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鉄舟寺の由来
鉄舟寺はもと久能寺といい、今の久能山にあって、およそ一千三百年の昔、推古天皇の時代、国主久能忠仁公によって
創立せられ、奈良朝の初期、行基菩薩が中興せられた。
当時坊中三百六十、宗徒一千五百人もあり、豪勢をほこっていた。又鎌倉時代以後の貴重なる文献や、仏像、仏画、納経
什器等数々の宝物が今日まで寺に残されてある。
降って武田信玄が今川氏を攻略し駿河に入るに及んで久能の嶮要に築城することとなり、天正三年(1575)現在の場所に
移されたのである。後武田氏は滅ぼされたが、徳川幕府も古来からの名刹久能寺を愛護し御朱印地を賜った。
世が改まり明治御一新となるや、その混乱の中で長く栄えた久能寺も次第に散乱し、住職もない廃寺となってしまったのである。
幕末の俊傑、山岡鉄舟はこれを惜しみ、再興せんことを発願し、仮本堂に今川貞山師を迎えて開山とし、広く寄進を募ることにしたのである。
明治十六年(1883)鉄舟四十八歳の時である。鉄舟は募金のために、沢山の書を揮毫して侠客清水次郎長に与えた。次郎長も大いに奔走した。
この時次郎長のために書いた募金趣意書が、鉄舟の手控帳の中に記されている。
「鉄舟寺庫裡建立墓縁山本長五郎簿」
寺を建てても何もならぬ。親を大事にしてもなんにもならぬ。わが身を大事にしてもなんにもならぬ。なんにもならぬところを能く能く観ずれば、
又、何かあらん。山本長五郎御往時を考えここに尽力することあり、諸君なんにもならぬ事を諒察あらば多少の喜捨あるも又、
なんにもならぬ何かあるの一事也」
明治二十一年二月 山岡鉄舟しるす
ところが、鉄舟は明治二十一年七月五十三歳で惜しくも此の世を去り、鉄舟寺の完成を見ることが出来なかった。
清水の魚商、柴野栄七翁は元来信仰の篤い人であったので、鉄舟の意志をつぎ、幾多の困難を乗り越え、
明治四十三年三月十日鉄舟寺の完成を果たしたのである。
かくて名刹久能寺は蘇り、清水の霊場鉄舟寺は永久に伝わることになったのである。
山門 鐘楼
今川貞山像 山岡鉄舟像
山岡鉄舟墓(東京にも自ら創建した「全生庵」台東区にも墓がある)その横にある句碑
「晴れてよし曇りてもよし不二の山もとの姿はかはらさりけり」
国宝・重要文化財
国宝・紙本墨書法華経(久能経)永治元年(1141)鳥羽上皇ご出家の折
上皇を中心とした当時の栄華を誇った藤原一門の手により書写されたもので
鳥羽の安楽寿院に納められてあったが、後に駿河国久能寺に移された。
当初三十巻のものが途中散逸し、個人のもの八巻紛失したもので鉄舟寺に
あるのは十九巻である。信仰を趣味化した藤原調をよくだしており料紙には
金・銀の切箔子を散らし謹厳に墨書してあり、表紙、見返りにも華麗な模様や
装飾文様が施してあり荘厳経として厳島の平家納経と並び天下の逸品と称され
ている。
新羅三郎義光伝来薄墨笛
悲劇の武将源義経が牛若丸時代から愛用したといわれる横笛。七百年の風雪に耐えて奏者を得ればいまにさえた音色を惜しむところがない。
駿河国新風土記の久能寺の条に「源義経所持薄墨の笛、此笛蝉(笛につく装飾金具)なし中村式部少輔再興、笛の頭に金にて村の字を置り」とある
また駿国雑誌巻二十九上有度郡の条に「義朝朝臣の常に手馴持玉ひし漢竹の蓬調の薄墨と名付けたるを常磐の方より御曹司に伝え置れしを
身を放たず携玉ひ」また「浄瑠璃姫別れの悲しみにたえず終にむなしくなれり。母は姫の年ごろ携る所の器物を蓬莱寺に納め薄墨といえる笛は
駿河国有度山久能山に納玉云々」と記されてある。さらに笛の添え状には、薄墨の増えがそこなわれていたので文禄四年(1995)に
駿河国城主中村一氏式部小輔が補修したという記録がある。
これらによりこの笛は新羅三郎義光伝来のものが源義朝〜常磐御前〜義経〜浄瑠璃姫〜久能寺と伝わったことがわかるのである。
その他重要文化財の錫杖(康治元年九月八日久能寺念空の銘あり、八百年前のもの)
県文化財・市文化財・寺宝・古文書など多数ある。
鉄舟寺と次郎長
清水の次郎長・山本長五郎が幕府の残党咸臨丸壮士の墓をたてて以来
鉄舟に任侠を認められ「精神満腹」の書を贈られるに至って大得意、屡々鉄舟
先生の邸にも伺うようになった。随って鉄舟寺建設にも一肌脱ぐこととなり、
人夫を繰り出したり、土工を督したり、伊豆の国から舟で巨石を取り込んだりなど
した。今、方丈の礎石になっているものがそれだということである。
寺の裏山から見る清水のみなとと富士の山
山上にある千手観音堂と芭蕉の句碑
松尾芭蕉の「雲霧の暫時百景をつくしけ理」の句碑が裏山の観音堂の前にあります。
この句は天和3年(1683)の秋芭蕉が甲斐に遊んだ時のもので
雲や霧で見え隠れして、しばしの間にいろいろ変化する
富士の景色のすばらしさをたたえています。
この碑は芭蕉の没後145年の天保10年(1839)芭蕉十哲の一人服部嵐雪が興した雪中庵の
5世大嶋対山社中と付近の俳人たちが建てたものです。碑の裏側にはこの碑を建てた俳人たちの
俳句が58句も詠まれていますが
100年余も経ているため読めない文字もたくさんあります。
久能寺
この久能山の頂上に約1500年前にできたのが久能寺であります。推古天皇の御代(592〜628)秦川勝(はたのかわかつ)の二男(或いは子)久能(ひさよし)或いは久能忠仁(くのうただひと)が創建し後に僧行基の作った千手観音を安置し補陀落山(ふだらくさん)久能寺と称したと伝えられる。
その後、僧行基をはじめ多くの名僧が相次いで来たり建物も三百三十坊も建てられ非常に隆盛を極めたが嘉永年間(1225年頃)山麓からの失火によって類焼し昔の面影はなくなりました。
永禄十一年(1568)武田信玄は久能寺を近くの北矢部(清水市)現在の鉄舟寺に移し久能山上に城砦を築き久能城と称しました。
天正十年(1582)武田氏は滅び、駿河一帯は徳川氏の領する処となったので久能城も自然徳川氏のものとなりました。
久能寺は山寺形式であること、千手観音信仰などから見ても、千余年前、秦氏が栄えた頃創建したものと考えても違いないと思われる。尚、この寺の鎮守十二所権現の観請札で康平五年(1062)の年号を記したものが清水鉄舟寺に残っているそうである。
初めは、天台宗で、養老七年(723)行基菩薩が駿河に来て、足久保の法明寺の楠の大木で七体の観音を彫刻し付近の七寺(足久保の法明寺・慈悲尾の増善寺・服織の建穂寺・大内の霊山寺・向敷地の徳願寺・平沢の平沢寺とこの久能寺)に安置したといわれる。この久能寺の観音の胎内に納めた金の観音は伝説によると
金の霊像
秦の久能(ひさよし)は元来信仰の厚い人で朝夕仏を礼拝し「どうぞ千手観音のお姿を拝ませてください」と祈った。ある夜一人の老翁が夢の中に現れ「汝が正身の観音像を拝みたいならば、駿河国有度山に赴き浦風の吹く時を待て」と告げた。久能は夜が明けると、共も連れず教えられた山に行って、あちこちさまよって尋ねた。陽が入ると獣の棲む穴に身を隠し、一心に観音を拝ませていただきたいと祈念した。松を吹く風に夜も更けわたり淋しさは身に迫った。やがて思わずトロトロとまどろむと、先夜の老翁が現れ「我れはこれ布堕落山の僧である。汝の信心を賞で正身の観世音を授ける」と云ったと思うと目が覚めた。
これは夢かと驚いて身を起こすと、洞穴の正面の樹木の枝に光り輝くものが懸かっている。さてはと飛んで行き、手にとって見れば、御丈け10センチほどのエンブダゴン(金無垢)の千手観音の御像であった。久能は喜んで押し頂いた。
それから、この山に堂宇を建立して、この霊像を安置した。のちに行基作の観音尊像の胎内にこれを納め大伽藍を建てて安置し奉り山号を「不堕落山」と号し、寺号を「久能寺」と名ずけたというのである。
また一説には、猟師がこの山中で鹿を追っているうちに、奥山に踏み入り、はからずも正身の観音を拝し、発心して修行し、この山に寺をつくって観音を祀ったともいわれる。久能寺の山号を不堕落山と称するのは、観音大士の住処を意味するからである。此の秦の久能(ひさよし)の墓は「久能山坊中の玉泉院の裏にあり」と古書にある。今、久能神社として石造の少祠が東照宮の境内(神厩の後方)に祀られている
その後隆保上人が衰微した寺を再興し、経蔵、宝塔、鐘楼、中門、二王堂、食堂、浴室などを完備した。
次に伝教大師が比叡山に天台宗を開き、その法弟たちが駿河に下り久能寺は栄えた。朝な朝なに護摩の煙は山上にたなびいて、海の魚も仏縁を結び、夕には鈴の音、読経の声が雲の上に響き、天人の五衰の夢をさました。晴嵐は梢を鳴らし松風は窓を叩く、常行三昧の道場、不断の念仏を怠らなかった。
http://www.asahi-net.or.jp/~kw2y-uesg/jiin/kunouji/kunouji.htm
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