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http://www.labornetjp.org/news/2009/1249361263097staff01/ から転載。
映画「ヒロシマ・ピョンヤン」が完成
映画「ヒロシマ・ピョンヤン」完成と上映のお知らせ
朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)で暮す被爆者を描いたドキュメンタリー映画「ヒロシマ・ピョンヤン 棄てられた被爆者」(伊藤孝司監督、上映時間90分)が完成しました。
ヒロシマ・ピョンヤン制作委員会 http://www.jca.apc.org/~earth/iinkai.html
日本政府による在韓をはじめとする在外被爆者に対する援護措置がまがりなりにも進んだ中で、「棄てられた被爆者」となっているのが朝鮮で暮らす被爆者です。日朝関係がさらに悪化している状況で、この問題での日本政府の動きは完全に止まったままです。
在朝被爆者は、382人が生存していることが確認されています。ですが深刻な食糧・エネルギー不足と、医薬品・医療機器が不十分な状況の中で、被爆者たちの健康状態は極めて悪く、死亡者は加速度をつけて増えています。
在朝被爆者の現状を描いた映画として「ヒロシマ・ピョンヤン 棄てられた被爆者」を制作しました。広島県大竹市で暮らしていて広島市で入市被爆したある親子を中心に、描いています。帰国事業によって平壌で暮す娘・李桂先さんは、次々と襲う病魔に苦しんできました。ですが自らの被爆を知ったのは、2004年に訪朝した母親からでした。被爆から59年もたっていました。
この映画のために、平壌市とその近郊で08〜09年に3回の撮影を行ないました。被爆者の自宅アパートでの日常生活のようすや、独特の社会体制の中で生きる被爆者の考えなどにも踏み込んで撮影しています。こうした撮影が実現したこと自体、現在の厳しい日朝関係からすれば極めて特別なことでしょう。
映画は、在朝被爆者の問題だけでなく、日本と朝鮮とに別れて暮す被爆者親子の間に立ちふさがる現在の日朝関係についても詳しく触れています。在朝被爆者への補償と援護措置の実現と、最悪な日朝関係改善のために、この映画が少しでも寄与することを望んでいます。
この映画を日本各地で上映していただくことを希望しています。お住まいの地域で上映を計画してみませんか。ご連絡いただければ上映要綱をお送りします。
<8月の上映予定>
■5日 14:00 「原水禁世界大会広島大会」 上映と監督あいさつ
広島市・YMCA国際文化ホール(広島市中区八丁堀7−11)
■26日(水) 「ヒロシマ・ピョンヤン」上映と伊藤孝司監督講演
4回上映 1時半〜 4時〜 6時半〜
名古屋市女性会館ホール (地下鉄「東別院」下車 ㈰番出口から東へ3分)
主 催: 映画「ヒロシマ・ピョンヤン」上映 実行委員会
問合せ: 西英子(052)808−3241
ヒロシマ・ピョンヤン制作委員会
名古屋市北区大曽根4−6−60 コリアンネットあいち気付
090−5450−5934
iinkai★mbn.nifty.com (★を@へ置き換えてください)
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【関連記事】
以下は「朝日新聞記事情報/G-Search」から検索、貼り付け。
北朝鮮被爆者の記録 支援、置き去り「おかしい」 ドキュメンタリー制作進む【大阪】
2009.06.04 大阪夕刊 10頁 2社会 写図有 (全950字)
広島や長崎で被爆した後、北朝鮮に渡った人たちは、日朝の関係改善が進まぬなか、調査や支援から取り残されている。その現状を伝えようと、三重県在住のジャーナリスト伊藤孝司(たかし)さん(57)が、今夏の公開をめざしてドキュメンタリー映画の制作を進めている。(千種辰弥)
映画は「ヒロシマ・ピョンヤン 棄(す)てられた被爆者」。
昨年の被爆者援護法改正で、健康管理手当の支給条件になる被爆者健康手帳の取得は、在外公館でも可能になった。だが、国交のない北朝鮮の被爆者は、置き去りのままだ。タイトルにはそんな思いが込められた。
植民地だった朝鮮半島から日本に来て、45年8月に広島と長崎で被爆した朝鮮人は約7万人いたという。うち3千人が59年に始まった帰還事業で帰国したとされる。
伊藤さんは92年以降、23回訪朝し、当局を介して被爆者らの取材を続けてきた。「同じ被害を受けたのに、住んでいる場所の違いで支援に差があるのはおかしい」。矛盾への憤りが支えだ。
これまで12人の被爆者から話を聞いた。印象深かったのは、平壌に住む李桂先(リケソン)さん(67)だ。「なぜか指先の皮がしょっちゅうはがれて血がにじむ」。原因不明の病に苦しみ、両手に包帯を巻いた姿が痛々しかった。
原爆投下の約2週間後、当時3歳だった李さんは母親に背負われ、広島市の爆心地近くに入った。直後に髪の毛が抜ける急性症状に襲われた。帰還事業で北朝鮮に1人で渡った後も、下痢など消化器系の不調に悩まされた。しかし自分が被爆者だと知ったのは、広島に住み続け、04年に北朝鮮を訪れた母に告げられた時だった。「苦しみ続けたのは原爆のせいだと認めてほしい」。李さんは手帳の取得を望むようになった。
映画では李さん母子にスポットを当てる。
昨年7月の原水禁訪朝団の調査では、これまで判明している被爆者1911人のうち存命なのは382人。伊藤さんは「食料や医療品が不足する北朝鮮で健康の維持は難しい。少しでも多くの被爆者が生きている間に支援すべきだ」と訴える。
映画は英語版も制作予定で、費用の支援を求めている。問い合わせは「ヒロシマ・ピョンヤン制作委員会」(iinkai@mbn.nifty.com)へ。
【写真説明】
出血する指先に包帯をしている李桂先さん=平壌、伊藤孝司さん提供