http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/477.html
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「虚構」は「現実」である
そして
「現実」は「関係」である
という
やや仏教的な解釈だな
http://voiceplus-php.jp/web_serialization/kyokou/index.html
斎藤 環 「虚構」は「現実」である
第1回 「正義」とはトラウマのようなものだ
はじめに
連載を開始するにあたって、その趣旨を簡単に述べておきたい。 この連載は、映画、漫画、小説といった、さまざまなジャンルのフィクション作品を毎回いくつか取り上げ、そこに反映された現代社会の様相を読み解くことが 目的である。それはさしあたり、作品をあえて社会反映論的な視点から解読しようという試みでもある。しかしもちろん、それだけではない。 すぐれた作品は、しばしば時代を先取りする。あたかも作者の自意識を超えるようにして、それは起こるだろう。自作においてしばしばそうした現象と向き合っ てきた作家の桐野夏生は、虚構のリアリティは「現実」に拮抗しうるという自らの信念を語っている。本連載のタイトルは、直接にはこの桐野氏の発言に想を得 たものだ。 そう、いまや虚構は現実なのである。まったく同じ意味で、現実は虚構である、と言い換えてもよい。 私はかつて、次のように書いた。「いまや『現実』はスティーヴン・キングとスティーヴン・ホーキングとの間にある」と。 ホラーとファンタジーの「虚構世界」をこのうえなくリアルに描き出すキングと、「現実世界」を数式によって果てしなく抽象化、すなわち虚構化してみせる ホーキング。2人のスティーヴンが同じように読まれ、消費される現代にあって、はたして「虚構」と「現実」との間に明瞭な境界線を引きうるものだろうか。 もちろん、答えは「否」である。 「リアル」についても同様のことが指摘できる(【註】ちなみに日本語では慣用的に「リアリティ=現実らしさ」という意味で使用されるが、英語的に は"real"が「現実の、現実らしい」という形容詞であり、"reality"のほうが名詞としての「現実」である。よって「現実」そのものではない 「現実らしさ」を意図する場合、本論では「リアル」で統一する)。 いまや「リアル」は、精神分析と脳科学との間にある。 どういうことだろうか。これも簡単に説明しておこう。 精神分析、とりわけ私がしばしば依拠するラカン派のそれは、われわれの「日常的現実」を「想像的なもの」とみなす。些末な話はややこしいので省略するが、 ラカン派のいう「現実」とは、日常語の「現実」とはまったく別の意味をもつ言葉なのだ。それは絶対に認識不可能でありながら、われわれの生きる「日常的現 実」に対して、つねに影響を及ぼさずにはおかないような次元のことを指している。「意識」に対する「無意識」のような位置づけ、といえば、多少は理解しや すくなるだろうか。 つまり、ラカン派の立場から見れば、さきほど紹介した桐野夏生の言葉はすでに自明の前提なのである。いわゆる「虚構」と「現実」との間に、本質的な区別な ど存在しない。ウソみたいな現実もあれば、現実以上にリアルな虚構も存在する。われわれにその区別を可能にしているのは、端的に「リアルの濃淡」という 「程度の判別」にすぎないのだ。メディア・リテラシーとは、この「リアルの濃淡」に関する判断力を指すと考えて、ほぼ間違いない。 いっぽう脳科学にとっては、あらゆることが「現実」である。 これも解説が必要となるだろう。脳科学者は基本的に、人間の精神活動を、脳内物質の分布やニューロンの発火パターンなどに還元可能であると考える。この発 想なくして「脳科学」は成立しない。ということは、人間にとってあらゆる感覚刺激は、それが虚構由来であれ現実由来であれ、脳に物質的な変化を起こす、と いう点では「現実」なのである。よって、脳科学的に考えても、「虚構」と「現実」の区別は存在しない。 茂木健一郎がかつて随所で引用していた「クオリア」なる概念には、どうやら(将来的には)数量化可能な程度差があるようで、「クオリアのピュアさ」や「強 度」が問われるようだ。つまり脳科学的な視点からは、クオリアの程度をもって「虚構」と「現実」が区分可能であるかもしれないのだが、その可能性につい て、むろん私は懐疑的である。
「リアル」の位相
「現実」と「虚構」の区分が限りなく曖昧化しつつある現在、真に問われるべきは「リアル」の位相 である。もう1度確認しておこう。いまやリアルを担保するものは、ナマの「現実」などではない。さまざまな論者が「現実」そのものよりも「リアル」を論じ つつあるのが、その第1の徴候だ。 大塚英志の言う「まんが・アニメ的リアリズム」、私が指摘した虚構内限定のヒロインである「戦闘美少女」のリアル、東浩紀による「ゲーム的リアリズム」、 いずれもそうした状況を反映した、一次的には「現実」を担保としない、特異なリアルの形式である。 はっきりと明言されているわけではないが、これらの論点に共通するのは、いまや「リアル」を構成するメカニズムが、「何がリアルか」を確認させてくれるような、再帰的コミュニケーション以外には存在しない、という視点だ。 早い話が、いま若者集団でもっともリアルな同一性として流通しているのは「キャラ」である。そう、「キャラ変わった?」「キャラを使い分けてる」「キャラ がかぶるから」などと使用される、場面限定のペルソナとしての「キャラ」。およそ「自己同一性」や「固有性」といった議論からもっとも遠い軽薄な言葉、 「キャラ」。しかしこれこそが、多くの若者が日常を生き抜くために必要とされる「リアル」なのである。 「キャラ」は、ある種の個性であると同時に、きわめて効率的なコミュニケーション・ツールでもある。相互のキャラを認知することで、「関係性」は瞬時に定 まる。そう、キャラとはあらかじめ「関係性」が畳み込まれた記号であり、それはコミュニケーションを介していっそう強化されるのだ。これこそが「キャラの リアル」である。 本来、「キャラ」は、「リアル」の端的でわかりやすい例にすぎない。むしろわれわれはこういうべきなのだ。いまや「リアル」のあらゆる局面が、コミュニケーションを介して構成されつつある、と。 「コミュニケーション」にも「情報」にも、確固たる基盤など存在しないはずだ。しかし人々は、そこに否応なしの「リアル」を見てしまう。その意味で、現代 を「コミュニケーション幻想」と「情報幻想」が覇権を握った時代と見ることもできるだろう。もちろん、「それを指摘する私だけは例外」とはならない。むし ろこの幻想は、「自分だけは幻想のメタレベルに立ち得た」と思い込んだ者をこそ、もっともよく侵すものであるからだ。 すでに理解されるとおり、あらゆる「フィクション」もまた、それ自体が「情報」であり「コミュニケーション」でもある。たとえばこの連載で後日取り上げる 予定の「ケータイ小説」は、それがどれほど軽蔑されバカにされようとも、作品を媒介とした膨大なコミュニケーションが存在する限りにおいて、無視しがたい 「リアル」さをはらむ。いまやいかなる批評も、「美」や「伝統」、「技術」といった基準以上に「リアル」を優先せざるを得ない状況が到来しつつあるのだ。 この連載で私が「フィクション」と向き合う態度は、以上のような現状認識を前提としている。それは「フィクションも時には現実の鏡たりうる」というような 消極的姿勢ではない。「ひょっとすると、フィクションを介してしか、もう現実とは向き合えないのではないか」という不安と切迫感。これこそが、私をして フィクションに向かわせる当のものなのだ。 いささか長すぎる前置きになってしまったが、これでも必要最低限の前提を確認したにすぎない。最後に蛇足を一言つけ加えて終わりにしよう。「虚構と現実を 混同」うんぬんという紋切り型がいまだに存在するが、もし何の留保もなしにこの言い回しを用いるならば、それはいまや、端的な「メディア・リテラシーのな さ」の暴露にすぎない。本連載のタイトルが、そうした態度への挑発を目指してつけられたことはいうまでもない。
第1回 「正義」とはトラウマのようなものだ02 →
『ダークナイト』と「根拠なき悪」
今回取り上げるのは映画作品『ダークナイト』である。 本作はアメリカン・コミックのヒーロー、バットマンを主人公として80年代以降に制作された実写映画シリーズの、第6作目にあたる。なお、第5作目の『バットマンビギンズ』(2005)からは、クリストファー・ノーランが監督している。 『ダークナイト』は、日本での興行成績はいま1つ伸び悩んだようだが、アメリカでは近年まれにみる大ヒット作となった。公開からわずか4週で北米興収4億 4160万ドルという驚異的な数字を上げ、さまざまな最短記録を更新した。2008年9月現在、歴代興収第1位の『タイタニック』に迫る勢いを見せてい る。 日本でいえば仮面ライダーシリーズの劇場作品がランキングのトップに君臨し続けるような事態が起きているわけで、宮崎アニメなどを別とにすれば、ちょっと 想像しにくい話だ。しかしそれも、作品を目の当たりにすれば納得がいく。『ダークナイト』は、もはやお子様向けのコミック・ムービーの域をはみ出した、完 全に大人向けの作品なのである。 以下、あまりネタバレに配慮せずに話を進めるので、未見の方は注意されたい。 バットマンはアメリカン・コミックスのなかでも異色のヒーローだ。彼はスーパーマンのように異星人でもなければ、スパイダーマンのような超能力ももたな い。莫大な資産と鋭い知性、鍛え抜かれた強靭な肉体をもつ、ブルース・ウェインという一般人にすぎない。彼はお手製の装甲服バットスーツに身を固め、巨大 なバットモービルを駆って、架空の都市ゴッサム・シティを守るため、あくまでもボランティア活動として悪と戦う。これが本作の基本設定である。 誰もが指摘するように、本作の最大の功績は、まれにみる悪の化身にして怪物的存在であるジョーカーを完璧に造形し得たことだろう。ジョーカーはバットマ ン・シリーズのもうひとりの主役であり、最も人気の高いバットマンの敵役だ。初期シリーズのジョーカーはジャック・ニコルソンの当たり役として有名だが、 本作が実質的な遺作となった若手俳優ヒース・レジャーの演技はそれを完全に過去のものにとした。アカデミー主演男優賞にもノミネートされた『ブロークバッ ク・マウンテン』の抑制された演技とは別人のようなキレた怪演ぶりで、あらためてその死が惜しまれる。 私はこれまで、映画に現れた悪の造形として、『羊たちの沈黙』におけるレクター博士を最高のものと考えていた。完全な知性をもちながら、まったく内省を欠 いた存在。彼の「悪」には根拠というものがない。それゆえハンニバル・レクターには「ためらい」が存在しない。これは言い換えるなら、「内省」と「根拠」 を欠いた存在は、その存在自体が「悪」にほかならない、という意味でもある。 しかし、『羊たち〜』の続編小説『ハンニバル』を読んで、私はいたく失望した。この小説にはレクターの「根拠」が書き込まれているのだ。 リトアニア生まれのレクターには、愛する妹ミーシャがいた。第2次大戦中にレクター一家は別荘へ避難するが、ドイツ軍とロシア軍との戦闘に巻き込まれて両 親は死亡する。その後リトアニアの対独協力者たちと別荘で暮らしていたが、食料が尽き、衰弱していたミーシャは殺され、食料にされてしまう。このトラウマ こそが、怪物レクターを作り出したというのだ(このエピソードは、映画『ハンニバル・ライジング』に描かれている)。 ここには1980〜90年代にハリウッド映画を席巻した、悪しき「心理学化」(もしくは「心理主義化」)の残滓がくすぶっている。そう、人はトラウマゆえ に怪物化し、またどんな怪物も、その根拠となるトラウマを隠しもっている。『ランボー』(1982)しかり、『グッド・ウィル・ハンティン グ』(1997)しかり。 しかし、この種の図式的な心理主義は、私のようなすれっからしの映画ファンにとって、最も興醒めな要素の1つでもある。いや、このところめっきりその手の映画が減ったところをみると、そう感じていたのは私ばかりではなかったのだろう。 しかし私は、ジョーカーが自分の頬まで避けた口元の傷の由来を語りはじめたとき、久々に嫌な予感を覚えた。ああ、またしてもハリウッド流心理主義のご託宣か。 しかし、その予感は小気味よく裏切られることになる。 第1の「告白」でジョーカーは、子供のころの凄惨な思い出を語る。酒乱の父親が母を刃物で刺し殺し、その場で自分も父親に口元を裂かれたのだ。しかし第2 の「告白」では、話がまるで違う。その傷は、借金がかさんで身も心も傷ついた妻を笑わせるために、自ら切り裂いてみせた、というのだ。一体、どちらが真実 なのか。 もちろん、どちらもデタラメだ。強いていえば、ジョーカーはここで、自らの悪意がちゃちなトラウマなどに根拠づけられるものではないことを高らかに宣言しているのだ。 実際、ジョーカーには根拠がない。彼には指紋やDNAのレヴェルに至るまで、あらゆる過去の痕跡がない。彼には世俗的な欲望すらない。自ら金にも権力にも 興味がないとうそぶき、札束を積み上げて火を放ちさえする。彼が望むのは、人々が--とりわけバットマンが--その良心ゆえに葛藤し、苦悶する姿を眺める ことのみ。これほど純粋に無根拠な悪が、かつて描かれたことがあっただろうか。少なくとも、ハリウッドのメジャー大作では前例がないように思われる。
「正義」とトラウマ
本作でジョーカーは、バットマンにとっての、鏡のような存在として描かれている。 映画第1作でも、バットマンの両親をジョーカーが殺し、バットマンとの銃撃戦で化学薬品槽に落ちて顔面に火傷を負ったことがジョーカーの誕生につながって いる(本作ではこの設定は使われていない)。バットマンとジョーカーは、最初から相互に根拠づけあうような関係に置かれているのだ。 本作におけるジョーカーは、バットマンに次々と困難な選択を突きつける。最初の選択は「正体を明かさなければ、毎日ひとりずつ市民を殺す」。これにはじまり、バットマンの存在意義を根底から突き崩すような選択が次々と投げかけられる。 最初に記したように、バットマンことブルース・ウェインの活動は、完全に自警団的なものだ。警察から敵視されることからもわかるとおり、彼の活動は非合法 であり犯罪である。だからこそ「ダークナイト(闇の騎士)」と呼ばれるのだ。その活動は、大富豪の顔をもつブルースが、自らが筆頭株主である企業の金を横 領することで成り立っている。もちろんその行為も犯罪であり、本作でもその不審な資金源を会計士に暴露されそうになっている。 この矛盾は、ひとりバットマンの抱える矛盾ではない。フィクションに登場するほとんどの「正義の味方」、そうスーパーマンからスパイダーマン、あるいはウ ルトラマンから仮面ライダーに至るまでのヒーローたちが、根源的に抱える矛盾でもある。その矛盾は「子供向け」ゆえに気づかれないのではない。敵がしばし ば、合法的にはとうてい太刀打ちできそうにない絶対悪として描かれるため気づかれにくいだけだ。 そう考えるなら、バットマンとジョーカーの鏡像関係はいっそうはっきりするだろう。バットマンが存在しなければ、ジョーカーもまた存在しない(あるいは、 無数に出現する「にせバットマン」も)。実際、ジョーカーは「お前がいなけりゃ、俺はただのチンピラだ」と自覚している。 そう、正義と悪は合わせ鏡なのだ。彼らの関係から誰もが容易に連想するのは、頼まれもしないのに世界の自警団を買って出る超大国アメリカと、悪のテロリス ト・ネットワーク、アルカイーダの関係だ。そもそもアルカイーダの発端は、ソ連のアフガニスタン侵攻に際してCIAが組織したともいわれている。やはり正 義と悪は同根なのだ。 悪はその根源的な無根拠性ゆえに、時に正義の存在を、自らの根拠とすることもできる。ならば正義には根拠があるのだろうか。 バットマンの自警団活動には根拠がある。彼は少年時代に強盗に両親を射殺された。彼はそうした犯罪への怒りゆえに、自らの肉体を鍛え上げ、法を犯してまで悪と戦い続けている。そう、彼の正義には、少年時代のトラウマという根拠が存在したのだ。 そもそも正義とは、トラウマのようなものではないのか? われわれにこの問いをつきつけたのは、最近ではニール・ジョーダン監督、ジョディ・フォスター主 演の映画『ブレイブ ワン (The Brave One)』(2007)だった(本論の趣旨からラストシーンに触れないわけにはいかないので、未見の方はご注意下さい)。 本作も一種の自警団ものである。ニューヨークでラジオのパーソナリティをしている主人公エリカは、恋人と公園を散歩中に暴漢に襲われ、恋人は殺され、自ら も重症を負う。その後遅々として進まない警察の捜査に不満を覚え、エリカは自ら不法に銃を入手し、彼らを襲った犯人を捜し出そうとする。 しかし復讐の過程でエリカは複数の事件に巻き込まれ、その結果、犯人を射殺しては制裁を下す役回りを引き受けざるを得なくなる。エリカの存在は「謎の執行人」として有名になり、その活動を支持する声も高まっていく。 捜査の過程で親しくなり、途中からエリカがを「謎の執行人ではないか」と疑いはじめる刑事の存在。結局、彼によって彼女は「救われる」ことになる。 ラスト、エリカはついに主犯を追い詰め射殺しようとする。そこへくだんの刑事が駆けつけ、「殺すなら合法的に登録された銃を使え」といいつつ自分の銃を渡 す。エリカは銃を受け取るとためらいなく犯人を射殺する。刑事は彼女の犯行を擬装するために、その銃で自分を撃つように命じ、エリカは泣きながら刑事の肩 を撃つ。そして銃を捨てて逃走する。 このラストシーンについて賛否の声が湧き上がった作品としてご記憶の方も多いことだろう。私も、このラストに心から納得がいったわけではない。しかしこのシーンを「セラピー」として読むなら、こういうことも「あり」だろう、という立場を取る。 エリカは暴行のトラウマから、復讐という症状に取り憑かれている。しかし復讐を貫徹させただけでは彼女の症状は終わらない。なぜならエリカは、「謎の執行 人」役を演じつつ殺人を繰り返すことで、さらに心を蝕まれているからだ。殺人行為の中毒になってしまい、引き金を引くことにためらいがもてなくなってし まっている。暴力は、たとえ「正義」を装っていたとしても、躊躇やためらいを欠いてしまったら「人格障害」と変わらない。そう、本作のエリカは復讐に取り 憑かれるあまり、「正義の味方」という症状を病むに至ってしまった「病人」なのだ。 それゆえエリカに自分を撃たせるという刑事の判断はあまりにも適切だ。どれほど殺人に麻痺した手でも、親しい相手を傷つける場合には震えるだろう。彼の判 断は正しかった。エリカは彼を撃ち、撃つことで殺人への躊躇や葛藤を取り戻す。かくしてエリカは、「謎の執行人」と決別した。『ブレイブワン』という映画 が興味深いのは、正義を懐疑するのみならず、それを一種の治療対象(つまり病気)として扱う態度がかいま見えるためだ。この描写があればこそ、私はかろう じて本作を肯定できる。
正義のリアル
ところで『ブレイブワン』の設定を聞いて、漫画『デスノート』を連想した人も多かったのではない か。細かい説明は不要だろうが、相手の名前を記すことでその相手を殺すことができる「デスノート」を手にした少年・夜神月(やがみらいと)が、この世から 悪を撲滅すべく、次々と殺人を手がけはじめるのが物語の発端である。 彼の行為こそは、まさに多くの自警団ヒーローがとっている行動にほかならない。しかしなぜか、『デスノート』における夜神月の存在は、正義のヒーローならぬ、狡知にたけた邪悪な少年として描かれる。 これは『デスノート』という手段によるところも大きいだろう。正面から体を張って敵と戦わずとも、顔と名前さえわかれば、ほぼ確実に相手を殺すことができ る。いわば夜神月+「デスノート」は、悪がまともに立ち向かったら確実に潰されてしまうほど強大な「正義」なのだ。ここまで描かれて初めてわかったこと、 それは「強大すぎる正義」は、もはや「悪」と見分けがつかない、ということだ。 『デスノート』は、ゼロ年代の漫画作品中最大の問題作の1つであり、その人気も圧倒的だった。アニメ化はもちろん映画化やスピンアウトスピンオフ作品まで 制作され、軒並みヒットしている。漫画としての質が高いのはもちろんだが、こうした特異な思想を秘めた作品が人気を集めるという点は、なにやら象徴的です らある。 今回私は、『ダークナイト』を発端として、『ブレイブワン』や『デスノート』といった作品が「正義」をどのように扱ってきたかを概観してみた。もはやフィ クションのなかですら、素朴な倫理観である「正義」の耐用年数が切れはじめているということ。それは何を意味するか。 たまたま「正義」を演ずることになった主人公は、夜神月のように正義を自明のごとく取り込んで人格障害化するか、エリカのように正義に取り憑かれて病むか、バットマンのように葛藤しつつダークサイドへと逃げ込むしかない。 このような正義の位相こそが、現代の「リアル」なのである。 もはや正義に単純な希望を託すことはできない。それはもはや、ノスタルジーの身ぶりとしてしかありえず、その意味で希望は過去にしかない、のかもしれない。 しかし「9.11」以後の世界において、「正義」をこのように相対化し、懐疑してみる姿勢はもはや避けることはできない。それはいささか寂しいことかもし れないが、認識としては前進なのだから。そこから先に何が見えるかはまだわからない。あるいは『ダークナイト』の続編に、そのヒントが描かれるのかもしれ ない。しかし忘れずにおこう。素晴らしい続編は、われわれ自身が「その先」への想像力を鍛えておくことで、初めて与えられるであろう、ということを。
第2回 あらゆる関係はS−Mである
「ドSキャラの系譜」
先日、さる老舗のアニメ雑誌の取材を受けた。テーマは「ドSキャラ」。最近、漫画・アニメ作品ではサディスティックな性癖をもつキャラの人気が高いのだという。その理由を精神分析的に検討してほしい、という依頼である。 タテマエ上は中高生が読む前提の雑誌であることを考えるなら、これほどあからさまに性的嗜好をテーマとした特集が組まれるのは、ちょっと驚くべきことだ。おそらくこの状況は、「萌え」という言葉の一般化と無関係ではないだろう。 いかなる性癖であれ「〜萌え」という言葉に変換された時点で、あっさりと解毒されてしまうからだ。まったく同じ意味であっても、「私、マゾなんです」と いう言い回しよりは、「ドSキャラ萌えです」という言い方のほうが「ネタ」的な印象を与える。つまり虚構性が高くなる。なぜならこの言い回しは、「私は 『サディスト好き』というキャラを演じています」ということをも意味するからだ。 ちなみに漫画・アニメの歴史にあって「ドSキャラ」はつねに一定の人気があった。念のため補足しておくなら、たんに冷淡であるとか厳格であるだけでは 「ドSキャラ」呼ばわりはされない。つねに必要以上に嗜虐的であることが必須条件だ。古くは宮ア駿の作品『天空の城ラピュタ』(徳間書店/DVDの発売元 はブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント)における敵役・ムスカがいる。無数の兵隊が海に落下するさまを見て「人がゴミのようだ!」と叫ぶ有名なセ リフがあるが、幼女のおさげを銃弾で吹き飛ばすような性癖がこのキャラの本質である。20年以上前の作品ながら、この極悪キャラの人気はいまだに高く、 ネット上にはファンサイトまであるほどだ。 私の知るかぎり、もっともシャレにならないシリアスなサディストは、萩尾望都『残酷な神が支配する』(小学館文庫)におけるグレッグである。表向きは金 持ちの英国紳士、しかしそのウラの顔は再婚相手の息子に性的虐待を加えることを無上の喜びと感ずる異常な男だ。その行為もさることながら、目的を遂げるた めには無垢な少年を精神的にとことん追い詰めることも厭わない鬼畜ぶりには胸が悪くなるようで、とてもキャラ萌えの余地はない……かに見える。しかし強者 の女性ファンのなかには案の定「グレッグ萌え」がいるらしく、「ドSキャラ」人気の奥深さを教えてくれる。 これらにくらべれば昨今の「ドSキャラ」は、はるかに演技性が高い。『ギャグマンガ日和』(増田こうすけ、集英社)における曽良(そう、芭蕉の弟子のあ の曽良だ)、『魔人探偵脳噛ネウロ』(松井優征、集英社)におけるネウロ、『銀魂』(空知英秋、集英社)の沖田総悟、『黒執事』(枢やな、スクウェア・エ ニックス)のセバスチャン、『まりあ†ほりっく』(遠藤海成、メディアファクトリー)における祇堂鞠也など、いずれもその性癖はシリアスなものというより は、ギャグのネタでしかない。その意味では、ちょっと前に一世を風靡した「ツンデレ」キャラにも通ずるところがある。
フィクションにおける「関係性の快楽」
「ドSキャラ」人気の基本を支える要因は単純なものではない。もっとも重要な背景としては「やおい・BLカルチャー」を考えておくべきだろう。これは、 好みの男性キャラどうしをゲイのカップルに見立ててつくられるファンタジーの1ジャンルを指している。くわしい解説は本題からは外れるので割愛するが、や おいやBLにおいてことのほか重視されるのが「攻め×受け」のカップリングである。 これは要するに、ゲイ・カップルにおける「(挿入)する側」と「される側」の区分を意味しているが、この関係性はほぼそのままSとMの関係に相当すると いってよい。もちろん「攻め」がつねにSキャラというほど事態は単純ではないが、SMに近似できるようなキャラの落差こそが、やおい・BLカルチャーの根 底にある。そもそもやおい文化の偉大な功績は、人間関係を突き詰めればSとMの関係に行き着くほかはない、というフロイトの見出した真理を再発見させてく れた点にあるのだ。 その意味で「ドSキャラ」萌えは、女子にとってはやおい文化への導入としても重要な意味をもつだろう。「ツンデレ」萌えは男子おたくに、虚構における関 係性の快楽を教えた。それとまさに同じような機能を、「ドSキャラ」は担うことになる。そう、嗜虐性の餌食となるMキャラの存在なくして、「ドSキャラ」 萌えは成立しない。それゆえにこの感情が、つねにSとMという関係性を前提としていることは明らかだ。そしてくりかえすが、「SとM」は、ありとあらゆる 人間関係に潜在する「傾き」に対して与えられた名前にほかならないのである。 ところで私は、数年前からこのような意味での「関係性」に注目してきた。 思想や世界観だけで虚構を支えることは、しだいに不可能になりつつある。それらの要素は、つまるところ、「この物語を所有したい」という欲望に奉仕する だけだ。われわれが物語の「テーマ」を急いで理解しようとする場合、そこで作用しているのはこうした所有欲にほかならない。 しかし重要なのはむしろ、物語が「所有に抵抗する」ということである。テーマや思想に還元されない「ノイズ」こそが物語の真髄なのであって、これがある がゆえに物語は独自の領域性を主張できるのだ。私はその最大のものが「関係性」ではないかと考えている。その詳細については、来春に新潮社から出版が予定 されている単行本で再論することになるだろう。 閑話休題。いまやフィクションにおいて、関係性こそが最重要なキーワードとして浮上しつつあることはまぎれもない事実である。これは先ほどもふれた「ドSキャラ」人気などからもうかがいしれる。どういうことだろうか。 そもそも「キャラ」とは何だろうか。それは必ずしも、人格を抽象変換しデフォルメを加えたもの、を意味するばかりではない。「キャラ」は何よりもまず、「関係性」が畳み込まれた性格設定を意味している。 たとえばあなたが「Sキャラ」と認定されている人物と実際に会ったとしたら、どのようにふるまうだろうか。ほとんどの人は「空気を読んで」、つまり、相 手のキャラを傷つけまいとして、やや「M」寄りにふるまうのではないだろうか。キャラが関係性を決定づけるのは、まさにそうした瞬間である。そこにあるの は支配−服従というだけでは表現し尽くしがたい、もう1つの関係性の軸にほかならない。 サブカルを論ずる際の常であるとはいえ、前提の説明だけでずいぶん紙幅を費やしてしまった。今回は、1つの漫画作品を通じて、虚構における関係性の意味を検討してみよう。
『サインはV!』から『少女ファイト』へ
取り上げるのは日本橋ヨヲコ『少女ファイト』(講談社)。バレー漫画である。 バレー漫画といえば女子のスポ根もののはしりとして浦野千賀子『アタックNo.1』(集英社)や同時期に人気のあった神保史郎、望月あきら『サインは V!』(講談社)などがまず思い浮かぶ。両作品はアニメ化やドラマ化を経て人気を博し、事実上バレー漫画の代名詞的存在になった。おそらくバレー漫画とし て一般に認知されているのは、ほぼこの二大作品のみであろう。 もちろんそのあとにも『アタッカーYOU』(小泉志津男・原案、牧村ジュン、講談社)や『ヨリが跳ぶ』(ヒラマツ・ミノル、講談社)といった人気作品があるにはあるが、いずれも知名度は決して高くない。 『少女ファイト』も人気作ではあるが、必ずしも漫画ファン以外にまで有名な作品とはいえない。にもかかわらず私が本作を推すのは、マニアックな関心からではなくて、単純に作品としてすばらしいためである。以下、内容をごく簡単に紹介する。 大好きだった姉の交通事故死というトラウマを抱えた天才バレーボール選手・大石練(多い試練)は、その過剰な才能ゆえにかつて「狂犬」と呼ばれ、仲間た ちからも距離を置かれてしまう。しかしあるアクシデントをきっかけに、挫折経験者ばかりが集う黒曜谷高校バレー部に入部、そこで出会った仲間たちとの関係 において、その才能を徐々に開花させていく。 あまりにも多彩な登場人物と、入り組んだ相関関係ゆえに、これ以上詳しい紹介は難しい。日本橋はもともと、うっとうしいほど熱量の高い作品を描く作家と して知られていた。正直、本作以前の作品は、その熱量に作画が追いついていない印象があって私はそれほど評価していない。しかし、この作品でついに、日本 橋はその熱量を容れても歪むことのないスタイルを手に入れ、大きく「化けた」のである。 本作は作者自身がバレー経験をもち、みずからの漫画家としての技術的な成熟を待って、まさに満を持して描かれた作品である。本作が雑誌 『TVBros』(東京ニュース通信社)誌上で「2008ブロスコミックアワード」を受賞したのは当然といえば当然である。ちなみに私の知人(バレー指導 経験者。全国大会で優勝4回の実績がある)も本作の大ファンで、テクニカルな描写については、ほぼ折り紙付きと考えてよいようだ。 作者は基本的に気配りの人であり、それゆえに気配りのスポーツであるバレーをテーマにしたところもあるようだが、もちろん過去作品へのオマージュも欠かさない。 とりわけ『サインはV!』との、ほぼ確信犯的な類似性は明らかだ。 物語の導入部分だけでも、偶然とは思えないほど多くの共通点がある。バレー選手には不向きな低身長ながら、それを補ってあまりある天賦の才能に恵まれたヒロイン(朝丘ユミ、大石練)という設定がまず目につくだろう。 このほかにも、ヒロインがバレー絡みで姉(朝丘ミヨ、大石真理)を亡くしており、それ以来バレーに対してアンビバレントな感情を抱いていること、姉の死 の原因をつくったとおぼしき監督(牧圭介、陣内笛子)によってスカウトされ入団(入部)すること、プライドの高いライバル(椿麻理、伊丹志乃)との関係 や、不幸な出自を負った混血の美少女との絆(ジュン・サンダース、唯隆子)などがあげられるだろう(唯隆子は混血と明言されてはいないが、ジュン・サン ダースを連想させる「浅黒い肌」を与えられている)。 くりかえすが、ここにあるのは明らかに本歌取りないし先行作品へのオマージュの姿勢であって、問題はあくまでも、ここから先の展開なのである。読みくら べてみればすぐわかるが、二作品はこれほどの基本設定の類似にもかかわらず、まったく読後の印象が異なっている。 たとえば『サインはV!』の大きな魅力の1つに「稲妻落とし」や「魔のX攻撃」などといった現実離れした「魔球」の存在がある。しかし『少女ファイト』 には、この手の魔球はいっさい登場しない。もちろん経験者が読めば、現実にはありえないような描写も散見されはするらしいが、それはおおむね漫画的リアリ ズムとして許容範囲のものであるようだ。 しかし、なんといっても最大の違いは、『少女ファイト』に「スポ根」がほとんど描かれていないという点だろう。かつてバレー漫画といえば、少女向けのス ポ根ジャンルの代表のようなものだった。「魔球」のたぐいは、まさに『巨人の星』がそうであったように、常人離れした努力と根性の象徴にほかならなかっ た。しかし、そのいずれもが、本作には見当たらないのである。 一般にスポ根が衰退したのは、80年代に人気を集めたあだち充『タッチ』(小学館)の登場以降とされる。もちろん、『タッチ』の軽妙さや恋愛要素などは 本作にもしっかりと受け継がれてはいる。しかし本作には、80年代的なシニシズムやはぐらかしの要素はほとんど見られない。誤解を恐れずにいえば、ここに は「スポ根」とは別の意味での、きわめて勁い精神性が存在する。しかしそれは、もはや「根性」のかたちをしていない。それはまず何よりも「他者への配慮」 というかたちで現れる。
第2回 あらゆる関係はS−Mである02 →
野球漫画を変えた「おお振り」
その意味で、本作における、より決定的な先行作品はひぐちアサの『おおきく振りかぶって』(以下『おお振り』、講談社)ではないだろうか。 『おお振り』は野球漫画に革命をもたらしたとされる作品である。 物語の設定は、無名の新設野球部から甲子園優勝をめざす高校球児たちという、いわば野球漫画としては定番中の定番である。しかし本作は、そのあまりにも 斬新な描写で「野球漫画に新風を吹き込んだ」と高く評価された。読みはじめてすぐに驚かされるのは、ヒーローであるはずの投手が弱気で卑屈な性格であると いう、およそ野球漫画の主人公としてはありえないような性格造形である。 もちろん本作は、単純なトラウマとその癒しが描かれるような、悪い意味での心理主義的な作品ではないし、「スポ根」もいっさい登場しない。しかし、従来 のスポーツ漫画では考えられないほどの繊細な心理描写や、選手の日常の細やかな描写ぶりなどが新鮮であると高く評価され、2006年の手塚治虫文化賞「新 生賞」、2007年第31回講談社漫画賞一般部門など、数々の受賞歴がある。 本作の画期性には全面的に賛同しつつも、私が『おお振り』にいまひとつのめり込めなかったのは、一部で指摘されているような「やおい・BL」的なムード ゆえである。そうした要素そのものが受け入れがたいのではなく、この作品をBL野球漫画的な方向で売ろうという意図を最初に感じさせられてしまったことが 大きかった。 実際にそうした意図があったかどうか、いまとなっては定かではない。しかし少なくとも、某有名書店が本作のBL性を強調するような売り方を試みて批判さ れたことは事実としてあった。売る側の意図はともかくとして、本作が「やおい・BL」的文脈でも十分に楽しめる作品であることは間違いない。この事実は示 唆的である。 先にも述べたとおり、「やおい・BLカルチャー」の本質は、関係性の快楽という点に極まる。その意味で『おお振り』の画期性は、心理主義的描写などでは なく、スポーツ漫画にはじめて「関係主義」を全面的に導入したという点に集約されるのではないだろうか。少なくとも私が『おお振り』を『少女ファイト』の 先行作品とみなすのは、この文脈をおいてほかにない。 だとすれば日本橋ヨヲコは、『おお振り』を参照しつつも、かなり慎重に、自作から「やおい・BL」的要素(あるいは「百合」〈=レズビアン〉的要素)を 排除しようとした可能性がある。あるいはここに、描写が「二者関係」に輻輳しやすい「野球」と、同じく「三者関係」以上に展開していかざるをえない「バ レー」との決定的違いが反映されているのかもしれない。
才能=トラウマ
閑話休題。『少女ファイト』に戻ろう。 先述したとおり、主人公の大石練は、姉の死というトラウマを負っている。そのつらさを紛らわすために、バレーの練習に没頭するのだが、その没頭ぶりと才 能があまりにも突出していたために、周囲のメンバーがついていけず、結果的に彼女は孤立してしまう。そう、トラウマは姉の死ばかりではない。日本橋の作品 にあっては、過剰な才能すらも、ある種のトラウマのように扱われることになるのだ。 この姿勢は、漫画そのものをテーマとした日本橋の佳作『G戦場ヘヴンズドア』(小学館)の時点から一貫している。天才的な漫画の才能をもつ主人公・長谷 川鉄男は、その才能ゆえに癒されない苦痛を抱え、ただ漫画のためではなく、手段としての漫画を描きつづける。ここには姉の死を忘れるための手段として、ひ たすらバレーに没頭する大石練の姿が重なるだろう。 『G戦場〜』が特異なのは、それがたんなる天才の栄光と挫折という展開には決してならないところだ。鉄男はペンを捨て編集者になるのだが、その姿は挫折 としては描かれない。彼は堺田町蔵や菅原久美子をはじめとする仲間たちとの関係のなかで、おのれの才能と発展的に決別していくのだ。 くりかえそう。日本橋の作品においては、才能はほぼトラウマと同等の位置に置かれることになる。さらに、関係性がそのトラウマを癒していく過程がきわめて説得的に描かれるのだ。 それゆえ『少女ファイト』の最大の魅力は、なんといってもその入り組んだ群像劇にある。一般に女子におけるバレー漫画の人気は、プレーヤーが実際に多い こともさることながら、タカラヅカ的な凛々しい女の園という魅力を抜きにしては語れない。しかし日本橋は、果敢にも大量の男性キャラを物語に投入し、女性 キャラとのカップリングを積極的にはかろうとする。それぞれのキャラが背負っているものがていねいに描かれているので、こうしたキャラクター操作がまった く御都合主義に見えない。
溶け合うキャラたち
キャラクターといえば、『少女ファイト』で特筆すべきは、その絵柄の変化である。本作と過去の日本橋作品とのあいだには、技術的にもスタイルとしても大 きな断絶がある(単行本の表紙を比較してみるだけでそれはわかる)。これはたんなる「進化」ではない。過去作品の描線にかすかにかいま見えた「迷い」のよ うなものがみごとに払拭されている。そう、『少女ファイト』にいたって日本橋ヨヲコは、まったく独自のデフォルメの文法を確立したのである。 それはあまりにも独特なので、彼女1人のオリジナルスタイルに留まるか、大量の模倣者を生み出すのか、現時点ではいずれとも予測がつけにくい。いずれに せよ、漫画を読む愉悦は「輪郭線の快楽」に極まるという個人的見解からすれば、彼女の描線は文句なしにすばらしい。 その大胆にデフォルメされた描線からある程度予測可能なことではあるが、日本橋はキャラの類型性を恐れていない。これほど複雑な群像劇を描きながら、 『少女ファイト』のキャラたちは、性格的にも絵柄的にもきわめて輪郭のはっきりした、よい意味でシンプルなキャラばかりなのだ。たとえば伊丹志乃など、ど こへ出しても恥ずかしくない典型的な「ツンデレ」キャラである。 『G戦場〜』などの過去作品とくらべてみても、「キャラの類型化」は、いっそう確信的に練られていることがわかる。この戦略は正解だ。日本橋は漫画が何 よりもまず「感情のメディア」であることを知悉している。だからこそ漫画においては、類型的なキャラこそが最も輝くということも。むしろ漫画においてあえ て類型化を忌避すること(「複雑なキャラクター」だけを描くこと)は、しばしば「文学性」への擦り寄りという危険を冒すことになるだろう。 キャラが類型的なぶんだけ、その関係性のネットワークは、恐ろしく緻密に設定されている。おそらく作者の仕事場には、キャラクターの設定表やキャラ間の 緻密な相関図が壁一面に貼られているのではないだろうか。私はすでに本作を5回以上通読したが、この複雑に張りめぐらされた関係性のネットワークを、いま だ完全に把握するにはいたっていない。 もちろん、まだ描かれていない部分もあるし、一部のキャラは他作品と重なっているため、関係性の外周はどこまでも広がっていく。そこにかいま見えるのは 「自分がつくりだしたキャラクターの生をまっとうしてやりたい」という作家の誠実さであり、キャラクターという存在への愛にほかならない。
ところで、作者が経験者であるという以上に、本作で「バレー」が選択されるほかなかった経緯については、大石練と亡き姉・真理とのやりとりからもうかがえる。 ――「姉ちゃんは 何でそんなに バレーが 好きなの?」 「うーん 何だろ 試合中さ 極限まで いくと 人との 境目が なくなるの」(中略) 「人も ネットも コートも ボールも 自分の 一部になった 気がするの」 「こんなに 溶け合えるもの ほかにないわ」(『少女ファイト』1巻) これがバレーに対する一般的な見解かどうかはわからないが、少なくともこのくだりを読めば、本作が決して「魔球」を描かず、「1人の天才」だけに焦点を あてようともしない理由がはっきりする。この主題は、1巻のクライマックスともいえる決定的シーンで、もう一度反復される。 ふとした誤解から白雲山中学バレー部を退部になった大石練が、姉の墓前で泣き崩れているところへ、黒曜谷高校バレー部の監督・陣内笛子が現れる。彼女は 真理の死に責任を感じており、以来ずっと喪に服したまま毎日の墓参りを欠かさずにいたのだ。笛子は練に「生き方が雑だ」と言い放ち、さらに言葉を続ける。 「生きている意味が 全て噛み合う その瞬間を 味わいたいのなら」 「丁寧に生きろ」 と。 「溶け合う」ことと「噛み合う」こと。その瞬間を描くためには、たしかに「バレー」しかなかったのかもしれない。「天才」でも「根性」でもなく、「関係 性」を描くこと。スポーツ漫画におけるその可能性は、まず、ひぐちアサの『おお振り』によって見出された。しかし日本橋は、それとはまったく異なる関係性 の様相を、『少女ファイト』において描き出そうとしているかのようだ。
「決断主義」から「関係主義」へ
批評家の宇野常寛は、近著『ゼロ年代の想像力』(早川書房)において、「決断主義」を批判している。「決断主義」とは――宇野独特の用法でいえば――小 泉純一郎や漫画『デスノート』(大場つぐみ、小畑健、集英社)の主人公・夜神月のように、「何が正しいかは政治的に勝利した人間が決定する」という世界観 に基づく「動員ゲーム」を指している。それは現実世界と虚構世界のいずれにも見られる傾向だ。彼はこうした決断主義を乗り越えるべく、「コミュニケーショ ン」の重要性を主張する。 「家族(与えられるもの)から疑似家族(自分で選択するもの)へ、ひとつの物語=共同性への依存から、複数の物語に接続可能な開かれたコミュニケーショ ンへ、終わりなき(ゆえに絶望的な)日常から、終わりを見つめた(ゆえに可能性にあふれた)日常へ――現代を生きる私たちにとって超越性とは世界や時代か ら与えられるべきものではない。個人が日常のなかから、自分の力で掴み取るべきものなのだ」(『ゼロ年代の想像力』) この、宇野本来の挑発性から見れば、意外なほど穏健な主張を支えるのは、神学者ラインホールド・ニーバーによる「静穏の祈り」の文句である。 「変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さ を与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を、われらに与えたまえ」 カート・ヴォネガットもみずからの小説中に引用した、この有名な文句には、私もかつて感銘を受けたことを告白しておこう。しかし、いまは必ずしも当時の 私に賛成できない。あえて嫌味な言い方をすれば、私はもう、それほどナイーブな発想が困難になったのだ。 私はこの「祈り」に、努力目標を聞かれた優等生が答えがちな言葉、「短所は改め、長所はより伸ばしていきたいと思います」的な空疎さを感じてしまう。決して間違いではない、しかし……という違和感。それは何に由来するか。 「長所」と「短所」とはしばしば同一物だ。たとえば「社交性」と「没個性」、「自立心」と「頑なさ」が表裏一体であるように。それゆえ「短所は改 め……」式の発想は、つねに本質的な矛盾を抱え込むことになるし、突き詰めれば平均化こそが最善、という抑圧的な発想につながりかねない。 同じことは「変えられるもの」と「変えられないもの」の区別についてもいえる。私は人間性について、「変われば変わるほど変わらない」という基本的な認 識を一貫して堅持している。これは言い換えるなら「変革」こそが「保守」の要件、という意味でもある。 それゆえこの2つの区分は、つねに事後的にしか見出しえない。「変わりたい」意志と「変わりたくない」意志、これに加えて「変われと強く言われれば変わりたくない」意志などのせめぎあいがあり、その結果としてしかこの「区分」は見出しえないのだ。 これは決して、何を意志しようとなるようにしかならない、という意味ではない。むしろその正反対である。「意志を放棄すれば、人は人の形を保てなくな る」という意味だ。それゆえニーバーの祈りに関していえば、「勇気」も「冷静さ」も、同じ1つの意志の事後的な形式を示すだけだし、「知恵」は文字どおり 「後知恵」でしかありえない。もう一度くりかえすが、これはニヒリズムではない。 ニーバーの祈りを支えるものは「コミュニケーション」への信頼である。本来「祈り」は「不可能性」が前提であろう。それが不可能であるときにこそ、なさ れるものが「祈り」なのだ。またそうでなければ、それは「祈り」ではなくたんなる「願望」だ。ニーバーの「祈り」は、「CHANGE!」と叫ぶオバマのよ うに、その可能性へと人をそそのかす。 「話し合えばわかりあえる」と信ずる者にとって、「変わりうるもの」と「変わりえないもの」の区分は単純だ。それは「話が通じる/通じない」という区分 とぴったり重なるだろう。そのような区分は、まさに「自分自身」のなかにもありうるだろう。しかし私は、このような区分に反対する。なぜならそこにあるの は「話は通じない」という、たった1つの真理だけなのだから。 そう、ラカンを持ち出すまでもない。話は通じない、それだけだ。もともと言語という、きわめて文脈依存度が高く不安定なコード・システムを獲得した時点 で、そのことは決定づけられていた。また、だからこそ言葉巧みな人間が未熟さを抱え込んだままだったり、寡黙な人間が驚くべき成長を遂げるといった逆説が 起こりうる。この逆説とコミュニケーションは関係がない。煎じ詰めればあるのは「関係性」ばかりである。 『少女ファイト』の世界もまた、「話の通じない」世界ではある。大石練の躓きの石は、まさにコミュニケーションの齟齬がもたらした、誤解と思い込みである。ときとして「才能」もまた、こうした齟齬をもたらすことを、日本橋は仮借なく描き出す。 コミュニケーションに傷つけられた大石を癒すのは、幼馴染みの式島兄弟であり、バレーの仲間たちとの関係性だ。そう、日本橋は知っている。「コミュニ ケーション」の対義語が「関係性」であることを。人が溶け合い、意味が噛み合う瞬間は、意志と関係性なくしては、決してありえないということを。 すでに社会を覆い尽くしているコミュニケーション至上主義は、明らかに宇野の言う「決断主義」の背景を成している。コミュニケーション主義こそは、それ が変わりうるものであることがこれほど明らかであるにもかかわらず、不動の壁としてわれわれの前に立ちふさがり、変化への意志を果てしなく萎えさせる当の ものだ。 しかし「あきらめる」(大石練と長谷川留弥子が忌み嫌う言葉だ)ことはない。われわれにはまだ「関係主義」が残されている。それがどんなかたちのもの か、まだ想像もつかないが、『少女ファイト』において、その希望の輪郭線がすでに描かれつつあることは間違いない。
斎藤 環(さいとう・たまき)精神科医
筆者略歴:1961年岩手県生まれ。筑波大学医学専門学群卒業。医学博士。現在、爽風会佐々木病院精神科診療部長。専門は思春期、青年期の精神病理、およ び病跡学。著書に『文脈病』(青土社)『社会的ひきこもり』(PHP研究所)『生き延びるためのラカン』(バジリコ)『文学の断層』(朝日新聞出版)など 多数。
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