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那須資隆の九男稗田九郎朝隆により、その居城として文治3年(1187年)に築かれる。稗田朝隆が稗田村の領主になったのは9月なので、この頃に城は完成し、城の西200mのところに朝隆が城と共に創建した温泉(ゆぜん)神社の例祭が、昔は旧9月19日に行われていたことから、9月19日に正式に入城したとも考えられているが定かではない。西に流れる江川と湿地帯を天然の要害とした平城で、城の北約2kmのところに兄である沢村満隆が築いた沢村城とともに那須氏の当地の支配の拠点として築かれた城であった。
稗田御厨
承久2年(1220年)12月、藤原朝高により、稗田村が権禰宜度会常生に寄進され、貞応元年(1222年)6月、常生は伊勢外宮の御厨(みくりや)としてこれを寄進した。この藤原朝高とは、藤原氏である那須氏を出身とする稗田朝隆とされ、稗田城は、御厨支配の拠点となったと考えられている。しかし、これに対して、下野国衙在庁から異議が出され、貞応2年(1223年)に鎌倉幕府に訴え出たことから、朝廷や幕府を巻き込んでの政争の地となる。寛元元年(1243年)12月16日には、幕府が御厨支配を認めたことで、政治的決着が図られているが、その後も、御厨支配に対する国衙の妨害があり紛争は続き、乾元2年(1303年)3月6日(乾元2年は、8月5日に嘉元元年に改元)の文書を最後に御厨として登場する資料が無いことから、早くて鎌倉末期、遅くても南北朝期には、御厨としての機能が完全に失われたと考えられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%97%E7%94%B0%E5%9F%8E#.E7.A8.97.E7.94.B0.E5.BE.A1.E5.8E.A8
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