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(回答先: 映画 大室寅之祐 2 【youtube】 投稿者 愚民党 日時 2009 年 3 月 28 日 10:03:22)
岩倉具視
五百円札でお馴染みの岩倉具視は、立ち回りの上手さで貧乏公家から昇進の糸口を掴んだ。
堀川家に生まれ、岩倉家の養子になったが、当時の最高の家領は九条家の3413石で、岩倉家は150石だった。つまり下級公家の養子になったわけである。
貧乏公家の屋敷では体面ばかり繕っていて、物売りへの支払いさえ滞りがちだったので、岩倉家の近くでは売り声を止めて、そそくさと逃げるように通り過ぎて行ったとか。
公家の屋敷には幕吏は踏み込めなかったので、その特権を利用して、邸内で賭博場を開帳させ、テラ銭を稼いでいた。これは噂に過ぎない。
そんな落ちぶれ公家から、上流への突破口として、具視は鷹司政通の歌道の門人となって接近した。
鷹司家は公家の五摂家のひとつで、最高の家柄であり、政通は左大臣、太政大臣を経て、孝明天皇の摂政となった元老であった。
しかし、九条家をひっくり返したクーデターのリーダーは岩倉であり、その成功によって朝廷の中で確固とした政治的地位を占めることになった。
岩倉の巧みな演出で皇女和宮降嫁があったが、大方の評判は悪く、岩倉の強引な動きが反発を招き、公家仲間の糾弾を受けて免職追放の処分を受けた。
岩倉村へ蟄居したが、尊攘派から目の仇にされて、転々と住まいを変えることになった。その間にも天下国家の情報を収集し、志士たちとの接触を続けていた。
孝明天皇の死因についても、岩倉の指示で毒殺したという噂が流布されたが、事実は不明である。孝明天皇は攘夷思想の持ち主で、急激な変革を望まなかった。
しかし孝明天皇崩御は、岩倉にとっては政治的大転換、討幕の絶好のチャンスとなった。
明治政府では、太政大臣に次ぐ右大臣の地位を得ていたが、政治的生命は終焉に近づいていた。しかし、太政大臣が精神錯乱状態におちいったため、岩倉は太政大臣代理となった。
明治7年冬の夜、赤坂の仮皇居から帰宅する途中、くいちがい坂で数人の刺客に襲われた。腰に刺していた刀のお陰でかすり傷で済んだが、馬車から転がり落ちた。
刺客は岩倉がお堀に落ちて死んだものと推察し、目的を遂げたと思って引き上げた。
しかし岩倉は、松ノ木に引っ掛かって助かっていた。
数日後刺客は捕らえられ、高知県の士族で元近衛の将校や下士官であったことが判明した。
そのお濠は埋め立てられて、上智大学のグラウンドになっている。
http://plaza.rakuten.co.jp/sinpika/diary/200604140001/
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