゼフィーネを泣く泣くあきらめたベートーベンに対して、テレーゼの方から事情を言って持ちかけたのではないか。


天使ヨゼフィーネは、その後の再婚にも失敗し、だんだん精神をも犯されていったようです。

ベートーベンも、三たび登場し彼女に支援をします。

ヨゼフィーネは最期、姉テレーゼの見守る中、狂気のウチに死んでいった、とされています。1821年、まだ41歳でした……。

http://d.hatena.ne.jp/terryyokota/20100322

不倫をテーマにしたオペラ「コシ・ファン・テュッテ」を作曲したモーツアルトを「不道徳」と非難したベートーベンですが、二人の人妻との間にそれぞれ一人ずつ、しかもほとんど同時期に生まれた子供がいたと言う話は最近まで一般には知られていませんでした。

 その人妻のひとりはヨゼフィーネといって、1805〜1806年くらいにかけてベートーベンが親しくしていた女性で、末の子のミンナを産んだのが1813年。

女の子ですが成人になったミンナの写真を見ると確かにベートーベンそっくりで、多くの研究者も父親がベートーベンであることに異論がないようです。

ヨゼフィーヌとは1807年以降はしばらく交際はなかったようなのですが、彼女の2度目の夫の失踪(借金が原因で)を機に、1812年頃にはよりを戻したのかもしれません。

かなりの美女だったそうですが、彼女はこの頃には精神的にも、また経済的にも行き詰っていたようです。

 もう一人はアントニエ・ブレンターノといって1810年頃から交際があったようですが、こちらは正真正銘の人妻で裕福な家の夫人でしたが、夫婦関係は形だけだったとも言われています。

アントニエは気高く、教養ある貴婦人で、1812年の段階ではベートーベンの本命だったようで、最近の研究ではベートーベンが亡くなるまで人目に触れないように大事に保管していた宛先不明の熱烈なラブレター、「不滅の恋人へ」の宛先人だということです。

ヨゼフィーネが出産する約1ヶ月前に男の子を産んでいます。

ブレンターノ家とは家族ぐるみの付き合いで、夫のフランツはベートーベンの熱心な支援者の一人です。
特に経済的にはベートーベンに多大な援助していたことで知られ、夫人のアントニエとはあくまでプラトニックな関係とされといましたが、種々の状況からしてアントニエの末の子カールの父親がベートーベンであった可能性はかなり高いようです。

 アントニエとはその後、手紙や楽譜などのやりとりのみで、直接会うことはなく、結果的には確かに「プラトニック」なものになり、夫のフランツもその後も変わりなくベートーベンを支援していたようです。
もっとも前述の「不滅の恋人」の手紙の中で「他の女性が私の心を占めることなどけっしてありえません、けっして、けっして・・・・・」なんて書いておいて、別な女性に子供を産ませたことで疎遠になったのかも知れませんが。

一方、いろいろ困っていたヨゼフィーヌに対しては、ベートーベンのほうから経済的に援助していたようで、自らの責任を感じていたのかも知れません。

http://mitoguitar.blog85.fc2.com/?m&no=5


要するに、1813年以降 ベートーベンは、自分との不倫の子を産んでお金に困っていたヨゼフィーネを援助する為に、財産をすべて使ってしまい、自分の生活費にすら事欠いていたんですね。

>手紙の中でベートーベンは、患っていた目の病気のことや、おいの学費などで経済的に厳しい状況にあることなどを切々と訴えている。

他人には本当の事は言えないので、他の理由をでっち上げただけなんですね。


02. ユツキ 2012年7月11日 19:23:29 : IZh8.zLhg7TUs : w0lKpWyiEY
ベートーベン凄いなと思った♪
なんか、気になったから見たんです。

03. 中川隆 2014年4月11日 22:21:26 : 3bF/xW6Ehzs4I : 2D6PkBxKqI

楽聖ベートーヴェンの遺体鑑定

ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン (Ludwig van Beethoven, 1770年12月17日洗礼-1827年3月26日没) は神聖ローマ帝国のボンで出生し、幼少の頃より父親から強制的に音楽教育を受けた。その後ハイドンらに師事し、22歳の時にウィーンでピアニストや作曲家として音楽活動を開始した。

20歳代後半から持病の難聴が悪化するが、30歳代で交響曲第3番変ホ長調「英雄」(1805)、交響曲第5番ハ短調 「運命」(1808)、交響曲第6番ヘ長調「田園」(1808) など、中期を代表する名作を次々と発表した。難聴、慢性的な腹痛や下痢などの持病は徐々に悪化しベートーヴェンを苦しめたが、晩年にも大宗教曲ミサ・ソレムニス (1823) や交響曲第9番ニ短調 (1824) などの大作を発表している。

しかし下痢と顕著なるいそう (痩せ) が4か月も続き、1827年に56歳で逝去した。

 死亡前にベートーヴェンは難聴の原因を調べるために自分の解剖を依頼している。そこでヨハン・ワグナー医師により1827年3月26日にベートーヴェンの家で解剖が行われた。ワグナーの記録は概略以下の通りである。

 ベートーヴェンの外耳道、特に鼓膜は厚いかさぶたで覆われ、開頭すると耳管開口部と扁桃腺の周囲には凹んだ瘢痕が見られ、耳管自体は腫れて狭窄していた。顔面の神経は異様に太く、周囲の動脈は拡張し、左の聴神経は細まって3本の細い溝のようになり、右の聴神経は鼓室から伸びる1条の白い溝になっていた。脳回は浮腫が強く白く変色していた。

胸部臓器は正常だったが、腹腔内には4クォート (約4.4リットル) の褐色混濁液が貯溜し、肝臓は緑青色調で半分の大きさに萎縮し、表面や断面は粗大結節状を呈していた (肝硬変の所見)。肝臓内の血管は細く狭窄し、乏血状だった。胆石があり、脾臓は腫れて膵臓のように硬くなっていた。胃腸は空気で大きく膨隆し、左右の腎臓は1インチ (約2.5センチ) の厚さの被膜で覆われ、褐色混濁液が浸潤していた。腎臓の組織は乏血状で、腎杯はエンドウマメ大の石灰質の結石で占められていた。体は極端に痩せていた。


 20世紀末になって科学的鑑定手法が進歩すると、ベートーヴェンの遺髪を用いて4回の鑑定が行われた。鑑定に用いられた遺髪はアメリカ・ベートーヴェン協会のメンバーが1994年12月にサザビーのオークションで3600ポンド (7300ドル) で落札した髪の毛の房 (頭髪582本) である。この房は、ドイツ人指揮者のフェルディナント・ヒラーがベートーヴェンの死亡日の翌日 (1827年3月27日) に遺体から切り取ったものである。その房はヒラー家の子孫に受け継がれたがその後所在不明となり、1943年にナチスから逃亡中のユダヤ人 (氏名不詳) がオランダ人医師ケイ・アレクサンダー・フレミングに治療費代わりに贈与し、オークションで売られるまでフレミング家が所有していた。

 髪の毛の房は灰色、白色、褐色の3色の髪の毛の束を含んでいた。長さは7〜15センチで、髪の毛が1月に0.5インチ伸びることからベートーヴェンの生涯の最後の6〜12か月の間に伸びた部分と考えられた。この房以外にも、国会図書館 (ワシントンD.C.)、ハートフォード大学 (コネティカット)、大英図書館 (ロンドン)、楽友協会 (ウィーン) とベートーヴェンの家 (ボン) に遺髪が保管されている。

 第1の遺髪鑑定 (1996年5月):サイケメディクス・コーポレーションのワーナー・バウムガートナー医師がラジオイムノアッセイ法を用いて20本の遺髪中の麻薬性鎮痛薬の有無を調べた。19世紀のヨーロッパでは鎮痛、鎮静、解熱、下痢止めの目的でモルヒネが頻用されていたが、腹痛の持病があるにもかかわらずベートーヴェンの遺髪からはモルヒネなどの麻薬は検出されなかった。主治医が過量の投薬を行ったため、その医師に対する不信感からベートーヴェンは治療を拒否していた疑いがある。

 第2の遺髪鑑定 (1999年6月):ノース・カロライナ州のラボラトリー・コーポレーション・オブ・アメリカでマーシャ・アイゼンブルグらにより3本の遺髪を用いてミトコンドリアDNA分析 (高度変異領域HV1とHV2を検査) が行われた。結果は下表の通りで、塩基位置263と315.1にアンダーソンらが報告したミトコンドリアDNAの塩基配列 (Nature 290: 457-465, 1981) との相違 (個人差) が確認された (他の試料との比較はされていない)。


試 料\塩基位置 73 263 315.1
アンダーソン配列 A A -
ベートーヴェンの遺髪 AまたはG G C


 第3の遺髪鑑定 (1999年秋):シカゴ・マックローン研究所のウォルター・マックローンが走査電子顕微鏡・エネルギー分散型X線分光分析装置を用いて2本の遺髪中の微量元素を調べた。その結果遺髪中の鉛の濃度が正常人の42倍 (25 ppm) あることが判明し、ベートーヴェンは生前から重症の鉛中毒で、それが持病や死の原因になった可能性が示唆された。一方、1820年当時に梅毒の治療に用いられていた水銀は遺髪からは検出されず、ベートーヴェンが梅毒に罹患していたという風説は否定された。

 第4の遺髪鑑定 (2000年9月):米国エネルギー省の国立アルゴンヌ研究所の研究者が非破壊シンクロトロンX線蛍光分析を行って6本の遺髪中の微量元素を調べた。マックローンの鑑定結果と同じく遺髪からは60 ppmの鉛 (正常人の約100倍) が検出され、鉛中毒であったことが確認された。水銀が遺髪からは検出されないことも確認された。砒素も検出されなかった。


 一方、1994年にカリフォルニア州ダンビルに在住するポール・カウフマンは、ベートーヴェンのものと伝えられてきた頭蓋骨の破片を相続した。この骨片は、カウフマンの先祖でウィーン大学の医史学教授だったロメオ・セリグマン医師が1863年に入手したものである。

 ベートーヴェンの解剖が1827年に行われた際に、側頭骨の一部が行方不明になっていた。死体置き場の掃除夫のアントン・ドッターが入手し、後日外国の医師に売り払い、ロンドン大空襲で粉々になったという噂があるが、いずれにしろその骨片は現存しない。

 ベートーヴェンの死の36年後の1863年10月12日には、ベートーヴェンとシューベルトの墓が学術的目的と遺体の損壊を防ぐ目的で発掘された (2人とも土葬)。骨片が墓から取り出され、汚れを除いて医学的な検査を受けた後に、きれいな棺に入れて再埋葬される予定だった。ところがどういう経緯か、ベートーヴェンの頭蓋骨の2個の大きな骨片 (側頭骨から頭頂骨に及ぶ骨片と後頭骨の一部) は棺に入れられず、頭蓋骨検査に協力していたセリグマン教授が秘かに所有していた。1888年6月21日にベートーヴェンの墓が再発掘されているが、その時に1863年には存在していた頭蓋骨の一部が欠失していることが確認されている。

 頭蓋骨片はセリグマン教授の子孫に受け継がれ、最終的に入手したポール・カウフマンは、サンノゼ大学のベートーヴェン研究センターに研究目的で骨片を長期貸与した。この頭蓋骨片についてもDNA鑑定と微量元素鑑定が行われている。

 頭蓋骨片のミトコンドリアDNA鑑定は、2005年10月にミュンスター大学法医学教室のブリンクマン教授の下で行われた。高度変異領域HV2の塩基配列が調べられ、下表のように毛髪とまったく同じ鑑定結果が出た (他の塩基位置は標準配列と同一)。この結果から頭蓋骨片がベートーヴェンのものであることが確認された。


試 料\塩基位置 73 263 315.1 備 考
アンダーソン配列 A A - 公表されているもの
CRS標準配列* A A -
ベートーヴェンの遺髪 AまたはG G C 1999年の解析結果
ベートーヴェンの頭蓋骨片 未検査 G C 今回の解析結果
*CRS (Cambridge Reference Sequence) はアンダーソン配列を修正した国際標準配列。

 微量元素解析は2005年12月に毛髪と同じ米国エネルギー省の国立アルゴンヌ研究所で行われ、第3世代大型放射光施設であるアドバンスト・フォトン・ソース (APS) を利用してX線蛍光分析を行った。その結果、毛髪を上回る高濃度の鉛が検出された (正確な定量はされていない)。鉛の人体内での半減期は約22年で、その95%は骨に蓄積することから、ベートーヴェンは少なくとも死亡前の20年間にわたり鉛中毒であったことが確認された。


 鉛中毒になると、性格の変化、腹部の疝痛、腎障害、脳症、運動神経麻痺、貧血などの症状が出る。急性中毒では肝障害がみられる。ベートーヴェンの持病の腹痛は鉛中毒の症状であった可能性がある。解剖所見では肝硬変と腎不全 (腎乳頭壊死) が見られ、腎不全が直接死因であると考えられているが、その原因が鉛中毒である可能性は高い。難聴は、鉛中毒の症状としてはまれだが、関連が示唆されている。

 鉛中毒の原因は不明だが、当時のワインに添加されていた酢酸鉛を含む甘味料が中毒源として候補にあがっている。ベートーヴェンはワイン好きで、しかも腹痛を緩和するために過剰飲酒していた。

 2007年にウィーン医科大学法医学教室のクリスチャン・ライター教授は髪の毛を裁断してレーザーアブレーション質量分析装置で毛髪各部位の鉛含有量を測定した。毛根からの距離がその部分の毛が作られてからの日数に相関し、裁断した部分ごとの鉛含有量から死亡前のいつ頃に毛の (=体内の) 鉛含有量が増減したかが推測できる。この研究により、死亡前の111日間にベートーヴェンの毛髪中の鉛含有量が増加していたことが分かった。ベートーヴェンは1827年初頭から肺炎と腹水を起こし、アンドレアス・バフルフ医師が鉛を含む薬を用いて治療していた。鉛の投与量は致死量ではないものの、もともと肝硬変になっていたベートーヴェンの肝機能をさらに悪化させて死を招いた、とライター教授は考察している。
http://www3.kmu.ac.jp/legalmed/DNA/beethoven.html


4. 中川隆[-13366] koaQ7Jey 2018年10月29日 20:40:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19663] 報告

信じがたい数の「偉大な作曲家」が飲んだくれだった
https://gigazine.net/news/20161225-great-composer-was-drunk/

「Mozart and Liszt(モーツァルトとリスト)」あるいは「Brahms and Liszt(ブラームスとリスト)」という言葉は、英語圏では「酔っぱらい」の意味で使われます。この言葉通り、表だっては語られないものの、現代において「偉大だ」と言われている作曲家の多くが飲んだくれであり、誰がどう飲んだくれていたのかや醜態の様子がThe Spectatorに記されています。

A surprising number of great composers were fond of the bottle – but can you hear it?
http://www.spectator.co.uk/2016/12/a-surprising-number-of-great-composers-were-fond-of-the-bottle-but-can-you-hear-it/

「偉大な作曲家たちは飲んだくれだった」という話はあまり聞きませんが、ある時、ジャーナリストのダミアン・トンプソン氏は作家のオリバー・ヒルムズ氏の書いたリストに関する文書を読んでいたところ、「晩年のフランツ・リストのぞっとするような酔っぱらいエピソード」を目にしたとのこと。このことから作曲家たちの飲酒癖に興味を持ったヒルムズ氏は調査を開始。調べてみたところリストのバイオグラフィーは音楽学者のアラン・ウォーカー氏なども書いているのですが、ウォーカー氏の著作にはリストの飲酒癖について書かれていません。ウォーカー氏はリストが1日1瓶のコニャック、あるいは1日2本のワインを飲んでいたことを認めていますが、リストがアルコール中毒だっとは考えていない様子。一方で、リストの弟子であるフェリックス・ワインガルトナーはリストについて「確実にアル中」と述べていたそうです。

ブラームスは、売春宿やパブでピアノをよく演奏していました。多くの記事ではブラームスが売春宿などで演奏していた理由について「お金のため」と書かれていますが、実際には、売春婦にとって魅力的なブラームスは、サービスを利用することも多々あったようです。そして、あるパーティーにおけるブラームスの素行について、「酔った彼は、全ての女性たちに衝撃的な言葉を浴びせて、場をめちゃくちゃにした」という言葉も残されています。


by Joseph Morris

上記の2つから見るに、「ブラームスとリスト」という言葉は、意味のない比喩ではななく、史実を踏まえて作られたと言えそうです。

酔っぱらいエピソードが残されているのは、リストやブラームスだけに留まりません。シューベルトは若い頃からお酒を好み、「品行方正な家族のプライベートな宴会に招かれた時の嘆かわしく恥ずべき振る舞い」が複数の文書に記録されています。またベートーベンもシューベルトと同じような感じで、街路をふらふらとした足取りで歩いていたことが記録されています。また、シューマンは1830年に行われたドイツ南西部にあるハイデルベルクのカーニバルで「ラムの飲み過ぎで意識が混乱し道ばたで転倒、宿の女主人のスカートの下をまさぐる」という素行が確認されているとのこと。

このほか、モーツァルト、ヘンデル、ムソルグスキー、チャイコフスキー、シベリウスというそうそうたる面々が「酔っぱらいリスト」に入っていますが、バッハについては「飲んだくれていた」という報告がありません。ただ、2週間の旅路で支払ったビール代金がビール8ガロン(30リットル)分に相当するのでは?という指摘がされています。ベルリオーズとワーグナーはアルコールよりもアヘンを好んでいたようです。

作曲家たちの音楽にアルコールの影響を見いだすことができるかどうかは難しいところですが、ムソルグスキーの「死の歌と踊り」はアルコール中毒に苦しむ中で書かれた曲であり、作曲家の置かれた状況が不穏なハーモニーに反映されていると言えるとのこと。また、酔っ払った状態で正確な作曲活動を行うのは難しいため、シベリウスは人生の最後の30年において曲を完成させることがありませんでした。


by Brandon Giesbrecht

しかし一方で、聴覚を失い最悪の二日酔いに悩まされながらも、ベートーベンは言葉では言い表せないほどに荘厳な楽曲を創り上げました。ベートーベンはベッドで死の淵にいながらも、ドイツのラインランド州から送られてくるワインを楽しみにしていたのですが、ワインが到着して来た時にはほとんど意識がなく、ベートーベンは「なんて残念だ。遅すぎた」とささやき意識を失ったそうです。

一方のブラームスは、死の直前までお酒を楽しむことができました。ブラームスは何とかワインの入ったグラスを口元に持っていき、「おいしい」という言葉を残して亡くなったとのことです。
https://gigazine.net/news/20161225-great-composer-was-drunk/

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5. 中川隆[-13376] koaQ7Jey 2018年10月30日 06:26:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19681] 報告

因みに、クラシックの作曲家の殆どはアル中でしたが
ジャズやロックのミュージシャンはアル中ではなく麻薬中毒でした。


ジャズやロックは元々、マリファナや覚醒剤とセットになっているんです。
ジョン・レノンやポール・マッカートニーも重度の麻薬中毒者でした:

射殺、転落死…薬物に溺れた「ジャズの巨人」たちの悲劇 2016.03.08

 日本でも芸能界、スポーツ界のスーパースターたちの薬物汚染のニュースが世間を賑わせているが、そんなのはまだまだ「超絶甘い!!」といいたくなるような人々がいた。“ジャズの巨人”たちである!

 ジャズ界のスーパープレイヤーたちの歴史を紐解けば、ドラッグに溺れに溺れたとんでもない巨人たちがワンサと登場してくるのだ! いやもうその状況は『ジャズの巨人』というよりも『シャブの巨人』といってもいいくらいの壮絶なラインナップ!!

 しかも、彼らは決してドラッグの力で音楽を創造していたわけでもなんでもない。ほとんどのミュージシャンが、栄光の後にドラッグの泥沼に引きずり込まれ、往年のプレイは影をひそめ、あまりにも悲惨な結末を迎えている。

 以下、小学館の隔週刊CD付きマガジン『ジャズの巨人』に記されている、そんな彼らの生きざまである。

 あまりにもクスリをやり過ぎるので、あのジョン・コルトレーンがマイルス・デイヴィス・グループをクビになったのはつとに有名な話。そもそも当のマイルスもクスリで複数回逮捕されており、そのマイルスにクスリでクビにされるって、どんだけ大量にやってんだよ、って話。

“モダンジャズ創造主”といわれたサックス奏者のチャーリー・パーカーは、ドラッグで精神錯乱を起こし、療養施設に入所しカムバックを目指すが、35才の若さで死去。

 夭折の天才トランペッター、リー・モーガンはドラック治療に1年を費やすも、34才で亡くなる。死因はなんと内縁の妻からの射殺だ! しかも楽屋で!! 更にその場には本妻もいた!!!

 アート・ペッバー。このアルトサックス奏者は、ドラッグ所持による逮捕と収監を何度となく繰り返し、しまいには体がボロボロになって脾臓破裂! どうにか一命は取り止めた後、3年にも及ぶ矯正施設でのリハビリを行い、奇跡的なカムバックを果たすが、56才の時に脳溢血死。

 一番とんでもないのは、トランペッターのチェット・ベッカー。母国アメリカでドラッグ所持で逮捕された後、レコーディングで訪れたイタリアでも逮捕。出所直後に今度はイギリスでも逮捕され国外退去。かと思いきや、ギャングに襲われトラッペッターの命ともいえる前歯を折られるトラブルにまで巻き込まれる。

 そして最終的には、58才でアムステルダムのホテルから転落死。それもホテルの2階からの転落である。もう一度書く。ただの2階からの転落で死亡!! どれだけ骨が、内臓が、そして全身が、それどころか精神までもがボロッボロだったかわかるようなエンディングである。

 薬物というものが、どれだけ恐ろしく人間を蝕んでいくかわかるような巨人たちの悲劇である。巨人に憧れた番長への警鐘でもある。
https://www.news-postseven.com/archives/20160308_392240.html?PAGE=1

そもそも、ジャズ・ロックは原始民族が集団でトランス状態に入る為に行う儀式で奏する音楽そのものです。

毒キノコ、マリファナや LSD の様な 幻覚剤を飲んで、音楽と踊りで異世界に入っていくのです。

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6. 中川隆[-13373] koaQ7Jey 2018年10月31日 05:26:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19714] 報告
音楽がわからないアホがジャズやロックに熱狂する理由

プロテスタントのある宣教師は、クリスチャンに改宗した原住民たちにロックを聞かせてみたところ

「これは悪霊を呼び出す音楽である」

と言ったといいます。

彼らは、以前、自分たちが暗闇の悪魔的霊界と接触するときに使ったサイキックな刺激と同じものをロック・ミュージックの中に感じ取ったというのです。


 一般的にロックというと、その衣装・風体は実に異常であり異様です。これは何に通じるかというと、サタン、つまりサタニズムに通じるのです。そして、このサタニズムとドラッグは、昔から密接に結びついているのです。

 マヤ文明では、ペヨーテなどの幻覚剤を使って、生け贄を捧げる宗教的儀式を行っていたのです。また、古代の神官たちは、ドクニンジン、ヒヨス、アヘン、ベラドンナなどの麻薬の恍惚感のうちに霊との交信を行って“神託”を述べ、ときとして身体を傷つけたりしています。

 ロックのコンサートは、この神官の儀式に非常に似ているところがあるのです。ですから、これとドラッグが結びつき、そこに悪霊が入り込んできても少しも不思議はないのです。

 聖書には「魔術」ということばがよく出てきます。これは原典のギリシャ語では「フェルマキア」英語の「ファーマシイ」「薬局」の語源はこれなのです。つまり「魔術」とはドラッグを意味し、魔術とドラッグは同意語であり、つねに表裏一体の関係にあるのです。ですから、ロックがドラッグと結びつき、それがサタニズムと関連を深めても何ら不思議はないのです。


 ビートルズでは、全員がドラッグを使っていたそうですが、とくにジョン・レノンが多く使っており、生き延びるために不可欠だったとの証言もあります。このように、1960年代後半、ドラッグはビートルズが先導役となって、ロックの世界に浸透し、ヒッピー運動とともに若者の間に広がっていったのです。


ロック・フェスティバルでは、何が行われているのでしょうか。それは、とても音楽のコンサートとは思えないほど異常なものです。

 ロックは、心臓の鼓動の持つ自然なリズムと全く逆のリズムをとるため、聴く者の内蔵を打ち、繰り返しの反復によって脳にそれが叩き込まれるのです。 人間が苦痛を感ずる音量は約100デジベルからであるといわれます。ロックコンサートにおけるエレキギターの音は約190デジベルもあるので、苦痛に感ずるほどうるさい音なのです。

 絶えず激しく律動するビートは、高いボリュームで長時間続けられると、いつしか催眠術的な効果が生じてきます。どうしてかというと、神経組織が高音で繰り返し襲われるので、通常の聴覚がマヒしてしまうからです。そうすると超越瞑想のようになって、音楽が醸し出すイメージと歌詞のメッセージに対する深い被暗示性が生まれてくるのです。

 こういう状態になると、音楽という催眠術がかかりやすくなるので、人々は音楽の持つメッセージとイメージをまともに受け入れてしまいます。その場に、目もくらむようなレーザー光線やスクリーンに映し出されるデモーニッシュな映像があれば、乾いた土が水をまたたく間に吸収するように心の中にしみ込んでしまうのです。

 ここにサタニズムが入り込んでくるのです。ロック・ミュージシャンのあの異様な服装や行動は、こういうことと無関係ではありません。ロック・グループの中には、公然とサタン礼拝を打ち出しているものもあるのです。
 

 1970年2月13日の金曜日にハード・ロックのブラック・サパスというグループがデビューし、アルバム「黒い安息日」を発表して、魔術を曲の中に打ち出してきたのです。これと同時期に、ブラック・ウイドウズというグループが「サクリファイス」(生贄)というアルバムを発表したのですが、この頃にはドラッグと黒魔術は強く合体し、ハード・ロックの世界に定着していったのです。

このブラック・サパスとブラック・ウイドウズはともに黒魔術を曲の中に取り入れたのですが、前者は精神的なものとして取り入れたのに対し、後者はイメージカラー的な演出面で黒魔術を活用したのです。


 このようにして、ハードロックの世界に悪魔主義は完全に入り込み、その精神を受け継ぐディープ・パープル、イーグルス、ジューダス・プリースト、シン・リジィ、スコーピオンズといったグループが次々と誕生してきたのです。

 この1970年代を過ぎて1980年代に入ると、ハード・ロックは、ヘビー・メタルに移行していきます。しかし、その間の一時期に「パンク・ロック」というのが流行します。 パンク・ロックというのは、体制に反発する音楽イデオロギーのことをいうのですが伝統の崩壊、秩序の破壊、既成社会への反抗の叫びをヒステリックに主張し、日常の欲求不満をすべて音楽にぶつけたものをいうのです。

 セックス・ピストルズ、クラッシュ、ダムド、チェルシーなどは、パンク・ロックグループですが、彼らはきわめて異常な風体をしていたのです。世紀末風のファッション鋲つきの皮ジャンにチェーン、髪は逆立てて極彩色に染め、死人のような青ざめたマスカラの隈どりといえば、ピンとくると思います。

 しかし、彼らに決定的に欠けていたのは演奏力であり、長時間のコンサートには耐えられなかったのです。時代の異端児としては注目されたものの、演奏レベルの低さに人気は長続きせず、当然の帰結として、出現の瞬発力と同じスピードで姿を消してしまうのです。しかし、あの奇妙な風体だけは、若干姿を変えて次のヘビー・メタルに受け継がれることになります。

 さて、ヘビー・メタルとは何でしょうか。

 ヘビー・メタルとは、そのサウンドを表現するものです。どういうことかというと、ギター・コードの激しく鳴り響く音がデトロイトの自動車工場で、鋼鉄から車の部品をプレスする流れ作業場の、耳をつんざくような騒音と似ているところから、そう命名されたのです。

 その特徴はといえば、研ぎすまされた粗野でストレートな表現力、他の追随を許さぬスピード感にあるといえます。そして、当然のことながら、より悪魔主義と一体になっていきます。

 アイアン・メディアン(鉄の少女)というグループは、悪魔の数字といわれる666を前面に打ち出した曲「獣を野に放て、666、ナンバー・オブ・ビースト」という曲を演奏し、悪魔主義運動を起こし、ヘビー・メタルの先頭に立ちます。

 そして、ヴェノム、サタン、デーモン、ウィッチファンド、エンジェルウィツチなどのバンドが誕生するのです。まるで、地下教団的な秘密組織みたいですね。こういうヘビー・メタルのファンの56%は17歳以下の青少年なのです。・・・
http://intec-j.seesaa.net/category/4751327-1.html



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新時代の寵児オノ・ヨーコ 『某業界情報紙』(一九九一年 十月 発行)より転載。


 オノ・ヨーコ は、一流銀行家の娘である。子供の頃から、学習院や三井アカデミーなどブルジョア学校で学び、皇族の一人とも親交を結んだ。

 一九五二年、二度目の渡米生活の時、ニューヨークのサラ・ローレンス大学に入学し、勃興しつつあったアバンギャルドの「ビートニック」の洗礼を受けた。大学時代に麻薬を覚え、何回かの中絶をするなど乱れた男女関係を経た後、一柳俊というニューヨークのジュリアード音楽院の学生と結婚した。

二人は麻薬の巣窟、グリニッジ・ビレッジのジャズ界に入り浸りとなった。

その結婚生活もヨーコが、自殺未遂で精神病院から退院したばかりのホモの作家といい仲になったことから破局を迎えた。


 一九六二年になって、ヨーコの家族は娘をこのすさんだ生活から救おうとして日本に呼び戻したが、ヨーコはまたもや自殺をはかり、東京の精神病院に収容された。その精神病院からヨーコの脱出の手助けをしたのが、もう一つ輪をかけた悪のトニー・コックスというアメリカの麻薬売人である。コックスは、とある●●ヤ教司祭の息子と手を結んで麻薬の製造と密売を行った男で、ニューヨークにおけるLSD−25の売人第一号である。ヨーコの友人にも手広くLSDを売りさばき、FBIとマフィアの追及から逃れて日本に渡ってきた時、ヨーコと再開し結婚する。

 その時点で法的には、ヨーコは未だに最初の夫の妻だったにもかかわらずである。ニューヨークに舞い戻った二人は、幻覚症状を催す麻薬とアバンギャルド芸術の世界に憂き身をやつすことになる。

 トニーとヨーコは赤貧洗うがごとき生活を送り、夫婦喧嘩も絶えなかった。一九六六年にはロンドンに行き、アバンギャルド会議に出席した後、一年ほど滞在し、麻薬とロックとセックスの裏文化の中にどっぷりつかることになった。

当時の裏文化のメッカはインディカ・ギャラリーのかいわいであり、このインディカ・ギャラリーと称するカフェ兼アート・センターを始めたのが、ジョン・ダンパーとその妻のロック・スター歌手のマリアン・フェイスフル、およびビートルズのメンバーのポール・マッカートニーであった。

 そこでヨーコはジョン・レノンに紹介される。その数ヶ月後、ロンドンのあたりでレノンと遊び回るうちに、ヨーコはすでに妻子ある身のこの花形ロック・スターをまるめ込んでしまう。レノンはヨーコとつきあう以前からすでにLSD−25の常用者だった。ヨーコと一緒になったレノンはローリング・ストーンズなどのロック・ミュージシャンを巻き込んで手当り次第にいろいろな麻薬を試すようになった。当然のことながら、レノンもヨーコも麻薬中毒患者に転落した。

 その頃になると、ヨーコはオカルトに夢中になり、専属のタロット占い師を雇うまでになった。七〇年代後半には、コロンビアのカルタヘナ島に行き占い師の会社、リナ・ザ・ウィッチ【←おや?】に一週間通った。

 長年における麻薬とオカルトへの異常な関心の結果、一九八〇年のジョン・レノン暗殺事件の当時は、ヨーコは新時代の退廃的な哲学に夢中になっていた。相変わらず手の施しようもない麻薬中毒であった。進んで麻薬・ロック・セックスの裏文化に入り、今やその道にかけては世界的に有数な伝道者とも言える人物になっている。ヨーコこそ、まさに日本の新時代の寵児と言えよう。
http://asyura.com/sora/bd11/msg/26.html



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かつてドラッグは神に近づくための道具だった。
「源氏物語」に、アヘンの吸引を暗示する場面が出てくるのを、ご存じだろうか。

「葵」の巻で、出産を控えた光源氏の妻・葵の上が、物の怪に取り憑かれる場面である。苦しむ葵を救おうと、光源氏は祈祷師を呼ぶ。場面変わって、離れた場所にいる源氏のかつての恋人・六条御息所は、葵を苦しめている霊が、自分の生霊であることを知る。髪を洗っても着物を替えても、体から芥子の匂いが消えないからだ。それは、祈祷師が護摩を焚く炎に投じた芥子の匂いだった。

当時、密教僧が祈祷の際に護摩焚きの炎に芥子や胡麻などの「焼供」を投じる習慣があったことは知られている。この芥子の実とは、何を隠そうアヘンやヘロイン、モルヒネの原料である。

かつての祈祷師たちは、アヘンの煙を吸って恍惚状態になり、病気治療に超人的な「霊力」を発揮したのではないか。国際日本文化研究センターの山折哲雄教授(宗教学)は、そんな仮説を持つ。

「幻覚剤の使用は、世界の宗教に普遍的に見られる現象です」

山折教授はそう説明する。

「古来、幻覚剤は神や天国に近づくための手段だった。ところが科学が発達して神の存在が否定され、幻覚剤は快楽のためだけの『悪魔の薬』になってしまった」

インド最古の神話「リグ・ベーダ」には、祭礼参加者が飲む幻覚剤「ソーマ」が出てくる。このソーマの正体には、大麻、幻覚キノコなど諸説がある。中南米では、幻覚キノコや幻覚サボテンが祭礼に使われた。

十六世紀にメキシコのアステカ王国を侵略したスペインの従軍僧サワグンは、ペヨーテというサボテンや、テオナナカトルというキノコを食べると「ものすごい色のついた幻覚に襲われる」と記している。先住民族は、これらを死地に赴く兵士や、神への生け贄に捧げる人間に与えたという。

民族薬理学者で、名古屋学院大学教授だった石川元助氏(故人)は、六五年にメキシコ先住民の「聖なるキノコの祭典」で幻覚キノコを食べた時の様子を次のように記している。

「私は完全に意識を失い、色彩だけのあの世へ行った。金、銀、赤、オレンジ、ブルー、緑、黒など美しい七色が、渦を巻いたり滝のように流れたりした…」

先住民族は「神の声を聞くために」このキノコを使っていた。

日本文化にも似た現象はある。「今昔物語」には、山中でキノコを食べ、恍惚と歌い踊る尼僧たちの話が出てくる。このキノコは、食べると幻覚に陥り、踊り狂うので「マイタケ」と呼ばれたが、今では「ベニテングタケ」らしいことが分かっている。 北欧ラップランドやカムチャッカ半島の先住民族にも、ベニテングタケを宗教儀式に使った形跡があるそうだ。

ドラッグが文学に残した貢献も計り知れない。ギリシア時代の詩人ホメロスの「オデッセイア」には「すべての苦しみ、怒り、悲しみを忘れさせる」アヘンらしき陶酔剤が歌われている。
http://ugaya.com/private/repo_32.html

脳にはA10と呼ばれる神経があります。 医学的には、恍惚神経とか快楽神経と呼ばれているそうです。 動物のA10神経はとても貧弱ですが、人間はこれがものすごく発達していて強力です。 わくわくしたり楽しくなったりするときには、この神経が興奮します。

実は麻薬でもこの神経が興奮することが知られています。 麻薬でこの神経が興奮して「意識の拡大」という色々な神秘的な現象が起きます。 でも、麻薬を使用し続けると、神経がボロボロになってだんだん楽しくなくなり、やがて廃人になってしまいます。

瞑想を行うと、脳内麻薬物質がこの神経の周りに分泌されます。
20種類以上ある脳内麻薬物質のうち、「β−エンドルフィン」は、なかでも非常に強力で、鎮痛作用はモルヒネの6.5倍もあるそうです。 「β−エンドルフィン」は死ぬときにも分泌され、おそらく苦痛を和らげるために出るのではないかと言われています。

ランナーズハイでも分泌され、マラソン選手が走っていて突然苦しさがなくなり恍惚とした状態になる・・・というのは、脳内麻薬物質が分泌されているからです。

麻薬は分解されませんが、脳内麻薬物質は完全に分解されるので一切害はありません。 脳内麻薬物質は普段大量に分泌されることはありません。 死ぬときとか、マラソンですごく苦しかったときに分泌されるのですが、それ以外で大量に分泌されるのが瞑想です。 瞑想をして修行が進むと大量に分泌され、とても気持ちがよくなるそうです。

でも、もっと修行が進むと、前回お話したように、鬼が出てきたり、悪魔が幻覚として出てきたりして、怖い目に逢うことがあるようです。 逆に、神様や天使、精霊などに逢うこともあります。 幻覚の中で、神様や仏様に出会って会話をしたりすると、けっこうまともな会話になったりするそうです。 現実の生活の悩みが解決されることもあるそうです。

ここで気をつけなければいけないのが、「自分はすごいレベルまで到達した!」とか「ついに「悟り」を開いた」と思ってしまうことです。 修行を極めた方々が一様に言うことは、「幻覚が出てきて神様や悪魔に会うという状況は、まだまだものすごく低いレベルの話で、「悟り」などよりはるかに遠いレベルだ」ということです。 それを知らない人は、「悟り」を開いたと錯覚して舞い上がってしまうのだそうです。

本格的に舞い上がってしまうと、そのまま精神病になってしまうことがあります。 ですから、それは脳内麻薬物質による幻覚なのですから、冷静に落ち着いて映画でも見るような気分でグッドトリップを楽しむ必要があるのです。

瞑想法、呼吸法、座禅などのごく普通の修行法も、やり方を間違えると大変危険なのだそうです。 やり方を間違えて、廃人や精神病になった例は数多く報告されています。 ですから、これらの東洋的な修行法は、必ずしっかりとした指導法にもとづいて、確かな指導者について十分注意して実行することが必要だと思います。

気功法では、このような危険な障害を「偏差」というそうです。禅では、幻覚の中で悪魔が出てきたり鬼が出てきたりすることがあるようですが、これらを「魔境に入る」という呼び方をしています。 ですから、これらの偏差を体験したり、魔境に入ったことを、精神的なものではなく、神秘体験だと錯覚する方も多いようです。
http://72.14.235.104/search?q=cache:awrxoWDLDRYJ:clover.h555.net/u/stone-field/%3Fy%3D2006%26m%3D2%26d%3D%26ca1%3D+%E9%AD%94%E5%A2%83+%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%97%85&hl=ja&ct=clnk&cd=10&gl=jp

幻覚剤を服用することで自我への執着が喪失して、全体的な共有感が醸成されるという。そうすることで癌患者のうつ、強迫神経症、寿命末期不安、外傷後ストレス症候群とドラッグかアルコール依存症を治療することができるという。

ブッダが悟りを開いた瞬間はまさしく幻覚状態であった。宗教の根源にやはり幻覚が存在することのこれは証である。後世神学者が宗教に神学的要素を加えてわけのわからないぼやけた状態にしたが、初期の宗教は明らかに幻覚から誕生していた。

個人としての絶対的自由と真理を得る理想は、ヨガにより体験できるとし、家族から去り、悟りを求めて全ての社会的絆と責務を放棄し、隠遁生活に入ることであった。紀元前538年頃シッダッタ ゴータマという青年は、ベナレスの北160kmにあるカピラヴァストゥにある豪奢な屋敷や美しい妻や息子を捨てて、托鉢行者になった。煩悩の惨状に驚愕しながら、彼の周囲の全てに見ることができる苦痛の存在を終わらせることができる方法を必死に探し求めた。

6年間ヒンズー僧達を訪問し、贖罪に身を置いたが、得るものは何もなかった。高僧の教義も彼に訴えるものがなく、苦行は絶望をもたらすだけであった。ある夜 実行すべき方法がすっかりなくなり、自立心を捨て無我の状態になっていたら、忽然と悟りの境地が見えてきた。

それは全宇宙が退けられ、地球が揺れ動き、天国から花々が落下し、何とも言えぬ芳香が漂い、天国にいる仏達が歓喜している世界だった。それは仏達と自然と人類が大慈悲によって一体になった世界であった。

これは煩悩からの解放に対する新たな希望であり、涅槃への到達による煩悩からの解脱であった。そしてゴータマはブッダになった。
http://meimai.cocolog-nifty.com/twgt/2010/04/post-bf1b.html


仏教の創始者であるブッダは菩提樹の下で命がけの座禅をした。 何日も何日も断食をし、不眠不休の座禅。彼は精神と肉体を極限まで追い込んでいた。 それもこれも悟りを開き、人類を救済しようという大義のためだけに。

座禅瞑想の果てにブッタは遂に魔境にたどり着いた。 そこには魔羅というとてつもない力を持つ魔界の王が居たのである。

実はブッタは悟りを開く前に魔境の支配者である魔羅(マーラー)と戦っている。 一説によれば魔羅はブッタの闇の部分と言われているが彼は見事に魔羅に勝利し己の闇を克服した。 そしてブッタは深い瞑想状態から覚醒し、見事に悟りを開いたのである。 このように悟りを開こうとするものは己の中にいる魔物と戦わなければならない。

精神分析者のユングは己の中にいる魔物をシャドー(影)と言っていた。 つまり涅槃の境地を体得したいのであれば己の中に潜む魔を退治しなければならないのである。
http://religion.dot.thebbs.jp/1070291638.html

鈴木秀子さん (国際文学療法学会会長。文学博士。)が1977年不慮の事故で臨死体験をした時の描写です。 鈴木秀子さんは 愛の極致と至福感に包まれながら 生きた光からメッセージを受け取ります。

一瞬のうちに高さの極みに飛翔し、私は今まで見たことのないような美しい光に包み込まれました。白っぽい金色の輝きに満ちた、一面光の世界にいたのです。まばゆい輝きでしたが、まぶしすぎるとは感じませんでした。

それは人格を持つ命そのものの光であり、深い部分で、自分とつながり、交流している生きた光なのでした。これが至福なのだ、完全に自由なのだ、と私は感じていました。
http://blog.livedoor.jp/seitai227/archives/51655830.html
http://blog.livedoor.jp/seitai227/archives/51656333.html

臨死体験=脳内現象説

 臨死体験=脳内現象説は、臨死体験は死ぬ間際の人間が脳の作用によってみるただの幻覚の一種だという主張です。 これに関して、1920〜1940年代にアメリカの脳神経学者ペンフィールドが行った興味深い実験があります。

ペンフィールドはてんかん患者を治療するために頭蓋骨を切り開き、どこの部位を切除すれば機能が回復するかをテストしようとしました。 このとき、ペンフィールドは電気で側頭葉を刺激すると、患者が「自分の体が浮かび上がっているように感じる」 などということに気がつきました。これを聞いて学術的興味深々のペンフィールドさん。「面白いオモチャを見つけた」とばかりに患者の脳をいじくりまくります。

ぐりぐりぐりぐり。 てんかんの治療はどうしたんでしょうか?

 まず、側頭葉のある部位を刺激すると、「浮遊体験」が感じられ、別の部位を刺激すると、「自分の魂が体から離れていっている」という感覚に襲われることが判明しました。もしかしたらこの患者だけなのかもしれないので、念のためとばかりにペンフィールドは、同様の実験を他の患者にも試し、脳をぐりぐりぐりぐり。 同じような言動をすることを確認。

 また、側頭葉のシルヴィス溝を刺激された者の中には対外離脱だけではなく、神に逢ったと主張する者もいました。

 そういえば、日本で「悪魔を祓うために体を清める」と称し、いとこを殺害して体を塩で清めたという悪魔祓い殺人事件では、側頭葉てんかんを持った男が「神の声を聴いた」と主張したのが始まりでした。 側頭葉には神様が住んでいるのかもしれません。

 臨死体験=脳内現象説の理論はこれだけではありません。 もしあなたが自転車に乗っていたら、ドカンと車にぶつかってみましょう。 あなたの人生が一瞬にして早送りで再生されるはずです。

そうです、走馬灯です。

 この別名「映画フィルム式思考」と呼ばれる、死に直前で自分の一生が一瞬で思い出されるという体験は、クスリの服用でも体験できます。 クスリの名前はセントロフェノキシンという、スマートドラッグとしてアメリカでかなり出回っている代物。 これを服用すると、突然数十年前の思い出が鮮明に甦ってくることがあるのです。

 他には、LSDなどの麻薬で体験する幻覚には、


長いトンネルの映像、
まばゆい光、
別世界の住人、
生死を問わず様々な友人や家族


が登場します。  いくつかの薬物が臨死体験に酷似した幻覚を生み出すことは以前から指摘されていました。

臨死体験が脳内物質や脳内現象による幻覚であると仮定するならば、それと同様の薬物を投与することで臨死体験と同様の体験ができ、そのメカニズムと解明されることになります。

 1980年の時点で既に、精神薬理学者のロナルド・シーゲルにより、臨死体験と薬物による幻覚の類似性が指摘され、亜酸化窒素やエーテル、ケタミン、フェンシクリジン(PCP)、ヘロインなどの薬物の名が挙げられています。

 さらに、オークランド大学のイェンセン教授は、

「人間が死に瀕したとき、脳内の神経細胞を酸欠状態から防ぐために、エンドサイコシンという物質が大量に放出される。 これが臨死体験を引き起こすのだろう」

という説を発表した。

この説はあくまでも仮説であり確証はありませんが、人間が極限状態に陥ると、脳内麻薬が発生することは昔から知られていました。 死の直前というのは究極の極限状態ですから、脳内麻薬が大量に発生し、それが脳内に幻覚を生み出すのは十分に考えられます。

 大脳酸素欠乏症説というのもあります。

 肉体が危篤状態になったり、ほんの一瞬でも心臓が止まると、大脳の酸素が欠乏します。 この大脳酸素欠乏は、短時間であっても重大な損害を脳に与えます。

 この大脳酸素欠乏状態に陥ったとき、最初に幸福感や全能感がやってきて、
さらに酸素欠乏が進むと現実判断能力が失われ幻覚が生じます。  日本の武道の場合、柔道の絞め技などで「おちる」瞬間は非常に気持ちいいと言われています。

 これらは、直接 臨死体験=あの世 を否定するわけではありませんが、人間の脳に刺激を与えたり、ドラッグを服用することで擬似的な臨死体験をすることができるのは事実です。
http://psychology.jugem.cc/?eid=19


ドラッグの場合、幻覚にすぎないと本人も自覚していますが、「瞑想」の場合には、自分が「悟り」を開いた、と勘違いをして舞い上がってしまう人がおおぜいいます。
・・・・・・これは、とても危険な状態です。・・・・・・

 本格的に舞い上がってしまうと、そのまま精神病になってしまうことがあります。  新興宗教の教祖には、この程度のレベルで徹底的に舞い上がって、しかも精神がおかしくなっている人がおおぜいいます。

そんな教祖でもそれなりにカリスマ性があり、常人より「超能力」が高く、たとえば「手かざし治療」ができたりしますが、入信した人はえらい目にあうのがオチでしょう。

 ユングは、この危険性について、次のように述べております。

――― 人間が「無意識」を経験することは、本当に素晴らしいことなのですが、そこにはひとつの大きな危険性が立ちはだかっております。

 ヨーガの修行が進むと、人はいろいろと不思議な体験をします。こういった体験を自己と一体化するのを避けて、あたかも人間領域の外側にあるかのように扱うのが賢明でしょう。 もし同一化すると、あなたは魂の膨張(一種のエクスタシー的昂揚状態)に陥り、まったく道を誤ってしまうでしょう。 膨張というのは、まさしく小さな形の狂気、狂気の緩和された形なのです。

 そして、もしあなたが、完全な膨張状態まで燃え上がってしまうと、精神分裂病になります。瞑想によって見えるものも、また霊能力によって見えるものも、その見えたものに固執することはとても危険なことである。
http://sakuragainouta13.seesaa.net/archives/20060819-1.html

脳を分析しても”真我(アートマン)”の実体(実態)は出てこない。 出てくるのはせいぜい脳の一部の刺激によって記憶が消えたり(”私(自我)”という記憶が消えたり)現われたり、色や音を感じたり、幻想を見たり、怒ったり、泣いたり、不愉快になったり、快楽を感じたり、等、生命の個々の属性が現われたり消えたりするだけだ。

瞑想や荒行、座禅、護摩、加持祈祷、他力、等で”悟り”といわれるもののほとんどはこの手合いで事前に本や教科書や先輩や師匠などから吹き込まれた段階的な”悟り” と称するイメージを幻想として見て、”私(自我)”も悟ったと錯覚しそれをまた後輩に吹き込むということを繰り返して広まってゆく。

特にこれらで得られる快感は脳に対する無理で不自然な刺激よるので薬や催眠の中毒と同じように慢性化し (癖になり)、特定の音楽を聴いたり特定の匂いや視覚やしぐさ等で容易にはまり込んでしまうし、その快感を求めて再びはまり込みたくなってしまう (常習化する)。

極端になるとヨガ等の経典に出てくる空中遊泳とか物体の素通りだとか透明になるとかのいわゆる荒唐無稽な”通力”を本当に信じこむようになり極度のトランス状態(脳の痙攣)にまでなって、飛び跳ねたり手足をバタバタさせて、はたから見ると異常だが当人にとっては快感となっている。

この快感は極度の運動 (祭りやスポーツ等)などで得られるもの(いわゆる”真っ白になる”)と何ら変らないものだが、極度のトランス状態のもとでは脳に対する無理な作用、不自然な刺激によるものなので薬物と同様、後遺症、精神的副作用(人格、精神異常、意識障害等)などを伴う。

__________


何処までが正気でどこまでが狂気なのか、この判断はむずかしい。

まるでメビウスの輪のように、正気と思って走っているうちにいつのまにか、狂気になっていたり、狂気な行動が後世に正気として評価されたりするからだ。

狂気を演出する、これは正気でなければできない。

正気と思いつつも、いつのまにか狂気の世界に入り込んでしまうこともある。一般大衆の思考から離れてしまう。

それが、100年先の考えであれば天才であり、単に少し離れただけなら変わり者か変態で終わるが、接点が無くなるほど離れてしまい一般大衆と永遠に交われなくなれば、人はその人を狂人と呼ぶ。

信仰というのは怖いもので、最初正気ではじめたのが信仰がすすむにつれていつしか強信ならず狂信の世界に突入する。

やがて拝んでいるうちに祈祷性精神病になる。


真言密教の坊主には頭の狂ったのが圧倒的に多いがその理由は不思議な超能力を身につけるべく行う、求聞持聡明法・日輪観・月輪観・加持祈祷などにある。祈りをかけて祈りを叶えようとすると、祈りが叶えばそれでよいが、もし叶わざる場合には自分が壊れてしまうのだ。


熱心に祈り続けると、あるとき突然にお客様が”おいで”になる、

そうすると一人で泣き出す者、飛び跳ねる者、にやにや笑い出す者、

もうあっちの世界に飛んでしまったのだ。

こっちの世界にそれでも、もどれる者もいるが戻れなくなる者もいる。


禅の修業でも勝手に座禅などやると、現実と空想の区別がつかなくなり、あっちとこっちの世界の間に彷徨うことになる。これを空病という。

導師とはこのことを良く知り、現実に引き戻してやるための存在なのだ。
現実に戻さないでさらに背中を押してあっちの世界に追いやるのが悪の宗教であり、邪教なのだ
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/53904826.html


124:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 17:52:41 ID:otuwJkA3

気功やヨガは自己流でやるのは本当に危険だ。

私は脳波の研究で、健常者や精神分裂病、気功前と気功後の脳波の違いを比較する作業を行っていた
(苦痛で1年でやめたけどね)

禅病(瞑想時の魔境)にかかっている人の脳波は、精神病患者の脳波に限りなく近くなっている。

指導者が偏差や禅病の知識と対処法を教えることが必要だ。
ヨガにいたっても同じこと。

身体と精神面での準備が出来ていない状況でクンダリニーが上がってしまうと着実に精神異常をきたすよ。
http://2chnull.info/r/kampo/1149962009/101-200

つまり、幻覚剤や宗教やジャズ・ロックには深入りしない方がいいという事ですね。

クラシックでもそうですが、大音量でクラシックを聴く事自体が音楽の事を理解していない証拠なのです。 間違ってもジャズ喫茶で使っている様なスピーカーは家庭に持ち込んではいけないのですね。

居間で38cmウーハーのスピーカーなんか使っているのはアホだけでしょう。 あの凄まじいフォルティッシモで有名なフルトヴェングラーやクナッパーツブッシュもカラヤンやバーンスタインやショルティよりはずっと小さな音しか出さなかったんですね。 演奏の凄まじさや壮大さと音量とは全く関係が無いという事です。

一方、ジャズやロックは耳を劈く大音量で聴かないとジャズやロックになりません。 トランス状態に入るのを目的とする音楽だから仕方無いですね。


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7. 中川隆[-11485] koaQ7Jey 2020年9月06日 07:04:21 : bXh6dKqu12 : dEhkWndCcGVoLmM=[14] 報告
宇野功芳の音盤棚
unauの無能日記 A
https://www.kinginternational.co.jp/uno/000017.shtml
 あーあ、怠け者(unau)は辛い。こんな原稿書くのも面倒くさくて仕方がないんだけど......。キングインターナショナルの社長はおっかないからな。読み終ったばかりの青木やよひ著「ベートーヴェン〈不滅の恋人〉の探究」(平凡社ライブラリー)のことでも書いてお茶をにごそうか。

 青木やよひさんはもう80歳という高齢だが、20代の頃からベートーヴェンの《不滅の恋人》への手紙の研究を始め、ほとんど全生涯を恋人の特定のために費やしたといってもよい。その努力には本当に頭が下る。

 ベートーヴェンぐらい楽聖という言葉に相応わしい人もあるまい。ぼくはモーツァルトもブルックナーも大好きだが、畏敬の気持はベートーヴェンがいちばん強い。ロマン・ロランが書いた伝記を夢中になって読んだ若い日。トスカニーニとフルトヴェングラーの《第五》を友人たちと聴き比べながら論争をした高校生時代。いずれもなつかしい思い出だ。


 ベートーヴェンの死後、彼自身が書いた宛名不明のラヴ・レターが3通、秘密の引き出しから発見された。年号はなく、「7月6日 朝」「7月6日 月曜日 夜」「おはよう 7月7日」だけ記され、その第1信は「私の天使、私のすべて、私自身よ」という熱烈な呼びかけで始まっている。そして第3信の最初に書かれた"わが不滅の恋人よ"という文章によって、《不滅の恋人への手紙》と呼ばれるようになった。


 ロマン・ロランは恋人を伯爵令嬢テレーゼ・ブルンスウィックと断定し、二人はひそかに婚約した、と書いているので、ぼくなどはすっかりその気になり、若い頃、講師をしていた高校の音楽の授業でもそのように教えていた。


 しかし、ロランは後にこれを否定し、その後は「月光の曲」を捧げたジュリエッタ説、「エリーゼのために」を捧げたテレーゼ・マルファッティ説などが入り乱れていたが、20世紀も半ばをすぎた1957年、ベートーヴェンが前記テレーゼ・ブルンスウィックの妹ヨゼフィーネに宛てた13通の恋文がファクシミリとして公表されたのである。
書かれた年代は1804年から07年末までの4年間にわたっており、俄然ヨゼフィーネ説が有力になった。彼女は1799年にダイム伯爵と結婚、4人の子供を産んだが、夫は1804年に急死、1810年、今度はシュタッケルベルク男爵と再婚した。ベートーヴェンと恋愛関係にあったのはその間ということになるが、ヨゼフィーネは男爵との間にも3人の女の子をもうけた。ショッキングなのは、1813年4月8日生まれの3女ミーナがベートーヴェンの子である、という青木やよひ説である。


 では不滅の恋人がヨゼフィーネか、といえばそうではない。恋人探索の決め手は、ラヴ・レターに書かれた「7月6日 月曜日」という日付である。
ベートーヴェンの生涯で7月7日が月曜日に当るのは1795年、1801年、1807年、1812年、1818年であり、その年の夏の彼の滞在地を調べれば年月日を特定できる。ベートーヴェンはウィーンからかなり遠い湯治場でこの手紙を書き、その宿泊地から定期的に郵便馬車が出ている湯治場Kに居る恋人に出した。ベートーヴェンは大雨によるぬかるみの中を馬車に乗ってやって来たことが手紙の内容から分る。


 青木やよひさんはベートーヴェンが手紙を書いたのはボヘミアのテプリッツであると推測、そこから程近いカールスバート(K)に出したのだという。青木さんは何度も現地に足を運び、ホテルを探し、宿帳にベートーヴェンの名前を発見、カールスバートでも恋人の名前を発見、さらに当時同地に居たゲーテの日記に、同地方が豪雨だったことが記されていたことも知った。

 まことに推理小説を読むように面白い。はたして青木さんが推測した《不滅の恋人》とは?

 ベートーヴェンが1812年9月末か10月初めに書いた日記に、「おお神よ! 私に自分に打ちかつ力をあたえたまえ。......このようにして、Aとのことはすべて崩壊にいたる......」とあるが、このAこそ恋人のイニシャルであり、その名前はアントーニア・ブレンターノ。銀行家フランツ・ブレンターノ夫人で、当時32歳(ベートーヴェンは42歳)、二人はひそかに愛し合い、イギリスに永住する約束を交わしていた。アントーニアの名前が今までまったく無視されていたのは、それだけ慎重に二人が秘密をかくし通していたからだという。そういわれればその通りだ。


 だが運命はベートーヴェンにとって、あまりにも過酷だった。ほとんど別居状態だったアントーニアと夫フランツの間には別れ話が進み、その最後の話し合いのとき(5月28日のアントーニアの誕生日)、別れの契りで子供を宿してしまった。そのことを告白されたベートーヴェンが、動転している恋人に書いたのが、例の3通の手紙であるが、ベートーヴェンの方にも思いもかけぬ事態が起こってしまったのだ。

 同じ年の6月、前記ヨゼフィーネの夫シュタッケルベルクが家出し、6人の子供たちとともにウィーンに取り残された彼女は、生活費にもこと欠いてベートーヴェンに助けを求めに行ったが、同情した彼がヨゼフィーネと一夜をともにし、できた子がミーナだったと青木さんは考えたのだ。
それは彼女の姉テレーゼが「子供に備わる神性」という言葉を使っていることからも明らかで、この事実をベートーヴェンは9月末か10月初めに知り、運命の過酷さに絶望し、次に自らを断罪し、アントーニアとのこと、いっさいをあきらめたのだという。

 なんという皮肉な現実!《Aとのことはすべて崩壊にいたる》。あまりの精神的打撃によって病気がちとなり、創作力も衰えてしまったベートーヴェン。そして数年後、見事に立ち直り、ピアノ・ソナタ「作品109」「作品110」「作品111」、歌曲集「遙かなる恋人に寄す」をはじめとして、曲の随所にアントーニアへの想いを昇華した形で封じこめたわれらがベートーヴェン。

 若しも彼が愛する人とイギリスに渡り、幸せな家庭を築いたとしたら、われわれには果たして「第九」や「ミサ・ソレムニス」や後期の弦楽四重奏曲の数々が遺されたかどうか。おそらくは作曲されなかったのではないだろうか。

unau 記
2018年4月11日

https://www.kinginternational.co.jp/uno/000017.shtml

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