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小説家は、何故、小説を書くのでしょうか?
もちろん、人に依って、その答えは色々でしょう。しかし、多くの場合、小説家が小説を書く動機は、自分が体験した感情を、或いは光景を、読者と言ふ名の他者と共有したいからであると、私は思ひます。
小説家として、彼が天才であった事は論を待ちませんが、彼も又、自分が体験した感情を、或いは見た光景を、他者と共有する為に小説を書いた一人であった証拠が、彼が最後の日に書いた文章の中に在るのではないか?と、私は、思ひます。
彼が、その死の日に完結したと見られる小説『豊穣の海』の最後の部分を、ここで、もう一度お読み下さい。
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一面の芝の庭が、裏山を背景にして、烈(はげ)しい夏の日にかがやいている。
「今日は朝から郭公(かっこう)が鳴いておりました。」
とまだ若い御附弟が言った。
芝のはずれに楓を主とした庭木があり、裏山へみちびく枝折戸(しおりど)も見える。夏というのに紅葉している楓もあって、青葉のなかに炎を点じている。庭石もあちこちにのびやかに配され、石の際に花咲いた撫子(なでしこ)がつつましい。左方の一角に古い車井戸が見え、又、見るからに日に熱して、腰かければ肌を灼(や)きそうな青緑の陶(すえ)のとうが、芝生の中程に据えられている。そして、裏山の頂きの青空には、夏雲がまばゆい肩を聳(そび)やかしている。
これと云って奇功のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠(じゅず)を繰るような蝉(せみ)の声がここを領している。
そのほかには何一つ音とてなく、寂莫(じゃくまく)を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。・・・・・
『豊穣の海』完。
昭和四十五年十一月二十五日
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(三島由紀夫『天人五衰』(新潮文庫第46刷)341〜342ページより)
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この末尾に記された日付け(昭和45年11月25日)は、彼が市ヶ谷で自決した日です。つまり、この日付けが事実であるなら、三島由紀夫は、その日の早朝か未明に、この小説の最後の部分を書き上げたのだと思はれます。
上の、この作品の末尾の部分を、私は、何度読み直したか分かりません。私は、必ずしも三島由紀夫の文学に心酔して来た訳ではないし、『豊穣の海』四部作の全てを称賛する読者でもありません。しかし、四部作の最後の小説である『天人五衰』のこの最後の箇所だけは、本当に、何度読み返したか分かりません。その理由は、この日付けが、私自身の人生の一日だからです。
この日(昭和45年11月25日)、私は中学生でした。そして、この日に自分がして居た事をとても良く覚えて居るのですが、この作品の末尾に記されたこの日付けを見る度に、私は、ここに、自分の人生の一日が記されて居る様な気持ちに成るのです。
この小説のこの箇所を読む度に、私は、あの年の自分の事が、或いは、あの年の自分が生きて居たあの時代に引き戻される様な錯覚を覚えるのです。その錯覚が、私をして、この箇所を何度も読み返させて来たのではないかと思ひます。
その『豊穣の海』の最後の部分である上の情景は、この小説の主人公と呼ぶ事も可能な本多が、癌に侵され、死を目前にしながら、親友の恋人であった尼僧を尼寺の訪れながら、その尼僧から余りにも意外な言葉を聞き、呆然とした後、その呆然とした感情の中で、訪れたその寺の庭を見つめ、見た物を描いた情景です。
そこで印象的なのは、「夏の日ざかりの日」が、「何も無い庭」に降り注いで居ると言ふ描写ですが、最近、私は、この情景には、重大な意味がこめられて居たのではないか?と考える様に成ったのです。
それは、少し前の事ですが、インターネットで、或るサイトで見た、生前の三島由紀夫のインタビューの中に、この小説のこの情景が描いて居るのは、彼のこの記憶ではなかったか?と思はせる回想が有ったからなのです。
(クリックして下さい)
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これは、昭和40年(1965年)、つまり、彼が自決する5年前に撮影されたと見られるインタビューですが、この中で、彼は、こんな回想を語って居たのです。
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終戦の時、詔勅(しょうちょく)は、親戚の家で聞きました。都内から離れた所に家族が疎開して居て。終戦の詔勅については、感動を通り越した空白感しか有りませんでした。今まで自分の生きて来た世界が何処へ向かって行くのか?それが不思議でたまらなかった。戦争に負けたらこの世界が崩壊する筈であったのに、まだ周りの木々が、濃い夏の光を浴びて居る。それを普通の家庭の中で見たので、周りに家族の顔も有り、ちゃぶ台も有り、日常生活が有る。それが不思議でならなかった。
(中略)
頂度、昭和40年41歳の私は、20歳の時に迎えた終戦を自分の人生のめどとして、そこから自分の人生がどう言ふ展開をしたかを考える一つのめどに成って居る。これからも何度もあの8月15日の夏の木々を照らして居た激しい日光。その時点を境に一つも変はらなかった日光は、私の心の中に続いて行くだろう。
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お読みの通り、これは、三島由紀夫が、昭和20年(1945年)8月15日、終戦を迎えた日の回想です。
その時、彼が見た物は、「戦争に負けたらこの世界が崩壊する筈であったのに、まだ周りの木々が、濃い夏の光を浴びて居る。それを普通の家庭の中で見たので、周りに家族の顔も有り、ちゃぶ台も有り、日常生活が有る。それが不思議でならなかった。」と言ふ夏の日差しを浴びる木々の光景だったのです。彼は、その光景が不思議に見えて仕方が無かったと、死の5年前のこのインタビューで語って居たのです。
三島由紀夫は、昭和20年8月15日に味はった「不思議でならなかった」と言ふ夏の日の精神体験を、この小説のどんでん返しとも言ふべき本多の体験として、読者に共有させようとしたのではなかったのでしょうか?−−自身が自決する日の朝に書いたこの情景において。
この小説のこの最後の場面は、若き日の三島由紀夫が終戦の日(昭和20年8月15日)に見た夏の日差しの光景を描いた物に違い無いと、私は、確信します。
平成二十三年十一月二十五日(金)
三島由紀夫の命日に
西岡昌紀(内科医)
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日本一過激な75歳!? 巨匠・若松孝二監督が三島由紀夫の割腹自決を鋭く描く
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(Movie Walker - 11月20日 13:31)
1970年11月25日に防衛庁内で衝撃的な自決を遂げた三島由紀夫役にARATAが挑む/[c]若松プロダクション
寺島しのぶが第60回ベルリン国際映画祭で最優秀女優賞を受賞した『キャタピラー』(10)など、近年の作品が世界的に高く評価されている鬼才・若松孝二監督。自作『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(08)でも起用したARATAを主演に据え、寺島しのぶや満島ひかりの弟、満島真之介を共演に制作した新作『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』(2012年初夏公開)が完成し、その完成披露上映会が三島由紀夫の命日である11月25日(金)に行われる。
【写真】三島の妻を演じるのは名女優の寺島しのぶ
若松孝二監督と言えば、ヤクザの下働きなどを経て映画界入りした超異端児。キャリアの初期にはピンク映画の世界で活躍し、ポルノメディアの枠組みを大きく逸脱した革新的な作品を発表してきたことで知られている。近年では一般作の公開が相次ぎ、再評価の機運も高まっている彼だが、常にオルタナティブな価値を提示し、既存の体制に異を唱え続ける姿勢に変化は一切ない。
そんな若松監督が作品のテーマに三島由紀夫を選んだというのは、とても意義深いことのように思えてならない。というのも、三島由紀夫という人はまさにオルタナティブでアングラな文化に寄り添いながら、既存の体制に異を唱え続けた人間だったからだ。本作は三島が民兵組織「楯の会」を結成し、壮絶な割腹自殺を遂げるまでを描いた作品だが、その背後に若松孝二自身の生き様を重ねて見ることも決して間違いではないだろう。
本作に続いて、早くも次回作『海燕ホテル・ブルー』を完成させ、高良健吾や寺島しのぶ、さらに山本太郎と高岡蒼甫を起用するといわれる最新作『千年の愉楽』の撮影も開始した若松孝二監督。日本一アグレッシブで過激な75歳の“反逆”は、まだまだ終わることがなさそうだ。【トライワークス】
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