19. 中川隆 2011年12月24日 23:40:22
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従軍慰安婦は売春婦か?
日本の戦争責任資料センターの声明では 「未成年の少女の場合、慰安所での使役は強制でなく本人の自由意志による、と主張することは、当時日本が加盟していた婦人・児童の売買禁止に関する国際諸条約に照らしても、困難である」 となっています。 又日本国内から慰安婦を徴募する場合は21歳以上の経験者にかぎるという法律があったと思います。 未成年を慰安婦として渡航されたことが確認できる公文書は、米三機密第353号「支那渡航婦女の取扱に関する件」と「渡支事由証明書等の取寄不能と認められるる対岸地域への渡航者の取扱に関する件」などでした。年齢がそれぞれに「15・16・17歳」と「14・15・16・18歳」になっています。 研究書に収録された元慰安婦の証言データ(1)朝鮮人慰安婦
出典:「日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦」表2−1,4−16,4−19,4−30より全42人43件(文玉珠は2回慰安婦になっている) 注:徴集年は19XX年、徴集形態は尹明淑の記述による(拉致:暴力による連行、就業詐欺:いい仕事があると騙して連れ去るもの、強制は命令された・逆らえなかったなど、徴集地で特記なきはすべて朝鮮。
名前 年齢 年 徴集形態 徴集人 徴集地 慰安所の場所 崔イルレ 15 1931 拉致 軍人 霊岩 満州 陳キョンベン 16 1939 拉致 軍人 狭川 基降(台湾) 鄭学珠 14 1938 拉致 軍人 釜山 ハルピン 文玉珠1 16 1940 拉致 軍人 大邸 東安省(中国) 姜ムジャ 13 1941 拉致 軍人 新馬山 パラオ諸島コロール 林グマ 16 1939 就業詐欺 民間業者 漢口(中国) 漢口(中国) 李相玉 14 1936 就業詐欺 民間業者 京城 パラオ 金春子 16 1939 就業詐欺 民間業者 清津 東安省(中国) 洪愛珍 14 1942 就業詐欺 民間業者 統営 上海 李玉粉 11 1937 誘拐・詐欺 民間業者 蘆山 台湾 金ブンソン 15 1937 就業詐欺 民間業者 漆谷 台湾 金ボットン 15 1941 詐欺・強制 民間業者 梁山 広東 *1朱徳蘭はこういう項目では分類していないが本文中で、日本人警察官により雑益に強制的に徴集された後、毎日性の相手を無理させられる様になったことが記述されている。 http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/15?from=1 朝鮮での慰安婦徴集の違法性で議論の余地がないのは、未成年者を徴集したことです。 現在日本で裁判をおこしている9名の元慰安婦達は全員が21歳未満であり、この場合、国際条約によれば、本人が了承したとしても慰安婦とする事は処罰の対象としなければならないはずです。 もちろん、この人達は強制をうけて慰安婦になったと詳細な証言をしています。 慰安婦の徴集のやり方について、間に朝鮮人が介在したことが多かったので、そのような場合は、軍の責任ではないとする意見もありますが、それなら慰安所に到着した時点で娼妓取締規則にあるように本人の自由意志であることを確認し、強制されたり騙されて来た者は、家に帰すべきです。
しかし、そのような事を行った形跡はありません。直接命じてやらせたにしろ、黙認したにしろ、軍の責任で行われたことに違いはありません。 http://www006.upp.so-net.ne.jp/nez/ian/ 『慰安婦』にされた年齢 尹明淑『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』(明石書店、2003年)の表(232、233ページ)から計算した、韓国人元「慰安婦」(43名)の徴集時の年齢は以下のようになります。
11歳 1名 12歳 1名 13歳 1名 14歳 3名 15歳 5名 16歳 16名 ←台湾での公娼の下限年齢*3 17歳 7名 ←朝鮮、満州での公娼下限年齢 18歳 3名 ←日本(内地)での公娼下限年齢 19歳 3名 20歳 - 21歳 1名 ←国際条約*4における成人女性の年齢 22歳 - 23歳 1名 29歳 1名
*「募集年−生誕年」で単純計算しただけなので、実際はこの結果より年齢が1歳下である場合も多いと思われる。 *3:1930年の外務省調査によると、アジアで公娼制度があったのは、日本およびその植民地・統治領、仏領インドシナ、中国(ただし上海など大都市では公娼制度を廃止していく) *4:『婦人及児童の売買禁止に関する国際条約』 コメント一覧
貧寒 2008/09/27 11:07
韓国での調査なので、年齢が満年齢ではなく数え年齢の可能性があり、さらに気持ちが重くなりました。 2〜30年前には朝鮮の女はパイパン(無毛症)が多いと言うことがまことしやかに語られることが有りました。 おそらく戦時中に朝鮮ピーと遊んだ人達が広めたのだと思います。何のことはない相手が年端もいかない少女達だったとは。 Stiffmuscle 2008/09/27 21:47
子供〜青年前期に強姦の被害者になると、その後の人生に多大で深刻な影響を及ぼします。ましてや元「慰安婦」の方々は監禁されて連続強姦され、身体的にもボロボロにされました。 なぜ、日本軍の兵士はそのことに気がつかなかったのか? 相手を同じ人間として見ていたら、その子たちの将来や親のことを考え付いていたら、決してこんな惨いことは出来なかったと思います。戦争だったというのは何の免罪符にもならない。
Allen 2008/09/28 16:21 ここ数年、世界中で第二次世界大戦を振り返る事態が多くなりました。 何となく日本の小泉政権発足以降とほぼ重なるような気がするのですが、やはり日本の一部の政治家や御用学者による一連の「戦争肯定」行為が影響しているんでしょうか・・・ 東中野教授は裁判で事実上「学者失格」と言われ、藤岡教授や八木教授などが在籍する『作る会』は事実上内ゲバで分裂、安倍元首相は1年で政権放棄・・・ 日本の自称『保守』も崩壊寸前ですね。まあ自業自得な印象しかありませんが・・・。 Stiffmuscle 2008/09/29 00:59 「慰安婦」の記述が中学校の教科書の全てに載ってからの右派論壇、つくる会、皇国マンセー議員の妄言が跋扈跳梁した1996年以降の基調だと思います。 当初の攻撃テーマが「慰安婦」と「南京大虐殺」だったわけです。 その後、最近になって沖縄の集団自決の件が出てきますが、正直、あいつらの3連敗です。完膚なきまでに叩き潰されないと「おれたちのが勝ってる!」って醜態をさらし続けるのかも。 まぁ、新人の凄腕論客がいないので、先細りするだけでしょうが(爆) http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080923/p1 ____ __,,/ _, ----`ヽ :. :. / _ ___ 、\ / / i \ \\ :. :. ,'./ i ヽ:. ヽ:.:.. ヽ.ヽ ,'/ / .ハ ヽ ヽ:.:.:.:. ヽ::.. ヽヽ :. :. |i .i i .i / ヽ ト 、 \、:.:.:. ',:.',:.:.lヽ} |i .i l :N_, -弋 \弌弋ナ:}:.:} :. |i∧ ', :{ ,ィjモト \ イjミトイイV :. な… .| :メヽ.', `ozZ} izN。ハ::{ なんなんですか? :. | :ヾ_! ゝ "゙゙ ' `゙ ハ.:', :. ここ、どこですか? | :.:_イ .:.ヽ. (二フ , イ :.:.:!:.ヽ なんであたし :. / rィイ | :.:.ヽ: >r/`(ノ .:.::.}ヽ、\:. 貼られたんですか? / ∧l;l ! :.:.:.://{二 ̄ .} ..:..::リ//ハ.:\ :. / .{. ',ヾ、ヽi .:.:.{ /(^` |.:.:.:.//: : :.}: . ヽ.:. / / ) ヽ ヾ、ヽ:.ハ ヤ{ ∧/.-‐'": : |:.:. i ', ./ .,イ .:..} : :\ヾレ'ハ ∧__ノノハヾ、 : : : l:.:.: .ハ ', { /| .:.:ハ : : :i Y {ヾ`Yヽニン'ノ}: : } : : : :/:.:.:/ }:.} V | .:.:/:.:|_,ィ' ̄ ヽ三{ `ー-ノ : イ : : :/:.:i.:{ リ ヽ:.:{、.:.V : : ヘ : : {: : :/:.::∧| ヽ! )人 : : :人 : : : / \! :. " ヽ : : : : :/イ{ :.ノ: : : :.\ :. :. \__///: :\______/: : : : : : : ヽ / //: : :|;|: : : : : : i: : : __: : : : ', :. / 、 {;{ |;| . : i/. : : : : : :| / `Y;{. . . .|;|. : : : /i: : : : : : : : :l
クマラスワミ報告
日本陸軍のために戦地で売春婦を提供する「慰安所」の開設は、上海における日華紛争にともない早くも1932年に始まった。これはいわゆる「慰安 婦」の利用が広まり普通の現象となるほぼ10年前のことであった。その現象が、第二次世界大戦が終わるまでに日本軍の支配した東アジア全域のものとなった ことには疑いないからである。最初の軍事的性奴隷は日本の北九州地域の女性たちで、陸軍の指揮系統の一人の要請で長崎県知事によって送られた。/訳注1慰 安所制度を公式に設置したことの理由付けは、そのように制度化され、それゆえに管理された売春サーヴィスは、陸軍の占領地から報告される強姦の件数を低下 させるであろうということであった。
1937年に日本の皇軍が暴力的結果を伴いつつ南京を占領したとき、日本の当事者たちは軍の規律と士気の状態について考えざるをえなくなった。 1932年当初に導入されたような慰安所計画が復活した。上海の方面軍は業界とのコネを利用して、1937年末までに軍の性的サーヴィスのために出来る限 り多くの女性を手に入れた。 これらの女性や少女たちは、上海と南京のあいだにあった軍直営の慰安所で使われた。この慰安所は後の時期の慰安所の原型となり、利用規則とともにそ の写真が残されている。軍による慰安所の直営は、この現象がもっと広まるとともにより安定してきた環境では、慰安所の基本の形とならなくなった。慰安所を 経営し所内の業務を引き受けたがっている民間業者が沢山いた。かれらは陸軍によって軍人に準じる身分と階級をあたえられた。軍は輸送と慰安所の全般的な監督についての責任をもちつづけたし、衛生や全体の管理は軍の責任であった。 戦争が続き東アジア各地を拠点とする日本兵の数が増えるにつれて、軍事的性奴隷にたいする需要も増大した。そこで徴集のための新しい方法がつくりだ された。そのうちには東アジアの多くの地域、とくに朝鮮における詐欺と暴力の頻繁な利用が含まれていた。名乗り出た多くの朝鮮人「慰安婦」の証言は、強 制や騙しが頻繁に用いられたことを明らかにしている。(大部分は朝鮮人である)かなりの数の被害女性たちは証言のなかで、自分たちの徴集に責任のあるさま ざまな業者や現地の協力者が用いた詐欺と甘言について語っている。 1932年に国家総動員法が制定されたが、戦争末期の数年までは完全に実施されなかった。日本政府が同法を強化するにつれ男も女も戦争努力に貢献す ることを要求された。このこととの関係で女子挺身隊が設立されたが、それは表向きは工場で働いたり、あるいはその他の日本軍を補助する戦争関連業務にあた る女性たちを手に入れるためであった。しかしそれを口実として多くの女性たちが騙されて軍事的性奴隷にされているとして、挺身隊と売春との結び付きがす ぐに噂となった。 最後に日本人は軍の増大する需要を満たすため、暴力と露骨な強制に訴えてより多くの女性を手に入れることができた。数多くの被害女性たちが語っ ているのは家族に加えられた暴力である。家族は娘の連行や、ときには暴力でつれ去られるまえに両親の目の前でおこなわれた強姦を阻止しようとした。ヨ・ボ クシル(YoBokSil)の事例調査では、彼女は多くの少女のように家からつれ去られたが、其の際誘拐に抵抗をこころみたため父親が殴られた。 慰安所の地理的な所在地は戦争の進行とともに広がったように思われる。日本軍が駐屯した所にはどこにでも慰安所があったようである。その一方では、 公娼の存在にもかかわらず日本の内地でさえ「慰安婦」の利用が進み、既存の施設を利用できない人々のためにいくつかの慰安所が開設された。 慰安所が中国、台湾、ボルネオ、フィリピン、太平洋諸島の多く、シンガポール、マライ、ビルマおよびインドネシアに存在したことは、多くの資料 から分かる。慰安所の活動が行われていた当時の記憶がある人、なにかの形でこの制度の運営に関わっていた親類や知人があった人など、さまざまな人々の証言 が記録されている。 日本帝国のさまざまな場所にあった多様な慰安所規則類の記録といっしょに、いろいろな状況下での慰安所や「慰安婦」自身の写真さえ保存されている。 徴集方法の証拠として役立つ文書記録は僅かであるが、この制度の運営の実態は時を経て残った記録類により広範に立証できる。日本の軍部は売春システムの詳 細を細かく記録したが、それをたんなる一つの遊興施設とみなしていたようにみえる。上海、日本の沖縄その他の地方、中国およびフィリピンにあった慰安所の 規則はまだ残っており、なかでも衛生規則、利用時間、避妊、女性にたいする料金およびアルコールと武器の禁止を細かく規定している。 これらの規則類は、戦後に残された文書のうちでももっとも罪深いものである。それらは日本軍がどの程度まで慰安所にたいし直接の責任があり、その組 織のあらゆる側面と深く関わっていたかを疑いの余地なく明らかにしている。そればかりでなく、慰安所がいかにして合法化され制度化されたかをも明白に示し ている。「慰安婦」が適正に扱われるようにすることに多くの注意がはらわれたように見える。アルコールと刀剣類の禁止、利用時間の規定、合理的な料金、 その他礼儀作法または公正な取り扱いらしいものを課そうとする試みは、実際に行われたことの野蛮さ、残酷さと鋭い対照をなしている。このことは軍事的性奴 隷制のシステムの異常な非人間的性格を照らし出すのに役立つだけである。このシステムのなかで、筆舌に尽くしがたいほど心を傷つけられることもおおい状況 の下におかれながら、大勢の女性たちが「売春」に身をゆだねつづけることを強制されたのである。 戦争の終結も、引き続き「慰安婦」として使役されていた女性の大部分にとっては救いとならなかった。多くの人が退却中の日本軍によって殺された か、もっとおおかったのはただ運命に任せて遺棄されたからであった。ミクロネシアの事例では、一夜で70人の「慰安婦」が日本軍に殺されたが、それは女は 邪魔だと考えたり、前進するアメリカ軍の手に落ちたら面倒なことになると思ったためであった。 最前線にいた被害女性の多くが、兵隊といっしょに特攻をふくむ軍の作戦に加わることを強制された。しかし一番おおかったのは、故郷から遠く離れ、 「敵」の手でどんな目にあうか分からない所で自活するように放置されたことであった。自分の居場所すら分からず、ほとんど金を持たず無一文のものもおお かった。証言によれば「稼いだ」金を少しでも受け取ったことのある女性はごく僅かだったからである。マニラの場合のように撤退した女性のうちからは、悲惨 な状況と食料不足による死者が多くでた。 徴集
第二次世界大戦の直前及び戦争中における軍事的性奴隷の徴集について説明を書こうとする際、もっとも問題を感じる側面は、実際に徴集がおこなわれた プロセスに関して、残存しあるいは公開されている公文書が欠けていることである。「慰安婦」の徴集に関する証拠のほとんど全てが、被害者自身の証言から得 られている。このことは、多くの人が被害者の証言を秘話の類とし、あるいは本来私的で、したがって民間が運営する売春制度である事柄に政府をまきこむた めの創作とまでいって退けることを容易にしてきた。それでも徴集方法や、各レベルで軍と政府が明白に関与していたことについての、東南アジアのきわめて多 様な地域の女性たちの説明が一貫していることに争いの余地はない。あれほど多くの女性たちが、それぞれの目的のために公的関与の範囲についてそのように似 通った話を創作できるとはまったく考えられない。 日本の直接管理下にある最初の慰安所は1932年に上海におかれたが、その開設にたいする公的関与については第一級の資料がある。上海戦の指揮者の ひとり岡村寧次中将(上海派遣軍参謀副長)は軍慰安所の最初の発案者であったことを、回想記のなかで告白している。/5日本軍による強姦がきわめて高率で 頻発し、対策として長崎県知事により大勢の女性が現地に送られた。/訳注2彼女たちが日本から送られたという事実は軍のみならず内務省をもまきこむ。内務 省は知事と、後に軍に協力して女性の強制徴集の際に重大な役割を果たすことになる警察とを支配していた。 1937年の南京事件の結果、軍規を改善しなければならないことが日本人に明らかとなり、「慰安所設置」が復活した。北九州のおなじ地域に業者が送 られた。売春宿からの自発的応募が不十分であったので、彼らは表向きは軍の料理人や洗濯婦という給料のよい仕事を世話するといって土地の少女たちを騙す手 にでた。そういう仕事の代わりに彼女たちは上海と南京のあいだにあった慰安所で軍事的性奴隷とし働かされ、このセンターが将来の慰安所の原型となった。 戦争の後期になると、軍は慰安所の運営と業務にたいする責任の大部分を民間の業者に譲りわたした。軍の代理人が業者に接近したことも、業者がすすん で軍に許可を求めたこともある。軍が売春業を経営するのは適当でないと考えられたし、民間業者の施設にしたほうが軍隊にはもっと「ふさわしい」と思われ た。しかしどの程度まで民間人が関わったか、また正確にはだれが慰安所の開設に着手した責任があったかは、地域によって異なったが、徴集の実行はますます 政府の側の責任となった。しかしごく最近まで日本の当局者が、強制徴集と欺瞞におけるかれらの役割、または徴集のプロセスでの実際上の責任を全く認めよう としなかったために、軍事的性奴隷として使役された女性たちの獲得のプロセスに関する情報は大部分が被害者自身の口から得られたものである。 しかし前述のようにこの情報は元「慰安婦」の話のなかに沢山あり、無理なく明確な像がえられる。徴集について三つのタイプが識別できる。すでに娼婦 であった女性と少女の自発的応募、料理屋のあるいは軍の料理人または洗濯婦として給料のよい仕事で女性を騙す、および最後に日本の支配下にある国々での大 規模な強制と奴隷狩に匹敵する女性の暴力的連行。 より多くの女性を求めて軍のために活動していた民間業者たちは、日本人と協力して活動する朝鮮警察のメンバーと同様に、村にやってきて給料のよい仕事の約束をして少女たちを騙すことがあった。あるいは1942年に先立つ数年間は、朝鮮警察が村に来て「女子挺身隊」を募集した。このことは徴集を日本の当局により是認された公的なものとし、一定程度の強制を意味するものともした。もし「挺身隊」として推 薦された少女がそれを断った場合には、憲兵隊または軍警察がその理由を取り調べた。実際に「女子挺身隊」は日本軍に、上記のように偽りの口実で「戦争努力 に参加する」よう地方の少女たちに圧力を加えるため地方の朝鮮人業者と警察を利用する機会をあたえた。 一層多くの女性が必要になった場合には、日本軍は暴力やむきだしの武力、狩り出しに訴えた。そのうちには娘の誘拐を阻止しようとした家族の殺害が 含まれていた。国家総動員法が強化されたことで、これらの手段をとることは容易になった。この法律は1938年に公布されたが、1942年までは朝鮮人の 強制徴集に適用されなかった。/9多くの軍「慰安婦」たちの証言は、徴集に際して広範に暴力と強制が用いられたことを証明している。さらに戦時中におこ なわれた狩り出しの実行者であった吉田清治は、著書のなかで、国家総動員法の一部として労務報国会のもとで自ら奴隷狩に加わり、その他の朝鮮人とともに 1000人もの女性たちを「慰安婦」任務のために獲得したと告白している。 文書資料はまた、地方住民全体の統制を保つうえで家族を利用できるので、役人や地主たちの娘は徴集を免れたと述べている。村々から集められた少女た ちはたいへん若く、大部分が14歳から18歳のあいだであった。少女たちを獲得するために学校の組織が利用された。現在、軍「慰安婦」問題に関心を高める ために活動している尹貞玉(ユン・ジョン多く)教授は、幸いにも両親の配慮によって学校から連れ出されるのを免れた。しかし教授は、そのようなやり方で性 病に冒されていない、就学年齢の処女が徴集された事実を証言している。 多くの少女たちは、若く世間知らずであったために、よい就職を世話するという申し出を疑いもせず、強制連行に抵抗できなかった。そして多くの場 合、売春とか性行為について全く何も知らなかった。徴集の実行に信頼する村の巡査、役場がしばしば関わっていたという事実は、彼女たちを一層無防備にし無 力にした。そのうえ売春にともなう汚名は、戦争が終わらないうちに苦役から帰ることのできた女性たちがその経験を話し、それによって他の少女たち に危険を警告する道を絶った。女性被害者のほとんどが、ぞっとする経験を隠し社会に再復帰することに懸命だったのである。 「慰安所」における状態 元「慰安婦」たちの証言によれば、彼女たちが日本軍兵士に奉仕するため要求された条件はほとんど一貫して恐るべきものであった。宿泊設備や全般的な待遇は場所によってまちまちであったが、おかれた環境の悲惨さと残酷さについてはほとんど全ての女性被害者が証言している。慰安所そのものは場所により、進撃中に日本軍 が接収した建物であったり、「慰安婦」の宿泊専用に軍が作った間に合わせの建物であったりした。前線地帯ではテントまたは一時しのぎの木造の掘っ建て小屋 がしばしば慰安所になった。 敷地は鉄条網で囲われ、厳重に警護され巡視されていた。「慰安婦」の行動は細かく監視され制限されていた。女性たちの多くは宿舎を離れることを許 されなかったと語っている。毎朝決められた時間に外を散歩することを許されたものもある。調髪のためとか、映画をみるために臨時外出を認められたことを覚 えているものもいる。しかし、実質的な行動の自由ははっきりと制限されており、逃亡はほとんど如何なるときでも不可能であった。 慰安所自体は、通常一階か二階の建物で、食堂または受付が下にあった。女性たちの個室は裏側か二階にあるのが普通で、たいていは狭く窮屈な間仕切り から成っていた。僅か6フィートか8フィートと小さいことも稀でなく、ベッド一つがやっと置ける部屋であった。そのような状況のなかで「慰安婦」は一日に 10人から30人もの男を相手とすることを求められた。いくつかの前線地帯では女性たちは床のうえの布団で眠り、おそろしい寒さと湿気に晒されなければな らなかった。個室は多くの場合一枚の畳か、床まで届かない筵で仕切られているだけであったので、物音は部屋から部屋へ筒抜けとなった。 典型的な慰安所は民間の業者が管理し、女性たちの世話をする日本人または時により朝鮮人の女性が一人いることがおおかった。軍医が衛生検査をおこ なったが、「慰安婦」の多くの記憶では、これらの定期検査は性病の伝染を予防するためのもので、兵隊が女たちに負わせた煙草の押し焦げ、打ち傷、銃剣に よる刺傷や骨折でさえもほとんど注意を払われなかった。そのうえ女たちの休み時間はほとんどなかった。現在残っている規則の多くで規定されている自由時間も、居続けようとしたり規定外の時間に来たがる将校たちによりしばしば無視された。何日にもわたり女たちは次にやってくる男を迎える前に身を清めるのが やっとという有り様であった。 食べ物と衣類は陸軍により支給された。しかしながい間、食べ物はいつも不足していたと不満を漏らす元「慰安婦」が何人もいる。ほとんどすべての場合 に女たちは「奉仕」にたいし支払いを受け、料金の代わりにチケットを集めることになっていたが、戦争が終わった時になんらかの「稼ぎ」を持っていた者はご く僅かであった。こうして戦争が終われば自分や家族が自立するのに十分な貯えを持てるかもしれないというほんのささやかな慰めでさえ、日本軍の敗退後には 無意味なものとなった。 奴隷的状況の苛酷さと残虐性は、性的虐待の根強く永続的なトラウマ(精神的外傷)にくわえて、多くの軍事的性奴隷の証言のうちによく現れている。彼 女たちはいかなる人格的自由も持たず、兵士からは暴力で残忍に、慰安所経営者と軍医からは無関心に扱われた。前線に近いこともまれでなかったため、彼女た ちは敵襲や爆撃、死の脅威にさらされた。おなじ状況は慰安所の常連の兵隊たちを今まで以上に残忍にし攻撃的にした。 そのうえ病気と妊娠にたいする恐怖がいつもあった。実際「慰安婦」の大多数はある程度性病にかかっていたように思われる。病気の間は回復のための休 みをいくらか与えられたが、それ以外はいつでも、生理中でさえ彼女たちは「仕事」を続けることを要求された。ある女性被害者が特別報告者に語ったところで は、軍事的性奴隷として働かされていたときに何度も移された性病のため、戦後に生まれた彼女の息子は精神障害者となった。このような状況はすべての女性被 害者たちの心に深く根付いた恥の意識と合わさって、しばしば自殺または逃亡の試みという結果をひきおこした。その失敗も確実に死を意味した。 歴史の記述から得られる情報を補足するために、特別報告者はソウルと東京に滞在中に歴史家たちと会い、慰安所が開設され、女性たちが軍事的性奴隷にするために徴集された状況についての情報を求めた。 特別報告者は東京の歴史家、千葉大学の秦郁彦博士が「慰安婦」問題にかんする幾つかの研究、とくに済州島での「慰安婦」の状況について書いた吉田清治の著書に反論したことを指摘して多く。博士の説明では、彼は1991〜92年に大韓民国の済州島を史料収集のため訪れたが、「慰安婦犯罪」の主犯は実際 には朝鮮人区長、売春宿の持ち主及び少女自身の親たちでさえあった。教授の主張では親たちは娘の徴集の目的を知っていたというのである。議論の裏付けとし て秦博士は、1937年から1945年にかけての慰安宿のための朝鮮人女性徴集システムの二つのひな型を示した。どちらのモデルも朝鮮人の親たち、朝鮮人 村長および朝鮮人ブローカーたち、すなわち民間人たちが日本軍のために性奴隷として働く女性たちの徴集に協力し、役割を果たしたことを知っていたことを明 らかにしている。秦博士はまた大部分の「慰安婦」は日本陸軍と契約を結んでおり、月あたり兵隊の平均(15〜20円)の110倍(1000〜2000円) もの収入を得ていたと信じている。 特別報告者はまた東京の歴史家、中央大学の吉見義明教授にも会った。彼は特別報告者に日本の皇軍の文書のコピーを提供した。それは朝鮮人「慰安婦」 の徴集にたいする命令や規定が日本軍当局により、あるいは当局が知っていて実行されたことを裏付けるものであった。吉見教授はまた原文書の詳細な分析を示 したが、それは師団や連隊の後方参謀や副官が派遣軍から指示をうけ、憲兵を使って占領地の村長や地方の有力者に命じ、軍事的性奴隷として使役する地域の女性を徴集するのが普通であったとするものであった。 慰安所の開設にたいする日本軍の決定的な関与と責任を例示するために吉見教授はさまざまな文書に言及した。特別報告者も例証として日本陸軍の広東駐 屯第21軍の1939年4月11〜21日の「旬報」に言及しておきたい。そこには軍の統制下で将兵のための軍慰安所が操業しており、約1000人の「慰安 婦」が同地内の10万と推定される兵士を相手にしていると書かれている。特別報告者に渡された他の同様な文書からは、陸軍省からの指示に基づいて「慰安 婦」施設にたいする厳重な統制システムが維持されていたことが明らかにされている。これらの命令は、性病の蔓延防止を目的とする衛生規定のような事柄にも 配慮していた。 特別報告者はまた、性奴隷徴集のため普通に行われたもう一つの方法として、各派遣軍から朝鮮に派遣された業者で、彼らは憲兵と警察の協力または支持 を得て軍事的性奴隷として朝鮮人女性を集めたと思われるという情報を得た。これらの業者は普通、軍司令部により指名されたが、師団、旅団または連隊が直接 おこなうこともあったようである。さらに吉見教授は、日本政府によって全ての公文書が公開されておらず、防衛庁、法務省、自治省、厚生省および警察庁の文 書庫にまだ眠っているものがあるかもしれないので、徴集の詳細を文書で裏付けることはきわめて困難であると主張した。 これまで述べたことにかんがみて特別報告者は、第二次世界大戦終結50周年にあたる1995年の真相調査団は格別に意義あるものとなり、戦時中の軍 事的性奴隷に関連する未解決の問題の解決を助け、また暴力の被害者である少数の生存女性たちの苦しみを終わらせる助けとなるものとなろうと考える。 特別報告者が、平壌で元「慰安婦」の世話をしている医師チョ ウ・フン多く(ChoHungOk)博士の助言を求めたのに対し、博士は、これらの女性は多年にわたり毎日毎日何回もの強姦に耐えなければならなかった結果、その人生の大半を肉体的にも心理的にも全体として衰弱した状態におかれていたことを確言した。チョウ博士はさらに、女性たちが体に負った目に見える肉体の傷痕に加えて、精神的苦痛がその生涯を通じて彼女たちを苛んでおり、こちらのほうがもっと深刻であることを強調した。同医師はさらに、女性たちの多くは不眠、夢魔、高血圧および神経過敏に悩まされていると証言した。女性たちの多くは、移された性病により生殖器や泌尿器が影響を受けたため、不妊手術を施さなければならなかった。 http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html 「慰安所はまさに地獄の場所だった」…水木しげる
戦争中の話だが、敵のいる前線に行くために、「ココボ」という船着場についた。ここから前線へ船が出るのだ。そういうところには必ずピー屋がある。ピー屋というのは女郎屋のことである。(中略)
ピー屋の前に行ったが、何とゾロゾロと大勢並んでいる。 日本のピーの前には百人くらい、 ナワピー(沖縄出身)は九十人くらい、 朝鮮ピーは八十人くらいだった。 これを一人の女性で処理するのだ。 僕はその長い行列を見て、一体いつできるのだろうと思った。一人三十分としてもとても今日中にできるとは思われない、軽く一週間くらいかかるはずだ。しかし兵隊はこの世の最期だろうと思って はなれない、しかし・・・・・いくらねばっても無駄なことだ。 僕は列から離れることにした。そして朝鮮ピーの家を観察したのだ。ちょうどそのとき朝鮮ピーはトイレがしたくなったのだろう、小屋から出てきた。 (彼女がナニカを排泄する様子の描写) とてもこの世のこととは思えなかった。第一これから八十人くらいの兵隊をさばかねばならぬ。兵隊は精力ゼツリンだから大変なことだ。それはまさに「地獄の場所」だった。 兵隊だって地獄に行くわけだが、それ以上に地獄ではないか。と、トイレに行った朝鮮ピーを見て思った。よく従軍慰安婦のバイショウのことが新聞に出たりしているが、あれは体験のない人にはわからないだろうが・・・・ やはり「地獄」だったと思う。だからバイショウはすべきだろうナ。 (「水木しげる伝〜戦中編〜」によれば、彼女たちはこの後、病院船でココポを離れたが、途中潜水艦にやられ、全員が死亡したという。) http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-167.html !:::::::::::::::::::::/::::/ l l ,l | | l ! ! l l l:: !:::::::::::::::/!:::/ | ! ! | / ! !_!-‐ァ l | | | ! !: !:::::::::/,-、∨ _!__, --、| ! | | ! |`r'´! l ! | | ( |::://:::::::!:! | { }`゙`ト!、 ! | | !/ ! ハ | ! !: -、!'/:::::::::::ノノ! !ヽ!`T´! !| !`ト、 ! ! ! // ! ! ! |: ヽヽ:::,、:::/ィ ト、|_ァ=ァ==ミ、トl ! l ,イヽ!,イ/ l ハ | ! 〉!:/::ヽ/| | ヾ {っr⊂かミヽ| ! // /メ _// ! | ! | |:: _/∧::::::::) l! ! ○┴-ニ、ノ .V //〃 ヽ/'``ト、 l l l | l:: -' ヽ:/l |ヽ ! ` '´ /' _ /イ メイ ! l /:: -ヽ ヽl | l | ///// 7っ`ヽ'´ l// j / / /レイ:: ヽ l ! | | _{ r⊂∧ ,.イ / ,イ /-イ !:: \ ヽ! | ! ! / `ヽ cっ // , イ/彳 ! l::: _`ニ=| | l | ____ '´ ///// ,イ l イl l |:::! ! !::: ::::::::::::::! |\ ! l (____ノ /イ / l !| !::l l l:::/ ⌒l:::::::| !--ヽ! | /´ !/! ! || !::| ! レ 、 ヽ´| ! | ! | _, '´ 〃 l l || l:::l! | `´ | ! l | !` ト __ .. -‐=ニ´、 // ! l || !::|| ! ', ', ! | ! Y´`ヽ‐、 \> //| l || ,ヽ! ! l ヽ ヽヽl l Yrゝ〉ヽ} / \l l ! | ||' / l ',
ネットウヨの従軍慰安婦問題に関する知識はこんなものです(笑) - 解決不能 598 名前:名無しさん[] 投稿日:2007/11/10(土) 10:53:51 ID:i/n9clPt あったあった。 娼妓取締規則(明治三十三年十月内務省令四十四号) 娼妓になるためには、自ら警察に出頭して娼妓名簿への登録を申請することが必要でした(第二条三条)。
また、もしも本人の意に反して、強いて娼妓名簿の登録申請をさせた者は、拘留または科料に処されたのです(第十三条六項)。 その上、娼妓をやめたいと本人が思うときは、口頭または書面で申し出れば、何人といえども妨害できませんでした(第五条六条)。 以上のことから、当時の公娼制度では「年齢制限」「拒否の自由」「廃業の自由」が認められていたことがわかります。 それに対して軍慰安所では、慰安婦が自由意思かどうかの確認などをした形跡はありません。 ↓ 強制ではなくて自由意志だというのであれば就業の登録などの史料が残っているはずだよな? 慰安婦は借金を返済するまで身柄を束縛されていました。
それはネトウヨが大好きな「日本人捕虜尋問報告書 第49号」(北ビルマのミッチナ慰安所)からも裏付けられます。 「1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める 旨の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。」 (吉見資料集p445) つまり、廃業の自由などはなく借金を返済するまで拘束されていたのですから、明確な娼妓取締規則違反です。 すなわち、違法な売春行為をさせていた事になります。 624 名前:ネットウヨ 投稿日:2007/11/10(土) 10:56:56 ID:pz4FUxKC >>598 軍の直接経営じゃないから、軍に資料が残らないだろうに。何を勘違いしているのかね。 ____
先ほども指摘しましたが、誰も軍と限定していません。 具体的に指摘してやらないと、理解できないようです。 634 名前:ネットウヨ 投稿日:2007/11/10(土) 10:58:37 ID:+DaT2cut >>598 従軍慰安婦って、一般の娼妓と同じ扱いだったんですか? 戦地まで行くというのに。 660 名前:ネットウヨ 投稿日:2007/11/10(土) 11:01:06 ID:pz4FUxKC 売春業者が集めて戦地の近くで営業していたから、基本的に民間の業務だったのさ。 ________ こういう事例はご存知ないようで。
日本軍は、民間業者を使わずに、直接慰安所を経営したこともあった。
「昭和十三年七月五日附在上海総領事発信在南京総領事宛通報要旨」 「陸海軍ニ専属スル酒保及慰安所ハ陸海軍ノ直接経営監督取締ニ属スベキ」 (吉見資料集p181−182) 独立攻城重砲兵第二大隊長「状況報告」(昭和13年1月20日) 「慰安設備ハ兵站ノ経営スルモノ及軍直部隊ノ経営スルモノ二ケ所アリテ」 (吉見資料集p195−196) セレベス民政部第二復員班長(海軍司政官) 「セレベス民政部第二復員班員復員ニ関スル件報告」(昭和21年6月20日) 「南部セレベス売淫施設(慰安所)調書」 「婦女ノ募集並ニ雇傭契約ハ主トシテ民政部嘱託(帰還)及実業団員(帰還)之ヲ行ヒ」 「売淫施設ニ関スル調査報告」(第二軍司令部) 「部隊ニ於テ経営ス」「『ケンダリー』ハ海軍少尉、『アモイト』ハ海軍少尉、 『バウバウ』ハ派遣隊長(官氏名不詳)希望者ヲ募集シ経営セリ」 (吉見資料集p365−375) 彼らが全く資料に目を通していない実態が明らかになりました(笑)
こんな有様で捏造だ情報戦だなどといっているのですから、実に御目出度い(笑) 661 名前:ネットウヨ 投稿日:2007/11/10(土) 11:01:11 ID:bOrvmf2S >>598 借金で縛られるのなんて現代でも同じじゃねーかw ましてや軍が直接雇用してねーのに軍に資料が残るかよw ____
廃業の自由を認めなかった時点で違法なのです。
現代でも廃業の自由が認められていないとしたら、それも違法です。 違法行為は現代であろうと過去であろうと非難されるべき行為なのですが、 どうも彼らには法律を守ろう、守らせようとする意思が欠けているように見受けられます。このような国士様に日本の未来を任せるのは甚だ不安ですね…。 742 名前:名無しさん[] 投稿日:2007/11/10(土) 11:09:57 ID:i/n9clPt 史料が全部燃えた、処分された 燃やす必要が無い史料をわざわざ燃やしたり処分する必要は無いよな? 768 名前:ネットウヨ 投稿日:2007/11/10(土) 11:12:43 ID:eGYWhDvF >>742 燃やされたという証拠をどうぞ。 てか、処分しようと思ってもこの手の書類って、どこかしかにバックアップが有る筈なんだけど。 786 名前:名無しさん[] 投稿日:2007/11/10(土) 11:14:37 ID:i/n9clPt >>768 逆だ逆! 騙したり、強制連行(軍人関与)して慰安婦としたのでは無かったとして就業契約などの史料が証拠になるわけでしょ それならわざわざ焼却したり燃やしたりする必要が無い。 812 名前:ネットウヨ 投稿日:2007/11/10(土) 11:18:40 ID:/39C7lF8 >>786 女衒と就業者が交わした証文とか多数のこってるよ。 当時は事前に借金させてその証文と抱き合わせが通例だから・・・ っで、上のほうで自由意志で警察にうんぬん・・・ってあるけど、自由意志じゃなくて積極的就職活動だから・・・ _____
自由意志でつれてこられたのではない方もいらっしゃいますし、ウソの条件で騙されてつれてこられた方もいます。何より、強制的に借金を負わせて廃業の自由を与えていないとしたら娼妓取締規則違反なのですが、どうやら理解出来ていないようです。 808 名前:ネットウヨ 投稿日:2007/11/10(土) 11:17:39 ID:p/fKhQb1 >>786 売春婦の許可のような如何でもいい資料が有ったとしても 法廷保存期間が過ぎれば焼却されるだろ、倉庫スペースの無駄だし _____
では何故「支那渡航婦女の取扱に関する件」などの資料は残っているのでしょうか?それこそ焼却されたというソースをどうぞ(笑) こういう史料は有った方が否定派に有利になるのですが、探さなくてよろしいので?(笑) 828 名前:名無しさん[] 投稿日:2007/11/10(土) 11:21:02 ID:i/n9clPt >>808 実際、1937年後半以降、日本・朝鮮・台湾から中国に渡航する時は、警察(または軍)の許可が必要でした。
次の資料からもわかります。慰安所の設置が急増するのは1938年に入ってからですから、業者が勝手に慰安婦を連れて行くことなどできないはずです。 慰安婦とされた女性も、一人ひとりこのような調査をうけた。そのときに、彼女たちがどのようにして集められたか、本気で調査すれば警察がつかめなかったはずがない。違法行為を承知で渡航のための身分証明書が発給されたことになる。 884 名前:名無しさん[] 投稿日:2007/11/10(土) 11:28:54 ID:i/n9clPt 朝鮮半島における慰安婦募集の広告 http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/29/ (右)1944年10月27日字 「毎日新報」慰安婦募集広告 (左)1944年7月26日字 「京城日報」慰安婦募集広告 ■デマ広告という批判に何の反論もできない「THE FACTS」のメンバーたち 意見広告「THE FACTS」では、日本は国際法を遵守し「21歳以上」の女性だけを慰安婦として募集したと主張しています。 ところが共通するメンバーが執筆した『情報戦「慰安婦・南京」の真実』の表紙には、1944年の新聞に載せられた「慰安婦募集広告」が掲載されているのですが、「THE FACTS」の主張に反し、 募集年齢がそれぞれ「17歳以上」「18歳以上」となってるいるのです。 これに対するレスは皆さんの予測どおり、「強制連行の証拠じゃない!」「強制連行は無かった!」で埋め尽くされているのですが、ここで取り上げられているのは国際法違反かどうかなのですけどね…。 話を逸らそうとしてるのか、ネトウヨの貧弱な頭脳ではオーバーフローしてしまうのか、何が問題にされているのか全く分からないご様子。教えて上げましょう。 『婦女および児童の売買禁止に関する国際条約(1921年 』)では、未成年の場合は本人の承諾があろうとも売春目的での人身売買は禁止されています。 つまり、ネトウヨはこれが国際法違反であった事に全く反論できていないのです。 http://d.hatena.ne.jp/hagakurekakugo/20071111/p1 従軍慰安婦の給料は高給だったのか ? lunakkoさん
私の主張は、「慰安婦が高給取りであった」の一点です。 そして、ni0615さんが自分の説を補強?、私の説を否定するために軍票の話を持ち出してきただけです。 zames_makiさん
ですが、それはありえません。結論として0円でしょう、 理由は慰安所経営者が騙し取っていたからです。 現在の元慰安婦の証言でお金を貰ったとしている人はほぼ0です。 文玉珠の26145円は給料ではなく、チップです。 給料は貰っていたか否か?については、証言の中で明確に述べていませんが、朝鮮人慰安婦43人の証言を統一的に調べた研究者、尹明淑はもらっていないと判断しています。従って今ある資料から言える文玉珠の「給料」は不明です。 lunakkoさん
そうですね。文玉珠さんの場合はチップです。私も文玉珠さんがそう証言している。と書いてから気付きましたが、そこを指摘するあなたに感謝します。 >現在の元慰安婦の証言でお金を貰ったとしている人はほぼ0です。 証言は証拠にならないのはよくご存知のはずです。証拠がない限り、給料がいくらだったかはわからないのではないですか?では、 http://ameblo.jp/scopedog/entry-10030549652.html 「多くの楼主は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしたため、彼女たちは生活困難に陥っていた」(日本人捕虜尋問報告)
と書かれている資料について、説明していただけますか? 多額の請求とは、どれくらいでしょうか? 給料が0円ならば、多額の請求をされても払えないと思うのですが。 また、多額と書いてあるし、「食料、その他の物品の代金として」と書かれていますので、絶対に払われているはずです。たとえ、それが「付け」であってもです。 また、文玉珠さんは、二回慰安婦をされたといっておられますが、何故ですか?二回強制連行されたのですか? 最後に、あなたは、文玉珠さんは その「労働」でなんらかのお金を得ていたことは確かでしょうね。と書いておられるのに、その証拠が「実力者に気に入られるようにした」と書いてあります。 その場合、もらえるのは「チップ」ですよね?「労働」はどういう意味ですか? noharaさん
>>>証言は証拠にならないのはよくご存知のはずです。 何故でしょうか? lunakkoさん
証言は証拠になるのですか? もしそうであるのならば、「私があなたに貸した1億円を返してください。」 私が証言しているのです。これが証拠です。 crescent2007さん
>>私が証言しているのです。これが証拠です。 当たり前です。証拠になります。あなたの証言も証拠になりますよ。しかし、補強証拠がないので誰も信用してくれないでしょう。信用するかしないか、の問題です。 「元慰安婦の証言は証拠にならない」という主張は、「元慰安婦の証言は信用できない」と言ってるのと同じだということをまず理解してください。 しかしこの三段論法には唖然としますが、このコミュニティでさえこのレベルでこうやって切り込まれてくるのですから、逆に言えば、その論法がそれだけ蔓延していることの証左ともいえるのでしょう。
議論の前提になる知識すら欠如している、と突き放してはいけないのでしょうが、次から次へと同じ論者がどうせ現れるのは確実です。そのレベルでの議論は軽くいなしつつ、このコミュニティはその存在意義を果たしていただければと思います。僭越ながら。 115: zames_maki
ステップ2:慰安婦は給料をもらったのか? 私が掲げた検討ステップは以下です @考える上で資料は何か?(慰安婦の受領書はあるのか?証言は信用できるのか?) A慰安婦には毎月、性交の代価として金が渡されたのか? B慰安婦は、いつまで働き、慰安所を離れる時、金は渡されたのか? C慰安婦に渡された金の種類は何か?(軍票?日本円?現地通貨?) D渡された金は幾らなのか? Eその金の実質的な価値はどの程度なのか? F朝鮮人慰安婦は朝鮮に帰国したが、渡されたその金は使えたのか? ステップ@考える上で資料は何か? (慰安婦の受領書はあるのか?証言は信用できるのか?) 結論:慰安婦の受領印のある受取証は存在せず、慰安婦の証言が参考になる。少なくとも研究者の調査した慰安婦の証言は信用でき、重要な資料である。
ステップA慰安婦には毎月、性交の代償として金が渡されたのか?
これを示す書類資料は存在しない。従って研究者の調査した慰安婦の証言を参考とする。 尹明淑(日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦 明石書店 2003:一橋大学社会学博士論文を出版したもの)は十分な証言の得られた42人の証言を様々な項目について、横断的にまとめている。そこで、性交の代償に金を受け取ったとしているのは7人である。
『軍直営の軍隊慰安所にいた軍隊慰安婦(10人)の場合、料金の支払方法はさておいて一人も軍隊慰安所からの給料はなかったのである。 また軍専属および軍利用の軍隊慰安婦の場合、(略)29名(証言しなかった3名を除く)のうち約76%の22名が全く給料を支給されていない。しかも食事や衣類などを軍が支給していた軍直営を除き、軍専属や軍利用軍隊慰安婦の場合は、経営者が食事や衣類の他、化粧品や日常品を調達して与え、その代金は帳簿上の収入から差し引かれて軍隊慰安婦の借金になる仕組みになっていた。』 また朱徳蘭(台湾総督府と慰安婦 明石書店 2005:台湾中央研究院、九大文学博士)は同様に台湾人慰安婦約60人を調査し多くについては自分で直接面接している。慰安婦になった経緯や給料を調査している。 そこでは前借金を受け取ったものは数人いるが、性交の代償に金を受け取ったとしているのは少ない、報告書に具体的に面接内容が記載された18人中では体の代償に金を受け取ったのは3人である。 更に現在名乗り出ている、中国人、インドネシア人、フィリピン人、オランダ人の元慰安婦で金を受け取ったとしているものは、ほぼいないと言って良い。 これらの事をあわせると、日本人以外の慰安婦については性交の代償に金を受け取ったものは全体の内のごく僅かであり、多くはまったく金は受け取っていないとまとめられよう。 これは、これら外国人慰安婦の多くが、徴募過程はともかく、慰安所では暴力的に無理に慰安婦をやらされており、日本軍兵士の相手をする代償に金を受け取るというような取引や契約といった関係ではなかった為であろう。簡単に言えば、一部を除けば、ほとんどはただ何もわからずただ毎日無理に性交を強いられていた、とまとめられるからである。 http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/10 翩翩翩翩認誑孤|||||||}}}}}}}}}笏『『郊『『憫讚間讚醴醴醴$ . 譖雌翩窗瓰||||||||}}}}浴l{(}i゚(.(.(i゚(}ミ(!!i,(.(.(i゚(}郊朋讚醴雛蝴ge_ 窗翩翩孤孤||||}}}Il.[(.(.(.(.(.(`.'.、.'.、:‘(.(.(i゚(!i{(,(,(.(.(i゚(}笏||||||||||||||q_. . 雛翩蹤孤|||}浴lI゙(.(.(i'゙(:゙'.'' ' .'、::、::' ' :゙'.'.(.(.(}}l}ヌlIi:l,(,(l.[(}}}}||||||||朋黏j,... 翩認孤||||}I}Il.[(}i゙('゙'.:.'.、: ' . `` . ' ' :¨(i゙(!!i'ii洽浴浴I}}}}|||||||朋腸tgj_. . 雌誑回|}}Il.[(.(.(i:'.:.'.、' . . `.'.`'゙(i浴浴Ii,(浴II}}}}}}}}}|}|||孤諭g,,. 躓蹤回|IIIIi゙(.(.(.'.、: ' . `'、:''.'ミ浴浴lIi.i33浴浴浴}}}}}}}}照|qj_ 雛翩回|IIIIi゙(i゙'.:.'.、 ` :゙'゙('(IIIIII浴l.[(i{(ii゙(.(.(i゚(}}}}}}}}|黏j,... 醴躓誑||IIIi゙(i;゙::: . ` ::‘(}}}||||IIIII;(.(.(.(:゙'.:、'.':゙':'ii゚(}}}}効s,,. 醴雛翩|||III;(i.'.:' . 、.:.、'.''゙(}I}}}||IIIi゙(.( :.'.、' ' 、'.:、'.'.(.(i゚(}}}}|tq, 醴醴雛即lI゙(.'.、 .、...:.x.(iicsij:,;、'.::‘(i゚(}}|||ロIl,( :.'.、 . `` '' .(i゙(Il}}][q, 醴醴靈瓰II,(:.:、 . . . `' `_).''''ミ!}|||Ijj,'。:.(.(}I}||||IIi>.'.、 .'.?ミ(}照|g,、 醴醴醴翩|IIi>: . ' . ' ` 'テi; :゙(}蹤|I,(.'.?.(}I}||||I;(、'.. . ' :‘(浴}}}}諭gg_、 醴醴醴雛||II,( :. . 、゙(li:ョ涸阨[|Ili.'.:.'.ミII}}|||Ii;、. .、:::: (i゙(I浴||||謳薑 醴醴醴雛|||I)).:: . . .(ii.i}浴屈[}}'、'.':: (.(II}||||I,(. . . `.'.、.(0IIII||||醴‡゚゙ 醴醴醴靈詬I;(i:.:、 . .('゙(}}}}}笏'゙'... . .'.:ii゙(I}|||回>. .'.、.(,(II||朋醴「... 醴醴醴醴齟|IIi'。::. . . `' `'゙'.'` . 、'.:.(.(泪屈Iiン. . .、::.'_(.(II泪讃置 醴醴醴醴鑿||II,(>:、.. 丶.'_(i゙(I泪窗||Ii:、.. .、.:.'_(.(.(,(II屈醴歡 醴醴醴靈醴齟Ili.i.'.、 . `、゙(洽泅膾[IIi、... . . .'.、.(.(,(lIII||調醴歡 醴醴醴醴醴靈||II,(.(:、.. . . .(.(iII|屈躓扱i.'... . 、'.:.'_(.(iIIII|朋醴醴‡ . 醴醴醴雛雛醴齟II)ii'。:. . .: (.(II泪讃雛拒i'。:::、:.'_(.(,(浴I|||讃醴醴’ . 醴醴醴雛雛雛靄踏II,(i'。::、.. .:、;.(.(iIII泪讃雛郎I.(i.'.、.'_(浴I|||調醴醴歉 醴醴醴醴雛翩讃雛踏Il,ii,(.(:.:、. . 、'.;.(.(浴||||朋雛雛部I,(i.(.(.(.(浴朋讃醴置′ 醴醴醴醴雛翩翩認讃胞IIII,(,(.(.(:、::. . 、....、:..:、;.(.(洽II||回讃讃韜回IIIi.(.(.(.(III|朋讃醴歡 醴醴醴醴醴雛翩瓰孤孤誑||IIII)i,(,(.(.(x:..、..::;、;.'_(.(.(i,(i)iIIIII|||||朋調誑||||||||||IIlI゙(.(.(浴||||讃醴歡 醴醴醴醴醴雛窗瓰||||||||||||||||回|IIIIIIIlIi:liji.iiji.iii.lIlIi.l浴II}}}||||||||||}}}}}}}}}}}}}}||||||||I;(.(.(i.[(I}||朋讃置 醴醴醴醴醴雛雌窗回||||}}}}I}}}}}}}}}}I}I}}l}ヌl}ヌl}ヌl{(ミ(}l{(浴III}}}}}}ミ(ii゚(浴浴I|||瓰|III,(.(浴II||朋讃置 醴醴醴醴醴醴醴躓囲||||IIII浴浴l.[(}i゚(.(.(.(.(i゙':'','ミ.(.(.(.(.(.(ii゚(?゚(:゙'.':゙(iii゙(浴I}||瓰回l,(i浴II||朋讃壘 醴醴醴醴醴醴醴雛雛蹤|||I浴浴lI゙(.(.(.(.(i:'.'.'.、.'.、:、'':‘(i゙'.''゙'.'.'.、.'.、.'.?.(.(洽II||描瓰|III浴||||屈醴蠶 醴醴醴醴醴醴醴雛雛窗回|I|I浴l.[(.(.(.(.(.(.(.'.、、'..` :.'.、、'... : ::、:.'.、.'_(.(,(浴I|||調饂|IIII|||||||調醴醴, 醴醴醴醴醴醴醴雛雛雛翩回||IIlIi.i,(.(.(.(i'.::.'.、.'.、.'.、` :.'.、、'...'.、:: (.(.(洽II||||||讃雛蹤||||屈躔醴醴〉 . 醴醴醴醴醴醴醴醴雛窗窗瓰|||||IIIII,(.(.(;'.、.'.、.'.、、'.:.'.、.'.、.'.、.'.、.(.(.(,(浴||||屈醴雛蹤瓰讃醴醴醴` . 元兵士が語る「大東亜戦争」の真相 涙流していた「慰安婦」
「この出入証を見てください。「慰安所」は日本軍と関係なかったなんて言わせません」
松原勝さん(81)=千葉県我孫子市=は「南国寮出入証」を手にして言います。 南国寮は、西太平洋のトラック諸島に浮かぶ夏島(現デュプロン島)にあった「慰安所」。トラック諸島は世界最大の環礁の中にある島々で、天然の要塞として、日本軍の基地になっていました。 海軍が出入証を
「慰安所」の出入証には海軍発行を示す赤い2重の波線がありました。「慰安婦」の存在は政府も認めた事実です。 政府は1993年8月、河野洋平官房長官(当時)談話を出し、軍の関与を認めました。従軍慰安婦問題は、中学校の教科書7社全てで記述されるようになりました。 しかし、来年春から使われる歴史教科書では、「従軍慰安婦」の用語が消えます。中山文科相は
「従軍慰安婦や強制連行等の言葉が教科書から減ってきて本当に良かった」(04年11月)、 「そもそも従軍慰安婦という言葉は当時はなかった」(05年6月) 等の発言を繰り返してきました。 松原さんはこうした動きに怒ります。 「「慰安婦」にされた女性たちは、戦地に無理やり連れてこられ、やりたくもないことをさせられていた。凄惨な境遇だった」 松原さんはトラック諸島で、第4海軍施設補給部に所属、軍属として働いていました。基地への物資の補給や、飛行場や港湾の整備等のほか、「慰安所」の管理も施設補給部の仕事でした。南国寮、南星寮という2つの「慰安所」がありました。 松原さんが南国寮を知ったのは1943年の11月。高床式の建物でした。 「「慰安所」は軍人、軍属だけが使える場所でしたから、海軍が出入証を発行していました」 長い廊下の両脇に10ずつ部屋があり、突き当たりにトイレがありました。部屋には番号がついていて、「慰安婦」にされた女性たちが1人ずつ入っていました。7割ほどが朝鮮半島から連れてこられた人で、3割ほどが日本人でした。 「そんな建物が南国寮には3棟ほどありました。南星寮も合わせればトラック諸島には100人以上の「慰安婦」がいました」 小さな部屋の中にはゴザが敷かれ、厚さ20センチほどのマットが置いてありました。それがベッドでした。 男たちが列を作って順番を待っていました。南国寮が開いていたのは、夕方から夜10時まででした。 体も心も病んで 「高級将校のメードとして雇うと言われて連れて来られた」 「レストランの給仕にしてやる。高い給料を払うと言われた」 松原さんは女性たちからそんな話を聞きました。だまされて無理やり連れて来られたのです。 「「慰安婦」の女性たちは、月に1度、性病の検査を受ける日以外に休みはありません。1日に10数人もの相手をさせられていました。女性たちの体は傷つき、心も病んでいました。受けた傷は計り知れない」
「女性たちは、日本軍によって自由も尊厳も奪われ、「希望がない」と涙を流していたんです。彼女たちの青春を取り戻すことはもう出来ない。その女性たちの存在や軍との関係を歴史から消すような動きは絶対に許せない」 http://www.geocities.jp/kfujioka0515/shougen2.htm 【韓国】 「慰安婦は結局だまされて来た、お金も払われたかどうか」〜旧日本軍軍属が語る従軍慰安所、衝撃の実態[04/22] 「今考えてみれば、彼女たちはどれほど恐ろしかったか・・・」
松原勝(85)氏はインタビューの途中何度も深呼吸をした。淡々と説明していったがやはり感情の 動揺は隠せなかった。千葉県我孫子市議市民団体「あびこ平和ネット」会員の彼は65年前、帝国 海軍軍属(軍務員)として太平洋戦争に参戦した。 松原氏は記者に会うやいなや持っていた手提げ鞄から当時の資料を取り出す。そして彼は上着 の中の財布から黄色くなった名刺大の証明書をテーブルの上にそっと下ろした。「これがその時使っ た軍慰安所出入証です。」 http://www.jpnews.kr/imgdata/jpnews_co_kr/201004/2010042353436575.jpg ▲松原氏が発給を受けた慰安所出入証.1943年11月に発給を受けたという。 「慰安所を利用する時にはこの出入証を持っていかなければなりません。私たちの部隊の近所に は二ヶ所ありましたよ。一つがここに書かれている'南国寮慰安所'でありまた、一つは'南星寮慰安 所'でした。」 松原氏は「南国寮と南星寮は従軍慰安婦らが集まっている施設で軍人、軍属らの性的欲求解決 のための施設として使われました」と話す。 彼ももちろん南太平洋トラック諸島一帯に配属された 1943年から'南国寮'を数十回にかけて利用したという。 「初めは18〜25才程度になる従軍慰安婦らが各慰安所に5、60人程度ずつおりました。44年か らはもっと増えました。最後の頃は多分、各々70人程度ずつになったかと思います。日本人慰安婦がその中で10%程度で、残りは全部朝鮮から来た慰安婦でした。」 (中略) http://www.jpnews.kr/imgdata/jpnews_co_kr/201004/2010042353273992.jpg ▲慰安所実態を最初に肉声証言した松原勝氏。 -出入証は日本軍ならば誰でも支給されましたか?
「いいえ。そうではありません。出入証は私のように軍務員だけもらいます。軍人はこれを見せなくても軍服を着ているからあえて証明する必要がないですね。出入証は必要ありません。私たちは 私服も着るからこういう出入証の発給を受けるのです。一般人らと区別するためですね。」 -料金は支払うんですか?
「はい。」 -いくらぐらいでしょうか? 「よく思い出させませんが...1、2円程度であったようですね。いや、多分1円だったようです。」 ‐日本右翼の論理で、慰安婦が売春を通じて相当な金を儲けたといいますが?
「(手を振って)それはお話になりませんね。軍人がどれだけお金を持っていますか。」 -料金は慰安婦に直接渡しますか? 「いいえ。料金所があります。夏島にあった慰安所、なので南国寮、南星寮は二つとも思ったより 長い一階建てのテント5、6棟がずっと並んだ形態です。1つのテントには普通10個で12個程度部屋があって慰安所周囲には鉄柵のようなものが張られています。正門に行って出入証を見せれば入ることができます。一番最初に部屋番号札を受けなければならないんですが。その番号札 をあたえる所が料金所という所です。」 -料金は直接渡さなかったのですね。 「お金は料金所に出します。他の所は分からないが南国寮はそうしました。とにかくそのようなシステムを考えてみればそのお金が実際に慰安婦に渡されたかどうかは誰も分からないですね。」 http://toppmun.paslog.jp/article/1621254.html トラック島の慰安所 作家の窪田精に『トラック島日誌』という作品がある。著者自身が戦争中の政治犯の受刑者の一人として経験した事実を書きつづった作品である。このなかにおなじ船でトラック島に送られる朝鮮人慰安婦の投身自殺の話が出てくる。
船が南にすすむにしたがい、船倉のなかの暑さはますますひどくなってきた。それにサイパン島沖をすぎるころから、波が荒らくなっていた。そんなある日、女たちの一人が海に投身自殺をした。女たちのうち何人かは、これから送られてゆく南方の島でのほんとうの仕事の内容を知らされず、だまされてつれてこられたのだということだった。投身自殺の原因もそのことと関係があったようである。 それはさいしょ、「みどりが死んだ」というふうに、船倉の私たちにつたわってきたが、死んだのは紺のゆかたを着た年上の女のほうだった。すでに夕食のすんだ後で、夜にはいってからだった。 「あのみどりという女、朝鮮人だとよ」
配食当番で食器洗いに甲板に出ていた連中が帰ってきて、話しあっていた。 「なんだ。朝鮮ピーか」〔原文のママ〕 「みどりというのは商売用の源氏名さ、本名は李英愛というんだ。 死んだ女は本当の姉で、みどりがアイゴ、アイゴと声をあげて、甲板で泣いていた……」 みどり、いや、李英愛の姉の自殺の話はすぐに船倉じゅうに広がった。死んだのがあの白いワンピースのみどりの方でなく、なぜ年上の姉のほうであったのか──。 〔中略〕
島の北端に位置しているこの陸上基地から、さらに北東の方向へ、海岸ぞいの道をぐるっとまわって、ちょうどコブ山の裏側になる元島民部落メッチデー村には、『南風寮』という海軍の慰安所ができていた。T部隊の看守たちにも、希望者には南風寮出入証が発行されていて、富沢看守の出入番号は、ちょうど一〇〇番だったのだ。 「日曜日にいくとたいへんだ。みんな、どの室のまえにも行列していてな。うしろのものが『はやくやれえツー!』といって、どなるんだ。うかうかしちやァおれねえや」 富沢看守はそんなふうにいって、顔をしかめ、青隊〔青色の囚人服を着た隊〕たちを笑わせた。 富沢看守の話では、南風寮には二十人あまりの女性がいるということだった。そのうちの半数以上が平洋丸で、私たちといっしょに送られたきた女たちである。〔中略〕 しかし私たちは、そんな富沢看守の話をきくたびに、南方にくる途中の平洋丸のなかでのできごとを思いだしていた。夜の甲板で暗い海をみつめて、アイゴ、アイゴと声をあげて泣いていた白いワンピースのみどりという名の少女──李英愛のことが思いだされてくるのであった。 「まだ十七、八のこどもだったがな」
「あのみどりの室のまえにも行列がつづくのかい。どういう事情でこんな島に送られてきたのかしらないが、むごい話だな」 ----------
受刑者たちが南方に送られて基地設営や飛行場建設などの強制労働に従事させられた事実はあまり知られていないが、トラック島は、これらの囚人部隊と強制連行された軍用慰安婦たちとが、おなじ島で日本海軍最大の前方基地の将兵たちに奉仕するための役務を強制された、ただ一つの島であった。これが戦争中のトラック島のもう一つの顔であった。
http://kyoto-gakusyuu.jp/tusin07/070628.htm 「あなたが碑を建てて下さってありがとう. 私もおまいりさせていただきました. ひょっとしてあなたはパラオの前にいたトラック島で,昭和19年2月17日,18日の激しい空爆後,ある壕内の慰安婦がまとめ殺しにあった事実を知っていたのですか」
「そ,そのこと……ほんとうですか」 せわしく空を裂く眼づかいで,彼女は問いかけた. 「現地司令部から,殺しの命令を受けたのはS少尉です.
二人の兵に女たちは娼婦なのだと,それに島の玉砕に女たちは足手まといになるし,上陸する米軍に知られては恥だとか,そのような考えを示したようでした. 殺された女は関西の慰安婦です. 少尉たちの機銃で死んだ女たちは,申しあわせたように,カミソリを握っていたようです」 海軍の南交社と関西八遊郭で組織された三立会とで組まれた女たちは,平陽丸でトラック島に送られたのである. やはり兵を相手の慰安婦渡世は,虐げられた苦界であるのを,彼女は知っているのだと思った. なみの慰安婦は軍権者にとって, 獣なみの存在でしかなかったこともである. 【出典:山田盟子『慰安婦たちの太平洋戦争 秘められた女たちの戦記』】 http://d.hatena.ne.jp/dempax/20070809/p2 トラック島・慰安婦の抹殺措置
大根拠地の大きな慰安所のボスたちは,賄賂で結託した基地の主計将校と絶えず連絡をとっていた. かれらの賄賂には三種類の狙いがあった.
(1)有利な条件を得るため (2)安価な軍物資を貰い受けるため (3)最悪の状態に備えて情報を得るため, つまりいちはやく逃げ帰るためである. ことに前線では,ただ事ならぬ事態が起こりつつあるだけに,なおさら賄賂は緊要なものとなった. しかし彼らは緊迫する戦況については,オクビにも出そうとしない. アメリカ軍がマーシャル群島に大空襲を行い,マキン・タラワ両島の玉砕(1943年11月25日),クェゼリン・ルオット両島の玉砕(1944年2月4日)という切迫した危機が迫ったとき,トラック島のピー屋のオヤジは毎日,頻繁に基地の主計本部や司令部へお百度を踏んだという. 日本内地へ送り帰してくれと哀願するためである. うす穢ない根性の彼らは,つい先日までは「軍要員」の腕章をつけて,女たちの前で"愛国"をぶって,これみよがしに振舞ってきて,今度は"非戦闘員"だから日本へ返してくれと催促したのだ. 戦争と兵隊に売春をぶっつけて金儲けに血眼になっていた彼らは生命の危機に対しては極めて敏感であり,卑怯なほど小心翼々と立ち廻った. しかし,太平洋の島々の軍は,彼らの要求どおりに送り帰すはずもなく,次のように繰返したという. (わざわざ運び返すような閑な船が軍にはないというんだ. 女どもには親方のお前から,いざというときの覚悟をよく申し渡しておけ— 潔く玉砕するンだ. たかが女郎じゃないか)と. なかば軍の嚇かし,なかば本音であろう. そこでピー屋のオヤジの猛烈な賄賂の効き目もあって,周辺の情勢が切迫する前に,一部のオヤジと慰安婦だけが,強引に割当てられた輸送船と輸送航空母艦の船底にもぐりこんで引揚げることができた. その第一陣は『朝日丸』で帰国した(昭和18年12月). それは将校用の何軒かの女郎屋のオヤジと抱えの慰安婦であった.
つまり,この基地でも普段,主計将校らに賄賂の出し足りなかった女郎屋だけが取り残されたのだ. (しかし,乗船した連中の一部は途中のサイパンに下船させられ,のちに玉砕の巻添えを喰った.) 壊滅的な大空襲が続き,眼玉の青い米兵が上陸すると聞いた日本人慰安婦たちは
「うちら,カミソリで咽喉切って死んでしもたる」 とつぶやき,ある女はシュミーズ姿で泣き崩れて 「バカ,おトウさんのバカー,うちらだまして,こんな所へつれて来たりして」 と慰安所のオヤジを口汚く罵った. おなじ慰安婦でも,朝鮮から騙されてきた女たちには,こんな泣き喚きすら洩らせなかったであろう. トラック島は,アメリカ側では"日本の真珠湾"とか"太平洋のジブラルタル"と呼んだほど日本海軍の太平洋最大の根拠地である. この基地の安全確保をはかるために,開戦直後に日本軍はラバウルまで進んだ. ラバウルをめぐるソロモン海戦(消耗戦)も結局はトラック根拠地を守るためのものだった.
トラックは大根拠地だけに,料理屋,慰安所が軒をならべ,第四艦隊の将兵は女体のサービスにひたりきっていた. そして2月17日午前5時前,米軍機第一次70機がトラックに殺到した. 米軍の爆撃は九波におよび,延べ450機,トラック基地は早朝から夕方まで火と煙に包まれた. 翌2月18日,米機はトラック港上空を乱舞し,逃げまどう艦船をシラミつぶしに沈めた. 二日間の空襲で撃墜された日本機は約300機,ほとんどの艦船は撃破され,貯蔵食料2000トンと1万7000トンの燃料を詰めたタンク3個が炎上し,陸上だけで約600人が死傷した. トラックに近接中の輸送船団は1200人と共に海没した. トラック空襲と同時に,同島の東方にあるエニウエトク島(守備兵力3980)が艦砲射撃を受け,20日米軍が上陸,生存者34人を残して全滅した. トラック島の天地を轟かす大空襲が始まると,慰安婦たちは裏山のパンの樹の茂みに掘られた防空壕に逃げ込んだ. だが,慰安婦のボスは,賄賂用の紙幣束を抱えて,かなり離れた滑走路へ向けて走りだしたという. そこにはいつでも離陸できるよう爆音を立てた逃走用の中型軍用機が一機,待機していたからである. 嘘八百で女を集めて"お国のため"ぶった女郎屋のオヤジという存在は,臆病にして狐のようにすばやく,根性が汚い. サイレンが鳴りだすと,自分だけは助かろうと必死になって飛行場へかけだし,そこが駄目だと知ると 「あ,わしはここで死ぬのか,ああ,あ」 と嘆声をあげ,さらに脱走の船を求めて軍港の方へ駆け出す有様である. 2月17日,18日は間断なく猛爆が繰返されたあとに,ついに島全体が炎に包まれた. 空も海も照明弾で青白く輝き,飛行場も要塞も高射砲陣地も,椰子とパンの巨木さえも,すさまじい轟音と共に吹っとび,すべてが燃え上がった. 施設の大半は灰燼に帰した. 慰安所の第一南月寮,第二南月寮,第三南月寮,これらの三軒が薄赤い夜空を背景に,なにか妖花の花の踊りのように炎上した. 女たちは避難防空壕にもぐりこんでいた. 防空壕は現地人を使って掘った,洞穴に近い粗末な構築物だが,100人ほどの女を収容できるほどの大がかりなものだった. おなじく残存司令部とその兵隊は,辛うじて地下深くの防空壕の中にひそんで芋虫のように生きていた. このとき,軍の参謀と若い将校たちは,慰安婦らを足手まといと考えたらしい. こんどはトラック島が死戦場 → 玉砕の番
と判断したからである. そして女たちを抹消する手段を講じたのだ.
このときの模様を,トラック島の慰安婦について詳しく触れている西口克己の『廓』は,次のように描いている. 「その空襲の途切れた合い間に,密命を受けた志田少尉は二名の兵をつれて,女たちの入った洞穴へ近づいていく.
(いいか,問答無用だ. 決して言葉をかけてはならんぞ. 黙って始末するんだ. あいつらは素人娘ではなくて商売女だ. 敵が上陸してきたら何をするか知れたものではない---国辱だ. わかったな) 緊張した少尉のささやき声に,二名の兵士は無言でうなずいた. 靴音を忍ばせて壕の入口に接近した少尉は,もう一度軽機をかまえ直した後,するどく笛[笛→西口『廓』では口笛]を吹いた.
壕の内部に果たして女たちがいるかいなか確かめるためだった. 壕はしーんとしていた. つづいてもう一度,今度は低く,君が代を吹いた. 突然,それまで何の反応もなかった壕の中から,獣の悲鳴にも似た異様なすすり泣きが一せいにわき起こったかとおもうと,暗闇にもそれと判る防空頭巾を被った5,6人の女たちがバラバラと取り乱した姿で入口からとび出してきた. ダダダダ,ダダ--間髪を入れず,少尉の軽機が火を噴いた.
ほとんど叫び声を上げる暇もなく,女たちはキリキリと体をもむような姿勢で,地面へぶっ倒れてしまった. 同時に,少尉も兵も,猛烈な勢いで壕の入口へ突進し,次の女が飛び出してくる前に,真暗な洞穴の内部へ向けて,盲滅法な機銃掃射を加えていた. 洞穴に反響して耳を聾するばかりの凄まじい銃弾の響きにまじって,とぎれとぎれの鋭い悲鳴や,うめき声がしばらくつづき,やがて気狂いのように撃ちまくっていた少尉がようやく引き金を止めたとき--ガランとした壕の内部には……文字どおり死の沈黙がしーんと凍りついたように立ちこめていた. それでももだ用心深く,ものの2,3分間もジッときき耳を立てていた少尉は,このときになって初めて用意していた懐中電灯で素早く壕の内部を照らし出してみた.…… 露出した土壁にヤモリのようにへばりついて血しぶきを上げている女, 荒削りのパンの木の支柱にすがりついたままガックリと首を折っている女, やや離れて一かたまりの肉布団のように折り重なって死んでいる女, 抱き合ったまま死んでいる女, 丸太ン棒のように転がっている女— およそざっと照らしただけでも, 6,70人もの女たちが完全に事切れて血まみれの姿で死んでいた. しかも,ふと少尉が気づいたことには,それらのすでに死骸となった女の何人かの片手に顔剃り用のカミソリがしっかりと握りしめられていたのだった. こうした種類の商売女にとっての唯一の武器ともいうべきその小さなカミソリは,……あちこちに投げ出されていた. よし,任務完了, "ははは"こんどは俺たちの死ぬ番だ,引き揚げろ, 昂然といい捨ていい捨てた少尉と二名の兵士は駆け戻って行った.」 だが,トラック島に,予期された米軍の上陸作戦はなく(同時に"玉砕"という名の悲劇もなく)素通りする形になった. トラック島の慰安婦の悲劇は,決してこの島に限ったものではない. いたるところの島の女たちが,この種の仕打ちに遭わされたのは確かである.
トラック島から,いちはやく日本へ引揚げてきた慰安所経営のボスらは,女たちの人命は念頭に置かず自己の金銭欲から絶えず嘆いたとか.
(わしはトラック島じゅうゲンくそ悪い島へ, 一生かかって貯めこんだ銭を捨てに行って来たようなもンや) と. これが彼らの,よだれまじりの愚痴だったそうである. http://d.hatena.ne.jp/dempax/20070809#p1 ,、-'''`'´ ̄ `フー- 、 ,. ‐ ヽ ,.‐´ \ / ,l \ ヽ / l|, 、 、 |iヽ, ヽ \. ヽ / l i ! | i | |l'、ト ヽ iヽ ヽ ', ! | / | |. i |.|| i.|ヽ |、 | ', i i ! ! / |,ャ、メ |i ト十i‐トi、! l .i| i ! i ,.|!,.+‐'"| | | |i} ' ュノェ|i,`i l.| i l i l l |/;:=ニ|i l | /rj:ヽ\ i l i l | | | ノ '/ iニ)ヽ,ヽ |!. ' {::::::;、! 〉iー | | | | |i. | !; 〈 !:::::::c! 'ー''(つ }i | i.| | | ! | | ;: (つ`''" 、 //// /;:i | | !. | | i, i. 、//// ' /,ノi, i. | ! .| | i 、,ゝ、 、─, / i | |. i .! | i |. | lヽ、  ̄ / l | i | ! ! | i |i |l l| |`''‐ 、 , イ |i | |i | i |. ! | | i |i |i .| ノ ` ''" ヽ/l| l__,.、-|l l ! i、 ,. -'"゙ ゙̄'' ヽi |!l ' ,.--‐' |.i |i | |i ヽ / ! l l ̄ ` 、_ | /ノi i.! | ,' ! | ,|/ |/i' | i ` l .ノ ノ ' ヽ、 | | ノ ,... ヽ、; ヽ-, .! |:: :..゚..:: i: ゙゙''i | l:: ゙゙" |: | @゙! |:: !:: ノ 朝鮮人「慰安婦」の証言
12歳で「慰安婦」に 李京生 私は3歳で母を亡くし、6歳のときには父を亡くし、育ててくれた祖母とも死に別れた。孤児となった私は、地主の家の子守や下女として一人で生きてきた。 12歳になったある日、区長が呼んでいるというので行ってみたら、既にキム・グワンソン、パク・スボク、ユン・チュンソンの3人がきていた。みんな私と年齢が前後する女の子たちであった。区長は、私に「お前は哀れな星の下に生まれて苦労している。きょうからお前の人生を変えてやろう。良い所へ連れていってあげるがどうだ」と言った。 私はそれまでのみじめな境遇が辛かったので、今より良い暮らしがあるのなら「行きましょう」と答えた。区長は、「私が呼び出したら朝でも夜でもすぐくるんだよ」と言った。幼い私は、「はい、すぐきます」と答えた。 夜になって区長の家から使いがきたので、私は急いでいった。区長は立派な日本人が迎えにきたといった。見ると長い刀を腰にさした男が3人きていた。私たちは怖くなって「アッー」と声をだしてしまった。それを見た区長は、「お前たちを良い所へ連れていってくれるのに怖がるな」といった。そしてその男たちに私たちを引き渡すと、村の外まで見送ってくれながら、「きょうからお前たちの運命が変わるのだ。いい所にいけよ」と励ますようにいって家に帰ってしまった。どうしていいのかわからないままに、私たちはその男たちの後についていった。 男たちの後についていくとやがて駅前に出た。そこで汽車の貨車に乗せられた。良い所に連れていってくれるとは言われてみても、そこは子供だから、次第に心細くなり、4人してめそめそしたりしていた。 明け方近くなって降りろというので降りたら、駅前に車が迎えにきていた。車には2人の日本人が乗っていた。私たちは、見知らぬ3人の日本人についてくるだけでも怖かったのに、また2人ふえたのでもっと怖くなった。しり込みする私たちをみて、男たちはまるで豚のしっぽをとって車に乗せるように、私たちを5人がかりでほうり上げて乗せた。 どれくらい行ったのか記憶に残っていないが、まわりが明るくなったころ、やがて山の中に到着した。彼らは「降りろ」といったが、私たちはおじけづいてじっとしていたら、ひきずり降ろされた。そして、「ここが良い所だから入れ」と言って家の中に連れ込まれた。そこが慶尚道・昌原にあった軍の秘密工場であることは、ずっと後で知った。 指定された部屋の中でしばらくじっとしていると、日本の着物を一抱え持った看護婦が入ってきて、「朝鮮服を脱いでこれに着替えなさい」と命令した。もじもじしているとむりやり脱がされて裸にされ、浴衣を着せられて胸に「ミイコ」という名札を付けられた。そして、「お前はきょうから朝鮮人ではなく日本人だ。日本帝国の天皇陛下のために働かなければならない。お前の名前はミイコだ、朝鮮語を使ってはならない」といった。それからは約半月の間、雑穀の入った食事を三度与えられるだけで、仕事はさせなかった。苦労ばかりしてきた私は、区長が言っていたように良い所へきたのかな、と単純に思ったりした。 やがて半月が過ぎると今度は将校がやってきて「足を洗え」「つめを切れ」などと命令するだけで、仕事らしいことは何もなかった。ただ、「風呂に入れ」とか「身体検査」と言われれば体重計に乗ったりして、言われるままに行動していた。そんなことでまた半月が過ぎた。 ある日の朝、前庭に集まれというので行ってみたら、少女たちが20名くらいいた。その少女たちと一緒に私たちも一列に並ばされた。私たちの前に将校たちがやってきた。その中で星が4つ着いた将校が、一列に並んだ少女たちをなめるように見回していたが、一番背が低いので端っこにいた私を、自分のそばに引っ張りだした。次に少しくらいの低い将校が、同じようにして他の少女を選んだ。 こうして順番に将校が気に入った少女を選びだし、自分の部屋に連れていった。私はその時、8号室に入れられた。私と一緒にきたユン・チュンソンは隣の9号室であった。やがて昼食がすむと、工場から800メートルほど離れたところにある場所に連れていかれた。そこでも8号室に入れられた。そこは将校が入る部屋だと後で聞いた。 夜になって男が部屋に入ってきたが、それは朝、私を選んだ将校であった。その将校の名前は「トウギョウ」といった。彼は、12歳の私を暴行した。あまりにも幼い体なので膣が引き裂かれてしまった。翌朝の8時か9時ころ、医者と看護婦がやってきて治療してくれた。そんな状態にもかかわらず、その将校は毎夜のように襲ってきた。 それは、私だけではなく他の部屋でも同じであった。9号室のユン・チュンソンは恐怖と嫌悪感から拒否して叫んだので、口をふさいで窒息死させられてしまった。 こうした行為を強いられて1か月もしたころ、トウギョウという将校は「もうお前に飽きた。好きにしろ」と言ってこなくなった。それからは毎日のように7、8人くらいの兵士がやってきた。こうして、この秘密工場での私の「慰安婦」生活が始まった。 これは、慶尚北道安東出身の多くランという18歳の女性のことである。彼女は襲ってきた兵士に反抗して、相手にかみついたり、ひっかいたりしたというので、裸にされて工場の電信柱に一日中逆さつりにされた。ほとんど瀕死の状態の彼女に対して、「これでもお前は反抗するのか」と威嚇する兵士に、彼女は「言いなりになるくらいなら死んだ方がましだ」といって抵抗し、ついに他の「慰安婦」たちの前で見せしめになぶり殺された。死体はバラバラにされてカマスに入れて川に放りこまれた。 忠清北道のキム・サムニョという20歳前後の女性は美しい人であった。彼女のところには数十人の兵士たちが列をなしていた。この屈辱的な暴行に耐えられなくなった彼女は、死を覚悟して抵抗した。日本軍は、見せしめだといって、彼女を板の上に仰向けにさせて両手両足をしばり身動きできないようにした。そして30人くらいの兵士たちが馬とびのようにして輪姦した。彼女もまたついに命を落とした。こうして、3人もの女性が殺されるのを見せられた私たちは、恐怖のために抵抗も逃げ出すこともできなかった。 16歳になった私は、知らぬ間に妊娠していた。それを知った将校は、軍医に診察させて妊娠を確認すると、「天皇に忠誠をつくさない朝鮮人の子供は必要ない」と言って、私を部屋に閉じ込めてお腹を裂き、数カ月経っている胎児を引きずりだして殺した。その時に受けた傷が今でも残っている。 ○彼女は襲ってきた兵士に反抗して、相手にかみついたり、ひっかいたりしたというので、裸にされて工場の電信柱に一日中逆さつりにされた。ほとんど瀕死の状態の彼女に対して、「これでもお前は反抗するのか」と威嚇する兵士に、彼女は「言いなりになるくらいなら死んだ方がましだ」といって抵抗し、ついに他の「慰安婦」たちの前で見せしめになぶり殺された。死体はバラバラにされてカマスに入れて川に放りこまれた。
○将校は、軍医に診察させて妊娠を確認すると、「天皇に忠誠をつくさない朝鮮人の子供は必要ない」と言って、私を部屋に閉じ込めてお腹を裂き、数カ月経っている胎児を引きずりだして殺した ○日本軍は、見せしめだといって、彼女を板の上に仰向けにさせて両手両足をしばり身動きできないようにした。そして30人くらいの兵士たちが馬とびのようにして輪姦した。彼女もまたついに命を落とした それから間もなくであったと思う。そこで賄い婦をしている朝鮮人のシン・ファジャというおばさんが私たちのところに忍んできて、「お前たちはみんな可愛い顔しているね。こんな可愛い子たちがここで朽ち果てるのはかわいそうだ」「ここは秘密工場だから、ここにきた女性たちは生きてでられないよ」といって「何とかして逃げなさい」と教えてくれた。それから一緒にきた私たち3人は逃げ出す方法を計画した。 当時の兵士たちは将校と違って思い通りに酒を飲めなかった。お酒を飲みたがっている彼らの弱みを知っている私たちは、酒を与えて酔いつぶす計画をたてた。私たちは、将校が飲み残した酒やつまみをこっそりとっておいて集めて3本分の酒を用意した。 土・日曜日は将校たちが家族のもとに帰っていく。その日をねらって門番の兵士に酒を与えた。酒につられた彼らは、私たちの計画にはまり、私たちはやっとの思いで逃げ出すことができた。私たちは3人がバラバラになって逃げた。それっきり私は同郷の友人たちの消息を知らない。 私は電線のない深い山奥をめざして逃げた。そこでひっそりと住んでいる老人夫婦の家をみつけて、かくまってもらい、老人夫婦の好意でそこに住みついた。 18歳の時に、山村の人々の世話で、身寄りのない若者と所帯をもった。結婚式も何もない貧しい者が寄り添った暮らしには、家財道具も何もなかった。周辺の人々が持ち寄ってくれた必要最低限の道具で2人の生活は始まった。しかし、私は常に追手の影におびえていた。私は夫に哀願を繰り返し、中国に逃げようとせっついた。そして中国の瀋陽に渡っていったのである。 解放は中国で迎えた。祖国の解放を知った私は、今度は故郷に帰りたくて、また「朝鮮に渡ろう」と夫に哀願した。夫は「お前は、前には中国にいこうとせっつき、今度は朝鮮に帰ろうと騒ぐ。いったいなぜなんだ」と聞いたが、私は過去のことは一切いわなかった。 1960年代に祖国に帰国した。祖国では協同農場の一員として夫婦で働いてきた。私たちの農場は稲作を主としてやっている。私は農民として働ける暮らしがうれしくて、本当に良く働いた。 ことしの3月27日にただ一人の身内である夫を亡くし、一人ぽっちになってしまった。夫にも過去を隠して暮らしてきた自分の半生がなんであったかを考えると、涙にくれるばかりであった。むなしかった。 今までにも、「慰安婦」時代を思い出して夜中に飛び起きて胸の締めつけられる思いを何度したことか。黙ってしまってきた過去を告発して楽になりたい、と思った。何日も考えた末に、みずから平壌中央テレビを訪ねていき、「私が元慰安婦です」と最初に名乗りをあげた。 (リ・ギョンセン 1917年6月29日生 咸鏡北道魚郎郡出身) http://tabakusoru.hahaue.com/ianhu.syougen.1992101200.html http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/51/ / \ / ,r ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐/ \ \ \ '; /./  ̄ ̄ ̄ ̄ 7 \ '., ヽ ! // ,r ==/ ! \ \ \ ', '; ! f└‐‐‐//‐‐‐‐/ ヘ \ヒニニ===‐‐\ ', i i  ̄ ̄7/ 77 7 \ ,.ィ \ \\ィ====z! i`ヽ、 | // // i / | | X ノ \ 弋 で ハ | |ヘ i V i {└‐‐‐‐| | .| ヘ y'/\ト. 、 \ ゞ=一 ! |ル./ | / ○ニニニカ ̄ ̄| ! ! ヘ X ,ィ==ュ、 ` ー-`- //// | Lノト、|‖ // i | ∧ |\ く 弋ヾノ i / ‖ W _ // ! | | ヘ ! \/// 、 i ∧ /  ̄ ̄ヽ、 . // ', | | ト、 | ヽ r つ / / / \ ○ ',! |ヘ ト \i \ // \ | | '; \\ ー- / ', i \\ ルク/ >  ̄ ̄ ', i `ミ\‖ / ./.:c::. -- ', i / ./ / `" \ ',i // :i >、 ヘ /f:;' ! ノ / \ / | ヘ / / i / / / / / i / / | / / / | ./ / 拷問の後遺症に苦しむ日 李福汝 私は4人兄弟の長女として生まれたが、両親は弟3人と私を残して亡くなった。乳飲み子の弟は、母の死後まもなく死んでしまった。私は6歳と7歳の幼い二人の弟の面倒を見なければならなかった。
住む家もなかったので、橋の下で雨露をしのぎながら、もらい乞食をしたり、農家の手助けをして生きるだけの食べ物を得て弟たちを養っていた。 私が数え17歳の夏であった。弟の一人が風邪気味なので、居住していた小屋に寝かせておいて食べ物をもらって帰ってきたら、日本人の、巡査なのか兵士なのか区別ができない男が二人あらわれて、いきなり有無を言わせずに、私の髪の毛をつかんで大きなトラックに放り上げるように乗せた。弟たちが驚いて「お姉ちゃん行くな」と泣き叫ぶ声に振り返ろうとしたが、男たちに蹴られて車に押し込められた。弟たちの「行くな」という声だけが聞こえてきて、姿は見ることができなかった。 トラックには、既に大勢の女性が乗っていた。幼い少女から20歳前後の娘たちでいっぱいであった。100人くらいはいたと思う。彼女たちは泣きわめいていたが、男たちは泣き叫ぶ私たちに蹴る殴るの暴行を加えながら黙らせた。周囲をうかがおうとしたら、「何を見ている」と言って足で蹴られた。 水原の駅から汽車に乗せられてソウルを経て大連に連行された。途中、鴨緑江のペネンという所で汽車が途中で止まったので、こっそり外をのぞいたら、鉄橋が二つに分かれて上がっていて川を横切る船が過ぎ去っていくのが見えた。そんな私を見とがめた男が、「何を見ている」と言って髪の毛をつかんで殴った。私は弟のことも心配だったし、これから何が起きるかもわからないので不安で泣きだしたら、また殴られた。 途中で娘たちの一部を降ろして行きながら、ハルピン、ボンチョン、牡丹江などを経由して東寧県北満州に到着した。そこで汽車を降りた。そこからはトラックに乗せられてプチャゴルに連れて行かれた。 プチャゴルには20人くらいの娘たちが連れて行かれた。到着すると将校がでてきて、「天皇と軍の命令だ。言うことを聞かないと殺す」と言って私たちを脅した。私は5号室に入れられたが、やがてあちこちの部屋から悲鳴が聞こえてきた。私はその日のうちに暴行された。 私は訳がわからないままに慰安婦にされてしまった。 それからは慰安婦として毎日2、30人の相手をされた。拒否すると見せしめに庭に引きづり出され木につるされ、「降参しろ」と迫った。 私たちが到着して間もなくのある日、2人の女性が慰安婦を拒否したというので木につるされていた。軍人たちは「慰安婦」たちを全員呼び集めた目前で「降参しろ」と迫った。しかし、彼女たちは「おまえら犬のようなやつに降参するか」と抵抗した。たけり狂った軍人は、私たちの目の前で乳房をえぐり、なぶり殺しにした。私は余りの残酷さに気絶してしまった。 鬼のような軍人たちは、2人の慰安婦の首を切り取り、それを、かまゆでにして、その煮汁を私たちに飲めと強要した。しかし、それを拒否すれば、私たちも殺される。殺されては生き延びる手立てもない。仕方なしに私たちは、それを飲んだ。こうしたことを、私たちは何度か体験した。 「慰安婦」たちは、常に20人くらいいた。病気で死亡したり逃亡に失敗して殺されたりした欠員は補充されていた。 ここの慰安所には8年いたが、そこにいた軍の部隊の名称はわからない。タカシマという名前と、イケダという50歳過ぎの眼鏡をかけたひげを生やした将校(大将)がいたことは記憶している。このイケダは、逃亡に失敗した私に拷問を命令した男である。 あるとき私は逃亡しようとして失敗した。捕らえられた私は、板にくくり付けられて何十人もの男たちに犯されて、2度と逃げ出さないようにするといって、足の神経を切られた。それがために現在の、この不具の体になった。 それから私は東寧県に連れて行かれ、そこで騎馬隊−騎兵隊に引き渡された。そこでは、砂地に天幕を張っただけの所に入れられた。そこには鉄条網が張られていたが、私は、そこ多くぐって、またも逃亡しようとして失敗した。その鉄条網に鈴がついていたのを知らなかったのである。 その時には、火で焼いたドラのような鉄板でお尻の右側に火傷をおわされる拷問を受けた。その時の火傷がケロイド状態で今でも残っている。(調査団のメンバーが肉眼で確認済み)。その火傷のために足がつって歩行困難になってしまった。いまだに、食をするのにもキチンと座ることができない。 それでも、はってでも逃げようと、私は逃亡することだけ考えていた。 ある時、チシャ(サラダ菜)に包んでご飯を食べていた慰安婦たちが、2口ほど食べたところで次々と倒れて死亡した。私は、歩行が不自由なので食事に遅れたが、それが幸いして、そのチシャを食べずにすんだ。 私は、はってそこを逃げ出した。その私を村の中国人が助け出してかくまってくれた。それが1944年であったと思う。中国人は朝鮮に逃げなさいと教えてくれた。1947年清津に帰国した。 私は、私の青春時代に、花の年齢に、私を拉致して「慰安婦」にし、こんな障害者にした日本軍人を許さない。 (リ・ポクニョ 1919年4月18日生 京畿道出身) http://tabakusoru.hahaue.com/ianhu.syougen.1992101202.html ,.へ、 ,.へ、/ 小\____ ┌―‐' 小 `' |___ __| _,.- 、._ >へ _ ! 「ヾ / :| ` ー‐ '´ ヽ \ |__ | / | ヽ `、 | ∧ / ! '. L__ ト、ヽ / '. / レ | V く | i '. |:\ | ト、 | ト、 | '. |:/ | _, -┼VT「` i 'Tヘ.卞、 ト、ハ |:\,.イ ´ | |_,.ヒヘ | 「 V! |ハ | | /: | | ,xう芹ミ、 :| /弐示 ヽ ./: : | ! レ': : :| i 《 ゞ‐┴ | :ト、 /.ゞ‐┴! i /!: : :j/\ /: : : : | |ト、 | :|:::::::::::::::::ヽ! ヽ/:::::::::::::::| | / |: : :i: : : : \ く: : : : : :N:|∧ \|:::::::::::::::: r 八/j/ !: : :|: : : :/ \: : :/: :| |∧ 八 r_‐ァ ,イ j/ :! :|: : ∧: /\ ∧/ : : | ! \ ` 、 / :| ト、ト、 ト、∧ V: :_\ /: : V : : | | \ | ` 、 ,.イ :/|ヽ! ヽ | \/ ` ´ ̄>:∧|\ト、ト、. `レ-――┬‐┐/ ,レ'´ ̄ ̄ ` 、 . / ` (V_j ! :「 ̄ \ `ヽ / >― 、 }ヽ 〉 } 〉 \ \ . / / \ \ \ 〈 / / ̄` 、 ヽ ヽ / / ,. ----( 〉 冫⌒Y / `( `、 〉 / /  ̄ ̄`ヽ {{ !V \ `、 ヽ / / `‐┐ヽ_ノ〈_/| 、 ヽ. `、 .〉 / / ,. イ !/ Y: :\ /{___,.{ '- _ | V / ノ――-、/  ̄ ̄ ̄`ヽ八_/: : !: : : : `ヽ. _ `ー'´ `ヽ. ノ\ 〉 . / | / /: : : |: : :iヽ: : : : 〉 ヽ ̄\ / 〈 | / `ヽ>!: !: ! | \/ '. ヽ ト、 / .,' \: :|: |: !: :/ '. | | } 〈 :| . : : : . Y: レV . : : :. ! | . 八`ーヽr―.| : rぃ: : V´ U : : r; : | | /::::|\__/::::::八 ` 八 | :::::::!::::::/::::::::::::::.. / ,::::::〈ヽ/ ::::::::::::∧:::::::::::::::::\ _,.イ ` 、 ,.イ:::/:::::〉 ::::::::::/::::\::::::::::::::::::::≧==≦:::::::::\ /` -=≦:::::::::/:::::/
12年間の「慰安婦」生活 金大日
私の実家は余りにも貧しかった。数え12歳のときに、わずかな米と引きかえに金持ちの家に下女として連れて行かれた。そこから日本人の経営する紡績工場に売られた。1932年、数え16歳のある日、今度はフクダという日本人がやってきて、「食べ物に困らないところに連れて行く」と言った。私は、またもや売られてのである。
私は、フクダと一緒に汽車に乗って釜山港に連れて行かれた。そこには朝鮮女性が20人くらい、あちこちから連れてこられていた。自分がどこへ連れて行かれるのか理解できないままに船に乗せられ、下船したのは下関であった。下関に上陸すると同時に、フクダという男は、「これからは朝鮮語を使ってはいけない。もし使ったら殺す」と脅し、そして「これからお前の名前はシズエだ」と行った。そこから連れて行かれたのが大阪の病院であった。 病院では雑用をさせられた。地で汚れた包帯やガーゼ、患者の大小便で汚れた衣類の洗濯など、日本人が嫌ってしない汚い仕事は全部させられた。 来る日も来る日もべっ視と屈辱的な扱いの中で、長時間の労働を強いられ、外出する機会も与えられず、病院の雑用を押し付けられていた。 数え18歳になったお正月の夜、病院の院長だと名乗った男が、私の部屋に入ってきてナイフを突きつけ、「私の言いなりにならなければ殺す」と脅して、叫び声をあげた私の口を手で押さえて暴行した。その日まで、私は院長の顔も知らなければ会ったこともない。院長は「お前は美しいので、前から目をつけていた」と言った。 それから、しばらく経ったある日、院長が「お前のこの病院で2年も奉公したから、今度はもっと良いところに行かせてあげよう」と言って、見知らぬ日本人の男に私を引き渡した。 その男は、私を東京に連れて行った。そして、日本の軍隊に「挺身隊」として送り込んだ。そこには朝鮮女性が30人くらいいた。1934年のことである。現在では「従軍慰安婦」と言っているが、私が当時、言われたのは「挺身隊」とはっきり記憶している。 そこで、軍隊と一緒に連れて行かれたのが旧満州である。まず、東京から船で釜山へ行き、釜山から汽車で新京、それからハルピン、チチハル、牡丹江であった。そこで私のほかに数人の女性が選ばれて、船に乗せられて連れて行かれたのが上海であった。 上海には既に朝鮮女性が大勢いた。その女性たちは、「あなたはどうしてこんな所にきたの」と言いながら私を哀れんだ。私は、「お姉さんたちと同じように無理やり連れてこられました」と答えるしかなかった。 上海では中国人の民家の2畳くらいの部屋に入れられた。部屋の前には番号が40くらいふってあって、私は12番に入れられた。その夜、将校たちが私を暴行した。それからは1日4、50名もの日本兵が私の部屋の前に列をなし、「早く早く」とせかして先を争い、入れかわるとすぐにのしかかってきた。私は起き上がる暇もなかった。 私が最初に従わせられた軍隊は12師団で、その師団の移動に伴って私たちは引きずり回された。上海の次にはハンカオへ連れて行かれた。そこから南京、トウヨウ、キショウと、転戦する軍隊に従って中国各地を連れ回された。 日本の軍隊のなかでも九州6師団が一番悪かった。他の日本軍は胸に標識をつけていたが、九州6師団はそでに標識をつけていた。 私はこうして12年間も慰安婦生活を強いられたが、中でも6師団に加えられた数々の暴行は、決して忘れられない。彼らは酒に酔ってやってきて短刀を突きつけて、「おれの言うことを聞かないと殺す」と身体を傷つけたりした。「この朝鮮ピー」とさげすみながら私たちを威嚇した。彼らはまた、ほかの兵士が先に入っていても、「早く出てこい」と言って脅し、先の者がまだいるのに押し入ってきて性行為を強要した。 私は、こんな「慰安婦」生活がのろわしくなって自殺を2度も図った。2度ともすぐに発見され、生き返らされてしまった。生かしたのはアキカワという大隊長で、「この女は見殺しにするのは惜しい、使い道があるから生かせ」と言った。私には死を選ぶ自由もなかった。 私は、何か言うと「殺す」と言って脅していた6師団の兵士に、ある日、覚悟を固めて「私も朝鮮人だ。朝鮮人の女の心意気を見せてやる。殺すなら殺せ」と反抗したために縛られて、ひどい拷問を加えられた。それを見ていたアキカワ大隊長が、「それ見ろ。この女は度胸がある。使い物になるから、殺すな」と言って止めた。そのために、私は地獄のような「慰安婦」生活を続けなければならなかった。 ある時、私は50人もの兵士を相手にして気絶してしまった。その私に彼らは「ノーシン」という薬を飲ませて意識を回復させて行為を継続させようとした。しかし、私がもうろうとして使い物にならないとわかると、たばこに火をつけて鼻や口に押し付けるなどの屈辱を加えた。 めったなことではたじろがない私が、恐怖に震えたことがある。それは6師団の兵士の蛮行であった。6師団の一将校が、「おれは、飽きたからお前がやれ」と連れてきたセパード犬を私にけしかけたのである。その時はあまりにもの恐怖で、さすがの私も「助けて」と大声で叫び、周囲の部屋から「慰安婦」たちが飛び出してきたほどである。 こうした屈辱は、私ばかりでなく他の朝鮮人「慰安婦」たちも同じくあじ合わされたばかりか、短刀で傷つけられたり、中には殺された者もいる。 こんなことがあった。私の隣の部屋にいた全羅道出身の知らぬ間に妊娠した。彼らは妊娠しているのもかまわず性行為を強要し、ついには性行為の最中に流産した彼女のおなかを日本刀で切り裂き、出てきた胎児をごぼう剣で刺し殺し、妊婦までも殺したのである。 日本の敗戦も濃厚になってきたころ、軍人たちは、私たちが朝鮮語で話したりすると神経質になって、「日本が負けると言っただろう」と執拗に迫り、日本が負けることになったら「お前ら皆殺しにする」と言って脅した。 ○火のついた煙草を鼻や子宮に入れる
○将校が「おれは、飽きたからお前がやれ」と言ってシェパードをけしかける ○戦闘で負けた腹いせに慰安婦に銃を乱射して殺したり、穴を掘って入れ、手榴弾を投げ込む ○妊婦の腹を裂き胎児を刺し殺した後、妊婦も殺す ○慰安婦150人を並ばせて斬首 日本の敗戦が決定的になったころ、血迷った彼らは、朝鮮人と中国人の慰安婦ら150名くらいを2列に並ばせて、「かかれ」と小隊長が号令をかけた。両端から日本刀を振りかざした兵士らが襲いかかり、皆殺しを始めた。飛び散る血の雨に私は意識を無くして倒れた。私には3、4日くらい時間が過ぎたように思う。意識を取り戻してみたら、その血の海の中で、私のほかに2名が生き残っていた。
はうようにして近くの中国人の家に助けを求めに行った。「私は朝鮮人です。助けてください」と必死に叫んだ。 中国人は数日間かくまってくれて、中国服を一着くれた。それを着て朝鮮人の家を探して行き、そこでしばらく世話になった。8月15日の解放は、その朝鮮人に教えられた。 9月になってどうしても故郷の両親に会いたくて、世話になった朝鮮人の家族に旅費を借りてやっとの思いで故郷に帰ってきた。しかし、両親は既に死亡していた。 私が日本人からもらったものは病気だけ。子宮はメチャメチャにされ、心臓は悪くなり、腸も悪くて下痢ばかりして、今でも病院に通っている。 日本軍の通った中国大陸の隅々には、犠牲になった朝鮮女性の血がしみこんでいる。このことを知ってもらいたい。 日本人に問いたい。立場を変えて、あなた方の娘も姉妹、妻や母が私のような体験をさせられたとしたらどう思いますか。 (キム・デイル 1916年11月5日生 黄海道沙里院市出身) http://tabakusoru.hahaue.com/ianhu.syougen.1992101204.html http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/51/ i . i::.:.i : . i i . : :i i.::.:i :. . .:/: : . :. i :i : :i i i ii i:::ハ:i : : . . .://i.: ::i:. . . .iハ i . : :i : :i : :i i ii_i::i__八: :.i: :.: i:.: . ::///!.: ::i : : . i 〉 i . : :i : :i : :i´i_i_i」L.i:.:.ヽ:i: :.|:i:.:. : ::/.':j´「.: :.i:i : : :i:V/ i :.:.::i : :i.:.:.笊恋テミル:.:.:i:|: :.|:i::i:i// i::ノ j:.:.: :i:i : : :iK j : j:.i: :.:i: ii^x弋シ′ヽ从: :|:i:从气亥イ:/:.:.:i:i.: : :jハ (__,ノノノ八: :.Yi、´´´ ヽノ'′ ノ //:.i.i.:八:// ∧ ー=彡〃〃:.\:.:{^ヽ ::::.:. 〉 :::.:. //:.:.从.:::ハ,′/ . ノノノ. : :ノノヽヘ、 __ ー彡イ.::ハ/∧ . ー=ニ≦彡ヘ: ( 八ノi\ `ー′ ..イ.::ノノイ〃(_,ノ . ⌒ヽ:.:彡ヘ:.! ` . . (/八.:( ノイ´ `ヽi i >'" ノ ` ´ / `ヽ 丿 i i ,. -‐…・・・ ´ 、 / / | i / \ ヽ / / ,′| i . ,′ ` ー- . / ,′ | i i `ヽ { | i | 八 | i | ` ( \ i | ヽ ´ \ i | / `ヽ \ ,′ | ,′ :.′ :. / . i ′ i ..:.:::::..、 V . i i :.:.:r::.,.:.:. i i i ..:.:.::::..、 i 、::ゝ..:.:ノ :. i :.:r';:).:::: 八 ′ :. :、 ゝ..:.::ノ ′丶 . ' :. 丶. . ' 丶. .. イ
使い捨てにされた朝鮮女性 金英実 両親、祖母と妹2人、弟1人の7人家族の長女として生まれた。家庭が貧しかったので数え13歳のとき、咸鏡北道の会寧に住んでいた父の妹のところにいった。
会寧は、私の故郷に比べれればそれでも働き口があるというので、叔母の家で世話になりながら、近所の雑用をして働いた。数え18歳のとき居酒屋で雑用係をしていた。 1941年のある日、そこに背広を着た日本人があらわれて「条件の良い仕事をあっせんしてやろう」と話しかけてきた。「条件の良い仕事」なら故郷の家族に仕送りができるので、家計を助けるためにもやってみたいと思った。故郷を離れたといっても叔母のそばで働いていたので、見知らぬ土地にいくことには不安があった。しかし、少しでも条件の良い仕事をして故郷に仕送りできればと考えていたので、集合場所に指定されていた村の日本人区長の家にいった。いって見ると私と同世代の女性が、既に14、5 人集まっていた。 区長の家の前にはトラックが迎えにきていた。それに乗って会寧駅にいき、そこで昼食時に汽車に乗り換えてアオヂを経由してウンドクに到着したのは夕刻であった。そこからチョンアクドンにいくと、ほろ付きのトラックが待機していた。それに乗せられて30分ばかり走ったところの山中に連れていかれた。 その山中には日本の軍人がいっぱいいた。 私たちは中国と旧ソ連の国境地帯の、少し奥地に入ったところに連れていかれたが、到着してみるとそこには既に、10人位の朝鮮女性がいた。女性たちは私たちに、「なぜこんなところにきてしまったのか。ここからは生きてでることはできないのに」と悲しげに話しかけてきた。私には何のことかわからなかった。 軍人がやってきて私たちを最初に倉庫に連れていった。今まで着ていた朝鮮服を脱いで和服に着替えろと強制した。私は恐怖と羞恥から拒否すると殴る蹴るの暴行を受け、むりやり裸にされて着替えさせられた。そして、「ここでは朝鮮語を使うと殺す」と脅かされた。 その日、一緒にきた女性たちの一部は他所へ連れていかれ、彼女たちがどこへ行ったのか、どうなったのか一切わからない。私は人間2人が入ればいっぱいになるような部屋に入れられた。 夜、麦御飯とスープだけの粗末な夕食をだされたが、恐怖でのどをとおらなかった。ただどうにかして逃げ出さなければとばかり考えていた。そんなことを考えていたときに、私たちを連行してきた男が軍服を着て入ってきた。将校(肩に星が3つ付いていた)の軍服を着てきた。将校はいきなり入ってきて有無をいわさず私を強姦した。この将校は、それからも和服に着替えてどこかにでかけていっては、朝鮮女性を連れてきて「慰安婦」にした。そればかりか、ここにいた女性をどこかへ連れ去りもした。 最初の日の夜は、その将校の外に7人もやってきて私に暴行を働いた。私が7人という数字を記憶しているのは、それまで想像もできなかったつらい暴行を受けて、この後何人にこんな思いをさせられるのかと思い詰めていたからである。厳しい監視の中で私は逃げ出す方法も考えられないままに、そのままそこで「慰安婦」を強いられることになってしまった。 食料事情は悪く、ろくな食べ物はなかった。そのために栄養失調と過労のために病気になるものが多かった。重病のために役に立たないものとわかると、病死者も含めてどこかに連れ去られた。彼女たちがどうなったかはわからない。ただ、行って見たことはないが、豆満江がすぐ近くを流れていたので、そこが墓場になったのではないだろうか。 この周辺のアオヂ、チョンアクドン、クロン、サフェなどには付設の慰安所があったが、ホンイリにはなかった。 慰安所のないところには私たちが派遣させられて奉仕させられた。そこには週に1〜2回いかされ、朝から翌朝まで奉仕させられた。時には1泊2日で夜中に帰ってくることもあった。 私たちのグループは常に14、5 人で、欠員がでるといつのまにか必ず補充されていた。 ある日、「トキコ」と呼ばれていた私より幼い女性が朝鮮語を使ったという。それをみとがめた将校が私たち全員を呼び集め、その前で見せしめに、幼い「トキコ」の首を日本刀ではねて殺した。あまりの恐ろしさに泣き叫ぶ者、気絶する者もいた。私はただうつむいて声をだすこともできなっかた。それからは、日本語のよくわからない私たちは、ただ目と目で語り合うことしかなかった。 また、「ジュンコ」と呼ばれていた女性は、妊娠に気付かぬうちにいつしか臨月に近くなっていた。軍人たちは、「ジュンコ」が出産する直前まで「慰安婦」として利用していた。ある日、彼女が出産した。彼女の部屋に入っていった将校は、生まれた乳児を布で包んでどこかに連れ去った。そして、衰弱した「ジュンコ」が役に立たないと思ったのか、彼女をどこかに連れ去っていった。それっきり私たちは、彼女の消息を聞いていない。 ここにいたらいつか私も殺されると思った。 1945年8月13日、軍人たちが、「日本に帰るから、お前たちも一緒に連れていく」といった。ここでもこんなに辛い思いをさせられいるのに、日本にいけばどうなるのか見当がつかない。そこで皆と話し合い逃げることに決めた。一緒だと捕まるのでバラバラに逃げようと約束した。 その夜、私はトウモロコシ畑にひそみ、明け方、山に登っていった。山の中で2日くらい隠れていて、そこから山のふもとの人家を探していき、そこで食べ物をもらった。祖国の解放はその時聞いたが、信じられず捕まることを恐れて、ずっと山の中に潜んでいた。 秋になって清津にでてきた。 (キム・ヨンシル 1923年10月21日生 両江道普天郡出身) http://tabakusoru.hahaue.com/ianhu.syougen.1992101201.html / / イf它メミー- ヽ / // {い辷彡ク―- 、 \ ヽ / / / >=≠=ー- \ \ヽ _ 丶 / /// ′ ヽ ` 、\ヽ ( ヽ / / / / l | l \ l l | / /l / / l l| l| |l | |l l ト、| | | !′ / l ′| l| l| |l | |ト、 | l | l > | ! / 川 l| |||」| l|`T 7 ハT | l | | | | { 〈 川 |l kヘ 八 | |/,,斗=ミk j | ! | | \:: ヽノ川 |l_|孑テミ\ | l〃 弋ヅ゙} ' 从 |: |\ ヽ \ノ| lヘド _ゞソ u U / /| j: |\ ヽー- 、 ヽ ヘ l 八 U 、 / /l |´ { 、  ̄ ヽヽ \ \{ ヽ __ u イ l| | | \ \ }ノ 〉、: 〔_ト ト ` ̄ /┼ノ | | ヽ l\ ヽ / ヽ | |├]> <_|/l/ ; / '.| ヽ ゛、 . / / l | 丶 | |ノ└ / ∧ { | l |、 }| / / ハ ヽ ' 〃 V ′ / l || \ ノノ / / / 弋 \ l || ノ / .:.. /j:i、 ノ人 ヽ ´ / / / `7⌒ヽ/ | ノ|ー- イ ;′.:´ ヽ{i:i:i:i:ト--<ハ } . / イ \ー ‐=彡i:i:i:i:iノ |{ l `ヽ |l { .\i:i:i:i:i:i:i:i:i:i:ト、 / / 乂 >i:i:i:i/i:i/:i:i/ い u 八 ゝ i:i:i:i:i:i:i:ハi:i:ハ { { イ:i:i:i:i:i:i/:i:i':i:i:/ \ \_ノ) u l:i:i:i:i:i:i:{:i:}i:i:i:ト、 /:i:i:i:/:i/:i:i:i:i:i/ ` ー '´ :|i:i:i:fヾi:i〉トi:i:i:i:i〉 {i:i:i/i:i:i/:i:i:i|:i:i:| u ::c ; |:i:i|i:}:i:l:i:i||:i:i:|/ ヽ/i:i:i/:i:|i:i:|i:i:l{: :::c ; 、 ∧i:||i:i:i|:i:ハi:i| 'i:i:i:イ:i:i:|i:i:|i:i:八 `´ \ :.イ }ハi:i|/ }iノ li:i:il |:i:i:|:i:i||i:{ \: __ノ >ー - ―f´ し }丿 |i:i:iハi:i:{ ノl:i:iゝ ゝ、 | 人{ ヽ′ 〔 :| | / チョン・オクスン(ChongOkSun) 現在74歳のチョン・オクスン(ChongOkSun)の証言は、日本帝国陸軍の兵士による性的暴行と日々の強姦に加えて、これらの女性が耐えなければならなかった残酷で苛酷な取り扱いを、とくに反映している。
「私は1920年12月28日、朝鮮半島北部咸鏡南道のプンサン郡フアバル里で生まれました。
13歳の時の6月のある日、私は畑で働いている両親のために昼食の用意をしなければならなかったので、村の井戸に水を汲みに行きました。そこで一人の日本 の守備兵が私を不意に襲い、連れて行きました。ですから両親には自分の娘に何が起きたか分かりませんでした。私はトラックで警察に連れて行かれ、数人の警 官により強姦されました。私が叫ぶと彼らは口に靴下を押し込み強姦を続けました。私が泣いたので警察署長は私の左目を殴りました。その日、私は左目の視力 を失いました。 10日ほどして私はヘイサン市の日本陸軍守備隊の兵営に連れて行かれました。私といっしょに約400人の朝鮮の若い娘がいて、毎日性奴隷として5000人以上の日本兵の相手をしなければなりませんでした――一日に40人もです。 その度に私は抗議しましたが、かれらは私を殴ったり、口にぼろきれを詰め込んだりしました。あるものは、私が抵抗をやめるまで秘所にマッチの棒を押し当てました。私の秘所は血まみれになりました。 一緒にいた一人の朝鮮の少女が、どうして一日に40人もの大勢の相手をしなければならないのかを尋ねたことがあります。質問したことを罰するため、日本の 中隊長ヤマモトはこの少女を剣で打つように命じました。私たちが見ていると、 彼らは少女の衣類をはぎとり、手足を縛り、釘の出た板のうえを、釘が血と肉片 で覆われるまで転がしました。 最後に、彼らは彼女の首を切りました。別の日本人ヤマモトは、 「お前たちみんなを殺すのは簡単だ。犬を殺すよりもっと簡単 だ」 と語りました。彼はまた 「こいつら朝鮮人少女は食べ物がないといって泣いているから、この人肉を煮て食べさせてやれ」 とも言いました。 ある朝鮮人少女は、頻繁に強姦されたため性病にかかり、そのために50人以上の日本兵が病気にかかりました。病気の蔓延を防ぎその朝鮮人少女を「無菌化」 するため、彼らは焼けた鉄棒を彼女の秘所に突き刺しました。
あるとき彼らは私たちのうち40人を、トラックに乗せて遠くの水たまりに連れて行きました。水 たまりは水と蛇でいっぱいでした。兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、水たまりに土をどんどん盛り、彼女たちを生き埋めにしました。 ○「兵隊一〇〇人の相手ができるのは誰か」と刀を下げた兵隊が聞いた。その時に手を上げなかった一五人の女性は、他の女性への見せしめとして殺された。その方法は、裸にした女性たちの頭と足を兵隊たちがつかみ、一面に釘を打った板の上をゴロゴロと転がしたのだ。噴水のように血が噴きだし、釘には肉片がこびりついた。 ○鄭さんたちが泣いているのを見た中隊長は、「慰安婦たちは肉を食っていないので、肉が食いたくて泣いているんだ」と言った。兵隊たちは、殺した頭を釜で煮始めた。そして、鄭さんたちを木刀で叩いて、無理やりその汁を飲ませた ○オ・チョンヘという女性が、将校によって子宮に鉄の棒を押し込まれて殺された ○オ・ズンイとう女性が、梅毒にかかったことを知らせなかったため将校にうつったという理由で殺された。彼女は口に布を詰められ、焼いた鉄の棒を子宮に入れられて即死。引き抜いた棒には肉がこびりついていた ○鄭さんの口にゴムホースが押し込まれ、水が注がれた。膨れ上がったお腹の上に板が乗せられ、兵隊がシーソーのように踏みつけた ○鄭さんたちは、足首を縄で縛られて逆さに吊り下げられた。兵隊は、針がたくさんついた拳大の黒い塊を持って来てそれに墨をつけた。そして、鄭さんや他の女性たちの口をこじ開けて強く押し込んだのである。鄭さんの前歯は折れ、激しい痛みで再び気を失った ○口だけでなく全身に刺青がおこなわれた。兵隊たちは、殺す前に女性たちの肉体に落書きをしたのだ ○兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、水たまりに土をどんどん盛り、彼女たちを生き埋めにしました 守備隊の兵営にいた少女たちの半分以上が殺されたと思います。二度逃亡を企てましたが、いつも数日で捕まってしまいました。私たちはいっそうひどく拷問を うけ、私はあまりに多く頭を殴られたので、どの傷もまだ残っています。 彼らはまた私の唇の内側や胸、腹、体に入れ墨をしました。私は気絶しました。気が付いてみると、私は恐らく死体として捨てられて山の蔭にいました。私といっしょにいた二人の少女のうち、私とク・ハエ(KuHae)が生き残りました。山の なかに住んでいた50歳の男が私たちを見つけ、衣服と食べるもの多くれました。彼はまた朝鮮に帰るのも助けてくれました。私は、日本人のための性奴隷とし て5年間使役されたのち、18歳のときに、傷つき子を産めない体で、言葉を話すのも難かしいありさまで帰国しました」。 http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/51/ ,. '´ `´ ̄`丶、 / / ヽ \ / / ヽ ! ヽ ヽ / / | !| ヽ l | | l ! / / !|| | ! | l | !| ! ! ! ! ! /// ! ! ! !| ! |l| !|| | ! | | | | || | /// | |_,|斗十l|ト、||ハ/十トl、! ! || l /// ! '´N ,r=ミ、ヽlリ ,r|/=リ|/! !l ヽヽ //l !l ヘ | 〈 トッj:} トッj:} 〉j// ! ゙、\ // || | lヽ! ゞ=' ゞ=' // / | ! ゙、ヽ! l/ | ヽ l| |ヘ::::::::::: ' :::::-=彳/ / /リヽ } ヽ ヽ!Vヽl`ト,、 ‘’ ,. '´l/\,rく l/ /´/〈 ` ーr '´ ! rく/、 \ / ヽ 〉、 / l | \ l ノ〈 ヽ _/--―ノ / ヽ | _f=ニヘ、_,r==一'´ Y ', ', l /⌒ヽヽニ=--- 、\ヽ j V ``ー '´ ̄`ヽ ヽ! / '、:: ヽ| ,′ lヽ 、 :o: ! ! l } ヽ、 | | l/ l | _,. '´ ,| ! ファン・ソギョン(HwanSoGyun) 77歳のファン・ソギョン(HwanSoGyun)の証言は、大勢の娘たちを軍事的性奴隷に誘い込んだ詐欺的方法による徴集方法の証拠となる。
「私は、1918年11月28日に日雇い労働者の次女として生まれました。私どもは平壌市カンドン区のタエリ労働者街に住んでいました。17歳のとき、1936年のことですが、部落の長がやってきて私に工場の仕事を世話すると約束しました。私の家はたいへん貧しかったので、私は喜んでその 収入の良い仕事を引き受けました。私は日本のトラックで、すでに20人ほどの朝鮮の娘たちが待っている停車場に連れていかれました。私たちは汽車と、その 次にはトラックに乗せられ、数日間の旅ののち中国の牡丹江のほとりにある大きな家につきました。私はそれが工場だと思いましたが、工場などないことが分か りました。少女たちは、わらの布団があり、ドアに番号がついている部屋を、一人に一室ずつ割り当てられました。 何が身に降りかかるかも知らず二日間待った後、軍服をきて帯剣した日本兵が一人私の部屋にやってきました。彼は「自分の言うことを聞くかどうか」と尋ね、 私の髪の毛をつかんで床のうえに倒し、足を開くようにいいました。彼は私を強姦しました。彼が離れたとき、私は外で20人か30人の男たちが待っているの を見ました。全員がその日私を強姦しました。それ以来、私は毎晩15人か20人の男たちに襲われました。 私たちは定期的に医学的検査を受けなければなりませんでした。病気にかかっているとわかると、殺されてどこか分からない所に埋められました。 ある日、新し い娘が私の隣の部屋に入れられました。彼女は男たちに抵抗を試み、そのうちの一人の腕に噛み付きました。 そのあと彼女は中庭にひきだされ、我々全部の見て いる前で刀で首を切り落とされ、体を切り刻まれました」。 ァン・ソギュン(HwangSoGyun)は、性奴隷として7年間日本兵の相手をさせられた後、1943年に「慰安所」から逃げることができた。その後39歳のとき結婚することができたが、家のものに過去を語ったことはなかった。心理的肉体的な傷と婦人科的問題のため、子供をもつ ことはできなかった。 http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html ヽ|′ ノ /ヽィl ′| l| l| |l | |ト、 | l | l〈″ ::.::.::. 〈| lノ ´ ̄ 川 l| |||」| l|`T 7 ハT | l | | | ::.::.::.::.::.::| | ⊥∠ ̄`ー-(⌒ 川 |l kヘ 八 | |/,,斗=ミk j | ! | ::.::.::.::.::. | | \::.::.:-‐''´ ̄ ヽノ川 |l_|孑テミ\ | l〃 弋ヅ゙} ' 从 |::.::.::.::.::.::.| |\ ヽ ::.::.::.::.::.::.::..\ノ| lヘド _ゞソ u U / /| _j::.::.::.::.::.::.| |\ ヽー- 、 ヽ ::.::.::.::.::.::.::.: >ヘ l 八 U 、 / /l |´::.::.::.::ー―{ 、  ̄ ヽヽ \::.::.::.:: /..:::..\{ ヽ __ u イ l| |\::.:..\::.「::.弋_ \ \ }ノ 〉、::.:〃.::.::.::.::|〔_ト ト ` ̄ /┼ノ |::.::.ヽ::.::.ヽ|::.::.: ノヽ l\ ヽ / ハh ::.::.::.:: j | |├]> (__/l/ ; ::.::.::.::.::.::.::.: / '.| ヽ ゛、 . / / l | | ::.::.: //..::| |ノ└―イロト、 / ∧::.::.::.::.::.::.::.: { | l |、 }| / / ハ」 ::.:://..::.::. ' 〃 〃 || || ヽV ′ ヽ ::.:.::.::.::. 〉 l || \ ノノ / / / 弋_::.::.::.::.::.::.::l || {L ノ| |Lノノ / .:.. \::.::.//j:i、 ノ人 ヽ ´ / / / `7⌒ヽ/ | ノ|ー- _ ̄  ̄イ ;′.:´ ヽ{i:i:i:i:ト--(ハ } . / イ \ー ‐=彡i:i:i:i:iノ |{ l `ヽ |l { .\i:i:i:i:i:i:i:i:i:i:ト、 / / 乂 >i:i:i:i/i:i/:i:i/ い u 八 ゝ i:i:i:i:i:i:i:ハi:i:ハ { { イ:i:i:i:i:i:i/:i:i':i:i:/ \ \_ノ) u l:i:i:i:i:i:i:{:i:}i:i:i:ト、 /:i:i:i:/:i/:i:i:i:i:i/ ` ー '´ :|i:i:i:fヾi:i〉トi:i:i:i:i〉 {i:i:i/i:i:i/:i:i:i|:i:i:| u ::c ; |:i:i|i:}:i:l:i:i||:i:i:|/ ヽ/i:i:i/:i:|i:i:|i:i:l{: :::c ; 、 ∧i:||i:i:i|:i:ハi:i| 'i:i:i:イ:i:i:|i:i:|i:i:八 `´ \ :.イ }ハi:i|/ }iノ li:i:il |:i:i:|:i:i||i:{ \: __ノ >ー - ―f´ し }丿 |i:i:iハi:i:{ ノl:i:iゝ ゝ、::.::.::.::.::.::.::.:::..\ / .::.::.::.::.:: イ 人{ ヽ′ 〔 ̄::.::.::二 ィ::]{≫==≪}[::.r―‐::.::.:| ヽ::.::.::.:ニ=::]{≫=≪}[::.::.ー‐.::.::/
ファン・クムジュ(HwanKumJu) 現在73歳で、韓国永登浦区のドンチョン洞に住んでいるファン・クムジュ(HwanKumJu)の証言は、陸軍が慰安所を運営した際の規則類を例示している。
「17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の朝鮮人少女全員に日本軍の工場に働きに行くように命じました。そのとき私は労働者として徴用されたのだ と思いました。3年も働いたころ、ある日一人の日本兵が自分のテントについてこいと要求しました。
かれは着物を脱げと私にいいました。たいへん怖かったの で抵抗しました。私はまだ処女でした。しかし彼は銃剣の付いている銃で私のスカートを引き裂き、下着を体から切り離しました。そのときに私は気を失いまし た。そしてふたたび気が付いたときには毛布を掛けられていましたが、あたり一面に血が付いていました。 そのときから最初の1年間は、いっしょにいた全ての朝鮮の少女たちと同様に高級将校の相手をするように命令されましたが、時がたち私たちがますます「使役」されるのにしたがい、私たちはもっと下級の将校の相手をするようになりました。もし誰かが病気になれば、その人は消えてしまうのが普通でした。また私 たちは「606号注射」を与えられましたが、それは妊娠しないようにするためや、妊娠したときにいつも流産するようにするためでした。 衣類は一年に2回しか与えられず、食べ物も足りず、餅と水だけでした。私たちの「サーヴィス」には、支払いはありませんでした。私は5年間「慰安婦」とし て使われましたが、そのことで一生苦しめられてきました。私の内臓は何度も病におかされるたび、手術で取り除かれており、苦痛と恥にみちた経験のために、 性交渉を持つことはできません。私はミルクや果汁を吐き気を催さずには飲むことができません。彼らが私に押し付けた汚らしい事柄をあまりにもたくさん思い 出させるからです」。 ファン・クムジュ(HwangkumJu)が特別報告者に語ったところでは、中国の吉林省の慰安所での最初の日に、日本兵からこ こには従わなければならない五つの命令があり、従うか死ぬかだといわれたという。 第一、天皇の命令。 第二、日本政府の命令。 第三、彼女が所属している陸軍 中隊。 第四、中隊のなかの分隊。 そして最後に彼女が自分に仕えているテントの持ち主としての彼の命令。 http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html _ -─ ─- ,- 、 rメ´── 、::::::::::::::`ヽ \ 〆 / `ヽ;:::::::::::\ ヽ // / / / \::::::::::l ', ,イイ | メ、 l ,イ l }_::_} ! _, -ー' /ル| l ァ=ミ、! // | /! //`l|ヾ》 i // ̄ {| | l ト、ヒソ | /二Zナ | ヾニソヘヽ ! 、__}ハヽゝ , `´ r'::ンヽ}/ }| | ヾ\ i `ヽ:::| ∧ 、 _ `´ / /| | `ヽニゝ ( ̄:::| |\`__ ,ィ// ハ| | l ', -=ニ´::::::| ,-^~ ハ  ̄-、}/ ヽ ヽ / /:::// , ヽ, ヽ \\ / /´ ,i' l' / i ヽ ヽ ヽ | i'、 / ! / ! ヽ ヽヽヽ ! \ !ヘ' ! ... ! / ! ! ヽ ヽ ヽ ヽ 〉`ー、__入 '''' / / | l ! ! ! ヽ ', `ヽ_,_ `ー-‐´ ∧ l / | ! ! l ゞ´ ̄`ー彡  ̄`iー、_ / `ヽ! / / ! ハ ! ! (ミ_ ~, `~^-i-i `ー´ `ヽ、 , ' / l | l `~~>´ / | i ヽi/ l ハ / / / ,ノ _ - `i' | ハ / / /-' ^ ヽ /´ i .レ ′ / , ー´ ヽ / ! / _/´ i,/ / / ´ _ / / l _ - '^/ / ヽ、 _ -ー  ̄ / / , - 、 ` ̄ ´ / _∠ー―-- -ノ´ ヽ、_ / , -'  ̄ `ー、_ ,' / _, -ー―-、 _ ー), i _,-ー ´ ` ー 、三^) ヽ _ - ´  ̄ ゙ ` ー‐ー ´ キム・ボクスン (KimBokSun)
また別の生存者、韓国のキム・ボクスン (KimBokSun)は、性奴隷としての自分の生活は、軍により直接に統制されていたと証言した。 毎日午後3時から9時は下士官の相手をしなければならず、 午後9時以後の夜は将校のためにとっておかれた。 また大部分の兵隊たちはその使用を拒否したが、全ての女性は兵隊たちを性病から守るため、コンドームを支給された。 http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html ____ ,. "´  ̄`゙ ─- _ ./ ,. -──- _. / ./ ,. "´ `ヽ、. / / '" _,. -‐- 、 '、`ヽ .レ'´ ,. '´ 、 `ヽ i ヽ |, / , 、. 丶. \. ヽ i i'/ / 、 ヾ、:.、 `_,\_,. ヽ ;:1 | i i:. ヽ、レ'‐--_'-ヽ_ | .:: ヽ | | |:. _ ノ,| :| ,'レ,=ニJア .| .: `i .| ! |'´、=-'_、!_| ' `っ-‐|i |.: | | \ ヾ:::'ト'ゞら,; ''' 'ル,ノ:| | | ヽ、ヽ`、 `ヽ ` _ ' //::i | | i`丶ヽ_ヽ`l ,:::::::;ハ / :,' ト- 、 .| ! / | /! : ト-' _,/ .レ i | ) ./ ,!'、!\. |,. " | | 1 | i´ / / ヽr‐、'___,i .| /.ノ | / | i:.. ,. '7i'´ .`ヽ| .| / i .| / i' ノ'´ ' / |::.... / | ' .| .| ./ .| _!. ノ ノ ./ ノ, '´ .| .| i ノ'´ _/ 、'´ / ヽ .i i | | ./ レ'´..::ヽ、. \ヽ / _,/ |. 、 _, -───/ .|'、i l .|ノ ヽ ` `‐‐'´/ | ヽ / | 、 / -‐ ─ .| / .ハ、リ \ ヽ ヽ/. | |. / | \ / , _, _'´ | ,イ´ .i \ ,ノ | .! | / / ,. -‐`─-- _ ./, / , -──- し‐'´./ !. ; \_/ .:|'´ | i _,. "´ __´_ ̄_ ヽ`丶 .)' ./ _, -‐_,─ ` / ./ :. .'.,,,i. | レ'´,レ'´--- - ヽ、 ヽ /∠, ", -‐─-_、 ,. / 丶 ./'"___| | |__ノ_-‐_‐ 、 ` ` 、. ヽ/ ./´ _.  ̄ ̄ ‐- ,.. '/ 丶 .. __ ,,.. '"´ .|i /ヽ,_ニ_ _ `ヽ 、 、 ヽ-‐' .ノ'´ニ二_ ノ.// ,ゝ、,.'´ || /'/ ヽ-  ̄ ‐- ヽ i | r'´-‐ ‐- 、` i'´ ,/ ,. '´ i | |ヽ'´,、' lノ‐- _ ヽノルノ / ,. -─-_ ,.ノ、!/ ,. '´ | .| 、/`ヽ‐'´,==` ‐- ._ ノ'´ | ,. - ̄ノ'´ / ,. ´ .| .| .| i´, =ニ二 ‐,.`)‐' ヽ/ ,イ´ ! ,. / | /、 ! ノ´ ,._-‐ ̄‐-`ヽ ! ,._` つ-_、 丶. '-‐'´ | / ヽ' ヽ'´/ ,, -─-、‐‐` `´ `ヽ'´ .| ./ ./ 、´'´ ,. '"´,.つ´ | i / ヽ/,. =ニ-, | ! / '´ノ',. '"´ | , ',ノ /'´ ヽ、_, _, '´
朴永心(パク・ヨンシム) 朴永心の証言 『女性国際戦犯法廷の全記録・ 第5巻 日本軍性奴隷制を裁く-2000年女性国際戦犯法廷の記録』http://www.ryokufu.com/books/ISBN4-8461-0206-8.html −−どのようにして日本軍「慰安婦」として連行されたのですか。
朴証人:私は四人兄弟の三番目です。上に兄が二人、下に妹が一人いました。幼い頃母を亡くし継母に育てられました。家はとても貧乏でした。一四歳のとき南浦に行き洋服店の女中として働きました。
一七歳のときでした。一九三八年三月だったと思います。ある日、日本の巡査が軍服に帯剣のいでたちで洋服店に現れました。彼はいい金儲けの口があるが行かないかというので、そのままついて行きました。そうして私は日本軍の性奴隷になったのです。 −−「慰安婦」として連れ回された経路について。 朴証人:はじめ、ほかの娘と一緒に平壌に連れて行かれました。二二歳の女性でした。車に乗せられしばらく走り続けました。数日後着いてみると見たこともない所でした。最初に連れられて行ったのが南京でしたが、そこの「キンスイ楼」に入れられました。私はそこで歌丸という日本名で呼ばれました。そこで三年ほど性奴隷の生活を強要されたと思います。 たしか一九四二年頃だったと思います。ある朝、表へ呼ばれました。出てみると七名の別の女性たちもいました。皆朝鮮女性たちでした。一緒に行こうと言うのでしたが二名の日本人兵士がいました。その二名が私たちを監視しながら慰安所を後にしました。別の慰安所に行くというのです。 私たちは南京で汽車に乗りました。上海に行きました。船に乗り換えシンガポール経由でビルマのラングーンに着きました。ラングーンからラシオにある「イッカク楼」へ行きました。慰安所の名前です。そこでまた性奴隷の生活をすることになりました。慰安所の〔経営者が私に名前を付けました。若春という日本名でした。ラシオには二年ほどいました。私がその時相手をしていた二名は今でも名前を憶えています。オオタミノルという将校とタニという軍曹です。 一九四三年〔正しくは四四年〕春だったと思います。日本軍は私たちを再び車に乗せビルマと中国の境にある拉孟(ラモウ)へ連れてゆきました。日本軍はそこを松山と呼んでいました(中国側の呼称が松山)。その時から連合軍の捕虜になるまでそこにいました。日本軍の性のなぐさみものとしてだけ生かされました。 松山に来て間もなく猛攻撃が始まりました。連合軍の爆撃でした。私たちがそこで相手をさせられたのは日本軍第五六師団でした。主に歩兵と戦車兵の相手をさせられました。毎日数十名の日本軍から性行為を強いられました。その合間を縫っては握り飯を作り、爆撃の中を運びました。日本軍の戦闘壕へ運んで行ったのです。そこには初め一二名の朝鮮女性が連れられて来ましたが、八名が爆撃で死に私たち四名が残りました。 −−その後、生き残った「慰安婦」たちはどうなったのですか。 朴証人:私たちは……日本軍が日本国民を乗せるということを[……]。日本が敗れたのです。日本軍は、戦争に敗れると何の知らせもなく自分たちだけで逃げました。私たち朝鮮女性四名は、怖くなって防空壕に隠れましたが、中国軍にみつかりました。それで外へ出ましたが、私たちを取り調べたのは米軍将校でした。米将校があれこれと質問しました。 −−ここに一九四四年九月三日、米軍が朝鮮人「慰安婦」を捕虜にしたという写真があります。ここにあなたはいますか。 朴証人:これが私です。この服装で裸足で、……髪も編み下げ〔おかっぱのことと思われる〕にして、確かに私です。連合軍の捕虜になった時、妊娠していました。 −−捕虜になった後どうなりましたか。 朴証人:トラックに載せられ昆明の収容所へ行きました。収容所で捕虜として扱われました。そこには日本軍捕虜がいました。収容所にいってから、おなかがカチカチに張ってきてとうとう出血しました。収容所内の病院に入院しました。中国人医師が注射をし手術しました。妊娠した後も日本軍に絶えず性行為を強いられたのが原因だったと思います。胎児が死んだのです。 収容所には一年ほどいたと記憶しています。 http://d.hatena.ne.jp/noharra/11001201/p2 l. l l ,.! } ! ! l l.l:.lj::lj::::} ヽ | /l. i | l| ,' ,! ,'} ! l | 7trイ_i. ! l/::,! | | |! l / ,' / ! , / .| !´ ,|:l ,! ! ! /:::;ハl、', ⊥ L l_ i / /l_/ ⊥//! / ,/,ノ i::ヽ ! l /.:::/ l ゝ i、lヽ! ‐`/ li /´/−l/ ' ,l/`イ-、 ,!::..l ! .! ''T" l l X `弋,刃``ヾl/ /'弋_刃ヽ l/ l'ノ,!/└ ' ! l l l l l l ハ , /,イ l_ノ ! l l / / l /`'ゝ、 _ _ //1 l ri. | i l ,/ /,' ,'/ .r` 、 ‐ ,. //' ! ト リ | l l. /,イ ,' ,'ム '´ ` t ´ /./ ! |'/ `ヽ、 | ,' , '/ ! ! !Х ヽ_ , l. l.- ‐ l. l' ヽ ! ,'〈〈 l l l l/ ゙ l. | l. l ヽ / ヾ ,| ,/| | y´ l. | ノノ | / l ヾ イ:. /(─/トΧ_ | / ヽ、 ` '-、l. /∧ .ゥ.; `ー― ''フフ'´ |y ,/ // `' ,、_} / :.゛ .ゥ.; (__ i |{, / // (.(二.l/ .〉 ゛ フΧ| |!l ,/ , '´ _ ヽ≦( 〉 イ,‐,ァ‐- 、::::ヽ ``シ.| |',ヽ ,/ / _/,ノ ´ ̄`ヽ,`/r‐// , `'T ─`Y´─丶、 | }l ,/ ,/ / 、 `ヾ  ̄ ヽ l /7 / / ,/ ,}| |// ,/ /' { 、ヾー' ヽ|' `'/ / / , 'TT 'ート、 |/ l イ / { }- 、`_ソ ノi `'`''`' l ! ~⌒^゛┬- "ハ/ 丶ヽ l 7ー' ,イ ! 1 \|l/ ノ ヽ `! / / l l | / 丶 !/ / | } |/、 _,,. -‐ '''7 / .! l |i、丶 ,./' / ! l/ } ` `、、 _ '´/ ! ,ハ ', |ヽ、 / i , ' i / iヽ、 ,.'、 l-‐'`,,.、_ _ .イ / ,/ ,,.l /_ ', `'`、´-‐ ヘ !二 _/ `ヽ、 / i
李桂月(イ・ゲウォル) 1922.9.6、黄海南道碧城郡に生まれる。5歳の時、父の死亡と共に家を追い出され、2年間乞食生活を送る。8歳の時、面(※地方行政の最下級機関)の書記の家に子守りに入り、13歳の時、書記に旅館の下働きに売り渡される。15歳になった年、村の区長に「よい仕事を斡旋する」と言われ、ハルピン近くにある日本軍の慰安所に連れて行かれる。1939年、日本軍の将校に酒を飲ませて酔わせ、隙をみて逃亡した。
十五歳になった年の3月頃のことです。ある日、村の区長が訪ねて来て旅館の主人に何か話し、私を呼んで「ここで苦労をしなくてもいいように仕事を斡旋するから、いい所に行こう」と言いました。私は住み慣れた所がいいと思い、行かないと言ったのですが、区長は私の腕を掴み、旅館から少し離れた駅に無理やり私を連れて行きました。十五歳といっても私は背が低く、体も弱かったので、私は区長にひっぱられるままでした。 駅には二人の日本軍人がいました。一人は肩章に星がついた将校で、「タナカ」という名前の男でした。彼らは私を引き取ると無理やり有蓋貨車(屋根のある貨車)に押し込んだのです。貨車の中にはすでに二人の娘が乗せられていましたが、二人は私より年下の十四歳と十三歳の少女でした。 翌日、中国のハルビンに着いて、私たちは汽車から降ろされました。〜(中略)〜着いた所は民家一つない日本軍の駐屯地でした。「タナカ」は私たちを駐屯地の建物に監禁したのです。 私は住み慣れた所がいいと思い、行かないと言ったのですが、区長は私の腕を掴み、旅館から少し離れた駅に無理やり私を連れて行きました。〜(中略)〜駅には二人の日本軍人がいました。一人は肩章に星がついた将校で、「タナカ」という名前でした。彼らは私を引き取ると無理やり有蓋貨車(屋根のある貨車)に押し込んだのです。〜(中略)〜日本兵は私たちが逃げるのを恐れて貨車に鍵を掛けたので、私たちは外に出ることができませんでした。 ○私は部屋に入って来た将校に「体の調子が悪い」と言って相手をすることを拒絶したのですが、〜(中略)〜将校は私を押し倒して腹や胸を蹴り、しまいには軍刀のさやで額を殴りました。私のあばら骨は折れ、額からは血が流れ、とうとう私は気を失ってしまいました。 ○「死んでない」と言いながらたばこに火をつけて私の腹に押し付けました。私の体が熱さと痛さでひくひくとするのを見て、「タナカ」は「おもしろい」と言い、たばこを取り替えながら更にあちこちにたばこの火を押し付けたのです。 ○日本兵は「皇軍のために頑張れ」と言い、「100人でも200人でも入って来るだけ奉仕しろ」と命令しました。 ○日本兵は妊娠している女は不必要だと言って軍刀で彼女の腹を切り裂きました。 ○ある日、日本兵は泣き出すイ・プニの頭を石にぶっつけて殺してしまいました。 ○五人の女性が逃亡して捕まえられたことがありましたが、日本兵は見せしめのつもりで「慰安婦」たちを全員集合させ、彼女たちを裸にして縛って井戸の中に投げ込んで殺しました。 ○私は夢中で葦原を抜け出し、どこともわからないまま川辺を走っていきました。すると、川辺で釣りをしている朝鮮人が目に入り、私は彼に助けを求めたのです http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/27/ __ __ r'⌒V´::.::.::`y'::.:::,:`¬、 __/⌒::_::j_:_:_::.:::/::.:/::.::/{_r、 __r-、/:::/7::; '´ ` (::.:/::/::.:_) {f〒う::://:::ノ/ / , ' 〃 , ヽ/::.::.::{ 〉工{_://厂/ / // // / , / ∨:: ̄::フ / /r'::| |::)l| トx'/ // / / / / , !::.::.::r′ / /:/ハl | ル'芹メ/ /,' / / / / //lー‐〈 // 〈:/ 〈l 川ヾジ /ノ,厶ニくノ /‐z_/l /// / リ !| 礼jハ/ ノ::;人/ ., =='′ // / /' ゙ ヽヽ`、 丶、′ `゙,.イ公 '´ 〃 / ′/ ソ _,r ノ`,ト 、---- '´/う゛ // / / l !rヘ,f f::=.-.=-` ー - 、 ._」 {_ / / | l lヽ,_ミ}, . ヽ / 」 l / ゝ ト,.iハ l 、! i / ! レ / ヽ ! l、'f i。 。 !: { '′ ヽヽ/ ヽ 、: ,.}'/;i!,..ノ 、.__..イ i;=-、 `ヽ、 \ ).ヽ._,r',. /,i!、 :::! i ,!./ `T-二!/ス,!tイ ,::l:.,r '´.イー、 `-/-'-'、'゙ _,i._ ,.r┴! ,.ィ.l ,i, ,/´ i r'r_ュ'‐iヽi ヽr,-' ノ/ ヽ ,/ .....:::::li'゙ ̄ ̄ `ヽ、ヾ、'´,_i. l , ' :::/:::!ヽ::... ヾ>- ,`ヽ.ト, ,:' ::/:::::.i:: ヽ, ヽ, -イ-、ヽ、 ,/ .:/::::::::::i. i'ヾ;、 ヾ~l] ,ノ ,ノ /::::::::::::::i, i i::ヽ、 ヽ-ー--、{ー-.、_ ,rf''Y^)‐,._ ..::/´!`ゝ:-:、:::;:`:;!;';、:;;::::ヽ、 ヽ 'ーュ.'‐tぅiヘ,リ /-' '`'゙:.! ,! .::/, y-' r=-´、 、 、 _,/_,、iヽ、 ヽZフー‐ '´ ,! , ::;!:;/ `'ー==-、__ゝ'´` 'ー '  ̄ ` -ヘ,..r‐r- 、 `! ! i: ,rシ' _(゙ヽ、'ェ'ー.-`ヾ、 ,! /'゙ ( `ゝ' ヽ ! ,/ `ー'、 ー-:':::::..ヽ `'ー‐ ' ` ー‐-、:::::::::;ノ
郭金女(カク・クムニョ)
1923.1.8(注)、忠清南道天安郡(チョナングン)生まれ。生活は苦しく、14歳の時、日本人の家の子守りをし、16歳の時、日本人が経営する製紙工場で女工として働く。1939年10月頃、工場経営者が「ソウルの食品工場で働くことになった」と言って日本人に引渡した。中国牡丹江穆稜(ソ連国境地帯)にある慰安所に入れられる。2年後、警備の歩哨の隙を見て慰安所から逃げ出す。
私の故郷は、南朝鮮の忠清南道天安です。兄が一人、姉二人に妹一人の五人兄弟でした。私が八歳の時に父は亡くなり、母が地主の家で働きました。炊事をしたり、衣類を縫ったりという仕事です。もちろん、子供たちは学校には行けませんでした。
私は全羅南道順天の日本人の家で子守りとして働いた後、一六歳の時に全羅南道光州の製糸工場へ働きに行きました。ここは日本人の経営でした。カイコから糸を取るのが仕事で、お腹が空いている時にマユの中のサナギを食べたこともあります。 ここで一年間働いた時、呼ばれて事務所に行くと刑事らしい日本人の男がいました。私が刑事だと思っている理由は、後に列車の中で拳銃を持っているのを見たからです。 「パンや飴を作る『京城』(現在のソウル)の食料工場で働くと、お腹がいっぱりになるので行くように」と言われたんです。私を含めた娘たちの名簿が、会社から刑事に渡されました。 ソウルまで汽車で行き、旅館に泊まりました。その翌日になると、「牡丹江に行こう」と刑事が言い出したんです。「なぜ中国に行くのか?私は行かない!」と抗議したところ、「朝鮮は植民地なので、どっちみちお前たちは死ぬのだ!」と言われ、列車に無理やり乗せられました。 そして翌々日の朝、牡丹江に着きました。駅の待合室に二〇分ほどいると、幌のついた車のトラックがやってきました。降りてきた憲兵に、「長谷川さん、二〇人連れて来ました」と刑事は言っていました。そのトラックに乗せられ、「満州」(中国東北地方)とソ連の国境地帯にある穆稜という所に着きました。 私たちは、憲兵隊が駐屯している三階建ての建物に連れて行かれ、畳の部屋に入れられて鍵をかけられました。出されたご飯も食べず、その夜はみんなで泣いていたんです。 翌日、医者と看護婦が私たちを診察しました。今考えれば、病気を兵隊にうつさないためです。連れて来られた女性の一人は、顔がまっ黄色でした。そのため地下室に入れられてしまい、後に亡くなりました。 大きな建物の中は仕切られていて、一〜二〇番までの部屋があり、私は「一番」の部屋をあてがわれました。中はタタミ二畳ほどの二人がようやく横になれるくらいの広さでした。大切な髪を短く切られ、来ていたチマ・チョゴリを浴衣に着替えさせられたんです。このチマ・チョゴリは母が作ってくれたものなので、くやしくて泣きました。日本人に「レイコ」という名前をつけられました。 部屋にいると、憲兵の将校が入ってきました。彼は刀を壁に立てかけてから服を脱ぎ、私にのしかかりました。その当時の私は何も知らない娘でしたから、その日本兵を虎よりも恐ろしく思いました。私は泣き叫んで、将校の手を噛みました。すると血を流した将校は、麻酔の注射を私にしました。一分も経たずに気を失った私は、将校に犯されたんです。〜(中略)〜 一日に二〇〜三〇人もの相手をさせられました。抵抗した私に、「子宮を取ってしまうぞ!」と言って小さなナイフで切りつけてきた将校もいました。刀で刺された太股の傷痕は今も残っています。むこうずねは刀でえぐり取られました。私の体は刀傷だらけです。 「言うことは聞かない」と言って、兵隊が私の腕をねじり上げたことがあります。骨折して腕が動かなくなってしまい、二ヵ月間ぐらいギブスをして生活しました。髪をつかんで引きずられたこともありました。痛いというよりは悔しい思いだけでした。 こうしたことをされたのは、私だけではありません。私と一緒に連行された李春心という娘がいました。日本兵は彼女を犯そうとしましたが、彼女は泣き叫びながら激しく反抗しました。 すると将校は、彼女の乳首を歯で噛み切ってしまったんです。そこから血が吹き出し、彼女は気絶しました。彼女はその傷で破傷風にかかり、死んでしまったんです。子宮を蹴られて、二日後に死んだ女性もいます。 「言うことを聞かないと地下室へ入れるぞ!」
と日本兵は言い、私たちをそこへ連れて行きました。その地下室には、ここで殺された娘たちの死体が捨てられていました。腐った匂いが充満し、少しでもそれを嗅げば頭が痛くなるほどひどい所でした。 逃げようとして捕まった女性がいました。私たちが見ている前で日本兵は、皮のベルトで彼女を叩いたんです。「私たちは逃げないから、その女性をこれ以上叩かないで!」と頼みました。ですが、その女性は一週間後に亡くなり、その地下室へ捨てられたんです。このようにして殺された女性は一〇人ほどになります。 ○みな処女であり、初めてのことだから恥ずかしくて検診を拒んだのですが、軍医は「言うとおりにしなければ殺す」と脅しました。 ○私は必死で抵抗したため、日本兵は怒って私を殴ったり蹴ったりしました。そして「子宮を切り取ってやる」と言い、刀で切りつけました。私は血だらけになって気を失ってしまいました。 ○私と同じ工場からひっぱられて来た「エイコ」と呼ばれていた金徳女(キムトンニョ)は、乳首を噛み切られ、破傷風になって死んでしまいました。 ○慰安所の建物には地下室がありましたが、日本軍人は死んだ「慰安婦」を山に葬るのではなく、地下室に投げ込んでおいたのです。そして、軍人に反抗したり、逃亡しようとする女性たちを、その地下室に閉じ込めました。 「これでは自分も殺される」と思った私は逃げる決意をしました。一一月頃のある日曜日。歩哨が居眠りをしている隙に、小さな門から一人で逃げ出したんです。朝の四時でした。 八キロメートルほど行った所に「朝鮮病院」と書かれた建物がありました。私は朝鮮語の文字を少しは知っていました。それは朝鮮人が経営する個人病院でした。「助けてください。私は『慰安婦』にされていました」と言うと、医者の妻がごはんを炊き始めたんです。「食事どころではない」と思った私は食べずにいました。すると、「何とか匿ってあげるので、この病院にいなさい」と言ってくれたんです。金という名の医者は咸鏡南道出身で、三五歳くらいでした。 http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/27/ ,、- - 、 ,、- ' ´ ̄ ̄¨ `ヽ、 ,.イ´ '´ `'ヽ、 `'.ヽ、 ,、-' __ .`ヽ, ヽ, ,r' ./ `ヽ, '、 .', ', / ,' ヽ ', ', i ,'/ i '、 、 __.、. ', .'、 i .', .i i,' i i ',. '、. ' 、./ ` ヽ .', ',. i ', i l l .i. ',. ',、 ゝ、.イ .ィェセ斥ヽl i. i '、i ', .i. ',. '.マト、 、ヽ ´ 弋少 } i. i '、 '、 i.'、 ',、'、ィZハ ,'ノ .i '、 ' 、 ヽi `トゝ' . ゞ.' ´i i .i', ',', \ i l ヘ 、 ,' ,' ,'、'、 ' 、 .\ ,' i .ト 、 '‐ / ,' ,'、ゝ 、,、‐-.、 .\ / .i i ,' > - イ/ / .,'‐-‐'´ ヽ \ / .,' / .,' / ./, イi i ,' l、 \ / / / / /,イ-‐ /i i ,' .i ヽ ヽ, / / .,' / .,ィ'´ i..i .', i .i .,' .'、 .', , イ.'´ .イ/ i ,イ .i , i. '、 ゝゝ、. i ,' ', .i .i r' / / .,' V .i .ノ .'、. ゝ、 `ヽ.Y ,' ', ', .i .i l i i . i .'、 / ゝ 、`ヽ ', '、 ,' .i i ,' .i '、i ', i 'v' ', .} .,' .,' i i i ,'、' .',i .'、 .', .', ,、-‐.'´ .,イ,、' i .i i .,'/ ノ ./ '、 '、 .i i r'´ / ./ i i .i .,' ./ ./ ./ ノ' .} .,',' / i .{ .i .i i .,' ,' , イ / /(´ノ ク // {i .i i i '、 ./i i / / .{ , r ´ .イ .i ≦イ.ノ /.イ ', i '、ト、.ゝ'.」, i .// ,'.i i._ / / .i ≦,、イ ./ ゝiゝ, \ /.フ´ .' / /./ ./ .'、  ̄ 'ヽ, { { i .i / / `' .{ .,' i../ ./ `'‐-、 } '、 ', .i i /.i i / i i .i i' / / } .i `.,i i /./ i .i / ' i i i ./ / .,イ 、' 、' ./ /./ .i. i ./i ,' ii .i .i i ,' / ≦ニ,r' ./i ,'i .i .i .i/ .', / i .,' .i i i i ./ / .i .i '、i.、 i /. ', 、' i i .i i i .i .i l / ゝ ヽ./ ', / .i .i /', i '、 ', 、i、 '、 ´ ,イ/ '、 ,イ i r'´ i .,' '、',` ` ゝ ,' / ', .{, / ,イ i i,' .',i //.,' Y.i`ゝ', ,イ l ./ }.,' ,、イ . \ .f ,、 .l { .i .i ,、-‐‐‐_'_ニニニニニ=、,,,,_,,,/ /,,}__ .l ヽKi,rzク‐' ¨ ´´ .| .'、  ̄ ̄ `'`'.r 、ニミ } 'くイ i '、 i .ハ i .i i .`i i '、 // i .i i./ .i ,、- - ‐ - 、 .i '、 , - ' ´ ` .ゝ':´ ', i;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`'..,' ヽ´;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;', .i;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;i '、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;.i i;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;i '、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;i i;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;i '、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;i .i;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;i
金英淑(キム・ヨンスク) 1927.1.24、平安北道秦川郡(テチョングン)生まれ。10歳の時、地主の妾の家で奉公をする。1940年、13歳の時、日本人の巡査に「お金が稼げる仕事がある」とだまされ、中国の瀋陽にある憲兵隊専用の慰安所に入れられる。五年間後の1945年3月頃、慰安所を脱出してモンゴルに逃れる。
今は平安南道温泉郡で暮らす金英淑さんは、平安北道泰川郡で生まれた。あまりにも生活は貧しく、母親は家族を捨てて逃げ出した。父親は日本人が経営する金鉱山で働いていたが、日本人の現場監督からひどい暴行を受けて死亡。金さんと弟の二人が残された。その時一〇歳だった金さんは、地主の三番目の妾の家で働くことになった。「水瓶を割ってしまった時など激しい叱責を受けました。夜明けから夜空に星が輝くまで私の涙は乾くことがなかったんです」。
こうした苦しい生活を続けていた時に、心ひかれる話がきた。 「一三歳の時、やって来た日本人の巡査に 『ここでそんな苦労をせず、お金の稼げる所へ行こう。おいしい物を食べ、きれいな服も着られるよ』 と言われたんです。 この巡査に連れて行かれたのは瀋陽です。そこには日本兵がいっぱいいて、巡査は私を『ナカムラ』という名の将校に引き渡しました。私はだまされたんです」 「慰安所」が谷間に建っていて、高さ五メートルほどの塀で囲われていた。建物は木造平屋で、三〇ほどの部屋が通路の両側に並んでいるという構造だった。途切れることなく金さんの話は続く。 「その日の夜に私の部屋へやって来た『ナカムラ』は、私を押し倒して覆いかぶさってきました。だけど私が若すぎて欲望を満たせなかったため、私の性器をナイフで切り開いたんです。私は気を失いました」。 「 将校に殺されそうになったこともある。「カネムラ」という将校に従わなかった金さんは、 「言うことを聞かないと肝を取り出して食べるぞ」 と脅された。その言葉にひるまず将校を力一杯に突き飛ばしたところ、日本刀で胸を切りつけられたのだ。「傷を見てください!」と金さんは私に言うやいなや、チマチョゴリを脱いで上半身裸になった。 胸から腹にかけて、縦に二〇センチほどの鮮明な傷痕がある。かなり深い傷だったようだ。金さんは、全身に残る他の傷も次々と説明する。肩と尻には短刀で突き刺されたいくつもの傷痕、右足の膝には兵隊に軍靴で何度も蹴られて骨が折れた痕が残っている。 「一日に二〇〜三〇人の兵隊の相手をさせられました。妊娠したために腹を切り裂かれたり、軍犬にかまれたりして、ここの女性たちが次々と殺されて行くようすを見ました」 と金さんは叫ぶように語った。〜(中略)〜 ○彼の性欲を満たすためには私はあまりに幼かったのです。しばらくしてそれに気がついた「ナカムラ」は刀を取り出し、私の陰部に刀を差し込みました。その瞬間、私は「ぎゃあ!」と悲鳴を上げて気を失ってしまいました。
○するとその軍人はかんかんに怒り、私の髪を掴んで部屋の床に打ちつけ、靴で全身を蹴り、私の足を踏みつけました。全身にあざができて、私は気を失ってしまいました。そのとき、奴の乱暴で足の骨が折れたのですが、まともな治療も受けられなかったため元に戻らず、結局、障害者になってしまいました。 ○日本兵は、私が反抗すると「朝鮮人のくせに帝国の将校を冒涜するのか」とどなり、「日本軍人を慰安できない者は殺してもいい。私の言うことを聞かないとおまえの肝を取り出して食べてしまうぞ」と脅かしました。 ○野蛮な日本軍人は「慰安婦」たちが苦しむ姿を見て快楽を覚えたのか、「慰安婦」たちを裸にしては刀で刺したり、噛みついたり、火のついたたばこを押し付けるなど、さまざまな残虐なことをしました。 ○日本兵は「慰安婦」が妊娠すると、容赦なく殺しました。そのような女性の中に、ボンニョという女性がいました。 ある日、日本兵は「慰安婦」たちをみな庭に集合させ、みんなの見ている前でボンニョを木に吊るし、軍刀で彼女の腹を切り裂いたのです。そして、出てきた腸や胎児をめった切りにして、私たちの首に掛けたのです。 ○そうして、五年の年月が過ぎました。非人間的な虐待や病魔、栄養失調のため、初めの頃は二〇人余りいた「慰安婦」は、五年のあいだに大勢亡くなり、残ったのは数人だけでした。 この「慰安所」には、金さんが連行されて行った時には二五人の女性がいた。その中には中国人と白人が一人ずついて、他は朝鮮人だった。その鼻が高い白人とは言葉が通じなかった。この場所が中国東北地方ということを考えるとロシア人だろう。 部隊の中には何人からの朝鮮人軍属がいた。一九四五年三月、金さんはその中の金・サングクさんと死を覚悟してここを脱出。その時点で、「慰安所」で生き残っていた女性はわずか五人だった。 http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/27/ _ _ 二二二 _ ` 、 / ...::.::.::{薔}〉::.::.::.::.:..丶 \ //..::.:: -――- ::.::.:..\ \ /.::.::.::/ \::.::...\ ヽ /.::.:/ \::.::.::ヘ ' /.::./ | l | ヽ::.::.:l i |.::/ | | | l | | | l | ト::.::| イ |/l | ‖ | || | || | l l| | |l | ハr‐く | | | |_」L _| |‖ | |! | |イl 厂||_| .' |::.::.ハ | | |ノ_ヽ_l_`ハ l l jノ斗≠Tド/ |::./.::} _rく|_||リバ扞 _ヽ ヾ辷ソ / / |/.::/| イ:ノ rく::{_| ヽ、 ゞ= '  ̄ / / 〈::/ | / ::iハ \ヽト ヾミ /// 丶 ///彡イ / l l l :i l ::ヘ ヽ:: :: {` \ ー‐' イ/ /l l | |::i | ::ハ . >-ヽU l> 、 __ ´ ;′ , | ||イ‐ 、 |i :ト! :| ::ハ ,' // |! ;:::/ノイ │ |ハ| .Y| ::| | | /イ ` ー-、 , ─ | ! ;:/ │ l!ヘ | | ::!:| l |::| ∪ | :| ,' ヽヽ|7::フ/ レ7::| i| :| ,' | ::7/ | )::|、 i| :ト i ノ::// r (|::((. γ !| :|| | ソ:ノi′ / _)):)) !|; :| | ,rン'|:| l :::c ; i ::c ; | ;: | ! リ. 人.`´ 人 `´ ノ |;i;:i i' | // ` ー - ' ` ー ' |;:i;{ .i i / 丿 |;:| │ i ,/ / |;| │ `ー.'/ j | i / u | ,' . ,' / ,' . ,' 丶 ., / ,' i `. / .i i . │ .Y i │ /! ', i │ | ! ', ; ! ', ! ', ', ! ハ ! ',´ ! |',ヽ .! ./i ', { ', ヽ ! / i ',, ―――) ', v し' l______/_ノ ,r ヘヽ、,,,、_ ___ し.', ( / / 、' ゝ \,\\`i, ヽ / Y .ヘ〜弋 ト、ト、ト' \ _ ._ ,/ \_) `-' \.)'
やはり従軍慰安婦に一番近いのはこれかな:
1989年、女の子が41日間渡って監禁され、計100人ぐらい(少しでも関った人を含めて)に強姦、朝から晩まで超暴力と超陵辱された。(深く関ったのは5,6人)ヤクザ顔負けのリンチで、天井に血が飛び散っていた。 468 :名無しさん@自治スレにてローカルルール議論中:2008/12/30(火) 13:29:14 ID:ESwy0TF30
少年達は床に全裸の順子を寝かせ膣にオロナミンCの空瓶2本を突っ込んだ。 そして3キロの鉄アレイを持ち出し順子の腹の上1メートルにかざした。 少年 「ここから鉄アレイ落としたら瓶が割れて膣の中がグチャグチャだぜぇ。ヒヒヒヒヒ」 順子 「いやああああ!やめて!やめて!」 少年 「やめなああいギャハ!」
鉄アレイは順子の腹へ落ちた。2本の瓶は割れなかったが鉄アレイとぶつかる音か甲高く響いた。 少年 「おもしれえ!おもしれえよおおおお!!」
少年 「おれにもやらせて!おれにもやらせて!」 少年達は何度も鉄アレイを落とし膣から鳴る音を聞いて笑い転げた。 やがてこの方法の虐待に飽きた少年達は別の虐待を始める。
そして膣に入れた2本の瓶は忘れ去られたまま順子は絶命しコンクリート漬けにされた。 467 :名無しさん@自治スレにてローカルルール議論中:2008/12/30(火) 13:24:28 ID:ESwy0TF30 AはCとDに対し「道具を万引きして来い」と命令。CとDはホームセンターへ向かい、ペンチや鉄アレイなどを調達。 C「いいものパクってきやしたぜ」 少年達は順子の服を脱がせ、CとDが両足を押さえ、順子の股を開かせた。 Bは電気ドライバーを取り出し、コンセントに差し込む。 B「グヘへへこれを入れてやるぜ」
順子は両足をバタバタさせたが、CとDはガッチリ押さえる。
ウイーンと電気ドライバーが回転する。そして電気ドライバーは膣に入った。 順子は痛がって大暴れするが、Bは無理矢理電気ドライバーを突っ込む。 悲鳴とともに膣が血が飛び散り、順子の膣は破壊されていく。 そこにAはペンチを持ってきて、乳首をひねり潰す。
乳首からも血が飛び散り、乳首も膣も使い物にならなくなっていった。 裁判記録から一部引用
お尻の穴に花火を入れ爆発させ、膣やに直系3センチの鉄の棒を何度も強引に突っこみ、性器や尻の穴を完全に破壊 (途中、膣をタバコの灰皿代わりにされる。 重い鉄アレイを身体(裸体)を数十回にわたって殴られ、まぶたに熱いろうそくをたらされ、 ●陰毛を剃り、女性器に異物を挿入 ●ライターのオイルで皮膚を焼いた ●肛門に瓶を挿入し思いきり蹴った) 手足を縛り、 膣にマッチ棒(ライター)を入れられ、点火し、燃やされ、 膣の中や裸体をライターで火あぶり、苦しさのあまり何度も気絶する。 その恐怖や苦しみや痛みは想像を絶する! (この時ストレスと恐怖のあまり髪が全部抜け落ちていく) しかし、犯人どもは哀れみの情など一切見せず、引き続き、陵辱、暴行を行う 大勢の男にかなり大量の精液を飲まされ(フェラチオで)、 500ccの尿を飲まされた。 ゴキブリも食わされたそうである。 また女の子の悲鳴や激しいリンチの音は監禁されている部屋の中で音楽をボリュームいっぱいで流しているため、外に届かない。 恐ろしい事に、監禁されていることを知ってた人は計100以上いるが、誰も通報しない。 (死体が発見されるまで)そして最後はひどく殴られ失禁して)死んだ。 (殺された)死体の顔は目の位置がわからないほど、変形し、親でも誰かわからず、原型をとどめてないほどで、性器のほうは顔よりもっとひどく完全に破壊されていた。 死体には髪がなくなっていた。 死体の陰部にはオロナミンC2本、入っていた。 なお、死体は手足を縛られた状態であった。 {} }{,r=┐ {i,ァ'r─-、 l}{l ,:rー' ゙| ,r'~[::][::]、/ / ノト-、ソ ,.ヘ, / ,,f::'丿 l /ソi | / _,. -,ト! { |'"r'´ i.| /,r‐'" _,,_ ! 'i `ー-' } / `ヽヾ, ~ヽハ ヽ :., ヽ i、 冫゙゙ ゙ヽ \ ':, ヽ \ (,~( i ゝ ,,、、、;ヽ \ `、\ \、'゙ゞ;f´~ ,,rt‐_、\ ゙:、. ヽ、 ヽ、 ゙ソ " ̄ ゚´ ヽ ヽヾ、、.゙ゝ ヽ ヽ-‐、 イ ヽ }、゙ ノ \しノ _,/=; ハ ゞ=‐' 丿o∞゚o、 ヾ|ソ´ ,r=:;_;;:===ヾ ! ,.r'´ 、 r'~ ヾ、 / c'; i' 、C; i!、 / ! 、 ill;ヽ/ ヽ、 ゝ、 ,;ソヾ/ 冫''"~"''-===彳 / _,.., ,. -‐- 、 / ,r' /  ̄ `'、 / / 丿 ゙'L / ノ _;{ / ,. -''"ヽ、 ] ,.ノ;; ,,;;''ヘ, ,/ ,r'゙ ) { _, .-‐'" ;;;;i ,,;;''" i,,,ノ /,. -、 ,r'. i _, -‐' ;;;! ,;;''"゙´ l‐_,イ´:::::::::::':,( ゝ _-‐ヾ. ;;lλ _;;''" |::::::::::::::::::::::::::ノ ,「 ,. ‐'"`ヾ::ヽ __,,,,.... -‐'''":::ソ !:::::::::::::::::::::::::::ゝ_人'ゾL,ノ _,,r',,,...--‐‐''''":::::::::::::::::::::::/ ノ:::::::::::::::::::::::::::::::::':, ∧:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/_ /::r' ̄ ̄ヽ ー-‐'"ソ、 / ':,:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::,'::::::::::ヽ、 /::丿 ゙,r') / '、:::::::::::::::::::::::::::::::::::::/~゙゙~'ヾ:::::`ヽ、 ,;ノr'´ _ ヽソ. / '、:::::::::::::::::::::::::::::::/ ゙ヾ:::::ヽ;/'´ _,‐''"  ̄`~「´| / '、:::::::::::::::::::::::::::/ `'::::;;;;ヽ、 / | || | | | '‐-==._'、::::::::::::::::::::::::i' ,,へ:;;::ヽ,/ | || | | | | || ~゙''゙' T' ̄ ̄ ̄} ,ノ` ヾ::丿 | || | | | | || | | | '、 ~ _,/~~ | || | | | | || | | | ゙:、 _,.: ''" | | | | || | | | ~゙'ーー‐'''" | | |
◆陰毛を剃り、陰部にマッチの軸木を挿入して火をつける。
◆ゴキブリを食べさせる。 ◆性器や肛門に鉄棒、ビンなどを挿入。 ◆性器や肛門に入れたビンに釘を打ち肛門内、性器内で割った。 ◆両鼓膜が激しく傷ついており、最後のほうはほとんど音が聞こえていなかった。 ◆小指の生爪を剥がす ◆左乳首はペンチのようなもので潰す。 ◆顔面に蝋を垂らして顔一面を蝋で覆いつくし、両眼瞼に火のついたままの短くなった蝋燭を立てる。 ◆衰弱して自力で階下の便所へ行くこともできず飲料パックにした尿をストローで飲ませる。 ◆鼻口部から出血し、崩れた火傷の傷から血膿が出、室内に飛び散るなど凄惨な状況となった。 ◆素手では、血で手が汚れると考え、ビニール袋で拳を覆い、腹部、肩などを力まかせに数十回強打。 ◆1.74kgのキックボクシング練習器で、ゴルフスイングの要領で力まかせに多数回殴打。 ◆ダンベルを1メートル以上の高さから腹部に向けて落とす。 ◆揮発性の高いジッポオイルなどを太腿部等に注ぎ、ライターで火を点ける。 ◆あまりの恐怖に脳が縮小していた。 ◆最初は手で火を消そうとするしぐさをしたものの、 やがて、ほとんど反応を示すこともなくなり、ぐったりとして横臥したままになった。 ◆遺体の乳房には20本位の裁縫針が入っていた。 ◆歯茎にまともに付いている歯は一本もなかった。 ◆あまりのストレスに生前頭髪が抜け落ちていた。 ___ ,. (///>――‐- `ヾ、 ,.(///// ( ) ( ),、 _ , - 、-,く/////// _ ノ/ ノ ヽ ヽゝ∧ヽ 、 /´ .,イ i´、////,\/j γ⌒ヘ∧ \ i´j | \/////! γ⌒ヽ 弋_ノ!/∧ ヘ |./ { ∨///l 弋_ノ " ..゙ ∨ヽ! .ヘ " ヘ r−、/| イ iヽ ! \ ヘ .j i i | .|'/! `ー三‐' !,'ヽ ` \ ヽ/ !/∧ j/j i\ ヽ ' |'//∧ l// | \ ∧////ヽ /ノ ヽ j'///////\ // ///////////> 、___ ,. (/ヽ、 .///////////////´::::::::::`ヽ ´ `ヽ 、 i ` 'ー- ZZ////j::::::::::::::::::::::::::ヘ ∨ / | ̄'T|:::::::::::::::::::::::::::::::\ ヽ ./ ! |/!::::::::::::::::::::::::::::::::::\ \ ! .l l'∧::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\ \ | ヽ ∨ヘ:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\ \ | \∨!\:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\ .\ | ヽ" .\::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ 初期
・強姦に加わった人間は100人超。強姦回数は400回を越える。 ・全ての強姦が生。中出しに飽きると口内発射、顔面発射でフィニッシュ。 ・過度の強姦で失神した場合は水をぶっかけ、息を吹き返させる。 中期以降
・膣にシンナーを入れ、キュウリやニンジンを出し入れする。 ・肛門で爆竹や花火をして遊ぶ。 ・床に複数のガビョウを置いて、その上に背負い投げやパワーボムで投げる。 ・膣にオロナミンCのビンを入れる。破壊した肛門にもオロナミンCを入れる。 ・膣に入ったオロナミンCの上に鉄アレイを何度も落とし、音を楽しむ。 ・音楽に合わせてストリップショーをやらせる。 ・ゴキブリ、ウンコを食べさせ、尿を飲ませる。 ・体にオイルをまき、ライターで火をつけヤケドさせる。 ・ヤケドでかぶれた肌を更に焼いたり、蹴ったりする。 ・真冬に裸でベランダに出す。 ・焼き鳥の串を肛門や膣に入れる。 ・仰向けに寝かせて口の中に鎌や木刀を入れて顔を変形させる。 ・裸にして竹刀や鉄の棒で毎日殴る。床に寝かせて竹刀をノドに押し付ける。 ・膣を灰皿代わりにしてタバコを吸う。 ・タバコの吸殻も膣に入れる。 ・ハサミで膣に傷つけ大流血させる。 ・乳房と乳首にマチ針を刺し、上から蹴りを入れる。 ・乳首をペンチで潰す。 遺体の状況 ・肛門と膣の中にはオロナミンCが入っていた。鉄アレイで割られた破片もあり。 ・顔面は殴られた傷や腫れで識別は全くつかない状態。 ・体中がヤケドとアザだらけで髪の毛はなかった。 ・性器と肛門は完全に破壊。 現場検証の際、床、壁のみならず、天井にまで血が飛び散っていた。目鼻口の位置が判らぬほど膨れ腫上り、御両親でさえ判別しがたいほどに変わり果てていた。解剖の結果 頬骨・顎の骨が砕ける
ほぼ失明状態 片目においては完全失明 鼓膜が破損し、聴覚不機能 歯茎に付いている歯が一本もない 子宮・肛門は最も損傷が酷く、他の人体部より激しく腐敗、 文字通り完全に破壊され双方の壁は引き裂け、区別が無くなり、中にはタバコの吸殻、花火、瓶2本 頭髪は過度の恐怖により抜け落ちていた 脳が縮小していた(あまりの辛さに耐え切れず、脳自身が死を選択・命令する現象) 彼女が最後に言った言葉は「助けて下さい」ではなく「もう殺して下さい」であった ヽ / /,..-、 ヽ _ _ _ _,, -===-tz、≦ニニ爻、 彡==─.-─-_ - '' ¨  ̄ : : :::::::::-くυj くニニニニ=‐゙ー" -─-、彡'"´ ‥ ''' ¨ ''__ - : : :::::::::::::lj从 ヽニ/´ _ -‐ _.. ¨ ´ : : : :::::::7Yr::ijト::...` .、 : : ::::::ιイj::. ゙ , ´. . : : : : : :::::冫=彡:::::::: : : 丶 : : : :::::::。::::. / . : : :/,、j::/j´lj::::::::::::: : : : \ : : : : : :‘, . /. . : ι: : :J::::::::::::::::::: : : ヽ u ', ,' , : : : : : : : : : : ‘, , . l , l ./ ノl ヽヽ .゚, , l /ハヽ ヽ/ い ., i . l J U ´ i l / j l , 、 ,' ,' ヽ ヘ / イ /} ヽ , イ イ/ ヽ、 ` - ,,_ イ_ _ ,,.. ´ _,, イ/ ヾミ .,,_ ` - _ _ - ´  ̄  ̄ _,, -(> ´ `( ¨'' - ,,_'' - ,, __ ,, -‐ '' _,, -‐≦ _,, - ''.´ ` ''' ‐-=二 ̄二ニ===─────----───====ニ二 ̄ ニ= '' .¨´  ̄ ¨''' ── '' ¨  ̄ 825 名前:可愛い奥様 [2007/07/09(月) 00:04:36 ID:YEn3APa60]
乳に針二十本くらい入ってた、は2ちゃんで最近知ったが どれほど恐ろしいことをやらかしてくれたのかと唖然としたよ。 782 :可愛い奥様 :04/07/30 12:11 ID:jzYoiJZc 他板で、裁判で提出される陳述書(?というのかな、犯行の内容が記載され読み上げられるもの)の内容が当時、関係者の判断で大幅削除されていたという情報有り。 真偽のほどは分からないけど色々な板&スレッドに張り巡らされた、少女に対して行われた犯行を列記したコピペがあったでしょう。 あれ以上の凄惨なことが、山ほど行われていたらしい。 それを裁判ですっかり読み上げてしまうと、社会的に重大な影響があるとして削除した模様。 あれ以上って・・・ 何? 787 :可愛い奥様 :04/07/30 12:45 ID:lKdghwk/
いくらでも思いつくよ。 お尻にウイスキービンを突っ込んだとか(あまり書いてないけどこれは本当) 栗タンをハサミでちょん切ったとかビラビラを噛み切ったとか 指を包丁で落としたとか、 目にロウソクをたらすとか、ボールペンを突き刺すとか 乳首をかみそりで落とすとか 体中を小刀で(死なない程度に)サクサク刺すとか 歯をひっこ抜くとか 膣に手を突っ込んで子宮口をこじ開けるとか これって蛆がわいたとかのグロ系漫画ではよく書かれてること。 あいつらなら実際にやりかねんよ。
788 :787 :04/07/30 12:47 ID:lKdghwk/
つーかなにをしても良い 生餌が手に入ったなら787に書いたようなことをしない、と考えるのは変。 やってるだろう、って思うのが(グロマニアの)普通だ。 ただしあまり血が出るようなことはしていないはずだから(血の始末が大変なのと直ぐ死んじゃうから)四肢の切断は無かったと思う。 789 :可愛い奥様 :04/07/30 12:54 ID:s2tiwsxN (BR>>787
担当した検察官のインタビューによれば、事件の全貌は余りにもムゴすぎてその真実をすべて論告に記載することは社会的影響力が強すぎるため内部でもかなり揉め、かなりの部分を削除したらしい。 裁判資料をみれば判るが時系列に分析しても所々抜け落ちている期間や状況がある。 で、少年裁判であるということもあり、この内容でも十分に極刑で戦えるだろうという所まで削ってあるとの事。 解剖医学の人間も同様にコメントしており、裁判資料に書かれた発見時の少女の状況から推測すれば論告に書かれている以上の拷問を受けていたと考えられる、との事。 …相当酷い事してるのは確か。 そもそもタバコの火を押し付けた火傷が化膿して、腐敗臭が酷かったから少年達が辟易して強姦がおさまった(立たなくなった?)らしいし。 その後は暴行だけになったって陳述されてる。 http://2ch-library.com/news/concrete/ms/1089851471.html ・順子さんはフェ〇チオ行為に最適な様に前歯を全部抜かれていた http://yomi.mobi/read.cgi/human7/human7_ms_1173571086/633 43 名前:マッチョ [2006/12/21(木) 02:34:00 ID:h2T1I9iXO] >>13 歯茎の感触の為に、全部ぬかれるんだよな… ひでぇ話だ 55 名前:ビッチ [2006/12/21(木) 02:47:24 ID:KbX735R+0] 歯茎フェラは最高らしい。 やくざの貢物女がされるとか聞いたことある。 http://yomi.mobi/read.cgi/anime/anime_news_1166634573 ,. -―._====>ミ'ヽ、 ,.ィ,. -‐''二 ̄ ___ `゙'( //x‐''"´ ァ‐''"´_二ニ-――=-ミ、 /':/,.ィ´ / >'"/ _ / / イ////,.イ ,.-‐ァ'"´ ̄,.ィ"´ ̄ _z=/ :////=,/ // ̄/フTメ==、_,.イ´ _,. -‐ // Y /// /-ノ とテ斧ミメx、 `Х ,.ィ''"´ レ'/ Y :/ /イ:/´。``':ミテメミト/ / u ,.ィ /´/ノ:/, ' .l{ :::::::::::ヾ(゙/// ,.l / _ /// 、_リ :::::::::::::::.... /,.ィ! ,. -‐''"´ ``ヽ /(ノ7 ,; :::::::::::.. / xく l!ノ ,. '" \ ,.-‐=ァ==ァ':l/'. __ 、 ::::::::::o'´xェ;-‐''" l!/ ,,. '" _,. Y ./ ,.ィ/.とノ ヾヽ.ヽ ::::::::::ヾヾミメ,_,.ノl!_ ,. '" u / ヽ、( {:l/ ./l 、 ヾ,、} ::::::::::::.Yi芽.l-‐| ,. '" _,.っ,,.__o゚ノ ヽ`゙'ー--‐'".:::::l ノ' ::::::::ノ'"}lメ! ,レ ,. ,. -‐''"´ -::r=:、:.、 ``丶、 u ヽ. / .:::::::l、 ι´´ _ ::::U '゙’-ィ-/ ,. ' イ /::::::::::゙'':´::::::::.. ヽ./ ..:::::::::>:..、 ´u (( ̄``ヽ=ァニ二イ/,ィ '"/ : : :: : : : : : : : : : `゙' ァ,.、 _ ゞ_,.-‐'ア´__ノ__ノ ノ / /´// / ̄/ / / ̄(/ // ´``ヽ、 l、:l l / / / // //_/// , _,.:== _____ __ `丶 \l l :/ / // /// / /,.イ / ι u'´ (ノ ̄ ̄フ‐'"´ ̄  ̄``丶 、゙ ‐- l.,l_l //l { / / l !( u ,. ィ''´ `丶、 `ヽ、Y :l l iヾ / ι ヽ、 ヾ、 l ! !〃 , ' u ....-\: ヽl / / l 、ij ι / ..:::::::::::::ヽ_j./ / l ::::ヽ、 ,..::::: :::::::ヽ:(;;;':)/ / ::::::::::\ ...::::::::::: ...:::::::::::゙'´:! /
94名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/03(月)16:19:47 ID:cdN0qNtO この事件、昔の知り合いが見てたらしい。 彼の方から話切り出してきたんだが、綾瀬だし、おそらくこの事件で間違いない。 彼が見たときは、プロレスごっこやってたらしい。犯人たちって格闘技が結構好きだったこともあるんだろうな。と言っても、女一人だから話にならなかったとは思うが。 ただ普通の技だけじゃなくて、がびょうや釘を床に置いて、合体パワーボムとか、背負い投げやってたって言うのが恐ろしかった(しかも上半身は裸)これって想像しただけでヤヴァイ。がびょうだぞ。 ハサミやドライバーで額を連打して流血させたとも言ってた。 ネタだと思ってたんだが、これって実話だったんかよ。 その後、女は死んだとか言ってたし。 ちなみに彼はレフェリーやっててふざけてカウント数えたりしただけだからパクられずに済んだとの話。 702 :可愛い奥様 :04/07/29 17:23 ID:+n16jRAd
確か肛門に花火入れられて火つけられて学園天国の曲に合わせて踊らせたんだよね。 本当鬼畜以外に言葉が見つからない。 213 名前:可愛い奥様 [2007/04/21(土) 19:36:52 ID:ZqugGkGj0]
被害者の遺体が性器にビンが二本刺さったままだったって話を読んで あいつら生前の彼女の性器にロケット花火仕込んで爆発させたから括約筋が完全になくなって腸液が垂れるのをビンに入れようと思ったんだなと。 彼女の膿の臭いを嫌がり部屋にいつかなくなったといってたけど本当は膿の臭いより、尿や便の臭いが嫌だったんだなと・・・。 r-- 、_ ,....::::´:::、,:::::::::::`丶、 _,..イ// }_ ,-:.∨/////>::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\/////_::. ./::::::::}////:::::,:::::::::::::::ハ::::::::::::::::::::ヽ\//-、>:. ,:::(_,/∨/::::::/::::::::{:/ }:::ト、::::::::::ヽ::ヽY_\::: ::::::::/ //::::,:':::::::::::/:! |:iム \:::::::ム::Y:::::::::: :::::/イ:,{::::/::::::::::,イ i:! !:!ヾ、 \::::::ム::ヽ:::::::: :::/:::::/|::/::::::::::/ |_.リ_,.、, |! 、._ マ:::::}、::ム:::::: :/::::::{ W::::::::/ ̄_ _` マ::|/|マ}::::: {::::::::| |::::イ:/ ,ィみ_ ィみ_} }::{ !:::::::: |::::::::| Y:|::ハ 弋zソ 弋zソ /!リ {::::::::: {::::::::| リ {::トム //// , //// ,'-/ |:::::_:: |::::::::} |:| 八 ,...., ,ィ r‐-'-`ヽ_}: |::::::::| リ! ,->_, _ イ _/,マ \ |::::::::j ____/ - / | ` ¨ ´|_>,r_,.イ/ :::::::/-゚-'´/ /´ __ __,. /_ノヽ、__, ::::/ ヽ { { ` ´ 、} , -- } :イ Y } _ ヽ、l:! | /l {__,..イ::|ヽ .:r;:. `ヽ .:rォ, { :/ !::! \ `´ ` {∧ |:.| \ l } / j!:.! / / | ヽ /{ /l::j / / ハ ヽ / |/ l/ イ // }! / / / / / /´ / / /イ ,ハ { ./ / /ハo/ ヽ ,{ 、_,.// ,/ ∨ ‘, {!i / / / { } ∨ 慰安婦強制連行を証言する吉田清治 http://www.youtube.com/watch?v=yBOJT-N0GWI 吉田清治は、一時、右翼や旧軍人からの脅しやいやがらせで、知人宅に身を寄せたこともあったと言う。 「私がこれ以上言うと、元慰安婦や家族の方に迷惑がかかる。 デッチ上げといわれても構いません。私の役目はもう終わったのですから」 http://www.tamanegiya.com/yosidaseiji.html
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