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【仮 説】 『忠臣蔵』の真実 皇道に生きた四十七士 その1
アメブロ GENKIのブログより。
http://ameblo.jp/hirokane604/
(國體護持塾より一部引用)
元禄15年12月14日(西暦1703年1月30日)、日本人の心に深く刻まれる事件が起こった。
元禄赤穂事件、所謂「忠臣蔵」である。
一般に、私達の知る「忠臣蔵」は人形浄瑠璃と歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』から派生した創作である。
現在でも様々なメディアで見る事は出来るが、そのほとんどが江戸時代以降のそれにあたる。
その中で、刃傷の本当の訳は謎とされ続けてきた。
しかし、本当に当時の人々は知らなかったのだろうか?
赤穂旧臣の示した、この赤穂事件には、士道だけでは説明のつかない何かがきっとあると以前から考えていた。
赤穂事件の深層に、士道を超えた、日本人の思考と行動における本質的な何かが宿っているのではないか。
それは、「士道」の名の下に、隠された「皇道」に殉じた側面が存在したからではないだろうか。
この発想の起こりを述べる。
5代将軍 綱吉は家康以来の林羅山の朱子学派儒学を特に重用した。
一方、赤穂浅野家は朱子学を批判し、赤穂藩へ流罪となった山鹿素行を登用していた。
林羅山は、著書「本朝通鑑」で天皇が真の聖者であるなら、その祖は中国に有るとしいていた。
それに対し、山鹿素行は「中朝事実」で日本の天皇は、世界の中心であると説いていた。
まさしく、現代にもある思想信条の闘争ではないかと考える。
我々は、無意識のうちに、あるいは民族本能的に、この事件の背後に隠されている皇道の鬩ぎ合いを感得して熱狂し続けると考える。
では、一体、その皇道とは、どのようなものであろうか。そして何があったというのであろうか。
浅野内匠頭長矩が刃傷に及んだ背景を考えてみる。
怨敵・吉良家は高家の肝煎(筆頭)。その高家の役割とは、表向きは有職故実に精通して皇室と徳川宗家(幕府)との橋渡しを司ることにあった。
その実は、幕府の使者として、皇室・皇族を監視し、幕府の意のままに皇室を支配することである。
当時、幕府による皇室不敬の所業は厳酷を極め、禁中并公家諸法度により、行幸禁止、拝謁禁止をも断行した。
つまり、軟禁状態に置いたということである。
それ以来約250年の長きにわたって幕府の皇室軽視は続いたのである。
この頃の具体的確執はというと、
「後水尾天皇」は、幕府が仕掛けた、徳川秀忠の子、和子の入内問題、宮廷風紀問題、紫衣事件などに抵抗され、また、中宮和子による家光の乳母・斎藤福に「春日局」の局号を与えたことに反対抗議して退位させられた。
その後、「明正天皇」(和子の子=秀忠の孫)が即位されることになったが、その陰には吉良家などの高家による陰謀、工作があった。
「明正天皇」継承に邪魔な皇子はことごとく堕胎や殺害されたと伝えられている。
以後は、「後水尾上皇」が院政を行われて幕府となんとか対峙された。
承応三年には、「後西天皇」が即位されたが、それと前後して豪雪、大火、凶作、飢饉、大地震、津波、など異常気象による自然災害が起こった。
今度はそれを四代将軍・家綱は、凶変の原因は「後西天皇」の不行跡、帝徳の不足にあるとして無礼にも退位を迫ったのである。
その手順と隠謀を仕組んだのも、これまた高家筆頭の吉良若狭守義冬、吉良上野介義央の父子である。
そして、これらの凶変のうち、少なくとも京都御所の火災は、幕府側(高家・吉良側)の放火によるとの説が有力である。
一方、赤穂浅野家は尊皇が極めて深い家柄であり、吉良家などの高家とは完全に対極の立場にあった。
幕府は、討幕の火種となりうる尊皇派勢力を排除することが政権安泰の要諦であることを歴史から学んでいる。
幕府放火とみられる京都御所建て替えに際し、尊皇派の赤穂浅野匠頭長直(長矩の祖父)に禁裏造営の助役(資金と人夫の供出)を命じ莫大な負担を強いたが、逆に浅野家は名誉ことと受け止め、見事なまでに禁裏造営の大任を果たすのである。
しかし、御所落成を機に工作を弄し、寛文三年、「後西天皇」は遂に退位させられ、霊元天皇が即位された。
幕府は、その際、禁裏御所御定八箇条を定め、皇室に対し、見ざる言わざる聞かざるの政策をさらに徹底させることになる。
そして、この禁裏御所御定八箇条の発案も、吉良上野介によるものであった。
浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ原因は、いろいろと取り沙汰されている。
浅野内匠頭は、「この間の遺恨、覚えたるか」と告げて吉良上野介に刃傷に及んでいることから、遺恨説が有力とされている。
しかし、以上の事を考えると、この遺恨は、私憤ではなくまさしく公憤である。
当時の尊皇派大名は、明治維新時のなりすまし尊皇派とは
志の「誠」が違うのである。
この刃傷事件が、勅使、院使の江戸下向の際に起こったことを考えれば、浅野内匠頭がよほど隠忍し、見逃す事の出来ない、皇室に対する更なる不敬の所業が将軍家並びに吉良上野介にあったはずである。
それゆえ、この刃傷事件は、「朝敵」吉良上野介に「天誅」を加えて成敗するための義挙である。
浅野内匠頭は、その本意が漏れて、これにより朝廷へ迷惑が及ぶことを避け、刃傷に及んだ原因を一言も語らなかった。
しかもきっぱりと「乱心にあらず」とし、宿意と遺恨をもって刃傷に及んだと弁明をするのみで、申し開きせず黙って切腹したのだ。
山鹿素行の薫陶を受け、尊皇の志篤い浅野内匠頭長矩が、芝居で語られるような、子供のイジメにも似た他愛もない吉良上野介の仕打ちに、家名断絶を覚悟してまで逆上して刃傷に及ぶという乱心説で説明できるものではない。
浅野内匠頭をなじる人の多くがある書物を用いて評する。
それは「土芥寇讎記」という当時の諸藩通信簿のような書物であり、浅野内匠頭が、さんざんコキおろされている。
儒教色強い記述内容から徳川綱吉の意向が反映された書物で、尊皇派については良く書かれていない物だ、筆者も時期も不明。
あきらかに当時のプロパガンダである。
ネット上でも、「浅野内匠頭がキレやすい性格」「この様な君主をもつ家臣は迷惑」「頭痛持ちで、短気な性格」「精神異常者」などの迷言が謳われているが以上の事は全く当てはまらない。
浅野内匠頭長矩は、本来の士道に副った「もののふの誉れ」であり、誠に天晴れな皇道の実践者であった。
楠木正成公・上杉謙信公に次ぐ「誠」の志高い尊皇派の名君なのだ。
明日は、その他の天皇、公家、大石率いる四十七士に話を移し検証したい。