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『少年トロツキー』(原題:The Trotsky)が東京国際映画祭で上映された。あまり映画を見ない方だが、ひさびさにおもしろい映画を見た、という感じだ。 ストーリーは、トロツキーの生まれ変わりであると信じているユダヤ系カナダ人の高校生、レオン・ブロンシュタインを中心に展開される。父親の工場でストライキを扇動したレオンは、罰として寄宿学校から公立の高校へ転校させられる。転校先の学校はいわゆる「底辺校」で、学校当局は乱れた風紀の粛清を強化しようとする。レオンは管理強化のみを押し付ける学校当局(レオンいわく「ファシスト」)に反発し、学生の自治権を実現するために「学生組合」(日本風にいえば自治会か)の結成を訴えるが、周囲の学生は奇異な目で彼を眺めるだけであった。しかしレオンの訴えで何人かの支援者があつまり、かたくなな学校当局や教育委員会に対して「ストライキ」(授業ボイコット)を呼びかけたことで地元メディアなどでレオンたちの行動が報道される。そしてスト予告時間。学生たちは教室を飛び出してストライキは成功したかにみえたが…。 『少年トロツキー』(原題:The Trotsky) 監督:ジェイコブ・ティアニー 出演:ジェイ・バルチェル、ジュヌヴィエーヴ・ビュジョルド、アンヌ・マリー・カデュー 113分 英語 カラー 35mm 【公式サイト】 下手な紹介だと、陳腐な学生運動青春もののように見えてしまうが、笑いあり、涙あり、恋あり、そして革命ありの、すばらしい青春ラブコメディー作品である。ひさびさに見終わったあとにもやもや感の残ることのない映画だった。若者が自分たちの未来を自分たちで決めるために行動を起こす、というシンプルだがいつの時代においても決して忘れてはならない重要なテーマを扱っている。 さらに、物語のあちこちに、トロツキーファンなら、クスクスやワハハの笑いが止まらないディティールが盛りだくさんだ。 ひょんなことから知り合った年上の女性の名前は「アレクサンドラ」。トロツキーの生まれ変わりであると信じるレオンは、トロツキーが同名の年上の女性アレクサンドラと結婚していたことから、この女性にモーレツにアタックする。このアレクサンドラとの恋の行方も見逃せない。 「学生組合」主催のダンスパーティーは、その名も「社会正義のためのダンスパーティー」。ブラックパンサーや紅衛兵、サパティスタや動物農場の格好をした若者たちが集まり、ダンスパーティーに興じながら「学生組合」結成の署名にサインをする。 レオンが苦しい時に必ず見る夢は、エイゼンシュタイン監督による「戦艦ポチョムキン」の有名な階段シーン。そこに登場する乳母車には赤ちゃん姿のレオンがいる。 喧嘩しててもユダヤ教の安息日には一家のもとに帰るレオンだか、必ずトロツキーの『わが生涯』(My Life)をめぐって父親とけんかになるシーンも見逃せない。 + + + + + 高校生の時に、周囲の同級生はみんなゲバラファンになったので、自分はTシャツの柄になっていないトロツキーのファンになろうと決めたジェイコブ・ティファニーはまだ新進気鋭の若手監督。このジェイコブ監督は、上映後に行われたフロアーとのQ&Aセッションで、トロツキーの『わが生涯』やジョン・リードによるロシア革命のルポルタージュ『世界を揺るがせた10日間』(ともに岩波文庫から邦訳あり)を読んでいるとも語っていた。 レーニンとともに「世界を揺るがせた」革命家トロツキーの生涯を知るいくつかの書物を読んでから鑑賞すると面白さ倍増だが、トロツキーやロシア革命をあまり知らなくても十分楽しめる、そして心にのこる作品であることには違いない。以下、わずかだが入門的な書籍を紹介しておく。 『世界を揺るがせた10日間』 ジョン・リード著、岩波文庫:1917年ロシア革命のただなかで書かれたルポルタージュ。トロツキーは出てくるが、ちょっとわかりにくい?映画「レッズ」の原作にもなった。 あれだけトロツキーやボリシェビキの模倣をしてきたレオンが、たとえ社会的な関心をあつめ、学友たちの結集を図るためだとはいえ、あのような手段に打って出るだろうか。トロツキーは生前、何度も何度もロシア革命はごく一部の人間による陰謀的クーデターであるという批判に対して、こう答えている。 「われわれはペトログラードの労働者と兵士たちの革命的エネルギーを鍛錬してきた。われわれは大衆の意志を陰謀へではなく、蜂起へと、公然と鍛え上げてきたのだ、と」(『トロツキー研究』第五号:10月革命の擁護、139ページ)。 フィクションはフィクションであり、歴史と同じ内容を描く必要はないが、高校生レオンが、トロツキーやボリシェビキ党に心酔しているという設定であるのなら、そこまでこだわってもよかったのではないか、と思う。 さまざまな革命運動や学生運動において、敗北のつぎにとられる行動として、極めて危険な方針がさらなる急進的行動であったり、テロやクーデターといった主観的な方針であったりしたことは、枚挙にいとまがない。とりわけ日本の左翼運動や学生運動においては、同じ運動圏内に対する暴力的支配の徹底(いわゆる内ゲバ)や、内内ゲバといわれるような同じグループや仲間内への暴力支配が、生き生きとした活発な左翼運動を自壊させ、社会的に孤立させた大きな原因の一つでもあった。この映画を見た若い世代の人たちが、おなじような過ちを繰り返さないことを強く願う。 とはいえ、この映画には、そんな暗さはみじんたりともない。それが何よりの救いでもある。 最後に二点、感心したことがあった。これは監督の意図したものであるのかどうかはわからないが。 一点目は、最後のクライマックスのシーンで、レオンが警官に捕まるシーン。 これは25歳の若きトロツキーが、1917年のロシア10月革命の「総稽古」として、ソビエト議長として革命を指導した1905年第一次ロシア革命における最後のソビエト議会のシーンを彷彿とさせた。議場を反革命政府軍にとり囲まれたソビエト議会の若き議長トロツキーは、屈辱的な投降を拒否する一方で、武装していたソビエト代議員らに所持している武器を自ら解体するよう命じ、1905年のソビエトの意義を高らかに宣言した。その後、トロツキーをはじめとするソビエト議会の代議員らは逮捕され、起訴される。起訴後の裁判では、革命が一部の人間による陰謀ではなく、労働者や兵士たちに幅広く支持され、彼ら、彼女らの参加によって成し遂げられたものであることを物語るエピソードがある。詳しくはトロツキー著『1905年』や『わが第一革命』(ともに現代思潮社)にくわしいので、興味をもたれた方は、1905年革命にも関心を持ってもらいたい。 もう一点。それは、レオンの学友(最初は他の学生と同じ無関心な学生だった)が、レオンの「決起」を支援するために、無関心な他の学友らを説得してレオンの支援に立ち上がらせるシーンだ。 演説家レオンの受け売りではなく、なぜあんたがそう思うのか、と学友らに聞かれて、自分の言葉で、行動に立ち上がる重要性を訴える。決して饒舌ではなく、ヤジにもさらされるが、それでも自分の考えで、自分の言葉で、たくさんの学生が立ち上がることを訴えるのだ。これこそ、トロツキーがその代表作である『ロシア革命史』や他の様々な著作のなかで示すように、革命の日々においては、誰もがアジテーターとなり、工場という工場、兵舎という兵舎において、労働者や兵士たちが決起する重要性を訴えた歴史的事実と重なるものである。 上映後のセッションで、ジェイコブ監督は、現代の学生や若者が受動的なのではなく、極めて鋭い考えを持ち、さまざまに考え、そして実際に行動している、そんな青年像をこの映画で描きたかったと答えていた。 映画の最終シーンでは、レオンは「探し求めた同志」に「世界を変えよう」と訴える。 21世紀の社会主義は21世紀の青年のみが手繰り寄せることができる。爽快な風を感じた映画だった。 カナダ(舞台はケベックだった)におけるユダヤ人社会の位置など、もうすこし事情が分かれば、また違った視点でみることができたかもしれない。 ともあれ一日も早い一般公開が望まれる作品だ。 (H) |