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「生き方の本質がロックだった」 忌野清志郎さんの魅力
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/126.html
投稿者 ワヤクチャ 日時 2009 年 5 月 04 日 21:01:12: YdRawkln5F9XQ
 

(回答先: 忌野清志郎さん死去…58歳ロックに生きた【日刊スポーツ】 投稿者 ワヤクチャ 日時 2009 年 5 月 03 日 21:36:54)

「生き方の本質がロックだった」 忌野清志郎さんの魅力
http://www.j-cast.com/2009/05/04040624.html
2009/5/ 4 コメント

ロック歌手の忌野清志郎さんが2009年5月2日、がん性リンパ管症のため58歳という若さで亡くなった。まさに『ロックな人生』を生きた忌野さんをリスペクトする多くのミュージシャンやファンが、ブログで衝撃の大きさを吐露している。

「凄くエモーショナルで、センチメンタルな心を持った男」
忌野さんは、ロックバンドRCサクセションのボーカルとして1970年にデビューした。社会的、政治的なメッセージを込めた楽曲も少なくなく、反骨のミュージシャンとして知られた。06年7月に喉頭がんを発症。放射線や抗癌剤での闘病を続け、08年2月には日本武道館の単独ライブで復活したが、08年7月にがんが左腸骨への転移が見つかり、以降の予定はキャンセルされたままだった。

そんな忌野さんをリスペクトする人は多い。音楽雑誌ロッキング・オンの発行人で、音楽評論家の渋谷陽一さんは5月3日に更新したブログで、カリスマの死を悼んだ。記事は「何を書いたらいいのか分からない」との書き出しから始まる。最近送られてきたファンクラブの会報に、いつも記載されているはずの本人の近況やコメントがなかったことが、心配だったという。

「とにかく、いろいろな事が悔しい。凄くエモーショナルで、センチメンタルな心を持った男だったけれど、同時にハードで前向きな姿勢を常に崩さなかった」「後ろ向きのセンチメンタリズムを清志郎は潔しとしなかった。俺をネタにセンチになっているんじゃねえよ、と言われてしまわないようにしないと」
渋谷さんはこんな思いを書き込み、同じ時代を生きられた幸運を綴った。

サンボマスター山口隆「喪失感でいっぱい」
ロックバンド「サンボマスター」のボーカル・山口隆さんも同日のブログで、「僕は少年時代から忌野清志郎さんの音楽が大好きだ」と書いている。山口さんにとって、忌野さんはソロになってからの方が身近だったという。

「特に当時テレビドラマの主題歌だった『サラリーマン』という曲は強烈に好きだ」「上京した頃、僕はこの曲をずっと聴いてる事が多かった。思い返すと、自分が上京して親元を離れいよいよ大人に近づいていくことへのぼんやりした不安を、この歌が埋めてくれていたからだと思う」「そして今でもこの曲は僕の中にあるぼんやりした不安を埋めてくれている」
山口さんはいま、喪失感でいっぱいなのだとこぼす。だが、音楽は残って、色あせない――忌野清志郎さんの音楽は残るんだとも記している。

20代、30代のユーザーが多いブログやソーシャルブックマークでも、忌野さんの死は大きな話題となった。「はてなブックマーク」では各紙の訃報にたくさんのブックマークがつき、哀悼コメントが捧げられた。ブログで語られるキーワードを分析・紹介するサイト「kizasi.jp」でも、ランキング上位に忌野さん関連のワードが並び、SNS「mixi」のキーワードランキングも1位だった。mixiユーザーの日記には、

「あんなカッコイイ人が!ロックンローラーが!清志郎さんが!すごい素敵な人やったなぁ 」
「もう一度生きた清志郎さんの歌声を聴きたかったですが残念です」
「あぁ...死んでしまった...CDを聴きながらいろんなことが思い出されて涙が止まりません... 」
といったコメントが多数書き込まれ、忌野さんが歌う代表曲『雨上がりの夜空に』『ヒッピーに捧ぐ』のYouTube動画を貼り付けている人も見られた。

「その死さえメッセージではないかと思う」
なぜ忌野清志郎さんの死がこれほど語られるのか。ミュージシャンやファンを惹きつけたのは、その生き様だ。忌野さんの魅力について、音楽評論家の加藤普さん(60)は次のように語る。

「音楽が単なるエンターテインメントではなく、自分の意志・生き方の表明だったからなのだと思います。私は、清志郎さんは、自分の意志に正直に生きた人だと思います。自分が正しいと思ったことをやる。これはおかしいじゃないかと思うことを言える。破滅的なロックと言うよりは、体制の批判者だったんですね。そんなところが、恰好だけではなくて、真剣に生きているということそれ自体が本質的にロックだったんです。そのために、無条件に信頼されたのではないでしょうか」
さらに、忌野さんの死がもつ意味について、加藤さんはこう話した。

「闘病もそうですが、彼はいつも生に対して、真剣に向きあってきた。真面目だった。だから、私はその死さえメッセージではないかと思うのです。我々はそれを引き受けなくてはならないと思います。最後になりましたが、ご冥福をお祈りいたします」
 

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1. 2016年7月21日 18:15:27 : LY52bYZiZQ : i3tnm@WgHAM[-9094]
元ロッキング・オン編集長・増井修「編集部6人で年間3億円稼いでいた」――ロック雑誌黄金期を振り返る

週刊SPA! 7月21日(木)16時20分配信


http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160721-01160354-sspa-soci
1990年から7年間、雑誌『ロッキング・オン』の2代目編集長を務めた増井修が「当時の熱狂」を綴った『ロッキング・オン天国』(イースト・プレス)が発売中!

 「増井修」と聞いて懐かしさを覚える人はどれくらいいるだろうか? 増井氏は、1990年から7年間『ロッキング・オン』の編集長を務め、熱のある文体で、ストーン・ローゼズやオアシス、ブラーなどの洋楽ロックを日本で盛り上げまくった仕掛人である。97年に突然、ロッキング・オン社を辞め、あれから20年……。「伝説の人」となりつつある今、なんの前触れもなく単行本『ロッキング・オン天国』を上梓した増井氏に話を聞いた。

◇「こんな企画本、まっぴらごめんだ」と思っていた

――このたび、1990年から7年間のロッキング・オン編集長時代のエピソードを中心にまとめた単行本『ロッキング・オン天国』(イースト・プレス)を刊行されましたが、あれから20年経った今、どういった経緯でこの本を出されたのでしょうか?

増井:こんな企画本、まっぴらごめんだと思っていました。だけども、本を書いてくれという要請がことのほか大きくてですね、それは編集者のみならず、たまたま出くわした知り合いや、仕事関連の人からも、現在はすっかり偉くなってしまった往時の読者からも、偶然に言われたりしまして。多分、彼らは僕の衰弱を慮って、いま書いてもらわないと自分達の青春の正しい追憶本がなくなるとでも思ったんじゃないですか(笑)。でも、そうこうしているうちに、自分でもあの時がそれほど特別だったかな〜という思いと同時に、自分でちゃんとあの時代を振り返ってみることで一区切りつけておこうという気分になっていったという感じですかね。ところが、この本ではそういった特別な時代、特別な自分、特別なロックなどというもんはなかったという趣旨がまずあって、それだからこそ書く気にもなったし、逆にそうであれば盛って行って構わないとも思いました。

――この本は当時のロッキング・オンの「熱」を思い出させてくれるような「増井節」全開です。

増井:そうですか? 増井節などと言われても、僕としては狙ったパーソナリティーでもなんでもなくてそのまんまで。熱血を演じようとした節は確かに当時はありましたが、単にサラリーマンのオーダーに従ったらそうなるべくしてなっただけで、今も熱血と言えば無意味にそうですし。少々扱いにくいほどのオネスティ―を武器にして世渡りしようという悪賢い魂胆は変わりません。先日も、20年ぶりくらいにサイン会なるものをやったんですが、その時に、本当にチャーミングな本でしたと言ってくれた人がいまして、そんな嬉しい反応はなかったんですが、その人、プロの編集者でした(笑)。むしろこっちがさすがと思ったくらいです。やっぱ最初から嘘は書けませんってことなんじゃないですか。

――単行本のオビに「むさぼり読んでいた!」とあるように、当時の『ロッキング・オン』は、まさに読者を巻き込んで、ひとつのうねりを作っていたように思います。

増井:ステュアート・コープランド(ポリスのドラマー)が6、7年前に来日した時に、80年代の日本人は中国人民服を着た群衆にしか思えなかった、と言ってるんですね。それが今や大変身したと。で、びっくりしたと。パンクとレゲエを混ぜ込んだ先端の野心家からしたら、椅子に座ったまま礼儀正しく拍手している観客はまさにそのようにだっさく見えたはずです。それが90年代に入ると様相が一変するわけです。当時の写真で興味深いのはそこなんです。オアシスのライブに来た女性客の手を差し伸べる闊達とした様とか、濃いめの化粧とか個性的なファッションとか、リアㇺを『馬鹿!』と言いつつも応援するような風情です。あそこには、畏敬と同時に、もはや対等になったという喜びが同居していて、なかなか無い時代性を感じさせます。その自然な流れに僕は同調拡大していたんだろうとは思いますよ。それまではロックは解釈や講釈のシロモノで、異文化吸収のツールでしたし、インテリとミーハーの武具だったのですが、時代が半歩先に結びつけたんじゃないでしょうか。

◇毎月10万部売り、編集部6人で年間3億稼いでいた

――本書では、当時の実売部数や売上も詳密に公開されていて、その数字に驚きました。96年ごろが洋楽ロック雑誌の最盛期で「毎月10万部、編集部6人で年間3億円稼いでいた」とあります。このヒットの原因はどんなところにあると思われますか。

増井:いろいろ理由は考えられます。考えられますが、いま言ったような構造下で、他誌が抜かれて行ってほぼ寡占状態になったからこそできたことですから、そこにはきっとエンドユーザーこそがものごとを決定する、ってな根拠もあったんじゃないでしょうか。それまではどうしても一部の英語堪能な子女が自分の成果だと仕切っていましたし、ロックを本当に必要としていない世代の仕掛けは撲滅していきました。だから、これ<プレ・インターネット時代>だったから売れたとは言っても、そこに近い認識があったからじゃないんでしょうか。つまり記名で書くことが当たり前の責任を持っていながら、それが本当の記名性かどうかは危ういといったような立場に自分はいたわけでして、その辺が良かったんだろうなと思います。だって、編集者ってそういうものではないですか。そういえば、ブラーのデーモン・アルバーンが98年のレディング・フェスティバルでオオトリを務めたとき、まったく偶然に、出くわしたことがあります。ライブ当日の昼すぎ、いわゆるブランチをとりに表に出たら、偶然にもストリートをふらふら歩いてくるデーモンに会ったんですよ。あれは象徴的でしたわ。10万人のフェスのオオトリなのに当日ひとりでお散歩していて、俺に『今日のライブ来るよね?』とか会話しているっていう。ところが俺は当日アジズ・エーブラハム(当時のストーン・ローゼズのギタリスト)と約束していて、イスラムの音楽祭典に行ってしまった。で、会場では爆破予告があったというんで中止。その当時からユーロ離脱につながる差別の温床が露出していたんですよ。そういうことも掘り下げて書ければ良かったんだけど、そんな社会派まがいは無益だと思えたところが今回の発見でもありましたね。

◇ブリットポップには意外と普遍性があった

――現在は雑誌もCDも売れなくなり、当時とはだいぶ状況がちがいますよね。

増井:一般に雑誌の媒体活力は、イベントと結びついていないと無理です。音源購入の動機も違ってきています。ただし、それを言うなら小説も絵画も映画も古の文化でしょう。洋楽ロックがいま響かないのは特別な要因はなにもありません。だって今でもAKBだの、思春期的なもの、性と結びついたもの、若さの無秩序なパワーってのは魅力的でないわけがありませんから、そんでテイラー・スウィフトが売れる。あれはね、モリッシーみたいに個人の事情を一切動機にしてないから偉い。発展途上国用の普遍の若さで歌詞を作り、先進国用にリズムと動画を作ってますね(笑)。

――増井さんが積極的に取りあげていたストーン・ローゼズやオアシス、ブラーなどがいまだに第一線で、雑誌の表紙を飾っているような状況をどう思いますか?

増井:あれから一歩も進んでいない……と言いたいところですが、終わりを背負ったからこそ開拓できた音楽っていうのは、意外とというか、案の定というか、しぶといんです。その理由はね、最初も最後も、いろんなことを知っているからです。レッチリの音楽がどれだけ『アンダー・ザ・ブリッジ』からの焼き直しだろうが、情熱のありかと方法論を知っているのは大きい。例えばスタイル・カウンシルをいま聞くと真っ青になります。あの月並みさはあり得ない。でも、その後のポール・ウェラーは総合的に学習しているわけです。そういうものが残るんであって、一時を切り取ったものはブームが去れば終わってしまう。

◇当時の読者に徹底的に奉仕する本にしたかった

――97年に退社されますが、本書には、辞めてからのことが書かれていません。ネットのレビューをみると「ROとの裁判の経緯など、肝心なことが書かれていない」という意見もありました。

増井:そうですか。この本は熱帯魚だの漫画だの、完全に無駄な要素も満載な一方で、実は削りに削っていく作業が中心でした。あの時代の読者に徹底的に奉仕するんだと決めてからは、そこを掘り下げるだけ掘り下げてみて、とにかく無駄なことは省くと。ですから裁判についても、お互い合意して和解したものについて、いまさらどうやっても自己弁護にしかならないような解釈は添えられないと思いました。辞めてからなどは論外です。読者にとって読みたいことでも何でもありません。と思ってますが。

――「あとがき」を書かずにばっさり終わっているのもそういった理由ですか?

増井:そうですね。あとがきは書くべきではなく、まえがきで書けることが全部であるべきでした。しらじらしいあとがきとか読みたいですか?

――では最後に、今、いったい増井さんは日常、何をしておられるんですか? また音楽誌をはじめよう、というような気持ちはありませんか?

増井:今日、書店に行ったら内館牧子さんの『終わった人』ってのが売られていて嬉しくなりました。買いませんでしたが。僕はこの本の出版で終わりつつある人から、本当に終わった人になれたんだと、そこは少し誇らしく思います。これもあとがき同様、思わせぶりは避けるべきですから、ほっておいてください。でもね、近日中に味をしめてお知らせするかもしれませんが。

〖増井修(ますい・おさむ)〗

1959年、新潟県生まれ。編集者。1980年、ロッキング・オン入社。1990年から7年間にわたり『ロッキング・オン』の2代目編集長を務め、熱のこもった編集スタンスで読者を巻き込み、10万部を超える業界ナンバーワン音楽誌へと成長させる。ストーン・ローゼズの才能をいち早く見抜き、日本でのブレイクの立役者となる。UKロックのアーティストを積極的に取りあげ、日本でのムーヴメントを先導、今に連なる礎を築いた。2016年5月、20年の時を経て、編集長時代の7年間を振り返った『ロッキング・オン天国』をイースト・プレスより上梓した。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160721-01160354-sspa-soci


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