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昔々、亀は神様の使いであると信じられていた。なぜなら、亀の甲羅が六角形の模様で覆われていたからである。六はユダヤ教の徴し。それを背に負っているのはただの生き物ではない。そう思われていたのである。
このような話を聞くと一笑に付してしまう方も多いだろうが、それは、現代人が神秘や自然に対する素朴な感情を失ったからである。古代ギリシャでは魚がイエスの化身として崇められていたほどである。
もう一つ、聖書を信じた人々が敬意を込めて接し、名づけたものがある。それは昆虫の最高峰と書き表す<蜂>である。蜂は六角形の巣を造り、その上、8の字ダンスまで踊る。聖書の民が特別視しない訳がないのである。この虫を<ハチ>と呼んだ古代の日本人は8とハチが切っても切れない関係にあることを知っていたのでそう名づけたのであろうが、しかし、歴史の上ではわが国にアラビア数字が広まったのは遥か後の世のことである。
亀が聖書の神と密接に結びついていることは平御幸氏のサイト「エフライム工房」に詳しいので参照していただければと思う。
さて、我らが浦島太郎は助けた亀の背中に乗せられ、竜宮城へと向かった。竜宮城が海の底にあるのは<生みの底>つまり、亀の故郷ということである。亀の甲は六、六とはユダヤ教、ユダヤ教の故郷はエデンの園である。
竜宮城もエデンの園も何一つ不自由のない楽園だった。すべての生き物は争うことなく安穏に暮らし、時間さえも存在しない天国であった。
しかし、乙姫とエバの二人の女性は言葉によって同じように二人の男性を不幸に陥れたのである。エバはアダムを誘って知恵の木の実を食べさせ、エデンの園から生老病死が存在する苦界に転落する際の道連れにした。
一方、乙姫は意地悪くも太郎に玉手箱を与え、開けてみたいという欲望に駆られる言葉を投げかけた。その結果、太郎は禁断の煙を吸って老人の境涯に堕ちてしまった。禁断の煙を吸ったのは禁断の実を食べたのと同じであり、老人とは古来、知恵あるものの象徴である。そして死期が近いことを表す。
太郎だけではなく、かぐや姫や桃太郎も聖書のどこかで自分たちを探してくれるのを待っているに違いない。
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