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労働分配率を向上せよ、仲間割れはするな、という提案(私はそう解釈した)を肯定する意図をもって引用します。
http://ameblo.jp/wadahideki/
12月27日より
『
2009-12-27 08:04:56
金持ちがつく嘘 テーマ:徒然記
昨日紹介した私を買いかぶってくれた知的な読者の方(女医さんだということだ)からお礼のメッセージがきた。
ついでの機会だから、もう少し感情的にならないテクニックを付け加えたい。
一つは、これは長い人生で体験したことだが、自分を批判する人間は、通常、自分より下、少なくとも心理的に自分より下だと感じている人間だということだ。これは、たまたま私よりはるかに立派な人と飲んでいたときに、ネットの批判でも、あるいは業界の評判でも気になるという有名シナリオライターの発言を受けてのものだった。すると、そのライターの人も、確かに「2ちゃんで私の悪口を書いているような人って、貧乏の中で、せまいアパートかなんかでシコシコ書いているのよね」というような発言をされた。たぶんあたっているだろうし、それが事実でなくても、そう思えれば書いている奴のほうが可哀想だと思えるだろう。メッセージを下さった方も女医であることが、批判の背景にあるのかもしれない。
といいながら、本日も人を不愉快にさせるようなメッセージをいただいた。
今日と昨日のエントリー拝読しました。いろいろ批判もあるようですががんばって下さい。応援コメント載せてます。
http://sutcliff.iza.ne.jp/blog/entry/1385443/
こういう風にかかないとコメントを読まないだろうということを学習したことは進歩だが、最初の数行で読むことをやめた。
この手の批判者の多くは、まともな議論(自分ではしているつもりだが)ができないので、最初に人格攻撃をする。たとえば、私が顧問という形で申し訳程度にしか医者をしていないことなど、私の理論(とくに経済にまつわる理論)の妥当性について、まったく関係のないことだ(ただ、医者としての信用毀損は困るので言っておくが、高齢者専門の精神科医としてみている患者の数や家族会を組織していること、緩和ケアチームの精神科医も始めたことも含めて、臨床は、少なくとも大学病院にいる医者などよりよほどしっかりやっていると自負している)。
同様に、ときどき見かける批判だが、私が金持ちへのひがみから理論を展開しているということも書かれている。私とて金持ちへ多少のひがみの気持ちがないわけではない。しかし、理論の背景や動機は理論の客観的評価とは関係ない。最近の心理学や精神分析の理論では、フロイトにせよ、ユングにせよ、コフートにせよ、その生育歴が自らの理論に大きな影響を与えていることが明らかにされている。しかし、これらの研究は、だからといって彼らの理論が歪んだものだといっているわけではない。たとえば、フロイトの理論が彼の家庭的背景の影響を受けている個人的なものであっても、臨床に使えたらいい理論ということになるし、今の時代にはうまく使えないということであれば、臨床理論として捨て去られるだろう。動機はどうあれ、理論は理論で評価するというのは学問の世界では当然のことだ。
ついでにいうと、私の批判者の多くは、私のブログのリンク先を載せず(私は上記のように載せている)、一部を引用して批判している。文章や考え方を批判する際は、全文を読まないとその考え方がわからないと考えているからだ。「私は少女買春をする人間を許せない」という文章を書いて「私は少女買春をする」だけ引用すればどんなことになるかは明らかだろう。これは著作権上の引用のルールでもある。ネットで批判をしあう際の当然のルールだと私は考えている。
ただ、今回、考えさせられたのは、金持ちの洗脳能力はすごいということだ。
資本主義社会というのは、中国のような例外を除くと、自由主義、民主主義とセットになっている。だから、資本主義を否定すると「共産主義でいいのか?」という脅しが用いられる。マイケル・ムーアが模索し、ラビ・バトラが主張するように第三の道はいくらでも考ええるのだが、二者択一思考(もちろん認知心理学では幼稚な思考パターンとされている)を迫るのも金持ちの常套手段だ。
ただ、そうはいっても、自由主義、民主主義というのは金持ちにとってリスクでもある。社会主義政党が勝利して、最悪自分たちの財産が接収されることだってあり得るからだ。
だから、金持ちは、選挙で自分たちに不利な政党が勝たないように、大衆を洗脳する理屈を用意する。
前回、槍玉にあげた株式は損をするリスクがあるが、労働はリスクがないというおよそ資本主義の原則に反した理屈も、多くの大衆を洗脳するには便利な理屈だ。
累進課税を厳しくすると、有能な人間がばかばかしくて働かなくなる、すると国際競争力が奪われるなどというのも同様のものだろう。クルーグマンも私も指摘していることだが、アメリカでも日本でも過酷(アメリカなどは最高91%)な累進課税を行っていた頃のほうが、経済も発展していたし、国際競争力も強かった。
ケインズの理論が正しければ、所得が平準化したほうが、国全体の消費性向が高くなるということなのだろう。あるいは、累進課税が厳しいほうが、有能な人間がばかばかしくなって働かなくなるとのことだが、実際には手元にお金が残らない分だけ、よけいに働くのかもしれない。もちろん、有能な人間の海外移住の心配はある。ただ、日本の場合は、ことばの壁と食事の壁のためか、それもあまりなかった。
クルーグマンに言わせると、そもそも国際競争力という考え方自信がペテンだとのことだ。ほとんどの先進国の経済を支えているのは内需であって、外需ではないというわけだ。
累進を厳しくすると、金持ちになったときにつまらないという理屈もある。そのために、消費税を上げて、累進課税はゆるくするというわけだ。これは、アメリカンドリームを信じる人をだますテクニックだった。現実には、貧しい、学歴もない人間が、大金持ちになれる確率は宝くじより低いとされている。しかし、年間に払う消費税の額はどんな宝くじより高いだろう。その高い宝くじを国民全員に強制的に買わせて、なれる見込みのほとんどない金持ちになったときの夢を見させているというわけだ。
相続税を高くすると日本を出て行くというのも、現実に高齢になって、わざわざ食べるものがまずくて、ことばが通じないところに、金持ちが移住するかというとおそらくはそうならないだろう。
私も、大金持ちでないが、家のローンが4億5000万円ほど残り、株の評価損が1億円ということが可能な程度の、資産と収入がある。累進課税を厳しくされたら、ローンは払えなくなるし、相続税を高くされれば、なんのためにこんなにローンを払わないといけないのだということにはなる。しかし、選挙の結果がそうであれば、泣き寝入りするのはほぼ確実だ。多くの金持ちだって、本心ではそう思っているだろうが、そんなことをすれば、日本の国際競争力はなくなる、金持ちはみんな移住すると脅しているわけだろう。
ただ、中流以下の人間も金持ちを見習わないといけないことはあるようだ。
貧しいものはお互いの足の引っ張り合いをすることが多い。たとえば公務員の給料が高ければ、自分たちも、その給与水準を要求すべきなのに、公務員の給料を下げろということの大合唱が起こる。公務員の給料が、自分たちの税金だというのなら、金持ちの税金を増やして、公務員の給料を維持したほうが、自分たちの賃上げ闘争の基準額が上がるというのに、貧しいもの同士で足を引っ張り合う。
金持ちけんかせずとは、よく言ったもので、金持ち同士でこの手の足の引っ張り合いはあまりない。たとえば、前述のように株の儲けの税金が安すぎて、自分の能力や労働で儲けている金持ちの中にはむかついている人間も少なくないはずだ。しかし、ここで仲間割れをすると損なのは金持ちの側だから、そういう不満は金持ちの側で漏らすことはない。
また貧しい側、中流以下の側も、もっと反論のロジックを用意すべきだろう。
累進課税を厳しくすれば、有能な人間がばかばかしくなって働かなくなるというのなら、金持ちの搾取がひどすぎて、労働者の賃金が安すぎれば、一般労働者が働かなくなったり、手抜きをして、日本製品のクオリティが落ちるという反論だってできるはずだ。どんなものにもプラスの面とマイナスの面があるのだが、金持ちの側のロジックに振り回されすぎる。
しかし、それ以上にすごいのは、金持ちは、自分自身で、自分たちのロジックを言わせないことだ。それを言うと反発を買うのがわかっているから、貧しい人たちに言わせる。
おそらく、私を攻撃したり、累進を厳しくすると日本の競争力が下がるという意見をいう人、金持ちへのひがみが日本をダメにするという人の多くは、私などより貧しい人たちだろう。彼らは、自分が将来金持ちになるのを夢見ているのか、純粋な愛国心からそれを論じているのだろう。
だから、私はこれらの批判者を心底は憎めない(ただ、私が紹介したブログをみてもらえばわかるように、金持ちと違って、教養もずるさもないので、使うことばが汚すぎるし、攻撃が露骨なので、ときにこちらも感情的になってしまうが)。本気で憎むのは無辜の愛国者をだます金持ちたちだ。
ラビ・バトラもクルーグマンも言っているように金持ちがのさばる社会は、衰退せざるを得ないのは歴史的事実であり、現代経済学の予測なのだから。
』
主題自体はありきたりとはいえるけれども、近頃の問題をよくまとめていると評価できるかと思います。いやむしろ、この人の一連の主張は、このこと(労働分配率を向上せよ、仲間割れはするな)を繰り返しているのだともいえそうだが。
ともかく、ありきたりなようで、むしろ、(少なくとも経済学において)本質的な論点なのだと思うのです。