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大江健三郎氏の犯罪 (池田信夫)
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/490.html
投稿者 稲垣勘尚 日時 2011 年 4 月 27 日 08:18:20: Je/tdYZdw47GA
 

沖縄の集団自決をめぐって争われた名誉毀損訴訟の最高裁判決で、被告の大江健三郎氏と岩波書店が勝訴した。これまでの経緯を知らない人が、大江氏が正しかったと誤解するのもよくないので、少しコメントしておく。

問題の訴訟は、2007年の記事でも書いたように、赤松嘉次大尉らを集団自決を命じた屠殺者だと罵倒した大江氏の『沖縄ノート』の記述が事実かどうかをめぐって赤松大尉の遺族などが起こしたものだ。これについては曾野綾子氏が現地調査をした上で「事実ではない」と指摘し、大江氏側も問題の記述が伝聞で確認できないことは認めた。

一審の大阪地裁は「軍の命令があったと証拠上は断定できないが、関与はあった」という理由で原告の申し立てを退けた。これは「ノーベル賞作家」に配慮した問題のすり替えである。原告は赤松大尉が集団自決を命令したかどうかを問うているのであって、軍の関与の有無を争ってはいない。軍の関与なしに手榴弾を入手することは不可能である。

二審判決も事実関係を曖昧にし、命令があったかどうかはわからないが大江氏が命令を「真実と信じる相当の理由があった」という理由で、出版を差し止めるほどの事由はないとして控訴を棄却した。たしかに出版差し止めというのは、民主主義国では軽々に認めてはならないが、原告が差し止め訴訟を起こしたのは、大江氏側が記述の修正をしなかったからだ。

裁判を通じて明らかになったのは、赤松大尉は住民を「屠殺」するどころか、集団自決を思いとどまるよう伝えていたということだった。裁判では思わぬ事実も出てきた。大江氏を支援する先頭に立っていた金城重明牧師(元沖縄キリスト教短大学長)が、渡嘉敷島でゴボウ剣で数十人を刺殺したことを法廷で認めたのだ。こうした集団的な狂気が、どうして生まれたのかを追究するのが作家の仕事だろう。

戦争は軍部が暴走して起こしたもので、国民は無垢な被害者だという大江氏の幼稚な歴史観は、軍はすべて悪だという「平和憲法」的な思い込みでしかない。集団自決をもたらしたのは軍ではなく、人々を駆り立てる空気だったのだ。旗を振って戦勝を祝ったのは国民であり、それを積極的に煽動したのは新聞だった。彼らは戦後も解散させられることなく、責任を軍に押しつけてみずからの戦争犯罪に口をぬぐってきた。

大江氏を5年間の訴訟でサポートし、『沖縄ノート』を重版してきた岩波書店も共犯者である。彼らが戦後60年あまり振りまいてきた「非武装中立」の幻想は、きわめて有害なものだった。国民の短絡的な正義感に迎合して結果に責任を負わない万年野党と、既得権を無条件に擁護する与党との不毛な対決の中で政策の対立軸ができず、優先順位をつけて政策を取捨選択しなかった結果が、莫大な政府債務と迷走する危機管理である。

大江氏も岩波書店もわかっているように、彼らは裁判には勝ったが真実の法廷では敗れた。『沖縄ノート』の大部分は、現地紙の切り抜きを文学的に加工したでっち上げだ。それは彼の願望とは逆に、事実を直視できない「進歩的知識人」の知的不誠実の証拠として歴史に残るだろう。  

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コメント
 
01. 2011年4月29日 00:25:11: MiKEdq2F3Q

曽野綾子の「誤読」から始まった。大江健三郎の『沖縄ノート』裁判をめぐる悲喜劇。

大江健三郎の『沖縄ノート』をめぐる名誉毀損裁判で、被告の大江健三郎自身が大阪地裁に出廷し、かなり詳細な証言をしたことから、特に保守陣営側から、証言内容はそっちのけの、大江健三郎に対する激しい批判と罵倒が新聞やネットに氾濫したわけだが、驚くべきことに、と言うか、当然と言えば当然のことにと言おうか、大江健三郎批判や罵倒を繰り返す人たちが、揃いもそろって、問題の本、つまり大江健三郎の『沖縄ノート』は言うまでもなく、曽野綾子の『ある神話の背景』(『集団自決の真実』に改題)さえも、二冊とも本屋に行けばいつでも手に入るにも関わらず、ろくに読まずに、マスコミ情報やネット情報を元に、大江健三郎批判や罵倒を繰り返していることがわかり、いささかシラケルと同時に、あらためて最近の保守論壇や保守思想、ネット右翼のあまりの無知無学、思想的レベルの低さに愕然とし、同時に爆笑したわけだが、そういう必読文献とも言うべき問題の本も読まず、関連資料を点検することもない、無知無学だけが自慢の人たちによる幼稚・稚拙な大江健三郎批判や罵倒の起源が、『沖縄ノート』裁判の仕掛け人の一人である曽野綾子の『沖縄ノート』への「誤読」に由来することは、余り知られていないようなので、ここに、実証主義的手続きの下に(笑)、論証しておくことにしよう。


さて、「SAPIO」という雑誌をご存知だろうか。小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』が連載されている雑誌と言えばお分かりだろうか。


まあ、雑誌の名前などはどうでもいいのだが、その、「SAPIO」という雑誌に、曽野綾子が登場し、これまた無知無学を絵に描いたような池田信夫とかいう御仁を相手に、「誤字」「誤読」に基づく間違いだらけの「集団自決問題の真実」とやらを、あたかもこの問題の権威者であるかのごとく、まさか、作家としては恥ずべき、自分の初歩的な「誤読」からすべては始まったなどとは夢にも思うことなく、それ故に、恥も外聞もなく、堂々たる態度で、傲岸不遜、自信満々に、ご披露している。たとえば、池田信夫を相手に曽野綾子曰く、


決定的だったのは、大江健三郎氏がこの年刊行された著書『沖縄ノート』で、赤松隊長は「あまりに巨きい罪の巨魁」だと表現なさったんです。私は小さい時、不幸な家庭に育ったものですから、人を憎んだりする気持ちは結構知っていましたが、人を「罪の巨魁」と思ったことはない。だから罪の巨魁という人がいるのなら絶対見に行かなきゃいけないと思ったのです。

(「SAPIO」2007/11/28)


この発言から、曽野綾子が、大江健三郎の『沖縄ノート』の何処の、何に、拘っているかがわかるだろう。つまり曽野綾子は、『沖縄ノート』の中の「罪の巨塊(罪の巨魁)」という記述部分に拘っているのである。しかし、ここに、曽野綾子の作家としては致命的とも言うべき、とんでもない誤読、誤解がある。前の記事でも書いたように、


曽野綾子は、大江健三郎が「罪の巨塊」と書いた記述を、「罪の巨魁」と誤読した上に、さらに意味をも誤解している。

幼稚園レベルの誤字と誤読、誤解…。ここから全ては始まっている。

つまり曽野綾子は、「罪の巨魁」(人間?)と解釈しているが、大江健三郎の『沖縄ノート』の記述は、「罪の巨塊」(物?)である。つまり、大江健三郎は、「罪の巨塊」という言葉で、「罪の巨魁という人」と言いたいわけではなく、文字通り「罪の巨大な塊」と言いたいわけで、「罪の巨塊」という言葉を、曽野綾子のように「罪の巨魁という人」と解釈することは出来ないどころか、曽野綾子の発言は、まったくの誤解、誤読に基づく妄言ということになる。だから、「罪の巨魁という人がいるのなら絶対見に行かなきゃいけないと思ったのです。」というのも、まったくの誤読に誤読を重ねた上での、謝った解釈に基づくデタラメ発言ということになる。では、大江健三郎の『沖縄ノート』の記述は、そもそも、どうなっているだろうか。

慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への欺瞞の試みを、たえずくりかえしてきたということだろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き延びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。・・・・

(『沖縄ノート』岩波書店)

これが、問題の『沖縄ノート』の記述部分だが、この「巨きい罪の巨塊のまえで…」という部分を誤読、誤解した挙句、曽野綾子は、哀れにも過剰反応して、見当違いの大江健三郎批判を展開したということだろう。そして多くの無知無学が自慢の保守派が、「待ってました」とばかりに、曽野綾子の間違いだらけの発言を鵜呑みにして、大江健三郎批判へと追従したということだろう。従って、先日の裁判で、大江健三郎は、「罪の巨塊」(物)という表現を、曽野綾子の誤読に基づいて、≪「罪の巨塊」(物)イクオール「極悪人」≫と勘違いしている原告の一人に対して、「極悪人なんて書いたことはない。それは曽野綾子の誤読に基づく解釈だ。」と反論したのである。ちなみに、大江健三郎自身は、「罪の巨塊」という表現で、集団自決した人たちの「死体の山」とでも言いたかったらしい。要するに、曽野綾子は、「巨塊」(物)を「巨魁」(人間)と誤読しているのである。作家を名乗る人間としては、余りにも初歩的というか、幼稚というか、実に恥ずべき原始的な誤読である。しかも、いまだに、同じような誤読に基づくデマ情報を各所で、自信たっぷりに撒き散らしているところを見ると、曽野綾子自身が、大江健三郎の『沖縄ノート』をろくに読んでいないのではないか、というだけではなく、裁判になった時点においてすら、少なくとも『沖縄ノート』を再読したり、問題の箇所を点検したり、前後の文を熟読玩味しみたり、という当事者としては必要不可欠な初歩的作業さえしていないということがわかるだろう。

大江健三郎を被告席に引き摺りだしたいのならば、少なくとも大江健三郎の問題の本や問題の記述部分を厳密に点検した上で、正確に引用するべきだろうが、作家を自称しているにも関わらず、曽野綾子は、そんな初歩的な点検すらせずに、間違いだらけの引用と解釈を繰り返しているというわけだ。致命的なミスであり、即刻、「作家業廃業宣言」でも出すべき所業である。要するに作家失格である。ところで、あまりにも初歩的な誤字誤読であるが故に、これでは裁判にもならないだろうと思うのだが、裁判所が告訴を受理したということは、実は裁判官も大江健三郎の『沖縄ノート』をちゃんとは読んでいないのではないか、と思われる。むろん、この対談相手の池田信夫にしてからが、大江健三郎の『沖縄ノート』も、曽野綾子の『ある神話の背景』(『集団自決の真実』に改題)も、まったく読まずに、この対談に出向いてきたことは、明らかである。必読文献や関係資料も読まずに対談に出席する池田信夫とかいう人の野蛮な「ど根性」(笑)には感服するが、とてもじゃないが、彼の無知蒙昧な喜劇役者的な議論を読む気にはなれない。


池田信夫は、従軍慰安婦問題について、さかんに発言しているが、そんなことは、ネツト右翼でさえ知っているような幼稚な発言内容ばかりで、所詮は、自分で取材し分析し論理化したことというより、ほとんどぜんぶ、雑誌や週刊誌からの受け売りだろう。ところで、話は元にもどるが、そもそも、曽野綾子の『ある神話の背景』(『集団自決の真実』に改題)には何が書いてあるのだろうか。大江健三郎の『沖縄ノート』を、どういう論理で、どういうふうに批判しているのだろうか、と思って読んでみたら、なんとここでも「誤字」か「誤読」か知らないが、同じように出鱈目な大江健三郎批判が書かれている。僕は、初版本をチェックしていないので、結論は留保するが、曽野綾子の『ある神話の背景』(『集団自決の真実』に改題)そのものが、少なくとも大江健三郎批判の部分は、「誤字」と「誤読」から成り立っている。たとえば、大江健三郎の『沖縄ノート』の問題の部分から引用して、それを批判している箇所があるが、引用自体が「誤字」だから、話にならない。大江健三郎こそ、曽野綾子を名誉毀損、人権侵害で逆告訴すべきだろう(笑)。さて、曽野綾子の『ある神話の背景』(『集団自決の真実』に改題)の中の、誤字(誤植?)だらけの文章から…。


大江健三郎氏は『沖縄ノート』の中で次のように書いている。

「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への欺瞞の試みを、たえずくりかえしてきたということだろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨魂のまえで……(後略)」

このような断定は私にはできぬ強いものである。「巨きい罪の巨魂」という最大級の告発の形を使うことは、私には、二つの理由から不可能である。第一に、一市民として、私はそれほどの確実さで事実の認定をすることができない。なぜなら私はそこにいあわせなかつたからである。第二に、人間として、私は、他人の心理、ことに「罪」をそれほどの明確さで証明することができない。なぜなら、私は神ではないからである。

(『ある神話の背景』(『集団自決の真実』に改題)ワック)

曽野綾子は、ここで、『沖縄ノート』から、問題の箇所を引用しているわけだが、肝心な「罪の巨塊」という部分を、「罪の巨魂」と、漢字を、たぶん二重に、つまり「塊」「魁」「魂」というように、間違った上で引用をしているが、これが曽野綾子の引用間違いなのか、編集者の校正ミスなのか、わからないが、引用文の中の「誤字」をそのままにして本にしたことは、著者・曽野綾子にも責任がないとはいえないだろう。著者校正というものがあるわけだし、しかも、曽野綾子の大江健三郎批判、『沖縄ノート』批判の論拠になっている問題の文字である。校正ミスですむはずがないだろう。これは、返品、回収、絶版レベルのミスである。そもそも肝心要の「問題の漢字」を、堂々と「誤読」し、「誤解」し、「誤用」するなんて、しかも、長年の間、誤読し、誤解し、誤用したままで放置し、反復しているなんて、いったい、それは、どういうことだろうか。まさかとは思うが、曽野綾子は耄碌でもしているのか。それはそれとして、さらに問題なのは、大江健三郎の「巨塊」を「巨魁」と勘違いし、その勘違いを根拠に「赤松隊長を罪の巨魁と書いている」と批判した上に、その論拠として、「私は神ではない」発言している部分である。

曽野綾子がカトリック信者だということはわかっているから、彼女がどういう「神」を信じているか、あるいはどういう「神」のイメージを持っているかには別に興味は無いが、≪第二に、人間として、私は、他人の心理、ことに「罪」をそれほどの明確さで証明することができない。なぜなら、私は神ではないからである。≫という部分には、ちょっと待てよ、と言いたくなる。曽野綾子の論理によれば、「罪」や「罪のある人」は、「神」が、あるいは「神」のみが認定し、決定するものなのだろうか。別に、曽野綾子がそう考えているとしても、それを批判する気はさらさらないが、当然のことだが、キリスト教徒でもない日本人であるわれわれが、皆、そう考えなければならないという理由にはならないだろう。曽野綾子の論理を受け入れるならば、これは冗談だが、日本人は、皆、これから仏教や神道を捨てて、カトリックに改宗し、カトリック信者になるべきだ、ということになるかもしれない(笑)。曽野綾子さん、漢字もろくに読めないくせに、日本人をナメるのもいい加減にしろよ、と思わず叫びたくなる、今日、この頃であった。というわけで、次に、曽野綾子の『ある神話の背景』(『集団自決の真実』に改題)に、解説を書いている石川水穂の文章を読んでみると、ここにもまた、曽野綾子の誤読と誤字に輪をかけたような誤字と誤読が、つまり「罪の巨魁」という活字がきれいに並んでいる。ということは、ベテラン新聞記者のはずだが、石川水穂も、問題の大江健三郎の『沖縄ノート』の記述を読んでいないし、また問題文を原典に当たって、点検してみるという基本的な手続きすら怠っている、ということは火を見るよりも明らかである。

十分な裏づけを取らずに書く日本の一部ジャーナリストらに対する痛烈な批判である。曽野氏の批判は、『鉄の暴風』の記述に基づいて集団自決を書いた大江健三郎氏らにも向けられる。大江氏は『沖縄ノート』(昭和四十五年、岩波新書)で、集団自決の責任者(赤松氏)を「自己欺瞞と他者への欺瞞の試み」「あまりにも巨きい罪の巨魁」などと指弾していた。曽野氏は「このような断定は私にはできぬ」としたうえで、「私はそこ(集団自決の現場)にいあわせなかった」「私は神ではない」という二つの理由をあげる。

(『集団自決の真実・解説』ワツク)

ここでも、「罪の巨塊」が「罪の巨魁」となっている。石川水穂も、要するに曽野綾子の間違いだらけの暴言を鵜呑みにして、そのまま何の疑いも感じることなく、大真面目に引用しているということだろう。石川水穂は、曽野綾子の足を使った「現地取材」主義を、ジャーナリストの鑑として絶賛しているが、テキスト解読や資料分析の方は、曽野綾子と同様に、「手抜き」していいいと思っているのだろう。作家や新聞記者にとって問題は現地ばかりにあるのではない、言葉にもあるのだ。いや、すべては言葉なのだ。「はじめに言葉ありき」と聖書の冒頭にも書いてあるではないか。ところで、ここにもう一つの文献がある。曽野綾子が、沖縄集団自決と歴史教科書について、雑誌「正論」に書いた「沖縄戦集団自決をめぐる歴史教科書の虚妄」と題する文章である。そこでも、曽野綾子は、まったく同じような解説と論理を展開しているが、そこでは、大江健三郎の『沖縄ノート』からの引用文は、正確に「罪の巨塊」となっている。しかし、『沖縄ノート』からの引用文に続く曽野綾子の解説を読むと、やはり曽野綾子が、「罪の巨魁」というふうに理解し、「巨塊」を「巨魁」と誤読していることがわかる。おそらく、「正論」論文の引用箇所は、「正論」編集部が原典の『沖縄ノート』の問題箇所に当たり、厳密に漢字をチェックした上で引用したが故に、正確な引用をすることができたのだろう。しかし、繰り返すが、曽野綾子は、わざわざ正確な引用をしているにも関わらず、そのことに気づかずに、いつものように、「罪の巨魁」論を展開している。いかに、曽野綾子の頭が、根強い誤読と偏見にとらわれているかがわかるだろう。(続)

http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071118/p1

池田信夫君が自爆、尻尾巻いて逃亡宣言(笑)。池田って、逃げ足が速過ぎるよね。

コケにされた「サピオ」編集部がお気の毒…。

曽野綾子誤字誤読事件


大江健三郎『沖縄ノート』裁判に関連して、事件の張本人である曽野綾子との「サピオ」誌上対談に出席し、曽野綾子発の「誤字」「誤読」に依存した妄想的論理が爆発したトンデモ対談に知的興奮を感じたらしく、すっかり舞い上がった挙句、無知蒙昧振りをさらけ出し、朝日新聞や岩波書店など、日本のマスコミ・ジャーナリズム、そしてそのマスコミのデマ情報に付和雷同する日本国民の民度の低さまで批判・罵倒しまくり、向かうところ敵なし…、あれほど威勢が良かった「イナゴなみの無名評論家」(笑)の池田信夫が、なんと、小生の冷やかし半分のオチョクリ記事にさえ、まともな反論もろくろくしないままに、形勢不利と見たか、誤字・誤植の責任を、一方的に「サピオ」編集部に押し付けたまま、かなり屈辱的と思われるようなミジメな「逃亡宣言」を、自分のブログのコメント欄

(http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/ec0ed69b8abf25fb6e59671cf0c11beb)

の片隅に、目立たないように、こっそり出しているのだから、笑った。


池田の、無知無学を絵に描いたような、威勢のいい「タコ踊り」を期待していたのに…(笑)。

池田、曰く、≪彼の売名に協力する気はないので、もう相手はしないけど……≫だと。お粗末な言説を批判され、完膚なきまでに…(笑)、論破・撃沈されると、「売名行為に協力する気はない」で逃げますか。

そうですか。昨今の保守論壇って、この程度の馬鹿ばっかなんですかねえ。

池田よ、尻尾巻いて、すぐ逃げるぐらいなら、最初から、ドシロートの分際で、偉そうな口ぶりで、「口出し」するな、って。「売れない評論家」や「イナゴなみの無名評論家」とは、池田よ、オメー自身のことだと、白状しているようなものじゃないか。

しかし、よく考えてみると、「サピオ」誌上の池田と曽野の緊急対談は、まだ前編だけしか掲載されていないはずだが、つまり続編(後編)は次号に掲載されるはずだが、誤字・誤読問題をそのままにして次号に、このトンデモ対談の続編が掲載されたら、面白いね。そうなると、曽野綾子だけでなく、池田信夫や、あるいは「サピオ」編集部も、大江健三郎や岩波書店から、逆に告訴されるんじゃないのかな。それとも、「誤字・誤読なんて関係ないッ」と「小島よしお」君のように居直って、堂々と「サピオ」次号に掲載されるのかな。

なんせ、対談の出席者が、≪誤字・誤読なんてたいした問題じゃない≫≪誤字・誤読の校正ミスは、編集部の責任だ。≫≪誤字・誤読は論旨には関係ない。≫なんて、畏れ多くも天に唾するかのように、大胆不敵に主張する「イナゴなみの無名評論家」・池田信夫と、好き嫌いはどうであれ、「日本文壇の至宝」であるノーベル賞作家・大江健三郎を裁判にまで引きずり出した上で、誤字・誤読に基づく妄想的論理を駆使して、批判・罵倒を繰り返す曽野綾子ですから……。


http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071123/p1


02. 2011年5月02日 12:34:53: tRdNTeoJ5o
塊と魁、それに巨を頭につけるだけで意味合いがまったく異なる。
巨塊は読んで字のごとく大きい塊、巨魁は悪の親玉をさす。パソコンならキーの変換ミスで打ち損ねやそもそも意味を知らないでテキトーに変換したと言い分けも許されるが、プロの物書きがこれでは物書きの資格はない。池田信夫に至っては評論家の看板を降ろすべき恥ずかしい所業である。
曽野は校正ミスだと逃げ回っているようだが、対談から察すれば巨塊を巨魁と思い込んでいたことは間違いない。誤読誤字というより無知の類ではないのか。
むろん池田も含めてである。

03. 2011年8月10日 12:49:32: LGUfwnafEI
ばかじゃねーの。

大江とかいうのが日本文壇の巨匠だかなんだかしらんが

「伝聞で、しかも地元新聞切り貼りです」って認めてんだろ?

馬鹿じゃん。なにがノーヘル賞だよ。

クズじゃんか。「読み違えだ=」とか言って大騒ぎするバカもさらに馬鹿。

批評家とか言う奴らには、もう本質どころか、自分自身がなんだかわかんなくなっちゃってるバカしかいないんだな。

その部分だけは笑えるわ。
いないな。


04. 2012年3月10日 23:25:40 : tLL5rmHw5c

大江健三郎は国外で日本の悪口を言いまくっているらしい、それほど日本が嫌いなら日本から出て行け、二度と帰ってくるな。


05. 2015年4月01日 17:24:35 : 7dJtSXDx3E
>>04氏へ

三年後でズレテマスガ同意です。
こんなこと↓大真面目に言ってたくせに、それについて一言もない似非知識人です。
てか、人間としてどーなの?!というレベルです。
間違うのは仕方ないにしても、その影響力を考えたら知らん顔はないですよね。

onaironaironair
https://onaironaironair.wordpress.com/2014/08/09/%e5%a4%a7%e6%b1%9f%e5%81%a5%e4%b8%89%e9%83%8e-%e3%80%8c%e6%a0%b8%e9%96%8b%e7%99%ba%e3%81%af%e5%bf%85%e8%a6%81%e3%81%a0%e3%81%a8%e3%81%84%e3%81%86%e3%81%93%e3%81%a8%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/ より拝借


●大江健三郎 「核開発は必要だということについてぼくはまったく賛成です。」 (1986年)

By onaironaironair


「夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学」 (岩波新書 2012年3月7日) 大澤 真幸著 より

 <当該文章の画像>

ここに出てくる大江さんって誰?

  答え = 大江健三郎

何時の発言なのか?

  答え = 1968年5月28日 紀伊国屋ホールでの「核時代への想像力」講演

大江健三郎の原子力発電所に対する立場

1968年5月28日紀伊国屋ホールで「核時代への想像力」と題して講演し、「核開発は必要だということについてぼくはまったく賛成です。こ​のエネルギー源を人類の生命の新しい要素にくわえることについて​反対したいとは決して思わない」と述べた。

しかし、2011年の東日本大震災の福島第一原子力発電所事故に際して、米誌「ニューヨーカー」に「歴史は繰り返す」を寄稿し、「原発建設は人命軽視の姿勢を示すもので、広島の原爆犠牲者に対する最悪の裏切り」と述べている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%81%A5%E4%B8%89%E9%83%8E


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大江氏に贈る言葉を選んでみました。


     「過ちを改めざる、これを過ちという」

     「過ちを文(かざ)る」

     「過ちを観て斯(ここ)に仁を知る」


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