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【仮 説】 『忠臣蔵』の真実 皇道に生きた四十七士 その2
アメブロ GENKIのブログより。
http://ameblo.jp/hirokane604/
(國體護持塾より一部引用)
昨日の続きとなるが、浅野内匠頭長矩の切腹は、朝敵吉良上野介を討ち果たせなかった無念の死である。
その辞世の句は、信念を背負ったまま黙って散った男の凄さを物語っている。
●浅野内匠頭長矩辞世
『風さそう 花よりもなお 我はまた 春の名残を いかにとやせん』
ある説によれば、内匠頭は切腹もしておらず、辞世なども詠んではいないというものが有る。
田村右京太夫の屋敷に着き、籠から降りて履物を履くため
頭を垂れた瞬間に斬首されたというものである。
この説に対して詳しくフォローしておらず、読者でお詳しい方がおられたら是非お教え願いたい。
さて、他の天皇、公家、大石をはじめとする赤穂浪士についても、朝敵吉良を裏づける史実があるので紹介する。
大石内蔵助率いる四十七士討ち入る際の口上「浅野内匠頭家来口上」には、「高家御歴々へ対し家来ども鬱憤をはさみ候段」と記されている。
吉良家だけでなく、高家御歴々への公憤であることをこれは明らかに示している。
「浅野内匠頭家来口上」は、四十七士の署名のある、いわば、義士たちの命の叫びであり、これは史実であり、嘘偽りではない。
ところで、大石内蔵助は、討入りの準備において、わざわざ京都山科に家屋敷を取得する。
なぜ京都山科の地が選ばれたのか。
山科の屋敷については、大石内蔵助の親族である進藤源四郎の世話によるものだ。
この進藤源四郎とは、近衛家の諸大夫・進藤筑後守のことであり、大石内蔵助は、この進藤源四郎を通じて、関白近衛基熈と接触していたのだ。
山科は、朝廷の御料であり皇道を貫く決意の現われであったとみるべきである。
山科を拠点として関白・近衛基熈とその側近に接触し、幕府や吉良家などに関する情報を収集して、江戸での情報収集人脈を密かに築いていったことは想像に難くない。
現に、討入決行の契機となった吉良邸で茶会が行われるという情報は、吉良邸に出入りしている茶人・山田宗徧の弟子・中島五郎作からもたらされた(大高源吾ではない)
中島五郎作と京都伏見稲荷神社の神職・羽倉斎とはいずれも知己であり、吉良家家老・松原多仲は羽倉斎の国学の弟子という関係であった。
このような人脈から、用意周到に情報を収集して討入りを決行したのであって、決して芝居や映画のように、江戸に入ってから泥縄式で偶然に得られた情報ではありえない。
現代でも通じるような綿密な情報収集力と巧妙な情報操作による情報戦争であった。
浅野家家臣団もまた、尊皇の家柄である。
浅野内匠頭も薫陶(1年)をうけた山鹿素行が、赤穂藩江戸屋敷で十年間にわたり藩士に講義を行った。
堀部安兵衛の父堀部弥兵衛(安兵衛は婿)、吉田忠三衛門などが門人となり、他多数が師事していた事は有名な話である。
赤穂藩は、天恵として山鹿素行を受入れ、当然大石内蔵助も八歳から十六歳までの間、素行の薫陶を受けている。
まさに皆、皇道を貫く尊皇の獅子達である。
次の様な説が有る。
事件後、その大石らの赤穂浅野家お家再興の願いも聞き届けなかたのは、単なる幕府の片手落ちではなく、尊皇派の排除を実現し、かつその復興を阻止するとともに、佐幕派の保護という一石三鳥の深謀。
それは、幕府が赤穂浪士討入りを真剣に阻止せず放任し、むしろこれを暗に奨励したことでわかる。
赤穂浪士の義挙が皇道を旗印にすることなく、士道を名目とする以上、幕藩体制を支える士道倫理の強化に利用できると考えての事であろう。
また、吉良家に関しては、それによって断絶させることになるが、高家衆は吉良家だけではなく、皇室に余りにも憎まれ続けた吉良家はもはや無用の存在であった。
等々・・・この説が通れば、言わずもがな柳沢吉保が陰で策謀を巡らせた事になる。
はたしてそうであろうか・・・・・
まず意外な事に、柳沢吉保は皇室に対する崇敬の念が強く、古代からの天皇陵を莫大な費用をかけ補修復元したり、皇室の歳費を増加させている。
天皇陵修復を推進した吉保の側近、細井広沢(ほそいこうたく)は堀部安兵衛とは無二の親友である。
江戸幕府の歴代権力者を見ても、吉保ほど、皇室を大切にした幕閣はいないといわれる。
そうなると「建武」以後、朝敵足利家の名門である吉良家とは正反対の立場となる。
そして、吉保のブレーン筆頭が、天皇を中心としている文化の美しさと、強さと、永遠性を示すために生まれた「古今伝授」の体現者、北村季吟という事である。
戦国の乱世に突入して以降、天皇を中心とする日本文化の真善美が崩壊した。
それを、今一度天皇を中心とした文化、さらには幕府をも融合した新たな時代を樹ち立てるという夢を、元禄文化に託したのではなかろうか。
彼が、将軍の命をうけ浅野内匠頭を即日切腹させたのも、
皇室にご迷惑を掛けまいとする、内匠頭と意を同じくしていたからで、皇室に対し尊大不遜な吉良家に対する想いも同じだったのではないだろうか。
また、当時の幕府お抱えの学者間では、赤穂浪士の是非をめぐって激しい論争が展開された。
林信篤、浅見絅斎、佐藤尚斎らは浪士の行動を賞賛擁護した。かたや荻生徂徠、太宰春台、佐藤直方らは非難した。
これまでの事を鑑みれば、赤穂浪士は主君の志を継ぎ、幕府と朝敵に一矢を報いたのだから、生き永らえるなど毛頭考えなかったはずだ。
林信篤ら擁護派の「生かす」との意見は信義にもとる。しかし、佐藤直方による「斬首」の意見を入れては主君の面目にかかわる。
結局は、柳沢吉保に召し抱えられた荻生徂徠の「法に沿ったお裁きを彼らも望んでいる」が、一番良い裁きだったのだ。
いずれ、学者等は「士道」に基づき議論された事になっているが真相はわからない。
柳沢吉保が、6代将軍跡目相続問題で、紀州家駆逐工作に、討ち入りを利用したとの見解もあるが、あまり当たらないと考える。
なぜなら、松の廊下での刃傷は不測の事態であって、のちのち赤穂浪士が討ち入る保証もないからである。
いずれにせよ、後の権力、幕府がいかに細工を施そうとも史実と照らし合わせ、これまでの常識に囚われず研究が進めば、いずれ明らかになる。
しかし、これまで歴史を放置し続けた、無能な、日本の歴史学界では到底無理なのかも知れない。
話を戻すが、所謂元禄赤穂事件は、万治4年の京都御所の放火火災から元禄15年の吉良邸討入りまでの尊皇護持の戦である。
約40年の間の赤穂浅野家とその家臣らが代々一丸となって皇道を貫き、身を殺して仁を成したという一連の物語として新たな解釈がなされるべきである。
明治天皇は、明治元年11月5日、「朕深ク嘉賞ス」との御勅書を泉岳寺に命達されている。
したがって、この刃傷事件や、その後の討入り事件が単なる私憤による乱心事ではありえないことを明らかに意味するものだ。
歴史の歪曲・捏造はいつの時代でも起きるものである。
そして、いつの時代にも国体を支え、自らの生命を全うすることこそが天命であると自覚し、平和を維持する武士道が存在するということだ。
私たち日本人は真実の歴史を知る必要がある。
●大石内蔵助の辞世
『あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし』