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過った「政教分離」論が道徳を崩壊させる「白い共産主義」の革命戦略(日本政策研究センター)
2004年6月26日(土曜日)
過った「政教分離」論が道徳を崩壊させる「白い共産主義」の革命戦略
日本政策研究センター所長 伊藤哲夫
一年以上も前のことになるが、産経新聞の投書欄に「心の乱れの根源は宗教疎外」との、少年院面接委員を務めておられる方の意見が掲載されたことがあった。
多くの少年と一対一で面接してきたが、生き物を殺さない、盗みをしない、ウソをいわない、などといった人間として最も基本的なことを、親からも学校の先生からも聞いたことがないという子どもが実に多いというのである。
その上で、これは仏教でいう五戒の教えに当たるが、これが教えられないということは昨今の宗教疎外の風潮に原因があり、これに対しては正しい宗教心(この方の場合は仏教)を再生するほか、子どもたちの心を取り戻す道はない、とこの方は結論づけておられた。
まさにその通りだと同感したついでに、何年か前に富山県の学校で起こった「合掌」事件のことを思い出した。富山県の学校ではそれまで給食の時間には「合掌」という号令がかけられ、生徒たちが一斉に両手を合わせるという作法が実践されていた。
それにある父兄が「憲法違反」だと異議を唱え、それがきっかけとなって富山市の学校ではこの号令が廃止されることになったのである。以後、生徒たちは頭を下げたり、あるいは個人的に合掌したり、それぞれの形で食べるようになったという。なんとつまらないことをするものか、と憤激すると同時に、そんな抗議を突っぱねることさえできなかった関係者に、心から失望したことを思い出したのだ。
ちなみに、これには後日談があり、朝日新聞の菅原伸郎記者がこの事件後、県内を教育関係者や宗教関係者の感想を求めて取材に回った現場レポートを書いている(『宗教をどう教えるか』朝日選書)。それによると、宗派を問わず多数の教育関係者や宗教関係者が、この富山市の合掌廃止の措置を残念がっているというのだ。富山市とは異なり、以後も合掌の指導を続けているという能登地方のある学校教師は、こういったという。
「合掌は仏教だけの作法ではありません。クリスチャンだって、食事の前には手を合わせますよ。宗教の違いを超えた、感謝の表現ではありませんか。ブッダの伝記に触れることも、憲法が禁止する宗教教育とは思いません。尊敬できる人間として、そのエピソードを教えることは、悪くないはずです」
また、魚津市のカトリック教会の司祭は次のように述べたという。
「キリスト教の祈りに決まった型があるわけではありません。指を組む人も、指を伸ばして合わせて祈る人もいる。…だから、合掌に違和感はまったくありません。この辺りは浄土真宗が強くて、キリスト教はいずれの教会も苦戦していますが、宗教心のあつい北陸の風土は貴重です。…一部からの批判に流されることなく、学校は『声なき声』にも耳を傾けてほしいですね」
この菅原記者はこうした様々な感想を紹介しつつ、自ら自問自答した胸中を次のようにもまとめている。朝日の公的見解に自らを同化できない率直な感想がここにはある。
「何のあいさつもなく、がつがつと食事を始めるよりも、…両手を合わせてから箸に手をつける人間の方が、美しく、奥ゆかしく思われる。北陸に住む人たちが大切にしてきたことの方が、もしかしたら正しいのではないか、という思いはなかなか捨てられない」
さて、これが常識的なものの考え方ではないかというのが私の感想でもあるのだが、しかしご存じの通り、そうはいかないのがこの国の現実でもある。
何かといえば「憲法二十条」が出て来、「政教分離」だといわれると大方の人は黙ってしまう。しかし、こんなことでいいのかという話なのだ。人間社会の根源には倫理道徳があり、その倫理道徳の更に根源には一宗一派にかかわらない宗教心の土台がある。
それを否定してしまえばその社会の倫理道徳は無力化する他なく、結果的にはその社会は崩壊する他ないともいえる。既にその兆候が、子どもたちの非行増加という形で現れているのではないか、というのが冒頭の投書子の指摘でもあった。
ここで結論――ということになるのだが、
私は最近「白い共産主義」の脅威ということを考えている。
レーニン・スターリン型の共産主義(つまり赤い共産主義)ではなく、これまでヨーロッパ・マルクス主義などといわれてきた文化マルキストたちによる社会解体策動の脅威である。彼らは暴力革命を説くのではなく、昔から文化闘争ということをいってきた。
欧州やアメリカという先進資本主義国家で革命を起こそうとしたら、単なる暴力革命は無理で、これを内側からむしろ内部崩壊させていく文化闘争の方が有効なのだという主張である。
その最大の戦略ポイントがこうした国々での非キリスト教化である。この土台さえ無力化してしまえば、後は自ずから崩れるようにこの社会は自壊していく。つまり、革命は転がり込んでくるというのだ。
こう考えると、政教分離という主張は必ずしも「信教の自由」の問題とだけ捉えているわけにはいかないという話でもあるだろう。つまり、それは国家の根底にある宗教の力を無力化し、その社会そのものを精神的に崩壊せしめてしまおうとする革命戦略でもあるということなのだ。とすれば、たかが合掌の話と笑ってはおれないという話でもある。
いずれにしても、宗教教育は重要であろう。この日本を解体せしめていくそうした策動から自らを防衛していくためにも、われわれはこの問題を真剣に考える必要があるということなのだ。
〈初出・宗教教育研究会『羅漢柏』第5号/平成15年10月1日発行〉
http://www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?p=204
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