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昨日の記事「藤原(中臣)鎌足記事は金ゆ信の記録を改ざんしたもの」からの続きです。
< http://bian.in/manase8775/taikarefom.html >
「日本書紀皇極紀」は、α群(記録者は唐人)と云って、「紀」では、最初に書かれたものです。観14と同時にスタートして共に唐人により、正格漢文で記録された。(森)内容は、彼らが考えたものではない。
ここでは、「蘇我氏が国政を欲しいままにし、多くの無礼を行った。王でもないのに等」と非難した皇室の上宮(大郎姫王)家を滅ぼした記事がある。
続いて、皇極天皇二年(六四三)十一月丙子朔
山背大兄王らを斑鳩で襲(掩)った。山背大兄は、一旦、生駒山に避難したが、また斑鳩に戻ったのだが、山背大兄は「戦になって百姓を殺傷したくない」と言って、皆で焼け死んだことになった。(美談)
上宮聖徳法王帝説』では厩戸皇子(聖徳太子)の子であるとされるが、『日本書紀』で東宮・聖徳という言葉を使っていない。上宮太子・皇太子である。(皇太子豊聡耳尊トヨトミミミコト・舒明紀)
厩戸皇子は(621)推古29年[i]に斑鳩で亡くなっていることにしてある。「太陽や月が輝きを失くし、天地が崩れた」との誇大表現である。なぜ、このようなことになるか。(これらは、言うまでもなく創作であるからだ。β群推古紀は、後年、倭人習を持った方が書いたことが判明している)さて、この後、「入鹿がバカ息子でトンデモナイことをしでかした。お前の身命も危うい」というのが蝦夷の言葉だ。
<蘇我大臣蝦夷聞山背大兄王等惣被亡於入鹿。而嗔罵曰。噫、入鹿極甚愚痴。専行暴悪。爾之身命、不亦殆乎。>
このあたりから、中臣鎌子が登場してくる。[ii] 鎌子は、人となりが、忠正で、乱れを正して救う心があった。入鹿が社稷(国家)の隙を窺うので賢主を探し、心を中大兄に寄せたが近づけなかった。
偶然、鎌子が蹴鞠の仲間に入って中大兄に近付き、「鞠を打った」際に皇子が落とした履を拾い、跪いて差し出したことをきっかけに親しくなり、親交をするようになった。中大兄は、同盟者、蘇我倉山田麻呂娘(妹)を妃とした。(昨日の記事では長女と誤記しました)この蹴鞠自体この時代にはなかったと云われる。[iii]
「鞠を打った」際に皇子が落とした履を中臣鎌足が拾ったことをきっかけに親しくなり、大化の改新に繋がったと喧伝されたが、ここまででも、かなり強引なストーリー立てでないでしょうか。
厩戸は621年に亡くなったことになっている。天地が崩壊し、太陽も月も輝きを失くしたなどとは、621年には、科学的にいってもないことだし、643年山背大兄は、斑鳩寺で焼死したとあるが、これも架空のことにすぎない。これらを聖徳太子に仕立てるにはあまりにも酷な展開だ。ここ643年に登場する冠位12階も疑惑大だ。(阿毎多利思北弧(矛)朝廷のものであるのは、疑いの余地がない。本来なら天足彦とでも推古紀に載せてあればいいものを)
出典等、詳細は、http://bian.in/manase8775/で
[i]《推古天皇二九年二月 半夜厩戸豊聡耳皇子命薨于斑鳩宮。…日月失輝。天地既崩。…
[ii]中臣鎌子から鎌足となり、最後は藤原鎌足となる。
[iii]ウィキ「蹴鞠」
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