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4年前にみた女性監督ヤスミラ・ジュバニッチの「サラエボの花」は、民族とは何かを考えさせる傑作だった。
1992年、ユーゴ多民族国家の解体とともに共存していた民族がおぞましい内戦をくり広げた。映画は、ムスリムの女性がセルビア兵の集団レイプで女の子を出産するが、12年たってもその後遺症から逃れられない姿を描いていた。レイプは他民族の血を汚すための組織的犯罪だったが、母と娘は葛藤しつつも偏狭な民族主義のしがらみをのりこえていく。
そのジュバニッチ監督の第2作「サラエボ,希望の街角」が公開される。内戦から15年たったサラエボの街。店々には彩り鮮やかな商品が並び、過去の戦火が信じられない華やかさだ。が、ドラマが展開するなかで戦争の傷痕がひょっこり顔をのぞかせる。
映画のヒロインは旅客機の客室乗務員、ルナ。彼女は同じムスリムで航空管制官のアマルと同棲、満たされた日々を送っていた。しかし、アマルがアルコール依存症で停職処分を受けたことで、少しずつ二人の関係は狂い出す。彼は昔の戦友と出会い仕事をもらうが、戦友はイスラム原理主義者。アマルも信仰に安らぎをみいだすものの、それは男尊女卑が甚だしい過激な復古主義で“民族浄化”の色合いをおびていた。そこに新しい紛争の火ダネをみてとる監督の危機意識が表れている。
印象深かったのは、ルナが両親を殺された故郷を訪ねるシーン。昔の家に住むセルビアの少女は「なぜ出ていったの?」と尋ねるが、彼女はその素朴な質問に言葉を失い、黙って少女の頭をなでる。
ムスリムの監督はムスリムの主役二人にクロアチア人の俳優をあて、助演に「サラエボの花」の主役のセルビア人女優をすえている。こうした配役一つとっても、監督の民族の垣根をこえた姿勢が読み取れよう。─前向きに生きようとするルナはラストで何をみたか?(木下昌明/「サンデー毎日」2011年2月20日号)
*「サラエボ,希望の街角」は2月19日より岩波ホール他で公開。(C)2009 Deblokada/coop99/Pola Pandora/Produkcija Ziva/ZDF-Das kleine Fernsehspiel/ARTE
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<付記>
わたしは『月刊東京』3月号に「愛さえも切りさく」と題してこの映画について時評を書きましたが、そこで「イスラム原理主義」について若干補足しておきますと、この宗教は、ボスニアに元からあったものではなく、内戦時にサウジアラビアからムスリムの同胞支援にかけつけた義勇兵たちによってもちこまれ、それが戦後の不安定な社会情勢の中で広がったといえます。それにユーゴの社会主義時代は宗教色が薄らいでいて、この種の宗教になじんでいなかったので、ユーゴ崩壊後、かえって人々は過激な宗教にひかれ、(特に生きる目標を失った弱者が)救いを求めたことがあげられます。ーー1本の映画からも次々と変わる“時代の潮流”がみえてきます。
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映画公式サイト
http://www.saraebo-kibou.com/
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