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『日本語は生きのびるか』 英語が世界の支配語となるグローバル化社会を、辺境の国の言語・日本語は生きのびることができるか? http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/345.html
株式日記と経済展望 2010年4月7日 水曜日 インターネットの時代に日本語は廃れていくのだろうか?
はじめに まず、読者の皆さまに次の質問をお考え願いたい。二十二世紀に日本列島に住む人々は、はたして何語を話しているだろうか。可能性として五つの場合が想定される。お笑い種とお思いかもしれないが、筆者は存外真面目である。 一、何語も話していない。理由は、人類が人為的原因 (核爆発汚染、細薗テロ、温暖化など)、または非人為的原因 (伝染病、大唄石の衝突など)によって絶滅しているから。 二、他文化の強力な影響下、日本人の大部分はバイリンガル (日本語と英語、あるいは日本語と中国語) になって、外では世界の標準語を、内では日本語という地方語を使い分けて話している。 三、日本人の多くは非日本人ないしは非日本語系日本人と結婚して (あるいは緒婚を余儀なくされて) しまっており、その二世以下の子孫はもはや日本語を語さない。元は日本語人だった一世も周囲の社会の言葉を使って生活するようになっている。そこで新しい言 四、優秀な翻訳機器が開発され、言語問題は氷解し、語学教師や通訳の大半は失職する。 五、他文化の強力な影響下にはいってはいるが、地球社会の主流であるインド・ヨーロヅパ語族の人と違って、大部分の日本人は外国語学習が不得手で、依然として日本語人であり続ける。そのおかげで日本文化のアイデンティティーもまがりなりに保たれているが、そんな日本は地球社会では脇役に甘んじている。 「こんな愚かな可能性を考えた、阿呆らしい東京大学名誉教授も昔はいたものだ」と百年後に笑われることを切望しながら、私はいま本書の冒頭にこんな設問をした次第である。百年後でなくとも、すでに今からお笑いの方もいるであろう。 日本語の盛衰は、日本という土地と運命的に緒びついている。日本語を母語とする国は地球上に唯一つ日本のみである。この唯一つという結びつきは、日本語ならびに島国日本の特殊性であり、世界で大国といわれる国の言葉がおおむね複数の国に跨って語されている事実と異なる。そしてそれは英語が、大英帝国の弱体化にもかかわらず米国の強大化によって、依然として地球社会において覇権的な地位を確保している事実と非対称的なコントラストをなしている。 スペイン語、フランス語、ロシア語、アラビア語、中国語、ドイヅ語などが複数の国や土地で話されているのに比べると、日本語が占める言語空問はきわめて特殊に限画されているといわざるを得ない。またそれだからこそ、日本語の衰退はとりもなおさず日本国家の衰退に直結する、乃至は日本国家の衰退は日本語の衰退にそのまま直結するのである。 言語が亡びて、その言語が担ってきた文化が活力を失わずにすむことなどあり得るだろうか。言語や文化が衰弱した場合、日本人は一体この地球社会でどのようになるのだろうか。このように時間的・空問的に広角の視野に立って眺めると、日本語の問題は、もはや純粋な国語学の問題ではあり得ないことがわかるだろう。文明の衝突や融合の中で生じる日本語の諸問題は、国際文化関係という背景から見直さねばならない。ちょうど日本近代史が本州・四国・九州・北海道に局限された日本列島史ではあり得ず、国際関係の中で見なければ理解できないのと同様である。 太平洋戦争についても「敵ヲ知リ己ヲ知ル」人でなければ公平な記述は期待できない。単眼の国史学者は、日本近代史を書く資格にややもすれば欠けていた。日本の正当性を言い立てる学者の場合はもとより、不当性を言いつのる教授の場合もそうであった。日本語の将来はいまやグロバリゼーションの文化運動の一環として、いいかえると、わが国の地球社会化の動きに伴う文化史的現象の副産物として、考察すべき時代にはいりつつある。 国際文化関係論の見地から予測すれば、こんな極端な場合すら想定し得る。言葉は亡びても人間は生き続ける。私たちの子孫が将来末長く生きのびるとしても、日本語人であることを止かいむめ、英語人(とか中国語人)に移行する可能性は皆無ではない(そのような「母語が亡びる悲劇」については、第五章に挙げた実例を読まれたい)。それはたとえ子孫がこの日本列島にそのまま居住していても起こり得る言語統合の事態である。 わが国内でも従来は、かつての植民地をはじめ海外から渡来した人々やその子孫の日本語人への移行は見られた。改革開放後来日し、日本で学位を取り、大学などに職を得た中国人留学生の第二世代である華人の子供たちの多くは、親の意向が奈辺にあれ、今や教育環境によっては日本語人として成人しつつある。それとは逆の動きとして、将来は、日本人が日本国内にいながら、地球社会で有力な別の言語へ移民するかもしれない、という可能性もある。 明治の元老であった松方家では、西洋女性を家庭教師に雇って子供を英語人として育てた。その孫の一人がライシャワー夫人となった。過去においてはいかにも例外的な教育上の選択であったが、そのような教育がこれからはより一般的になる可能性は存外無視できない。海外帰国子女の数は増える一方だろう。そのような子供たちは、良くすればバイリンガルの能力を発揮して国際舞台で活躍するであろうが、悪くすれば英語(あるいは中国語)は達者だが、日本の事はパセティックなまでにわからず、それでいて日本を見くだす英語系(あるいは中国語系)日本人が増えることとなるかもしれないのである。 日本は一応独立しており、日本語の将来も一応保証されている。とはいっても日本は世界の中で言語的にはマジョリティーではない。日本列島以外に日本語を日常的に語す人のいない私たちの日本語は、使用国が一国のみに留まるという意味においては、マイノリティーなのである。日本語が国際連合の公用語になり得ないのは、日本が敗戦国だったからだけではない。 言語的に多数派となるためには、その言葉が複数の国で話されることが必要条件である。多くの国の人々が話すからこそ英語は優位に立っているのであって、話す人口の絶対数からいえば中国語人は断然突出して世界第一位であり、英語人をはるかに抜いている。 ここで歴史を振り返る。日本の知的選良は漢字文化圏の周辺に位置した地域の住民として、朝鮮半島やインドシナ半島のエリートと同じく、漢文という中国語の文言体を第一外国語として長い問習い続けた。その漢文が第一外国語であった時期は、聖徳太子以前から千年以上の長きに及んだ。しかしその日本人は十九世紀中葉、中国でなく英国を筆頭とする西洋がこの地球世界の中心的地位を占めているという世界の現実を認識した。それで百五十年前、第一外国語を漢文から英語へとスイッチしたのである。 東アジアの共通語はかつては中国語であった。これは西ヨーロヅパでの共通語が以前はラテン語であったようなものである。ところが東アジアにおいても西ヨーロヅパにおいても、共通語が英語になった。言語を異にする多くの人々が仕事の関係で共通に話す言葉をリンガ・フランカといい、もとは地中海地域の通商用語をさした。しかし地中海でなく大西洋が西洋史の中心となって以来、世界の共通語の地位は英語とフランス語の問で争われた。 それが決定的に英語となったのは、十九世紀にイギリスが世界の七つの海を制したからである。二十世紀前半、大英帝国に次いで同じく英語国であるアメリカ合衆国が世界最大の強国となった。そのために英語の支配的地位はいよいよ確固たるものとなった。アメリカ帝国の政治的な一極支配は実現しなかったけれども、それでも英語は、パソコン時代の今日、人類の共通言語となっている。 この言語学的現実は否定すべくもない。二十一世紀は二十世紀にもまして「英語の世紀」であり続けるだろう。ドルが世界の基軸通貨であることを止めた後でさえも、英語が世界の基軸共通語であることに変わりはないのではあるまいか。中国はロシアとブラジルをかたらって、ドルとは別の基軸通貨の設定を試みているが、その基軸通貨をめぐる交渉それ自体も英語で行なわれているのである。 日米中の文化史的三角関係は、私どもにとってきわめて大切な関心事である。本書では三国の歴史的な力関係に応じて「米中日」と呼ぶことにするが、言語史的に見て、かつて漢文と呼ばれた中国の言語と英語と呼ばれる米国の言語が、日本にとって特別の重要性をもつことは、読者諸賢におわかりであろう。本書に収めた一連の評論は、その米中日の三角関係をいろいろな角度から論じた。 日本は国際政治史的にも、国際文化史的にも、漢語文化と英語文化の交錯する狭問に生きてきた。これからも生きるであろう。それらの国の文化や言語と日本人は、今まではどのようにつきあってきたのか、これから先はどのようにつきあうべきなのか。その関係の中で留学生の果たしている役割やその「一辺倒」になりがちな心理に迫り、あるいは日本と西洋との愛憎関係を分析し、文明開化と植民地化のデリケートな違いにふれる。本書はそのような国際文化関係論的な背景の中で日本語の運命を考えようとした、政策的提言をも含む試論である。 交通通信手段の発達により、地球の一体化は加速する。グロバリゼーションとは覇権的な中心文化が自已の規準を人類の共通規準として地球的規模で押し付ける現象をも指している。しかしただ「押し付けられた」という被害者意識的な受けとめ方はするべきではないだろう。「日本は冷戦後、グローバリゼーションと呼ばれるアメリカ主導の市場原理主義に翻弄され続け……人間の尊厳は失われた」「グローバル経済は日本の伝統的経済活動を損傷し、地域社会を破壊した」とは鳩山由紀夫民主党代表が日本の首相となる直前、『ニューヨーク.タイムズ』紙電子版に出した論文の主張だが、なにか一面的な言い方ではあるまいか。 日本国民は幼児性を露わにして世界の大人国に甘えるべきではないだろう。日本は主権国家であるが、グローバル市場から自らを隔離し、外資や外国からの影響力を排除することはもはやできない。日本人は徳川の鎖国の平和に母胎回帰できないことは承知しており、国際的な経済活動に自らも積極的に参加しているからである。実をいえば、日本はグロバリゼーションの受益国でもあるのである。 この試論では、米中日の文化史的興亡、とくに言語の盛衰にまつわる比較史的な考察を述べ、グローバル化時代の日本人の古典教養の教授法ともなるべき、一石二鳥の語学教育法を提案し、読者諸賢のご参考に供する。今日の日本は世界でも相当高度な高学歴社会である。そのような知的に成熟した平均的な読者を念頭に本書を書いた。学識披露の議論はしていない。常識的な推理に基く読物として各章をお読みいただければ有難い。(P7〜P13)
インドネシアやフィリピンでは看護師の資格を持っていても日本の病院で働くには日本の国家資格が必要になる。アメリカやイギリスの病院などでは多くの南アフリカやフィリピンの看護師が働いていますが英語が公用語だから垣根は低い。いわば言葉が非関税障壁になっているからですが、だから日本の看護師不足や介護視不足は外国人を活用する事は難しい。 昨日のNHKでは例によって、日本企業もグローバル化して役員会も英語で行えと言う主張でしたが、ならばNHKも役員会は英語で行っているのだろうか? NHKを始めとしてテレビのニュースキャスターで英語でインタビューが出来るキャスターはどれ位いるのだろうか? 海外で取材をするには最低限英語が必要ですが英語が話せるジャーナリストはどれくらいいるのだろうか? 日本を代表するようなジャーナリストでも英語が出来ないのが実態だ。 日本企業が外資に買収されて外人社長が就任したような場合は、社内の公用語は英語に変わる可能性が非常に高い。その代表的な会社にニッサンがありますがカルロス・ゴーン社長が英語で役員会を行なっている。NHKの「クローズアップ現代」で主張しているのは番組でも取り上げた堀場製作所やニッサンやソニーのようになれと言う事なのでしょうか。 しかしこのようにグローバル化したニッサンやソニーの技術力は他の同業の日本企業に後れを取っているのはなぜだろうか? 確かに日本企業をグローバル化して英語で仕事をするようにすれば世界の人材を登用できるようになるだろう。社長や役員も技術者も日本人ではなく外人が多くなるだろう。そうなればまさしくグローバル企業だ。それが理想なのだろうか? よく例に上げられる韓国企業も外資の傘下に入り、世界中から人材を登用するようになった。韓国の大学では英語で授業が行なわれている。英語が出来なければ韓国のグローバル企業には就職は難しいだろう。そのように日本がなったらどうなるだろうか? 日本の大学でも英語で行なわれる講座が多くなったと言う事です。海外の留学生を集めるには英語で授業を行なわないと集まらないからでしょうか。 日本の大学生は通常の授業ですらまともに出て来ないのに、英語で授業をしたらまともに付いて来れる学生はほとんどいなくなる。途上国の大学では欧米から大学教授を招いて英語で授業が行なわれている。だから勉強が出来る生徒は小学生の頃から英語を勉強して高校生になると英語でも数学などの授業が行なわれる。日本ではとても想像ができない。 番組では韓国の大学がベトナムの高校生に留学案内を英語でしていましたが、アジア人同士は英語で情報交換することが常識になっているのだろう。これを日本でやるとしたらどうなるのだろうか。日本では高校や大学でも英語の授業はあるが英語で数学や化学の授業を行なう事はほとんどやっていない。日本語で十分授業が出来るからですが途上国では母国語で高等教育が出来ない状況になっている。 グローバル化というのは言語においても英語による支配が広がりつつあるのであり、18世紀における帝国と植民地との関係によく似ている。アジア各国の首相や大統領が英語が達者なのは英語が出来ないと高等教育が出来ないからであり、英米に留学するか欧米から教授を招いて授業してもらわなければならなくなっている。これは学問のグローバル化であり植民地化と同じだ。 日本はまさに言語におけるガラパゴス状態であり、幕末における日本の状況とよく似ている。21世紀では英語支配が進み高校大学で英語で授業が行なわれていない数少ない国になった。フランスやドイツの大学でも多くの科目が英語で授業が行なわれている。だからドイツの首相とフランスの大統領が英語で話をしているのも当たり前の光景になった。かつてのフランス文化やドイツ文化の栄光はもはや無い。 日本人が韓国人や中国人と話しをするときも英語で話すのが普通になりつつありますが、昔なら筆談で会話が出来た。昔は漢語が東アジアの公用語であり日本の文化人は漢文を書いたり読んだりすることが出来た。だから夏目漱石は漢文も出来たし英語も出来たから三ヶ国語を書く事が出来た。 明治大正時代には中国から数千人もの留学生を迎え入れて近代文化を学んでいった。それが中国の近代化の源になったのですが、中国人留学生は日本語を学んで西欧の科学や民主主義を学んだ。現代では数万人もの中国人留学生を受け入れていますが、他のアジア人の留学生も多くなって来ている。 これからの世界において英語に対抗して生きて行くには、中国をはじめとしてアジアにおいては日本語が英語に次ぐ公用語として広めるべきだろう。いずれは文化における英語と日本語の大東亜戦争が行なわれるだろう。その事によって英語支配体制が崩れて言語の世界も多極化する時代が来るのではないだろうか。 インターネットの時代になり、コンピューターなどの科学分野の英語の支配力は圧倒的だ。次々と英語の専門用語が機関銃のように生み出されて、フランス人やドイツ人は翻訳するよりも英語を学ぶ事に切り替えてしまった。それに対して日本人の英語力は昔よりも落ちて来ている。先日も書いたようにアメリカに留学する生徒が3割も減ってしまった。 アメリカ文化そのものが日本人にとっては新鮮なものにならなくなってきたからだろうと言う事ですが、アメリカの大学でMBAをとっても日本企業で高く評価されないのはなぜだろうか? 外資系企業では雇ってくれても日本企業ではアメリカ帰りは出世コースから外れてしまう。グローバル化とは反対方向ですがどういうことなのだろうか? 携帯電話のように日本語は特異な進歩を遂げてガラパゴス化しているからだろうか?
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