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「おしゃかしゃま」
聴いてみると、なぜ曲名が「おしゃかしゃま」なのか
今ひとつわからないのですが
楽曲の技術が高くて、
野田洋次郎さんのメッセージ性の強い曲だと思います。
さて、
私が心から尊敬している、「お釈迦様」が、
説いていかれた「しあわせ」は、
味のない、理論武装した幸せではなく、
真理を外れた夢や理想や奇跡でもなく、
古今東西の万人が、一人の例外もなく
普遍の道理に立脚して実地に味わえる
言葉も想像も超えた不滅の生命の歓喜。
そしてそこに至るまでの方便プロセス。
それが記されている「仏典」は、
お釈迦様が直接お書きになられたものではなく、
お釈迦様の説かれた言葉を、
ある程度時間が経過してから、
仏弟子の方々が、
「私は、お釈迦様から
このようにお聞きしました…」
と記録されたもの。
なあ〜んだ
実際に書かれたものじゃないなら
お釈迦様が本当に
そう言われたのか疑わしい…
そんな疑念が聞こえてきます。
そう思われるのは、当然だと思います。
仏典に限らず、
世に残る、過去の、膨大な史料も同じことで、
そこに記されている
この時
ここで
この人が
こう言われた
こうなされた
などの「言動」は、
事実かどうか、
証明は出来ないことが殆どだと思います。
当然のことですが、歴史の教科書にあることも、
当時の権力者の思惑の色を受けていたりするので、
史料の通りに、そうしたのか、そう言ったのか、
ほぼ間違いないということもありますが、
多くの場合、
誰かの言動については、本当のところは定かではなく、
一人の主張を認めることが、誰かの名声を傷つけたり、
片方の名声を保つことが、他者を否定することになったりと、
人間の自性を知らされれば、現代も同様だと思いますし、
それらを前提として、それも含めて歴史は学ぶものだと思います。
仏典や、仏教関連の書物でも、
誰かが、こう言われた、などの史実については、
本当にそう言われたか、結論が出ないのは同じことですし、
それを一方的に結論づけて、他者を陥らせたりすることは、
無論、するべきことではないと思いますし、
そう受け取られてしまうような言い方にならないように、
お互いに極力心がけるべきことだと思います。
縁さえあれば、何を言うかわからない自性を知らされれば、
自ずと、そう知らされます。
そしてまた、
こう言われた、などの言動が明らかになったところで、
誰かの名声は保てるかもしれませんが、
誰かの心が根本的に
人間に生まれてよかったと
救われるわけでもありません。
仏典の正味は、
そのように結論の出ない、ぼやけたものではありません。
本当にそう言われたか、否か、
そのような言動の有無ではなく、
万人が鮮明に味わえる「生命の歓喜」です。
お釈迦様が本当にそう言われたかどうか、ではなく、
お釈迦様が言われたとされているその内容、
即ち万人が味わえる生命の歓喜そのものを、
ハッキリと味わうことができます。
その時、
あぁ…仏典に記されていることが嘘ではなかった誠だった真実だった…
と疑念が晴れ渡ります。
仏典の正味が知らされた上で拝読するお釈迦様の一言一言には、
人智の想像を超える途方もない”深み”がありますので、
如何なる勉学に励み、豊富な知識をもってしても、
頭が先行して正味を知らなければ、
信仰や実践が伴っていなければ、
どうしても要が抜けているために、
絶対に仏意を正しく理解することはできません。
学問も不徹底で落ち度があり、
その学問と、人格や常識レベルの前後で仏教を理解し、
語らざるを得ないので、
必然的に、仏教を語る論点が、真髄から外れて、
小事に終始して、大事を後回し…
そんな現状が、見え隠れ致します。
ところで、
そんな事は、意外に多いように思います。
その時は、マジになっていても、
後で考えれば、あ〜どっちでもいいことだったなあ、
なんて、知らされること、ないでしょうか。
幼い頃、かなりこだわっていたプラモデルが、
今はどうでもよかったり
信仰も同じです。
〜こんなお話しを思い出します〜
突如、毒矢が飛んで来て、ある人に刺さった。
痛みが走る。
すぐに対処しなければならない。
ところが、矢が刺さっている本人は主張した。
『一体この毒矢を射た者は誰だ。
男か女か。
どんな名前だ。
どんな顔だ。
どこに住んでいる。
どんな弓で射たのか。
どんな矢じりがついていたのか。
それをハッキリ教えてもらいたい。
それが分かったら対処してもらう。』
「そんなことを言っている暇があったら、
一刻も早く毒矢を抜き、治療しなければ絶命する。」
.......このような、お釈迦様のお諭しがあったそうです。
この愚かしい人と同じように、
知識豊富で、理路整然と、
マジで主張している、それ自体が、
実はどっちでもよくなるほどの
比較にならない急ぎの大事が、
苦悩の真因を抜くということ。
それが抜かれていなければ、
生涯、真の幸福は味わえず、
過ぎし日はただ夢幻の如し。
老い、病み、終に死にゆく人生、
心底生命の歓喜を味わうことはできません。
手に入れた一切、ここに置いて、
罪だけ背負って地上を去るならば、
今はよくても最後は結局、
取り返しのつかない一大事。
うつひとも
うたれるひとも
もろともに
ただひとときの
夢のたわむれ
上とか、下とか、名声や権力などに終始して、
闘い続けるわたしたちに、
人生の一大事の解決に無関係なことを
論じている暇が、本当はないことを、
お釈迦様は教えておられます。
世人、薄俗にして、
共に、不急の事をあらそう。
(大無量寿経)
”上じゃなくたって
下じゃなくたって
横にだって道はあんだ”
RADの「おしゃかしゃま」の最後のこの歌詞に深みを感じます。
人生には、忘れていても限りがあり、
長いようで、過ぎて見れば短いものなのだから、
ちょっと立ち止まり、
人生の最期を見据えてもなお大事なことは何か、
それを知って、
時間も体力も経済力も精神力も極力、
最も大事なことに使い、
人間として生きている一瞬一瞬
大事にしたいですね。 >>