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藤原直哉の「21世紀はみんながリーダー」 2009年12月15日 組織を立て直す: 藤原直哉のインターネット放送局
http://naoyafujiwara.cocolog-nifty.com/ipodcasting/2009/12/20091215-264e.html
我々自身は、はっきり言って紀元前からさほど変わっていないようですよ。以前仏教に関してちらっと話しましたが、まあ今回もその続きみたいなものになると思います。
実は、今でこそ唯物論、無神論は「論理的」「合理的」であると多くの人々が信じているようですが、実はこういった考え方はすでに存在していたのです。
以前にお話ししたアジタの快楽主義的唯物論。これは、簡単に言ってしまえばこの世は「火、水、風、土」の4つの元素で構成されており、それがすべてである。よって運命はあらかじめ決まっており、神も存在せず、死後もないから、現世の幸福を最大限追求することこそが最も理にかなった生き方であるというものです。ただ、現世の幸福を追求する上で、少なからず悲しみもあるが、悲しみがあるからこそ幸福のありがたさも味わうことができるのだというさとし方を人々にしていたようです。
またアジタの快楽主義的唯物論によると、善悪の行為や因果律、お布施の功徳なども愚者の行為であると否定されます。まあ、この考え方はアジタのものとは別に「道徳否定論」を唱えたプーラナにも強く出ているものと考えられます。道徳否定により、人生に目的を求めるのは愚の骨頂であるとし、伝統的な規範や倫理まで否定したのです。
今となっては4つの構成要素は原子などにとって代わられているとはいえ、言っていることは現代の唯物論と全く変わりません。
実際、唯物論者、科学者、合理主義者たちは言います。
「ただ一度きりの人生なのだから、一生懸命生きることこそが最も理にかなった生き方である」と。
まったく同じことでしょう(笑)。要するに、我々は古代仏教の時代と同じことを今行っているだけに過ぎない。まったく進歩しているわけでも、もちろん退化しているわけでもないのです。まあ思想の「先祖帰り」とでもいうべきなのでしょうか(笑)。
したがって、現代人が過去の時代の人々よりも「秀でている」「すぐれている」「進歩している」という発想は、そもそも間違いなのです。ただ同じところをめぐっているだけです。
こういった考え方は、どうも商工業の発達が著しい時代に顕著に見られがちで、場所を移せば例えばエピクロスの一派もやはり快楽主義を唱えました。要するに、西洋東洋を問わず、いつの時代にもこうした考え方はあり、そしてその思想が席巻しやすいのはどちらかといえば商工業の発達が著しい時期であると言えるわけですね。
そして商工業全盛時代が終わり、乱世が近付くにつれ、こういった思想はその弊害面のほうが目立つようになり、やがてすたれていく。今現在がその過渡期でしょう。例えば、70年代に比べ、死後の世界や来世を信じる人々の数が増えているようです。アメリカ人でも25%の人が生まれ変わりを信じているという調査結果もあります。要するに、思想もその時代の要請に応じて変化しているだけに過ぎず、どれが真理とは一概に言えないということです。
だから、なぜP.R.サーカーが社会循環論を一つの輪廻説で説明したのか、よくわかるかと思います。武力から知識、そしてブルジョアジーへと国家や文明は輪廻を繰り返します。同じように、人々の思想もまた輪廻しているのです。
例えば武力の時代に唯物論や快楽主義を持ち込んだら、まずあまり受け入れられません。当たり前です。その時代になれば、人々は誇りを尊ぶようになるのですから。知識の時代には誇りだけではあまりうまくいきません。その代わり伝統的な規範や倫理観が重要視され、バークやハイエクのような高名な保守主義者が生まれます。しかし、ブルジョアジーの時代になると、唯物論、快楽主義、道徳否定論、革新論が勃興します。例えば、その根幹思想を唯物論に求めたマルクス主義は産業構造のめまぐるしい変化の中で生まれました。産業革命以降で、確かに工業生産は著しく伸び、文明が一新されたわけですが、子の中でマルクス思想は生まれたのです。マルクスは自らの思想で宗教や過去の伝統を迷信として否定し、人間の理性により共産主義国家を建設しようともくろみました。マルクスもレーニンもまた、道徳を否定した人でしたし、エンゲルスに至っては「家族廃止論」という暴論を提唱しました。
このエンゲルスの「家族廃止論」はレーニン率いるボリシェビキ政権により実行されましたが、のちにスターリンによって否定されました。あのスターリンでさえ、家族制度を認めざるを得なかったのです。
考えてみれば当たり前です。子供を家族から切り離し、ろくに道徳もしつけもされず、ただ限定的な空間で共産主義に対する忠誠心だけを植えつけられたところで、まともな大人になるわけがありません。青少年による犯罪は多発し、強姦や捨て子がいたるところに現れ、このままでは社会そのものの存続が危うくなりかねないと、あのスターリンですら否定せざるを得なかったのです。
マルクス主義は、一般的に「設計論的な合理主義」に含まれるものです。人間の知恵と理性により、我々は社会すら制御し、理想的な国家や文明を築き上げることができる。これが「設計論的な合理主義」の思想の根幹です。
ですが、20世紀のソ連の崩壊にも見られるように、「設計論的な合理主義」は破綻しました。なぜでしょうか。
答えは簡単です。いかに技術や知識が発達しようが、我々自身は変化していないからです。
人間の命などせいぜい数十年のものです。その数十年の命が蓄える知識量や理性など、過去に先祖が積み上げてきた歴史の知恵や伝統に比べれば取るに足らないものです。自然という「畏敬すべき大いなる存在」のもとで、独自の知恵を編み出し、それを継承させてきたものを非科学的、迷信だと糾弾し、否定して見せたところで、その末路はレーニン、スターリンの粛清や毛沢東の文化大革命、ポル・ポトの自国民大虐殺や金日成、金正日父子の個人崇拝でしかありません。これが現実であり、「設計論的な合理主義」の哀れな末路なのです。要するに、過去を嘲笑い、おごり高ぶった現代人への神の罰ともいえるでしょう。
今となってはさすがに「設計論的な合理主義」に未来を託そうとする人は多くないと思います。ソ連の崩壊でもはや明らかですから。だが、我々現代人は、実はまだ「設計論的な合理主義」の毒素から完全に抜け出せてはいないのです。
例えば、「どうすればより多くの客に商品を買わせることができるか」とか、「どうすればうまく市場をコントロールできるか」という論点で経営を語る人々は今でもかなりいます。もはや顧客ですら、自分たちの目標達成のための道具とみなしている雰囲気がある。ですが、この考え方も、一種の「設計論的な合理主義」の一種ともいえるでしょう。
上記のことに関して、田坂広志氏は「目に見えない資本主義」という著書の中で、「操作主義経済」としてそのあり方を論じているようです。簡単に言ってしまえば経済システム、市場システムを「合理的」「客観的」に把握することで、好ましい方向に市場や経済を誘導するということです。また顧客の思考ですら操作可能と考え、結果感性工学などが企業にも取り入れられ、生かされているのが現状です。
結局我々は共産主義の破綻を嘲笑ったが、その失敗から本質的なことは何一つ学んでいなかったということでしょう。ただ計画経済だから失敗したというのではなくて、そもそも現代人が陥っている「設計論的な合理主義」という発想自体が間違いの元であるということを我々は理解していなかった。結果として、サブプライムローンという最悪の「金融商品」を「金融工学」を駆使して「設計」し、それを「合理的」に運営していたはずが、扱い切れずに自滅してしまったわけです。
我々の理性は確かにすばらしいが、それに限界があるということをいい加減知るべき時期に来たのかもしれません。というより、どんな優れた思想であれ技術であれ道具であれ、物事には限界というものが必ずあります。科学も同様です。それをわきまえた「分をわきまえた合理主義」こそ次世代に求められているのではないでしょうか。伝統的な死生観への回帰もその一環と見ることができるのです。
投稿: +9 | 2009年12月19日 (土) 20時43分