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5月8日のNスペは面白がった。ギリシャで写楽の肉筆画(扇子)が発見されたのがきっかけで研究が進んだ。「線」に特徴があった。消去法で、まず有名人説(北斎や歌麿)は消えた。残ったのは版元の「つたや」主人説と斎藤十朗兵衛だった。歌舞伎の上演記録から見て「つたや」説も消えた。
写楽没後の50年後、江戸時代の文献に写楽は安房藩のお抱え能楽師、斎藤十朗兵衛との記述があった。だが、能楽師がこんな天才的な下絵を画くはずがないと長い間退けられてきておった。
当時の能楽師は武士に位置づけられていた。武士階級は浮世絵など画ことは堅く禁じられていた。斎藤十朗兵衛は能楽師といっても舞台の袖に目立たないように座っているだけの脇役で、これは世襲制であった。
隠れた天才性を秘めながらうっ屈したワキ役に徹しざるを得ない能楽師。名を秘匿しつつ、持てる才能を奔出させたのではないかと推理された。住まいの近くに名の知れた国学者の住まいがあり、この学者は「つたや」と懇意だった。この学者を通して「つたや」に話を通したんではねえかと。
写楽は東州斎・写楽と名乗ったが、この東州斎を分解すると斉藤(東)十(州)となる。自分の本名を東州斎に密ませたと解釈される。
だが、写楽の版画は第一期の28点(大首絵)以降、第二期、第三期と急速に内容が劣化していった。その理由は出版元の「つたや」の商売上の理由らしい。二期目以降、紙が薄く大きさも半分以下になった。絵の図柄にも半身像から全身像へと注文が変わってきようだ。写楽はデビューからたった10か月で姿を消してしまった。写楽か「つたや」のどちらかが互いを見限ったのではないかとされおる。
浮世絵ミステリー 写楽〜天才絵師の正体を追う〜
http://www.nhk.or.jp/special/onair/110508.html
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