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大学に入学して最初の長期休暇。高校時代の学友や先生と久しぶりに再会した私は、そこで出た北朝鮮の大学に留学してみないかという冗談みたいな話を真に受けていなかった。
だって北朝鮮だよ。中国には多くの国際交流プロジェクトがあって、学生らは望めば、見聞を広めるために異なる文化、異なる宗教の国々の人々と交流することが奨められる。異国の地で学生間に芽生えた友情は、長い時間で見れば訪問国との友好にも発展するだろう。
私は笑って「機会があれば」と返事をした。しかしまさかそれが現実になるとは思わなかった。北朝鮮の国内情勢には詳しくない。予備知識は、皆と同じようにネットにアップされたごく短い動画で辛うじて知る程度のものだ。世界各国が善きにつけ悪しきにつけ、日々接触を保っているこの世の中にあって頑なに孤立している隣国は、中国にとっての「友好国」であるがゆえ、ほの暗く、意識の隅に追いやられ、忘却の途をたどる。
親友たちは皆、訝った。「どうして北朝鮮なんかに。あり得ない」。しかし誤解と推測の域をでないこの隣国の真の姿を伝えることも必要なのかなと思った。それもできるだけ客観的に。
2010年度国家留学基金委員会は、中国国内にある11の高校と相互に交換留学することを決めた。そこに私がいる。高麗航空の飛行機に搭乗した私たち留学生は、4月8日に彼の地を踏んだ。北朝鮮への留学を知らされたのは、三カ月前のこと。思いがけず知らせを受けた私は、とりあえず荷物をまとめにかかった。北朝鮮で過ごすのは春、夏、秋の三季。気候的には温帯に属するものの、山岳地が多く、底冷えする1月には零下20度から40度にも気温が下がるらしい。用心するにこしたことはない。私はたっぷりとしたダウンジャケットを荷物に加えた。カート二つ分の荷物が重量超過で空港で引っかかる。やむなくシャンプー2本とハンガーをいくつか捨てる。
北朝鮮は物資が少ないという噂から、今回選ばれた留学生たち、とくに女子はいずれもはち切れそうなほど荷物を持ってきていた。どれも生活必需品のたぐいで、担当責任者は当局とかけあって各々の持ち込み荷物の重量制限を30キロから40キロに上げてくれている。それでも間に合わないほどに荷物がある。私たちは融通し合って、互いのカートの中に荷物を振り分けた。
【飛行機】
搭乗したのは13時50分。乗客の列に並ぶ、濃い色のスーツを着、左胸に指導者のバッジを付けたのが北朝鮮人だ。私は生まれて初めて北朝鮮の人々を目のあたりにした。彼らにはいささかの笑みもない。
おそらく外国に行くことのできる北朝鮮人は限られた存在なのにちがいない。故国では財力もあるだろうに一様に空港の免税店の大小の紙袋を提げている。
乗客の列に並んでいる最中、1人の北朝鮮人が話しかけてきた。私たちが朝鮮金日成総合大学および金亨稷師範大学への留学生だと知ると、顔をほころばせて「君たちが留学生活を楽しんでくれることを祈るよ」と言った。
飛行機は定刻に飛び立った。高麗航空のCAは、うす紅の頬に肌白く、化粧っ気はなくかわいらしくて親切だった。機内の意匠は旧ソ連の影響が色濃く感じられた。瞬間、私は違う世界に来たんだという何ともいえない思いに包まれた。
真っ赤な制服を着用したCAが機内サービスをはじめた。ミネラル・ウォーター、サイダー、ビールなどの飲み物、そして盛りだくさんの弁当には、ご飯のほかに缶詰の果物やハム、牛肉、鶏肉、ジャガイモがおかずとして添えられている。といって飛行時間はわずかに2時間あまり。窓の外にはさまざまな形をした湖や沼、山火事にでも遭ったような赤茶けた土壌が延々と続く。
【平壌空港】
畑を耕す農民の姿が確認できるようになった頃、飛行機は平壌空港に降り立った。ターミナルのビルは低く簡素で、ハングルと英語で平壌と書いてあるほか、大きな金日成の写真が掲げてあった。
4月だというのに冷たい風が吹きわたる。私はまるで北朝鮮の記録映画に映る人々の一員となったかのように、自分のなかで時空が錯乱するのを感じた。
バスは年式は古いが日本製だ。平壌市内の幹線道路の照明が意外に明るいことに気づく。それは留学世仲間の一致した感想だった。本当にここは北朝鮮なのか。ネットなどで見た短い動画で見た印象とは異なる景色が窓の外に流れていく。幸い私たちには時間はたっぷりとある。この疑問を解くための時間。
【外国人宿舎】
金亨稷師範大学留学生のための宿舎は、平壌市内、大同江(テドン川)の支流が流れる上新洞にあった。付近には西条市場、牡丹市場、北塞商業街、凱旋門があり、地下鉄の駅も近い。生活するには便利なところだ。
建物は八階建て。前庭と中庭があり、中庭には大きな樹が並んでいる。北朝鮮国内では拾うのが難しいタクシーを呼びたいときには受付にその旨を伝えればいいということだった。
各階の部屋数は5つ。部屋にはそれぞれ台所とトイレが備わっている。風呂はない。居室にはシングルベッドにテレビや本棚、机に洋服箪笥が備え付けられていた。床に絨毯は敷いてあるがエアコンはない。冬はスチーム、夏は扇風機が配給されるらしい。
広さとしては中国国内の学生寮よりも広く、自炊も可能だが不便がないこともない。生活の根幹を支えるインフラすべてに問題があるのだ。
たとえばトイレ。断水のない時間帯に左に見える青い大きなペールの中に水をためなければならない。たまった水を汲んでトイレを流す。よく詰まるらしくトイレットペーパーを流すことは禁止。これはここの規則で必ず守らなければならない。真ん中の手洗い器は完全に装飾品と化している。
電気に関しては北朝鮮側が中国人留学生を比較的手厚く扱ってくれているせいか、停電はないということだった。だが実際は、留学して2カ月後、初夏の時分に私たちは不安定な電圧に苛まれることになる。このため夏以降コンピュータを使用することはできなかった。また北朝鮮では各戸ごとに湯沸かし器は備えられていないそうで、体を洗いたいと思えば金を払って公共の風呂屋に行かなければならない。それはこの宿舎でも同じだった。私たちは週に一度、車に乗って蒼光院という風呂屋に通った。
電話は六階に一台あるだけで、しかもたいしてつながらず、電話料金ばかりがかさんだ。
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