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国難の日本――「憂国」と言う文字がブログに多く登場している。
この「憂国」と一体を成すのが「保守」という言葉のようだ。
現状の国家を憂う心――それが憂国の本質とするならば、特定の国民だけが持ち合わせている精神、心とは言い難い。無私の精神をお持ちの方々は、当然、お持ちであろうし、一般国民だって、純粋に国の現在と将来を憂い思っているのである。「憂国」は、心ある国民の一人一人が持ち合わせているものだ。特定の人物たちだけが、優れて「憂国」精神を持っている、とは思わない。また、そこにはイデオロギーの入り込む間隙はなかろう。一般国民大衆は、生活日常において、最も国を愛し、国を憂い、国の改革と発展を願っているからである。
一般国民大衆には、イデオロギーは無縁である。
タイトルは、「憂国という欺瞞。保守という欺瞞」である。
憂国は、声高に叫ばなくても、一般国民大衆は思い、願っているものなのだ。
「国民の心、国会が知らず」と言いたい。
「国民の心、政治家・行政官僚・大企業体は知らず」とも言いたい。
つまり、「憂国」という美名のもと、「非憂国的行為・政策」を行ってきたのは一体誰誰だったのか――。
そこに「憂国とう欺瞞」が見えるのである。
「保守という欺瞞」について触れよう。
元来、保守とは古くからの習慣、制度、考え方等を尊重する主義である。したがって、急激な変革・改革に反対する。「保守」と「革新・進歩」との軋轢は、そこに原点があるからだ。
参考までに、幕末時の「保守」と「革新」を鳥瞰した。
幕末の江戸時代末期、あの時の「保守」は誰だったのか?
そして、あの時の「革新」は誰だったのか?
幕末の志士と識者たちが、「革新」だったのだ。蘭学者たち、吉田松陰もそうだ、開国開明論者たち、幕藩体制に反対する人たち。彼らは「革新・進歩」主義者でもあり、変革主義者だった。彼らの多大な犠牲があり、明治政府が樹立できたのである。
反面、皮肉なことだが、「保守」の権化だった「新撰組」等の一党は、あの「革新」側から虫けらのように始末された。組長・近藤勇は士分の扱いでない、斬首の処刑がなされた。
明治政府成立から、150年が経つ。まだ150年。もう150年。人により違いがあることだろう。
だが、日本の保守主義を自負してきた自民党政府の政治政策を、60年間の長きにわたって味わってきた国民大衆から見れば、そこに保守の「欠片ひとつ」しか見えないのだ。
「欠片ひとつ」とは、「憲法改正」だけである。
日本国憲法は、アメリカから押し付けられたものと看做し、「自主憲法の制定」を叫ぶ。
そもそも、孔子の「論語」、四書五経、漢字、漢詩、仏教、建築技術、焼き物等などは、外来種の文化である。太平洋戦争、中国侵略戦争時、論客たちの文章は、四書五経の文字で埋め尽くされていたものである。
今でも、「論語」の思想と漢字が日本古来からの伝統文化思想のように使用されているのである。
「何が保守で、何が憂国なのか――」
「憂国」という漢字も外来種だろう。
自分たちに都合のいい事は、その根拠の歴史を顧みない。
不都合の部分だけは、声高に叫ぶ。(私見――中国文化思想を自己所有化した日本民族は、中華思想をも血肉化しているように思える。造語だが、日華思想と称したい)
戦後は、アメリカという大国一辺倒になり、レプリカのようなアメリカ的日本となった。
様々な文章には、漢字と横文字が入り混じり、識者の発言も外国人のようなものとなっている。本当の日本語は何処に――。(自分もそうである)
そして、日本の豊かな自然と習慣、伝統文化と伝統建築等の遺産をないがしろにして、経済成長を追求してきたものと思うのである。
山河は荒れ果て、美しい国は消え去りつつある。その代わり、ゴルフ場が山並みの中に広がっている。
各地の伝統文化も、過疎化により継承が困難な状況である。
美しい国日本の伝統文化の保守(守る)よりも、美しい国の山河と海と伝統風習文化財をないがしろにした国土開発と経済成長重視――それが保守政党の現実的政治だったのだ。
そこに「保守という欺瞞」が見えるのである。
「保守」という衣を着た経済至上主義的な「革新」ではないか。
子々孫々と受け継がれてきた「日本の大地」と「美しき日本の伝統文化」である。これらを大切に守ることこそ、「保守」の原点であろう。
「保守」と言いながら、経済的効率主義に走り、原発推進立国となった。それは「保守」とは言えないものである。
「保守層が嫌う、革新・進歩主義」ではないのか、あなた方、保守の方々は?
そう訊きたくなる。
これから国民大衆は、「保守」主義を貫こう!
経済効率主義から、この美しき日本という国土と郷土の文化伝統を守るために。
それこそが、憂国の精神の顕れであるからだ。
その真実を、今回の大震災と原発放射能事故で、世界中に日本人の凄さを魅せたのだ。
三万人弱の多大な犠牲、数十万人に及ぶ被災者、彼らはひたすら我慢に我慢を重ね耐えているのである。暴動を起こすことなく――。
また、被災地で活動するボラティアの人々がいる。無償の奉仕活動だ。
本来は国が、地方自治体が行うべき事を、彼らは自前で奉仕している。彼らの行為(被災者を含む)は、日本人の誇りである。
『そこに日本人の本質的力の凄さと、豊かで強靭なる精神、そして郷土を愛する心を見る』のである。
我が愛する祖国日本は、民の生命と財産、諸文化、そして美しい山河海を保護し、甦らさなければならない。
『この大地があって、民あり』
『民あって国あり』
『民の幸せのために国あり』
それが憂国の精神であり、真の保守の心なのだから――。
http://plaza.rakuten.co.jp/botokkusuman/diary/201108100000/
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