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悪質な嘘は止めようね _ 吉田清治証言は虚構じゃない
http://www.asyura2.com/09/asia13/msg/822.html
投稿者 中川隆 日時 2011 年 12 月 18 日 16:54:48: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: 慰安婦問題解決なければ日本にとって負担=李大統領(ヨンハプ)米属人が在日に参政権よこせ世界の多くがしてるとほざいてる件 投稿者 木卯正一 日時 2011 年 12 月 18 日 02:12:30)

そもそも従軍慰安婦は13才、14才から慰安所で働き始めている。

18才以下の売春婦は法的に認可されていないから、例え本人や親が承諾していたとしても悪質な法律違反になる。 従って、従軍慰安婦は売春婦ではあり得ない。


従軍慰安婦が売春婦だという奴らの唯一の論拠になっているのが詐欺師 秦郁彦の本

吉田清治を「詐欺師」扱いする本物の詐欺師 秦郁彦


産経グループのプロパガンダには、「嘘も百回つけば真実に成る」式の、学問的裏付のない特定の“似非事実”をたらい回ししながら既成事実化し、社会に拡散させていく特定のパターンがある。

古森氏は、「『吉田証言』は歴史家の秦郁彦氏らの調査などで虚構だったことが立証された」とするが、真っ赤な嘘である。

 韓国語も理解できない秦氏の「現地調査」は学術的調査とは程遠いもので、
一個人の独断の域を出るものではない。

 従軍慰安婦の存在を証明する資料は少なくないが、その中でも、吉田証言が
旧日本軍人として従軍慰安婦について明らかにした貴重な資料であることは現在も変わらない。

 吉田氏は、「太平洋戦争当時、国民総動員令を執行する労務報国会の山口県
動員部長として朝鮮人6000人を強制連行し、その中には慰安婦の女性も多かった」、

「昭和18年に軍の命令で、済州島で女性200人以上を挺身隊として強制連行し、慰安婦にした」などと1983年に出した著書「私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録」などで体験談を語った。

 日本のメディアも吉田証言を「昭和十八・十九の二年間で千人以上」
(赤旗1992年1月26日)「吉田さんらが連行した女性は少なくみても
九百五十人」(朝日新聞1992年1月23日夕刊)と報じ、従軍慰安婦の存在が世に知られるところとなった。

 それは日本政府を動かし、1993年8月、河野洋平官房長官は、1年8ヶ月の調査を経て「慰安所の設置は軍当局の要請によるものであり、募集は軍の要請を受けた業者が主に行なったが、甘言・強圧による事例が多く、更には官憲等が直接これに加担したこともあった」として、公式に謝罪を表明した。


そうした動きに反発したのが、産経新聞などの右派メディアであった。

 産経新聞などの常連寄稿家である秦郁彦氏は、河野談話が出される前の1992年3月29日に済州島に渡り、吉田証言を「実地検証」をしたという。
 しかし、その内容たるや、康大元なる「海女研究家」を通訳に立て、「城山浦の老人クラブ、貝ボタン工場の元組合員など五人の老人と話し合って、吉田証言が虚構らしいことを確認」という程度のことでしかない。

 「実地検証」と言うにはあまりにお粗末な代物だが、敵意や憎悪を煽って矛先を変えるプロパガンダの要諦だけは心得ているようだ。

 済州新聞(1989年8月14日)に「(吉田証言の)慰安婦狩りの話を
裏ずづけ証言する人はほとんどいない」と書いた許栄善記者を利用することを
思いつく。そうして、「『なんでこんな作り話を書くのでしょうか』と、今は
『済州新聞』の文化部長に移っている許栄善女史から聞かれ、私も答えに窮したが、『有名な南京虐殺事件でも、この種の詐欺師が何人か現れました。彼らは土下座してザンゲするくせがあります』と答えるのが精一杯だった」と、自著「昭和史の謎を追う」、「慰安婦と戦場の性」などで臆面もなく披瀝している。

 ろくな調査もせず、人の話をだしにしながら吉田氏を「詐欺師」扱いする傲慢無礼な論法は、学者らしからぬ。曲学阿世の輩、というべきであろう。
 案の定、秦氏は学会などで「秦氏の乱暴な引用の仕方が史実を歪曲している」 としばしば批判されている。

「現地調査」とは名ばかりの粗悪品が「立証」などともてはやされるのは、右派保守陣営のニーズに合致したからで、実際、秦氏は復古主義者のデマゴーグとしての役割を担ってきた。


秦氏らのデマゴーグとしての本性を端的に示すのは、当初は慰安婦の存在を無視し、そのうちに慰安婦らが勇気を奮って名乗り出ると、今度は「戦時売春婦だ」と言い換え、詭弁を弄したことである。

 「軍は戦地での強姦事件を防ぐために、公娼業者に開業させていた。業者の指名、戦地への移動、営業状態の監督などはしたが、直接的な強制はしていない。当時は公娼制度は合法であった」が秦氏らのロジックだが、それによると、「ナチスの蛮行も合法であった」ということになる。

 秦氏らの詭弁は、「従軍慰安婦は朝日新聞の造語だ」と言葉の問題にすり替え、その存在を否定していることにも現れている。
 厩の王子を聖徳太子とするなど過去の現象を後世の言葉で表現することは歴史ではしばしば用いられることで、実体が問題であることは言うまでもない。

 吉田氏のような良心に基づく内部告発者を「詐欺師」と罵倒し、被害者である従軍慰安婦の声をことさら無視するのは、その姿勢が、加害者である旧日本軍の側に偏っているからではないか。
http://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/18007158.html


済州島の人が慰安婦狩りを否定した理由

慰安婦を韓国で実際に強制連行したという当事者も名乗り出まし
た。当時、山口県の労務報国会で動員部長をしていた吉田清治さんです。
   吉田さんは1942年から終戦までの3年間に、陸軍西部軍司令部など
の指示に従い女性千人を含む朝鮮人6千人を強制連行したそうです。
   その中でも特にひどかったのは従軍慰安婦にされた女性たちの連行方法
で「4、5日から一週間で若い女性50人を調達しなければならなかったので 警察や軍を使って乳飲み子のいる若い母親にまで襲いかかり、奴隷狩りそのものだった」と吉田さんは語っています(北海道新聞、92.2.25)。

動員部長である吉田さんの弁によれば、吉田さんは済州島の各地で
強制連行をしたそうです。その証言に登場した城山の貝殻ボタン工場跡をテレ
ビ朝日が実際に取材しました。その報告はTV番組「ザ・スクープ、従軍慰安
婦Part2、戦争47年目の真実」(1992年)で放送されました。

   番組では、女性アナの田丸美寿々さんが現地で二人にインタビューしま
した。一人は城山の長老の洪さんです。田丸さんの質問「この工場から徴用さ
れた慰安婦がいるか」に対し、洪さんは

  「いないよ。いない。この辺にはいないよ。もしいたとすればよそから来た人だよ。何十人か連れていかれたという話もあるけれど、それは済州島の人
間じゃないよ」


と微妙な返答をしました。つまり、済州島の人間は連れていかれたことはない
が、よそから来た人は何十人か連れていかれたという話をきいていると、肯定
とも否定ともとれる返答をしました。

もう一人インタビューに応じた地元の女流作家、韓林花さんは番組でこ
う語っていました。

  「(地元の人は)みんな知らないふりをしている。口にしないようにして
いる問題なんです。日本に女まで供出したことを認めたくないという民族的自
尊心と、女は純潔性を何よりも最優先にするものだという民族的感情のせいな
のです」

この二人の話をつなぎ合わせると、番組のニュアンスは「強制連行」は
あったかも知れないという印象でした。

   韓国では身内や一族から「従軍慰安婦」を出したとあっては大変な恥で
す。こうした精神的風土から戦後、多くの「従軍慰安婦」の女性たちは故郷に
戻れませんでした。その上、自分が「従軍慰安婦」であった事実をひた隠しに
して生きざるを得ませんでした。

   そのあたりの事情をテレビ朝日は1991年に放送したTV番組「ザス
クープ・追跡朝鮮人慰安婦、知られざる真実」で紹介していました。その時の
番組では、「従軍慰安婦」を多く出したとされる全羅南道のある市場で、妹を
連行された女性と周辺の人を取材しました。そのやりとりを記します。

アナ「(この辺で)女の人が狩り出された話を知っていますか?」
男性「(横にいる)ハルモニの妹が連れて行かれた」


アナ「どういう風に連れて行かれたのですか?」
男性「強制的にだよ・・・ここは儒教社会だから体面があってあまり話せない
   んだよ。自分の家から女子挺身隊を出したとなると、他の者の結婚にも
   さしつかえる・・・結婚してたら連れて行かれないというので、12か
   ら14歳くらいでみんな結婚させたんだよ。連れて行かれたらもう消息
   が途絶えちゃうんだ。行方不明の人多いよ」

アナ「おばあさんはそれから妹さんに会いましたか?」
ハンメ「会っていない。行方不明だよ。生きているのか死んでいるのかわからない」
(注)ハンメ、ハルモニ=おばあちゃん、おばあさん

さて、吉田証言にもどりますが、地元の新聞「済州島新聞」は強制連行
の事実を否定した記事をわざわざ載せたそうです(未確認)。これは韓林花さ
んのいう「民族的感情」を裏付けているのかも知れません。

一方、吉田さんを「職業的詐話師」と酷評している人もいます。千葉大
学の秦郁彦教授はクマラスワミさんにそのように非難したという記事が週刊新
潮(96.5.2)に掲載されたそうです。(未確認)

   吉田さんは、独立紀念館の近くにある韓国最大の集団墓地「望郷の丘」
に自費で「謝罪の碑」を建てました。これに対し秦教授は今度は「職業的演技
者」とでも呼ぶのでしょうか?
http://www.han.org/a/half-moon/hm012.html#No.117


秦郁彦『慰安婦と戦場の性』批判

この著者は時々、まともな仕事もするのですが、しばしば人が変わったように、ずさんな仕事、あるいは人を誹謗中傷するような、因縁をつけるようなこともやります。この本は、ずさんな仕事の代表的なケースでしょう。

この小文でも紹介したような、写真や図表の無断盗用、資料の書換え・誤読・引用ミス、資料の混同、意味を捻じ曲げる恣意的な引用・抜粋などの例をリストアップしてみたのですが、膨大な量になりあきれてしまいました。どこかで公表しようかとも考えたこともありましたが、バカらしくなってやめました。それにしても人に対してはさんざん因縁をつけながら、自分の間違いを指摘されても無視して開き直るのには、驚くばかりです。

なお前田朗さんがこの本の「図版盗用」「写真盗用」「伝聞・憶測・捏造」などの問題点を詳細に批判されていますので御参照ください
(『季刊戦争責任研究』第27号、2000年3月、『マスコミ市民』370号、1999年10月、に掲載された前田論文参照)。 2002.12.17

資料の扱いもずさんさである。たとえば、一九三八年に内務省が陸軍からの依頼をうけて慰安婦の徴集の便宜を図った資料がある。この本では内務省警保局の課長が局長に出した伺い書が、内務省から各地方庁への「指示」に化けている。
さらに五府県に慰安婦の数を割当てているが、その人数がでたらめで、資料では合計が四〇〇人になるのに、氏の数字では六五〇人とされてしまっている。

引用も言葉を勝手に変えたり、付け加えたり、およそ研究者の仕事とは思えない(五六頁)。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper44.htm

秦郁彦は研究者でも学者でもない。 唯の詐欺師


『諸君!』2002年2月号秦郁彦氏の文章を嗤う


「ペリーの白旗書簡は明白な偽文書である」(『UP』2001年8月号)
 「極めて興味深い偽文書」(『歴史評論』2001年10月号)

 「Problematic Account in a Japanese History Textbook based on an Alleged Letter by Perry」(『歴史学研究』2001年10月号)

 『諸君!』に掲載された秦氏の文章は、上記の宮地氏の論考に対する「批判」を意図したものである。

宮地氏の論文の内容にかかわる批判は、いずれ宮地氏自身からなされるであろうから、深くは立ち入らないが、秦稿の中には、秦氏の研究者としての基礎的能力を疑わせる部分があるので、五点ほど指摘しておきたい。なお、秦稿からの引用文中にある[ ]内の部分は、筆者のつけた説明注である。
 
その1 
 秦稿112ページに次のような部分がある。

 松本(健一)、三輪(公忠)の両氏はいずれも右の著書(『白旗伝説』・『隠されたペリーの「白旗」』)で出典は、前記の『幕末外国関係文書之一』(東大史料編さん所)という公文書であると明記し、宮地氏もそう書いているので、この点についての争いはありえないはずだ。そうだとすれば、宮地氏は所属し、所管する機関の発行した公文書が偽文書であるゆえんを、「中学生にもわかる」ように立証する義務がある。

 まったく驚いたものである。『幕末外国関係文書』が公文書であるとは、およそ歴史の研究者の言葉とは思われない発言である。「公文書」とは公的機関が、その機関自身の意志を伝達、もしくは記録しておくために作成した書類のことである。『幕末外国関係文書』というのは、幕末の対外関係に関するさまざま史料を、東京大学史料編纂所が集成して刊行した史料集であって、刊行は明治43年に開始され、現在もなお継続中である。その中には幕府が発給したまさに公文書も掲載されていれば、個人の私的な日記でも、対外関係に関する記事があればそこの部分が掲載されている。当然、そこに掲載された史料だからといって、すべてがその時代の事実関係を誤りなく表現しているとは限らない。掲載されている史料をどこまで信用し、どこから疑ってかかるか、という点にこそ研究の研究たるゆえんがある。研究者の力量は、まさにそこでこそ試されている。史料集をさして公文書といい、公文書に書かれているのだから間違っているはずがない、などというのは、まともに歴史学を研究した経験のある人の言葉とは思われない。要するに、秦氏は史料集というものの性格がわかってないのである。
223投稿者:詐欺師_秦郁彦の流した害毒  投稿日:2007年05月05日(土) 10時07分17秒


その3
 秦稿118ページに次のようにある。

 宮地氏は各地に伝わっている風説書を列挙し、史料一一九[『幕末外国関係文書』巻1所収119号文書を指す]に似ているが変造したものが少なくないことから、そう[白旗関連の情報はすべて風説書にのみ現れると]推測しているようだが、逆もまた成り立つのではないか。つまり老中や海防掛を仰せつかった水戸斉昭などの高官を除き内密にされた白旗書簡が少しずつ洩れ、脚色されていったとも考えられるのである。

 それに斉昭が嘉永六年七月十日付で幕府へ提出した「海防愚存」という意見書にも白旗の話題が出てくるが、これまた風説書として片づけるわけにはいくまい。

 宮地氏は「海防愚存」については公式の幕政史料として分析し、「白旗書簡」実在論者たちの行った史料読解の誤りを指摘している(歴評論文,114頁)。すなわち、「海防愚存」に出てくる「白旗」とは、『新しい歴史教科書』に書かれているような性格のものではなく、ペリーたち自身に武力行使の意志がないことを表明するためのものだったというのである。「海防愚存」を白旗実在の証拠としようとするのならば、宮地氏のこの指摘に反論しなければならない。また、「強硬派の斉昭であれば、あらゆるところで利用して然るべきこの白旗書簡に、いかなるところでも全然言及していないのである」と、そもそも斉昭の政治的立場からして、仮にそのような事実があったとするならば本「書簡」の内容が「内密にされ」るべき必然性がないことも宮地氏は明確にしている。

つまり、秦氏は宮地論文の主張を正しく読みとることができていないのである。史料どころか、現代文を読解する能力にも欠けているようである。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/rekiken/archives/ebara_2002.html

従軍慰安婦が売春婦だという奴らの唯一の論拠になっているのがこの詐欺師 秦郁彦の本なんだからね.

こいつらに頭はあるのかな?

要するに、自分が慰安婦だった事がばれると親族一同村八分にされて生きていけなくなるから、真実を言う訳にはいかないのさ。

吉田さんは優しいから、そういう事情を酌んで、あえて自分の真実の発言を自ら否定せざるを得なくなったんだ。

これが売春婦に対する待遇?


日本軍「慰安婦」生活を強要されたキム・デイル女性の証言を聞いてみよう。

 「平壌が故郷だという、“ハナコ”と呼ばれた女子が妊娠したが、田中は酒をひどく飲んで入ってきて、彼女を倒して容赦なく腹を蹴り飛ばし、次に彼女の腹から胎児を取り出して投げ飛ばした。

 そして、朝鮮女性をみな集めてからそのはらわたを刃先で引き出して「慰安婦」の首にかけ、部屋の床の血をなめろと言った。

この時、多くの女子は気絶し、心臓が破裂して死んだ女子もいた。

 ある日、田中は大きい犬一匹を引いて入ってきて、犬に

「俺もしたから、お前もやれ」

とそそのかし、私に×××させた。

私が気を失って倒れると、冷水を浴びせて狂ったように襲いかかり、獣欲を満たした。

 さらに奴らは麻薬を吸わせた後、タバコにガソリンをつけて口や鼻、子宮に突っ込み、火をつけて火傷させた」

 日本兵は、ある「慰安婦」少女が必死に反抗したため、5匹の馬に彼女の腕と脚と首をくくり、引きちぎって殺したという。

かと思えば、ある女性が自分たちの要求に応じないため、「乞食」に「しつけ」をしてやるといい、彼女を木に逆さにぶら下げ、無理矢理襲いかかって銃卓で殴打した後、乳房をえぐり取って残忍に虐殺したという。

 日本兵は「慰安婦」が伝染病にかかれば、彼女らがいる「慰安所」に火を放ち、死体を川や山中に捨て、戦闘に敗れて追われる時には「慰安婦」を一列に並び立たせ、順に首を切り落とした。

http://www.piks.or.tv/date/japan/20040826.htm


『沈黙の叫び 日本軍「慰安婦」出身のおばあさんの声』


耐えかねて逃げようとした女を日本兵達が見せしめに縛り上げて乳房を短剣で
切り落とすと傷口から真っ白な脂肪が溢れ出してきて、やがてそこから血が流れ出した。
http://www.eigaseikatu.com/imp/14905/152813/

日本兵は彼女の首を切り、その煮汁を飲めと強要しました

 私は4人兄弟の長女で、弟3人がいました。

ところが、両親は私たちを残して死んでしまい、一番下で乳飲み子だった弟もお母さんに続いて死んだのです。

  住む家もないので橋の下で雨露をしのぎながら、乞食をしたり農家の手伝いをして弟たちを養いました。
 
私が数え年で17歳の夏、住んでいた小屋に帰って来ると、巡査か兵隊なのかわからない日本人の2人の男が現れたのです。

彼らは私の髪の毛をつかんで、放り投げるように大きなトラックに乗せました。

弟たちが「お姉ちゃん行くな」と泣き叫んだの で私は振り返ろうとしたのですが、男たち に蹴られてトラックに押し込められました。

その中には、幼い少女から20歳前後までの娘たちでいっぱいで100人くらいいました。
男たちは、泣き叫ぶ私たちを殴ったり蹴ったりして黙らせたのです。

  水原(スウォン)の駅から汽車に乗せら松中国の大連へ連れて行かれました。

私たちが列車の外をのぞこうとすると、「何を見ている」 と兵隊は髪を引っ張ったり足で蹴ったりしました。

私は、弟たちのことも心配だしこれから何が起きるかという不安で泣き出したのですが、そしたらまた殴られたのです。

兵隊たちは、途中のハルビンや牡丹江などで娘たちの一部を汽車から次々と降ろして行きました。

私は東寧県で汽車を降ろされ、20人くらいの女性たちとトラックでプチャゴルに連れて行かれました。

到着すると将校が

「天皇と軍の命令だ。 言うことを聞かないと殺す」

と言いました。

私は5号室に入れられ、着いたその日から強姦されたのです。

あちこちの部屋からも悲鳴が聞こえてきました。

それからは、少ない日でも30人くらいの日本兵の相手をしなければなりませんでした。
 

ある日、2人の女性が兵隊の相手をするのを拒否したということで、両手を縛られて庭に引っ張られて来ました。

兵隊たちは、 私たちを呼び集めて2人を高い木に吊るしたのです。

その娘たちは兵隊に

「犬のようなお前たちの言うことなんか聞かない」

と言いました。

そうしたら、奴らは刀で彼女たちの乳房をえぐり取ったのです。

血が吹き出ました。あまりにも残酷なので私は気絶してしまいました。

  彼女たちが死ぬと兵隊たちは首を切って沸いた湯の中に入れました。

そして、その煮汁を私たちに飲めと強要しました。

拒否 すれば私たちも殺されるので、生きるために仕方なく飲んだのです。

  女性たちの数はいつも20人くらいで、病気で死んだり逃亡に失敗して殺されたりすると新しい女性が補充されました。

ある時、 私は逃げようとして捕まってしまいました。

板にくぐり付けられて何十人もの兵隊に犯され逃げ出せないように足の神経を切られてしまったのです。

  そして、別の部隊に移されて砂地に天幕を張っただけの所に入れられました。

私は、 鉄条網の下をくぐって逃げようとしましたが、鉄条網に鈴が付いていたのを知らなかったので再び捕まってしまいました。

すると、兵隊たちは赤く焼いた鉄棒とドラのような鉄板を私のお尻に押しつけたのです。

この時の火傷はケロイドになってしまったので今でも歩くのが困難で、痛くて横になることもできないほどです。


  ある時、奴らは私たちの食事に毒薬を入れました。

私は火傷のために早く歩けなかったので食事に遅れたのですが、私が行った時には先に食べていた女性たちがすでに死んでいたのです。

私は、這って逃げ出して、その村の中国人にかくまってもらいました。

私はここの「慰安所」に8年間いました。

  体の火傷の跡を見てください。正視できないほどです。

1947年に帰国しましたが、 故郷には帰れませんでしたし、子どもを生むこともありませんでした。

http://www6.ocn.ne.jp/~kitanisi/knews/knews0109.html


日本軍はどのように慰安婦の秩序を保ったか:


A. 韓国人慰安婦の1人は、なぜ1日に40人もの男にサービスしなければならないのかと尋ねたために、日本軍指揮官の命令によって、他の慰安婦の面前で、刀でたたかれ、裸にされて、たくさんの釘の突き出た板の上を転がされ、血だらけになった後に首を切られた。

さらに、日本軍指揮官の1人は、それを見ていた人々の前で

『あなたたち全員を殺すのは、犬を殺すよりも簡単だ』

と述べ、死んだ女性の死体を煮て食べるように強要した。


B. 韓国人慰安婦の1人は、他の40人とともに蛇だらけの水溜りに入るよう命令され、そのうち数人は、無理やり水中に押し込まれ、その後、土をかぶせて生き埋めにされた。


C. 兵士に噛み付いた新入りの慰安婦は、他の慰安婦の面前、慰安所の中庭で首を切られ、ぶつ切りにされた。


D. 激しく抵抗した慰安婦の1人は、胴体と頭を別々の馬に縛り付けられ、他の慰安婦の面前で引きちぎられて殺された。


E. 多くの慰安婦は、中国兵捕虜の頭を煮た水の残りを飲むように強要された。


F. 性病にかかり、50人の日本兵に病気を移した韓国人慰安婦の1人は、灼熱の鉄棒で膣を消毒された。


G. 性的サービスを逃れようと入浴を拒んだ慰安婦は、木に逆さに吊るされ、ライフルで殴られ、乳首を切り取られて、最後に膣から銃で撃ち抜かれて殺害された。


筆者が最近傍聴した集会にも、元慰安婦が招かれ、体験談を語ったが、その上品で温和な顔立ちの元慰安婦が、

「慰安所の天井から赤ん坊の頭で作ったモビールのような飾りが吊るされていた」

と語ったとき、会場は一瞬息を呑んだ。
http://www.cmht.com/casewatch/civil/comfort.html
http://www.geocities.com/lordfreeza88/esytesti.htm

   ,, - 'i': : : : :゙:'ヽ. ::              :::'' ,, -'':゙:゙:゙゙:':'ヽ-,, 
     'ヽ, |': :: ::(●| 'ヽ:::            .::'.'/ |:: : : : :(●| ゙''-,,,,,:
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          ゝ,,丶\::v || |:‖ -__w ヽリ゙リ゙|j:‖//  /   
           ゝ''ヽヽ::,, --v,‖ :リ,,リ,゙,,,,,::://ノ /  


________

参考

半月城通信
http://www.han.org/a/half-moon/

「従軍慰安婦」は商売か性奴隷か
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/05/top_5.htm

従軍慰安婦について〜昭和初期から戦中まで〜
http://www2.ocn.ne.jp/~adult/ianfu/index.html

◆ 美しい壺日記 ◆ [従軍慰安婦]「強制連行された証拠はない」は嘘
http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-58.html

 

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コメント
 
01. 2011年12月18日 18:27:21 : 0y5nWD0jeQ
大いなる疑問なんだが、日本兵達がそれほどまでに飢えていたとすれば
当然ながらフィリピンやら他の各国でどうして「慰安婦問題」が無いのか。

なぜ「韓国」だけで起きたという事になっているのか。
おかしいよね。
何故韓国だけが「政府間で戦後交渉を合意、解決」した事を反古にするのだろうか。

元々が日本の兵の一員として「中国へ派兵」しているという事も言われ、中国でも
最近は虐殺を行なっていたのは韓国人達ではないか?ともいう中国人が居る位。
>南京大虐殺は朝鮮族の仕業アル7
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/asia/1316415590/l50

おれは否定も肯定も出来ないと思う。
戦争と言う「人を殺す」野蛮な行為を正当化した大虐殺行為なのだから。
ただ、そんな行為にウソを付け加える行為こそ卑劣と言わざるを得ない。

韓国は元々日本と同盟国扱い、というか日本が統治していたので韓国が日本と戦ったと言う事は
根本的に大ウソであり、韓国は裏切って世界を騙した訳なんだよね。
それでも日本は異議を唱えず賠償金を支払って「政治的に解決」しているのは国連でも認められている。
>日本の戦争賠償と戦後補償
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%B3%A0%E5%84%9F%E3%81%A8%E6%88%A6%E5%BE%8C%E8%A3%9C%E5%84%9F

調べれば調べるほど、明らかにおかしな事ばかりが出てくる。

過去は既に政治的に日韓で解決している。
解決していないと騒ぐのは解決している「事実」を韓国人が知らないのか、それとも
日本がウソをついて国連での情報をねつ造しているのかのどちらか。

一体どっちですか?

>戦後補償問題
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/h-minami/note-sengohosyo.htm

>韓国、国連委で慰安婦賠償に努力求める
http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-1444.html
上記ブログ情報では、韓国軍はベトナム戦争時アメリカ軍の一員として派兵し、ベトナム人を
レイプしている事実が暴露されている。
「南京虐殺 韓国人」で検索して下さいな。


02. 中川隆 2011年12月18日 18:50:01 : 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q


フィリピンやら他の各国でどうして「慰安婦問題」が無いのか。

いくらでも有るよ:

日本軍慰安婦問題をめぐり、東京裁判に提出された各国検察団の証拠資料の中から、占領支配したアジアの女性が日本軍に強制的に慰安婦にされたことを示す尋問調書などを、林博史・関東学院大教授(現代史)が確認した。17日に日本外国特派員協会で会見して公表する。裁判で証拠として採用されたもので、東大社会科学研究所図書館に所蔵されている。

 東京裁判には、日本軍によるアジア各地での住民・捕虜殺害など具体的な残虐行為を立証するために膨大な証拠資料が提出された。今回、林教授が確認したのは、オランダやフランス、中国など各国の検察団が提出した調書や陳述書など。

 インドネシアで、ジャワ島やモア島、カリマンタン(ボルネオ島)で女性たちが強制的に慰安婦にされたことを示す証拠資料が提出されたことが判明したほか、アジア各地で同様のケースがあった。これまで、国立国会図書館所蔵の東京裁判関係資料から尋問調書の一部が確認されていた。

 オランダが提出した、ボルネオ島で海軍の情報機関にいた男性軍属に対する46年3月13日付の尋問調書。日本人と親しくしていた地元女性が日本軍に拘束され、警備隊長に平手打ちをされ、裸で立たされる状況に触れて、取調官が追及する。

 彼女たちを拘束した理由について、男性軍属はこう答えた。「抑留したのは彼らを淫売(いんばい)屋に入れることができるための口実を設けるために警備隊長の命令でなされたのであります」

 46年5月16日付の尋問調書では、ジャワ島の民間抑留者の収容所にいたオランダ人女性が強制的に慰安婦にされたことを証言している。

 44年1月28日、インドネシア人警察官が彼女を含め計7人の女性や少女を日本軍捕虜収容所事務所に連れていき、日本人に引き渡した。さらに車で小さな収容所に運ばれた。同年2月3日に医師による健康診断を受けた際、日本人向けの「娼楼(しょうろう)(brothel)」で働かされることを知ったという。

 「労働日には娼楼は日本将校のために、日曜日午後は日本下士官のために開かれ、日曜日の午前は兵卒等のために保留された。時々一般の日本人が来た。私は常に拒絶したが無駄だった」

 フランスが提出したベトナム人女性の口述書の抜粋には「日本人はフランス兵と一緒に生活していた私の同国人数人に、光安に設けた慰安所(brothel)へ一緒へ行くよう強制しました」とある。

 中国の「軍事委員会行政院」が46年5月27日付で作成した資料は日本軍の桂林での残虐行為に言及、

「四方より女工を招致し、麗澤門外に連れ行き脅迫して、妓女(ぎじょ)として獣の如(ごと)き軍隊の淫楽(いんらく)に供した」

と記す。東京裁判の判決も桂林の残虐行為に触れた中で、

「工場を設立するという口実で、かれら(日本軍)は女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した」

と認定している。

 一連の資料について林教授は

「これらは各国が作成した公文書であり、判決でも強制したことが事実認定されている。サンフランシスコ平和条約で戦犯裁判を受諾した日本には、これらの文書の意味は無視できないだろう」

と話している。

http://www.asyura2.com/07/senkyo33/msg/462.html

慰安婦強制動員を裏付ける文書…ソウル大鄭教授チームが発見


日本軍が慰安婦を強制動員したことを裏付ける公式文件が見つかった。これまで被害者の証言はあったが、慰安婦動員の強制性と暴力性について書かれた資料は極めて少なかった。

ソウル大の鄭鎮星(チョン・ジンソン、社会学)教授チームは12日、「1946年7月5日、オランダ軍情報部隊が日本軍の慰安婦強制動員と慰安所運営について作成した文書を確保した」と明らかにした。

「日本海軍占領期にオランダ領東インド西ボルネオであった強制売春に関する報告書」と題した文書は、その間、オランダ政府記録物保存所に保管されてきた。

この報告書は

「日本の特別海軍憲兵隊が路上の女性を連れて行き、強制的に身体検査をさせた後、慰安所に入れた」

「慰安所は厳格に統制・隔離された」

など、日本軍の蛮行が書かれている。

また

「女性が慰安所を脱出したという理由で母親が殺害されたケースもあり、慰安所の女性は脱出も考えられなかった」

「女性は特別許可を受けてこそ慰安所から外出することができた」

などと明らかにした。慰安所の女性の国籍は書かれていない。

報告書は

「1943年、日本海軍駐屯軍司令官はこの地域の日本人に対し、インドネシア・中国の女性と親しくするなという命令を下した。その代わりに公式的な慰安所を設置しろという命令も出された」

と記述している。

報告書によると、慰安所は当時、海軍専用と民間用の2つが運営され、 民間用慰安所は日本軍司令官の指揮で日本人事業者協会が運営責任を預かった。 以外な点は「慰安所で支払われた代金の3分の2が女性に入った」という部分。 これに続いて「女性は時々、一部のお金を受け、個人的な用途に使った」と書かれている。

鄭教授は

「慰安婦に代金が積み立てられていただけで、実質的には支払わられていなかったことを裏付ける証拠」

と指摘した。 報告書は日本人戦犯に対する尋問や関係者らの証言を基礎に作成された、と書かれている。


◇「安倍首相の妄言を覆す証拠」=鄭教授は

「当時オランダ領だったインドネシアのバタビア(現ジャカルタ)で行われた戦犯裁判のために作成された資料と推定される」

とし

「昆明の報告書より具体的に当時の状況が書かれている公式文書が初めて見つかった」

と説明した。

鄭教授は「安倍首相の『慰安婦を強制動員した証拠はない』という妄言を覆す証拠だ」と強調した。

04年公開された米戦略事務局(OSS)の報告書(45年5月作成)にも、当時中国南部の昆明で日本部隊を脱出し中国軍に投降した女性25人全員が‘強要と詐欺のため’性奴隷になったと明示されている。

これに先立ち、共同通信は11日、インドネシアで慰安所を運営した日本人が戦後オランダで行われた戦犯裁判で「軍部の指示によって民間慰安所を設置した」と証言した内容が見つかった、と報道した。 (クォン・クンヨン記者)

http://www.asyura2.com/07/senkyo33/msg/437.html


南京が占領され、情勢が落ち着いてくると、日本軍は現地の売国奴を通じて「募集」、脅迫、騙しといった方法で中国の女性を集めて慰安所を設置し、商業ベースでの経営を行った。南京にかいらい政権がつくられると、今度はかいらい政権にこの仕事のための専門要員を派遣させた。

 日本軍自身も南京で慰安所を開設した。これは主として高級・中級将校のためのもので、軍部は中国に在留する日本の風俗店主にこれを委託した。こうした慰安所は主に市南部の夫子廟から大行宮の一帯に集中していた。この地区は南京の繁華街で、かつ日本当局が決めた日本人居留民が集中する「日本人街」の所在地でもあり、その上日本軍の兵営や多くの軍事機関にも隣接していたため、日本軍当局や日本の風俗店主の経営する「安楽ホテル慰安所」、「松下富貴慰安所」、「青南楼慰安所」などが集中していた。

 経盛鴻教授によると、多数の慰安婦が野獣のような日本軍将兵によって蹂躙
(じゅうりん)された。

多少なりとも不服従または反抗の様子を見せた女性には、

軽い場合で食事を与えず、

重い場合は、軍刀で乳房や手足を切り落とし、さらには犬に食いつかせるなどして、他の慰安婦の見せしめとした。

 1945年8月15日に日本が無条件降伏すると、南京当局は10月に日本軍が設置した「慰安所」を閉鎖し、看板をとりはずし、慰安婦となった内外すべての女性を解散させた。これをよって南京に8年間にわたって存在した日本軍慰安所と慰安婦制度は、ようやく完全に歴史のゴミ箱に送り込まれた。
 (南京8月9日発新華社)

http://www.fmprc.gov.cn/ce/cejp/jpn/zt/qqq115/t206723.htm

慰安婦が公娼のように見えた理由  


そんな気持ちを察したのか、朝鮮の慰安婦から「死んじゃ駄目よ」と慰めの言葉を掛けられたのを覚えております。また、運城の陸軍病院に応援軍医として派遣されたときも皆と一緒に慰安所に行きましたから、結局六、七回は訪れているでしょうか。

 当時の軍人の目から見ると「慰安婦」は公娼のように見えたのです。料金を払いますし愛想もよかったからです。

然し彼女たちには本当のこと、つまり

「私は強制され連れて来られた」

とか、

「帰ろうとしても脅迫され帰れなかった」

などとは絶対に言えなかったのです。

相手は軍人、ましてや将校、「日本軍を談議する」とか、「戦争に協力しない」として憲兵隊に通報される。またにこにこして兵隊を迎えなければぶん殴られるが関の山。ここに落ちたら泣いても反抗しても同じ、することはしなくてはならない。だから性奴隷です。これが植民地支配の実情です。

 私は路安で一日に30人を相手にして急死した女性のことを聞きました。苦しくても逃げられなかったのです。

 しかし

「外出もできたから自由があった。お金を得たから奴隷ではない」

などと言う若いマンガ家や

「兵隊を拒否しなかったから商売だった」

という大学教授もおります。これらは植民地支配や戦地の軍支配の実体を何も知らない人たちの言うことです。「慰安婦」は正しく日本軍の性奴隷だったのです。


http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/05/yuasa_ianhu.htm

証拠を隠滅しておいて裏付けはないとは


当時の軍や政府が敗戦を目前にしてあらゆる機密事項を焼却したり廃棄したことは良く知られている。

政府・軍部が自ら証拠を隠滅しておいて「裏付けのある証言はない」とは!?


占領行政にかかわる資料は多くが敗戦時に廃棄されていますが、それでも研究者などの努力で軍や政府が「慰安婦」の連行や「慰安所」の設置に関与したことを示す文書がいくつも発見されています。

 「河野談話」が軍の関与を認めたのもそうした積み重ねの結果であり、安倍首相や「靖国派」が重箱の隅をつつくような議論で強制性を否定するのは、文字通り歴史の事実にそむくものです

日本軍「慰安婦」とされた女性たちの中には、相当高い比率で未成年の少女たちがいた。未成年の少女の場合、慰安所での使役は強制でなく本人の自由意志による、と主張することは、当時日本が加盟していた婦人・児童の売買禁止に関する国際諸条約に照らしても、困難である。

日本軍「慰安婦」制度は、居住の自由はもちろん、廃業の自由や外出の自由すら女性たちに認めておらず、慰安所での使役を拒否する自由をまったく認めていなかった。故郷から遠く離れた占領地に連れて行かれたケースでは、交通路はすべて軍が管理しており、逃亡することは不可能だった。公娼制度を事実上の性奴隷制度とすれば、日本軍「慰安婦」制度は、より徹底した、露骨な性奴隷制度であった。

http://ootsuru.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_ffb6.html


日本政府は、終戦時、閣議決定により公文書を大量に焼却した。現在残っている軍関係資料は、永久保存のために疎開させていた一部の文書や個人的に隠していた文書、戦場で米軍が没収した文書など全体のほんの一部です。

焼却した文書は、戦争犯罪に関する文書(慰安婦問題に限らず)で、これを処分した目的は、米軍からの追及を逃れるための証拠隠滅でしょう。そうでなければわざわざ処分する必要はないのです。

陸海軍の公文書が、敗戦時に焼却され大部分が処分されたことは、防衛庁も明らかにしています:


防衛研究所 史料閲覧室(防衛庁のページ )

防衛研究所では、戦史の調査研究と戦史の編さんを行うために、陸海軍にかかわる史料の収集を行いました。史料の大半は終戦時に焼却され、あるいは戦後の混乱により散逸してしまいました。焼却をまぬがれたものは米軍に押収され、米国国務省公文書部の保管するところとなりましたが、長い外交交渉の末、昭和33年4月にようやく我が国に返還され、その大部分が防衛研究所に所蔵されています。

軍だけでなく内務省などでも公文書の焼却が決定し、地方統監→府県知事→市町村の順に通達されました。すなわち国家的規模で公文書の焼却が行われたのです。奥野誠亮元法相は、自分と他3名で全国くまなくまわって公文書焼却の通達をしたと自ら語っています。


奥野

…その外(ほか)公文書は焼却するとかいった事項が決定になり、これらの趣旨を陸軍は陸軍の系統を通じて下部に通知する、海軍は海軍の系統を通じて下部に通知する、内政関係は地方統監、府県知事、市町村の系統で通知するということになりました。これは表向きには出せない事項だから、それとこれとは別ですが、とにかく総務局長会議で内容をきめて、陸海軍にいって、さらに陸海軍と最後の打ち合わせをして、それをまとめて地方総監に指示することにした。十五日以降は、いつ米軍が上陸してくるかもわからないので、その際にそういう文書を見られてもまづいから、一部は文書に記載しておくがその他は口頭連絡にしようということで、小林さんと原文兵衛さん、三輪良雄さん、それに私の四人が地域を分担して出かけたのです。それが何日に出発したか覚えてはいないのですが…。

入江 

十六日だと思います。

(『山崎内務大臣時代を語る座談会』1960年)

日本政府は、自ら証拠隠滅しておいて証拠はないと言っているわけですが、敗戦時に、証拠隠滅のための大規模な公文書焼却が行われたことからすれば、文書による証拠がないことを理由に元慰安婦の証言を否定することはできません。

http://d.hatena.ne.jp/yamaki622/20070408/p1


「慰安婦」証拠ないのが当然 大村袈裟嘉(山梨県山梨市、79歳)


従軍慰安婦問題を巡る安倍首相の発言が、内外に波紋を広げている。狭義の強制性を問題にして証拠と証人が出てこないことを強調しているようだが、敗戦時の旧日本軍の厳しい証拠隠滅工作に従事させられた私には、証拠がなくて当然と思えるのだ。

私は16歳で海軍少年兵に志願し、18歳の夏に航空隊高等科演習生で敗戦を迎えた。実戦部隊ではなかった私たちの学校でも、秘密性が高い「軍機」や「軍極秘」はもちろん、秘密性が低い「秘」の修身の教科書さえ全部回収し、練兵場の隅に掘った穴で3昼夜燃やし続けた。

こうした証拠隠滅の指示や緘口令は、旧日本軍のあらゆる部門で出たはずだ。したがって、戦地での性や人権が絡む慰安婦問題で、証拠や証人が出てこないのもやむを得まい。

http://gpm.seesaa.net/archives/20070401-1.html


日本女性も騙されて慰安婦にされていた

当時も慰安婦の「強制連行」は違法であり、違法を指示する「公文書」などは在り得ない。100歩譲って在ったとしても、敗戦直後、国内外の至る所で証拠隠滅のためあらゆる書類を焼却処分したのである。

従軍慰安婦がいても当然だろうと思われる明らかな証拠がある。それはポツダム宣言を受け入れた直後から国政を与る為政者たちが、占領軍の日本進駐を見越してアメリカ軍将兵の性の捌け口としての慰安所を全国に設置することを検討していたのだ。

それは早くも敗戦の詔勅が出て3日の後のことだが、「占領軍の進駐時に合うように進駐軍将兵用慰安施設の設営を急げ」なる内務省通達が発令され、全国の警察に通達、設置を急がせたのだ。

そして27日には東京・大森で「小町園」が最初の慰安所を開業しているのだ。しかし、南方方面軍が進駐して来ると同時に性病を持ち込み、瞬く間に蔓延を広め、わずか3ヶ月で閉鎖に追い込まれることになった経過まで分かっているのだ。

「良家の子女を守るため」とした慰安所は、芸妓、公娼、私娼妓、女給、常習淫売者らを優先的に充足させ、足りない分には一般の募集まで行った事実が各地の警察の記録で保管されているのだ。当時の戦後の食べるにも事欠いた混乱した時代、応募せざるを得なかった家庭の子女を売春に走らせる結果を招いたとしても不思議ではない。それでも全国のアメリカ軍の日本子女への強姦事件は後を絶たず発生し続けたのが実態だ。(このことは敗戦後60年以上を経過した今日でも、沖縄でアメリカ軍人のレイプ事件が起こっていることを見ても理解出来るだろう)

http://dogmarion.cocolog-nifty.com/seso/2006/07/post_10db.html


『新日本女性に告ぐ!

 戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。

女事務員募集。年齢十八歳以上二十五歳まで。宿舎、被服、食糧当方支給。』


 敗戦直後の昭和20年8月22日、この広告が新聞などに張り出される。「新日本女性に告ぐ!」などと勇ましいことを書いているが、これは単なる事務員の募集の求人広告ではない。

 この前日、近衛文麿国務相が「婦女子を性に飢えた占領軍兵士から守る」という狙いのもと「特殊慰安施設協会(RAA)」の設置を決めた。上の広告はこの施設で占領軍相手の売春をする女性を集めるものであった。大抵の女性は、はじめからこれがただの事務の仕事ではないことは気付いていたようだが、中にはやはり単なる事務の仕事だと思って応募してくるものや、慰安とは「歌でも歌えばいい」と思って応募してきた良家の子女もいたと言う。

http://www.hit-press.jp/column/shakai/shakai26.html


国連が慰安婦に対する調査結果をまとめ、日本政府に突きつけた。

で、しかたなく河野談話を日本政府は発表した。

日本政府が「強制的に拉致してまで女性を慰安婦にしろ」と言う命令を出したわけでは無いが、実際に拉致して日本兵の性の奴隷にしていた。

日本国民が餓死寸前な状態で慰安婦に支払える賃金が無かった、にも関わらず支払う当ても無いのに、慰安婦募集をし、★騙して無給で労働させた。
(無給で労働→強制労働)

8万〜20万にも慰安婦に詐欺行為をした日本政府は、他国に類を見ない、下種な輩。

力の無い、立場が弱い、女性を騙し、食い物にした日本政府&日本企業が世界から
非難されるのは当たり前。

国連(UN)のHP
http://www.comfort-women.org/coomaras.htm


03. 2011年12月18日 19:29:13 : RzqCBoHeak
朝鮮進駐軍の非道を忘れるな。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-748.html
これを読んでからものを言え。関東大震災時に朝鮮人がそこら中に火を放って10万人に日本人を殺害したのはどうなるのか? 少しは自分の悪質な遺伝子を反省してからものを書くべきだな。

04. 2011年12月18日 19:36:39 : E7MadxD0Tk
吉田証言が捏造なのは明らか。
1996年5月29日付週刊新潮インタビューで吉田本人が
「本に真実を書いても何の利益もない。事実を隠し自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやるじゃないか」
と言っている。
本人が事実でない事を認めているのに、虚構じゃないとはみっともない人間だな。

05. 2011年12月18日 19:49:31 : PQxsgHPQTc
「従軍慰安婦」を書いた吉見義明ですら1997年1月3日の朝まで生テレビで「植民地での奴隷狩り強制連行は確認されていない」と吉田の証言の信憑性を否定しているのに、未だに信仰している時代錯誤の信者っているんだね。

06. 2011年12月18日 19:51:06 : oXjyYrHR4I
 韓国人よ、今現時点で日本で起こっている「統一教会による日本女性7千人以上の人身売買」をどうしてくれるのだ! 日本で起こる外国人の犯罪者のほとんどが韓国人である。何様のつもりか!

07. 2011年12月18日 20:06:30 : o9zQ2ZYUCA
だいたい韓国は売春婦が「売春の取り締まりは生存権の侵害」だと抗議デモを行う
ような国なのに何が「名乗り出られなかった」だよ。
全くお笑いとしか言いようが無い。

08. 2011年12月18日 21:17:47 : 7XRJFph6NA
現代の法律、価値観で当時を裁くか?
当時は当時の法律価値観です。
貧乏なら我が子を売るのも当たり前。
食えないから、子供や老人は間引く。

建て前では、政府軍部は関与は無い。
女衒が暗躍しただけでしょうが。


09. 2011年12月18日 22:40:32 : rk4DIdds5s
酷い虐待を受けたという割には長生きしている現元従軍慰安婦(自称)

10. 2011年12月19日 00:06:29 : M5vgfE5H8w
>>01です。
どうして今、この問題を大きくするのか?
いや、何故大きくしたいのか?
スゴイ疑問があるんだよね。

極東有事を煽っても全く動かない。
韓国の哨戒艇が沈没させられても、北朝鮮が迫撃砲を撃っても
まったく戦争の気配すら起きなかった。
つまり、北朝鮮の軍部がこれは戦争を企むやつらが居ると考察、中国へ
今後の対応を会議し、決して挑発に乗らない事が北朝鮮や韓国、中国自らが
極東有事を目論んでいる連中は矛先を変えた。

それが、日本や中国、韓国へ仕込んでいた虐殺問題、慰安婦問題という事。
つまり軍事的危機は煽ってもムダになった。
ならば民族意識を燃え上がらせ国家危機を国民自ら火をつけて煽ることで民族同士の
いざこざを大きくすればおのずと国家間での危機が訪れる。
あとは面白いように戦争を始めてくれるだろうね。

韓国は不条理な経済条約で脅されているとしたら、このタイミングでなぜ
持ち上がって来たのかストーンと理解出来る。
日本がアメリカに対してカネを渡さなくなり、しかもTPPまで反対し始めている。
あまりにも揃い過ぎた。

日本は決して感情的に攻撃してはならない。
それが韓国のバックに居る奴らを焦らす事にもなる。
韓国がもし自白すれば、日本や中国、ロシアやアジアは韓国を見捨てないと思う。
むしろ戦争を煽り危機を作るテロ国家を暴く事にもなる。

日本人は馬鹿じゃない。
韓国も挑発をすればするだけした後で事実を検証すれば国家の恥を末代までさらし
続ける事にもなる。
韓国もそろそろ気付くべきだろうね。
この先どうなっていくのか。

恐らく両国民同士が対立すれば、韓国の電子産業や日本の産業や米国債を握っている
日本が滅亡すれば借金がチャラどころが、米軍の兵器を両国が使って戦うんだから
これほど美味い話はそうそうあるもんじゃない。

だろ?


11. 2011年12月19日 04:30:48 : LYKfFPbeIE
301:名無しさん@12周年:2011/12/18(日) 00:03:39.97 ID:O8i6BAZT0
この2人が慰安婦問題を作り、後世の日本人を苦しめています。
現在の慰安婦問題は、反日となるとブレーキがかからない韓国社会の歪みの問題ですが、
端緒を作ったのは日本人です。そのウソを暴いた韓国人記者もいます。

【千田夏光氏】
最初に従軍慰安婦という言葉を作った。中国大連市生まれの元毎日新聞社のフリー作家。
著作「従軍慰安婦 正編」において挺身隊20万人のうち5〜7万人を占める
朝鮮人女性が慰安婦にさせられたと記述した(慰安婦20万人の主張はこの誤読)。
挺身隊に所属した女性が従軍慰安婦になった例は確認されていない。
軍医麻生徹男氏を、誤解に基づいて慰安婦制度の考案責任者のように記述したが、
後にこの誤りを認め、麻生氏の娘に謝罪した。

【吉田清治氏】
共産党から立候補歴あり。
著作「朝鮮人慰安婦と日本人」において、日本軍人が朝鮮の女性を強制連行し慰安婦にしたなどと証言。
89年、韓国済州島の地元紙『済州新聞』が、慰安婦狩りを行ったという
吉田証言を検証すべく行った取材結果を元に、吉田証言を捏造と報じる。
同紙は「道徳性の欠如した本で、軽薄な金儲け主義的」と論評。
記事執筆者、許栄善記者は、歴史学者秦郁彦との面談で
「何が目的でこんな作り話を書くんでしょうか」と疑問を呈した。
96年、吉田氏は、週刊新潮のインタビューで、本に真実を書くことに利益がない、
事実を隠して主張を織り交ぜるのは新聞でもやっている、創作を交えたと発言。
98年、歴史学者秦郁彦氏に対し、人権屋に利用された私が悪かったと発言。


12. 2011年12月19日 06:37:54 : 3yHl5R260Y

そんな生まれてもいない過去のために1円だって税金を使って欲しくない。
すべて解決済みの問題を何度も持ち出して金をせびるたぁフテェ野郎だ。
そんなタカリしか考えない在日に参政権なんてとんでもない。

何をしてやっても連中は日本に感謝なんかしないよ、永遠に。

中川ってのは在日か? 日本の国益を害するような事を言うな。

どうだっていいんだよ。在日なんて全部まとめて本国に帰れ!!


13. 2011年12月19日 18:51:11 : 7XRJFph6NA
在日、文句あるなら帰化するか本国帰れ!
在日側と日本側の甘い在日特権があるのだろうが・・・。
寄生虫は駆除すべし!

14. 2011年12月19日 20:27:56 : r0FTW57FrI
今時、吉田清治証言が史実だと思っている痛い人がいるとはビックリ仰天です。


「慰安婦の首を切り落として煮た」だってさ。

バーカ(大笑い)


15. 2011年12月20日 14:27:28 : HCHi8XNjpU
>>14さん
>今時、吉田清治証言が史実だと思っている痛い人がいるとはビックリ仰天です。
本当にその通りですね。
本人でさえ実はウソだったと否定していると、先日のTVタックル内で三宅氏や青山氏などが
発言していました。
人権ガ〜って叫んでいる女性議員は事実でもねつ造でも関係なく終始、人権ガ〜発言でした。
で、この本人が否定している「吉田清治証言」を事実だと言っているのが韓国だけなんですよね。

本人が間違いを認めているのに、「いや、それは正しいのです」って言う思考って
普通じゃないですよね。

まぁ韓国は朝鮮戦争時、自国民を大量虐殺している事実もあります。
>韓国人同士の大虐殺(動画)
http://video.fc2.com/content/201112140yW71XnB/

日本も確かに自害を迫ったりしたけど、韓国はそれ以上にヒドく、日本の場合は
捕虜は恥だから自害するという事でしたが、韓国人は裏切り者が怖いから片っ端から
自国民でさえ怪しきは殺す行動を取りました。
中国南京大虐殺と言われる事件も、中国人でさえもしかしたら「日本兵としていた韓国人たちが
虐殺に関わっていた」と考える人が増えて来ています。

恥を知らない国家・国民性って怖いもの無しなのかも知れません。


17. 中川隆 2011年12月24日 14:44:54 : 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q


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嘘も百回つけば真実に成る _ 「秦郁彦の研究により吉田証言は虚偽と証明された」という産経のプロパガンダ


hangul 2007/08/04 00:59

ネットで検索してくるとあらためて吉田氏に関して秦氏が言及した「通説」が出回っていますね。

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070730/p2


2007年(平成19年)03月05日参議員予算委員会で当時の総理、安倍晋三氏は次のような発言をしている。


○小川敏夫君 この三月一日に強制はなかったというような趣旨の発言をされたんじゃないですか、総理。


○内閣総理大臣(安倍晋三君) ですから、この強制性ということについて、何をもって強制性ということを議論しているかということでございますが、言わば、官憲が家に押し入っていって人を人さらいのごとく連れていくという、そういう強制性はなかったということではないかと、こういうことでございます。

 そもそも、この問題の発端として、これはたしか朝日新聞だったと思いますが、吉田清治という人が慰安婦狩りをしたという証言をしたわけでありますが、この証言は全く、後にでっち上げだったことが分かったわけでございます。

つまり、発端はこの人がそういう証言をしたわけでございますが、今申し上げましたようなてんまつになったということについて、その後、言わば、このように慰安婦狩りのような強制性、官憲による強制連行的なものがあったということを証明する証言はないということでございます。

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080819/p1


産経新聞をはじめとする特定メディアで、国際社会の常識とかけ離れた秦郁彦氏らの歪んだ「定説」がたらい回しされているが、最大の顧客が保守政界である。

 安倍首相がさる3月1日夜、首相官邸で記者団の質問に、

「(河野談話は)当初定義されていた強制性を裏付ける証拠がなかったのは事実だ」

と、旧日本軍が従軍慰安婦を強制的に集めて管理した証拠はないとの認識を示し、「定義が大きく変わったことを前提に考えなければならない」と談話見直しの必要性に言及したのは、その典型的例である。


 安倍首相の言う「強制性を裏付ける証拠がなかった」は秦氏らの「定説」に基づくが、国際社会で通じる話ではないことは言うまでもない。 例えば、中央日報のコラム「噴水台 河野談話」は次のように苦言を呈する。


 「秦郁彦は吉田を『職業的作話師』だと攻撃した。窮地に追い込まれた吉田は、

『一部の事例の時間・場所は創作が加味されたもの』

と告白した。これをきっかけに河野談話に対する批判的認識が日本で広がり、安倍氏はある講演会で

『慰安婦は吉田の作り話であり、朝日新聞がこれを報道した。日本のマスコミが作り上げた話が外国へ広まったものだ』

と述べた。 しかし、吉田が強制動員の事実自体を否認したことはない。河野談話の廃棄・修正論者らは慰安婦動員の強制性を立証する政府公式文書が一つも発見されていないというが、根本的に疑問の余地がある。それ以前に、被害者たちの証言に証拠能力を認めない理由は何なのか」

 http://article.joins.com/article/article.asp?total_id=2651785&ctg=20


 貞操が重視される韓国で、当初は、慰安婦であったことを隠し、自ら名乗り出る人はいなかった。 地方の済州ならなおさらで、許栄善記事はそのような社会状況を反映したと思われる。日本から言葉も通じない秦氏がのこのこ出かけていって、「実は・・・」などと打ち明ける人が出るはずもないし、それくらいのことが理解できないようでは、現地調査などできるはずもない。 いずれにしても、吉田証言に関しては改めて綿密な現地調査をして、生き証人を探し出す必要があろう。

 加害者の側が「なんだったら、証拠を見せろ?」などと開き直ったら、被害者が怒るのは当然であろう。重要なことは、日本政府が、加害者の立場に立ってそれを否定するのではなく、被害者の側に立って協力することである。 それが国際社会の常識であり、今求められているものである。

 「河野談話」についても「河野氏が韓国で『自称・元慰安婦』の証言のみを基に認めたにすぎない。韓国政府の横槍があった」と、当時の官房副長官・石原信雄氏が認めたとかどうとか言った話が産経系列のメディアでしきりに流されているが、それが事実なら、韓国は改めて日本政府の真意を問う必要があろう。


 従軍慰安婦の存在は、疑う余地がない。

 最近も、ハルビン郊外で人体実験を重ねた旧日本陸軍731部隊(関東軍防疫給水部本部)の元衛生兵だった大川福松氏(88)が

「子どもが泣いている前で、母親が死んでいった。子どもは凍傷の実験台になった」

と、子持ちの慰安婦を解剖したことを証言した。


 東京新聞(3/29)は「慰安所経営者も合祀」と、インドネシアで慰安所を経営していた人物が

「日本軍がトラックで朝鮮の農村部へ乗り付けて、拉致し、軍の慰み者とした」

と証言していたことも報じている。

 安倍さんに物申したい。現状では、加害者である旧日本軍をかばっていると国際社会では受け取られている。日本の首相がこれでは日本ブランドは大きく傷つき、貿易立国の土台を揺るがすことになりかねない。

 731部隊で無念の生体解剖された慰安婦母子の名を明らかにし、遺族に謝罪の言葉を伝えるべきではないか。そうすれば国際社会の認識はがらりと変わろう。 旧内務省の流れを受け継ぐ旧厚生省(現労働厚生省)には関連資料が埋もれていると聞くが、不可能なことではあるまい。

 古森義久氏が米議会調査局報告書「日本軍の慰安婦システム」に対して「『根拠』は虚構」と歪曲して報じたのは、「同報告書の趣旨は『組織的強制徴用なし』」と報じたことが捏造であると批判され、証拠を突き崩そうとの作戦に転じたためとみられる。

 重ね重ねの歪曲・捏造記事は、読者の無知に付け込んで誤解を植え付け、反米意識を煽り、米下院での従軍慰安婦決議案採択を阻もうとのプロパガンダとみられるが、それが日本の信用を傷つけ、国際的立場を悪くするだけであることにいつになったら気が付くのであろうか。

http://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/archive/2007/04/21

秦郁彦が触れていない『吉田証言』


国会で総理大臣から嘘つきよばわりされた吉田清治さんはほんとうに可哀相だ。吉田さんの書著に出ている済州島での「慰安婦」狩りを、『城山浦の老人クラブで、四、五ヵ所あった貝ボタン工場の元組合員など五人の老人と話しあって、吉田証言が虚構らしいことを確認』し、済州島新聞の吉田書の書評を紹介しただけで、『吉田清治の詐話』と決め付け、クマラスワミさんへの手紙で

I remind you that I informed that Yoshida was a "professional" liar,

吉田は「職業的な」嘘つきだと言いませんでしたか?

とおよそ大学教授とは思えない下品さで吉田さんをこき下ろしたのは秦郁彦先生であることはよく知られている。

秦先生の、文献収集能力がすこぶる優秀であることは、『慰安婦と戦場の性』の引用文献の豊富さを見ればわかるし、さすがだなと感心することしきりである。吉田清治さんに関する文献でも、吉田さんの著作、新聞や週刊誌の記事、講演、裁判での証言など非常に広範かつ入念に調査している。

だがしかし、ひとつだけ秦先生が紹介していないものがある。1986年8月15日、大阪森之宮ピロティホールで開催された「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」(戦争犠牲者を心に刻む会 主催)での吉田さんの講演である。以下、部分引用する。

従軍慰安婦の悲劇


 『私が今日、自分の犯した強制連行の罪に対して、最も恥ずべきこと、心を痛めている問題が二つあります。

一つは、従軍慰安婦を九五〇人、強制連行したことです。

この従軍慰安婦という制度は、日本軍がアジア各地、太平洋諸島へ侵略した時、その駐留陸・海軍軍人たちの性的な相手をさせるための女性であったのです。占領直後の前線に、売春組織を陸・海軍の指導のもと、直接の援助のもとに設置したというのは世界史上ないそうです。もちろん、あってはなりません。これが太平洋戦争における日本陸・海軍の最も大きな罪だと私は信じております。


 この婦女子の、韓国・朝鮮人の従軍慰安婦の徴用のやり方は、

私たち実行者が一〇人か一五人、山口県から朝鮮半島に出張し、その道(どう)の警察部を中心にして総督府の警察官五〇人か一〇〇人を動員します。

そして警察官の護送トラックを五台から一〇台準備して、計画通りに村を包囲し、突然、若い女性を全部道路に追い出し、包囲します。

そして従軍慰安婦として使えそうな若い女性を強制的に、というか事実は、皆、木剣(ぼっけん)を持っていましたから、殴る蹴るの暴力によってトラックに詰め込み、村中がパニックになっている中を、一つの村から三人、五人、あるいは一〇人と連行していきます。

そして直ちに主要都市の警察署の留置所に入れておいて、三日から五日の間に、予定の一〇〇人、あるいは二〇〇人の人数を揃えて、朝鮮の鉄道で釜山あまで運び、釜山から関釜連絡線で下関に運んだのです。

 下関では、七・四部隊といって陸軍の部隊がありましたが、そこの営庭で前線から受け取りに来ている軍属に引き渡します。

そしてご用船でこれを中国、あるいは南方へ送るという業務を、三年間やっておりました。

(略)

 その頃(引用者注:1984年ごろと思われる)、加害者の私も韓国のテレビ局に呼ばれて、戦争犯罪人としてこの従軍慰安婦徴用について、一問一答されて、一時間のテレビ放送をさせられました。これは当然の私の義務だと思って、率直に、従軍慰安婦の前線における日本陸・海軍将兵からの三年間における辱(はずかし)め事実を、私はもと中支派遣軍の嘱託で前線にいましたので、その実体も含めて、韓国国民に公表しました。』


いくら秦先生といえども、「上手の手から水がこぼれる」の喩えのごとく、一つの証言を見逃していることがあっても不思議ではない。

だがしかし、秦先生は1996年3月27日の吉田清治さんとの電話での会話について、こう書いている。なんか臭う・・・


・・・彼が


「済州島の慰安婦狩りの情景は、実際には全羅南道でのできごとだった」

と言うので、

「では全羅南道の話はすべて真実か」

と聞くと、

「いや、全羅南道の被害者に迷惑がかかるといけないので、他の場所での話が混ぜてある・・・・・」

と答えるに及んで、私はそれ以上、問いただす気力を失った。

 しかし、この問答は事実上彼の証言がほとんど虚構であることを自認したものと見てよいのではないだろうか。


____

 吉田さんの全羅南道での慰安婦狩りをそのとき初めて聞いたはずの秦先生が、

『すべて真実か』

と聞くのも変だし、吉田さんが

『他の場所での話しが混ぜてある』

と答えるのも辻褄が合わない。

だいいち、何故、『ほとんど虚構であることを自認した』ことになるのだろうか?


 まぁ、秦先生が書かなかった部分の会話で詳しい内容を吉田さんが話したという考え方もできるが(それなら、秦さんの書き方の問題だ)、それなら今でも遅くないから会話の全貌を明らかにすべきだろう。また、いままで知らなかった吉田さんの話が出てきた以上、学者ならきちんと調査すべきではなかったのだろうか?

それはそれとして、この1986年の吉田さんの講演については、ネット上でも断片的に情報が出ているが、これを「強制連行はなかった」と叫ぶ人たちも問題にしていないことも気になる。彼らは真実を知りたくないのだろうか?それとも吉田さんは「職業的詐話師」と決め付けてしまっていて、これもどうせ嘘だと結論づけるのだろうか?

やはり、ここはぜひ、秦先生が吉田さんの証言の真相(済州島、全羅南道、1986年の講演)を明らかにするべきだと思うのだが、みなさんどうであろうか?

吉田さんが言っている済州島、全羅南道、もしくは朝鮮半島でのことが真実だった場合、一国の総理が一国民を不確かな証拠にもとづいて国会で”嘘つき”呼ばわりしたことになるのだ。その場合、これは由々しき問題になる。

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080819/p1

1991.5.22朝日新聞(大阪版)


 「女たちの太平洋戦争」で韓国から寄せられた投稿にある、”挺身隊員として連行された” 女性への言及。一方、多数の朝鮮人を強制連行した側からの証言がある。

1942年(昭和17年)、朝鮮人の徴用を目的に発足した「山口県労務報国会下関支部」の動員部長になり、それから3年間、朝鮮人約6000人を強制連行した吉田さん(77)=千葉県=である。

 「手を下した側から従軍慰安婦について証言できるのはもう私1人しかいないかもしれない。

政府は『民間の業者がやったこと』と言うがそんなことはない。 とはいえ、その実態は歴史から消えている。

慰安婦だった人は過去を知られたくないのは当然で、日本人の側が、犯した罪を証言し、記録しておく義務がある。沖縄決戦についての慰安婦の実態もみえてこない。朝鮮から沖縄へ慰安婦として強制連行された人たちは数千人いたと推定できる」

と吉田さんは言い、現在、当時のことを記録に残そうと書き続けている。


 吉田さんは自著「私の戦争犯罪ーー朝鮮人強制連行」(三一書房)などで自己の戦争犯罪を問い続ける。

86年8月、大阪で開かれた「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」に招かれ、従軍慰安婦について大要次のように証言した。 (以下は、「アジアの声 侵略戦争への告発」=戦争犠牲者を心に刻む会編 東方出版=から)

 私が今日、最も恥ずべきこと、心を痛めている問題の1つは、従軍慰安婦を950人強制連行したことです。

従軍慰安婦という制度は、日本軍がアジア各地、太平洋諸島へ侵略したとき、その駐留陸・海軍軍人たちの性的な相手をさせるための女性であったのです。占領直後の前線に、売春組織を陸・海軍の指揮のもと、直接の援助のもとに設置したというのは世界史上でないそうです。もちろん、あってはなりません。これが太平洋戦争における日本陸・海軍の最も大きな罪だと私は信じております。

この婦女子の韓国・朝鮮人の従軍慰安婦の徴用のやり方は、


私たち実行者が10人か15人、山口県から朝鮮半島に出張し、その道の警察部を中心にして総督府の警察官50人か100人を動員します。

そして警察官の護送トラックを5台から10台準備して、計画通りに村を包囲し、突然、若い女性を全部道路に追い出し、包囲します。

そして従軍慰安婦として使えそうな若い女性を強制的に、というか事実は、皆、木剣をもっていましたから殴る蹴るの暴力によってトラックに詰め込み、村中がパニックになっている中を、1つの村から3人、5人、あるいは10人と連行していきます。

そして直ちに主要都市の警察署の留置場に入れておいて、3日から5日の間に、予定の100人あるいは200人の人数をそろえて、朝鮮の鉄道で釜山まで運び、釜山から関釜連絡線で下関へ運んだのです。

下関では74部隊といって陸軍の部隊がありましたが、そこの営庭で前線から受け取りにきている軍属に渡します。そしてご用船で中国、あるいは南方へ送るという業務を3年間やっておりました。


 10万とも20万ともいわれる従軍慰安婦は、敗戦後、解放されてから郷里に1人もお帰りになってないのです。連合軍は中国、その他の占領地でこの女性たちを解放し、朝鮮半島、あるいは日本へ送還したのですが、その女性たちはすべて郷里に帰らず、各地で名前を変えて生活され、今日に至っております。

 今日、朝鮮半島、あるいは日本列島の中で過ごしていらっしゃる方、10万人のうち、もう半数は犠牲になってお亡くなりかと想像されますが、まだ数万の元従軍慰安婦の方が生きていらっしゃいます。従軍慰安婦と原爆被災者の2つが、私にとっての大きな問題です。共に私が強制連行して、その罪を犯したのです。従って私は戦犯の証人として、ここに立って皆様にそのことを伝え、心に留めていただきたいとお願いする次第でございます。

http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/70/


Stiffmuscle 2007/08/02 22:37

慰安婦問題における吉田清治の位置は、南京問題における東史郎の位置ととてもよく似ています。旧日本軍の同僚からの協力がないどころか、

「そんなことを言うな!」

と脅かされ、疎外され、嘘つき扱いされる。クマラスワミ氏は、吉田の逸話に潜む真実を示したかったんだと考えます。


逸話が証拠になるか?

と糾弾されても、そういう話ではない!と返されると思います。元慰安婦のために尽くせる手段はすべて使う。

海外では吉田氏の著述は非情に高く評価されており、アイリス・チャン同様、歴史的な誤謬があっても、そこに描き出される日本軍の戦争犯罪の残虐さと非人間性、それを許したシステムにいまだ日本人が裁きを与えられないでいること。そこをえぐりだした点が大きいのだと思います。実証史学では許されないことでしょうが、人権をテーマとした社会学的アプローチと考えれば問題はないどころか、称賛されるべきだと思ったりします。


hokke-ookami 2007/08/04 08:03

「南京問題における東史郎の位置ととてもよく似ています。」……

手記を編集したら捏造とされたあたりがそっくりですね。たまたま手元にあったので読み返してみましたが、一部の人名を仮名にするなどの注記は最初から前書きにあります。

階行社のような旧日本軍人のための団体でさえ、南京事件への謝罪を発表すると問題視する意見が大量に届いたのだから、一軍人が手記を発表する時の圧力は相当なものがあるだろうと容易に想像できます。だいたい手記への編集程度、戦争犯罪に関わらなくても個人的な戦記では特段に珍しいことではありませんし。

ちなみに、性暴力でなく、記憶が薄れるほど過去でなく、かつ明らかに一方的な被害者である地下鉄サリン事件ですら、被害者を探すことが困難だったという話もあります。被害を証言するだけで心の傷を深めることもあると留意すべきなのでしょう。

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070730/p2

Stiffmuscle 2007/08/02 15:25

吉田清治さんに協力する元同僚は誰もいなかったこと。吉田さんが韓国への配慮から、地名や年月日などを変えて本に書いたこと。秦先生は、そういうものは無視して、吉田は「職業的詐話師」!と糾弾するわけです。


クマラスワミ氏への手紙でも”professional liar”(なんのこっちゃ?)と言って非難してますが、クマラスワミ氏がそんな品性下劣な手紙を真剣に受け止めるはずもなかったでしょう(即ゴミ箱)。

にもかかわらず、秦先生は、例によって、返事が来とらん!と怒って(?)おいでですが・・・

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070730/p2

           _ -―´ ̄ ̄ ̄`ヽ、
          ,/ ,===''⌒''== 、、
        / ,=          ヽ
       /  ,='  _  ∧_ _,,
      /,,_ {i ,〜 〜  /´ ハ^、_
        ヽi} / /   / ヽ_/ ヽ__,,\
         { | _|__,,/ /  ̄ \ヽ
         ヽ | _|∠_// ┬―ゥ ヽ
          |`、ヽ.__ノ    ヽ-‐' _/
  r"      | |{i t    _     / | 詐欺師 秦郁彦は呪われたものとなった
 (   =‐'  | | i} > 、___ヽノ_ ,ィ リ| l| |
  ゝ-'     // i} / }-‐斤ヒl、__| l| |
    r、   //,,i} //}} l|》o《|! {{`lヽ
   __ゝ |i}^V'' __/  }}  ハ  {{ |
   ヽ  ノ'  `j    }}  /X |  {{  |

2. 元従軍慰安婦と済州島の人達が過去を否定した理由

「慰安婦」は商行為か?  上杉聰 


 〔秦郁彦〕氏は、吉田氏が強制連行した済州島まで赴き、証言の真偽を確かめようとした。その結果を

「昭和史の謎を追う−−第37回・従軍慰安婦たちの春秋」

と題して『正論』(1992年6月号)に発表し、同島から「慰安婦」の徴集を示す証言が得られなかったとした。だが、秦氏自身が六〜九万人の韓国・朝鮮人「慰安婦」の存在を認めている人である。どうして日本に極めて近い済州島だけ一人の「慰安婦」も徴収されなかったのだろうか。そんな例外の地域があると考えるほうがおかしい。

現に、尹貞玉・元梨花女子大学教授が1993年に同島で調査を行ったとき、島民の強い抵抗の中で一人の被害者と推定される証言者が名乗り出た。

だが、周囲からの本人への説得と制止によって、それ以上証言をとり続けることを拒否された事実がある
(日本の戦争責任資料センターと韓国挺身隊問題対策協議会による第二回「従軍慰安婦」問題日韓合同研究会)。


 性暴力の被害者すべてに言えることだが、被害を訴え出ること自体に大きな困難が伴う。ましてや儒教が強く残っている韓国社会では、さらに大きな障害となる。したがって、現在元「慰安婦」と名乗り出ている女性のほとんどが身寄りのない単身女性である。それに加えて、済州島という小さな島で名前を明らかにすることは、近隣・親戚に直ちに波及する大事件となる。そして同島は、韓国の中でも差別的に見られていることに留意すべきである。

もし誰かが名乗り出れば、韓国語に翻訳されている吉田氏の著書への関心と合わせて、興味本位の視線が済州島の島民全体に浴びせられる危険性を危惧しない者はいないだろう。それを畏れ、島内には箝口令が敷かれてきた可能性を否定できない。要は証言も含め、資料批判が必要だということである。秦氏の論拠だけで吉田氏の証言を嘘と断定することはできないのである。

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070730/p2

yamaki622 2007/08/03 23:01

「テレビの追跡取材」の記事を拝見して感じたことですが……

韓国に限らず、本人や周囲が性暴力の被害を隠したがるということは往々にしてあるものだと思います。

うろ覚えですが、確か日本で最初に実名でセクハラを訴えた女性が親戚から縁を切られたということを何かの本で読んだことがあります。「女の恥だ」と言われて…。もちろん理不尽な話ですが。

秦氏をはじめ否定派は、強制が事実だとすれば必ず本人や周囲が真相を明らかにしたがるはずと決めつけているようですが、その想定自体が非現実的だと思います。


__________

真実を教えれば (Stiffmuscleの日記)


Linさんの家族は、Linさんが戦争中に受けた苦しみを話しに上海に行くことを反対した。今でも、海南島の村々では村の恥になるとして、慰安婦の苦難を語ることはタブーである。Linさんは勇気を振り絞って話をしたのだと、彼女の支援者たちは言う。

Activist: Japanese former ’comfort women’ suffer in silence (AP via International Herald Tribune - April 28, 2007)
 名乗り出ることができず今も苦しむ日本人元『慰安婦』たち

「米軍兵士の相手をしたことで押された社会的スティグマのために、日本人元慰安婦が名乗り出ることは未だに困難なのです。」

と、東京を拠点とするVAWW-NET JAPANの活動家、信川 美津子 は語る。

「第二次世界戦中に、アジアのいたるところにあった日本軍の売春宿で客を取らされた女性たちも数多くいたが、名乗り出られずに苦しんでいる。現在までに自分の体験を語った女性はごく僅かです。」

被害者が沈黙して語れない理由


軍事紛争下で行われたジェンダーに基づく暴力、その被害者の多くが自分の被害について口にすることを嫌う。


各戦闘勢力からの圧力、

政府からの圧力、

家族からの圧力、もしくは

地域社会からの圧力、


これらはすべて、多くの女性を威圧し沈黙を強いる方向に働くのである。

暴力もしくは紛争が継続している場合、女性が事件を通報することが困難になることも稀ではない。多くの地域で、報復、恥の意識、社会的スティグマは、特定の類型の女性に対する暴力、特にレイプに結びつく。

性暴力を通報した場合の結果に対する恐怖感−拒否、疎外、離婚を招くこと、

結婚生活には不向きだと言われること、

経済的・社会的悪影響など−

のあらゆる恐怖感のために、女性は自分に加えられた暴力を通報することを諦めざるを得なくなるのである。

虐待の現実

1992年以降、旧ユーゴスラビア、フォカ市の女性たちが、ボスニア、セルビア、ユーゴスラビア軍によって組織的に強姦された。ボスニア人女性たち、イスラム教女性たち、そしてクロアチア人女性たちは毎夜、強姦された。また、彼女たちは性的虐待と殴打により外傷を負っていたが、それに対する治療は拒否された。ある12歳の少女は、1992年に10日間拘留され、10回強姦された、また、彼女の母親も2回強姦された。2001年2月、国際刑事裁判所において、ボスニア・セルビア人男性3人が、フォカでの成人女性と未成年の女性に対する強姦罪を含む、戦争犯罪および人道に反する犯罪、33の罪で有罪となった。

これまでに、幼女や高齢の女性を含むあらゆる年齢のコンゴ人女性が何千人も、強姦、身体的暴力、誘拐、もしくは性奴隷状態の被害者となっている。コンゴ東部で医療基盤が破壊されて以降、強姦による外傷や疾患−中には生命に関わるほどのものもあった−を患った女性のほとんどは適切な治療を受けることが不可能になっている。(2007年8月3日追記)

Stiffmuscle 2007/08/02 15:32

「なかった派」は元慰安婦の方々が名乗り出るのにどれだけ勇気がいるかサパーリわかってないですね。

日本人の元慰安婦も同様の理由で名乗り出なかったのだと思いますが、それを「日本人の美徳ゆえ」のように言うのは言語道断でしょう。

ふざけるな!と言いたいです。

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070730/p2


その吉田さん自身が作り話であることを既に認めてますが、その点はスルーですか?(笑)

2007/8/6(月) 午後 8:44 [ momo ]


>吉田証言は、貴重な内部告発として再評価に値すると思います。

じゃあなんで矛盾を突付かれた挙句、作り話だなんて白状するんでしょうね(笑)

2007/8/6(月) 午後 9:47 [ momo ]


>慰安婦が白眼視された社会状況無視、

わたしもここはもっと理解されてしかるべきだと思います。いや、慰安婦問題に関心をもつ日本人は必ず理解しなければなりません。

あわせて、この「済州新聞」は金学順さんが勇気ある名乗りをされる以前のものであること、日本人元慰安婦が名乗りでない理由をそこに重ねて見出すこと、なども当然欠いてはいけない視点だと思います。

>吉田証言は、貴重な内部告発として再評価に値すると思います。

わたしも同感です。吉田がわざと場所や時期などをずらしたこと、最後まで重荷を背負って謝罪を行動で表し続けたこと、このことが持つ意味が理解できない人は愚かです。

2007/8/21(火) 午後 6:04 [ Stiffmuscle ]

http://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/18007158.html

吉田清治さんはこの頃から急にマスコミの脚光を浴びました。しかし、実は吉田さんはその10年も前から懺悔の手記(?)を出版していました。その書名は「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」で三一書房から1983年に出されました。その当時この本はほとんど注目されませんでした。

   ここで吉田さんの所属した労務報国会について簡単に説明します。この組織は1943年、国民総動員令により植民地や日本国内に残った人たちを国のために狩り出すためにつくられました。会長や役員は、貴族院議員や各省庁の大臣がなり、各県の会長には県知事が就任しました。その中で動員部長は要職で相当な権限を持ち「動員」にあたりました。

   その動員部長である吉田さんの弁によれば、吉田さんは済州島の各地で強制連行をしたそうです。その証言に登場した城山の貝殻ボタン工場跡をテレビ朝日が実際に取材しました。その報告はTV番組「ザ・スクープ、従軍慰安婦Part2、戦争47年目の真実」(1992年)で放送されました。

番組では、女性アナの田丸美寿々さんが現地で二人にインタビューしました。一人は城山の長老の洪さんです。

田丸さんの質問「この工場から徴用された慰安婦がいるか」に対し、

洪さんは 「いないよ。いない。この辺にはいないよ。もしいたとすればよそから来た人だよ。何十人か連れていかれたという話もあるけれど、それは済州島の人間じゃないよ」


と微妙な返答をしました。つまり、済州島の人間は連れていかれたことはないが、よそから来た人は何十人か連れていかれたという話をきいていると、肯定とも否定ともとれる返答をしました。

   もう一人インタビューに応じた地元の女流作家、韓林花さんは番組でこう語っていました。


  「(地元の人は)みんな知らないふりをしている。口にしないようにしている問題なんです。日本に女まで供出したことを認めたくないという民族的自尊心と、女は純潔性を何よりも最優先にするものだという民族的感情のせいなのです」

この二人の話をつなぎ合わせると、番組のニュアンスは「強制連行」はあったかも知れないという印象でした。

韓国では身内や一族から「従軍慰安婦」を出したとあっては大変な恥です。こうした精神的風土から戦後、多くの「従軍慰安婦」の女性たちは故郷に戻れませんでした。その上、自分が「従軍慰安婦」であった事実をひた隠しにして生きざるを得ませんでした。

そのあたりの事情をテレビ朝日は1991年に放送したTV番組「ザスクープ・追跡朝鮮人慰安婦、知られざる真実」で紹介していました。その時の番組では、「従軍慰安婦」を多く出したとされる全羅南道のある市場で、妹を連行された女性と周辺の人を取材しました。そのやりとりを記します。

アナ「(この辺で)女の人が狩り出された話を知っていますか?」

男性「(横にいる)ハルモニの妹が連れて行かれた」

アナ「どういう風に連れて行かれたのですか?」

男性「強制的にだよ・・・ここは儒教社会だから体面があってあまり話せないんだよ。自分の家から女子挺身隊を出したとなると、他の者の結婚にもさしつかえる・・・

結婚してたら連れて行かれないというので、12から14歳くらいでみんな結婚させたんだよ。連れて行かれたらもう消息が途絶えちゃうんだ。行方不明の人多いよ」


アナ「おばあさんはそれから妹さんに会いましたか?」

ハンメ「会っていない。行方不明だよ。生きているのか死んでいるのかわからない」


(注)ハンメ、ハルモニ=おばあちゃん、おばあさん


このように行方不明になった多くの人は、麻生徹男軍医官のいう「皇軍兵士への贈り物」にされ、「衛生的な共同便所」の役割を果たしたのでした。その数は朝鮮人だけでも10万人とテレビ朝日は紹介していました。


さて、吉田証言にもどりますが、地元の新聞「済州島新聞」は強制連行の事実を否定した記事をわざわざ載せたそうです。これは韓林花さんのいう「民族的感情」を裏付けているのかも知れません。

   吉田さんは、独立紀念館の近くにある韓国最大の集団墓地「望郷の丘」に自費で「謝罪の碑」を建てました。これに対し秦教授は今度は「職業的演技者」とでも呼ぶのでしょうか?

http://www.han.org/a/half-moon/hm012.html#No.117

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3. まともな研究者で吉田 清治の証言内容自体を疑っている人は一人もいない


吉田証言で問題とされているのは吉田さんが元従軍慰安婦の方のプライバシーと心情を考えて、地名や年月日などを変えて本に書いたことだけなのです。

吉田 さんは現在でも、『秦郁彦に電話で自分の嘘を白状して』無価値になった筈の本を廃刊していません。

自分が書いた本の内容が、元従軍慰安婦関係者に対する守秘義務によって変更せざるを得なかった部分を除いてはすべて真実だからでしょう。 :


朝鮮人慰安婦と日本人―元下関労報動員部長の手記 吉田 清治 (著) 発売日: 1977/03
http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E2%80%95%E5%85%83%E4%B8%8B%E9%96%A2%E5%8A%B4%E5%A0%B1%E5%8B%95%E5%93%A1%E9%83%A8%E9%95%B7%E3%81%AE%E6%89%8B%E8%A8%98-%E5%90%89%E7%94%B0-%E6%B8%85%E6%B2%BB/dp/4404007957/ref=sr_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1324384207&sr=1-3

私の戦争犯罪 吉田 清治 (著) 発売日: 1983/7/1
http://www.amazon.co.jp/%E7%A7%81%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E7%8A%AF%E7%BD%AA-%E5%90%89%E7%94%B0-%E6%B8%85%E6%B2%BB/dp/4380832317


吉田清治の「私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録」


吉田の記述は済州島の城山浦にある貝ボタン工場という設定

若くて大柄な娘に、山田が「前へ出ろ」とどなった。

娘がおびえてそばの年取った女にしがみつくと、山田は・・・・台をまわって行って娘の腕をつかんで引きずりだした・・・・

女工たちはいっせいに叫び声を上げ、泣き声を上げていた。隊員たちは若い娘を引きずり出すのにてこずって、木剣を使い、背中や尻を打ちすえていた。・・・・

女工の中から慰安婦に徴用した娘は十六人であった。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog106.html


「4、5日から一週間で若い女性50人を調達しなければならなかったので
警察や軍を使って乳飲み子のいる若い母親にまで襲いかかり、奴隷狩りそのものだった」(北海道新聞、92.2.25)。

http://www.han.org/a/half-moon/hm012.html#No.117

吉田清治さんは『私の戦争犯罪』(1983年)中の「第3話 済州島の慰安婦狩り」という章で、労務報国会下関支部の動員部長だった自分がどのように慰安婦“狩り”を行ったかを告白している。彼は済州島に駐屯していた日本陸軍の協力で11人の歩兵と軍用トラック2台を得た。

吉田清治さんの戦争犯罪の告白


1943年5月、このころ朝鮮人は日本軍にひっぱられれば彼らの“えじき”になると思っていた。吉田の徴用隊は


まず帽子をつくる家を襲撃して2、30人の女性のうち8人を連行した。

女性たちが悲鳴をあげるや4、5人の強壮な朝鮮人の男たちが道をふさいだ。

銃剣でおどしても男たちは手を振り上げ朝鮮語で必死に抗議した。

隊員たちが銃剣を突き付けるとようやく逃げて行った。

「アイゴ、アイゴ」と泣き叫ぶ女性たちをトラックに押し込んだ。

トラックは林の中に入って行った。

吉田は徴用隊長の依頼に従って隊員たちにたった今捕らえてきた女性たちと“遊ばせ”た。

 城山浦のボタン工場でのことだ。

ためらう社長をどなりつけて工場の中に入った。女工たちは30人ほどだった。

徴用隊が「作業停止!」と叫ぶや女性たちは悲鳴をあげた。

慰安婦の女性を選別していると、一人の老婆が隊員の腕にしがみついた。横にいたほかの隊員が老婆の頭にまいていた手拭をつかんで頬を殴りつけた。

妊娠中でおなかの大きな女性のスカートを捲りあげて下着に隠されたおなかを見た。年のいった女工が吉田に駆け寄って

「朝鮮の女をどうするのですか!」

と日本語で抗議した。吉田は

「戦争のためだ、じゃまするな!」

と怒鳴り、女工は朝鮮語で泣き叫びながら吉田に抗議し続けた。吉田は彼女を押しのけ、別の徴用隊員が彼女の顔を殴った。

この工場での「収穫」は16人だった。門の横で見守っていた社長は言葉もなく行ってしまった*3。・・・・・・

尹貞玉 他『朝鮮人女性がみた「慰安婦問題』、三一書房、1992年、32〜33ページ

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080809/p1#tb

 吉田清治の証言自体の信頼性はどうか。これに疑問をいだいた秦郁彦教授は、済州島にいって調査したが、現地でえられた証言は否定的なものばかりだったといっている。そのほか、この証言にたいする多くの疑問がだされているが、吉田さんは反論していない。

 そこで、私たちは、一九九三年五月に吉田さんを訪ね、積極的に反論するよう勧めた。また、誇張された部分があれば、訂正すべきだとも申し入れた。とくに、この本(※『私の戦争犯罪(三一書房)』)のなかにある動員命令書がキーポイントとなるので、吉田さんがいうようにもしそれが奥さんの日記に書いてあるのであれば、日記のその部分を公開したらどうか、もしそれがないのなら訂正すべきではないかといった。

 これに対し、吉田さんは、日記を公開すれば家族に脅迫などが及ぶことになるので、できないと答えた。そのほか回想には日時や場所を変えた場合もあるとのことだった。

 そこで、私たちは、吉田さんのこの回想は証言として使えないと確認するしかなかった。なお、私は、一九九一年から慰安婦問題の研究をはじめたが、この間、吉田さんのこの証言はいっさい採用していない。

 証言としてかんじんな点となる場所や前後関係に変更が加えられているとしたら、済州島での慰安婦[徴用]にかんする吉田証言を、事実として採用するには問題が多すぎる、というほかない。吉田さんには、慰安婦徴募にかんするみずからの体験を伝聞と区別して正確に証言されるよう望みたい。

吉見義明・川田文子「『従軍慰安所』をめぐる30のウソと真実」大月書店1997.6(P.26〜27)

http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/70/

ところで、N.Mさんはこれまでに何回となく吉田証言は嘘だと断言し、それを前提として議論を展開されていますが、これって、何か証拠があるんですか?

私の知る限り、今までのところそんなものは出ていないと思うんですが。

ここで、邪推される前に吉田証言に関する私の見解を明らかにしておきますが、私としては、吉田証言は「時」と「場所」という証言として最も重要なポイントが改変されているので、証言としては使えない(無価値である)と考えています。しかし、嘘だと断定しうるほどの根拠もないし、真偽については今のところ不明としか言いようがない、と思います。


_______


吉田証言が否定されたなら、これまで報道してきた責任上、読者にそう報道すべきでしょう。途切れてしまって、何ら報告のない限り、吉田清治ばりの公的な機関が公的な命令で「奴隷狩り」のような方法で韓半島において女性を集めたという報道が、そのままに信じられる危険性があるのです。


________


明白に「否定された」のならそのとおりでしょうね。しかし、前回も書いたとおり、吉田証言は証言としては*使えない*ものの、決定的な反証が出たわけでもない真偽不明の状態ですから、拙速に「否定された」などと報道するわけにはいかないと思いますよ。

___________


はあ? 吉田証言のポイントは、日本の官憲が慰安婦の強制連行(それも直接的暴力による連行)を行った、ということでしょう? クマラスワミ報告書には秦氏の反論として、


「…博士の説明では、彼は1991〜1992年に大韓民国の済州島を史料収集のため訪れたが、「慰安婦犯罪」の主犯は実際には朝鮮人区長、売春宿の持ち主及び少女自身の親たちでさえあった。教授の主張では親たちは娘の徴集の目的を知っていたというのである。…」


と記載されています。徴集の主犯は朝鮮人である区長や親たちであったという主張が、官憲による暴力的連行を証言する吉田氏への反論になっていないとは、何のことだか全く理解できません。


 これに関して、秦郁彦『昭和史の謎を追う(下)』文藝春秋社では、秦氏の済州島における調査の結果ととも次のように証言の問題点について述べています。


(1) 慰安婦狩りの命令は

西部軍→山口県知事→下関警察署長→吉田

のラインで来たとしているが、関係者はこのような命令系統はありえないと否定する。依頼だとしても、済州島をふくむ朝鮮半島は朝鮮総督府と朝鮮軍の管轄下にあり、内地から出張しての狩り込みはありえない。もし必要があれば総督府が自身の手で集めるはずだと関係者が述べている。


(2) 第一作である『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社、一九七七)には、四四年四月労報が初めて慰安婦狩りを手がけたと記述し、第二作(一九八三)の済州島行き(四三年五月)と矛盾する。


(3) 第一作に四四年二月結婚とあるが、第二作には済州島行き計画は、死んだ「家内の日記」に書いてあったと記述している。(p.336)


このあたりについては、吉田氏自身、時と場所が異なる事件を出版社の要請に応じて一つにまとめるなどの改変を行っていることを認めているんですから、矛盾がどうのと言ってみても無意味では。

繰り返しになりますが、こういう矛盾の有無の検証とか、現地調査との突き合わせとかは、吉田氏が自分の体験を(時と場所の特定を含めて)正確に話してくれない限りできないのであって、だから吉田証言は現状のままでは証言としては使えず、無価値であると言っているんですよ。


それで、「吉田証言は「時」と「場所」という証言として最も重要なポイントが改変されている」ということは、「吉田証言」は紛れもない「嘘」ではないですか。「改変」でしょう。記憶が曖昧なのではなく、そこに意図が働いているわけですから、「嘘つき」ということではないですか。

________


あれ?

N.Mさんが言う「嘘」って、吉田氏が証言中の「時」とか「場所」を偽っている、などというレベルのことだったんですか?


私はてっきり吉田氏が実行したという「慰安婦狩り」そのものが事実無根の真っ赤な嘘だとおっしゃっているんだと思ってたんですが。

N.Mさんの言う「嘘」がその程度のものなら、この件に関して私とN.Mさんの間に意見の相違はないことになってしまうんですが、そうなんですか?


では、なぜ「吉田証言」が「クマラスワミ報告書」に取り上げられたのでしょう。無価値で真偽も不明で、まともな学者は誰も相手にしていないのでしょう。どうして取り上げられたのですか?

_________

まともな研究者は「相手にしていない」のではなくて、重要視していない、のです。吉見氏らは、別に吉田証言を嘘だと決め付けたりしているわけではありません。例えば、上杉聰氏は次のように述べています:

吉田証言は根拠のない嘘とは言えないものの、「時と場所」という歴史 にとってもっとも重要な要素が欠落したものとして、歴史証言としては採用できない というのが私の結論であるし、吉見教授も同意見と思われる。 …

多くの研究者の関心は、吉田批判がなされた当時すでに同氏の証言の真偽へ向いてはいなかった。むしろ「強制」の内容の方に関心が集中していたのである。次々と被害者が名乗り出ていたことで、統計的な処理も可能となり始めており、暴力的な連行そのものは限られたものであることが判明していたからである。


吉見氏の意見は次のとおりです:

証言としてかんじんな点となる場所や前後関係に変更が加えられているとしたら、済州島での慰安婦「徴用」にかんする吉田証言を、事実として採用するには問題が多すぎる、というほかない。吉田さんには、慰安婦徴募にかんするみずからの体験を伝聞と区別して正確に証言されるよう望みたい。

しかし、だからといって、朝鮮では強制連行がなかったといえないことは1でのべた。また、戦争末期に済州島を含む朝鮮で、どのような徴募が行われたかという実態究明は、今後の課題として残っている。

[1] 吉見義明・川田文子編著『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』 大月書店 p.15
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/hatsugen/ianfu-yoshida.htm#fj971027


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4.吉田清治を詐欺師だと断じた なんちゃって教授 秦郁彦の証拠捏造の手口


産経グループのプロパガンダには、「嘘も百回つけば真実に成る」式の、学問的裏付のない特定の“似非事実”をたらい回ししながら既成事実化し、社会に拡散させていく特定のパターンがある。

古森氏は、「『吉田証言』は歴史家の秦郁彦氏らの調査などで虚構だったことが立証された」とするが、真っ赤な嘘である。

 韓国語も理解できない秦氏の「現地調査」は学術的調査とは程遠いもので、一個人の独断の域を出るものではない。 従軍慰安婦の存在を証明する資料は少なくないが、その中でも、吉田証言が旧日本軍人として従軍慰安婦について明らかにした貴重な資料であることは現在も変わらない。

 産経新聞などの常連寄稿家である秦郁彦氏は、河野談話が出される前の1992年3月29日に済州島に渡り、吉田証言を「実地検証」をしたという。  しかし、その内容たるや、康大元なる「海女研究家」を通訳に立て、「城山浦の老人クラブ、貝ボタン工場の元組合員など五人の老人と話し合って、吉田証言が虚構らしいことを確認」という程度のことでしかない。

 「実地検証」と言うにはあまりにお粗末な代物だが、敵意や憎悪を煽って矛先を変えるプロパガンダの要諦だけは心得ているようだ。ろくな調査もせず、人の話をだしにしながら吉田氏を「詐欺師」扱いする傲慢無礼な論法は、学者らしからぬ。曲学阿世の輩、というべきであろう。  

案の定、秦氏は学会などで「秦氏の乱暴な引用の仕方が史実を歪曲している」 としばしば批判されている。

「現地調査」とは名ばかりの粗悪品が「立証」などともてはやされるのは、右派保守陣営のニーズに合致したからで、実際、秦氏は復古主義者のデマゴーグとしての役割を担ってきた。  吉田氏のような良心に基づく内部告発者を「詐欺師」と罵倒し、被害者である従軍慰安婦の声をことさら無視するのは、その姿勢が、加害者である旧日本軍の側に偏っているからではないか。

http://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/18007158.html

Stiffmuscle 2007/08/03 23:11

『 私はこの貝ボタン工場のあった城山浦にも行ってみた。海女の研究家でもある康大元(慶応大学出身)の通訳により、老人クラブで四、五か所あった貝ボタン工場の元組合員など五人の老人と話しあって、男子の徴用はあったが慰安婦狩りはなかったらしいことを確認した。

 公立図書館では一九七六年頃に吉田が済州島を旅行したときの関連記事を新聞で探して見つからなかったが、思わぬ拾いものがあった。(232ページ)』

この後、新聞記事の話になります。調査ってこれだけ?ってことでしょうね・・・

Stiffmuscle 2007/08/03 23:29

秦先生は吉田氏と直接会ったことはなかったみたいです。長時間の電話インタビュー(秦の言)を1992年に2回、1996年、1997年と1998年にそれぞれ1回、計5回行ったのがコンタクトの全てのようです。

秦氏は吉田氏と直接面会したことはなく、電話で5度インタビュー(吉田証言否定までには2度のみ)しただけ。

1992年 3月13日
1992年 3月16日
1996年 3月27日
1997年 4月 6日
1998年 9月 2日

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070730/p2

秦郁彦『慰安婦と戦場の性』批判 林博史


 引用の恣意性もひどい。西野瑠美子氏が下関の元警察官に聞き取りをし、済州島での慰安婦の狩り出しについて

「『いやあ、ないね。聞いたことはないですよ』との証言を引き出した」(二四二頁)

と元警察官がはっきりと否定したかのように書いている。


 この聞き取りには私も同席していたが、西野氏の本ではその引用された言葉の後に

「しかし管轄が違うから何とも言えませんがね」

と続いている。証言者は、自分は知らないが管轄が違うから断定できないと謙虚に話しているのだ。ところが秦氏は後半をカットすることによってまったく違った結論に導こうとする。

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070730/p2

慰安婦と戦場の性 (新潮選書) 秦 郁彦 (著) の書評


反論の為の内容のない本, 2007/5/11 By アマゾン太郎 "慰安婦の本はかなり読んだが"

慰安婦について吉見義明と違う見方を示すある意味貴重な本だが、内容はどうだろうか?

著者の関心は慰安婦自体にはなく、吉見義明への反論にしかないように見える。

この本自体では慰安婦がどういう生活をしていたか、慰安所という仕組みがどのように作られたか全く見えてこない。結局この本の価値は最後の7つの論争点にしかないように思う、しかしそれも2007年の今となっては産経新聞などで聞き飽きたものであり、時間が経つにつれ内容の貧困さが顕わになってきたように感じられる。

また反論を提起するそうした内容自体についても憶測、伝聞などはっきりしない書き方が多くて、そもそもこれが研究と言えるのか?という感じが否めない。これは私1人の感想ではなく例えば刑法学者の前田朗は戦争責任研究という雑誌で同じ事を書いていることである。

いわゆる自由主義史観論者の中でただ1人研究者として慰安婦について本を書いた訳だが、秦氏は慰安婦がどの位行動の自由があったか、いくら収入があったか示せず具体的に示せず、その力の限界を露呈したように感じた。


期待はずれ、やや力不足なり, 2007/5/16 By 相田祐治

日米開戦や蘆溝橋事件などの緻密な研究を予想したが、期待はずれだった。 文献引用は多いが実際の調査に基づくものではなく、資料研究の域を出ていない。

肝心の慰安婦の生態についても同様で、あまり細かい説明はなく、なにか読み物(小説)のような感じを受ける。この感覚は千田夏光などの1970年代の本と同様であり内容自体も同じとも言える。

秦氏が力を入れているのは、国連の報告書の批判や、吉田清治の嘘の告発、他国の似た制度の話だが、現在では強制連行があったか否か・性奴隷なのか売春婦なのかが焦点となっておりこの点でも期待はずれだった。

元兵士などへのインタビューなどもあるが決定打に欠け結局結論が出ず終いである。やはり秦氏には慰安婦はやや専門外だったという印象だ。


なぜ兵士の証言は採用するのか?, 2007/5/23 By Salute

今や右派雑誌?「諸君!」の常連執筆者となり完全に自自由主義史観論者となってしまった歴史家の過去の著作。

この当時はまだ現在のような詭弁的な論は立てておらず、この本は慰安婦についてある見方に立ってかなり網羅的に書かれている。しかし時期が古いためか、著者としても自信がないためか、強制連行はあったのか?証言は信用できるのか?など疑問点についてきちんと答えておらず曖昧な印象を受ける。

秦氏は証拠資料の調査に基づくいわゆる実証主義の歴史家(証拠のある歴史)と言われ、この本でもそれが期待されるが、慰安婦関係の多くの政府・軍資料の検討・批判はなぜか行われていない。また秦氏がいう所の民間業者が軍相手に抱えている慰安婦の存在に関する一次資料は、まったく登場せず、この点では残念ながら実証主義とは言えない。

代わって秦氏が採用したのは、当時の兵士の体験・証言であり、それまでの秦氏ならば採用しない口伝に基づいた慰安婦の歴史が記されるのは驚きだ。なぜなら、秦氏は一方では元慰安婦の証言を、様々理由で怪しいとしており、元兵士の証言は信用するが、元慰安婦の証言は信用しないというダブルスタンダードが採用されているからだ。

この点に気付くとこの本の信頼性には首をひねらざるを得ない。

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『済州島新聞の吉田清治記事』

秦郁彦著 『慰安婦と戦場の性』(1999年、新潮選書)232〜233ページより引用

1989年に吉田〔清治〕著が韓国語訳(清渓研究所現代史研究室)されたとき、『済州新聞』の許栄善記者が書評を兼ねた紹介記事を書いていたのである。1989年8月14日付の記事の邦訳は次の通りだ。


 『開放解放44周年を迎え、日帝時代に済州島の女性を慰安婦として205名を徴用していたとの記録が刊行され、大きな衝撃を与えている。しかし裏づけの証言がなく、波紋をひろげている。(ついで吉田著の概容を紹介)

 しかしこの本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で15〜16人を強制徴用したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を、裏づけ証言する人はほとんどいない。

 島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信憑性に対して強く疑問を投げかけている。城山浦の住民のチョン・オクチョン(85歳の女性)は「250余の家しかないこの村で、15人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」と語った。

 郷土史家の金奉玉(キムポンオク)は「1983年に日本語版が出てから、何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨している」』

秦先生の翻訳と重なる部分(akiraさんによる記事の全訳より)


 『解放44周年をむかえて、日帝時代に済州道の女性を慰安婦として205人を徴用して行ったという記録が出てきて、大きい衝撃を投げかけているが、後押し証言がなくて、波紋を投げかけている。

 しかしこの本の記録による城山浦ボタン工場で15〜16人を強制徴発した記録らでも..........

 ....信憑性に対する疑問をより一層投げかける。


 城山里の住民丁玉丹氏(85)は「そうしたことはない。250人余家しかならない村で15人も徴用されたなら、どんなにか大きな事件なのに... 当時そんなことはなかった」と言い切った。

 郷土史学者金鳳玉氏は「日本人たちの残酷性と没良心的な一面をそのまま表わしたものだ。とても恥ずかしくて口にすることもできない話をそのまま書いたことで、本という名前をつけることもできない。83年原本が出てきた時、数年の間追跡した結果、事実無根の部分もあった。むしろ彼らの邪悪な面を表わした道徳性が欠如した本で、軽薄な商業主義な面が追加されたものだと見なせる」と憤慨した。 (許栄善記者)』

産経の阿比留記者が引用した翻訳

で、「日韓誤解の深淵」には、この吉田氏の本の韓国語訳が出版された際の地元紙、「済州新聞」(1989年8月14日付)の記事が西岡氏によって日本語訳されたものが載っています。それは次のような内容でした。


 《解放44周年を迎え、日帝時代に済州島の女性を慰安婦として205名徴用していたとの記録が刊行され、大きな衝撃を与えている。(略)しかし、この本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で15~16人を強制徴用したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を裏づけ証言する人はほとんどいない。島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信ぴょう性に対して強い疑問を投げかけている。

 城山里の住民のちょん・たんさん(85歳の女性)は「そんなことはなかった。250余の家しかないこの村で、15人も徴用したすれば大事件であるが、当時そんな事実はなかった」と語った。

 郷土史学者の金奉玉氏は「(略)83年に原本(私の戦争犯罪…)が出た時何年かの間追跡調査した結果、事実無根の部分もあった。むしろ日本人の悪徳ぶりを示す道徳性の欠けた本で、軽薄な商魂が加味されていると思われる」と憤慨した。》

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/200707

週刊新潮 1995年1月5日号の秦先生の言

「済州島での実地検証の結果は、吉田証言を裏付ける話は何一つ出てこないだけでなく、郷土史家の金奉玉氏は、吉田本の翻訳が出た後、何年も追跡調査をした結果、”そんな事実はなかった”と断定し、”あの本は日本の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物”とこき下ろしている。」(秦郁彦氏)

(WiLL 8月増刊号『「従軍慰安婦」と断固、戦う!』(2007年、ワック・マガジンズ、122ページ)


編集者の二重引用符のつけ方が悪いのかもしれないが(なぜ””なのかも理解できない)、秦先生自身が微妙に言を変えているのが気になる。他の記事での発言はどうなっているのだろう?元慰安婦の証言を「身の上話」としてわずかな表現の食い違いを指摘して、慰安婦の証言に疑問を投げかけてきた先生だけに、自分の言にも常に寸分違わぬほどの正確さを求めないと、ダブル・スタンダードですし、そんなお粗末なことをおやりになるはずないのに不思議です。

hangulさんからのご指摘

第3段落の後半部、「城山浦の住民のチョン・オクチョン(85歳の女性)」については細かいですが「城山里の住民チョン・オクダンさん(85歳)」が正しいです。

この郷土史家氏は捏造についてではなく、日本人たちの犯した行為のあくどさに「憤慨」していると読み取れます。

「事実無根の部分もあった」 → 「事実でないと発見した」(秦氏)。

この論法、もううんざり…

yamaki622 2007/08/02 10:29

済州新聞の日本語訳の元ネタは、西岡力の著書『日韓誤解の深淵』(1992年)のようです↓

http://abirur.iza.ne.jp/blog/day/20070324/


ただし西岡氏も、hangulさんやakiraさんと同じく「事実無根の部分もあった」と訳しています。西岡氏も秦センセイと同様、慰安婦の強制性否定論者です。秦センセイは、お仲間の著書から引用を改ざんして載せたようです。無茶苦茶ですね。


阿比留記事を紹介してくださったyamaki622さんからのご指摘

西岡氏も、hangulさんやakiraさんと同じく「事実無根の部分もあった」と訳しています。


わたしが疑問に思ったこと。

金学順さんが名乗り出られた1991年以前に書かれた記事(1983年)であること。

慰安婦狩りの話を裏づけ証言する人はほとんどいない。

こういう肝心な部分は引用しないのは何故でしょうか?

ところで朝鮮人らを徴用したことに関する公式記事や関係文書は敗戦直後内務次官の通告により全国道・富・県知事の緊急命令書が各警察署場らに発送されて完全廃棄処分された。

新聞記事の切れた部分には何が書いてあったのか?


akira 2007/07/31 12:14

(新聞の全訳)(左から1列目)

 日帝済州で慰安婦205人徴発していた。

 日本人手記「私は朝鮮の人をこのように...」波紋

 解放44周年をむかえて、日帝時代に済州道の女性を慰安婦として205人を徴用して行ったという記録が出てきて、大きい衝撃を投げかけているが、後押し証言がなくて、波紋を投げかけている。

 42年から敗戦する時まで約3年の間山口懸労務報国会の動員部長として朝鮮の人々を徴用することに従事した吉田清治氏の戦争犯罪記録”私は朝鮮の人をこのように捕まえて行った”がそれで清渓研究所現代史研究室により83年版を翻訳発刊したこと。

 ここには「光州での男性強制連行」と「済州道での慰安婦狩り」に対してついて引っ張って行った当時を記述している。
 この記録によれば

△皇軍慰問朝鮮人女挺身隊200人
△年齢! 18才以上30才未満
△身体健康な者
△期間1年
△給与月30円
△準備金で前金20円
△勤務地中支方面
△動員地域朝鮮全羅南道済州.....


(真ん中の見出し)
 住民たち”ねつ造”... 日本 破廉恥 商業主義に憤慨
 著者は当時山口県労務報国会動員部長.
 ”城山浦ボタン工場・オンポ・ポブァン里などで強制徴用”主張...

(左から2列の下段)
 女たちをみんな捕まえてのせて、車の速力を高めてそこを離れた。高い岩山の間を貫かれた道を帰るやピヤン島が見えた。広い海には帆船らがじょじょに浮かんでいたし水平線はとぎれとぎれに.......

(左から3列目)
 ...を迎えながら組合長だと挨拶した。私は直ちに組合長に口頭で通告した。この工場で二十歳ぐらいになる女たちを徴用する、直ちに工場中を見て回れ、女たちも協力しろ!” (済州道での慰安婦狩り”一部).

 わいせつで排他的な表現までそのまま使ったのだ。

 ところで朝鮮人らを徴用したことに関する公式記事や関係文書は敗戦直後内務次官の通告により全国道・富・県知事の緊急命令書が各警察署場らに発送されて完全廃棄処分された。

 しかしこの本の記録による城山浦ボタン工場で15〜16人を強制徴発した記録らでも..........

(左から4列目)

 ....信憑性に対する疑問をより一層投げかける。

 城山里の住民丁玉丹氏(85)は「そうしたことはない。250人余家しかならない村で15人も徴用されたなら、どんなにか大きな事件なのに... 当時そんなことはなかった」と言い切った。

 郷土史学者金鳳玉氏は「日本人たちの残酷性と没良心的な一面をそのまま表わしたものだ。とても恥ずかしくて口にすることもできない話をそのまま書いたことで、本という名前をつけることもできない。83年原本が出てきた時、数年の間追跡した結果、事実無根の部分もあった。むしろ彼らの邪悪な面を表わした道徳性が欠如した本で、軽薄な商業主義な面が追加されたものだと見なせる」と憤慨した。 (許栄善記者)

※だいたいこんな感じの記事です。

コメント一覧

hangul 2007/07/31 00:56

第2段落と第3段落の前半は記事の下の部分が切れているので判読できません。

最終段落について郷土史学者のコメントをすべて示すとこうです。

「日本人たちの残酷性や没良心的な一面をそのまま現したものだ。とても恥ずかしくて口にすることもできない言葉をそのまま書いたという意味で(この吉田の本に:hangul注)本という名前を付けることもできない。83年の原本が出た時、何年か追跡した結果、事実無根の部分も(!:hangul注)あった。むしろ、彼らのあくどい面を現した道徳性が欠如した本として、薄っぺらい記述がある面も加味して見る」と憤慨した。

この郷土史家氏は捏造についてではなく、日本人たちの犯した行為のあくどさに「憤慨」していると読み取れます。
さしあたってこんなところでしょうか。

hangul 2007/07/31 01:07

分かりにくかったかもしれないので補足を。


・「事実無根の部分もあった」→「事実でないと発見した」(秦氏)。

この論法、もううんざり…


・こりゃ歴史学者失格でしょう


akira 2007/07/31 08:59

しかし、「事実無根の部分もあった」→「事実でないと発見した」はひどいですね。



Stiffmuscle 2007/07/31 09:04

やっぱり捏造やトンデモ解釈があったんですね。

もう陰謀論者じゃないですか、吉田清治さんひとりを社会的に葬り去っただけでなく、嘘の歴史を作り上げ、多くの日本人を騙し、慰安婦たちの苦しみを増やした。

2,3段落も、わざと切り取ったんじゃないか?と邪推さえしたくなります。


hokke-ookami 2007/08/01 07:58

「事実無根の“部分”もあった」というのが郷土史家の意見ならば、吉田証言には出版時の編集が入っているという吉見教授らの指摘と同じで、妥当ですね。

そもそも吉田証言は従軍慰安婦問題と全く別個に出版された個人的な戦記であり、出版社から内容に編集を加えるよう意見があったと本人が証言しており、「軽薄な商売的な面が追加されたものと見る」といった部分も当を得ていると思います。

http://space.geocities.jp/japanwarres/center/library/uesugi01.htm

日本歴史学で主流の見方と同じような韓国郷土史家の意見に対し、翻訳時に秦教授の考えと合うようにずらしていった感じですね。

Stiffmuscle 2007/08/02 15:10

しかし、肝心な部分を捏造して、自論を補強するのは、秦先生の常套手段です。ほんとに悪質。

Stiffmuscle 2007/08/02 15:15

hangulさんが具体的に問題点を指摘してくださったので、この新聞記事に関する秦捏造の本質がよく見えてきました。金学順さんが名乗り出られた1991年以前の記事であることに留意する必要もあると思います。



Stiffmuscle 2007/08/02 15:32

西岡ネタの改竄ですかw しかも、真相を載せたのがアヒルさんってのも素敵w

Stiffmuscle 2007/08/03 21:14

秦氏が後に吉田氏に電話で確認したところ、慰安婦の強制連行は

「済州島ではなく、全羅南道でのできごとだった。」

と吉田氏は話したそうですが、この真偽は秦氏に直接訊かない限りわかりません。どちらにしても、それについて秦氏は調査をしていないわけで、どのみち、都合のよいところ取りを重ねただけの結果になりますので、最近では、この話自体を秦氏が持ち出していないようです。

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070730/p2

yamaki622 2007/08/02 17:39

「秦郁彦の研究により吉田証言は虚偽と証明された」というのが”通説”になってますから、Stiffmuscleさんに問題提起していただいてなければ、まったく気づかないところでした。

それから、hokke-ookamiさんやStiffmuscleさんも言及なさっている件で、私もこの問題に詳しくない方のために書いておきたいのですが、吉見義明教授は「吉田さんのこの回想は証言としては使えない」としながらも「真偽は不明」としています。秦氏のように虚偽だとは言っていません。詳しくは

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/hatsugen/ianfu-yoshida.htm

をご覧ください。

hangul 2007/08/02 18:02

Stiffmuscleさん
>金学順さんが名乗り出られた1991年以前の記事であることに留意する必要もあると思>います

この指摘は重要だと思います。名乗り出ることの勇気をふまえて、この記事は解釈されるべきでしょう。

否定派がよく言うように、85歳の女性の証言だけでなくその背景を押さえることが大切だと思います。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog106.html

のサイトに、「現地調査を行った秦郁彦日大教授は、許栄善女史から、

「何が目的でこんな作り話を書くのでしょうか」

と聞かれ、答えに窮したという」とあったのですが、これが本当だとしたらもう訳が分からなくなってきます。

何重の嘘を重ねているのでしょうか、秦先生は?

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070730/p2


秦郁彦のいい加減な検証では吉田証言を否定する根拠にはならない。
韓国語も知らないで無謀にも現地調査に行った秦は、通訳にだまされたのかもしれない。

2007/5/22(火) 午後 11:39 [ furuhausu66 ]


秦郁彦氏の「済州島調査」には非情に大きな疑義を抱かざるを得ません。


・『済州島新聞』記事にたいする秦氏の翻訳の決定的な間違い。

・新聞記事は金学順さんが韓国人元慰安婦として初めて勇気ある名乗りをされた以前のものであること。

などを見出しており、なお研究中です。

2007/8/4(土) 午後 11:37 [ Stiffmuscle ]


秦郁彦氏の「済州島調査」は、極めて粗雑なものです。韓国語を解さない資質上の問題、慰安婦が白眼視された社会状況無視、さらに、先に結論ありきの論理構成など学術的な調査とは程遠いものです。

その後の彼の、特定の保守系紙と結びついたデマゴーグ的立場は偶然ではないでしょう。吉田証言は、貴重な内部告発として再評価に値すると思います。

2007/8/6(月) 午後 9:07

http://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/18007158.html

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吉田清治(ヨシダ・セイジ) ◆◆◆

1913年10月15日生まれ。本籍は福岡県芦屋町西浜
1937年、満州国地籍整理局に就職
1977年3月、『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社)を出版。その中では、朝鮮人慰安婦調達に関わる体験談がハイライトになっている。(ただし、慰安婦は狩り立てではなく、朝鮮人地区の女ボスが話をつけて労報へ中継ぎする方式になっている)
1982年9月2日、朝日新聞(大阪版)に大阪での市民集会の講演内容が掲載され、慰安婦狩りの告白が初登場。

http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/70/

【年表】秦郁彦と吉田清治

1977/03/01 吉田清治 『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社)発行
1983/07/31 吉田清治 『私の戦争犯罪−朝鮮人強制連行』(三一書房)発行
1983/12/ 吉田清治 天安市の国立墓地に「謝罪碑」を建てるため訪韓
1983/11/10 朝日新聞(「ひと」欄) 吉田清治氏が韓国に謝罪碑を建てるニュースの紹介
1989/08/ 吉田清治 吉田著、韓国語で出版(青渓研究所現代史研究室)
1989/8/14 済州新聞(韓国) 吉田著の書評を掲載
1991/08/11 朝日新聞 「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」の見出し。 元慰安婦で初めて名乗り出た金学順さんについての記事
1991/08/14 金学順 ソウルで記者会見
1992/01/23 朝日新聞(夕刊) 吉田清治さんへのインタビュー
1992/03/13 秦郁彦 吉田清治氏に電話インタビュー(1)
1992/03/16 秦郁彦 吉田清治氏に電話インタビュー(2)
1992/03/29 秦郁彦 済州島に到着、調査を行う
1992/04/30 産経新聞 秦氏の済州島での調査結果を報道。

『儒教の伝統の強い韓国で被害者の家族が名のりでないのは当然』

との吉田談

1992/05/25 朝日新聞 吉田氏が、7月、韓国に「謝罪の旅」に出るとの記事
1992/05/ 秦郁彦 『正論』6月号で、済州島での実地調査を発表。
1992/08/12 吉田清治 訪韓し、金学順さんに謝罪
1992/11/24 週刊新潮 吉田氏が93年春に訪米し、国連事務総長に慰安婦問題をアピールする予定との内容含む
1992/12/24 1992/12/31 週刊新潮 吉田氏の

「私が書いたことは全部事実、
しかし他の人に迷惑をかけるといけないからぼかして書いたところがある。」

との内容を含む 
   
1993/02/ 秦郁彦 『昭和史の謎を追う(下)』発行
1995/01/ 週刊新潮 1月5日号で「吉田清治の証言は事実無根である事が判明したとの記事を掲載
1996/03/13 秦郁彦 吉田清治氏に電話インタビュー(3)
1996/05/ 週刊新潮 5月2日/9日号で、吉田清治氏へのインタビュー。

吉田氏は著書の一部に創作があったと話す。

1997/03/31 朝日新聞 吉田氏についての記事。

「真偽は確認できない。」
「済州島の人たちからも、吉田氏の著述を裏付ける証言は出ていない』などの記述

1997/04/06 秦郁彦 吉田清治氏に電話インタビュー(4)
1998/09/02 秦郁彦 吉田清治氏に電話インタビュー(5)
1998/10/ 秦郁彦 『諸君!』11月号で、
吉田清治氏本人が自著をフィクションであることを認めたと述べる
  
1999/06/30 秦郁彦 『慰安婦と戦場の性』(新潮選書)発行。『済州新聞』の吉田著書評の和訳あり

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070802

秦郁彦の著作に対する批評がまとめてあるブログ

碧猫さんの『13日の水曜日』 「無かった」を主張する歴史学者について
http://azuryblue.blog72.fc2.com/blog-entry-205.html

hokke-ookamiさんの『法華狼の日記』

秦郁彦教授は本当に……
http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20070719/1184904208

秦郁彦教授の評価が下落中…… (2007年8月4日追加)
http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20070801/1185924345

yamaki622さんの『blog*色即是空』

秦郁彦が金学順さんの証言をでっち上げ
http://d.hatena.ne.jp/yamaki622/20070616/p1

金学順さんが「キーセンハウス」に売られたというウソ
http://d.hatena.ne.jp/yamaki622/20070724/p1

『Stiffmuslceの日記』 どくしょのじかん 

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070716/p1
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070717/p1
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070721/p1
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070722/p1
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070723/p1
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070724/p1

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アホ?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/415.html



[12削除理由]:言葉遣い

18. 2011年12月24日 16:04:24 : CJ2A4jwins
>17

無駄になげーよ! 

真実だろうがなかろうが過去は精算されてんだよ。
日本から受け取った金で「なんたらの奇跡」を興して
経済発展したんだから後は韓国の国内問題だ。
いつまでも日本に乞食みたいにたかるなってこと。

中川さん、本当にシナやチョンがお好きなようだが
既に戦争での補償は終わった話なんだよ。

おまえらみたいなのがいるから乞食や売春婦や泥棒
や暴力団みたいな国(シナと南北朝鮮な)がつけ上が
るんだ。

そんなに何とかしてやりたいならあんたらが勝手に募金
でもして施してやれよ。 
民主党や社民党や共産党や朝日新聞だけでな。
税金は使うなってこと。


19. 中川隆 2011年12月24日 23:40:22 : 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q


摺醴霾醴髏蠶蠶鸛躔か                    ベ∃壮鎧醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
勺儲靄靄醴醴醴蠶體酌偵Auru山∴          ベヨ迢鋸醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
∃儲霾ヲ露繍蠶髏騾臥猶鬱h  ご笵此∴        ∃f謳廱躔騾蔑薺薺體髏蠶蠶蠶蠶蠶蠶
ヨ儲諸隴躇醴蠶歎勺尓俎赴  f蠶蠶蠢レ      ∴f醴蠶鬪扠川ジ⊇氾衒鑵醴蠶蠶蠶蠶蠶  
ヨ鐘諸薩讒蠢欟厂  ベ状抃  傭蠶蠶髏厂      .ヨ繍蠶蠶臥べ泣澁価価櫑蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶   
f罐諸醴蠶蠶歎      マシ‥…ヲ冖        .∴瀦醴蠶襲jJ鶴門門攤蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶    
加罐讒蠶蠶欟厂        ヘ              ∴f醴醴蠶甑欄鬮°f蠢蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶    
溷霾醴蠶蠶勸                        ∴ヨ繍醴蠶蠶鬮狡圷し醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶     
醴蠶蠶蠶蠶髟                        ベ湖醴醴蠶蠶蠶庇⊇⊇體髏髏蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶     
蠶蠶蠶蠶欟                          f繍蠶蠶蠶蠶蠶曲三三巛憫髏蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶        
蠶蠶蠶蠶歉                  澁畄_迢艪蠶蠶蠶蠶蠶蠶甜川⊇川川衍捫軆髏髏蠶蠶蠶蠶        
蠶蠶蠶蠶髟                コ醴蠶奴繍蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶齡辷シジ⊇川介堀醴醴蠶蠶蠶蠶       
蠶蠶蠶鬮か                .ベ苛ザベ繍蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶醯己に⊇三介f繙醴蠶蠶蠶蠶蠶       
蠶蠶髏鬮シ                        尽慵蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶自辷三沿滋鐘醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶       
蠶蠶醴勸                            氾隅髏蠶蠶蠶蠶蠶靦鉱琺雄躍蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
蠶蠶醴訃                      ∴∴∴沿滋溷醴髏蠶髏髏韲譴躇醴蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶蠶
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従軍慰安婦は売春婦か?

日本の戦争責任資料センターの声明では

「未成年の少女の場合、慰安所での使役は強制でなく本人の自由意志による、と主張することは、当時日本が加盟していた婦人・児童の売買禁止に関する国際諸条約に照らしても、困難である」

となっています。 又日本国内から慰安婦を徴募する場合は21歳以上の経験者にかぎるという法律があったと思います。

未成年を慰安婦として渡航されたことが確認できる公文書は、米三機密第353号「支那渡航婦女の取扱に関する件」と「渡支事由証明書等の取寄不能と認められるる対岸地域への渡航者の取扱に関する件」などでした。年齢がそれぞれに「15・16・17歳」と「14・15・16・18歳」になっています。


研究書に収録された元慰安婦の証言データ(1)朝鮮人慰安婦


出典:「日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦」表2−1,4−16,4−19,4−30より全42人43件(文玉珠は2回慰安婦になっている)

注:徴集年は19XX年、徴集形態は尹明淑の記述による(拉致:暴力による連行、就業詐欺:いい仕事があると騙して連れ去るもの、強制は命令された・逆らえなかったなど、徴集地で特記なきはすべて朝鮮。

名前 年齢 年 徴集形態 徴集人 徴集地 慰安所の場所

崔イルレ 15 1931 拉致 軍人 霊岩 満州

陳キョンベン 16 1939 拉致 軍人 狭川 基降(台湾)

鄭学珠 14  1938 拉致 軍人 釜山 ハルピン

文玉珠1 16 1940 拉致 軍人 大邸 東安省(中国)

姜ムジャ 13 1941 拉致 軍人 新馬山 パラオ諸島コロール

林グマ 16 1939 就業詐欺 民間業者 漢口(中国) 漢口(中国)

李相玉 14 1936 就業詐欺 民間業者 京城 パラオ

金春子 16 1939 就業詐欺 民間業者 清津 東安省(中国)

洪愛珍 14 1942 就業詐欺 民間業者 統営 上海

李玉粉 11 1937 誘拐・詐欺 民間業者 蘆山 台湾

金ブンソン 15 1937 就業詐欺 民間業者 漆谷 台湾

金ボットン 15 1941 詐欺・強制 民間業者 梁山 広東

*1朱徳蘭はこういう項目では分類していないが本文中で、日本人警察官により雑益に強制的に徴集された後、毎日性の相手を無理させられる様になったことが記述されている。

http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/15?from=1

朝鮮での慰安婦徴集の違法性で議論の余地がないのは、未成年者を徴集したことです。

現在日本で裁判をおこしている9名の元慰安婦達は全員が21歳未満であり、この場合、国際条約によれば、本人が了承したとしても慰安婦とする事は処罰の対象としなければならないはずです。

もちろん、この人達は強制をうけて慰安婦になったと詳細な証言をしています。


慰安婦の徴集のやり方について、間に朝鮮人が介在したことが多かったので、そのような場合は、軍の責任ではないとする意見もありますが、それなら慰安所に到着した時点で娼妓取締規則にあるように本人の自由意志であることを確認し、強制されたり騙されて来た者は、家に帰すべきです。

しかし、そのような事を行った形跡はありません。直接命じてやらせたにしろ、黙認したにしろ、軍の責任で行われたことに違いはありません。

http://www006.upp.so-net.ne.jp/nez/ian/

『慰安婦』にされた年齢


尹明淑『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』(明石書店、2003年)の表(232、233ページ)から計算した、韓国人元「慰安婦」(43名)の徴集時の年齢は以下のようになります。


11歳  1名
12歳  1名
13歳  1名
14歳  3名
15歳  5名
16歳 16名  ←台湾での公娼の下限年齢*3
17歳  7名  ←朝鮮、満州での公娼下限年齢
18歳  3名  ←日本(内地)での公娼下限年齢
19歳  3名
20歳  -
21歳  1名  ←国際条約*4における成人女性の年齢
22歳  -
23歳  1名
29歳  1名

*「募集年−生誕年」で単純計算しただけなので、実際はこの結果より年齢が1歳下である場合も多いと思われる。

*3:1930年の外務省調査によると、アジアで公娼制度があったのは、日本およびその植民地・統治領、仏領インドシナ、中国(ただし上海など大都市では公娼制度を廃止していく)

*4:『婦人及児童の売買禁止に関する国際条約』



コメント一覧


貧寒 2008/09/27 11:07

韓国での調査なので、年齢が満年齢ではなく数え年齢の可能性があり、さらに気持ちが重くなりました。

2〜30年前には朝鮮の女はパイパン(無毛症)が多いと言うことがまことしやかに語られることが有りました。

おそらく戦時中に朝鮮ピーと遊んだ人達が広めたのだと思います。何のことはない相手が年端もいかない少女達だったとは。


Stiffmuscle 2008/09/27 21:47

子供〜青年前期に強姦の被害者になると、その後の人生に多大で深刻な影響を及ぼします。ましてや元「慰安婦」の方々は監禁されて連続強姦され、身体的にもボロボロにされました。

なぜ、日本軍の兵士はそのことに気がつかなかったのか?

相手を同じ人間として見ていたら、その子たちの将来や親のことを考え付いていたら、決してこんな惨いことは出来なかったと思います。戦争だったというのは何の免罪符にもならない。


Allen 2008/09/28 16:21

ここ数年、世界中で第二次世界大戦を振り返る事態が多くなりました。 何となく日本の小泉政権発足以降とほぼ重なるような気がするのですが、やはり日本の一部の政治家や御用学者による一連の「戦争肯定」行為が影響しているんでしょうか・・・

東中野教授は裁判で事実上「学者失格」と言われ、藤岡教授や八木教授などが在籍する『作る会』は事実上内ゲバで分裂、安倍元首相は1年で政権放棄・・・

日本の自称『保守』も崩壊寸前ですね。まあ自業自得な印象しかありませんが・・・。

Stiffmuscle 2008/09/29 00:59

「慰安婦」の記述が中学校の教科書の全てに載ってからの右派論壇、つくる会、皇国マンセー議員の妄言が跋扈跳梁した1996年以降の基調だと思います。

当初の攻撃テーマが「慰安婦」と「南京大虐殺」だったわけです。

その後、最近になって沖縄の集団自決の件が出てきますが、正直、あいつらの3連敗です。完膚なきまでに叩き潰されないと「おれたちのが勝ってる!」って醜態をさらし続けるのかも。

まぁ、新人の凄腕論客がいないので、先細りするだけでしょうが(爆)

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080923/p1


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クマラスワミ報告


日本陸軍のために戦地で売春婦を提供する「慰安所」の開設は、上海における日華紛争にともない早くも1932年に始まった。これはいわゆる「慰安 婦」の利用が広まり普通の現象となるほぼ10年前のことであった。その現象が、第二次世界大戦が終わるまでに日本軍の支配した東アジア全域のものとなった ことには疑いないからである。最初の軍事的性奴隷は日本の北九州地域の女性たちで、陸軍の指揮系統の一人の要請で長崎県知事によって送られた。/訳注1慰 安所制度を公式に設置したことの理由付けは、そのように制度化され、それゆえに管理された売春サーヴィスは、陸軍の占領地から報告される強姦の件数を低下 させるであろうということであった。

1937年に日本の皇軍が暴力的結果を伴いつつ南京を占領したとき、日本の当事者たちは軍の規律と士気の状態について考えざるをえなくなった。 1932年当初に導入されたような慰安所計画が復活した。上海の方面軍は業界とのコネを利用して、1937年末までに軍の性的サーヴィスのために出来る限 り多くの女性を手に入れた。

これらの女性や少女たちは、上海と南京のあいだにあった軍直営の慰安所で使われた。この慰安所は後の時期の慰安所の原型となり、利用規則とともにそ の写真が残されている。軍による慰安所の直営は、この現象がもっと広まるとともにより安定してきた環境では、慰安所の基本の形とならなくなった。慰安所を 経営し所内の業務を引き受けたがっている民間業者が沢山いた。かれらは陸軍によって軍人に準じる身分と階級をあたえられた。軍は輸送と慰安所の全般的な監督についての責任をもちつづけたし、衛生や全体の管理は軍の責任であった。

戦争が続き東アジア各地を拠点とする日本兵の数が増えるにつれて、軍事的性奴隷にたいする需要も増大した。そこで徴集のための新しい方法がつくりだ された。そのうちには東アジアの多くの地域、とくに朝鮮における詐欺と暴力の頻繁な利用が含まれていた。名乗り出た多くの朝鮮人「慰安婦」の証言は、強 制や騙しが頻繁に用いられたことを明らかにしている。(大部分は朝鮮人である)かなりの数の被害女性たちは証言のなかで、自分たちの徴集に責任のあるさま ざまな業者や現地の協力者が用いた詐欺と甘言について語っている。

1932年に国家総動員法が制定されたが、戦争末期の数年までは完全に実施されなかった。日本政府が同法を強化するにつれ男も女も戦争努力に貢献す ることを要求された。このこととの関係で女子挺身隊が設立されたが、それは表向きは工場で働いたり、あるいはその他の日本軍を補助する戦争関連業務にあた る女性たちを手に入れるためであった。しかしそれを口実として多くの女性たちが騙されて軍事的性奴隷にされているとして、挺身隊と売春との結び付きがす ぐに噂となった。

最後に日本人は軍の増大する需要を満たすため、暴力と露骨な強制に訴えてより多くの女性を手に入れることができた。数多くの被害女性たちが語っ ているのは家族に加えられた暴力である。家族は娘の連行や、ときには暴力でつれ去られるまえに両親の目の前でおこなわれた強姦を阻止しようとした。ヨ・ボ クシル(YoBokSil)の事例調査では、彼女は多くの少女のように家からつれ去られたが、其の際誘拐に抵抗をこころみたため父親が殴られた。

慰安所の地理的な所在地は戦争の進行とともに広がったように思われる。日本軍が駐屯した所にはどこにでも慰安所があったようである。その一方では、 公娼の存在にもかかわらず日本の内地でさえ「慰安婦」の利用が進み、既存の施設を利用できない人々のためにいくつかの慰安所が開設された。

慰安所が中国、台湾、ボルネオ、フィリピン、太平洋諸島の多く、シンガポール、マライ、ビルマおよびインドネシアに存在したことは、多くの資料 から分かる。慰安所の活動が行われていた当時の記憶がある人、なにかの形でこの制度の運営に関わっていた親類や知人があった人など、さまざまな人々の証言 が記録されている。

日本帝国のさまざまな場所にあった多様な慰安所規則類の記録といっしょに、いろいろな状況下での慰安所や「慰安婦」自身の写真さえ保存されている。 徴集方法の証拠として役立つ文書記録は僅かであるが、この制度の運営の実態は時を経て残った記録類により広範に立証できる。日本の軍部は売春システムの詳 細を細かく記録したが、それをたんなる一つの遊興施設とみなしていたようにみえる。上海、日本の沖縄その他の地方、中国およびフィリピンにあった慰安所の 規則はまだ残っており、なかでも衛生規則、利用時間、避妊、女性にたいする料金およびアルコールと武器の禁止を細かく規定している。

これらの規則類は、戦後に残された文書のうちでももっとも罪深いものである。それらは日本軍がどの程度まで慰安所にたいし直接の責任があり、その組 織のあらゆる側面と深く関わっていたかを疑いの余地なく明らかにしている。そればかりでなく、慰安所がいかにして合法化され制度化されたかをも明白に示し ている。「慰安婦」が適正に扱われるようにすることに多くの注意がはらわれたように見える。アルコールと刀剣類の禁止、利用時間の規定、合理的な料金、 その他礼儀作法または公正な取り扱いらしいものを課そうとする試みは、実際に行われたことの野蛮さ、残酷さと鋭い対照をなしている。このことは軍事的性奴 隷制のシステムの異常な非人間的性格を照らし出すのに役立つだけである。このシステムのなかで、筆舌に尽くしがたいほど心を傷つけられることもおおい状況 の下におかれながら、大勢の女性たちが「売春」に身をゆだねつづけることを強制されたのである。

戦争の終結も、引き続き「慰安婦」として使役されていた女性の大部分にとっては救いとならなかった。多くの人が退却中の日本軍によって殺された か、もっとおおかったのはただ運命に任せて遺棄されたからであった。ミクロネシアの事例では、一夜で70人の「慰安婦」が日本軍に殺されたが、それは女は 邪魔だと考えたり、前進するアメリカ軍の手に落ちたら面倒なことになると思ったためであった。

最前線にいた被害女性の多くが、兵隊といっしょに特攻をふくむ軍の作戦に加わることを強制された。しかし一番おおかったのは、故郷から遠く離れ、 「敵」の手でどんな目にあうか分からない所で自活するように放置されたことであった。自分の居場所すら分からず、ほとんど金を持たず無一文のものもおお かった。証言によれば「稼いだ」金を少しでも受け取ったことのある女性はごく僅かだったからである。マニラの場合のように撤退した女性のうちからは、悲惨 な状況と食料不足による死者が多くでた。


徴集

第二次世界大戦の直前及び戦争中における軍事的性奴隷の徴集について説明を書こうとする際、もっとも問題を感じる側面は、実際に徴集がおこなわれた プロセスに関して、残存しあるいは公開されている公文書が欠けていることである。「慰安婦」の徴集に関する証拠のほとんど全てが、被害者自身の証言から得 られている。このことは、多くの人が被害者の証言を秘話の類とし、あるいは本来私的で、したがって民間が運営する売春制度である事柄に政府をまきこむた めの創作とまでいって退けることを容易にしてきた。それでも徴集方法や、各レベルで軍と政府が明白に関与していたことについての、東南アジアのきわめて多 様な地域の女性たちの説明が一貫していることに争いの余地はない。あれほど多くの女性たちが、それぞれの目的のために公的関与の範囲についてそのように似 通った話を創作できるとはまったく考えられない。

日本の直接管理下にある最初の慰安所は1932年に上海におかれたが、その開設にたいする公的関与については第一級の資料がある。上海戦の指揮者の ひとり岡村寧次中将(上海派遣軍参謀副長)は軍慰安所の最初の発案者であったことを、回想記のなかで告白している。/5日本軍による強姦がきわめて高率で 頻発し、対策として長崎県知事により大勢の女性が現地に送られた。/訳注2彼女たちが日本から送られたという事実は軍のみならず内務省をもまきこむ。内務 省は知事と、後に軍に協力して女性の強制徴集の際に重大な役割を果たすことになる警察とを支配していた。

1937年の南京事件の結果、軍規を改善しなければならないことが日本人に明らかとなり、「慰安所設置」が復活した。北九州のおなじ地域に業者が送 られた。売春宿からの自発的応募が不十分であったので、彼らは表向きは軍の料理人や洗濯婦という給料のよい仕事を世話するといって土地の少女たちを騙す手 にでた。そういう仕事の代わりに彼女たちは上海と南京のあいだにあった慰安所で軍事的性奴隷とし働かされ、このセンターが将来の慰安所の原型となった。

戦争の後期になると、軍は慰安所の運営と業務にたいする責任の大部分を民間の業者に譲りわたした。軍の代理人が業者に接近したことも、業者がすすん で軍に許可を求めたこともある。軍が売春業を経営するのは適当でないと考えられたし、民間業者の施設にしたほうが軍隊にはもっと「ふさわしい」と思われ た。しかしどの程度まで民間人が関わったか、また正確にはだれが慰安所の開設に着手した責任があったかは、地域によって異なったが、徴集の実行はますます 政府の側の責任となった。しかしごく最近まで日本の当局者が、強制徴集と欺瞞におけるかれらの役割、または徴集のプロセスでの実際上の責任を全く認めよう としなかったために、軍事的性奴隷として使役された女性たちの獲得のプロセスに関する情報は大部分が被害者自身の口から得られたものである。

しかし前述のようにこの情報は元「慰安婦」の話のなかに沢山あり、無理なく明確な像がえられる。徴集について三つのタイプが識別できる。すでに娼婦 であった女性と少女の自発的応募、料理屋のあるいは軍の料理人または洗濯婦として給料のよい仕事で女性を騙す、および最後に日本の支配下にある国々での大 規模な強制と奴隷狩に匹敵する女性の暴力的連行。

より多くの女性を求めて軍のために活動していた民間業者たちは、日本人と協力して活動する朝鮮警察のメンバーと同様に、村にやってきて給料のよい仕事の約束をして少女たちを騙すことがあった。あるいは1942年に先立つ数年間は、朝鮮警察が村に来て「女子挺身隊」を募集した。このことは徴集を日本の当局により是認された公的なものとし、一定程度の強制を意味するものともした。もし「挺身隊」として推 薦された少女がそれを断った場合には、憲兵隊または軍警察がその理由を取り調べた。実際に「女子挺身隊」は日本軍に、上記のように偽りの口実で「戦争努力 に参加する」よう地方の少女たちに圧力を加えるため地方の朝鮮人業者と警察を利用する機会をあたえた。

一層多くの女性が必要になった場合には、日本軍は暴力やむきだしの武力、狩り出しに訴えた。そのうちには娘の誘拐を阻止しようとした家族の殺害が 含まれていた。国家総動員法が強化されたことで、これらの手段をとることは容易になった。この法律は1938年に公布されたが、1942年までは朝鮮人の 強制徴集に適用されなかった。/9多くの軍「慰安婦」たちの証言は、徴集に際して広範に暴力と強制が用いられたことを証明している。さらに戦時中におこ なわれた狩り出しの実行者であった吉田清治は、著書のなかで、国家総動員法の一部として労務報国会のもとで自ら奴隷狩に加わり、その他の朝鮮人とともに 1000人もの女性たちを「慰安婦」任務のために獲得したと告白している。

文書資料はまた、地方住民全体の統制を保つうえで家族を利用できるので、役人や地主たちの娘は徴集を免れたと述べている。村々から集められた少女た ちはたいへん若く、大部分が14歳から18歳のあいだであった。少女たちを獲得するために学校の組織が利用された。現在、軍「慰安婦」問題に関心を高める ために活動している尹貞玉(ユン・ジョン多く)教授は、幸いにも両親の配慮によって学校から連れ出されるのを免れた。しかし教授は、そのようなやり方で性 病に冒されていない、就学年齢の処女が徴集された事実を証言している。

多くの少女たちは、若く世間知らずであったために、よい就職を世話するという申し出を疑いもせず、強制連行に抵抗できなかった。そして多くの場 合、売春とか性行為について全く何も知らなかった。徴集の実行に信頼する村の巡査、役場がしばしば関わっていたという事実は、彼女たちを一層無防備にし無 力にした。そのうえ売春にともなう汚名は、戦争が終わらないうちに苦役から帰ることのできた女性たちがその経験を話し、それによって他の少女たち に危険を警告する道を絶った。女性被害者のほとんどが、ぞっとする経験を隠し社会に再復帰することに懸命だったのである。

「慰安所」における状態

元「慰安婦」たちの証言によれば、彼女たちが日本軍兵士に奉仕するため要求された条件はほとんど一貫して恐るべきものであった。宿泊設備や全般的な待遇は場所によってまちまちであったが、おかれた環境の悲惨さと残酷さについてはほとんど全ての女性被害者が証言している。慰安所そのものは場所により、進撃中に日本軍 が接収した建物であったり、「慰安婦」の宿泊専用に軍が作った間に合わせの建物であったりした。前線地帯ではテントまたは一時しのぎの木造の掘っ建て小屋 がしばしば慰安所になった。

敷地は鉄条網で囲われ、厳重に警護され巡視されていた。「慰安婦」の行動は細かく監視され制限されていた。女性たちの多くは宿舎を離れることを許 されなかったと語っている。毎朝決められた時間に外を散歩することを許されたものもある。調髪のためとか、映画をみるために臨時外出を認められたことを覚 えているものもいる。しかし、実質的な行動の自由ははっきりと制限されており、逃亡はほとんど如何なるときでも不可能であった。

慰安所自体は、通常一階か二階の建物で、食堂または受付が下にあった。女性たちの個室は裏側か二階にあるのが普通で、たいていは狭く窮屈な間仕切り から成っていた。僅か6フィートか8フィートと小さいことも稀でなく、ベッド一つがやっと置ける部屋であった。そのような状況のなかで「慰安婦」は一日に 10人から30人もの男を相手とすることを求められた。いくつかの前線地帯では女性たちは床のうえの布団で眠り、おそろしい寒さと湿気に晒されなければな らなかった。個室は多くの場合一枚の畳か、床まで届かない筵で仕切られているだけであったので、物音は部屋から部屋へ筒抜けとなった。

典型的な慰安所は民間の業者が管理し、女性たちの世話をする日本人または時により朝鮮人の女性が一人いることがおおかった。軍医が衛生検査をおこ なったが、「慰安婦」の多くの記憶では、これらの定期検査は性病の伝染を予防するためのもので、兵隊が女たちに負わせた煙草の押し焦げ、打ち傷、銃剣に よる刺傷や骨折でさえもほとんど注意を払われなかった。そのうえ女たちの休み時間はほとんどなかった。現在残っている規則の多くで規定されている自由時間も、居続けようとしたり規定外の時間に来たがる将校たちによりしばしば無視された。何日にもわたり女たちは次にやってくる男を迎える前に身を清めるのが やっとという有り様であった。

食べ物と衣類は陸軍により支給された。しかしながい間、食べ物はいつも不足していたと不満を漏らす元「慰安婦」が何人もいる。ほとんどすべての場合 に女たちは「奉仕」にたいし支払いを受け、料金の代わりにチケットを集めることになっていたが、戦争が終わった時になんらかの「稼ぎ」を持っていた者はご く僅かであった。こうして戦争が終われば自分や家族が自立するのに十分な貯えを持てるかもしれないというほんのささやかな慰めでさえ、日本軍の敗退後には 無意味なものとなった。

奴隷的状況の苛酷さと残虐性は、性的虐待の根強く永続的なトラウマ(精神的外傷)にくわえて、多くの軍事的性奴隷の証言のうちによく現れている。彼 女たちはいかなる人格的自由も持たず、兵士からは暴力で残忍に、慰安所経営者と軍医からは無関心に扱われた。前線に近いこともまれでなかったため、彼女た ちは敵襲や爆撃、死の脅威にさらされた。おなじ状況は慰安所の常連の兵隊たちを今まで以上に残忍にし攻撃的にした。

そのうえ病気と妊娠にたいする恐怖がいつもあった。実際「慰安婦」の大多数はある程度性病にかかっていたように思われる。病気の間は回復のための休 みをいくらか与えられたが、それ以外はいつでも、生理中でさえ彼女たちは「仕事」を続けることを要求された。ある女性被害者が特別報告者に語ったところで は、軍事的性奴隷として働かされていたときに何度も移された性病のため、戦後に生まれた彼女の息子は精神障害者となった。このような状況はすべての女性被 害者たちの心に深く根付いた恥の意識と合わさって、しばしば自殺または逃亡の試みという結果をひきおこした。その失敗も確実に死を意味した。

歴史の記述から得られる情報を補足するために、特別報告者はソウルと東京に滞在中に歴史家たちと会い、慰安所が開設され、女性たちが軍事的性奴隷にするために徴集された状況についての情報を求めた。

特別報告者は東京の歴史家、千葉大学の秦郁彦博士が「慰安婦」問題にかんする幾つかの研究、とくに済州島での「慰安婦」の状況について書いた吉田清治の著書に反論したことを指摘して多く。博士の説明では、彼は1991〜92年に大韓民国の済州島を史料収集のため訪れたが、「慰安婦犯罪」の主犯は実際 には朝鮮人区長、売春宿の持ち主及び少女自身の親たちでさえあった。教授の主張では親たちは娘の徴集の目的を知っていたというのである。議論の裏付けとし て秦博士は、1937年から1945年にかけての慰安宿のための朝鮮人女性徴集システムの二つのひな型を示した。どちらのモデルも朝鮮人の親たち、朝鮮人 村長および朝鮮人ブローカーたち、すなわち民間人たちが日本軍のために性奴隷として働く女性たちの徴集に協力し、役割を果たしたことを知っていたことを明 らかにしている。秦博士はまた大部分の「慰安婦」は日本陸軍と契約を結んでおり、月あたり兵隊の平均(15〜20円)の110倍(1000〜2000円) もの収入を得ていたと信じている。

特別報告者はまた東京の歴史家、中央大学の吉見義明教授にも会った。彼は特別報告者に日本の皇軍の文書のコピーを提供した。それは朝鮮人「慰安婦」 の徴集にたいする命令や規定が日本軍当局により、あるいは当局が知っていて実行されたことを裏付けるものであった。吉見教授はまた原文書の詳細な分析を示 したが、それは師団や連隊の後方参謀や副官が派遣軍から指示をうけ、憲兵を使って占領地の村長や地方の有力者に命じ、軍事的性奴隷として使役する地域の女性を徴集するのが普通であったとするものであった。

慰安所の開設にたいする日本軍の決定的な関与と責任を例示するために吉見教授はさまざまな文書に言及した。特別報告者も例証として日本陸軍の広東駐 屯第21軍の1939年4月11〜21日の「旬報」に言及しておきたい。そこには軍の統制下で将兵のための軍慰安所が操業しており、約1000人の「慰安 婦」が同地内の10万と推定される兵士を相手にしていると書かれている。特別報告者に渡された他の同様な文書からは、陸軍省からの指示に基づいて「慰安 婦」施設にたいする厳重な統制システムが維持されていたことが明らかにされている。これらの命令は、性病の蔓延防止を目的とする衛生規定のような事柄にも 配慮していた。

特別報告者はまた、性奴隷徴集のため普通に行われたもう一つの方法として、各派遣軍から朝鮮に派遣された業者で、彼らは憲兵と警察の協力または支持 を得て軍事的性奴隷として朝鮮人女性を集めたと思われるという情報を得た。これらの業者は普通、軍司令部により指名されたが、師団、旅団または連隊が直接 おこなうこともあったようである。さらに吉見教授は、日本政府によって全ての公文書が公開されておらず、防衛庁、法務省、自治省、厚生省および警察庁の文 書庫にまだ眠っているものがあるかもしれないので、徴集の詳細を文書で裏付けることはきわめて困難であると主張した。

これまで述べたことにかんがみて特別報告者は、第二次世界大戦終結50周年にあたる1995年の真相調査団は格別に意義あるものとなり、戦時中の軍 事的性奴隷に関連する未解決の問題の解決を助け、また暴力の被害者である少数の生存女性たちの苦しみを終わらせる助けとなるものとなろうと考える。

特別報告者が、平壌で元「慰安婦」の世話をしている医師チョ ウ・フン多く(ChoHungOk)博士の助言を求めたのに対し、博士は、これらの女性は多年にわたり毎日毎日何回もの強姦に耐えなければならなかった結果、その人生の大半を肉体的にも心理的にも全体として衰弱した状態におかれていたことを確言した。チョウ博士はさらに、女性たちが体に負った目に見える肉体の傷痕に加えて、精神的苦痛がその生涯を通じて彼女たちを苛んでおり、こちらのほうがもっと深刻であることを強調した。同医師はさらに、女性たちの多くは不眠、夢魔、高血圧および神経過敏に悩まされていると証言した。女性たちの多くは、移された性病により生殖器や泌尿器が影響を受けたため、不妊手術を施さなければならなかった。

http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html


「慰安所はまさに地獄の場所だった」…水木しげる


戦争中の話だが、敵のいる前線に行くために、「ココボ」という船着場についた。ここから前線へ船が出るのだ。そういうところには必ずピー屋がある。ピー屋というのは女郎屋のことである。(中略)

ピー屋の前に行ったが、何とゾロゾロと大勢並んでいる。
日本のピーの前には百人くらい、
ナワピー(沖縄出身)は九十人くらい、
朝鮮ピーは八十人くらいだった。

これを一人の女性で処理するのだ。

僕はその長い行列を見て、一体いつできるのだろうと思った。一人三十分としてもとても今日中にできるとは思われない、軽く一週間くらいかかるはずだ。しかし兵隊はこの世の最期だろうと思って はなれない、しかし・・・・・いくらねばっても無駄なことだ。

僕は列から離れることにした。そして朝鮮ピーの家を観察したのだ。ちょうどそのとき朝鮮ピーはトイレがしたくなったのだろう、小屋から出てきた。

(彼女がナニカを排泄する様子の描写)

とてもこの世のこととは思えなかった。第一これから八十人くらいの兵隊をさばかねばならぬ。兵隊は精力ゼツリンだから大変なことだ。それはまさに「地獄の場所」だった。

兵隊だって地獄に行くわけだが、それ以上に地獄ではないか。と、トイレに行った朝鮮ピーを見て思った。よく従軍慰安婦のバイショウのことが新聞に出たりしているが、あれは体験のない人にはわからないだろうが・・・・

やはり「地獄」だったと思う。だからバイショウはすべきだろうナ。

(「水木しげる伝〜戦中編〜」によれば、彼女たちはこの後、病院船でココポを離れたが、途中潜水艦にやられ、全員が死亡したという。)

http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-167.html


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    ',    ', ! | !  Y´`ヽ‐、    \> //|   l   || ,ヽ! !  l
    ヽ   ヽヽl l   Yrゝ〉ヽ}   / \l l !  |    ||' / l   ',

ネットウヨの従軍慰安婦問題に関する知識はこんなものです(笑) - 解決不能

598 名前:名無しさん[] 投稿日:2007/11/10(土) 10:53:51 ID:i/n9clPt

あったあった。

娼妓取締規則(明治三十三年十月内務省令四十四号)


娼妓になるためには、自ら警察に出頭して娼妓名簿への登録を申請することが必要でした(第二条三条)。

また、もしも本人の意に反して、強いて娼妓名簿の登録申請をさせた者は、拘留または科料に処されたのです(第十三条六項)。

その上、娼妓をやめたいと本人が思うときは、口頭または書面で申し出れば、何人といえども妨害できませんでした(第五条六条)。

以上のことから、当時の公娼制度では「年齢制限」「拒否の自由」「廃業の自由」が認められていたことがわかります。

それに対して軍慰安所では、慰安婦が自由意思かどうかの確認などをした形跡はありません。

強制ではなくて自由意志だというのであれば就業の登録などの史料が残っているはずだよな?


慰安婦は借金を返済するまで身柄を束縛されていました。

それはネトウヨが大好きな「日本人捕虜尋問報告書 第49号」(北ビルマのミッチナ慰安所)からも裏付けられます。

「1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める
旨の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。」
(吉見資料集p445)

つまり、廃業の自由などはなく借金を返済するまで拘束されていたのですから、明確な娼妓取締規則違反です。

すなわち、違法な売春行為をさせていた事になります。

624 名前:ネットウヨ 投稿日:2007/11/10(土) 10:56:56 ID:pz4FUxKC
>>598

軍の直接経営じゃないから、軍に資料が残らないだろうに。何を勘違いしているのかね。


____

先ほども指摘しましたが、誰も軍と限定していません。

具体的に指摘してやらないと、理解できないようです。

634 名前:ネットウヨ 投稿日:2007/11/10(土) 10:58:37 ID:+DaT2cut
>>598

従軍慰安婦って、一般の娼妓と同じ扱いだったんですか?

戦地まで行くというのに。

660 名前:ネットウヨ 投稿日:2007/11/10(土) 11:01:06 ID:pz4FUxKC

売春業者が集めて戦地の近くで営業していたから、基本的に民間の業務だったのさ。

________


こういう事例はご存知ないようで。


日本軍は、民間業者を使わずに、直接慰安所を経営したこともあった。

「昭和十三年七月五日附在上海総領事発信在南京総領事宛通報要旨」
「陸海軍ニ専属スル酒保及慰安所ハ陸海軍ノ直接経営監督取締ニ属スベキ」
(吉見資料集p181−182)

 独立攻城重砲兵第二大隊長「状況報告」(昭和13年1月20日)
「慰安設備ハ兵站ノ経営スルモノ及軍直部隊ノ経営スルモノ二ケ所アリテ」
(吉見資料集p195−196)

 セレベス民政部第二復員班長(海軍司政官)
「セレベス民政部第二復員班員復員ニ関スル件報告」(昭和21年6月20日)
「南部セレベス売淫施設(慰安所)調書」
「婦女ノ募集並ニ雇傭契約ハ主トシテ民政部嘱託(帰還)及実業団員(帰還)之ヲ行ヒ」
「売淫施設ニ関スル調査報告」(第二軍司令部)
「部隊ニ於テ経営ス」「『ケンダリー』ハ海軍少尉、『アモイト』ハ海軍少尉、
『バウバウ』ハ派遣隊長(官氏名不詳)希望者ヲ募集シ経営セリ」
(吉見資料集p365−375)


彼らが全く資料に目を通していない実態が明らかになりました(笑)

こんな有様で捏造だ情報戦だなどといっているのですから、実に御目出度い(笑)

661 名前:ネットウヨ 投稿日:2007/11/10(土) 11:01:11 ID:bOrvmf2S
>>598

借金で縛られるのなんて現代でも同じじゃねーかw

ましてや軍が直接雇用してねーのに軍に資料が残るかよw


____


廃業の自由を認めなかった時点で違法なのです。

現代でも廃業の自由が認められていないとしたら、それも違法です。

違法行為は現代であろうと過去であろうと非難されるべき行為なのですが、

どうも彼らには法律を守ろう、守らせようとする意思が欠けているように見受けられます。このような国士様に日本の未来を任せるのは甚だ不安ですね…。

742 名前:名無しさん[] 投稿日:2007/11/10(土) 11:09:57 ID:i/n9clPt

史料が全部燃えた、処分された
燃やす必要が無い史料をわざわざ燃やしたり処分する必要は無いよな?

768 名前:ネットウヨ 投稿日:2007/11/10(土) 11:12:43 ID:eGYWhDvF
>>742
燃やされたという証拠をどうぞ。

てか、処分しようと思ってもこの手の書類って、どこかしかにバックアップが有る筈なんだけど。

786 名前:名無しさん[] 投稿日:2007/11/10(土) 11:14:37 ID:i/n9clPt
>>768
逆だ逆!
騙したり、強制連行(軍人関与)して慰安婦としたのでは無かったとして就業契約などの史料が証拠になるわけでしょ

それならわざわざ焼却したり燃やしたりする必要が無い。

812 名前:ネットウヨ 投稿日:2007/11/10(土) 11:18:40 ID:/39C7lF8
>>786
女衒と就業者が交わした証文とか多数のこってるよ。

当時は事前に借金させてその証文と抱き合わせが通例だから・・・

っで、上のほうで自由意志で警察にうんぬん・・・ってあるけど、自由意志じゃなくて積極的就職活動だから・・・


_____

自由意志でつれてこられたのではない方もいらっしゃいますし、ウソの条件で騙されてつれてこられた方もいます。何より、強制的に借金を負わせて廃業の自由を与えていないとしたら娼妓取締規則違反なのですが、どうやら理解出来ていないようです。

808 名前:ネットウヨ 投稿日:2007/11/10(土) 11:17:39 ID:p/fKhQb1
>>786
売春婦の許可のような如何でもいい資料が有ったとしても
法廷保存期間が過ぎれば焼却されるだろ、倉庫スペースの無駄だし


_____

では何故「支那渡航婦女の取扱に関する件」などの資料は残っているのでしょうか?それこそ焼却されたというソースをどうぞ(笑)

こういう史料は有った方が否定派に有利になるのですが、探さなくてよろしいので?(笑)


828 名前:名無しさん[] 投稿日:2007/11/10(土) 11:21:02 ID:i/n9clPt
>>808
実際、1937年後半以降、日本・朝鮮・台湾から中国に渡航する時は、警察(または軍)の許可が必要でした。

次の資料からもわかります。慰安所の設置が急増するのは1938年に入ってからですから、業者が勝手に慰安婦を連れて行くことなどできないはずです。

慰安婦とされた女性も、一人ひとりこのような調査をうけた。そのときに、彼女たちがどのようにして集められたか、本気で調査すれば警察がつかめなかったはずがない。違法行為を承知で渡航のための身分証明書が発給されたことになる。

884 名前:名無しさん[] 投稿日:2007/11/10(土) 11:28:54 ID:i/n9clPt

朝鮮半島における慰安婦募集の広告

http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/29/

(右)1944年10月27日字 「毎日新報」慰安婦募集広告 
(左)1944年7月26日字 「京城日報」慰安婦募集広告

■デマ広告という批判に何の反論もできない「THE FACTS」のメンバーたち

意見広告「THE FACTS」では、日本は国際法を遵守し「21歳以上」の女性だけを慰安婦として募集したと主張しています。

ところが共通するメンバーが執筆した『情報戦「慰安婦・南京」の真実』の表紙には、1944年の新聞に載せられた「慰安婦募集広告」が掲載されているのですが、「THE FACTS」の主張に反し、

募集年齢がそれぞれ「17歳以上」「18歳以上」となってるいるのです。

これに対するレスは皆さんの予測どおり、「強制連行の証拠じゃない!」「強制連行は無かった!」で埋め尽くされているのですが、ここで取り上げられているのは国際法違反かどうかなのですけどね…。

話を逸らそうとしてるのか、ネトウヨの貧弱な頭脳ではオーバーフローしてしまうのか、何が問題にされているのか全く分からないご様子。教えて上げましょう。

『婦女および児童の売買禁止に関する国際条約(1921年 』)では、未成年の場合は本人の承諾があろうとも売春目的での人身売買は禁止されています。

つまり、ネトウヨはこれが国際法違反であった事に全く反論できていないのです。

http://d.hatena.ne.jp/hagakurekakugo/20071111/p1

従軍慰安婦の給料は高給だったのか ?


lunakkoさん

私の主張は、「慰安婦が高給取りであった」の一点です。 そして、ni0615さんが自分の説を補強?、私の説を否定するために軍票の話を持ち出してきただけです。


zames_makiさん

ですが、それはありえません。結論として0円でしょう、
理由は慰安所経営者が騙し取っていたからです。

現在の元慰安婦の証言でお金を貰ったとしている人はほぼ0です。

文玉珠の26145円は給料ではなく、チップです。

給料は貰っていたか否か?については、証言の中で明確に述べていませんが、朝鮮人慰安婦43人の証言を統一的に調べた研究者、尹明淑はもらっていないと判断しています。従って今ある資料から言える文玉珠の「給料」は不明です。


lunakkoさん

そうですね。文玉珠さんの場合はチップです。私も文玉珠さんがそう証言している。と書いてから気付きましたが、そこを指摘するあなたに感謝します。

>現在の元慰安婦の証言でお金を貰ったとしている人はほぼ0です。

証言は証拠にならないのはよくご存知のはずです。証拠がない限り、給料がいくらだったかはわからないのではないですか?では、

http://ameblo.jp/scopedog/entry-10030549652.html


「多くの楼主は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしたため、彼女たちは生活困難に陥っていた」(日本人捕虜尋問報告)

と書かれている資料について、説明していただけますか?

多額の請求とは、どれくらいでしょうか?

給料が0円ならば、多額の請求をされても払えないと思うのですが。

また、多額と書いてあるし、「食料、その他の物品の代金として」と書かれていますので、絶対に払われているはずです。たとえ、それが「付け」であってもです。
また、文玉珠さんは、二回慰安婦をされたといっておられますが、何故ですか?二回強制連行されたのですか?

最後に、あなたは、文玉珠さんは その「労働」でなんらかのお金を得ていたことは確かでしょうね。と書いておられるのに、その証拠が「実力者に気に入られるようにした」と書いてあります。

その場合、もらえるのは「チップ」ですよね?「労働」はどういう意味ですか?


noharaさん

>>>証言は証拠にならないのはよくご存知のはずです。

何故でしょうか?


lunakkoさん

証言は証拠になるのですか?

もしそうであるのならば、「私があなたに貸した1億円を返してください。」
私が証言しているのです。これが証拠です。


crescent2007さん

>>私が証言しているのです。これが証拠です。

当たり前です。証拠になります。あなたの証言も証拠になりますよ。しかし、補強証拠がないので誰も信用してくれないでしょう。信用するかしないか、の問題です。

「元慰安婦の証言は証拠にならない」という主張は、「元慰安婦の証言は信用できない」と言ってるのと同じだということをまず理解してください。


しかしこの三段論法には唖然としますが、このコミュニティでさえこのレベルでこうやって切り込まれてくるのですから、逆に言えば、その論法がそれだけ蔓延していることの証左ともいえるのでしょう。

議論の前提になる知識すら欠如している、と突き放してはいけないのでしょうが、次から次へと同じ論者がどうせ現れるのは確実です。そのレベルでの議論は軽くいなしつつ、このコミュニティはその存在意義を果たしていただければと思います。僭越ながら。


115: zames_maki

ステップ2:慰安婦は給料をもらったのか?

私が掲げた検討ステップは以下です

@考える上で資料は何か?(慰安婦の受領書はあるのか?証言は信用できるのか?)

A慰安婦には毎月、性交の代価として金が渡されたのか?

B慰安婦は、いつまで働き、慰安所を離れる時、金は渡されたのか?

C慰安婦に渡された金の種類は何か?(軍票?日本円?現地通貨?)

D渡された金は幾らなのか?

Eその金の実質的な価値はどの程度なのか?

F朝鮮人慰安婦は朝鮮に帰国したが、渡されたその金は使えたのか?

ステップ@考える上で資料は何か?

(慰安婦の受領書はあるのか?証言は信用できるのか?)


結論:慰安婦の受領印のある受取証は存在せず、慰安婦の証言が参考になる。少なくとも研究者の調査した慰安婦の証言は信用でき、重要な資料である。


ステップA慰安婦には毎月、性交の代償として金が渡されたのか?

これを示す書類資料は存在しない。従って研究者の調査した慰安婦の証言を参考とする。


尹明淑(日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦 明石書店 2003:一橋大学社会学博士論文を出版したもの)は十分な証言の得られた42人の証言を様々な項目について、横断的にまとめている。そこで、性交の代償に金を受け取ったとしているのは7人である。

『軍直営の軍隊慰安所にいた軍隊慰安婦(10人)の場合、料金の支払方法はさておいて一人も軍隊慰安所からの給料はなかったのである。

また軍専属および軍利用の軍隊慰安婦の場合、(略)29名(証言しなかった3名を除く)のうち約76%の22名が全く給料を支給されていない。しかも食事や衣類などを軍が支給していた軍直営を除き、軍専属や軍利用軍隊慰安婦の場合は、経営者が食事や衣類の他、化粧品や日常品を調達して与え、その代金は帳簿上の収入から差し引かれて軍隊慰安婦の借金になる仕組みになっていた。』

また朱徳蘭(台湾総督府と慰安婦 明石書店 2005:台湾中央研究院、九大文学博士)は同様に台湾人慰安婦約60人を調査し多くについては自分で直接面接している。慰安婦になった経緯や給料を調査している。

そこでは前借金を受け取ったものは数人いるが、性交の代償に金を受け取ったとしているのは少ない、報告書に具体的に面接内容が記載された18人中では体の代償に金を受け取ったのは3人である。

 更に現在名乗り出ている、中国人、インドネシア人、フィリピン人、オランダ人の元慰安婦で金を受け取ったとしているものは、ほぼいないと言って良い。

これらの事をあわせると、日本人以外の慰安婦については性交の代償に金を受け取ったものは全体の内のごく僅かであり、多くはまったく金は受け取っていないとまとめられよう。

これは、これら外国人慰安婦の多くが、徴募過程はともかく、慰安所では暴力的に無理に慰安婦をやらされており、日本軍兵士の相手をする代償に金を受け取るというような取引や契約といった関係ではなかった為であろう。簡単に言えば、一部を除けば、ほとんどはただ何もわからずただ毎日無理に性交を強いられていた、とまとめられるからである。

http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/10

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醴醴醴雛雛醴齟II)ii'。:. .                           .: (.(II泪讃雛拒i'。:::、:.'_(.(,(浴I|||讃醴醴’ .
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元兵士が語る「大東亜戦争」の真相 涙流していた「慰安婦」


 「この出入証を見てください。「慰安所」は日本軍と関係なかったなんて言わせません」

松原勝さん(81)=千葉県我孫子市=は「南国寮出入証」を手にして言います。

 南国寮は、西太平洋のトラック諸島に浮かぶ夏島(現デュプロン島)にあった「慰安所」。トラック諸島は世界最大の環礁の中にある島々で、天然の要塞として、日本軍の基地になっていました。


海軍が出入証を

 「慰安所」の出入証には海軍発行を示す赤い2重の波線がありました。「慰安婦」の存在は政府も認めた事実です。


政府は1993年8月、河野洋平官房長官(当時)談話を出し、軍の関与を認めました。従軍慰安婦問題は、中学校の教科書7社全てで記述されるようになりました。 しかし、来年春から使われる歴史教科書では、「従軍慰安婦」の用語が消えます。中山文科相は

「従軍慰安婦や強制連行等の言葉が教科書から減ってきて本当に良かった」(04年11月)、

「そもそも従軍慰安婦という言葉は当時はなかった」(05年6月)

等の発言を繰り返してきました。 松原さんはこうした動きに怒ります。

「「慰安婦」にされた女性たちは、戦地に無理やり連れてこられ、やりたくもないことをさせられていた。凄惨な境遇だった」

 松原さんはトラック諸島で、第4海軍施設補給部に所属、軍属として働いていました。基地への物資の補給や、飛行場や港湾の整備等のほか、「慰安所」の管理も施設補給部の仕事でした。南国寮、南星寮という2つの「慰安所」がありました。 松原さんが南国寮を知ったのは1943年の11月。高床式の建物でした。

「「慰安所」は軍人、軍属だけが使える場所でしたから、海軍が出入証を発行していました」

 長い廊下の両脇に10ずつ部屋があり、突き当たりにトイレがありました。部屋には番号がついていて、「慰安婦」にされた女性たちが1人ずつ入っていました。7割ほどが朝鮮半島から連れてこられた人で、3割ほどが日本人でした。

「そんな建物が南国寮には3棟ほどありました。南星寮も合わせればトラック諸島には100人以上の「慰安婦」がいました」

 小さな部屋の中にはゴザが敷かれ、厚さ20センチほどのマットが置いてありました。それがベッドでした。

男たちが列を作って順番を待っていました。南国寮が開いていたのは、夕方から夜10時まででした。

体も心も病んで

 「高級将校のメードとして雇うと言われて連れて来られた」

「レストランの給仕にしてやる。高い給料を払うと言われた」

松原さんは女性たちからそんな話を聞きました。だまされて無理やり連れて来られたのです。


 「「慰安婦」の女性たちは、月に1度、性病の検査を受ける日以外に休みはありません。1日に10数人もの相手をさせられていました。女性たちの体は傷つき、心も病んでいました。受けた傷は計り知れない」

「女性たちは、日本軍によって自由も尊厳も奪われ、「希望がない」と涙を流していたんです。彼女たちの青春を取り戻すことはもう出来ない。その女性たちの存在や軍との関係を歴史から消すような動きは絶対に許せない」

http://www.geocities.jp/kfujioka0515/shougen2.htm

【韓国】 「慰安婦は結局だまされて来た、お金も払われたかどうか」〜旧日本軍軍属が語る従軍慰安所、衝撃の実態[04/22]


「今考えてみれば、彼女たちはどれほど恐ろしかったか・・・」

松原勝(85)氏はインタビューの途中何度も深呼吸をした。淡々と説明していったがやはり感情の 動揺は隠せなかった。千葉県我孫子市議市民団体「あびこ平和ネット」会員の彼は65年前、帝国 海軍軍属(軍務員)として太平洋戦争に参戦した。 松原氏は記者に会うやいなや持っていた手提げ鞄から当時の資料を取り出す。そして彼は上着 の中の財布から黄色くなった名刺大の証明書をテーブルの上にそっと下ろした。「これがその時使っ た軍慰安所出入証です。」

http://www.jpnews.kr/imgdata/jpnews_co_kr/201004/2010042353436575.jpg

▲松原氏が発給を受けた慰安所出入証.1943年11月に発給を受けたという。

「慰安所を利用する時にはこの出入証を持っていかなければなりません。私たちの部隊の近所に は二ヶ所ありましたよ。一つがここに書かれている'南国寮慰安所'でありまた、一つは'南星寮慰安 所'でした。」

松原氏は「南国寮と南星寮は従軍慰安婦らが集まっている施設で軍人、軍属らの性的欲求解決 のための施設として使われました」と話す。

彼ももちろん南太平洋トラック諸島一帯に配属された 1943年から'南国寮'を数十回にかけて利用したという。

「初めは18〜25才程度になる従軍慰安婦らが各慰安所に5、60人程度ずつおりました。44年か らはもっと増えました。最後の頃は多分、各々70人程度ずつになったかと思います。日本人慰安婦がその中で10%程度で、残りは全部朝鮮から来た慰安婦でした。」 (中略)

http://www.jpnews.kr/imgdata/jpnews_co_kr/201004/2010042353273992.jpg

▲慰安所実態を最初に肉声証言した松原勝氏。


-出入証は日本軍ならば誰でも支給されましたか?

「いいえ。そうではありません。出入証は私のように軍務員だけもらいます。軍人はこれを見せなくても軍服を着ているからあえて証明する必要がないですね。出入証は必要ありません。私たちは 私服も着るからこういう出入証の発給を受けるのです。一般人らと区別するためですね。」


-料金は支払うんですか?

「はい。」

-いくらぐらいでしょうか?

「よく思い出させませんが...1、2円程度であったようですね。いや、多分1円だったようです。」


‐日本右翼の論理で、慰安婦が売春を通じて相当な金を儲けたといいますが?

「(手を振って)それはお話になりませんね。軍人がどれだけお金を持っていますか。」

-料金は慰安婦に直接渡しますか?

「いいえ。料金所があります。夏島にあった慰安所、なので南国寮、南星寮は二つとも思ったより 長い一階建てのテント5、6棟がずっと並んだ形態です。1つのテントには普通10個で12個程度部屋があって慰安所周囲には鉄柵のようなものが張られています。正門に行って出入証を見せれば入ることができます。一番最初に部屋番号札を受けなければならないんですが。その番号札 をあたえる所が料金所という所です。」

-料金は直接渡さなかったのですね。

「お金は料金所に出します。他の所は分からないが南国寮はそうしました。とにかくそのようなシステムを考えてみればそのお金が実際に慰安婦に渡されたかどうかは誰も分からないですね。」

http://toppmun.paslog.jp/article/1621254.html

トラック島の慰安所


 作家の窪田精に『トラック島日誌』という作品がある。著者自身が戦争中の政治犯の受刑者の一人として経験した事実を書きつづった作品である。このなかにおなじ船でトラック島に送られる朝鮮人慰安婦の投身自殺の話が出てくる。

 船が南にすすむにしたがい、船倉のなかの暑さはますますひどくなってきた。それにサイパン島沖をすぎるころから、波が荒らくなっていた。そんなある日、女たちの一人が海に投身自殺をした。女たちのうち何人かは、これから送られてゆく南方の島でのほんとうの仕事の内容を知らされず、だまされてつれてこられたのだということだった。投身自殺の原因もそのことと関係があったようである。

それはさいしょ、「みどりが死んだ」というふうに、船倉の私たちにつたわってきたが、死んだのは紺のゆかたを着た年上の女のほうだった。すでに夕食のすんだ後で、夜にはいってからだった。


 「あのみどりという女、朝鮮人だとよ」

 配食当番で食器洗いに甲板に出ていた連中が帰ってきて、話しあっていた。

 「なんだ。朝鮮ピーか」〔原文のママ〕

 「みどりというのは商売用の源氏名さ、本名は李英愛というんだ。

死んだ女は本当の姉で、みどりがアイゴ、アイゴと声をあげて、甲板で泣いていた……」


 みどり、いや、李英愛の姉の自殺の話はすぐに船倉じゅうに広がった。死んだのがあの白いワンピースのみどりの方でなく、なぜ年上の姉のほうであったのか──。
 〔中略〕

 島の北端に位置しているこの陸上基地から、さらに北東の方向へ、海岸ぞいの道をぐるっとまわって、ちょうどコブ山の裏側になる元島民部落メッチデー村には、『南風寮』という海軍の慰安所ができていた。T部隊の看守たちにも、希望者には南風寮出入証が発行されていて、富沢看守の出入番号は、ちょうど一〇〇番だったのだ。

「日曜日にいくとたいへんだ。みんな、どの室のまえにも行列していてな。うしろのものが『はやくやれえツー!』といって、どなるんだ。うかうかしちやァおれねえや」

 富沢看守はそんなふうにいって、顔をしかめ、青隊〔青色の囚人服を着た隊〕たちを笑わせた。

 富沢看守の話では、南風寮には二十人あまりの女性がいるということだった。そのうちの半数以上が平洋丸で、私たちといっしょに送られたきた女たちである。〔中略〕

 しかし私たちは、そんな富沢看守の話をきくたびに、南方にくる途中の平洋丸のなかでのできごとを思いだしていた。夜の甲板で暗い海をみつめて、アイゴ、アイゴと声をあげて泣いていた白いワンピースのみどりという名の少女──李英愛のことが思いだされてくるのであった。


「まだ十七、八のこどもだったがな」

「あのみどりの室のまえにも行列がつづくのかい。どういう事情でこんな島に送られてきたのかしらないが、むごい話だな」


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 受刑者たちが南方に送られて基地設営や飛行場建設などの強制労働に従事させられた事実はあまり知られていないが、トラック島は、これらの囚人部隊と強制連行された軍用慰安婦たちとが、おなじ島で日本海軍最大の前方基地の将兵たちに奉仕するための役務を強制された、ただ一つの島であった。これが戦争中のトラック島のもう一つの顔であった。

http://kyoto-gakusyuu.jp/tusin07/070628.htm


「あなたが碑を建てて下さってありがとう. 私もおまいりさせていただきました. ひょっとしてあなたはパラオの前にいたトラック島で,昭和19年2月17日,18日の激しい空爆後,ある壕内の慰安婦がまとめ殺しにあった事実を知っていたのですか」

「そ,そのこと……ほんとうですか」

せわしく空を裂く眼づかいで,彼女は問いかけた.


「現地司令部から,殺しの命令を受けたのはS少尉です.

二人の兵に女たちは娼婦なのだと,それに島の玉砕に女たちは足手まといになるし,上陸する米軍に知られては恥だとか,そのような考えを示したようでした.

殺された女は関西の慰安婦です. 少尉たちの機銃で死んだ女たちは,申しあわせたように,カミソリを握っていたようです」

海軍の南交社と関西八遊郭で組織された三立会とで組まれた女たちは,平陽丸でトラック島に送られたのである.

やはり兵を相手の慰安婦渡世は,虐げられた苦界であるのを,彼女は知っているのだと思った.

なみの慰安婦は軍権者にとって, 獣なみの存在でしかなかったこともである.

【出典:山田盟子『慰安婦たちの太平洋戦争 秘められた女たちの戦記』】

http://d.hatena.ne.jp/dempax/20070809/p2


トラック島・慰安婦の抹殺措置


大根拠地の大きな慰安所のボスたちは,賄賂で結託した基地の主計将校と絶えず連絡をとっていた. かれらの賄賂には三種類の狙いがあった.

(1)有利な条件を得るため
(2)安価な軍物資を貰い受けるため
(3)最悪の状態に備えて情報を得るため, つまりいちはやく逃げ帰るためである.

ことに前線では,ただ事ならぬ事態が起こりつつあるだけに,なおさら賄賂は緊要なものとなった. しかし彼らは緊迫する戦況については,オクビにも出そうとしない.

アメリカ軍がマーシャル群島に大空襲を行い,マキン・タラワ両島の玉砕(1943年11月25日),クェゼリン・ルオット両島の玉砕(1944年2月4日)という切迫した危機が迫ったとき,トラック島のピー屋のオヤジは毎日,頻繁に基地の主計本部や司令部へお百度を踏んだという. 日本内地へ送り帰してくれと哀願するためである. うす穢ない根性の彼らは,つい先日までは「軍要員」の腕章をつけて,女たちの前で"愛国"をぶって,これみよがしに振舞ってきて,今度は"非戦闘員"だから日本へ返してくれと催促したのだ. 戦争と兵隊に売春をぶっつけて金儲けに血眼になっていた彼らは生命の危機に対しては極めて敏感であり,卑怯なほど小心翼々と立ち廻った.

しかし,太平洋の島々の軍は,彼らの要求どおりに送り帰すはずもなく,次のように繰返したという.

(わざわざ運び返すような閑な船が軍にはないというんだ.

女どもには親方のお前から,いざというときの覚悟をよく申し渡しておけ—

潔く玉砕するンだ. たかが女郎じゃないか)と.


なかば軍の嚇かし,なかば本音であろう. そこでピー屋のオヤジの猛烈な賄賂の効き目もあって,周辺の情勢が切迫する前に,一部のオヤジと慰安婦だけが,強引に割当てられた輸送船と輸送航空母艦の船底にもぐりこんで引揚げることができた. その第一陣は『朝日丸』で帰国した(昭和18年12月). それは将校用の何軒かの女郎屋のオヤジと抱えの慰安婦であった.

つまり,この基地でも普段,主計将校らに賄賂の出し足りなかった女郎屋だけが取り残されたのだ.

(しかし,乗船した連中の一部は途中のサイパンに下船させられ,のちに玉砕の巻添えを喰った.)


壊滅的な大空襲が続き,眼玉の青い米兵が上陸すると聞いた日本人慰安婦たちは

「うちら,カミソリで咽喉切って死んでしもたる」

とつぶやき,ある女はシュミーズ姿で泣き崩れて

「バカ,おトウさんのバカー,うちらだまして,こんな所へつれて来たりして」

と慰安所のオヤジを口汚く罵った. おなじ慰安婦でも,朝鮮から騙されてきた女たちには,こんな泣き喚きすら洩らせなかったであろう.


トラック島は,アメリカ側では"日本の真珠湾"とか"太平洋のジブラルタル"と呼んだほど日本海軍の太平洋最大の根拠地である. この基地の安全確保をはかるために,開戦直後に日本軍はラバウルまで進んだ. ラバウルをめぐるソロモン海戦(消耗戦)も結局はトラック根拠地を守るためのものだった.

トラックは大根拠地だけに,料理屋,慰安所が軒をならべ,第四艦隊の将兵は女体のサービスにひたりきっていた.

そして2月17日午前5時前,米軍機第一次70機がトラックに殺到した. 米軍の爆撃は九波におよび,延べ450機,トラック基地は早朝から夕方まで火と煙に包まれた. 翌2月18日,米機はトラック港上空を乱舞し,逃げまどう艦船をシラミつぶしに沈めた. 二日間の空襲で撃墜された日本機は約300機,ほとんどの艦船は撃破され,貯蔵食料2000トンと1万7000トンの燃料を詰めたタンク3個が炎上し,陸上だけで約600人が死傷した. トラックに近接中の輸送船団は1200人と共に海没した. トラック空襲と同時に,同島の東方にあるエニウエトク島(守備兵力3980)が艦砲射撃を受け,20日米軍が上陸,生存者34人を残して全滅した.

トラック島の天地を轟かす大空襲が始まると,慰安婦たちは裏山のパンの樹の茂みに掘られた防空壕に逃げ込んだ.

だが,慰安婦のボスは,賄賂用の紙幣束を抱えて,かなり離れた滑走路へ向けて走りだしたという. そこにはいつでも離陸できるよう爆音を立てた逃走用の中型軍用機が一機,待機していたからである.

嘘八百で女を集めて"お国のため"ぶった女郎屋のオヤジという存在は,臆病にして狐のようにすばやく,根性が汚い. サイレンが鳴りだすと,自分だけは助かろうと必死になって飛行場へかけだし,そこが駄目だと知ると

「あ,わしはここで死ぬのか,ああ,あ」

と嘆声をあげ,さらに脱走の船を求めて軍港の方へ駆け出す有様である.

2月17日,18日は間断なく猛爆が繰返されたあとに,ついに島全体が炎に包まれた. 空も海も照明弾で青白く輝き,飛行場も要塞も高射砲陣地も,椰子とパンの巨木さえも,すさまじい轟音と共に吹っとび,すべてが燃え上がった. 施設の大半は灰燼に帰した.

慰安所の第一南月寮,第二南月寮,第三南月寮,これらの三軒が薄赤い夜空を背景に,なにか妖花の花の踊りのように炎上した. 女たちは避難防空壕にもぐりこんでいた. 防空壕は現地人を使って掘った,洞穴に近い粗末な構築物だが,100人ほどの女を収容できるほどの大がかりなものだった. おなじく残存司令部とその兵隊は,辛うじて地下深くの防空壕の中にひそんで芋虫のように生きていた.

このとき,軍の参謀と若い将校たちは,慰安婦らを足手まといと考えたらしい.


こんどはトラック島が死戦場 → 玉砕の番


と判断したからである. そして女たちを抹消する手段を講じたのだ.

このときの模様を,トラック島の慰安婦について詳しく触れている西口克己の『廓』は,次のように描いている.


「その空襲の途切れた合い間に,密命を受けた志田少尉は二名の兵をつれて,女たちの入った洞穴へ近づいていく.

(いいか,問答無用だ. 決して言葉をかけてはならんぞ. 黙って始末するんだ.

あいつらは素人娘ではなくて商売女だ.

敵が上陸してきたら何をするか知れたものではない---国辱だ. わかったな)


緊張した少尉のささやき声に,二名の兵士は無言でうなずいた. 靴音を忍ばせて壕の入口に接近した少尉は,もう一度軽機をかまえ直した後,するどく笛[笛→西口『廓』では口笛]を吹いた.

壕の内部に果たして女たちがいるかいなか確かめるためだった. 壕はしーんとしていた. つづいてもう一度,今度は低く,君が代を吹いた.

突然,それまで何の反応もなかった壕の中から,獣の悲鳴にも似た異様なすすり泣きが一せいにわき起こったかとおもうと,暗闇にもそれと判る防空頭巾を被った5,6人の女たちがバラバラと取り乱した姿で入口からとび出してきた.


ダダダダ,ダダ--間髪を入れず,少尉の軽機が火を噴いた.

ほとんど叫び声を上げる暇もなく,女たちはキリキリと体をもむような姿勢で,地面へぶっ倒れてしまった.

同時に,少尉も兵も,猛烈な勢いで壕の入口へ突進し,次の女が飛び出してくる前に,真暗な洞穴の内部へ向けて,盲滅法な機銃掃射を加えていた.

洞穴に反響して耳を聾するばかりの凄まじい銃弾の響きにまじって,とぎれとぎれの鋭い悲鳴や,うめき声がしばらくつづき,やがて気狂いのように撃ちまくっていた少尉がようやく引き金を止めたとき--ガランとした壕の内部には……文字どおり死の沈黙がしーんと凍りついたように立ちこめていた.

それでももだ用心深く,ものの2,3分間もジッときき耳を立てていた少尉は,このときになって初めて用意していた懐中電灯で素早く壕の内部を照らし出してみた.……

露出した土壁にヤモリのようにへばりついて血しぶきを上げている女,
荒削りのパンの木の支柱にすがりついたままガックリと首を折っている女,
やや離れて一かたまりの肉布団のように折り重なって死んでいる女,
抱き合ったまま死んでいる女,
丸太ン棒のように転がっている女—

およそざっと照らしただけでも, 6,70人もの女たちが完全に事切れて血まみれの姿で死んでいた. しかも,ふと少尉が気づいたことには,それらのすでに死骸となった女の何人かの片手に顔剃り用のカミソリがしっかりと握りしめられていたのだった.

こうした種類の商売女にとっての唯一の武器ともいうべきその小さなカミソリは,……あちこちに投げ出されていた.

よし,任務完了,

"ははは"こんどは俺たちの死ぬ番だ,引き揚げろ,

昂然といい捨ていい捨てた少尉と二名の兵士は駆け戻って行った.」


だが,トラック島に,予期された米軍の上陸作戦はなく(同時に"玉砕"という名の悲劇もなく)素通りする形になった. トラック島の慰安婦の悲劇は,決してこの島に限ったものではない. いたるところの島の女たちが,この種の仕打ちに遭わされたのは確かである.


トラック島から,いちはやく日本へ引揚げてきた慰安所経営のボスらは,女たちの人命は念頭に置かず自己の金銭欲から絶えず嘆いたとか.

(わしはトラック島じゅうゲンくそ悪い島へ, 一生かかって貯めこんだ銭を捨てに行って来たようなもンや)

と. これが彼らの,よだれまじりの愚痴だったそうである.

http://d.hatena.ne.jp/dempax/20070809#p1

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朝鮮人「慰安婦」の証言

12歳で「慰安婦」に 李京生

 私は3歳で母を亡くし、6歳のときには父を亡くし、育ててくれた祖母とも死に別れた。孤児となった私は、地主の家の子守や下女として一人で生きてきた。

 12歳になったある日、区長が呼んでいるというので行ってみたら、既にキム・グワンソン、パク・スボク、ユン・チュンソンの3人がきていた。みんな私と年齢が前後する女の子たちであった。区長は、私に「お前は哀れな星の下に生まれて苦労している。きょうからお前の人生を変えてやろう。良い所へ連れていってあげるがどうだ」と言った。

 私はそれまでのみじめな境遇が辛かったので、今より良い暮らしがあるのなら「行きましょう」と答えた。区長は、「私が呼び出したら朝でも夜でもすぐくるんだよ」と言った。幼い私は、「はい、すぐきます」と答えた。

 夜になって区長の家から使いがきたので、私は急いでいった。区長は立派な日本人が迎えにきたといった。見ると長い刀を腰にさした男が3人きていた。私たちは怖くなって「アッー」と声をだしてしまった。それを見た区長は、「お前たちを良い所へ連れていってくれるのに怖がるな」といった。そしてその男たちに私たちを引き渡すと、村の外まで見送ってくれながら、「きょうからお前たちの運命が変わるのだ。いい所にいけよ」と励ますようにいって家に帰ってしまった。どうしていいのかわからないままに、私たちはその男たちの後についていった。

 男たちの後についていくとやがて駅前に出た。そこで汽車の貨車に乗せられた。良い所に連れていってくれるとは言われてみても、そこは子供だから、次第に心細くなり、4人してめそめそしたりしていた。

 明け方近くなって降りろというので降りたら、駅前に車が迎えにきていた。車には2人の日本人が乗っていた。私たちは、見知らぬ3人の日本人についてくるだけでも怖かったのに、また2人ふえたのでもっと怖くなった。しり込みする私たちをみて、男たちはまるで豚のしっぽをとって車に乗せるように、私たちを5人がかりでほうり上げて乗せた。

 どれくらい行ったのか記憶に残っていないが、まわりが明るくなったころ、やがて山の中に到着した。彼らは「降りろ」といったが、私たちはおじけづいてじっとしていたら、ひきずり降ろされた。そして、「ここが良い所だから入れ」と言って家の中に連れ込まれた。そこが慶尚道・昌原にあった軍の秘密工場であることは、ずっと後で知った。

 指定された部屋の中でしばらくじっとしていると、日本の着物を一抱え持った看護婦が入ってきて、「朝鮮服を脱いでこれに着替えなさい」と命令した。もじもじしているとむりやり脱がされて裸にされ、浴衣を着せられて胸に「ミイコ」という名札を付けられた。そして、「お前はきょうから朝鮮人ではなく日本人だ。日本帝国の天皇陛下のために働かなければならない。お前の名前はミイコだ、朝鮮語を使ってはならない」といった。それからは約半月の間、雑穀の入った食事を三度与えられるだけで、仕事はさせなかった。苦労ばかりしてきた私は、区長が言っていたように良い所へきたのかな、と単純に思ったりした。

 やがて半月が過ぎると今度は将校がやってきて「足を洗え」「つめを切れ」などと命令するだけで、仕事らしいことは何もなかった。ただ、「風呂に入れ」とか「身体検査」と言われれば体重計に乗ったりして、言われるままに行動していた。そんなことでまた半月が過ぎた。

 ある日の朝、前庭に集まれというので行ってみたら、少女たちが20名くらいいた。その少女たちと一緒に私たちも一列に並ばされた。私たちの前に将校たちがやってきた。その中で星が4つ着いた将校が、一列に並んだ少女たちをなめるように見回していたが、一番背が低いので端っこにいた私を、自分のそばに引っ張りだした。次に少しくらいの低い将校が、同じようにして他の少女を選んだ。

 こうして順番に将校が気に入った少女を選びだし、自分の部屋に連れていった。私はその時、8号室に入れられた。私と一緒にきたユン・チュンソンは隣の9号室であった。やがて昼食がすむと、工場から800メートルほど離れたところにある場所に連れていかれた。そこでも8号室に入れられた。そこは将校が入る部屋だと後で聞いた。

 夜になって男が部屋に入ってきたが、それは朝、私を選んだ将校であった。その将校の名前は「トウギョウ」といった。彼は、12歳の私を暴行した。あまりにも幼い体なので膣が引き裂かれてしまった。翌朝の8時か9時ころ、医者と看護婦がやってきて治療してくれた。そんな状態にもかかわらず、その将校は毎夜のように襲ってきた。

 それは、私だけではなく他の部屋でも同じであった。9号室のユン・チュンソンは恐怖と嫌悪感から拒否して叫んだので、口をふさいで窒息死させられてしまった。

 こうした行為を強いられて1か月もしたころ、トウギョウという将校は「もうお前に飽きた。好きにしろ」と言ってこなくなった。それからは毎日のように7、8人くらいの兵士がやってきた。こうして、この秘密工場での私の「慰安婦」生活が始まった。

 これは、慶尚北道安東出身の多くランという18歳の女性のことである。彼女は襲ってきた兵士に反抗して、相手にかみついたり、ひっかいたりしたというので、裸にされて工場の電信柱に一日中逆さつりにされた。ほとんど瀕死の状態の彼女に対して、「これでもお前は反抗するのか」と威嚇する兵士に、彼女は「言いなりになるくらいなら死んだ方がましだ」といって抵抗し、ついに他の「慰安婦」たちの前で見せしめになぶり殺された。死体はバラバラにされてカマスに入れて川に放りこまれた。

 忠清北道のキム・サムニョという20歳前後の女性は美しい人であった。彼女のところには数十人の兵士たちが列をなしていた。この屈辱的な暴行に耐えられなくなった彼女は、死を覚悟して抵抗した。日本軍は、見せしめだといって、彼女を板の上に仰向けにさせて両手両足をしばり身動きできないようにした。そして30人くらいの兵士たちが馬とびのようにして輪姦した。彼女もまたついに命を落とした。こうして、3人もの女性が殺されるのを見せられた私たちは、恐怖のために抵抗も逃げ出すこともできなかった。

 16歳になった私は、知らぬ間に妊娠していた。それを知った将校は、軍医に診察させて妊娠を確認すると、「天皇に忠誠をつくさない朝鮮人の子供は必要ない」と言って、私を部屋に閉じ込めてお腹を裂き、数カ月経っている胎児を引きずりだして殺した。その時に受けた傷が今でも残っている。


○彼女は襲ってきた兵士に反抗して、相手にかみついたり、ひっかいたりしたというので、裸にされて工場の電信柱に一日中逆さつりにされた。ほとんど瀕死の状態の彼女に対して、「これでもお前は反抗するのか」と威嚇する兵士に、彼女は「言いなりになるくらいなら死んだ方がましだ」といって抵抗し、ついに他の「慰安婦」たちの前で見せしめになぶり殺された。死体はバラバラにされてカマスに入れて川に放りこまれた。

○将校は、軍医に診察させて妊娠を確認すると、「天皇に忠誠をつくさない朝鮮人の子供は必要ない」と言って、私を部屋に閉じ込めてお腹を裂き、数カ月経っている胎児を引きずりだして殺した

○日本軍は、見せしめだといって、彼女を板の上に仰向けにさせて両手両足をしばり身動きできないようにした。そして30人くらいの兵士たちが馬とびのようにして輪姦した。彼女もまたついに命を落とした

 それから間もなくであったと思う。そこで賄い婦をしている朝鮮人のシン・ファジャというおばさんが私たちのところに忍んできて、「お前たちはみんな可愛い顔しているね。こんな可愛い子たちがここで朽ち果てるのはかわいそうだ」「ここは秘密工場だから、ここにきた女性たちは生きてでられないよ」といって「何とかして逃げなさい」と教えてくれた。それから一緒にきた私たち3人は逃げ出す方法を計画した。

 当時の兵士たちは将校と違って思い通りに酒を飲めなかった。お酒を飲みたがっている彼らの弱みを知っている私たちは、酒を与えて酔いつぶす計画をたてた。私たちは、将校が飲み残した酒やつまみをこっそりとっておいて集めて3本分の酒を用意した。

 土・日曜日は将校たちが家族のもとに帰っていく。その日をねらって門番の兵士に酒を与えた。酒につられた彼らは、私たちの計画にはまり、私たちはやっとの思いで逃げ出すことができた。私たちは3人がバラバラになって逃げた。それっきり私は同郷の友人たちの消息を知らない。

 私は電線のない深い山奥をめざして逃げた。そこでひっそりと住んでいる老人夫婦の家をみつけて、かくまってもらい、老人夫婦の好意でそこに住みついた。

 18歳の時に、山村の人々の世話で、身寄りのない若者と所帯をもった。結婚式も何もない貧しい者が寄り添った暮らしには、家財道具も何もなかった。周辺の人々が持ち寄ってくれた必要最低限の道具で2人の生活は始まった。しかし、私は常に追手の影におびえていた。私は夫に哀願を繰り返し、中国に逃げようとせっついた。そして中国の瀋陽に渡っていったのである。

 解放は中国で迎えた。祖国の解放を知った私は、今度は故郷に帰りたくて、また「朝鮮に渡ろう」と夫に哀願した。夫は「お前は、前には中国にいこうとせっつき、今度は朝鮮に帰ろうと騒ぐ。いったいなぜなんだ」と聞いたが、私は過去のことは一切いわなかった。

 1960年代に祖国に帰国した。祖国では協同農場の一員として夫婦で働いてきた。私たちの農場は稲作を主としてやっている。私は農民として働ける暮らしがうれしくて、本当に良く働いた。

 ことしの3月27日にただ一人の身内である夫を亡くし、一人ぽっちになってしまった。夫にも過去を隠して暮らしてきた自分の半生がなんであったかを考えると、涙にくれるばかりであった。むなしかった。

 今までにも、「慰安婦」時代を思い出して夜中に飛び起きて胸の締めつけられる思いを何度したことか。黙ってしまってきた過去を告発して楽になりたい、と思った。何日も考えた末に、みずから平壌中央テレビを訪ねていき、「私が元慰安婦です」と最初に名乗りをあげた。

(リ・ギョンセン 1917年6月29日生 咸鏡北道魚郎郡出身)

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拷問の後遺症に苦しむ日 李福汝


 私は4人兄弟の長女として生まれたが、両親は弟3人と私を残して亡くなった。乳飲み子の弟は、母の死後まもなく死んでしまった。私は6歳と7歳の幼い二人の弟の面倒を見なければならなかった。

 住む家もなかったので、橋の下で雨露をしのぎながら、もらい乞食をしたり、農家の手助けをして生きるだけの食べ物を得て弟たちを養っていた。

 私が数え17歳の夏であった。弟の一人が風邪気味なので、居住していた小屋に寝かせておいて食べ物をもらって帰ってきたら、日本人の、巡査なのか兵士なのか区別ができない男が二人あらわれて、いきなり有無を言わせずに、私の髪の毛をつかんで大きなトラックに放り上げるように乗せた。弟たちが驚いて「お姉ちゃん行くな」と泣き叫ぶ声に振り返ろうとしたが、男たちに蹴られて車に押し込められた。弟たちの「行くな」という声だけが聞こえてきて、姿は見ることができなかった。

 トラックには、既に大勢の女性が乗っていた。幼い少女から20歳前後の娘たちでいっぱいであった。100人くらいはいたと思う。彼女たちは泣きわめいていたが、男たちは泣き叫ぶ私たちに蹴る殴るの暴行を加えながら黙らせた。周囲をうかがおうとしたら、「何を見ている」と言って足で蹴られた。

 水原の駅から汽車に乗せられてソウルを経て大連に連行された。途中、鴨緑江のペネンという所で汽車が途中で止まったので、こっそり外をのぞいたら、鉄橋が二つに分かれて上がっていて川を横切る船が過ぎ去っていくのが見えた。そんな私を見とがめた男が、「何を見ている」と言って髪の毛をつかんで殴った。私は弟のことも心配だったし、これから何が起きるかもわからないので不安で泣きだしたら、また殴られた。

 途中で娘たちの一部を降ろして行きながら、ハルピン、ボンチョン、牡丹江などを経由して東寧県北満州に到着した。そこで汽車を降りた。そこからはトラックに乗せられてプチャゴルに連れて行かれた。

 プチャゴルには20人くらいの娘たちが連れて行かれた。到着すると将校がでてきて、「天皇と軍の命令だ。言うことを聞かないと殺す」と言って私たちを脅した。私は5号室に入れられたが、やがてあちこちの部屋から悲鳴が聞こえてきた。私はその日のうちに暴行された。

 私は訳がわからないままに慰安婦にされてしまった。

 それからは慰安婦として毎日2、30人の相手をされた。拒否すると見せしめに庭に引きづり出され木につるされ、「降参しろ」と迫った。

 私たちが到着して間もなくのある日、2人の女性が慰安婦を拒否したというので木につるされていた。軍人たちは「慰安婦」たちを全員呼び集めた目前で「降参しろ」と迫った。しかし、彼女たちは「おまえら犬のようなやつに降参するか」と抵抗した。たけり狂った軍人は、私たちの目の前で乳房をえぐり、なぶり殺しにした。私は余りの残酷さに気絶してしまった。

 鬼のような軍人たちは、2人の慰安婦の首を切り取り、それを、かまゆでにして、その煮汁を私たちに飲めと強要した。しかし、それを拒否すれば、私たちも殺される。殺されては生き延びる手立てもない。仕方なしに私たちは、それを飲んだ。こうしたことを、私たちは何度か体験した。

 「慰安婦」たちは、常に20人くらいいた。病気で死亡したり逃亡に失敗して殺されたりした欠員は補充されていた。

 ここの慰安所には8年いたが、そこにいた軍の部隊の名称はわからない。タカシマという名前と、イケダという50歳過ぎの眼鏡をかけたひげを生やした将校(大将)がいたことは記憶している。このイケダは、逃亡に失敗した私に拷問を命令した男である。

 あるとき私は逃亡しようとして失敗した。捕らえられた私は、板にくくり付けられて何十人もの男たちに犯されて、2度と逃げ出さないようにするといって、足の神経を切られた。それがために現在の、この不具の体になった。

 それから私は東寧県に連れて行かれ、そこで騎馬隊−騎兵隊に引き渡された。そこでは、砂地に天幕を張っただけの所に入れられた。そこには鉄条網が張られていたが、私は、そこ多くぐって、またも逃亡しようとして失敗した。その鉄条網に鈴がついていたのを知らなかったのである。

その時には、火で焼いたドラのような鉄板でお尻の右側に火傷をおわされる拷問を受けた。その時の火傷がケロイド状態で今でも残っている。(調査団のメンバーが肉眼で確認済み)。その火傷のために足がつって歩行困難になってしまった。いまだに、食をするのにもキチンと座ることができない。

 それでも、はってでも逃げようと、私は逃亡することだけ考えていた。

 ある時、チシャ(サラダ菜)に包んでご飯を食べていた慰安婦たちが、2口ほど食べたところで次々と倒れて死亡した。私は、歩行が不自由なので食事に遅れたが、それが幸いして、そのチシャを食べずにすんだ。

 私は、はってそこを逃げ出した。その私を村の中国人が助け出してかくまってくれた。それが1944年であったと思う。中国人は朝鮮に逃げなさいと教えてくれた。1947年清津に帰国した。

 私は、私の青春時代に、花の年齢に、私を拉致して「慰安婦」にし、こんな障害者にした日本軍人を許さない。

(リ・ポクニョ 1919年4月18日生 京畿道出身)
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12年間の「慰安婦」生活 金大日


 私の実家は余りにも貧しかった。数え12歳のときに、わずかな米と引きかえに金持ちの家に下女として連れて行かれた。そこから日本人の経営する紡績工場に売られた。1932年、数え16歳のある日、今度はフクダという日本人がやってきて、「食べ物に困らないところに連れて行く」と言った。私は、またもや売られてのである。

 私は、フクダと一緒に汽車に乗って釜山港に連れて行かれた。そこには朝鮮女性が20人くらい、あちこちから連れてこられていた。自分がどこへ連れて行かれるのか理解できないままに船に乗せられ、下船したのは下関であった。下関に上陸すると同時に、フクダという男は、「これからは朝鮮語を使ってはいけない。もし使ったら殺す」と脅し、そして「これからお前の名前はシズエだ」と行った。そこから連れて行かれたのが大阪の病院であった。

 病院では雑用をさせられた。地で汚れた包帯やガーゼ、患者の大小便で汚れた衣類の洗濯など、日本人が嫌ってしない汚い仕事は全部させられた。

 来る日も来る日もべっ視と屈辱的な扱いの中で、長時間の労働を強いられ、外出する機会も与えられず、病院の雑用を押し付けられていた。

 数え18歳になったお正月の夜、病院の院長だと名乗った男が、私の部屋に入ってきてナイフを突きつけ、「私の言いなりにならなければ殺す」と脅して、叫び声をあげた私の口を手で押さえて暴行した。その日まで、私は院長の顔も知らなければ会ったこともない。院長は「お前は美しいので、前から目をつけていた」と言った。

 それから、しばらく経ったある日、院長が「お前のこの病院で2年も奉公したから、今度はもっと良いところに行かせてあげよう」と言って、見知らぬ日本人の男に私を引き渡した。

 その男は、私を東京に連れて行った。そして、日本の軍隊に「挺身隊」として送り込んだ。そこには朝鮮女性が30人くらいいた。1934年のことである。現在では「従軍慰安婦」と言っているが、私が当時、言われたのは「挺身隊」とはっきり記憶している。

 そこで、軍隊と一緒に連れて行かれたのが旧満州である。まず、東京から船で釜山へ行き、釜山から汽車で新京、それからハルピン、チチハル、牡丹江であった。そこで私のほかに数人の女性が選ばれて、船に乗せられて連れて行かれたのが上海であった。

 上海には既に朝鮮女性が大勢いた。その女性たちは、「あなたはどうしてこんな所にきたの」と言いながら私を哀れんだ。私は、「お姉さんたちと同じように無理やり連れてこられました」と答えるしかなかった。

 上海では中国人の民家の2畳くらいの部屋に入れられた。部屋の前には番号が40くらいふってあって、私は12番に入れられた。その夜、将校たちが私を暴行した。それからは1日4、50名もの日本兵が私の部屋の前に列をなし、「早く早く」とせかして先を争い、入れかわるとすぐにのしかかってきた。私は起き上がる暇もなかった。

 私が最初に従わせられた軍隊は12師団で、その師団の移動に伴って私たちは引きずり回された。上海の次にはハンカオへ連れて行かれた。そこから南京、トウヨウ、キショウと、転戦する軍隊に従って中国各地を連れ回された。

 日本の軍隊のなかでも九州6師団が一番悪かった。他の日本軍は胸に標識をつけていたが、九州6師団はそでに標識をつけていた。

 私はこうして12年間も慰安婦生活を強いられたが、中でも6師団に加えられた数々の暴行は、決して忘れられない。彼らは酒に酔ってやってきて短刀を突きつけて、「おれの言うことを聞かないと殺す」と身体を傷つけたりした。「この朝鮮ピー」とさげすみながら私たちを威嚇した。彼らはまた、ほかの兵士が先に入っていても、「早く出てこい」と言って脅し、先の者がまだいるのに押し入ってきて性行為を強要した。

 私は、こんな「慰安婦」生活がのろわしくなって自殺を2度も図った。2度ともすぐに発見され、生き返らされてしまった。生かしたのはアキカワという大隊長で、「この女は見殺しにするのは惜しい、使い道があるから生かせ」と言った。私には死を選ぶ自由もなかった。

 私は、何か言うと「殺す」と言って脅していた6師団の兵士に、ある日、覚悟を固めて「私も朝鮮人だ。朝鮮人の女の心意気を見せてやる。殺すなら殺せ」と反抗したために縛られて、ひどい拷問を加えられた。それを見ていたアキカワ大隊長が、「それ見ろ。この女は度胸がある。使い物になるから、殺すな」と言って止めた。そのために、私は地獄のような「慰安婦」生活を続けなければならなかった。

 ある時、私は50人もの兵士を相手にして気絶してしまった。その私に彼らは「ノーシン」という薬を飲ませて意識を回復させて行為を継続させようとした。しかし、私がもうろうとして使い物にならないとわかると、たばこに火をつけて鼻や口に押し付けるなどの屈辱を加えた。

 めったなことではたじろがない私が、恐怖に震えたことがある。それは6師団の兵士の蛮行であった。6師団の一将校が、「おれは、飽きたからお前がやれ」と連れてきたセパード犬を私にけしかけたのである。その時はあまりにもの恐怖で、さすがの私も「助けて」と大声で叫び、周囲の部屋から「慰安婦」たちが飛び出してきたほどである。

 こうした屈辱は、私ばかりでなく他の朝鮮人「慰安婦」たちも同じくあじ合わされたばかりか、短刀で傷つけられたり、中には殺された者もいる。

 こんなことがあった。私の隣の部屋にいた全羅道出身の知らぬ間に妊娠した。彼らは妊娠しているのもかまわず性行為を強要し、ついには性行為の最中に流産した彼女のおなかを日本刀で切り裂き、出てきた胎児をごぼう剣で刺し殺し、妊婦までも殺したのである。

 日本の敗戦も濃厚になってきたころ、軍人たちは、私たちが朝鮮語で話したりすると神経質になって、「日本が負けると言っただろう」と執拗に迫り、日本が負けることになったら「お前ら皆殺しにする」と言って脅した。


○火のついた煙草を鼻や子宮に入れる

○将校が「おれは、飽きたからお前がやれ」と言ってシェパードをけしかける

○戦闘で負けた腹いせに慰安婦に銃を乱射して殺したり、穴を掘って入れ、手榴弾を投げ込む

○妊婦の腹を裂き胎児を刺し殺した後、妊婦も殺す

○慰安婦150人を並ばせて斬首


 日本の敗戦が決定的になったころ、血迷った彼らは、朝鮮人と中国人の慰安婦ら150名くらいを2列に並ばせて、「かかれ」と小隊長が号令をかけた。両端から日本刀を振りかざした兵士らが襲いかかり、皆殺しを始めた。飛び散る血の雨に私は意識を無くして倒れた。私には3、4日くらい時間が過ぎたように思う。意識を取り戻してみたら、その血の海の中で、私のほかに2名が生き残っていた。

 はうようにして近くの中国人の家に助けを求めに行った。「私は朝鮮人です。助けてください」と必死に叫んだ。

 中国人は数日間かくまってくれて、中国服を一着くれた。それを着て朝鮮人の家を探して行き、そこでしばらく世話になった。8月15日の解放は、その朝鮮人に教えられた。

 9月になってどうしても故郷の両親に会いたくて、世話になった朝鮮人の家族に旅費を借りてやっとの思いで故郷に帰ってきた。しかし、両親は既に死亡していた。

 私が日本人からもらったものは病気だけ。子宮はメチャメチャにされ、心臓は悪くなり、腸も悪くて下痢ばかりして、今でも病院に通っている。

 日本軍の通った中国大陸の隅々には、犠牲になった朝鮮女性の血がしみこんでいる。このことを知ってもらいたい。

 日本人に問いたい。立場を変えて、あなた方の娘も姉妹、妻や母が私のような体験をさせられたとしたらどう思いますか。

(キム・デイル 1916年11月5日生 黄海道沙里院市出身)
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使い捨てにされた朝鮮女性 金英実


 両親、祖母と妹2人、弟1人の7人家族の長女として生まれた。家庭が貧しかったので数え13歳のとき、咸鏡北道の会寧に住んでいた父の妹のところにいった。

 会寧は、私の故郷に比べれればそれでも働き口があるというので、叔母の家で世話になりながら、近所の雑用をして働いた。数え18歳のとき居酒屋で雑用係をしていた。

 1941年のある日、そこに背広を着た日本人があらわれて「条件の良い仕事をあっせんしてやろう」と話しかけてきた。「条件の良い仕事」なら故郷の家族に仕送りができるので、家計を助けるためにもやってみたいと思った。故郷を離れたといっても叔母のそばで働いていたので、見知らぬ土地にいくことには不安があった。しかし、少しでも条件の良い仕事をして故郷に仕送りできればと考えていたので、集合場所に指定されていた村の日本人区長の家にいった。いって見ると私と同世代の女性が、既に14、5 人集まっていた。

 区長の家の前にはトラックが迎えにきていた。それに乗って会寧駅にいき、そこで昼食時に汽車に乗り換えてアオヂを経由してウンドクに到着したのは夕刻であった。そこからチョンアクドンにいくと、ほろ付きのトラックが待機していた。それに乗せられて30分ばかり走ったところの山中に連れていかれた。

 その山中には日本の軍人がいっぱいいた。

 私たちは中国と旧ソ連の国境地帯の、少し奥地に入ったところに連れていかれたが、到着してみるとそこには既に、10人位の朝鮮女性がいた。女性たちは私たちに、「なぜこんなところにきてしまったのか。ここからは生きてでることはできないのに」と悲しげに話しかけてきた。私には何のことかわからなかった。

 軍人がやってきて私たちを最初に倉庫に連れていった。今まで着ていた朝鮮服を脱いで和服に着替えろと強制した。私は恐怖と羞恥から拒否すると殴る蹴るの暴行を受け、むりやり裸にされて着替えさせられた。そして、「ここでは朝鮮語を使うと殺す」と脅かされた。

 その日、一緒にきた女性たちの一部は他所へ連れていかれ、彼女たちがどこへ行ったのか、どうなったのか一切わからない。私は人間2人が入ればいっぱいになるような部屋に入れられた。

 夜、麦御飯とスープだけの粗末な夕食をだされたが、恐怖でのどをとおらなかった。ただどうにかして逃げ出さなければとばかり考えていた。そんなことを考えていたときに、私たちを連行してきた男が軍服を着て入ってきた。将校(肩に星が3つ付いていた)の軍服を着てきた。将校はいきなり入ってきて有無をいわさず私を強姦した。この将校は、それからも和服に着替えてどこかにでかけていっては、朝鮮女性を連れてきて「慰安婦」にした。そればかりか、ここにいた女性をどこかへ連れ去りもした。

 最初の日の夜は、その将校の外に7人もやってきて私に暴行を働いた。私が7人という数字を記憶しているのは、それまで想像もできなかったつらい暴行を受けて、この後何人にこんな思いをさせられるのかと思い詰めていたからである。厳しい監視の中で私は逃げ出す方法も考えられないままに、そのままそこで「慰安婦」を強いられることになってしまった。

 食料事情は悪く、ろくな食べ物はなかった。そのために栄養失調と過労のために病気になるものが多かった。重病のために役に立たないものとわかると、病死者も含めてどこかに連れ去られた。彼女たちがどうなったかはわからない。ただ、行って見たことはないが、豆満江がすぐ近くを流れていたので、そこが墓場になったのではないだろうか。

 この周辺のアオヂ、チョンアクドン、クロン、サフェなどには付設の慰安所があったが、ホンイリにはなかった。

 慰安所のないところには私たちが派遣させられて奉仕させられた。そこには週に1〜2回いかされ、朝から翌朝まで奉仕させられた。時には1泊2日で夜中に帰ってくることもあった。

 私たちのグループは常に14、5 人で、欠員がでるといつのまにか必ず補充されていた。

 ある日、「トキコ」と呼ばれていた私より幼い女性が朝鮮語を使ったという。それをみとがめた将校が私たち全員を呼び集め、その前で見せしめに、幼い「トキコ」の首を日本刀ではねて殺した。あまりの恐ろしさに泣き叫ぶ者、気絶する者もいた。私はただうつむいて声をだすこともできなっかた。それからは、日本語のよくわからない私たちは、ただ目と目で語り合うことしかなかった。

 また、「ジュンコ」と呼ばれていた女性は、妊娠に気付かぬうちにいつしか臨月に近くなっていた。軍人たちは、「ジュンコ」が出産する直前まで「慰安婦」として利用していた。ある日、彼女が出産した。彼女の部屋に入っていった将校は、生まれた乳児を布で包んでどこかに連れ去った。そして、衰弱した「ジュンコ」が役に立たないと思ったのか、彼女をどこかに連れ去っていった。それっきり私たちは、彼女の消息を聞いていない。

 ここにいたらいつか私も殺されると思った。

 1945年8月13日、軍人たちが、「日本に帰るから、お前たちも一緒に連れていく」といった。ここでもこんなに辛い思いをさせられいるのに、日本にいけばどうなるのか見当がつかない。そこで皆と話し合い逃げることに決めた。一緒だと捕まるのでバラバラに逃げようと約束した。

 その夜、私はトウモロコシ畑にひそみ、明け方、山に登っていった。山の中で2日くらい隠れていて、そこから山のふもとの人家を探していき、そこで食べ物をもらった。祖国の解放はその時聞いたが、信じられず捕まることを恐れて、ずっと山の中に潜んでいた。

 秋になって清津にでてきた。

(キム・ヨンシル 1923年10月21日生 両江道普天郡出身)
http://tabakusoru.hahaue.com/ianhu.syougen.1992101201.html

             /        /  イf它メミー-       ヽ
            /        // {い辷彡ク―- 、 \     ヽ
          /       / / >=≠=ー-   \ \ヽ _    丶
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       !′      / l   ′| l|   l| |l  | |ト、  | l | l >      |
      !       /  川  l| |||」|   l|`T 7 ハT | l | | |       |
      {        〈  川  |l kヘ 八   | |/,,斗=ミk j | ! |       |
     \::      ヽノ川  |l_|孑テミ\ | l〃 弋ヅ゙} ' 从 |:      |\
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チョン・オクスン(ChongOkSun)


現在74歳のチョン・オクスン(ChongOkSun)の証言は、日本帝国陸軍の兵士による性的暴行と日々の強姦に加えて、これらの女性が耐えなければならなかった残酷で苛酷な取り扱いを、とくに反映している。


「私は1920年12月28日、朝鮮半島北部咸鏡南道のプンサン郡フアバル里で生まれました。

13歳の時の6月のある日、私は畑で働いている両親のために昼食の用意をしなければならなかったので、村の井戸に水を汲みに行きました。そこで一人の日本 の守備兵が私を不意に襲い、連れて行きました。ですから両親には自分の娘に何が起きたか分かりませんでした。私はトラックで警察に連れて行かれ、数人の警 官により強姦されました。私が叫ぶと彼らは口に靴下を押し込み強姦を続けました。私が泣いたので警察署長は私の左目を殴りました。その日、私は左目の視力 を失いました。

10日ほどして私はヘイサン市の日本陸軍守備隊の兵営に連れて行かれました。私といっしょに約400人の朝鮮の若い娘がいて、毎日性奴隷として5000人以上の日本兵の相手をしなければなりませんでした――一日に40人もです。

その度に私は抗議しましたが、かれらは私を殴ったり、口にぼろきれを詰め込んだりしました。あるものは、私が抵抗をやめるまで秘所にマッチの棒を押し当てました。私の秘所は血まみれになりました。

一緒にいた一人の朝鮮の少女が、どうして一日に40人もの大勢の相手をしなければならないのかを尋ねたことがあります。質問したことを罰するため、日本の 中隊長ヤマモトはこの少女を剣で打つように命じました。私たちが見ていると、

彼らは少女の衣類をはぎとり、手足を縛り、釘の出た板のうえを、釘が血と肉片 で覆われるまで転がしました。

最後に、彼らは彼女の首を切りました。別の日本人ヤマモトは、

「お前たちみんなを殺すのは簡単だ。犬を殺すよりもっと簡単 だ」

と語りました。彼はまた

「こいつら朝鮮人少女は食べ物がないといって泣いているから、この人肉を煮て食べさせてやれ」

とも言いました。


ある朝鮮人少女は、頻繁に強姦されたため性病にかかり、そのために50人以上の日本兵が病気にかかりました。病気の蔓延を防ぎその朝鮮人少女を「無菌化」 するため、彼らは焼けた鉄棒を彼女の秘所に突き刺しました。

あるとき彼らは私たちのうち40人を、トラックに乗せて遠くの水たまりに連れて行きました。水 たまりは水と蛇でいっぱいでした。兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、水たまりに土をどんどん盛り、彼女たちを生き埋めにしました。

○「兵隊一〇〇人の相手ができるのは誰か」と刀を下げた兵隊が聞いた。その時に手を上げなかった一五人の女性は、他の女性への見せしめとして殺された。その方法は、裸にした女性たちの頭と足を兵隊たちがつかみ、一面に釘を打った板の上をゴロゴロと転がしたのだ。噴水のように血が噴きだし、釘には肉片がこびりついた。

○鄭さんたちが泣いているのを見た中隊長は、「慰安婦たちは肉を食っていないので、肉が食いたくて泣いているんだ」と言った。兵隊たちは、殺した頭を釜で煮始めた。そして、鄭さんたちを木刀で叩いて、無理やりその汁を飲ませた

○オ・チョンヘという女性が、将校によって子宮に鉄の棒を押し込まれて殺された

○オ・ズンイとう女性が、梅毒にかかったことを知らせなかったため将校にうつったという理由で殺された。彼女は口に布を詰められ、焼いた鉄の棒を子宮に入れられて即死。引き抜いた棒には肉がこびりついていた

○鄭さんの口にゴムホースが押し込まれ、水が注がれた。膨れ上がったお腹の上に板が乗せられ、兵隊がシーソーのように踏みつけた

○鄭さんたちは、足首を縄で縛られて逆さに吊り下げられた。兵隊は、針がたくさんついた拳大の黒い塊を持って来てそれに墨をつけた。そして、鄭さんや他の女性たちの口をこじ開けて強く押し込んだのである。鄭さんの前歯は折れ、激しい痛みで再び気を失った

○口だけでなく全身に刺青がおこなわれた。兵隊たちは、殺す前に女性たちの肉体に落書きをしたのだ

○兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、水たまりに土をどんどん盛り、彼女たちを生き埋めにしました

守備隊の兵営にいた少女たちの半分以上が殺されたと思います。二度逃亡を企てましたが、いつも数日で捕まってしまいました。私たちはいっそうひどく拷問を うけ、私はあまりに多く頭を殴られたので、どの傷もまだ残っています。

彼らはまた私の唇の内側や胸、腹、体に入れ墨をしました。私は気絶しました。気が付いてみると、私は恐らく死体として捨てられて山の蔭にいました。私といっしょにいた二人の少女のうち、私とク・ハエ(KuHae)が生き残りました。山の なかに住んでいた50歳の男が私たちを見つけ、衣服と食べるもの多くれました。彼はまた朝鮮に帰るのも助けてくれました。私は、日本人のための性奴隷とし て5年間使役されたのち、18歳のときに、傷つき子を産めない体で、言葉を話すのも難かしいありさまで帰国しました」。

http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html
http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/51/

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ファン・ソギョン(HwanSoGyun)


77歳のファン・ソギョン(HwanSoGyun)の証言は、大勢の娘たちを軍事的性奴隷に誘い込んだ詐欺的方法による徴集方法の証拠となる。

「私は、1918年11月28日に日雇い労働者の次女として生まれました。私どもは平壌市カンドン区のタエリ労働者街に住んでいました。17歳のとき、1936年のことですが、部落の長がやってきて私に工場の仕事を世話すると約束しました。私の家はたいへん貧しかったので、私は喜んでその 収入の良い仕事を引き受けました。私は日本のトラックで、すでに20人ほどの朝鮮の娘たちが待っている停車場に連れていかれました。私たちは汽車と、その 次にはトラックに乗せられ、数日間の旅ののち中国の牡丹江のほとりにある大きな家につきました。私はそれが工場だと思いましたが、工場などないことが分か りました。少女たちは、わらの布団があり、ドアに番号がついている部屋を、一人に一室ずつ割り当てられました。

何が身に降りかかるかも知らず二日間待った後、軍服をきて帯剣した日本兵が一人私の部屋にやってきました。彼は「自分の言うことを聞くかどうか」と尋ね、 私の髪の毛をつかんで床のうえに倒し、足を開くようにいいました。彼は私を強姦しました。彼が離れたとき、私は外で20人か30人の男たちが待っているの を見ました。全員がその日私を強姦しました。それ以来、私は毎晩15人か20人の男たちに襲われました。

私たちは定期的に医学的検査を受けなければなりませんでした。病気にかかっているとわかると、殺されてどこか分からない所に埋められました。

ある日、新し い娘が私の隣の部屋に入れられました。彼女は男たちに抵抗を試み、そのうちの一人の腕に噛み付きました。

そのあと彼女は中庭にひきだされ、我々全部の見て いる前で刀で首を切り落とされ、体を切り刻まれました」。

ァン・ソギュン(HwangSoGyun)は、性奴隷として7年間日本兵の相手をさせられた後、1943年に「慰安所」から逃げることができた。その後39歳のとき結婚することができたが、家のものに過去を語ったことはなかった。心理的肉体的な傷と婦人科的問題のため、子供をもつ ことはできなかった。

http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html


    ヽ|′  ノ  /ヽィl   ′| l|   l| |l  | |ト、  | l | l〈″ ::.::.::. 〈|
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ファン・クムジュ(HwanKumJu)


現在73歳で、韓国永登浦区のドンチョン洞に住んでいるファン・クムジュ(HwanKumJu)の証言は、陸軍が慰安所を運営した際の規則類を例示している。


「17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の朝鮮人少女全員に日本軍の工場に働きに行くように命じました。そのとき私は労働者として徴用されたのだ と思いました。3年も働いたころ、ある日一人の日本兵が自分のテントについてこいと要求しました。

かれは着物を脱げと私にいいました。たいへん怖かったの で抵抗しました。私はまだ処女でした。しかし彼は銃剣の付いている銃で私のスカートを引き裂き、下着を体から切り離しました。そのときに私は気を失いまし た。そしてふたたび気が付いたときには毛布を掛けられていましたが、あたり一面に血が付いていました。

そのときから最初の1年間は、いっしょにいた全ての朝鮮の少女たちと同様に高級将校の相手をするように命令されましたが、時がたち私たちがますます「使役」されるのにしたがい、私たちはもっと下級の将校の相手をするようになりました。もし誰かが病気になれば、その人は消えてしまうのが普通でした。また私 たちは「606号注射」を与えられましたが、それは妊娠しないようにするためや、妊娠したときにいつも流産するようにするためでした。

衣類は一年に2回しか与えられず、食べ物も足りず、餅と水だけでした。私たちの「サーヴィス」には、支払いはありませんでした。私は5年間「慰安婦」とし て使われましたが、そのことで一生苦しめられてきました。私の内臓は何度も病におかされるたび、手術で取り除かれており、苦痛と恥にみちた経験のために、 性交渉を持つことはできません。私はミルクや果汁を吐き気を催さずには飲むことができません。彼らが私に押し付けた汚らしい事柄をあまりにもたくさん思い 出させるからです」。

ファン・クムジュ(HwangkumJu)が特別報告者に語ったところでは、中国の吉林省の慰安所での最初の日に、日本兵からこ こには従わなければならない五つの命令があり、従うか死ぬかだといわれたという。

第一、天皇の命令。
第二、日本政府の命令。
第三、彼女が所属している陸軍 中隊。
第四、中隊のなかの分隊。
そして最後に彼女が自分に仕えているテントの持ち主としての彼の命令。

http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html

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キム・ボクスン (KimBokSun)

また別の生存者、韓国のキム・ボクスン (KimBokSun)は、性奴隷としての自分の生活は、軍により直接に統制されていたと証言した。

毎日午後3時から9時は下士官の相手をしなければならず、

午後9時以後の夜は将校のためにとっておかれた。

また大部分の兵隊たちはその使用を拒否したが、全ての女性は兵隊たちを性病から守るため、コンドームを支給された。

http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html


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朴永心(パク・ヨンシム)

朴永心の証言

『女性国際戦犯法廷の全記録・ 第5巻 日本軍性奴隷制を裁く-2000年女性国際戦犯法廷の記録』http://www.ryokufu.com/books/ISBN4-8461-0206-8.html


−−どのようにして日本軍「慰安婦」として連行されたのですか。


朴証人:私は四人兄弟の三番目です。上に兄が二人、下に妹が一人いました。幼い頃母を亡くし継母に育てられました。家はとても貧乏でした。一四歳のとき南浦に行き洋服店の女中として働きました。

 一七歳のときでした。一九三八年三月だったと思います。ある日、日本の巡査が軍服に帯剣のいでたちで洋服店に現れました。彼はいい金儲けの口があるが行かないかというので、そのままついて行きました。そうして私は日本軍の性奴隷になったのです。

−−「慰安婦」として連れ回された経路について。

朴証人:はじめ、ほかの娘と一緒に平壌に連れて行かれました。二二歳の女性でした。車に乗せられしばらく走り続けました。数日後着いてみると見たこともない所でした。最初に連れられて行ったのが南京でしたが、そこの「キンスイ楼」に入れられました。私はそこで歌丸という日本名で呼ばれました。そこで三年ほど性奴隷の生活を強要されたと思います。

 たしか一九四二年頃だったと思います。ある朝、表へ呼ばれました。出てみると七名の別の女性たちもいました。皆朝鮮女性たちでした。一緒に行こうと言うのでしたが二名の日本人兵士がいました。その二名が私たちを監視しながら慰安所を後にしました。別の慰安所に行くというのです。

 私たちは南京で汽車に乗りました。上海に行きました。船に乗り換えシンガポール経由でビルマのラングーンに着きました。ラングーンからラシオにある「イッカク楼」へ行きました。慰安所の名前です。そこでまた性奴隷の生活をすることになりました。慰安所の〔経営者が私に名前を付けました。若春という日本名でした。ラシオには二年ほどいました。私がその時相手をしていた二名は今でも名前を憶えています。オオタミノルという将校とタニという軍曹です。

 一九四三年〔正しくは四四年〕春だったと思います。日本軍は私たちを再び車に乗せビルマと中国の境にある拉孟(ラモウ)へ連れてゆきました。日本軍はそこを松山と呼んでいました(中国側の呼称が松山)。その時から連合軍の捕虜になるまでそこにいました。日本軍の性のなぐさみものとしてだけ生かされました。

 松山に来て間もなく猛攻撃が始まりました。連合軍の爆撃でした。私たちがそこで相手をさせられたのは日本軍第五六師団でした。主に歩兵と戦車兵の相手をさせられました。毎日数十名の日本軍から性行為を強いられました。その合間を縫っては握り飯を作り、爆撃の中を運びました。日本軍の戦闘壕へ運んで行ったのです。そこには初め一二名の朝鮮女性が連れられて来ましたが、八名が爆撃で死に私たち四名が残りました。

−−その後、生き残った「慰安婦」たちはどうなったのですか。

朴証人:私たちは……日本軍が日本国民を乗せるということを[……]。日本が敗れたのです。日本軍は、戦争に敗れると何の知らせもなく自分たちだけで逃げました。私たち朝鮮女性四名は、怖くなって防空壕に隠れましたが、中国軍にみつかりました。それで外へ出ましたが、私たちを取り調べたのは米軍将校でした。米将校があれこれと質問しました。

−−ここに一九四四年九月三日、米軍が朝鮮人「慰安婦」を捕虜にしたという写真があります。ここにあなたはいますか。

朴証人:これが私です。この服装で裸足で、……髪も編み下げ〔おかっぱのことと思われる〕にして、確かに私です。連合軍の捕虜になった時、妊娠していました。

−−捕虜になった後どうなりましたか。

朴証人:トラックに載せられ昆明の収容所へ行きました。収容所で捕虜として扱われました。そこには日本軍捕虜がいました。収容所にいってから、おなかがカチカチに張ってきてとうとう出血しました。収容所内の病院に入院しました。中国人医師が注射をし手術しました。妊娠した後も日本軍に絶えず性行為を強いられたのが原因だったと思います。胎児が死んだのです。

 収容所には一年ほどいたと記憶しています。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/11001201/p2


            l. l  l   ,.!       }   !  !   l   l.l:.lj::lj::::} ヽ
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            ''T"  l l X `弋,刃``ヾl/ /'弋_刃ヽ l/ l'ノ,!/└ ' !  l
           l   l l l l ハ     ,       /,イ l_ノ      !
            l   l / / l /`'ゝ、   _ _     //1 l ri.      |  i
              l  ,/ /,' ,'/   .r` 、 ‐    ,. //' ! ト リ      |  l
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  丶ヽ l  7ー'        ,イ !       1        \|l/  ノ
   ヽ `! /        /   l        l           | /
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李桂月(イ・ゲウォル)


1922.9.6、黄海南道碧城郡に生まれる。5歳の時、父の死亡と共に家を追い出され、2年間乞食生活を送る。8歳の時、面(※地方行政の最下級機関)の書記の家に子守りに入り、13歳の時、書記に旅館の下働きに売り渡される。15歳になった年、村の区長に「よい仕事を斡旋する」と言われ、ハルピン近くにある日本軍の慰安所に連れて行かれる。1939年、日本軍の将校に酒を飲ませて酔わせ、隙をみて逃亡した。

十五歳になった年の3月頃のことです。ある日、村の区長が訪ねて来て旅館の主人に何か話し、私を呼んで「ここで苦労をしなくてもいいように仕事を斡旋するから、いい所に行こう」と言いました。私は住み慣れた所がいいと思い、行かないと言ったのですが、区長は私の腕を掴み、旅館から少し離れた駅に無理やり私を連れて行きました。十五歳といっても私は背が低く、体も弱かったので、私は区長にひっぱられるままでした。

 駅には二人の日本軍人がいました。一人は肩章に星がついた将校で、「タナカ」という名前の男でした。彼らは私を引き取ると無理やり有蓋貨車(屋根のある貨車)に押し込んだのです。貨車の中にはすでに二人の娘が乗せられていましたが、二人は私より年下の十四歳と十三歳の少女でした。

 翌日、中国のハルビンに着いて、私たちは汽車から降ろされました。〜(中略)〜着いた所は民家一つない日本軍の駐屯地でした。「タナカ」は私たちを駐屯地の建物に監禁したのです。

私は住み慣れた所がいいと思い、行かないと言ったのですが、区長は私の腕を掴み、旅館から少し離れた駅に無理やり私を連れて行きました。〜(中略)〜駅には二人の日本軍人がいました。一人は肩章に星がついた将校で、「タナカ」という名前でした。彼らは私を引き取ると無理やり有蓋貨車(屋根のある貨車)に押し込んだのです。〜(中略)〜日本兵は私たちが逃げるのを恐れて貨車に鍵を掛けたので、私たちは外に出ることができませんでした。

 ○私は部屋に入って来た将校に「体の調子が悪い」と言って相手をすることを拒絶したのですが、〜(中略)〜将校は私を押し倒して腹や胸を蹴り、しまいには軍刀のさやで額を殴りました。私のあばら骨は折れ、額からは血が流れ、とうとう私は気を失ってしまいました。

 ○「死んでない」と言いながらたばこに火をつけて私の腹に押し付けました。私の体が熱さと痛さでひくひくとするのを見て、「タナカ」は「おもしろい」と言い、たばこを取り替えながら更にあちこちにたばこの火を押し付けたのです。

 ○日本兵は「皇軍のために頑張れ」と言い、「100人でも200人でも入って来るだけ奉仕しろ」と命令しました。

 ○日本兵は妊娠している女は不必要だと言って軍刀で彼女の腹を切り裂きました。

 ○ある日、日本兵は泣き出すイ・プニの頭を石にぶっつけて殺してしまいました。

 ○五人の女性が逃亡して捕まえられたことがありましたが、日本兵は見せしめのつもりで「慰安婦」たちを全員集合させ、彼女たちを裸にして縛って井戸の中に投げ込んで殺しました。

 ○私は夢中で葦原を抜け出し、どこともわからないまま川辺を走っていきました。すると、川辺で釣りをしている朝鮮人が目に入り、私は彼に助けを求めたのです

http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/27/


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            /// /    リ !|       礼jハ/ ノ::;人/
     ., =='′ // /  /' ゙ ヽヽ`、 丶、′ `゙,.イ公 '´
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郭金女(カク・クムニョ)


1923.1.8(注)、忠清南道天安郡(チョナングン)生まれ。生活は苦しく、14歳の時、日本人の家の子守りをし、16歳の時、日本人が経営する製紙工場で女工として働く。1939年10月頃、工場経営者が「ソウルの食品工場で働くことになった」と言って日本人に引渡した。中国牡丹江穆稜(ソ連国境地帯)にある慰安所に入れられる。2年後、警備の歩哨の隙を見て慰安所から逃げ出す。


私の故郷は、南朝鮮の忠清南道天安です。兄が一人、姉二人に妹一人の五人兄弟でした。私が八歳の時に父は亡くなり、母が地主の家で働きました。炊事をしたり、衣類を縫ったりという仕事です。もちろん、子供たちは学校には行けませんでした。

 私は全羅南道順天の日本人の家で子守りとして働いた後、一六歳の時に全羅南道光州の製糸工場へ働きに行きました。ここは日本人の経営でした。カイコから糸を取るのが仕事で、お腹が空いている時にマユの中のサナギを食べたこともあります。

 ここで一年間働いた時、呼ばれて事務所に行くと刑事らしい日本人の男がいました。私が刑事だと思っている理由は、後に列車の中で拳銃を持っているのを見たからです。

 「パンや飴を作る『京城』(現在のソウル)の食料工場で働くと、お腹がいっぱりになるので行くように」と言われたんです。私を含めた娘たちの名簿が、会社から刑事に渡されました。

 ソウルまで汽車で行き、旅館に泊まりました。その翌日になると、「牡丹江に行こう」と刑事が言い出したんです。「なぜ中国に行くのか?私は行かない!」と抗議したところ、「朝鮮は植民地なので、どっちみちお前たちは死ぬのだ!」と言われ、列車に無理やり乗せられました。

 そして翌々日の朝、牡丹江に着きました。駅の待合室に二〇分ほどいると、幌のついた車のトラックがやってきました。降りてきた憲兵に、「長谷川さん、二〇人連れて来ました」と刑事は言っていました。そのトラックに乗せられ、「満州」(中国東北地方)とソ連の国境地帯にある穆稜という所に着きました。

 私たちは、憲兵隊が駐屯している三階建ての建物に連れて行かれ、畳の部屋に入れられて鍵をかけられました。出されたご飯も食べず、その夜はみんなで泣いていたんです。

 翌日、医者と看護婦が私たちを診察しました。今考えれば、病気を兵隊にうつさないためです。連れて来られた女性の一人は、顔がまっ黄色でした。そのため地下室に入れられてしまい、後に亡くなりました。

 大きな建物の中は仕切られていて、一〜二〇番までの部屋があり、私は「一番」の部屋をあてがわれました。中はタタミ二畳ほどの二人がようやく横になれるくらいの広さでした。大切な髪を短く切られ、来ていたチマ・チョゴリを浴衣に着替えさせられたんです。このチマ・チョゴリは母が作ってくれたものなので、くやしくて泣きました。日本人に「レイコ」という名前をつけられました。

 部屋にいると、憲兵の将校が入ってきました。彼は刀を壁に立てかけてから服を脱ぎ、私にのしかかりました。その当時の私は何も知らない娘でしたから、その日本兵を虎よりも恐ろしく思いました。私は泣き叫んで、将校の手を噛みました。すると血を流した将校は、麻酔の注射を私にしました。一分も経たずに気を失った私は、将校に犯されたんです。〜(中略)〜

 一日に二〇〜三〇人もの相手をさせられました。抵抗した私に、「子宮を取ってしまうぞ!」と言って小さなナイフで切りつけてきた将校もいました。刀で刺された太股の傷痕は今も残っています。むこうずねは刀でえぐり取られました。私の体は刀傷だらけです。

 「言うことは聞かない」と言って、兵隊が私の腕をねじり上げたことがあります。骨折して腕が動かなくなってしまい、二ヵ月間ぐらいギブスをして生活しました。髪をつかんで引きずられたこともありました。痛いというよりは悔しい思いだけでした。

 こうしたことをされたのは、私だけではありません。私と一緒に連行された李春心という娘がいました。日本兵は彼女を犯そうとしましたが、彼女は泣き叫びながら激しく反抗しました。

すると将校は、彼女の乳首を歯で噛み切ってしまったんです。そこから血が吹き出し、彼女は気絶しました。彼女はその傷で破傷風にかかり、死んでしまったんです。子宮を蹴られて、二日後に死んだ女性もいます。


 「言うことを聞かないと地下室へ入れるぞ!」

と日本兵は言い、私たちをそこへ連れて行きました。その地下室には、ここで殺された娘たちの死体が捨てられていました。腐った匂いが充満し、少しでもそれを嗅げば頭が痛くなるほどひどい所でした。

 逃げようとして捕まった女性がいました。私たちが見ている前で日本兵は、皮のベルトで彼女を叩いたんです。「私たちは逃げないから、その女性をこれ以上叩かないで!」と頼みました。ですが、その女性は一週間後に亡くなり、その地下室へ捨てられたんです。このようにして殺された女性は一〇人ほどになります。

 ○みな処女であり、初めてのことだから恥ずかしくて検診を拒んだのですが、軍医は「言うとおりにしなければ殺す」と脅しました。

 ○私は必死で抵抗したため、日本兵は怒って私を殴ったり蹴ったりしました。そして「子宮を切り取ってやる」と言い、刀で切りつけました。私は血だらけになって気を失ってしまいました。

 ○私と同じ工場からひっぱられて来た「エイコ」と呼ばれていた金徳女(キムトンニョ)は、乳首を噛み切られ、破傷風になって死んでしまいました。

 ○慰安所の建物には地下室がありましたが、日本軍人は死んだ「慰安婦」を山に葬るのではなく、地下室に投げ込んでおいたのです。そして、軍人に反抗したり、逃亡しようとする女性たちを、その地下室に閉じ込めました。

 「これでは自分も殺される」と思った私は逃げる決意をしました。一一月頃のある日曜日。歩哨が居眠りをしている隙に、小さな門から一人で逃げ出したんです。朝の四時でした。

 八キロメートルほど行った所に「朝鮮病院」と書かれた建物がありました。私は朝鮮語の文字を少しは知っていました。それは朝鮮人が経営する個人病院でした。「助けてください。私は『慰安婦』にされていました」と言うと、医者の妻がごはんを炊き始めたんです。「食事どころではない」と思った私は食べずにいました。すると、「何とか匿ってあげるので、この病院にいなさい」と言ってくれたんです。金という名の医者は咸鏡南道出身で、三五歳くらいでした。

http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/27/


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金英淑(キム・ヨンスク)


1927.1.24、平安北道秦川郡(テチョングン)生まれ。10歳の時、地主の妾の家で奉公をする。1940年、13歳の時、日本人の巡査に「お金が稼げる仕事がある」とだまされ、中国の瀋陽にある憲兵隊専用の慰安所に入れられる。五年間後の1945年3月頃、慰安所を脱出してモンゴルに逃れる。


今は平安南道温泉郡で暮らす金英淑さんは、平安北道泰川郡で生まれた。あまりにも生活は貧しく、母親は家族を捨てて逃げ出した。父親は日本人が経営する金鉱山で働いていたが、日本人の現場監督からひどい暴行を受けて死亡。金さんと弟の二人が残された。その時一〇歳だった金さんは、地主の三番目の妾の家で働くことになった。「水瓶を割ってしまった時など激しい叱責を受けました。夜明けから夜空に星が輝くまで私の涙は乾くことがなかったんです」。

 こうした苦しい生活を続けていた時に、心ひかれる話がきた。

 「一三歳の時、やって来た日本人の巡査に

『ここでそんな苦労をせず、お金の稼げる所へ行こう。おいしい物を食べ、きれいな服も着られるよ』

と言われたんです。

 この巡査に連れて行かれたのは瀋陽です。そこには日本兵がいっぱいいて、巡査は私を『ナカムラ』という名の将校に引き渡しました。私はだまされたんです」

 「慰安所」が谷間に建っていて、高さ五メートルほどの塀で囲われていた。建物は木造平屋で、三〇ほどの部屋が通路の両側に並んでいるという構造だった。途切れることなく金さんの話は続く。

 「その日の夜に私の部屋へやって来た『ナカムラ』は、私を押し倒して覆いかぶさってきました。だけど私が若すぎて欲望を満たせなかったため、私の性器をナイフで切り開いたんです。私は気を失いました」。

「 将校に殺されそうになったこともある。「カネムラ」という将校に従わなかった金さんは、

「言うことを聞かないと肝を取り出して食べるぞ」

と脅された。その言葉にひるまず将校を力一杯に突き飛ばしたところ、日本刀で胸を切りつけられたのだ。「傷を見てください!」と金さんは私に言うやいなや、チマチョゴリを脱いで上半身裸になった。

 胸から腹にかけて、縦に二〇センチほどの鮮明な傷痕がある。かなり深い傷だったようだ。金さんは、全身に残る他の傷も次々と説明する。肩と尻には短刀で突き刺されたいくつもの傷痕、右足の膝には兵隊に軍靴で何度も蹴られて骨が折れた痕が残っている。

 「一日に二〇〜三〇人の兵隊の相手をさせられました。妊娠したために腹を切り裂かれたり、軍犬にかまれたりして、ここの女性たちが次々と殺されて行くようすを見ました」

と金さんは叫ぶように語った。〜(中略)〜


 ○彼の性欲を満たすためには私はあまりに幼かったのです。しばらくしてそれに気がついた「ナカムラ」は刀を取り出し、私の陰部に刀を差し込みました。その瞬間、私は「ぎゃあ!」と悲鳴を上げて気を失ってしまいました。

 ○するとその軍人はかんかんに怒り、私の髪を掴んで部屋の床に打ちつけ、靴で全身を蹴り、私の足を踏みつけました。全身にあざができて、私は気を失ってしまいました。そのとき、奴の乱暴で足の骨が折れたのですが、まともな治療も受けられなかったため元に戻らず、結局、障害者になってしまいました。

 ○日本兵は、私が反抗すると「朝鮮人のくせに帝国の将校を冒涜するのか」とどなり、「日本軍人を慰安できない者は殺してもいい。私の言うことを聞かないとおまえの肝を取り出して食べてしまうぞ」と脅かしました。

 ○野蛮な日本軍人は「慰安婦」たちが苦しむ姿を見て快楽を覚えたのか、「慰安婦」たちを裸にしては刀で刺したり、噛みついたり、火のついたたばこを押し付けるなど、さまざまな残虐なことをしました。

 ○日本兵は「慰安婦」が妊娠すると、容赦なく殺しました。そのような女性の中に、ボンニョという女性がいました。

ある日、日本兵は「慰安婦」たちをみな庭に集合させ、みんなの見ている前でボンニョを木に吊るし、軍刀で彼女の腹を切り裂いたのです。そして、出てきた腸や胎児をめった切りにして、私たちの首に掛けたのです。

 ○そうして、五年の年月が過ぎました。非人間的な虐待や病魔、栄養失調のため、初めの頃は二〇人余りいた「慰安婦」は、五年のあいだに大勢亡くなり、残ったのは数人だけでした。

 この「慰安所」には、金さんが連行されて行った時には二五人の女性がいた。その中には中国人と白人が一人ずついて、他は朝鮮人だった。その鼻が高い白人とは言葉が通じなかった。この場所が中国東北地方ということを考えるとロシア人だろう。

 部隊の中には何人からの朝鮮人軍属がいた。一九四五年三月、金さんはその中の金・サングクさんと死を覚悟してここを脱出。その時点で、「慰安所」で生き残っていた女性はわずか五人だった。

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    /!            ',       i    │
    | !             ',       ;    !
    ', !             ',      ',    !
    ハ              !       ',´  !
    |',ヽ                 .!      ./i   ',
    { ', ヽ            !       / i   ',,
―――) ', v        し'  l______/_ノ  ,r ヘヽ、,,,、_ ___
     し.', (          /     / 、' ゝ \,\\`i,
       ヽ         /      Y .ヘ〜弋  ト、ト、ト'
        \ _ ._ ,/         \_)   `-' \.)'


やはり従軍慰安婦に一番近いのはこれかな:

1989年、女の子が41日間渡って監禁され、計100人ぐらい(少しでも関った人を含めて)に強姦、朝から晩まで超暴力と超陵辱された。(深く関ったのは5,6人)ヤクザ顔負けのリンチで、天井に血が飛び散っていた。


468 :名無しさん@自治スレにてローカルルール議論中:2008/12/30(火) 13:29:14 ID:ESwy0TF30

少年達は床に全裸の順子を寝かせ膣にオロナミンCの空瓶2本を突っ込んだ。
そして3キロの鉄アレイを持ち出し順子の腹の上1メートルにかざした。
少年

「ここから鉄アレイ落としたら瓶が割れて膣の中がグチャグチャだぜぇ。ヒヒヒヒヒ」

順子
「いやああああ!やめて!やめて!」


少年
「やめなああいギャハ!」

鉄アレイは順子の腹へ落ちた。2本の瓶は割れなかったが鉄アレイとぶつかる音か甲高く響いた。


少年
「おもしれえ!おもしれえよおおおお!!」

少年
「おれにもやらせて!おれにもやらせて!」


少年達は何度も鉄アレイを落とし膣から鳴る音を聞いて笑い転げた。 やがてこの方法の虐待に飽きた少年達は別の虐待を始める。

そして膣に入れた2本の瓶は忘れ去られたまま順子は絶命しコンクリート漬けにされた。

467 :名無しさん@自治スレにてローカルルール議論中:2008/12/30(火) 13:24:28 ID:ESwy0TF30

AはCとDに対し「道具を万引きして来い」と命令。CとDはホームセンターへ向かい、ペンチや鉄アレイなどを調達。

C「いいものパクってきやしたぜ」

少年達は順子の服を脱がせ、CとDが両足を押さえ、順子の股を開かせた。
Bは電気ドライバーを取り出し、コンセントに差し込む。


B「グヘへへこれを入れてやるぜ」


順子は両足をバタバタさせたが、CとDはガッチリ押さえる。

ウイーンと電気ドライバーが回転する。そして電気ドライバーは膣に入った。
順子は痛がって大暴れするが、Bは無理矢理電気ドライバーを突っ込む。

悲鳴とともに膣が血が飛び散り、順子の膣は破壊されていく。


そこにAはペンチを持ってきて、乳首をひねり潰す。

乳首からも血が飛び散り、乳首も膣も使い物にならなくなっていった。


裁判記録から一部引用

お尻の穴に花火を入れ爆発させ、膣やに直系3センチの鉄の棒を何度も強引に突っこみ、性器や尻の穴を完全に破壊

(途中、膣をタバコの灰皿代わりにされる。

重い鉄アレイを身体(裸体)を数十回にわたって殴られ、まぶたに熱いろうそくをたらされ、

●陰毛を剃り、女性器に異物を挿入 

●ライターのオイルで皮膚を焼いた 

●肛門に瓶を挿入し思いきり蹴った)

 

手足を縛り、

膣にマッチ棒(ライター)を入れられ、点火し、燃やされ、
膣の中や裸体をライターで火あぶり、苦しさのあまり何度も気絶する。

その恐怖や苦しみや痛みは想像を絶する!

(この時ストレスと恐怖のあまり髪が全部抜け落ちていく)

しかし、犯人どもは哀れみの情など一切見せず、引き続き、陵辱、暴行を行う

大勢の男にかなり大量の精液を飲まされ(フェラチオで)、

500ccの尿を飲まされた。

ゴキブリも食わされたそうである。

また女の子の悲鳴や激しいリンチの音は監禁されている部屋の中で音楽をボリュームいっぱいで流しているため、外に届かない。

恐ろしい事に、監禁されていることを知ってた人は計100以上いるが、誰も通報しない。

(死体が発見されるまで)そして最後はひどく殴られ失禁して)死んだ。

(殺された)死体の顔は目の位置がわからないほど、変形し、親でも誰かわからず、原型をとどめてないほどで、性器のほうは顔よりもっとひどく完全に破壊されていた。

死体には髪がなくなっていた。

死体の陰部にはオロナミンC2本、入っていた。

なお、死体は手足を縛られた状態であった。


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                            ヽ ヽ-‐、   イ ヽ   }、゙  ノ
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◆陰毛を剃り、陰部にマッチの軸木を挿入して火をつける。

◆ゴキブリを食べさせる。

◆性器や肛門に鉄棒、ビンなどを挿入。

◆性器や肛門に入れたビンに釘を打ち肛門内、性器内で割った。

◆両鼓膜が激しく傷ついており、最後のほうはほとんど音が聞こえていなかった。

◆小指の生爪を剥がす

◆左乳首はペンチのようなもので潰す。

◆顔面に蝋を垂らして顔一面を蝋で覆いつくし、両眼瞼に火のついたままの短くなった蝋燭を立てる。

◆衰弱して自力で階下の便所へ行くこともできず飲料パックにした尿をストローで飲ませる。

◆鼻口部から出血し、崩れた火傷の傷から血膿が出、室内に飛び散るなど凄惨な状況となった。

◆素手では、血で手が汚れると考え、ビニール袋で拳を覆い、腹部、肩などを力まかせに数十回強打。

◆1.74kgのキックボクシング練習器で、ゴルフスイングの要領で力まかせに多数回殴打。

◆ダンベルを1メートル以上の高さから腹部に向けて落とす。

◆揮発性の高いジッポオイルなどを太腿部等に注ぎ、ライターで火を点ける。

◆あまりの恐怖に脳が縮小していた。

◆最初は手で火を消そうとするしぐさをしたものの、 やがて、ほとんど反応を示すこともなくなり、ぐったりとして横臥したままになった。

◆遺体の乳房には20本位の裁縫針が入っていた。

◆歯茎にまともに付いている歯は一本もなかった。

◆あまりのストレスに生前頭髪が抜け落ちていた。

                ___
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初期

・強姦に加わった人間は100人超。強姦回数は400回を越える。

・全ての強姦が生。中出しに飽きると口内発射、顔面発射でフィニッシュ。

・過度の強姦で失神した場合は水をぶっかけ、息を吹き返させる。


中期以降

・膣にシンナーを入れ、キュウリやニンジンを出し入れする。

・肛門で爆竹や花火をして遊ぶ。

・床に複数のガビョウを置いて、その上に背負い投げやパワーボムで投げる。

・膣にオロナミンCのビンを入れる。破壊した肛門にもオロナミンCを入れる。

・膣に入ったオロナミンCの上に鉄アレイを何度も落とし、音を楽しむ。

・音楽に合わせてストリップショーをやらせる。

・ゴキブリ、ウンコを食べさせ、尿を飲ませる。

・体にオイルをまき、ライターで火をつけヤケドさせる。

・ヤケドでかぶれた肌を更に焼いたり、蹴ったりする。

・真冬に裸でベランダに出す。

・焼き鳥の串を肛門や膣に入れる。

・仰向けに寝かせて口の中に鎌や木刀を入れて顔を変形させる。

・裸にして竹刀や鉄の棒で毎日殴る。床に寝かせて竹刀をノドに押し付ける。

・膣を灰皿代わりにしてタバコを吸う。

・タバコの吸殻も膣に入れる。

・ハサミで膣に傷つけ大流血させる。

・乳房と乳首にマチ針を刺し、上から蹴りを入れる。

・乳首をペンチで潰す。

遺体の状況

・肛門と膣の中にはオロナミンCが入っていた。鉄アレイで割られた破片もあり。

・顔面は殴られた傷や腫れで識別は全くつかない状態。

・体中がヤケドとアザだらけで髪の毛はなかった。

・性器と肛門は完全に破壊。

現場検証の際、床、壁のみならず、天井にまで血が飛び散っていた。目鼻口の位置が判らぬほど膨れ腫上り、御両親でさえ判別しがたいほどに変わり果てていた。解剖の結果


頬骨・顎の骨が砕ける

ほぼ失明状態 片目においては完全失明

鼓膜が破損し、聴覚不機能

歯茎に付いている歯が一本もない

子宮・肛門は最も損傷が酷く、他の人体部より激しく腐敗、

文字通り完全に破壊され双方の壁は引き裂け、区別が無くなり、中にはタバコの吸殻、花火、瓶2本

頭髪は過度の恐怖により抜け落ちていた

脳が縮小していた(あまりの辛さに耐え切れず、脳自身が死を選択・命令する現象)

彼女が最後に言った言葉は「助けて下さい」ではなく「もう殺して下さい」であった

          ヽ  /  /,..-、                    ヽ   _   _         _
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/                                 j          l                ,  、
                                              ,'                    ,'   ヽ
ヘ                                        /                イ     /}
 ヽ                                          ,                 イ     イ/
ヽ、 ` - ,,_                                イ_         _ ,,..   ´   _,, イ/
  ヾミ .,,_ ` -  _                         _  - ´    ̄     ̄     _,, -(> ´
    `( ¨'' -   ,,_''  -   ,, __ ,,     -‐   ''            _,,  -‐≦ _,, - ''.´
      ` ''' ‐-=二 ̄二ニ===─────----───====ニ二 ̄ ニ= '' .¨´
                ̄ ¨'''         ──     '' ¨  ̄


825 名前:可愛い奥様 [2007/07/09(月) 00:04:36 ID:YEn3APa60]

乳に針二十本くらい入ってた、は2ちゃんで最近知ったが
どれほど恐ろしいことをやらかしてくれたのかと唖然としたよ。

782 :可愛い奥様 :04/07/30 12:11 ID:jzYoiJZc

他板で、裁判で提出される陳述書(?というのかな、犯行の内容が記載され読み上げられるもの)の内容が当時、関係者の判断で大幅削除されていたという情報有り。 真偽のほどは分からないけど色々な板&スレッドに張り巡らされた、少女に対して行われた犯行を列記したコピペがあったでしょう。 あれ以上の凄惨なことが、山ほど行われていたらしい。

それを裁判ですっかり読み上げてしまうと、社会的に重大な影響があるとして削除した模様。

あれ以上って・・・ 何?


787 :可愛い奥様 :04/07/30 12:45 ID:lKdghwk/

いくらでも思いつくよ。

お尻にウイスキービンを突っ込んだとか(あまり書いてないけどこれは本当)

栗タンをハサミでちょん切ったとかビラビラを噛み切ったとか

指を包丁で落としたとか、

目にロウソクをたらすとか、ボールペンを突き刺すとか

乳首をかみそりで落とすとか 

体中を小刀で(死なない程度に)サクサク刺すとか

歯をひっこ抜くとか

膣に手を突っ込んで子宮口をこじ開けるとか


これって蛆がわいたとかのグロ系漫画ではよく書かれてること。
あいつらなら実際にやりかねんよ。


788 :787 :04/07/30 12:47 ID:lKdghwk/

つーかなにをしても良い 生餌が手に入ったなら787に書いたようなことをしない、と考えるのは変。 やってるだろう、って思うのが(グロマニアの)普通だ。

ただしあまり血が出るようなことはしていないはずだから(血の始末が大変なのと直ぐ死んじゃうから)四肢の切断は無かったと思う。


789 :可愛い奥様 :04/07/30 12:54 ID:s2tiwsxN (BR>>787

担当した検察官のインタビューによれば、事件の全貌は余りにもムゴすぎてその真実をすべて論告に記載することは社会的影響力が強すぎるため内部でもかなり揉め、かなりの部分を削除したらしい。

裁判資料をみれば判るが時系列に分析しても所々抜け落ちている期間や状況がある。 で、少年裁判であるということもあり、この内容でも十分に極刑で戦えるだろうという所まで削ってあるとの事。

解剖医学の人間も同様にコメントしており、裁判資料に書かれた発見時の少女の状況から推測すれば論告に書かれている以上の拷問を受けていたと考えられる、との事。

…相当酷い事してるのは確か。

そもそもタバコの火を押し付けた火傷が化膿して、腐敗臭が酷かったから少年達が辟易して強姦がおさまった(立たなくなった?)らしいし。 その後は暴行だけになったって陳述されてる。

http://2ch-library.com/news/concrete/ms/1089851471.html

・順子さんはフェ〇チオ行為に最適な様に前歯を全部抜かれていた
http://yomi.mobi/read.cgi/human7/human7_ms_1173571086/633

43 名前:マッチョ [2006/12/21(木) 02:34:00 ID:h2T1I9iXO]
>>13
歯茎の感触の為に、全部ぬかれるんだよな…
ひでぇ話だ

55 名前:ビッチ [2006/12/21(木) 02:47:24 ID:KbX735R+0]

歯茎フェラは最高らしい。
やくざの貢物女がされるとか聞いたことある。

http://yomi.mobi/read.cgi/anime/anime_news_1166634573


                                           ,. -―._====>ミ'ヽ、
                                        ,.ィ,. -‐''二 ̄  ___   `゙'(
                                         //x‐''"´ ァ‐''"´_二ニ-――=-ミ、
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                                 _z=/ :////=,/ // ̄/フTメ==、_,.イ´   _,. -‐
                               // Y /// /-ノ とテ斧ミメx、  `Х ,.ィ''"´
                                  レ'/ Y :/ /イ:/´。``':ミテメミト/ /   u  ,.ィ
                                   /´/ノ:/, ' .l{   :::::::::::ヾ(゙///      ,.l /
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            ,,. '"      _,.          Y  ./ ,.ィ/.とノ     ヾヽ.ヽ    ::::::::::ヾヾミメ,_,.ノl!_
           ,. '"    u  /         ヽ、(   {:l/ ./l      、 ヾ,、}    ::::::::::::.Yi芽.l-‐|
        ,. '"  _,.っ,,.__o゚ノ            ヽ`゙'ー--‐'".:::::l         ノ'       ::::::::ノ'"}lメ! ,レ
    ,. ,. -‐''"´ -::r=:、:.、  ``丶、      u     ヽ.   / .:::::::l、   ι´´   _     ::::U '゙’-ィ-/
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94名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/03(月)16:19:47 ID:cdN0qNtO

この事件、昔の知り合いが見てたらしい。 彼の方から話切り出してきたんだが、綾瀬だし、おそらくこの事件で間違いない。

彼が見たときは、プロレスごっこやってたらしい。犯人たちって格闘技が結構好きだったこともあるんだろうな。と言っても、女一人だから話にならなかったとは思うが。

ただ普通の技だけじゃなくて、がびょうや釘を床に置いて、合体パワーボムとか、背負い投げやってたって言うのが恐ろしかった(しかも上半身は裸)これって想像しただけでヤヴァイ。がびょうだぞ。

ハサミやドライバーで額を連打して流血させたとも言ってた。

ネタだと思ってたんだが、これって実話だったんかよ。

その後、女は死んだとか言ってたし。 ちなみに彼はレフェリーやっててふざけてカウント数えたりしただけだからパクられずに済んだとの話。


702 :可愛い奥様 :04/07/29 17:23 ID:+n16jRAd

確か肛門に花火入れられて火つけられて学園天国の曲に合わせて踊らせたんだよね。 本当鬼畜以外に言葉が見つからない。


213 名前:可愛い奥様 [2007/04/21(土) 19:36:52 ID:ZqugGkGj0]

被害者の遺体が性器にビンが二本刺さったままだったって話を読んで

あいつら生前の彼女の性器にロケット花火仕込んで爆発させたから括約筋が完全になくなって腸液が垂れるのをビンに入れようと思ったんだなと。

彼女の膿の臭いを嫌がり部屋にいつかなくなったといってたけど本当は膿の臭いより、尿や便の臭いが嫌だったんだなと・・・。

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慰安婦強制連行を証言する吉田清治
http://www.youtube.com/watch?v=yBOJT-N0GWI

吉田清治は、一時、右翼や旧軍人からの脅しやいやがらせで、知人宅に身を寄せたこともあったと言う。

「私がこれ以上言うと、元慰安婦や家族の方に迷惑がかかる。
デッチ上げといわれても構いません。私の役目はもう終わったのですから」

http://www.tamanegiya.com/yosidaseiji.html



20. 2012年4月02日 23:18:54 : TVulukuiHU
週間新潮のインタビューで吉田はこう言います。
「秦さんらは私(吉田清治)の書いた本をあれこれ言いますがね。
まあ本に真実を書いても何の利益もない。事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやることじゃありませんか。チグハグなぶぶんがあってもしようがない」

真面目な新聞社はいい面の皮です。
1998年の秦教授と吉田との電話での会話です。
「『あれは小説だった』と声明を出してはどうか?」
「人権屋に利用された私が悪かった。しかし私にもプライドがあるし、このままにしておきましょう」

「このままにしておきましょう」だと!!???

お前のおかげで無用な贖罪意識を持たねばならなかった日本の子ども達にすまないと思わないのか!
お前のおかげで韓国で八回も謝罪せねばならなかった宮沢首相にすまないと思わないのか!
お前のおかげで謝り続けた細川首相、村山首相、橋本首相、果ては天皇陛下にまで謝罪をさせて良心は痛まないのか!
何より、過去は過去として静かに暮らしていた元慰安婦の女性達の人生をムチャクチャにしたことを人間としてどう思うのか!
「私にもプライドがある」だと?ふざけるな!!!

吉田清治 本人が嘘だと認めているのに、それを否定するのは、馬鹿?
http://www.youtube.com/watch?v=CulV1Cx6nZA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=cmphs0RjZ4M
うそつきは韓国の国技


21. 2012年4月02日 23:24:49 : TVulukuiHU
韓国は売春国家、儒教が厳しいなんて嘘。
売春婦がデモをする国家ですよ!!
http://www.youtube.com/watch?v=8KuWsy5f33c

22. 中川隆 2012年4月12日 20:41:01 : 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

                  r〈沙夊ァ
             ,x)水.ゞムイ´Xx,`   、
           ,xXXXxxxxXXXXXXx,. ` 、
           /ァ''^"´,   `^''xXXXXX,.  ヽ.
         / ´    !       l `xXXXX,    ),
.        /     l      l   `xXXX,.   ),
         ′     l.     l l   `xXX{.   |
.        !  / /  i| i   ! l / ! ,仆、 `XxL  |
       l /,/ | _|小、!   |/)' |/,斗∨ |XXマk !
       ! 〉l ∨ |≧t圦  リ_>チ〒ァ、} ! };;ト、 }}
.       l l 从. ト、ト弋リゝ\{ イ弋リノ' ノ ノ/l;;|,リノ'|
        | ‖ ', マヽ`ー'      _,ノ / /|;! ||. i   な〜に♪
       l |  ', '込 ""  、  "" _,ノ,/ / l! ノ' |
        !十!l´', マ价x、 ー -' , イ/ /`l!ー'く、 i
.       ,´ヽ! !l ', ∨从 > .ィ /../ / l!.:.:.:.:.:ヽi
.       i.:.:.:.:.:.:.:.:!l )ヘ,.∨》,. ≫‐≪ // /《 l!.:.:.:.:.:.:.:;.i
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“吉田清治 本人が嘘だと認めているのに、それを否定するのは、馬鹿?”

吉田清治は右翼や某組織から脅迫されて、自分の過去の発言を否定させられただけさ。もし、否定しなかったら家族はこういう目に遭うからね:


244 名前:名無しさん:07/11/20 19:42

平和言われてる日本でも裏では

若い女二人裸にして檻の中で殺し合いさせながら皆で賭けて観戦したり、

横浜では薬浸けにした女を奴隷にして売り出してたりするんやから。

ちなみにその場で締まり具合チェックできるらしい。 会員なるのに何十万、参加費用何万とかやから変な性癖持ってるの金持ちが多いよ。 買われた子がどんな扱いされるかは本人しかわからん。


249 名前:名無しさん:07/11/21 18:26

入会五十万、参加三十万やったかな?
奴隷は何千万。

83 名前: 名無し調教中 投稿日: 02/05/08 15:26

SMクラブとか風俗関係が暴力団と手を組んでやってるみたいだよ。暴力団自体は奴隷を提供して店から借金分の金をもらってるだけらしいよ。 上にあったけどマグロ漁船と同じ仕組み。暴力団はめんどくさいことは嫌いなようです。

15 名前: 名無し調教中 投稿日: 02/05/04 18:47

借金返されへんやつをSMクラブのショーに出すって話は聞いたことあるで。


19 名前: 名無し調教中 投稿日: 02/05/05 18:16

15>聞いたことあるよ。

  大阪のミナミのSMクラブで年に何回かあって参加費10万ぐらいかかるらしいよ。でも客にサービスもめっちゃいいんだって、  
俺でも知ってるってことはかなり有名みたいだけど参加したやついないの?

46 名前: 名無し調教中 投稿日: 02/05/07 20:45
19>
アメ村の近所にあるよ。
見学だけなら3万、カメラの持ち込みは15万、ビデオは禁止で何名か招待されてる人もいるみたい。 俺はバイトの連れに教えてもらって参加したんだけど、えげつなかったで。

会場は普通のクラブみたいなとこで地下にあった。 ドデカイ扉の前にホストのような男がいて金を徴収して中に通してくれる。

十字架のような×の張り付け板と椅子みたいなやつとかSMの道具が用意してあって真ん中がステージになってる。回りを囲むように立ち見になってって調度ストリップ劇場みたいな感じやった。


49 名前: 名無し調教中。 投稿日: 02/05/07 20:55

HERMES?

52 名前: 名無し調教中 投稿日: 02/05/07 21:08

7時半スタートで30人ぐらい客が入ったら始まってヒョロヒョロの男が×の板に鎖でつながれて客がひとりステージに招待されて

「この奴隷の運命は今このお客様に託されています。どのカードを引くか緊張の瞬間です」

というアナウンスが流れてなんかトランプみたいなカードを引いてた。 なんて書いてたのかは忘れたけど

「奴隷のチンポに皆様で画鋲を刺して下さい」

という風に司会者が話して一人一本ずつ画鋲をもらって順番に刺していきました。俺の番の時には亀頭はすでに全部押しピンが刺さっていて金色だったので普通に根元に刺したのを覚えています。

これで一人目が終わりで同じように二人目がでてきてまたカードを引いて、今度は万力でチンポを潰すというのがでて、つれによると一晩に一回は出るらいけどこれが一番悲惨な刑らしい。

大股開きで椅子に座らされて口にマウスピース見たいなんを噛まされて何故かビンビンに勃起してるチンポをかなり大き目の万力(コマがついてて押してきた。)に挟まれてレバーをグルグルまわしていってた。 客の中から

「あと少しあと少し」

と合唱が起こって最後にはペチャンコになった。万力を緩めたらみんな前に押しかけていってドキドキの瞬間。

チンポをぺっちゃんこでシワシワになって真っ黒っぽくなってた。 形はなんとなくわかる程度やけど血はそんなに出てなかったと思う。 男は気絶してて、すぐに担架で運ばれて行った。

そうそう、奴隷はみんな借金持ちやねんて、男はマグロ漁船かこれしか無いらしい。マグロはあんまり無いのでこれで借金を返すらしい。実際どうか知らんけど。エグイのは事実。


65 名前: 名無し調教中 投稿日: 02/05/07 21:35

さっき書くの忘れてたけど万力でチンポ潰す前に挟んだまま鉄の串を亀頭から根元にめがけて突き刺してた。 俺はあれ見た瞬間、血の気が引いてめまいがした。

80 名前: 名無し調教中。 投稿日: 02/05/08 06:05

SMショーに出演されて、性器破壊されるだけで
借金帳消しになるって、いくらぐらいの相場なのよ?


53 名前: 名無し調教中 投稿日: 02/05/07 21:16

俺も大阪やけど聞いたことあるな。 女のSMショーはもっと安いんやろ?

ハンマープライスみたいなんで一番高い値をつけた人が実行できるらしいで。

最初は鞭打ちから始まって最後はクリトリスをペンチで潰すのでそれが一番人気で50万とかなるらしいで。

実行した人にはそのときのビデオがもらえるとか聞いたけど。


56 名前: 名無し調教中 投稿日: 02/05/07 21:18

53>そうそう。ハンマープライス見たいなんが主流らしいな。


207 名前: 名無し調教中。 投稿日: 02/06/06 15:49

乳房をペンチでねじ切られる時の女の声は人間の声ではない。 屠殺場の豚以上の獣の断末魔の叫びです。

テープを10年以上昔に、族の同級生に聞かせてもらった。 今でも夢を見る。
あんなもの聞かなきゃよかった(;;)


209 名前: 名無し調教中。 投稿日: 02/06/06 16:32
>>207
クリトリスを切断されるときの声も、尋常じゃないそうだ。


280 名前: 248です 投稿日: 02/06/17 23:34

医者に数百万支払って、適当な病名をつけてもらい、すべてが終わるらしいです。

429 : 名無しさん@十周年 : 2009/10/25(日) 17:46:18 ID:Di85uiWP0 [3回発言]

治療という形にすればいい。


302 名前: 名無し調教中。 投稿日: 02/06/19 23:58

基本的には指詰めて病院いくのと同じ扱いにしてます

63 名前: 名無し調教中 投稿日: 02/05/07 21:30

名古屋ですけどなんか同じような話を聞いたことがあります。


79 名前: 名無し調教中 投稿日: 02/05/08 04:56

HERMESは知らんがそういうショーは現実にあるよ。 だって俺見たもん。
ミナミの店で聞いたら大抵知ってるんじゃないかな?


84 名前: 名無し調教中 投稿日: 02/05/08 15:30

タイの風俗で性器破壊ショーが流行ってるって連れのツアコンが言ってった。
http://bbs.yoasobiweb.com/read_view.php?tb=chat_kyofu&parents_id=503&first_no=-1&rast_no=541


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       |i .i l  :N_, -弋 \弌弋ナ:}:.:}
    :. |i∧ ', :{ ,ィjモト \  イjミトイイV :.  な…
       .|  :メヽ.', `ozZ}      izN。ハ::{     なんなんですか?
      :. |  :ヾ_! ゝ "゙゙    '  `゙ ハ.:', :.   ここ、どこですか?
      |  :.:_イ .:.ヽ.   (二フ , イ :.:.:!:.ヽ     なんであたし
   :.  / rィイ | :.:.ヽ: >r/`(ノ .:.::.}ヽ、\:.   ここに居るんですか?
      / ∧l;l ! :.:.:.://{二 ̄ .} ..:..::リ//ハ.:\
 :.  / .{. ',ヾ、ヽi .:.:.{ /(^`  |.:.:.:.//: : :.}: . ヽ.:.
   / /  ) ヽ ヾ、ヽ:.ハ ヤ{   ∧/.-‐'": : |:.:. i ',
  ./ .,イ .:..} : :\ヾレ'ハ ∧__ノノハヾ、  : : : l:.:.: .ハ ',
  { /| .:.:ハ : : :i Y {ヾ`Yヽニン'ノ}: : } : : : :/:.:.:/ }:.}
  V | .:.:/:.:|_,ィ' ̄  ヽ三{ `ー-ノ : イ : : :/:.:i.:{  リ
    ヽ:.:{、.:.V     : : ヘ     : : {: : :/:.::∧|
     ヽ! )人    : : :人      : : : / \! :.
      "  ヽ : : : : :/イ{     :.ノ: : : :.\ :.
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16 名前: このスレ読んで思い出した 投稿日: 02/05/04 19:01

拷問じゃないんだけど、10年くらい前によく行っていた雀荘で知り合った暴力団のおっさんは俺と知り合う7年くらい前まで人身売買をやっていたらしい。ヤクザ仲間が拾ってきた家出娘やDQN女の身辺を調べて足が付かないようなら海外に売り飛ばすそうだ。

どうやって運び出すのか、どこの国へ売り飛ばしたのかは教えてくれなかったよ。それと売られた後のことはよくわからないらしかったけど長く生かしておくと情に訴えたり逃げ出したりしてろくなことがないらしくわりと早いうちに殺されるらしいと言っていた。

>>2>>10のようなことされて殺されたのだろうか?


50 名前:名無しさん:07/03/03 21:16

以前ヤクザ屋さんでアジア系の女の子、金持ちに売っぱらってるおっさん居てたんやけど、

売る時には女の歯を全部抜くって。

身元付けへん様にするんと、男性器をしゃぶり易くする為や言うてた。


女買う奴の中には、手足切断で興奮する奴も居てるし、死姦でしか興奮できへん奴も居てるみたいやな。

おっさん、赤ちゃんでしか興奮できへん奴が客に居てるとかで、貧民地区から赤ちゃん貰ってきてたわ。そのおっさん嘘言うてるかもしれへんけど、5年前にブラジル行ったまま、行方不明になったわ。

http://bbs.yoasobiweb.com/read_view.php?tb=chat_kyofu&parents_id=503&first_no=-1&rast_no=541


13 名前:140cm台の彼女募集中 [2006/12/21(木) 02:13:02 ID:EVJLBsof0]

この前フィリピン人の少女が総入れ歯外して汚いおっさんにフェラしてる動画見たときは本気で吐きそうになった

まだ10代なのに総入れ歯なんだぜ


43 名前:マッチョ [2006/12/21(木) 02:34:00 ID:h2T1I9iXO]
>>13
歯茎の感触の為に、全部ぬかれるんだよな…
ひでぇ話だ


55 名前:ビッチ [2006/12/21(木) 02:47:24 ID:KbX735R+0]

歯茎フェラは最高らしい。
やくざの貢物女がされるとか聞いたことある。

http://yomi.mobi/read.cgi/anime/anime_news_1166634573


91 :/名無しさん[1-30].jpg:2007/11/21(水) 22:36:23 ID:LvI0+RcF0

入れ歯外して口にローション含んでフェラすると すげー気持ちいいらしいよ

http://mimizun.com/log/2ch/ascii/1166650631/


バブルの頃からこの不景気日本衰退に至るまでの陰で実は実力ある創業者系や地域で古くからの富裕層等のブルジョワ日本人階級一家が次々と苛め抜かれた挙句に行方不明になっていた、まるでロスチャイルドの計画通りに。

創○が、創○に電話盗聴等おかしな事をされているとこのブルジョワ被害者達がいくら訴えても、無関心な近所住民やハニートラップや児童ポルノで創○に弱味を握られたOBの息のかかった全国警察網の支援で、予めターゲットブルジョワの客との商談価格交渉等やりとりの情報を入手し当該客のニーズをきちんと調べる等して自分達でより良い条件を提示して横取りし逼迫させて遂には家の敷地を切り売りする程に追い込んで家の両側を挟むように創○員の家を建てて囲い込み嫌がらせ三昧風評操作三昧、

ターゲットブルジョワが詐欺師紛いの胡散臭い商売をしている等と風評操作をし、そうして挙句に借金苦に陥り夜逃げした云々という事にして拉致し臓器密売ルートに流し自分達で財産をそっくり頂いてしまう等していたようです。

ブルジョワ一家の残った家族には秘密朝鮮人ルートで保険金をかけ、息子さん達は今回の市川海老氏事件と繋がる暴走族に追い回させ白昼堂々に何人かで金属バットを持って家に乗り込もうとしたり麻薬を使って軽い通り魔犯や地域の変質者に仕立て上げ

娘さん達は権力者の弱味を握る為等に催す地下レイプショーに引きずり出されて生きたまま内臓を引きずり出され断頭され硫酸で溶かされたりして行ったりしていたようです。


北朝鮮絡みで有事の際はいつでも爆発や海底ケーブル切断に動くと言っている極東会のK俣K也という構成員等が、「秘密組織」であるという事とFEMAクーデター日本乗っ取りに向けた北関東「少女」連続誘拐殺人をきちんと窺わせる、

「秘密組織 人妻いじり」
「秘密組織 幼女いじり」
「秘密組織 思考性交」

々という下品極まりないスレッドを2ちゃんねるに立てていた。

少女誘拐や小学校襲撃の影の真犯人は彼らでプチエンジェル事件や北関東県境少女連続誘拐殺人等の黒幕でもあり、六本木森ビルと繋がるような彼らが誘拐した少女達でレイプ殺人ビデオを作っていて顧客リストにその関係ビルの元首相の名やおそらく平沢や亀井のような警察超上層の名があった事は阿修羅にも嘗て投稿されていました。

後藤組のほか、極東会と繋がりが強いので住吉会も核心の1つなのかも知れません。

http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/125.html




[12削除理由]:言葉遣い

23. 2012年5月09日 13:49:42 : YDhc0DRWJ6
んで、どうしたいの?

24. 2012年5月10日 12:18:54 : EaixQbt7gw
性奴隷が朝鮮に集中している理由をまず知りたい。同じ植民地の台湾にない理由。満州にない理由。東南アジアにない理由。日本国内にない理由。
朝鮮人はマン毛が少ないから日本兵の好みだったという答えはなしねw

25. 2012年5月10日 12:32:53 : EaixQbt7gw
どうして韓国人は、吉田を捕まえるとか報復するとかしないの?
殺してかまわないよ。やったことが事実なら殺される権利がある。生きながらに肉を削り取るやつでやってw日本人は全員賛成すると思う。鬼畜吉田清治、なんで生かしておいたのかわからない。
金九何とか言う殺人鬼が英雄になる国でしょう。高々警官を一人殺してその血を顔に塗ったとかいう馬鹿。
吉田を殺して首を晒して肉片を遺家族に配ったら日韓の国民が喝采する。

26. 2012年5月10日 12:35:56 : EaixQbt7gw
吉田清治は実行犯なんだぞ!!生かして置くな!!

27. 2012年5月23日 00:06:43 : CQMDZzrk6Y
嘘しかつかない朝鮮人の言うことなんか信じるわけないだろw


28. 中川隆 2012年5月28日 10:53:47 : 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q


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朝鮮人の言うことが誇張表現ではなかった例

■「虐殺」という表現について

 関東震災後の日本人による朝鮮人殺害について、「虐殺」と表現するのが適当かどうか。今回の参考文献に、以下のような記述があった。俄かに信じられない(あるいは信じたくない)内容だと感じると同時に、ここに書かれているのはやはり事実なのではないかと思う。正直に言って、どう取り扱うべきかは手に余る問題だったので、虐殺と言う表現の妥当性については、各位の判断にお任せする。


 朝鮮人による、さらにすさまじい回想がある。
 
 所謂自警団、青年団等は「朝鮮人」と叫ぶ高声に一呼百応して狼の群の如くに東西南北より集まり来たり、一人の吾が同胞に対し数十人の倭奴<日本人>が取り捲きつつ剣にて刺し銃にて射、棒にて打ち、足にて蹴り転がし、死せしものの首を縛り曳きずりつつ猶も刺し蹴りつつし屍体にまでも陵辱をくわえたり、

婦人等を見れば両便(ママ)より左右の足を引き張り生殖器を剣にて刺し一身を四分五裂にしつつ、女子は如斯にして殺すこと妙味ありと笑ひつゝ談話せり……

身体を電信柱に縛り付け先ず眼球を抉り鼻を切り落とし、其の哀痛の光景を充分眺めた上、腹を刺して殺したるものあり……。

(姜徳相・他編『現代史資料・6』みすず書房、一九六三年)

 
 考えられないような殺害方法であるが、朝鮮人すなわち被害者側の怨念のこもった誇張した表現ではない。実は私は最初これだけ読んだ時には、朝鮮人の表現にはしばしば誇張表現がみられるので、その特有の誇張表現ではと思ったのである。そのように思わせるほどの残虐な殺し方である。

しかし誇張表現ではなかった。補強証言がある。

 まだ若いらしい女(女の死体はそれだけだった)が腹をさかれ、六、七ヵ月になろうかと思われる胎児が、はらわたのなかにころがっていた、その女の陰部に、ぐさりと竹槍がさしてあった、

という記録を日本人自身が残している(姜徳相・他編『現代史資料・6』田辺貞之助「女木川界隈」みすず書房、一九六三年)。なお、付近の別の住民も同じ光景を見ている(『労働運動研究・三七号)湊七良「その日の江東地区」労働運動研究所、一九九二年)。


 女性の陰部へ竹槍を刺したという目撃証言は、場所が特定できるものは江東のもの。したがっておそらく一つの事件、行為が複数の口で語られ、伝聞されていった結果であろう。
(『関東大震災と朝鮮人虐殺』 pp.102-104)

当時の日本人の多くは、自分達が朝鮮人から恨まれているという自覚を持っていました。背景には、朝鮮の植民地化と、そこに住んでいた朝鮮人に対する苛烈な差別待遇がありました。

植民地化に伴って、日本政府は朝鮮の土地所有に関する調査を行いました。そして、朝鮮人の土地を没収して日本人に分け与えました。その結果、土地を奪われ働き口をなくした朝鮮人は、生きる道を探して日本へ渡ります。しかし、そこでも差別待遇が待ち受けていました。

日本国内における朝鮮人の賃金は、日本人最低ランクに位置していた被差別部落出身者や沖縄出身者の5〜7割程度だったと言われています。日本に渡ってきた朝鮮人は同胞コミューンを形成しましたが、多くの場合そこはスラム化していきました。小規模ながら犯罪者集団も発生し、こうした朝鮮人の実情を目の当たりにする事で、日本人の朝鮮人に対する潜在的な不安感が醸成されていきました。
http://www5d.biglobe.ne.jp/DD2/Rumor/column/earthquake_demagogie.htm


           / 乃了   `ヽ  ヽ∨∧ヽ \`、
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    , -ァ7イ {  l   |l ハ ト、 { l /ィ乏f千ァ l |ヽ}_ノ   、、 `、
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r''".| ヽヽ _,.´,, ',´´        `ヽ、'   ,.. - ''"´   ``ヽ 、`ヽ、ィ
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つい最近まで奈良県にもあった慰安所


日本の農村は怖い _ 奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件(1997年5月4日)の背景
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/340.html

セイジとナツエ夫婦は、行商と日雇いの肉体労働でなんとか食いつないでいた。

 やがて長女カンが生まれ、次女が生まれ、三女が生まれ、長男誠人が生まれ、さらに四女が生まれた。

 セイジは、家族が増えるたびに板切れで斜面に家を継ぎ足した。その為、彼らの家は一瞬3階建てに見えて、斜面に1階建て3棟が階段状に連なっている。素人の造作で更にあばら家感が増している。

 区入りできないのでは茶畑も持てないし区有林の使用権利もない。集会にも呼ばれないし、役員選出の投票権もない。けれども負担だけは負わされる。区の奉仕作業もやらされるし、負担金は最低ランクながら支払わされる。

 30年住み続けても、扱いは変わらなかった。

 実をいうと、ここが旧弊に囚われた隔絶された排他的集団かというと、そうでもない。梅林は観光地で、都市生活に疲れて「田舎暮らし」を求めて移住してきた都会人もいる。村人は排斥するでもなく普通に受け入れて付き合っていて、寛容な顔も持っている。 だが、その顔は丘崎家にだけは一度も向けられなかった。日本が経済大国になろうが昭和から平成になろうが、丘崎家は不変だった。
 

 極貧かつ孤立の暮らしだがセイジは愛人を作った。当然ながら夫婦仲は冷めた。

 ナツエは子育てをしなかった。7歳から働かされていて、子育てという概念すら知らなかった。されたことも見たこともないものはできない。

 家事も知らないから家の中はホコリと土だらけだった。家具もまったくない。生活用品は土だらけの床に直接置いてある。

 一家団欒もなかった。料理をなんとか覚えた長女カンが作りおきしたおかずを各々が食べたい時間に勝手に食べる。

 家族の会話もない。みんなたまたまひとつ屋根の下で息しているだけの家族だった。


セイジが居ないときに、ナツエのもとに代わる代わる集落の男たちが通ってきた。

集落の男たちはナツエを蔑視しながら性欲処理に使っていた。集落に住まわせてやっているから。

缶ジュースかミカン数個を置いていく。

隣り合う部屋で幼い誠人はそれを聞いていた。


姉カンが成長すると、村にある居酒屋の賄いとして働くようになった。
 
今度はカンのもとにかわるがわる男たちが通ってきた。

隣り合う部屋で少年誠人はそれを聞いていた。


 カンは未婚のまま子を産んだ。父親は誰ということもないままだった。

 (ナツエもカンも抵抗はしなかった。既に抵抗する術を持たなかったからか、そこに自らの存在意義を見つけたからか、それはわからない。おそらく、抵抗すること自体わからなかったのではないか?産まれたときからそんな境遇で、それが当然だと)


 こうして何重苦もの荒んだ家庭で少年誠人は育った。そして、日本には義務教育制度があり、国籍住民票の有無に関係なく子どもは小中学校に行かされる。誠人は当然のようにひどい目に遭った。

 小3のとき、公民館で放火騒ぎがあった。

 「丘崎の息子がやった」と噂が立った。なぜなら「丘崎の息子やから」

 村祭りで金が盗まれた、ビニールハウスでボヤ騒ぎがあった。

 「丘崎の息子がやった」なぜなら「丘崎の息子やから」

 川で遊んでいると石を投げつけられた。なぜなら「丘崎の息子やから」

 「あの子と遊んだあかん」親たちは子ども達に言い聞かせる。なぜなら「丘崎の息子やから」


 当たり前だが、少年誠人はめっきり暗い性格になった。中2で不登校になった。そのまま学校には二度と行かなかった。友だちもできず、家にこもった。 担任教師は誠人に冷淡で、卒業まで数度しか様子を見に行かなかった。法廷で誠人は「不登校は担任のえこひいきと体罰がひどかったから」と証言した。

 卒業式も行かなかった。担任に命じられてしぶしぶ同級生が卒業証書を届けると、誠人はそれを破って焼いた。

 裁判では、村の住民、同級生たち、当時の担任も証人として出廷したが「そんな差別はなかった」と口をそろえて否定した。だが、新潮45の記事を書いた中尾幸司は 取材中に聞いた、村人の「嘲笑まじりの」証言を次のように記録している。

 「村の人間は、あの家族を明らかに見下しとるよ。年寄りが多いから、どうしても古い体質がある。現に私自身も村の人間が“朝鮮がっ! ”って吐き捨てるように蔑むのを聞いとるしね」


 この事件、部落差別が原因かというと少し違う。確かに一部にはそれがあるものの、それだけではない。そもそもこの嵩集落自体が被差別部落で、丘崎家を差別していた人たちも、ナツエとカンの元に通った人たちも当然、与力達も被差別部落民だ。

 それが、集落内部に更に下の階層を作った。よそ者の被差別部落民で朝鮮人とのハーフ、貧困で文盲。条件は揃っていた。

 部落差別、在日差別、職業差別、貧困、村八分、いじめ──丘崎家は戦後日本の暗部を網羅したかのごとく背負わされた。しかも一家はどのカテゴリにも入れずどこにも属すことができない。だから解放や同和の互助も、被差別への支援も、救済も彼らだけをすり抜けていった。 こうして一家は、オリジナルの下層民として「創造」されたのだった。

 ここで疑問が出てくる方もいるかもしれない。どうしてそんな目に遭っているなら村から逃げなかったのか?と。 村から出なかったのが悪い、外で自立しなかったのが悪い、どこに住むかは自由、どう生きるかは自己責任と必ず自己責任論を掲げたバッシングが出てくる。

 だけど、それは孤立し虐げられ続けることが人の心の芯をどう破壊するか理解できていない。または、する必要もない幸せな人か、要領よくいつも踏みつける側にいて、 「いじめられっ子にも非がある、ぼくらも被害者」 と嘯く人だ。


 ナツエにはこの嵩集落以外に行くところがなかった。集落の男たちの慰み者になるのなら、街に出て風俗でも稼げる。文盲で常識的な知識すらないナツエにはそれがわからなかったし、集落の者たちからは

「ここを出て行ったらお前らは生きて行かれへんぞ」

と言われ続けながら差別を受けていた。とりあえず、ここでは生きていける。虐げられ続けたものの心は自尊心すら破壊され、洗脳されていた。
http://ameblo.jp/matusyuka/entry-11236499568.html

308:名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/05(水) 07:59:39 ID:1p9ofrxo

ムラの奴らは丘崎一家を人間扱いしてなかったんだろ。
その辺の虫ケラと同等レベルにしか思ってなかったんだろな

335:名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 18:22:35 ID:IQl2cStV

丘崎一家は飼われてたんだよ。 月ヶ瀬の住民に。

魂を売った見返りに、民生委員の被害者家族に生保かなんかを斡旋して貰ってたんじゃないの?

月ヶ瀬の住民も酷いが、丘崎の両親も情けない。

336:名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 18:55:56 ID:CfnrJJBg

村民は何のために丘崎を飼ってたの?

飼うからには、飼う側に利益がないと邪魔な人間を飼ったりしないと思うが。
犬や猫などのペットは心を癒す愛玩動物だし、牛や豚などの家畜は乳や肉を売って利益を得る。

村民にとっての、丘崎一家を飼う目的は何?


343:名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 21:39:03 ID:IQl2cStV
>>336
飼って住民のストレスの捌け口にしてたんでしょ?

男は虐げられ、女は性の玩具。

「人権を守れ」と立派なこと宣う部落民が人権を蹂躙してどうするんだよwww


344:名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 22:31:36 ID:CfnrJJBg
≫343
なるほど、サンドバッグ&性処理の道具ね。

708:名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/06(金) 23:27:51 ID:RqBVorhl

丘崎家は生活保護じゃねーよ。

両親は土方、姉は居酒屋勤め、

それ以外に母と姉が村人達の性処理の相手してて(売春)、

村人から飼われてたんだよ。

売春は暗黙の了解。 お互いもちつもたれつの関係。


76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/17(日) 22:41:27.66 ID:wYVT3CC/

一番の原因は母ちゃんが慰み者にされてたからじゃ無いのか?


77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/17(日) 23:10:51.60 ID:???

一番かどうか知らんが、歪むだろうなぁ、そりゃあ。


普通の風俗は基本的に、来たい客が楽しく遊んで、

女が金を得る商売と割り切れるからまだいいが、

丘崎の母ちゃんは差別されてただろうし、オモチャだもんな。

しかしそんなンが日常だった村って今も正常に機能してんのかね。
代わりのはけ口かありそうで嫌だわ。


645:名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/14(水) 23:50:56 ID:???

差別・村八分して人格踏みにじっておいて、
一方では金で母と姉を肉便器にするなど、
自分らを都合よく飼い殺し扱いしていた村人達への復讐だな。


646:名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/15(木) 00:35:55 ID:???

両親が隣村にいられなくなった理由…

母が村の有力者と出来ていたのが、奥さんにばれて追い出された。
しかし逆に、月ヶ瀬では村人達の肉便器になることで居住を許されてた。
女の穴を共有するのが月ヶ瀬の習俗。

673:名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/17(土) 15:24:19 ID:???

しかし姉はともかく母親はかなりのオバサンだろ。

都市部ならマニアの客も付くだろうが、相手も歳がいってるにしても田舎でよく稼げたな。
年齢の割りにルックスはかなり良かったのだろうか?

674:名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/17(土) 15:55:54 ID:???
>>673
外部からの見知らぬ客ではなく、
母親が20代の頃から関係が続く数十年来の馴染み客(村の衆)

事件当時の母親は50代後半だから、その頃は60代70代のじいさん相手にしてたんだろうよ。

不特定多数の客をとる都会の売春婦と同等に考えるな


732:名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/10(火) 18:05:56 ID:VMVne5te

月ヶ瀬にドライブに行ったことあるけど。
山、川、梅林しかなくて、コンビニすら無くて寂しい所だった。

あんな所に住んでたら、鬱になりそう。 とにかく、山奥の超ど田舎。
ああいう土地の住民て、普段は何が楽しみなの?

あんな超山奥だと、家でテレビ見て晩酌するぐらいしか、すること無いじゃない。

734:名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/10(火) 20:53:17 ID:???
>>732
月ヶ瀬住民の楽しみは、

自分以下の人間を見下して差別し村八分にすることが唯一の鬱憤晴らし


735:名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/11(水) 02:15:18 ID:ae4eW/XC
>>734
で、酒飲んでセクスな。

736:名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/11(水) 05:11:13 ID:???
>>735
で、チョンB女を肉便器にして中出ししてな


737:名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/12(木) 02:13:16 ID:RMl7zJI0
>>736
で、また酒飲む

647:名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/15(木) 00:48:06 ID:bn7G1Ow6 B、

チョン、差別、村のならわし、
肉便器、貧困、文盲、
あばら家、トイレ無し地面掘って排泄、山奥…

つくづく嫌な環境だなこりゃ


99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/07(木) 18:17:00.33 ID:XckXsGMP

以前「新潮45」の記事で読んだんだけど、丘崎の家は便所がなくてその辺でする
もんだから、近所の人は「もう臭くてかなわんかった」と言っていたという。


215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/03(水) 18:50:48.51 ID:???

丘崎家を「くそぅてくそぅて(くさくてくさくて)」と言ってた村の男

何の用事で丘崎家に行ってたのかな?wwww

丘崎の同級生とかじゃなくて、かなり年上の男のようだったけど


122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/10(日) 05:28:55.21 ID:???

村に住まわせてやるかわりに丘崎母や姉を強姦してたんでしょ、村人が。


124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/10(日) 07:53:37.84 ID:???

母や姉を性奴隷にしていたなんてどこソースよ?

住民が毛嫌いしていたというのに、掘建て小屋でセックス?


128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/10(日) 08:50:54.05 ID:???
>>124
それがしてたんだよ。 丘崎家のあのバラック小屋で。

執拗な差別と肉体関係、

それがこの事件を取り巻く村社会の不思議さと、陰湿さを際立たせている。


23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 06:39:00.44 ID:???

あのじいさんってテレビで見た限りでは普通のいい人に見えたけど…
あの人も丘崎の姉母を肉便器にしてたって本当だろうか。

709:名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/06(金) 23:34:14 ID:RqBVorhl

で、何故 民生委員の爺さんの孫娘を丘崎が殺したかって?

母親を肉便器にした張本人が、その爺さんだったからさ。

丘崎は、その怨みでジジイの孫娘殺したんだよ。


278 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/10/19(火) 03:56:25 ID:???

丘崎母親を肉便器にしてたのは、被害者中学生少女の祖父な。

乞食のような丘崎一家を月ヶ瀬に住んでもいいと許可し、物置小屋だったボロ小屋に住めるように持ち主に仲介を依頼したじいさん。

そこまで世話してやったのは母親の肉体が目的だから。

丘崎はそのジジイのことを心の底から憎んでた


648:名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/15(木) 01:01:24 ID:???

犯人の両親に格安家賃の貸家を世話して住まわせ土方の職を紹介したのが、被害女子中学生のじいさんなんだよな。

犯人母と被害中学生じいさんの関係…

なるほどな。復讐の意味はそういうことな


284 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/10/19(火) 06:31:27 ID:???

ジジイと丘崎一家は親戚みたいな人間的付き合いじゃねーよ。

飼い殺しなのさ。

飼い殺しの意味わかる?

母と姉は村人達に肉便器にはされてたけど金銭はもらえず、せいぜいミカンかジュース程度。

住まわせてもらうことの代償が肉便器になること。

肉便器として扱ってはいても村の奴らは全員、丘崎一家を人間としては扱ってなかったのだよ。

例えて言うならホームレス女にオニギリ一個与えてHして、やり終わると唾を吐きかけ蹴飛ばしてゴミをぶつけるようなもん。

シベリア抑留で強制労働させられた日本人みたいな扱いと思えばいい。

739:名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/12(木) 07:09:46 ID:???

小さい丘崎に、母親と民生委員の爺さんが見せつけながら、セックスしていてたんだろうな。

16 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/01/09(土) 19:05:12 ID:???

丘崎の母と姉は、村人達の肉便器にされることで村への居住が許された。

土地を持たず国籍にも問題のある乞食同然の一家にとって、それは生きていくためには仕方の無いことであった。

自宅に代わる代わる訪れる村の男どもに母と姉が体をまさぐられている間、子供だった丘崎誠人はその屈辱に堪えていた。

差別されている者ども(月ヶ瀬の中のB民)が、さらに自分達より下の者を虐げることで憂さ晴らしをしていた構図。 村の有力者の娘を殺害することで、丘崎誠人は長年にわたって鬱積していた恨みを晴らした事件。

66 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/01/29(金) 21:23:59 ID:cexANW65 [1/1回発言]

未だに前時代的な風習を続ける山奥の小さな集落。 まるで明治時代。

夜這いもひそかにまだ残ってそうだね。

弱者が女房娘を強者に差し出すことで、村に住むことを許されるみたいな…

やれやれ、つくづく陰惨な土地だね。

72 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/01/30(土) 12:58:24 ID:DXNYTpOb [3/4回発言]

しかし、関係持っておきながら人間扱いしないって酷い話だな。
情ってモンはないのか。

73 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/01/30(土) 15:02:06 ID:???
>>72
人間と認めて交際してたんじゃなくて、性欲処理だけのために利用してたんだろ。
東南アジアへ回春旅行する男みたいなもん。
東南アジア女性を養う気も入籍する気も無い。 マソコだけが目的。

丘崎母姉はただの肉便器にしか思われてなかった。

74 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/01/30(土) 15:41:55 ID:DXNYTpOb [4/4回発言]
>>73
なんか嫌だなぁ…

アヘアヘ腰振ってフィニッシュしておきながら人間扱いしないとは。

そんならヤギとヤッときゃイイのにな。


207 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/08/11(水) 19:40:41 ID:???

長女は村の飲み屋の人気者で中々セクシーだったそうだ。

その長女が外で垂れていたのを、張り込みのカメラマンが盗撮して、仲間内で画像をまわしたと、下品な話には事欠かない事件だったな。。。。

454:名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/04(日) 21:48:44 ID:???

そもそも同和地区内部での差別ってあるの?


455:名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/04(日) 22:02:42 ID:???
>>454
何世代も前からの土着民は仲間意識が強いのだろうけど。
丘崎一家はよそからの流れ者だし、しかも在日朝鮮人だからね。
村八分状態だったろうよ。


351:名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/11(火) 17:50:26 ID:???

少数の人間を生け贄にして集団の団結を計るのは昔からのやり方だからね
その生け贄に逆襲されるのもまた仕方が無いんじゃないの

200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/03(水) 01:14:32.70 ID:???

村民達は丘崎一家を見下して差別していたくせに、実は逃げられないように飼い殺ししてたんじゃないだろうか?って。

無学で国籍の怪しい乞食一家が転居してきて、対等な仲間としては受け入れがたいけど、ストレス解消に役立つサンドバッグが出来たぞいいアンバイだなと。


村で放火や盗難事件が発生すれば全て丘崎に罪をなすりつけ、

セックスしたくなったら丘崎母姉で性欲処理して、

むしゃくしゃしたら丘崎にみんなで石をぶつけ…


いじめる相手がいなかったら村民達は困るんじゃないの?

丘崎の母は小学校すら行ってなくて文盲ってことだから、一般的な知識も情報もなかったと思う。 村民達に


「町に出てもおまえらの仕事あらへんで」

「村から出たらおまえら生きていけへんのや」


と巧みに言いくるめられてたんじゃないかって。

この一家は頭悪そうだし、生活設計とか将来の計画とか出来なさそう。 どうやったら村から出て行けて、町で人生再出発出来るかなんて考えつかなかったんじゃない?

もうどうでもよくなって、そういう生活から抜けだそうって気持ちすら持たなかったかもね。 学の無い情弱一家ってことでしょうね。 息子はヘタレだから、東京や大阪で行き詰まって帰郷してしまったし。

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/10(日) 09:35:22.30 ID:YAtNVMoT

丘崎母に旦那は居る。けれども未入籍の事実婚。
丘崎父も日本人と朝鮮人のハーフで流れ者。
丘崎が自殺した時は丘崎の両親は三重でひっそり暮らしていた。

貧困な両親には墓を建てる金がなく、丘崎の遺骨は両親の家に置いたまま。
けれど、当時で両親は70代半ばくらいだったので、今は生きているかどうか…


丘崎姉は未婚で子を産んでいる。子の父親は誰だか明らかにされていない。

もしかすると関係を持っていた村の誰かの子かも知れない。
事件後、月ヶ瀬には居られなくなり、大阪に移り住んだらしい

133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/10(日) 09:27:59.36 ID:YAtNVMoT

新潮文庫の記事によると、母親は文盲。
突然疳癪を起こしたりすることからみても知的障害か、あるいは精神障害を患ってたような感じではある。

最初は自分の祖父が婆さんと間違えたみたいにドサクサに紛れて夜中に手をつけたらしいことを匂わせる記述もある。

丘崎母にとって、自分が生きるためには犬猫のような交尾は必要、かつ当り前であって、そこに倫理観やら羞恥心やらの価値観はなかったのかも知れない。

教育を全く受けてないのだから、猿やイノシシと同じで野生のまま…
だから村中の男と関係を持つことに、悔しいだとか悲しいという感情を抱くことなく
生きる為に交尾を重ねていたのではなかろうか。

539 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/11/02(火) 10:09:23 ID:???

丘崎一家は出ていかなかったんじゃなくて、出ていけなかったんじゃないかと思うなぁ。 村の人達が出ていかせなかったというか。

つまり、集団の中で敵を設けると集団がまとまりやすく一致団結するみたいに村に丘崎一家という「最底辺の敵」を敢えて設けて、村の結束を強固にする役割にしてたのかな、と。

事実、村の男たちが丘崎家の女を共有することで秘密を共有し、ボヤ騒ぎが起きた時も
最終的に丘崎のせいにして問題が収まってる。他にも水面下ではいっぱいあるんじゃないか。 B地区特有の世間に対しての鬱憤も、丘崎一家をサンドバック代わりに解消してた気もする。

でも万が一、丘崎一家がいなかったとしたら、自分もターゲットにされるかもしれないというある種の恐怖感さえ生まれてくる。 いじめのターゲットを設けることでその他がまとまり、設けてる間はとりあえず自分は安心みたいな学校や職場のいじめの構造と全く一緒な感じがするんだよなぁ。

結局、あの村にとって丘崎一家は必要悪だったように思う。 丘崎一家には


「この村にいるからこそ家にも住めて仕事ももらえ、食べることが出来るんだ」


と言い続けて見えない恐怖に怯えさせれば、簡単に御することは出来そうだし。

541 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/11/02(火) 12:34:37 ID:???
>>539
同意。
精神的圧力と物理的圧力で丘崎一家は、村から逃げられないようにされてたと思う。

仮に逃げようと思ったにしても日中はばれるから夜中に逃げるしかない。
しかし街灯の無い真っ暗な山奥から徒歩でどうやって奈良市内の町まで出る?
あんな山奥から徒歩ではとても無理。

一家が夜逃げを決行して歩いて逃げるたとしても、途中で誰かに気付かれ村人達に連れ戻されリンチ等の制裁を加えられそう。

じゃあ夜逃げではなく、普通に「町に引っ越したい」と正式に言ったとて許してはもらえなかっただろうね。 役場は転出手続きを拒否し、バスは乗車拒否するかも。 家財道具を運ぶトラックも出してくれない。

>>539さんが言うように、

「町に出たってお前ら住む場所も仕事もあらへんで。

お前らはこの村にいるからこそ、家に住めて仕事させてもらって食べていけるんや」


とか言いくるめられそう。

542 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/11/02(火) 14:05:25 ID:aAvPWP8W [3/4回発言]
>>539
考えられますね   なんか村の連中に洗脳されてそう。 

長い期間、屈辱受けてメタメタに傷つけられていたら逃げようとか嫌だとか言う考えないかもね 
 
もういいや みたいな。まして、子沢山でお金もなければ絶望的でしょうね。
 
丘崎父は、以外と人のいいところあるかもね。


しかし、この村の男ども最低だね 読めば読むほどむかついてくる 

家族で住んでる家に押し寄せて肉体関係なんて・・ 丘崎父は、どんな思いだったんだろう。 丘崎姉は初めての時、どんな思いだったんだろう。 


265 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/12(日) 21:06:55 ID:???

家を買えるお金がない

かといって新規に家を借りる時に必要になる保証人がいない

犯人をかばうつもりはないが村民が悪い


286 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/18(土) 09:46:03 ID:???
>>265
全く当たってる。他から来た人には猫なで声、しかし中へ入ってみるとイジメ体質。
村八分制が根強く子供にまで染み透っている。


660:名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/17(土) 00:41:27 ID:???

引っ越せばよかったとも思うけど
こういう村の人がおいそれと引越しさせるものなのかも疑問。

憂さ晴らしのための差別の生贄として丘崎を逃がさないような気もするけど

村人相手に売春できた辺りも、「そういうため」に用意されてた感じがしてならない

自分より下を置けば安心できる、またそういう対象があると村をまとめやすいし

ところでこの被害者宅には「座敷牢」があったって話だけどw

家族にそういう人がいて、それを閉じ込めるためのものね


253 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/24(火) 22:22:10 ID:nC9t4TrN

丘崎が勤めをやめて竪穴式住居に舞い戻ってきたのは母親と姉と近親姦関係にあったからだろう。

姉の子供というのは実は丘崎との間に出来た子供なんだよ。

丘崎逮捕の前からその噂は立っていたし、村人もその事実をほのめかすようなことを言っていたけど、丘崎の母親と姉は村の公衆便所だったので村人もあまり語りたがらないんだな。


殺された娘の家からは檻が出てきたな。

殺された娘の兄というのが精薄でずっと檻に閉じ込められて生きていたと言うんだな、それが発覚するのを恐れて殺された娘の家が捜査に非協力的だったので逮捕が遅れてそのうちに事件が(意図的に?)報道陣にリークされてTVが丘崎の家に押し寄せたというのが真相。

ここまでは報道関係者なら誰でも知っている。
俺も当時現場行ってたからわかる。

ダム工事のあとにあの村に住み着いた朝鮮人は丘崎の家だけではなくて他にも数軒あったらしいのよ、家も残っていたから結構最近まで住んでいたらしいんだけど、どこに消えたのか誰も言わないのよ。

丘崎の親父が「みんな殺されてしもうた」みたいなことを言っていたけど誰も追及しないでうやむやになってしまったな。

その家族がどこに消えたのかはわからないのだけど、失踪したのは親だけで遺棄された子供は村の家のゴミ箱を漁ったり、ネズミみたいなもんを焼いて喰ってたりしてしばらく村にいたらしい。


これ昭和60年代の話だよ。

戸籍も無い奴隷みたいなのが、あの村にはまだいるんじゃないかって話もあった。
昭和30年代までは農奴というのは東北とかにいたらしいねえ。


543 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/11/02(火) 14:38:43 ID:???

平成の時代にあっても
白装束で樽の棺桶を運ぶとか
与力制度が残るとか
不気味な村だね


544 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/11/02(火) 19:15:40 ID:???

丘崎父は丘崎母と世間一般でいうところの恋愛関係らしきもので事実婚に至ったわけではなく、押し付けられたんじゃないだろうか、と個人的には思ってる。

両方とも朝鮮人の血が混じってるし、小屋も二軒は用意できないし、

「二人とも似たようなもんだし、いいから一緒に住んどけや」

みたいな。 村人からすれば、分散してるより一か所にまとまってくれてた方が管理しやすいし。 子供だって丘崎父の子かどうかも分からないし、丘崎以外の子が池沼かどうかも分からないけど、さすがに村の男が堂々と家に入ってきて当り前のように家族に手をつけられたら、丘崎父の立場としては居た堪れないだろうね。

だけど村の人に反抗するわけにもいかず、結果的に愛人の元に逃げた、て感じかも。

丘崎母を受け入れたのではなく、受け入れざるを得なかった、そうするより他に道がなかった、またそれ以外の道を探す能力もなかったのが丘崎父と言う男なんじゃないかなと思ってみたりみなかったり。


337:名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 19:03:46 ID:dZk7MMd1

田舎の村社会って、陰湿で怖いな。
河瀬直美さんも、この事件のような村社会の闇に迫って欲しい。

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/10(木) 18:44:08.55 ID:???

月ヶ瀬村は丘崎に復讐されたんだよ。

住民たちがこの犯人の母親や姉妹を性欲処理の道具として蹂躙して来たという事件記録が、ネット上で大分消えている。

http://2chnull.info/r/archives/1191711689/1-1001
http://logsoku.com/thread/toki.2ch.net/archives/1262165480/
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/archives/1296636852/
http://mimizun.com/log/2ch/archives/1127680911/


571 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/11/04(木) 19:07:51 ID:???

夜ばいは主に西日本の農村に根付いた風習で高度経済成長期直前まで続いていた。
都市部には遊郭(赤線)があるけど山奥の農村には無いからね。

女房の妊娠中とか独身青年の性欲処理。
山奥の農村では性風習が開放的だったってこと。


569 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/11/04(木) 18:06:48 ID:gMNnjzq5 [3/5回発言]

長女や母と関係もった村のキモ男たちはどういうつもりなんだろう 

昔から、その近所に住んでたわけで下手したら親族やらも住んでいるわけでしょ 

風俗店へ行くって考えはないのかね 安くて近所で済まされる場所みたいな感覚なのか 
お金はどのくらい払ってどのくらいの頻度、人数だったのだろうか

私が思うには、シャワーなんて浴びないで汚い手と臭い息でスボンだけ下ろしてサーッと。  金額にして千円くらい。

「今日は五百円に負けろよ。柿持って来てやったんだからよ。」

みたいな。


570 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/11/04(木) 18:45:46 ID:???
>>569
山奥の村って夜這いの風習があったから、自分の亭主や息子・兄弟がよその女と交わってもあまり気にしないんじゃない?

戦前の山奥では長男の嫁が妊娠しない場合は次男と嫁を交わらせして、跡取りを産ませたとか聞くよ。


月ヶ瀬の男達は丘崎母と姉には現金は払わなかったらしい。 あくまで


「俺達が相手してやってるおかげでお前ら一家はこの村に住めるんやからな。感謝しろ」


の上から目線。 ただでやり逃げの奴もいただろうし、物を持って来てもせいぜいミカン3〜4個か、缶ジュース2本程度。


月ヶ瀬村からソープのある町までは車で遠方まで行かないといけないし、金がかかるから丘崎母姉で済ませてたんだろうね。


それこそ、>>569が言うように

村の男は服を着たまま、ズボンを少しだけずりおろして大急ぎで処理って感じで。

572 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/11/04(木) 19:14:39 ID:???
>>569
人数や頻度までは知らないけど、男どもは重ならないように男どうしで示し合わせてたのでは?

夜這いにもルールがあったそうだよ。
権平は月曜日、熊八は火曜日、杉作は水曜日ってな具合にさ


573 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/11/04(木) 19:18:38 ID:gMNnjzq5 [4/5回発言]

じゃあ血筋とかわかんないよね。 
代々あの一族は●の血筋を引くサラブレッドでなんてよく言われてるのも実はいい加減なのだろうか?  

津山殺しもヨバイが発端ですよね。


574 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/11/04(木) 19:37:24 ID:???
>>573
跡取り息子は身内の血縁で産んでたそうだよ。
長男の嫁不妊

嫁が次男と交わって出産
又は、長男が次男(三男)の嫁と交わって生まれた子供を実子とする


明らかに亭主との間に出来てない子供も一応は出産してばあさんとか親戚が預かって養子養女として育ててたそうだよ。

「私のお父さんとお母さんはどこ?」

と聞かれたら、もう死んだよと嘘でごまかす。 農村は働き手がたくさんいる方がいいから、他人の血の入った子供でも大事に育ててたんだって。

578 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/11/04(木) 20:01:37 ID:gMNnjzq5 [5/5回発言]

一族間で血縁を結んだ場合、障害者が産まれる確率が高いと聞きました。 
昔は婦人科で検診してエコーで見るなんてなかったから、産婆さんが殺したりしたんでしょうね。  


夏江は、自宅で産んだのかな。誰も産後を手伝ってくれず。汚い鼠が這いずる埃だらけの家で。 村のババアどもは、自分の旦那とやってるような女をケアするわけないよね。


579 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/11/04(木) 20:52:50 ID:???
>>578
昔は奇形が生まれたら、産婆さんか母親が処理(間引き)してたそうだね。
知的障害児は三歳ぐらいにならないと判明しないから、そういう子は倉や座敷牢に閉じ込めたり、崖から突き落としたりしてた。


581 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/11/04(木) 22:49:47 ID:???

次女と三女の体が村人に手をつけられなかった理由を知りたい

考えられることとしては
かなりの醜女、超肥満体、病弱、知的障害、身体障害
マジで理由は何だろうね?

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  / /   {    }             ∨


586 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/11/05(金) 00:26:34 ID:UuTsfdSX [1/1回発言]
>>581
次女も三女もやられてたんじゃないかな 未成年だからさすがに面には出なかったわけで 
だって村から逮捕者が出ちゃうし

母や姉のを昔から見てたら、結構抵抗無いのかも 
村の鬼畜ジジイどもが、手をつけないとは思えないなあ  

まだ生きてるんでしょ 鬼畜ジジィどもは 許せないね

583 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/11/04(木) 23:26:01 ID:???

長女と次女三女は歳が離れているのかもよ。
長女と誠人は一回り程度の年齢差っていうから13歳ぐらいの差と仮定して。
本に書いてある母親と長女が村人達と昵懇云々は誠人が少年時代のことだから

誠人が12歳のとき長女は25歳
次女が誠人の2歳上と仮定すると14歳で、
三女が誠人の2歳下と仮定すると10歳

村にはたまたまロリがいなくて熟専は40代母親の体で遊び、
成人女好きは25歳の長女で遊んだって感じ?

誠人が25歳で殺人事件起こした頃は、母親は60代で長女はアラフォー。

さすがに村人達もその頃には、母・長女のくたびれた体に飽きていて
若い愛人作ったりソープに行くようになってたのかもね。


725 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/11/11(木) 01:21:05 ID:???

丘崎誠人がもし今も生きてたとしたら38歳で、
長姉は一回り違うので現在46歳、
母親は現在70歳と思う。


事件当時(1997年5月)
誠人25歳
母親57歳
長姉33歳


肉便器にされてたのは、丘崎の出生前〜少年時代らしいので、
母親がまず最初に肉便器にされてて(30代)
母が40代になった頃には20代の長姉も手をつけられてたみたい。

584 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/11/04(木) 23:35:04 ID:???

金と時間惜しさに以前は丘崎母・長姉で済ませてきた男どもも汚い家での性欲処理がだんだん不快になっていって途中でやめちゃったのかもね。

それより金を出して綺麗な部屋で綺麗な姉ちゃんと一緒に風呂に入ってサービスしてもらう方がいいやと…


587 : 名無しさん@お腹いっぱい。: 2010/11/05(金) 00:32:57 ID:???

丘崎が25歳で事件を起こしたことを考えると、B地区と言えど通常の教育を受けた、丘崎と同世代の男達はやっぱり同世代の女達や、他地区や他県で就職して普通に恋愛するだろうな

丘崎でさえ車も持ってるんだから、もちろん他の若い男達も持ってるだろうし

昔の因習そのままに、丘崎母や姉に肉欲をぶつけてきたのはその上の世代、つまり丘崎母と同世代、もしくはそれ以上の年齢の男達かもしれない

そう仮定すると、まだ子供だった次女三女に手を出すには年を取り過ぎて幸いにも手をつけられずに済んだ、て可能性も考えられるわけだ
http://logsoku.com/thread/toki.2ch.net/archives/1262165480/




[12削除理由]:言葉遣い

29. 2012年8月15日 00:54:55 : Px2k2jnifQ
あほらし。全部シナチョン自身の文献にも載ってる自分らの戦争文化ジャン。

30. 2012年8月15日 09:32:37 : NlJlUmzZok
吉田清治が嘘つきなのは周知の事実。
だって証拠がないもん。すべて証言のみ、しかも証言がころころ変わる。
中川隆っていう嘘つきも吉田同様無名だけど、
そろそろ目を覚ましたら?
あ、無理か、そこまで頭良くないもんね。

31. 2012年8月15日 16:14:47 : 7AkNhPuohE
利用されているだけなんだけど、左翼って中韓で「良心的日本人」と持て囃される
のが好きだよね。 

32. 2012年8月16日 03:43:31 : 4gTncArJAk
>>この二人の話をつなぎ合わせると、番組のニュアンスは「強制連行」は
>>あったかも知れないという印象でした。
結局肝心な部分は 印象 なんだよ
これがこういう人たちのやり口

33. 2012年8月17日 09:12:00 : F3UcBP68aE
コメントしようと、しようと、したら、間違って、カーソル移動の際、
マウスパットが、触れて、『この投稿・コメントに拍手』を、
クリックしてしまいました・・・。拍手、全2人中!!
2人目 2012年8月17日(金) ゲストさんの、拍手は、無効です!!

何が、言いたかったかと、言うと、
原文の話しではなく、このページの記事を、書かれた方は、
結局、資本主義を、憎み、いみ嫌う、自分の主張を、やり方を、
押し通したい!!資本主義社会を、捏造でも、ぶっ壊して、
共産主義を、実現したいと、モクロンデ〜ル、
共産主義の、支持者の方に、見えます・・・。

韓国って、日本みたいに、資本主義で、同じ発想の、持ち主の様に、
北朝鮮よりは、話が、通じる相手に、一見、見えますが、
それは、表面的なことで、塗装を、剥がせば、下から、、、
本当は、共産主義を、好む、人達が、出てきて、
実際は、大統領が、偉い訳、ではなく、
その共産主義を、好む、実力者が、支配してる!!気がします・・・。

たまたま、戦後、戦勝国である!!
今、国連で、常任理事国に、なってる!!
当時、北は、共産主義ソ連・中国が、統治して、
南は、資本主義の、アメリカが、統治したから、
今から、64年前に、韓国という国が、建国した訳ですが、、、

表面上は、アメリカに、逆らわず!!
儒教とか、いうやつだから、なのか・・・!?
上と、見なす相手には、弱く、言いなりになるか・・・!?
ただ、いえない性格又は、気質か・・・!?
どうでも、いいですが、、、
一様、表面上は、そうゆう、資本主義体制を、とってきてますが、
本当は、そんな風に、なってるのが、納得いかない人ばかりで、
あとから、資本主義社会の、民主主義の代表者である!!
その人達、影の、共産主義者が、
憎き!!
大統領をォ〜、暗殺!!しちゃってる!!的な、、、
感じに、見えます・・・。
身の危険を、感じた!!李大統領の、発言は、その人達に、
殺されない様に、する為の、
『仲間だよォ〜!!』って、アピールする為の、
媚った!!発言に、見えます・・・。

なぜ、そんな、一国の、大統領が、そんなこと、言うのか・・・!?

理由:共産主義を、好む人は、最初は、親切で、親しい感じで、寄って来て、
親しくなった後で、その相手が、自分とは、違う、裏切り者と、見なした場合、
もしくは、こっちが、見なされた場合、、、
残虐で、悲惨な方法で、リンチ殺人したり、陰湿な、嫌がらせや、
付きまといをしたり、悪口を、言いふらしたり、する類の、
思考回路の、持ち主が、多い様に、見えます・・・。
デモするのも、好き!!(悪口の一種、但し、事実ではない!!内容〜を、言いう)
『カヨワイ、可哀想な、私達を、イジメルなぁ〜!! 権利を、ヨコセ〜!!金ヨコセ〜』みたいに、あと、街中、部屋の中に、スローガンの、書かれた、
紙を、貼りたがる!!(笑)
紙を、作って、壁や、街に、貼ってる!!
本人が、一番、やってないけど、、、

それと、被害者ぶってるけど、
実は!!犯罪を、犯した、
ご本人『加害者』犯人で、

他人に、その経験を、話す時は、
『加害者』犯人として、では、なく!!
なぜか・・・!?
可哀想な、「被害者」に、
役柄が、変更されてて、気が付けば、
本当の、被害者が、『加害者』犯人に、変更されてて、、、

『加害者』犯人の、立場で、現実に、見てきてるから、こそ、
その場に、いないと、分からない、細かい部分も、話すから、、、

知らない人が、聞くと、『この人は、嘘は、言ってない!!』って、
思うけど、、、実は、ただの、加害者でした!!
みたいな、パターンが、後から、出てくる!!
みたいな・・・。

直接、犯人じゃなくても、
その、犯人の、親しい、関係者とか・・・。

感情的で、、、
ムキに、なり易い性格の人多し!!に、見える!!(笑)

この、記事の、タイトルの、
『悪質な嘘は止めようね_吉田清治証言は虚構じゃない』
の〜、
『悪質な嘘は止めようね』の、『止めよう』に、((『ね』))を、
つけてる所が、いくら、電子機器が、表示する文章でも、
書いた人の、雰囲気、普段の性格、考え方、想像してる事や、
話し方などが、伝わってくると言うか、なんか・・・!?
失礼ですが、若干、文章を、読む、前から、気持ち悪い、感じの人だと、
思ったのと、怒りやすい性格の人だなぁ〜
(いつも、腹に、怒りを、溜めてる人)と、

検索した際の、一覧で、この、タイトルが、上から、4番目に、
表示されてるのを、見て、思いました・・・。

よく、デモしてる、共産主義の旗掲げてる人と、同じ、言い回しだし(笑)
あと、この、吉田清治って人も、
日本共産党から、立候補して、選挙に出たみたいだし、
やっぱ、共産、繋がりですか・・・!?

きっと、『なんとか、この、資本主義社会を、ぶっ壊して、
我々の、共産主義を、ひろめるぞォォォ〜〜〜!!おぉぉぉーーー!!!』
と、ムキに、なってる!!今の、ではなく、まだ、脳ミソが、
20世紀前半の、共産主義大好き!!の、ままの、人の、生き残りか・・・!?
その、発想を、時代の流れも、判断せずに、継承してる!!方に、、、
見えます・・・。(笑) 今の、北朝鮮も、韓国も、、、
あえて、言うなら、北朝鮮より、かえって、韓国の方が、そういう、危険人物、
多そうな、気がします・・・。
そういう、種類の、人って、、、
その相手から、反撃されると、意外と、弱いけど・・・。
まぁ〜
そんな、感じです・・・。
もっと、言いたいこと、ありますが、この辺に、しときます。
では、失礼いたします。(笑)


34. PAL 2012年8月18日 14:38:16 : cO5XmSo4kZcx2 : d9vv0D24eY
長文過ぎて読む気がうせるけど、吉田の自身の本の内容を否定する発言は、強制されたもの...までは読んだわ。
ちっとはまともなものを読めるかとおもったら根拠のないことを長文でゴリ押しするなんてみっともないまねやめたらどうです?

35. 2012年8月18日 17:04:50 : AOne8kmHmY
まあ日本人も沢山いますから
中には性悪な連中も沢山居ることでしょう。
だから絶対なかったとは言い切れませんが
どんな話でもそうですが
話には思わぬ尾ひれが付くものです。
話が伝わる内にだんだんオーバー表現になり過激になる。
その方が面白ですからね。
話した方も嘘だとは言えなくなって更に話が膨らむ。
特に女性は強かですからね。
常に被害者で可哀想なヒロインを演じたがる。
逆に男は強い男を演じたがって
やってもいない事をやったように吹聴してしまう。
参加していないのにその場に居たよう作り話をしてしまう。
どなたでも覚えがあるのではないですか?。
手柄話や体験談の類は
ほぼ眉唾物と思っていた方が間違いないですよ
自分の知る限り
本当に戦いに赴いた人や
壮絶な体験をした人は
もっと発言に慎重ですよ

でも色々この問題の始まりを記した物を読んで見ると
A新聞の記事や壊滅寸前の某左翼政党の女党首が関わっているようなのですが
これは本当何でしょうか?。
韓国がそれに乗っかったと言う事らしいですが。
敵は内部にありというのは本当かもしれませんね。

それにしても朝鮮戦争などは
戦死者より自国民同士の処分合戦での死者の方が多いのではないでしょうか。


36. 2012年8月19日 02:06:22 : 7liTOSXpGQ
吉田も「本に真実を書いても何の利益もない。事実を隠し自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやるじゃないか」と『私の戦争犯罪 -- 朝鮮人強制連行』中の記述において、「人間狩りを行なった場所がどこであるかについては創作を交えた」と認めてるよ。

37. 2012年8月23日 20:01:20 : HNPlrBDYLM

家族を殺すとヤクザから脅迫されたら嘘も付くさ。

吉田さんは、脅迫されるずっと前に独立紀念館の近くにある韓国最大の集団墓地「望郷の丘」に自費で大枚をはたいて「謝罪の碑」を建てた。

嘘付きがそんな無駄な金を使う訳ないだろ。


38. 2012年8月24日 19:13:58 : z9IKfvCbPE
韓国軍は、日本軍ではなかったとすれば、占領された国の女性がそのように
取り扱われたということになる。

一方、史実として韓国軍は日本軍の命令で動いていたとすれば、日本は
同盟軍の女性を慰安婦としていたということになる。

戦争なので、占領された国であれば、基本的に謝罪は必要ないだろう。
ひどいことをしたことはしたが、戦後に謝罪すべきことか?
ならば、戦死した人へも同様に謝罪するのか?
まさか、慰安婦の方が死よりも罪が重いなんてことはないだろ。

一方、同盟国の女性になにをしたんだ!っていうことであれば、
韓国が怒るのもうなずける。

ただし、戦争に勝利したなんてバカなことは理屈が合わない。
また、同盟国が残した鉄道や日本軍の保有品を捌いて儲けた
韓国財閥は泥棒だから、これは朝鮮人の恥じゃないのか?

同盟国ならば、日本に返すべきだろう。

韓国の立場を見ると、都合の良い解釈で戦後50年以上を積み重ねている。

ま、竹島は韓国には存在しないと国として回答しているということは、
海外知識が異常に欠落している、相手国の状況を理解する材料が欠落している
国ってことですから、それを公に、朝鮮人は優秀だって思っていること事態
が滑稽だね。

韓国では、グレーゾーンは金で解決する習慣がある。
話し合いは意味がない。
怒鳴りあって、相手が何を言っているのか聞かないのは、朝鮮人としては普通だ。
理屈なんてものは意味がなく、年齢と男女、つまり年上の男性が言ったことが
全てなんだから、そういう教養や理屈は意味がない社会では、言った者勝ちという
文化や習慣が根付いていても不思議はない。

今の韓国を見ていると、他民族と共存できる要件を備えていない。

グローバル韓国ってのは、その民族性から、どうやっても不可能で、夢や
あこがれにすぎないってこと。

だから、世界中で韓国人は嫌われるんだね。



39. 中川隆 2012年8月25日 20:27:50 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

朝鮮人の見た日本人の姿
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/405.html

中川隆_アジア関係投稿リンク
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak50/msg/909.html


40. 2012年8月26日 02:56:33 : DItWlTU7oA
韓国も国内問題の責任をいつまでも日本に転嫁して
いないで、いいかげんに自立したらどうなんだ
竹島にしても、慰安婦少女像にしても
あのパフォーマンス! 恥ずかしくないんだろうか
韓国はベトナム戦争で何人のベトナム女性を強姦したのか
自分たちがやったことを良く考えてみろよ
いくら日本を責めてもその罪は一生消えないよ
韓国が国として成長することができるなら
そのうちに自分たちの言ってきたことに
赤面する日がくるよ

41. 2012年8月26日 05:57:32 : jvKpfwC58M
韓国朝鮮人は上から下まで頭がイカレテル。一連の報道で良く分かるだろ。まともな話ができる相手じゃない。火病を患ってる精神病患者の集まり、適当に相手することだ、百害あって一利なし。

42. 中川隆 2012年8月27日 20:02:41 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

朝鮮人の見た日本人の姿


 日本統治のせいで朝鮮の古き良き文化が堕落した

淫売婦が日本の最大の輸出品となっているのは、衆目の認めるところである。日本人の行くところ、いかなる土地でも売淫の市が開かれないところはないが、わが国においてはとくに甚だしい。その淫風は、わが国古来の礼俗を破壊し、わが人命を害し、風紀を乱すことこのうえないものになっている。
[朴殷植『朝鮮独立運動の血史』1920年]

日本国内どこの大衆浴場でもみられる風景を、はじめて見る韓国人が驚くことがある。日本の銭湯の番台は、男女に分かれている脱衣場のどまんなかの高台で両方を眺望することができるからである。われわれの知る「男女七歳不同席」の儒教の原則は、日本では通じないのだ。
[朝鮮日報編『韓国人が見た日本』1984年]

日本のテレビでは、昼間でも女性の裸が見られる。それどころか、主婦向けの朝の番組でも、女性の上半身ヌードをよく見かける。(略)

夜11時過ぎると、成人用ビデオ女優がパンティー姿で現れ、服を着た男性タレントとセックスする素振りを見せる。

ただそのものズバリを見せないだけのことで、これではまるごとポルノ映画だ。むしろポルノ映画以上のいやらしい身の動き、そして水準以下の幼稚なセリフがテレビには溢れている。
[田麗玉『悲しい日本人』1994年]


この地球上、女性を裸にして金を儲けようとしない国は一つもないといっても、いいすぎではない。(略)だが日本の場合は、その異常さに問題がある。

彼らが好む対象は幼児であったり、体の一部に支障のある女だったり、あげくには知能の低い白痴女だったりする。一言でいって、社会的、精神的意味で徹底的に弱い者をセックスの対象と考えるのだ。

セックスに異常な関心をもっている日本人は多くのマスメディアを通して、女性をただのおもちゃとして売り、買い、もてあそぶ。そんなものを見る時私は日本社会独特の非人間性に怒りを感じる。弱者を残忍かつ執拗にもてあそぶ日本の一面を見たような思いがするからだ。[同]

(日本という)出版大国の底辺にはものすごい量の低質、ポルノ本が乱舞している。(略)以前、韓国のスポーツ新聞がこのような方向に流れたと言って物議をかもしたことがあるが、日本のスポーツ新聞を見ると本当に韓国は道徳君子の国だということを再度感じる。
[金永明『日本の貧困』1994]

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  ヽ


日本女性の多くが韓国の女性に比べて顔がまずく、特に歯並びが悪い女性が大部分で、これは日本の風土病の一種ではないかと思われる程である
[シン・ピョン『日本の地、日本の風』1990年]


我々と異なり、日本人には歯並びがひどく悪い人が多い。専門分野ではないから確言はできないが、先天的に我々より歯並びが悪い民族であるようだ。
[金燦「一事一言」朝鮮日報 1994年11月8日]

                        _イf它メミー-  ヽ、
                     / {い辷彡ク―- 、 \\
                    / / >=≠=ー-   \ \ヽ、
                      ///   ′    ヽ ` 、\ヽ i
                  / / /  l   |   l     \  l `l
                  l/  / l l|   l| |l  | |l   l ト、|  |
                  l   ′| l|   l| |l  | |ト、  | l | l  |
                   |  l| |||」|   l|`T 7 ハT | l | |  |
                  |  |l kヘ 八   | |/,,斗=ミk j | !  |
                  |  |l_|孑テミ\ | l〃 弋ヅ゙} ' 从  |
                  |  lヘド _ゞソ         ̄  l /| |
                  |  l 八 '''''  、   """" / / l  |',
                  |  {  ヽ    __,    イ l| .|   .| ',
                   i  |   i ヽ   `ー'   /i |ノ /   | ! どぉ、あたし綺麗でしょ
                    |  l   l  ,l` ー ´  .l j  |    | .i
                    !.  |  レイ       八| |   .| .i
                   ,. -─一'´|   |_       / / ./._  | i
                 /      |   | `ヽ、    厶-| /  `丶、 |
               ′      \ !           | /       `ヽ、
                i.    '、                !'          ',
              '.    ,'         丶 〃 "       /   ′
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                  _,/ー─'゙´        `ー─\ _
            _, - ‐─ '´                    ` " 'ー‐- 、
         _, - ´                                   `゙


日本が三国の圧力に屈服すると、朝鮮では明成皇后[閔妃]を中心に日本の勢力をくいとめるためにロシアに接近する動きがあらわれた。これに日本は、彼らの勢力をばんかいするために軍隊を先頭にして宮中に侵入し、明成皇后を殺害する野蛮な行為を犯した。これを乙未事変という(1895)。
[中学国史 1996年版]

刺客は、各部屋をすみずみまであまねく捜索し、ついに王后を刺して弑逆した。遺体は緞衾につつみ、松坂の上に安置し、殿庭から鹿園の林の中に運び出し、遺体の上に薪をのせて油をそそぎ、これを焼いた。
[朴殷植『朝鮮独立運動の血史』1920年]

八月二十日、ニ、三十人の日本の大陸浪人が、景福宮の閔妃の寝所に踏み込んで斬殺した。それは三浦の命令であった。一国を代表する公使が、外国の王妃斬殺計画の首謀者になるとは、世界史でも稀な事件である。しかも、斬殺した屍体に石油をかけて、王宮の庭で焼いてしまうという蛮行を重ねた。
[金両基『物語韓国史』1989年]

                                    {}
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                         / _,. -,ト! {   |'"r'´ i.|
                       /,r‐'" _,,_  !   'i `ー-' }
                       /  `ヽヾ,  ~ヽハ  ヽ  :., ヽ
                       i、   冫゙゙    ゙ヽ  \ ':, ヽ
                       \   (,~( i ゝ ,,、、、;ヽ   \ `、\
                        \、'゙ゞ;f´~ ,,rt‐_、\   ゙:、.  ヽ、
                         ヽ、 ゙ソ  " ̄ ゚´ ヽ   ヽヾ、、.゙ゝ
                            ヽ ヽ-‐、   イ ヽ   }、゙  ノ
                              \しノ _,/=; ハ    ゞ=‐'
                                 丿o∞゚o、    ヾ|ソ´
                                 ,r=:;_;;:===ヾ     !
                              ,.r'´ 、 r'~     ヾ、    /
                          c';    i'  、C;    i!、  /
                           !    、      ill;ヽ/
                              ヽ、  ゝ、    ,;ソヾ/
                           冫''"~"''-===彳 /    _,..,  ,. -‐- 、
                         /         ,r'    /   ̄    `'、
                             /        /    丿         ゙'L
                        /  ノ     _;{     / ,. -''"ヽ、     ]
                      ,.ノ;;        ,,;;''ヘ,  ,/  ,r'゙    )     {
                       _, .-‐'" ;;;;i     ,,;;''"   i,,,ノ /,. -、 ,r'.      i
                _, -‐'     ;;;!     ,;;''"゙´    l‐_,イ´:::::::::::':,(        ゝ
             _-‐ヾ.       ;;lλ _;;''"        |::::::::::::::::::::::::::ノ      ,「
           ,. ‐'"`ヾ::ヽ __,,,,.... -‐'''":::ソ           !:::::::::::::::::::::::::::ゝ_人'ゾL,ノ
       _,,r',,,...--‐‐''''":::::::::::::::::::::::/           ノ:::::::::::::::::::::::::::::::::':,
       ∧:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/_         /::r' ̄ ̄ヽ ー-‐'"ソ、
      / ':,:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::,'::::::::::ヽ、      /::丿        ゙,r')
      /  '、:::::::::::::::::::::::::::::::::::::/~゙゙~'ヾ:::::`ヽ、  ,;ノr'´    _    ヽソ.
     /   '、:::::::::::::::::::::::::::::::/     ゙ヾ:::::ヽ;/'´   _,‐''"   ̄`~「´|
     /    '、:::::::::::::::::::::::::::/        `'::::;;;;ヽ、  /  | ||    | | |
     '‐-==._'、::::::::::::::::::::::::i'         ,,へ:;;::ヽ,/    | ||    | | |
     | ||   ~゙''゙' T' ̄ ̄ ̄}       ,ノ`   ヾ::丿     | ||    | | |
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     | ||    | | |       ~゙'ーー‐'''"                | | |


少女の柳寛順は日本の警官や憲兵の銃剣の前にたってもひるまず、後に韓国のジャンヌ・ダルクと称えられた。彼女は水原の警察でひどい拷問にあいながら、「独立万歳」を叫びつづけ、殺されていった。[同]

ソウルで独立運動が展開された日、まだ年のいかない女学生が、右手に国旗をもち「万歳」を叫んだ。

日本兵は、剣をもち、その右手を切りおとした。女学生はさらに左手で旗をあげて「万歳」を叫んだ。

日本兵はまたその左手を切りおとしたが、女学生はなお「万歳」の連呼をやめなかった。
日本兵はその頭をつき刺してこの女学生を殺した。[同]


日本兵二名が左右にあって、一人は女学生の手をきつくにぎり、一人は竹針をたばねて頭に刺した。しかし、それでもなお屈服せず、激烈となり、かえって日本人を怒りののしった。

日本兵はいよいよ怒り、刀をぬいて唇をさこうとしたが、長官が引きとめ、「顔の表面は傷つけてはいけない」と言った。[同]

日本の野蛮人どもは、女学生のうち美貌の者何人かをえらび、輪姦をかさねた。(略)

日本人は、後列の十字架の傍に炭炉を置き、鉄線を真っ赤に焼いて盧永烈の乳頭を三、四回刺してからその縄を解き、刀で四肢を断ちおとし、まるでまこも(苽)のように分切した。血が雨のようにしたたりおちた。

そこでまた他の十字架にうつし、四肢と頭髪など五ヵ所を縛り、天空に架けて仰臥させ、膏薬を火に溶かしたものを頭髪と陰門と左右両腋とにねばりつけ、冷却させた後に強い力で急に引っぱった。髪の毛も皮膚もともに剥げおちて、血があふれるように流れ、大地を染めた。

日本の野蛮人どもは、大笑してこの残虐を楽しんだ。[同]


平壌では、拘留され入獄した女学生に対し、日本の野蛮人どもは、焼きごてをかの女らの陰部にあて、「男は何人いるか」など質問し、拷問を加え、いいしれぬ恥辱を与えた。[同]

朝鮮人女子は、監獄に入るとかならずはだかにされて訊問を加えられた。すでに判決をうけた女学生も、かならず日本人の姦淫暴虐をうけた。(略)

女子をはだかで仰臥させ、その腋毛、陰毛をぬいた。

また膏薬を煮解かし、女子の陰部にそそぎ、冷却して固まってから、いきなりこれをぬきとった。その陰毛はことごとく脱落した。[同]

                l  /´     `, ,'-´ /`' ',  ` ` .、 ` 、 ̄ ̄ `、       `、     ヽ ̄    / ,
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   `く        /  , r .'´  〉、              .\/  )'´  ∨三∧, '     ,_イ´   // \


1942年から始まった朝鮮での徴用の無慈悲さに就ては今更に喃々喋々を要しないであろう。戦時中朝鮮の官憲は日本への食糧供給を確保する為の「米穀供出」に狂奔し農家の糞溜の底まで目を光らした。

「労力供出」も之に劣らない方法、例えば市場とか村落をトラックを以て急襲して手あたり次第に捕えては頭数を揃えるとか、徴用逃亡者の為に山狩りをするとか等々の奴隷狩りを彷彿させる方法が取られた。
[朴在一『在日朝鮮人に関する綜合調査研究』1957年]

とくに大陸侵略と太平洋戦争の時期にいたって、日本帝国主義は戦時労働力の不足を打開するために、朝鮮人民を強制的に大量徴用した。

日本帝国主義は当時朝鮮人を連行するにあたり、夜中に農家を襲撃し、白昼にトラックを横付けして畑で働いている朝鮮の青壮年たちを手当たりしだいに拉致していくなど、文字どおりの「朝鮮人狩り」をおこなった。
[朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』1965年]

日帝が太平洋戦争末期の一九四五年、教師らを動員、一二歳の国民学校少女までも挺身隊に引きずっていった事実が一国民学校の学籍簿で確認された。

この学籍簿には七六年に廃校になったバンサン国民学校(戦前の京城第二公立小学校)六年制の担任だった池田正枝(六八・日本生駒市居住)氏が過去、子供たちを挺身隊に送った後、良心の呵責を感じて昨年八月、日本フジテレビの取材チームとともにバンサン国民学校卒業生学籍簿を保管中だったソウル江南区逸院洞永禧国民学校を訪問し発見した。

一四日、永禧国民学校が公開した池田氏が直接作成した学籍簿には、池田氏が担任だった六年生四班(女学生班)生徒七〇名余りのうち一名が四四年二月二五日に、五名が七月二日に富山不二挺身隊として出発したと記録されている。[朝鮮日報 1991年1月15日]


私自身が絶対に許せないのは、その悪の制度化だ。人類の残酷な歴史の中でも、女性を戦場に連行し娼婦役を強要した国はこの地球上で日本しかない。

強姦が犯罪なら、日本は集団的強姦を制度化したまれな国である。

私は、従軍慰安婦というのは日本がわが国の女性の全てを集団で強姦したようなものだと思う。おそらく日本はその血の代価をこれからずっと払い続けねばならないだろう。
[田麗玉『悲しい日本人』1994年]
http://www7.plala.or.jp/juraian/panil.htm


        ヾミア(三三三三三三三三三三三三∨ハ.'//ヽ     , ', ̄‐ ´  ̄ ̄ ` ` ‐ - 、
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                ,_、`ヾミ(/// ,イ三三三三三三,' i   ,'  ,' ∠>、'_'´,r´_ ,r'  ,r' , ,'' ,'  i i
              ,ィ圭ア',ヘ、`/巛、/ ,イ三三三三三三、,',','',   ,' ,' `仍不、 _`‐- , r ' ,', '  ,'   ii
             ,ィ圭/`/ィ圭ア、,'、巛,`く=三三三三三三 ,',' i i   ,' ,',' //`弋乃  ̄´   _、, ' , ,'     '
          ,ィ圭ア'/ィ圭ィ圭ア l l`くミ(三三三三三= ,' ,' i ,'  ,',' ,'   '//     , r ', ∨´, ','     '
          Vミ'彳'ィ圭ィ圭/l  ヽ>`ヾミ(三三三三,' ,', ,'i ,'  ,'' ,'          _ -'_',´乂,' , '  ,' ,'
          `くィ圭ィ圭ア/  \,イ   ,∠ヾミ(三三',' ,',i ,'i ,'  ,' ,'i           衍う,'/,', ','  , ' ,'
            ヾミ圭アハ、  //  , '    ` ヾミ(三i ,'=i =i,'  ,',' '    くー, ´ //`ソ'イ, r' , ',' , '
     _ _      ヾミィ圭ア,イ` l , '       ヾミ>、i'三=,'  ,' iiヽ、',    ´     /´, -´ , ',イ,','
 ̄  ̄     ̄ ` ‐,、-,-弋 _ ハ_ /,'          ヾミ>三'  ,'',i i三≡、- , - ― -, ' ´,' , ', r 7','=,'/、'
            ,'   , ' ,' , '`-,'            ヾミ', ', 'ヽ三', 三三三三,r'_,- ' ,', ' ,' , r'´,','='//,>、
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43. 2012年8月28日 08:04:46 : ou20FNWaCU
ここまで読んでも軍が強制的に拉致して慰安婦を強制的に連れてきた証拠は
まったく見出せないのだが。


慰安所があったことは否定しない。

軍事産業の会社にいて、中韓に出張した経験がある祖父もそう話していた。


当時の日本には女衒と呼ばれた人身売買のブローカーが存在し、
祖父によればこの女衒、韓国では韓国人、中国では中国人の女衒が元締めで、
彼らの中には軍服を模した服装をしていた人物がいたそうだ。
この女衒の社会はピラミッドの形を擁していて、
女衒に無断で慰安所を軍が設置するなどは不可能であり、
用地を提供することはあっても、軍が経営に直接介入することなど
出来るはずはない、と祖父は語っていた。

この女衒のシステムを良しと言っているわけでは決してない。
就業実態は劣悪だったろう。
それは容易に想像できるし、
親に売られて女衒に強制的に連れていかれた女性もいたかもしれない。

しかしこの当時の悲惨な状況を
物証に乏しい現代で、想像を交えて容易に判断したり、
当時の社会的背景を無視して、現代の慣習や法に照らし合わせて判断することは
まさに法の執行の原理原則に反する行為だと思う。

慰安所設置を軍が指示したという記述がありましたが、
祖父曰く、戦場が比較的静かな地域では、慰安所は完全に独立した
繁栄を極めた街の中にあったそうで、
逆に戦場が険しくなってきた戦後間近には、
慰安所を守るために軍の施設内に移転させたこともあったそうで、
これを一概に、軍の指示で慰安所を誘致して経営したと言えるだろうか。

日本はGHQの要求もあり、
1946年1月 女性を前借金で拘束する人身売買を禁じる
1956年5月 法律第118号により売春を禁じる
と、戦後早くから人身売買や売春を禁じる法を施工した。

人権に関しても、国際法を厳守し、完璧とは言えないかもしれないが、
理想社会は作ってきたはずだ。

我々は方を厳守しなければならない。
繰り返すが、法の原理原則で、過去に遡って現代の法で判断してはいけない。

当時の軍に、法を逸脱した行為があったことは否定しません。
それを当時の法に照らし合わせ、断ずる確実な物証があれば別ですが、
それがないのであれば、過度な想像で断ずることは控えるべきだと思います。
それが日本の国益になってもならなくても、です。


44. 2012年8月28日 08:16:42 : ou20FNWaCU
>42. 中川隆さん

>私自身が絶対に許せないのは、その悪の制度化だ。
>人類の残酷な歴史の中でも、女性を戦場に連行し娼婦役を強要した国はこの地球上で日本しかない。


連行したのが日本の軍であるという客観的な証拠はありますか?
もしあればお示しください。

それに、娼婦の存在を良とするわけでは決してありませんが、
戦地に娼婦を招いたり尋ねたり、レイプなどの性犯罪やまたは慰安所を設置することは
残念ながら、ベトナム戦争、朝鮮戦争の他、
湾岸戦争やイラク戦争など、現代の戦地で実際に行われていたことであり、
日本だけの慣習では決してありません。

過去において、日本を含むすべての戦地でのそれを否定するのであれば賛同できますが、

日本だけが突出してそれらを行ってきたという決め付けによる論調は、
現実を見ずに断じており、フェアではないと思います。


45. 2012年8月28日 08:47:36 : ou20FNWaCU
43 女衒に関する追記


性犯罪の被害者が被害状況を詳細に出来ない真理的要因は十分理解できます。
同じように、この女衒に売られて連れていかれた方々もその保護者も同様です。

わたしはこの女衒社会の実態を調査したことがありますが、
(27人(日本人20人挑戦籍7人)の方にお会いしました)
売られていった方々が戦後に親と再会し、
親は何ら釈明できずに、時代が悪い 戦争が悪い 社会が悪い 国が悪い などとし
経済的理由で子供を売ったという事実を子供に告白した保護者は皆無でした。

これをわたしは 優しい沈黙と嘘 と認識しました。

悲惨な時代にあって、親子関係が修復するのであれば、
当然、許容される嘘と思ったのです。

しかしそれが個人を超え、国家に対する賠償など、個人の範疇を超えてしまえば、
個人の告白の他に、客観的事実の認定がなされなくてはならず、
事実の認定が出来ないものに関しては、ある程度の許容範囲は認めるべきですが、
請求権を失うことになるとしても、厳密でなければなりません。

中川隆さんもご存知のように、慰安婦の証言の中には、
吉田証言のフィクション部分をそのまま供述されている方も多数いらっしゃいます。

或いは、証言が二転三転し、もはや検証不可能な方もおられます。

日本国としては、韓国の最高裁判決にもあったように、
日本国に対して個人の賠償権は消失しております。
〈韓国最高裁 主文 抜粋〉
慰安婦被害者が損害賠償を受けるためには、
韓国政府を相手に損害賠償を請求するか、
韓国政府が日本政府と交渉をしなければならない。

アメリカの最高裁も根拠となる部分での差はありますが判決は同様です。

これらの判断の決定打となったのは紛れもなく日韓基本条約の議事録で、

・日本政府は、韓国側からの徴用者名簿等の資料提出を条件に個別償還を行う
・韓国政府は、個人への補償は韓国政府が行うので日本は韓国政府へ一括して支払って欲しいとし、現金合計21億ドルと各種現物返還を請求した。

この部分については韓国政府や韓国の司法も尊重しているようです。
※日本企業への賠償請求は可という荒業判決はありましたが

法を厳守するのが国民の責務ですし、
法の厳守の元では、例え、慰安婦の方々の請求を退けることになったとしても、
日韓基本条約は守らねば国際社会は成り立ちません。

何もしなくて良いといっているわけではありません。

慰安婦の事実認定が困難な方に対しても、日本統治の際のお詫びとして、
これまで行ってきたODA等や通貨スワップ協定などの国交間問題は別にして、
既に行われていることですが、民間で基金を設立したり、またはそれを拡大したり、
韓国の反発はあるでしょうが、法的には請求先は韓国政府なのですから、
それを支援したりと、出来ることはまだあると思います。


状況証拠を見て語った意見=右翼・ネトウヨ
という根拠のない決め付けによる意見はまったく建設的ではありませんし、
冷静に情報を精査して見極めていく必要があると思います。


46. 2012年8月28日 09:41:57 : ou20FNWaCU
>42. 中川隆さん
>人類の残酷な歴史の中でも、女性を戦場に連行し娼婦役を強要した国はこの地球上で日本しかない。


強要があったかなかったかは別にして、
戦場での慰安役に関しては44で述べたとおり、
日本が突出して行っていたわけではありません。


ではこと売春に関してはどうでしょうか。

売春の合法性(2000年現在)


オーストラリア
オーストラリアでは売買春そのものは合法で、一部上場している売春宿もある。
ライセンスを受ける必要がある。

ニュージーランド
オーストラリアの法改正を受けて、ニュージーランドでも合法化された。
ライセンスを受ける必要がある。

オランダ
2000年に16歳以上の売春が完全に合法化された。

デンマーク
フランス
スイス
ドイツ
ギリシャ
ハンガリー
チェコ
ベルギー
スイス
フランス
ドイツ
スペイン
ギリシャ
デンマーク
チェコ
チリ
ブラジル
合法。
殆どの国ではライセンス要。
オーストリアなどでは外国人が働くために売春ビザが存在する。

イギリス
組織的なものは違法、個人の売春自体は合法。

アメリカ
ネバダ州では合法。
売春婦の組合が存在します。


これらの国では売春は合法だが組織的な売春は違法としている国もありますが、
実態はどの国にも組織的な売春ブローカーが存在します。
組織的な売春を罰する法律はありますが、
いたちごっこでなかなかなくなりません。

重要なことは、働く女性の自由意志が尊重されているかどうかですが、
売り上げに対する一部の上がりの強要や、
暴力による強制労働など、
個人の集合体の組合化して組織を免れているケースがあり、
自由意志は極めて不可能なケースがある、という国が殆どです。
※ですので組織的な売春は禁じています。

ちなみに、友人の風俗ライターによると、
日本では売春は当然違法ですが、実際には吉原など組織的なものがありますね。
そこで働く女性達に自由意志があるかどうかですが、
実態としては、上がりを収めることは義務、金額はその店で一定、
辞めることは自由、辞めたあとの顧客誘導は可、のようで、
欧米と比べ、かなり自由度の幅は広いようです。
まぁ違法ですが。


この状況を良しとしているわけではありませんが、
実態として、娼婦となる場合はライセンスが必要な国は多く、
娼婦を強要する事例は各国でかなり多く報告されており、

>娼婦役を強要した国はこの地球上で日本しかない。

この意見には相当な異議があります。


つまり何が言いたいかと言いますと、
その国のその場の社会的背景や法を無視して
個別の価値観で事象を断じることは出来ない、ということです。


47. 2012年8月28日 10:17:31 : ou20FNWaCU
プロパガンダか史実か アメリカ下院決議

アメリカ下院の慰安婦に関する日本への謝罪要求の決議ですが、
何故かどこも報じないのですが、

下院の最終報告では、
・国際法に反する下院の決議は憲法違反
・国として直接関与したとはいえない
・プロパガンダの様相が強い
としています。

フィリピン・オランダでの慰安婦決議も同様ですね。


一方裁判ではアメリカでもフィリピンでもオランダでも
慰安婦側敗訴が決定しています。


アメリカ下院の決議を例にとりますと
下院の決議とは上院に提議される種のものではなく強制力もなく意思表示です。
アメリカ下院の最初の報告書を作成した人物は、
日韓基本条約の詳細すら知りませんでしたし、
吉田証言そのものを証言としたものも採用しています。
そしてどの慰安婦サイドも日本の反証には一切答えず、下院も受付ませんでした。
結果的に、冒頭で書いたように、下院の最終報告では
慰安婦が強制連行されたという訴えじたいが確定しないという結果に終わりました。

アメリカという国はおもしろい国で、
このような議決があると反日で盛り上がりますが、
日韓基本条約の詳細や、慰安婦の証言の精査を行うにつれ、
下院の最終報告のほか、マスコミも「プロパガンダ」と位置づけ、
下院の決議を提議した議員と在米中国人と在米韓国人の有権者との
お金で繋がった関係を暴露し、下院決議からたった数ヶ月でそれを批判したりします。


もともと下院の議決、これは事実認定を目的とした裁判ではありません。
そして下院の最終報告に関して、意図的なのかどうか、
知らない・知りたくない方が多すぎます。

このサイトにあるいかなる記述も、強制連行と国の関与に関して、
客観的証拠と呼ぶには乏しいですし、
固定観念や思想を捨てて、
客観的証拠を突き合わせて論じることが必要だと思います。


48. 中川隆 2012年8月28日 20:38:15 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

林博史・関東学院大教授が米国の新聞で発表した論文である。

 それによると、第二次世界大戦直後の東京裁判において、オランダ、フランス、中国などが提出した資料に、日本軍に強制的に連行され、従軍慰安婦として働かされたことを示す資料がたくさんあるということだ。それによると、地元警察に捕まってそのまま日本の収容所に連れて行かれて慰安婦にされた話や、現地の女性を拘留した理由として、売春宿に入れるための口実だったと日本軍が答えた調書などが数多く残されているとのことだ。

 ここでのポイントは二つある。まず、東京裁判での資料なのだから、これは公文書だということ。そしてもう一つは、日本はサンフランシスコ講和条約によって東京裁判を受け入れたということだ。つまり日本は、従軍慰安婦の強制連行を公式に認めていたわけだ。
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/a/78/index2.html


慰安婦関係の資料は終戦時に証拠隠滅の為にすべて焼却処分されたんですね。

しかし、どうしても抹殺されないで残ってしまうものがあって、それで強制連行がばれてしまったという事です。


49. 中川隆 2012年8月28日 20:50:33 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

強制性示す新資料
研究者ら公表 東京裁判で証拠採用

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 旧日本軍が占領地の女性たちを強制的に「従軍慰安婦」にした事実を裏付ける東京裁判(一九四六―四八年)の関連資料が明らかになりました。

関東学院大学の林博史教授、中央大学の吉見義明教授、バウネット・ジャパンの西野瑠美子共同代表が十七日、都内の外国特派員協会での会見で公表しました。

 資料は、オランダ、フランス、中国の検察団が東京裁判に提出した尋問調書や陳述書など七点。いずれも同裁判で証拠書類として採用されました。

 林教授が昨年、東京大学社会科学研究所の図書館に所蔵されていた資料から見つけました。

 オランダ提出の尋問調書では、ボルネオ島の日本海軍情報機関の軍属が、拘束した現地女性を平手で殴り服を脱がせ、三人の少女を裸で一時間、立たせたと証言。

拘束の理由について

「彼らを淫売(いんばい)屋に入れることができるための口実を設けるため、命令でなされた」

と述べ、命令した守備隊司令の名をあげました。

 公表された資料は、インドネシア・ジャワ島やベトナム・ランソン、中国・桂林などで日本軍が現地女性らを強制的に慰安婦にしようとしたことを裏付けています。資料の一部は一九九七年に報道されています。

 林教授は、これらの資料は「日本政府がサンフランシスコ平和条約で受け入れた東京裁判の証拠であり、日本政府も認めざるを得ないものだ」と指摘しました。

 吉見教授は、被害者への「おわびと反省」を述べた河野談話を否定する安倍晋三首相の態度について、「首相の人権感覚が問われる問題。河野談話からの後退は許されない」と批判しました。

 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-04-18/2007041802_05_0.html


50. 中川隆 2012年8月28日 20:54:47 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

「従軍慰安婦」問題 日本軍の強制示す公文書
3点の大要(邦訳)

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 林博史関東学院大学教授は十七日、外国特派員協会での記者会見で「従軍慰安婦」問題についての新資料七点を発表しました。一九四六?四八年の東京裁判でオランダ、フランス、中国の検察団が提出した尋問調書や陳述書などです。これらは、同裁判で検察陣を構成した各国の政府機関が作成し、裁判の証拠書類として採用された公文書です。「慰安婦」が日本軍によって強制的に連行され、性行為を強要されたことを示しています。


 これらの資料のうち、

(1)インドネシア駐留オランダ陸軍大尉の報告
(2)日本陸軍中尉の宣誓証言
(3)「慰安婦」を強制された女性(オランダ人)の尋問調書―

の三点の大要を紹介します。


 証拠書類は英文と邦訳文があり、ここで紹介するのは邦訳文です。カタカナはひらがなに、旧字体は新字体に直してあります。また適宜、改行してあります。


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特警隊が婦人 捕まえた

 資料(1)/オランダ印軍情報部J・N・ヘイヂブロエク陸軍大尉の報告「日本海軍占領期間中蘭領東印度西部ボルネオに於ける強制売淫行為に関する報告」(一九四六年七月五日付、インドネシア・ボルネオ島<カリマンタン>ポンティアナック)
 (PD<検察側書類番号>5330/EX<法廷証拠番号>1702)

 一九四三年の前半にポンチアナック海軍守備隊司令海軍少佐ウエスギ・ケイメイは日本人はインドネシヤ或は中国の婦人と親密なる関係を結ぶべからずといふ命令を発しました。当時全ての欧州婦人と事実上全ての印度系欧羅巴婦人は抑留されて居ました。

 彼は同時に公式の慰安所を設立するやう命令を出しました。是等の性慰安所は二種に分類することになって居ました。即ち三ヶ所は海軍職員専用、五、六ヶ所は一般人用で其の中の一ヶ所は海軍民政部の高等官用に当てられました。

 海軍職員用の性慰安所は守備隊が経営しました。司令の下に通信士官海軍大尉スガサワ・アキノリが主任として置かれ日常の事務は当直兵曹長ワタナベ・ショウジが執って居ました。

 日本人と以前から関係のあった婦人達は鉄条網の張り廻らされた是等の性慰安所に強制収容されました。彼女等は特別な許可を得た場合に限り街に出ることができたのでした。慰安婦をやめる許可は守備隊司令から貰はねばなりませんでした。

 海軍特別警察(特警隊)が其等の性慰安所に慰安婦を絶えず補充するやうに命令を受けていました。此の目的の為に特警隊員は街で婦人を捕へ強制的に医者の診察を受けさせた後彼等を性慰安所に入れました。是等の逮捕は主として各兵曹長によって行はれました。

 一般用の性慰安所は南洋興発株式会社支配人ナワタ・ヒサカズが経営しました。守備隊司令は民政部に命じて之を監理させました。是等の慰安所に対する婦人達も亦特警隊の尽力によって集められました。

 上記の報告は日本人戦犯者の訊問から得た報告と本件関係者の宣誓陳述とから輯録されたものであります。

 私は上記の事実は真実に上述の報告書に相違する点のない事を情報将校及日本語通訳として誓って断言致します。

抵抗運動家の娘に強要

 資料(2)/オハラ・セイダイ陸軍中尉の宣誓陳述書(一九四六年一月一三日付、インドネシア・モア島)
 (PD5591/EX1794)

 問 或る証人は貴方が婦女達を強姦しその婦人達は兵営へ連れて行かれ日本人達の用に供せられたと言ひましたがそれは本当ですか。

 答 私は兵隊達の為に娼家を一軒設け私自身も之を利用しました。

 問 婦女達はその娼家に行くことを快諾しましたか。

 答 或者は快諾し或る者は快諾しませんでした。

 問 幾人女がそこに居りましたか。

 答 六人です。

 問 その女達の中幾人が娼家に入る様に強ひられましたか。

 答 五人です。

 問 どうしてそれ等の婦女たちは娼家に入る様強ひられたのですか。

 答 彼等は憲兵隊を攻撃した者の娘達でありました。

 問 ではその婦女達は父親達のした事の罰として娼家に入る様強ひられたのですね。

 答 左様です。

 問 如何程の期間その女達は娼家に入れられていましたか。

 答 八ヶ月間です。

 問 何人位この娼家を利用しましたか。

 答 二十五人です。

常に拒絶をしたが無力
 資料(3)/イエ・ベールマンの尋問調書(一九四六年五月一六日付、インドネシア・ジャワ島マゲラン)
 (PD5770/EX1725)

 私は一般被抑留者としてムテラン収容所に抑留されました。一九四四年一月二十八日、私は吾が婦人部指導者レイツスマ夫人から日本軍俘虜収容事務所へ出頭する様にと云はれました。此処で私は爪哇(ジャワ)人の一警視を見ました。彼は私を他の六人の婦人や少女等と一緒に連れて収容所の外側にあった警察署へ連れて行った。

 私達が爪哇人警視に案内されて収容所へ帰へって鞄に所持品を充めた後に其警視は私達を日本軍俘虜収容所事務所へ連れて行きました。此処で私達は三人の日本人に引渡されて三台の私有自動車でマゲランへ輸送され午後四時に到着しました。

 我々はテウグランと称せられ十四の家屋から成っていた小さい収容所へ連れて行かれました。一九四四年一月二十五日、私達の収容所から連行された婦人や少女等の一団と此処で会ひました。

 一九四四年二月三日、私達は再び日本人医師に依って健康診断を受けました。此間は少女達も含んで居ました。其処で私達は日本人向き娼楼に向けられるものであると聞かされました。

 其日の晩に娼楼が開かれる筈でした。帰宅後ブレッカー夫人と私は凡ゆる戸や窓を閉めました。午後九時頃戸や窓を叩く音がありました。私達は戸も窓も開け、閉さしてはならぬと命ぜられました。寝室だけは戸を錠で閉して私は其処へ閉ぢ籠もりましたが他は其通りにしました。

 私は是を二月五日 日曜日まで継続しました。其日にも亦日本軍兵卒等が収容所へ入って来ました(以前は日本軍将校のみでした)。是等兵士の幾らかが這入って其の中の一人は私を引張って私の室へ連れて行きました。私は一憲兵将校が入って来るまで反抗しました。

 其憲兵は私達は日本人を接待しなければならない。何故かと云へば若し吾々が進んで応じないならば、居所が判っている吾々の夫が責任を問はれると私に語りました。この様に語った後、憲兵は其兵士と私とだけ残して立去りました。

 其時ですらも私は尚ほ抵抗しました。然し事実上私はやられてしまいました。彼は衣服を私の身体から裂き取りました。そして私の両腕を後に捻りました。そこで私は無力となり、その後で彼は私に性交を迫りました。私は此の兵卒は誰であったか又其憲兵将校の姓名を知りません。

 此の状態が三週間継続しました。労働日には娼楼は日本将校のために日曜日午後は日本下士官達のために開かれ日曜日の午前は兵卒等のために保留されました。娼家へは時々一般日本人が来ました。私は常に拒絶しましたが無効でありました。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-04-19/2007041906_02_0.html


51. 中川隆 2012年8月28日 21:11:47 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

日本の心臓部で広がった慰安婦問題糾弾の声

(東京=聯合ニュース) チェ・イラク特派員= 「日本の裁判所の資料にも、旧日本軍の慰安婦強制動員の事実が出てくるのに、安倍晋三総理と政府はこれをなぜ無視するのか本当におかしい。」


17日午後、日本の心臓部である東京の千代田区有楽町のあるビル。200人余りのマスコミ人と市民たちが殺到した中、安倍総理の軍隊慰安婦の強制動員に関する不正発言に対する批判の声が続出した。発言の主人公は、韓国やフィリピンなどの被害国の国民ではなく、加害国の日本の著名な大学教授たちだった。


吉見義明中央大教授は、


「官吏たちが直接慰安婦を強制動員しなかったからといって、政府や軍の責任がないと言えるのか」、

「慰安所は日本軍によって維持され拡張された。軍隊が慰安所を監督し統制した。
軍隊が民間業者を通して慰安婦を動員したと言っても、軍隊が一次的な責任者であることは明らかだ」

と指摘した。 彼は、

「慰安所は事実上組織的な'性奴隷'だ。慰安婦たちは強圧による拉致や誘拐で募集され、監禁された」

とし、

「安倍総理は、狭義の強制性という言葉を動員して強制動員を否認しているが、
中国の山西省での裁判資料やフィリピンの女性たちの証言、オランダ政府の資料などを見れば、日本軍や官吏による強制動員が行われたことは明らかだ」

と語った。


林博史関東学院大教授も、最近日本のマスコミを通して公開された、日本の東京裁判の資料の中に、慰安婦の強制動員を認めた検察調書があったことに言及して、

「オランダ政府の場合、少なくとも65名が慰安婦として強制動員されたと確認した。各国が作成した公文書や判決でも、強制連行の事実が認定されている」

と指摘した。 続いて彼は、

「こういう資料を安倍総理や日本政府がなぜ無視しているのか、本当におかしい」

と声を高めた。林教授は特に、

「先月公開された国会図書館の靖国神社の資料で、慰安所を経営していた人物が,靖国神社に合祀されていることが明らかになった。

また、戦犯裁判所で有罪判決を受けて処刑された軍幹部もまた靖国神社に合祀された」

とし、

「女性たちを誘拐した人や戦犯で処刑された人物が靖国に祀られているのは深刻な問題だ。日本政府は反省すべきだ」と要求した。
http://www.labornetjp.org/news/2007/1176865497721staff01/view



52. 中川隆 2012年8月28日 21:19:05 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

林博史『極東国際軍事裁判に各国が提出した日本軍の「慰安婦」強制動員示す資料(7点)』


既報のように、日本軍による「従軍慰安婦」の強制動員を示す資料が確認された。

関東学院大学の林博史教授が4月17日、日本外国人記者協会で会見を行い 公表した資料は、極東国際軍事裁判(東京裁判)にオランダ、中国、フランスの検察団が提出、受理された公文書で、現在、東京大学社会科研究所図書館に所蔵 されている。

以下、資料の内容を紹介する


【資料1】(PD5330/EX1702)
インドネシア・ボルネオ島(カリマンタン)ポンティアナック
日本海軍占領期間中蘭領東印度西部ボルネオに於ける強制売淫行為に関する報告
一九四六年七月五日

 一九四三年の前半にポンチアナック海軍守備隊司令海軍少佐ウエスギ・ケイメイ(同人は一九四三年八月頃日本に帰国したり抑留を要求し置けり)は日本人はインドネシヤ或は中国の婦人と親密なる関係を結ぶべからずといふ命令を発しました。当時全ての欧州婦人と事実上全ての印度系欧羅巴婦人は抑留されて居ました。彼は同時に公式の慰安所(official brot-hel)を設立するやう命令を出しました。是等の性慰安所(brothel)は二種に分類することになって居ました。即ち三ヶ所は海軍職員専用、五、六ヶ所は一般人用で其の中の一ヶ所は海軍民政部の高等官用に当てられました。

海軍職員用の性慰安所は守備隊が経営しました。司令の下に通信士官海軍大尉スガサワ・アキノリが主任として置かれ日常の事務は当直兵曹長ワタナベ・ショウジが執って居ました。日本人と以前から関係のあった婦人達は鉄条網の張り廻らされた是等の性慰安所に強制収容されました。彼女等は特別な許可を得た場合に限り街に出ることができたのでした。慰安婦をやめる許可は守備隊司令から貰はねばなりませんでした。海軍特別警察(特警隊)が其等の性慰安所に慰安婦を絶えず補充するやうに命令を受けていました。此の目的の為に特警隊員は街で婦人を捕へ強制的に医者の診察を受けさせた後彼等を性慰安所に入れました。是等の逮捕は主としてミヤジマ・ジュンキチ、コジマ・ゴイチ、クセ・カズヲ、イトウ・ヤスタロウ各兵曹長によって行はれました。

 一般用の性慰安所は南洋興発株式会社支配人ナワタ・ヒサカズが経営しました。守備隊司令は民政部に命じて之を監理させました。民政部は此の経営を報国会(日本人実業家の協会)に依嘱してナワタが報国会の厚生部の主任であったので是等一般人用の性慰安所の主任に任ぜられました。彼は帳簿をつけたりするやうな事務的仕事には彼の会社の使用人を使用しました。毎朝、夜間の収入は南洋興発会社の出納係キタダ・カゲタカに引渡されました。是等の慰安所に対する婦人達も亦特警隊の盡力によって集められました。

 其等の性慰安所に充てられた家屋は敵産管理人から手に入れ家具は海軍用性慰安所にあっては海軍が支給し一般人用にあっては報国会が支給しました。遊客は原住民である傭人に(海軍の場合には其の階級に従って)金を支払はねばなりませんでした。又その傭人は其の金を毎日当直兵曹長又は南洋興発の出納係に引渡しました。両者の場合共三分の一は諸経費、家具、食物等を支弁する為保留され、三分の二が当該婦人の受取勘定に繰り入れられました。此の中から婦人達は随時彼等各自の用に充てる為其の一部を引出すことが出来ました。毎月の計算書は民政部の第一課に提出せねばなりませんでした。

 特警隊は婦女を捜すに当り民政部及日本人商社の全婦人職員に特警隊に出頭するやうに命じその婦人達の何人かを真裸にし日本人と関係していたとなじりました。次いで医師が検診をしましたが数人は処女であったことが判りました。是等の不幸な婦人達の中何人が性慰安所に強制的に送られたか確実には判りません。婦人達は性慰安所から敢て逃げ出さうとは致しませんでした。と言ふのは彼女等の家族が特警隊に依って直ちに逮捕されて非道く虐められるからでした。一例として此の様な事の為当の少女の母親が死んだ事があります。

 幸にも占領期間中引続き診療に従事することを許された、在ケタパンのインドネシヤ人軍医ルフリマ博士は特警職員の命令で彼の行った是等婦人の検診に関し宣誓供述をする事が出来ました。

 彼の証言に依ると婦人達は強制的に売淫させられたのであります。上記の報告は日本人戦犯者の訊問から得た報告と本件関係者の宣誓陳述とから輯録されたものであります。

 私は上記の事実は真実に上述の報告書に相違する点のない事を情報将校及日本語通訳として誓って断言致します。

 バタビヤ 一九四六年七月五日
 ジェー・エヌ・ヘイヂブロエク
 J.N.Heijbroek陸軍大尉
 蘭印軍情報部

(訳注)「蘭印軍情報部の公式記録より採られたもの」と記された、蘭印軍情報部戦争犯罪課長チャールズ・ヨンゲテル陸軍大尉の署名付「証明書」も付けられている。「慰安婦」と訳されている箇所は英文では(women)のみ。

 


【資料2】(PD5326/EX1701A)
インドネシア・ボルネオ島(カリマンタン)ポンティアナック
ポンテヤナック虐殺事件に関する一九四六年三月一三日付林秀一署名付訊問調書

調書

 本日、一九四六年三月一三日容疑者林秀一は在ポンチヤナック臨時軍法会議予審委員たる予、即ちメーステル・イエ・ベ・カンの面前に出頭した。

 問 君の氏名、年齢、住所及職業を私に言ひなさい。

 答 林秀一、二十四歳、日本石川県生れ、海軍軍属。
 一九四三年七月十三日私はポンチヤナックに到着して警備隊長上杉ケイメイ大尉のところに出頭しました。ポンチヤナックでは私は私が設置したハナ機関の地方部長となりました。このハナ機関は海軍の情報機関でありました。(略)

 [証人ラフィアの訊問調書が容疑者に提示され、これについて訊問がなされた]

 答 この婦人がポテム及アミナと共に上杉より訊問を受けたことは本当であります。その場合私は馬来語通訳として立会ひました。上記婦人は日本人と親密にしたと云ふので告訴されたのです。日本人と親密にすることは上杉の命によって許されていなかったのであります。私は上記の婦人を平手で打ったことを認めます。又彼等の衣服を脱がせたことも認めます。之は上杉の命令で行ったのであります。かくて三人の少女は一時間裸で立たなければなりませんでした。

 問 これは日本で婦人を訊問する時の慣習か。

 答 それは私は知りません。

 問 君は部下の巡査ではない。併しポンチヤナックで独自に仕事をして居るスパイである。故に上杉のかくの如き命令に従ふ必要はない。

 答 私はこの婦人たちが脱衣して裸にならなければならなかったことを承認しました。私は此の婦人たちは実際は罰すべきでなかったと信じます。併し彼等を抑留したのは彼等を淫売屋(brothel)に入れることが出来る為の口実を設けるために上杉の命令でなされたのであります。

脱衣させたのは彼等が日本人と親密になったことを彼等に認めさせることを強ひるためでありました。結局その婦人たちは淫売屋へは移されませんで、上杉の命令で放免されました。何故だか私は知りません。

 問 幾日間その婦人たちは特警隊の建物の中にいたか。

 答 私の思ふのには五日乃至六日間でした。彼等は建物の後の監房の一つにいました。
 (以下、略。現地住民や中国人、ヨーロッパ人らの大量逮捕、虐殺の話になる。)

 (訳注)上杉大尉やハナ機関などには漢字が当てられているが、「音訳」と但し書きがついているものはカタカナ表記に直した。


 

【資料3】(PD5591/EX1794)
インドネシア・モア島
オハラ・セイダイ陸軍中尉の宣誓陳述書
一九四六年一月一三日

 問 貴方の氏名、年齢は?
 答 シメイはオハラ・セイダイ、年齢は二十七才。

 問 貴方の所属部隊は?
 答 タナカ部隊ハヤシ隊
 (略)

 問 一九四四年九月に於けるモア島の指揮官は誰でしたか。
 答 私でありました。

 問 一九四四年九月中にモア島で土民が殺されたことがありますか、又その人数は?
 答 セルマタ島及ロエアン島で約四十名の土民が捕虜となり且殺されました。

 問 何故殺されたのですか。
 答 土民達がセルマタ及ロエアン島の憲兵隊を攻撃したからです。

 問 誰がその殺すことを命令したのですか。
 答 タナカ将軍は土民達を司令部へ送るやう命じました。然し土民達がモアを出発する前に右命令は変更され私がモアで彼等を殺し土民の指導者三、四名をタナカ部隊に送るやうにと命ぜられました。

 問 貴方は自分でその土民達を殺しましたか。
 答 いえ、私は唯その殺すのを監督したのです。

 問 誰が貴方の手助をしたのですか。
 答 ウド曹長、トヨシゲ軍曹、マツザキ軍曹及二十一名の他の兵卒達です。
(略)

 問 どんな風にして土民達は殺されたのですか。
 答 彼等は三人宛途上縦隊を作って整列させられました。それから前に述べた二十一人の兵達は銃剣で彼等を突刺し一度に三人を殺しました。

 問 或る証人は貴方が婦女達を強姦しその婦人達は兵営へ連れて行かれ日本人達の用に供せられたと言ひましたがそれは本当ですか。
 答 私は兵隊達の為に娼家(brothel)を一軒設け私自身も之を利用しました。

 問 婦女達はその娼家に行くことを快諾しましたか。
 答 或者は快諾し或る者は快諾しませんでした。

 問 幾人女がそこに居りましたか。
 答 六人です。

 問 その女達の中幾人が娼家に入る様に強ひられましたか。
 答 五人です。

 問 どうしてそれ等の婦女達は娼家に入る様強ひられたのですか。
 答 彼等は憲兵隊を攻撃した者の娘達でありました。

 問 ではその婦女達は父親達のした事の罰として娼家に入る様強ひられたのですね。
 答 左様です。

 問 如何程の期間その女達は娼家に入れられていましたか。
 答 八ヶ月間です。

 問 何人位この娼家を利用しましたか。
 答 二十五人です。
 (以下略)

(訳注)オハラの階級について、陸軍中尉が、海軍大尉と後から直されているが、経歴を見ると陸軍なので、陸軍中尉のままにした。

 

【資料4】(PD5770/EX1725)
インドネシア・ジャワ島マゲラン
イエ・ベールマンの尋問調書
一九四六年五月一六日

 私は一般被抑留者としてムテラン(Moentilan)収容所に抑留されました。一九四四年一月二十八日、私は吾が婦人部指導者レイツスマ夫人から日本軍俘虜収容事務所へ出頭する様にと云はれました。此処で私は爪哇人の一警視を見ました。彼は私を他の六人の婦人や少女等と一緒に連れて収容所の外側にあった警察署へ連れて行った。連行された人々の名前は(略)。

 私達が爪哇人警視に案内されて収容所へ帰へって鞄に所持品を充めた後に其警視は私等を日本軍俘虜収容所事務所へ連れて行きました。此処で私等は三人の日本人に引渡されて三台の私有自動車でマゲラン(Magelang)へ輸送され午後四時に到着しました。我々はテウグラン(Teogoeran)と称せられ十四の家屋から成っていた小さい収容所へ連れて行かれました。一九四四年一月二十五日、私達の収容所から連行された婦人や少女等の一団と此処で会ひました。

(略)

 一九四四年二月三日、私達は再び日本人医師に依って健康診断を受けました。此間は少女達も含んで居ました。其処で私達は日本人向き娼楼(brothel)に向けられるものであると聞かされました。其日の晩に娼楼が開かれる筈でした。帰宅後ブレッカー夫人と私は凡ゆる戸や窓を閉めました。午後9時頃戸や窓を叩く音がありました。私達は戸も窓も開け、閉さしてはならぬと命ぜられました。寝室だけは戸を錠で閉して私は其処へ閉ぢ籠りましたが他は其通りにしました。

私は是を二月五日 日曜日まで継続しました。其日にも亦日本軍兵卒等が収容所へ入って来ました(以前は日本軍将校のみでした)。是等兵士の幾らかが這入って其の中の一人は私を引張って私の室へ連れて行きました。私は一憲兵将校が入って来るまで反抗しました。其憲兵は私達は日本人を接待しなければならない。何故かと云へば若し吾々が進んで応じないならば、居所が判っている吾々の夫が責任を問はれると私に語りました。この様に語った後、憲兵は其兵士と私とだけ残して立去りました。其時ですらも私は尚ほ抵抗しました。然し事実上私はやられてしまいました。彼は衣服を私の身体から裂き取りました。そして私の両腕を後に捻りました。そこで私は無力となり、その後で彼は私に性交を迫りました。私は此の兵卒は誰であったか又其憲兵将校の姓名を知りません。

 此の状態が三週間継続しました。労働日には娼楼は日本将校のために日曜日午後は日本下士官達のために開かれ日曜日の午前は兵卒等のために保留されました。娼家へは時々一般日本人が来ました。私は常に拒絶しましたが無効でありました。

 一九四四年二月の終り頃か三月の始頃に私は事務所へ出頭する様に命じされました。其処にはタキグチと言ふ日本の一将校が居ました。彼は私が受けた待遇に関して私の訴を根拠として事件を調査すると約束しました。彼は亦私達を抑留者収容所へ送還するために極力努力することを約束しました。彼は兵卒や下士官や一般日本人に対して娼家を閉館して私達のために直に情況を改善して呉れました。

 (訳注)証言者は、証言時、27歳。


 

【資料5】(PD5806/EX1792A)
ポルトガル領チモール(東チモール)
ルイス・アントニオ・ヌメス・ロドリゲスの宣誓陳述書
一九四六年六月二六日

 一九四二年二月二一日、私は、日本軍がディリの中国人やその他の家々に押し入り掠奪をおこなうのを見ました。

 日本軍があちこちで族長らに対して、日本軍慰安所(brothel)に現地の少女たちを提供するように強制したことを私は知っています。その際に、もし少女らを提供しなければ、日本軍は族長らの家に押しかけて、慰安所に入れるために近親の女性たちを連れ去るぞ、と言って脅迫しました。

 (訳注)この宣誓陳述書の中で、日本軍が族長に命じて、労働力を提供させたことなども述べられており、族長に強制して提供させる手法がとらえていたことがわかる。なおこの宣誓陳述書には、連合軍東南アジア司令部の戦争犯罪捜査将校とポルトガル領チモールの行政官のサインが付されており、ポルトガル当局が捜査に協力していることがわかる。

 


【資料6】(PD2772E-5/EX2120)
ベトナム・ランソン
ニェン・ティトンの口述書抜粋
 四日間自由であった後、私は街で日本人に逮捕され印度支那保安隊の病院の後方にある憲兵隊に引致されました。(中略)私は八日間、日本憲兵隊に監禁された後放免されました。其後私は数回逮捕され乱暴に殴られました。日本人等は私の仏人との交際を咎めたのでありました。

(略)

 ランソンに於ける捜査の間、日本人等はフランス兵と一緒に生活していた私の同国人数名に彼等/日本人等/が光安(Tienyen)に設けた慰安所(broth-el)へ一緒に行くやう強制しました。私は巧い計略の結果、彼等から免れることが出来ました。

 (訳注)証言者は一九一五年生まれ、住所はハノイ。

 

【資料7】(PD2220/EX353)
中国桂林
軍事委員会行政院戦犯罪証拠調査小隊「桂林市民控訴 其の一」
一九四六年五月二七日

 敵軍の我が桂林を侵略せしは一年間にして其の間姦淫、捕虜、略奪等為ささる処無く長縄大尉なる日本福岡県人は敵復興支部長の職を担当し、人と為り陰険悪毒にして桂林市に有る偽新聞社並びに文化機関をして自己の支配下に置き其等を我が民衆の懐柔並びに奴隷化の中心機関とし且又偽組織人員を利用し工場の設立を宣伝し四方より女工を招致し、麗澤門外に連れ行き強迫して妓女として獣の如き軍隊の淫楽に供した。

長縄の秘書即ち鈴木華□(日本女性)は彼の行為を幇助し、更に甚しきは此の敵が楽群路に在った李子園に憲兵隊を設立し、(以下略)

http://space.geocities.jp/ml1alt2/data/data5/data5-04.htm#02


53. 中川隆 2012年9月01日 08:49:18 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

10. 2012年8月30日 20:02:14 : HNPlrBDYLM

従軍慰安婦強制連行の証拠は65年前に法廷に提出されて、関係者も全員 強制連行が普通だったのを認めていたよ:

(上の資料)


17. 2012年8月31日 16:11:14 : VEJ1Ve5Z6E
>>10
ボルネオ島って事はインドネシアか
で、韓国に関しては?

韓国の証拠だけピンポイントに無いってか
それは、あまりにもおかしいぞ



18. 2012年8月31日 19:42:10 : HNPlrBDYLM
吉田清治の強制連行の話はすべて真実だったのさ。
朝鮮は儒教の国だったから、慰安婦だったのが世間にわかると兄弟や家族も結婚できなくなったんだ。

それが吉田清治が強制連行した正確な場所と日時を書けなかった理由。



19. 2012年8月31日 19:59:26 : ms7EkHlgdk
韓国の人口当たりのレイプ率が日本の10倍以上なのは「韓国の女性は些細な事でも『レイプされた』と訴えるから」なんだそうだよ。
なんともご立派な「儒教の国」だねw


20. 2012年8月31日 20:07:38 : kFGC7xohUs
>>18
その「儒教の国」とやらは売春婦が売春取り締まりの強化に反対して
「生存権の侵害だ」と大統領府や議会に集団で抗議デモする韓国とは
全く無関係なのは間違い無いな。




21. 2012年8月31日 21:06:37 : HNPlrBDYLM

日本人が日韓併合時代に朝鮮の儒教文化を破壊し尽したから、あんな国になったのさ。




22. 2012年9月01日 01:26:21 : SlAqTPWc3g
>>21
>日本人が朝鮮の儒教文化を破壊し尽したから、あんな風になったのさ。
つまり「戦後、慰安婦だと名乗り出られなかった」などと言うのは全くのデタラメ
だと自分で認めるわけだ。
簡単に墓穴を掘ってくれてありがとうw


23. 2012年9月01日 08:43:08 : HNPlrBDYLM

慰安婦の世代迄の朝鮮人は儒教道徳の世界で生きていた。
慰安婦の子供の世代からキリスト教とアメリカ文化の方が儒教より遥かに影響力が大きくなった。

それで朝鮮人は精神のバランスを崩したんだよ。

http://www.asyura2.com/12/senkyo135/msg/150.html?c23#c23


54. 2012年9月07日 22:14:55 : 7H3tip4e0Y
この中川隆なる朝鮮人は反日法で逮捕すべきだな。明らかなるウソ捏造。はやく朝鮮へ帰国すべきだ。

55. 2012年9月09日 15:44:26 : 46PoD8M3QM
虚構かそうでないかは検証できないのでは

56. 2012年9月10日 22:54:46 : BnZEbGDBC6
在日コリアンの焼肉パチンコ闇金マネーでいくらもらったのかねタカシクソは笑

57. 中川隆 2012年9月11日 20:21:12 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM


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慰安婦強制連行は東京裁判で日本軍関係者が全員認めたので、既に決着が付いています。日本軍は一般住民の虐殺、組織的略奪、食料・女性の現地調達を沖縄を含む全地域でやっていました。 朝鮮だけ例外だったという事は有り得ません。

そして、それを指示したのは昭和天皇だと言われています。 昭和天皇は自分が戦犯にならない様に徹底した証拠隠滅も指示した様ですね。

子供を抱いていれば二三人がかりで赤ん坊をもぎ取って、女を引きずってトラックに押し込む。そういう場合は、赤ん坊だけでなく、三歳四歳・・三歳か五歳ぐらいの子供が母­親を奪われる現場では、泣き叫んで命がけで母親にとりすがる。それを突き飛ばし蹴飛ばし・・


東京裁判は昭和天皇の戦争犯罪を陸軍の上層部にすべて肩代わりさせるのを目的にして行われましたから、昭和天皇が言い逃れができない731部隊や中国・朝鮮での戦争犯罪はなるべく取り上げないという方針だったのです。

沖縄・朝鮮・台湾には日本の役所が有ったので、慰安婦関係の資料は完全に焼却して証拠隠滅は完璧に行われました。 一方、他地域は焼却できなかった資料が幾つか残ってしまったので、東京裁判でも止むを得ず強制連行を認定したのですね。

何れにしろ日本政府は東京裁判で慰安婦の強制連行を認めたので、世界の歴史学会でもそれが結論になってしまいました。 そして、アメリカの教科書に取り上げられた慰安婦問題も東京裁判の結論に基づいて記述されています。

アメリカ人の常識

ニューヨークタイムズは名前は明らかにしないが日本人歴史学者達によると日本軍慰安婦は最大20万人であるとしている[102]。
慰安婦のほとんどが家庭から拉致され最前線に連行された10代の朝鮮女性であるとしており、アメリカ軍の場合とはこの点で大きく異なるものであるとしている[39]。

アメリカ合衆国の歴史教科書『Tradition & Encounters:A Global Perspective on the Past』では、

最大で30万人もの14-20歳の女性たちを
強制的に徴集して性行為を強要したとしている[109]。

さらに、「日本軍は慰安婦たちを天皇の贈り物と言いながら兵士などに提供した。
慰安婦たちは韓国と台湾、満洲、フィリピンなど東南アジア各国から連れてこられ、80%が韓国出身であった。

逃げようとしたり性病にかかると日本兵などによって殺され、戦争が終わるころには兵士などが隠蔽するために慰安婦たちを大挙虐殺した。」などとしている[109]。

この歴史教科書は2003年より数千校で100万人以上の学生に使用されている[109]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6

韓国、中国の従軍慰安婦の女性が日本政府を相手取ったアメリカでの訴訟の法廷での日本の反論が

「この種の問題はサンフランシスコ講和条約で解決済み」

という内容になっています。サンフランシスコ講和条約では東京裁判の妥当性を認めていますので、今の日本政府も慰安婦強制連行を認めてしまった事になります。

いずれにしろ、日本政府は既に慰安婦は強制連行されて逃げたらリンチで残虐に殺されたという事実の追認をしてしまったのです。


[12削除理由]:言葉遣い

58. 2012年9月12日 18:00:58 : 69mRESzt7U
>中川

>慰安婦強制連行は東京裁判で日本軍関係者が全員認めたので、既に決着が付いています。
>そして、それを指示したのは昭和天皇だと言われています。


東京裁判の議事録、主文、など、一通り熟読したが、
東京裁判のどこを読めばそんな記述が出てくるんだ?

こういういい加減なことを事実として平然と公にする輩がいるから
歴史はねじ曲がる。


>アメリカの教科書に取り上げられた慰安婦問題も東京裁判の結論に基づいて記述されています。

これも嘘だ。
アメリカの教科書に慰安婦が登場したのは韓国のロビー外交や後にアメリカ憲法違反を理由に批判された下院決議以降のこと。
東京裁判で慰安婦が論点になった事実はひとつもないし、日韓基本条約の交渉時にも、両国でその話題が出たこともない。
つまり認識されていなかった。


嘘を書くなよ嘘を。


59. 中川隆 2012年9月12日 19:57:26 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

悔しかったら、これを否定してね:


林博史関東学院大学教授は十七日、外国特派員協会での記者会見で「従軍慰安婦」問題についての新資料七点を発表しました。一九四六?四八年の東京裁判でオランダ、フランス、中国の検察団が提出した尋問調書や陳述書などです。これらは、同裁判で検察陣を構成した各国の政府機関が作成し、裁判の証拠書類として採用された公文書です。「慰安婦」が日本軍によって強制的に連行され、性行為を強要されたことを示しています。

林博史『極東国際軍事裁判に各国が提出した日本軍の「慰安婦」強制動員示す資料(7点)』

http://space.geocities.jp/ml1alt2/data/data5/data5-04.htm#02


林博史・関東学院大教授が米国の新聞で発表した論文である。

 それによると、第二次世界大戦直後の東京裁判において、オランダ、フランス、中国などが提出した資料に、日本軍に強制的に連行され、従軍慰安婦として働かされたことを示す資料がたくさんあるということだ。それによると、地元警察に捕まってそのまま日本の収容所に連れて行かれて慰安婦にされた話や、現地の女性を拘留した理由として、売春宿に入れるための口実だったと日本軍が答えた調書などが数多く残されているとのことだ。


ここでのポイントは二つある。まず、東京裁判での資料なのだから、これは公文書だということ。そしてもう一つは、日本はサンフランシスコ講和条約によって東京裁判を受け入れたということだ。つまり日本は、従軍慰安婦の強制連行を公式に認めていたわけだ。
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/a/78/index2.html


60. 2012年9月12日 21:59:14 : CAExljXbqn
東京裁判の公文書なのに、今さら新発見するとか有り得ないだろ。

61. 2012年9月15日 00:12:24 : CE6tJlQ6iw
>>59(中川隆さん)
その前段は、2007年に林教授が発表した資料ですが、
後段は、その資料を「発見」したことについて述べた、同年の大前研一のコラムです。
コラムの中で述べているように、大前は判決も資料も読んでいないので、「日本は、従軍慰安婦の強制連行を公式に認めていたわけだ」と誤解しています。
実際は、林教授が自らのホームページで「東京裁判で『慰安婦』制度が裁かれたとまでは言えない」と残念がっているように、
それらの資料は、個々の戦争犯罪(暴行、強姦など)を立証するものであっても、東京裁判で慰安婦制度が裁かれたことを立証するものではなく、東京裁判の判決で慰安婦制度が断罪されたわけでもないのです。
あくまで、個々の戦争犯罪を裁くにあたっての資料に過ぎません。
もし、大前の認識のように、日本が東京裁判で慰安婦の強制連行を受け入れていたなら、慰安婦問題は何の議論も起こさないですよ。
少し考えればわかることでしょう。

62. 中川隆 2012年9月19日 22:11:57 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

女性の現地調達と慰安所の設置は昭和天皇が自ら指示したものでしょう。

東京裁判は昭和天皇の戦争犯罪を陸軍に押し付けるのが目的で行われた様ですから、従軍慰安婦や虐殺命令の事を隠すのは当然でしょうね。


63. 2012年9月21日 13:05:01 : os0qzZPUQk
女性の現地調達と慰安所の設置は戦時処置としては当時「別段変わったことではない」兵の士気高揚に野放しの「労働者の楽園」もあったがw
虐殺命令は主に「ゲリラ狩り・パルチザンの事前処置」として当時から陸軍参謀本部が発案していた。現場と上層からは敬遠されたが。
まじめに実行したのが京都の第16中隊。上海から南京までの「露払い」が虐殺の実態。宮様の近辺の安全確保が理由。シンガポールで強行したのが「作戦の神様(笑)」

どちらもトップが直々に指示するような内容じゃない。

東京裁判で慰安所の件が見送られたのは連合国が「同じぐらいスネにキズを持つ国」
だったから、オランダにいたっては「オマエが言うな」のレベルだった。
この時点で認めれば植民地独立祭りの欧州には非常に都合が悪かった。


64. 中川隆 2012年9月22日 01:04:31 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

日本は占領地域で組織的な略奪をして、財宝を朝鮮経由で内地に持ち帰っていますから、昭和天皇が主導したのは間違いないですね。

慰安婦強制連行も南京大虐殺も731部隊も昭和天皇が直々に命令したものだから、みんなが必死に否定しようとするのですね。


65. 2012年9月22日 21:17:14 : kzC4Ayrgl6
さて、「組織的な略奪をして」「朝鮮経由で内地に持ち帰っ」た財宝は今どこにあるのだろう?上野には台湾の故宮博物館をしのぐお宝があるのだろうか。ワシは見たことないけど…
というか、「慰安婦強制連行も南京大虐殺も731部隊も昭和天皇が直々に命令」って、頭大丈夫?何か湧いてない?
そこまで妄想がキツいと、今までの発言すべてに信憑性なくなるんじゃないかい。

66. 中川隆 2012年9月22日 22:41:16 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

天皇家の財産は戦後すべて国有化された訳じゃないからね。

天皇家存続・昭和天皇の戦争犯罪の免責と引き換えにすべてアメリカに没収された。 マッカーサーも昭和天皇から大金貰ったから昭和天皇が頼んだ通りに上手く演技してくれたのさ。詳細は:

昭和天皇が戦争狂になった訳
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html


67. 2012年9月23日 02:32:10 : xvbVxRJcLM
なるほど、メトロポリタンミュージアムには中韓のお宝がザクザクあるということですか? あんまり聞いたことないけど‥
するとすべての黒幕は、ユダヤの大富豪かフリーメーソンあたりですかね?

いやいや、なかなかステキな妄想力ですね。

そういや、日光にある昔の御用邸を見たことあるけど、世界一の大富豪にふさわしい壮麗な建物だったかなぁ?
いやいや、アホにはそうは見えないけど、イギリスのノーフォークにあるサンドリンガムハウスやヤルタ会議でおなじみのクリミアのリヴァディア宮殿、ご存じベルサイユの小トリアノン宮殿にも勝るとも劣らない贅をこらした建物に違いない。
天皇陛下は東京に来て昭和天皇で三代目で、まあ江戸っ子の仲間入りですからね。羽織の裏地に凝るような渋い贅沢があったのかも?


68. 2012年9月23日 17:29:42 : 0IhLUUrg4I
吉田清治って、「告白本は創作を含む」って謝罪したんじゃ?
本人が、嘘書いたって認めてるんだから、あんたがガタガタ言うことないでしょ。

69. 2012年9月23日 17:38:27 : HNPlrBDYLM

吉田清治は右翼から家族を殺すと脅迫されて

『私が今迄書いた事はすべて嘘でした』

という嘘を言ったんだろ。


70. 2012年9月23日 22:17:47 : LWcJ2Rp8kk
苦しい言い訳だな。
そもそも女なんぞ誘拐するまでもなく、広告一つでいくらでも調達できる。
韓国から不法入国してくる現代の慰安婦を見たことがあるかね?
どう教育が進んでも、どう豊かになっても、売春婦の供給源には事欠かないのだ。
女衒でもあるまいし何で誘拐する必要があるか。

71. 2012年9月23日 22:27:31 : DZ75MIlfoA
誰も慰安婦がいなかったとか慰安所がなかったとは言ってない・・・という基本はわかってるんでしょうね?

72. 2012年9月23日 22:45:55 : HNPlrBDYLM

広告一つでいくらでも調達できる普通の売春婦は性病持ちが多いので、昭和天皇は 12、13才の少女を強制連行させたんだよ。

73. 2012年9月24日 02:03:50 : GA9O5JOtZM
>広告一つでいくらでも調達できる普通の売春婦は性病持ちが多いので、昭和天皇は 12、13才の少女を強制連行させたんだよ。
そりゃ、どこのエロ小説のあらすじだよ。
ま、有り難いことにこんなことを言ってくれているから、「いわゆる従軍慰安婦という嘘」が明らかになるわけだ。

74. 2012年9月24日 08:08:58 : HNPlrBDYLM

日本人は汚い売春婦を嫌ったのさ:

F. 性病にかかり、50人の日本兵に病気を移した韓国人慰安婦の1人は、灼熱の鉄棒で膣を消毒された。

○オ・ズンイとう女性が、梅毒にかかったことを知らせなかったため将校にうつったという理由で殺された。彼女は口に布を詰められ、焼いた鉄の棒を子宮に入れられて即死。引き抜いた棒には肉がこびりついていた


75. 2012年9月24日 09:26:48 : Lermtj3sZM
悪趣味なSM小説の筋書きだな。脳みそ腐った連中らしい妄想だ。
そういう極端なバカ話からも「いわゆる従軍慰安婦という嘘」が炙り出されるな。

76. 中川隆 2012年9月24日 20:04:31 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

昭和天皇は15才以下の少女しか売春婦として使えないという信念が有ったのさ:

日本統治のせいで朝鮮の古き良き文化が堕落した

淫売婦が日本の最大の輸出品となっているのは、衆目の認めるところである。日本人の行くところ、いかなる土地でも売淫の市が開かれないところはないが、わが国においてはとくに甚だしい。その淫風は、わが国古来の礼俗を破壊し、わが人命を害し、風紀を乱すことこのうえないものになっている。
[朴殷植『朝鮮独立運動の血史』1920年]

天皇一族は売春業者

 19世紀初頭、世界帝国を建設しようと考えた英国はアジアに対し、アヘン=麻薬を売り、アジア人に英国に対する抵抗心を喪失させ、アヘン売買の利益でアジアを支配するための兵器を買う戦略を採用する。

英国のアヘン売買の中心となったのが、銀行ジャーディン・マセソンであった。マセソンは、英国がインドでアヘンを買い付ける資金を提供し、中国、日本にアヘンを運搬する船の建設費を出し、アヘンの売り上げはマセソンの銀行口座に振り込まれ、その資金で中国、日本を攻める兵器が購入された。兵器の代金は、マセソンの銀行口座で決済された。

マセソン、中国では香港に香港上海銀行(現在の中国の中央銀行)を支店として置き、日本では東京に日本銀行=日銀を支店として創立した。日本政府の井上馨、渋沢栄一に「命令」し、ノウハウを教え、日本銀行を創立させたのは、麻薬銀行マセソンのアレクサンドラ・シャンドである。

日本の中央銀行、日銀は麻薬銀行として創立された。しかし中国と違い、日本では麻薬は売れなかった。


困ったマセソンは、福沢諭吉と天皇に相談し、日本人女性を誘拐し「売春婦」として海外に「販売」する事にした。


貧しい農村の女性には海外で豊かな生活が出来るとダマシ、良家の娘達には洋裁学校を紹介するとダマシ、天皇と三菱財閥は日本人女性を「売春婦」として、海外に売り飛ばした。

天皇と三菱の経営する船会社、日本郵船がダマサレタ女性達を売春婦として海外に運んだ。大部分が処女であった日本人女性達は、船の中で「売春婦」として教育するため、英国人水夫達に毎日、強姦輪姦された。これは天皇の「命令」である。

天皇がダマシ、売春婦として海外に売り飛ばした日本人女性の数は、50万人を超える。大くの女性は、20歳代で梅毒等の性病で死に、または刃物で自分の喉を突き刺して自殺した。

天皇一族の財産はこうして作られた。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/50371493.html


1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社


日本郵船が創立される。

明治維新により富国強兵の道を歩み始めた日本は、欧米からあらゆる兵器を購入し続けていたが、欧米への支払いに当てる資金が日本には無かった。

そこで福沢諭吉は、


「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」


という指示を天皇に与える。賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、天皇一族はこのプランに飛び付き実行する。

(福沢諭吉全集 第15巻)


1900年初頭から天皇の命令の下、

「海外に行けば良い仕事があり、豊かな生活が出来る」


という宣伝が日本全国で大々的に行われた。

日本の健全な家庭に育った当時の若い女性達は天皇の言葉を信じた。

天皇一族によりだまされ「売春婦として欧米に販売された」日本人女性の数は数十万人。

大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は「健全な女性を売春婦」として「売却」する事で、欧米の売春業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員で
あれば10数年分の給与を手に入れていた。

その金額が数十万人分=莫大な資金がこの天皇一族のサギ行為、女性の人身売買により天皇一族に転がり込んだ。 その資金の一部は戦争のための兵器購入に当てられたが、
大部分は天皇の「個人財産」として「蓄財」された。

天皇一族は自分の金儲けのために、健全な若い日本人女性をだまし、売春婦として欧米に「売却」して来た。

天皇一族は欧米の売春業者とタイアップした日本の売春業者であった。

天皇により経営される日本郵船により、欧米に「売却」された日本人女性は、1人残らず現地に着くと即座に売春宿に「連行」され監禁された。そして売春を強制された。

初めての外国であり、逃げ場も助けてくれる相手もいない。
数十万人の日本人女性が、天皇によって売春を強制された。

これが従軍慰安婦の原型である。


日本郵船の共同経営者三菱財閥もこの売春業で巨大化した。
この莫大な富を生む売春業に参加させてもらったお礼に、三菱財閥は昭和天皇の結婚後の新居を、全額三菱財閥の出資で建設する。

渋谷区下渋谷の第一御領地の「花御殿」が昭和天皇の新婚の住居であり、それは数十万人の日本人女性を「売春婦として販売した」利益で、三菱の天皇に対する「売春業参加のお礼」として建設された。

(山田盟子「ウサギたちが渡った断魂橋」 新日本出版社)。


1924年、米国は「排日移民法」という法律を成立させる。
日米関係はまだ険悪ではなく、日本から余りに多数の若い女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が社会問題化し、それを禁止した法律であった。


天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」

(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に、1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。


「米国のカリフォルニア州への移民拒否については、日本を憤慨させるに十分なものであった。」

この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。

日本人女性をだまし、売春婦として米国に「売却」する天皇の売春ビジネス=移民を米国が禁止した、それに憤慨激怒し米国と戦争を始めたと天皇自身が独白しているのである。

天皇一族は神でも「象徴」でも無く、人間のクズの集団である。

追記・・例え殺されても自分の命と引き換えに真実を語るのがジャーナリストの仕事である。

天皇に欺かれ売春婦にさせられた数十万人の日本人女性達の無念の人生のために、誰かが真実を語らなければならない。
http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20070607



77. 2012年9月25日 09:35:24 : cGKpiHJaK6
どーでもいいけど、売春婦が好きだね、この人。
なんか頭の中で変な妄想をこねくり回しすぎて、真実味の欠片も無いものになっていることに気がつかなきゃ。


78. 中川隆 2012年9月25日 23:47:00 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

心配しなくても昭和天皇の犯罪記録はいくらでも有るからね:


昭和天皇は主席検事キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った(?)。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2


田中隆吉は、すぐに、主席検事キーナンに親しいボディーガードとなった。二人は、両者に共通するフランス語を使い、田中はバーボンをあたかも「特級酒」ように楽しむことを覚えた。田中が出版した回顧録によれば、キーナンは田中を日本暮らしのガイドのように使った。

もし、キーナンが女性関係を望んだ時は、彼はただ会話に「Je suis fort. (私は強い)」 とだけ言えば、田中は電話をかけてその段取りをととのえた。

実際、田中は何事にも明るく、靴を脱ぐのを嫌うキーナンが、靴のまま畳の間に入り込んでも問題を起こさないような、そんなくつろぎの場をも手配した。キーナンは、アメリカ人将校と日本の上流婦人との間の関係を良しとしていなかった。彼はよく言った。

「私もちょっとしたあそびは好きだが、素人に手を出したりはしない。それはよくない。」
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm

マッカーサーの部下職員の宿泊所として徴用された旧東京記者クラブでは、22人のメイドと電話交換手が、夜、そうした職員の部屋で過ごしているところを発見された。占領後半年までに、少なく見積もっても、半分以上のアメリカ軍将校たちが日本人の愛人を持つと見られていた。

 10月、幣原内閣が発足しようとする頃、特殊慰安協会はその供給について、下士官と将校を分離し、50万人の占領軍全体がすべて同じように魅力的なサービスが受けるのは難しいと強調し始めた。そしてその日より、下士官には下級のホステスバーが、兵卒には「ウィロウ・ラン」となり、上等な老舗旅館は将校向けとなった。つまり、もはやだれもが十分に満足しえるものではなくなっていた。

みごとな庭園を持つ豪奢な別荘の幾つかにはアメリカ式浴室が設けられ、そして人々の視界からは消えた。米軍士官にもっとも人気のあったのは、東京中心部のネオン街にある、招待客のみを受け入れる、プライベートクラブだった。

 そうしたクラブの筆頭が「大安」で、裕仁の弟、海軍大佐の高松宮の親友、安藤明が経営しており、戦時に便乗して暴利を稼いできていた。

トラック運送あるいは建設業界のボスとして、最初の占領軍の着陸に際し、厚木基地のまたたくうちの修復工事を成し遂げて名を売っていたのが安藤だった。

そのクラブ「大安」では、米軍の高級将校に、活発で英語の話せる貴婦人を紹介し、夜ごと、その記念にと、御木本の真珠のネックレスが贈呈されていた。

彼の気前の良い商風は、幾度も彼を倒産の崖淵に追い込んでいたが、地下商売で大当たりを上げては再起していた。そして最後に短期の刑務所暮らしをした後は、引退して安楽な生活を楽しんだ。

 そうしたクラブとは別に、内閣官房楢橋渡や東久邇元首相の別荘では、極めて興味深い享楽が繰り広げられていた。東久邇のパーティーの様は余り記録に残されていないが、楢橋のそれは、見るからに露骨な誘惑そのもので、今日。老いたアメリカ人将軍たちが当時を思い出して顔を赤らめるものとなっている。

楢橋は熱海に別荘をもっていた。熱海の入江や山々、そして名高い温泉やホステスたちと、当地はその持ち味をあえて強調する必要もなく、かつ、楢橋は名うてのもてなし上手だった。その裕福な弁護士は、戦争中、北京で最大かつ最も儲けの良い情報収集源ホテル〔北京飯店〕を経営していた。

その彼の部下の鳥尾〔鶴代〕子爵夫人が、コトニー・ウィットニー准将に仕える将官〔民政局次長チャールス・ケーディス〕の愛人となった。ウィットニーは、連合軍最高司令部民政局を動かし、日本の法制改革の草案作りをしていた。その元ホテル経営者の楢橋は、自分と自分の「貴婦人」たちが、最後にはウィットニーの部下たちすべてを「とりこ」にするだろうと豪語していた。

 性的わいろに加えて、さらに特異な投資機会も存在していた。

マッカーサーの会計担当ハロルド・R・・ルース大佐は、占領軍将兵たちは、毎月、支払われる給料より800万ドルも余計に故国に送金をしているとの報告を行った。

日本人が中国から略奪してきた数々の骨董品は、日本産の秘蔵品とともに、米国へ送られる雑のうの中に入れられていた。

天皇の叔父、東久邇宮自身も骨董業を手がけ、後になって、要職にあるアメリカ軍士官たちに安売りし過ぎて破産したと、よく語っていた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_1.htm



79. 中川隆 2012年9月25日 23:52:32 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM


 『新日本女性に告ぐ!
 戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。女事務員募集。年齢十八歳以上二十五歳まで。宿舎、被服、食糧当方支給。』


 敗戦直後の昭和20年8月22日、この広告が新聞などに張り出される。「新日本女性に告ぐ!」などと勇ましいことを書いているが、これは単なる事務員の募集の求人広告ではない。

 この前日、近衛文麿国務相が「婦女子を性に飢えた占領軍兵士から守る」という狙いのもと「特殊慰安施設協会(RAA)」の設置を決めた。上の広告はこの施設で占領軍相手の売春をする女性を集めるものであった。大抵の女性は、はじめからこれがただの事務の仕事ではないことは気付いていたようだが、中にはやはり単なる事務の仕事だと思って応募してくるものや、慰安とは「歌でも歌えばいい」と思って応募してきた良家の子女もいたと言う。

 この売春施設の目的は性のハケ口を設けることによって、占領軍がレイプ事件などを起こさないためにという「性の防波堤」とも言うべきものであった。が、実際は占領軍によるレイプ事件は日常茶飯事であった。

 さてRAAであるが、東京の大森を皮切りに各地に作られ全盛期にはそこで働く「パンパン」と呼ばれた女性は7万人を数えるようになった。しかしその後占領軍兵士が持ち込んだ性病が蔓延し、GHQは21年3月10日慰安所への兵士の立ち入りを禁止し、RAAは崩壊する。パンパンの彼女たちの多くは私娼となって街で客を求めるようになる。

 そのころ吉原はというと、戦時中に東京大空襲で焼け野原になるも政府の援助によってすぐに復興。そして終戦を迎えると、前述のRAAの慰安施設となる。

 GHQは占領軍のRAAの立ち入りを禁止すると同時に、日本政府に対して公娼廃止を求める。日本政府はこれを受けて公娼を廃止するが、実際は特殊飲食街を指定しその地域内での売春行為は取り締まらないようになった。これが「赤線」の始まりである。

 赤線地帯は吉原や新宿二丁目など戦前は貸座敷があったところが指定され、風俗営業取締法(以下風営法)によって「カフェー喫茶」などが営業されていた。この「カフェー喫茶」であるが、もちろん「喫茶」といってもただ単にお茶を飲むのではない。かつて花魁として働いていた女性が今度は女給という呼称で売春をしていたのである。その後赤線は朝鮮戦争の特需景気により営業する店が急増した。そのころの泊まりの料金は1000〜3000円。

 赤線が一応風営法というかたちで許可をとっていたのに対し、その許可を取らないで売春行為をしていたのが青線である。青線は表向き料理屋の形をとっているが客と交渉が成立したときは店を閉め売春をする。青線のほうが基本的に価格は安く、比較的所得・階層の低い人が利用していたと言う。

 しかし、赤線・青線地帯もやがて崩壊する。昭和33年4月1日売春防止法(以下売防法)が施行される。これはこれまで黙認してきた売春行為を禁止するものであった。なぜこの次期に売防法が公布・施行されたのか。それは日本が国連に加盟するためである。国連は昭和24年「人身売買及び売春行為の搾取禁止のための条約」を決議しており、国連に加盟するためには娼婦をなくすことが必要であったからである。

 売防法について、赤線で働いていた女性は猛反対していた。もし赤線がなくなれば彼女達は生きる術を失うことになる。政府は何も生活の保障や仕事の斡旋などはしてくれない。東京では「東京都女子従業員組合連合会」を結成し、売防法に反対するビラまきなどを行った。

 しかしながら売防法は施行され、そして吉原をはじめとする赤線地帯は消えていったのである。職を失った女性たちは、厚生施設に通い手に職をつけようとした者もいたが、白線・黒線と呼ばれる結婚相談所の形をとった売春組織で働く者もいたし、それ以外の性風俗で働く者もいた。 
http://www.hit-press.jp/column/shakai/shakai26.html


記録には「慰安所が開設されて以降予想通りに大繁盛だった。慰安婦たちは...昨日の敵に自らを売ることに抵抗があり、言語や人種の違いなど彼女達にも最初は大きな戸惑いがあった。しかし彼女達は高額の賃金を受け取り、徐々にその仕事を受け入れるようになった」と書かれている。

 政府の財源で運営された「保養慰安協会」(RAA) の援助の下に、警察と東京の業者は売春宿のネットワークを設立した。1945年8月28日、東京の南隣の厚木へ進駐軍の先行隊が到着、その日の夕暮れまでに軍は最初の売春宿を見つけることになる。

 RAAの情報課長だった鏑木清一氏は「私はRAA幹部と共にそこに急いで向かったが、路上に500-600人の米兵が列を作っているのを見て驚いた。アメリカの自治警察が兵達をコントロール出来ない状態だった」と1972年の回想録でそう書いている。

 警察と民間によって運営されていたとしても、このシステムは戦時中の海外の日本軍によって設立された慰安所を手本にしている。

 鏑木氏はまた「進駐軍の兵は前払いでチケットとコンドームを与えられた」と書いている。最初のRAAの売春宿「小町園 - The Babe Garden」は当初38人の売春婦だったが、必要に迫られててすぐさま100人に増員した。女性一人当たりが一日に15-60人を相手にした。

 アメリカ人の歴史学者ジョン・ダウアー氏の著書『敗北を抱きしめて 第二次大戦後の日本』によると、売春婦との一回が15円で、タバコ一箱の半額であり、「突然の高需要のために売春宿の運営者は、認可された売春婦でない女性をやむなく公募した」とある。

 戦争で身内を失った小町園の滝田ナツエさん (当時19) は、事務職募集広告で応募したが、空いてる唯一の職が慰安婦であると言われ、仕事につくように説得された。1952年の占領終了後に出版された鏑木氏の回想録によると、滝田さんは売春宿開業の数日後に列車に身を投げたとのことだ。「最悪の犠牲者は...『新日本女性』の広告に応募して来た、未経験の女性であった」とダウアー氏は書いている。

 鏑木氏によると、1945年の末までに35万人の米軍が日本に駐留し、米兵のためにRAAは最高時7万人の売春婦を雇っていたとある。そのためにそこに日本人以外の慰安婦が海外から来たと言う説があるが、それに関する明確な証拠はない。

 広島歴史研究所の田中利幸教授は、鏑木氏の提示した数字は根拠に乏しいとしているが、RAAはそのごく一部であり、公式記録に載っていない民間売春業者の数は更に多いであろうとしている。田中氏が発見した記録によると、米駐留軍幹部は、進駐軍の相手をする慰安婦のためにペニシリンを日本政府に提供し、RAAの売春宿のそばに予防施設を作り、兵隊達に使用を許可したとある。

 旧日本軍のための慰安婦と、進駐軍のために募集された慰安婦の類似性を駐留軍幹部は見過ごさなかった。GHQ衛生福祉厚生部のヒュー・マクドナルド上級士官の1945年12月6日の回想録によると、日本の慰安婦はしばしば強要されていたことを米進駐軍は把握していたと言う。「貧困の極致の両親に促され少女は契約を無理強いされた。時には自ら進んで家族のために犠牲になったとあるが、しかしながらそれは情報提供者の主観であり、かつてよりは一般的ではなくなったにせよ、都市部では少女の奴隷化の習慣はまだ存在している」と書いている。


RAAの崩壊

 従軍牧師達の苦情と、売春宿の発覚が米国に帰国後の進駐軍に不名誉となる懸念から、1946年3月25日、マッカーサーは全ての売春宿や慰安所その他の売春所への立ち入り禁止を指令し、間もなくRAAは解散した。

 マッカーサーの主な心配事はモラルの問題ではなかった。田中氏によると、進駐軍の米兵の1/4以上がその時点までに性病に感染していたとのことだ。「全国規模の立ち入り禁止令は、15万人以上の日本人女性を突然失職させた」と田中氏は2002年の性奴隷に関する著書でそのように書いている。元慰安婦の大半が兵士相手の違法ビジネスを続けたが、その多くが性病を持ち貧困であったとある。
http://redfox2667.blog111.fc2.com/?mode=m&no=2

これで昭和天皇の本職が売春婦斡旋業だというのが良くわかったろ。

日本女性ですら騙して売り飛ばす昭和天皇が、朝鮮の少女だけ大切に守る訳無いだろ。


80. 2012年9月26日 01:07:08 : Lermtj3sZM
ずいぶん長文を書いているけど、「私未亡人です。お金あげます」のスパムメールぐらいの信憑性しか感じられないよな。
いくらでもあるのは「オタクの下品な妄想」だね。

81. 中川隆 2012年9月26日 19:57:24 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

阿修羅に来るB層君は時代から20年は遅れてるね。 これが現在の常識:

『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)より抜粋・引用します。

高校教科書『新詳説・日本史』の一節から引用する。

「日本の商社活動が活発となり、横浜正金銀行が積極的な貿易金融を行った。(略)また、海運業奨励政策によって、日本郵船会社などの手で、次々と遠洋航路がひらかれていった。(注)日本郵船会社は、三菱会社と半官半民の共同運輸会社との合併によって1885年に設立され、1893年にはボンベイ航路、1899年にはヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアへの各航路がひらいた。」

日本郵船の大株主は天皇家と三菱財閥であった。アメリカへ大量の移民を運んだのは、この日本郵船の船であった。

中略

天皇家と日本郵船の深い関係は、明治時代から続いていた。この会社の船で娼婦たちが海外に「進出」させられた。詳しくは山田盟子の『ウサギたちが渡った断魂橋』に書かれている。

日本の偉人中の偉人と評価の高い福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」(『福沢諭吉全集』第十五巻)と主張した。娼婦を送り出す船会社が、天皇家と三菱に大いなる利益をもたらすということを計算したうえでの「得策なれ」の主張であった。

「至尊の位と至強の力を一に合して、人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯してその方向を定る」

福沢諭吉の思想は当時の天皇家に迎えられた。

中略

至尊の位(天皇)と至強の力(三菱)を一に合して、日本郵船は発展していった。

中略

日露戦争後、アメリカ移民が増えていった。1908年ごろには、約十万人の移民がアメリカにいた。

1901年、共産主義者の片山潜は、小冊子『渡米案内』を発行した。一週間に二千部売れるほどの当時では大ベストセラーとなった。

中略

片山は、アメリカでの移民生活をベタほめした。日露戦争のころ、アメリカに行くのに約二百五十円の大金が要った。現在、日本に密入国しようとする中国人が、中国マフィア(蛇頭)に支払うくらいの金額だった。やっとアメリカに渡ったものの、新聞や雑誌や『渡米案内』の甘言広告とは違い、辛酸の極みの生活が移民を待っていた。男たちは鉄路の重労働やタマネギ畑で働かされ、女たちのほとんどは娼婦の館にほうり込まれた。このときの莫大な金は、福沢が言う「至尊の位と至強の力」すなわち、皇室と三菱の懐に入った。

片山潜は、天皇が支配(大株主)する横浜正金銀行(旧東京銀行の前身)から金を貰って生活していた。当時の日本共産党幹部たちが、ニューヨーク、ロンドン、モスクワと流れていったが、そのほとんどの金は、この銀行が出したのである。元社会党委員長鈴木茂三郎もこの銀行から金を貰った一人である。

同じ手口を皇室と三菱は考えた。ペルシャ(イラン)からアヘンの輸入であった。皇室と三菱は、三井も仲間に入れることにした。三井を入れなければ内乱が起きる可能性があったからだ。三井と三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国はこのアヘンの金でできた。

天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。厚生省という組織に、昭和天皇は木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。1938年12月に興亜院がつくられ、阿片政策を統括した。その翌年から「土薬公司」ができた。日本でもケシ栽培をし、朝鮮に送り込んだ。中国でも熱河省でケシ栽培をした。この利益も皇室の財産の形成に大きく貢献した。阿片政策はこの辺にしたい。

多くの軍人たちが、三菱と三井のアヘンの利益の一部を貰って遊興にあけくれた。マーク・ゲインは『ニッポン日記』の中で1946年3月28日の出来事を書いている。

「東条が自殺を企てたその家は、岩崎家からの贈物で、東条一家には三菱財閥の情深い当主から現金、株券その他で一千万円の額があるという報道が行なわれた。」

http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825#1156452744


82. 2012年9月27日 02:32:00 : CNYSwv45XM
おいニダよくみとけ

http://www.youtube.com/watch?v=bW7BxpUkCoM


83. 2012年9月27日 23:40:22 : sq3PF54m4g
都合の良いソースを列挙して、「これが真実だ」ってな物言いする連中って、
ソース自体の信憑性に付いては調べないんだよな。

そんなのは単にパーツの並べ替えだよ。


84. 2012年9月27日 23:51:30 : HNPlrBDYLM

慰安婦が起こした裁判では強制連行が有った事自体は認めている。

それが日本政府の公式見解だという事さ。


85. 2012年9月28日 00:26:28 : kzC4Ayrgl6
>阿修羅に来るB層君は時代から20年は遅れてるね。 これが現在の常識:

昔を知る世代からすれば、まあ何というか非常に懐かしいタイプの「デマ」なんだよな。

30〜50年前はマスコミや出版界に中共や北朝鮮とかの工作員がそうとう浸透していたらしく、ずいぶん日本皇軍やら戦前の財閥の「旧悪を曝いて」いたんだよ。
そんで、その一方では「理想国家建設に邁進する中国や北朝鮮」も褒め称えていて、純真な少年だったオイラはずいぶん信じ込まされていたっけ。

理想国家だったはずの中国や北朝鮮の化けの皮は最早すっかり剥がれているよな。
そう、曝かれたはずの旧悪ももちろん真実とは遠くかけ離れたもの、つまり嘘やデマでしかなかったわけで‥

ま、このスレの話は極端に荒唐無稽で下劣なんで、今のご時世、騙される人間はまずいないだろう。


86. 2012年9月28日 08:03:34 : HNPlrBDYLM

日本の裁判官は全員、日本軍が慰安婦を強制連行した事を正しいと認定している。

素人が出る幕は無いだろ。


87. 2012年9月28日 13:18:27 : kzC4Ayrgl6
なんだろ。この芸のなさは‥
かけらも真実の無いことを断定しても、信憑性は無いぞ。

88. 中川隆 2012年9月28日 19:39:18 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

軍人さんが強制連行した事をペラペラ話しちゃったんだから、今更否定するのは無理だよ:


従軍慰安婦強制連行 白馬事件


   現在、国際的に「従軍慰安婦」関係の責任者処罰が問題になっています
が、過去にグアム島やジャワ島などでは「従軍慰安婦」の関係者である日本軍
人や民間人が処罰されたケースがありました。中でもジャワ島での事件は規模
も大きく、別名「白馬事件」とも呼ばれていました。今回はこれらを紹介しま
す。

   最近、この裁判記録が発掘(92.7.21 朝日)され、ついでオランダ政府
の報告書(94.1.24 )が公表されました。さらに慰安婦にされたオランダ女性
の手記が発表され、その全容がかなり明らかになりました(オフェルネ著「レ
イプされた女の叫び」、『福音宣教』47巻5号、1993年5月)。

   ことの始まりは日本軍のジャワ島占領にさかのぼります。占領後、日本
軍は旧宗主国のオランダ人などヨーロッパ系住民を敵国人として抑留所に拘束
しました。

   そのかたわら、日本軍はここの占領地でも慰安所を設けました。しかし
「性病管理がなされている軍慰安所」の数が不足気味だったためか「駐屯軍に
性病が広がって」しまいました。

   また一方、占領地では例によって「駐屯軍の住民に対する行為がすでに
住民の反感を買って」いたため(裁判記録)、日本軍は新たに本格的な軍慰安
所を1944年2月に設けました。場所はジャワ島中部の州都スマランです。
   日本軍はこの軍慰安所開設に必要な慰安婦を集めるのですが、その対象
として手っ取り早く目をつけたのが抑留しているオランダ人女性でした。その
際、軍司令部は自由意志の慰安婦だけ雇うように指示を出しましたが、それに
反して、担当の南方軍幹部候補生隊は17歳以上の女性を無理やり連行してし
まいました。

その連行された一人が、先ほどの手記を書いたオフェルネさんです。彼
女は修道女になるためにフランシスコ会の教育大学で学んでいるとき、抑留所
に拘束されました。

   彼女によれば、抑留所は悪臭・汚物・ネズミ・下水などにまみれるなど
環境は劣悪で、その上、飢え・暴力・病気、さらには重労働が横行するひどい
所でした。

さて、強制連行された彼女たちは、すぐ慰安所に送られました。そこの
食堂で恐怖にうち震え泣き叫んでいた少女たちはやがて一人ずつ無理矢理引き
ずり出されていきました。彼女たちは激しく抵抗しましたが屈強な軍人たちの
力には到底かなうはずがありません。

   オフェルネさんも自分の番が来たとき、激しくもがき抵抗しました。し
かし「蹴っても、叫んでも、抵抗しても無駄」でした。そうした彼女の「反抗」
に業を煮やした軍人は刀を抜いて彼女の身体に突きつけ、彼女を裸にし、刀で
身体を撫でまわしました。

   こうした人間を世間ではよく「ケダモノ」と言いますが、これは適当で
はないと思います。ケダモノは強姦はしません。相手が合意しないと最終的に
はあきらめます。ケダモノは人間のようにレイプなどの恥ずべき行為は決して
しません。

  余談はさておき、ここの軍慰安所にいたヨーロッパ系の女性2ー300
人中少なくとも65名は「売春を強制された」とオランダ政府報告書は結論づ
けました。

   ところで、この軍慰安所はわずか2ヶ月で閉鎖になりました。閉鎖は、
この慰安所に娘をとられた抑留所のリーダーのねばり強い努力のたまものです。
たまたま視察に来た日本陸軍省の大佐に彼が直訴したのが功を奏しました。し
かし、このときは関係者の処罰は行われませんでした。日本軍の明確な指令違
反は黙認されたままでした。兵士たちに性のはけ口を提供するという行為は当
時にあっては戦意高揚のために軍律違反でも容認されたものと思われます。

   しかし、こうした日本軍本位の行為は国際的に許されるはずはありませ
ん。終戦後、関係者の軍事裁判がオランダにより1948年バタビヤで開かれ
ました。中心人物の陸軍少佐が死刑になった他、10人が懲役刑になりました。
しかし、裁判ではアジア人慰安婦に対する罪は裁かれませんでした。あくまで
もオランダ人などヨーロッパ系の女性に対する罪のみを対象にしました。(吉
見著「従軍慰安婦」、岩波新書 1995)


   インドネシア人や朝鮮人慰安婦に対する罪まで範囲を広げると問題が大
きくなり過ぎるため自制したのでしょうか。それとも、自国民の権益しか眼中
になくアジア人を軽視したためでしょうか。ちょっと惜しい機会を逃したよう
です。

   他方、グアム島での裁判資料は、95年11月に「朝鮮人強制連行真相
調査団」によりアメリカの国立公文書館で発見されました。その記録によると、
処罰されたのは日系の民間人で、当時、日本軍が占領していたグアム島で19
42年2月、現地の女性二人に

「本人の同意を得ることなく売春を強制した」

というものでした。この被告は反逆罪にも問われており判決は死刑でした。

   これに対応する関連資料が法務省で発見されました。それによると同被
告の起訴理由は「婦女を慰安婦として日本軍にあっせんした」と記され、慰安
婦の強制が日本軍のためであったことが確認されています(共同通信ニュース
速報、95.11.27)。
http://www.han.org/a/half-moon/hm011.html#No.108


89. 2012年9月28日 20:01:35 : HNPlrBDYLM

『軍司令部は自由意志の慰安婦だけ雇うように指示を出しましたが、それに
反して、担当の南方軍幹部候補生隊は17歳以上の女性を無理やり連行してし
まいました。』

要するに、強制連行が昭和天皇の指示だというのがわかると後で問題になるので、担当の南方軍幹部候補生隊に自己責任で強制連行しろと命令したという意味でしょう。


慰安婦にされた女性たち−オランダ
 


 旧オランダ領東インドは今日のインドネシアです。太平洋戦争で、日本軍はこの地を1942年に占領し、オランダ人を抑留・捕虜にしました。民間人9万人、軍人4万人が収容所にいれられたのです。

 一部の日本軍関係者は、収容所に抑留されたオランダ人女性と混血女性を慰安所に強制的に連行して、そこで日本の将兵に対する性的奉仕を強いました。その代表的な事例がスマラン慰安婦事件です。基金の資料委員会の報告書に収められた論文によれば、1944年初頭中部ジャワのアンバラワとスマランにあったアンバラワ第4または第6収容所、アンバラワ第9収容所、ハルマヘラ収容所、ゲンダンガン収容所からオランダ人と混血女性約35人が連行され慰安婦にされました。これを推進したのは南方軍幹部候補生隊の将校たちでした。
 

 アンバラワ第4または第6の収容所から連行された女性の証言によると、ここでは、1944年2月23日、収容所中庭に17歳から28歳までの女性全員が並ばされ、その後1人づつ収容所事務所に出頭させられました。翌24日、20人が事務所に呼び出されました。その上で2月26日、17人が選び出され、スマラン市内の建物に連れて行かれ、同意書に署名を強要されました。同意書は日本語で書かれていましたので、署名した人には何もわかりませんでした。ハルマヘラ収容所では、11人が連行されましたが、3名が返されました。ゲンダンガン収容所では、年上の女性たちが志願することで、若い女性たちが選ばれるのを免れたようです。約35人の女性は、2月26日ないしはその2−3日後、スマラン市内の4箇所の慰安所に送り込まれたのです。それは、日の丸、青雲荘(または双葉荘)、スマラン倶楽部、将校倶楽部の4つです。

 これらの収容所以外では、オランダ人側が強く抵抗し、若い女性たちが連行されるのを防いだということが知られています。
 スマランの事件は、東京から収容所を視察に来た将校が、オランダ人から訴えをうけ、女性たちが意思に反して慰安婦にさせられていることを知って、報告したことで、軍上層部が知るところとなりました。ジャカルタの軍司令部の命令で、慰安所は営業開始2ヶ月で閉鎖され、女性たちは解放されました。しかし、慰安所のいくつかはその後混血女性を使って同じ場所で再開されました。

 これより先、1943年12月ないし44年1月には、同じ中部ジャワのムンティラン女子収容所からも、日本軍関係者はマゲランにある慰安所に女性を集める行動に出ていました。収容所のオランダ人リーダーにバーで働くのにふさわしい若い娘の名簿を作成させました。1月25日、日本人はこの名簿の女性たちを集めて、身体検査をし、15名を選び出し、連行しました。しかし、オランダ人側が強く抵抗したため、日本側は身代わりになる志願者を出すようにいい、その結果、元売春婦であったという評判の女性たちが志願しました。再選考がおこなわれて、13人が慰安所に送られたのです。

 戦後、収容所のオランダ人を強制的に慰安所に連行していった日本軍将校たちはBC級戦犯裁判で裁かれました。1948年2月14日バタビヤ臨時軍法会議はスマラン慰安婦事件の被告13人のうち、岡田陸軍少佐に対して死刑、11人に最高20年、最低2年の禁固刑を言い渡しました。ムンティランの事例は検察側が訴追しようとしましたが、成功せず、不問に付されました。

 オランダ政府は1993年に「日本占領下オランダ領東インドにおけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告」を出しています。(全文はこちら)それによると、日本軍の慰安所で働いていたオランダ人女性は200人から300人に上るが、うち65人は売春を強制されたことは「絶対確実である」とのことです。

http://www.awf.or.jp/1/netherlands.html


90. 2012年9月28日 20:05:45 : HNPlrBDYLM

憲兵が連行、売春強制 慰安婦でオランダ新史料 '07/5/11

 【ベルリン11日共同】太平洋戦争時の従軍慰安婦問題で、日本占領下のインドネシアで憲兵らが直接、女性を連行して慰安所で売春を強制したことを記述
したオランダ政府の公文書が十日までに見つかった。旧日本軍による「狭義の強制性」を否定した安倍晋三首相の発言の矛盾を裏付ける新史料として注目され
る。

 公文書は、戦争犯罪問題を調査しているベルリン在住ジャーナリストの梶村太一郎氏が入手した未公開の約三十点。一九四四年にインドネシアのマゲランや
フロレス島で起きた集団売春強要事件の被害者の宣誓証人尋問調書に記述されていた。マゲランの事件についてはオランダ政府報告書が「最も悪名高い事件」
と指摘している。

 マゲランの事件に関し、東京裁判に証拠として提出された四六年五月の調書では、当時二十七歳のオランダ人女性が、憲兵に衣服をはぎ取られ慰安所に連行
されたと証言。抵抗したが手も足も出ず、売春させられたとしている。

 女性抑留所に収容されていた目撃者の四八年三月の調書によると、抑留所を訪れた日本人が少女らを病人に仕立てて診療所に収容するよう指示。そこで選ば
れた少女らが慰安所に連行され売春を強要されたと、この目撃者は詳細に証言した。

 梶村氏は「被害者は連行され売春させられており、安倍首相の言う『狭義の強制性』の典型的な例だ」としている。


ーーーーーーーーーーーーーーーー
TBS
http://news.tbs.co.jp/part_news/part_news3559706.html
ページ更新時間:2007年05月11日(金) 07時08分
オランダ人慰安婦、被害者証言明らかに


 第2次大戦中、日本占領下のインドネシアで、オランダ人女性らが軍の慰安婦とされた問題で、戦後、被害者が裁判で証言した内容などが明らかになりまし
た。  これはドイツ・ベルリンに住むジャーナリスト、梶村太一郎さんらの調査で明らかになったものです。

 梶村さんらは、1944年、日本占領下だったインドネシアのフローレス島にオランダ人女性らが連行され、慰安所で売春婦として働かされた事件などにつ
いて調べていました。

 インドネシアでの慰安婦問題は、戦後、オランダ軍による戦犯裁判の記録などから概要は知られていましたが、今回、初めて被害者の尋問調書の内容が明ら
かになったということです。

 その中には、健康診断という名目で若い女性が集められ、そのうちの17人が軍の慰安所に強制連行されたこと、また、1週間で100人の兵士の相手をし
ないと捕まって殴られたなどという証言もあり、梶村さんらは「軍による強制売春だったことをさらに裏付ける史料だ」と話しています。(11日05:
12)
http://blog.goo.ne.jp/arai647/e/276b210e841f80912301b4ac2aba3783


91. 中川隆 2012年9月29日 11:57:58 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

「わたしの友人オヘルンの写真があそこにあるね。本当に勇気のある友人だった」

今月8日、オランダのハーグで開幕した「韓国・オランダ・ドイツ性奴隷展」(北東アジア歴史財団主催)を訪れたブルーフさん(86)は、旧日本軍の元慰安婦だ。日本軍がオランダの植民地だったインドネシアを占領した1942年春、ブルーフさんの家族はジャワ島中部のスマランにあった収容所へ連行された。それから2年後のある日、日本軍は

「病院や事務所で働く事務員を募集」するとして、若い女性30人を選んだ。

ブルーフさんはほかの女性14人とともに、上流階級の居住地区にある「仕事場」へ連れて行かれた。そこは日本軍の将官のための公娼街だった。

60年余り前のことだが、ブルーフさんはこの経験を忘れていない。

「日本軍にとっては快楽を求める場所だったが、わたしには恐怖と悲しみ、恥辱(ちじょく)が満ちた地獄以外の何物でもなかった」。

彼女は反抗する意欲も無くし、ただ早く無傷で解放されることを祈るだけだったという。3カ月後、ようやく解放され収容所へ戻った彼女は、着ていた服を収容所へ戻るバスの窓から投げ捨てたという。「自分の体を汚された」というのがその理由だった。

ブルーフさんは長い間、日本軍の慰安婦だったことを誰にも話さなかった。

90年代に入り、まず韓国の元慰安婦たちが立ち上がり、オランダでも友人のオヘルンさんが口を開いたことで、ブルーフさんも勇気を出し告白した。ブルーフさんはオランダの「対日道義的債務基金」(SJE)の助けを借りて証言集を発行し、日本の戦争責任の認定や補償を求める裁判に証人として出廷した。オランダ人の元慰安婦は約300人とされ、このうち10人ほどが生存している。

「日本の人々が過去を反省し、責任を認めることに消極的な様子を見ていると、怒りを覚える」。ブルーフさんは澄んだ目で「わたしが体験した悲劇を繰り返さないためにも、日本が犯した罪について若い世代へ伝えていきたい」と語った。
http://blog.livedoor.jp/newskorea/archives/895782.html

2007/2/9

米国下院外交委員会アジア太平洋地球環境小委が15日、下院で日本軍従軍慰安婦聴聞会を開く。

第2次世界大戦当時、慰安婦として連行されたオランダ人女性が証人として出る。オーストラリアに住むヤーン・ルーフオヘルンさん(84)が主人公だ。彼女は「慰安婦問題に対して日本政府が公開で謝罪しなければならないという内容の慰安婦決議案が米国下院で成立してほしい」とし、下院外交委の証人出席要請を快諾した。



「あのとき、あの恐怖、絶対忘れない」

ヤーンさんは1941年12月、日本が太平洋戦争を起こしたとき、オランダ領東インド諸島(インドネシア)ジャワ島に暮らしていた。日本軍は4カ月後、ジャワを占領し、ヤーンさんの家族を含むオランダ人たちを収容所に入れた。そして2年後21歳のヤーンさんを含むオランダ人女性100人をジャカルタ南ボゴールに連行した。そこで彼女らは日本軍の性の奴隷になるという話を聞いて驚愕した。

ヤーンさんは2001年、オーストラリアABC放送とのインタビューで

「あのとき、私たちが『ジュネーブ協定違反』と叫ぶと日本軍はにやにや笑った」

と回想した。ヤーンさんらはそのとき、日本式の名前を1人ずつ与えられた。ヤーンさんには何かの花の名前が付けられたが、記憶から消してしまった。彼女は過去を隠して暮らした時代、花が嫌いだった。慰安婦生活を思い浮かべるからだ。英語が分からなかった2人の娘に、誕生日のプレゼントとして花をくれると言われても素直に笑えなかった。ヤーンさんは慰安所に入ってから少し立って髪の毛をすべて刈ってしまった。

「はげ頭のように見えれば日本軍が嫌がるだろう」

と思ったからだ。しかし日本軍はそんな姿にもっと好奇心を感じたようだと彼女はABC放送で明らかにした。それとともに

「あのときのあの恐怖を絶対忘れることができない」と話した。

ヤーンさんは92年、慰安婦出身韓国人女性3人が日本政府に公開謝罪を要求したのをテレビで見て、自分も過去を明らかにして闘争しなくちゃいけないと決心した。それで同じ年の12月、東京で開かれた日本の戦争犯罪聴聞会に出て証言した。



「証言でおびただしい反響起こす」


ヤーンさんはオーストラリアの放送で

「日本は私たちが死ぬことを願っているが、私は日本政府が慰安婦被害者たちに謝罪と補償をするまで闘争する」

と言った。そんな彼女が米下院で証言すれば波紋は大きく広がるだろう。下院のある関係者は8日

「ヤーンさんと韓国人キム・クンジャ、イ・ヨンスさんが証言すれば米国人は『当時の日本軍はそれほど残忍だったのか』と思うだろう」とし「彼女らの証言で慰安婦決議案の下院成立の可能性は高くなる」と話している。
http://japanese.joins.com/article/460/84460.html?sectcode=&servcode=500

1944年2月、オランダ領東インド(インドネシア)で起りました。事件の首謀者として死刑となった岡田慶治少佐の「青壮日記」と題した獄中日記によれば、州庁で希望者を募って慰安所を作ろうという構想を聞いた熊崎中将が、宮野スラマン州長官に話をつけたと切り出す。熊崎中将がジャカルタの第16軍当局から本人の許諾を条件に構想の認可を得て計画を策定し、岡田は上官の池田大佐や大久保大佐に命じられ実施面を担当したのでした。。

 岡田は、州庁が作成した希望者名簿を元に数ヵ所のオランダ人抑留所から35人の女性を連れだし、1944年3月1日、将校用の慰安所を開設した。岡田は、希望者を慰安婦にしたのであって強制連行したのではないと裁判において主張しています。。

 しかし、裁判記録によれば、女性たちは「強制連行だった」と証言し、ある抑留所では、リーダーが抵抗して徴集を断念した事例が挙げられてもいます。また、自殺した大久保大佐が、岡田には「若干、強引な言動があった」と遺書に書き記しているのも決定的です。

 岡田は、州庁の杜撰な希望名簿を信じて「手違い」が生じたのを、独断先行による「強引な言動」で埋め合わせたのかも知れない。しかし、オランダ人慰安婦たちが戦後、対日協力者のレッテルを張られるのを恐れて告発に回ったとも考えられます。

 なお、この裁判は杜撰な点も多く、例えば、その「強制連行」があったとされる期間、東京に出張して不在だった池田省三大佐は、シオウテンという名の検察官らに拷問を加えられて発狂させられたあげく起訴されて、「懲役15年」の判決を受けている。この戦犯裁判は敗者に対する報復裁判の色合いが濃いと言えましょう。

 この慰安所はわずか2ヶ月後、第16軍当局の命令で閉鎖となっています。この理由を、94年のオランダ政府報告書は、

「娘を取られた抑留所の親が視察に来た陸軍省の大佐に直訴したため」

と説明しています。しかし、当時第16軍当局で勤務していた鈴木博史大尉は、

「慰安所でひどい悲鳴が聞こえるとの話を聞きこみ、山本第16軍参謀長へ伝えると、山本は『まずい、すぐ止めさせろ』と怒り、翌日に閉鎖命令が出た」

と回想しています。どちらにしても、すでに裁判は終結しており、関係者は処罰されています。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4069300.html

オランダの軍事裁判の報告を調査した吉見義明によれば、

当時スマランには既に慰安所があったが、性病の蔓延から新たな慰安所の設置が計画された。慰安所設置を要請された幹部候補生隊長は、慰安所には自由意思の者だけ雇うようにというジャカルタの第16軍司令部のガイドラインを無視した。(ガイドラインは未発見であるが証言やスマトラの第25軍の類似の通達からそのように考えられている。)

複数の将校と慰安所業者は、ハルマヘラ抑留所、アンバラワ抑留所、ゲダンガン抑留所から17歳から28歳の合計35人のオランダ人女性を強制的に集め、スマラン市内のカナリ通りの建物で日本語で書いた趣旨書への署名を強制した後、スマランの4つの慰安所(将校倶楽部、スマラン倶楽部、日の丸倶楽部、青雲荘)に連行した。


3月1日から営業を始め、女性達は毎日強姦された。給料は払われず、暴行され、その上、性病を移された者、妊娠した者がいる。週に1度医師の身体検査があったが、充分な治療はほとんど行われず、医師が強姦することさえあった。

しかし自分の娘を連れ去られたオランダ人リーダーが、陸軍省俘虜部から抑留所視察に来た小田島董大佐に訴え、同大佐の勧告により16軍司令部は、1944年4月末に4箇所の慰安所を閉鎖した。(小田島大佐の視察は、事件と前後して抑留所の管理が軍政監部から現地軍司令部に移管したためのものである。)しかしながら、日本軍は、当事者を軍法会議にかける事も処罰も行なわなかった。

終戦後の1948年、バタビア臨時軍法会議でBC級戦犯として11人が有罪とされた。罪名は強制連行、強制売春(婦女子強制売淫)、強姦である。有罪者は、軍人および慰安所を経営していた日本人業者等であり、責任者である岡田慶治陸軍少佐には死刑が宣告された。また、中心的役割をはたしたと目される広島県生まれの陸軍大佐は戦後、日本に帰っていたが軍法会議の終了前に自殺した。裁判では、慰安婦にされた35人のうち25名が強制だったと認定された)。


としている。

一方、オランダ人女性の強力な抵抗により若い女性が連行されることを防いだ抑留所(スモウォノ・バンコン・ランペルサリ)もあった。年上の女性たちが志願することで、若い女性が助かった事例もあった。また、以前に日本人と関係があった「道徳観念に乏しい」女性達のリストを作り若い女性の身代わりとさせたケース等もあり、これらの身代わりとなった女性は「志願者」と呼ばれた(この件では戦犯裁判で無罪)。

1994年のオランダ政府の報告書では、インドネシア各地の慰安所で働いていた200〜300人のオランダ人女性のうち少なくとも65人は絶対確実に(most certainly)強制売春の犠牲者だったとされている。

1990年に対日道義的債務基金(JES)が結成され、日本政府に対し、その法的道義的責任を認めて一人当たり約2万ドルの補償を支払うよう求める運動が始まった。これに対し日本政府は、アジア女性基金により総額2億5500万円の医療福祉支援を個人に対して実施し、2001年オランダ人女性に対する「償い事業」を「終了」した。

しかし2007年、オランダ議会下院で、日本政府に対し「慰安婦」問題で元慰安婦への謝罪と補償などを求める慰安婦問題謝罪要求決議がなされた。2008年に訪日したマキシム・フェルハーヘン外相は「法的には解決済みだが、被害者感情は強く、60年以上たった今も戦争の傷は生々しい。オランダ議会・政府は日本当局に追加的な意思表示を求める」[9]と述べ、日本側の償い事業の継続を求めた。

また同2007年、米国議会での慰安婦聴聞会にこの事件の被害者・証人としてたったジャン・ラフ・オハーンは、 当時19歳だった42年、日本軍占領後、収容所に入れられ、

「日本式の花の名前が入った名前を付けられ、髪が薄い日本軍将校が待つ部屋に連れて行かれた。 彼は刀を抜いて‘殺す’と脅した後、服を破り、最も残忍に私を強姦した。その夜は何度強姦されたか分からない」

「一緒に連行されたオランダ人少女らと3年半、毎日こうした蛮行にあい、飢えて苦しみ、獣のような生活をした」

と証言し、

「日本は95年にアジア慰安婦財団を作って私的な補償をしたというが、これは慰安婦に対する侮辱」とも主張。

「日本は政府レベルで残虐行為を認め、行動で謝罪を立証しなければならず、後世に正しい歴史を教えなければならない」と求めた。

「日本人は私たちが死ぬのを待っているが、私は死なない」とし、日本が正式に謝罪するまで闘争を続けるとした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%A6%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6


オランダ人慰安婦
http://www.youtube.com/watch?v=FA84tRAG-i0
http://www.youtube.com/watch?v=Bm-QIRhtq-M
http://www.youtube.com/watch?v=EOTNQfS23zY

ネトウヨはいつも「慰安婦はただの朝鮮人の売春婦だったDEATH〜〜www」なんて言ってますが、皆さんは韓国だけでなく台湾でも対日非難決議が採択されたことを知って­ます?

台湾だけでなく中国もフィリピンも東南アジア諸国もオランダも欧米諸国もみんな日本の従軍慰安婦問題を非難しています。なぜならこれらの諸国の女性たちも日本軍性奴隷にさ­れてしまったのが事実なのですから。この時点で既にネトウヨの言う「日本軍慰安婦=朝鮮の妓生」論は破綻していますね。

良識派の皆さんや韓国の皆さんも、さも韓国人女性だけが日本軍慰安婦にされていたかのような誤解を与える言及の仕方をするのは色々な意味でやめましょう。

しかしながら、この期に及んでも都合の悪いことは見えないふり、聞こえないふりしてスルーするのが毎度お馴染みのネトウヨ・クオリティ。それなのに「俺たちは歴史の真実を­知っているDEATH〜〜〜wwwww」とかぬかすのは全く片腹痛いですね。ネットで幅を利かせる「Japanese nationalism」がいかに病理に満ちているのかがわかるようですね。

こういうネトウヨみたいなのがいつまでも日本でデカい顔してのさばっているから中国や韓国が反日をやめようとしないのがわからないのかなあ。今後、もし台湾や東南アジア諸­国までもが忘れかけていた反日感情をまた思い出したりしたらネトウヨや右翼言論人のせいだな。

以下、ネトウヨがどうしても直視できない現実についてのリンクをいくつか紹介。都合の悪い相手を「在日」と思い込まなければ正気を保てない人たちにはあまりにも残酷な現実­でしょうね。

台湾、慰安婦で日本に謝罪要求 - 立法院が決議
http://www.47news.jp/CN/200811/CN2008111101000463.html

憲兵が連行、売春強制 - 慰安婦でオランダ新史料
http://www.47news.jp/CN/200705/CN2007051101000223.html

各国の対日「慰安婦」決議
http://space.geocities.jp/ml1alt2/data/data5/data5-09.htm

ネット右翼の妄言録
http://www.geocities.jp/ondorion/now/mougen.html

ネットウヨのガセビアを指摘するスレ その5
http://yy31.kakiko.com/test/read.cgi/x51pace/1172996871/

ネトウヨがよくばら撒いている嫌韓コピペのデタラメを指摘。「在日の生活保護がどうたら」とか「日本統治時代の朝鮮の人口がどうたら」とか「ごくごく一部の抵抗はあったが­上から下までみんな日本に憧れ、日本人になろうとしたのだ〜」とか。
http://www.geocities.jp/ponnitisuki/copipe.html

ちなみにネトウヨの南京大虐殺否定論がどれほどインチキなのかを検証してくれるサイトはこちら。
http://wiki.livedoor.jp/nankingfaq/
http://ameblo.jp/scopedog/entry-10053587358.html


【ネトウヨ涙目】もはや誤魔化せない従軍慰安婦問題の真実
http://www.youtube.com/watch?v=f3YMripanwI


92. 2012年9月29日 12:13:13 : HNPlrBDYLM

事態がこうなってしまったらもうこれ位はやらないと、日本はアジアから抹殺されるね:


1.昭和天皇の墓を暴いて、遺体を火炙りにする。

2.天皇制を廃絶

3.皇室財産をすべて没収してアジアの被害者に分配


93. 2012年9月30日 22:11:48 : BnZEbGDBC6

中川隆は 慰安婦捏造に躍起な在日団体や韓国団体から金をもらって工作コメントをしているようです♪


容量が無駄なので朝日新聞同様書き込み規制すべきではないでしょうか?


94. 2012年10月04日 16:14:59 : ENeexxnZrs
民潭の同士のみなさん活動ごくろうさまです。この調子で日本をもっと貶めましょう。証拠はなくても大丈夫。あったことは事実なんです。証拠はいらない。
生意気な日本人を懲らしめるのは、みなさんの義務です。
在日帰化組の国会議員の先生達も頑張っています。朝鮮系の企業も日本転覆に尽力してくれています。
日本のマスコミも朝鮮企業電通のコントロールで思うがままです。
パチンコ屋がCMやめるぞ!と脅すだけでテレビ局は震え上がります。
このチャンスを生かして、日本を衰退させましょう。
テレビのコメンテーターもこっち側の在日多数で間抜けな日本人を、洗脳できます。在日同胞の地道な努力がやっと実を結ぶ時がきました。

95. 中川隆 2012年10月14日 03:02:25 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

東ティモールにおける日本軍性奴隷制


 四半世紀にわたるインドネシア支配の陰で、封印されてきたもうひとつのの占領の記憶がある。それは1942年2月から1945年8月までの日本軍占領期の歴史、特に「慰安婦」という名の性奴隷にされた東ティモール人女性の体験である。

■証言

 1942年から1945年の間に慰安所はポルトガル領ティモール全土に設置された。関係者の証言や東ティモールに駐留した部隊の記録によって現在までに確認された慰安所の所在地は、ボボナロのメモ村、ウアタ村、マロボ村、オアト村、バウカウのティリロロ村、アイレウ、サメのキラス、クレディリ、アラス、オッス、バギア、アビス、ラウテンそしてディリである。

日本軍は、リウライと呼ばれる伝統社会の王や村長に命じて少女や女性を集めさせた。彼らは反抗すれば殺されると脅された。また多くの住民が日本軍の治安管理を助ける「ポムベラ」として使われた。 

◇エスメラルダ・ボエさんの話

 ある日、私が兄と畑でタピオカを収穫していると、日本軍の兵士が5人やってきて、何か言いあいながら私の腕を取り、首を締め、彼らの家に引きずっていった。そこからシモムラ(Shimomura)という司令官の家に連れていかれ、そこで私はシモムラに強姦された。私はその後解放されて家に戻り、両親に自分の身に何が起きたか告げた。両親は村長に相談した。村長は両親を「逆らうと殺される」と諭した。当時私は12、3歳ぐらいで初潮もむかえてなかった。

 それから夕方になるとシモムラがやって来て、私を家に連れていき強姦した。こうして約2年間私はシモムラの相手をさせられた。シモムラが去るとシモムラと同じ家にいたカワノ(Khawano)の相手をさせられた。カワノの次はハルカ(Haruka)だった。兵舎にいる一般の兵士のために女性たちが連れて来られているのも見たが、別の村の女性たちなので誰が誰かわからなかった。

 性の相手をさせられる以外に農作業もさせられた。働きが悪かったり疲れて休んだりすると、その場で殴られたり、厳しい罰が待ち受けていた。私は日本の歌を憶えさせられて日本軍の娯楽のためによく歌わされた。私は3人の司令官の名前と何度も歌わされた日本の歌を決して忘れない。

 東ティモールに侵攻した日本軍はすべてを破壊した。私たちの牛や豚や鶏を奪い、男や女を殺害した。多くの女性が慰安婦にされた。ティモール人はみな重労働を強いられた。農作業も木材伐採も道路や橋の建設も全部ティモール人の仕事だ。

 午後、外の仕事が終わると男は家へ帰されるが、女性は慰安所で働かされた。女を求めて兵士が村へやってくることもあった。少女が家から引きずり出され、慰安所に連行され、強姦された。そうした少女の中には死んだ者も重い病気になった者もいる。強姦された後殺されて山の中に捨てられた者もいる。私とマルタがこうして生きていられるのは幸運だ。生きてこうして話ができるのはありがたいことだ

 私の兄のひとりは日本軍に殺された。兄は逆さ吊りにされて喉を切られた。死体は埋葬されなかった。埋葬されるどころか吊るされたまま火がつけられた。なぜ兄がこんな目にあったかというと、彼は私の姉と妹を助けようとしたからだ。この姉と妹は10人以上の兵士に強姦されて殺された。彼女たちの遺体は山の中に放置された。

 兵士たちは既婚女性の家にも踏み込むことがあった。そこに夫がいても気にせず、その妻を連行し犯した。夫が家にいない時間をみはからって踏み込み、その場で妻を強姦するという場合もあった。日本人は本当にひどい国民だ。既婚の女性に何の敬意も払わないのだから。残虐だよ。あるティモール人の男は日本の憲兵に協力して働いていたのに、日本軍の酒宴に妻を出すことを強要された。

 私たちには着る服も与えられなかった。しかたないので米の袋を切って服をつくった。それでもその時着ていた服よりははるかにましだった。私たちの身なりがあまりにみすぼらしい時は、酒席に呼ばれても行く気がしなかった。しかしそんな時でも「お前たちは慰安婦だ。俺達を楽しませるのが仕事だろ」といわれ引きずり出された。

 日本軍は私たちから何でも奪った。あらゆる食べ物を奪った。キャッサバ(いも)さえだ。日本は豊かな国だと聞いたが信じられないね。何でも私たちから奪ったんだから。キャッサバさえも。

 兵士は私たちの家にやって来て、何か欲しいものを見つけると、金はあるからそれをくれといった。でも金など払ったためしはない。ひと度機嫌を損ねると厳しい罰が待っている。例えば片手に岩を持たせ片足で立たせるとか。疲れて手や足を下ろすと竹の棒で肘や膝をしたたか殴られた。

 心の傷が残っているかだって?今でも誰かのおしゃべりが聞こえると「エスメラルダは日本軍の慰安婦だ」って嘲笑されている気がする。思いだす度つらくてこれまで人に話したこともない。でもしゃべってよかったよ。すっきりしたよ。シモムラたちが生きて目の前に現れたら?そうだね、思いきり殴ってやるさ。(2000年12月11日談)

◇マルタ・アボ・ベレさんの話

 エスメラルダも言ったが、当時、私たちは日本軍からさまざまな労働を強制された。私たちは、橋や道路や家屋の建設のための労役に従事させられたし、家屋をつくるために必要な竹などの資材を遠くから調達し運搬しなければならなかった。

 私はオアト村から温泉のあるマロボに連れて行かれた。マロボには慰安所があり、そこで働かされた。その慰安所で私は毎日10人もの兵士に強姦された。

 昼は昼で畑仕事やその他の労働をさせられた。そして夜になると慰安所に戻される。マロボの慰安所で毎日10人もの男性に強姦されて、私は自分が家畜になった気がした。実際私たちは家畜のように働かされた。まるで日本軍に所有された馬だ。昼は戸外で働かされ、夜は兵士に対する性的サービスをさせられた。

 あれは動物としての扱いだった。その慰安所にはいくつかの部屋があり、小さめの部屋に5人ほど、中くらいの部屋に7人ほどが入れられた。寝床と寝床の間にはカーテンなどの仕切は一切なく、他の少女たちが犯されるのを見ながらまた自分も犯された。

私たちの性器は彼らのためのものだった。まるで動物の、牛の性器のようだ。ひとり以上の男、十人以上の男に毎日使われて。十人以上の男に強姦された後はもう普通に歩けない。ちゃんと立てなくてこんなふうにしか動けない。でも昼は昼で外で働かされるんだ。私たちはいつも牛の角で作ったメガフォンで呼び集められた。「さあ出てこい。男も女も。仕事だ、仕事だ」って。

 あんたたちは本当に酷いことを私にしたよ。あんたたちは強姦したんだ私を。あの時私たちの性器はすごく痛いんだ。十人以上の男にされたらもう何もできないんだよ。

 もし嫌だといったら、仕事を拒もうものなら、逆さ吊りにされて喉をしめられた。怖いよ。すごく怖くて、だから行くしかないんだ。

 私たち女性は神様が造られたものだ。でも日本の男たちは女性が神の創造物と考えない。自分たちだって女性から生まれたのに。母親が産んでくれたのに。どうしてこんなふうに女性を扱えるんだろう。私たちだって彼らの母親と同じなのに。

 あの男たちだって、疲れれば家に帰り休息を取るだろう。私たち女だって人間なんだから疲れるんだ。男と同じ仕事を昼間して、夜は一晩中セックスの相手をしなければいけない。私たちだって疲れるんだ、人間なんだ。

 仕事が終わっても家(宿舎か?)に戻って何か食べてくることも許されない。お腹がすいて死にそうだった。あまりにひもじい時、私は日本軍のために働かされているティモール人の村長に食べ物を取りに家に帰らせてくれと頼んだ。何も食べる物がないと働らけないんだ。(2000年12月11日談)

【補足/マルタ・アボ・ベレさんが慰安婦にされた経緯】

 ある日、日本軍の兵士と東ティモール人のガイドが家にきて

「いっしょに行こう。キャッサバを食べに行くのだから怖がらないでよい」

と言った。日本軍のために道路や兵舎をつくる仕事をしろということらしいが、怖かった。しかし、叔母に自分が行かないと両親や叔母が日本兵に殺されるといわれ、しかたなく従った。マロボに連れていかれると、集められた他の少女たちとともに草刈りや道路づくり等をさせられた。しばらくしてそういった仕事が一段落すると、アツァベ出身のドミンゴスという男が適当な少女を選んで慰安所に連れていった。マルタも連行され約3カ月間慰安婦として働かされた。三カ月後病気になり、両親の懇願によりもとの村に帰ることを許された。)

 ボボナロに駐留した部隊は、1944年3月まで駐留した歩兵第47連隊の第7中隊、 1944年3月に同部隊と交代した台湾歩兵第1連隊の第6中隊、軍用道路の建設に携わった台湾工兵第48連隊などである。


◇エルメネジルド・ベロさんの話

 日本軍がバウカウに来た時、ほとんどの者が山へ逃げた。オーストラリアに避難した者もいる。私の親族にもオーストラリアに逃げた者がいる。しかし私と妻は東ティモールに残り、一旦山へ逃げた。町に戻ってくると自分の家は日本軍に奪われていた。

 日本軍が駐留するようになると、彼らは「慰安婦」にする若い女性を求めた。私も日本軍に差し出すための美しい若い女性を捜さなければならなかった。命令に従わなければ殺すと脅された。若い女性を捜すだけでなく、私の家も明け渡せと命じられた。家は大きく慰安所にするのにうってつけだったからだ。家は改造され「ティリロロ慰安所」となった。

 ティリロロの慰安所にいるほとんどの女性は17才から20才くらいだった。全員がバウカウ出身というわけではなく、オッスなど他の場所から連れてこられた女性もいた。また、インドネシアのジャワ島のような東ティモール以外から送られてきた女性もいた。ティリロロの慰安所には中国(台湾?)出身の女性もいた。ほとんどが独身の女性だったが、結婚しているのに無理やり夫から引き離された女性もた。ジャワや中国から来た女性たちはずっとその慰安所にいたわけではなく、2、3日あるいは2、3週間で別の場所に移された。

 慰安所の女性たちは苦しんでいた。昼間は農場で働かされ、日本兵のために洗濯をし、料理をつくり、夜は性的欲求を満たすことを要求された。もし日本兵に対する性的奉仕を拒否すれば、彼女たちは拷問を受けたり、ひど暴力を受けるのが常だった。あまりの野蛮さに耐えられず逃げ出した女性もいた。

中にはうまく逃げおおせた女性もいた。しかし、例えば、ススディオという女性が逃げた時の話だが、私は罰としてひどい目にあった。ススディオは17才くらいで、褐色の肌をしたとても美しい女性だった。彼女はカイシドゥ・ポボサンというティリロロ村の出身で私が差出した女性だった。日本軍は私がススディオを逃がしたと疑った。日本軍はススディオを見つけることができなかったので、逆上し、私を尋問し暴行を加えた。血だらけになった私は馬の背に括りつけられて家へ返された。

 私のいとこのアナシタシアは慰安婦にされる前、カルロス・レモスという男性と暮らしていた。彼女も日本軍の慰安婦にさせられた。自由の身になった後、二人は別れた。その後アナスタシアは今日まで結婚せずひとりで生きてきた。彼女が二度と結婚しなかったのはこの時経験した心の痛み故だ。

 ブランカという女性はポルトガル人ピレス中尉の妾のひとりだった。ピレス中尉はかつてバウカウの警備隊長だった。彼は日本軍侵攻時に一旦オーストラリアへ避難したが、その後東ティモールに潜入し、しかし結局日本軍に捕らえられてディリに護送された。ピレス中尉が逮捕されるとブランカは日本軍に連行され慰安婦にされた。

 日本軍のある軍曹の「妻」にされたエルダ・サルダーニャは既に亡くなっているが、その軍曹との間に娘がいる。その軍曹の「妻」にされる前、彼女は結婚していた。彼女の夫は日本軍に殺害されていた。(2001年1月2日談)

【補足/エルメネジルドさんの記憶にある慰安所設置の責任者の名前及び階級は、捜索第48連隊所属のある将校の名前及び階級と一致した。さらにエルメネジルドさんは多数の将校写真の中からその人物を特定した。】


◇クレメンティーナ・カルドゾさんの話

 私はスアイのティリマールのワラ村の出身だ。ある時、日本軍の命令を受けたジョン・オリベイラというリウライ(村長?)の指示で、村の者は男性も女性もズマライに行かされ、軍用道路建設の人夫をさせられることになった。ズマライでは、村の男性と女性は分けられ、別々の住まい(小屋)をあてがわれた。日本軍の兵士は女性たちの住まいから気に入った女性を次々とバラック(兵舎)に連行し、性の相手をさせた。これらの女性たちは昼間はその他の村人とともに肉体労働に従事させられた。

 当時、私は17、8歳で結婚していた。私も軍のバラックに連れていかれ、慰安婦をさせられた。そのバラックにはたくさん、そう60名ぐらいの少女たちがいた。私は一度女性たちの小屋に戻された。二度と連れていかれたくなかったので、夜中に密かに男性小屋へ行き、夫に事情を打ち明け、助けを求めた。夫はその時まで私の身の上に起きていたことを知らなかったので、非常に怒った。

その後夫は女性小屋までやってきて、日本軍の兵士が私を連れていこうとするのにはむかった。兵士が夫に向かって武器を振り上げたのを見て、私は夫をかばおうとして抱きついた。兵士は抱きついた私ごと夫を殴った。夫は死んだ。

私はこの時に右手首を骨折した。大怪我だったので、その時は兵舎に連れていかれなかった。傷は薬草で癒したが、私の右手首は折れたまま二度と動くことはなかった。その後も日本兵は私を慰安婦にしようと連れにやってきたが、

「夫が死んだのだから命は惜しくない。連れていくなら死んでやる」

と叫び、抵抗し続けた。夫の死後、私が慰安婦として働かされることはなかった。私の知るかぎり、自分の意思で慰安婦になった女性などいないし、また女性たちに報酬など一切支払われていない。
(2001年3月26日談)


◇リム・ファ・ニエさんの話

 私はアイリウの出身だ。アイリウには日本軍の中枢があった。ある日、中国人のポンベラが家にやってきて日本軍のために働けといった。14歳か15歳の頃だった。

母親が死んでから父親は病気がちだった。それから二年間は飯炊きとして働かされた。この時未婚の少女が3人とティモール人の男性3名がいっしょに働いていた。ポンベラが来た時自分はまだ幼かったが、ポンベラたちは

「しばらくすれば使いものになるだろう」

と言った。二年たつと、慰安所(小さなホテル)に移された。その慰安所には中国人の少女だけが集められていた。アイナロやボボナロ出身の女性もいた。アイナロ出身のある女性は、日本軍によって夫を殺された後、連行されたと言っていた。

 慰安所で私はハナコと呼ばれた。アイリウは軍事拠点でアイリウの兵営にはヘリコプター、タンクその他様々な兵器・機器が置かれており、兵士は夜間それらの警備を行なうため、私たちが慰安所で兵士の相手をさせられたのは朝から夜までだった。相手をさせられた兵士の数は1日20人ぐらいだったと思う。仕事が終わると立って歩くこともできなかった。兵士はコンドームを着用していた。性病検査はなかった。

 賃金は一切支払われなかった。すごくつらかったが逃げようとは思わなかった。そんなことをしたら親が殺されると思った。ある中国人(英国人との混血)は娘を差出すのを拒んだため殺されたという話を聞いていた。私が解放されたのは日本軍が撤退する時だった。

 その後結婚したが、ある時夫は娘と自分をおいて逃げた。夫には自分が慰安婦にされたことを話していないが、夫はそのことを誰からか聞いて知っていたのかもしれない。夫が逃げたのは自分が慰安婦だったことを知ったためだと思う。

 何か、あんたの祖父(だったかもしれない男たち)が戦争中ここでひどいことをして、その孫がその話を聞きに来ているっている感じだね。(2001年3月27日談)

◇ガブリエル・ラランジェラさんの話

 私はサメ県バブル村のある慰安所で警備長だった。バブル村には慰安所がみっつあった。慰安所には毎日担当の軍人がやって来て「女たちを清潔にしろ」と私に命令した。私は部下に命じて女性たちを水浴びさせ、よごれがないかチェックさせた。その軍人はこういう時にも現れ、慰安婦たちの身体を検査し、例えば足の指に泥がついたままだったりすると私たちを叱りつけた。

一日の終わりには女性たちの部屋の床は使用済みのコンドームでいっぱいだった。私たちは毎日その掃除をした。寝台の間に仕切はなかった。慰安婦たちは穴のあいたボロボロの服を着ていた。いくらさがしても布らしきものは穀物袋だけ。女性たちはそれらを利用して服を縫った。女性たちへの報酬はなかった。もし彼女らが金をもらってたら、あんなボロを身にまとったりしないだろう。

 日本軍の将校は村の女性を気に入ると、その女性が既婚者でもかまわずに、性欲を満たそうとする。ある女性が所望された時、その夫婦は困ってリウライに相談した。リウライはその女性を自分の娘だと偽って、その将校とかけあったが、無駄だった。言うことを聞かなければ妻も夫も殺すと脅された。結局、その将校はその女性を思いのままに扱い、事が済むと家へ返した。

 慰安婦たちに食事は支給されなかった。だから親が食料を運んだり、女性たちが食料をもらいに家に戻ることもあった。だからといってそれが逃亡の機会にはならない。女性たちは自分たちが逃げたら身内にどんな害が及ぶか理解していた。逃げ切れないことも知っていた。あの状況で日本軍の意向に逆らえる者などいなかった。(2001年3月30日談)
http://www.asahi-net.or.jp/~ak4a-mtn/news/quarterly/number3/sexslavery3.html


96. 2012年10月15日 00:38:50 : HEGvSbNv7g
河野談話は、韓国がこの件で二度と騒がないからと裏で約束して発表。
そして約束をまんまと反古にされた良い例でしょ。

もう日本の政治家は朝鮮に対して甘い顔するな。あいつらはつけあがるだけだよ。


97. 2012年10月28日 09:44:01 : LoIam2IfnQ
伝聞とこじつけの結論ありきの内容に終始。ひきこもりの妄想みたい。

98. 2012年11月20日 11:56:54 : KYzIJPQNgQ
東ティモールの住民の証言なんて当てになりません。

日本人は、左翼に騙されないように。

東ティモールは、ポルトガルの植民地解放政策後、即時独立を唱え、旧ソ連やキューバから軍事的支援を受け、「東ティモール独立戦線」が1975年に東ティモール民主共和国の独立を宣言。東ティモール独立戦線は、社会主義インターナショナルに加盟している。

左翼は、日本を貶め、国民に罪悪感を与え、その隙をねらって侵略しようとする売国奴である。

天皇に関する売春あっせん容疑とか、明治天皇すり替え問題とか、物的証拠に頼らず伝聞もしくは言語証拠による中傷は、南京大虐殺一つとっても明らか。

だいたい戦争時において、強姦などを行うと地元住民を敵に回し、ゲリラに手を貸して、自ら墓穴を掘るので、日本軍は軍規に関して厳しかった。

その証拠に、従軍慰安婦をわざわざ日本や朝鮮などで高い金を払って公募し、現地に連れて行った。

もし強制連行による現地調達で足りるならば、公務員の5倍の給料を払ってわざわざ船に乗せて連れてくるわけがない。

この手の証言が、共産主義国や、共産主義者に言論を牛耳られている韓国に限られるのはなぜか。

従軍慰安婦問題は、共産主義者による侵略工作の一種だ。


99. 2012年11月20日 12:13:50 : KYzIJPQNgQ
朝鮮における従軍慰安婦に関しては、韓国人の学者が3人調査の結果、軍による強制連行の証拠はないと判明した。
http://www.youtube.com/watch?v=xLh--sK1ago

台湾人も従軍慰安婦はすべて志願であった証言。
http://www.youtube.com/watch?v=zqFjU1BAJBU


100. 中川隆 2012年12月03日 20:14:45 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM


>台湾人も従軍慰安婦はすべて志願であった証言。

志願したのは看護婦だったんだけどwww


台湾の元「従軍慰安婦」被害者証言
「看護婦に」とだまし連行

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 「慰安婦は“性奴隷”ではなく、公娼(こうしょう)である」―。自民、民主両党の「靖国」派国会議員が米紙(六月十四日付)に掲載した全面広告の一節です。自らの意思で行ったかのように史実を偽り、強制はなかったと主張しています。旧日本軍の「従軍慰安婦」被害者たちは戦後六十二年をへて、今度は戦争を知らない国会議員らによって、再び傷つけられています。(本吉真希)

 戦前、日本の植民地下にあった台湾から阿媽(あま=おばあさん)六人が来日し、六月二十八日、東京都内で証言しました。

 養母と茶摘みをして生計を立てていた盧満妹さん(80)は、「十七歳のとき、看護婦にならないかとだまされて中国の海南島へ連れて行かれた」。台湾より給料がいいともいわれました。

 盧さんは日本兵の相手をさせられ、妊娠。八カ月の身重になるまで解放されませんでした。台湾に帰り、男の子を出産しましたが、マラリアにかかり、三十八日目に子どもは亡くなりました。

 「十七歳だった私が本当に自分の意思で行ったのでしょうか」と盧さんは訴えます。

 日本語で証言した鄭陳桃さん(84)。一九四二年六月四日、高等女学校への通学途中、いつものように派出所の前を通ると、日本人の警察に呼び止められました。「ジープで学校に送ってやる」。警察を恐れていた鄭さんは断ることもできずに乗りました。

 ジープは学校の前を通り抜けました。着いた先は小さな旅館。「魏」という姓の夫婦に引き渡されました。ほかに二十余人の若い女性がいました。

 翌日、高雄のふ頭から「アサヒマル」という軍艦でインド洋のアンダマン島へ。一年二カ月後には、サイパン島へ連行されました。鄭さんも妊娠しました。

 陳樺さん(82)はフィリピンで看護助手を募集しているといわれました。「ナカムラ」という日本人が養父に出国の同意を執拗(しつよう)に迫りました。養父が断ると、「多くの看護婦が死を恐れずに戦地に赴いた。陳家も国のため、兵士のため、何かすべきだ」と繰り返しました。養父は同意せざるを得なくなりました。

 フィリピンのセブ島に着き、「慰安婦」として来たことを初めて聞きました。「(連行された大きな建物が)慰安所とわかり、一緒に来た子たちと泣いた」といいます。

 黄呉秀妹さん(89)は四〇年から約一年、中国広東省で被害を受けました。「具合が悪くても拒否すれば刀を取り出し、脅迫した。私は子どもを産めない体になった。いまも体がボロボロです。安倍首相は私たちの悲劇をご存じでしょうか。日本政府に謝罪してほしい」

 「慰安婦」被害者の証言は参加者に衝撃を与えました。初めて証言を聞いたという大学四年生の女性は「そのまま無視してはいけないと思った」と感想を語りました。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-07-05/2007070514_01_0.html

日本軍が1931年から1945年の第二次大戦中に占領地や植民地で女性を性の奴隷として扱ってきた、いわゆる「従軍慰安婦問題」は、この10年の間に世界各国で取り上げられるようになった。1991年より、韓国、フィリピン、オランダ等の被害者が次々と名乗り出て、日本政府に対し謝罪と賠償を求め、日本で裁判を起こすようになったのである。今年7月中旬には、台湾の元慰安婦も裁判を起こし、11月2日に東京地方裁判所で審理開始のはこびとなった。

「他の国と比べて、台湾の行動開始は確かにやや遅れました」と王清峰弁護士は認める。その主な原因は、日本人によって当時の資料が隠滅されてしまっていたことにある。「韓国と比べて、台湾の元慰安婦たちは自分の経験を語りたがりません」と言うのは、中央研究院中山人文社会科学研究所の朱徳蘭さんだ。台湾植民地史におけるこの悲惨な経験は、未だにきちんとした解明や整理がなされていないと彼女は指摘する。

1985年に国史館から出版された『日本在華暴行録』には、日本軍が中国東北地方や上海、雲南などで慰安所を設置し、朝鮮半島や中国の女性を無理矢理連れて来て慰安婦とした事実が1章にわたって述べられている。だがそこには「台湾の売春業者」が関与したことが触れられるにとどまり、詳しい事情については述べられていなかった。

台湾人慰安婦問題の本格的な浮上は90年代まで待たねばならなかった。1991年8月、韓国の金学順さんが、「第二次大戦中に日本軍によって慰安婦にさせられた」と名乗り出て、それが日本政府の言うような「自ら志願して」といったものではなく、強制的かつ計画的に徴用されたのだと訴えた。金学順さんの突きつけた証拠は明白なもので、それまで韓国の元慰安婦に対して「賠償、謝罪の必要なし」「記念碑は建てない」と繰り返してきた日本政府に、大きな一撃を加えることとなった。国際的な世論が高まる中、韓国と同じく植民地であった台湾にも同様の事実があったのではないかと、注意の目が向けられるようになったのである。

1992年2月、日本の伊東秀子国会議員が防衛庁図書館で、台湾で慰安婦を募集する電報3通を発見し、これが台湾人慰安婦の歴史的事実究明の発端となった。その後、台湾の女性団体「婦女救援基金会」が慰安婦問題についてのホットラインを設置し、調査に乗り出した。その結果、7年間で計400本以上の電話が寄せられ、自ら名乗り出た被害者は、今も健在のケースで41件に上るという。

20世紀の終末を迎えたアジア各国では、第二次世界大戦に対する反省をめぐり、「歴史の生き証人」が名乗り出るというケースがよく見られる。彼らの証言が歴史研究を進めたり、時には従来の歴史的叙述を覆すこともあった。慰安婦問題がちょうどそれに当たる。

今日歴史学者たちが用いる「慰安婦」という呼称は、その上に「従軍」とつけて呼ばれるのが一般で、軍隊とともに移動した「従軍公娼」という意味である。台湾大学で歴史を研究する李国生さんの論文「戦争と台湾人」によれば、この制度ができたのは1932年の上海事変の後で、当時の日本兵が上海のあちこちで女性にみだらな行為に及ぶのを見かねた日本軍の岡村寧次参謀長が、兵士の性的欲求を解決するため「慰安所」を軍に設置するよう命じたのだという。慰安所が最初に集めたのは、日本の売春婦や酌婦たちであった。

当時植民地であった朝鮮や台湾の女性を慰安婦として強制的に徴集し始めたのはいつからなのか、その解明は今後の研究を待たねばならない。が、中央研究院の朱徳蘭さんの推定では、1942年の真珠湾攻撃の後、台湾が本格的に第二次大戦の戦火に巻き込まれるようになった頃が、ちょうど台湾人慰安婦が大量に徴集され始めた時期であろうという。

「高雄に着いた時には、すでに夜が明けていました。そこで沖縄から来た10名余りの女性と合流し、船に1週間ほど揺られ、どこかに上陸した後、またトラックに載せられました。そして到着したのは、椰子の木で作られた大きな建物で、一人に一部屋あてがわれました。来る前に聞かされていた『軍の売店で働く』という話は全くの嘘だったと、そこで知ったのです」(婦女救援基金会による調査・ケースA)

「あそこで私たちは、毎回目をじっと閉じて耐えていました。兵隊と恋愛するなどということはありません。ベテラン慰安婦に『あんたたちは軍の慰問に来たのだから、軍人さんをお慰めして、お国に奉仕しなくてはいけない』と言い聞かされました。同情してくれる日本兵もいましたが、私たちを打つ人もいて、恐ろしい思いをしました」(婦女救援基金会による調査・ケースB)

「日本兵には悪い人がいて、まるでアリをひねりつぶすかのように平気で人を殴るのです。私たちは鍋に放り込まれた魚も同じで、煮るなり焼くなり彼らの思いのままでした。ある日、一人の日本人に『こんにちは』と挨拶すると、いきなり叩かれました。その人は酔っていたのです。急いで部屋に逃げ込んで鍵を掛けると、外から突き刺された刀の刃が戸板からにゅっと出て来て、慌ててもう一方の出口から逃げて便所に隠れました。それでも後で慰安所の主人に、その日本兵に謝るよう言われました。その時以来、叩かれた私の片耳は聞こえません」(婦女救援基金会による調査・ケースC)

台北市婦女救援基金会の調査によれば、当時、台湾人慰安婦が軍人への「慰安」の仕事をさせられたのは、1日に3回から20数回と開きがあるが、最高で1日60回というケースもあった。病気になっても生理でも、たとえ妊娠中や産後でも休ませてもらえず、多くの女性が刃の脅しの下に強要されたのである。

慰安婦に徴集された時の年齢は、16歳から25歳前後に集中しており、最小年齢が14歳、最高が40歳となっている。多くは家が貧しく、学校教育も受けていなかった。料亭や酒場、旅館で芸者などとして働いたり、レストランの女給をしたことのある人も多くいたが、それでも3分の1は家事や農作業に従事している人たちだった。

ほとんどの人は、性的奉仕をするために海外へ行くのだとは事前に知らされていなかった。「徴集の際に伝えられた仕事の内容は、食堂で料理を運んだり酌をする、或いは兵隊のために洗濯や料理をする、芝居を演じたり、看護をする、といったものだった」と、婦女救援基金会でケースワーカーを務める江美芬さんは、レポートの中で述べている。

また、李国生さんは「慰安婦は、日本軍が第二次大戦中にアジアに残した醜い歴史の傷痕であり、中国大陸から海南島、香港、フィリピン、インドネシア、ビルマ、沖縄、朝鮮半島、台湾など、およそ日本軍の駐留した所には全て慰安婦がいた」と指摘する。

太平洋戦争で日本が海外へと送り出した部隊は総勢350万人にも及ぶ。それに伴って、中国、台湾、朝鮮半島から女性たちが強制的に徴集されて行ったのである。朱徳蘭さんらの推計によれば、強制的に慰安婦にされた人の数は、朝鮮半島で10数万人、日本人が2万人、台湾からは少なくとも1200人、そして中国大陸からは20万人を超えるだろうという。

戦力増強が目的で、他国から一般の女性を集めてきて強制的に従軍売春婦にする。これは、日本が戦争のために国家の力で、弱者である女性を虐げたことにほかならず、だからこそ非難されるべきなのである。「これは国家というメカニズムを通して、強姦を合法化かつ制度化したものだ」と李国生さんは論文で述べている。「こんなことをした国は、歴史上おそらく他に例がないでしょう」と言うのは、朱徳蘭さんだ。更に非難されるべきなのは、日本政府が未だに心から過ちを認めていないことだと、朱さんは指摘する。

日本の学者や政治家の中には、「90年代になって次々と発表された元慰安婦の証言、例えば『強制徴集だった』などというのは根も葉もない作り話だ」と考えている人が今でもいると、朱徳蘭さんは言う。例えば「慰安婦は性的奴隷などではなく、民間の斡旋業者によって戦地に連れて行かれた売春婦だった。韓国では、斡旋業者のほとんどは韓国人だった」とか「戦時中の日本軍による暴行などはでっちあげだ」と、かつて東京大学の藤岡信勝教授も述べている。

このような発言に対し、アジア各地の女性団体は一生懸命闘ってきた。1992年からは、韓国、フィリピン、日本、台湾等の女性団体が協力し、アジア各国の元慰安婦を結集して「慰安婦問題アジア連帯会議」を行ってきた。すでに5回を数えるが、毎回元慰安婦が名乗り出ている。「ほとんどの人が乗せられたのは軍艦で、慰安所の建物は軍からの提供、管理方法も軍が決め、病気の時は軍医が診る。斡旋をした業者も、慰安所管理者であるママさんも、みな日本軍と深い関係がありました」と言う、婦女救援基金会事務局長の何碧珍さんは、各国の元慰安婦の証言を集めた上で、日本政府の「慰安婦は民間業者による経営の売春だった」とする見解に強く反論する。

少数ながら日本にも戦争責任を追及する良心的な学者がいる。彼らは各国に先んじて研究成果を発表し、日本政府に異議を唱えてきた。1992年には中央大学の歴史学者である吉見義明教授が、第二次大戦時の慰安婦徴集と渡航に関する軍の文書を公開し、日本軍が関与していた事実を示した。この指摘により日本政府は、軍による慰安所設置関与の事実を認めざるを得なくなったのである。93年には当時内閣官房長官であった河野洋平氏が慰安婦問題についての談話を発表すると同時に被害者に対し謝意を表し、続く94年にも、首相であった村山富市氏が被害者に対し口頭でお詫びを述べるにいたった。これらはいずれも日本政府がやむを得ず行った善意の表明なのである。

ただし、善意は善意でしかない。台湾籍元日本兵の問題と同様に、補償問題については日本政府は譲らず、日本外務省の見解では、戦後補償問題はすでにサンフランシスコ条約で解決済みであるとして、「民間から募金する」という形でのみ補償を行いたいとするにとどまっている。「つまり政府は表に立ちたくないということです」と婦女救援基金会の何碧珍さんは言う。

この日本政府の態度を「過ちを認めないに等しい」と捉えた台湾の元慰安婦たちは、考えた末に今年7月、東京地方裁判所に訴えて出ることにしたのである。

一方、台湾でも慰安婦についての研究は進められている。今年7月中旬、中央研究院の朱徳蘭教授が発表した「台湾拓殖株式会社に関する記録」も、慰安婦史料を整理した成果の一例と言える。

台湾拓殖株式会社(以下「台拓」とする)というのは、日本が当時の南下政策の下に作った官民合弁の企業だった。朱徳蘭さんの調査によれば、1939年、日本軍が海南島上陸を果たした後、台湾総督府の命令を受けて台拓は海南島の開発を任せられる。その業務はあらゆる方面に及んだが、特に初期は占領軍の事務所や食堂、宿舎、そして海軍慰安所などの建設に携わった。

朱徳蘭教授の調査によって、海南島で日本政府は慰安所建設を行っただけでなく、慰安所の経営にまで介入していたことが明らかになった。それによれば、1939年台湾総督府調査課の木原課長が台拓の高山理事に委託して芸者や売春婦90名を海南島に派遣させ、同時に営業資金として3万円を融資していたことがわかる。ただし「台拓が業者に直接資金を提供するのは『いろいろ宜しくないと思われる』として、福大公司を通して進めることはできないものかと問い合わせています」と、朱徳蘭さんは記録を引用する。

「福大公司というのは、台拓が中国大陸福建で開発を行なうための会社でした」と朱さんは説明する。そして、今回公開された資料の付録の中には、福大公司の株主名簿と株主総会出席者の記録が含まれているが、その中には、意外にも今日の台湾政財界で活躍する辜顕栄氏や林熊徴氏、陳啓峰氏などの一族や、基隆の名士である顔欽賢氏の一族の名が見られるのである。これらファミリーが所有した株は少ないものであったとは言え、資料発表当時はマスコミによって「慰安所投資、四大ファミリーが株主」と大きく取り上げられた。

しかし「四大ファミリーが福大公司の株主だった」というのは、今日でも一般の人が株を買い、ある会社の株主になるのと同じことで、これによって彼らが戦時政策に荷担していたとするのは歴史的に見て公平ではないと、ある歴史研究者は指摘する。朱徳蘭さんも、現在発見されている資料からは四大ファミリーが慰安所経営に直接関与していたとする証拠は見つかっていないと学術的立場から説明する。ただし朱さんは「四大ファミリーが戦争協力者であったことは疑いの余地がありません」と言い、これら富豪が植民政権下で微妙な役割を担っていたことがうかがえる。

こうした歴史的研究だけでなく、台湾人元慰安婦についての究明は、女性の権利にとっても意義深い。

慰安婦として経験は、被害者にとって終世癒し難い心身の傷となって残った。婦女救援基金会のケースワーカーである江美芬さんによれば、慰安婦として働かされた人の多くは、男たちによる蹂躪にさらされただけでなく、戦時中は飢えや凍え、命からがらの引き上げ等を経験し、帰国してみれば家族は離散、前途も絶たれているという辛苦をなめてきたのである。先住民の中には海外へと遣られることのなかった人たちもいたが、故郷で性的奉仕を強要されたことにより周囲の人々に知られ、更に辛い思いをしたと言える。「今まで生きてこられた人はみな生命力の強いおばあさんたちばかりですよ」と江美芬さんは言う。

「台湾に戻ってからは夜眠れず、よく居間でタバコを何本も吸い続けていると、母に『馬鹿な子だよ。そんなに深く考えるものじゃない』と言われて、涙がぽろぽろこぼれました。母は『泣いていても仕方がない。過去のことはみな過ぎ去ったのだから』と言ってくれましたが、それでも涙は止まりません。悲しかったのは、きれいだった自分の肉体が人に踏みにじられ、まるで道端の雑草のように価値のないものになってしまったことでした。全ては終わったと思いました」(婦女救援基金会による調査・ケースD)

ほとんどの人は慰安婦としての経験により健康を害し、戦後も苦しんできた。婦女救援基金会の調査によると、慰安所での粗末な食事から胃病を患ったり、日本兵に殴られて難聴になったり、脊椎の痛みに苦しんでいる人もいる。更に多くの人が卵巣や子宮に異常が見られ、約6割の人が不妊症になった。「彼女たちの生活は孤独、老い、貧困、病という言葉そのものです」と王清峰さんはたとえる。

更に痛ましいのは、慰安婦の経験が彼女たちの心に与えた傷であろう。何碧珍さんによれば、相談に来たばかり頃の彼女たちには、性的犯罪の被害者と同じように「自己非難」の心的態度が見られた。多くの元慰安婦たちが子供を産めないことや男性を嫌いになったことで一生独身でいることを決意し、また結婚したり同棲したりしていても家庭生活が幸せだとは言い難い、と江美芬さんも指摘する。数十年にわたり秘密を胸に抱え続け、他の人に自分の過去を知られたのではと常にびくびくして暮らしている。「彼女たちの心に負担をかけているのは、自分は『けがれている』とか『商売女』というような伝統的な固定観念です」と、江美芬さんは内在化された傷の深さを説明する。

また、王清峰弁護士は次のように語る。これまで我々は、おおよそ戦争というものには殺戮や強奪、強姦、放火といったことがつきものだと考えてきた。これを当然とする態度こそが、慰安婦のような悲劇を繰り返すことになるのだと。

王弁護士によれば、慰安婦問題の摘発はもちろん日本軍の非理性的行為を浮き彫りにできるが、更に重要なのは、このような非理性的な行為は戦争にはつきものだという考えを無くすことだという。「こういった悲劇は今後も起こり得るのです。最近のユーゴスラビアやルワンダでの内戦、インドネシアでの華人に対する暴動など、すべて女性が巻き添えになってきました」というのだ。

各国の女性団体の努力により、国連人権委員会はすでに、日本軍の慰安婦を一種の「軍隊の性的奴隷」と認め、人権を侵しているうえに、婦女子の人身売買を禁じる国際法にも違反した戦争犯罪だとして、被害者への国家賠償を日本に要求した。日本政府は未だに明確な回答を避けているものの、「昨年ローマで国際刑事法が可決され、一般の人々の性的虐待も戦争犯罪になることが示されました。慰安婦問題の摘発が国際的にも女性の権利にとってプラスに働いたことは明らかです」と王清峰さんは語る。

50年も沈黙を守ってきたおばあさんたちにとって、つらい過去と再び向き合うことは確かに勇気の要ることだった。が、「一回また一回と集まりを重ねるごとに、自分たちの不幸な運命を嘆くだけだったのが、徐々に家族や友人に話すまでに態度が変わっていきました。タバコを片手に涙にくれる状態だったのが、皆で歌を楽しむまでになったのです」と言う何碧珍さんは、彼女たちの変化を見て社会的支援の力というものをつくづく感じた。「彼女たちは、このような目に遭ったのは自分のせいだとはもう思っていません。あの出来事を恥じるべきなのは自分たちではないということを徐々に理解したのです」と何さんは語る。
http://www.sino.gov.tw/jp/show_issue.php?id=200018901120J.TXT&table=4&cur_page=1&distype=text

慰安婦の台湾からの徴集ですが、台湾の場合は朝鮮と重なる部分と、台湾独自の特徴があります。

 一つには、盧満妹(ル・マンメイ)さんや黄阿桃(ホァン・アタオ)さんのように看護婦の仕事とか炊事の仕事だと言われたり、蘇寅嬌(スゥ・インジャオ)さんのように働き口があるとか、高賓珠(ガオ・バァオチ)さんのように日本軍に奉仕活動をすると言われたなど、朝鮮からの連行と同様、詐欺的連行が多く見られます。この場合もやはり、貧困層の女性がターゲットにされています。また、李淳(リ・チュン)さんのように区役所の仕事に応募して慰安所に連行されたといった役場が関与したケースや、鄭陳桃(タン・チェンタオ)さんのように警察に学校に行く途中で連行された拉致的な連行もありました。

 台湾においてもやはり満21歳未満の未成年の女性の連行が多かったのですが、イワル・タナハさんのように13歳という若年で連行された女性もいます。イワル・タナハさんやイアン・アパイさん、トヨ・カゲさんなど原住民族の女性の場合、巡査に部隊の作業だと集められ、その後「慰安婦」にされたケースが複数見られます。漢民族の女性は国外に移送されたケースが多く、現住民族の女性の場合、日本軍の部隊の作業だと言われて地元の部隊で「慰安婦」にされたのも特徴の一つです。


 1920年代、台湾総督府は日本人の海外における経済力を高めることを目的として、海外渡航管理の簡略化を打ち出し、日本人および台湾人が中国大陸および南方で経済活動を行なうことを奨励した。日中戦争勃発前後、台湾総督府には武官を専任するようになった。こうした武官たちは積極的に南進政策を推進し、日本軍占領地の治安維持および経済建設に協力していった。そのため、海外渡航管理のさらなる簡略化が進められ、それに伴い多くの日本人および台湾人が日本軍占領地へと赴き、現地の産業経済活動に参加した。台湾における花柳界も、こうした時代背景により華南地区への市場拡大に乗り出した。こうした動きと並行して、日本軍は軍人の現地婦女への強姦、性病の蔓延、情報漏れを防止し士気を高める等を目的に、軍人および軍関係者専用の「慰安所」を設置していった。

 こうして生まれ出た「慰安所」の建設過程について述べれば、日本軍政統治下における常設型慰安所の場合、土地の選定、建設費用の準備、建築材料の運輸、建築設備についての交渉とその設立までには時間がかかり、急を要する日本軍の需要の多さに追いつけるものではなかった。そのため台湾島内外での「慰安所」では、建物には「慰安所」と掲げていても、民衆が想像する設備の整った娯楽場所ではなく、料理店、強制的に立ち退かせた当地民衆の自宅、洞穴などを、軍人の性的欲求を満たす「慰安所」として利用したものであった。各地に設置された慰安所は外見や使用目的が多用であり、合法化されていた娼妓業のように営業地区および営業目的を限定したものではなく、いわば日本軍がいつでもどこでも利用できる私娼館的な存在であった。

 また、日本軍占領地区では、統括的な行政機構による治安維持が有効的に施行されておらず、行政権濫用防止の点から、各軍隊ごとに占領地区の治安を維持する必要に迫られていた。そのため、「慰安所」の規定も各部隊ごとに自由に制定され、慰安所ごとに違ったものとなっている。ただし、ここで特記すべきは、こうした慰安所の規定とは使用者である軍人および軍関係者を保護するものであり、従業員としての慰安婦たちの基本的人権は無視されていた。
(108〜109ページ。強調は引用者、以下同じ。)

日中戦争の戦局の拡大に伴い、日本政府が投入する兵力、労働力、物資は日に日に増加し、軍事費用も膨大なものとなっていったため、各方面で物資の供給が追いつかず日本全土だけでなく植民地からも労働力をかり出さざるをえない状況となった。台湾総督府の代理として福建の日本軍占領地区で国策を進めていた福大公司は台拓の投資により設立された企業であり、福建の経済活動を統制するという特殊任務を担っていた。福大はその幅広い存分に使いこなし軍部や官僚の信頼と支持を得て特殊事業の経営を独占し、慰安所事業へも積極的に参与していった。

 ここで特記すべきことは、福大が提供した営業資本は福建、広東での慰安所解説を任された日本人業者へ渡っており、ここで慰安所建設を行っていた業者は本業が花柳業でない人物であり、台湾での戸籍内にも慰安婦の対象となるような若い女性は寄留が記載されていないことである。こうした業者は日本軍占領地区で営業活動を行っていることから、日本軍や現地当局および台湾総督府からの支援を頼りしていたと考えられる。しかし、戦時中は慰安所事業を取り締まる法令そのものが存在しなかった。にもかかわらず、日本軍および日本政府が業者に協力を呼びかけ、国策会社およびその投資会社が資金を提供し、民間業者名義で各種手段を使って慰安婦募集を行うという・・・組織的な協力体制がとられた。こうした国家権力が中心となった分業体制がなければ、日本軍占領地区で民間業者が迅速に大量に慰安所を開設することは不可能だったのである。
(168〜169ページ)

 日本外務省所蔵の統計資料によると、1938年11月から1939年12月までの約1年間に中国大陸の戦場へ渡った台湾人慰安婦は385名である。この1年間の数字から日中戦争および太平洋戦争中に慰安婦となった台湾人女性の数を推算してみると約数千名いたであろうと思われる*2。台湾元慰安婦についてのこれまでの研究は、資料が意図的に破棄されており、さらに被害者である元慰安婦の多くがすでに他界している、もしくは健康的に優れない、過去を正視しにくい、家族に知られたくない、社会的な偏見などの理由からあまり成果が出ていないのが現状である。台湾で「慰安婦」問題を重視し支持するようになったのは、1992年2月に吉見義明中央大学教授および伊東秀子衆議院議員が防衛庁研究所の図書館で軍部が「台湾土人」慰安婦をボルネオへ派遣するよう求めた関係文書を発見したことを契機に、その後「台北市婦女救援基金会」(以下、婦援会と略記)による申請ダイヤルが開設されたことに始まる。同年3月には台湾外交部が「台籍慰安婦専案小組(班)」を設立させ、婦援会に元慰安婦の調査と確認作業を委託した。婦援会は申請ダイヤルによって元慰安婦であったことを告白した約90名余りから一部の病死者と個人的理由により申請を放棄した人を除いた68名の台湾人漢族女性を訪問し、そのうちの48名を元慰安婦と認定した。婦援会が直接訪問した中には17名の原住民も含まれており、そのうちの12名が元慰安婦であったと確認された。
(207〜208ページ)

 まずは台湾女性が慰安婦となった過程であるが、その背景として外的要因 (push)、人的要因 (pull)、組織化された募集体制の3つがあげられよう。

 第1の外的要因だが、家庭的環境に恵まれていない貧困な生活を送っていた台湾女性は、その経済的理由から家計を助けるために収入を得ることが必要であり、海外での仕事をせざるをえない状況に追い込まれていた。第2に人的要因だが、斡旋業者は家計を助けるためにどうしても働かざるをえない貧しい家庭の女性達の願いを逆手に取り、簡単な仕事、高収入、短期就業を謳い文句として募集を行った。そして同郷出身者や友人、同僚などの人脈を利用することで相手に安心感や連帯感を与えた。社会的経験のない、簡単に他人を信用してしまう無垢な女性たちが、こうした慰安所営業者のわなにはまってしまったのである。3つ目の要素としては台湾総督府の責任があげられるであろう。・・・慰安所事業関係者は直接・間接的に官僚との親密な関係を築いた人物であり、台湾総督府もこうした慰安所や慰安婦の実例を知りながらそれを取り締まる法令を設定しなかった。そして、軍部、接客業者、斡旋業者、ときには現地の警察機構を連携させ、現地の家庭状況を充分把握したうえで、貧しい家庭で育った女性を誘い出すべく組織的に慰安婦を募集し、さらに正式な海外への渡航手続きを経ていない台湾女性の渡航を問う胸苦当局が黙視していた。このように日本軍の各占領地での慰安婦需要に対応するために台湾総督府が駆使した慰安婦業務への分担作業が、慰安婦事業の成否を分ける重要任務であったと思われる*3。

 次に台湾元慰安婦の傷跡についてまとめると、当時の爆撃による傷跡、過度の性行為による生殖能力の喪失、流産、子女の夭逝、性病予防のための薬による副作用、伝染病、酔ったり機嫌が悪い軍人から殴られたことなどを指摘できる。戦地から生還した彼女たちは、生殖機能を失ったことから婚姻の断念、日本軍人との間に生まれた私生子の養育や、過去を知られたことによる離婚などを経験している。彼女たちにとって慰安婦であったという過去は拭い去ることのできない汚点であり、家族や世間に露見し後ろ指を指されることを恐れ、自分の感情を押し殺し、交流をできるだけ控え、精神的な苦痛を生み出す要因となっている。
(234〜235ページ)
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20081111/p1


101. 2012年12月04日 00:51:43 : Hh4TqK75Eo
どこの国の軍隊も昔から売春婦は付き物ですよ。
欧州などでも戦乱の時は兵隊の後ろに
その手の女性がゾロゾロ付いていったそうですよ。
良いか悪いかは別として
需要と供給の関係だから仕方がない。
日本兵だけが助平と言うわけでも無いでしょう。

ただ日本人は昔から衛生観念が強し
性病でも流行ったら作戦不能になるのも
避けるたに軍が関与したのは間違いない。

ヤリッパナシただ乗りの中国兵や朝鮮兵より
よっぽどましではないですか。


102. 2012年12月05日 09:22:19 : HNPlrBDYLM
>ヤリッパナシただ乗りの中国兵や朝鮮兵よりよっぽどましではないですか。


日本人は癇癪持ちが多いから慰安婦さんも大変だったんだよ:


性的サービスを逃れようと入浴を拒んだ慰安婦は、木に逆さに吊るされ、ライフルで殴られ、乳首を切り取られて、最後に膣から銃で撃ち抜かれて殺害された。


激しく抵抗した慰安婦の1人は、胴体と頭を別々の馬に縛り付けられ、他の慰安婦の面前で引きちぎられて殺された。


日本兵は「慰安婦」が妊娠すると、容赦なく殺しました。そのような女性の中に、ボンニョという女性がいました。ある日、日本兵は「慰安婦」たちをみな庭に集合させ、みんなの見ている前でボンニョを木に吊るし、軍刀で彼女の腹を切り裂いたのです。そして、出てきた腸や胎児をめった切りにして、私たちの首に掛けたのです。

性病にかかり、50人の日本兵に病気を移した韓国人慰安婦の1人は、灼熱の鉄棒で膣を消毒された。


オ・ズンイとう女性が、梅毒にかかったことを知らせなかったため将校にうつったという理由で殺された。彼女は口に布を詰められ、焼いた鉄の棒を子宮に入れられて即死。引き抜いた棒には肉がこびりついていた



103. 2012年12月18日 22:02:32 : THLMuGvr1U
>日本人は癇癪持ちが多いから慰安婦さんも大変だったんだよ:

それは何か証拠があるのかい?
慰安婦だったとかいう老女の嘘にまみれた証言以外で。


104. 中川隆 2012年12月21日 19:49:07 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

慰安婦に限らず、日本兵は言う事を聞かない生意気な女は股裂きにしてたんだよ:


中国山西省に出征した旧軍人のKさんは3年兵の時、トーチカ(砲台)の一室で、4〜5人の4年兵が現地女性を連れ込み輪姦している場面に出会った。4年兵の兵隊が終ると、「今度は3年兵の番だ」と言われ、Kさんは、強姦は犯罪だという認識がなく、単に古兵の命令に従わなければならないと思いそれに加わった。Kさんはこういう“戦争犯罪に対する無感覚”は戦時中だけではなくて、戦後も変わらなかったと指摘する。戦友会の席上では、このような犯罪が懐かしい話、面白い話として語られるという。

その中には「股裂き事件」という話もあった。ある旧軍人が1944年の河南戦争前後で見たことだ。

中国人女性の片足を木に縛りつけ、もう片足を馬の鞍に括りつける。そして突然馬のお尻を叩き、驚いた馬が走り出すと、女性の体が二つに裂けてしまうというものだ。

Kさんが駐在していた山西省旧遼県でも、1941年4月に日本軍隊長が中国語で「勒馬分身」(股裂き)という方法で殺人を行ったという。そのことは中国側の資料にも記述されている。
http://www.magazine9.jp/kaigai/dai027/index.html

陸軍第114師団重機関銃部隊所属 田所耕造。

『週刊アサヒ芸能』(71年)の取材に答えた当時、彼は53歳。
彼が語った残虐の限り。しかもこれが「命令」なんだから驚くしかない。
(中川註: もちろん昭和天皇直々の命令)

南京に2ヶ月ぐらいいて、徐州に向かったんだけど、このときだったな、股裂きをやったのは。

ある部落で、みせしめのために女を柳の木に縛りつけ、両足首にまきつけたロープを2頭の馬の鞍に結び、左右からムチをくれると股から乳房のあたりまで肉がさける。骨があとに残るんだ。

股裂きなんぞ、東映のモンド映画『徳川いれずみ師 責め地獄』にて鬼才石井監督が撮っていたけど、その遥か以前に日本軍では娯楽の殿堂として「日常風景」だったとは驚きだ。日本軍って、頭の中が「石井輝男」と同じだったんだな。

「股裂き」の田所耕造が所属していた柳川平助兵団が如何に凄まじい「ならずもの部隊」であったか、従軍カメラマンとして共に行動した河野公輝さんが証言しているな。これも酷すぎて卒倒するぜ。
http://www.asyura2.com/08/reki01/msg/182.html


105. 2012年12月25日 02:40:00 : gzCTSGAYhI
もう十数年も昔に書いた本人が捏造だと認めてるにも関わらず
未だにそれは真実だって言い張る奴はガチで頭に何か湧いてるのか?

捏造と認めた件については右翼やらヤクザやらに脅されてって言うけど、
右翼やヤクザを過大評価し過ぎ。
連中にそこまでの権力・影響力は無いから。
仮に本当に右翼が強大な権力を所持しており、それを行使して脅迫したのであれば、
『真実を書いても得しない』『私もプライドがあるからそのままに』なんて曖昧な表現でお茶を濁すだけで許されるわけなかろう。
『あれは全て捏造だった』『適当で出鱈目なモノを世に送り出してしまい本当に後悔している』
最低でもこれくらいは言わせられるよ。
ついでにそういう声明を出した数日後に首吊り死体で発見されるオマケ付きでな。

これだけ世間を騒がせた愚かな著作物を出しておきながら
トーキョー湾で水死体が上がったなんて話も出ずにのうのうと暮らしている、
それだけ日本は様々な意味で“平和”な国なんだよ。
右翼・ヤクザに脅されたから発言撤回なんてのは説得力が無さ過ぎるね。


106. 2012年12月25日 20:05:45 : HNPlrBDYLM

当時の 右翼 = 在日ヤクザ の恐ろしさを知らないからそんな暢気な事が言えるんだよ。実際に娘や奥さんを誘拐・拷問・殺害すると脅迫された人の恐怖が理解できないだけさ:


慰安婦強制連行を証言する吉田清治
http://www.youtube.com/watch?v=yBOJT-N0GWI


私たちは、一九九三年五月に吉田さんを訪ね、積極的に反論するよう勧めた。また、誇張された部分があれば、訂正すべきだとも申し入れた。とくに、この本(※『私の戦争犯罪(三一書房)』)のなかにある動員命令書がキーポイントとなるので、吉田さんがいうようにもしそれが奥さんの日記に書いてあるのであれば、日記のその部分を公開したらどうか、もしそれがないのなら訂正すべきではないかといった。

 これに対し、吉田さんは、

日記を公開すれば家族に脅迫などが及ぶことになるので、できない

と答えた。そのほか回想には日時や場所を変えた場合もあるとのことだった。
http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/70/

吉田清治は、一時、右翼や旧軍人からの脅しやいやがらせで、知人宅に身を寄せたこともあったと言う。

「私がこれ以上言うと、元慰安婦や家族の方に迷惑がかかる。
デッチ上げといわれても構いません。私の役目はもう終わったのですから」
http://www.tamanegiya.com/yosidaseiji.html


___________

これは南京大虐殺や731部隊の人体実験を世に知らしめた本多勝一と全く同じ事情なのですね:

貧困なる精神 第23集 本多勝一
本多勝一はサングラスで顔を見せないことを右翼に批判されるが、堂々と出ていって殺されたほうがいいのか。
例えばこれまでの革命家で堂々と出ていって素手で立ちはだかった馬鹿がありますか。(略)武田信玄にしろ徳川家康にしろ伊達政宗にしろ、あらゆる方法で暗殺を防いでいるでしょう。

私の場合子供にまで脅迫が来ました。
それでもう引っ越しちゃったわけですが、引っ越してからは子供の名前まで合法的に変えた。
http://turq.air-nifty.com/weblog/2012/07/post-9ac9.html


本多勝一ってどんな人?

素顔を見せない元スター記者
サングラスにアデランスのカツラ。これが本多勝一(七十一歳)が人前に.出る
ときの姿である。もちろん写真を撮られる時も必ずこの姿だ。

別に、変装・仮装が趣味なわけではない。朝日新聞の記者時代、一九七一年から連載した『中国の旅』で南京大虐殺を取り上げた後、右翼の脅迫が相次ぎ、家族にも脅しの被害が及びそうになった。

以来、「(記者は)名前は知られても仕方がないけれど、素顔を知られてプラスになることなど全くない」と、本多は公の場ではカツラとサングラスで変装し、「素顔」をさらさないようになったといわれる。町中ですれ違っても「本多勝一」と気付く人はほとんどいないだろう。「変装姿」が「実像」より知られている、日本では数少ない人物なのである。

若い世代はその名前すら知らないだろうが、朝日新聞のスター記者だった本多の名と著作を知らないジャーナリストはいない。「本多さんに憧れてジャーナリストの道を選びました」と言い切る三十代後半から四十代の新聞記者・雑誌記者は多い。彼らは本多を「日本一のジャーナリスト」として憧れ、尊敬し、同じ職業を選んだのだ。
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/446.html


なぜ「証言」しないのか ―「加害証言」を拒む土壌―
 
 「南京事件」の実態を調べる時大きな壁になるのが、「加害証言」を世に出す困難さです。この点は、多くの研究者が共通して語る「常識」なのですが、掲示板等ではこれを理解せず、明らかに事実に反する「タテマエ証言」だけをタテに「日本軍の軍紀は正しかった」と主張する方が存在します。

 このコンテンツでは、「加害証言を拒む土壌」をテーマに、各研究者の調査体験、また実名証言を行った方々に対する圧力について見ていきます。

 まずは、各研究者の記述から、「聞き取り調査」の困難さに触れた部分を紹介します。

笠原十九司氏 『南京虐殺の記憶と歴史学』より

 しかし、現実には大きな障害があるのは、前述した兵士に南京虐殺の記憶を語らせない旧日本軍の特質と構造が現在でも機能しているからである。

 私はこれまで、南京戦に従軍した兵士の陣中日記の実物を見たり、存在を確認したりしたことが何回かあったが、いずれも本人あるいは家族が、公刊すれば予想される戦友会、旧軍関係者、南京大虐殺否定論者さらには右翼団体等から、脅迫まがいの圧力や嫌がらせがあるのを恐れて、公開や出版に反対された。

 公刊した場合「面倒なことが起こる」「厄介なことになる」「騒がれることになる」「まわりに迷惑がおよぶ」という拒絶の理由が、日本社会に厳然として存在する南京虐殺の記憶を「忘却」させるための構造を物語っている。

 南京虐殺の記憶を公刊したり、証言した場合、部隊の「身内の恥」を世間に漏らした、部隊仲間の逸脱行為を「内部告発」したとして、旧軍兵士たちの精神的な共同体である戦友会から排除され、村八分的な制裁を受けることが、公開、公刊を拒絶させる最大の要因として厳存した。
(『現代歴史学と南京事件』P32)

秦郁彦氏 『南京事件(増補版)』より
 秦の経験では、将校は概して口が堅く、報道、外交関係者は現場に立ち会う例は稀で、クロの状況を語ったり日記やメモを提供したりするのは、応召の兵士が多かった。その兵士たちも郷土の戦友会組織に属し、口止め指令が行きわたっている場合は、言いよどむ傾向があった。

 一九三七年十二月十五、十六日に実施された難民区の便衣狩作戦(第九師団の戦闘詳報には「七千余ノ敗残兵ヲ殲滅セリ」とある)を調査するため、実行に加わった金沢歩兵第七連隊の生存者に面談したときも、戦友会長経由だったせいか、なかなか率直な証言がとれず困った。
(同書 P281)

 


板倉由明氏『南京事件 虐殺の責任論』より
「歩兵第六十五聯隊 幕府山事件」より

 南京戦には限らないが、参戦者から情報を集める際に厚い壁を感じる「部隊」がある。その多くが、将校会や戦友会が「厚いカーテン」を下ろして情報を秘匿し、会員に圧力を加え、甚だしきは「妨害」をする。歩六五の場合がそうだという訳ではないが、筆者もその堅いガードには全く歯が立たず、平林貞治氏のように旧聯隊のスポークスマン的存在の人か、箝口令を憚りながら漏出する情報の断片を分析・総合せねばならなかった。
(『日中戦争の諸相』所収 P190)
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 そして、実際に実名で「加害証言」を行うとどういうことになるのか。二つの事例を紹介します。

1987年7月6日、京都府峰山町にて、元二十聯隊兵士3名(増田六助氏、東史郎氏、上羽武一郎氏)が共同記者会見を行い、それぞれ自分の陣中資料を提出しました。それに対する反応です。

「隠された聯隊史」より
 元二十聯隊関係兵士による記者会見は、大きな反響をまき起こした。
(中略)
 と同時に、記者会見にのぞんだ元兵士宅めがけて、奔流のようにいやがらせ電話、脅迫状が殺到した。電話番号はNTTに問い合わせたものだろう。脅迫状のあて先は「京都府丹後町」とだけあり、番地のないものが多かった。あらかじめ予想されてはいたが、それはすさまじいものであった。

 リ、リーン。受話器を取ると

「おんどれら、軍人恩給もろてるやろ。国に仇をなすようなことを、しくさって・・・恩給を国に返せ!」。

耳元にがんがんひびく大声で怒声をあびせ、五〜十分間をしゃべり続け、悪口雑言のかぎりをつくして一方的にがちゃんと電話を切る。名前をたずねても名乗らない。

 増田、東、上羽三氏宅の電話は、深夜まで鳴りっぱなしとなった。なかでも、膨大な手記・手紙類を公開した東史郎宅へ、

「おれは赤報隊のヤマザキや。首を洗うて待っとれ!」

など、口汚い脅迫電話は午前二時すぎまで続いた。赤報隊といえば、『朝日』支局襲撃事件で、犯行声明をマスコミに送りつけたことで知られる団体名である。七十台半ばの老夫婦は、まんじりともしないで一夜を明かした。

 増田六助氏宅には

「地元の報国同志社やけどな・・・全国の同志からようけ問い合わせが来とる。いったいどんな考えで記者会見なんかしたんや。聞かせてもらおか」

とドスの利いた声で右翼団体らしき団体名を名乗ってのいやがらせ。

「お前らみたいな兵隊ばっかしやから、日本は負けたんや・・・このアホめが」。
「七月二十八日(「平和のための京都の戦争展」開幕日)まで、身辺によう気ィつけておれ」

のおどしもあった。

 そしていやがらせ、脅迫の手紙。―

「あんた方は日本人ですか。それとも支那人(中共人)ですか・・・寝言をいっては極楽へ行ケマセンヨ。あんた方、日本人を売る売国奴の犬ですよ」(奈良・香芝町、大坪春香名)。

「としの70歳にもなって、もっと考えて死にぎわを迎えよ!!  バカヤロウ!! それでもお前は日本人か!! ・・・日本中の笑い者で、死にやがれ!!」

「英霊を冒?した罪は万死にあたいする。死ね!」

など、その数はざっと五十通。

「お前の家に放火してやる」
「見知らぬ者が近寄れば注意肝要、家族も皆同じ」

等々、直接行動をにおわせる通信も、あいついだ。ここにはとうてい紹介できない、下劣ひわいな文言を書きつけた投書もあった。

 東史郎氏は、その一々に返事を書き、投かんした。返書の多くは、一週間後に戻ってきた。脅迫状差出人のほとんどは、偽名であり、その住所はニセだったのである。
(「隠された聯隊史」P161〜P162)


 次は、「幕府山事件」についての体験を語った、栗原伍長への中傷です。

 発端は八月の末。社会部の電話が鳴った。電話の主は八月七日付朝刊二社面(東京本社発行最終版、以下本紙掲載日は同)で掲載した「元陸軍伍長、スケッチで証言 南京捕虜一万余人虐殺」の記事で取材し、紙面にも名前の載った東京都小平市の退職警察官(七三)だった。 だが、電話の向こうの声は最初からひどく震えていた。
 「まったくひどい。何とかしてもらえないだろうか」

 記事に載った証言は、鈴木明氏の「南京大虐殺のまぼろし」や防衛庁防衛研修所戦史室の「支那事変陸軍作戦<1>」などの「釈放途中に起きた捕虜の暴動に対する自衛的集団射殺」という定説を覆すものだった。

 電話の主は、この記事が出て以来、次々と「読者」からの封書、はがきが届いたが、これらの多くは中傷で、脅迫まがいのものもあるという。証言者の自宅へ出向いた。

「恥知らずめ、おぼえておけ。軍人恩給と警察官の恩給を返して死ね」
「貴様は日本人のクズだ!!」
「思慮の浅い目立ちたがり屋か老人ボケ」

 思いつく限りの悪罵を投げつけていた。

 もちろん、証言者を勇気づける手紙も何通かあった。「事実を述べられたこと(教えて下さったこと)の勇気をすばらしいと思います」(三十六歳の主婦)。勇気ある証言は次の証言につながってもいく。八月十五日付朝刊の「南京大虐殺、私も加わった」という神戸市の元上等兵(七五)の証言である。そして、この第二の証言者のところへも「お前はバカか、平和を乱すようなことはするな」という手紙や電話がきていた。

 こういった非難、中傷、脅迫の手紙は、新聞社にもよく来る。八月十五、十六日付朝刊の七三一部隊関連記事でも「資料はデッチ上げ」という投書があった。共通しているのは匿名ということ。
 
「子孫にウソを伝えぬために」

 元警察官が証言を思い立ったきっかけは、七月二十二日付朝刊社会面の「南京大虐殺、中国側が”立証” 犠牲者は三十余万人」の記事。

 「殺したのには殺した。それは事実だけど、中国側が言う三十万人、四十万人なんて数じゃない。どんなに多くても十万人以下だ。中国側の根拠や資料をうのみにするわけにはいかない。事実をはっきりさせるには、日本の側も、やったことははっきりと認めなきゃいけない。いつまでも”殺していない”とか”自衛のためだ”なんて言っているのはおかしい。ウソを子孫に伝えるわけにはいかない。あれにかかわったものは、私も含め、もう年だ。今のうちに本当のことを言っておかねば」(以下略)
(『毎日新聞』1984年9月27日朝刊第5面) 

*この「栗原証言」の内容については、K-Kさんのページで詳しく紹介されています。栗原氏の息子さんである「核心」さんによれば、

「結論から言うと、父の証言に関しては、毎日新聞の記者の方へのインタビューと本多勝一氏へのインタビューだけが任意でなされたものです。 
両記事のあとは脅迫手紙や脅迫電話が相次ぎ、また戦友や上官の方からも証言を取り消すようにとか、矮小化するようにとかの干渉が長い間なされています。
ですから、それ以降の父の証言と称する内容に関しては、全く任意性はなく、信憑性に欠けるものです」

とのことです。
 
 中傷者たちは、証言者の語ることが事実かどうかなどには全く関心を持たず、ただ、「日本の過去の悪行について発言した」というだけで、証言者たちを攻撃対象にしています。

普通の生活を営む市民の方であれば、このような攻撃により生活が破壊されることを覚悟してまで「実名証言」を行なおうという気には、とてもなれないでしょう。「実名証言でない」ことを批判する心無い方々には、ぜひ、以上のような状況を認識していただきたいものです。

--------------------------------------------------------------------------------

 次は、「証言しない人々」の「ホンネ」をかいま見れる事例です。「圧力」を怖れて公式の場では「証言」を拒む人々も、実際にはかなりの「加害」事例を知っていることをうかがわせます。

下里正樹氏「続・隠された聯隊史」より
 こんなこともあった。
 京都府船井郡在住の元機関銃中隊員に電話した時―。

 私は北山日記にある武進攻撃の記述「戦友たちが残酷なことをした話をしている」をあげ、私の身分を明かしたうえで、「残酷なこと」とは何だったのか、とたずねた。

 とたんに、受話器の向こうから猛烈な勢いで返事がかえってきた。

「そら戦争やさかいな、ようけあったわ。武進でわしが見たンは、家の中に隠れとった母親と姑娘やな。娘やってまえ! と(兵士が)手ェかけたら、母親が(服の)前をはだけよンね・・・

自分をナニして娘は助けてやってくれェと、まあこういうわけや。かまわん、二人ともいてこませ、いうて、真っ裸にして、五人(の兵)でかわりばんこにナニしてからに・・・

終わってからや、川のふちに連れていって、ニイコ(中国兵)の残していった手榴弾を二人の股倉に突っ込んで、ボン! いわせて、ほンならもう、へそから下がワヤになりまんが」

一気にここまでをまくし立て、

「ところであんた、どなたさん? 新聞関係の人? そらあかんワ。いまいうたこと、取り消しや。書かれたら、どもならん」。あとは何をたずねても「取り消しや、もうかんべんして」のいってんばりであった。
(P49-P51)

高崎隆治氏『戦争と戦争文学と』より
 とはいえ、あの戦争下にそれが風聞として一部の国民の耳に入らなかったということはあり得ないわけで、当時中学生であり生活範囲の狭かった私でさえも、横須賀に住む友人の口から友人の家に下宿している海軍の下士官の話として強姦について聞かれたことがある。もっともそれは、二、三人の下士官が酒を飲みながら話しているのを立聞きしたということで、友人の憶測も入っているようであったが、しかしそれはまぎれもなく上海戦線での強姦―というよりは海軍の下士官・兵による輪姦であった。

 そしてどうやら女性は殺されたらしいのだが、驚いたことに被害者は一人ではなく三、四人またはそれ以上の複数であったことだ。もちろん、アルコールが入っていたことで、下士官たちの誇張もあったのではないかと思われるが、正義を唯一の価値とする中学生にとってそれは言葉を失うほどの衝撃であった。

 ついでにもうひとつの話を手短かにつけ加えれば、戦争末期の学徒兵であった私は、ある夜下士官の一人と班内で話し込んでいたのだが、その時、少し離れた部屋の隅で、応召の上等兵が初年兵を集めて日中戦争時代の自慢話をしていた。

 部隊の年配の応召兵のほとんどは二度または三度目の召集で、その多くは南京戦に参加していたのだが、次第に調子に乗った上等兵はやがて身振りを交えて強姦の話を始めた。すると突然、私と話していた下士官が、
「T上等兵、つまらぬことをしゃべるな」
と怒鳴った。その下士官とT上等兵はかつての戦友だったのだが、上等兵が、
「おまえだって同じじゃねえか」
と斬り返すように言ったことで班内は騒然となった。

 上等兵は駆けつけた下士官たちに袋叩きにされ、その後まもなく転属になってしまったが、打ちのめされながらわめきつづけた上等兵の声はいまも私の耳に残っている。彼は同じ中隊の何人かの伍長や兵長の名を挙げて
「みんなやったじゃないか」
と叫んだのだった。

 ようするに強姦は彼等のタブーだったわけだが、上等兵がそのタブーを知らないはずはなく、また上等兵に名前を挙げられた者たちも、遂に最後までそのことに関してはしゃぺらなかった。

 しかし、学徒兵であった私は、かつての中学生の時のように驚きはしなかったが、日本軍兵士の少なからざる部分が南京戦でなにをやったかほぼ推測することができた。
(P56-P58)「「東京裁判」を読む」より


保阪(正康) くどいかもしれませんが、残虐行為があったのは事実だけれど、日本軍の全部じゃないということです。日本軍全体にすり替えちゃいけないと思うんです。「私はやっていません。私たちの部隊はそういうことをしていない」という人にたくさん会ってきました。

 一方、やった人の中でも「やってない」という人の言葉に依拠して脆弁を使っている人がいるんですね。ある部隊の隊長をやっていた人に取材したことがあるんですが、

「君、絶対言うなよ、書くなら俺が死んでから何年か後に書け。名前は出さんでくれ。子供や孫がいるから」

と言って、「やっぱりやった」と言っていました。

 やった事実を知っている人も表面上は「やってない」と言ってるんです。そのことが客観的な史実の検証を間違わせていると思うんです。それだけに本当にやっていない人たちのこともきちんと調べて書き残さなければならないと思います。(P306)
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/shougen.html


______________

吉田清治は確かに家族を拷問して殺すぞという脅迫に屈して自分の発言を否定した。 しかし、自分が書いた本はその後も廃刊にはせず、初版のままで現在でも売っている、要するに自分の書いた本の内容については現在に至るまで一切否定していない。

朝鮮人慰安婦と日本人―元下関労報動員部長の手記 [単行本] 吉田清治 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E2%80%95%E5%85%83%E4%B8%8B%E9%96%A2%E5%8A%B4%E5%A0%B1%E5%8B%95%E5%93%A1%E9%83%A8%E9%95%B7%E3%81%AE%E6%89%8B%E8%A8%98-%E5%90%89%E7%94%B0-%E6%B8%85%E6%B2%BB/dp/4404007957


もし吉田清治が自分の発言を否定しなかったら娘や奥さんはこういう目に遭っていたんだよ:

かわいい娘がいるとこうなります

全裸首輪で性奴隷家畜便器として完全監禁

少しでも反抗したらタバコの火を押し当てたりしていうことを聞かせます

何回も犯されてガバガバになり腕が入るまで広がりきります

尻の穴もそうなります、

栗には太いピアスがされるでしょう

SMビデオやスカトロビデオ撮影もあるでしょう、

厳しい拷問生活で かわいい娘は大便と小便を喜んで四つん這いのまま食べるようになります

こうして肉便器になり、最後は利用価値がなくなったらスナッフビデオといって
拷問して殺すところを撮影してお金にしますので、それからドラム缶でコンクリ詰めにします


_____________


右翼 = 在日ヤクザ が大便好きというのは本当で、

在日ヤクザが主犯である北九州監禁事件では

大便排泄を1日1回に限定し
全裸のままトイレに座らせることなく、がに股で排便させてそれを観察した
勝手に漏らした場合、大便は口で食わせた
言うことを聞かなければ通電といって性器に電極を取り付け電機拷問を行った
一瞬で皮膚が熱傷で破れ脳まで衝撃が来て記憶を失うほどの拷問であったそうだ


朝鮮民族はこういうことを好むのである

ゆえに、監禁されれば飲尿食糞を余儀なくされ、監禁された日本人は
拷問されながら大小便を食べるという地獄の監禁拷問生活をおくる羽目になります

朝鮮人が残酷なのは当然で大陸の人は日本人とは文化背景が違います

チンギスハーンの拷問好きは有名ですし、中国も拷問文化でした朝鮮人の李氏朝鮮もそうです。よって在日ヤクザに監禁されると大変なことになります

殴る蹴るの基本的なものから、

タバコの火を押し当てる、

ハンダコテで体中焼く、

尿道にマッチ入れて火をつける、

在日ヤクザが起こした北九州監禁事件のように電撃を与える

大小便を食べさせる


など拷問の種類には事欠きません


女性であれば、激しく輪姦・撮影されたあげく、

全身にピアスを通され

穴という穴は拡張され、


在日ヤクザが起こした女子コンクリ事件では

鉄アレイを膣と肛門にいれ蹴飛ばしていた有様です


在日ヤクザを日本人と同じと思ってはいけません、農耕民族と大陸の殺戮民族では文化が違うのです
__________


53 名前: 名無し調教中 投稿日: 02/05/07 21:16

俺も大阪やけど聞いたことあるな。 女のSMショーはもっと安いんやろ?
ハンマープライスみたいなんで一番高い値をつけた人が実行できるらしいで。
最初は鞭打ちから始まって最後はクリトリスをペンチで潰すのでそれが一番人気で50万とかなるらしいで。
実行した人にはそのときのビデオがもらえるとか聞いたけど。


56 名前: 名無し調教中 投稿日: 02/05/07 21:18

53>そうそう。ハンマープライス見たいなんが主流らしいな。


207 名前: 名無し調教中。 投稿日: 02/06/06 15:49

乳房をペンチでねじ切られる時の女の声は人間の声ではない。 屠殺場の豚以上の獣の断末魔の叫びです。

テープを10年以上昔に、族の同級生に聞かせてもらった。 今でも夢を見る。
あんなもの聞かなきゃよかった(;;)


209 名前: 名無し調教中。 投稿日: 02/06/06 16:32
>>207
クリトリスを切断されるときの声も、尋常じゃないそうだ。


79 名前: 名無し調教中 投稿日: 02/05/08 04:56

HERMESは知らんがそういうショーは現実にあるよ。 だって俺見たもん。
ミナミの店で聞いたら大抵知ってるんじゃないかな?
http://bbs.yoasobiweb.com/read_view.php?tb=chat_kyofu&parents_id=503&first_no=-1&rast_no=541



107. 中川隆 2012年12月30日 15:03:21 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

まあ、日本人の殆んどはまともなんだけど、こういう頭がおかしい人も 100人に2,3人は確実に居ると思った方がいいよ。 脳自体に障害があるから仕方ないんだよね:

女子高生コンクリート詰め殺人犯 神作譲はあちこちで自分の犯した罪を武勇伝のように語り、

「あれは楽しかったなー」

などと得意気に語るクズである。また、キャバクラに運転手付きのベンツでキャバクラ通いを続け馬鹿発言でキャバクラ譲を失笑させている。


神作譲

「俺は人を殺したことがあるんだぞ」

「人を殺すなんて簡単なんだからなー」

「昔、女がコンクリート詰めされただろ?あれ、おれがやったんだよ」


笑いながら自慢げに言う男 神作譲

「あの女の髪切ったりよー、ペンチで乳首潰したり歯抜いたのも俺。
ホントは俺が主犯なんだよ。」

ゾッとする話を、何がおかしいのか下品に笑いながら言う神作譲。

飲み屋のネエちゃんはフリーズし、周りも引いている。


だが、露骨に冷ややかな目で見たら、今度は自分が何かされてしまうと思い

皆少しずつ距離を取ろうとする。

「俺は捕まったって怖くねぇし、
同情されるコツ知ってるしよぉ、あんなのチョロイんだよ。」

そして、まだ続く独演会

「俺にはよー、スゲー バックが付いてんだよ。
あの車だって、バックが俺のために買ってくれたんだよ。
俺は守ってもえらえんだよ。、怖いもんなんてねーんだよ。」
http://ameblo.jp/jibiinkouka/entry-11346165087.html

神作譲にセルシオやベンツを買ってやる『スゲー バック』というのが女子高生コンクリート詰め殺人の黒幕で、日本の 右翼=在日ヤクザ を使って麻薬売買や幼女売春やスナッフビデオで稼いでいる某組織なんですね。

サンケイや文芸春秋グループを使って南京大虐殺や従軍慰安婦強制連行を否定する活動をしているのもこの組織でしょうね。


飯島愛がコンクリート殺人事件に関与したと倉地明美が証言!


・ 飯島愛が綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件関係者に脅されまくっている

・ 倉地明美にも圧力がかかっているので有名なヤクザに守ってもらっている

・ 飯島愛の綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件を深く探った者は殺されている

・ 飯島愛の綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件との関与に関わる事を書くと命を狙われる。

・飯島愛ちゃんは、怖い人に守られている

・暴露本出したから脅された

・コンクリにかかわると死人が出る

・私はさらに怖い人をバックにつけてる
(コンクリ犯人達さえも圧力をかけられる程の大きなバックとは?)
http://unkar.org/r/4649/1231013534
http://ecoecofun.blog121.fc2.com/?mode=m&no=2

   (((((((( ;゚Д゚)))))))ガクガクブルブル


( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \


差出人 : クラッチからのメッセージ

日 付 : 2008年04月19日 00時29分
件 名 : Re: わたし


飯島愛だって脅されまくっていて大変だと思うよ。

でも、自業自得。

あたしはもう飯島愛とは関わりたくない。

アイツだっていつまで命あるかわからないよ。

普通に考えてあんなに急に引退するのは変でしょ?

なべプロがお手上げになったんだよ。

かばいきれなくて。

じゃなかったら一応売れっ子だったんだから首にはしたくなかったと思うよ。

飯島愛も多分お金無いんじゃないかな。

昔の万引きじゃないからね、人の命の問題だから無理だよ。

出所してきた人もみんなヤクザだし。

あたしもおとなしくしていたい。

とにかくお互いにこれで終わりにしよう。

最後に聞く耳もってくれて良かった。

それだけ。

http://hidebbs.net/bbs/3free?s=t&n=42414014&m=5


           _ -―´ ̄ ̄ ̄`ヽ、
          ,/ ,===''⌒''== 、、
        / ,=          ヽ
       /  ,='  _  ∧_ _,,
      /,,_ {i ,〜 〜  /´ ハ^、_
        ヽi} / /   / ヽ_/ ヽ__,,\
         { | _|__,,/ /  ̄ \ヽ
         ヽ | _|∠_// ┬―ゥ ヽ
          |`、ヽ.__ノ    ヽ-‐' _/
  r"      | |{i t    _     / |
 (   =‐'  | | i} > 、___ヽノ_ ,ィ リ| l| |
  ゝ-'     // i} / }-‐斤ヒl、__| l| |
    r、   //,,i} //}} l|》o《|! {{`lヽ
   __ゝ |i}^V'' __/  }}  ハ  {{ |
   ヽ  ノ'  `j    }}  /X |  {{  |

組織の事を暴露しようとした飯島愛は呪われたものとなった

詳細は

コンクリ事件とロリータ・デートクラブ 『プチエンジェル』の背後にいたのは?
(『殺人容疑で捜査継続検討 島根の女子大生遺棄事件』へのコメント )
http://www.asyura2.com/11/nihon30/msg/541.html

カルトの世界 _ 創価学会とオウム真理教を背後から操っている組織とは…
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/215.html

闇の組織とは? _ 創価学会は鳥人コンテストが好き?
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/270.html


108. 2013年1月04日 16:43:48 : TRT7glc1jI
吉田 清治(よしだ せいじ、1913年(大正2年)10月15日 - )は福岡県(山口県とも)出身の元日本陸軍軍人であり作家。強制連行犠牲者遺骨祭祀送還協会の元会長。清治は筆名で、本名は吉田雄兎。戦後30年を経て慰安婦問題の嚆矢となる『私の戦争犯罪』を上梓したが後に創作であることが判明、本人も認めた.

上杉聰は吉見義明・中央大学教授とともに清治と面談した結果、「吉田の証言を嘘と断定することはできないが、「時と場所」という歴史にとってもっとも重要な要素が欠落したものとして、歴史証言としては採用できない」としている.

98年、歴史学者秦郁彦氏に対し、人権屋に利用された私が悪かったと発言。

もう、こいつのウソは終わっているのだが。

ながーーーーいコビペで議論にならないようにさせているようだが、左右どちらからもこいつは相手にされていないよ。
謂わば慰安婦問題の森口尚史みたいなもの。
恥知らずのお騒がせ野郎でしょ。慰安婦の強制連行否定派・肯定派両方から相手にされていない嘘つきでしょ。


109. 中川隆 2013年1月05日 21:35:56 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

秦郁彦は資料捏造・改竄の常習者で歴史学会では誰からも相手にされていない悪名高い詐欺師


>「時と場所」という歴史にとってもっとも重要な要素が欠落したものとして


朝鮮では売春婦の家系はまともな職業につけない。
従軍慰安婦をしていた事がわかると家族は結婚できなくなるし、娘や妹も売春婦以外の仕事ができなくなる。

済州島の人達が必死に吉田清治証言を否定したのはその為だよ。

吉田清治はそういう事情を最初から良く知っていたので時と場所を正確に書かなかった。

>もう、こいつのウソは終わっているのだが。

家族を誘拐して殺すと脅迫されたから、仕方なくそう言っただけだろ。


110. 中川隆 2013年1月07日 10:42:23 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM

朝鮮での慰安婦強制連行の証言は吉田清治以外にも有るしね:

慰安婦:「動員には強制性あり」=米政府機密文書


 日本の安倍首相の「従軍慰安婦を強制的に連行したということを裏付ける証拠がなかった」という発言が、大きな波紋を呼んでいる中、これに真っ向から反対する米国政府の機密文書が4日確認された。

 1945年4月当時、中国雲南省昆明で韓国人と日本人の捕虜の取り調べを行っていた米陸軍の調査報告書によると、調査対象となった韓国人23人の中には日本軍の慰安所で妊娠したパク・ヨンシムさんも含まれていたという。

 また、

「1943年7月に韓国を後にした15人は、シンガポールにある日本の工場で女性職員を募集しているという朝鮮新聞の広告を見て集まった」

とされており、

「これら女性職員とともに南に向け移送された人々の中には、同じような手口でだまされ、連れて来られた少女が少なくとも300人余含まれていた」

という。これは、巧妙な手口で強制的に連行していったということを物語っている証拠にほかならない。

 これまで米国立文書保管所で機密文書として保管されてきた報告書が公開されたことにより、慰安婦の動員には強制性はなかったという日本政府の主張からは、根拠が薄らいでいく見通しだ。

 また、米議会で審議が進められている「慰安婦に対し謝罪を要求する決議案」の採択にも、拍車が掛かることが予想される。


______


『ある日赤紙が来て』 真鍋元之著  1981

1942年頃、平陽鎮の軍専用慰安所
つねに満員だったと言う。

「私の馴染んだ慰安婦は、職業用の日本名をミサオと呼んでいた。生家は江原道のもっとも貧しい農家だったが、ある日突然村長がやってきて

「軍の命令だ。お国への御奉公に、娘を差し出せ」

という。御奉公の意味がすぐに分かったので、父母は手を合わせ声の限りに哀号を繰り返したが、村長は耳を貸さない。この面(村)へ8名の割り当てが来たが、面には娘は5人しかいないから、ひとりも容赦はならぬ、とニベもなく言い放つ。村長の背後では、刀を吊った日本人の巡査(警官)が、肩をそびやかせている。

5名の村娘が、石ころのようにトラックに乗せられ、村境の土橋を渡ったのが、故郷との別れであった。文字が書けないので、家族の安否を、手紙で問い合わせる事もできない。・・・」
http://d.hatena.ne.jp/kounodanwawomamorukai/20121208/1354914020

日本政府も証拠書類をすべて焼却して証拠隠滅は完璧だと思っていたんだろうけど、慰安婦が生き残っている限り真実は隠し通せないんだよね。



111. 2013年1月09日 04:29:27 : h2GJLo0ZWI
自称慰安婦の証言などなんの意味もない。
「強制連行」の「証言」があるから何だというのか。
私が中川隆に強制連行されたと証言したらそれを認めるのか?

112. ひのまるたろう 2013年1月09日 23:31:22 : AycSV839u2bpE : vh1r6kz3sI
>>111
証言して録画してyoutubeにupしてみて
書き込みだけならネトウヨでもできる
それ見たら認める気がする
勇気と信念はもちろんのこと中川隆に強制連行されたと思うかも

113. ひのまるたろう 2013年1月11日 00:41:59 : AycSV839u2bpE : vh1r6kz3sI
>05
>「従軍慰安婦」を書いた吉見義明ですら1997年1月3日の朝まで生テレビで「植民地での奴隷狩り強制連行は確認されていない」と吉田の証言の信憑性を否定しているのに、未だに信仰している時代錯誤の信者っているんだね。         


              2012年10月23日
大阪市長 橋下徹様
                           中央大学 吉見義明

 今年8月24日のいわゆる囲み取材において、あなたは日本軍「慰安婦」問題に言
及し、「吉見さんという方ですか、あの方が強制連行の事実というところまでは
認められないという発言があったりとか」と述べていますが、これは明白な事実
誤認であり、私の人格を否定し、名誉を棄損するものです。この発言を撤回し、
謝罪することを要求します。

 私は、1991年末から日本軍「慰安婦」問題の研究をはじめ、これまでに、『従
軍慰安婦』(岩波書店・1995年)、『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』
(共著・大月書店・1997年)、『ここまでわかった! 日本軍「慰安婦」制度』
(共著・かもがわ出版・2007年)、『日本軍「慰安婦」制度とは何か』(岩波書
店・2010年)などで、日本軍「慰安婦」制度は軍が作り、維持し、拡大していっ
た性奴隷制度であり、被害者の女性たちは強制連行され、強制使役された、と述
べています。発言される前にこれらの著作を見ていれば、上記の発言が誤りであ
ることはすぐに分かったはずです。

以下略
検索したら出てきた


114. 中川隆 2013年2月01日 13:05:29 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

中国・フィリッピンの被害者の証言には、軍による強制連行が多い。インドネシアでもこのケースの証言が少なくない。被害者の証言以外では、インドネシアの事例が明らかになっている。

ジャワ島スマランなどでオランダ人女性を強制連行したケースやスマランからフローレス島へオランダ人・インドネシア人女性を連行したケース、ボルネオ島ポンティアナックで地元女性を連行したとみられる事件、モア島で軍が強制連行したとする裁判資料、サバロワ島で地元女性を連行したっとする証言、アンボン島で地元女性を連行したとする証言などがある。

秦郁彦教授でさえフィリッピン「慰安婦」の証言について「多くは事実を反映している」と述べているほどである。


陸軍第117師団長・鈴木啓久(ひらく)中将

「私は巣県に於て慰安所を設置することを副官堀尾少佐に命令してこれを設置せしめ、中国人民及朝鮮人民婦女20名を誘拐して慰安婦となさしめました」

「日本侵略軍の蟠居する所には私は各所(豊潤、砂河鎮、其他2,3)に慰安所を設置することを命令し、中国人民婦女を誘拐して慰安婦となしたのであります。其の婦女の数は約60名であります」

(特集「侵略の証言」『世界』98年5月号)


115. 実証する気のない韓国 2013年2月17日 12:56:33 : j5FLQkXqH3m1c : cKoZj2mzJ2
早く解決してよ。韓国側が、証拠を隠すから解決しない。これは意図的に感じる。政治カードとして、温存したいから??韓国側が証拠を出さないのが原因だから、韓国側の責任だ。強制連行されていない慰安婦が、証言するのは、ナンセンス。プロパガンダとしての悪意を感じる。元慰安婦の生活や待遇の改善が目的なら、強制連行は否定したうえで、条件をつめればよい。

116. 中川隆 2013年2月17日 16:51:13 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
日本政府が証拠隠滅して、事実を知っている関係者が全員死ぬのを待っているんだよ:


証拠隠滅

ポツダム宣言を受諾した後、大日本帝国は植民地や日本軍の全部隊に証拠書類の焼却処分を指示したのである。
__________________________

戦犯裁判の証拠にされるのを恐れた日本政府とくに陸海軍は、終戦の日から「公文書は破棄すべからず」との連合軍指令が届くまでの数日間に多量の機密文書を焼却、そのため霞ヶ関の空は暗くなったと言われる。
(『昭和史の謎を追う[下]』 秦郁彦 著 P140)
_________________________

また当時の内務省財政課事務官(課長)だった 奥野誠亮 氏もこう述べている。
________________________

「公文書は焼却するとかといった事柄が決定となり、これらの趣旨を陸軍は陸軍の系統を通して下部に通達する、海軍は海軍の系統を通して下部に通達する、内政関係は地方総監、府県知事、市町村長の系統で通知するということになりました。」

「15日以降は、いつ米軍が上陸してくるかもしれないので、その際にそういう文書を見られてもまづいから、1部は文書に記載しておくがその他は口頭連絡にしようという事で、小林(与三次)さんと原文兵衛さん、三輪良雄さん、それに私の4人が、地域を分担して出かけたのです。」

(自治大学校史料編集室編 『山崎内務大臣時代を語る座談会』 より)
________________________

この 奥野誠亮 氏は「慰安婦問題」で、「証拠があるなら出せ」と言っていたが、いやはや何とも言いようの無い人である。証拠を隠滅したから、もう大丈夫だと思っている知能犯に似ている。

だが政府や軍の資料だけが、証拠ではない。目撃証言もあれば、元軍慰安婦達の証言もあるからだ。


朝鮮総督府の証拠隠滅の現場

こうして通達を受けた朝鮮総督府は証拠を隠滅した。
_______________________

焼かれた大量の行政文書(証拠書類)

朝鮮総督府の臨時雇いであった長田かな子は、1945年8月15日、「玉音放送」を聞いた後、総督府の「中央ドーム真下」の部屋に戻って呆然としていた。そこへ「本課から職員が来て、「燃やして燃やして」とせっかちにいう。気がつくと、庁舎の各階の窓からポンポンと書類を投げ下ろし、油をかけて焼却している。抜けるような青空に、無数の灰が粉雪のように舞った。黒い煙が太く立ちのぼった。誰も無言で、ただ機械的に書類を中庭に投げおろした」と記している。こうして敗戦の詔勅の放送と同時に、重要書類の焼却が始まった。

(長田かな子「45年8月15日」 『季刊三千里』1982年秋号より【日韓歴史共通教材】より
日韓交流の歴史 先史から現代まで)
_________________________

こうして大日本帝国政府と軍の証拠書類を、約8割は焼却したと言われているのです。
http://194586245.web.fc2.com/24.html



117. 2013年2月27日 20:47:57 : QKj2V8oUfM
評価に値せず。

118. 2013年3月03日 03:44:19 : nIajLy79xE
ここで重要なのは慰安婦問題が真実なのかどうか
なのに慰安婦問題の残虐性や、意味のないAAをダラダラと載せているのは理解出来ません
そもそもそれらが嘘か真かどうかで善悪がひっくり返ってしまいますし、感情的な煽動を狙っているような文面ばかりで読む気が失せてしまいます
そして、真偽するための判断材料と各コメントに対する反証が欠けています

まぁ、だいたいこのようなWEBサイトはコメントなんて求めず、プロパガンダのように思想を拡散させようとしているのが大半ですが、ここではそういうような指向性は強く感じませんけどね
そうしたいのならば都合の悪いコメントなんて載せませんし
そこは評価出来ます


119. 2013年3月07日 20:39:45 : XFwrMyziEQ
何故当時の韓国だけ限定で慰安婦が居たのか?
他の国では報告がないのに戦後政府がお金をばら撒く始末、共産主義者や現民主党・元民主党員は現実を直視できない狂言者の集まりであることが伺える。

120. 中川隆 2013年3月10日 09:26:59 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

慰安婦強制連行を疑っている研究者は一人もいないんだから、ど素人が何を言っても意味無いよ:


元日本兵の証言に見る日本軍慰安婦    林 博史


 これはある雑誌に依頼されて1ページないし2ページのコラム用に書いたものです。いくつかコラムが作られる予定だったのですが、他の執筆者が書かなかった(?)ためにコラム全体が、企画からはずれてしまい、この原稿も宙に浮いてしまいました。内容はすでに『戦争責任研究』のなかで紹介されているものばかりで目新しいものはありませんが、コンパクトにまとまったコラムとしては意味があるのではないかと思います。

 なおこうした日本軍将兵たちの記した慰安所・慰安婦についてくわしくは、拙著「資料構成 戦争体験記・部隊史にみる“従軍慰安婦”」(『戦争責任研究』第5号、1994年9月)などをご参照ください。  1999.4.1


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 日本軍を弁護する人たちはしばしば元日本兵の証言を出し元慰安婦の証言を否定しようとする。しかし元日本兵のなかには逆のことを率直に語ってることも多い。ここではそうした証言をいくつか紹介したい。

元サンケイ新聞社社長鹿内信隆は桜田との対談で、陸軍経理学校時代の話が「慰安所の開設」になったとき、次のように語っている。


「そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が将校は何分、下士官は何分、兵は何分――といったことまで決めなければならない(笑)。

料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが『ピー屋設置要綱』というんで、これも経理学校で教わった。」
(桜田武・鹿内信隆『いま明かす戦後秘史』)


慰安所を担当した主計将校に慰安婦の選別の基準まで軍で教育していたことがわかる。

中国にいたある主計将校は師団の参謀から

「至急民家を改装して兵隊用の慰安所を作れ。ついでに洛陽で女も集めて来い」と命令され「塩を二、三俵トラックに積んで、洛陽市内に女狩りに赴」き十数人を集めたことを語っている(宮谷重雄「わが戦記恥さらし」)。


アンボン島にいた海軍の主計将校の証言によると、参謀が四つの慰安所を設置し百名の慰安婦を「現地調達」する案を示した。それは

「日本将兵とよい仲になっているもの」を「密告」などによって探し出し「その中から美人で病気のないもの」を選ぶ

という計画だった。この主計将校はこのことを「慰安婦狩り」と呼び

「クラブで泣き叫ぶインドネシアの若い女性の声を私も何度か聞いて暗い気持ちになったものだ」

と回想している(坂部康正「アンボンは今」)。

シンガポールで慰安所が開設された時、部下の衛生兵がしょんぼりとして帰ってきたので問いただしてみると、

「四、五人すますと『もうだめです。体が続かない』と前を押えしゃがみこんでしまった」

安婦を係りの兵がその「手足を寝台に縛りつけ、『さあどうぞ』と戸を開けた」。

それを見たその衛生兵は逃げ帰ったという話をある将校が記している(総山孝雄『南海のあけぼの』)。


スマトラで憲兵として慰安所に巡回で出入りしていた元憲兵は親しくなった朝鮮人慰安婦から

「私達は好き好んで、こんな商売に入ったのではないのです」

と打ち明けられたことを記している。

「従軍看護婦」などの名目で騙されたこと、当初は「毎日泣きながら過した」こと、さらに

「汚れたこの体はどう見たって昔の私には戻らない。親や兄妹に会せる顔もないでしょう」

「どうせ帰れないんだから、友達とお金を貯めて、どこかこっちで何か商売でもしようと相談しているの」

「皆な大声で笑ったり、噪いだりしているけれど、心では泣いているんです。死のうと思ったことも何度もあるんです。この気持ち解ってもらえるかしら」

と涙ぐみながら聞かされたと語っている。彼は憲兵として彼女らの徴集のされ方を知っていたのである。


一見快活に見える彼女らの哀しみを理解できる兵士もいた。元兵士たちの回想を丹念に読んでいくと、日本軍が実質的に慰安所を管理し、時には自ら「慰安婦狩り」を行い、慰安婦に性暴力を強いていたことが浮かび上がってくる。

そのことは「募集や契約にさいし(略)日本軍(国)は、その実態を知る立場になく」(秦郁彦)などという弁解がサンケイグループのトップの証言を含めて都合の悪い元日本兵の証言には頬かむりした虚像でしかないことを示している。
http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper02.htm


121. hoihoi 2013年3月11日 18:56:00 : MU8m8JPkVR3I. : j8RLmvFlPI
そんな証言は金のためなら何とでもなる。


http://www.youtube.com/watch?v=9bOw0uhgfrY

http://www.youtube.com/watch?v=ijYLNvUPU_A


122. KIM 2013年3月12日 09:55:23 : IWlnylH73ffpY : Fchj96X6Tk
誰が言っている事が正しいかは、各々で判断するしかない。
慰安婦強制連行があったと告発したとされる人物は一人で行えるはずも無く、少なくとも公文書は無くとも書かれた事実に対し、複数の加害者関係者、被害関係者が名乗り出なければ、本を売る為の詐欺師と言われてもしかたない。
強制連行が無かったとする新聞記事を韓国人の自尊心だとするなら、何でも自尊心の為「嘘」になってしまう。その自尊心の高い韓国人がわざわざ世界に自国の恥を広めているとは考えにくい。
インドネシアでは実際公文書もあり、慰安婦の強制連行があった。オランダ人、インドネシア人の方々には謝罪しなければならない。しかし、インドネシア政府は戦争では当前の事とし、各個人及び国の「自尊心」ゆえに慰安婦に対する賠償金の受け取りを拒否し、やっと老人福祉の名目で受け取ってもらえた。
盧泰愚からの韓国の主張に方持つ人々には、もっと単純に素直にインドネシアと韓国の主張と行動を比較検討して欲しい。

123. 中川隆 2013年3月12日 10:12:07 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

朝鮮は儒教の国だから、慰安婦をやっていた事がばれると

家族は村八分にされる
妹や娘は売春婦以外の仕事はできなくなる
家族は結婚できなくなる


それで慰安婦は自分の過去を知られるのを極端に恐れて一切口外しなかった。
吉田清治は朝鮮のそういう状況を良く知っていたから、強制連行の場所・日時は故意にぼやかした。


まあ、日本女性もソープで働いていた事がわかったら結婚できなくなりますけどね。

吉田清治の著書『私の戦争犯罪』(1983年)が韓国語訳されて朝鮮に元慰安婦が多数いるのが朝鮮人にも知られてから慰安婦の証言が始まった:

Bさんはシンガポールや東ティモールなどで慰安婦として過ごした。

「何度も死のうとした。一緒にいた女性は自殺した。軍人の相手をしている途中で自殺したそうだ。日本軍に利用された。当時はいっそ死んだ方が楽だった」

と話した。 5年ぶりに故郷に戻ったが、母親が自分の娘だと気付かなかったと話す元慰安婦もいる。

 委員会側は被害事実の公表をためらう元慰安婦の要望に応じ、実名公開に同意した1人を除いて11人を匿名にし、生まれ年以外の個人情報は公開しなかった。”
http://ccp58800.blog25.fc2.com/blog-entry-1445.html

 戦後も置き去りにされ、故郷に帰れなかった女性も多くいましたが、過酷な日々を生き抜いて帰国を果たしても、女性たちの戦後は苦難の連続でした。家父長的な貞操観念の強い朝鮮民族の社会では、性暴力の被害体験を「恥」とし、息を潜めて暮らさざるをえませんでした。心身を患い、性病や不妊症に苦しむ女性も少なくありません。

 1991年、「慰安所」に連れて行かれた少女たちは、50年近い沈黙を破り、日本政府への謝罪と賠償を求めて声をあげ始めました。少女たちは、すでにおばあさんになっていました。

長い沈黙を破り、声をあげたのは、日本の政治家たちが

「『慰安婦』はいなかった」

と彼女たちの存在を否定し、尊厳を傷つけたからです。

「このまま、なかったことにされたままでは死ねない」

「二度と、こんなことは起きて欲しくない」

これはおばあさんたちからのメッセージです。
http://www.ianfu-kansai-net.org/QandA.html


124. NHKが慰安婦問題の国会動画を削除した 2013年3月14日 16:14:50 : PhCl3Zvm8l6oo : q5XRFI49vk
証言だけ

現在の韓国朝鮮人が真面目で正直者が多く 
日本に有益な人々となっていれば
ほんの少し考慮してもいいいけど

国家あげての反日教育を受けた人々のいう事は信じられないね
根本に日本憎しがあるから真実は言わないよね
お金も貰えるし 優越感もあるだろうね

何にせよ 物証が大事なんじゃないですか?

証言を信じる人達で 自称慰安婦さんに賠償なり謝罪したらどうでしょうか?
朝日新聞あたりが音頭をとって初めて下さい。


125. 2013年3月17日 00:54:35 : W18zBTaIM6

日本政府関係者はみんな慰安婦が早く死ぬのを待ってるのさ。

金払わなくても良くなるからね。


126. とおりすがり111 2013年3月18日 08:23:06 : k3KMGHHgRe7jw : oNlfHQIM6Q
中川隆もキチガイだということがよくわかる.まともな奴はこんなクソ記事相手にしない.

127. 2013年3月26日 00:49:04 : mSv4TgU9nQ
慰安婦問題については、はっきりとした表明をするべき
河野談話は破棄するべき。
補償もしたことを韓国の人たちに知れるように、韓国の政府・マスメディアをよんで、戦後補償にいくら使ったのか、慰安婦にいくら払ったのかそれを伝えるべき。
条約を結んだのなら、それを遵守するように、促すべき。
それができないのなら制裁をするべき。
竹島問題とか、仏像問題とか色々あるけど、一つ一つ解決していくべきだけど慰安婦問題はアメリカ、シンガポールなどで活動されているのだから国際問題になる前に正々堂々と、速やかに肩つけるべき問題。

韓国との外交が崩れたとしても、今のままではいずれまた同じ問題を繰り返すだけ


128. 中川隆 2013年3月26日 19:34:19 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

日本政府の「元慰安婦への賠償は日韓条約で解決済み」論は破たんしていることを示す論文の紹介

1.国連における議論

2.国会における答弁

3.2000年11月2日付け一審被告準備書面に対する反論

「日韓協定により解決済」論について


第一 国連における議論

一 日本政府は、国連において日本の戦後補償問題が討議されるたびに、「日韓協定により解決済」論を主張してきた。

 しかし、それは左記のように、「日韓協定は経済協力問題を扱ったものであり、被害者の人権に関する条約ではない」「日韓会談において『慰安婦』問題が討議されたことはない」などの理由で一蹴されてきた。


二 国連人権委員会クマラスワミ報告書(1996年)

「特別報告者の見解によれば、サンフランシスコ講和条約も二国間条約も、人権侵害一般に関するものでないばかりか、とくに軍事的性奴隷制に関するものでもない。当事国の『意図』は『慰安婦』による特定の請求を含んではいなかったし、かつ同条約は日本による戦争行為の期間中の女性の人権侵害に関するものでもなかった。したがって、特別報告者の結論として、同条約は、元軍事的性奴隷だった者によって提起された請求を含まないし、かつ日本政府には未だに国際人道法の引き続く違反による法的責任がある。」

三 マクドゥーガル報告書(1998年)

「…この条約が当事国間の『財産』請求問題の解決を目指した経済条約であり、人権問題に取り組んだものでないことは明白である。…韓国側代表が日本に示した請求の概要を見れば明らかなとおり、この交渉には、戦争犯罪や、人道に対する罪、奴隷条約の違反、女性売買禁止条約の違反、さらに国際法の慣習的規範の違反に起因する個人の権利侵害に関する部分は全くない…したがって、日韓協定第二条で使用される『請求権』という用語は、このような事実が背景にあるという文脈で解釈しなくてはならない。

日韓協定に基づいて日本が提供した資金は、明らかに経済復興を目的としたものであり、日本による残虐行為の個々の被害者に対する損害賠償のためのものではない。1965年の協定はすべてを包含するような文言を使用しているが、このように、二国間の経済請求権と財産請求権のみを消滅させたものであり、個人の請求権は消滅していない。したがって日本は、自己の行為に現在でも責任を追わねばならない。」

四 このように、「経済協力により戦後補償問題が完全に解決した」との日本政府の主張は、国際社会に全く受け入れられていないのである。


第二 国会における答弁

 一 日本政府は、日韓協定締結以後、右協定により韓国人に対する戦後補償問題は完全に解決済みになったと繰り返し表明してきた。
 しかし、1991年8月27日以降の国会答弁においては、政府は日韓協定の規定は外交保護権の放棄にすぎず、個人の請求権は消滅していないことを認めるようになった。

二 右の答弁の変遷は次のような経緯によるものである。
 1991年3月26日、参議院内閣委員会において、シベリア抑留者のソ連に対する請求権について、次の質疑が行われた。


「翫正敏議員 …条約上、国が放棄をしても個々人がソ連政府に対して請求する権利はある、こういうふうに考えられますが、…本人または遺族の人が個々に賃金を請求する権利はある、こういうことでいいですか。

 高島有終外務大臣官房審議官 私ども繰り返し申し上げております点は、日ソ共同宣言第六項におきます請求権の放棄という点は、国家自身の請求権及び国家が自動的に持っておると考えられております外交保護権の放棄ということでございます。したがいまして、御指摘のように我が国国民個人からソ連またはその国民に対する請求権までも放棄したものではないというふうに考えております。」(甲六三号証)

 質問が日本人の権利にかかわるものであったため、政府は日ソ共同宣言によって個人の請求権が消滅するものではないことを右のように明確に答弁した。ところが、右の答弁を引用して日韓協定について質問された場合、これとの均衡上、日韓協定も外交保護権の放棄に過ぎないことを明かさざるを得なり、1991年8月17日以降、左記のような一連の答弁がなされたのである(甲六四号証)。


1 1991年8月27日 参議院予算委員会 

「政府委員(柳井俊二君) …先生御承知のとおり、いわゆる日韓請求権協定におきまして両国間の請求権の問題は最終かつ完全に解決したわけでございます。その意味するところでございますが、日韓両国間において存在しておりましたそれぞれの国民の請求権を含めて解決したということでございますけれども、これは日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したということでございます。したがいまして、いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません。日韓両国間で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることはできない、こういう意味でございます。」


2 1992年2月26日衆議院外務委員会
 
「柳井政府委員 …それで、しからばその個人のいわゆる請求権というものをどう処理したかということになりますが、この協定におきましてはいわゆる外交保護権を放棄したということでございまして、韓国の方々について申し上げれば、韓国の方々が我が国に対して個人としてそのような請求を提起するということまでは妨げていない。しかし、日韓両国間で外交的にこれを取り上げるということは、外交保護権を放棄しておりますからそれはできない、こういうことでございます。

…その国内法によって消滅させていない請求権はしからば何かということになりますが、これはその個人が請求を提起する権利と言ってもいいと思いますが、日本の国内裁判所に韓国の関係者の方々が訴えて出るというようなことまでは妨げていないということでございます。

…ただ、これを裁判の結果どういうふうに判断するかということは、これは司法府の方の御判断によるということでございます。」


3 1992年3月9日 衆議院予算委員会

「伊東(秀)委員 …今法制局長官がお答えくださいましたように、外交保護権の放棄が個人の請求権の消滅には何ら影響を及ぼさない、とすれば、全く影響を受けていない個人の請求権が訴権だけだという論理が成り立つか否かという見解、解釈を伺っているのでございますが、いかがでしょう。

…工藤政府委員 訴権だけというふうに申し上げていることではないと存じます。それは、訴えた場合に、それの訴訟が認められるかどうかという問題まで当然裁判所は判断されるものと考えております。」


三 以上の一連の答弁は、総合すると、次のような趣旨である。

 1 日韓協定は外交保護権を放棄したもので、個人の権利を国内法的に消滅させたものではない。

 2 「財産、権利及び利益」については措置法で国内法的に消滅させたが、「請求権」はその限りではない。

 3 「請求権」について韓国人が日本の裁判所に訴訟を提起することができる。
 4 右の場合に請求が認められるか否かは裁判所が判断することである。

 日本政府は「韓国人個人に請求権あり」と明言するのを避けようと意図的に曖昧な言い回しをしているが、結局は日韓協定によって請求権が消滅していない旨の答弁であることは明らかである。

 不二越に連行された元勤労挺身隊員が賃金を請求した事件においても、富山地裁は1991年8月27日に国が初めて個人の請求権が未解決であることを認めたことを前提として、その日から賃金請求権の消滅時効が進行すると判示している(1995年7月24日富山地判 判タ九四一号一八三頁)。

第三 2000年11月2日付一審被告準備書面に対する反論

 一 一審被告の主張は、政府の国会答弁をさらに後退させたものである。その論旨は錯綜しているが、要旨左記のようなものであると考えられる。

1 日韓協定二条一項の規定

 1965年、日本が韓国に無償3億ドル有償2億ドルの経済援助を約束する一方、日韓協定二条一項は「両締結国は、両締結国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両締結国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサンフランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」と規定した。


2 日韓協約二条三項の規定の意味

 同協約は二条三項において「2の規定(在日韓国人の財産についての例外)に従うことを条件として、一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であってこの協定の署名の日に他方の締約国の管轄の下にあるものに対する措置並びに一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であって同日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとする」と規定した。この規定は「財産、権利及び利益」と「請求権」の問題について、日韓両国が外交保護権を相互に放棄したものである。

3 「財産、権利及び利益」と「請求権」の区別

 右に言う「財産、権利及び利益」とは、合意議事録2(a)により、法律上の根拠に基づき財産的価値を認められるすべての種類の実体的権利をいい、それ以外の「請求権」とは、実体的権利とはいえないいわゆるクレイムを提起できる地位をいうことが、日韓両国で了解されている。


4 措置法による「財産、権利及び利益」の消滅

 右のうち「財産、権利及び利益」については、1965年12月17日の措置法により国内法的にも消滅した。この措置法は日本国憲法に違反するものではない。


5 「請求権」の消滅

 右のうち「請求権」については、クレイムはそもそも国内法上は根拠のないものであり、クレイムを提起できる地位は個人ではなく国家のみが有するから、韓国が外交保護権を放棄したことにより救済される余地はなくなり、最終的に解決した。


6 したがって、韓国の被害者個人が日本で訴訟を起こす権利は否定されることはないが、我が国の裁判所において、その請求が認容されることはない。

7 このように日韓協定により一審原告らに対する賠償の問題は日韓協定により解決済であるから、国会が立法義務を負う余地はない。また、柳井条約局長らの答弁も前記の趣旨で一貫しているから一審被告らが不法行為責任を負うこともない。


二 これについて、一審原告らの認否と反論を必要な範囲で述べる。

1 日韓協定二条一項について

 日韓協定二条一項に前記の文言のあること、それが無償3億有償2億の経済援助の約束と並行して締結されたことは一審被告の指摘の通りである。

 ちなみに、一審被告が「膨大な金額の資金援助」という無償3億ドルは当時の為替相場で1080億円にあたる。これは、日本人への戦後補償に費やされた約42兆円(恩給法、援護法による給付)の0.25%に過ぎない。さらにその1080億円の無償資金のうち被害者の補償に使用された金額は5.4%にあたる58億円に過ぎなかった。

 また、一審被告は「韓国側が請求権を始めとする多くの問題について、日本側の立場と相いれない主張をなすにいたって、短期交渉の見通しは完全に失われるにいたった」というが、会談の当初において紛糾の最大の原因となったのは、今日の政治家の妄言の原型ともいうべき、植民地支配に対する反省の欠如した久保田首席代表の発言をめぐってであった。

 そして、一審被告もわざわざ主張しているように(準備書面一三頁)、日本国は「賠償の性格を持たない経済援助」によって国家間の賠償が最終的に決着したという非論理的な説明を、当時も現在も行っているのである。侵略と植民地支配への謝罪と賠償を怠りこのような曖昧な解決を行おうとしたことが、戦後55年経過した今日に戦後補償問題を残す禍根となったのである。

2 日韓協定二条三項の趣旨

 政府が個人に代わってその請求権を消滅させる協定を結ぶことはできない。一審被告の主張の通り、日韓協定二条三項は個人の権利を消滅させるものではなく、外交保護権の相互放棄を定めた規定にすぎない。

 このことは実は協定締結当時から日本政府は十分に意識していた。当時の外務省外務事務官の谷田正躬は日本国民の在韓財産について次のように説明している。

「協定二条3の規定の意味は、日本国民の在韓財産に対して、韓国の執る措置または日本国民の対韓請求権(クレーム)については、国が国際法上有する外交保護権を行使しないことを約束することである」…「その財産権の消滅はこの協定によって直ちになされるのではなく、相手国政府の行為としてなされる」(甲六五号証六四頁)


3 「財産・権利及び利益」と「請求権」の区別について

1) 一審被告の指摘の通り、日韓協定の文言のうち「財産、権利及び利益」とは「法律上の根拠に基づき財産的価値を認められるすべての種類の実体的権利をいう」と合意議事録に規定されている(乙一四号証一六二六頁)。

 しかし、「請求権」の定義については右の合意議事録や付属文書には何の規定もない。したがって、「それ以外の『請求権』とは、実体的権利とはいえないいわゆるクレイムを提起できる地位をいうことが日韓両国で了解されている」との一審被告の主張(準備書面一四頁)は事実に反する。右の主張は一審被告ないし、一審被告の引用する解説者の解釈にすぎず、その根拠も明らかでない。

2) ところで、外交保護権とは私人が他国の国際違法行為によって損害をうけた場合、その属する本国がこれを保護する国際法上の権利である。そして外交保護権行使の要件として国籍継続の原則とともに国内的救済の原則がある。すなわち、事前に被害者である私人が加害国の国内法上利用できる一切の国内的救済手段をつくしていなければならないのである。(以上は国際法の概説書には必ず記載されているところであるが、さしあたり、山本草二「国際法 新版」六五四頁以下、田畑茂二郎「国際法新講 下」五〇頁以下)

 したがって、一般の場合には外交保護権の行使が可能な段階であれば、国内的救済手段はつくされているはずである。すなわち、被害者の請求権は、結果的に、加害国の国内法上(実体法または手続法の)根拠をもたなかったことになる。この場合には「財産、権利及び利益」=国内法上に根拠をもつ権利、「請求権」=国内法上に根拠をもたない外交保護権によってのみ救済される権利、という一審被告の分類もそれなりの理由がある。


3) しかし、国内的救済の原則には例外があり、被害を受けた私人が自らの自由意思に基づかずに相手国の管轄下にあった場合には右原則は適用されない(田畑前掲五三頁)。本件の一審原告はすべて欺罔または強制により大日本帝国の領土または軍占領地域に連行されて被害を受けたのであるから、国内的救済の原則は適用されない。したがって、一審原告らの場合、外交保護権の行使が可能であるかという問題と請求権に国内法上の根拠があるかという問題は何の関係もなく、前記の一審被告のような分類は不可能である。


4) 日韓協定にいたる両国間の交渉の経緯においては、日本人(法人を含む)が韓国に残してきた土地所有権、工場設備などの財産権の処理が大きな問題となった。日本はこれらの財産権により韓国側の請求権を相殺することを強く主張したのである。

 「財産、権利及び利益」との文言は直接的にはこのような日本人の在韓財産の処理に向けられたものであった。これは、前掲谷田正躬が二条三項の説明の大部分を日本人の在韓財産の帰趨についての説明に充てていることからも伺うことができる。

 右の経緯に照らせば、「財産、権利及び利益」とは、土地所有権や工業設備などを典型例とする、存在の明らかな物権や確定した債権をいい、「請求権」とは協定締結当時必ずしも権利の有無が明確ではなかった権利を指したと解するのが妥当である。

 すなわち、存在が明らかな物権や債権については、両国が国内法により相手国、及び相手国民の権利を消滅させ、相手国はこれに対して外交保護権の行使をせず、自国民に相応の補償を与えるという形式で解決するが、存在が明確でない権利については、外交保護権を放棄してとりえあず国家間の関係についてのみ解決することにしたのである。


5) 実は、日本政府も右と同様に解釈し、その旨国会答弁を行っている。

 すなわち、1993年5月26日の衆議院予算委員会において、宇都宮真由美議員の質問に対して丹波寛外務省条約局長は次の通り答弁している。

「御承知のとおり、この第二条の三項におきまして、一方の締約国が財産、権利及び利益、それから請求権に対してとった措置につきましては、他方の締約国はいかなる主張もしないというふうな規定がございまして、これを受けまして日本で法律をつくりまして、存在している実体的な権利を消滅させたわけでございますけれども、まさにこの法律が対象としておりますのは、既に実体的に存在しておる財産、権利及び利益だけである。

…例えばAとBとの間に争いがあって、AがBに殴られた、したがってAがBに対して賠償しろと言っている、そういう間は、それはAのBに対する請求権であろうと思うのです。しかし、いよいよ裁判所に行って、裁判所の判決として、やはりBはAに対して債務を持っておるという確定判決が出たときに、その請求権は初めて実体的な権利になる、こういう関係でございます。」(甲六四号証)

 右の答弁に従えば、一審原告らの損害賠償請求権も判決等により確定したものではなく、典型的な「請求権」に属する。

4 措置法による「財産、権利及び利益」の消滅について

 一審被告は措置法は前記「財産、権利及び利益」を消滅させたものであると説明し、その合憲性について、るる主張する。一審原告らは同法の合憲性について一審被告と見解を異にする。しかし、前記のように一審原告らの損害賠償請求権は「財産、権利及び利益」ではなく典型的な「請求権」に該当するから、この問題は本件の争点と直接関係がない。したがって、ここではこの問題は論じない。

 ただ、一審被告の右の主張の中に、戦争被害は本来憲法の予定しない問題であるとの主張があるが、これは明らかに誤りであることだけを指摘しておく。2000年11月7日付準備書面で主張したように、日本国憲法は侵略戦争と植民地支配の50年の反省の上に、その抜本的改革を意図して成立したものであり、戦争被害は「予定しない問題」どころか、憲法の中心テーマともいうべき問題だったのである。


5 「請求権」の消滅について

 一審被告は「クレイムは国際法上は個人が直接加害国に請求できる権利ではなく、あくまで国家のみが請求できるにすぎないものであって、発生したクレイムを加害国の国内法上の実体的な請求権に転化させることにつき国家間で合意した場合でない限り、当該個人が受けた被害の填補を加害国に請求できるのは国家に限られる」(準備書面一四〜一五頁)から、韓国が外交保護権を放棄したことにより一審原告らの「請求権」は救済される余地がなくなり、原告には訴権は認められるが権利自体が認められることはありえなくなったなどと主張する。 

 一審被告のこの主張は、一審被告が別の訴訟に証拠として提出した小寺彰意見書を出典とする(甲六六号証二四頁)。

 国際法上の請求権に基づいて個人が加害国に請求できるかとの問題について、一審原告らは右の意見書と見解を異にするが、この議論も本件の主要な争点と関係がない。

 なぜなら、一審原告は韓国の外交保護権を代わって行使しているのではなく、国内法により国内法の手続によって請求しているのであって、本件は個人が国際法上の主体たりうるかという議論の適用場面ではないからである。一審被告の前記主張は国際法上の議論と国内法上の議論を故意に混同させて惑わそうとするものに過ぎない。

 一審被告が典拠とする右の意見書においても「もちろん、クレイムの発生原因が同時に加害国の国内法上、当該被害者に実体的な権利を付与する場合も想定される。しかし、これはあくまで各国国内法の問題であり、それが国際法上クレイムであることとは理論的には別の問題である。」(甲六五号証二三頁)と明記されているように、外交保護権の放棄によって国内法上の権利が消滅する理由など何もない。

 また、一審原告らに訴権があるのは当然であって、一審被告のいう「訴権はあるが裁判で認められることのありえない権利」などという概念は無意味である。

 一審被告も引用する国会答弁も「慰謝料請求等の請求が我が国の法律に照らして実体的な根拠があるかないかということにつきましては、これは裁判所で御判断になることだと存じます」と述べ、別の機会にも同旨の答弁を繰り返して、この理を認めている。


(乙一七号証)
 宮澤首相は1992年1月に訪韓した際、従軍慰安婦問題について「非常に心の痛むこと」であると「謝罪」した。そして同年3月21日の参議院予算委員会において、国と国との関連においては解決済だが、個人との関係については「訴訟の行方をみまもってまいりたい」と答弁した。(甲六四号証)

 仮にこれが「訴権はあるが裁判で認められることのありえない権利」との認識の下にされている答弁であるとすれば、政府が訴訟の行方を見守る目的は単に時間が経過して被害者がいなくなるのを待つためだけであったということになる。これは、高齢の被害者にとって余りにも残酷な対応であり、まさに一審判決の指摘とおり一審原告らの苦しみを際限のないものにしているのである。


6 以上のように、日韓協定は「請求権」についての外交保護権を予め放棄したものに過ぎず、「請求権」は措置法によっても消滅していない。

 したがって、一審原告らの被害に対する補償・賠償の問題は日韓協定によって何ら解決されていないから、日韓協定は国の立法義務を免除する何の理由にもなりえない。

 また、前記のように日本政府は日韓協定締結時から、これが外交保護権の放棄を意味するにすぎず、個人の請求権を消滅させるものではないことを十分に認識していたが(甲六五号証)、その後日韓協定により韓国人被害者個人の賠償請求権も消滅したとの誤った解釈を繰り返し流布し(一審被告準備書面もそのひとつである)、韓国人被害者に著しい苦痛を与えてきたのである。
http://www.kanpusaiban.net/saiban/yamamoto-hanron.htm


129. 2013年4月01日 18:45:58 : zBYc960RaI
悪質な嘘はやめようね。

女なんぞいくらでも調達できることは豊かな現代でもなお売春婦のなり手が
ひきもきらないことで証明済だ。
慰安婦狩など不必要なんだよ。

まして済州島がターゲティングされているのは他でもない。
韓国政府による大虐殺が行われたからで、そこから目を反らせる目的で捏造された
ものが"吉田証言"だ。日本にはその虐殺を逃れた難民が流入した。
今もその犠牲者の家族や子孫が大勢いる。
彼等の訴えを隠蔽するためには日帝による大虐殺を捏造しマスコミの手足を縛る
ことが最も有効な策と考えられた。
まあイスラエルの手口と同じ理屈だ。


130. 2013年4月02日 12:53:18 : W18zBTaIM6
性病持ちでは慰安婦にできないんだよ。

だから12,13才の子供狩りをしたのさ。


131. 恵也 2013年4月28日 15:41:05 : cdRlA.6W79UEw : GA3eKeLP8v
>>124 根本に日本憎しがあるから真実は言わないよね

根本にあるのは、真実の直視でしょう。
儒教の影響がある韓国や日本では、慰安婦という体験は女性に恥だ。
俺の親族がそんな事になったら隠すでしょう。

朝鮮人だけでなく日本人もたくさん、慰安婦にされてますが
いまさら過去を掘り返す人はほとんどいない。
莫大な慰謝料をもらっても、金銭では精神的に追いつかないよ。

ーーーーー引用開始ーーーーーー
漢口の兵站司令部管下の「慰安所」に、日本内地から連れてこられた
「慰安婦」の実例がある。漢口兵站司令部の長沢健一軍医大尉の体験
によれば、この女性は、「慰安所」とは何かも知らされず、だまされ
て連れて来られたが、軍医の性病検査があると知って

「私は慰安所というところで兵隊さんを慰めてあげるのだと聞い
てきたのに、こんなところで、こんなことをさせられるとは知ら
なかった。帰りたい、帰らせてくれ」

といって、泣きながら訴えたという。このため、その日は検査できな
かった。翌日やって来たときは眼はふさがりそうに腫れ上がっていた。
長沢大尉は、業者に殴られ、説得されて来たのだろうと記している。

この女性は、身売りされた上、漢口までの旅費・雑費を加算されて、
債務奴隷状態にされていた。性病検査の時は
「脚は緊張して堅くなりぶるぶる震えていた」。

その翌日には、多くの兵隊の相手をさせられたため、「慰安所」の
洗浄場の窓から身を乗り出して、嘔吐しており、吐き止むと「子供
のように声を張り上げて泣く。泣くというより絶叫して」いた。

この姿を見て、長沢大尉は、多くの兵隊たちの乱暴な性交のために、
腹膜が刺激されて、嘔吐をもよおしたのかも知れない、と記している。
しかし、この女性も、このような現実から逃れることができず、これ
を運命とあきらめて、悲惨な「慰安所」生活に適応していくほかなか
ったのである。
(長沢健一『漢口「慰安所」』より)

>>129 女なんぞいくらでも調達できることは豊かな現代でもなお売春婦のなり手が
ひきもきらないことで証明済だ。

世間知らずの間違い!
そんなに簡単に調達できるならアンタ女衒になって、大金持ちになれる。
たった一人でもいいから女を調達してから言いなさい。

貞操観念のない女性は多いけど、そんな女性でも隠すもの。
それも軍隊という組織で何百人も相手にするとなったら希望者は少ないでしょう。
軍人という公務員がそんな女性を大量に集めるのは難しい。


132. 2013年5月05日 20:52:51 : nRwc3ofM0o
通りすがりの者ですが、ちょっと言わせて下さい。

そもそも、過去の出来事を現代の価値観で裁く事に何の意味があるんですかね?
売春婦なら太古の昔から世界中に存在してますよ。

それに主様は、殊更日本人の残虐さを非難なさってますが、当事の列強各国の植民地政策からしたらそれぐらい普通だったんじゃないですか?

力の無い国が武力で併合され、蹂躙されるのはあの頃の価値観では当然の出来事だったんです。

キツい言い方になりますが、朝鮮が国として非力だったが故に、当事の日本に併合され多くの女性がそういう目にあった「だけ」の話ではないでしょうか。

ちなみに主様は、欧米の植民地政策や奴隷制度、白人達がいくつもの異民族を虐殺どころかこの地球上から消滅させた事をご存知ですか?ライタイハンは知っていますか?十字軍が何をしたか理解されてますか?

上記の出来事は、今の価値観では全て許されない事ですが、当事は「当然」だったんですよ。

全ては「お互い様」です。絶対正義の民族なんか存在しません。

日本人や天皇陛下を長文であげつらう前に、今の価値観で過去を裁く意義を今一度考えてみたらいかがですか?

そう言えば、朝鮮人も八百年ほど前に元の手先として日本に侵略してきた事もありましたね。

開き直りではなく人類の歴史なんてそんなもんですし、日本だけを非難するのは自由ですが、当事の朝鮮人が無力であったが為に起きただけの話だと私は思うんですが。

私が朝鮮人の立場だったら日本を非難する前に、不甲斐ない自分の祖先を呪い・嘆きますね。

そして日本人に負けないよう、日々精進しますよ。



133. 2013年5月08日 16:01:15 : W18zBTaIM6
右翼が

慰安婦強制連行は無かった、南京大虐殺も無かった
朝日新聞の本多勝一がデタラメ書いただけ

と嘘付いたから、それまで黙っていた元慰安婦が怒って発言始めたんだろ。


134. 2013年5月08日 16:20:19 : W18zBTaIM6

1971年、本多勝一が中国において日本軍の足跡の取材を行った際(「中国の旅」)、南京において、日本軍に虐殺された様子をさめざめと泣きながら語ってくれたそのご家族の方に対し、取材のお礼のあいさつを兼ねて語った言葉です。

”「 南京大虐殺が行われていた当時、私はまだ幼児でした。おっしゃるように、たしかに”一般人民”としての幼児の私には、この罪悪に対して直接の責任はありません。

本質的には、中国の民衆と同じく、日本の民衆も被害者だった。ですから私は、同じ日本人の罪悪であっても、私自身が皆さんに謝罪しようとは思いません。

問題は過去より現在なのです。日本の一般人民は、日本敗戦後二十数年を過ぎた今なお、中国で日本人が何をしたかという事実そのものを知らされていません。

日本がまた侵略戦争への道を歩んでゆく危険があるとき、それを私たちがもし何もしなしで傍観しているとしたら、こんどは私たちに直接責任があることになるでしょう。過去の軍国主義を ”おわび” したところで、何にもなりません。現在の軍国主義への危険を阻止することこそ、真の謝罪になるのです。
今度取材した日本軍のツメあとの報道は、このような意味で現在の軍国主義の進行を阻止するための、ひとつの闘いになるものと信じます。」 ”

朝日文庫 『殺す側の論理』 ”「反省なき民族」のために”より  


135. 2013年5月09日 10:55:22 : W18zBTaIM6

王さん

 1972年の日中友好国交回復に対して、この地域の人はみんな反対しました。私たちは、つらい経験したのに、どうして今更友好などという言葉を言い出して関係を回復するのか。政府は何回も説得して、

「当時は軍国主義のやったことで、日本人民、日本国民たちとは友好関係を持っていかなくてはだめだ。戦争は、普通の人民の責任ではない。」

と教えられた。しかし、今も気持ちとしては、今になってもやはり「日本」という二文字を聞いたら「憎む」という気持ちが湧いてきます。私の考え方では、このような歴史はいつまでも次世代、どんな世代になっても忘れてはいけないことです。
http://www.jade.dti.ne.jp/~kaworu/syogen/ryujya.html#ou64


136. 2013年5月09日 11:04:33 : W18zBTaIM6

日中戦争証言 車河堡 王さん(69歳)柳河口

 1回だけ見たことがあります。強姦したのは普通子どもには見せないんです。

1回見たのは、若い女性に沢山水を飲ませて、お腹を膨らませたり、

鉄の棒を火で焼いて、赤い鉄の棒を乳房に当てたり、女性の生殖器に差し込んだり、

あるいは銃剣の先を焼いて乳房や生殖器をえぐり取ったりしました。
http://www.jade.dti.ne.jp/~kaworu/syogen/syakaho.html


137. 2013年5月16日 10:31:25 : etCpvbdadc
>136
根本的に日本人の発想じゃ無いでしょう、それw

しかし凄いな、これだけズラズラと証言並べておいて何一つ現存資料が無い。


138. 中川隆 2013年5月16日 11:59:41 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

日本人はこういうのが好きなんだよ:

女縄−裸女を縄で縛る悦楽
http://w.livedoor.jp/onnanawa/d/%B2%D6%BB%D2%A4%CE%C9%F4%B2%B0

アジアフォーラム横浜・証言集会2006 
〜マレーシアより葉徳明さんを迎えて〜

 わたしの一番上の兄は、抗日軍として密告されたのです。日本軍に拷問された。手を縛られ、ぶら下げられ、ひどく殴られる。

それから、ホースで水を飲まされ、お腹を膨らまされる。その上で腹を殴られ、水を吐き出させる。

そんなひどいことをされた。もっともっとひどいこともされた。そして殺されてしまったのです。兄の奥さんと子どもは、奥さんの実家に帰りました。


夫妻は近くに住む学校の先生に病人の診察を頼まれます。抗日軍のゲリラでしたが、病人を放っておけず、診察します。その後、夜になると、マラリアに罹ったり、怪我をした抗日ゲリラたちの診察を続けました。それが日本軍に分かってしまい、1943年11月、憲兵隊に逮捕され、そして拷問を受けました。彼女が書いていますが、

「手のつめの間に針を刺す、

焼けた鉄棒を足や背中に押し付けられる、

平手や拳骨で殴られる、

鞭で殴られる、

ブーツで繰り返し蹴られる」

などの拷問を受けたそうです。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5383/06syougen1.html



139. 2013年5月18日 23:41:09 : zTEmEuflsg
いやー、笑った笑った。
何しろ、吉田清治本人が創作であったことを認めているし、吉見義明でさえ吉田証言を歴史証言として採用していない。
まったくもって「悪質な嘘は止めようね」という話だ。

140. 2013年5月19日 14:55:22 : W18zBTaIM6
吉田清治は家族を殺すと脅されていいなりになっただけだろ。

件の本は廃刊にしていないからすべて事実という事さ。

吉見義明も吉田証言は真実だが、日時と場所が記載されていないから学術的資料としては採用できないだけだと言っている。


141. 2013年5月20日 16:10:16 : B5ZaIv57FU
長いよ!

142. 2013年5月22日 04:48:16 : DO4udKl0nM
まあ普通に脳内で論理破綻をきたしている方のスレッドでしょうね
精神医学はやや専門に近いので自明
中国の方が何か言ってのもありますが通州、済南、尼港事件その他
国際法無視した日本の民間人虐殺の経験から暴支膺懲や共産主義への嫌悪が
できたってこと無視してますね。まあ、教えられてもいないのでしょうけど

本当に過去を教訓にして現在の行動に活かせているのはどの国か
現在もなお他国や他民族を侵し抑圧してるのは、どの国か
つい最近も政府関係者や神父まで性犯罪に手を染め話題になる国はどこか
売春ビジネスを違法に海外輸出しまっくてる国はどこか
本当に言うような過去の被害があり、それが民族の深い傷だというなら、これらは絶対にできないことである筈
なのに正せないっていう結果が問題の本質を良く表していますね

チェリーピッキングの長文に惑わされず、いま起こってること
そうした結果で判断していけば、何が正しいかは自明すぎるほど自明


143. 中川隆 2013年5月22日 17:39:43 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

東京裁判で日本軍関係者が幼女を強制連行したと白状して記録に残ってるからね。

強制連行自体は既に定説になってるから否定できないよ。
安部も強制連行の証拠見せられて意見変えたしね。


144. 2013年5月24日 06:08:53 : 5phLl7gDac
>東京裁判で日本軍関係者が幼女を強制連行したと白状して記録に残ってるからね

そんな記録聞いたこともない。
具体的に、引用してみせてくださいよ。単なる思い込みでものを言っているだけでしょ?

インドネシアでは日本の軍人によって
オランダ人女性が強制的に慰安婦にさせられたという、
破廉恥な事件は確かに存在したよ。だけど、
これは当時の軍でさえ問題にして後に軍法会議で処分している。

大日本帝国とて法治国家だ。戦地でもない朝鮮本土で、強制連行なんてあるわけがない。秦教授に対する反論とて、言いがかりの域を出てないんですけど・・・。

バカらしい。この問題はいろいろな人や団体、国によって都合よく「利用」されているだけだ。真実なんて何もない。

慰安婦のおばあさんたちの証言の揺らぎぶり(話すたびに内容が変わっていく)と具体性のなさ、済州島民の反応、吉田清治のウソ白状、「挺身隊問題」として「挺身隊=慰安婦」との勘違いを改めない韓国、一向に見つからない第三者の目撃証言、終戦時に問題発覚を恐れて書類を焼却処分したはずの日本政府が、なぜか占領軍向けに同じような「慰安施設」をまたつくる不思議。慰安婦裁判と日本の支援者との血縁関係・・・なにもかもが不自然すぎる。

とても強制連行があったとは思えないよ。


145. 中川隆 2013年5月24日 17:38:45 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
>具体的に、引用してみせてくださいよ。

上にコピペされてるから読んでね


146. 中川隆 2013年5月24日 22:42:57 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
当時の日本人はこんな事ばかり日常的に繰り返していたんだよ:

ニューギニアで旧日本兵が行った残虐


ウエワクの約2百人の集会ではロレンス・イフィンブイさん(70代・男性)が、

「日本兵にブタを持ってこなければ母親を殺すと脅されたので、ブタを工面して持っていくと、日本兵は母親をレイプし、殺しました。

それも胸だけをカットして、ゆでて食べるという方法です。
母は出血多量で死ぬまで、そこに放置されました」

と語った。

「日本兵の宿舎でセックスの相手をさせられました。兵隊の階級には関係なく、多くの人の相手をしました。約10人ぐらいの未婚女性がいましたが、疲れてできないと拒否して殺された者もいる。

第一キャプテンの名はウエハラ、第二はワギモトでした。わたしは幸い宿舎から逃げ出せました。何ヶ月かわからないけど、長い間でした」


というのはウルゥプ村のカミ・ドマラさん。証言する彼女に寄り添う夫は日本軍のケンペイ(憲兵)として働かされ、暴行を受けたという。


すでに被害登録は約6万5000人にのぼるという。ちなみに現在のパプアの人口は390万人。登録者は約60人に1人になる(登録者はニューギニア島東部だけではなくラバウルなど周辺の島々を合わせた数)。

最も多いのは「武器や食料の運搬に駆り出された」約2万6000人だが、


人肉食犠牲者1817人、

胸を切断され死亡した女性19人、

性器を蛮刀でえぐられて殺された女性8人、

強姦されて殺害された女性5164人

など、とても信じられないような数字が並ぶ。


はたして、この被害の実態が被害者側の証言だけで証明できるのだろうか。おもにオーストラリアとアメリカの資料をもとにニューギニア戦線での日本軍の人肉食を検証した著作「知られざる戦争犯罪」のある田中利幸メルボルン大学教員は、

「東京裁判でオーストラリア側が日本軍の人肉食を戦争犯罪として明示したのに、審理からは抜け落ちた。オーストラリアでは、食べられたと見られる自国兵の死体について約100のリポートが出ている。だが、戦闘中なので目撃証言が乏しく、裁判は難しかったようだ。これらの史料に、わずかだが現地の人たちの人肉食被害が出てくる。現地の人たちについては集落のなかでの出来事なので、むしろ目撃者は多かったのでは」

と指摘する。
http://www.midori-kikaku.com/mariko/j-ist01.html

 


147. 中川隆 2013年5月25日 09:58:12 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

報道するラジオ 「史実から問う、従軍慰安婦問題」/従軍慰安婦に関する数々の資料を掘り起こ­してきた、吉見義明・中央大教授に聞く

20130524 報道するラジオ「史実から問う、従軍慰安婦問題」
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=GlfhtnW4fM4


148. 朝鮮人はタマ無し 2013年5月25日 18:31:27 : ItSUFfJY4WAIw : DSlm2rxbxA
3/8の衆院予算委員会での中山成彬議員が、日本の朝鮮統治時代の議員、役人や警察官の八割が朝鮮人だったと、新聞などの当時の資料付きで質疑を行った。更に日本軍人の中には朝鮮人でありながら中将にまでなった人もいる。(ついでに言えば創氏改名も強制ではなかった事、当時の日本本土と同じかそれ以上のインフラ整備も行われたと資料付きで紹介された。)

そんな、戦地ですらなかった朝鮮内で朝鮮人女性だけを20万人も連れ出せるのか?その人達は同胞が連行されるのを誰も知らなかったのか?それとも売国奴だったから日本にさあどうぞと差し出した?
まさかとは思うが悪徳朝鮮人の売春婦斡旋業者と彼等関係が結託して朝鮮女性を拐わせて売り飛ばしていたとかか?あれほど「人権!人権!」と騒ぎ立てる”情厚い正義の味方の朝鮮人”にそんな糞野郎がいるわけないよなあw

親兄弟は何をしていたんだろうねえ。自分の娘、姉妹が連れ去られるのを指を咥えてぼーっと見てたのか?

銃で脅されたとしても家族が抵抗しなかったなどとは考えられないよな。そんな事件があれば大騒ぎにならない筈がなく、総督府以外の資料や記録(それこそ日記でもいい)が全く出てこないのはどういう訳だ?

公の慰安婦強制資料が現存しない事もそうだが、俺にはそういった当時の朝鮮にいた者の生の記録が無い事、これがいわゆる慰安婦問題が無かったと思う一番の理由だ。

ま、お前らは「日帝の捏造◯ダ!」と検証どころか取り合わないんだろうがな。


149. 中川隆 2013年5月25日 21:24:15 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
>親兄弟は何をしていたんだろうねえ。自分の娘、姉妹が連れ去られるのを指を咥えてぼーっと見てたのか?


こうやって20万人連れ出したんだろ:

『ある日赤紙が来て』 真鍋元之著  1981

1942年頃、平陽鎮の軍専用慰安所
つねに満員だったと言う。

「私の馴染んだ慰安婦は、職業用の日本名をミサオと呼んでいた。生家は江原道のもっとも貧しい農家だったが、ある日突然村長がやってきて

「軍の命令だ。お国への御奉公に、娘を差し出せ」

という。御奉公の意味がすぐに分かったので、父母は手を合わせ声の限りに哀号を繰り返したが、村長は耳を貸さない。この面(村)へ8名の割り当てが来たが、面には娘は5人しかいないから、ひとりも容赦はならぬ、とニベもなく言い放つ。村長の背後では、刀を吊った日本人の巡査(警官)が、肩をそびやかせている。

5名の村娘が、石ころのようにトラックに乗せられ、村境の土橋を渡ったのが、故郷との別れであった。文字が書けないので、家族の安否を、手紙で問い合わせる事もできない。・・・」
http://d.hatena.ne.jp/kounodanwawomamorukai/20121208/1354914020

子供を抱いていれば二三人がかりで赤ん坊をもぎ取って、女を引きずってトラックに押し込む。

そういう場合は、赤ん坊だけでなく、三歳四歳・・三歳か五歳ぐらいの子供が母­親を奪われる現場では、泣き叫んで命がけで母親にとりすがる。それを突き飛ばし蹴飛ばし・・

慰安婦強制連行は一週間にわたり、10人の武装した兵隊と憲兵に護衛された徴発隊によりおこなった。その徴発隊は島を縦横にかけめぐり、泣叫ぶ若い朝鮮人女性を狩りたて、片はしからトラックに積み込みこんだ。役得としてトラック上で強姦する兵もいた。

女工たちは竹かごの中から貝殻を、手早く鉄わくの中へ入れ、足踏み機械を操作すると、一銭銅貨より小さなボタンを同時に十個ばかり作っていた・・・・隊員たちがすばやく工場内の二か所の出入り口を固め、木剣の先を突きつけて、女工たちを起立させた。

「体格の大きな娘でないと、勤まらんぞ」

と山田が大声で言うと、隊員たちは笑い声をあげて、端の女工から順番に、顔とからだつきを見つめて、慰安婦向きの娘を選びだした。

 若くて大柄な娘に、山田が「前へ出ろ」とどなった。娘がおびえてそばの年取った女にしがみつくと、山田は・・・・台をまわって行って娘の腕をつかんで引きずりだした・・・・

女工たちはいっせいに叫び声を上げ、泣き声を上げていた。隊員たちは若い娘を引きずり出すのにてこずって、木剣を使い、背中や尻を打ちすえていた。・・・・女工の中から慰安婦に徴用した娘は十六人であった。


150. 2013年5月25日 23:59:55 : DSlm2rxbxA
俺はただ自分の見解を書いただけで、お前と議論したいわけじゃないんだがな。

まあいか。小説からの引用が反論のつもりなんだろうが反論にもなってないな。そんなもんは証言と同じで証拠とも言えんね。そもそも検証されてんの?

20万人もの女が無理矢理連れてかれたにもかかわらず、賎人及びその政府さえ戦後から90年まで慰安婦のいの字も言わなかったのは何故だと言ってんだよ。理解出来んのか?

長文垂れ流しゃ反論してる気になるってのは左巻きと賎人に共通してんのな。それとも読む気を無くさせて人が居なくなった頃に論破したとホルホルするためか?
やってて虚しくならんのかねえ。

だいたい日本政府はなんで解決済みの事でグダグダやってんだ。馬鹿馬鹿しい。


151. 中川隆 2013年5月26日 07:24:20 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
>20万人もの女が無理矢理連れてかれたにもかかわらず、賎人及びその政府さえ戦後から90年まで慰安婦のいの字も言わなかったのは何故だと言ってんだよ。理解出来んのか?

それはもう何度も書いてるだろ。

朝鮮は儒教の国だから一度でも売春をやったら、

売春以外の仕事はできなくなる。
家族は結婚できなくなる。
家族は村から追放される。

だから、元慰安婦は故郷に帰れず、過去の事も一切話せなかった。

元慰安婦が証言を始めたのは、日本の右翼が慰安婦は売春婦だと言って彼女達をカンカンに怒らせたからさ。

まあ、今の日本人でもソープで働いたらまともな結婚はできなくなるけどね。


152. 2013年5月26日 07:26:58 : W18zBTaIM6
慰安婦強制連行は朝鮮だけじゃない

旧日本兵:日本軍が中国人女性を捕えるのを目撃 安倍氏謝罪を 2013-05-25

91歳の松本正義さん(韓国・聯合ニュースより)
兵役時の松本さん(韓国・聯合ニュースより)

 韓国・聯合ニュースは23日、かつて太平洋戦争に参加した旧日本兵が23日、日本軍が戦争中に慰安婦を強制連行した野蛮な行為を暴露し、過去の犯罪行為について安倍晋三首相にお詫びを促したと報じた。環球時報が伝えた。

 91歳の旧日本兵、松本正義さんは23日、聯合ニュースの電話インタビューに応じた。松本さんは1944年初めから1946年3月まで日本軍第一軍「固旅」第7大隊で衛生兵を務めた。その前の6カ月間は中国・山西省陽泉市盂県の大隊本部に配属され、その後の約1年半は上社鎮駐留の第一中隊に所属した。日本軍将兵へのコンドーム支給と韓国人慰安婦の性病検査を主に担当していた。

 松本さんによると、大隊本部配属時には韓国人慰安婦6-7人が逃げられない環境の下、50人以上の日本軍将校の欲望の対象となることを余儀なくされていた。正式な慰安所がない状況での慰安婦の境遇は極めて悲惨だった。

 また、当時日本軍は中国の庶民も潜在的なゲリラと見なしていたため、しょっちゅう村落を攻撃しては「女性を捕獲」していたという。松本さんは「有漂亮的姑娘」(きれいな女の子がいる)という中国語を今だに覚えている。きれいな女性を見つけた日本軍が部隊に連行して輪姦するのも目の当たりにした。

 ある上等兵が「女性を捕獲」しようと住民の家に入った際に地雷を踏んで爆死したことや、部隊長と村長が交渉し、部下が捕えて来て姦淫した7-8人の女性を返す代わりに別の2人の女性を連れ帰ったことも覚えている。地雷で爆死した上等兵はその後、靖国神社に埋葬された。国家のために命を捧げたというのがその理由だ。

 松本さんは「本当の戦闘など当時していなかった。われわれは住民に攻撃されることを恐れていた。部隊がしたのは女性を捕獲することだけだ」と述べた。
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2013-05/25/content_28929997.htm


153. 中川隆 2013年5月26日 07:38:23 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
>そもそも検証されてんの?


東京裁判の時に多数の日本軍関係者が慰安婦強制連行を認めたので、それ以降は歴史学会で慰安婦強制連行を疑う研究者は一人もいない。


154. 中川隆 2013年5月26日 08:14:41 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

これが世界の歴史学会の定説


アメリカ合衆国の歴史教科書『Tradition & Encounters:A Global Perspective on the Past』では、

最大で30万人もの14-20歳の女性たちを
強制的に徴集して性行為を強要したとしている。

さらに、「日本軍は慰安婦たちを天皇の贈り物と言いながら兵士などに提供した。
慰安婦たちは韓国と台湾、満洲、フィリピンなど東南アジア各国から連れてこられ、80%が韓国出身であった。

逃げようとしたり性病にかかると日本兵などによって殺され、戦争が終わるころには兵士などが隠蔽するために慰安婦たちを大挙虐殺した。」などとしている。

この歴史教科書は2003年より数千校で100万人以上の学生に使用されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6


慰安婦関係の書類は日本の役所が証拠隠滅の為すべて焼却処分してしまった。

白馬事件みたいに事実がわかると関係者は死刑になるからね。

慰安婦関係書類がすべて無くなった以上、もう上の世界の歴史学会の定説を覆すのは不可能だな。


155. diahills 2013年5月28日 13:10:02 : NX6vk3VWnn2NI : UUuwF1rkuA
そもそも中韓が声高に喚くのは、事実でないと疑るべきである。

日本にとっていいことは全て悪と捉える中韓。具体的に説明をすれば、尖閣諸島での中国漁船衝突事件である。この問題を偏向、捏造して日本が故意に事故を起こしたと世界へ発信。勇ましく声高に、しかも堂々と中国の報道官が日本側に全ての責任が有ると説明した。
この時の日本の政権は民主党であったが、仙石官房長官の一連の不手際でますます日本が問題を起こした印象を世界に植えつけた。この問題に疑問を持つ一色海自がyou-tubeに投稿して、事態が一変した過去があった。又、韓国も日本海呼称問題でヨーロッパの文献を捏造し発表。そして、日本海呼称問題を歴史問題化して、日本による植民地支配によって呼称改竄されたと世界へプロパガンダした。しかし、この問題はアメリカの日本支持によって東海(トンヘ)は却下された。さらに、最近起きた対馬の仏像事件も同様である。この問題は、盗人が特定されたにも拘わらず、韓国の裁判所で過去に日本が韓国から略奪したとして返還義務が無いという不可解な司法判断が下された。
以上の観点から理解出来るように、中韓の主張は全て疑って事実及び因果関係を調べる必要がある。当然、慰安婦問題も同様である。勇ましい韓国と不手際の河野洋平という構図がまさに中国漁船衝突事件と瓜二つである。したがって、右翼とか左翼とか騒ぐ日本を笑う中韓という因果関係が見えてくるので、情けなく思ってしまう。
結論は、一色海自のような人が橋下市長だと私は思うが、何故か日本のマスコミが彼の脚を引っ張る報道一色である。このマスコミの対応は、これまでの報道姿勢を世論から批判されるのを恐れているから必死に橋下潰しに躍起となっている。又、一方の韓国も、論破されては困るので、解らない理由で何故か敵前逃亡してしまった。これも慰安婦は怪しいと感じるのは私だけでしょうか。いずれにせよ、この問題解決には、日本のマスコミは中韓寄りなので日本海呼称と同じようにアメリカを味方に付けることが鍵である。しかし、呼称問題より厄介なのは、戦争及び性奴隷という過去である。さすがのアメリカも真実を追求することが出来ない事情もあるので、それゆえに中韓に有利なのである。しかし、私は中韓及びマスコミの言動には疑の眼で見ている。


156. 中川隆 2013年5月28日 13:49:55 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
中韓だけでなく日本の占領地区すべてで現地女性を強制連行したのがわかっているよ。

とりあえず慰安所を作って、土人女を強制連行した海軍中佐の中曽根元首相に話を聞いてみたらいいんじゃないwwwwww


157. 2013年5月28日 22:25:34 : HYzPTgonAI
「吉田清二」で調べていてここを見つけた。
感想など。
まず、中川という人物へ。
あまり品がよくないね。真実を主張するつもりなら冷静に言葉を選んで話すべき。
詐欺師だとか感情的な物言いが多くて、(事実かそうでないかを別にしても)この人物自体に対して好感情を持ちづらい。
日本人も真実を知ろうとして調べているのだし、韓国にもそういう人物がいると
信じたい。
誰もその場に居たわけでないので、事実と虚が混ざり合っているのが本当のところかなあと感じる。

158. マルクスジュニア 2013年5月29日 05:32:51 : Pn1BlJtuAUGjg : 7czKP88OhI
元共産党員だった吉田清治氏を、朝日が上手く操ったとのことが真実でしょう。
だいたい、朝日の植村記者の妻の両親は、韓国での女子挺身隊問題の組織トップであり、朝日は、最初から、慰安婦を企画報道と位置づけて、大キャーンペーンを
合目的的に行ったとのことで、事実に基づくとの姿勢は、この件に関しては、朝日は最初から持っておりませんでした。今も、朝日はウソの上塗りを行っております。

159. 中川隆 2013年5月29日 08:55:48 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

悔しかったらまずこれを否定したら:


従軍慰安婦に関する数々の資料を掘り起こ­してきた、吉見義明・中央大教授に聞く

20130524 報道するラジオ「史実から問う、従軍慰安婦問題」
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=GlfhtnW4fM4


160. 中川隆 2013年5月29日 09:34:44 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

この吉田清治の証言を聞いて創作だと思うのは余程の世間知らずだけさ:


吉田清治の偽証? 「日本軍が数万人の慰安婦狩りをした」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm20955492

私たちは、一九九三年五月に吉田さんを訪ね、積極的に反論するよう勧めた。また、誇張された部分があれば、訂正すべきだとも申し入れた。とくに、この本(※『私の戦争犯罪(三一書房)』)のなかにある動員命令書がキーポイントとなるので、吉田さんがいうようにもしそれが奥さんの日記に書いてあるのであれば、日記のその部分を公開したらどうか、もしそれがないのなら訂正すべきではないかといった。

 これに対し、吉田さんは、日記を公開すれば家族に脅迫などが及ぶことになるので、できないと答えた。そのほか回想には日時や場所を変えた場合もあるとのことだった。


吉田は

「太平洋戦争当時、『国民総動員令』を執行する労務報国会の山口県動員部長として朝鮮人6000人を強制連行し、その中には慰安婦の女性も多かった」

と明らかにした。彼の証言は1991年に朝日新聞に集中報道されて慰安婦問題に対する関心を触発させ、韓国では慰安婦出身のお婆さんたちの公開証言が相次いで出た。

しかし吉田は以後、多くの批判に直面することになる。著名歴史学者の秦郁彦は済州島での現地調査を経て、「吉田の言葉を裏付ける証拠や証言は何も出なかった」として、吉田を「職業的作話師」だと攻撃した。窮地に追い込まれた吉田は、「一部の事例の時間・場所は創作が加味されたもの」と告白した。

これをきっかけに、河野談話に対する批判的認識が日本で相当に広がった。政界では安倍首相が代表的だ。安倍氏は首相就任前の2005年4月に、ある講演会で、

「慰安婦は吉田の作り話であり、朝日新聞がこれを報道して独走した。日本のマスコミが作り上げた話が外国へ広まったものだ」

と述べた。


しかし吉田が強制動員の事実自体を否認したことはない。

彼は自費を投じて韓国の天安に「謝罪の碑」を立てた。

河野談話の廃棄・修正論者らが伝家の宝刀のように振りかざす論理がある。慰安婦動員の強制性を立証する政府公式文書が一つも発見されていない、というものだ。

しかし事案の性格上、強制動員事例を公文書に記録できたかについては、根本的に疑問の余地がある。それ以前に、生きている被害者たちの証言に証拠能力を認めない理由は何なのか、容易に納得しがたい。強制連行を証言する慰安婦の女性は、韓国、フィリピン、台湾、中国などアジアは勿論オランダにまで及び、数百人にのぼるというのに。

 「吉田清治の慰安婦強制動員証言は今も有効なんですよ〜」


 「あれ?創作だって書いてあるけど・・・」

 「それは一部で強制動員の事実は否定していないので、当然あったと解釈すべきなんです」
http://adon-k.seesaa.net/article/35237277.html


161. 中川隆 2013年5月29日 09:45:46 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

>回想には日時や場所を変えた場合もあるとのことだった。


朝鮮は儒教の国だから一度でも売春をやったら、

売春以外の仕事はできなくなる。
家族は結婚できなくなる。
家族は村から追放される。

だから、元慰安婦は故郷に帰れず、過去の事も一切話せなかった。

吉田清治はそういう朝鮮の事情を良く知っていたから、強制連行した日時や場所は絶対に明らかにしなかった。


1991.5.22朝日新聞(大阪版)

吉田清治

 「手を下した側から従軍慰安婦について証言できるのはもう私1人しかいないかもしれない。

政府は『民間の業者がやったこと』と言うがそんなことはない。

とはいえ、その実態は歴史から消えている。慰安婦だった人は過去を知られたくないのは当然で、日本人の側が、犯した罪を証言し、記録しておく義務がある。沖縄決戦についての慰安婦の実態もみえてこない。朝鮮から沖縄へ慰安婦として強制連行された人たちは数千人いたと推定できる。


 私が今日、最も恥ずべきこと、心を痛めている問題の1つは、従軍慰安婦を950人強制連行したことです。従軍慰安婦という制度は、日本軍がアジア各地、太平洋諸島へ侵略したとき、その駐留陸・海軍軍人たちの性的な相手をさせるための女性であったのです。

占領直後の前線に、売春組織を陸・海軍の指揮のもと、直接の援助のもとに設置したというのは世界史上でないそうです。もちろん、あってはなりません。これが太平洋戦争における日本陸・海軍の最も大きな罪だと私は信じております。

この婦女子の韓国・朝鮮人の従軍慰安婦の徴用のやり方は、私たち実行者が10人か15人、山口県から朝鮮半島に出張し、その道の警察部を中心にして総督府の警察官50人か100人を動員します。そして警察官の護送トラックを5台から10台準備して、計画通りに村を包囲し、突然、若い女性を全部道路に追い出し、包囲します。

そして従軍慰安婦として使えそうな若い女性を強制的に、というか事実は、皆、木剣をもっていましたから殴る蹴るの暴力によってトラックに詰め込み、村中がパニックになっている中を、1つの村から3人、5人、あるいは10人と連行していきます。

そして直ちに主要都市の警察署の留置場に入れておいて、3日から5日の間に、予定の100人あるいは200人の人数をそろえて、朝鮮の鉄道で釜山まで運び、釜山から関釜連絡線で下関へ運んだのです。下関では74部隊といって陸軍の部隊がありましたが、そこの営庭で前線から受け取りにきている軍属に渡します。そしてご用船で中国、あるいは南方へ送るという業務を3年間やっておりました。


 10万とも20万ともいわれる従軍慰安婦は、敗戦後、解放されてから郷里に1人もお帰りになってないのです。連合軍は中国、その他の占領地でこの女性たちを解放し、朝鮮半島、あるいは日本へ送還したのですが、その女性たちはすべて郷里に帰らず、各地で名前を変えて生活され、今日に至っております。

 今日、朝鮮半島、あるいは日本列島の中で過ごしていらっしゃる方、10万人のうち、もう半数は犠牲になってお亡くなりかと想像されますが、まだ数万の元従軍慰安婦の方が生きていらっしゃいます。

従軍慰安婦と原爆被災者の2つが、私にとっての大きな問題です。共に私が強制連行して、その罪を犯したのです。従って私は戦犯の証人として、ここに立って皆様にそのことを伝え、心に留めていただきたいとお願いする次第でございます。


162. 2013年6月02日 18:25:08 : D76XaLumyw
こんにちは。
吉田さん本人が作り話と認めているのですが…
おれは直接、陸軍将校だった祖父から本当の実態を聞いたので、慰安婦の話は信じられません。
俺の祖父の言うことが嘘で、自称慰安婦の言うことが真実ということはできるのでしょうか? 

163. 2013年6月03日 20:48:29 : W18zBTaIM6
吉田清治は家族を殺すと脅されていいなりになっただけだろ。


>陸軍将校だった祖父から本当の実態を聞いたので

それは建前を言っただけだろ


中曽根元首相が慰安婦強制連行やったのは有名な話だから、国会喚問すればいいのさ。


164. 2013年6月04日 01:40:39 : eild1GaDhk
だけど俺としては、どこかの知らないおばあさんの話より祖父の話の方がずっと信じられるものなのです。
建前という可能性も否定できませんが、慰安婦の方々の話が嘘という可能性も否定できません。
困りました。

祖父にしてもおばあさんたちにしても、あと10年も経てば死んでしまいます。
真実は闇にうもれてしまい、もはや誰も興味を持たなくなってしまうでしょうね…


165. 2013年6月04日 01:48:48 : eild1GaDhk
ちなみに俺は大学の六年生です。
昔から祖父や父の影響もあり、近現代史には興味が有りいろいろな本を読みました。
僭越ながら、若者?の代表として現状を述べますと、若い人たちは誰もこの問題には興味を持っていません。そして、反日運動への単純な反発として、韓国や中国には反感を持っている人は少なくないです。
お互いに対する不信感が解消されることはないと、悲観的な見通しを持っています。
ただ時間が経ち、新たな歴史によって薄められていくのを待つしかないのかなと個人的には考えています。
蛇足でした。

166. 2013年6月04日 22:52:32 : W18zBTaIM6
>慰安婦の方々の話が嘘という可能性も否定できません。

朝鮮人だけならともかく、日本が占領した全地域で現地女性を強制連行したのがわかっているからね。


167. 2013年6月07日 00:11:00 : baLTGEej1w
日本が今のように相手にしなければ、韓国はどうしようもないのではないでしょうか?
日本はかなり有利。
何らかの裏の譲歩を引き出すカードとして使えるのでは?と素人考えでは思ってしまいます。
みなさんどうでしょうか?

168. 2013年6月09日 00:01:54 : 9t6ZygIprI
韓国人の女性は売春が大好きですよね
もともと朝鮮半島では女性の地位は低く強姦されて文句言うな!といった風土ですし手っ取り早く現金収入を得るには売春なんですよね
世界中探しても朝鮮人の売春婦の居ない国は無いぐらいですからね

169. 女性の人権を守るネットワーク 2013年6月09日 00:58:11 : nILRqsjFMV4Z2 : VucuzahAkM
日本でも韓デリという一大ジャンルに成長してますね。
私はお世話になったことはないですが 笑

そもそも日本は慰安婦問題などという過去の問題に対処する以前に、現在起きているいわば進行形の慰安婦問題を解決するべきだと考えています。
何十万人もの人が、半ば強制的に日本に連れてこられ性産業に従事している現状を放置しているようでは人権後進国の汚名を着せられても仕方がないでしょう。


170. 2013年6月14日 21:27:51 : DSlm2rxbxA
中川某がつらつらと書き込んでいるが、日韓基本条約の交渉時に慰安婦の件を問題にしなかった韓国側の責任だ。
あの時こうだったから、ああだったから、などと後出しジャンケンで条約を無視出来るのであれば、全ての国家間で交わした条約そのものが意味のない物になってしまう。
歴代首相の十回以上にわたる謝罪も、アジア女性基金による償い金も、全て突っぱねておきながら何度も謝罪と賠償を要求する韓国政府と元慰安婦。

日本の全ての資産を差し出して日本人全員が韓国人に隷属しなければ、許すことは出来ないとでもいうのか?教えて貰いたいものである。


171. 中川隆 2013年6月17日 22:32:47 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

焼きごて、子宮摘出… 
元「慰安婦」李守山さん、シンポで証言 2013年6月17日

「従軍慰安婦」にさせられた過去を語る李守山(イ・シュサン)さん=16日、那覇市の沖縄大学

 日本の歴史認識を考えるシンポジウム「『朝鮮人強制連行』と『従軍慰安婦』をめぐってPart2」(おきなわ「日韓政経・文化」フォーラム主催)が16日、那覇市の沖縄大学で開かれた。約150人が参加した。

病身の体を押し、元「慰安婦」の李守山(イシュサン)さん(85)が証言した。

李さんが沖縄で証言するのは初めて。

旧日本軍による拷問で体中にやけどを負い、妊娠発覚後に子宮を摘出させられた過去を振り返った李さんは、「慰安婦」の強制性を否定する日本国内の動きに

「これが私の人生です。皆さん、力を合わせて一緒に、『慰安婦』は強制だったと言ってほしい。そうしてくれれば、何も望まない」

と声を振り絞った。


 海辺の村で暮らしていた17歳の時、警察官に「紡績工場に就職できる」とだまされ、少女7人で汽車に乗せられ、満州の牡丹江にあった旧日本軍の慰安所へ連れて来られた。兵隊は毎日、列をなした。

脱走した李さんを焼きごてによる拷問が待ち受けていた。

妊娠して子宮を奪われた後も、慰安所に戻された。涙する李さんに、会場も泣いた。李さんは

「これが強制じゃなくて何なのだろう。日本政府が謝らなければ、心に一生傷が残る」

と訴えた。

 元外務省欧亜局長で京都産業大学教授の東郷和彦さんも登壇。日本国内の「慰安婦」問題への対応が、日韓関係の危機的な状況を生んでいると指摘し、「彼女たちが生きている間に、新しい政治的ページをめくらなくてはならない」と強調した。

 琉球大学大学院1年で言語政策を主題に学ぶ岩原日有子(ひうこ)さんは「証人がいなくなり、歴史がなかったことにされるのが怖い。次の世代として、新しい関係をつないでいくことが大事だと実感した」と話した。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-208097-storytopic-1.html


172. 2013年6月19日 17:17:15 : TA71bnBxbM
堕胎するために子宮摘出は考えられない。
開腹で、大きなリスクと手間をかけてやる必要性がないからだ。
また、内地の病院でも限られた施設でしかまだ行われていなかったもので慰安婦のためにそれが実施されたとは考えられない。
いわば、胃潰瘍で胃を全摘するようなもので、ありえない。

当方、素人ではありません。


173. 中川隆 2013年6月19日 21:02:07 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
>堕胎するために子宮摘出は考えられない。

ここに答えが出てますね:


収容所にいってから、おなかがカチカチに張ってきてとうとう出血しました。収容所内の病院に入院しました。中国人医師が注射をし手術しました。妊娠した後も日本軍に絶えず性行為を強いられたのが原因だったと思います。胎児が死んだのです。


『女性国際戦犯法廷の全記録・ 第5巻 日本軍性奴隷制を裁く-2000年女性国際戦犯法廷の記録』

〔朴永心被害証人ビデオ証言]

−−どのようにして日本軍「慰安婦」として連行されたのですか。

朴証人:私は四人兄弟の三番目です。上に兄が二人、下に妹が一人いました。幼い頃母を亡くし継母に育てられました。家はとても貧乏でした。一四歳のとき南浦に行き洋服店の女中として働きました。

 一七歳のときでした。一九三八年三月だったと思います。ある日、日本の巡査が軍服に帯剣のいでたちで洋服店に現れました。彼はいい金儲けの口があるが行かないかというので、そのままついて行きました。そうして私は日本軍の性奴隷になったのです。

−−「慰安婦」として連れ回された経路について。

朴証人:はじめ、ほかの娘と一緒に平壌に連れて行かれました。二二歳の女性でした。車に乗せられしばらく走り続けました。数日後着いてみると見たこともない所でした。最初に連れられて行ったのが南京でしたが、そこの「キンスイ楼」に入れられました。私はそこで歌丸という日本名で呼ばれました。そこで三年ほど性奴隷の生活を強要されたと思います。

 たしか一九四二年頃だったと思います。ある朝、表へ呼ばれました。出てみると七名の別の女性たちもいました。皆朝鮮女性たちでした。一緒に行こうと言うのでしたが二名の日本人兵士がいました。その二名が私たちを監視しながら慰安所を後にしました。別の慰安所に行くというのです。

 私たちは南京で汽車に乗りました。上海に行きました。船に乗り換えシンガポール経由でビルマのラングーンに着きました。ラングーンからラシオにある「イッカク楼」へ行きました。慰安所の名前です。そこでまた性奴隷の生活をすることになりました。慰安所の〔経営者が私に名前を付けました。若春という日本名でした。ラシオには二年ほどいました。私がその時相手をしていた二名は今でも名前を憶えています。オオタミノルという将校とタニという軍曹です。

 一九四三年〔正しくは四四年〕春だったと思います。日本軍は私たちを再び車に乗せビルマと中国の境にある拉孟(ラモウ)へ連れてゆきました。日本軍はそこを松山と呼んでいました(中国側の呼称が松山)。その時から連合軍の捕虜になるまでそこにいました。日本軍の性のなぐさみものとしてだけ生かされました。

 松山に来て間もなく猛攻撃が始まりました。連合軍の爆撃でした。私たちがそこで相手をさせられたのは日本軍第五六師団でした。主に歩兵と戦車兵の相手をさせられました。毎日数十名の日本軍から性行為を強いられました。その合間を縫っては握り飯を作り、爆撃の中を運びました。日本軍の戦闘壕へ運んで行ったのです。そこには初め一二名の朝鮮女性が連れられて来ましたが、八名が爆撃で死に私たち四名が残りました。

−−その後、生き残った「慰安婦」たちはどうなったのですか。

朴証人:私たちは……日本軍が日本国民を乗せるということを[……]。日本が敗れたのです。日本軍は、戦争に敗れると何の知らせもなく自分たちだけで逃げました。私たち朝鮮女性四名は、怖くなって防空壕に隠れましたが、中国軍にみつかりました。それで外へ出ましたが、私たちを取り調べたのは米軍将校でした。米将校があれこれと質問しました。

−−ここに一九四四年九月三日、米軍が朝鮮人「慰安婦」を捕虜にしたという写真があります。ここにあなたはいますか。

朴証人:これが私です。この服装で裸足で、……髪も編み下げ〔おかっぱのことと思われる〕にして、確かに私です。連合軍の捕虜になった時、妊娠していました。

−−捕虜になった後どうなりましたか。

朴証人:トラックに載せられ昆明の収容所へ行きました。収容所で捕虜として扱われました。そこには日本軍捕虜がいました。収容所にいってから、おなかがカチカチに張ってきてとうとう出血しました。収容所内の病院に入院しました。中国人医師が注射をし手術しました。妊娠した後も日本軍に絶えず性行為を強いられたのが原因だったと思います。胎児が死んだのです。

 収容所には一年ほどいたと記憶しています。

黄検事

今ビデオ証言をした朴永心さんがこの会場においでです。朴永心さんです。
(p65-67 同書 2000.12.8つまり法廷一日目の記録より)
http://d.hatena.ne.jp/noharra/11001201


174. 2013年6月19日 21:52:25 : TA71bnBxbM
堕胎のためでないなら、ありうると思います。
ただ、捕虜に対して大量の輸血を必要とするこの手術をするとしたらアメリカはさすがだと思います。

私が見たopeでも、子宮の全摘は多くの場合4000ml程度の出血をしました。当然、輸血製剤を必要とします。

あと、この方の年齢が7年ほど間違っていると思うのですが…
細かいことですが、資料である以上重要なファクターなので訂正お願いします。


175. 2013年6月19日 21:55:57 : TA71bnBxbM
すいません間違えました。
別人の話なのですね;

流れ的に同一人物と勘違いして読みました。


176. 恵也 2013年6月24日 15:15:17 : cdRlA.6W79UEw : ztUNcbDLOQ
>>132 当事の列強各国の植民地政策からしたらそれぐらい普通だったんじゃないですか?

周回遅れのランナーに帝国主義国として参加してしまったから、日本は非難され
第二次大戦にも敗れてしまったの。

朝鮮併合したところで止めれたら、非難はほとんどなかったでしょうが満州や
中国にまで手を伸ばしたのが運のつき。

この当時にはアメリカの自由貿易主義の黎明期で、今と違って諸外国へも相互
不干渉というモンロー主義がアメリカの方針でした。

日本にはモンロー主義じゃなく、海外侵略を正当化する「八紘一宇という思想」
だったので周回遅れで世界の植民地競技に参加してしまった。
今じゃアメリカが海外侵略を正当化する「テロ撲滅という思想」が蔓延してる。

>>140 日時と場所が記載されていないから学術的資料としては採用できないだけ

判ってるものを秦邦彦が調べ、その上で正確と言えないとしたんでしょう。
女性や家族の恥になるものだから、加害者である吉田清治氏も日時・場所を
アヤフヤに混同し記述したもので学術資料には不向き。

吉田清治氏の話は、済州島の話と韓国での話をミックスして遺族や慰安婦の
個人・親族としてのプライバシーを保護したもの。
大筋は自分で行った事実のことを喋っただけ。

タダの普通のオランダ人女性でさえ無理やり慰安婦にしてます。
劣等民族と見下げて、馬鹿にしてた貧乏な、政治権力もない朝鮮人女性を
慰安婦にするのは当たり前。

ーーーーー(引用開始)−−−−−
「白馬事件」とよばれている事件です。
白馬というのは当時の隠語で「白人女性に乗る」ことを意味していたみたいです。

インドネシアには数カ所に白人女性を使った慰安所があり、総計65名のオランダ
人被害者の事例が記録されていますが、特に有名なのが1944年2月新設の
スマラン慰安所の事例です。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/nez/ian/

>>151 今の日本人でもソープで働いたらまともな結婚はできなくなるけどね。

家族も隠すし、本人はお年寄りになっても隠すし、まず公表しない。
公表するのなら、相当な怒りや憎しみ、義務感がないと出来ないよ。
貰えるか貰えないかもわからないような金銭の問題じゃない。

>>155 一色海自がyou-tubeに投稿して、事態が一変した過去があった。

日本ではマスコミ報道で事態が一変したと思うけど、世界では変わらんよ。
この事件は海上保安庁を管轄してた前原国交大臣の拿捕命令からでしょう。

それまでは田中角栄と周恩来の棚上げ合意で、尖閣での日本船は日本政府が
取り締まり、中国漁船は中国政府が取り締まることで事件化してません。
むしろこの時期から日本政府の中国敵視政策が実行されるようになったと思う。

>>162 俺の祖父の言うことが嘘で、自称慰安婦の言うことが真実という
>>  ことはできるのでしょうか? 

名無しのアンタが言っても信用力はゼロ。
俺は自称慰安婦を信じてるよ。

又聞きだけど、中国戦線で戦ったお爺さんは平常は無口で礼儀正しいけど
酒を飲ませたら戦争での残虐な寒気のする武勇伝を威張って喋るという。
たぶん酒を祖父に飲ませたら「祖父の言うことが嘘」なのが判ると思うけどね。

>>164 建前という可能性も否定できませんが、慰安婦の方々の話が嘘という可能性も

これは対等じゃないよ。
祖父には嘘をいう利益が存在するが、慰安婦には嘘をいう利益がない。
アンタは自分の孫に、自分の悪行を知られたいと思うかね?

>>172 堕胎するために子宮摘出は考えられない。

これは二度と妊娠して面倒にならないようにする為。
だからこれは十分に考えられます。


177. 2013年6月28日 01:26:15 : tMNEMCBRQI
>>176
卵管結紮するだけでいいじゃん
子宮まで取る必要なくね?
今みたいに腹腔鏡はないから、開腹にはなるけど出血だいぶ抑えられるし、opeも楽

178. 中川隆 2013年7月04日 00:03:55 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

Q+リポート 元慰安婦女性 戦後も消えなかった苦しみ
http://www.dailymotion.com/video/x116dsc_q-%E3%83%AA%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88-%E5%85%83%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E5%A5%B3%E6%80%A7-%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%82%82%E6%B6%88%E3%81%88%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E8%8B%A6%E3%81%97%E3%81%BF_news#.UdQ8gPmCimw

179. 2013年7月04日 02:27:52 : R0J1iUiLbY
1944年に16歳で慰安婦になると、今は84歳。
みなさんもう少しの辛抱ですぞ!

180. 2013年7月15日 01:21:26 : qSqEv3l18y
無視
無視
これにつきる

181. 2013年7月23日 08:53:54 : FvtU6MuDeg
売春婦が堂々と仕事よこせデモをしたり自国の売春婦が世界中で活躍する国のどこが「儒教社会」なのか。あと整形しまくり(朴槿恵はしてない=典型的なエラ張りの半島人の顔)、ブランド品超精巧コピー等々、どう考えても嘘偽りが多すぎる国。サッカーの"2002 FIFA World Cup Korea/Japan"(なんでJよりKが先なんだ?)の審判買収準決勝進出を見ても明らか。李承晩ラインも日本の占領が終わる直前に勝手に引いた火事場泥棒。東南アジアのツアーで知合った「慶州」出身の横浜の山手に住んでる舅からプレゼントされたベンツに乗ってる「ぱちんこ」セレブの奥様の言によると(旦那が韓国の大統領に表彰されたときの写真が自宅に飾ってあった)「このあたりには韓国人ほんとに多いよ」だと。その理由は戦後のドサクサに紛れて強奪・居座りした以外の理由が考えられないが、それとも奇特な日本の戦争未亡人などが過去に差別された朝鮮人に家屋敷をそっくり明け渡したとでも言うのかね? 阿修羅は文体からして年齢層がだいぶ高そうだから過去の自著をこっそり改竄した本多勝一はじめ共産思想の洗脳がいまだに抜けないようだが、まー時間とともに自然淘汰されてくだろうね。

182. 2013年7月24日 13:06:17 : 8rOJ3xjC7Y
なんか、洋画の「オルゴール」(ジェシカ・ラング主演)を思い出しちゃった。
この映画のオチと同じじゃなきゃイイけどね・・・。

183. 2013年7月24日 19:45:48 : W18zBTaIM6
慰安婦は朝鮮人だけじゃないからね。

慰安婦証言はどの民族でも似たり寄ったりだけどね。


184. 2013年7月26日 17:26:21 : DjHgqrxBCY
中川隆さんへ

>吉田清治を「詐欺師」扱いする本物の詐欺師 秦郁彦

では、

http://www.youtube.com/watch?v=Qg5Xt3y11qw

この動画内の秦さんの発言も真っ赤な嘘ってことですね?
嘘だとしたら、嘘であることを示す真実の証拠と、その情報ソースを出すべきではないでしょうか?

>済州島の人が慰安婦狩りを否定した理由

この情報のソースと客観的な信憑性を裏付ける証拠はどこにあるのですか?
音声や文書が示されていないようですが。


185. 中川隆 2013年7月26日 18:51:45 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
上に引用されている様に秦郁彦は歴史学会では詐欺師認定されているというだけです。

詐欺師でもその言葉がすべて100%嘘という事は無いです。

改竄・捏造の常習犯というだけですね。


186. 中川隆 2013年7月26日 18:54:55 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
阿修羅掲示板では二重投稿ができない様にプログラミングされているので、同じ文章を何度も投稿できません。

引用元は自分で探してください。


187. 中川隆 2013年7月26日 20:19:56 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

秦郁彦氏を語るスレ

(秦郁彦 基本情報1

秦郁彦が前からひどい文献引用をしているのは知っていたが、どうやら

===(文献捏造>までしていたらしい====

http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070817/p1

ここでは、秦郁彦が慰安婦は志願だったと主張した根拠となる文献を、その保存もと
ワシントンのNARA(米国国立公文書館:National Archives and Records Administration)にメールで問い合わせたら、「そんな文書はない」、という返事かきたそうだ。

これだけだと、些細な文献名の間違いとか想像するが、何せ秦郁彦にはこうした前科がいっぱいあるそうだ。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper44.htm

こりゃあ、秦郁彦ももはや、学者の看板を下ろして、ただの宣伝屋と呼ぶべきだな。


(秦郁彦 基本情報2
NARAからのメールは私が保管しています。
秦先生か、「史実を世界に発信する会」が、公開してくだされば問題はないのです。
さらに公開されたタイトルや内容については、NARAにフィードバックします。

"Composite Report on Three Korean Civilians, List No. 78, dated 28 March 1945,
“Special Question on Koreans"は強制連行を否定する根拠のひとつとして提示されており、
NARAから”We were unable to locate the report among the records in our custody.”
なんて言われて何らかのリアクションを起こさなければ、『慰安婦と戦場の性』の学術書としての信頼度はほぼなくなります。また、強制連行を否定すること自体も困難になります。
「例の文書出せよ!」って言われたら反論できませんから。

誰かを嘘つきと一方的に疑うまえに、議論に参加するものすべてが、この文書の公開を求めるべきだと考えます。サヨク・ウヨクの問題ではありません。



(秦郁彦 基本情報5

ひどいね秦の書かれよう。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper44.htm

ここまで具体的に批判されて反論をしていないということは認めたということだろうな。
しかも書かれたのは8年前。

秦はよほど研究者として程度が低いか
あるいは誰かのために事実をねじ曲げてるか、どっちかじゃないのか
と思ってしまうな。


(秦郁彦 基本情報6
667 :Stiffmuscle:2007/08/24(金) 01:37:57 ID:xvkBLfWa0

わたしも専門家ではありませんが、米国立公文書館は一素人の外国人からのメールに真摯に対応してくれました。同じような対応を秦先生や加瀬さんに求めているわけです。
この件に関しては、まだ、秦先生や加瀬さんを批判する段階にはありません。


>我々のような匿名世界の人間が研究者を振り回すのはどうかと思うが、どうだろう?
素人に振り回される研究者ってのもの変な存在ですけどね。
秦先生に学者としての実績がありプライドがあるのは当たり前なので、そこらへんは勘案しているつもりです。

それから、この文書確認は、基本的には、吉見先生や林先生が直接関わるレベルの問題ではないと思います。専門家のアドバイスを受けながらNGOレベルで対応できる範疇でしょうね。


>専門家と相談した結果を、ココや「はてな」で発表してくれたら有難い

そうですね。専門家やNPOともコンタクトを取り始めていますので、時間はかかるかもしれませんが、それなりの結果が発表できるように努力したいと思います。


9 名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/11/04 13:50:52  ID:iK/V6be00(13)
(前スレ 注目発言1
>720
>「間違いが多い」云々は、どの学者だって論敵からは言われてる

バカを言っちゃいけない、秦郁彦のしていることは「間違い」ではない!

林博史の書いていることを読めば、それは「意図的な歪曲」である事はすぐわかる

そして間違いなら、指摘されれば筆者は修正するだろう、秦郁彦はしてない

これを知れば秦郁彦のしていることは「もはや学者とは言えない」という表現が判ってくる
つまり彼は学者で、事実はこうだ!と書く振りをしながら、政治的主張をしているにすぎない

===>だから歴史学者は誰も相手をしなくなったわけだ
    未だに、学者扱いするのは2chのバカだけ

10 名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/11/04 13:52:26  ID:iK/V6be00

(前スレ 注目発言

742 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/02(日) 14:39:52 ID:NJllLgkS0
>732
>秦郁彦ももはや、学者の看板を下ろして、ただの宣伝屋と呼ぶべきだな。

どうやら秦郁彦が嘘つきなのは、確かなようだね。
この話には続きがあり、史実を世界に発信する会に電話したら、なんと茂木弘道がでてきて、結局その文献はなかった、という話だよ。
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20070831

いやあ、面白いねえ。

秦郁彦が、証拠を捏造したのは、きまりのようだな。


11名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/11/04 13:53:34  ID:iK/
(前スレ 注目発言
>735
>秦がつぶれない、って言うことは批判自体がたいしたことない

つぶれる?ってどういう事かよくわからないが、秦がまだ雑誌などに書ける理由は下記だろう

1秦郁彦は文献捏造や、恣意的引用による、文脈捏造では、まるまる嘘をつかず、ミスのように見えるよう少しずつやっている。だから批判する側もバカバカしくてなかなかやらない

2秦郁彦は著書では、実は大したことは書いていない。「そうみえる」「こういう例もある」程度あり、におわす程度だ。しかし2chなどネット上の無知な、バカは、もろ「こういった」と感じて、引用し書き散らす。秦郁彦は狡猾だ

3 2chのバカには意外かも知れないが秦郁彦は正面から吉見義明の本を、批判したことはない。
 かれの慰安婦での主張は結局、「強制連行の証拠はない」以上のものではない だから吉見の側でもまともに取り上げにくい

2chのバカにも分かり易く書くのは難しいなあ

13 名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/11/04 14:00:52  ID:iK/V6be00(13)

(秦郁彦 基本情報8
学術研究書としては研究者が叙述した資料集、回顧録、口述歴史等の資料を性別、民族別に分類し、歴史教育、歴史認識、基本的人権、帝国主義などいった幅広い観点から分析、考察を行った研究成果がある。主な作品を以下にあげる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%A7%A6%E9...#.E3.80.8C.E6.89.B9.E5.88.A4.E3.80.8D.E3.81.AE.E8.A8.98.E8.BF.B0.E3.81.AB.E3.81.A4.E3.81.84.E3.81.A6

1倉橋正直、従軍慰安婦問題の歴史的研究
2川田文子、戦争と性
3吉見義明、従軍慰安婦
4吉見義明・林博史、共同研究・日本軍慰安婦
5ジョージ・ヒックス、性の奴隷従軍慰安婦
6金冨子・梁澄子他、もっと知りたい「慰安婦」問題
7鈴木裕子、「慰安婦」問題と戦後責任
8荒井信一、西野瑠美子・前田朗、従軍慰安婦と歴史認識
9鈴木裕子、戦争責任とジェンダー
10前田朗、戦争犯罪と人権
11日本戦争責任センター編、シンポジウム ナショナリズムと「慰安婦」問題
12蘇智良、慰安婦研究
13蘇智良・栄維木・陳麗菲編、滔天罪藝二戦時期的日軍”慰安婦”制度
14VAWW-NETジャパン他、「慰安婦」戦時性暴力の実態1−朝鮮・台湾・日本編
15VAWW-NETジャパン他、「慰安婦」戦時性暴力の実態2−中国・東南アジア・太平洋編
16尹明淑、日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦

以上の学術研究書の共通点として、・・・・
ケケケ、15冊も本をあげても取り上げて貰えない秦郁彦、哀れ

ウィキペデアにも書いてある
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%A7%A6%E9%83%81%E5%BD%A6...

従軍慰安婦に関する秦の説はその他の研究者からほとんど参照されておらず、内容が参考にすべきものと評価されているとは言い難い。(例えば朱徳蘭はその台湾の慰安婦に関する研究書「台湾総督府と慰安婦」(明石書店 2005)で 、今までの研究結果として多くの研究書を列記しているが秦の本はない。また吉見義明は「日本軍性奴隷(「従軍慰安婦」)制度研究の現段階」(戦争責任研究 (38) 2002年冬季)で12年間の研究を振り返っているが秦への言及はない)
更に、方法論的な疑義を示す論者が存在する。

・・・・要は秦郁彦の「慰安婦と戦場の性」は、世間では馬鹿が読んでいるが、研究者にはまったく相手にされていないという事らしい

14 名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/11/04 14:03:59  ID:iK/V6be00(13)
(前スレ 注目発言

917 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/16(火) 01:38:01 ID:BnrQBANV0
嘘つきの秦も、集団自決では大風呂敷は、広げられなかったようだね、せいぜい情けがどうのと言い訳する程度。

秦郁彦はもちろん、沖縄戦の専門家ではない、もし教科書審議会がもう一度開かれても呼ばれる可能性はまずない、。従って、秦がどんな嘘をつこうと、教科書には関係ない
http://desktop2ch.tv/history2/1194023393/


188. 2013年8月15日 21:41:05 : 7qYCehaDEQ
戦勝国である米軍、英軍、、、、、追加参戦した露軍、、、さらに日本軍の同盟軍であった韓国には戦時において今、問題化されている慰安婦問題はどうだったのか、日本以外は、新ためて問題がなかったこと証明すべきかも。
戦争の勝敗に関係のない地球上の全生命体の存在の問題として。
何かおかしくないか。

189. 2013年8月15日 21:57:40 : 7qYCehaDEQ
ちなみに、中国は歴史上、テンソクまでやった国だぜ、いまはどうなのか。

190. 2013年9月01日 22:08:48 : aQq0UGoaxY
戦時中の朝日新聞、慰安婦強制連行したのは朝鮮人業者と報道2chNEWSポストセブンが手の平を返し真実を報道し始める
http://www.asyura2.com/13/hihyo14/msg/170.html

191. 中川隆 2013年9月02日 01:14:48 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

朝日新聞がうんたら かんたらと言ってるアホ右翼さんはまずこれをすべて否定してね:


旧日本軍の従軍慰安婦問題を研究している学者らが1日、

「資料や証言など確かな根拠に基づく事実関係を知ってもらおう」

とウェブサイト「FIGHT FOR JUSTICE 日本軍 『慰安婦』―忘却への抵抗・未来の責任」を開設したと発表した。

吉見義明中央大教授や林博史関東学院大教授らが同日、東京都内で記者会見した。サイト作成に携わった金富子東京外国語大教授は会見で、インターネットに「慰安婦問題は捏造」などのバッシングがあふれていると指摘。

「責任を回避するために問題をゆがめて忘却を強いる勢力に抵抗し、未来に事実を伝えたい」

と話した。


______

Fight for Justice 日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任http://fightforjustice.info/


192. 2013年9月09日 20:01:59 : ySSn0cr5PM
今時、日本人で有りながら悲しいかな戦時中の
凶悪植民地主義者和蘭人、大嘘吐き鮮人、
大嘘吐きチャンコロ・・の
追軍売春婦達に方を持ち我が帝国、国民
皇軍を貶めている人間の皮被った獰猛な獣が
まーだこの帝国に潜んでいる。油断大敵!!

193. 2013年9月09日 23:27:02 : W18zBTaIM6

チョン・チャンコロは天皇だろ。

天皇は日本に渡って来る前は朝鮮の38度線近くの某集落に住んでたんだよ。

朝鮮の学者はみんな知ってるよ。


194. 2013年10月15日 19:05:08 : W18zBTaIM6


日本、東京国立公文書館 慰安婦強制動員裁判記録 初公開
http://japan.hani.co.kr/arti/international/15756.html

登録 : 2013.10.07 20:38修正 : 2013.10.07 22:03

インドネシアでオランダ女性 35人連行

"将軍の要請で公務員が連行" 日本軍が直接介入した情況を記録
これを根拠に‘河野談話’が出た


東京国立公文書館が公開した慰安婦強制連行証拠資料. SBSニュース キャプチャー

 日本政府が太平洋戦争末期インドネシアの捕虜収容所に監禁されていたオランダ国籍の女性たちを強制連行し、慰安婦としたことを示す資料が公開された。 日本軍が慰安婦の強制連行に直接介入した状況を生々しく把握できる文書の詳しい内容が公開されたのは今回が初めてだ。


 共同通信は7日、日本軍がインドネシアの捕虜収容所でオランダ国籍女性35人を強制連行し、慰安婦としたことを示す資料が先月末から6日まで東京国立公文書館で公開されたと報道した。 この文書は朝鮮人女性たちの強制動員の有無を直接示す資料ではない。

 今回公開された資料の名前は‘BC(B・C級戦犯)バタビア裁判第106番事件’(合計530頁)だ。 1949年までオランダのバタビア臨時軍法会議で開かれた旧日本軍中将と少佐等、将校5人と民間人4人を強姦罪などで起訴した起訴状と判決文などで構成されている。 バタビア裁判という名前がついたところから分かるように、この記録は日本が崩壊した後にオランダ政府がオランダ領インドネシアでなされた日本軍の戦争犯罪を処罰するために進めた戦犯裁判関連文書だ。 このような事情を考慮する時、資料の信憑性が相当高いと判断される。

オランダ出身従軍慰安婦ヤン・ルフ・オヘルネが19才の時の1942年3月、太平洋戦争を起こした日本がインドネシア ジャワを侵略する直前に撮った写真(左)と現在の姿(右)

 文書には太平洋戦争が終盤に至った1944年、日本軍将校がジャワ島スマラン州収容所に監禁されていたオランダ国籍女性を州内4ヶの慰安所に連行し性売買を強要する過程が細かく描写されている。 これを見れば、

"(日本軍将校らが)州警察の長に慰安所に送る女性を収容所で選ぶよう依頼した"

"○○将軍の要請で州の公務員が女性たちを連れて行った"

"女性たちは慰安所に入るまで、どんな仕事をすることになるのかを聞くことはできなかった"

等の証言が含まれている。 慰安婦動員過程に日本軍が直接介入したことを確認できる。


 しかしこの裁判で12年刑の有罪判決を受けた日本軍中将は、1966年の帰国後に日本、石川県庁でなされた調査で

「連合軍の(戦犯裁判のための)調査が成され、婦人たちがありもしないことを並べ立て日本軍部をののしった」

として疑惑を否認した。

 この記事を書いたの角南圭祐記者はハンギョレとの通話で

「1993年河野談話が出てくる時、日本法務省がこの資料の内容を要約した4頁の資料を官房長官室に報告した」

として

「このような資料があって慰安婦動員過程で軍の強制性を認めた河野談話が出て来れた」

と話した。 今回の資料公開で日本で河野談話の修正を要求する声は説得力をより一層失うことになる展望だ。

東京/キル・ユンヒョン特派員 charisma@hani.co.kr

韓国語原文入力:2013/10/07 19:51
http://www.hani.co.kr/arti/international/japan/606115.html 訳J.S(1281字)


195. 2013年10月16日 17:19:46 : VOGlro5SjI
従軍慰安婦がセックススレイブwww日本は高額な金額を支払ってる。
だが一般論としては

このフランス映画が当時を同じ国の人が表現してるね。弱い国は奴隷だったんだね。日本もこういう風景を朝鮮でやればよかったね。韓国の一部主張は弱い国が一番偉いと言ってる事自体が国家の責任放棄と長い人類の歴史の無視だね。大東亜共栄権とはあの当時画期的だったんだね。アメリカの戦後政策にも強く影響してる。
朝鮮、中国もこのようなことが日常に行われていた。日本軍はむしろ解放してたんだね。

http://www.youtube.com/watch?v=Hrut_6N9Gpk

さすが日本の先人は唯一アジアで文明国を果たし現代でも自由と文化のリーダーだね。


196. 2013年10月17日 21:11:52 : W18zBTaIM6
従軍慰安婦で給料貰った人は一人もいないよ

197. 2013年10月17日 21:51:42 : VOGlro5SjI
>>196

いまさら言うかね。知識をテストしてるのかね?
日本で始まった裁判で貯金通帳が2年で今の価値で2億円ためてると朝鮮慰安婦が通帳つき証拠として出してるね。

当時のアメリカ軍の調査が公文書としてあるね。

http://www.youtube.com/watch?v=ggQaYD37Jm4

皮肉にも敵国の調査が一級証拠だよ。自由に強制連行するならブスはやめたほうが
良いというアメリカ人も不思議がる朝鮮慰安婦の容姿らしね。それに見合ってセックスでもっと儲けたいやサービスしたいと残念がるところまで調書取られてるね。


198. 2013年10月21日 17:22:48 : W18zBTaIM6
それはデマだろ。 帳簿上はともかく実際に支払った給料はゼロだった:


給料など女性達への金銭支払い

女性たちと元兵士の人たちとの証言の違う一番の問題点は、「高い料金を払った」ということと「お金はいっさい貰っていない」というものです。上記のように、兵士の払ったお金はあくまで「料金」であり、それが給料としてどの位支払われたかは、女性たちの「証言」と経営者の「証言」によるしかありません。
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/2semi/shiraisi.html

白馬事件・スマラン事件
日本軍などは、抑留所からスマランの慰安所にオランダ人女性を強制連行しました。女性達は毎日強姦されました。給料は払われませんでした。性病を移されたオランダ人女性もいました。日本軍は、これについて何の処罰もしませんでした。戦後、バタビア臨時軍法会議で、BC級戦犯として11人に、有罪の判決が出ました。罪名は強制連行、強制売春、強姦。責任者の岡田陸軍少佐には死刑の判決が出ました。また他の大佐は戦後、日本に帰国していましたが軍法会議の終了前に自殺しました。裁判では強制連行があった事実が認定されました。

スマラン慰安所の被害者の一人であるJan Ruff O'Herneさん(オランダ人女性で現在はオーストラリア国籍)は、アメリカ下院において現在、提出されている日本に対する謝罪要求決議の公聴会で証言しました。強制連行されレイプされたと証言しました。アメリカ下院における証言のサイトです。
http://internationalrelations.house.gov/110/ohe021507.htm

給料どころか、日本軍将校の有罪が確定しています。


199. 2013年10月22日 01:49:50 : VHaaXpgS8A
テキサス親父の時事漫談が余りに衝撃的で、朝鮮人どもが削除しまくった。そのためかえってみっともない拡散になったじゃねえか。よほど都合が悪いんだな。文玉珠は日本の軍人相手に、たった2年の売春で東京に家を5軒建買えるほど貯金できたってよ。これらは全部公文書で分ったことだ。その一方で売春婦側は「ウリが証拠だ」という以外に一次資料などの証拠は一つもねえ

200. 2013年10月22日 08:18:17 : W18zBTaIM6
それは給料ではなくてチップをためたものさ。

202. 2013年10月22日 17:07:20 : W18zBTaIM6
>そして戦後何十年も経ってから何でこんな重大な話が出て来たの?


食料と女性の現地調達は昭和天皇直直の命令だったから、GHQは必死に証拠隠滅工作してたのさ。 昭和天皇を戦犯として処刑してしまったら日本が今のイラクみたいになってしまうからね。


203. JohnMung 2013年10月30日 03:43:59 : SfgJT2I6DyMEc : C7nWl1y75A

 下記のスレをご覧下さい。

 慰安婦問題に係る韓国(政府及び関係者)の歪曲・捏造を含む言動を正すため、事実・事実関係を明らかにしようとするコメントを、中川隆(ID:HNPlrBDYLM、W18zBTaIM6)は愚弄するか、論拠・根拠も定かでないコメントで、執拗に攪乱に努めています。

 どうも、事実・事実関係を無視し、ねじ曲げ・捏造してでも、韓国の一方的主張を擁護しようとするのは、中川隆自身が在日韓国人または朝鮮人だからなのでしょう。

 ”慰安婦「10万人いた」? 韓国紙報道に疑問・矛盾の数々(産経新聞)”
 http://www.asyura2.com/13/senkyo155/msg/526.html
 投稿者 かさっこ地蔵 日時 2013 年 10 月 27 日 20:09:24: AtMSjtXKW4rJY


204. 2013年10月30日 17:57:25 : W18zBTaIM6
朝鮮人は小沢だろ

205. 中川隆 2013年11月04日 09:11:41 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

オランダ人慰安婦やインドネシア慰安婦の資料で、強制連行、給料ゼロが証明されている。
朝鮮も聞き取り調査ではオランダ人慰安婦やインドネシア慰安婦と同じか更に酷い状況だった。

他の国の従軍売春婦は20才以上で、止めたければすぐに止められた
日本の慰安婦は12,13才から20才までの売春婦としては認可されない性奴隷で、逃げたら凄惨なリンチで殺された

以上すでに実証済みだからこそ世界中の歴史学会の定説になっているのさ。


南京大虐殺でも慰安婦強制連行でも731部隊の人体実験でも、昭和天皇の命令でやった事はアメリカが徹底的な証拠隠滅工作をやるのは有名な話さ。

小沢信者は極右、天皇崇拝、アメリカの流すデマを何ら疑わないで信じるアホだけだな。


206. 2013年11月04日 23:46:11 : SxEsVz7QDw
吉田証言は虚構なんじゃないの? 自分自身が認めているんだから。

207. 中川隆 2013年11月05日 10:42:46 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
吉田清治が認めたのは、慰安婦の身元がわかって、彼女達とその家族・親戚が迫害を受けない様に、場所と時間を正確に書かなかったという事だけだ。

内容については否定していないし、本も廃刊にしていない。


209. 2013年11月05日 12:20:29 : W18zBTaIM6
慰安婦強制連行の証言は朝鮮人だけでなく、日本の占領地区すべてに渡って多数存在する。

しかも証言内容は朝鮮人慰安婦と殆ど変わらないしね。


210. 2013年11月06日 21:10:15 : SxEsVz7QDw
吉田清治は慰安婦狩りは小説だったって認めたでしょ。小説ならば廃刊にする必要がない。

211. 2013年11月06日 23:20:18 : SxEsVz7QDw
「軍慰安婦 〜彼女たちの叫びが聞こえますか」
(日本語版)http://www.youtube.com/watch?annotation_id=annotation_975557&feature=iv&src_vid=7jlfAqR8uBc&v=KZ2d1bqycmw
(英語版)http://www.youtube.com/watch?annotation_id=annotation_432572&feature=iv&src_vid=KZ2d1bqycmw&v=7jlfAqR8uBc
これは結構勉強になった。
The fact of Comfort Women (Sex Slave)
(英・日)http://www.youtube.com/watch?v=-MZrrL
これもね。
みんなで勉強しよう。

212. 2013年11月06日 23:23:35 : SxEsVz7QDw
"The fact of Comfort Women (Sex Slave)"
(英・日)http://www.youtube.com/watch?v=-MZrrLn64cg
ごめんなさい。urlが途中で切れていました。

213. 2013年11月08日 06:14:24 : i7AAgkD2qk
誰か教えて。

白馬事件って、朝鮮人のこと?違うでしょ。確かオランダ人でしょ。しかもそれは軍法会議で裁かれて終わった話でしょ?違うの?

自称従軍慰安婦の証言って朝鮮戦争の時の話でしょ?
http://megalodon.jp/2013-0922-0445-53/www.asiae.co.kr/news/view.htm?idxno=2013092012432151429
8〜10行目機械翻訳
慰安婦被害おばあさんを代表して証言者で出たキム・ボクトンおばあさん(88)は"朝鮮戦争当時日本軍に無惨に踏みにじられて悔しい思いをさせられた"としながら"日本が誤りを悔いて慰安婦被害者の問題を解決することができるように助けてくれ"と話した。

朝鮮は儒教の国なので故郷に帰れない?はぁ?鶯谷のアガシはしょっちゅう帰国して故郷に帰ってるけど?足洗ったコもいるし。なんで儒教の国なのに世界最大の売春婦輸出国なの?

日本の右翼団体=在日だけど?なんで吉田は在日から脅迫されるの?

ライダイハンって何?教えて!よくわからんのでソース貼っておく。
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2013/10/post-3075_1.php


214. 2013年11月12日 22:31:01 : 2D6PkBxKqI
>鶯谷のアガシはしょっちゅう帰国して故郷に帰ってるけど?

朝鮮はもう儒教の国じゃなくなったからさ

>日本の右翼団体=在日だけど?なんで吉田は在日から脅迫されるの?

在日は天皇崇拝だし、日本人になりたいからさ。



215. 2013年11月25日 04:58:10 : nSRnXkp0mM
通名で書くな

216. 中川隆 2013年12月10日 07:19:01 : 3bF/xW6Ehzs4I : 2D6PkBxKqI

日中当局、慰安婦取り上げぬ合意 92年の天皇訪中前

2013年12月10日06時03分

写真・図版並んで歓迎晩餐(ばんさん)会に向かう楊尚昆中国国家主席(手前)と天皇陛下=1992年10月23日、中国・北京の人民大会堂
写真・図版

 【佐藤純、板橋洋佳】日中外交当局が1992年、旧日本軍の慰安婦問題を大きくしないよう互いに抑制的に対応すると合意していたことが、朝日新聞が情報公開で入手した外交文書や政府関係者の証言で分かった。日中国交正常化20周年の同年秋に予定されていた初の天皇訪中などへの影響を懸念したためとみられる。

 日本外務省中国課長と在京中国大使館の担当者との会話を記録した同年2月19日付極秘文書によると、日本側は「慰安婦の問題が韓国から中国にも飛び火して頭を悩ませている。重要な要人往来を控え、この話が日中関係の大局に影響を及ぼさないようにしたい」と伝えた。中国側は「プレー・アップを望まないのは中国側も同様。中国の国民感情に直接響いてくる問題であるので、慎重に取り扱う必要があろう」と答えた。

 この10日余前、中国人慰安婦がいたことを示す資料が旧防衛庁で見つかったことが報道されていた。「プレー・アップ」は外交官らが「大きく扱う」「強調する」といった意味で使う。

 江沢民・中国共産党総書記(当時)が同年春に訪日し、秋には天皇が初訪中する方向が固まっていた。中国側は天皇訪中を、89年の天安門事件以降続いていた国際的孤立を解消していく好機ととらえていた。
http://www.asahi.com/articles/TKY201312090463.html?ref=com_top6_1st


戦地での食料と女性の現地調達、慰安婦強制連行は昭和天皇が直接指示してやらせた事だから、こうなるのは当然なんだよね。


217. 2013年12月17日 21:36:52 : P0VMEtQYt2
なぜ、吉田清治を擁護するの????

済州島出身の呉善花拓殖大教授は、強制連行の話は聞いたことがないと言っているし、韓国としても、何が何でも済州島で慰安婦狩りが実施されたことにしたかったが、済州島を調査しても何も出てこなかったと言うのに。


218. 2014年1月25日 21:16:45 : 2D6PkBxKqI
昔は済州島では慰安婦だった事がわかると、家族は結婚できなくなり、妹や娘は売春婦の仕事にしか就けなくなったんだ。

だからみんなで口裏を合わせて嘘言ったんだ。


219. 中川隆 2014年2月07日 20:57:48 : 3bF/xW6Ehzs4I : 2D6PkBxKqI

「売春と慰安婦は違う」 関東学院大・林博史氏、NHK会長の発言で

2014年2月5日


◆反省なき戦後を反映

 旧日本軍の従軍慰安婦問題をめぐり、NHKの籾井勝人会長が「戦争をしているどこの国にもあった」と発言した。就任会見で語られた発言は根拠が不明確な上、慰安婦の実態や人権への基本的な認識を欠いているという点においても公共放送のトップとしての資質が問われるものだ。慰安婦問題に詳しい、関東学院大の林博史教授に発言を検証してもらった。

(1)「戦争をしているどこの国にもあった」

 慰安婦制度の実態について公文書や資料、証言などを基に調査研究を続ける林教授は言い切る。「第2次大戦中に限れば、慰安婦制度があったのは日本とドイツだけだ」

 林教授らが慰安婦問題の理解のためインターネット上に開設したサイトでは、日本軍慰安婦制度の特徴として計画の立案、女性集めと輸送、慰安所の管理などすべてが軍の管理下に置かれ、時には軍が直接実施している点を列挙。こうしたケースはナチス・ドイツの例を除いてあり得ないとしている。

 それがなぜ、「どこの国にもあった」ことになるのか。

 「一般の売春と同じものだと意識的にねじ曲げて理解し、一般の売春であればどこの国にでもあると考える。そういう理屈なのだろう」

 林教授がそう指摘する思考の回路は籾井氏の発言内容からもうかがえる。

 籾井氏はドイツのほか、フランスを挙げた上で「ヨーロッパにはどこだってあった」と発言。「なぜオランダに今も(売春街を示す)飾り窓があるんですか」とも述べている。

 「慰安婦制度は軍が組織的に女性を集め、公然と管理・運営したもの。日本軍の場合は海外への輸送まで軍の船やトラックを使った。そういう意味で一般の売春とは明確に区別しなくてはいけない」

 第2次大戦後では、朝鮮戦争で韓国軍にも慰安婦制度があったとされるが、「当時の韓国軍の幹部は多くが旧日本軍の一員だった。つまり日本軍が残したあしき遺産を踏襲したものだった」

 籾井氏は記者から発言内容の根拠を問われ、「なかったという証拠もない」と反論した。林教授は「同じような制度がほかの国にもあったというならば証拠を示すべきだ」と指摘する。

(2)「今のモラルでは悪い」

 戦前の日本には公娼制度があった。特定の業者と女性たちが売春業を営むことを公認し、警察に登録させるものだ。

 「この制度が存在していたのだから、慰安婦制度もその延長にすぎず、当時はあって当たり前だったと主張する人もいる。だが、実際はそうではない」

 20世紀に入り、公娼制への反対運動は急速に高まった。全国の県議会で「事実上の奴隷制度」との批判が相次ぎ、廃止決議が出された。1930年代には国際連盟も問題視し、日本政府は公娼廃止に乗り出した。

 「公娼制は当時のモラルで考えてもおかしい制度で、廃止に向かっていた。その動きに逆らって導入されたのが慰安婦制度だ。その制度を軍が組織した。当時も決して当たり前だったわけではない」

 98年には国連人権小委員会で採択されたマクドゥーガル報告書が「慰安婦が自由を奪われた事実上の奴隷で、奴隷制は当時も国際法に違反した」と指摘。戦後の日本政府も損害賠償の責任を負っているとしている。

 また、当時から海外に連れていくために人身売買やだまして連行することは国外移送目的誘拐罪に当たった。実際に軍から女性を集めるよう依頼を受けた業者が警察に逮捕されるケースも存在したという。

(3)「日本だけが強制連行をした」

 林教授は誘拐事件を例に挙げて説く。「誘拐事件で問題となるのは連れ去った先での監禁行為だ。暴力的に連れ去ったか、言葉でだまして連れ去ったかは問題ではない」。同じことは慰安婦問題でも言うことができる。

 前出のサイトでは、女性たちがどのように連行されたかについての証言を紹介している。「無理やり日本軍人にトラックに乗せられた」といったものから「日本の工場に入れてあげる」「勉強ができてお金がもうかるところに連れていってやる」とだまされたケースまでさまざまだ。

 林教授は「慰安所に女性を連れて行き、働かせたことが一番の問題だと捉えるべきで、強制連行を論点にすること自体が誤っている」と話す。サイトでは「慰安婦問題の本質は何か?」と題し、強制連行の有無を問題にすることを「論点のすり替えであり、重大な問題から人々の関心をそらそうとするもの」と指摘している。

 では、ためらいなく発せられた籾井氏発言の背景にあるものは何か。

 「一番の問題は日本の戦争責任の取り方。戦争への反省が十分されていないところにある」

 それは、旧日本軍の関与や強制性を認めた河野洋平官房長官談話を見直そうとする政治家の動向や、中学校の教科書から従軍慰安婦の記述が消えたこと、あるいは在日コリアンへの差別をあおるヘイトスピーチ(憎悪表現)が街中で横行していることともつながっていると、林教授はみる。

 「過去と向き合いきちんと反省していれば、社会の基盤となるような価値観が共有されていたはずだ。その価値観とは自由であり、民主主義であり、基本的人権の尊重でもある。それを踏みにじることは政治的立場を問わず、許されない。つまり、日本社会のありようにかかわる問題だ」

■はやし・ひろふみ
 1955年、神戸市生まれ。関東学院大経済学部専任講師、助教授を経て現職。専攻は現代史、戦争・軍隊論。日本の戦争責任資料センター研究事務局長。昨年8月には吉見義明・中央大教授らとともに、慰安婦問題の理解のためのサイト「FIGHT FOR JUSTICE 日本軍『慰安婦』−忘却への抵抗・未来の責任」(http://fightforjustice.info/)を立ち上げた。



慰安婦についての籾井氏の発言要旨

 「戦時中だからいいとか悪いとかいうつもりは毛頭ないが、この問題はどこの国にもあったことですよね。違いますか」

 「慰安婦そのものがいいか悪いかと言われれば、今のモラルでは悪い。じゃあ従軍慰安婦がどうだったかと言われると、その時の現実としてあったということ」

 「従軍慰安婦が韓国だけにあって、ほかになかったという証拠がありますか。戦争をしているどこの国でもあったということ。ドイツやフランスにはありませんでしたか。ヨーロッパはどこでもあったでしょう。では、なぜオランダには今でも飾り窓があるのですか」

 「韓国がやっていることで一番不満なのは、韓国が、日本だけが強制連行をしたみたいなことを言っているからややこしい。だから、お金をよこせ、補償しろと言っている。日韓条約ですべて解決している。それをなぜ蒸し返されるのか。おかしいでしょう」


■従軍慰安婦問題■
 1930年代から45年の敗戦まで日本の戦地・占領地で軍が造った慰安所で軍人・軍属の性の相手をさせられた女性たちのこと。日本人もいたが朝鮮人、中国人、フィリピン人、インドネシア人など日本人以外の比率が圧倒的に多かった。

 91年に元慰安婦の韓国人女性が名乗り出て政治・外交問題化した。政府は、民間業者によるもので軍の関与はないと主張してきたが、調査の結果、93年に軍の関与のほか強制性や人権侵害があったことを認める河野洋平官房長官談話を発表した。

 95年には「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)が創設され、首相のおわびの手紙と民間募金による償い金が渡されることになった。364人が償い金を受け取ったが、あくまで国家による賠償を求めて受け取りを拒否した元慰安婦も多くいた。

 河野談話以降も、政治家からは慰安婦は自由意思で売春をしたといった談話の内容を否定する発言が相次ぎ、2007年には第1次安倍内閣が、軍や官憲による強制連行を直接示す資料は見当たらなかったとする内容を閣議決定した。
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1402050004/


220. 中川隆 2014年3月01日 09:51:25 : 3bF/xW6Ehzs4I : 2D6PkBxKqI

2013-01-05

■[慰安婦][資料] 日本軍「慰安所」の地図 日本軍「慰安所」の地図
http://d.hatena.ne.jp/dj19/searchdiary?word=%2A%5B%BB%F1%CE%C1%5D

「慰安所」があった場所
http://f.hatena.ne.jp/dj19/20130105195333

『wam女たちの戦争と平和資料館:http://www.wam-peace.org/』2005年,作成資料

:公文書によって確認された場所

▲:元「慰安婦」の証言によって確認された場所

■(二重四角←変換できない):日本軍将兵の手記、証言や地元の目撃者証言によって確認された場所

(※地図上のマークの数=慰安所の正確な数ではありません。)

地図にマークが無い場所でも慰安所があったことが後に確認された地域があり、この慰安所マップも完全なものというわけではないが、この規模の大きさからいっても「従軍慰安婦制度は、20世紀における最大の人身売買のケースのひとつ(2007 米下院決議 H.R.121)」であることは明らかであろう。


なお、地図では沖縄(南西諸島)に数カ所のマークしかないが、実際には沖縄だけで*延べ約130ヶ所の慰安所があったといわれている(部隊が移動するたびに慰安所の場所も移動した)。

(*延べ数130ヶ所の出典:「報告集」編集委員会『第五回全国女性史研究交流のつどい報告集−沖縄から未来を拓く女性史を』、同実行委員会、1994年、25〜31ページ)

関連リンク


宮古島・『慰安婦』・祈念碑・願い - Stiffmuscleの日記
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080715/p1

論文PDFファイル『沖縄の「慰安所」研究の再考 - 住民の役割に注目して』玉城福子
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/10323/1/ahs30_19.pdf

東ティモールにおける日本軍性奴隷制
http://www.asahi-net.or.jp/~ak4a-mtn/women/women.html


221. 中川隆 2014年3月02日 10:04:37 : 3bF/xW6Ehzs4I : 2D6PkBxKqI
82. 2014年3月02日 08:37:38 : esmsVHFkrM

敗戦時に日本政府と軍が組織的かつ徹底的に公文書を焼却し証拠隠滅を行った結果、それが南京虐殺であれ従軍慰安婦問題であれ日本側の公文書を使った実証研究は極めて困難ですが、それでもその証拠隠滅を生き残った公文書や当事者の戦陣日記等を根拠にした実証研究は数多くあります。

・そのうちでも、わずか一ホームページのコンパクトさでありながら、敗戦時の証拠隠滅を免れて戦後ずいぶん経ってから発見された、陸軍省副官発北支那方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒、陸支密第745号「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」(1938年3月4日付)に依拠して、それらに関連する外務次官発警視総監・各地方長官他宛文書、関係各県知事発で内務大臣・陸海軍大臣や刑務局長や宛文書、内務省警保局長通牒案、内務省警保局長発各地方長官宛文書、内務省の内偵メモ、在上海日本総領事館警察署長(田島周平)より長崎県水上警察署長(角川茂)に宛てた依頼状の公文書をあわせてそれえを資料批判し、慰安所の設置と管理の実態を実証した永井和京大教授の論文、「日本軍の慰安所政策について」(http://nagaikazu.la.coocan.jp/works/guniansyo.html)を参照するのが適当でしょう。

・永井教授はその論文において以下の三点を実証しました、

1 慰安所を設置するに当たって陸軍、各地警察、内務省、外務省が関与したこと、
2 慰安所の管理は軍が直接間接行ったこと、

3 さらに、当時から日本政府に慰安所の違法性の認識があったため政府による隠蔽があったこと、


・特に慰安所が軍の管理下にあったという基本事実については軍幹部および兵士の以下のような具体的記述があることを強調しておきたいと思います。

・上海派遣軍参謀長であった飯沼守の1937年12月11日の項には「慰安施設の件方面軍より書類来り、実施を取計ふ」、1937年12月19日の項には「迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す」とあります。

・上海派遣軍参謀副長であった上村利通の日記には、1937年12月28日付けで「南京慰安所の開設に就て第二課案を審議す」とあります。

・山崎正男第十軍参謀の日記には、1937年12月18日に「先行せる寺田中佐は憲兵を指導して湖州に娯楽機関を設置す」とあります。

・在上海総領事館警察の報告書の1937年12月末の職業統計には「陸軍慰安所」の項目があります。

・常州駐屯の独立攻城重砲兵第2大隊長の状況報告には1938年1月20日付で「慰安施設は兵站の経営するもの及び軍直部隊の経営するもの二カ所あり」とあります。

・元陸軍軍医麻生徹男の手記には「1938年の2月には上海郊外の楊家宅に兵站司令部の管轄する軍経営の陸軍慰安所が開設されていた」、「1938年1月に軍の命令を受け、奥地へ進出する女性(朝鮮人80名、日本人20名余り)の梅毒検査を上海で実施した」とあります。

さらに、慰安所が軍の管理下にあったことは、当然のことながら慰安所が酒保と並んで部隊の主計将校が担当すべき管理事項となっていたことからも明らかで、それを実証する文書としては、

1937年9月29日制定の陸達第48号「野戦酒保規程改正」、

第101聯隊(上海派遣軍第101師団)の一兵士の陣中日記(荻島静夫陣中日記田中常雄編『追憶の視線』下、1989年)、

『初級作戦給養百題』、

『陸軍主計団記事』第三七八号附録、

清水一郎陸軍主計少佐編、

陸軍主計団記事発行部発行(陸軍の経理学校の教官が経理将校の教育のために執筆した演習教材集)等があります。

・これで明らかなことは慰安所とは大日本帝国国営の売春宿であり、さらに当時から帝国政府がその不法性を十分認識していたということです。

・そうであれば、日本政府が管理する売春宿そのものの違法性はもとより、その設定、運営、管理のすべての局面において慰安所で発生した慰安婦とされた女性に対する不法行為および非人道的非倫理的行為の一切について日本政府が行為責任および監督責任を負うことは自明のことです。まったく議論の余地がありません。

・被害者が訴えているのもそのような慰安所における不法行為による被害の認定と日本政府の責任の確認とその適切な補償です。被害者は実際に日本の裁判所に対して被害事実の認定とその補償を求めています。すべて最高裁が日韓条約等を理由に補償そのものの訴えを棄却していますが、地裁高裁においては10件のうちの8件についてまでその訴えられた被害事実(慰安婦になった経緯、慰安所での強要の状態など)を判決において認定しています。それらの訴訟は以下のとおりです。


・アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟(1991)
・釜山「従軍慰安婦」・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟(1992)
・在日元「従軍慰安婦」謝罪・補償請求訴訟(1993)
・オランダ人元捕虜・民間抑留者損害賠償訴訟(1994)
・中国人「慰安婦」損害賠償請求訴訟(第一次)(1995)
・中国人「慰安婦」損害賠償請求訴訟(第二次)(1996)
・中国山西省性暴力被害者損害賠償等請求訴訟(1998)
・海南島戦時性暴力被害事件訴訟(2001)

・したがって、慰安所が政府と軍の関与によって設定されていること、それが軍の管理下において運営されていたこと、それ自体を当時の政府が不法と認識していてその隠蔽を図っていたこと、実際その政府・軍の管理下において慰安婦にされた女性たちに対する不法行為が存在したことは、被害者の主張であるばかりでなく、隠滅を免れた公文書や私文書で事実として実証され、それ故に日本の裁判所までその被害事実を事実として認定しているのです。

・それにもかかわらず、これらの実証研究や裁判所の被害認定の事実を無視して従軍慰安婦問題の存在を否定する主張が日本の右翼保守デマゴークによって行われてきました。自民党政治家もこれに同調して銃銀慰安婦問題を否定する発言を行ったりしています。


・それらの主張には以下のトリックがあります。

1 敗戦時に政府・軍の公文書が大量かつ徹底的に償却処分された事実(軍、外務省、内務省は焼却命令を出しています)を無視する。

2 従軍慰安婦問題を20万人の軍による暴力的な強制連行などとことさら厳格に定義してそれを証明する日本側公文書が存在しないから(敗戦時に証拠隠滅が行われたことを利用して)、慰安婦被害者の訴えは嘘だとか従軍慰安婦問題が存在しないと主張する。

3 被害者の証言について遠い過去の記憶であると言うことを無視してその些細な詳細について記憶違いや誤りがあれば、それをもってその被害者の証言は信用できないと主張する。さらにはこれをもってすべての被害者の証言が信用できないと主張する。

4 ある特定の場所の特定のケースで慰安所を単なる売春宿だとみなす第三国の報告書があれば、それをもってすべての場所のすべてのケースの慰安所が単なる売春宿に過ぎなかったと証明されたと主張する。

5 慰安婦が共生されていないすなわち自発的だったと主張するために慰安婦被害者の特定の民族性をふしだらだだから好き好んでやっていたことだと主張する。

6 事実をもって論破されても何度でも執拗に同じ主張を繰り返して論争相手を根負けさせてあたかも反論がないように装う(ニートネトウヨは暇だからふつうの人は最後まで相手が出来ない)。

7 従軍慰安婦否定論は日本の右翼保守の主張に過ぎず決して「日本の主張」でなどないのに、これをことさら日本対韓国のような国家や民族の対決であるかのように主張して日本人のナショナリズムを煽り従軍慰安婦問題否定論へ誤導しようとする。


このようなトリックに基づく主張がこのスレにおいてもxyzxyzを始めとするニートネトウヨによって繰り返し執拗に行われています。

・このような不誠実で不公正な右翼保守の主張が、被害者の激昂と関係諸国の憤激さらには第三国の厳しい批判を招かないはずがありません。現在の韓国等被害国からの厳しい批判(日韓関係の深刻化)とアメリカのような第三国における従軍慰安婦問題への注目と日本への批判の高まり(慰安婦像の設立)は最近における右翼保守のこのような不公正で卑怯な主張が引き起こした深刻な事態です。

・このまま右翼保守の主張を許せば、さらにそれに支持される安倍自民党政府が従来の政府見解を変更することがあれば、右翼保守ばかりでなく日本と日本人すべてがやったことをほとぼりが冷めたからとやっていないと主張して恥じない卑怯者だと思われてしまいます。これまでの戦後日本がその平和民主主義で築き上げてきた平和国家としての日本の国際的信用と尊敬が、戦後の平和憲法体制転換と戦前体制への復帰を目指しその一環として従軍慰安婦問題の否定する保守右翼により、完全に損なわれてまさに戦前体制がそうであったように世界で孤立することになります。

過去の誤りや失敗まで含めてありがままの日本を愛さずにはいられないのが本当の愛国心です。無謬の「美しい日本」しか愛せないからと歴史的事実を否定して過ちをなかったことと強弁するのは決して愛国的な行為ではありません。

・すでに事実は証拠隠滅を生き残った日本側公文書によっても実証されています。日本の裁判所も被害事実を被害認定しています。従軍慰安婦問題を否定しているのは世界中で日本の右翼保守(とネトウヨ)だけです。

・議論の余地はないのです。

・日本の右翼保守には、一刻も早く本当の愛国主義に目覚めて事実を事実として認め、不誠実で不公正な妄論で日本を貶めるのをやめてほしいものだと思います。

・日本の右翼保守には恥を知ってもらいたいものです。
http://www.asyura2.com/14/senkyo162/msg/286.html#c82


222. 2014年3月02日 10:08:48 : 2D6PkBxKqI

日本軍の慰安所政策について 永井和(京都大学文学研究科教授)
http://nagaikazu.la.coocan.jp/works/guniansyo.html


はじめまして、永井和と申します。日本の京都大学で日本現代史を教えております。しばらくの間、おつきあいをよろしくお願いいたします。まず、この研究会にお招きいただき、報告する機会が与えられたことに対して、あつくお礼申し上げます。とくに、社会史研究会を主宰されている鄭根埴先生のご厚意がなければ、日本国内でもそれほど名を知られているわけではない、私のような者が、ソウル大学校で報告をするという、身に余る光栄を経験することはなかったはずでありまして、心より感謝いたしております。

朴宣美さんより伝えられたところでは、最初は「天皇制と女性」というタイトルで、「従軍慰安婦問題」(韓国では「挺身隊問題」と言うべきかもしれませんが、日本での慣用に従わせていただきます)を天皇制に関連付けながら講演するようにとの、御希望であったのですが、お恥ずかしながら、天皇制はともかく、ジェンダー研究はほとんど私の専門外ですので、私には荷が重すぎる、とてもお話しできそうもないと、お断りしまして、その代わりに、日中戦争初期の陸軍慰安所のことについて、少しばかりお話することにした次第です。

と申しましても、私は軍慰安所や慰安婦について専門的に研究してきたわけではありません。今までに私が軍慰安所と慰安婦について書いたのは、2000年に発表した論文「陸軍慰安所の創設と慰安婦募集に関する一考察」、1本あるのみですので、お世辞にも専門家とはいえません。吉見義明氏をはじめとして軍慰安所や慰安婦問題についての日本の研究者は多数おられますが、私をこの方面の専門家として認める方は、私の友人である大阪産業大学の藤永壮助教授を唯一の例外として、ほとんどいないだろうと思われます。昨年刊行されました尹明淑さんの『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』(明石書店、2003年)、この本は、この問題に関する研究としては、日本の大学ではじめて学位を授与された画期的な作品でありますが、そこでも私の論文に対する言及はありません。

そのような私に、「従軍慰安婦問題」について話すようにとのリクエストがあったのは、たぶん、私の唯一の論文が、比較的早くに韓国で紹介されたからではないかと、自分では思っています。私の旧い知り合いでもある釜山外国語大学校の金文吉先生が、たいへんありがたいことに、2001年に韓国で発表された論文で、私の論文に言及されたことがあります。

そのようなわけですので、これからお話いたしますのは、今申し上げた4年前の論文の内容ほとんどそのままでして、それに少しばかり補足を加えただけにすぎません。おそらく皆様のご期待を大きく裏切るであろうことを、あらかじめお断りし、お許しをいただきたいと思います。 

前置きばかり長くなり、恐縮ですが、もう少し話を続けます。私が慰安所及び慰安婦に関する唯一の論文を書くきっかけが何であったかと言いますと、それは、1998年に私の担当する演習で「自由主義史観論争を読む」という授業をいたしまして、そこではじめて藤岡信勝氏や小林よしのり氏の歴史解釈をまじめに検討することになり、その史料解釈がはなはだしく恣意的あるにもかかわらず、政治的言説としてそれなりの支持を受けていること、また従来史料実証主義を看板にしていた一部の歴史家が、この動きに釘をさすどころか、逆にそれを支持する姿勢をとろうとしていたことを知って、いささか驚いたのが、そもそものきっかけでした。

従軍慰安婦問題は、南京大虐殺問題と並ぶ「自由主義史観論争」の二大問題でしたので、それについていろいろ文献を漁ったところ、偶然、1996年の末に新たに発見された内務省の警察資料が、「女性のためのアジア平和国民基金」から刊行された資料集(『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』1、1997年)に収録されているのを知り、それを読み進めました。私は歴史家ですので、ともかく史料を読んで、それをもとに考えるという癖が身に染みついてしまっております。読んでみますと、いわゆる「従軍慰安婦論争」において、その史料解釈が論議の的となった陸軍のある文書が、どのような背景で出されたのかを説明してくれると思われた、一連の資料に出くわしました。そこで、史料実証主義の面目を回復できるのではないかと思い、論文を執筆することにしたわけです。

それから、「従軍慰安婦論争」に関する文献を読んでみて、慰安所は軍の施設であるにもかかわらず、論争の当事者双方いずれもが、軍隊制度についての知識を欠いたまま議論をしているのではないかとの、感想をもちました。軍隊というものについて基礎的な知識があれば、「軍慰安所は公娼施設である」といった主張はおよそ成り立つはずがないと、私には思えるのですが、それが堂々と主張され、いっぽう否定する側も、「軍慰安所は公娼施設でない」という主張を、軍隊制度に即して展開するよりも、一足飛びに「公娼施設の抑圧性、犯罪性」を強調することが多く、議論がすれ違っているように見えたのです。日本は戦後ながらく平和が続いたせいか、軍隊についての知識が偏っています。作戦、指揮命令、戦闘、兵器といった面に集中していて、軍隊を支える非常に重要な要素にほかならない、兵站や後方組織についての知識が欠けており、それが「従軍慰安婦論争」において思わぬ視野の狭窄を引き起こしているのではないかと感じたことが、論文を書こうと思ったもう一つの理由です。と言いましても、私自身は軍隊の経験はありません。ただ、軍事史を少しばかり勉強したことがありますので、戦前の日本の陸軍の制度については、一般の人よりも詳しい知識があります。といっても、たいしたものではありませんが、その私が見ても、ある種の軍事的分野についての常識を欠いたまま議論が進められているように思えたのでした。

以上述べましたことからもわかりますように、1991年の慰安婦訴訟の開始から10年ほどの間、つまり従軍慰安婦問題が社会の注目を浴び、日韓の国際問題となり、「従軍慰安婦論争」が展開されていた間ということですが、私自身はこの問題にはまったく無関心でありました。吉見氏が日本ファシズムから戦争責任問題、具体的には軍慰安婦と化学戦へと研究テーマをシフトされていくのを横目に見て知ってはいましたが、私自身はまったく別のことに関心を寄せていたのです。そして、「従軍慰安婦論争」なるものがすでにヤマを越してしまったあと、政治的な言説にのっかった史料の恣意的解釈が横行するいっぽうで、言語論的展開を持ち出して史料実証主義の終焉を宣言する言説1)が出されたあと、史料実証主義の立場からささやかな抵抗を試みたのが、2000年に発表した論文だったと、自分では思っております。その意味では、私も戦争責任問題や戦後補償問題に鈍感な、保守的な日本人の一人にすぎません。そういう者の発言であることを、あらかじめお断りしたうえで、本論に入っていくことにいたします。


問題の所在

所謂「従軍慰安婦論争」は、直接には1997年度から使用される中学校用文部省検定教科書の「従軍慰安婦」に関する記述の是非をめぐる論争としてはじまったが、その背景をさかのぼれば、1991年以降次々とカム・アウトし、日本政府を告発した韓国、フィリッピン、台湾等の元慰安婦たちの活動、とくに謝罪と賠償を求める法廷闘争と、それに触発されてはじまった日本政府と国連人権委員会の調査活動、そして政府調査結果をふまえてなされた日本政府の謝罪と反省の意志表明といった、一連の動きに対する反発、反動としてとらえることができる。

本報告では、1996年末に新たに発掘された警察資料を用いて、この「従軍慰安婦論争」で、その解釈が争点のひとつとなった陸軍の一文書、すなわち陸軍省副官発北支那方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒、陸支密第745号「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」 (1938年3月4日付−以後副官通牒と略す)の意味を再検討する。


223. 2014年3月02日 10:09:40 : 2D6PkBxKqI
まず問題の文書全文を以下に引用する(引用にあたっては、原史料に忠実であることを心がけたが、漢字は通行の字体を用いた)。

支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為内地ニ於テ之カ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ或ハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少ナカラサルニ就テハ将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於イテ統制シ之ニ任スル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ其実地ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連携ヲ密ニシ次テ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス2)

この文書は吉見義明の発見にかかるもので、軍が女性の募集も含めて慰安所の統制・監督にあたったことを示す動かぬ証拠として、1992年に朝日新聞紙上で大きく報道された。吉見はこの史料から、「陸軍省は、派遣軍が選定した業者が、誘拐まがいの方法で、日本内地で軍慰安婦の徴集をおこなっていることを知っていた」のであり、そのようなことが続けば、軍に対する国民の信頼が崩れるおそれがあるので、「このような不祥事を防ぐために、各派遣軍が徴集業務を統制し、業者の選定をもっとしっかりするようにと指示したのである」と解釈し、慰安婦の募集業務が軍の指示と統制のもとにおこなわれたことが裏づけられる、とした3)。

いっぽう、これに対立する小林よしのりは、この通牒をもって「内地で誘拐まがいの募集をする業者がいるから注意せよという(よい)「関与」を示すものだ」、「これは違法な徴募を止めさせるものだ」4)、「「内地で軍の名前を騙って非常に無理な募集をしている者がおるから、これを取り締まれ」というふうに書いてあるわけです」5)と、いわゆる「よい関与論」を唱え、同様の主張が藤岡信勝によってもなされた。

藤岡は「慰安婦を集めるときに日本人の業者のなかには誘拐まがいの方法で集めている者がいて、地元で警察沙汰になったりした例があるので、それは軍の威信を傷つける。そういうことが絶対にないよう、業者の選定も厳しくチェックし、そうした悪質な業者を選ばないように−と指示した通達文書だったのです。ですから、強制連行せよという命令文書ではなくて、強制連行を業者がすることを禁じた文書」6)と、言う。また、秦郁彦もこれとよく似た解釈を下している7)。

他方、小林よしのりを批判する上杉聡は、逆にこの文書をもって「強制連行」の事実があったことを示す史料だとし、そのような悪質な「業者の背後に軍部があることを「ことさら言うな」と公文書が記しているのであり、強制連行だけでなく、その責任者もここにハッキリ書かれている」8)と反論した。

いずれも、日本国内で悪質な募集業者による誘拐まがいの行為が現実に発生しており、さらにそういった業者による「強制連行」や「強制徴集」が行われうる、あるいは実際に行われていた可能性を示す文書だと解釈する点では共通している。

ちがいは、吉見および上杉の方は、軍による募集業者の選定と募集・徴集活動の統制が行われていたことを重視し、それゆえこれを「軍の関与」を示す決定的証拠としてとらえ、そこから軍には当然の義務として慰安婦に対して適切な保護を与え、虐待や不法行為を防止する監督責任が発生するのであり、それが守られなかった場合には、その責任を問われうると論じるのに対して、いわゆる自由主義史観派は慰安所に対する軍の関与を認めつつも、その関与とは業者による「強制連行」「強制徴集」など不法行為の取締であり、この通牒は軍がそのような取締を実際に行っていたことを示す証拠であって、この文書がある以上、たとえ数々の不法行為や虐待、性暴力事件が起きたとしても、それはそのような行為をおこした個々の業者や軍の下部機関、一般将兵が悪いのであって、軍および政府の責任を問うことはできないと、そう主張する点にある。

両者の差異は、根本的には、慰安所と軍および政府との関係をどう把握し、そこで女性に加えられた虐待行為に対する軍および政府の責任の有無をどう判断するのか、その立場の差異に由来する。言うまでもなく、吉見や上杉は、慰安所は国家が軍事上の必要から設置した軍の施設であり、そこでなされた組織的な慰安婦虐待行為の究極的な責任は軍および政府に帰属すると考える立場に立っている。

それに対して、自由主義史観派は慰安所に対する軍と政府の関係を否定するか、あるいは否定しないまでも、それはもっぱら業者や利用将兵の不法行為・性的虐待を取締まる「よい関与」であったと主張する。慰安所は戦地においてもっぱら兵士を対象に営業した民間の売春施設であり、公娼制度が存在していた戦前においてはとくに違法なものではなかったから、そこでなされた虐待行為に軍および政府が責任をとわれる理由はない。もし仮に軍および政府が責任を問われうるとすれば、それは強制的に慰安婦を徴集・連行した場合のみだが、そのようなことを軍ないし政府が命令した事実はないというのが、彼らの慰安婦問題に対する基本的理解であり、そのような観点から、この副官通牒を解釈し、もっぱら「強制連行」の有無を争う文脈で論争の俎上にのせたのであった。そのことが上のような解釈の相異を生みだしたのである。

なお、慰安所と軍の関係について自分自身の考えをあらかじめここではっきりさせておくと、私は、慰安所とは将兵の性欲を処理させるために軍が設置した兵站付属施設であったと理解している。その点では吉見と同じ考えに立っており、これを民間業者の経営する一般の公娼施設と同じであるとして、軍および政府の関与と責任を否定する自由主義史観派には与しない。もっぱら「強制連行」の有無をもって慰安所問題に対する軍および政府の責任を否定せんとする彼らの言説は、それ以外の形態であれば、軍と政府の関与は何ら問題にならないし、問題とすべきではないとの主張を暗黙のうちに含んでいるのであり、慰安所と軍および政府の関係を隠蔽し、慰安所の存在を正当化するものと言わざるをえないからである。

話を副官通牒に戻すと、最近になって警察関係の公文書が発掘され、問題の副官通牒と密接に関連する1938年2月23日付の内務省警保局長通牒(内務省発警第5号)「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」(以下警保局長通牒と略す)の起案・決裁文書とそれに付随するいくつかの県警察部長からの内務省宛報告書が見つかった。

この警察資料を分析することにより、この二つの通牒が出されるにいたった経緯と背景をある程度まで明らかにすることができる。そこから見えてくる事情は、先ほどの解釈論争が想定していたのとはかなり異なるのである。たとえば、警察報告では、たしかに婦女誘拐容疑事件が一件報告されてはいるが、しかし、それ以外には「強制連行」「強制徴集」を思わせる事件の報告を見いだすことはできない。もちろん、発見された警察資料は、山県、宮城、群馬、茨城、和歌山、高知の各県警察部報告と神戸や大阪での慰安婦募集についての内偵報告にすぎないので、日本全国はもちろん朝鮮・台湾など募集がおこなわれた全地域を網羅するものではない。よって、それらの地域で「強制連行」や「強制徴集」がおこなわれた可能性を全面的に否定するものではない。

しかし、副官通牒で言及されている「募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル」という事件は、間違いなく和歌山県警察部から一件報告されており、そのような事件が現におこっていたことが、この警察報告により証明された。つまり、警察報告と副官通牒との間には強い関連性が存在する。

そこで、今後さらに新しい警察資料が発見され、それによって必要な変更を施す必要が生じるまでは、もっぱら以下に述べる作業仮説を採用し、その上で考察を進めることにする。すなわち内務省は主として現在知られている警察資料に含まれている諸報告をもとに、前記警保局長通牒を作成・発令し、さらにそれを受けて問題の副官通牒が陸軍省から出先軍司令部へ出されたのである、と。

この作業仮説を前提におくと、和歌山の婦女誘拐容疑事件一件を除き、警察は「強制連行」や「強制徴集」の事例を一件もつかんでいなかったと結論せざるをえない。そうすると、副官通牒から「強制連行」や「強制徴集」の事実があったと断定ないし推測する解釈は成り立たないことになる。また、これをもって「強制連行を業者がすることを禁じた文書」とする自由主義史観派の主張も誤りと言わざるをえない。なぜなら、存在しないものを取締ったりはできないからである。では、いったい副官通牒や警保局長通牒は何を取締まろうとしたのか、そもそもこれらの通達はいったい何を目的として出されたのか、それをあらためて問題とせざるをえない。

結論を先回りして言えば、問題の警保局長通牒は、軍の依頼を受けた業者による慰安婦の募集活動に疑念を発した地方警察に対して、慰安所開設は国家の方針であるとの内務省の意向を徹底し、警察の意思統一をはかることを目的と出されたものであり、慰安婦の募集と渡航を合法化すると同時に、軍と慰安所の関係を隠蔽化するべく、募集行為を規制するよう指示した文書にほかならぬ、というのが私の解釈である。さらに、副官通牒は、そのような警察の措置に応じるべく、内務省の規制方針にそうよう慰安婦の募集にあたる業者の選定に注意をはらい、地元警察・憲兵隊との連絡を密にとるように命じた、出先軍司令部向けの指示文書であり、そもそもが「強制連行を業者がすることを禁じた」取締文書などではないのである。

T.警察資料について

本稿で考察の材料とするのは、女性のためのアジア平和国民基金編『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』第1巻(龍渓書舎、 1997年、以下『資料集成』と略す)に収録されている内務省文書の一部である。

最初に、本稿で扱う警察資料の全タイトルを紹介する。このうち、1と8-2は外務省外交史料館所蔵の外務省記録に同じものが含まれており、前々からその存在がよく知られていた。
1.外務次官発警視総監・各地方長官他宛「不良分子ノ渡支ニ関スル件」(1938年8月31日付)
2.群馬県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」 (1938年1月19日付)
3.山形県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「北支派遣軍慰安酌婦募集ニ関スル件」(1938年1月25日付)
4.高知県知事発内務大臣宛「支那渡航婦女募集取締ニ関スル件」(1938年1月25日付)
5..和歌山県知事発内務省警保局長宛「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」(1938年2月7日付)
6.茨城県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」 (1938年2月14日付)
7.宮城県知事発内務大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」 (1938年2月15日付)
8.-1.内務省警保局長通牒案「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」(1938年2月18日付)
-2.内務省警保局長発各地方長官宛「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」 (1938年2月23日付)
9.「醜業婦渡支ニ関スル経緯」(内務省の内偵メモ、日付不明)

2〜7および9は、1937年の末に慰安所の開設を決定した中支那方面軍の要請に基づいて日本国内で行われた慰安婦の募集活動に関する一連の警察報告であり、8は軍の要請に応じるため中国への渡航制限を緩和し、募集活動の容認とその統制を指示した警保局長通牒の起案文書(8-1)および発令された通牒本体(8-2)である。

この一連の文書については、すでに、吉川春子9)、八木絹10)によってその内容の概略が紹介されており、さらに和田春樹11)も詳しい紹介をおこなっている。なお、これらの資料は元内務省職員種村一男氏の寄贈にかかるもので、警察大学校に保存されていた。1992年と93年の政府調査報告の際にはその所在がつかめなかったが、1996年12月19日に参議院議員吉川春子氏(共産党)の求めに応じて、警察庁がこの資料を提出したため、その存在が明るみに出ることになった12)。現在は東京の国立公文書館に移管されており、その一部がアジア歴史資料センターで公開されている。

U.陸軍慰安所の創設

前記史料5の和歌山県知事発内務省警保局長宛「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」(1938年2月7日付)なる文書中に、長崎県外事警察課長から和歌山県刑事課長宛の1938年1月20日付回答文書の写しが参考資料として添付されている。さらに、この長崎県からの回答文書中には、在上海日本総領事館警察署長(田島周平)より長崎県水上警察署長(角川茂)に宛てた依頼状(1937年12月21日付)の写しも収録されている。

この上海総領事館警察署の依頼状は、陸軍慰安所の設置に在上海の軍と領事館が深く関与したことを示す公文書にほかならない。以下に引用するのはその全文である。

 皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件

 本件ニ関シ前線各地ニ於ケル皇軍ノ進展ニ伴ヒ之カ将兵ノ慰安方ニ付関係諸機関ニ於テ考究中処頃日来当館陸軍武官室憲兵隊合議ノ結果施設ノ一端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依リ設置スルコトトナレリ
        記
領事館
 (イ)営業願出者ニ対スル許否ノ決定
 (ロ)慰安婦女ノ身許及斯業ニ対スル一般契約手続
 (ハ)渡航上ニ関スル便宜供与
 (ニ)営業主並婦女ノ身元其他ニ関シ関係諸官署間ノ照会並回答
 (ホ)着滬ト同時ニ当地ニ滞在セシメサルヲ原則トシテ許否決定ノ上直チニ憲兵隊ニ引継クモトス
憲兵隊
 (イ)領事館ヨリ引継ヲ受ケタル営業主並婦女ノ就業地輸送手続
 (ロ)営業者並稼業婦女ニ対スル保護取締
武官室
 (イ)就業場所及家屋等ノ準備
 (ロ)一般保険並検黴ニ関スル件
 
右要領ニヨリ施設ヲ急キ居ル処既ニ稼業婦女(酌婦)募集ノ為本邦内地並ニ朝鮮方面ニ旅行中ノモノアリ今後モ同様要務ニテ旅行スルモノアル筈ナルカ之等ノモノニ対シテハ当館発給ノ身分証明書中ニ事由ヲ記入シ本人ニ携帯セシメ居ルニ付乗船其他ニ付便宜供与方御取計相成度尚着滬後直ニ就業地ニ赴ク関係上募集者抱主又ハ其ノ代理者等ニハ夫々斯業ニ必要ナル書類(左記雛形)ヲ交付シ予メ書類ノ完備方指示シ置キタルモ整備ヲ缺クモノ多カルヘキヲ予想サルルト共ニ着滬後煩雑ナル手続ヲ繰返スコトナキ様致度ニ付一応携帯書類御査閲ノ上御援助相煩度此段御依頼ス

(中略)

昭和十二年十二月二十一日

                在上海日本総領事館警察署13)

冒頭に、「之カ将兵ノ慰安方ニ付関係諸機関ニ於テ考究中ノ処頃日来当館陸軍武官室憲兵隊合議ノ結果施設ノ一端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依リ設置スルコトトナレリ」とあるように、この文書から、1937年の12月中旬に上海の総領事館(総領事は岡本季正)と陸軍武官室と憲兵隊の三者間で協議がおこなわれ、その結果、前線に陸軍慰安所を設置することが決定されたこと、さらにその運用に関して三者間に任務分担の協定が結ばれたことが判明する。

ここで言及されている陸軍武官室とは、正式には在中華民国大使館付陸軍武官とそのスタッフを意味する。その長は原田熊吉少将であり、1938年2月には中支特務部と改称された。軍事面での渉外事項や特殊な政治工作を担当する陸軍の出先機関であり、上海戦がはじまってからは、上海派遣軍や中支那方面軍の隷下にある陸軍特務機関として第三国の出先機関や軍部との交渉、親日派中国人に対する政治工作、さらに上海で活動する日本の政府機関や民間団体との交渉・調整窓口の役割をはたした。

軍慰安所の設置が軍の指示、命令によるものであったことは、今までの慰安所研究により明らかにされており、今では史実として広く受け入れられている。その意味では、定説の再確認にとどまるのだが、この在上海総領事館警察署の依頼状は、慰安所の設置を命じた軍の指令文書そのものではないとしても、政府機関と軍すなわち在上海陸軍武官室、総領事館、憲兵隊によって慰安所の設置とその運営法が決定されたことを直接的に示す公文書として他に先例がなく、その点で重要な意義を有する。

もっともこの文書の記述にもかかわらず、陸軍慰安所開設の決定は、陸軍武官室や憲兵隊、領事館の権限だけでできるものではない。軍組織のありかたからすれば、陸軍武官室と憲兵隊の双方に対して指揮権を有するより上級の単位、この場合は中支那方面軍司令部において、まず設置の決定がなされ、それを受けてこの三者間で慰安所運用のための細目が協議・決定されたのだと解すべきであろう。

吉見および藤井忠俊の研究14)によれば、上海・南京方面での陸軍慰安所の設置に関する既存史料には次のようなものがある。(これ以外にも、慰安所を利用した兵士の日記・回想があるが略す)。
1.飯沼守上海派遣軍参謀長の日記15) •1937年12月11日の項「慰安施設の件方面軍より書類来り、実施を取計ふ」
•1937年12月19日の項「迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す」

2.上村利通上海派遣軍参謀副長の日記16) •1937年12月28日の項に「南京慰安所の開設に就て第二課案を審議す」

3.山崎正男第十軍参謀の日記17) •1937年12月18日の項に「先行せる寺田中佐は憲兵を指導して湖州に娯楽機関を設置す」

4.在上海総領事館警察の報告書18) •1937年12月末の職業統計に「陸軍慰安所」の項目。

5.常州駐屯の独立攻城重砲兵第2大隊長の状況報告19) •1938年1月20日付「慰安施設は兵站の経営するもの及び軍直部隊の経営するもの二カ所あり」

6.元陸軍軍医麻生徹男の手記によれば、1938年の2月には上海郊外の楊家宅に兵站司令部の管轄する軍経営の陸軍慰安所が開設されていた20)。
また、1938年1月に軍の命令を受け、奥地へ進出する女性(朝鮮人80名、日本人20名余り)の梅毒検査を上海で実施した21)。
今回さらに、

7.在上海総領事館警察署発長崎県水上警察署宛「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」(1937年12月21日付)

が新たに加わったわけである。

これらを総合すれば、1937年の遅くとも12月中旬には華中の日本陸軍を統括する中支那方面軍司令部レベルで陸軍慰安所の設置が決定され、その指揮下にある各軍(上海派遣軍と第十軍)に慰安所開設の指示が出されたと考えて、まずまちがいない。

それを受けて各軍で慰安所の開設準備が進められるとともに、関係諸機関が協議して任務分担を定め、総領事館は慰安所の営業主(陸軍の委託により慰安所の経営をおこなう業者)および慰安所で働く女性(慰安所従業婦すなわち慰安婦)の身許確認と営業許可、渡航上の便宜取り計らい、また業務を円滑におこなうため内地・植民地の関係諸機関との交渉にあたり、憲兵隊は営業主と従業女性の前線慰安所までの輸送手配と保護取締、さらに特務機関が慰安所用施設の確保・提供と慰安所の衛生検査および従業女性の性病検査の手配をすることが定められたのであった。

さらにこの依頼状から読みとれるのは、慰安所で働く女性の調達のために、軍と総領事館の指示を受けた業者が日本および朝鮮へ募集に出かけたこと、および彼等の募集活動と集められた女性の渡航に便宜をはかるように、内地の(おそらく朝鮮も同様と思われる)警察にむけて依頼がなされた事実である。

この募集活動によって、実際に日本内地および朝鮮から女性が多数上海に連れられてきたことは、6の麻生軍医の回想によって裏づけられる。なお、麻生軍医に女性100名の性病検査を命じたのは「軍特務部」であり、その命令は1938年1月1日付であった22)。この記述は、上記依頼状にみられる軍・憲兵隊・領事館の任務分担協定が現実に機能していたことの傍証となろう。

ところで、依頼状に記された任務分担協定は、陸軍慰安所に対する風俗警察権が領事館警察ではなくて、軍事警察=憲兵隊に属していたことを示している。協定の定めるところによれば、領事館警察は中国に渡ってきた慰安所営業主と女性のたんなる受け入れ窓口にすぎず、手続きが終われば、その身柄は軍に引き渡され、その取締権も領事館警察から憲兵隊に移される。移管とともに彼らは領事館警察の風俗警察権の圏外に置かれるのであり、管轄警察権の所在において陸軍慰安所は通常一般の公娼施設とは性格を異にする。これは慰安所が軍の兵站付属施設であることを意味するのだが、陸軍慰安所を一般の公娼施設と同様とみなす議論は、この点を無視ないし軽視していると言わざるをえない。


224. 2014年3月02日 10:11:02 : 2D6PkBxKqI

通常一般の公娼施設は、それを利用する軍人・軍属の取締のために憲兵が立入ることはあっても、業者や娼妓に対する風俗警察権は内務省警察・植民地警察・外務省警察などの文民警察に属し、軍事警察すなわち憲兵の関知するところではない。ところが、陸軍慰安所の従業員は軍籍を有さぬ民間人でありながら、その場所で働いているかぎりは憲兵の管轄とされるのである。これは慰安所が酒保などと同様、前線近くに置かれた軍の兵站付属施設であり、軍人・軍属専用の性欲処理施設だったことに由来する23)。なお、この点については、補論で詳しく論じたい。

さて、依頼状に「之等ノモノニ対シテハ当館発給ノ身分証明書中ニ事由ヲ記入シ本人ニ携帯セシメ居ル」とあるように、軍と総領事館から依頼された業者は在上海総領事館の発行する身分証明書を所持して、日本内地及び朝鮮にわたり、慰安所で働く女性の募集活動に従事したのであった(「稼業婦女(酌婦)募集ノ為本邦内地並ニ朝鮮方面ニ旅行中ノモノアリ今後モ同様要務ニテ旅行スルモノアル筈ナル」)。彼等がどのような方法で募集活動をおこなったかは、史料2〜7の警察報告に実例が出てくるので、次章で検討するが、日本内地または植民地において女性を集めた業者は、彼女等を連れて上海に戻ってこなければならない。あるいは上海まで女性を送らなければならない。しかし、日中戦争がはじまるや、日本国内から中国への渡航は厳しく制限され、原則として日本内地または植民地の警察署が発給する身分証明書を所持しなければ、乗船・出国ができなくなっていた。

しかも、1937年8月31日付の外務次官通達「不良分子ノ渡支取締方ニ関スル件」(史料1)は各地の警察に対して、「混乱ニ紛レテ一儲セントスル」不良分子の中国渡航を「厳ニ取締ル」ため、「素性、経歴、平素ノ言動不良ニシテ渡支後不正行為ヲ為スノ虞アル者」には身分証明書の発行を禁止するよう指示しており、さらに「業務上又ハ家庭上其ノ他正当ナル目的ノ為至急渡支ヲ必要トスル者ノ外ハ、此際可成自発的ニ渡支ヲ差控ヘシムル」よう指導せよと、命じていた24)。

まともに申請すれば、「醜業」と蔑視されている売春業者や娼婦・酌婦に対して身分証明書の発給が許されるはずがない。だからこそ、上海の領事館警察から長崎県水上警察署に対して、陸軍慰安所の設置はたしかに軍と総領事館の協議・決定に基づくものであり、決して一儲けを企む民間業者の恣意的事業ではないことを通知し、業者と従業女性の中国渡航にしかるべき便宜をはかってほしいとの要請(「乗船其他ニ付便宜供与方御取計相成度」)がなされたのである。よって、この依頼状の性格は、軍の方針を伝えるとともに、前記外務次官通達の定める渡航制限に緩和措置を求めたものと位置づけるのが至当である。


225. 2014年3月02日 10:12:10 : 2D6PkBxKqI

V.日本国内における慰安婦募集活動

1.和歌山の誘拐容疑事件

この章では軍と総領事館の依頼を受けて、日本国内および朝鮮に赴いた募集業者がどのような活動をおこなったのかを警察の報告をもとに紹介する。最初にあげるのは、和歌山県でおこった婦女誘拐容疑事件である。内務省警保局長宛報告(前掲史料5の1938年2月7日付「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」)によれば、事件の概要は以下のとおりであった。

1938年1月6日和歌山県田辺警察署は、管下の飲食店街を徘徊する挙動不審の男性3名に、婦女誘拐の容疑ありとして任意同行を求めた。3人のうち2人は大阪市の貸席業者で、もう1人は地元海南の紹介業者であった。

彼等は、自分たちは「疑ハシキモノニ非ス、軍部ノ命令ニテ上海皇軍慰安所ニ送ル酌婦募集ニ来タリタルモノニシテ、三千名ノ要求ニ対シ、七十名ハ昭和十三年一月三日陸軍御用船ニテ長崎港ヨリ憲兵護衛ノ上送致済ミナリ」ととなえ、とある料理店の酌婦に上海行きを勧めた。3人が「無智ナル婦女子ニ対シ金儲ケ良キ点、軍隊ノミヲ相手ニ慰問シ、食料ハ軍ヨリ支給スル等」と、常識では考えられないことを言い立てて勧誘しているとの情報をつかんだ田辺警察署は、婦女誘拐の疑い濃厚であると判断し、3人の身柄を拘束した25)。

取調にたいして、大阪の貸席業主金澤は、次のように供述した。

1937年秋、大阪市の会社重役小西、貸席業藤村、神戸市の貸席業中野の3人が、陸軍御用商人で氏名不詳の人物と共に上京、徳久少佐なる人物の仲介で荒木貞夫陸軍大将と右翼の大物頭山満に会い、年内に内地から上海に3000人の娼婦を送ることに決まったとの話を、2人の貸席業主(金澤と佐賀)が藤村から聞き込んだ。そこで、渡航娼婦を募集するために和歌山に来訪し、地元紹介業者の協力を得て、募集活動にあたっているところである。すでに藤村と小西は女性70名を上海に送り、その際大阪九条警察署と長崎県外事課から便宜供与をうけた、と。

また、同じ供述によると、慰安所酌婦の契約条件は「上海ニ於テハ情交金将校五円、下士二円ニテ、二年後軍引揚ト共ニ引揚クルモノニシテ前借金ハ八百円迄ヲ出」すというもので、すでに前借金470円、362円を支払って2人の女性(26歳と28歳)と上海行きを決めたという。

不審に思った田辺警察署はことの真偽を確かめるために、長崎県警察外事課と大阪九条警察署に照会をおこなった。長崎からは、照会のあった酌婦渡航の件は、上海総領事館警察の依頼によるもので、長崎県警としては、総領事館指定の必要書類を所持し、合法的雇用契約と認められるものについては、すべて上海行きを許可しているとの回答が寄せられた26)。この時点では、1937年8月の外務次官通達がまだ有効だったから、軍及び総領事館から前もっての依頼がなければ、長崎県水上警察署が女性の渡航を許可したかどうかは大いに疑問である。逆に言えば、この第1回の渡航を認めた時点で、長崎県警察は慰安所要員の渡航は「業務上正当ナル目的」を有するものと認定したことになる。もちろんその根拠は、慰安所が軍の決定によるものであり、総領事館から慰安婦の募集と渡航につき便宜をはかって欲しいとの要請が前もってなされていたことによる。

また、大阪九条署からは、内務本省からも渡航を認めるよう、内々の指示があったことを思わせる回答が田辺署に与えられた。その概略は以下のようなものであった。

上海派遣軍慰安所の従業酌婦の募集については、内務省より非公式に大阪府警察部長(荒木義夫)へ依頼があったので、大阪府としても相当の便宜をはかり、既に1月3日に第1回分を渡航させた。田辺署で取調中の貸席業者はいずれも九条署管内の居住者で、身元不正な者ではない。そのことは九条警察署長(山崎石雄)が証明するので、しかるべき取計らいをお願いする、と27)。

この九条警察署の回答書から、1月3日に長崎から上海に70名の女性が送られたとの金澤の供述が根も葉もない嘘ではないことがわかる。その一部は大阪で集められたようであり、警察は内務省の非公式な指導のもとに、慰安婦の渡航に便宜をはかったのであった。

金澤の供述を裏づけるとともに、便宜供与を示唆した内務本省からの非公式のコンタクトがあったとする九条警察署長の言が嘘でないことを示すのが、史料9「醜業婦渡支ニ関スル経緯」と題された手書きメモである。重要なので、以下に全文を引用する(■は公刊に際して抹消された箇所を示す。□は抹消もれと思われるので、永井の判断で削除した)。


226. 2014年3月02日 10:13:30 : 2D6PkBxKqI

一、十二月二十六日内務省警務課長ヨリ兵庫県警察部長宛『上海徳久、神戸市中野ノ両名ハ上海総領事館警察署長ノ証明書及山下内務大臣秘書官ノ紹介名刺ヲ持参シ出頭スル筈ニ付、事情聴取ノ上何分ノ便宜ヲ御取計相成度』トノ電報アリ

一、同月二十七日右両名出頭セルガ内務大臣秘書官ノ名刺ヲ提出シ徳久ハ自身ノ名刺ヲ提出セズ且身分ヲモ明ニセズ中野ハ神戸市福原町四五八中野□□ナル名刺ヲ出シタルガ同人ノ職業ハ貸座敷業ナリ。

一、同両人ノ申立ニ依レバ大阪旅団勤務ノ沖中佐ト永田大尉トガ引率シ行クト称シ最少限五百名ノ醜業婦ヲ募集セントスルモノナルガ周旋業ノ許可ナク且年末年始ノ休暇中ナルガ枉ゲテ渡支ノ手続ヲセラレ度キ旨ノ申述アリ

一、兵庫県ニ於テハ一般渡支者ト同様身分証明書ヲ所轄警察署ヨリ発給スルコトヽセリ

一、神戸ヨリ乗船渡支シタルモノナキモ陸路長崎ニ赴キタルモノ二百名アル見込ミ

一、一月八日神戸発臨時船丹後丸ニテ渡支スル四、五十名中ニ湊川警察署ニ於テ身分証明書ヲ発給シタルモノ二十名アリ

一、周旋業ノ営業許可ナキ点ハ兵庫県ニ於テハ黙認ノ状態ニアリ28)


227. 2014年3月02日 10:14:03 : 2D6PkBxKqI
整理してみると、1937年12月26日に内務省の警務課長(数藤鉄臣)から兵庫県警察部長(纐纈弥三)宛に上海の徳久と、神戸市の中野が協力要請におもむくので、何分の便宜をよろしくとの電報が届き、 翌27日には徳久、中野の両名が山下内務大臣秘書官の名刺を携えた上で、軍に協力して目下最小限500名の慰安婦を募集中であり、 周旋業の免許のない点には目をつむって、渡航許可を与えて欲しいと頼みこんだのであった。

兵庫県警察は違法行為には目をつぶり、二人の要請を容れて、集められた女性に身分証明書を発給した。長崎、大阪につづいて兵庫県警察も募集業者に協力し、慰安婦の調達に支援を与えたのである。それだけではない、非公式にではあるが、内務省の高官(秘書官や警務課長)も彼らに便宜をはかったのである。和歌山田辺の事件では大阪九条警察署長が「内務省ヨリ非公式ナガラ當府警察部長ヘノ依頼」があったと回答したが、おそらく、この内務省メモのようなはたらきかけが、大阪府警察部長に対してもなされたのであろう。

すでに見たように、徳久と中野の2人は田辺の事件にも名前が出てくる。上海総領事館警察署長の証明書を所持する彼らは、上海で軍・総領事館から直接依頼を受けた業者とみてまずまちがいない。徳久と中野の実在が別の資料で裏づけられた以上、藤村経由で中野の話を聞いたと思われる金澤の供述も、細かい点は別として、おおむね信用できると考えてまちがいないだろう。

以上をまとめると、次のようになる。上海で陸軍が慰安所の設置を計画し、総領事館とも協議の上、そこで働く女性の調達のため業者を日本内地、朝鮮に派遣した。その中の1人身許不詳の人物徳久と神戸の貸席業者中野は、上海総領事館警察署発行の身分証明書を持参して日本に戻り、知り合いの売春業者や周旋業者に、軍は3000人の娼婦を集める計画であると伝え、手配を依頼した。さらに警察に慰安婦の募集および渡航に便宜供与をはかってくれるよう申入れ、その際なんらかの手ずるを使って内務省高官の諒解を得るのに成功し、内務省から大阪、兵庫の両警察に対して彼らの活動に便宜を供与すべしとの内々の指示を出させたのであった。

大阪府、兵庫県両警察部は、売春させることを目的とした募集活動および渡航申請であることを知りつつ、しかも営業許可をもたない業者による周旋・仲介行為である点には目をつむり、集められた女性の渡航を許可した。この時上海に送られた女性の人数は正確にはわからないが、関西方面では最低500人を集める計画であり、1938年1月初めの時点で大阪から70人、神戸からは220人ほどが送られたと推測できる。

最後に、長崎県及び大阪九条署からの回答を受けた田辺警察署がどのような処置をとったのかを述べておこう。同署は、「皇軍慰安所」の話の真偽はいまなお不明であるが、容疑者の身元も判明し、九条警察署が「酌婦公募証明」を出したので、容疑者の逃走、証拠隠滅のおそれはないと認めて、1月10日に3人の身柄を釈放したのであった29)。

自由主義史観派の主張するごとく、慰安所なるものが軍とは直接関係のない、民間業者の経営する通常の売春施設だったのであれば、自分たちは「軍部ノ命令ニテ上海皇軍慰安所ニ送ル酌婦募集ニ来タリタルモノ」とのふれこみで、「無智ナル婦女子ニ対シ金儲ケ良キ点、軍隊ノミヲ相手ニ慰問シ、食料ハ軍ヨリ支給スル等」と勧誘した金澤らの行為は、軍の名前を騙り、ありもしない「皇軍慰安所」をでっち上げて、女性をだまし、中国へ送り出そうとした、あるいは実際に送り出したものであって、婦女誘拐に該当する。金澤らは釈放されることなく、婦女誘拐ないし国外移送拐取で逮捕・送検されたにちがいないし、警察は当然そうすべきであったろう。

ところが、「皇軍慰安所」がまぎれもない事実、すなわち陸軍慰安所が軍の設置した兵站付属施設であったらどうなるか。国外で売春に従事させる目的で女性を売買し(前借金で拘束し)、外国(=上海)に移送するという、行為の本質においてはいささかの変わりもないにかかわらず、ありもしない軍との関係を騙って、女性をだましたわけではないので、この場合には誘拐と認定されず、逆に「酌婦公募」として警察から公認される行為に逆転するのである。和歌山県警は、金澤らの女衒行為が、もとをたどればたしかに軍と総領事館の要請につらなり、また内務省も内々に慰安婦の募集に協力していることが判明した時点で、犯罪容疑として取り扱うのを放棄した。すなわち、陸軍慰安所が軍の設置した公認の性欲処理施設であり、通常の民間売春施設とは異なるものであることが確認された時点で、警察は慰安婦の募集と渡航を合法的なものと認定したのである。国家と軍の関与により、それがなければ犯罪行為となるべきものが犯罪行為ではなくなったのであった。


228. 2014年3月02日 10:14:32 : 2D6PkBxKqI

2.北関東・南東北での募集活動

次に、和歌山田辺の事件とは異なり、誘拐容疑で警察に検挙されることはなかったが、群馬、茨城、山形で積極的な募集活動を展開し、そのため警察から「皇軍ノ威信ヲ失墜スルコト甚タシキモノアリ」30)と目された神戸市の貸座敷業者大内の活動を紹介する。前記副官通牒にも出てくる「故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ」とおぼしき実例は、以下のようなものだったのである。

群馬県警が得た情報によると、大内は1938年1月5日前橋市内の周旋業者に次のような話をもちかけ、慰安所で働く酌婦の募集を依頼した(前掲史料2「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」(1938年1月19日付))。
1.出征すでに数ヶ月に及び、戦闘も一段落ついて駐屯の体制となった。そのため将兵が中国人売春婦と遊ぶことが多くなり、性病が蔓延しつつある。
2.「軍医務局デハ戦争ヨリ寧ロ此ノ花柳病ノ方ガ恐シイト云フ様ナ情況デ其処ニ此ノ施設問題ガ起ツタ」。
3.「在上海特務機関ガ吾々業者ニ依頼スル処トナリ同僚」の目下上海で貸座敷業を営む神戸市の中野を通して「約三千名ノ酌婦ヲ募集シテ送ルコトトナッタ」。
4.「既ニ本問題ハ昨年十二月中旬ヨリ実行ニ移リ目下二、三百名ハ稼業中デアリ兵庫県ヤ関西方面デハ県当局モ諒解シテ応援シテイル」
5..「営業ハ吾々業者ガ出張シテヤルノデ軍ガ直接ヤルノデハナイガ最初ニ別紙壱花券(兵士用二円将校用五円)ヲ軍隊ニ営業者側カラ納メテ置キ之ヲ使用シタ場合吾々業者ニ各将兵ガ渡スコトヽシ之レヲ取纏テ軍経理部カラ其ノ使用料金ヲ受取ル仕組トナツテイテ直接将兵ヨリ現金ヲ取ルノデハナイ軍ハ軍トシテ慰安費様ノモノカラ其ノ費用支出スルモノラシイ」
6..「本月二六日ニハ第二回ノ酌婦ヲ軍用船デ(神戸発)送ル心算デ目下募集中テアル」31)
また前掲史料3「北支派遣軍慰安酌婦募集ニ関スル件」(1938年1月25日付)によれば、

7.大内は、山形県最上郡新庄町の芸娼妓酌婦紹介業者のもとに現れ、「今般北支派遣軍〔上海派遣軍のまちがいであろう−永井〕ニ於テ将兵慰問ノ為全国ヨリ二千五百名ノ酌婦ヲ募集スルコトヽナリタル趣ヲ以テ五百名ノ募集方依頼越下リ該酌婦ハ年齢十六才ヨリ三十才迄前借ハ五百円ヨリ千円迄稼業年限二ヶ年之ガ紹介手数料ハ前借金ノ一割ヲ軍部ニ於テ支給スルモノナリ」と述べ、勧誘した32)。
さらに、前掲史料6「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」(1938年2月14日付)からは、

8.大内は茨城県出身であり、1938年1月4日頃遠縁にあたる茨城県在住の人物に上海派遣軍酌婦募集のことを話して協力を求め、その人物を通じて県下の周旋業者に斡旋を依頼した。
9.その業者の仲介で、大内は水戸市の料理店で稼業中の酌婦2名(24才と25才)とそれぞれ前借金642円、691円にて契約を結び、上海に送るため1月19日神戸に向けて出発した。

ことがわかる33)。

上記1から6のうち、次の諸点については、他の史料とも符合し、大内の語ったことはおおむね事実に即していたと解される。

まず、3の「在上海特務機関」とは、最初に紹介した上海総領事館警察署長の依頼状にある「陸軍武官室」にほかならぬ。また、大内に「在上海特務機関」の慰安婦募集の件を伝えたとされる神戸の中野は、和歌山の婦女誘拐容疑事件や前記内務省メモに出てくる中野と同一人物であると考えてまちがいない。また、「酌婦三千人募集計画」の話は田辺事件の被疑者の供述にも出てくる(ただし、山形県警の報告では「二千五百人計画」に縮小している)。

これらのことから、軍の依頼を受けた中野が知り合いの売春業者や周旋人に軍の「酌婦三千人募集計画」を打ち明け、協力を仰いだとの大内の言には十分信がおける。また、4の「既ニ本問題ハ昨年十二月中旬ヨリ実行ニ移リ」や「兵庫県ヤ関西方面デハ県当局モ諒解シテ応援シテイル」との話も、既に紹介した諸史料に照らし合わせて、間違いのない事実とみなせよう。逆に大内の言葉から、なぜ神戸の中野が上海の特務機関と総領事館から依頼されたのか、その疑問が氷解する。中野は神戸で貸席業を営むほか、上海にも進出していたのである。

警察報告にあらわれた大内の言動のうち、少なくとも3、4は事実に即しており、誇張や虚偽は、かりに含まれていても、わずかだと思われる。ならば、彼が語ったとされる慰安所の経営方針(上記5)も、根も葉もない作り話として一笑に付するわけにはいかない。少なくとも、大内は中野からそれを軍の方針として聞かされたことは、まずまちがいない事実であろう。

大内が勧誘にあたって提示した一件書類(趣意書、契約書、承諾書、借用証書、契約条件、慰安所で使用される花券の見本) のうち、「陸軍慰安所ニ於テ酌婦稼業(娼妓同様)ヲ為スコトヲ承諾」する旨を記し、慰安所で働く女性とその戸主または親権者が署名・捺印する「承諾書」の様式が、上海総領事館の定めた「承諾書」のそれとまったく同一であること34)、派遣軍慰安所と記された「花券」(額面5円と2円の2種類−田辺事件の金澤は「上海ニ於テハ情交金将校五円、下士二円」と供述していた−)を所持していたことが、それを裏づける決め手となろう。

5で述べられているのが慰安所の経営方針だとすると、慰安所は軍が各兵站に設置する将兵向けの性欲処理施設ではあるが、日常的な経営・運営は業者に委託されることになっていた。しかし、利用料金の支払いは、個々の利用者が直接現金で行うのではなくて、軍の経費(=慰安費)からまかなわれる仕組みだったことになる。これがほんとうならば、軍の当初の計画では、将兵に無料で買春券を交付する予定だったことになる。このシステムでは、慰安婦の性を買うのは、個々の将兵ではなくて、軍=国家そのものである。もちろん、軍=国家の体面を考慮してのことであろうが、実際の慰安所ではこのような支払い方法は採用されなかった。だから、これをもって軍の当初の計画だったとただちに断定するのは控えねばならないだろうが、しかし、かえってこの計画にこそ、慰安所なるものの本質がよくあらわれていると言うべきであろう。


229. 2014年3月02日 10:14:58 : 2D6PkBxKqI
最後に、大内が勧誘にあたって周旋業者や応募した女性に提示した契約条件を紹介しておこう。

     条  件
一、契約年限     満二ヶ年
一、前借金      五百円ヨリ千円迄
  但シ、前借金ノ内二割ヲ控除シ、身付金及乗込費ニ充当ス
一、年齢        満十六才ヨリ三十才迄
一、身体壮健ニシテ親権者ノ承諾ヲ要ス。但シ養女籍ニ在ル者ハ実家ノ承諾ナキモ差支ナシ
一、前借金返済方法ハ年限完了ト同時ニ消滅ス
  即チ年期中仮令病気休養スルトモ年期満了ト同時前借金ハ完済ス

一、利息ハ年期中ナシ。途中廃棄ノ場合ハ残金ニ対シ月壱歩
一、違約金ハ一ヶ年内前借金ノ一割
一、年期途中廃棄ノ場合ハ日割計算トス
一、年期満了帰国ノ際ハ、帰還旅費ハ抱主負担トス
一、精算ハ稼高ノ一割ヲ本人所得トシ毎月支給ス
一、年期無事満了ノ場合ハ本人稼高ニ応ジ、応分ノ慰労金ヲ支給ス
一、衣類、寝具食料入浴料医薬費ハ抱主負担トス35)

このような条件でなされる娼妓稼業契約は「身売り」とよばれ、これが人身売買として認定されておれば、大内の行為は「帝国外ニ移送スル目的ヲ以テ人ヲ売買」するものにほかならず、刑法第226条の人身売買罪に該当する。しかし、当時の法解釈では、このような条件での娼妓契約は「公序良俗」に違反する民法上無効な契約とはされても、少なくとも日本帝国内にとどまるかぎりは、刑法上の犯罪を構成する「人身売買」とはみなされなかった。

この契約を結べば、前借金(借金額は500円から1000円だが、そのうち2割は周旋業者や抱主が差し引くので、実際の手取りは400円から800円までである)を受け取る代わりに、向こう2年間陸軍慰安所で売春に従事しなければならない。衣類、寝具、食料、医薬費は抱主の負担とされているが、給与は毎月稼高の1割だから、かりに毎日兵士5人の相手をしたとして(日本国内の娼婦稼業の平均人数)、実働25日としても、月25円にしかならぬ。50円を稼ごうとすれば、毎日10人の兵士を相手にしないといけない。しかも契約書では、所得の半分は強制的に貯金することになっている36)。いっぽう抱主は1人の慰安婦の稼ぎから平均月225円の収入を得ることができ(1日5人の兵士を相手にするとして)、2年間では総額5400円にのぼるのである。

問題なのは年齢条項である。16才から30才という条件は、「18歳未満は娼妓たることを得ず」と定めた娼妓取締規則に完全に違反し、満17才未満の娼妓稼業を禁じた朝鮮や台湾の「貸座敷娼妓取締規則」にも抵触する。さらに、満21才未満の女性に売春をさせることを禁じた「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」(1925年批准)ともまったく相容れない。大内の活動は明らかに違法な募集活動と言わざるをえない。その点は警察もよく認識していたと見え、群馬県警が入手し、内務省に送付した上記契約条件の年齢条項には、警察側がつけたと思われる傍線が付されている。この契約条件が、上海での軍・総領事館協議において承認されたものなのかどうか、そこが議論のポイントの一つとなろう。私見では、この契約条件がまったく大内の独断で作成されたとはとても思えない。何らかの形で軍ないし総領事館との間で契約条件について協議がなされていたと思われる。たとえそれが契約条件は業者に任せるとの諒解だったとしても、である。

しかし誤解を恐れずに言うと、この年齢条件をのぞけば、趣意書の文面といい、契約条件の内容といい、公娼制度の現実を前提に、さらに陸軍慰安所が実在し、軍と総領事館がこれを公認しているとの条件のもとでは、就業地が国外である点を除くと、この大内の活動は当時の感覚からはとりたてて「違法」あるいは「非道」 とは言い難い。まして、これを「強制連行」や「強制徴集」とみなすのはかなりの無理がある。警察は要注意人物として大内に監視の目を光らせ、彼の勧誘を受けた周旋業者に説諭して、慰安婦の募集を断念させたが(山形県の例)、しかし和歌山のように婦女誘拐容疑で検挙することはしなかった。

ただし、念のために言っておくが、自由主義史観派の言うように、慰安所が軍と関係のない民間業者の売春施設であるならば、田辺事件の例と同様、この大内の募集活動も、軍の名を騙って、女性に売春を勧誘するものであるから、婦女誘拐ないし国外移送拐取の容疑濃厚であり、警察としては放置すべきではなかったことになる。

警察報告にあらわれた募集業者の活動は、これ以外にあと二件あり、ひとつは、史料4の高知県知事の報告に、「最近支那渡航婦女募集者簇出ノ傾向アリ之等ハ主トシテ渡支後醜業ニ従事セシムルヲ目的トスルモノニシテ一面軍ト連絡ノ下ニ募集スルモノヽ如キ言辞ヲ弄スル等不都合ノモノ有之」37)とあるにとどまり、具体的な事実まではわからない。

他の一件は、宮城県名取郡在住の周旋業者宛に、福島県平市の同業者から「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ル酌婦トシテ年齢二十歳以上三十五歳迄ノ女子ヲ前借金六百円ニテ約三十名位ノ周旋方」を依頼する葉書が届いたというもので、警察は周旋業者の意向を内偵し、本人に周旋の意志のないのを確認させている38)。こちらでは、年齢条件が大内の条件とは異なる。警察が説諭して募集をやめさせたのは、上に述べたことから当然の措置といえよう。また、史料1の外務次官通牒に定める渡航制限の趣旨からしても、そうあるべきである。前述の山形県警察がとった措置ともあわせて考えると、当時の警察の方針は、外務次官通牒に準拠しつつ、売春に従事する目的で女性が中国に渡航するのを原則として禁止していたのだと考えてよい。

以上が、警察報告に現れた業者の募集活動のすべてである。さて、話を例の副官通牒に戻そう。警察資料を見る限り、通牒にあげられた3つの好ましくない事例のうち、「故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ」は大内の活動およびこれに類似のものをさし、「募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル」が、田辺の婦女誘拐容疑事件を念頭においていることは、まずまちがいない。残る「従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ」は、これに該当する事例は警察報告に見あたらぬ。このことは、未発掘の警察資料の存在を示唆するとも考えられるが、「従軍記者、慰問者」とあるので、あるいは警察ではなく、憲兵隊の報告だった可能性も十分ありうる。その場合には、警察報告には見つからないはずである。

この通牒があげている好ましくない事例がここで紹介したようなものだとすると、とくに「募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル」が田辺事件をさすのだとすれば、この通牒の解釈について、従来の説が当然のこととしてきた前提そのものを再検討せざるをえない。

というのは、この事件で事情聴取された業者の行為は、陸軍慰安所が軍と関係のない民間の施設であれば、まったくの詐欺・誘拐行為にほかならないと断定できるが、それがまぎれもない軍公認の施設だった場合には、そう簡単に誘拐とは断じえない性質のものだからである。たとえ本人の自由意志による同意があろうとも、売春に従事させる目的で前借金契約をかわして国外に女性を連れ出すこと、それ自体がすでに違法だというならば話は別だが、そうでないとすれば、この業者の行為は、軍の要請に応じて、その提示条件をもとに、酌婦経験のある成人の女性に、先方に着いてから何をするのか、一応きちんと説明した上で、上海行きを誘っただけにすぎず、決して嘘偽りをいって騙したのではない。まして、拉致・略取などに及んではいない。考えてみれば、慰安婦の勧誘法としては、これ以外にどんな方法があるだろうか。ただ、警察から誘拐行為と目されることになったのは、軍がそのような施設をつくり、業者に依頼して女性を募集しているという話そのものが、ありうべからざること、にわかには信じがたい、荒唐無稽なことだったからに、ほかならない。

警察資料に登場する慰安婦募集活動は、いずれもこの田辺事件と大同小異のものばかりであって、詐欺や拉致・拐取は一例もない。明らかに違法なのは、大内の示した契約条件の年齢条項だけである。しかし、未成年の女性を実際に勧誘した事実は警察報告からは読みとれない。

現存する警察資料が明らかにしている事実関係からすれば、この有名な副官通牒が出された際に、現実に問題となった誘拐行為は、じつは慰安所そのものが軍の施設であるならば、合法とみなされるべきたぐいのものにすぎなかった。実際には、「内地で軍の名前を騙って非常に無理な募集をしている者」や「強制連行」「強制徴集」を行う悪質な業者などどこにも存在していなかったのだとすると、この通牒も直接的にはその種の行為を禁止するために出されたのではないと解釈せざるをえない。では、いったい何が取締まらねばならないと考えられていたのか、そもそもこの通牒は何かを取り締まる目的で出されたものなのか。それを検討するには、このような活動に地方の警察がいったいどうのように反応したのかを見ておく必要がある。


230. 2014年3月02日 10:15:27 : 2D6PkBxKqI

W.地方警察の反応と内務省の対策

大内の募集活動を探知した群馬県警察はこれに対してどのような反応を見せたのか。史料番号2の警察報告は次のような言葉で締めくくられている。

本件ハ果タシテ軍ノ依頼アルヤ否ヤ不明且ツ公秩良俗ニ反スルガ如キ事業ヲ公々然ト吹聴スルガ如キハ皇軍ノ威信ヲ失墜スルモ甚シキモノト認メ厳重取締方所轄前橋警察署長ニ対シ指揮致置候39)

この史料から、軍による陸軍慰安所の設置とその要請を受けた慰安婦募集は警察にとってはにわかに信じがたいできごとであったことがよくわかる。上海総領事館警察から正式の通知を受け取っていた長崎県や、内務省から非公式の指示があった兵庫県・大阪府は軍の要請による慰安婦募集活動であることを事前に知らされ、それゆえ内々にその活動に便宜をはかったのだが、何の連絡も受けていない関東や東北では、大内の話はまったくの荒唐無稽事に聞こえたのである。

軍が売春施設と類似の慰安所を開設し、そこで働く女性を募集しているとなどという話はそもそも公秩良俗に反し、まともに考えれば、とても信じられるものではない。ましてそれを公然とふれまわるにいたっては、皇軍の名誉を著しく傷つけるにもほどがあると、そう群馬県警察は解した。大内は嘘を言って、女性を騙そうとしたわけではない。真実を告げて募集活動をしたために、警察から「皇軍ノ威信ヲ失墜スルモ甚シキモノ」とみなされたのであった。

他の二県(山形、茨城)でも警察の反応は同様である。山形県警察の報告では、

如斯ハ軍部ノ方針トシテハ俄ニ信ジ難キノミナラズ斯ル事案ガ公然流布セラルヽニ於テハ銃後ノ一般民心殊ニ応召家庭ヲ守ル婦女子ノ精神上ニ及ボス悪影響少カラズ更ニ一般婦女身売防止ノ精神ニモ反スルモノ40)

と記され、茨城県でも群馬県とほぼ同様に

本件果タシテ軍ノ依頼アリタルモノカ全ク不明ニシテ且ツ酌婦ノ稼業タル所詮ハ醜業ヲ目的トスルハ明ラカニシテ公序良俗ニ反スルガ如キ本件事案ヲ公々然ト吹聴募集スルガ如キハ皇軍ノ威信ヲ失墜スルコト甚シキモノアリト認メ厳重取締方所轄湊警察署長ニ対シ指揮致置候41)

との判断および指示が下されたのであった。すなわち、警察から「皇軍ノ威信ヲ失墜スルコト甚シキモノアリ」と非難され、厳重に取締まるべきものとされたのは、「誘拐まがいの方法」でもなければ、「違法な徴募」「悪質な業者による不統制な募集」「強制連行」「軍の名前を騙る非常に無理な募集」「強制徴集」のいずれにも該当しない大内の活動だったのである。もっと言えば、中国に軍の慰安所を設置し、そこで働く女性を内地や植民地で公然と募集することそのものが(つまり軍の計画そのものが)、「公序良俗」に反し、「皇軍ノ威信ヲ失墜」させかねない行為だったのである。

以上のことから、当時の警察の考えと対応は次のようにまとめられよう。
1.一部の地方を除き、軍の慰安所設置について何も情報を知らされておらず、慰安所の設置はにわかに信じがたい話であった。国家機関である軍がそのような公序良俗に反する事業をあえてするなどとは、予想だにしなかった。
2..かりに軍慰安所の存在がやむを得ないものだとしても、そのことを明らかにして公然と慰安婦の募集を行うのは、皇軍の威信を傷つけ、一般民心とくに兵士の留守家庭に非常な悪影響を与えるおそれがあるので、厳重取締の必要があると考えていた。そして、実際にそのような募集行為を行わないよう業者を指導し、管下の警察署に厳重取締の指令を下した。

この警察の姿勢をもっとも鮮明に打ち出したのは高知県だった。高知県には大内は立ち寄っていないが、すでに述べたように、「渡支後醜業ニ従事セシムル目的」で中国渡航婦女を募集する者が続出し、「一面軍ト連絡ノ下ニ募集スルモノヽ如キ言辞ヲ弄」していたのである。それに対して高知県警察は次のような取締方針を県下各警察署に指示した。

支那各地ニ於ケル治安ノ恢復ト共ニ同地ニ於ケル企業者簇出シ之ニ伴ヒ芸妓給仕婦等ノ進出亦夥シク中ニハ軍当局ト連絡アルカ如キ言辞ヲ弄シ之等渡航婦女子ノ募集ヲ為スモノ等漸増ノ傾向ニ有之候処軍ノ威信ニ関スル言辞ヲ弄スル募集者ニ就テハ絶対之ヲ禁止シ又醜業ニ従事スルノ目的ヲ以テ渡航セントスルモノニ対シテハ身許証明書ヲ発給セザルコトニ取扱相成度42)

警察としては当然かくあるべき方針といえるが、「軍ノ威信ニ関スル言辞ヲ弄スル募集者ニ就テハ絶対之ヲ禁止シ、又醜業ニ従事スルノ目的ヲ以テ渡航セントスルモノニ対シテハ身許証明書ヲ発給セザルコト」になれば、慰安婦の募集は不可能となり、慰安所そのものが成り立なくなる。軍の計画は失敗せざるをえない。このような地方警察の反応を警察報告で知らされた内務省や陸軍省としては、早急に何らかの手を打たねばならないと感じたはずである。

軍の慰安所政策(国家機関が性欲処理施設を設置・運営し、そこで働く女性を募集する)は、当時の社会通念からいちじるしくかけ離れたものであったうえ、そのことが府県警察のレベルにまで周知徹底されないうちに、業者のネットワークを伝って情報がひろがり、慰安婦の募集活動が公然と開始されたため、このような事態をまねいたのであった。この混乱を収拾して、軍の要請に応じて、慰安婦の調達に支障が生じないようにするとともに、地方の警察が懸念する「皇軍ノ威信ヲ失墜」させ、銃後の人心の動揺させかねない事態を防止するためにとられた措置が、警保局長通牒(内務省発警第5号)であり、それに関連して陸軍省から出先軍司令部に出されたのが問題の副官通牒(陸支密第745号)だったのである。

警保局長通牒43)は、その冒頭で、最近、売春に従事する目的で中国に渡航する婦女が増加しており、かつまた「軍当局ノ諒解アルカノ如キ言辞ヲ弄」して、内地各地で渡航婦女の募集周旋をなす者が頻出しつつあると、現状を把握した上で、これらの「婦女ノ渡航ハ現地ニ於ケル実情ニ鑑ミルトキハ蓋シ必要已ムヲ得ザルモノアリ警察当局ニ於テモ特殊ノ考慮ヲ払ヒ実情ニ即スル措置ヲ講ズルノ要アリト認メラルル」44)と、慰安婦の中国渡航をやむをえないものとして容認する判断を下した。さすがに警保局長の通牒文書であるので、軍が慰安所を設置し、業者を使って慰安婦を集めている事実にあからさまにふれてはいないが、一連の警察報告を前において読めば、「現地ニ於ケル実情」なるものが陸軍の慰安所設置をさしているのは言わずとも明らかであろう。

その「実情」に鑑みて、「醜業ヲ目的トスル婦女ノ渡航」を「必要已ムヲ得ザルモノ」として認めたこの警保局長通牒は、それまでの警察の方針を放擲して、慰安婦の募集と渡航を容認し、それを合法化する措置を警察がとったことを示す文書にほかならない。先ほど言及した高知県警察の禁止指令のごとき、地方警察の取締および防止措置をキャンセルし、軍の慰安所政策への全面的協力を各府県に命じる措置だったのである。同様に、史料1の外務次官通牒「不良分子ノ渡支ニ関スル件」(1937年8月31日付)が規定していた渡航制限方針を変更し、それを緩和する措置でもあった45)。

と同時に、警保局は慰安婦の募集と渡航の容認・合法化にあたって、「帝国ノ威信ヲ毀ケ皇軍ノ名誉ヲ害フ」ことのなきよう、「銃後国民特ニ出征兵士遺家族ニ好マシカラザル影響ヲ与フル」おそれのなきよう、また「婦女売買ニ関スル国際条約ノ趣旨ニモ悖ルコト無キ」よう、募集活動の適正化と統制を並行して実施するよう指令を下した。ここで好ましからざるものとして念頭に置かれていたのが、大内のそれであることは言うまでもない。通牒が国際条約にふれているのは、大内の所持していた契約条件の年齢条項を意識してのことと推察されるからである。

要するにこの通牒のねらいは、慰安婦の募集と渡航を容認・合法化し、あわせて募集活動に対する規制をおこなうことにあり、7項目にわたる準拠基準が定められた。第1〜5項は「醜業ヲ目的トシテ渡航セントスル婦女」に渡航許可を与えるため、前記外務次官通牒に定める身分証明書を警察が発行する際の遵守事項を定めたものである。具体的には、現在内地において売春に従事している満21才以上の女性で性病に罹患していない者が華北、華中方面に渡航する場合に限りこれを黙認し、その際、契約期間が終われば必ず帰国することを約束させ、かつ身分証明証の発給申請は本人自ら警察署に出頭して行い、同一戸籍内の最近尊族親または戸主の同意書を示すこと、さらに発給にあたっては稼業契約その他の事項を調査し、婦女売買又は略取誘拐等の事実がないことを確認してから、身分証明を付与すること、とされている。当時の刑法、国際条約、公娼規則に照らしてぎりぎり合法的な線を守ろうとすれば、だいたいこのあたりに落ち着くのである。

もっとも、この遵守事項がきちんと守られたかどうかは、また別問題である。なぜなら、この通牒が発令されて2ヶ月ばかり後に北海道の旭川警察署が、「醜業ヲ目的トシテ」中国に渡航する満21才未満の芸妓に身分証明書を発給した事実が知られているからである46)。(補注1)

第6、7項は募集業者に対する規制であり、「醜業ヲ目的トシテ渡航セントスル婦女」の募集周旋にあたって「軍ノ諒解又ハ之ト連絡アルガ如キ言辞其ノ他軍ニ影響ヲ及ボスガ如キ言辞ヲ弄スル者ハ総テ厳重ニ之ヲ取締ルコト」、「広告宣伝ヲナシ又ハ事実ヲ虚偽若ハ誇大ニ伝フルガ如キハ総テ厳重ニ之ヲ取締ルコト」、「募集周旋等ニ従事スル者ニ付テハ厳重ナル調査ヲ行ヒ正規ノ許可又ハ在外公館ノ発行スル証明書等ヲ有セズ身許ノ確実ナラザル者ニハ之ヲ認メザルコト」の三点が定められた。

つまり、慰安婦の募集周旋において業者が軍との関係を公言ないし宣伝することを禁じたのである。通牒が取締の対象としたのは、業者の違法な募集活動ではなくて、業者が真実を告げること、言い換えれば、軍が慰安所を設置し、慰安婦を募集していると宣伝し、知らしめること、そのことであった。慰安婦の募集は密かに行われなければならず、軍との関係はふれてはいけないとされたのである47)。

この通牒は、一方において慰安婦の募集と渡航を容認しながら、軍すなわち国家と慰安所の関係についてはそれを隠蔽することを業者に義務づけた。この公認と隠蔽のダブル・スタンダードが警保局の方針であり、日本政府の方針であった。なぜなら、自らが「醜業」と呼んではばからないことがらに軍=国家が直接手を染めるのは、いかに軍事上の必要からとはいえ、軍=国家の体面にかかわる「恥ずかしい」ことであり、大っぴらにできないことだったからだ。このような隠蔽方針がとられたために、軍=国家と慰安所の関係は今にいたっても曖昧化されたままであり、それを示す公的な資料が見つかりにくいというより、そもそものはじめから少ないのは、かかる方針によるところ大と言えるであろう。その意味では、慰安所と軍=国家の関係に目をつむり、できるかぎり否認せんとする自由主義史観派の精神構造は、この通牒に看取される当時の軍と政府の立場を、ほぼそのまま受け継ぐものと言ってよい。

副官通牒はこのような内務省警保局の方針を移牒された陸軍省が48)、警察の憂慮を出先軍司令部に伝えると共に、警察が打ち出した募集業者の規制方針、すなわち慰安所と軍=国家の関係の隠蔽化方針を、慰安婦募集の責任者ともいうべき軍司令部に周知徹底させるため発出した指示文書であり、軍の依頼を受けた業者は必ず最寄りの警察・憲兵隊と連絡を密にとった上で募集活動を行えとするところに、この通牒の眼目があるのであり、それによって業者の活動を警察の規制下におこうとしたのである49)。であるがゆえに、この通牒を「強制連行を業者がすることを禁じた文書」などとするのは、文書の性格を見誤った、誤りも甚だしい解釈と言わざるをえない。


231. 2014年3月02日 10:16:00 : 2D6PkBxKqI

おわりに

1937年末から翌年2月までにとられた一連の軍・警察の措置により、国家と性の関係に一つの転換が生じた。軍が軍隊における性欲処理施設を制度化したことにより、政府自らが「醜業」とよんで憚らなかった、公序良俗に反し、人道にもとる行為に直接手を染めることになったからである。公娼制度のもと、国家は売春を公認してはいたが、それは建て前としては、あくまでも陋習になずむ無知なる人民を哀れんでのことであり、売春は道徳的に恥ずべき行為=「醜業」であり、娼婦は「醜業婦」にすぎなかった。国家にとってはその営業を容認するかわりに、風紀を乱さぬよう厳重な規制をほどこし、そこから税金を取り立てるべき生業だったのである。

しかし、中国との戦争が本格化するや、その関係は一変する。いまや出征将兵の性欲処理労働に従事する女性が軍紀と衛生の維持のため必須の存在と目され、性的労働力は広義の軍要員(あるいは当時の軍の意識に即して言えば「軍需品」と言った方がよいかも知れない)となり、それを軍に供給する売春業者はいまや軍の御用商人となったのである。国家が民間で行われている性産業・風俗営業を公認し、これを警察的に規制することと、国家自らが、政府構成員のために性欲処理施設を設置し、それを業者に委託経営させることとは、国家と性産業との関係においてまったく別の事柄なのである。

そう考えるならば、同じように軍の兵站で働き、軍の必要とするサービスを供給する女性労働力であった点において、従軍看護婦と従軍慰安婦との間には、その従事する職務の内容に差はあれ、本質的な差異を見いだすことはできない。慰安婦もまたその性的労働によって国家に「奉仕」した/させられたのであった。

一連の措置により、慰安婦の募集と渡航が合法化されたことは、性的労働力が軍需動員の対象となり、戦時動員がはじまったことを意味している。それはまた性的サービスを目的とする風俗産業の軍需産業化にほかならず、内地・植民地から戦地・占領地へ向けて風俗産業の移出とそれに伴う多数の性的労働力=女性の流出と移動を生みだした。慰安婦は戦時体制が必然的に生みだした国家と性の関係変容を象徴する存在であり、戦時における女性の総動員の先駆けともいうべき存在となった。彼女たちにつづき、人間の再生産にかかわる家庭婦人が「生めよ殖やせ」の戦時総動員政策のもとで、銃後の母・出征兵士の妻として、兵力・労働力の再生産と消費抑制の大任を負わされ、未婚女性は、あるいは軍需工場での労働力として、あるいは看護婦から慰安婦にいたるさまざまな形態の軍要員として動員されたのであった。

しかし、ひとしく戦時総動員と言っても、そこには「民族とジェンダーに応じた「役割分担」」50)が厳然と存在し、内地日本人男性のみを対象とした徴兵(あるいは軍需工場の熟練工)を頂点に、各労働力の間には截然たる階層区分が存在していた。労務動員により炭坑や鉱山で肉体労働に従事した朝鮮人・中国人労働者のために事業場慰安所が設立されたことを思うと51)、この戦時総動員のヒエラルヒーの最低下層におかれていたのが、慰安所で性的労働に従事した女性、なかんずく植民地・占領地出身の女性であったのはまちがいない。彼女たちは戦時総動員体制下の大日本帝国を文字どおりその最底辺において支えたのである。

このような戦時総動員のヒエラルキーが形づくられた要因はさまざまであるが、慰安婦に関して言えば、軍・警察の一連措置が内包していたダブル・スタンダードの持つ役割にふれないわけにはいかない。すでに述べたように、軍・警察は慰安所を軍隊の軍紀と衛生の保持のため必須の装置とみなし、慰安婦の募集と渡航を公認したが、同時に軍・国家がこの道徳的に「恥ずべき行為」に自ら手を染めている事実については、これをできるかぎり隠蔽する方針をとった。軍の威信を維持し、出征兵士の家族の動揺を防止するために、すなわち戦時総動員体制を維持するために、慰安所と軍・国家の関係や、慰安婦が戦争遂行上においてはたしている重要な役割は、公的にはふれてはいけないこと、あってはならないこととされたのである。

国家と性の関係は現実に大きく転換したが、売春=性的労働を「公序良俗」に反する行為、道徳的に「恥ずべき行為」であるとする意識、さらに慰安婦を「醜業婦」と見なす意識はそのまま保持され続け、そこに生じた乖離が上記のような隠蔽政策を生み出すにいたった。慰安婦は軍・国家から性的「奉仕」を要求されると同時に、その関係を軍・国家によってたえず否認され続ける女性達であった。このこと自体が、すでに象徴的な意味においてレイプといってよいだろう。

従軍慰安婦が、同様に軍の兵站で将兵にサービスをおこなう職務に従事しながら、従軍看護婦とは異なる位置づけを与えられ、見えてはならない存在として戦時総動員ヒエラルキーの最底辺に置かれたのは、このような論理と政策の結果とも言えよう。慰安所の現実がそこで働かされた多くの女性、なかんずく植民地・占領地の女性にとって性奴隷制度にほかならなかったのは、このような位置づけと、それをもたらした軍・警察の方針によるところが大きいのである。


232. 2014年3月02日 10:16:33 : 2D6PkBxKqI

補論:陸軍慰安所は酒保の附属施設

軍慰安所とは将兵の性欲を処理させるために軍が設置した兵站付属施設であったことはすでに述べた。このことを裏付けてくれる、陸軍の規程を偶然に発見したので、紹介しておきたい。それは1937年9月29日制定の陸達第48号「野戦酒保規程改正」という陸軍大臣が制定した軍の内部規則である52)。その名の示すとおり、戦時の野戦軍に設けられる酒保(物品販売所)についての規程である。添付の改定理由書によると、日露戦争中の1904年に制定された「野戦酒保規程」が日中戦争の開始とともに、古くなったので改正したとある。改正案の第1条は次のとおりであった。

第一条 野戦酒保ハ戦地又ハ事変地ニ於テ軍人軍属其ノ他特ニ従軍ヲ許サレタル者ニ必要ナル日用品飲食物等ヲ正確且廉価ニ販売スルヲ目的トス
   野戦酒保ニ於テ前項ノ外必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得

ここに「慰安施設」とあるのに注目してほしい。改正規程では、酒保において物品を販売することができるだけでなく、軍人軍属のための「慰安施設」を付属させることが可能になったのである。改正以前の野戦酒保規程の第一条は、以下のとおり。

第一条 野戦酒保ハ戦地ニ於テ軍人軍属ニ必要ノ需用ヲ正確且廉価ニ販売スルヲ目的トス

ここには「慰安施設」についての但書きはない。第一条改正の目的が、酒保に「慰安施設」を設けることを可能にする点にあったことは、改正規程に添付されている「野戦酒保規程改正説明書」(経理局衣糧課作成で昭和12年9月15日の日付をもつ)で、次のように説明されていることから明らかである。

「改正理由

野戦酒保利用者ノ範囲ヲ明瞭ナラシメ且対陣間ニ於テ慰安施設ヲ為シ得ルコトモ認ムルヲ要スルニ依ル」

このことから、1937年12月の時点での、陸軍組織編制上の軍慰安所の法的位置づけは、この「野戦酒保規程」第一条に定めるところの「野戦酒保に付設された慰安施設」であったと、ほぼ断定できる。酒保そのものは、明治時代から軍隊内務書に規定されているれっきとした軍の組織である。野戦酒保も同様で、陸軍大臣の定めた軍制令規によって規定されている軍の後方施設である。してみれば、当然それに付設される「慰安施設」も軍の後方施設の一種にほかならない。もちろん、改定野戦酒保規程では「慰安施設」とあるだけで、軍慰安所のような性欲処理施設を直接にはさしていない。しかし、中国の占領地で軍慰安所が軍の手によって設置された時、当事者はそれを「慰安施設」と見なしていたことが、別の史料で確認できる。本稿のはじめのところで紹介した、上海派遣軍司令部の参謀達の日記がそれである。念のために再掲する。
•上海派遣軍参謀長飯沼守少将の陣中日記(『南京戦史資料集I』)

「慰安施設の件方面軍より書類来り、実施を取計ふ」(1937年12月11日)
「迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す」(1937年12月19日)
•同参謀副長上村利通陸軍大佐の陣中日記(『南京戦史資料集II』)

「南京慰安所の開設に就て第二課案を審議す」(1937年12月28日) 

これらの記述から、この時上海派遣軍に設置された「慰安施設」は「女郎屋」であり、「南京慰安所」と呼ばれたことがわかる。逆に言えば、上海派遣軍の飯沼参謀長は、「女郎屋」である「南京慰安所」を軍の「慰安施設」と見なしていたことを、上記の史料は示している。

飯沼参謀長が日記に書き留めた「慰安施設」が改定野戦酒保規程第1条の「慰安施設」をさすものであることは、軍隊という組織のありかたからして、まちがいのないことである。つまり、上海派遣軍の軍慰安所は改定野戦酒保規程第1条の定めるところにしたがって設置されたのである。


233. 2014年3月02日 10:16:56 : 2D6PkBxKqI
そう考えると、秦郁彦『慰安婦と戦場の性』で紹介されている第101聯隊(上海派遣軍第101師団)の一兵士の陣中日記(荻島静夫陣中日記田中常雄編『追憶の視線』下、1989年、102頁)中の以下の記述の意味が、よりよく納得されるであろう。

1月8日「夜隊長より慰安所開設の話を聞く。喜ぶ者多し」

1月13日「今日、急に酒保係を命ぜられ、酒保へ行く。戦地軍隊は面白い所だ。女給ばかり居る酒保だからな。未だ売る物は一品ばかりだ。○○を買う者がどっとおし寄せて午後より夜遅くまで多忙だ」(秦、p.72)

この聯隊でも、慰安所が「野戦酒保付設慰安施設」として設置されたので、酒保係を命じられた兵士が慰安所の当番兵となり、慰安所を「女給ばかり居る酒保」と呼んだのである。

また秦前掲書81頁には、「第110師団関係資料」を根拠に、「慰安所、女については大隊長以上において申請許可を受けたる後、設置」というルールがあったことが紹介されているが、これも改定野戦酒保規程第3条の以下の規定を考慮すると、納得がいく。

第三条 野戦酒保ハ所要ニ応ジ高等司令部、聯隊、大隊、病院及編制定員五百名以上ノ部隊ニ之ヲ設置ス
 前項以外ノ部隊ニ在リテハ最寄部隊ノ野戦酒保ヨリ酒保品ノ供給ヲ受クルヲ本則トス 但シ必要アルトキハ所管長官ノ認可ヲ受ケ当該部隊ニ野戦酒保ヲ設置スルコトヲ得
(略)
野戦酒保ハ之ヲ設置シタル部隊長之ヲ管理ス(略)

この規程では、大隊以上に野戦酒保を設置できる権限が与えられている。ということは、大隊長以上には野戦酒保の付設慰安施設についてもその設置権限があるということを意味する。また、大隊よりも小さな部隊がどうしても野戦酒保(及び慰安所)を必要とするときは、所管長官(軍司令官、師団長、兵站監、及び之に準ずる兵団の長)に申請してその認可を得なければいけないとあるので、この規定から(慰安所は)「大隊長以上において申請許可を受けたる後、設置」ということになったのだと思われる。さらに「野戦酒保ハ之ヲ設置シタル部隊長之ヲ管理ス」とあることから、酒保付設慰安施設である軍慰安所についても、酒保と同様に、その管理者は設置者である当該部隊の長であったと結論できる。

他にも野戦酒保規程第6条には次のような条文がある。

第六条 野戦酒保ノ経営ハ自弁ニ依ルモノトス但シ已ム得ザル場合(一部ノ飲食物等ノ販売ヲ除ク)ハ所管長官ノ認可ヲ受ケ請負ニ依ルコトヲ得

平時ノ衛戍地ヨリ伴行スル酒保請負人ハ軍属トシテ取扱ヒ一定ノ服装ヲ為サシムルモノトス但シ其ノ人員ハ歩兵、野砲兵及山砲兵聯隊ニ在リテハ三名以内、其ノ他ノ部隊ニ在リテハ二名以内トス

この規定から、直営でない軍慰安所において慰安所を経営していた売春業者は軍の「請負商人」であったこと、また当該部隊の長の判断により、それらの請負業者を軍属にすることができたこともわかる。ただし、この改定野戦酒保規程では軍属にできる請負商人には定員の枠が設定されているので、実際にどれほどの業者が軍属になったのかはまた別問題である。さらに第13条には「軍属タル酒保請負人ニハ必要ニ応ジ糧食ヲ官給シ又被服ノ一部ヲ貸与スルコトヲ得」とあり、この条項の運用次第では、慰安所の業者が軍から貸与された制服を着用することになっても別に不思議ではない。彼らが直接朝鮮や台湾で女性を集めたとすると、制服を着用しているので、軍人と見なされる可能性は高い。

以上まとめると、日中戦争期につくられた陸軍の慰安所は、軍の兵站施設である野戦酒保の付属慰安施設であったのであり、その経営を受託された慰安所業者は軍の請負商人であり、可能であれば、軍属の身分を与えられ、制服の着用が許されたのだと考えられる。


234. 2014年3月02日 10:17:22 : 2D6PkBxKqI


追記(2005年6月12日記、2007年3月21日)

2005年6月11日に古書店で、『初級作戦給養百題』というタイトルの図書を入手した。これは、陸軍の経理学校の教官が経理将校の教育のために執筆した演習教材集である。

編者は清水一郎陸軍主計少佐。発行所は陸軍主計団記事発行部で、同部刊行の『陸軍主計団記事』第三七八号附録として刊行された。表紙の右肩に「日本将校ノ外閲覧ヲ禁ス」と書されている。なお、『陸軍主計団記事』は靖国偕行文庫には全巻揃っているそうである。

奥付がないので、『初級作戦給養百題』の刊行日付は不明だが、序文に「二六〇一年ノ正月之ヲ発意シ漸ク斯クノ如ク纏メ上ケタリ」とあるので(p.1)、昭和16年すなわち1941年に刊行されたものと推測される。

この書物の第一章総説には、師団規模の部隊が作戦する際に、経理将校が担当しなければいけない作戦給養業務(「作戦経理勤務」)の内容が一五項目にわたって列挙されているが、その一五番目「其他」の項には、以下の小目が含まれる(強調は永井、以下同じ)。

 1 酒保ノ開設
 2 慰安所ノ設置、慰問団ノ招致、演芸会ノ開催
 3 恤兵品ノ補給及分配
 4 商人ノ監視                          (p.14)

このことから、1941年の時点で、「慰安所ノ設置」は、「酒保ノ開設」と並んで経理将校が行わなければいけない「作戦給養業務」のひとつであったことがわかる。これもまた、私が本文で指摘した、「軍慰安所とは、将兵の性欲を処理させるために軍が設置した兵站付属施設」との主張を裏付けてくれる、軍の内部資料の一つであるわけである。

さらに、この『初級作戦給養百題』には、以下のような状況のもとで、師団経理部の一員として、「次期作戦準備ノ為ノ経理勤務要領」の「考案ヲ附記スヘシ」という問題が収録されている(p.367)。

 一、十月中旬師団ハ概ネ初期ノ目的ヲ達シM平地ヲ領有ス
 二、茲ニ於テ師団ハ一部ヲ以テABCDニ位置セシメ主力ヲ以テM市及其周辺ニ駐止シ次期作戦ヲ準備セントス

つまり、この問題は、師団規模の部隊が戦闘を終え、所定の場所を占領したまま駐屯体制に入り、次の作戦に向けて準備をする場合に、師団経理部がとるべき措置を起案せよと、問うているのである。この演習問題に対しては、総説に示された「経理勤務要領」に基づく模範解答が掲載されているが、それには以下のような措置が含まれているのである。

 十一 其他
 1 酒保ノ開設
 2 出入商人ノ監視
 3 慰安所ノ設置
 4 恤兵品ノ補給及分配                  (p.371)

1937年9月に野戦酒保の附属慰安施設として陸軍の編成のうちに姿をあらわした軍慰安所は、その4年後の1941年には、給養を担当する経理将校のマニュアル中に、師団規模の部隊が占領地で駐屯体制に入った場合には、必ず設置しなければいけない施設として、酒保と肩をならべて記されるまでの存在となっていたのである。

このような状況となれば、後方業務遂行のためにも、経理将校は慰安所の業務についてそれなりの知識を有していなければ、その職責を果たせないことになるが、その要請に応じるため、経理将校の養成課程においてそれに関する教育が行なわれていたことを示す元経理将校の貴重な証言がある。

証言者は、戦後フジサンケイグループの総帥となる鹿内信隆だが、一九三八年に札幌の歩兵第二五聯隊に入営した鹿内は、幹部候補生の試験に合格し、予備の経理将校になるため、陸軍経理学校に入校した。さらに陸軍会計監督官となる教育を受け一九四一年に卒業した。

鹿内は、元日経連会長櫻田武との対談の中で、その経理学校で「慰安所の開設」について次のような教育を受けたという。

鹿内 (略)それから、これなんかも軍隊でなけりゃありえないことだろうけど、戦地へ行きますとピー屋が…。
 櫻田 そう、慰安所の開設。
 鹿内 そうなんです。そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの、持ち時間 が、将校は何分、下士官は何分……といったことまで決めなければいけない(笑) 。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった。
(櫻田武・鹿内信隆『いま明かす戦後秘史』上巻(サンケイ出版、一九八三年)四〇〜四一頁。)

もちろん「ピー屋設置要綱」は隠語であって、正しくは「慰安所設置要綱」であったにちがいない。

鹿内の証言は、一九四一年には陸軍経理学校で経理将校およびその候補生に対して慰安所設置業務についての教育が行なわれ、そのためのマニュアルができていたことを明らかにしてくれている。

と同時に、当時の日本陸軍では慰安所といえば、もっぱら将兵向けの性欲処理施設を指していたことをも示している。慰安所が軍の後方施設であったことを如実に物語る証言といえよう。


235. 2014年3月02日 10:18:02 : 2D6PkBxKqI


1) 上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』(青土社、1998年)。

2) 吉見義明編集・解説『従軍慰安婦資料集』(大月書店、1992年)105-106。

3) 吉見義明『従軍慰安婦』(岩波新書、1995年)35。

4) 小林よしのり『新ゴーマニズム宣言 第3巻』(小学館、1997年)165。

5) 小林よしのり「「人権真理教に毒される日本のマスコミ」西尾幹二・小林よしのり・藤岡信勝・高橋史朗『歴史教科書との15年戦争』(PHP研究所、1997年)77。

6) 藤岡信勝「歴史教科書の犯罪」前掲『歴史教科書との15年戦争』58。

7) 秦郁彦「歪められた私の論理」『文藝春秋』1996年5月号。

8) 上杉聡『脱ゴーマニズム宣言』(東方出版、1997年)77。

9) 吉川春子 『従軍慰安婦−新資料による国会論戦−』(あゆみ出版、1997年)。

10) 八木絹「旧内務省資料でわかった「従軍慰安婦」の実態」『赤旗評論特集版』1997年2月3日。

11) 和田春樹「政府発表文書にみる「慰安所」と「慰安婦」−『政府調査「従軍慰安婦関係」資料集成』を読む」女性のためのアジア平和国民基金「慰安婦」関係資料委員会編『「慰安婦」問題調査報告・1999』女性のためのアジア平和国民基金、1999年。

12) この間の経緯については、『赤旗』1996年12月20日に詳しい。

13) 前掲『資料集成』第1巻、36-38。

14) 前掲吉見編『従軍慰安婦資料集成』28-30、吉見義明・林博史編前掲書、第2章、第4章。

15) 南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集T』(偕行社、1993年)。

16) 同編『南京戦史資料集U』(偕行社、1993年)。

17) 同上。なお、湖州の慰安所については、第十軍法務部長であった小川関治郎の陣中日記の1937年12月21日条にも「尚当会報ニテ聞ク 湖州ニハ兵ノ慰安設備モ出来開設当時非常ノ繁盛ヲ為スト 支那女十数人ナルガ漸次増加セント憲兵ニテ準備ニ忙シト」との記述が見られる(小川関治郎『ある軍法務官の日記』みすず書房、2000年、124)。

18) 前掲吉見編『従軍慰安婦資料集成』175。

19) 同上、195。

20) 高崎隆治編『軍医官の戦場報告意見集』(不二出版、1990年)115、120。

21) 麻生徹男軍医少尉「花柳病ノ積極的予防法」1939年6月26日、高崎編、前掲書、55。

22) 前掲藤永論文、169。なお、藤永は麻生徹男『上海から上海へ』(石風社、1993年)に依拠している。

23) 1937年12月に陸軍と総領事館との間に結ばれた風俗警察権の分界協定は、上海・南京戦が終了し、日本軍の駐屯と占領地支配の長期化が明確になった1938年春になって、一部修正の上、再確認された。その年3月には上海で、4月16日に南京総領事館で陸海外三省関係者の協議会が開催きれ、占領地の警察権に関する協定を結んでいる(前掲吉見編『従軍慰安婦資料集』178-182)。
 なお、一般公娼施設と軍慰安所との間で明確に警察の管轄区分がなされていた点で、軍事警察が占領地の風俗営業取締を全般的に担当していた日露戦争中の満州軍政や第1次大戦期の青島占領とも性格を異にすることも付け加えておく。

24) 前掲『資料集成』第1巻、3、7。前掲吉見編『従軍慰安婦資料集成』96、97。

25) 前掲『資料集成』第1巻、28、31。

26) 同上、35、36。

27) 同上、45。

28) 同上、105-109。この手書きメモは欄外に「内務省」と印刷されている事務用箋に記されており、内容からみて、1938年1月の慰安婦第1回送出のあとに、本省側が兵庫県警に事情を聴取した際に作られたメモと思われる。なお、山下内務大臣秘書官とあるのは山下知彦。海軍大将山下源太郎の養嗣子で、男爵・海軍大佐。36年3月に予備役となり、末次信正の内務大臣就任とともにその秘書官に起用されていた。

29) 前掲『資料集成』第1巻、32。

30) 同上、43。

31) 同上、11-13。

32) 同上、23-24。

33) 同上、48-49。

34) 同上、16、43。

35) 同上、19-21。

36) 契約書には「一、上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於テ酌婦稼業ヲ為スコト 一、賞与金(給料のこと−永井)ハ揚高ノ一割トス(但シ半額ヲ貯蓄スルコト)」と記されている。同上、14。

37) 同上、25。

38) 同上、54。

39) 同上、19。

40) 同上、24。

41) 同上、49。

42) 同上、26。

43) この通牒は、警保局警務課(課長町村金五)において1938年2月18日付けで起案され、富田健治警保局長、羽生雅則内務次官、末次信正内務大臣の決裁を受けて、2月23日付で各地方長官に通達された。外事課と防犯課とがこれに連帯している。同上、55。

44) 同上、69-70。

45) 警保局長通牒が外務次官通牒に定める渡航制限の緩和措置であったことは、この通牒が出された後に、粟屋大分県知事と外務省の吉沢清次郎アメリカ局長との間で以下のようなやりとりがなされたことからもわかる。まず粟屋知事は、外務省の既存の指令にしたがえば、山東方面への初渡航者には警察の身分証明書を発行すべきでないと解されるが、同方面の「皇軍慰安所ノ酌婦等募集ヲナス旨ノ在支公館又ハ軍部ノ証明ヲ有スル者ノ募集セル酌婦等ニ対シテハ身分証明書下付相成差支無キヤ」とアメリカ局宛に照会を行い、それに対して吉沢局長は、内務省発警第5号「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル依命通牒」にしたがって「渡支支障ナキ者ナル限リ身分証明書ヲ発給セラレ差支無之」と回答したのであった。すなわち警保局長通牒にしたがい、慰安婦の渡航を認めてよいと指示したのであった。同上、117-120。

46) 在山海関副領事発外務大臣宛機密第二一三号(1938年5月12日付)前掲吉見編『従軍慰安婦資料集』111。

補注1(2012年1月12日追記) 

内務省警保局長通牒が定めている渡航許可の基準は、実質的には空文化されていたと考えられる。なぜならば、現実に慰安所に送られた例を検討すると、基準が守られていたとはとても思えないからである。以下にみるように、秦前掲書(三八二〜三八三頁)に紹介されている元兵士の証言がその証拠となる。これらは氷山の一角であったと考えてよいであろう。

そのひとつ、華南南寧憲兵隊の元憲兵曹長の回想によれば、一九四〇年夏、中国華南の南寧を占領した直後に、その兵士は、陸軍慰安所北江郷という名の軍慰安所を毎日巡察していたという。その慰安所の経営者は、十数人の若い朝鮮人慰安婦を抱えていたが、地主の息子で小作人の娘たちを連れてやって来たとのことであった。朝鮮を出るときは、契約は陸軍直轄の喫茶店、食堂とのことだったが、若い女の子に売春を強いることに経営者の朝鮮人も深く責任を感じているようだったという。

この慰安所の経営者が女性を騙したのか、それとも経営者自身が他の誰かに騙されたのか、この証言だけでは曖昧だが、連れてこられた女性は明らかに就労詐欺の被害者である。内務省警保局長通牒の趣旨からすればあってはならないことがらである。

一九三二年の上海事変の際には「設置計画中の海軍指定慰安所で働かせるため、長崎地方の女性一五名を事情を隠し、女給・女中を雇うかのように騙して長崎から乗船させ(誘拐)、上海に上陸させた(移送)」事件がおこり、被疑者は起訴されたが、長崎控訴院は刑法旧第二二六条第一項の国外誘拐罪と同条第二項国外移送罪が成立するものとして有罪を宣告し、大審院もこれを支持した(大審院判決が出されたのは一九三七年三月)(戸塚悦郎「確認された日本軍性奴隷募集の犯罪性」、『法学セミナー』一九九七年一〇月号)。

この判例からすれば、南寧の陸軍慰安所の女性も国外誘拐罪、国外移送罪の被害者にまちがいないが、その被害事実がわかっておりながら、慰安所の取り締まりを担当していたこの憲兵曹長は、女性を帰国させずにそのまま放置し、何らの救済措置もとっていない。また、騙した犯人の追及も行なっていない。この憲兵曹長は、慰安所の経営者および慰安婦に同情を寄せていたことから、自身もそこで行なわれていることがよいことではないのを承知していたと思われる。良心的な兵士だったと思われるが、犯罪行為の摘発という憲兵として当然なすべきことを行なわず、しかもそのことに対してとくに後ろめたい気持ちを抱くこともしていない。これはこの憲兵が悪徳憲兵だったからではなくて、軍慰安所が軍にとって不可欠な施設であるために、たとえ違法な方法で慰安婦の募集が行なわれていたとしても、軍事上の必要のためにはやむをえないと考える姿勢、言いかえれば「見て見ぬふりをする」体制がすでに陸軍内にできあがっていたからだと思われる。

この例は朝鮮での募集なので、内務省警保局長通牒は植民地には適用されなかったから例として不適当との解釈もあるかもしれない。そこで日本内地の例を秦同書からあげておく。ただし、刑法旧第二二六条は朝鮮・台湾にも適用されるので、右の例の女性が犯罪事件の被害者であることはそれによって何ら変化を受けるわけではない。

 第二の例は、山東の済南に駐屯していた第五九師団の元伍長の証言である。一九四一年のある日、国防婦人会の「大陸慰問団」という日本人女性二〇〇人がやってきた。彼女たちは部隊の炊事の手伝いなどをするつもりだったのが、皇軍相手の売春婦にさせられてしまった。将校クラブにも、九州の女学校を出たばかりで、事務員の募集に応じたら慰安婦にさせられたと泣く女性がいた。この例も、話が事実なら、同様に国外誘拐罪、国外移送罪の被害者である。内務省警保局長通牒の基準が厳格に守られていたのであれば、こういう例は未然に防止されたはずである。しかしながら、未然に防止されるどころか、事後においても被害者が救済されたり、犯罪事件が告発された形跡がない。女性を送り出す地域の警察も、送られてきた側で軍慰安所を管理していた軍も、いずれもこのような犯罪行為に何ら手を打っていないのである。軍慰安所の維持のためにはやむをえない必要悪だとして、組織的に「見て見ぬふり」をしなければ、とうていこのようことはおこりえないはずである。一九三七年末から一九三八年初めにかけて軍慰安所が軍の後方組織として認知されたことにより、事実上刑法旧第二二六条はザル法と化す道が開かれたのだといってよい。それは警保局長通牒が空文化したことを意味する。

なおこれに関連していえば、「軍慰安所で性的労働に従事する女性を、その本人の意志に反して、就労詐欺や誘拐、脅迫、拉致・略取などの方法を用いて集めること、およびそのようにして集めた女性を、本人の意志に反して、軍慰安所で性的労働に従事させること」をもって「慰安婦の強制連行」と定義してよいのであれば、たとえ軍が直接に手を下したり、命令を出したりしなかったとしても、右にあげた例のように、組織的に「見て見ぬふり」をしていた場合、すなわち軍から慰安所の経営を委託された民間業者やそれに依頼された募集業者が詐欺や誘拐によって女性を軍慰安所に連れてきて働かせ、しかも軍慰安所の管理者である軍がそれを摘発せずに、事情を知ってなおそのまま働かせたような場合には、日本軍が強制連行を行なったといわれても、それはしかたがないであろう。

47) 副官通牒や警保局長通牒をもって「強制連行」の事実があったことを示す史料だとする上杉聡の見解に私は同意できないが、しかし「業者の背後に軍部があることを「ことさら言うな」と公文書が記している」と考える点では、同意見である。

48) 内務省警保局長通牒は各地方長官だけでなく、拓務省管理局長(棟居俊一)、陸軍省軍務局長(町尻量基)、外務省条約局長(三谷隆信)、同アメリカ局長(吉沢清次郎)にも参考のため移牒されている。アメリカ局に移牒されたのは旅券事務が同局の管轄だったからである。前掲『資料集成』第1巻、67。

49) 1938年11月の第21軍向け慰安婦の「調達」と移送は、全面的な警察の規制と支援のもとで、秘密裡に行われた。これは政府・内務省の方針の本質をよく示すものである。同上、p.77-100。

注49への追記(2012年1月12日)

 1938年11月の第21軍向け慰安婦の「調達」と移送については、次のふたつの警察資料が有名である。
1.内務省警保局警務課長「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件伺」(1938年11月4日付)
2.内務省警保局長発大阪・京都・兵庫・福岡・山口各府県知事宛「南支方面渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」(1938年11月8日付)(『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』第1巻)

この文書によると、同年11月4日に第二一軍参謀の久門有文陸軍少佐と陸軍省徴募課長の小松光彦陸軍大佐とが警保局を訪問し、「南支派遣軍の慰安所設置の為必要に付、醜業を目的とする婦女四百名(はじめ「千名」とあり、のち抹消)を渡航せしむる様(はじめ「蔭に送付方」とあり、のち抹消)配意ありたし」との申し出を行なった。

久門少佐が警保局長に出した名刺が残されているが、その裏面には「娘子軍約五百名広東ニ御派遣方御斡旋願上候」と記されている。第二一軍と陸軍省は警察の元締めである警保局長に慰安所で働く女性の募集と渡航について斡旋を依頼したのである。

ここで留意すべきは、この行動が、第二一軍が例の「副官通牒」の指示に忠実であったことを示している点である。「副官通牒」が求める「将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於イテ統制シ(中略)其実地ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連携ヲ密ニシ次テ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度」にしたがって、第二一軍は久門少佐を警保局に派遣したのである。斡旋依頼を受けた警保局は、大阪、京都、兵庫、福岡、山口の各府県に対して、女性を集めて中国に送るよう極秘の指令を発したのであった。

さらに補足しておくと、第二一軍軍医部長であった松村桓軍医少将は一九三九年四月一五日に陸軍省医務局で「性病予防のために兵一〇〇人につき一名の割合で慰安隊を輸入す。一四〇〇-一六〇〇名」と報告している(波多野澄雄「防衛庁防衛研究所所蔵《衛生・医事》関係資料の調査概要」前掲『「慰安婦」問題調査報告・一九九九』三五頁)。第二一軍は少なくとも一四〇〇名名の慰安婦を抱えていたのであった。

50) 駒込武「帝国史研究の射程」『日本史研究会』452、2000年、228。

51) 前掲『共同研究日本軍慰安婦』第5章、142-144。

52) この規程は、アジア歴史資料センターで公開されており、レファレンスコードは、C01001469500、表題は「野戦酒保規程改正に関する件」(大日記甲輯昭和12年)。


http://nagaikazu.la.coocan.jp/works/guniansyo.html


236. 2014年3月18日 00:23:29 : FOjtnIAn1B
噓つき男、吉田清治。
24歳のときに、20歳の在日韓国男を養子にして、戦後共産党から立候補して落選した奴ね。

本籍地・・・・嘘
名前 ・・・・3つの通名
学歴 ・・・・嘘
職歴 ・・・・嘘
麻薬密輸・・・有罪で2年間服役
慰安婦の本・・・韓国で謝罪して回った後、嘘がばれる

売国左翼の根拠www


237. 2014年3月22日 14:49:12 : yE1g3ZofPw
捕虜を釜ゆでにするとそんな残酷な風習は日本にないので、従軍慰安婦と称する証言は殆どの場合嘘だと思います。

中国の日本軍国主義批判でも同様の非難がありますが、日本の文化からはかけ離れています。ところが『ワイルドスワン』にはこのような、国府軍などの行状として、このような残酷な描写があります。韓国の犬の殺し方の映像なんかも出回っていますが、恐らく自国の文化を背景にあのような証言が作られているのだと思います。

なお、河野談話で、「慰安所の設置は軍当局の要請によるものであり、募集は軍の要請を受けた業者が主に行なったが、甘言・強圧による事例が多く、更には官憲等が直接これに加担したこともあった」となった背景には次のようなものがあります。

@韓国の元従軍慰安婦の聞き取りからは「官憲等が直接これに加担したこともあった」などを裏付ける証言は得られなかった。

Aインドネシアでは、日本の軍人がオランダ人女性に慰安婦になるよう強制した『白馬事件』があり、このことを指して「官憲等が直接これに加担したこともあった」という表現になった。なお、これに関係した軍の関係者は日本軍から更迭されるなどの処分を受け、戦後は軍事裁判により、関係した軍人はもとより、慰安所の経営者も処刑されている。

Bこれらを有耶無耶にして、韓国は自国民に向けて「朝鮮半島で官憲による強制連行を認めた」と宣伝し。日本は官憲の強制は白馬事件のことを指しているということで決着した。

Cあえて河野談話を否定しなくても、再検証して以上のことを明らかにすれば、韓国の主張である朝鮮半島のおける官憲による強制連行は否定できるが、寝た子を起こしたくないので恐らくきちんとした再検証もしないでしょう。


238. 2014年3月23日 00:04:38 : 2D6PkBxKqI
>捕虜を釜ゆでにするとそんな残酷な風習は日本にないので、従軍慰安婦と称する証言は殆どの場合嘘だと思います。


戦国時代には普通にやっていたよ。

しかし、上で既に否定されている事を何度も何度も繰り返すというのは工作員かな?


239. 2014年3月23日 00:14:20 : 2D6PkBxKqI
IQ が低いだけかもしれないな。

240. 中川隆 2014年3月23日 17:12:47 : 3bF/xW6Ehzs4I : 2D6PkBxKqI

日本軍は徹底した証拠隠滅してたから証拠は残って無いのさ:

「軍の資金で慰安所口止め」 元日本兵、60年代に供述

2014/03/22 17:53【共同通信】

 法務省がバリ島に海軍兵曹長として駐屯していた男性を調査した資料の一部
(関東学院大・林博史教授提供)


 旧日本軍の従軍慰安婦問題で、太平洋戦争中にインドネシアのバリ島に海軍兵曹長として駐屯していた男性が、1962年の法務省の調査に「終戦後(慰安所を戦争犯罪の対象に問われないよう)軍から資金をもらい、住民の懐柔工作をした」と供述していたことが分かった。

 元兵曹長は「(慰安婦として)現地人など約70人を連れてきた」「他にも約200人を部隊の命で連れ込んだ」と連行の実態も説明していた。

 関東学院大の林博史教授(日本近現代史)の研究室が国立公文書館(東京)保管の資料で見つけた。林教授は「河野洋平官房長官談話が認めた軍の関与を裏付けるもので重要だ」と評価している。
http://www.47news.jp/smp/CN/201403/CN2014032201001850.html


241. 2014年3月25日 19:07:09 : 2D6PkBxKqI

旧日本軍慰安婦の強制動員裏付ける資料 中国で発見

聯合ニュース 3月24日(月)13時10分配信
http://linkis.com/yahoo.co.jp/0ofOK

 【長春聯合ニュース】第2次世界大戦中に日本人が書いた慰安婦に関する手紙が中国で見つかった。韓国の女性が旧日本軍慰安婦として中国に多数連れて行かれたことを裏付ける貴重な資料。慰安婦の強制動員があったことは被害者の証言などで明らかになっているが、強制性を立証できる文書の発見は異例だ。

 当時、旧満州国の関東軍司令部などが残した日本軍の資料10万冊に対する研究を進めている中国吉林省の機関、記録保管所が24日、整理を終えた旧日本軍慰安婦関連の25件について聯合ニュースなど韓国メディアを通じ公開した。

 このうち6件に韓国人慰安婦に関する内容があり、1941年に日本軍の北安地方の検閲当局がまとめた「郵政検閲月報」には軍慰安所の状況を詳しく記した手紙が含まれている。黒竜江省・黒河に住む日本人が長崎県の知人宛てに送ったこの手紙は、慰安所の兵力はわずか20人程度、全員が朝鮮人で、「国家総動員法」に縛られていると記している。

 郵政検閲月報は日本軍が軍事機密などの外部流出を防ぐため軍民を対象に実施した手紙と電報の検閲制度で、各地域の憲兵部隊が検閲結果を関東軍憲兵隊に定期的に報告していた。

 記録保管所側は「文脈と日本風の女性の名前が出ている点を総合すると、『兵力』とは『軍慰安婦』を指すとみるべきだ」と説明した。

 また記録保管所は、中国の蕪湖(現安徽省)地域にいた109人の軍慰安婦のうち韓国人が36人と記された日本軍憲兵隊の「南京憲兵隊管轄区内の治安回復状況報告書」や、韓国人慰安婦を「特殊慰安婦」と表記した日本軍の資料、日本軍が公金を使って軍慰安婦を計画的に募集したことを示す満州中央銀行の電話記録なども公開した。いずれも日本軍の組織的な軍慰安婦運営を強く裏付ける文献と強調している。

 記録保管所は同日、海外メディアに保管室入室を初めて許可し、関連文書の原本撮影も認めた。尹懐所長は「韓国は中国の近しい隣人で、同じ苦難を経験した間柄」としながら、韓国と今回の成果を共有し研究の更なる発展に役立てたいと話した。
 韓国の成均館大東アジア歴史研究所関係者は24日、「『総動員令に伴う朝鮮人慰安婦』という部分は軍慰安婦が大勢動員されたことを示す文献という点で大変重要な資料」と評価した。

 韓国政府もこれら文書の存在事実を確認し、外交ルートを通じ中国政府に閲覧を要請したとされる。

 一方、日本の右翼団体などは慰安婦問題について、旧日本軍や官憲が強制連行したことを示す根拠はないと主張している。


242. コガネムシの木 2014年4月01日 18:54:33 : lv4g5VzXUfQls : dXUIxebYIg
この中川って人すごいね。自分で書いてることが支離滅裂というのがね。慰安婦がどうこうというより、中川さんが自分でやりたいと思っていることを文章化しているとしか思えない表現。こうあってほしいあるいは、こう言うことをしたいと思いながら入力しているのだろうね。
それと、やたら天皇がって出てくるけどこの人完全におかしな左翼の人だよね。昔、自分が共産系の少年だったのでわかるのだけど、いたもんね、何が根拠かわからないけど何かというと天皇の責任が〜って言ってる先輩。30年以上も前の話だけど、まだいるんだこんな人って、懐かしかったですよ。ちなみに、それを見てやばいこの組織って思って足を洗った19の夏でした。

243. 中川隆 2014年4月01日 20:46:44 : 3bF/xW6Ehzs4I : 2D6PkBxKqI
俺はコピペしてるだけさ

自分で勝手に書いたものは一つもない

文句あるなら書いた人間に言ってくれ


244. 中川隆 2014年4月07日 21:17:40 : 3bF/xW6Ehzs4I : 2D6PkBxKqI

嘘だと思うんなら直接証言した本人に言ってね:

「慰安婦」強制に新証拠

日本軍、200人をバリ島に連行

関東学院大・林教授ら


旧日本軍「慰安婦」問題で日本軍の関与と強制性を認めた「河野談話」を裏付ける新資料が、関東学院大学の林博史教授(日本近現代史)らによってこのほど発見されました。新資料は、旧日本軍が軍の資金を使って慰安所事件を隠蔽していた事実も浮き彫りにしました。


 資料は、戦後のオランダによるBC級戦犯裁判(バタビア臨時軍法会議)で裁かれた二つの事件にかかわるもの。林教授の研究室が国立公文書館保管の資料から見つけました。

 同裁判(25号事件)で裁かれたバリ島駐屯の海軍第三警備隊特別警察隊長(海軍兵曹長)の男性が戦後、法務省の調査(1962年8月)に対し、「戦中の前後約4カ年間に二百人位(くらい)の婦女を慰安婦として奥山部隊の命により、バリ島に連れ込んだ」と強制的に女性を連行した事実を証言しています。

軍が隠蔽工作

 さらに、「終戦後、軍需部、施設部に強硬談判して、約70万円を本件の工作費として貰い受け各村長を介して住民の懐柔工作に使った。これが完全に功を奏したと見え、一番心配した慰安所の件は一件も訴え出なかった」と、隠蔽工作についても赤裸々に語っています。

 同時に発見された同裁判の尋問調査には、警察隊長の男性が連れてきた女性を「慰安婦」として働かせる慰安所を開いていた商人の証言や、男性によって慰安所に入れられそうになった女性の証言が存在しています。調書には、

「彼女たちが強制されていたということは、彼女たちが車から降りて慰安所に入るときに泣いていたという事実から明らかでした」

「彼女たちは(被告)によって一人ずつ車から引きずりだされたので、服は引き裂かれていたほどでした」

などの商人の証言が記載されています。

愛人にされた

 また、バタビア裁判での別の裁判(88号事件)の資料も発見され、同裁判での被害者の尋問調書では、


「親米容疑で憲兵隊に捕まり、ボソドオソの慰安所に連れて行かれ、ここにずっといるか、一人の決めた日本人と同棲(どうせい)するか、選べといわれる」

「逮捕され、ボソドオソの慰安所だったホテルに連行。憲兵隊将校の愛人にされた」


などの証言が記載されています。


旧日本軍「慰安婦」新資料(抜粋、林博史教授提供)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-04-07/2014040714_01_1.html


245. 中川隆 2014年5月06日 00:40:38 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc


従軍慰安婦問題、強制性はあったー吉見義明教授・林博史教授が海外メディアに訴え


10日、従軍慰安婦問題に関し、強制性があったとする立場を取る吉見義明氏(中央大学教授)、林博史(関東学院大学教授)が外国特派員協会で会見を行った。両氏は第一次安倍政権下の2007年にも会見を行っており、今回も海外メディアを前に安倍政権に対し河野談話の継承や謝罪・賠償、さらなる調査の必要性を訴えた。


吉見教授(左)、林教授(右) 写真一覧


吉見教授の冒頭発言

7年ぶりにこのような場を設けていただきまして大変ありがとうございます。日本の慰安婦問題について、いまどういう状況にあり、何をしなければいけないのかということをお話しさせていただきます。

ご承知のように慰安婦というのは戦地に日本軍によって立案・開設された軍の慰安所で日本軍の管理下に置かれ、日本軍将兵に性的交渉を強いられた女性たちです。慰安婦にされた女性は、騙しや甘言による誘拐、あるいは暴行・脅迫による略取、人身売買など、徴募方法は当時の刑法や国際条約に反する形態が多く、慰安所での強制・拘束は明らかに本人の意思に反した性奴隷状態でした。

これらは過去二十数年の調査研究はもとより、アジア各国での被害者の証言から明らかであり、すでに国際社会での共通認識になっています。軍・官憲による直接連行を示す資料は発見されていない、とする2007年第一次安倍内閣時の閣議決定が強制否定の根拠になることはありえません。2014年に入っても慰安婦強制を示す新資料が発掘されています。

戦時下だけではなくて、戦後の被害女性たちのPTSDは想像を絶するものがあり、心身に残る後遺症は高齢になる被害者を今も苦しめていています。私たちは、このような女性に対する重大な人権侵害が二度と起こってはならないと考えます。そのためにも、90歳前後と高齢になった被害女性が生存されているうちに一刻も早く、日本政府は被害者が納得する明確な形で謝罪、補償を行なわれなければならないと考えています。

しかしながら、安倍首相が再び政権を取ると、河野談話の見直しや、慰安婦に対する強制を否定する議論が国会で繰り返され、3月14日には河野談話の見直しはないと安倍首相が言明されましたが、今も撤回を求める声が止むことはありません。
安倍内閣は、河野談話を見直さないと言う一方で文言調整に絞った極秘検証を行おうとしていますけれども、なぜそのような検証を行う必要があるのでしょうか。安倍内閣は河野談話の閣議決定を執拗に拒んでいますけれども、談話を事実上否定するか、再び撤回する動きを作る伏線ではないかという疑念を払拭することはできません。

私たちは昨年8月1日に、多くの研究者・市民とともに、明確な出典・根拠を持って

慰安婦に関する事実を提供するウェブサイト
http://fightforjustice.info/?p=2920


を立ち上げ、今年の3月7日には

「河野談話つぶしを許さない!緊急院内集会」
http://fightforjustice.info/?p=2920


を開きました。

私たちはこのような状態がいつまでも続く事を望んでおりません。事実に基づかない歴史認識が原因で、隣国と首脳会談さえできない状況は一刻も早く脱却しなければなりません。

私たちは日本政府に、第一に、河野談話の見直しをやめること。第二に、これまで発見されても政府として把握されてこなかった全資料の確認と国内外に所蔵されている関係資料を全面的に調査すること。第三に、オランダ人被害者を含む、アジア各国の被害女性の聞き取り調査を一刻も早く実現すること。第四に、被害女性に対して誠意のある謝罪と、謝罪が真意であることの証である補償や教育を推進することを繰り返し提言してきました。

安倍政権は、河野談話を踏襲することを表明した今、いわゆる極秘検証を直ちにやめ、河野談話を踏襲していることを内外に示すために、以下の措置を即刻実行に移すべきであると考えます。

ひとつは、河野談話で表明した、元慰安婦の方々に対する「お詫びと反省の気持ち」を否定するような言論に対しては、政府としてきちんと反論すること。それからもうひとつは、河野談話で表明した「我々はこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。」という誓約を誠実に実行することです。

なお、私たちは、河野談話をさらに発展させるような措置、すなわち河野談話の公表以後に明らかになった資料・証言や内外の調査・研究の成果を反映させ、国連の社会権規約委員会、自由権規約人権委員会、拷問禁止委員会、女性差別撤回委員会など、国際人権機関による慰安婦問題に関する勧告を踏まえた積極的な措置を求めていくことを表明します。


吉見教授の発言に続いて、林教授による、"河野談話発表以後"の資料についての具体的な説明が行われた。説明では、自身が発見し、昨年11月に共同通信が報じた、「強制性を示す新資料6点」、軍の資金による隠蔽が行なわれていたとする証言資料が紹介された。

続いて、記者団との質疑応答が行われた。


ーアメリカでは河野談話が公式のものなのか否かという議論があるが、どう思うか。

吉見教授:言うまでもなく、河野談話は官房長官の名前で出されたものであるから公式なものであるとしか言えない。

林教授:河野談話を継承する、という内閣の答弁書を閣議決定している。内閣として承認するということからも、公式なものだ。

ー私はオランダの記者だが、河野談話が準備されていた段階で、なぜオランダ人女性への聞き取り調査がなされなかったのか伺いたい。また、強制性を示す資料が国の文書として確認されていない、というのはどういうことなのか。それらを歴史として認識していないということなのか。

吉見教授:日本政府は被害女性に対してヒアリングを広く行おうとしなかった。実際には韓国の被害女性のごく一部しかインタビューをしていない。

河野談話が発表されるまでに、すでに韓国人女性、台湾人女性、オランダ女性、中国人女性等々が実際に名乗り出ている。きちんと調査をして事実関係を認めるのであれば、これらの女性すべてにインタビューをした上で結論を出さなければなかったが、日本政府は問題を極限化しようとするために韓国だけで調査をして、他の国は問題がはっきりしないという態度を取ったということがあると思う。それが最初の大きな手違いだったと思う。

林教授:今日ご紹介した資料以外にも、法務省は2,000ファイル以上の資料を持っている。しかしながら河野談話を出すにあたり、この中から2点しか報じていない。ほとんどの文書を調査せずに放置している。したがって、河野談話を出した時点で日本政府がきちんと調査していない、というのは明らかである。

国会議員に対する答弁でも、河野談話公表までに見つかった資料ではこういう文書はない、という言い方をして、その後見つかった資料についても、ほとんど言及しないという姿勢を貫いている。なぜ日本政府がそういう態度を取っているのかわからない。みなさんにもインタビューをして聞いてもらいたいと思う。

私の推測では、そうした資料を認めるということは、強制を示す文書があったと認めざるを得ないからではないか。強制性を認めたくないので、新しく見つかった資料、持っている資料を無視しているのではないかと推測している。

2,000以上のファイルのうち、私がこれまで調査できたのは、まだ100ファイルにも満たない。個人ではとても無理なので、日本政府がこれらを調査すべきである、というのが私たちの要求でもある。

ー石原信雄元官房副長官が、河野談話について、強制性を示す客観的な資料がなく、16人への聞き取りによる調査と、裏付け調査をしていないと発言したことから、談話の見直しではなく再検証というのが浮上しているが、これについて事実関係と、その評価について伺いたい。


吉見教授:石原さんがどのような立場なのかはわからないが、河野談話が出されたときの責任者でもあるので、談話の内容については認めておられるのではないか。軍や官憲が暴行・脅迫を用いて連行した、ということを示すという資料があったかないかということだが、そのような資料はないというのがおそらく安倍さんの立場だろう。しかし、そういうことがあった、ということは林さんの発表でも示されており、崩れるわけだ。

オランダ政府は慰安婦問題について1994年に調査報告書を出しているが、それを読むと、オランダ人女性に軍・官憲が暴力を用いて連行したことを示す資料があるということが、いくつか例をあげて書かれている。それから、中国のケースでは、中国人女性たちが賠償を求めて日本の裁判所に訴訟を起こし、結果敗訴はしたが、判決の中で、中国で軍人が女性たちを暴力的に連行して慰安婦状態としたことを認定している。これも公文書と言えると思う。

もうひとつの焦点として朝鮮半島でどういうことが起こったのかということがある。朝鮮半島でもっとも一般的だったのは、軍、あるいは朝鮮総督府が業者を選んで、その業者に女性たちを集めさせていた。その業者はどういう方法で集めていたかというと、誘拐、あるいは人身売買がほとんどだった。このようなことが一般的であったということについては、国内で私と意見が対立している人との間でも、そこは共通の認識が成立している。

そのようにして誘拐、あるいは人身売買された女性は、業者によって戦地まで連れて行かれ、日本軍の作った慰安所に入れられるが、そこで軍は何をしなければいけなかったかというと、誘拐・人身売買は犯罪だとして女性たちを解放し、業者を逮捕しなければいけなかった。それをせずに軍の作った慰安所で兵隊の相手をさせれば軍の責任が生じてくるということになる。弁護士に聴いたところ、軍も共犯になるというのが弁護士の見解だった。 そもそも軍が慰安所というものを作らなければこのような問題を起こらなかったわけだから、最大の責任は軍にあるということになるのではないか。

ーもうひとつ、橋下徹大阪市長が、「どこの国にもあったではないか」と主張をされた(関連記事)。このことについて、日本の特殊性などがあれば伺いたい。

林教授:他の国もやっていたから日本は謝らなくても良いということにはならない。重大な人権侵害をした以上、責任を認めて謝らなくてはならない。

そして、第二次世界大戦について言えば、これまでの様々な研究では、このような慰安所のシステムを持っていたのは日本軍とナチスドイツだけしか明らかでないと思う。慰安所は日本軍の規定の中で公式の施設とされていたが、こういう軍隊は他にはなかなか例はないのではないか。現地で軍が売春宿を管理するということは他の軍隊でもあり、アメリカ軍でもあった。ただ、私がアメリカの国立公文書館で調べたところ、その事実をワシントンが知ると、それを閉鎖させていた。つまり、アメリカ軍は公式の施設として認めてはいなかったということだ。これは日本軍とは決定的に違うところだろう。

また、朝鮮戦争のときに、韓国軍が慰安所を作っている。ただし、このときの韓国軍の慰安所を作った責任者たちは、すべて旧日本軍の将校だった。つまり日本軍の悪い習慣が韓国軍に伝わったという意味で、日本人として反省しなければならないことだと思っている。

ー河野談話が出された92年、93年当時の状況を考えると、背景に何か政治的な理由があったのではないか。

林教授:直接の関係があったのかはわからないが、あのころの日本はアジア諸国との関係が非常にセンシティブだった。かつての戦争の問題について、神経質に考えていた状況だった。その意味では何か関係があるのかもしれないが、ただそれ以上はわからない。
http://blogos.com/article/84245/
http://blogos.com/article/84245/?p=2


「慰安婦強制」で新資料 6点、河野談話に含まれず

 旧日本軍の従軍慰安婦として海外の民間女性を強制連行したとの記述がある法務省の資料6点が国立公文書館(東京)に保管されていたことが21日、分かった。関東学院大の林博史教授(日本近現代史)が発見した。軍の関与と強制性を認めた河野官房長官談話(1993年)の基となった政府調査資料には含まれていない。

 林教授は「当時の政府調査は不十分だったと言わざるを得ない」と話している。

 資料6点は、戦後に当時の中国国民政府とオランダ政府が実施した計6件のBC級戦犯法廷の起訴状や判決文などの裁判資料。
http://www.47news.jp/CN/201311/CN2013112101001602.html

[32削除理由]:アラシ

246. 中川隆 2014年7月04日 23:18:31 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
>>245 が何故か削除されてしまいました。
『削除コメント表示切り替え』を押して表示して下さい。

247. 2014年7月04日 23:19:41 : 3cdYZYbVIc

 【北京=川越一】中国中央公文書館は3日、公式サイト上で旧日本軍の「戦犯」の供述書などの公開を始めた。中国政府が国連教育科学文化機関(ユネスコ)に記憶遺産として申請した、いわゆる慰安婦問題に関する詳述も含まれている。

 公開が始まったのは、1956年に中国国内で起訴された45人の供述書など。1日に1人のペースで供述書を公開していくという。初日の同日は、「鈴木啓久陸軍中将」の供述書が公開された。

 同日、北京で記者会見した同館の李明華副館長は、鈴木中将が慰安所の設立を命じたことや、41〜45年に複数回にわたり計約140人の中国人女性らを慰安婦として誘拐したことを認めていると強調した。また、南京事件に関するユネスコへの申請資料として、米国人牧師が撮った記録映画や裁判記録などを挙げた。
http://www.asyura2.com/14/china4/msg/443.html


248. 中川隆 2014年7月06日 01:01:18 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

1945年、「日本侵略軍ノ蟠居地ニハ私ハ所謂慰安所ノ設置ヲ命ジ」、中国および朝鮮の「婦女ヲ誘拐シテ所謂慰婦トナシタノデアリマシテ其ノ婦女ノ数ハ約六〇名アリマス」。

3日、中央公文書館は日本人戦犯・鈴木啓久の供述書(日本語)とその中国語訳の原文の画像、戦犯供述書の要旨(中国語と英語)を公式ウェブサイト上で公開した。


日本人戦犯1人目・鈴木啓久の供述書を公開、八路軍幹部を毒ガスで惨殺―中国
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=90718&type=0
2014年7月5日 19時41分


2014年7月4日、人民日報によると、中央公文書館は3日以降、鈴木啓久ら日本人戦犯45人の供述書(日本語)とその中国語訳の原文の画像、戦犯供述書の要旨(中国語と英語)を初めて公式ウェブサイト上で公開。45人分を毎日1人ずつ公開している。

中国国家公文書局ウェブサイト上で公開された日本人戦犯・鈴木啓久の1954年7月の供述書によると、鈴木は1890年に日本の福島県に生れ、1934年に中国東北部で中国侵略戦争に参加し、歩兵第28連隊隊長補佐に任じられた。後に1945年4月には日本陸軍中将兼第117師団長に任じられた。同年8月31日、吉林省で捕虜となった。今回公開された鈴木の供述書の原文資料は計38ページ、供述書の当時の中国語訳資料は計33ページ。

以下は鈴木が白状したとされる重要な犯罪行為。

1934年6月頃、錦州で「中国人民ノ農民二名ヲ殺害シマシタ」。

1935年3月上旬頃、高木大佐を援助し、高木大佐は「上板城附近ニ於テ約三〇〇戸ノ部落二個ヲ焼却シ中国人民多数ヲ殺害シマシタ」。

1940年9月、安徽省宣白作戦において、屋内に退避した抗日軍人約50名への「毒瓦斯攻撃ヲ命ジ其ノ全員ヲ惨殺致シマシタ」。

1941年、安徽省巣県に慰安所を設置したうえ、「中国人民及朝鮮人民婦女二〇名ヲ誘拐シテ慰安婦トナサシメマシタ」。

1941年11月、河北省棗強で八路軍を攻撃し「八路軍約一〇名ヲ殺害シ且ツ約六〇〇戸アル村落二個ヲ焼却シ此ノ時中国人民ノ農民一〇〇名ヲ屠殺致シマシタ」。

1941年12月、「長城線附近二粁以内ニ於テ」「住民ヲ悉ク追イ掃ヒ無人地帯トナスベシ」とした。

1942年1月、唐山一帯で田浦大佐に対して掃蕩を命令し「田浦ハ其ノ部落約八〇〇戸ヲ焼却シ且ツ其ノ部落ノ中国人民ノ農民一,〇〇〇名ヲ屠殺シタノデアリマス」

1942年4月、「魯家峪ニ於テノ洞窟攻撃ニ際シ毒瓦斯ヲ使用シテ八路軍ノ幹部以下百名ヲ惨殺シ又戦火内ニ引キ入レラレルコトヲ恐レ魯家峪部落附近ノ山地ニ避難セル中国人民ノ農民二三五名ヲ中モ妊婦ノ腹ヲ割ク等ノ野蛮ナル方法ヲ用ヒテ惨殺シ魯家峪部落約八〇〇戸ヲ焼キ」「俘虜ハ玉田ニ送リ其ノ中約五名ヲ殺害シタ」「且ツ婦女ノ強姦百名ニモ達シタノデアリマス」。

1942年7月、豊潤で「村落約五〇〇戸ヲ焼却シ中国人民ノ農民約一〇〇名ヲ惨殺シマシタ」。

1942年9〜12月、遷安、遵化などの地を無人地帯にするため、住民を全て追い払うべく「焼却シタ家屋ハ一万戸余リニ上リ追イ掃ラハレタ中国人民ハ数万ニ上リ又惨殺セラレタ中国人民ハ甚ダ多数アルノデアリマス」。

1942年10月、「●縣(=らん県)潘家戴荘ノ中国人民ノ農民一,二八〇名ヲ或ハ銃殺シ或ハ刺殺シ或ハ斬殺シ又ハ生埋メヲナス等ノ野蛮ナル方法ヲ以テ集団屠殺シ」「部落全戸八〇〇ヲ焼却」した。

1942年、「日本侵略軍ノ蟠居スル所ニハ私ハ各所ニ慰安所ヲ設置スルコトヲ命令シ中国人民婦女ヲ誘拐シテ慰安婦トナシタノデアリマス其ノ婦女ノ数ハ約六〇名アリマス」。

1944年5月、河南省新郷で「抗日軍(遊撃隊)ヲ攻撃シテ約十名ヲ殺害シマシタ」「攻撃中戦場附近ニ在リシ村落約三〇〇戸ヲ焼キ掃ヒ中国人民ノ農民約一〇〇名ヲ惨殺シマシタ」。

1944年7月、河南省封丘で「抗日軍(遊撃隊)約四〇名ヲ殺害シ附近ノ村落一個約四〇〇戸ヲ焼キ中国人民ノ農民約一〇〇名ヲ殺害シマシタ」。

1944年8月、「抗日軍ヲ攻撃シ其ノ約一〇名ヲ殺害シ且ツ約四〇〇戸ノ中国人民農民ノ家屋ヲ焼却シ中国人民約三〇名ヲ殺害シマシタ」。

1944年11月、「私ハ歩兵部隊ガ林縣南部地区ヲ侵略シタル後其ノ地ヲ撤退スルニ際シ防疫給水班ヲシテ三、四ノ村落ニ虎疫菌ヲ散布セシメマシタ之ガ為其後同縣内中国人民ニ虎疫患者百名以上ヲ出シ死亡者モ亦多数アッタトノ報告ヲ受ケマシタ」。その後、長路県某村でも「焼キ掃ヒ(約三百戸)其ノ村落ノ中国人民ノ農民六百六十名ヲ或ハ銃殺シ或ハ刺殺シ或焼殺スル等ノ残虐ニシテ野蛮極マル方法ヲ以テ虐殺シタノデアリマス」。また、この「侵略中私ノ部下ノ各隊デ俘虜ヲ惨殺シマシタノハ合計三〇名アリマス」。「空気注射ニヨル殺人法ヲ試サントノ意見ニ対シ私ハ病院附野田實ニ対シ其ノ実施ヲ命ジマシタ。当時中国偽縣警備隊員一名入院中デアリマシタノデ之レヲ奇貨トシテ実行サセタノデアリマス」。

1945年春、懐慶の村落で「中国人民ノ農民約五〇〇名ヲ惨殺シ全村約六〇〇戸ヲ焼キ掃ヒマシタ」。

1945年春前後、「附近ノ村落約四〇〇戸ヲ焼キ中国人民ノ農民約一〇〇名ヲ惨殺シマシタ」。

1945年、「日本侵略軍ノ蟠居地ニハ私ハ所謂慰安所ノ設置ヲ命ジ」、中国および朝鮮の「婦女ヲ誘拐シテ所謂慰婦トナシタノデアリマシテ其ノ婦女ノ数ハ約六〇名アリマス」。

1945年7月中旬「醴泉ニ侵略シ中国人民約四〇名ヲ惨殺」した。

中国侵略期間に「私ノ記憶ニ存スルモノダケデモ中国人民ヲ殺害シタ数ハ五,四七〇名デアリ中国人民ノ家屋ヲ焼却又ハ破壊シタ数ハ一八,二二九戸アルノデアリマスガ其ノ実数ニ於テハ更ニ厖大ナルモノデアリマス」。(提供/人民網日本語版・翻訳/NA・編集/TF)
http://www.asyura2.com/14/china4/msg/451.html


252. 2014年8月07日 10:50:02 : 2CipWGqWuI
2014年8月5日付けの朝日新聞朝刊に吉田証言を偽証と認める記事が掲載されました。
朝日新聞はご存じの通り吉田証言を大きく紹介し、慰安婦問題の火付け役となった新聞です。
朝日自身が吉田清治証言は虚構であると認めたわけですが、それについての見解を披露していただきたいと思います。

253. 2014年8月07日 20:18:02 : Bt9xkGMhHs
出て来なよ、「嘘も百回つけば真実に成る」式の中川隆クン
吉田証言は虚構だったよ

254. 中川隆 2014年8月08日 21:10:07 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
吉田清治自身が慰安婦の身元がばれない様に時と所を変更したと言ってるんだか、

慰安婦を強制連行した所とは何の関係もない場所を調査した朝日は吉田証言を検証した事にも、捏造だと断定する根拠にもならない。

単に朝日が右翼新聞に転向したというだけさ。


255. 中川隆 2014年8月08日 21:41:38 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
吉田清治と同様の証言は幾つもあるから、内容自体は虚偽ではないしね:


しかし年がたつにつれ、朝鮮では連行後の苛酷な労働の実態が少しずつ知
られるようになり、人集めは次第に困難になっていきました。そのため「官斡
旋」の始まった42年頃からは、NHK・TVでとりあげたチョウ氏のように、
夜、突然連行されるなど強引な手段の人狩りや、露骨な「暴力的連行」が頻発
し始めました(山田昭次・朴慶植監修「朝鮮人強制連行論文集成」明石書店)。

  そうしたやり方は企業の募集担当者の回想からもある程度裏付けられます。
たとえば、北炭幌内炭坑労務課員・北山外次郎の「朝鮮出張募集報告」(45.3.
24)では 、徴用令を適用した労務動員に対する朝鮮人の反応を報告してますが、
そのなかで、

「一般農民、日雇い等は従来より送出の対象となり居り、官斡旋に於ても事実上強制的に送出せられ居りたれば、今更衝撃を受くることもなし」

と述べ、官斡旋は徴用なみに事実上強制的なものであったと回想しました。
(小沢有作「近代民衆の記録10,在日朝鮮人」新人物往来社)。

  こうした事実は総督府関係者の証言でも確認されています。かって宇垣総
督時代にその秘書役をしていた鎌田沢一郎氏は、強制連行のやり方を著書「朝
鮮新話」のなかで次のように記しました。

  「納得の上で応募させていたのでは、その予定数になかなか達しない。そ
こで郡とか面とかの労務係が深夜や早暁、突然男手のある家の寝込みをおそい、
或いは田畑で働いている最中に、トラックを廻して何気なくそれに乗せ、かく
てそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭坑へ送りこみその責を果たすと
いう乱暴なことをした」
半月城通信、植民地時代17サハリンへの強制連行
http://www.han.org/a/half-moon/hm031.html#No.225


256. 中川隆 2014年8月08日 22:57:53 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

・・悔しかったらまずこれを否定してね:


・・日本陸軍中将兼第117師団長 鈴木啓久

・・1941年、安徽省巣県に慰安所を設置したうえ、「中国人民及朝鮮人民婦女二〇名ヲ誘拐シテ慰安婦トナサシメマシタ」。


257. 中川隆 2014年8月09日 07:34:02 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

・『ある日赤紙が来て』 真鍋元之著  1981

・ 1942年頃、平陽鎮の軍専用慰安所
・つねに満員だったと言う。

・ 「私の馴染んだ慰安婦は、職業用の日本名をミサオと呼んでいた。生家は江原道のもっとも貧しい農家だったが、ある日突然村長がやってきて

・「軍の命令だ。お国への御奉公に、娘を差し出せ」

という。御奉公の意味がすぐに分かったので、父母は手を合わせ声の限りに哀号を繰り返したが 、村長は耳を貸さない。

・この面(村)へ8名の割り当てが来たが、面には娘は5人しかいないから、ひとりも容赦はならぬ、とニベもなく言い放つ 。

・村長の背後では、刀を吊った日本人の巡査(警官)が、肩をそびやかせている。

5名の村娘が、石ころのようにトラックに乗せられ、村境の土橋を 渡ったのが、故郷との別れであった。文字が書けないので、家族の安否を、手紙で問い合わせる事もできない。・・・」
http://194586245.web.fc2.com/11.html


258. 中川隆 2014年8月09日 07:35:17 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

特別報告者はまた東京の歴史家、中央大学の吉見義明教授にも会った。彼は特別報告者に日本の皇軍の文書のコピーを提供した。それは朝鮮人「慰安婦」 の徴集にたいする命令や規定が日本軍当局により、あるいは当局が知っていて実行されたことを裏付けるものであった。吉見教授はまた原文書の詳細な分析を示 したが、それは師団や連隊の後方参謀や副官が派遣軍から指示をうけ、憲兵を使って占領地の村長や地方の有力者に命じ、軍事的性奴隷として使役する地域の女性を徴集するのが普通であったとするものであった。

慰安所の開設にたいする日本軍の決定的な関与と責任を例示するために吉見教授はさまざまな文書に言及した。特別報告者も例証として日本陸軍の広東駐 屯第21軍の1939年4月11〜21日の「旬報」に言及しておきたい。そこには軍の統制下で将兵のための軍慰安所が操業しており、約1000人の「慰安 婦」が同地内の10万と推定される兵士を相手にしていると書かれている。特別報告者に渡された他の同様な文書からは、陸軍省からの指示に基づいて「慰安 婦」施設にたいする厳重な統制システムが維持されていたことが明らかにされている。これらの命令は、性病の蔓延防止を目的とする衛生規定のような事柄にも 配慮していた。

特別報告者はまた、性奴隷徴集のため普通に行われたもう一つの方法として、各派遣軍から朝鮮に派遣された業者で、彼らは憲兵と警察の協力または支持 を得て軍事的性奴隷として朝鮮人女性を集めたと思われるという情報を得た。これらの業者は普通、軍司令部により指名されたが、師団、旅団または連隊が直接 おこなうこともあったようである
http://space.geocities.jp/japanwarres/center/library/cwara.HTM


259. 中川隆 2014年8月09日 07:56:33 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
河野洋平も吉田清治も同じだけど、彼らは慰安婦に取材する時に、絶対に身元を明かさないという条件付きで話してもらってるんだ。
絶対に明かしてはいけない事があるから、本当の事は言えないんだ。

吉田清治が自ら虚構を認めたというデマを流してるアホがいるけど、吉田清治が認めたのは、慰安婦の身元がわかって、彼女達とその家族・親戚が迫害を受けない様に、場所と時間を正確に書かなかったという事だけだ。
内容については一切否定していないし、本も廃刊にしていない。


昔の朝鮮では慰安婦だった事がわかると、家族は結婚できなくなり、弟は会社を解雇され、妹や娘は売春婦の仕事にしか就けなくなった。
だからみんなで口裏を合わせて嘘言ったんだ。

吉田清治の本に書かれているのはすべて真実だ


今回の朝日の調査は、吉田清治が実際に強制連行した所ではない見当違いの場所で聞き採りしただけなので、その調査自体が無意味・無価値なんだな。


260. 中川隆 2014年8月10日 09:04:32 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
2012-12-13

■[資料][慰安婦]日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20121213/p1

慰安所の前で巻脚絆(ゲートル)を外し順番を待つ兵士たち
場所:中国、時期:1938年頃
http://f.hatena.ne.jp/dj19/20121208002024

出典:村瀬守保写真集『私の従軍中国戦線 一兵士が写した戦場の記録』(初出:日本機関紙出版センター,1987年)新版:2005年


慰安婦は「自発的に応募した」「自由意志だった」「強制ではない」、さらには軍や警察は「違法な業者を厳しく取り締まっていた」等々、慰安婦問題を否定する人々によって熱心に宣伝されているデマがありますが、そうした人々が無視している資料に、元日本軍将兵・軍属が手記や証言のなかで慰安婦に言及している口述資料というものがいくつも存在します。

それら口述資料*1を用いて個々の事例を考察していきます。


以下、 引用文の中略には「……」を入れています。強調、改行は引用者によります。


最初に紹介する証言は、秦郁彦氏が著書『慰安婦と戦場の性』のなかで「信頼性が高いと判断してえらんだ」もののひとつです。


■第五十九師団(済南駐屯)の伍長・榎本正代の証言

場所:中国中部の山東省


 一九四一年のある日、国防婦人会による〈大陸慰問団〉という日本人女性二百人がやってきた……(慰問品を届け)カッポウ着姿も軽やかに、部隊の炊事手伝いなどをして帰るのだといわれたが……皇軍相手の売春婦にさせられた。“目的はちがったけど、こんなに遠くに来てしまったからには仕方ないわ”が彼女らのよくこぼすグチであった。将校クラブにも、九州の女学校を出たばかりで、事務員の募集に応じたら慰安婦にさせられたと泣く女性がいた。

(秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社,1999年,p.382)


この証言について歴史研究者の永井和教授は論文『日本軍の慰安所政策について 日本軍の慰安所政策について』の中で次のように述べています。


 この例も、話が事実なら、同様に国外誘拐罪、国外移送罪(当時の刑法はこちらを参照*2)の被害者である。内務省警保局長通牒の基準が厳格に守られていたのであれば、こういう例は未然に防止されたはずである。しかしながら、未然に防止されるどころか、事後においても被害者が救済されたり、犯罪事件が告発された形跡がない。女性を送り出す地域の警察も、送られてきた側で軍慰安所を管理していた軍も、いずれもこのような犯罪行為に何ら手を打っていないのである。

 軍慰安所の維持のためにはやむをえない必要悪だとして、組織的に「見て見ぬふり」をしなければ、とうていこのようことはおこりえないはずである。

 一九三七年末から一九三八年初めにかけて軍慰安所が軍の後方組織として認知されたことにより、事実上刑法旧第二二六条はザル法と化す道が開かれたのだといってよい。それは警保局長通牒が空文化したことを意味する。


論文に出てくる『内務省警保局長通牒(原文はこちらを参照*3)』には、現在の警察庁長官に相当する内務省警保局長から全国の各庁府県長官宛に出された通牒『支那渡航婦女の取扱に関する件』 (1938年2月23日)というものがあります。

この通牒は「婦女・児童の売買を禁止する国際条約*4」(未成年の女性を売春に従事させることを禁止し、成年であっても、詐欺(誘拐)などによる強制的手段が介在していれば刑事罰に問われることを定めた国際条約。)に接触しないよう指示した箇所があるのですが、初めから「北支、中支方面に向ふ者に限り当分の間之を黙認」して出国に必要な「身分証明を付与」すると抜け穴が作られているのです。

さらにこの通牒は日本国内に限定されたもので、朝鮮・台湾といった植民地では出されていないのです。そのため植民地からは未成年の女性たちが制限無しに国外に誘拐・拉致、人身売買といった強制的手段で連れて行かれたと考えられています。

■長尾和郎『関東軍軍隊日記 - 一兵士の生と死と』経済往来社,1968年

関東軍兵士の記録、場所:中国東北部、黒竜江省


 東満の東寧(とうねい)の町にも、朝鮮女性の施設が町はずれにあった。その数は知る由もなかったが、朝鮮女性ばかりではなく日本女性も…… (一般兵用)施設は藁筵(むしろ)でかこまれた粗末な小屋で、三畳ぐらいの板の間にせんべい布団を敷き、その上に仰向けになった女性の姿を見たとき、私の心には小さなヒューマニズムが燃えた。一日に何人の兵隊と営業するのか。外に列を作っている兵隊たちを一人一人殴りつけてやりたい義憤めいた衝動を覚え、その場を立ち去った。

 これらの朝鮮女性は「従軍看護婦募集」の体裁のいい広告につられてかき集められたため、施設で営業するとは思ってもいなかったという。それが満州各地に送りこまれて、いわば兵士達の排泄処理の道具に身を落とす運命になった。わたしは甘い感傷家であったかもしれないが、戦争に挑む人間という動物の排泄処理には、心底から幻滅を覚えた。……

 おれは東京の吉原、洲崎の悪所は体験済みだが、東寧の慰安婦はご免だ。あれじゃ人体でなく排泄装置の部分品みたいなものだが、伊藤上等兵も同感する。


「東満」地域とは、1943年10月1日、満州国にかつて存在した3省、牡丹江・間島・東安を総括し設置された「東満総省」の地域を指し、「洲崎」とは現在の江東区東陽町にかつてあった遊郭街のことです。

この慰安所にいた朝鮮人女性たちは「従軍看護婦」の「募集」だと騙されて国外に連れて行かれています。これは当時でも誘拐・拉致という犯罪で刑法第226条に違反しているのですが、女性たちの身元も調査しているはずの軍の方で送り返すなどした様子もなく、女性たちは軍の管理下にある慰安所で軍人の性の相手を強要されています。

また、当時この兵士は、慰安所のあまりに人権が無視されている状況に「義憤めいた衝動を覚え」「外に列を作っている兵隊たちを一人一人殴りつけてやりたい」と感じたと書いています。この後でも紹介するように、慰安婦の状況を非人道的だと感じた日本軍将兵の手記や証言というものはけっして少なくありません。

■『私たちと戦争〈2〉戦争体験文集』タイムス,1977年,p.32

島本重三 軍「慰安所」

第七三三部隊工兵一等兵の記録、場所:中国東北部の吉林省・琿春


 兵隊専用のピー屋(慰安所)は琿春の町に五軒散在していた。一軒の店に十人ほどの女がいた。『兵隊サン、男ニナリナサイ』。朝鮮の女たちは道ばたに出て兵隊を呼びこんでいた。まだ幼い顔の女もまじっていた。

 兵隊の慰問のために働くのは立派なことで、その上に金をもうけられると誘われ、遠い所までつれてこられた。気がついたときは帰るにも帰れず、彼女らは飢えた兵隊の餌食として躯(からだ)を投げださねばならなかった。

 日曜日にはけだものとなった兵隊を相手に少しも休むまもなかった。まだ終らないうちから次の兵隊が戸を叩いてせかした。ベニヤ板張りの小さな部屋には、貧弱な鏡台とトランクがあった。それが彼女の全財産であった。

 せんべい布団を被ううす汚れた敷布には、解剖台のような気味の悪い血がしみついていた。生理のときも休むことを許されず、働かねばならない女たちであった。


「まだ幼い顔のまじった」朝鮮人の女性たちは騙されて国外に連れて行かれており、刑法第226条の国外移送目的誘拐罪、国外移送罪などに当たり、国際条約にも違反している可能性が高いのです。しかし慰安所を管理する軍はここでも業者を不処罰としており、女性たちを送り返した様子がありません。

■土金冨之助『シンガポールへの道〈下〉- ある近衛兵の記録』創芸社,1977年

スマトラのパレンバンで憲兵軍曹として慰安所に関わった憲兵の記録、場所:インドネシア・スマトラ島


 (慰安所に)巡回で出入りしているうちに、私はK子とY子という朝鮮の女性(この建物は全部朝鮮出身)とよく話をするようになった。……K子は年もまだ一八とか一九歳といっていた。……

 私が一人で行ったある日、彼女は「私達は好き好んで、こんな商売に入ったのではないのです。」と、述懐するように溜息を吐きながら語った。「私達は、朝鮮で従軍看護婦、女子挺身隊、女子勤労奉仕隊という名目で狩り出されたのです。だからまさか慰安婦になんかさせられるとは、誰も思っていなかった。外地へ輸送されてから、初めて慰安婦であることを聞かさた。」

 彼女等が、初めてこういう商売をするのだと知った時、どんなに驚き、嘆いたことだろうと考えると気の毒でならない。……彼女の頬には、小さな雫が光っていた。……

 将兵達はこのような事情を知っているのだろうか、いや知る必要はなかった。なまじ知っては楽しく遊べなくなるだろう。金儲けに来ているんだぐらいにしか理解していない者が多いと思う。


ここで詐欺(誘拐)の名目に使われている「女子挺身隊」とは、昭和19年の女子挺身勤労令による女子挺身隊のことではなく、当時の朝鮮で、未婚女性が国(軍)のために勤労報国するという意味で使われた「女子挺身隊」のことだと思われます(こちらを参照*5)。

そしてまた、慰安婦にされた女性たちと慰安所を利用する将兵たちとの認識のギャップが当時から強く存在していたことがわかります。

当時18、19歳の女性が過去の出来事を語っているということは、騙されて連れて行かれた時期は1、2年さかのぼり年齢は16、17歳頃だったろうと推測できますが、このケースも国際条約違反、刑法第226条の国外移送目的誘拐罪、国外移送罪などに当たります。

ここでも軍の方で取り締まった様子はまったくありません。

■菅野茂『7%の運命 - 東部ニューギニア戦線 密林からの生還』光人社,2005年

ウェワクからラバウルに帰還した兵士の記録


 帰途ラバウルの街の慰安所に寄った。……メインストリートの街路樹の下で船から下りたばかりと思われる女たちの一団(十五、六名)が休息していた。大勢の兵隊がもの珍しそうにその兵隊たちの中にY軍曹と運転手のE上等兵の姿があったので、私たちが近寄ると、「あの娘たちは、海軍の軍属を志願したそうだが、だまされて連れてこられたらしい。あの娘は富山の浴場の娘だと」E上等兵は、指差しながら、気の毒そうに私たちの耳元でささやいた。

 なるほど言われてみると、どの娘も暗く沈んだ表情。ろくに化粧もなく、どう見ても巷で働く女たちではなかった。炎天の中に和服を着て柳行李を持っている姿が、一層いたましく写った。男も女も滅私奉公の時代である。だが、私には割り切れなかった。こんなことが公然と行われてよいのだろうか。私は胸に噴き上げるものを抑えながらその場を去った。


この日本人女性たちは就業詐欺(誘拐)など強制的手段で連れて行かれており、こうした犯罪の事例を刑事罰に問うことを定めていた国際条約(婦女・児童の売買を禁止する国際条約)にも違反しています。

また15、6名もの女性たちの一団が違法な方法で集められていることを警察が黙認し渡航に必要な身分証明書を発給していたことになります。「警察が厳しく取り締まっていた」のならこうしたことは起こり得ないはずです。

そしてこのケースも刑法第226条に違反しており、軍が違法な状態で集められた女性たちを軍用船で輸送していたのなら国外移送罪に該当しますし、移送されてきた女性たちを慰安所の設置と管理をしていた兵站担当の将兵が収受していた場合は刑法第227条にも違反します。

しかし、ここでも軍の方で犯罪として認識している様子はありません。この女性たちはその後どうなったのでしょう。

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ニューブリテン島・ココポの陸軍「慰安所」に行列をつくり並ぶ兵士たち、時期:1943年末頃

出典:水木しげる『総員玉砕せよ!』講談社,1995年,p.14


1943年末頃にラバウル近郊のココポ(ココボ)にあった慰安所のことを、水木しげる氏が回想しています。


「日本のピー(日本人慰安婦)の前には百人くらい、ナワピー(沖縄出身)は九十人くらい、朝鮮ピーは八十人くらいだった。」(『本日の水木サン - 思わず心がゆるむ名言366日』草思社,2005年)

「彼女たちは徴兵されて無理矢理つれてこられて、兵隊と同じような劣悪な待遇なので、みるからにかわいそうな気がした。」(『水木しげるのラバウル戦記』筑摩書房,1994年)


(「慰安所はまさに地獄の場所だった」…水木しげる:http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-167.htmlより)


水木しげる氏も彼女たちが慰安婦になるために「自由意志で自発的に応募した」とは認識していないようです。

■長沢健一『漢口慰安所』図書出版社,1983年

軍医の記録、日本から騙されて連れてこられた女性について。場所:中国中部・湖北省武漢市


 赤茶けた髪、黒い顔、畑からそのまま連れてきたような女は、なまりの強い言葉でなきじゃくりながら、私は慰安所というところで兵隊さんを慰めてあげるのだと聞いてきたのに、こんなところで、こんなことをさせられると知らなかった。帰りたい、帰らせてくれといい、またせき上げて泣く……

(契約書は一般に)はじめに借用証文、次の行に、一、何千円也、ついで右借用候也、右の金額は酌婦稼業により支払うべく候也と書かれ……


これも騙され連れて行かれたケースです。歴史研究者の吉見義明教授はこのケースについて次のように述べています。


 慰安所で働くということは聞いているけれど、慰安所とは何かは聞かされていない。だまされて連れてこられたので、誘拐された女性ということになります。それから、あとのほうでは重い借金を負っていると書かれているので、人身売買でもあります。しかし、この女性が日本から誘拐され、人身売買により連れて来られているにも関わらず、軍はこの女性を解放せずにそのまま慰安所に入れるわけです。連れてきた業者はもちろん逮捕されていない。これは、こういうことが一 般的に行われていた、ということを示すものではないでしょうか。


慰安婦問題に関する吉見義明教授の講演 文字起こし:http://www.ianfu-kansai-net.org/2012-10-23.html『2. 朝鮮・台湾では、軍または総督府が業者を選定し、業者が誘拐や人身売買などにより連行した。これも強制連行。』【資料4】より

吉見教授はさらに戦前の日本においても契約書に書かれている「右の金額は酌婦稼業により支払う」という「売春によって借金を返させるという」契約は「民法90条違反だった」ことを指摘しています。

■小俣行男『戦場と記者 - 日華事変、太平洋戦争従軍記』冬樹社,1967年

読売新聞の従軍記者・小俣行男の記録、1942年5月か6月頃、場所:ビルマ


 (朝到着した貨物船で、朝鮮の女が四、五十名上陸したと聞き、彼女らの宿舎にのりこんだとき)私の相手になったのは23、4歳の女だった。日本語は上手かった。公学校で先生をしていたと言った。「学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか」と聞くと、彼女は本当に口惜しそうにこういった。「私たちはだまされたのです。東京の軍需工場へ行くという話しで募集がありました。私は東京に行ってみたかったので、応募しました。仁川沖に泊まっていた船に乗り込んだところ、東京に行かず南へ南へとやってきて、着いたところはシンガポールでした。そこで半分くらいがおろされて、私たちはビルマに連れて来られたのです。歩いて帰るわけに行かず逃げることもできません。私たちはあきらめています。ただ、可哀そうなのは何も知らない娘達です。16、7の娘が8人にいます。この商売は嫌だと泣いています。助ける方法はありませんか」

 考えた末に憲兵隊に逃げこんで訴えるという方法を教えたが、憲兵がはたして助けるかどうか自信はなかった。結局、8人の少女は憲兵隊に救いを求めた。憲兵隊は始末に困ったが、将校クラブに勤めるようになったという。しかし、将校クラブがけっして安全なところでないことは戦地の常識である。「その後この少女たちはどうなったろうか」

(『ビルマラングーンの「慰安所」情報』:http://d.hatena.ne.jp/dempax/20070603#p1より)

*将校クラブとは将校専用の慰安所のこと。


この口述資料からは、軍の方で将校クラブを含め各慰安所に配置する慰安婦の人数を決定していたことがわかります。そしてこれも騙されたケースです。

40名から50名に及ぶ女性たちの一団が、同じ日に同じ場所に到着していることから、軍から慰安婦を集めてくるよう指示された業者による大がかりで違法な徴集が朝鮮半島で行われたことは明らかだと思います。

違法な方法で集められた女性たち(16、7歳の未成年者を含む)に身分証明書と出国許可を与えているのは警察です。永井教授が述べているように、軍慰安所の維持のためにはやむをえない必要悪だとして、組織的に「見て見ぬふり」をしなければ、とうていこのようことはおこりえないはずです。

そしてこのケースもやはり刑法第226条の国外移送目的誘拐罪、国外移送罪、さらに刑法第227条にも違反しています。しかし、軍の方で違法な契約を破棄させ16、7歳の未成年者を含む女性達を送り返そうとした様子はありません。ここでも軍は業者を不処罰とし犯罪を黙認してしまっています。

■『こんな日々があった戦争の記録』出版:上越よい映画を観る会,1995年

須藤友三郎「インドネシアで見た侵略戦争の実態」

1943年以降、北スマトラにいた兵士の記録、コタラジャの慰安所


 スマトラ島の最北端にコタラジャという町があります。私たちは最初ここに上陸し駐屯しました。この町には当時日本軍の「慰安所」があり、朝鮮人の女性が二十名程、接客を強制させられていました。みんな二十才前後と思われる農村出身の人たちでした。「慰安所」の建物は、ベニヤ板で囲った急ごしらえのもので、周囲は有刺鉄線が張りめぐらされ、女性たちが逃亡できないよう看守づきのものでした。……

 「慰安婦」の話によると、当時の朝鮮の農村は貧乏でした。その弱みにつけ込んで、一人当たり二十円程度の前渡金をもってきて、「日本本土の工場労働者になってもらいたい」と親をダマし、徴用されたというのです。ところが船に乗ると日本本土どころか南方に連れてこられ、しかも突然日本軍の将校にムリヤリ売春を強制させられたと、涙を流して「悔しい」と泣いていました。

 しばらくして今度は農村の椰子林の中にまた「慰安所」ができました。ここには、インドネシアの若い女性が十名程収容されていました。この人たちの話によると、ジャワ島の農村から、朝鮮人の女性と同じようなやり方で連れてこられたと憤慨していました。


女性が逃亡しないよう監視されていたことは、慰安婦にされた多くの女性たちの証言と符合します。そして、「周囲は有刺鉄線が張りめぐらされ」ていることから軍の施設内に「急ごしらえの」バラックを建てそこを慰安所にしていたのではないかと推測できます。

また、女性たちがインドネシアまで連れて行かれるまでには、朝鮮半島で、軍や総督府が選定した業者が違法な方法で女性たちを集めたことを警察が黙認しなければ出国許可は下りていないはずです。1人2人でなく20人近くもの女性たちなわけですから、うっかり見逃すというのは考えにくい。

さらに軍は軍用船の乗船許可を与え女性を移送し、現地では憲兵や兵站担当の将兵などが受領しますが、その際も身元調査などを行っているはずなのに軍が女性たちを送り返し業者を罰するなどをしていないのです(刑法第226条、刑法第227条に違反)。

こうした事例を見ていくと、日本政府や警察は「違法な業者を厳しく取り締まっていた」という否定論者の主張が、まったくのデタラメであるとわかります。

■伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史 - 兵営と戦場生活』番町書房,1969年,p.212

1938年に入隊した作家の伊藤桂一の記録、場所:中国


 兵隊と、なんらかの意味で接触する女性は、慰安婦のほかには、中国民衆(つまりその土地の住民)、在留邦人、慰問団、それに看護婦くらいなものだろう。このうち、慰安婦がいちばん兵隊の役に立ってくれていることは事実だが、慰安婦も多くは、欺(だま)されて連れて来られたのである。

■伊藤桂一『戦旅の手帳』光人社,1986年


 騙すのは、看護婦にする、というのと、食堂の給仕にする、というのとつまり肉体的供与を条件とせず連れて行って、現場に着いたら因果を含めたものである。逃げる方法はない。


伊藤桂一氏は、92年に慰安婦が大きく問題化する以前はこのように率直に語っています。近年は保守系雑誌『諸君!』で性奴隷を否定する主張などもしていますが、それでも軍が慰安所を作ったことや慰安婦が軍属扱いだったことなどを語っており*6、元慰安婦の悲惨さも知ってるがゆえに彼女たちに同情的です。ネットで捏造を拡散している人達のように「単なる金ほしさの売春婦だ!」などという誹謗中傷はしていません。

■『従軍慰安婦110番 - 電話の向こうから歴史の声が』明石書店,1992年,p.54

陸軍パイロットの証言、場所:マレー


 マレーの場合、飛行場は町外れにあったので、町にある慰安所までは、一、二里あります。そこで慰安所に行くときはトラックにギッシリ乗って行きました。中隊ごとに200人ぐらいが外出しました。……「トミコ」という源氏名の朝鮮人慰安婦がいましたが、彼女が「私たちは軍属募集され、お国のためと志願してきたのに、裏切られて…もう、国には帰れない」と話していました。この慰安所の経営者は、年配の日本人でした。


これも騙されたケースです。刑法第226条、第227条などに違反する犯罪に当たりますが、ここでも軍及び憲兵が取り締まった様子がありません。

■『特集「慰安婦」100人の証言』DAYS JAPAN 2007年6月号,p.16

独立混成第4旅団の兵士、近藤一の証言、場所:中国北部の山西省太原


 大隊本部がある太原には慰安所がありました。……日本人女性は将校専用なので下級兵士は行けません。朝鮮人と中国人の2ヶ所が下級兵士用です。……朝鮮人のところへ行った時には話をしただけでした。彼女は田舎の出身で家が貧しく、お金儲けができるからと日本の工場へ誘われて来たのに、気がついたら慰安所で、結局あきらめざるをえなかったと言っていました。


これも騙されたケースですが、貧困層の女性であり前借金に縛られ連れて来られた可能性が高いと思われます。ここでも軍は管理下にある業者を処罰していません。

■山口彦三『ビルマ平原 落日の賦』まつやま書房,1987年

第十八師団の兵士の、日本から騙されて連行されてきた在日・朝鮮人女性についての記録。場所:ビルマ(ミャンマー )、中国・海南島


 第十八師団の兵士が、ビルマのメイミョーの公光荘という軍慰安所で出会ったマリ子という日本名をもつ朝鮮人慰安婦から聞いた話によれば、彼女は、下関に住んでいたとき「対馬の陸軍病院で雑役婦を募集しているから行かないか」という話を聞き、紹介人が朝鮮人の産婆で信用できる人なので応募したら、約一〇〇名の女性と一緒に海南島の軍慰安所に送り込まれたという。

(吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書,1995年,p.91より重引用)


これも騙されたケースで、国際条約や刑法第226条及び刑法第227条に違反しています。

■輜重兵第三二連隊第一中隊 戦友会 八木会編『我らの軍隊生活』

カリマンタン・タラカンにいた同中隊の戦中記に記された兵士の記録。時期:1944年


 慰安婦は三十名余りおり、その中の一人に源子名(ママ)を清子(本名リナー)と名乗る十八才の若い娘を知り、よく遊びに行った。彼女らはセレベス島のメナドから、東印度水産会社の事務員にすると騙(だま)されて、ガレラに連れてこられ、慰安婦にさせられたそうである。彼女らの女学生時代のセーラ服姿の写真を見せられたが、日本の女学生と同じ服装で、メナド人はミナハサ族といって色白で、日本人によく似た顔立ちで美人であった。彼女らは当時としては高等教育を受けた良家の子女達であった。

(『皇軍慰安所とおんなたち』吉川弘文館,2000年,p.118、『従軍慰安婦』岩波新書,pp.123-124、「戦争体験記・部隊史にみる『従軍慰安婦』」季刊 戦争責任研究 第5号、94年秋季。より重引用)


これは日本内地や植民地から連行されたケースではなく、インドネシアで騙しによる誘拐によって慰安婦を強制されたケースですが、軍の方で当時、犯罪と認識している様子がありません。

■河東三郎『ある軍属の物語 - 草津の墓碑銘』(初出:新読書社,1967年)日本図書センター,1992年

海軍軍属設営隊員の河東三郎の記録、場所:インド領ニコバル諸島


 一九四三年秋、(ニコバル島に)内地から慰安婦が四人来たというニュースが入り、ある日、班長から慰安券と鉄カブト(サック)と消毒薬が渡され、集団で老夫婦の経営する慰安所へ行った。順番を待ち入った四号室の女は美人で、二十二、三歳に見えた。あとで聞いたが、戦地に行くと無試験で看護婦になれるとだまされ、わかって彼女らは泣きわめいたという。

(秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社,1999年,p.386より重引用)


これも騙されたケースです。刑法第226条の国外移送目的誘拐罪、国外移送罪などに当たりますが、ここでも取り締まった様子はありません。

■鈴木卓四郎『憲兵下士官』新人物往来社,1974年,pp.91-93

鈴木卓四郎憲兵曹長(南支・南寧憲兵隊)の証言


 一九四〇年夏の南寧占領直後に〈陸軍慰安所北江郷〉と看板をかかげた民家改造の粗末な慰安所を毎日のように巡察した。十数人の若い朝鮮人酌婦をかかえた経営者黄は〈田舎の小学校の先生を思わせる青年〉で、地主の二男坊で小作人の娘たちをつれて渡航してきたとのこと。契約は陸軍直轄の喫茶店、食堂とのことだったが、〈兄さん〉としたう若い子に売春を強いねばならぬ責任を深く感じているようだった。

(秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社,1999年,p.383より重引用)


軍から「契約は陸軍直轄の喫茶店、食堂」とのことで女性を集めた朝鮮人の業者自身が騙されていたと思われるケースです。

■鹿野正伍『ある水兵の戦記』光風社,1978年

海軍所属の兵士・鹿野正伍の記録。場所:トラック諸島の夏島(現ミクロネシア・チューク諸島)


 (夏島の慰安所で)妓に内地に手紙を出してくれと頼まれた。「助けると思って、中を読んでください。騙されて連れてこられました」妓は掌(てのひら)を合わせた。媚びた感じではない。妓の目尻に光るものがみられた。

■『海を越える一〇〇年の記憶』図書新聞,2011年

松原勝「軍による『慰安所』管理は紛れもない事実」pp.109-127

1942年、第4海軍施設部軍属としてトラック諸島の夏島へ派遣された軍属の記録


― その夏島に「慰安所」があったのですね。

松原 南國寮と南星寮の二か所、同じような規模でね。(夏島の地図を指し示しながら)このチョンチョン橋を渡って海岸の方へ 出て左折すると四経、四施とあるでしょ、その先に三棟ほどの南國寮がありました。

 源氏名でみどりさんという人がいてね、当時22歳っていってました。だまされてこんな所に連れてこられたってね。私がそこへ行き泊ると、泊まりを受けなかった女の子たちが3、4人集まってきて、いろいろ話をしてくれました。私はどこどこの出身だけど、親やきょうだいと引き離され、だまされてきたんだというわけですよ。人によってはね、子どもや夫にも引き離されてきたんだと泣いて訴えるわけです。高級将校のメイドにならないかとか、海軍病院の雑役の仕事だとか、30円くらいの月給で食事も泊まる所もただだから1年くらいこないかとね。でも、ここへ連れてこられて初めて仕事を知って心が裂けるように思ったと。ひどい話で、日に10人もの相手をさせられるとも言ってました。僕が第四海軍施設部の職員だと知っていたし、若かったからね、気を許していろいろなことを話してくれました。

 トラック島の「慰安婦」は、朝鮮の女性がほとんどでしてね、私の叔母が朝鮮の方と結婚しているということや学生のころ朝鮮人の知り合いもいて、朝鮮人には特別な気持ちを持っていたことも関係していると思いますね。

http://194586245.web.fc2.com/18.htmlより)


このケースも刑法第226条に違反した犯罪ですが、朝鮮半島を出国する際には警察が身分証を発給し出国の許可を与え、トラック諸島まではおそらく軍用船で連れて行かれていると思われます。

そして、ここでも女性たちは送り返されることなく軍管理下の慰安所で慰安婦になることを強要されています。警察や軍が厳しく取り締まった形跡は何処にもありません。

■陸軍通訳の永瀬隆の証言。場所:シンガポール


 シンガポール市街の対岸のブラカンマティ島(現在セントーサ島)に駐留していた陸軍航空の燃料補給廠で通訳として勤務していた永瀬隆氏の証言によると、1942年11月になってから朝鮮人慰安婦12〜13人が送られてきて慰安所が開設された。……氏は朝鮮人慰安婦たちに日本語を教えるように部隊長から命じられたので、その教育にあたった。彼女らと話をしていた時に「通訳さん、聞いてください。私たちはシンガポールのレストラン・ガールということで100 円の支度金をもらってきたが、来てみたら慰安婦にされてしまった」と泣きながら訴えたという。

(林博史「マレー半島における日本軍慰安所について」http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper09.htmより)


「朝鮮人」の「12〜13人」の女性たちは「レストラン・ガール」と騙されて連れて行かれ慰安婦を強要されています。これも刑法第226条に違反する犯罪ですが、軍の方でそれが犯罪であると認識している様子がありません。

■溝部一人 編『独山二』〔独立山砲兵第二連隊の意〕私家版,1983年,p.58

山口時男軍医の1940年8月11日の日記 場所:中国中部

1940年8月、湖北省董市附近の村に駐屯していた独立山砲兵第二連隊は、「慰安所」の開設を決定し、保長や治安維持会長に「慰安婦」の徴募を「依頼」した。その結果、20数名の若い女性が集められたが、その性病検査を担当した軍医は、8月11日の日記に次のように記録している。


 さて、局部の内診となると、ますます恥ずかしがって、なかなか襌子(ズボン)をぬがない。通訳と維持会長が怒鳴りつけてやっとぬがせる。寝台に仰臥位にして触診すると、夢中になって手をひっ掻く。見ると泣いている。部屋を出てからもしばらく泣いていたそうである。

 次の姑娘も同様で、こっちも泣きたいくらいである。みんなもこんな恥ずかしいことは初めての体験であろうし、なにしろ目的が目的なのだから、屈辱感を覚えるのは当然のことであろう。保長や維持会長たちから、村の治安のためと懇々と説得され、泣く泣く来たのであろうか?

 なかには、お金を儲けることができると言われ、応募したものもいるかも知れないが、戦に敗れると惨めなものである。検診している自分も楽しくてやっているのではない。こういう仕事は自分には向かないし、人間性を蹂躙しているという意識が念頭から離れない。

(『日本軍「慰安婦」制度とは何か』岩波書店,2010年,pp.25-26より重引用)


これは中国人女性の事例ですが、中国ではこのように占領した地域の有力者に女性の供出を命じて女性を徴集した事例が多く報告されおり、徴集の形態が日本内地や植民地であった台湾・朝鮮とは異なっていました。

そしてこの軍医は当時の日記に、慰安婦を強いることが「人間性を蹂躙している」と感じ、そうした「意識が念頭から離れない」と苦しい胸の内を書き留めています。

一方、現在の慰安婦問題否定論者の言動から溢れ出す人権感覚はどうでしょうか、戦時中に存在していた人権感覚よりひどい状態にあると言えそうです…。

公文書に記述された慰安婦の強制

■『日本人捕虜尋問報告 第49号』1944年

1944年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた20名の朝鮮人慰安婦と2名の日本人の周旋業者に対する尋問調書。

場所:ビルマ・ミッチナ(ミャンマー・カチン州)


 1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地――シンガポール――における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡し金(前借金)を受け取った。


アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日

http://megalodon.jp/2008-1206-1528-25/members.at.infoseek.co.jp/ash_28/ca_i02_1.html


この資料は歴史修正主義者に都合良くつまみ食いされることが多いのですが、丁寧に読んでいけば、軍から慰安婦の徴集を依頼された日本人の業者が朝鮮半島で騙しによる誘拐と人身売買によって、連行当時17,8歳の未成年を含む女性たち22名を連れて来ていること。そして女性たちが軍の管理下の慰安所で本人に意思に反し性的“慰安”を強要されたことが明らかにされています。

■『極東国際軍事裁判速記録』10巻・雄松堂書店,1968年,p.186

極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決 

場所:中国南部の桂林


桂林を占領している間、日本軍は強姦と掠奪のようなあらゆる種類の残虐行為を犯した。工場を設立するという口実で、かれらは女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した


東京裁判の判決文のなかに、日本の軍隊が女性を「女工を募集」と騙して集め「醜業(売春)を強制した」と記述されています。これは軍が女性たちに売春を強制し慰安婦にしていた証拠ですが、ここで重要なのは、このような犯罪行為が当時、軍のなかでなんら問題にされず見過ごされていたということです。

「慰安婦」制度が違反しているもの


当時の、刑法第226条、刑法第227条、民法第90条、娼妓取締規則、婦女・児童の売買を禁止する国際条約、強制労働条約 第29号(1930年)、奴隷条約(1926年)など。


ここで取り上げた以外の日本軍将兵の手記や証言記録


日本軍将兵が回想している軍が直接、連行、徴集したケース
http://www.geocities.jp/yubiwa_2007/gunkyouseirenkou.html

秦郁彦氏が「信頼性が高いと判断してえらんだ」9つの証言の検証など
http://www.geocities.jp/yubiwa_2007/ianfukyousei.html

朝鮮人慰安婦が出てくる戦記、日誌、日記本 - 軍慰安婦を考える会・ホームページ
http://194586245.web.fc2.com/01.html

吉見義明「従軍慰安婦」岩波書店
http://sikoken.blog.shinobi.jp/CM/69/1/

従軍慰安婦資料集
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/1794/ianfu.html


*1:このエントリは、軍が組織的に慰安所設置を本格化させた1937年末以降に徴集されたと思われる朝鮮人と日本人の慰安婦に言及された口述資料を中心に収集しています。

*2:当時の刑法第226条:国外誘拐罪、国外移送罪:
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%BE%B7%B3%B0%D6%B0%C2%C9%D8#p2

*3:「内務省警保局長通牒」の原文:
http://www.bekkoame.ne.jp/~yamadan/mondai/rmal14/react785.html

*4:当時の「婦女・児童の売買を禁止する国際条約」についてはこちらを参照:
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%BE%B7%B3%B0%D6%B0%C2%C9%D8#p3

*5:「慰安婦」「挺身隊」「処女供出」 - Stiffmuscle@ianhu - 従軍慰安婦問題を論じる 「慰安婦」「挺身隊」「処女供出」 - Stiffmuscle@ianhu - 従軍慰安婦問題を論じる

*6:2007年8月号『諸君!』「僕が出会った気高き慰安婦たち」:
http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-107.html


コメント

kounodanwawomamorukaikounodanwawomamorukai 2012/12/14 03:27
これだけ証拠がれば言い逃れは不能ですよね。
徴集したのは、大方業者(女衒)でしたが、その業者に慰安婦を集めるように依頼したのは軍であり、身分証明書を与えて便宜をはかり、軍が直営した慰安所においても、「騙された女性達を送り返した」形跡がほとんど無い。(小林よしのりが上げた例はただの小説の話。よしんばあったとしても大多数は送り帰してはもらえなかった)
騙して連れて行って、そこで強姦同然に慰安婦にしておいて「それは強制じゃない」なんて言い逃れができる訳がない。
http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/63630718.html

http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/63581579.html
また連行時の強制に関しても、東南アジアに多くの例があり、その横暴なやり方を朝鮮半島においても行ったと考えるのが自然である。さらに総督府警察や面事務所(役所)が女性を集めた関特演があり、騙したりすかしたりしたのである。

もはや言い逃れは不可能であるに違いない。


やまもとやまもと 2013/01/25 06:49
この問題は、規制法が存在していても、実際の現場では事実上有名無実化している。という今も変わらぬ日本社会の体質を象徴しているように思います。やくざの手配師の原発作業員集めを黙認していた東電と同じ。昔、言われていた「新聞はエリートが書いてヤクザが売る。」も同じですね。自分達では直接手を下さず、「黙認」という方法で汚い事は底辺層にやらせる。そして、時折、思い付いたように取り締まりを強化して帳尻を合わせる。この国の支配層の狡猾さは、外国からはよく見えるのでしょう。池田信夫という人がNYタイムスに意見書を提出したそうですが、厚顔無恥、そして無知もいいところですね。


たけしたけし 2013/03/09 23:43
はじめまして、すごく勉強になるブログをありがとうございます。
合気道家の塩田剛三先生の『合気道修行』に空手などを訓練した兵士たちが中国人捕虜を縛り付けて「試し打ち」をしてるシーンが出てきます。
当時の人権状況はこんなものだったのだろうし、慰安婦の人たちの扱いも推して知るべしだなと思います。
慰安婦などを否定したい人たちは昔の戦争に行った日本人と自分を過度の同一視をしてるんじゃないかなと思います。昔の日本人の行為が悪かったとなると自分が悪いような気がしてしまうんじゃないでしょうか。


山下 由佳山下 由佳 2013/05/18 12:44
平和資料館・草の家「戦争を記録する会」元教師の梅原先生は、従軍慰安婦を密かに逃がした体験のある高知出身の兵士の証言を記録しています。悲惨な戦争の最中にも、良心的に、できる範囲で動いた一兵士がいた。この史実を明るみに出したい。http://blogs.yahoo.co.jp/costarica0012/24896941.html


261. 2014年8月10日 16:13:05 : L89x72W1WE
「朝日新聞」に情報提供して上げてたらならどうでしたでしょう…。

朝日がこれらを検証して裏がとれていれば、32年もたってから自社の過去記事取り消し等という報道機関として情けないことしなくて済んだのでは…。

しかし、悪質な嘘は止めようね、と吉田清治氏がご存命なら逆に言ってやりたいほど、ご本人が周囲に伝えた自身の「身の上」からして疑わしいことだらけ…。

僕ならこの人の発言や書いたものは物証で裏付けられない限り「虚構」と判断しますね。

「吉田清治証言は虚構ではない」ことを傍証し、それを伝えることを目的としてここで主張を繰り広げてきたのなら、<お疲れ様でした>としか言えません…。

たいへんな熱意、情熱、情報量には畏敬の念すら禁じ得ません。

が、もはや、<虚構でない>部分があれば、それはどこか、を一次史料を明らかにして提示するくらいのことは可能かもしれませんが、「吉田清治証言は虚構ではない」は少なくとも論理的には成り立たない、と状況証拠から判断するしかありません。


262. 中川隆 2014年8月10日 21:50:31 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
吉田清治は研究者じゃないからね。

論文やルポを書いてるんじゃなくて、体験記を出版しただけ。

年月や場所を正確に書く必要もないしね。

わざわざ慰安婦とその家族が困る事を明らかにする訳ないよ。


263. 中川隆 2014年8月10日 21:55:43 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

吉田清治は、一時、右翼や旧軍人からの脅しやいやがらせで、知人宅に身を寄せたこともあったと言う。

「私がこれ以上言うと、元慰安婦や家族の方に迷惑がかかる。
デッチ上げといわれても構いません。私の役目はもう終わったのですから」
http://www.tamanegiya.com/yosidaseiji.html


264. 2014年8月11日 03:28:09 : Nz6LkXcZ1w
まあ、今回の朝日の訂正で一番重要なのは挺身隊との混同を認めたところでしょう。
例えば同じ民間人の虐殺でも1万人を殺すのと100人を殺すのでは国家の背負う重みは大きく違いますからね。吉田証言が学術的証拠としては成り立たないことなど前々から分かっていたことですし。

265. 2014年8月12日 08:26:11 : 2CipWGqWuI
>吉田清治は研究者じゃないからね。
>論文やルポを書いてるんじゃなくて、体験記を出版しただけ。
>年月や場所を正確に書く必要もないしね。
>わざわざ慰安婦とその家族が困る事を明らかにする訳ないよ。

吉田清治自身があれは創作だったと言ってるわけだし、地元済州島の新聞社の調査でも軍人が女性を拉致したという証言はみつかってないわけだし。
「吉田清治証言は虚構」だったわけだから「悪あがきは止めようね」(笑)。


266. 2014年8月12日 08:43:13 : 2CipWGqWuI
「年月や場所を正確に書く必要もないしね。」←日付も場所も違うのなら、検証しようもないわけだし、そもそも信用する方がどうかしている。

吉田証言は虚構じゃないと主張しているんでしょう?>中川サン
吉田証言の信頼性が根本からが崩れているんだから「慰安婦強制連行は虚構じゃない」とかタイトルを変えないといけないんじゃない?

あと、他であった事をいくら列記しても、それが朝鮮であった事の証拠にはならないよ。なんか必死になって長文書いている上、ほとんどコピペだから文句いいたかったら書いた本人に言えとか書いているけど、それって無責任じゃないかね。


267. 2014年8月12日 19:07:38 : hViZKmZ9hk

中川隆さんよ。
こうなったら朝日新聞の不買運動をしようぜ!


268. 中川隆 2014年8月12日 21:14:30 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
>吉田清治自身があれは創作だったと言ってるわけだし


場所と月日だけ創作だったと言ってるだけだろ
体験記の内容自体は朝鮮のいたる所で行われた事だから創作の要素はない


269. 2014年8月12日 21:45:19 : 7XCLlQ2Jd6

時と場所が違ったらもう創作だわな。
体験記の内容は米軍慰安婦の内容だしな。

米国じゃ言ってもダメだから内容を日本軍にすり替えて
金取ってやろうという魂胆だろ。

朝日新聞の不買運動やりましょうや。
あんたも朝鮮日報に裏切られたんだろ。
中川さんも一緒にどうですか?


270. 2014年8月12日 21:54:36 : pBipN2KXDo

終戦直後のどさくさに紛れて、焼け跡の他人の土地を勝手にパクって自分の
不動産だと言いつのり、土地ドロボーを続けてきた朝鮮人どもと同様の手口で、
阿修羅の歴史板などを不当に占拠して居座り続け、板のテーマとは無縁の
個人趣味の温泉・オーディオなどの私的なゴミ投稿や、小児愛好のエロ投稿
などを延々と続けてきただけでなく、阿修羅で禁止されている通名を何種類も
使い分けてきた「中川隆」。(笑)

こいつは在日朝鮮人の常習犯罪の手口が阿修羅でも通用すると信じて、
日本社会をナメてかかっているサイコパスだから、まともに相手にする必要はないよ。

「中川隆」みたいな奴が跋扈しているから、朝鮮人はいつまでたっても
犯罪者やキチガイとしか見なされないのさ。


271. 中川隆 2014年8月12日 22:15:20 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

個人趣味の温泉・オーディオなどの私的なゴミ投稿や、小児愛好のエロ投稿が阿修羅ランキングで一番人気だったからファン・サービスしてやってるだけさ

俺は常にそこの住民のレベルに合わせて投稿内容を決めてるのさ。


272. 2014年8月12日 22:24:37 : pBipN2KXDo

>俺は常にそこの住民のレベルに合わせて投稿内容を決めてるのさ。

このウンコ臭い勘違いの自惚れとハッタリこそ、
まさに日本人ばなれした朝鮮人根性www

それに気づかぬキムチ脳には唖然とするぜw


273. 2014年8月12日 22:31:15 : 3cdYZYbVIc
おまいが大好きな天皇も正真正銘のチョンだけどな

274. 2014年8月12日 22:35:47 : pBipN2KXDo
>>273

乞食チョンの「中川隆」が火病を起こして「天皇」と叫んだ……の巻www


275. 2014年8月12日 22:49:17 : 7XCLlQ2Jd6
>>271

バカサヨの多い阿修羅で妄想投稿しまくってるのはそのためか。
もうちょっとまともな投稿してくれよな。


276. 2014年8月12日 23:03:06 : 3cdYZYbVIc
いままで阿修羅で左翼を見た事なんか一度も無いぞ

277. 2014年8月13日 04:08:39 : 7XCLlQ2Jd6
まずおまえがバカサヨだ。

歴史を自虐的に捻じ曲げる。なにかと天皇のせいにする。
バカサヨ典型例だ。


278. 中川隆 2014年8月13日 06:23:27 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
左翼というのはマルキストの事さ

今の中国共産党は新自由主義で資本主義陣営だから反左翼になる。

俺はアナーキストだから狭義の左翼にはならない。


279. 2014年8月13日 06:47:41 : 3cdYZYbVIc

日本軍の性奴隷制度は数十万人の女性に多大な苦痛、上海での慰安所は160カ所以上―中国メディア

XINHUA.JP 8月12日(火)14時34分配信


中国のニュースサイト・中国新聞網は11日、「調査で判明、日本軍の上海での慰安所は160カ所以上」と題した記事を掲載した。


「21年間の調査により、日本軍が上海に設けた慰安所は160カ所以上であることが分かった。上海は日本軍の『慰安婦』制度が最も完備された都市だったと言える」。上海師範大学人文・伝播学院長で、中国慰安婦問題研究センター主任の蘇智良氏は11日、上海でこう語った。

この日、上海市政協主催の「八・一三淞瀘抗戦(日本名:第2次上海事件)77周年」を記念した座談会が開かれ、蘇氏は「慰安婦」制度と上海の密接な関係という角度から日本軍の性奴隷制度の極悪非道の犯罪行為について述べた。

日本軍の性奴隷制度は中国の数十万の女性に多大な苦痛を与えた。蘇氏は1910年生まれの朱巧妹さんを取り上げた。朱さんは1928年に結婚。上海商務印書館で働いていたが、1932年の日本軍の空襲で失業。その後、崇明廟鎮に逃れて食堂を経営して生計を維持していた。

1938年春、日本軍が崇明を占領し、村の女性7人が無理やり「慰安組」にされた。朱さんは不幸にも性奴隷と化し、1939年に日本軍が村を撤退するまで続いた。そのせいで朱さんは重い婦人病を患い、精神に深い傷跡が刻まれた。2005年2月、朱さんは95歳で病死したという。

(編集翻訳 小豆沢紀子)


280. 2014年8月13日 08:18:15 : GN6KhuXxyg
>>279

中国発信なんで、どこまでが本当でどこからが嘘なのかわからないねー
戦前の上海というと上海租界とかアヘンが横行してるような暗黒街をイメージするんだけど、元々あった売春宿が軍指定や軍管理下になったということはないの?
慰安所が160カ所以上というインパクトも、そこんところで変わってくるが。


281. 中川隆 2014年8月13日 08:32:59 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
まあ、こういう事だから:


軍慰安所は民間の売春宿に過ぎなかった?

「軍慰安所とは当時も今も存在するただの売春施設に過ぎない」

「今だって歌舞伎町や吉原に行けばソープランドがたくさんあるのだから、公娼制度の下で売春が合法だった当時、軍慰安所という売春宿があったって、おかしなことではない」「米軍基地の周りにだって風俗街ができるではないか」

 ネットでよく見られる言説です。これらの言説は、

「日中戦争・アジア太平洋戦争時に存在した『軍慰安所』は当時の公娼施設や今日のソープランドと変わらない民間の売春施設である」

という認識が前提になっているようです。そこで「軍慰安所は民間の売春施設だったのか?」という問題について資料を見ていきます。


 先ず、「軍慰安所」あるいは「陸軍慰安所」「海軍慰安所」という名称ですが、これは当時の公文書に出てくる公式の名称です。

軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件

起元庁(課名)兵務課

陸支密

副官ヨリ北支方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒案

支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為、内地ニ於テ之カ従業婦等ヲ募集スルニ当リ故ラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ或イハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ或イハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少カラサルニ就テハ将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於テ統制シ之ニ任スル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ其実施ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋ヲ密ニシ、以テ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス

陸支密第745号 昭和拾参年参月四日

(吉見義明編『従軍慰安婦資料集』105〜107頁)

 「軍病院」あるいは「陸軍病院」などのように、「軍○○」、「陸軍○○」という施設があったなら、誰しもが軍の施設だと思うはずです。陸軍病院は軍とは関係のない民間の病院だとは誰も思いません。

 軍の方も、民間の施設なのに、「軍○○」と勝手に名乗るのを許したりはしません。しかも、軍というものの権威がたいへん高い時代でしたから、そんな時代に、みだりに民間人が「軍○○」などという名称を使うなんてことができるはずありません。(それも、通常の業種ではなくて、当時「醜業」と賎視されていた売春業だったのなら、なおさらです。)

 そういう時代に、軍自らが公然と「軍慰安所」という名称を公文書で使っているのですから、民間の施設であるはずがありません。軍の施設に決まっていると言って良いでしょう。

*このことは「韓国生討論」という掲示板の議論で「過客」さんという方からご教示いただきました。


 外務省の領事館報告もいくつか見てみましょう。


在上海総領事館「昭和七年十二月末調 邦人ノ諸営業」
(吉見義明編『従軍慰安婦資料集』89〜90頁)

在上海総領事館「在上海総領事館ニ於ケル特高警察事務状況」  昭和十二年十二月末調                                  (吉見義明編『従軍慰安婦資料集』173〜175頁)

昭和十三年在漢口総領事館警察事務状況 
備考 漢陽ニハ軍慰安所関係者十三名滞在 
(吉見義明編『従軍慰安婦資料集』193〜194頁)

 以上の資料だけで軍慰安所は軍が設置したまぎれもない軍の施設であると結論づけても良さそうな気がしますが、他の資料も見てみることにしましょう。

 軍慰安所の設置が軍の指示・命令によるものであったことを示す資料は多数存在しますが、1937年12月ごろから中支那方面軍の指示で上海派遣軍と第10軍が陸軍慰安所の設置に乗り出したことを示す資料として以下のようなものがあります。


飯沼守上海派遣軍参謀長の日記 1937年12月11日の項

慰安施設ノ件方面軍ヨリ書類来リ、実施ヲ取計フ。

同年12月19日の項

憲兵ノ報告ニ依レハ十八日中山陵奥ノ建物ニ放火シ今尚燃ヘツ丶アリ。又避難民区ニ将校ノ率ユル部隊侵入強姦セリト言フ。

〔中略〕

迅速ニ女郎屋ヲ設ケル件ニ就キ長中佐ニ依頼ス。

                                     (南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集T』1993年、偕行社)

上村利通上海派遣軍参謀副長の日記 1937年12月28日の項

軍隊ノ非違愈々多キカ如シ。

〔中略〕

南京慰安所ノ開設ニ就テ第二課案ヲ審議ス
                                     (南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集U』1993年、偕行社)



山崎正男第10軍参謀の日記 1937年12月18日の項

   湖州ニ娯楽機関開設
 先行セル寺田中佐ハ憲兵ヲ指導シテ湖州ニ娯楽機関ヲ設置ス。最初四名ナリシモ本日ヨリ七名ナリシト、未ダ恐怖心アリシ為集リモ悪ク「サービス」モ不良ナル由ナルモ、生命ノ安全ナルコト金銭ヲ必ズ支払フコト、酷使セザルコトガ普及徹底スレバ、逐次希望者モ集リ来ルベク、憲兵ハ百人位集ルベシト漏セリ。而シテ其ノ繁盛振リハ相当ナルモノニシテ、別ニ告知ヲ出シタル訳デモナク、入口ニ標識ヲ為シタルニモアラザルニ、兵ハ何処カラカ伝ヘ聞キテ大繁昌ヲ呈シ、動トモスレバ酷使ニ陥リ注意シアリトノコトナリ。

 先行シ来レル寺田中佐ハ素ヨリ自ラ実験済ミナルモ、本日到着セル大阪少佐、仙頭大尉コノ話ヲ聞キ耐ラナクナッタト見エテ、憲兵隊長ト共ニ早速出掛ケテ行ク。約一時間半ニシテ帰リ来ル。憲兵隊長ノ口添ヘモ関係カ非常ニ「サービス」良カリシト、概ネ満足ノ体ナリ。〔以下略〕

(南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集U』1993年、偕行社)



常州駐屯の独立攻城重砲兵第二大隊長の状況報告(1938年1月20日)

慰安施設ハ兵站ノ経営スルモノ及軍直部隊ノ経営スルモノ二ケ所アリテ
〔以下略〕
(吉見義明編『従軍慰安婦資料集』195頁)



稲葉正夫編『岡村寧次大将資料(上)戦場回想篇』(原書房)302〜303頁

第四編 武漢攻略前後

    〔略〕

十 軍、風紀所見(その三)

    〔略〕

(二) 慰安婦問題を考える。昔の戦役時代には慰安婦などは無かったものである。斯く申す私は恥かしながら慰安婦案の創設者である。昭和七年の上海事変のとき二、三の強姦罪が発生したので、派遣軍参謀副長であった私は、同地海軍に倣い、長崎県知事に要請して慰安婦団を招き、その後全く強姦罪が止んだので喜んだものである。

 現在の各兵団は、殆んどみな慰安婦団を随行し、兵站の一分隊となっている有様である。第六師団の如きは慰安婦団を同行しながら、強姦罪は跡を絶たない有様である。

 嘗て聞いたところによれば、北京附近の中国古老は、団匪事変のとき、欧米各国兵が掠奪強姦の限りを尽くしたのに、ただ独り日本兵のみが、軍、風紀森厳にして寸毫も冒すことなかったことを回想し、どうして今の日本兵がかくも変わったのかと痛嘆したという。
 全く昔と今とどうしてかくも変わったのか。

(三) 憲兵報告の一節。蚌埠在住の中国人に嫁した日本中年女性は言う。中国兵は、掠奪するが強姦はしない。日本兵は、掠奪しないが強姦をする。可否何れにかあらん。頼みとするのはただ天主教会の神父のみと。

 刑罰種目中最も多いのは上官暴行と強姦である。そうして犯人の年齢別を見るに最多数は三十三歳である。

 以上の報告を視て私は考える。三十三歳と言えば固より既教育兵であるから現役時代の教育も責任を負わなければならないが、軍を離れて既に久しく一般社会に生活したことであるから、社会も責任を負わなければならない。軍の罪が国民一般の罪か。

(四) 来陣した中村軍務局長の言によれば、戦地から惨虐行為の写真を家郷に送付する者少からず、郵便法違反として没収したもの既に数百枚に達しているという。
 好奇心も甚しいというべし。

     〔以下略〕

*指環注 岡村寧次大将(1884年 - 1966)は、第11軍司令官、北支那方面軍司令官等を歴任し、終戦時には支那派遣軍総司令官を務めていた日本の陸軍軍人。中国側からは「三光作戦」の責任者だとされている人物。

 また、華北の状況についても次のような資料があります。

軍人軍隊ノ対住民行為ニ関スル注意ノ件通牒  
                                     昭和十三年六月二十七日   北支那方面軍参謀長 岡部直三郎

     〔略〕

二、治安回復ノ進捗遅々タル主ナ原因ハ後方安定ニ任ズル兵力ノ不足ニ在ルコト勿論ナルモ一面軍人及軍隊ノ住民ニ対スル不法行為カ住民ノ怨嗟ヲ買ヒ反抗意識ヲ煽リ共産抗日系分子ノ民衆煽動ノ口実トナリ治安工作ニ重大ナル悪影響ヲ及ホスコト尠シトセス

三、由来、山東、河南、河北南部等ニ在ル紅槍会、大刀会及之レニ類スル自衛団体ハ古来軍隊ノ掠奪強姦行為ニ対スル反抗熾烈ナルカ特ニ強姦ニ対シテハ各地ノ住民一斉ニ立チ死ヲ以テ報復スルヲ常トシアリ(昭和十二年十月六日方面軍ヨロ配布セル紅槍会ノ習性ニ就テ参照)従テ各地ニ頻発スル強姦ハ単ナル刑法上ノ罪悪ニ留ラス治安ヲ害シ軍全般ノ作戦行動ヲ阻害シ累ヲ国家ニ及ホス重大反逆行為ト謂フヘク部下統率ノ責ニアル者ハ国軍国家ノ為メ泣テ馬謖ヲ斬リ他人ヲシテ戒心セシメ再ヒ斯ル行為ノ発生ヲ絶滅スルヲ要ス若シ之ヲ不問ニ附スル指揮官アラハ是不忠ノ臣ト謂ハサルヘカラス

四、右ノ如ク軍人個人ノ行為ヲ厳重取締ルト共ニ一面成ルヘク速ニ性的慰安ノ設備ヲ整ヘ設備ノ無キタメ不本意乍ラ禁ヲ侵ス者無カラシムルヲ緊要トス

     〔以下略〕

(吉見義明編『従軍慰安婦資料集』209〜210頁)

 さらに、日本の責任を否定する立場からの旧日本軍兵士の回想の一部も紹介しておきましょう。

伊藤桂一「若き世代に語る日中戦争」

 また一方で、軍は慰安所に無関係だった、あれは民間が勝手にやったことだという意見も耳にするけど、そんなことはない。僕は、「慰安婦募集の一記録」という一文を書いたことがあります。満州にいた関東軍の第六国境守備隊隊長だった菱田という大佐が、北満州の西○子という町に、軍の管理する慰安所を作ったという話です。

        〔中略〕

 彼の慰安所計画は、憲兵隊長の強い反対にあいます。民間人がやるならともかく、軍みずから慰安所を作るなんてとんでもない≠ニ。しかし、菱田部隊長は君たちは料亭の女を専有しているからよい。兵隊たちは性の処理をどうするんだ≠ニ反論して、これを認めさせた。民間人に任せると性病がこわいし、情報が漏れる。それならいっそ軍がしっかり管理して、慰安婦たちにも安心して働いてもらおうというのが菱田大佐の発想なんですね。

(『諸君!』2007年8月号149〜150頁、伊藤桂一『若き世代に語る日中戦争』文春新書46〜47頁)
※文春新書には「上海に開かれた軍直営の慰安所第一号(数カ月たって民営に移管された。1938年1月撮影)」との写真が掲載されています(47頁)。


(2011年10月22日追記・資料追加)

 永井和氏(京都大学大学院文学研究科教授)が発見された、陸軍大臣制定の軍の内部規則には次のようにあります。


陸達第48号「野戦酒保規程改正」(1937年9月29日制定)

第一条 野戦酒保ハ戦地又ハ事変地ニ於テ軍人軍属其ノ他特ニ従軍ヲ許サレタル者ニ必要ナル日用品飲食物等ヲ正確且廉価ニ販売スルヲ目的トス
   野戦酒保ニ於テ前項ノ外必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得


*指環注 この規程は、アジア歴史資料センターで公開されています。レファレンスコードは、C01001469500、表題は「野戦酒保規程改正に関する件」(大日記甲輯昭和12年)。

 この1937年の改正以前の野戦酒保規程の第一条は、次のとおりです。

第一条 野戦酒保ハ戦地ニ於テ軍人軍属ニ必要ノ需用ヲ正確且廉価ニ販売スルヲ目的トス

 1937年の改正の理由について、改正規程に添付されている「野戦酒保規程改正説明書」(経理局衣糧課作成で昭和12年9月15日の日付を持つ)に次のようにあります。


改正理由

野戦酒保利用者ノ範囲ヲ明瞭ナラシメ且対陣間ニ於テ慰安施設ヲ為シ得ルコトモ認ムルヲ要スルニ依ル

 この「慰安施設」が「売春施設」を意味するということは、先に紹介した飯沼守上海派遣軍参謀長の日記に「慰安施設」=「女郎屋」と書かれていることからも明らかです。

 また、永井和氏の研究によると、陸軍の経理学校の教官が経理将校の教育のために執筆し、1941年に刊行されたと推測される演習教材集(『初級作戦給養百題』)には経理将校が行わなければいけない「作戦給養業務」の一つに「慰安所ノ設置」が挙げられていて、さらに師団規模の部隊が占領地で駐屯体制に入った場合に師団経理部がとるべき措置の中にも「慰安所ノ設置」が挙げられていると言います (『日本軍の慰安所政策について』の「追記」)。

 これらの資料から、軍慰安所が軍の後方施設である野戦酒保に付設された施設、即ち軍が設置した兵站付属施設であったことは、ほぼ間違いないと思われます。
http://www.geocities.jp/yubiwa_2007/gunnianjyo.html


282. 2014年8月13日 08:36:44 : 3cdYZYbVIc

「慰安婦」はいたが、「従軍慰安婦」はいなかった?

 これもネットでよく目にする言説です。この言説は、

「慰安婦はただの民間の売春婦に過ぎない。従軍だったというのはウソである」

との認識が前提になっているようです。


 資料を見ていきましょう。
 先ず、1938年の陸軍省の通牒を再び提示します。

軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件
起元庁(課名)兵務課

陸支密

副官ヨリ北支方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒案支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為、内地ニ於テ之カ従業婦等ヲ募集スルニ当リ故ラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ或イハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ或イハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少カラサルニ就テハ将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於テ統制シ之ニ任スル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ其実施ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋ヲ密ニシ、以テ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス

陸支密第745号 昭和拾参年参月四日 

(吉見義明編『従軍慰安婦資料集』105〜107頁)                                   

 当時の陸軍省の公文書の表題に「軍慰安所従業婦」とはっきりあります。

 従って、 「軍慰安所従業婦」と呼ばれる人達が存在したことは間違いないでしょう。「慰安婦」とは、この「軍慰安所従業婦」の略称であったようです。

 「慰安婦」と呼ばれた人達が売春に従事していたことは事実ですが、売春に従事していた人全てが「慰安婦」と呼ばれたわけではありません。軍が「軍慰安所」という自分達のための売春施設を設置し、そこで売春に従事する女性のことを「軍慰安所従業婦」(略称「慰安婦」)と呼んでいたようです。(軍慰安所設置以前に「慰安婦」という言葉はなかったようです。)

 即ち、「慰安婦」という言葉に既に「従軍」の意味が含まれていると言えるのです。

 それでも「『従軍慰安婦』という言葉は当時なかった。だから『従軍慰安婦』という言葉は使いたくない」と仰る人がいるかも知れません。

 それなら、「軍慰安所従業婦」という当時の公文書に出てくる公式の名称を使えば良いのではないでしょうか。「従軍慰安婦」の「従軍」などという曖昧な言い方より「軍慰安所従業婦」の方が軍との関係がいっそう明確になるという気がしますが。

 なお、当時使われた名称の問題については次のような資料もあります。


内務省警保局『外事警察概況』昭和17年版(254〜256頁)

五、邦人渡支阻止状況
      (略)
  渡支邦人身分証明書発給拒否理由調

拒否廳府縣名 被拒否者住所氏名年齢 拒否理由
(略) (略) (略)
香川縣 高松市××
 藝妓 ××
      當十七年
 同  ××
      當十六年 河南省開封市軍隊慰安婦として渡支せんと出頭せるが、慰安婦の業態を知らず且年少にして身心
発育不完全なる為本年九月之を拒否。
(略) (略) (略)



 このように「軍隊慰安婦」という名称は当時の公文書に存在するようです。*この資料は秦郁彦『慰安婦と戦場の性』360頁でも紹介されています。
 では、「慰安婦」の法的身分はどのようなものであったのでしょうか?
 これについては、次のような資料があります。


在サイゴン鈴木六郎支部長代理『仏印ヨリ内地、満洲国、支那、「タイ」向旅行許可ニ関スル件』(1943年2月8日付)

極秘

昭和18 二八〇 暗 西貢 二月八日前発 

              本省  八日後着

  青木大東亜大臣

第一〇号


今般南方軍総参謀長ノ名於テ当地軍ニ対シ仏印ヨリ内地、満洲国、支那、「タイ」ヘノ軍人、軍属以外ノ旅行許可ハ爾今大使府ニ於テ与ヘラレルヘキ旨電報アリタル趣ヲ以テ当地軍側ヨリ当方ニ聯絡越セルモ軍従属者(御用商人、飲食業者、慰安所従業員等)ニ対シ当方ニ於テ其ノ旅行ノ際旅券又ハ国籍証明書等ヲ許与スルコトニ疑義アリタルヲ以テ本省ニ稟請スルコトトシ一応返答ヲ留保シタル処
〔以下略〕

(吉見義明編『従軍慰安婦資料集』147〜148頁)

在ハノイ栗山茂事務総長『軍従属者ニ対スル旅行許可ノ件』(1943年3月10日付)

極秘

昭和18年 三二九七 暗 河内 三月十日後発

                本省 十日夜着

       青木大東亜大臣
               栗山事務総長
第二一二号

   (軍従属者ニ対スル旅行許可ノ件)

貴大臣発西頁宛電報第四三号及西頁発貴大臣宛電報第一六二号ニ関シ
軍従属者ノ現地解除後ニ於ケル身分ノ変更ニ関シテハ従来確タル原則ナキ処事情ヲ見ルニ便宜上軍従属者ノ資格(例ヘハ御用商人、慰安所員、酒保員等)ヲ取得シ軍ト共ニ或ハ現地軍呼寄ニ依リ入領セル者ニシテ其ノ後軍従属者ノ資格ヲ離脱シ軍発給ノ証明書(軍紹介状又ハ呼寄証明書等)ヲ当府ニ提示ノ上一般邦人トシテノ旅券若クハ国籍証明書ノ下付ヲ願出ツル次第ナリ然ルニ
〔以下略〕                                 (吉見義明編『従軍慰安婦資料集』149〜150頁)

 これらの資料から、少なくとも1942年時点で南方に渡った慰安婦については「軍従属者」の身分だったことが分かります。「従軍の慰安婦はいなかった」との言説は明らかな間違いだと言えるでしょう。

 なお、この「軍従属者」とは何かにについては以下の「作戦要務令」(1938年9月29日制定)を参考にしてください。戦地における憲兵(即ち野戦憲兵)の取締対象について、軍人・軍属とともに軍従属者が挙げられており、このことから戦地に派遣される軍隊は、軍人・軍属とともに軍従属者によっても構成されていたことが分かります。


作戦要務令 第三部

第7篇 憲兵

第280
憲兵は戦地に於いて軍の任務達成を容易ならしむるを主眼とし、概ね左の任務に服するものとす

1. 軍機の保護
2. 間諜の検索
3. 敵の宣伝及び謀略の警防
4. 治安上必要なる情報の収集
5. 通信及び言論機関の検閲、取締
6. 敵意を有する住民の抑圧
7. 非違及び犯則の取締
8. 酒保及び用達人等、軍従属者の監視
9. 旅舎、郵便局、停車場等の監察

憲兵は前項の外、臨機の任務に服するものとす

第281
高級指揮官は憲兵をして遺憾なく其の特性を発揮せしむる如く、之を統一して使用するを通常とす。状況に依り、其の一部を部下指揮官に配属し、又は区処せしむること
  あり

第282
憲兵部隊長は高級指揮官の企図に基き、作戦の推移、軍隊の配置及び行動、治安の状況等を考慮し、憲兵の服務の重点を確定し、之を部署す
憲兵部隊長は其の主管事項に関し、高級指揮官の諮問に応え、且つ適時意見を具申するものとす

第283
憲兵は常に各部隊と緊密なる連繋を保ち、軍の必要と戦地の実相とに即応する如く任務を遂行し、特に軍人、軍属、及び軍従属者の非違及び犯則の取締に方りては之  が警防及び処理を適正にし、各部隊の軍紀確立に協力し、以って軍の威信発揚に遺憾なきを期せざるべからず

第284
憲兵は軍人、軍属の非違を認めたる場合に於いて、同級者以下に対しては直ちに之を矯正し、上級者に対しては其の旨を告げ、要すれば所属部隊、官等級、氏名等の  告知を受け、其の顛末を所属上官に通報するものとす

第285
軍隊及び軍人、軍属は、憲兵より援助の請求あるときは任務に支障なき限り之に応ずべきものとす

第286
憲兵の勤務上の越権を矯正し得るは、憲兵将校及び其の所属上官の外、佐官以上ならびに中隊長及び之に準ずる職務を有するものとす

第287
憲兵の分遣隊長以上の部隊長は、状況特に之を要すれば、其の地に在る部隊の高級先任の指揮官に対し、補助憲兵配属の請求を為すことを得。此の際、請求を受け   たる指揮官は、状況の許す限り之に応ずべきものとす
補助憲兵は憲兵の指揮下に在りて其の勤務を補助するものとす
補助憲兵は白地に赤色を以って「憲兵」の二字を記したる腕章を左腕に纏うものとす
http://www.geocities.jp/yubiwa_2007/ianfumibun.html


283. 中川隆 2014年8月13日 08:42:04 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

金儲けを企んだ民間の売春業者が勝手に軍に群がっていた?


小林よしのり氏の漫画『新ゴーマニズム宣言』の「第26章 おそるべき慰安婦問題の反響」に次のような記述があります。


そこでこれを商売に結びつけようと活躍するのが現地の売春業者だ。
さっそく軍のために「慰安所」を作り娼婦を公募し経営をし始める。
あくまでも経営したのは軍でなく民間の業者だ。
〔中略〕
兵隊が移動すると食えなくなったら困ると娼婦たちは必死で兵隊について行ったりした・・・

(小林よしのり『新ゴーマニズム宣言・第3巻』(小学館)40〜41頁)

 この漫画の影響で

「現地の売春業者が金儲けを企図して勝手に軍に群がっていたのだ」

「業者が押しかけ営業をしていた」

「慰安婦は追軍売春婦だったに過ぎない」

とのイメージを抱いている人もネット上では散見されます。

 けれども、既に検討したように「軍慰安所は、軍が戦争遂行の必要に基づいて設置したまぎれもない軍の施設」であった以上、小林よしのり氏の漫画の上記記述は明らかに間違いだということになります。
(※「1.軍慰安所は民間の売春宿に過ぎなかった?」を参照してください。)


 ここでは軍と民間の売春業者の関係について見てみます。

 この点について、先ず秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(新潮社)76頁でも紹介されている『玉の井挽歌』を見てみましょう。作家の大林清氏が元玉の井銘酒屋組合長の国井茂氏からの聞き取りに基づいて書いたものです。

大林清『玉の井挽歌』(1983年,青蛙房)

 昭和十二年十一月、第二次上海事変で上海が陥落して間もない或る日、玉の井銘酒屋組合長国井茂宛に一通の電報が舞い込んだ。

  「キタル二〇ヒゴゼン一〇ジリクグンシヨウマデシユツトウセラレタシ」

 実際には陸軍省何局とか何部何課とか指定があったにちがいないが、筆者にその話をした時の国井さんは八十歳を越える老齢だったので、そこまで細部を記憶していなかった。

 第二次上海事変で日本と中国が全面戦争に突入した時期だったので、この非常時に淫売宿をやっているとは何事かという叱りを受けるのではないかと、国井組合長は最初に思った。

 そこで国井は、副組合長や組合の幹事たちに、どうしたものかと相談してみた。
 誰も明快な判断を下せる者はなかった。

「陸軍省ともあろうものが、公式文書ならともかく電報をよこすなんて、こりゃアわれわれの商売を嫉んだ奴のイヤガラセじゃないのか」

 そういう者があった。

 戦時下で接客業は一般に不景気になって来ているのに、玉の井銘酒屋街はいつ赤紙が来るか分からない連中や、産業戦士と呼ばれる工場労働者で、むしろ空前の賑わいを呈していた。

「本当に陸軍省のお達しなのかどうか、問い合わせてみてはどうだろう」

 という意見も出たが、それもかえって藪蛇ではないかという危惧の方が強かった。

 何しろ弱い商売である。もともと法網をくぐる密淫売で、月に一回業者の誰かが、二十九日間の拘留を食う慣行で、警察との馴れ合いとはいうものの、辛うじて営業を続けているくらいだから、お上の一言でたちまち明日からでも営業停止を食う心配がある。

「こうなったら一か八かだ。ともかく行ってみたらどうだろう。悪戯なら悪戯でお手数をかけましたとあやまって引き下がればいいじゃないか」

 結論はそういうことになった。

 昭和六年満州事変がはじまってこの方、業者も相当神経を使って来ていた。出征兵士があれば、酌婦を督励して愛国婦人会の襷をかけさせて歓送させ、慰問袋を作っては陸軍省恤兵部へ寄贈させもし、国策遂行へ協力して来た。

 それというのも、時局怪しからぬと睨まれたら、五百軒の玉の井特飲街の銘酒屋は潰滅し、千人を越える酌婦に投下した資本は回収がつかなくなる。文字通り死活の問題だった。

 銘酒屋を十数軒持つ有力業者の国井の場合は、賽がウラ目に出れば受ける打撃も大きい。電報で指定された十一月二十日、神ほとけにでも念じたい気持で、市ヶ谷台の陸軍省へ出かけて行った。

 電報はイヤガラセでも悪戯でもなかった。受付で来意を告げると、意外な鄭重さで一室へ通された。しかも赤い絨緞を敷きつめた立派な応接室風の部屋で、モロッコ革の肘掛椅子やマホガニーのテーブルが配置されている。

「よう、あんたもか」

 肱掛椅子から首をめぐらして声をあげたのは、亀戸銘酒屋組合の組合長森脇幸三郎だった。ほかにもどうやら同業者らしい連中が四、五人、いずれも落ち着かない様子で椅子にかけていた。

「何だね、いったい今日は」

 国井は森脇の横へかけてささやいた。

「わからないんだ。実は悪い予想をして来たんだが、それにしちゃ待遇がよすぎるしね」

 森脇も狐につままれたような顔である。

「せいぜい営業を自粛しろってとこかな」

 不安の中から少し希望が生まれた。

 その時、靴音が廊下からはいって来た。

 たぶん若僧の少尉ぐらいだろうと思っていたが、先に立ったのは参謀肩章を吊った金筋四本に星一つ、少佐である。そのあとに副官らしい少尉と下士官が従っていた。

 一同はバネ仕掛けのように起立した。

「どうぞかけて下さい」

 少佐は微笑さえ含みながら、民間人のようなくだけた調子でいって、一同と向かい合う席を占めた。

 国井は眉に唾をつけたい気持ちだった。猫と見せかけて油断させ、突然虎に変じるのは軍人のよく使う手である。

「さアどうぞ」

 と、少佐はしゃちこ張っている一堂にもう一度すすめ、席につくのを待って、

「本日はいそがしいところを皆さんご苦労でした。お集まり願った趣旨をこれから簡単に説明しますが、その前に出席者を一応確認させてもらいます」

 少佐がそういうと、下士官が手にした卦紙を開いて、一人々々の氏名を読み上げはじめた。それも呼び捨てではなくて、「さん」付けだった。最初の者が立って返事をすると、「どうぞそのまま」といわれた。

 それが終ってから、少佐はテーブルへ体を乗り出した。

「大陸における現下の戦局がどういうものかは、新聞やラジオの報道で皆さんよくご存じと思うが、いくさはこれからいよいよ拡大の一途をたどるものと思います。敵も徹底抗戦を呼号しておるから、最後の勝利をおさめるまでは、こちらも相当な覚悟を持って臨まなければならんでしょう。ところで・・・・・」

 少佐が言葉を区切って一同を見廻したので、国井はそら来たと呼吸を詰めた。

「戦線の将兵ですが、いくさが長引けばいろいろと不自由なことが出て来る。特に若い血気の兵隊にとっては、性欲のハケ口をどうするかということが大きな問題です。これは適当に処置しないと士気にも影響して来る。こういうことは専門家の皆さんの方がよく知っておられるが・・・・・」

 業者の間から忍び笑いが漏れて、座の空気は急にほぐれた。営業停止はおろか自粛もまず大丈夫らしい。

「そこで皆さんにお願いだが、軍の慰安のために接待婦を至急集めて戦地へ渡ってもらいたい。つまり軍に代わって慰安施設を開いてもらいたいということです。

何ぶん戦線は広汎にわたるので、内地はもとより台湾・朝鮮からも自主的に或いは軍の要請で、すでに多くの娘子軍大陸へ渡っているが、本日お集まり願った玉の井・亀戸地区の皆さんにも、是非ご協力を願いたい。派遣地域はとりあえず上海を起点とする中支方面、住居は軍が準備するし、食事の給与その他移動に関しては、すべて軍要員に準じてこれを行ないます。

細かい点については当方の担当者と相談の上でやっていただくが、要するに業者の皆さんが自主的にこれを経営するという形を取りたいのです。まさか軍が女郎屋を経営する訳にはいかんのでね。はっはっは」

 少佐は参謀肩章を揺すって笑った。

 誰が計画を立案し、研究したか知らないが、軍では慰安所開設について、たとえば娼婦の料金をいくらにし、それを雇主とどう分配するかまで、業者顔負けの案が出来ていた。

 少佐は軍が女郎屋を経営する訳にはいかないといったが、それが軍の一機関であったのは、慰安所要員に正規の兵隊が派遣されて来ていたのでも分かる。

 これは筆者の従軍体験からの余談になるが、少なくとも太平洋戦争がはじまってからは、内地の業者で戦地へ渡った者は九州地区が最も多く、台湾がそれに次ぎ、朝鮮からは強制的に非娼婦の婦女子を拉致して投入したケースもあるようである。

まして南方諸地域では無差別に現地婦女子を拘禁売春させたかに聞いている。しかも日本女性と植民地及び現地女性との間には格差を設け、将校用、下士官用、兵用と段階を分けた。さらに高級将校用としては内地・台湾・朝鮮の花柳界から業者が渡って料亭を開設し、応募した芸妓を接待婦とした。それらはおおむね佐官以上の享楽場であった。
                                                                                         (194〜199頁)


 玉の井の国井組合長は陸軍の要請を承諾して帰ると、早速酌婦の中から慰安婦志願者を募る作業にかかった。

 ところがいざとなると、事はそう簡単にはいかなかった。

 この年、永井荷風の「濹東綺譚」が発表されたことに依って、玉の井は日本国じゅう隈なく知れわたり、戦時中ながら最盛期を迎えていた。何よりまず業者が、玉の井で立派に商売が成り立っているのに、何を好んで戦地へなんぞ、とそっぽを向いた。

 銘酒屋の主人はみんな血も涙もなく、哀れな女の生き血を吸ってボロ儲けしているように、世間ではいわれている。それはたしかにそうなのだが、反面ほとんどがたいした蓄えもない零細業者で、女に逃げられて貸金を踏み倒されれば、そのまま潰れてしまうものがいくらでもいる。

 戦地で慰安所を開設するとなれば、二人や三人の女を連れて行ったのではどうにもならない。そうかといって何十人も集めるには、それ相応の資金が必要である。

「軍じゃ命令とはいわないが、まあ半分命令のようなもんだ。
まさか誰も行き手がありませんて訳にはいかないじゃないか」

 国井がいくらそう説いても、無駄だった。

「組合長、あんた自分でやったらどうだね。あんたならやれる」

 口説かれた業者はそういった。

 業者の大半は一軒持ちだが、国井は十数軒持っているから、酌婦の数は三十人はいる。その中から希望者を募れば、何とか格好はつこうというものである。

 結局は国井も、そうするより仕方がないかと観念した。

 開設場所としては、十一月十一日に陥落したばかりの上海が指定されている。上海にはこれから揚子江を進撃し、南京を攻略しようとする部隊が続々集結しているという。当たれば大きいかも知れない。

 国井が陸軍省へ協力を申し入れると、五十人の女をつれて行くようにと割り当てられた。これには国井も困ったが、こうなったら乗りかけた船、乗るか反るかやるまでだった。
                                                                                         (200〜201頁)
       
 ところで地元玉の井からは、いくら勧誘しても一向に希望者がなかった。

 それもその筈、大陸の戦火が拡大するにつれ、内地の生活は窮屈になる一方、娯楽も非常時掛け声に制限されて、毎日が味気なく灰色の戦時色に塗り潰されて行く中で、玉の井のような売春街はどうやらまだ明るい灯をともしていたから、景気は逆にここでは上向いていた。第一に業者が女を放さなかった。
                                                                                         (202頁)

 国井は陸軍省へ再三出向いての打ち合わせで、こまごまとした指示を受けていた。曰く、現地上海では五十三人を三班に編成し、市街周辺地区三ヶ所で開業すること。現地到着までの途中はなるべくケバケバしい服装を避けて、いかがわしい女と見られないよう言動を慎むこと等々。

 業者を起用し娼婦を活用しようとした軍の発想が、現地での日本兵の婦女凌辱のおびただしさに手を焼いた結果と思えば、たしかに妙案であったかも知れないが、軍が直轄同様にして娼婦部隊を戦場に送った例は、世界戦史上例を見ないのではあるまいか。
                                                                                         (209〜210頁)

 五十三人の従軍慰安婦は三班に編成され、上海派遣軍司令部から差し廻された三台のトラックに分乗して、上海周辺地区の呉○、南翔、南市へそれぞれむかって、埠頭を出発した。
                                                                                         (218頁)

「ヒヤッ、畳の部屋だよ!」

 女たちは奇声をあげた。

 洋館の内部は工兵隊の手ですっかり改装され、廊下の片側に真新しい青畳の小部屋が十五並んでいた。夜具や荷物を納める押入れまで作りつけられてい
る。

 そのはかに女たちの食事のための食堂があり、浴室があり、便所はその頃まだ日本では珍しかった水洗式のが、女たちの洗滌のために必要だからである。

 主人の国井でさえ、これほど軍が周到な準備をととのえていようとは思わなかった。畳も建具も慰安所開設のために、あらかじめ内地から輸送船で運んだものだった。
                                                                                         (219頁)

 どうやら、軍が将兵のための売春施設が戦地では必要だとして、業者に開設を命じ、全てをお膳立てした上で営業させていたようです。

 これに対する業者の反応について秦郁彦氏は次のように考察しています。

秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(1999年、新潮社)58頁

 優良業者の選定という点では、内務省も陸軍省も利害は一致していたわけだが、当の業者の反応は場所によりまちまちだったようである。

 日中戦争の段階では、若者が戦地へ出ていく分だけ利用は減ったが、軍需景気でふえた新規需要もあり、日米開戦の前後まで売春市場は横ばい状況がつづいたから、組合を通じ話を持ちかけられても、無条件に歓迎する空気ではなかったらしい。

 さらに軍が慰安婦調達を指示していたことが、次に紹介する内務省警察資料によって確認できます。


(秘)施行十一月八日

 昭和十三年十一月四日

           主任 印

 警保局長

   警務課長 印

     事務官 印

   外事課長 印

     事務官 印

支那渡航婦女ニ関スル件伺

本日南支派遣軍古荘部隊参謀陸軍航空兵少佐久門有文及陸軍省徴募課長ヨリ南支派遣軍ノ慰安所設置ノ為必要ニ付醜業ヲ目的トスル婦女約四百名ヲ渡航セシムル様配意アリタシトノ申出アリタルニ付テハ、本年二月二十三日内務省発警第五号通牒ノ趣旨ニ依リ之ヲ取扱フコトトシ、左記ヲ各地方廳ニ通牒シ密ニ適當ナル引率者(抱主)ヲ選定、之ヲシテ婦女ヲ募集セシメ現地ニ向ハシムル様取計相成可然哉

 追テ既ニ台湾総督府ノ手ヲ通ジ同地ヨリ約三百名渡航ノ手配済ノ趣ニ有之

  記

一、内地ニ於テ募集シ現地ニ向ハシムル醜業ヲ目的トスル婦女ハ約四百名程度トシ、大阪(一〇〇名)、京都(五〇名)、兵庫(一〇〇名)、福岡(一〇〇名)、山口(五〇名)ヲ割當テ県ニ於テ其ノ引率者(抱主)ヲ選定シテ之ヲ募集セシメ現地ニ向ハシムルコト

二、右引率者(抱主)ハ現地ニ於テ軍慰安所ヲ経営セシムルモノナルニ付 特ニ身許確実ナル者ヲ選定スルコト

                        (女性のためのアジア平和国民基金編『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成@』龍溪書舎,77〜86頁)

 この資料は1938年秋に広東攻略のために華南に派遣された第21軍の求めに応じて、慰安婦となる女性約400名を華南に渡航させるよう命じた内務省警保局長の通牒です。

 第21軍司令部と陸軍省から警察に慰安婦の調達と送出の依頼が行なわれ、警察はそれに全面的に協力したのでした。軍から依頼された警察は、現地に渡って軍慰安所を経営する業者を選び、彼らに女性を集めさせ、渡航させたのでした。
 
 なお、軍が警察に慰安婦徴集を依頼した際に警保局に出された久門少佐の名刺が残っています。

(名刺の表) 

南支派遣軍参謀(ペン書き)

 陸軍航空兵少佐 久門有文(花押)

警保局長閣下(ペン書き)

(名刺の裏)

娘子軍約五百名広東ニ御派遣方御斡旋願上候(ペン書き)                                                    


 久門少佐は、「軍慰安所で働く女性を約500名広東に派遣するよう斡旋をお願い申し上げます」と、内務省警保局長に依頼したのでした。 

 この名刺の表は、女性のためのアジア平和国民基金編『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成@』(龍溪書舎)の103ページに掲載されています。名刺の裏はアジア平和国民基金の『資料集成』には掲載されていませんが、アジア歴史資料センターにおいて公開されています。

※kmiuraさんがブログで、この名刺の表と名刺の裏の画像をアップされています。
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/kmiura/20070521/1179766974


 そして、軍の要請に基づくものでありながらも、あくまでも民間業者の自発的な開業を装うとしたことが次の内務省資料からうかがえます。

  通牒案

      警保局長

 警保局警発甲第一三六号

(十一月八日施行)

   大阪、京都、兵庫、福岡、山口各府県知事宛

南支方面渡航婦女ノ取扱ニ関スル件

支那渡航婦女ニ関シテハ本年二月二十三日内務省発警第五号通牒ノ次第モ有之侯処南支方面ニ於テモ之等醜業ヲ目的トスル特殊婦女ヲ必要トスル模様ナルモ未ダ其ノ渡航ナク現地ヨリノ希望ノ次第モ有之事情已ムヲ得ザルヤニ認メラルルニ付テハ本件極秘ニ左記ニ依リ之ヲ取扱フコトト致度ニ付御配意相成度

  記

一、抱主タル引率者ノ選定及取扱

引率者(抱主ハ)貸座敷業者等ノ中ヨリ身許確実ニシテ南支方面ニ於テ軍慰安所ヲ経営セシムルモ支障ナシト認ムル者ヲ抱主タル引率者トシテ選定シ、之ニ対シ南支方面ニ軍慰安所ノ設置ヲ許サルル模様ニ付若シ其ノ設置経営ノ希望アルニ於テハ便宜関係方面ニ推薦スル旨ヲ懇談シ何処迄モ経営者ノ自発的希望ニ基ク様取運ビ之ヲ選定スルコト

(ロ) 醜業ヲ目的トシテ南支方面ヘ渡航ヲ認ムル婦女数ハ約四百名トス。之ヲ大阪府約百名、京都府約五十名、兵庫県約百名、福岡県約百名及山口県約五十名ヲ割當ラレタルニ付テハ之ヲ引率スル為適當ナル者ヲ前項ニ依リ選定シ其ノ引率者(抱主)ニ限リ陰ニ行フ右婦女ノ雇入レヲ認メ其ノ渡航ハ以下各項ニ依リ取扱フコト、但シ渡航スル婦女ノ出府県ハ右指定府県以外ニテモ差支ナキコト

〔以下略〕

                       (女性のためのアジア平和国民基金編『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成@』龍溪書舎,87〜100頁)

 「南支方面」では「醜業ヲ目的トスル特殊婦女ヲ必要」としていたものの、その渡航がないため、内務省は現地軍の「希望」による慰安婦の徴集を大阪、京都、兵庫、福岡、山口各府県に極秘に指示したのです。

 内務省は各府県に徴集する慰安婦の人数まで割り当てる一方で、「何処迄モ経営者ノ自発的希望ニ基ク様取運」ぶようにとの指示まで出していたというわけです。

※上記の内務省警察資料の全文を翻刻したものが、↓こちらのサイトに掲載されています。
http://www.bekkoame.ne.jp/~yamadan/mondai/rmal14/react785.html



 他の資料も見てみましょう。

台湾総督府蜂谷照雄外事部長『南洋方面占領地ニ於ケル慰安所開設ニ関スル件』(1942年1月10日)

東郷外務大臣
                   蜂谷外事部長
第一〇号

    (南洋方面占領地ニ於ケル慰安所開設ニ関スル件)

南洋方面占領地ニ於テ軍側ノ要求ニ依リ慰安所開設ノ為渡航セントスル者(従業者ヲ含ム)ノ取扱振リニ関シ何分ノ御指示相煩度シ(了)

                                     (吉見義明編『従軍慰安婦資料集』142〜143頁)



台湾軍起案『南方派遺渡航者ニ関スル件』(1942年3月)

台電 第六〇二号
陸密第六三号ニ関シ「ボルネオ」行キ慰安土人五〇名為シ得ル限リ派遣方南方総軍ヨリ要求セルヲ以テ陸密電第六二三号ニ基キ憲兵調査選定セル左記経営者三名渡航認可アリ度申請ス
〔以下略〕

(吉見義明編『従軍慰安婦資料集』144〜145頁)



台湾軍参謀長『台電 第九三五号』(1942年6月13日)

秘 電報訳
 副官宛
          発信者 台湾軍参謀長
台電 第九三五号

本年三月台電第六〇二号申請陸亜密電第一八八号認可ニ依ル「ボルネオ」ニ派遣セル特種慰安婦五十名ニ関スル現地著後ノ実況人員不足シ稼業ニ堪ヘザル者等ヲ生ズル為尚二十名増加ノ要アリトシ左記引率岡部隊発給ノ呼寄認可証ヲ携行帰台セリ事実止ムヲ得ザルモノト認メラルルニ付慰安婦二十名増派諒承相成度

尚将来此ノ種少数ノ補充交代増員等必要ヲ生ズル場合ニハ右ノ如ク適宜処理シ度予メ諒承アリ度
〔以下略〕
                                      (吉見義明編『従軍慰安婦資料集』146頁)



高松宮宣仁『高松宮日記』(中央公論社)1942年1月16日の項

渡辺聯合艦隊参謀、南洋ヨリ皈ヘリテノ話。

第四艦隊ハ自分ノ場所デ補給休養ヲヤリ度、其ノ様ニ施設サレ度。
慰安200名送ルコト。現地ニテ不足ヲ云フモ、責任者ガ要求セヌ。(陸軍デハ「ガム」占領スルト直グ40名送レト云ヒ(4000名ニ対シ)其ノ引揚ゲノトキ、又送皈スコトニセリ)。


 さらに秦郁彦『慰安婦と戦場の性』に掲載されている陸軍省恩賞課員で慰安婦関係を担当した井上正規大尉の回想も見てみましょう。

 私は兵站旅館やホテルの進出など後方施設のほか、靖国神社や偕行社の仕事で忙しいところへ、慰安婦関係をどこが担当するか議論になった。最初は占領地行政をやる軍務課が候補だったが恩賞課と決まり、私が兼務で所管した。専任のスタッフはいない。

 四二年夏、人事局長一行に加わり南方をまわったとき、ビルマや比島で兵の強姦事件があり、住民に報復された話があって、すでに一部で慰安所は開業していたが、現地軍からどんどん慰安婦を送ってくれと要請された。

 そこで伊藤主計大尉とともに遊郭のボス連中を歴訪して南方進出を打診してみたが、老舗ほど消極的でなかなか難しいと感じた。それでも俄か仕込みの知識で単価基準を計算して二年働らき千円持たせて帰らせたらとか、兵三〇人に慰安婦一人の割合か、と試算してみたりしたが、船の手配に口を利いたことがある程度で、陸軍省がリードするには至らず、業者が留守部隊の副官あたりにわたりをつけ、船舶司令部に便乗を頼みこんで出ていった例が多いようだ。

秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(1999年、新潮社)より(104〜105頁)


 この井上正規大尉の回想について秦郁彦氏は次のように考察しています。


秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(新潮社)105頁

陸軍省が笛を吹いても業者は踊ろうとしなかった状況が窺えるが、恩賞課では慰安婦の進出について、それなりの方針を作ってはいた。

 最後に、軍と業者の関係についての吉見義明氏の見解を紹介しておきましょう。


 業者と軍の関係をみると、慰安所制度創設・運用の主役は軍であって、業者はワキ役にすぎなかった。

 まず、慰安所の設置を決定するのは、現地の部隊であり、業者はかってに慰安所をつくることはできなかった。日本・朝鮮・台湾から慰安婦を前線近くまでつれてくるには、軍が軍用船への乗船許可や、列車・トラックなどの使用と通行許可をださなければ、不可能だった。戦地への交通は軍が完全に統制していたからである。慰安所の建物は軍が接収して業者に提供した。このようなことを軍がしなければ、業者は慰安所を経営することができなかった。

(『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』1997年、大月書店、15〜16頁)

(2011年10月22日追記・資料追加)

 永井和氏(京都大学大学院文学研究科教授)の見解も紹介します。


日中戦争期につくられた陸軍の慰安所は、軍の兵站施設である野戦酒保の付属慰安施設であったのであり、その経営を受託された慰安所業者は軍の請負商人であり、可能であれば、軍属の身分を与えられ、制服の着用が許されたのだと考えられる。

(『日本軍の慰安所政策について』「補論:陸軍慰安所は酒保の附属施設」より)
http://www.geocities.jp/yubiwa_2007/ianfutyoutatsu.html


284. 中川隆 2014年8月13日 08:45:47 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

慰安婦は売春を強制されていなかった?

 このような言説もネットで見かけることがあります。

 数多くの慰安婦の中には自由意思に基づいて売春に従事していた者もいたかも知れません。けれども、軍慰安所で一般的に行われていたのは自由売春だったのでしょうか? それとも強制売春だったのでしょうか?

 この問題についてネットの世界では、

「当時は公娼制度が存在した。慰安婦もそれと同じである、だから強制ではなかった」

との主張が見られます。

 既に検討したように軍慰安所制度は「国家による売春システム」であり、従って「民間による売春システム」であった公娼制度とは同じではありません。それについてはおくとしまして、仮に「軍慰安所制度は公娼制度と同じ、ないしはその延長」だったとしても、そのことだけで強制ではなかったことが果たして論証できるのでしょうか?

 そこで、先ず当時の公娼制度とはどのようなものだったかについて検証してみましょう。

 秦郁彦氏が当時の公娼制度について次のように記述しています。

秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(1999年、新潮社)

 しかし娼妓たちが自由を奪われた悲惨な「カゴの鳥」であるという実態は変わらず、救世軍などによる廃娼運動が盛り上がるのを見た内務省は、一九〇〇(明治三三)年に「娼妓取締規則」(省令四四号)を制定して、全国的た統一規準を作ろうと試みた。

 だが、この法令が一般に近代公娼制度を確立したと評されているように、必ずしも彼女たちの境遇が改善されたわけではなかった。たとえば、前借金が残っていたも廃業する自由は認められたが、楼主(抱え主)側の妨害や警察の非協力があり、実際には廃業しにくいうえに、新たな生業につくのも容易ではなかった。また廃業しても、前借金の契約自体は有効(一九〇二年の大審院判決)とされたので、借金返済できぬ女性は元の境遇に戻らざるをえなかった。
(28頁)

 この時代(昭和初期の不景気時代)の日本では、公娼の多くは親が前借金という名目で娘を売春業者に売る、いわゆる「身売り」の犠牲者であり、その背景は広義の貧困であった。
(33頁)

 まさに「前借金の名の下に人身売買、奴隷制度、外出の自由、廃業の自由すらない二〇世紀最大の人道問題」(廓清会の内相あて陳情書)にちがいなかった。(36〜38頁)

 このように当時の公娼制度自体が既に前借金の名の下の性奴隷制度であったというのですから、「慰安婦は公娼と同じ=強制でなかった」との主張は成立するはずがありません。

 公娼制度との関係で「慰安婦は強制でなかった」との主張を成り立たせるためには、「当時の公娼は前借金などによる拘束も受けていない、自由意思による売春が基本であった」ことを論証した上で、「慰安婦は公娼と同じ」と主張するか、「当時の公娼制度は強制売春のシステムだったが、軍慰安所制度は例外的に自由売春のシステムだった」ことを論証しなければならないはずです。

 ともかく、実際に軍慰安所においては自由売春が基本であったのか、それとも強制売春が行われていたのかについて検討してみます。

 この問題について秦郁彦氏は『慰安婦と戦場の性』(1999年、新潮社)の「第12章 七つの争点ーQ&A」の中でで「Q4 慰安婦はどのように集められたか?」の問いを立てて、実状を検討しています(382〜390頁)。
 秦氏は


当時の慰安婦たちから事情を聞きとった人たちの証言から推察するほかない。

 次に列挙したのは、これらの諸証言から私が信頼性が高いと判断してえらんだものである。                                

として、A〜Iの九つの証言を挙げていますので、これを見てみましょう。


A柴岡浩元憲兵軍曹(北満州チャムス憲兵隊)の証言

 一九四五年七月、チャムスの軍特殊慰安所で、接客を拒否して業者になぐられていた美貌の朝鮮人女性(金城梅子)から次のような身の上話を聞き、業者に接客を禁じると申し渡した。

「私の父は北朝鮮・清津の資産家で町の有力者でした。ある時、大の親日家の父から関東軍が軍属のような立場で、歌や踊り等の慰問を募集している、男の子がいたら軍隊に志願させるところだが、その代わりに関東軍に応募してくれないか、と言った。私は女学校で音楽が得意だったので私にぴったりと思って応募したら、実は慰安所だった」



B榎本正代伍長(済南駐屯の第五十九師団)の証言

 一九四一年のある日、国防婦人会による〈大陸慰問団〉という日本人女性二百人がやってきた・・・・・(慰問品を届け)カッポウ着姿も軽やかに、部隊の炊事手伝いなどをして帰るのだといわれたが・・・・・皇軍相手の売春婦にさせられた。

目的はちがったけど、こんなに遠くに来てしまったからには仕方ないわ≠ェ彼女らのよくこぼすグチであった。将校クラブにも、九州の女学校を出たばかりで、事務員の募集に応じたら慰安婦にさせられたと泣く女性がいた。



C井上源吉憲兵曹長(中支憲兵隊)の証言

 一九四四年六月、漢口へ転勤、慰安所街の積慶里で、以前に南昌で旅館をやっていた旧知の安某という朝鮮人経営者から聞いた内幕話。

「この店をやっていた私の友人が帰郷するので、二年前に働いていた女たちを居抜きの形で譲り受けた。女たちの稼ぎがいいので雇入れたとき、親たちに払った三百−五百円の前借金も一、二年で完済して、貯金がたまると在留邦人と結婚したり、帰国してしまうので女の後釜を補充するのが最大の悩みの種です。

 そこで一年に一、二度は故郷へ女を見つけに帰るのが大仕事です。私の場合は例の友人が集めてくれるのでよいが、よい連絡先を持たぬ人は悪どい手を打っているらしい。軍名と称したり部隊名をかたったりする女衒が暗躍しているようです」



D鈴木卓四郎憲兵曹長(南支・南寧憲兵隊)の証言

 一九四〇年夏の南寧占領直後に〈陸軍慰安所北江郷〉と看板をかかげた民家改造の粗末な慰安所を毎日のように巡察した。十数人の若い朝鮮人酌婦をかかえた経営者黄は〈田舎の小学校の先生を思わせる青年〉で、地主の二男坊で小作人の娘たちをつれて渡航してきたとのこと。契約は陸軍直轄の喫茶店、食堂とのことだったが、〈兄さん〉としたう若い子に売春を強いねばならぬ責任を深く感じているようだった。



E総山孝雄少尉(近衛師団)のシンガポールでの体験

 一九四二年、軍司令部の後方係りが、早速住民の間に慰安婦を募集した。すると、今まで英軍を相手にしていた女性が次々と応募し、あっという間に予定数を越えて係員を驚かせた・・・・・トラックで慰安所へ輸送される時にも、行き交う日本兵に車上から華やかに手を振って愛嬌を振りまいていた。

※指環注 この記述は総山孝雄『南海のあけぼの』(叢文社、1983)150頁からの引用ですが、同書には上記記述に続いて次のようにあります。(秦郁彦氏はなぜかこの部分を引用していません。)

ところが慰安所へ着いてみると、彼女らが想像もしていなかった激務が待ち受けていた。昨年の一二月初めに仏印を発ってより、三ヵ月近くも溜りに溜った日本軍の兵士が、一度にどっと押し寄せてきたからである。・・・(中略)・・・英軍時代には一晩に一人ぐらいを相手にして自分も楽しんでいたらしい女性たちは、すっかり予想が狂って悲鳴を上げてしまった。四、五人すますと、

 「もうだめです。体が続かない」

と前を押さえしゃがみ込んでしまった。それで係りの兵が「今日はこれまで」と仕切ろうとしたら、待っていた兵士たちが騒然と猛り立ち、殴り殺されそうな情勢になってしまった。恐れをなした係りの兵は、止むを得ず女性の手足を寝台に縛り付け、

 「さあどうぞ」

と戸を開けたという。



F梁澄子が挺対協の日本大使館デモに参加している元慰安婦の金ハルモ二から聞いた身の上話

 一九三七年、十七歳の時に、金儲けができるという朝鮮人募集人の言葉に誘われて故郷の村を出た。どんな仕事をするかは行ってみればわかる、働いて返したあと、たんまり儲かる、そう言うので親の反対も押し切っていった。

 どんなとこでもここよりましだと思って朝鮮人が経営する上海の慰安所へ行った・・・・・日本人のイズミ少尉に助けられ、一九四〇年に帰郷した。日本人を憎いとは思わない。手先になった韓国人が憎いので、デモには来たが、韓国政府に対して怒ってやったつもり。



G大岡昇平『俘虜記』より

 彼(富永)はセブの山中で初めて女を知っていた。部隊と行動を共にした従軍看護婦が兵達を慰安した。一人の将校に独占されていた婦長が、進んでいい出したのだそうである。

 彼女達は職業的慰安婦ほどひどい条件ではないが、一日に一人ずつ兵を相手にすることを強制された。山中の士気の維持が口実であった。応じなければ食糧が与えられないのである。



H野本金一憲兵軍曹の回想

 一九四三年ビルマのアキャブ憲兵分隊の分駐所に勤務していたとき、慰安所のない配属部隊が村長を通じてビルマ人女性の慰安婦を募集しようと計画したことがあったが、半強制的になっては治安対策上まずいと判断して、連隊本部へ申し入れ中止させた。



I河東三郎(海軍軍属設営隊員)の証言

 一九四三年秋、(ニコバル島に)内地から慰安婦が四人来たというニュースが入り、ある日、班長から慰安券と鉄カブト(サック)と消毒薬が渡され、集団で老夫婦の経営する慰安所へ行った。

 順番を待ち入った四号室の女は美人で、二十二、三歳に見えた。あとで聞いたが、戦地に行くと無試験で看護婦になれるとだまされ、わかって彼女らは泣きわめいたという。

 上記の秦郁彦氏が「信頼性が高いと判断してえらんだ」九つの諸証言のうち、

A・B・D・F・Iは騙されて慰安婦にさせられたという事例であり、

Gは全くの売春強要、

Cは前半が前借金による拘束の事例、後半が「悪どい手を打っているらしい」という事例、

Hは実際には慰安婦募集は中止されたものの、実施されれば半強制的になったであろうと推察される事例、

Eは最初は自由応募であったという唯一の事例ですが、結局は「女性の手足を寝台に縛り付け」という究極の性行為強制が行われたという話です。


 つまり、A〜Iの九つの証言全てが強制の実例です。結局、秦郁彦氏が「信頼性が高いと判断してえらんだ」諸証言の中に自由意思による売春だと言えるのはただの一例も無いということになります。

 そして、秦郁彦氏は


おそらく、〔略〕大多数を占めるのは、前借金の名目で親に売られた娘だったかと思われるが、それを突きとめるのは至難だろう。

と考察しています。

 「信頼性が高いと判断してえらんだ」諸証言の大部分は騙されて慰安婦にさせられたという事例なのに、なぜ「大多数を占めるのは、前借金の名目で親に売られた娘だったかと思われる」と結論づけてしまうのかは理解に苦しみますが(*)、ともかく秦郁彦氏は、慰安婦の大多数は事実上の人身売買によるものだった(つまり、自由意思による売春では決してなかった)と認識しているようです。

*永井和氏(京都大学大学院文学研究科教授)も同様の指摘をされています。
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/nagaikazu/20070415


 また、1941年の夏に「関東軍特種演習」という名目で対ソ侵攻作戦のための大動員が行われましたが、この時、関東軍は朝鮮人慰安婦を大規模に集め、朝鮮総督府の上からの割り当てで強制的な徴募が行われたとの疑いが指摘されていますので、これについても少し見てみましょう。

 「関特演」における慰安婦徴集については実証史家だった故島田俊彦氏が次のように記しています。

島田俊彦『関東軍』(1965年、中公新書)176頁

原善四郎参謀が兵隊の欲求度、持ち金、女性の能力等を綿密に計算して、飛行機で朝鮮に出かけ、約一万(予定は二万)の朝鮮女性をかき集めて北満の広野に送り、施設を特設して営業≠ウせた、という一幕もあった。

 これについて、秦郁彦氏は次のように考察しています。


秦郁彦『昭和史の謎を追う』〔下〕(1993年、文藝春秋)334〜335頁

第41章 従軍慰安婦たちの春秋(上)

 関特演は対ソ戦の発動に備え演習の名目で在満兵力を一挙に四十万から七十万へ増強する緊急動員だったが、島田俊彦『関東軍』の記述や千田夏光が主務省の関東軍後方参謀原善四郎元中佐からヒアリングしたところでは、約二万人の慰安婦が必要と算定した原が朝鮮総督府に飛来して、募集を依頼した(千田『従軍慰安婦』正篇)。

 結果的には娼婦をふくめ八千人しか集まらなかったが、これだけの数を短期間に調達するのは在来方式では無理だったから、道知事→郡守→面長(村長)というルートで割り当てを下へおろしたという。

 実際に人選する面長と派出所の巡査は、農村社会では絶対に近い発言力を持っていたので「娘たちは一抹の不安を抱きながらも面長や巡査が言うことであるから間違いないだろう≠ニ働く覚悟を決めて」応募した。実状はまさに「半ば勧誘し、半ば強制」(金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』)になったと思われる。

 その他の資料も見てみましょう。

 ネットで言及されることの多い、ビルマのミッチナにおける米軍の捕虜尋問報告の一節を紹介します。


アメリカ戦時情報局心理作戦班「日本人捕虜尋問報告 第49号」(1944年10月1日)

    徴集
 1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地ーシンガポールーにおける新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、二、三百円の前渡し金を受け取った。

 これらの女性のうちには、「地上で最も古い職業」に以前からかかわっていた者も若干いたが、大部分は売春について無知、無教育であった。彼女たちが結んだ契約は、家族の借金返済に充てるために前渡しされた金額に応じて六ヵ月から一年にわたり、彼女たちを軍の規則と「慰安所の楼主」のための役務に束縛した。

                 〔略〕

1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める旨の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。

               〔以下略〕
                                                           
(吉見義明編『従軍慰安婦資料集』439〜452頁)

 やはり、騙されて朝鮮からビルマの軍慰安所まで連れて来られ、慰安婦にさせられたようです。*なお、この尋問報告に出てくる20人の慰安婦のうち、12人が未成年で慰安婦にさせられています。最低年齢は何と17歳です。

 前借金による拘束も受けていたようですが、軍が「帰国を認める旨の指示を出し」「朝鮮に帰ることを許された」のは「借金を返済し終わった特定の慰安婦」だけだったようです。

 ビルマのミッチナの軍慰安所で行われていたのは、まさに秦郁彦氏も言うところの「前借金の名の下の性奴隷制度」に違いなかったようです。

 日本の責任を否定する立場での旧軍人の回想も紹介しておきましょう。


伊藤桂一「若き世代に語る日中戦争」

 当時は公娼制度があって、官憲が強制連行する必要などそもそもないし、本人たちも一応納得してーもちろん不本意だったろうし、悪質業者に騙されてということもあったでしょうがーというのが建前だった。奴隷狩りなどではなく、きちんと筋は通して集められていたんです。

(『諸君!』2007年8月号149頁、伊藤桂一『若き世代に語る日中戦争』文春新書46頁)

 伊藤桂一氏によると、「本人たちも一応納得して」という「建前」は存在したらしいですが、本人たちには「不本意だったろう」ことであり、「騙されて」ということもあったということのようです。それでも「きちんと筋は通して集められていた」と判断してしまう伊藤氏の人権感覚には唖然としますが、少なくとも伊藤氏も自由意思による売春が基本だったとは認識していないようです。


小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」(『正論』2005年1月号)

 首相の靖国参拝神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全くの理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。

 戦後六十年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言者として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。

               〔略〕

内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」といい、中には「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。

               〔略〕

確かに、昔からの言葉に、「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」というのがあった。明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、娘にとっては売り飛ばされたことに変わりはなかった。

 先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。         

 従軍慰安婦問題は「全くの理由のない他国からの言いがかり」で「証言者として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた」という小野田寛郎氏も、前借金による事実上の人身売買が行われていたという認識であり、朝鮮で「あくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話をしばしば聞いた」そうです。

 最後に、慰安婦に対する強制性の問題について、秦郁彦氏以外の研究者の見解を紹介しておきます。


吉見義明氏

軍慰安所の女性たちは、日々、日本軍の将兵から性的奉仕を強要されつづけていた。日本軍は、このような女性を大量に抱え込みながら、彼女たちを保護するための軍法も何もつくらなかったのである。事実上の性的奴隷制である日本国内の公娼制でも、十八歳未満の女性の使役の禁止、外出・通信・面接・廃業などの自由を認めていたが、この程度の保護規定すらなかった。従軍慰安婦とは、軍のための性的奴隷以外のなにものでもなかったのである。

(『従軍慰安婦』1995年、岩波新書、158頁)



永井和氏(京都大学大学院文学研究科教授)

 それよりも、何よりも、システムとしての慰安婦制度が「自由売春」と言いうるためには、「強制売春」を禁止する風俗行政上の強い規制がなければならないのです。そうでなければ、「自由売春」制度とは言えません。

 仮に現在の日本で、「自由売春」制度を実施しようとすれば、法的には、売春防止法の第1条および第4章を改正し、第2章の第3条、第5条あるいは第6条および第3章は廃止しなければいけませんが、しかし第2章の第7条から第13条までは残さなければいけないし、さらに売春の強制やそれを目的とする自由の拘束を厳に禁止する条項を設け、その罰則を強化しなければいけません。

 たんに売防法を廃止するだけでは、「自由売春」制度にはなりません。売防法を強制売春禁止・処罰法に変化させてはじめて、「自由売春」制度がなりたつのです。もちろん最近改正された刑法における人身売買・人身取引罪は必須です。

 たんなる売春の公認だけでは、「自由売春」制度にはなりません。売春を正業と認め、強制売春禁止法、人身売買・人身取引禁止法、強力な売春婦(sex worker)保護法と保護のための行政措置がとられなければ、たんなる売春の公認は、ほぼ必然的に強制売春の横行にいきつきます。それが人類の歴史の現実です。

 その点で、ebizohさんの「自由売春」を「公認された合法な売春」と同義のものとする理解は、根本的な誤解といってよいでしょう。

 さて慰安婦に関していえば、政府が大々的に行った調査の結果わかったことは、「自由売春」を制度的に保証するであろうはずの、慰安所での強制売春禁止規則や慰安婦保護規則なるものがどこにもみつからなかったという事実です。この一事をもって、従軍慰安婦の実態は「自由売春」制度とはいえないと結論してよいのです。

 この結論をくつがえすには、慰安所での強制売春禁止規則や慰安婦保護規則がなくても、事実において「自由売春」であった。すなわちごく少数の例外を除いて、慰安婦はその自由意志によって売春に従事し、かつその稼業を行うに際して、いかなる強制も拘束もうけていなかったこと、そして少数の例外的な売春強制に対しては、厳重な処分と慰安婦の解放がおこなわれたことを、証明しなければなりません。

(「永井和の日記」より)
http://www.geocities.jp/yubiwa_2007/ianfukyousei.html


285. 2014年8月13日 08:48:44 : 3cdYZYbVIc

日本軍が慰安婦を直接強制連行した事実はなかった?

「軍が奴隷狩りのような強制連行を直接行なった事実はない」

「『狭義の強制』はなかった」

 このような言説もネットでよく見かけます。

 けれども、朝鮮・台湾はともかく、中国や東南アジア・太平洋地域の占領地においては、業者を介さず、軍が直接、慰安婦を徴集していたと言われます。

 その実態について、ここでは旧・日本軍将兵の回想などを資料として紹介します。


第三師団衛生隊回顧録編集委員会編『第三師団衛生隊回顧録』(1979年,同回顧録編集委員会)所収の杉野茂氏の手記(p102)

軍律厳しきなかにも粋な計らいと言いましょうか、慰安所が開設されることになりました。我が隊からは私が開設委員として派遣されることになりました。

    〔中略〕

その日から自治委員会の人と一緒にクーニャン探しに歩き回りました。四十七士になぞらえて、四十七人を求めることにしました。委員会の人はどこにどんな娘が居るかよく知っていました。顔にススを塗って天井裏から降りて来る娘もおりました。昔から美人と言えば、小野の小町か照る手の姫か支那の楊貴妃かと言われたその楊貴妃の生れ故郷の揚州ですから、美麗な子が多かった。



新京陸軍経理学校第五期生記念文集編集委員会事務局編『追憶』上(1985年,同事務局)所収の宮谷重雄氏の手記(p146〜147)

 やがて洛陽作戦が始まった。月余で洛陽が陥落してホッとしていると、数日後、師団の後方参謀が直接呼びに来たので、何事ならんと出頭すると、

 「宮谷少尉は、至急民家を改装して兵隊用の慰安所を作れ。ついでに洛陽で女も集めて来い」

という命令である。もうこれは、メチャクチャである。大学を出て、なんの因果でピー屋造りをさせられるのか、その上女衒まがいの女集めまでさせられたのである。何とも情けない思いであったが、命令である。同行していた大工上がりの軍属に慰安所造りの指示を与え、塩を二、三俵トラックに積んで、洛陽市内に女狩りに赴いたのである。どうもこの作命は、後で聞いたところによると、包頭での慰安所造りの成功が効いていたそうである。

 ともかく、洛陽をトラックでグルグル回り、私のカンも良かったのか、二、三軒で十数人の女集めに成功して、部隊に連れてくることができたのである。「あいつは物集めがウマイ」という評判が立って、その後、随分とこきつかわれるキッカケとなってしまった。どうも人間、何が不幸の種になるか分からないものである。

     〔中略〕

 兵団は武漢、長沙を経て衡陽から桂林に向かうことになった。ちょうど、桂林の中間地点の村落で、作戦準備のため長期駐屯することが決まり、旅団は分散して宿営することになった。数日たつと、また作戦参謀が私を呼び出した。そしてまたまた、慰安所を作れ、衡陽で女を集めてこいという命令である。私もつくずくいやになったが、作命には背けない。



平原一男『山砲の○江作戦』※○=草冠+「止」(1991年,私家版)384頁

 第二節で聯隊段列長が両市○に着任したとき、治安維持会長に要求した事項の筆頭に姑娘があったように*、小さな警備隊では自らの力で慰安所を経営する能力がないので、中国側の協力に期待することになっており、ある場合には強制という形になっていたのかもしれない。

*指環注 平原一男氏は聯隊段列長と治安維持会長(余光南氏)とのやりとりを同書378頁で次のように紹介しています。

「夜、余光南がやって来た。何事かと思うと『歴代の警備隊長はいろいろと希望事項があったのだが、阿部連隊長は何を望むか』。

『前の隊長は何を希望したのか』と尋ねると、『姑娘・鶏・鶏卵・豚肉・酒・警備隊の主食・税金等である』『そのような心配は一切不要』というと逆に驚いた顔をする。 〔以下略〕   」  

*巻末の著者紹介によると平原一男氏は昭和15年9月陸士卒、独立山砲兵第二聯隊付となり、同年10月聯隊本部付となり、漢水作戦(15・11)陸水作戦(16・2)第一次長沙作戦(16・9)第二次長沙作戦(16・12)参加、昭和17年4月より18年3月まで陸軍科学学校学生、昭和18年5月第二中隊長に補せられ、常徳殲滅作戦(18・11)湘桂作戦湖南の会戦(19・5)参加、昭和19年8月第一大隊長に補せられ、湘桂作戦広西の会戦(19・11)南部○漢打通作戦(20・1)○江作戦参加、昭和21年11月復員。元陸軍大尉。昭和27年9月陸上自衛隊入隊、昭和47年8月定年退職。元陸将補。                                                  



森利『モリトシの兵隊物語ー一兵士の哀歓ー』(1988年,青村出版社)227〜228頁

 私は三日間の休養日に開設する特設慰安所の長を命ぜられる。先ず、前線司令部のある○城の軍政部に、自動車二台と一個分隊の警備兵を伴って出頭する。軍政部の係官と書類手続きを済ませ、二十五人の慰安婦と賄婦、監督(やりてばばあ)、総数三十人を受領する。彼女等は朝鮮ピーと違い、現地で徴発した支那ピーで、半分は素人、半分がセミプロ程度のようだった。軍政部から金が支払われている。二台の車に分乗させ、逃亡されないように警備も分乗する。

       〔中略〕

 翌日九時から開業である。それまでに軍医殿の検診を終わらねばならない。衛生軍曹がクレゾール石鹸液を準備する。軍医は至極事務的に終わらせようとする。ところが彼女達は初めての検診に驚き、軍医が薄いゴム手袋をはめて検診しようとすると受けつけない。これで意外に時間がかかる。また、監督を呼んで説明し、性病検査であること、決して恐ろしいものではないことを納得させる。

私も軍医に立ち会って彼女達を見る。なんと驚いたことに、彼女達は例外なく不具者である。足の指が六本と手の指が四本ずつ合計すると二十本、また、足の指が十一本に手の指が九本もある。甚だしく不自然である。顔だちはよく二十歳前の女性である。軍の命令で軍政部が集めた慰安婦は、倫理道徳の進んだ中国社会では、苦肉の策として、この不幸な彼女達に慰安婦の仕事を引き受けて貰うしか方法がなかったものだろう。

 中国では大都会に行かなければ賎業婦はいない。そして日本よりはるかに性道徳心が高い。だから普通の縁組の出来ない不具者が、この方面を押しつけられるのだろう。軍政部の指示で、止むなく治安維持会が彼女達に犠牲になってもらったようだ。彼女達も表情こそ若さが溢れてはいるが、どことなく淋しさがただよい、生まれ持っての不幸を感じているようだ。軍規を保つための性欲処理は合法的な手段とはいいながら、哀れであり、人間の業の深さに嫌な気持ちになる。

*巻末の著者紹介によると森利氏は昭和14年、森利商店を設立し、繊維雑品卸業を営み、昭和16年2月、現役兵として野砲兵第1連隊に入隊して渡満、北満黒河省孫呉に於てソ満国境警備並びに駐屯地勤務、昭和17年8月東満○利に移駐し、戦車第二師団の機動砲兵第2連隊に編成される。昭和19年に鉄道13連隊に転属、河南、○漢、湘桂作戦に従事し、昭和21年5月復員。昭和24年モリトシ叶ン立。昭和35年森利シャツ工業叶ン立。繊維相互協同組合理事長。東京ワイシャツ協同組合常任理事。日本ワイシャツ組合連合会連合会。関東シャツ経営者協議会会長。本所警察署安全協会副会長。モリトシ梶Aモリトシ商事梶A森利シャツ工業椛纒\取締役。墨田商工会議所役員。



海軍経理学校補修学生第十期文集刊行委員会企画編集『滄溟』(1983年,同委員会)所収の坂部康正氏の手記(312頁)

 命の心配がなく、食事も充分と言う事となると夜考えるのは女の事、なんで日本女性を泡を食って帰したか、今更くやんでも始まらない。我々ガンルームは始めから現地女性とうまくやっていたから不自由はなかったが、収まらないのは偉いさん達、特にM参謀はこの件についてご熱心で、転勤前に山形長官からお許しを得ているからという事で、アンボンに東西南北の四つのクラブ(慰安所)を設け約一〇〇名の慰安婦を現地調達する案を出された。

その案とはマレー語で、「日本軍将兵と姦を通じたるものは厳罰に処する」という布告を各町村に張り出させ、密告を奨励し、その情報に基づいて現住民警察官を使って日本将兵とよい仲になっているものを探し出し、きめられた建物に収容する。その中から美人で病気のないものを慰安婦としてそれぞれのクラブで働かせるという計画で、我々の様に現住民婦女子と恋仲になっている者には大恐慌で、この慰安婦狩りの間は夜歩きも出来なかった。

 日本の兵隊さんとチンタ(恋人)になるのは彼等も喜ぶが、不特定多数の兵隊さんと強制収用された処で、いくら金や物がもらえるからと言って男をとらせられるのは喜ぶ筈がない。クラブで泣き叫ぶインドネシアの若い女性の声を私も何度も聞いて暗い気持ちになったものだ。

 果たして敗戦後、この事がオランダ軍にばれて、現住民裁判が行われたが、この計画者は既にアンボンに居らず、それらの女性をひっぱった現地住民の警官達がやり玉に上って処罰された程度で終ってしまった。彼女達が知っているのはひっぱった警官だけで、この事件の真相は闇に沈んだ。

*坂部康正氏は、海軍第25特別根拠地隊司令部付きの主計将校だった。



禾晴道『海軍特別警察隊』(1975年,太平出版社)p109〜116

IX 慰安婦狩り

 アンボン島のような小さなケシ粒のような島にも、中国大陸の戦線と同じように、男性の生理的欲求を処理するための「慰安所」が設置されていた。

 日本国内にもあった「赤線地区」であり、昔は「女郎部屋」と呼ばれていた売春宿であり、軍隊がつくっていた公認のものであった。

 そこには日本女性も動員されていたし、もちろん現地人女性が多く集められて運営されていた。彼女たちは、軍人を慰める目的であることから「慰安婦」と呼ばれていた。国家権力による強姦強要でもあった。
                                                                                          (109〜110頁)
      
 そして、再び現地人の女性を集めて、慰安所をつくろうという動きが海軍司令部からだされていた。
                                                                                          (112頁)    

 そして慰安婦を集める作業はどこがやるのか、各隊はそれにどのように、どの程度まで協力するかが当然討議されなければならなかった。問題は現地人を、どううまくごまかすかが会議の本当の議題でしかなかった。それは一つの謀議でもあった。
                                                                                          (113頁)    

 対象が決定したので、つぎは方法であった。早急に対象となる女性のリストを作って、本人に交渉する。ある程度の強制はやむをえないだろうということだった。
                                                                                          (114頁)

 副官の大島主計大尉はなにがなんでもやってやるぞ、という決意を顔一面に現わして、

「司令部の方針としては、多少の強制があっても、できるだけ多く集めること、そのためには、宣撫用の物資も用意する。」

       〔中略〕
 こんな小さな島に、これだけの銃をもった日本軍が陣地をつくっているのだから、日本軍の要求することを拒否もでき、承諾もするという対等な自由が、本当に存在すると思っている考え方もじつに自分勝手であったのだろうが、そんなことに気づいていなかった。
       〔中略〕

 民政警察の指導にあたっていた木村司政官が敗戦後、戦犯容疑者として収容されたとき話してくれたが、その時の女性集めにはそうとう苦しいことがあったことを知った。

「あの慰安婦集めでは、まったくひどいめに会いましたよ。

サパロワ島で、リストに報告されていた娘を集めて強引に船に乗せようとしたとき、いまでも忘れられないが、娘たちの住んでいた部落の住民が、ぞくぞく港に集まって船に近づいてきて、娘を返せ!! 娘を返せ!! と叫んだ声が耳に残っていますよ。

こぶしをふりあげた住民の集団は恐ろしかったですよ。思わず腰のピストルに手をかけましたよ。思い出しても、ゾーッとしますよ。敗れた日本で、占領軍に日本の娘があんなにされたんでは、だれでも怒るでしょうよ」。
                                                                                          (115〜116頁)

*禾晴道氏は1942年1月第一期海軍予備学生として海軍経理学校に入校、ただちに軍令部勤務。1944年3月以降インドネシアのセレベス民政部アンボン海軍特別警察隊に将校として勤務。

 このアンボン島の事例については、秦郁彦氏が次のように考察しています。


秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(新潮社)137頁

 ところが、四五年三月、艦隊の帰国の直前に、慰安所の復活が計画され、特警隊と政務隊が現地警官を使って女性の徴集に乗り出した。元売春婦や志願者や日本人の愛人(チンタ)を対象とする建前であったが、近くの島から女を連れていく時に

「住民がどんどんやってきて返せ≠ニ叫び、こぶしをふりあげ、思わず腰のピストルに手を」

と禾中尉が書いているくらいだから、拉致まがいの徴集もあったにちがいない。
http://www.geocities.jp/yubiwa_2007/gunkyouseirenkou.html


286. 中川隆 2014年8月13日 08:50:39 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

「従軍慰安婦」問題の根幹とは何か?

 ネットにおける「慰安婦」論争においては、何が問われているのかも理解しないまま延々「論」を展開している方を散見しますので、この問題の基本の基本について述べておきたいと思います。

 「従軍慰安婦」問題の根幹とは何か? 

それはズバリ、国家自らが管理売春に乗り出したこと、そのものに他なりません。

 即ち、日中戦争・アジア太平洋戦争における日本軍は、内部に売春施設を設置し、そこで売春に従事する女性の徴集を行ったのでした。

 このことを日本軍は組織ぐるみで行い、内務省、外務省など他の国家機関もこれに協力しました。

 国家が管理売春に乗り出したこと、このことの是非が何よりも先ず問われるのです。

(※軍慰安所は軍が設置したまぎれもない軍の施設であったことは

「1.軍慰安所は民間の売春宿に過ぎなかった?」
http://www.geocities.jp/yubiwa_2007/gunnianjyo.html

を参照してください。)


 そもそも売春が横行するというのは社会として健全であるとは言えません。これをなくす方向で努力するのが近代国家としての当然の責務です。

 売春を直ちに禁止することは非現実的だとして、本人の自由意思の確認の上で制限された一定の場所でのみ止む無く認めることはあり得たとしても(これが公娼制度でした。)、それとて「醜業」と言われていたように決して望ましいものではありませんでした。ましてや、それを国家が積極的に推奨するなどというのは当時の感覚から言っても、とても考えられないことでした。

 その考えられないことをやってしまったのが戦前の日本国家だったわけです。

 即ち、国家自らが管理売春に乗り出し、内部に売春施設を設置し、そこで売春に従事する女性の募集を行うというのは、「国民の保護」という国家としての責務を放棄するに等しい行為なのです。別の言い方をすれば国家が「自らが反倫理的存在である」と公言する行為に他ならないのです。

 このことは軍慰安所政策を推進した当事者もよく認識していました。

 軍による慰安婦徴集に対し、外務省は「面白カラザル」と不快感を示し、内地の警察は「俄ニ信ジ難キ」と驚愕しました。

 軍も、内部に売春施設を設置し、女性を徴集している事実をできる限り隠蔽しようとしました。後ろめたさが伴う恥ずかしい行為だと軍も認識していたのです。

 *「慰安所」「慰安婦」という名称をあえて用いた点に、売春施設設置・女性徴集の事実を隠蔽したかったことが表れています。「慰安」という本来、売春を意味しない言葉をあえて用いて誤魔化したのだと言えます。
 
 **なお、管理売春であれば強制性は推定されます。ネットの議論では管理売春であったことを認めながら「強制だったと言うならその証拠を出せ」と主張する人がよく見受けられますが、管理売春にもかかわらず強制でなかったと主張する人こそ、強制でなかったことを立証すべきであり、それが立証されない限り強制だったと判断して良いように私には思えます。


 軍中央が慰安婦徴集に関わっており、このことから軍慰安所制度が国家ぐるみの管理売春であったことを示す動かぬ証拠とされるのが、当サイトでも度々紹介している1938年の陸軍省の通牒です。(この通牒が発見されたことにより、日本政府は「民間が勝手にやっていたこと」という、それまでの見解を変更せざるを得なくなりました。)

 再度、提示しておきましょう。


軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件
起元庁(課名)兵務課

陸支密

副官ヨリ北支方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒案支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為、内地ニ於テ之カ従業婦等ヲ募集スルニ当リ故ラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ或イハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ或イハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少カラサルニ就テハ将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於テ統制シ之ニ任スル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ其実施ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋ヲ密ニシ、以テ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス

   陸支密第745号 昭和拾参年参月四日 

                                     (吉見義明編『従軍慰安婦資料集』105〜107頁)
http://www.geocities.jp/yubiwa_2007/ianfukihon.html


287. 2014年8月13日 08:54:06 : 3cdYZYbVIc

河野談話は証拠なしに慰安婦への強制性を認めたものなのか?

 1993年8月4日に当時の河野洋平官房長官が発表した「慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話」(いわゆる「河野談話」)をめぐって、

「証拠なしに『慰安婦』に対する強制を認めたのはけしからん」

「破棄・撤回すべきだ」

との主張があります。

 最近(2012年8月)には野田内閣の閣僚(松原国家公安委員長)からも「河野談話を見直すべきだ」との議論が出ています。

 そこで河野談話は、果たして証拠なしに「慰安婦」に対する強制性を認めたものなのかについて検証を試みてみます。

 先ず、「河野談話を破棄・撤回せよ」の主張の典型として、産経新聞の2012年9月1日の「主張」について見てみましょう。



慰安婦問題 偽りの河野談話破棄せよ 国際社会の誤解解く努力を

それまでに日本政府が集めた二百数十点に及ぶ公式文書の中には強制連行を裏付ける資料はなく、談話発表の直前に行った韓国人元慰安婦16人からの聞き取り調査だけで強制連行を認めたことが後に、石原信雄元官房副長官の証言で明らかになった。

 上記の文章、論理的に明らかに矛盾したものになっています。

 「韓国人元慰安婦16人からの聞き取り調査だけ」(つまり「証言」だけ)で強制連行を認めたことを問題視しながら、それが石原信雄元官房副長官(たった一人)の「証言で明らかになった」としています。

 「韓国人元慰安婦16人」の証言だけでは強制連行があったかどうかが認定できないというのだったら、石原信雄元官房副長官たった一人の証言だけなど、なおさら何も認定できないはずです。
 
 産経新聞が「証言は証拠にならない」「証言だけでは事実を認定できないのだ」と考えるのは勝手ですが、それならそれで、その立場を一貫してもらいたいものです。

 さて、ではそもそも、(河野談話作成に深く関わったとされる)石原信雄元官房副長官は実際にはどう言っているのでしょうか? 石原信雄元官房副長官の「証言」を見てみましょう。

 石原信雄元官房副長官の「証言」が最初に報じられたのは、1997年3月9日付けの産経新聞のインタビュー記事です。(この時の産経新聞は「『強制連行』証拠なく 直前の聞き取り基に」と一面トップに掲げていますが、「河野談話は証拠なしに慰安婦への強制を認めた」説の大元がこの産経新聞報道のようです。)
 
 そこでは石原信雄氏は産経記者の質問に対して次のように答えています。


ーではなぜ強制性を認めたのか

 「日本側としては、できれば文書とか日本側の証言者が欲しかったが、見つからない。加藤官房長官の談話には強制性の認定が入っていなかったが、韓国側はそれで納得せず、元慰安婦の名誉のため、強制性を認めるよう要請していた。

そして、その証拠として元慰安婦の証言を聞くように求めてきたので、韓国で十六人に聞き取り調査をしたところ、『明らかに本人の意思に反して連れていかれた例があるのは否定できない』と担当官から報告を受けた。十六人中、何人がそうかは言えないが、官憲の立ち会いの下、連れ去られたという例もあった。  (後略) 」

ー聞きとり調査の内容は公表されていないが、証言の信ぴょう性は

 「当時、外政審議室には毎日のように、 元慰安婦や支援者らが押しかけ、泣き叫ぶようなありさまだった。冷静に真実を確認できるか心配だったが、在韓日本大使館と韓国側が話し合い、韓国側が冷静な対応の責任を持つというので、担当官を派遣した。時間をかけて面接しており当事者の供述には強制性にあたるものがあると認識している。  (後略) 」

1997年3月9日付け産経新聞

 何のことはありません。石原信雄氏は「『強制連行』証拠なく」とは一言も言っておらず、それどころか、日本政府の担当官が派遣され冷静な状況下で面接し、その担当官が強制性が否定できないと報告し、石原信雄氏自身も「当事者の供述には強制性にあたるものがあると認識している」と言っているのです。

 また、産経新聞の上記インタビュー記事で、石原信雄元官房副長官は「河野談話は日韓の政治取引の産物ではないのか?」との疑問に対して次のように答えています。


ー韓国側が国家補償は要求しないかわり、日本は強制性を認めるとの取引があったとの見方もある。

 「それはない。当時、両国間で(慰安婦問題に関連して)お金の問題はなかった。今の時点で議論すれば、日本政府の立場は戦後補償で済んでいるとなる」

1997年3月9日付け産経新聞

 


 このように、産経新聞記者の誘導的な質問に対しても、石原信雄氏は政治取引について、きっぱり否定しています。

 結局、産経新聞報道は「『強制連行』証拠なく」の一面トップの記事の見出しと、インタビューの中で石原信雄元官房副長官が語っている内容が一致しません。

 この産経新聞報道、「読者はどうせインタビューの中味など読まない。見出ししか読まない」などと考えて、

「そうか。証拠なしに河野談話は出されたのか。当時の官房副長官も『証拠はなかった』と証言しているのか」

と読者に思わせようという悪質な印象操作を狙ったものだと言わざるを得ません。

 あるいは、産経新聞は「聞き取りによる証言は証拠にならない」と考えているのかも知れませんが、(繰り返しになりますが、)元「慰安婦」の証言が証拠にならないと言うのだったら、石原信雄元官房副長官の証言も何の証拠にも何の根拠にもならないということになってしまい、この報道の前提が崩壊します。

 産経流の言い方をするなら、「『河野談話証拠なく』に証拠なく」「石原元官房副長官からの聞き取りだけで『河野談話証拠なく』と報道したのは大問題だ」となるでしょう。

 なお、石原信雄元官房副長官ですが、1997年4月9日、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(当時の代表は中川昭一氏、事務局長は安倍晋三氏)の勉強会に講師として招かれ、そこで下記のように発言しています。


 ここの下りですけれども、これは主として十六人の元慰安婦の方々の聞き取り調査の結果、このようなことが明らかになったということであります。なお、この点につきましては、外政審議室の係官二人が責任者としていきまして、それから現地の日本大使館の職員も一緒にいって、韓国側の協力の下に非常に静かな雰囲気の下で相当時間をかけて当人のお話を聞かせていただきました。

 その結果は実はプライバシーの問題がありますので、一人ひとりの発言内容を公表しないという前提で聞き取り調査を行っておりますので公表はしておりませんけれども、誠に聞くに耐えないような状況の下で承諾させられた、あるいは募集に応じさせられたというケースがありまして、ヒアリングを行った担当官の心証としては、これは明らかに本人の意に反する形での募集があったということは否定できない、という報告でございました。そういうことをベースにして、このような要約を行ったわけであります。

日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会編『歴史教科書への疑問』(展転社)P.307〜308

 それから後段のほうのことですけれども、この間、平林博外政審議室長からも答弁があったようですが、実は十六人の方々のヒアリングにあたりまして、官憲が立ち会ったとかという・・・・・・。これはそのヒアリングの中に出てくるところなんですが、それは朝鮮総督府の巡査が立ち会って、サーベルをガチャガチャしながら「受けなさい」と言ったというような場面が出てくるんですけれども、そういうようなことを総合して、あのような表現になったわけです。

日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会編『歴史教科書への疑問』(展転社)P.320

 産経新聞などがさかんに持ち出す石原信雄元官房副長官の「証言」とは、このような内容のものなのです。

 河野洋平氏へのインタビュー記事の一部も紹介しましょう。


ー募集については。

 政府が聞き取り調査をした元慰安婦たちの中には明らかに本人の意思に反してという人がいるわけです。つまり、甘言により集められた、あるいは強制によって集められた、あるいは心理的に断れない状況下で集められた、といったものがあったわけです。

  当時の状況を考えてほしい。政治も社会も経済も軍の影響下にあり、今日とは全く違う。国会が抵抗しても、軍の決定を押し戻すことはできないぐらい軍は強かった。そういう状況下で女性がその大きな力を拒否することができただろうか。

ー「甘言」「強圧」とはどういうことですか。

 「甘言」とは、例えば「工場で働いてもらう」と言われて連れていかれたところが、慰安所だった。詰まり「だまされて」ということだ。「強圧」とは、植民地統治下にあって、軍が背後にいることがはっきりしている状況の中で、その指示とか、申し出とかは断れる状況ではなかった、ということだ。

ー元慰安婦の証言が、強制性を認める心証となったのですか。

 連れていった側は、ごくごく当たり前にやったつもりでも、連れていかれた側からすれば、精神的にも物理的にも抵抗できず、自分の意思に反してのことに違いない。それは文章に残らないが、連れていかれた側からすれば、強制だ。

ー元慰安婦の証言の信ぴょう性について疑問の声もありますが。

 半世紀以上前の話だから、その場所とか、状況とかに記憶違いがあるかもしれない。だからといって、一人の女性の人生であれだけ大きな傷を残したことについて、傷そのものの記憶が間違っているとは考えられない。実際に聞き取り調査の証言を読めば、被害者でなければ語り得ない経験だとわかる。相当な強圧があったという印象が強い。

ー政府が聞きとり調査をした軍人・軍属の中にも強制連行があった、と証言した人はいたのですか。

 直接強制連行の話はなかった。しかし、総合的に考えると「文書や軍人・軍属の証言はなかった。だから強制連行はなかった。集まった人はみんな公娼だった」というのは、正しい論理の展開ではないと思う。

1997年3月31日付け朝日新聞

 最後に、元「慰安婦」の証言の信ぴょう性について、日本の裁判所の認定例を参考までに紹介しておきましょう。


慰安婦原告らの陳述や供述の信用性

 前記(1)ないし(3)のとおり、慰安婦原告らが慰安婦とされた経緯は、必ずしも判然としておらず、慰安所の主人等についても人物を特定するに足りる材料に乏しい。

 また、慰安所の所在地も上海近辺、台湾という以上に出ないし、慰安所の設置、管理のあり方も、肝心の旧軍隊の関わりようが明瞭でなく、部隊名すらわからない。

 しかしながら、慰安婦原告らがいずれも貧困家庭に生まれ、教育も十分でなかったことに加えて、現在、同原告らがいずれも高齢に達していることを考慮すると、その陳述や供述内容が断片的であり、視野の狭い、極く身近な事柄に限られてくるのもいたしかたないというべきであって、その具体性の乏しさのゆえに、同原告らの陳述や供述の信用性が傷つくものではない。

 かえって、前記(1)ないし(3)のとおり、慰安婦原告らは、自らが慰安婦であった屈辱の過去を長く隠し続け、本訴に至って初めてこれを明らかにした事実とその重みに鑑みれば、本訴における同原告らの陳述や供述は、むしろ、同原告らの打ち消しがたい原体験に属するものとして、その信用性は高いと評価され、先のとおりに反証のまったくない本件においては、これをすべて採用することができるというべきである。

 そうであれば、慰安婦原告らは、いずれも慰安婦とされることを知らないまま、だまされて慰安所に連れてこられ、暴力的に犯されて慰安婦とされたこと、右慰安所は、いずれも旧日本軍と深くかかわっており、昭和20年(1945年)8月の戦争終結まで、ほぼ連日、主として旧日本軍人との性交を強要され続けてきたこと、そして、帰国後本訴提起に至るまで、近親者にさえ慰安婦としての過去を隠し続けてきたこと、これらに関連する諸事実関係については、ほぼ間違いのない事実として認められる。

釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟(通称:関釜裁判)第一審(山口地裁下関支部)判決(1998年4月27日)より

*この問題の議論では、徴集の「現場」で軍・官憲が直接関与したか、だけに焦点があたっているようですが、たとえ徴集していたのが純然たる民間業者だったとしても、騙したり、身売りされたりした女性をそのまま受け取り解放せず、売春に従事させていた軍慰安所が、軍が設置したまぎれもな軍の施設であったことは間違いないのですから、軍慰安所の設置者・管理者として軍の責任は免れないでしょう。また軍がつくった、システムとしての「慰安婦」制度が強制によって成り立っていたとするなら、「日本軍が強制連行を行っていた」と言ってもほとんど間違いではないでしょう。

 軍慰安所が軍が設置したまぎれもない軍の施設であったことについては、「1.軍慰安所は民間の売春宿に過ぎなかった?」を参照してください。

                                     
                                                                                   (2012.9.20)

(2013年4月13日追記・資料追加)

 石原信雄元官房副長官は、2004年11月26日、東京大学法学部・公共政策大学院の合併ゼミ「『慰安婦』問題を通して人間と歴史と社会を考える」(大沼保昭教授主宰)に講師として招かれ、「河野談話はこうしてできた」と題して講演を行い、以下のように述べています。(この講演は、大沼保昭・岸俊光編『慰安婦問題という問いー東大ゼミで「人間と歴史と社会」を考える』(勁草書房,2007年>に所収されています。)

結局、通達や文書といったかたちあるものでこれを立証するものはどうしても見つかりませんでした。ただ、「従軍慰安婦」とされた方々で、本当に体験者しか言えないような状況で強制的に連れて行かれたんだということを話す人が、何人かいたわけです。その場合、反日運動の組織の影響でそう言っているのではないかという方もいたんですが、そういう政治的な動きとは関係なしに、自分自身の名誉にかかわる問題として、明らかに自分は意に反して「慰安婦」にされたと言っておられる方がかなりいるということもわかってきました。

            (中略)

いろんな政治的な影響を受けない状況の下で、本人の自主的な証言として、しかもひとりではなく何人かの人から証言を求めて判断する、と。聞き取り調査はソウルに赴いて、−−これには韓国政府も協力してくれたんですけどもーー反日運動を行っている団体の影響を受けない静かな環境の下で証言をいただく。外政審議室や厚生省関係から、バイアスのかかっていない、純粋にフランクに証言を聞き、評価できると考えられる職員を選んでヒアリングをやらせました。

その結果、彼女たちの証言内容から、決してためにする発言ではない、自分の体験として、強制によってその意に反して「慰安婦」にされたことが疑いようのない人が何人か出てきたわけです。そこでその証言をベースにして、日本政府として自分の意に反して「慰安婦」とされた方々がいるということを認定するかどうか、になりました。

 それに関しては、物的証拠がないのに強制的に「慰安婦」にされたということを断定するのはけしからん、行き過ぎであるという批判が、当時も猛烈にありましたし、今でもあります。しかし、わたくしども当時の宮沢内閣のスタッフとしては、いろんな影響を遮断したなかで、純粋に彼女たちの過去の状況を立証できるような環境の下で、複数の方から証言を得て、明らかに意に反したものだということが認定できると判断したわけです。

           (中略)

 河野官房長官談話のいちばんのポイントは、

「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」

というところです。ここについて、いま申し上げた関係者の証言でわれわれは心証をもったわけです。それを裏づける通達とか指令とかいうような文書はどうしても出てきませんでした。そういうたぐいのものを文書に残すこともなかったでしょうから、消えちゃったんじゃなくて、もともと口頭指示でなされたんじゃないかとわれわれは推察しているのですが。

 いずれにしても、文書によって裏づけることはできなかったんですけども、被害者となった「慰安婦」の複数の方の証言をいただいて、それを分析・検討した結果、心証を得たわけです。そこで「官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」と断定しました。「官憲等」というのは、当時の朝鮮総督府の警察官が、女性に「慰安婦」に行くよう強制したという証言に基づくものです。

           (中略)

直接談話の作成にかかわった者として、何人かの「慰安婦」の証言を総合しますと、どう考えても彼女たちが作り話を言っているとは思えない、本当の体験に基づく証言としか考えられないものがかなりの数あったということも頭において、「総じて本人たちの意思に反して行われた」という断定的な表現で官房長官談話をまとめたわけです。
(大沼保昭・岸俊光編『慰安婦問題という問いー東大ゼミで「人間と歴史と社会」を考える』勁草書房,2007年>191〜194頁)

わたくしどもは韓国政府が日本政府に強く要請してきたから「総じて本人たちの意思に反して」という表現にしたのではありません。あくまでも真実を明らかにするために、被害者の方の証言を信頼し、それによって強制があったと断定したわけです。この判断は当時の証言に協力していただいた方々の状況から見ましてもまちがったものでない、とわたしは思っております。
                     (同書、196頁)

今でも「慰安婦」問題に反対する人はいっぱいいます。そういう人たちからは証拠がないのになぜ強制性を断定したのだ、けしからん、というご批判を受けるのですが、当事者の証言だけれども、証言をいただく環境とか、あるいは人数とかいろんなことで、わたしは強制性の認定についてまちがいがあったとは思わない。信用できるという心証をもったから河野談話として発表したと言っています。
                     (同書、204頁)

この問題について批判があるのは受けますが、わたしはまちがったことをしたとは思っておりません。わたし自身は、人権侵害問題について政府の対応はまちがったと思っておりません。
                     (同書、205頁)
http://www.geocities.jp/yubiwa_2007/kounodanwa.html


288. 2014年8月13日 08:54:43 : 7XCLlQ2Jd6
>>278
>>279

狭義は必要ない。見苦しい否定をするな。
おまいの思想は典型的なバカサヨだ。


289. 中川隆 2014年8月13日 09:13:46 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
共産党が大嫌いな俺が左翼じゃあおかしいだろ

共産主義と新自由主義は両方とも官僚による統制経済だから左翼・右翼という違いはあっても同類なのさ。


290. 2014年8月13日 09:14:37 : GN6KhuXxyg
>>281

私への返信なら、なんか違うなー
名称の講義はいいや。

元々あった売春宿の数やそこで働く人の数はそのままで、新たに慰安所が160以上作られたのかってこと?
ま、これは「3cdYZYbVIc」に聞いても分からないか。
上海ってとこを想像するに、元々売春宿があってその延長上で慰安所が作られたというが自然な流れだと思うんだけど。


291. 中川隆 2014年8月13日 09:34:00 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
>元々あった売春宿の数やそこで働く人の数はそのままで、新たに慰安所が160以上作られたのかってこと?


慰安所というのは日本兵の強姦殺人を止めさせる為に作ったものだから、慰安婦はその時点で慰安婦狩りをして集めたのさ。


292. 中川隆 2014年8月13日 09:41:52 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

こういう感じだね:


 91歳の旧日本兵、松本正義さんは23日、聯合ニュースの電話インタビューに応じた。松本さんは1944年初めから1946年3月まで日本軍第一軍「固旅」第7大隊で衛生兵を務めた。その前の6カ月間は中国・山西省陽泉市盂県の大隊本部に配属され、その後の約1年半は上社鎮駐留の第一中隊に所属した。日本軍将兵へのコンドーム支給と韓国人慰安婦の性病検査を主に担当していた。

 松本さんによると、大隊本部配属時には韓国人慰安婦6-7人が逃げられない環境の下、50人以上の日本軍将校の欲望の対象となることを余儀なくされていた。正式な慰安所がない状況での慰安婦の境遇は極めて悲惨だった。

 また、当時日本軍は中国の庶民も潜在的なゲリラと見なしていたため、しょっちゅう村落を攻撃しては「女性を捕獲」していたという。松本さんは「有漂亮的姑娘」(きれいな女の子がいる)という中国語を今だに覚えている。きれいな女性を見つけた日本軍が部隊に連行して輪姦するのも目の当たりにした。

 ある上等兵が「女性を捕獲」しようと住民の家に入った際に地雷を踏んで爆死したことや、部隊長と村長が交渉し、部下が捕えて来て姦淫した7-8人の女性を返す代わりに別の2人の女性を連れ帰ったことも覚えている。地雷で爆死した上等兵はその後、靖国神社に埋葬された。国家のために命を捧げたというのがその理由だ。

 松本さんは「本当の戦闘など当時していなかった。われわれは住民に攻撃されることを恐れていた。部隊がしたのは女性を捕獲することだけだ」と述べた。
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2013-05/25/content_28929997.htm


293. 中川隆 2014年8月13日 09:55:16 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
慰安所を作らないとどうしてもこうなってしまうから苦肉の策だったのさ:

陸軍第114師団重機関銃部隊所属 田所耕造。

『週刊アサヒ芸能』(71年)の取材に答えた当時、彼は53歳。
彼が語った残虐の限り。しかもこれが(昭和天皇の)「命令」なんだから驚くしかない。

女が一番の被害者だったな。年寄りからなにから、全部やっちまった。
下関から木炭トラックを部落に乗りつけて、女どもを略奪して兵隊に分ける。

女1人に兵隊15人から20人くらい受け持たせてね。倉庫のまわりなど、日当たりのいいところを選んで、木っ葉などをぶらさげて場所をつくる。
赤ケンといって、中隊長のはんこがある紙を持った兵隊たちが、ふんどしをはずして順番を待つんだ。

いつか女の略奪班長をやったことがあるけど、ゆくと、女たちはどんどん逃げる。殺すわけにはいかないから、追いかけるのに苦労したもんだよ。
支那の女は技術はうまいね。殺されたくないから、必死なんだろうけど、なかなかいい。なにしろ上陸以来女の身体にさわったこともないんだから、いじくりまわしたり、なめまわしたりする。私らは、よくなめ殺すといったもんです。


その凶暴兵は、柳川平助兵団(第10軍)第114師団所属。南京作戦での「働きぶり」によって上等兵に昇進。

そして、血に飢えた「ならずもの部隊」は徐州(シュイチョウ)へ進撃したのだった……。


蘇州の女というのがまたきれいでね。美人の産地だからね。兵隊は手当たりしだい強姦していた。犯ったあと必ず殺していたな。
http://www.asyura2.com/08/reki01/msg/182.html


294. 中川隆 2014年8月13日 10:18:55 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

中国人「慰安婦」の証言から明らかになった「慰安所」制度の隠された一面とは、

旧日本軍の大部隊や売春宿経営者らによって設立された公式の「慰安所」に加え、小部隊が即席でこしらえた「慰安施設」が非常に多く存在したことだ。

小隊や分隊でさえ、性の奴隷として女性を監禁することが多かった。

戦時中を通じ、当座しのぎとも言えるこうした施設が正式に認可された軍慰安所と併存し、極端に野蛮な行為や殺害が行われていた。

中国人「慰安婦」の大部分はこの簡易「慰安施設」に入れられたため、中国人生存者の証言は自然と現実を映し出している。


本に登場する雷桂英さんは海外に住む日本人夫婦が経営する「慰安所」に閉じ込められた。民間人が経営する売春宿だが、雷さんが受けた仕打ちは犯罪的な暴力に等しかった。抵抗する雷さんに対し、日本兵は暴行をふるったうえ銃剣で刺し、片足の不具合は今でも残っている。


 Q:中国での慰安婦制度は女性を集める中国人仲介者に依存していた。法の裁きを受けた者はいるのか?


 A:地元民と占領者との共謀の仕方は状況によって異なる。旧日本軍と積極的に共謀して慰安所を設置し、その経営に参加した者もいる。一方、女性を集めるのを拒めば占領軍が住民を殺すと公に脅していたため、そうせざるを得なかった地方公務員もいる。

こうした仲介者の行動は、占領軍からの圧力が原因だったとして完全に正当化することはできない。ただ、旧日本軍が占領地で広範な殺りく行為を犯していたことを考えると、占領者の命令を断れば多くの地元民の安全が危険にさらされたのは明らかだった。
http://jp.wsj.com/news/articles/SB10001424052702304057704579647283156181394

慰安婦は新しければ新しい程いいので、古くなった慰安婦は次々に殺して、また新しい女を連れてきたので、慰安婦の延べ人数が多くなったんだな。


295. 2014年8月13日 11:18:56 : 7XCLlQ2Jd6
>共産党が大嫌いな俺が左翼じゃあおかしいだろ

歴史を捻じ曲げる。なにかと天皇のせいにする。
共産党、社会党、バカサヨ典型例だ。

おまいが共産党を嫌いでもおつむが同じ考えかただから
バカサヨなんだよw


296. 2014年8月13日 13:10:46 : 3cdYZYbVIc
笹井芳樹も責任取って自決したくらいだから、天皇一族も全員自決しないと格好付かないだろ。 戦争責任をすべて東条一人に押し付けるとは人間の屑だ。

297. 2014年8月13日 13:18:44 : 3cdYZYbVIc

これだけ証拠が揃っているのに天皇一族が白を切り続けるのは許せないな:


鬼頭久二(1916年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、

「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」

ちゅう命令やった。

天皇陛下の命令やと言ったな。

当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。
http://www.geocities.jp/kk_nanking/
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/m/pages/468.html


私は東寧県で汽車を降ろされ、20人くらいの女性たちとトラックでプチャゴルに連れて行かれました。

到着すると将校が

「天皇と軍の命令だ。 言うことを聞かないと殺す」

と言いました。

________


指定された部屋の中でしばらくじっとしていると、日本の着物を一抱え持った看護婦が入ってきて、「朝鮮服を脱いでこれに着替えなさい」と命令した。もじもじしているとむりやり脱がされて裸にされ、浴衣を着せられて胸に「ミイコ」という名札を付けられた。そして、「お前はきょうから朝鮮人ではなく日本人だ。日本帝国の天皇陛下のために働かなければならない。お前の名前はミイコだ、朝鮮語を使ってはならない」といった。それからは約半月の間、雑穀の入った食事を三度与えられるだけで、仕事はさせなかった。

______


 プチャゴルには20人くらいの娘たちが連れて行かれた。到着すると将校がでてきて、「天皇と軍の命令だ。言うことを聞かないと殺す」と言って私たちを脅した。私は5号室に入れられたが、やがてあちこちの部屋から悲鳴が聞こえてきた。私はその日のうちに暴行された。

 私は訳がわからないままに慰安婦にされてしまった


_______


ファン・クムジュ(HwangkumJu)が特別報告者に語ったところでは、中国の吉林省の慰安所での最初の日に、日本兵からこ こには従わなければならない五つの命令があり、従うか死ぬかだといわれたという。

第一、天皇の命令。
第二、日本政府の命令。
第三、彼女が所属している陸軍 中隊。
第四、中隊のなかの分隊。
そして最後に彼女が自分に仕えているテントの持ち主としての彼の命令。


_________


アメリカ合衆国の歴史教科書『Tradition & Encounters:A Global Perspective on the Past』では、

「日本軍は慰安婦たちを天皇の贈り物と言いながら兵士などに提供した。


298. 2014年8月13日 14:05:07 : 7XCLlQ2Jd6
バカサヨは歴史を知らないから困るんだよな。
東條のせいにしたのは、おまえら中国人やアメリカ人だろ。
日本は自存自衛の戦争をしたんだから東条英機は、犯罪者でもなんでもない。
日本を必死に守ろうとした英霊だ。
中国での証言は信用ならないんだよ。証拠にならないということだ。
弁護団が弁護しないんだからな。
でっち上げの記事をもってきて証拠とは、バカサヨ加減もいい加減にしろw


299. 2014年8月13日 14:08:27 : 7XCLlQ2Jd6
あと南京大虐殺は大嘘だから。
調べてみてみ

300. 2014年8月13日 14:13:24 : 7XCLlQ2Jd6
おまいは、このまえTPPが不安だとか反対だとか言っていたが、
理由を聞いてなかったな。
今聞くからそれも書いてみろ。

301. 中川隆 2014年8月13日 14:35:23 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
>本は自存自衛の戦争をしたんだから東条英機は、犯罪者でもなんでもない。


極東裁判でも東条英機がすべて昭和天皇の命令だったと証言しているよ。

南京大虐殺も慰安婦強制連行も731部隊人体実験もすべて昭和天皇直々の命令でやったんだ。

政治家も軍人も誰一人として昭和天皇には逆らえなかった

決定権があったのは昭和天皇一人だけだった。
軍上層部や東条英機には作戦の詳細も知らされていなかった。
日本軍の作戦はすべて御前会議で決めて、東条や軍人はその作戦書通りに動いていただけ

ゴマすり東条さんは必ず毎日三回は 昭和天皇の所へ顔を出して、御用聞きしてたんだ

それである日、昭和天皇が真珠湾を攻撃しろと言ったんで、へいへいとその通りにしたというのが真実:


東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、

「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。

これは当時としては真実である。

しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。

それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。

 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。

キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。

みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2


302. 2014年8月13日 16:06:42 : 7XCLlQ2Jd6
成甲書房の本によって洗脳されちゃったのかw

この出版社は、朴甲東という朝鮮人によって設立されたのよ。
君の言っていることは、うそだらけでピントがずれていてこじつけだ。

まぁ洗脳されてるからしょうがない。
それかきみが朝鮮人でわざとこんなウソを言いふらしているのかな。
そうだとしたら許せないねぇ。

海軍大将が作戦の詳細を知らないわけ無いだろ。
必ず毎日三回ではなくて、三回いったこともあるだろ。
決定権があったのは天皇一人だが、自ら意見を述べ決定したことは
2回しかない。226事件と終戦の時だな。
天皇は御前会議で進言されたことを承認するだけだな。
ここは説明が面倒だな。自分で政策を提案できないということだな。

マッカーサーに言った言葉だが、
「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります」
「しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」

これが事実だよ。
君の言っていることは、でたらめだ。
勉強方法や人付き合いから変えないとダメなレベルだ。
完全に洗脳されている。

それともウソの歴史をつくる手助けをしているのか?


303. 2014年8月13日 16:46:26 : 3cdYZYbVIc
マッカーサーは昭和天皇から巨額のワイロを貰って嘘八百の会見記を書いたのさ。

元々ルーズベルトと昭和天皇はグルだったから戦犯にされる心配は無かったけど、グルだったのがばれると困るからね。


304. 中川隆 2014年8月13日 17:23:13 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

マサチューセッツエ大教授のジョン・Dダワーは米国の公文書館で天皇ヒロヒトの発言を見出した。


天皇は

@ 「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。

A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、

というものである。 ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。 イギリス人スターリング・シーグレツプは『The Yamato Dynasty』の「第十章、汚れた手」の中で、

「敗戦直前、昭和天皇の側近たちがひそかにスイス銀行に財産を隠匿した」
と述べている。じじつ、 横浜正金銀行の株式の二二%はヒロヒトの名義であった。

かれはいう。

「膨大な戦利品の一部は潜水艦によって南米に運ばれ、スイス銀行ブエノスアイレス支店から入金された……

マッカーサーはこのことを知っていたが敢えて知らないふりをした。計算するとその財産は四千億ドルであった」と。

マッカーサーが承知して知らないふりをしたというのは汚職である。
ヒロヒトがマッカーサーを買収したという噂の真偽は、今となっては調べようがないが、火の無いところに煙は立たないという。


______


まあワイロ以外にはマッカーサーが解任される理由は無いからね。


305. 2014年8月13日 17:29:00 : 7XCLlQ2Jd6
ルーズベルトは、日本と戦争したくてしょうがなかった。
まぁその時代に最も有望な植民地候補は、日本しか残っていなかったからな。
そしてなぜか日本人が嫌いだった。
これは、アメリカに移住してきた日本人が優秀で白人を雇って仕事をするくらい
アメリカで台頭してきたから危機感を持ったんだな。
ルーズベルトと蒋介石はグルだったな。
チャーチル、ルーズベルト、スターリンもグルだったな。

ルーズベルトと昭和天皇がグル??
なんでもグルにしちゃいけないよw

悪質な嘘は止めようね


306. 中川隆 2014年8月13日 17:52:27 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
何れにしろ御前会議の内容が直ちにアメリカに伝えられていたというのはアメリカの公文書から証明されている:

日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」

太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。

元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。

アメリカから昭和天皇への指示は国務大臣、グルーによって日本の吉田、牧野、樺山、白州のヨハンセングループを通じ貞明皇后に伝わっていた。


307. トンチキ 2014年8月13日 19:51:49 : ccSBwiVlD2M.2 : TSD8vcAJgM

「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない・・・」と

いうことなんでしょうな。

頑固なあなた方に水を飲ませようとは思いませんが、こんな長めの文章を書く暇が

あったらもっとまともなことを考え・何かをされたほうが良い・・・・と思う。


308. 中川隆 2014年8月13日 21:27:29 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
それは政治板に常住しているアホに言ってやれよ。

俺はコピペしているだけだから、どんなに長いのでも読んで貼るのに 2,3分しかかからない。

慰安婦とか南京大虐殺はセックス・ネタだから単なる暇潰しでやってるだけさ。


309. 2014年8月13日 22:29:20 : 7XCLlQ2Jd6

もうちょっと保守的観点からコピペしてみないかい。
それだけ暇なら歴史の真実をもっと調べられるだろ。
当時の植民地はどのくらいあったのか?
日本はどの国から狙われていたのか?
なぜ大東亜共栄圏が必要だったのか?
等々もっと調べてみるべきことはたくさんあるだろ。

310. 中川隆 2014年8月13日 23:11:18 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
俺はエロ・グロ・ナンセンス以外はやる気起きないからな。

真面目なもの読んでも息抜きにならないだろ。


311. 2014年8月13日 23:31:42 : 3gZQrAbzCE
中川 今となっては笑い話だなww
この記事読むと満州の話だな。満州は日本国の言う一般には民間人が普通にすんでるね。間違いなく軍施設の中には売春宿はないよ。

だらだら書いてるのは結局売春宿にひどい目に合わされて入ったと言うことで
悲しいかな嘘か親に売られたか人攫いなんだね。全日本人を非難するのはお門違い。このままだと国連もいずれ大きな恥をかく。20世紀最大の人権侵害と大口叩いてるからね。一連托生と韓国と朝日も一安心。だが論理で行くとサイシュウトは吉田証言の直ぐ韓国政府は調べてるね。またサイシュウトと同じことが少なくとも半島で1万件起きてないとおかしい。だが調べても出とこない。

強制連行は自動的に慰安所は当然奴隷扱い。だがこれが否定されると奴隷扱いの証拠が必要になるね。まあ沢山証言、小説、韓国ドラマがあるみたいだが裏の取れる事実を示さないとね。他国が出てくるとは苦しいんだろうがインドネシアは日本軍に文句を言えば慰安所が解体された事実も見ように見れば現在の韓国が必死に目指してる近代国家の側面をすでに戦前の日本が見せてるね。


312. 2014年8月14日 07:46:51 : 3cdYZYbVIc
慰安所はすべて日本軍の建物を借りて営業していたよ。

慰安婦を運んだり、移動許可を与えるのも日本軍

慰安婦の営業を認可するのも日本軍


法律で禁止されている20才以下の風俗営業をさせたのは日本軍の指示に決まってるんだよ。


313. 2014年8月14日 10:17:42 : 7XCLlQ2Jd6
>>312
今となっては、そのことは米軍慰安婦の運営体制のことだな。
つまり韓国政府のやっていたことだ。
コピペするからおかしくなる。
韓国は、米軍慰安婦で韓国政府がやってきたことを
日本軍にすり替えて日本を糾弾してきたからな。

年齢は18歳以上とした。軍はチェックのしようがないな。
民間業だから警察がチェックすることだからな。
ただ医者は、軍医が一番優秀で仕切っていたから性病予防や検査をしていたな。


314. 2014年8月14日 11:32:41 : 3gZQrAbzCE
日本は戦前も戦後も法治国家。公娼制度では週に一回売春婦は検査の義務がある。
だが前線で町医者がいない場合民間支援の一環で軍医がこれを行なう。多分無料だと思うよ。
また下記法律前から身分証明制で人攫いの犯罪を取り締まってた。自称性奴隷のビルマ出国の手記にも書いてる。億単位の金を扱った追軍売春婦、ブンオクチュ?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E9%82%A3%E6%B8%A1%E8%88%AA%E5%A9%A6%E5%A5%B3%E3%81%AE%E5%8F%96%E6%89%B1%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E4%BB%B6

年齢は16から30だな。渡航輸送費は300円今で言う300万円だね。食費も有料、民間人だからね。軍属だったらタダ。 

それと戦前の売春婦の実態が表す手記も張っとこう。慰安所は軍内にあるけど内地では民間売春宿。

https://www.youtube.com/watch?v=UfaylFs8X58

1〜5まであるが見て最期にあなたの心に残る物は? 中国韓国の文化であり容易
に人肉話が出てくる理由が判れば〇。日本文化には元々ないが報復でする可能性がある。1960年に韓国で売春対象者100万人検査して性病羅漢率50%で危ない。管理が絶対必要。戦中の日本で性病は不治の病
だからね。また軍施設に売春宿があると一言も出てこないし売春宿を警備するはずの兵隊もいない。


315. 2014年8月14日 11:38:45 : 3cdYZYbVIc
>そのことは米軍慰安婦の運営体制のことだな


米軍慰安婦は旧日本軍が業務委託した慰安婦の業者が管理してたんだけどね。


316. 2014年8月14日 11:42:01 : 3cdYZYbVIc
>売春宿を警備するはずの兵隊もいない。


逃げた慰安婦へのリンチは日本兵がやっていたんだよね。

民間業者では拷問や殺しまではやれないからね。


317. 2014年8月14日 14:21:00 : BbXU33ngl6
>場所と月日だけ創作だったと言ってるだけだろ
>体験記の内容自体は朝鮮のいたる所で行われた事だから創作の要素はない

吉田氏の服務歴を調べればいつどこで何をしていたかだいたい分かる筈。場所と月日は創作でも、実際に見聞きしたかどうかという検証は可能です。

それすらも拒否した吉田証言を信じるのは「信じたい事を信じる」馬鹿だと思いますよ。

「創作の要素はない」<そもそも大枠が創作じゃん(笑)。


318. 2014年8月14日 17:45:39 : GVjtlwcNGk
朝日新聞慰安婦報道 要旨と問題点

朝日新聞は2014年8月5日の朝刊で、いわゆる従軍慰安婦問題に関する同社のこれまでの報道内容についての記事を掲載した。記事の要旨を紹介するとともに、問題と思われるポイントを示した。

吉田清治氏の証言 韓国側「根拠」として利用
◆朝日新聞の要旨
朝日新聞は、吉田清治氏(故人)の証言を強制連行の有力な証拠として、確認できただけで16回、吉田氏を取り上げた。初掲載は1982年9月2日の大阪本社版社会面で、「済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』」と報じた。

しかし、産経新聞が1992年4月30日の朝刊で、吉田氏の証言に疑問を投げかける記事を掲載し、一部週刊誌も「『創作』の疑い」と報じ始めた。これを受け、朝日新聞の記者が吉田氏に会い、裏付けのための関係者の紹介やデータ提供を要請したが、拒まれた。

続いて、東京社会部記者が1997年3月31日の特集記事のために取材を試みたが、吉田氏は面会を拒否。証言の真偽を電話で問うと「体験をそのまま書いた」と答えた。済州島でも取材したが、証言の裏付けは得られなかった。その後、朝日新聞は吉田氏を取り上げていない。

2014年4月〜5月には、済州島で70歳代後半〜90歳代の計約40人に話を聞いたが、吉田氏の記述を裏付ける証言は得られなかった。戦時中の朝鮮半島の動員に詳しい外村大・東京大准教授ら研究者への取材でも、証言の核心部分についての矛盾点がいくつも明らかになった。

◆問題のポイント
朝日新聞が、吉田氏の証言に基づき「慰安婦狩り」を大々的に報じたことで、「官憲による組織的な強制連行が行われていた」との誤解が、国内外で広がった。朝日新聞は1983年11月10日には「ひと」欄でも吉田氏を取り上げている。

吉田氏の証言の信憑性は、1990年代半ばには研究者からは否定されていた。国際関係にも重大な影響を与えていることを踏まえれば早急に事実関係の有無を調査することが求められていたと言える。

にもかかわらず、言わば「火付け役」となった朝日新聞が記事を訂正しなかったことで、韓国側が慰安婦の強制連行があったとする根拠の1つとして長らく利用され続けた。韓国系団体が全米各地で設置を進めている従軍慰安婦の石碑に「20万人以上の女性と少女が日本軍によって性奴隷になることを強制された」と記されている。

*吉田清治氏の証言
元「労務報国会下関支部動員部長」を名乗る吉田清治氏が、韓国・済州島(チェジュ)島で無理やり女性を連れ去る”慰安婦狩り”に関わったとする証言。いわゆる従軍慰安婦の「強制性」を示す証言として取り上げられた。1983年に出版された吉田氏の著書「私の戦争犯罪」でも描写されたが、後の研究で、証言の信憑性が否定された。


319. 2014年8月14日 17:54:31 : 3gZQrAbzCE
ごめんなさい。反日妄想=あさひるやつらが多いんで一言。


>>316


最近でも尼崎事件があったね。朝鮮ヤクザって知らないのか?

米軍慰安婦の話、第5補給品の話。調べてごらん。
生娘がいきなり命令されたらごねるね。韓国軍のイジメで自殺する大の男性が多発
して社会問題になってる。
慰安隊で命令を聞かないと上官はどうするかね?主語を日本軍に変えてるだけだよ。昨年フイリピン政府がフイリピン女性の性奴隷虐待で韓国政府を訴えたな。民間も怖いよ。はっきり言うと民度、道徳観で行いは決まりこれは100年単位では民族的には変らない。


320. 中川隆 2014年8月14日 18:00:27 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
>吉田氏の服務歴を調べればいつどこで何をしていたかだいたい分かる筈。場所と月日は創作でも、実際に見聞きしたかどうかという検証は可能です。


吉田清治の残した書類を調べれば当然わかるんだけど、吉田清治の息子が右翼から脅迫されたか大金を貰ったかで、関係書類をすべて処分したみたいだからね。

だからもう真相はもう永遠にわからない。


321. 2014年8月14日 19:20:25 : 3cdYZYbVIc
産経・文春グループにとっては2,3億円で吉田清治の息子を黙らせられるんなら安いもんだ世ね。

322. 2014年8月14日 20:29:42 : SekyJnIBGo
朝日新聞「慰安婦問題を考える」特集要旨
2014.8.8 08:51
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140808/plc14080808510012-n1.htm

 【「済州島で連行」証言】

 吉田清治氏が、朝鮮で戦争中、慰安婦にするため女性を暴力を使って無理やり連れ出したと著書や集会で証言した。朝日新聞は80年代から90年代初めに記事で吉田氏を取り上げた。

 朝日新聞は吉田氏について確認できただけで16回、記事にした。初掲載は82年9月2日の大阪本社版朝刊。講演内容として「済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』」と報じた。90年代初め、他の新聞社も吉田氏を記事で取り上げていた。

 92年4月30日、産経新聞は、秦郁彦氏による済州島での調査結果を元に証言に疑問を投げかける記事を掲載。週刊誌も「『創作』の疑い」と報じ始めた。

 東京社会部記者は産経新聞の記事の掲載直後、吉田氏に会い、裏付けのための関係者の紹介やデータ提供を要請したが拒まれた。97年3月31日の特集記事のための取材の際、吉田氏は東京社会部記者との面会を拒否。虚偽ではないかという報道があることを電話で問うと「体験をそのまま書いた」と答えた。今年4〜5月、済州島内で計約40人に話を聞いたが、吉田氏の記述を裏付ける証言は得られなかった。

 ◇読者のみなさまへ

 吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました。


323. 2014年8月14日 20:50:49 : 3cdYZYbVIc
そんな昔の事をきちんと覚えている訳ないから、間違いが含まれるのは当然何だけどね。

1箇所間違いを見つけて、他もすべて間違いだと錯覚させるのが産経・文春グループの手口差。


324. 2014年8月14日 21:03:34 : 7XCLlQ2Jd6
ところで吉田清治や朝日新聞、在日朝鮮人たちが捏造した強制連行を
中川さんは信じているのかね?

325. 中川隆 2014年8月14日 21:59:49 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
戦中の朝鮮の男が無理やりトラックに載せられて内地に連れて来られたのは誰も否定しない事実だからね。

朝鮮の男を強制連行したのが厳然たる事実として認められてるんだから、朝鮮の女だけは強制連行されなかったというのはおかしいだろ。


326. 2014年8月14日 23:33:07 : 7XCLlQ2Jd6
別におかしくないだろ。
おまいの思い込みのほうがおかしいと思うがな。
内地といっているのは、本土のことか?

327. 中川隆 2014年8月15日 00:43:10 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
北海道で朝鮮人を死ぬまで酷使したタコ部屋は有名だろ

朝鮮だけでなく、日本の全占領地域で慰安婦を強制連行していたんだから、朝鮮の女だけが例外の訳無いのさ。


328. 2014年8月15日 00:54:17 : 7XCLlQ2Jd6
それが思い込みだろーよ。
日本軍は、非常に規律の厳しい軍隊だったからな。
全占領地域で強制連行している業者や軍人を取り締まっていたんだよ。
きみは洗脳されちゃってるから真逆の歴史観をイメージしちゃってるんだ。

329. 中川隆 2014年8月15日 01:10:22 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

違法行為をやっていると自覚していたから、時々 いかにもそういう違法行為を取り締まっているかの様なポーズを取らざるを得なかったのさ。

日本軍関係者が誘拐されたとわかった慰安婦を一人でも送り返していたら、そうも言えたんだけど、実際には逆に、逃げた慰安婦に凄絶なリンチを加えて殺してたんだしね。

慰安婦関係の書類を全部燃やしたのも、証拠が残ると死刑になるのがわかっていたからさ。


330. 2014年8月15日 04:28:49 : arCij24Hv2
ちょんがファビッてんな。
都合が悪くなると面白いくらいファビルちょん。
解りやすくていいね〜
20万人済州島から女性を強制連行したのに世代別人口がどの国よりまともなのはどういう事ですかね?数字はごまかせませんよ。
イメージ戦略や感情論は強烈だけど数字は正直ですよ。
現地のおばあちゃんに聞いてみな〜全てでまかせで関係ない連中が騒いでる事がわかりますよ。
本当に数字に弱いチョン。
もうちょっと整合性取れよ。
まあ南京も一緒だけどね。

331. 2014年8月15日 06:56:49 : AsnzE8Jgz2
吉田 清治(よしだ せいじ、1913年(大正2年)10月15日 - 2000年(平成12年)7月は福岡県出身の作家。強制連行犠牲者遺骨祭祀送還協会の元会長。清治は筆名で、本名は吉田雄兎、別名は東司、栄司、とされているが出身校の卒業時の名簿(卒業名簿)では当該人物は死亡とされている。他、職歴の詐称を行っていることが明らかとなっている。
『私の戦争犯罪』(1983年)などの著書を上梓し、済州島などで戦時中に朝鮮人女性を慰安婦にするために軍令で強制連行(「慰安婦狩り」)をしたと告白証言を行いその謝罪活動などが注目されたが、後に日本と韓国の追跡調査から創作であることが判明し、本人も慰安婦狩りが創作であったことを認めた。吉田証言を16回にわたって記事にしてきた朝日新聞も2014年8月5日に、これを虚偽と判断して、すべての記事を取り消した。共同通信も7回にわたって吉田証言を記事にしたが、1992年頃より識者らの間で信ぴょう性に疑問を呈する声が出だしたため、1992年を最後に記事としての取り上げを辞めている。

332. 2014年8月15日 08:08:20 : 3cdYZYbVIc
>本人も慰安婦狩りが創作であったことを認めた


これが産経・文春グループの流したデマだろ



333. 2014年8月15日 14:26:41 : 7XCLlQ2Jd6
最後は、デマで逃げるんだなw

334. 2014年8月15日 16:08:44 : 6kE167yY3I
吉田清治本人による証言否定
吉田は自著の虚偽を指摘された後も韓国での謝罪行脚や朝日新聞での証言を続けていたが、1995年に「自分の役目は終わった」として著書が自身の創作であったことを認めた。
1996年(平成8年)5月2・9日付の週刊新潮インタビューで吉田は以下にように語った。
まあ、本に真実を書いても何の利益もない。関係者に迷惑をかけてはまずいから、カムフラージュした部分もある。事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやることじゃありませんか。チグハグな部分があってもしようがない。-週刊新潮1996年5月2/9号
と語り、自らの証言を創作(フィクション)を含むものであることをあらためて発言した。
1998年9月2日に秦郁彦は、吉田に電話で「著書は小説だった」という声明を出したらどうかと勧めたら、「人権屋に利用された私が悪かった」とは述べたが、「私にもプライドはあるし、八十五歳にもなって今さら……このままにしておきましょう」との返事だったという。
吉田がその著書中から事実と主張する部分と創作の部分とを分離修正せず放置したため、検証が不可能であるために、2007年(平成19年)現在では吉田証言が強制連行の存否において信頼できる証拠として採用されることは、ほぼなくなった。

335. 2014年8月15日 21:18:55 : 3cdYZYbVIc
吉田清治は場所と月日を変えただけだと言ってる

それ以外は産経・文春グループの流したデマ

そもそも書いた本を廃刊にしていないんだから中身は真実だという事だ


336. 2014年8月16日 00:53:17 : 7XCLlQ2Jd6
時と場所が違っていたらデマだわな。
出鱈目本はいくらでも世の中に存在するぞ。
廃刊にしてない本はすべて真実だと思い込んでるから洗脳されてしまうんだよ。

337. 中川隆 2014年8月16日 07:26:50 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
歴史学者で吉田清治の本の内容自体を疑っている人は一人も居ないよ。

338. 2014年8月16日 09:00:20 : 7XCLlQ2Jd6
一人も居ないなどと吹聴する前に
あなたが疑う目を持ちなさい。
あなたが洗脳されてしまっているではないか。

339. 中川隆 2014年8月16日 11:10:52 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
他の資料との整合性からして吉田清治の話は疑えないと言うだけだ。

そもそもあれだけ詳細で生々しい話を一回ですべて創作できるとしたらトルストイやドストエフスキーのクラスの天才だけだろう。


340. 2014年8月16日 15:37:30 : 7XCLlQ2Jd6
もっと疑え。足りないんだよ。
君が意外と素直なのか。
そういった人間が洗脳されるのか。
一回ではない。一人ではない。天才ではない。

341. 中川隆 2014年8月16日 19:38:21 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
トルストイやドストエフスキーだって長い修練を積んで、習作を沢山書いてやっと創作できる様になったんだ。

凡人の吉田清治が習作を書いた経験なしでいきなりあれが書ける筈もない。


342. 2014年8月16日 20:01:59 : 7XCLlQ2Jd6
吉田清治は作家だぞ。捏造だけでなく職歴詐称までする信頼の置けない人間だ。
金貰えばいくらでも書くさ。
そういった人間は、中国、朝鮮だけでなく日本にもいる。

343. 2014年8月16日 21:07:38 : 3cdYZYbVIc

慰安婦を売春婦だと言う御用学者よりはまともだろ。

344. 2014年8月16日 22:36:32 : FYKx9hsP6A
吉田清治本人が従軍慰安婦は創作、つまり嘘だと言っている。

あの朝日新聞でさえ、吉田清治の話は虚偽で記事を取り消すと言っている。

済州島を調査した人も強制連行の裏付けは取れないと言っている。

いいかげん無駄な抵抗はやめな。

見苦しいだけだ。


345. 中川隆 2014年8月16日 23:20:50 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

削除された >>17 に書いてあるけど:


秦は1996年3月27日の吉田清治さんとの電話での会話について、こう書いている。

・・・彼が


「済州島の慰安婦狩りの情景は、実際には全羅南道でのできごとだった」

と言うので、

「では全羅南道の話はすべて真実か」

と聞くと、

「いや、全羅南道の被害者に迷惑がかかるといけないので、他の場所での話が混ぜてある・・・・・」


346. 中川隆 2014年8月16日 23:30:52 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
朝日新聞は吉田清治さんの話が全羅南道でのできごとだったと良く知っていながら、わざわざ済州島だけで聞き取り調査したのさ。

官邸から圧力がかかったんだろうな。

[32削除理由]:多重投稿

347. 2014年8月16日 23:55:40 : D7FFt6fYXM
20万人の従軍慰安婦強制連行は共産党の文筆家の吉田清治が1983年に捏造した物です。

吉田 清治(よしだ せいじ、1913年(大正2年)10月15日 - )は福岡県(山口県とも)出身の元日本陸軍軍人であり作家。強制連行犠牲者遺骨祭祀送還協会の元会長。清治は筆名で、本名は吉田雄兎。戦後30年を経て慰安婦問題の嚆矢となる『私の戦争犯罪』を上梓したが後に創作であることが判明、本人も認めた。

終戦後の1947年(昭和22年)に、下関市議会議員選挙に日本共産党から立候補。129票を獲得したが落選したという経歴を持つ。

 1977年(昭和52年)に、『朝鮮人慰安婦と日本人』を新人物往来社から出版。その中で、第二次世界大戦中に日本軍人が朝鮮の女性を強制連行し慰安婦にしたなどと証言。1982年(昭和57年)には第一次樺太朝鮮人裁判で朝鮮人の奴隷狩りを証言。1983年(昭和58年)に、いわゆる従軍慰安婦問題の発端となった『私の戦争犯罪』を上梓した。その後も朝日新聞・しんぶん赤旗などで自身の「戦争犯罪」の告白を展開。韓国にも赴き、講演と謝罪を繰り返した。このような告白、謝罪を行ったのは清治のみであった為、当時、清治は「勇気ある唯一人の告白者」とされていた。

 1989年(平成元年)8月14日、韓国済州島の地元紙『済州新聞』が取材結果をもとに「『私の戦争犯罪』は捏造」と報じた。1992年(平成4年)3月には秦郁彦が、清治の「慰安婦狩りを行った」という証言について済州島で現地調査を行ったがまったく裏付けは取れなかった。当時を知る島民は「この島で人間狩りが起こったら大騒ぎになって誰でも知っているはずだが、そんな話は聞いたことすらない」との証言をした。同書は韓国語訳され現地の『済州新聞』で住民の証言をもとに論評がなされているが、「あり得ないこと」「(このような作り話の本は)道徳性の欠如した本で、軽薄な金儲け主義的」と一蹴されている。秦は、同記事の執筆者である許栄善と面談の折、許から「何が目的でこんな作り話を書くんでしょうか」と聞かれ答えに窮したという(秦は『正論』に調査結果を公表、『昭和史の謎を追う』(文藝春秋1993年3月)に掲載し、菊池寛賞を受賞した)。

 また、上杉聰は吉見義明・中央大学教授とともに清治と面談した結果、「吉田の証言を嘘と断定することはできないが、「時と場所」という歴史にとってもっとも重要な要素が欠落したものとして、歴史証言としては採用できない」としている。

 1996年(平成8年)5月29日付の週刊新潮インタビューで、清治は「本に真実を書いても何の利益もない。事実を隠し自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやるじゃないか」と『私の戦争犯罪 -- 朝鮮人強制連行』中の記述において、「人間狩りを行なった場所がどこであるかについては創作を交えた」と認めた。しかし、現実の問題として清治がその著書中から事実と主張する部分と創作の部分とを分離せず、検証が不可能であるために、2007年(平成19年)現在では吉田証言が強制連行の存否において信頼できる証拠として採用されることは、ほぼなくなった。
 1998年(平成10年)に、吉田は秦との電話会見に応じ「人権屋に利用された私が悪かった」と反省の弁を告白した。秦はその後の調査結果をまとめ、公刊した。


348. 2014年8月17日 00:14:13 : 3cdYZYbVIc
自民党工作員がしつこいな。

既に上で間違いだと示したことを何度も何度もコピペしてるだけだな


349. 2014年8月17日 00:33:05 : 7XCLlQ2Jd6
つまり全て捏造であるということだな。
金儲けしちゃったんだからさ。
詐欺師は、表面的には善人の行動を見せかけて近づいてくる。
そして防衛本能が働く。
嘘が嘘を呼ぶ。
気を使っているふりをして自己防衛だな。


350. 2014年8月17日 00:41:33 : 7XCLlQ2Jd6
人権屋に利用されたと言いつつ
自分も利用して金儲けしたんだよ。

351. 2014年8月17日 01:17:27 : hFHQWqsyPA
サヨク、ウヨクと共に唾棄すべし。
どちらも朝鮮人とユダヤまたその邪心に毒されし者共也。
愛国の左翼右翼、互いに手を取りて邪を排し国難を克服すべし。

352. 2014年8月17日 01:40:12 : UWn5AjqUUU
朝日新聞のねつ造記事からこの問題始まった


    徹底検証!「従軍慰安婦」問題は朝日新聞の捏造から始まった
 韓国の李明博大統領が竹島に上陸して以来、日韓関係がぎくしゃくしている。大統領は上陸前「日本は従軍慰安婦問題を心から謝罪していない」と述べ、一連の問題の発端が慰安婦問題にあると発言した。

 だが、2012年8月21日、橋下徹大阪市長は「従軍慰安婦問題で強制連行があったという確たる証拠はない」と述べ、2012年8月24日には石原慎太郎都知事も「はっきり言って強制ではない。強制した証拠がどこにありますか」と語っている。では、いったい、どうしてこの問題が騒がれ続けるのか。

’82年9月2日付けの朝日新聞では、昭和18年夏、わずか1週間で朝鮮・済州島の若い女性200人を狩り出したという吉田清治氏の懺悔が大々的に取り上げられていた。吉田氏は女工から海女まで手当たり次第に拉致し、慰安婦に仕立てあげたというのだ。

 「当時、われわれは『狩り出し』という言葉を使っていた…泣き叫ぶというような生やさしいものではない。船に積み込まれる時には、全員が虚ろな目をして廃人のようになっていた…」

 これ以後、吉田氏は朝日新聞紙面に何度も登場し、従軍慰安婦の悲惨さを語り尽くした。だが、現代史家の秦郁彦氏はこう語る。

 「吉田証言は完全な作り話なんです。証言が本になってすぐ現地の『済州新報』が取材しているが、一つも事実が見つからなかった。私も’92年に現地調査しましたが、証言を裏付ける話は何一つ出てこない。ある韓国の郷土史家は何年も調査し、拉致の事実はなかったと断言、吉田氏の本を『日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物』とこき下ろしてるんです」

 つまり吉田氏は本を売って儲けるため、嘘八百を並べ立てたというのだ。実際、吉田氏は「証言は捏造だった」と後に認めている。その後も、従軍慰安婦問題を取り上げ続けた朝日新聞も《氏の著述を裏付ける証言は出ておらず、真偽は確認できない》(’97年3月31日付)と暗に誤報を認めている。

 しかし、この証言は独り歩きし、いまでは「日本軍が韓国人女性を性奴隷にした」という噂が国際的に広まってしまったのである。慰安婦問題は、この証言を始まりに日本の左翼が種を蒔き、それに韓国が乗っかって花を咲かせたのだ。秦氏は吉田氏を祭り上げた朝日や同調した歴史家の罪は重いと言う。

 では、この問題を大きく育てた朝日新聞は「捏造問題」にどう答えるのか。取材を試みたが、返ってきたのは「締め切りまでに回答できません」というもの。日韓関係をここまでめちゃくちゃにした謝罪の言葉は、いっさいなかった。

(週刊FLASH 2012年9月11日号)

353. 中川隆 2014年8月17日 07:08:41 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
工作員君必死だね

すべて上で完膚無きまでに否定された事ばかり何回も何回も繰り返してもね(嘲笑い)


354. 中川隆 2014年8月17日 08:16:14 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

因みに、阿修羅の管理人さんを疑う訳じゃないけど、選りに選ってこの投稿の核心部分だった

>>17

だけが何故か削除されて居ますね。


355. 2014年8月17日 08:17:51 : 3cdYZYbVIc
>>17 は『削除コメント表示切り替え』を押して表示して下さい。

356. 2014年8月18日 00:31:17 : L6MjTOfOVc
朝日虚報は日本糾弾の発信役 ワシントン駐在客員特派員・古森義久
2014.8.17 03:07
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140817/amr14081703070001-n1.htm

 米国での慰安婦問題に関する動きを長年、報じてきた立場からみると、朝日新聞の虚報が日本の名誉を不当におとしめた罪に計り知れない重大さを感じる。

 日本の慰安婦問題を米国内で初めて非難し始めたのは1992年に創設された「慰安婦問題ワシントン連合」という組織だった。ちょうど朝日新聞が「日本の軍(官憲)が朝鮮人女性を強制連行した」と本格的に報じ出した時期である。

 少数の在米韓国系活動家によるこの組織は首都の議事堂や教会、大学で展示をして、「日本軍により組織的に強制連行され、性の奴隷にされた約20万の女性」の悲劇と宣伝した。

 当時、取材にあたった私が同組織の人たちにその主張の根拠を問うと、「日本側の当事者の証言や資料と新聞報道」という答えだった。

 その後、この問題での米国内での日本糾弾には中国系の「世界抗日戦争史実維護連合会」という強力な組織が加わって、陰の主役となり、活動は雪だるまのように大きくなった。その一つの頂点が2007年7月の連邦議会下院での日本非難決議の採択だった。

このプロセスでの日本攻撃の矢は一貫して「軍による女性の組織的な強制連行」に絞られた。決議が「日本帝国陸軍による若い女性の性的奴隷への強制」と明記したのがその総括だった。

 同決議を主唱したマイク・ホンダ議員は審議の過程で第二次大戦後の日本でも占領米軍が日本側に売春施設を開かせたという報道に対し、「日本軍は政策として女性たちを拉致し、セックスを強制したが、米軍は強制連行とはまったく異なる」と強調した。

 同決議案を審議する公聴会の議長を務めたエニ・ファレオマバエンガ議員は「米国も人権侵害は犯してきたが、日本のように軍の政策として強制的に若い女性たちを性の奴隷にしたことはない」と断言していた。

 要するに米国からみての悪の核心は「日本軍による女性の組織的な強制連行」に尽きていた。その主張の土台は明らかにすべて日本から発信された「証言」「資料」「報道」だった。その発信役が朝日新聞だった。

 だがいまや朝日自身がその「証言」「資料」「報道」のすべてが虚構だったというのだから事態は深刻である。とくに慰安婦狩りをしたとするデマの吉田清治証言は米国の議員らが審議で最大の参考記録とした議会調査局報告書の基礎となったのだから、決議自体が日本にとって冤罪(えんざい)だといえよう。

朝日新聞が30年以上も発し続けた慰安婦問題の虚報が米国や国際社会の日本糾弾を招いたと述べても過言ではない。「日本軍の強制連行」が事実でないとわかっていれば、こんな日本たたきはなかった。だが米国ではいまもその虚構に屋を重ねる慰安婦の像や碑が建てられているのだ。

 しかし朝日新聞は公器としての責任をとろうとはしない。虚報や誤報の自認や取り消しをしながらもなお、論点をそらせて「慰安婦問題の本質 直視を」と逃げる態度はグロテスクである。被害者側としては「朝日問題の本質 直視を」と訴えたい。


357. 2014年8月18日 07:15:59 : 3cdYZYbVIc
12,13才のロリータを誘拐して性奴隷にしたんだから朝日新聞とは関係ないだろ

358. 2014年8月18日 08:24:46 : 0tercwvNuU
【新聞に喝!】
朝日の慰安婦検証記事への疑問 日本文化大学学長・大森義夫
2014.8.17 11:06[新聞に喝!]
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140817/plc14081711060010-n1.htm

 「朝日新聞が吉田清治氏の証言を虚偽と判断し、記事を取り消したことは良かった。しかし、評価に値するのはその一点のみだ」(6日付産経、西岡力氏)。「ずっと以前から指摘されていた誤報だが、もっと早く検証し、誤りを認めてほしかった。そうしていれば、この問題でここまで日韓関係がおかしくなることはなかったのではないか」(同読売、坂元一哉氏)。

 慰安婦報道に関する朝日の検証記事(5、6日付)は新聞史上に残る出来事である。歴史家の秦郁彦氏が済州島で実地調査を行って産経紙上で吉田証言への疑問を提起してから20年余、なぜ今になって、しかも原爆忌や敗戦記念日が重なる時期に発表したのだろう?

 (1)原因は当時の研究の乏しさにあった(2)他紙も同じような記事を書いた、と言うのはまともな反省、謝罪ではない。

 強制連行の有無ではなく「戦時中、日本軍兵士らの性の相手を強いられた女性がいた事実を消すことはできません。慰安婦として自由を奪われ、女性としての尊厳を踏みにじられたことが問題の本質なのです」との朝日の主張は韓国メディアには好評のようだが「事実」を報道するという新聞本来の任務の放棄であり論点のすり替えである。

第2次安倍内閣が発足した直後、平成24年12月27日付朝日は精神科医、斎藤環(たまき)氏のヤンキー社会論を掲載した。ヤンキーとは「日本社会に広く浸透している『気合とアゲアゲのノリさえあれば、まぁなんとかなるべ』という空疎に前向きな感性のこと」だそうで、なぜこの時期に安倍内閣が復活したのか、また安倍内閣の持つ“危険性”を分析した指摘なのだが、斎藤氏は「世論に押されて実はヤンキー化しているマスコミがその傾向を後押ししている」と続ける。

 まさしく、「日本人の戦争責任」とか「女性の尊厳」とか自分たちで掲げた言葉に酔ってカッコよく突っ走るヤンキー文化に朝日はどっぷりつかっているのではないか。

 7日付の朝日社説は「警察の不正 組織の病理にメスを」と論じている。政権や警察を鋭く批判するのは正当な役割だが、朝日は昭和25年、当時潜行中の共産党幹部、伊藤律氏との“会見記”を捏造(ねつぞう)したのをはじめ虚報が多すぎる。「組織の病理にメスを」入れるべきは朝日自身なのではないか?

多年にわたる朝日の誤報が傷つけたのは新聞への信頼、日本の国際的な信用だけでなく、青少年の日本国民としての誇りである。

 朝日は全社あげてやり直せ。ラストチャンスと認識せよ。

【プロフィル】大森義夫

 おおもり・よしお 昭和14年東京生まれ。東京大法卒。38年警察庁入庁。元内閣情報調査室長。平成24年から現職。


359. 2014年8月18日 12:11:17 : 5lwakShuyg

吉田清治に喝!

朝日新聞に喝!

中川隆に喝!だぁぁぁ!!!!!


360. 中川隆 2014年8月18日 21:52:40 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
朝日新聞は新聞に軽減税制を適用して欲しくて安倍の言いなりになっただけだろ。

朝日新聞は吉田清治さんの話が全羅南道でのできごとだったと良く知っていながら、わざわざ何の関係もない済州島でだけで聞き取り調査したのはその為さ。

[32削除理由]:多重投稿

361. 中川隆 2014年8月18日 21:56:23 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

「女子挺身隊」を「慰安婦」と混同したというのも、実際に戦中の朝鮮では同じものだったからさ:


従軍慰安婦「挺身隊へ行くと慰安婦にされる」という噂の真相


朝鮮では、1944年3月から、官斡旋の女子(勤労)挺身隊が徴募されると、 「挺身隊に行くと慰安婦にされる」という噂が執拗に流れました。

この噂を信じて、(挺身隊に取られ慰安婦にされるのを防ぐために)早婚が多数行われました。 (結婚という人生に於ける最重要行事が、この噂によって左右されました。)戦後も長期にわたってこの噂が執拗に流れ続けました。

このほかの色々な可能性も比較した結果、「事実情報が非公式に流れた」可能性が最も大きいと判断しました。

ちなみに、挺身隊から慰安婦を選抜するとしたら、日本にとって次のようなメリットがあったと考えられます。

安定して若い慰安婦を確保できる
徴募した後で、徴募者の中の一部について選抜するのであれば、「朝鮮人社会の中で強制徴募して騒がれる」ようなことは防ぐことが出来る。

【詳細】

朝鮮では、1944年3月から、官斡旋の女子(勤労)挺身隊が徴募されると、「挺身隊に行くと慰安婦にされる」という噂が執拗に流れました。

「慰安婦と戦場の性」 新潮選書  秦郁彦著
著者略歴:前出

p.367
【 ・・・・・・女子に対しては、国民徴用令も、女子挺身勤労令も朝鮮半島では適用しなかったが、官斡旋の女子(勤労)挺身隊が内地へ向ったこともあり、各種の流言が乱れ飛び、未婚女子の開にパ二ック的動揺が生れたらしい。

四四年十月、朝鮮総督府鉱工局労務課が作成した『国民徴用の解説』というパンフレットを見ると、一問一答の形式で「女子の徴用は実施されますか」との問に「今後に於ても女子を動員する場合、女子挺身勤労命発動によるといふ考は今の所持つてをりません。

今まで朝鮮の女子挺身隊は、みな官の指導斡旋によるもので、内地の・・・・・立派な施設の整った飛行機工場等に出してをります。

今後ともこの官の指導斡旋を建前とする心算」と答えている。・・・・・・・】


p.369-372
【・・・・・ところで、内地工場向けの女子挺身隊派遣を慰安婦と混同する風聞は、当時からかなり広く流れていたようである。四四年六月、朝鮮総督府官制改正に関する内務省の閣議用説明文に次のくだりがある。

認識猶ほ浅く勤労報国隊の出動をも斉しく徴用なりと為し、一般労務募集に対しても忌避逃走し或は不正暴行の挙に出ずるものあるのみならず、

未婚女子の徴用は必至にして中には此等を慰安婦となすが如き荒唐無稽なる流言巷間に伝はり、此等悪質なる流言と相俟って……

・・・・・・・ともあれ、流言に惑わされた若い女性や親は、学校を中退したり結婚させることで危険回避をはかつたらしい。

『京城日報』には「早婚組の氾濫」という見出しのついた記事(四四年四月二十二日付)も見かける。

のちに短冊協代表となる尹真玉もその一人で、四三年四月梨花女子専門学校に入学した年の秋学期には自主退学する学生か増えた。

「ともかく娘を結婚させて、挺身隊に出すことを防ごう、男性なら誰とでも結婚させようとして早婚がはやった」からで、彼女も父親の意見に従って退学した。

やはり挺隊協系の活動家である全文淑は、次のように言っている。

女子挺身隊の噂を聞くようになったのは、女学校四年生のころだったと思います。慰安婦にされるとかそんなことは、言も知らないし噂に聞いたこともありませんでした。

ただ「軍需工場に行かされたら、いつ爆撃されて死ぬかわからない」という考えで、みんな一所懸命に挺身隊へ行かないですむことを考えました。・・・・・


 ・・・・・ともあれ、挺身隊と慰安婦を混同する当時の風説は戦後も継承され、元挺身隊員は慰安婦とまちがえられるのを恐れて、名乗りたがらぬ傾向がつづいた。

山下英愛百韓混血の梨花女子大大学院生)が「韓国では、一般的に挺身隊という言葉を日帝時代に強利運行され日本軍の慰安婦にされた女性、という意味で使っている」と書いた・・・・・・・・】

この噂の真偽をどのように判断したらよいでしょうか
一般に、噂が流れる状況とは、次のような場合が考えられます。

1. 重大なことが行われたにもかかわらず、その事実が公表されなかった場合。(事実情報が非公式に流れていく)

この可能性は、相当大きいと考えられます。

この噂を信じて、(挺身隊に取られ慰安婦にされるのを防ぐために)早婚が多数行われました。結婚という人生に於ける最重要行事が、この噂によって左右されたのです。噂とはいえ、相当の信頼性がないと、こうはならないのではないでしょうか。

今の時代でたとえれば「○○病院の○○先生は、○○病の手術の権威」という噂程度の信頼性があったように思えます。

戦後も長期にわたってこの噂が執拗に流れ続け、これを修正するような話は寡聞にして知りません。これも、この噂が事実であったことを想像させます。

2. 事実無根の場合


2-1 意図的に噂を流すものがいる場合
反日運動の一環として挺身隊を妨害するために「慰安婦」の噂を流した可能性。この可能性は薄いように思います。

相当数の同胞朝鮮人の参加が避けられない挺身隊について、参加する同胞を決定的に貶めることになる噂を流す可能性は少ないのではないでしょうか。

意図的に噂を流した場合でも、戦後、「挺身隊に行った多くの人」を誤解から救う処置(「デマ」であったと告白するなど、何らかの事情説明など)が行われるのではないか。しかし、このような話は聞いたことがありません。

2-2 (想像によって、ありもしない噂が流れるような)不安心理を生ずる状況があった可能性。これも可能性は薄いと思います。

「1920年代には、既に、十代の女性が、毎年数千人規模で身売りによって、海外へ売られる」状況がありますので、「戦地の慰安婦もこの方式で充当されている」と思われていたのではないかと思えるのですが。挺身隊へ(強制的ではあっても)志願する(=身売りと無縁な)家庭では、娘が「挺身隊で慰安婦に取られる」ような不安は、(慰安婦にされた事実がないかぎり)生じなかったのではないでしょうか。

2-3 「過去に類似した事例があったことからの類推」も考えにくいと思います。

労働要員としての挺身隊のような徴募そのものが、過去に類似例の無い政策。


これらの内、上記1.の(事実情報が非公式に流れた)可能性が最も大きいのではないでしょうか。

ちなみに、挺身隊から慰安婦を選抜するとしたら、日本にとって次のようなメリットがあったと考えられます。

安定して若い慰安婦を確保できる。
徴募した後で、徴募者の中の一部について選抜するのであれば、「朝鮮人社会の中で強制徴募して騒がれる」ようなことは防ぐことが出来る。
http://tnngsg4601.blog110.fc2.com/blog-entry-72.html#more


362. 2014年8月18日 23:17:22 : 5lwakShuyg

朝日新聞デジタル
>

記事
「挺身隊」との混同 当時は研究が乏しく同一視

2014年8月5日05時00分

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 〈疑問〉朝鮮半島出身の慰安婦について朝日新聞が1990年代初めに書いた記事の一部に、「女子挺身(ていしん)隊」の名で戦場に動員された、という表現がありました。今では慰安婦と女子挺身隊が別だということは明らかですが、なぜ間違ったのですか。

特集:慰安婦問題を考える

 「女子挺身隊」とは戦時下の日本内地や旧植民地の朝鮮・台湾で、女性を労働力として動員するために組織された「女子勤労挺身隊」を指す。44年8月の「女子挺身勤労令」で国家総動員法に基づく制度となったが、それまでも学校や地域で組織されていた。朝鮮では終戦までに、国民学校や高等女学校の生徒ら多くて約4千人が内地の軍需工場などに動員されたとされる=注@。目的は労働力の利用であり、将兵の性の相手をさせられた慰安婦とは別だ。

 だが、慰安婦問題がクローズアップされた91年当時、朝日新聞は朝鮮半島出身の慰安婦について「第2次大戦の直前から『女子挺身隊』などの名で前線に動員され、慰安所で日本軍人相手に売春させられた」(91年12月10日朝刊)、「太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる」(92年1月11日朝刊)と書くなど両者を混同した。

 原因は研究の乏しさにあった。当時、慰安婦を研究する専門家はほとんどなく、歴史の掘り起こしが十分でなかった。朝日新聞は、国内の工場で働いた日本人の元挺身隊員を記事で取り上げたことはあったが、朝鮮半島の挺身隊の研究は進んでいなかった。

 記者が参考文献の一つとした「朝鮮を知る事典」(平凡社、86年初版)は、慰安婦について「43年からは〈女子挺身隊〉の名の下に、約20万の朝鮮人女性が労務動員され、そのうち若くて未婚の5万〜7万人が慰安婦にされた」と説明した。執筆者で朝鮮近代史研究者の宮田節子さんは「慰安婦の研究者は見あたらず、既刊の文献を引用するほかなかった」と振り返る。

 宮田さんが引用した千田夏光氏の著書「従軍慰安婦」は「“挺身隊”という名のもとに彼女らは集められたのである(中略)総計二十万人(韓国側の推計)が集められたうち“慰安婦”にされたのは“五万人ないし七万人”とされている」と記述していた。

 朝鮮で「挺身隊」という語を「慰安婦」の意味で使う事例は、46年の新聞記事にもみられる。44年7月に閣議決定された朝鮮総督府官制改正の説明資料には、未婚の女性が徴用で慰安婦にされるという「荒唐無稽なる流言」が拡散しているとの記述がある。

 挺身隊員が組織的に慰安婦とされた事例は確認されていないが、日本の統治権力への不信から両者を同一視し、恐れる風潮が戦時期から広がっていたとの見方がある=注A。元慰安婦の支援団体が「韓国挺身隊問題対策協議会」を名乗っており、混同が残っているとの指摘もある。

 92年1月の宮沢首相の訪韓直前、韓国の通信社が国民学校に通う12歳の朝鮮人少女が挺身隊に動員されたことを示す学籍簿が見つかったとする記事を配信。「日本は小学生までを慰安婦にした」と誤解され、対日感情が悪化した。

 朝日新聞は93年以降、両者を混同しないよう努めてきた。当時のソウル支局長(72)は「挺身隊として日本の軍需工場で働いた女性たちが『日本軍の性的慰みものになった』と誤解の目で見られて苦しんでいる実態が、市民団体の聞き取りで明らかになったという事情もあった」と話す。

■読者のみなさまへ

 女子挺身隊は、戦時下で女性を軍需工場などに動員した「女子勤労挺身隊」を指し、慰安婦とはまったく別です。当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたことから、誤用しました。


363. 2014年8月19日 00:56:11 : 0dppyZZ9Rw
>>362
> 朝日新聞は93年以降、両者を混同しないよう努めてきた。

だったら、その時にさっさと今回のような検証記事を出すべきだったのでは。

20年!も経ってから「誤用してました」では、読者が誤解したままでいるように
意図的に仕向けてきた、と批判されてもしかたがない。


364. 2014年8月19日 01:07:29 : FFZgrIcf3k
朝日誤報を自民独自検証へ 有志議連、河野氏聴取も
産経新聞 8月16日(土)7時55分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140816-00000097-san-pol

 自民党有志でつくる議員連盟「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(会長・古屋圭司国家公安委員長)は15日、党本部で会合を開き、朝日新聞が慰安婦報道の一部を「虚偽」と認めて取り消したことを受け、党独自の検証を行うべきだとの方針を確認した。慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の河野洋平官房長官談話が朝日報道の影響を受けたかどうかを河野氏本人から事情を聴くよう党に求めることでも一致、対応を高市早苗政調会長に一任した。

 会合に出席した高市氏は「党としてもこの問題はきちんと調査し、事実確認していきたい」と答えた。

 会合後に記者会見した萩生田光一総裁特別補佐(議連幹事長代理)も「党として責任を果たさないといけない」と述べ、安倍晋三首相(党総裁)直属の検証機関の設置も視野に、年内に一定の結論を得たい意向を示した。

 会合ではジャーナリストの櫻井よしこ氏が講演した。櫻井氏は「日韓関係をこのような形にした大きな原因の一つは朝日の虚偽報道だ。朝日はなぜ釈明し、謝罪しないのか。自民党は河野氏からどう考えているのかを聞き、情報公開する責任がある」と訴えた。


櫻井よしこ氏講演要旨「朝日と河野氏は釈明を」
産経新聞 8月16日(土)7時55分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140816-00000099-san-pol

 朝日新聞の姿勢として極めておかしなことがある。何故に、日本国の過去と現在と未来に対してこんなひどい中傷や言われなきことを報道した責任について、社長自ら、もしくは編集局長自ら表に出てきて釈明し謝罪しないのか。

 5日の1面には、朝日があたかも被害者であるかのようなことを書いている。「言われなき中傷」を浴びたのは日本国だ。先人たちだ。私たちだ。未来の子供たちだ。朝日ではない。

 最初に吉田清治証言が出たのは32年前。朝日はこの32年間にどんな記事を書いてきたかを明らかにするのが先決であろう。それによって世論を動かしたのだから。テレビを動かしたのだから。韓国を動かし、世界を動かし、日本をおとしめたのだから。

 だが、自分たちがどんな報道をしたのか、ここには一行も書いていない。こんなメディアはメディアではない。プロパガンダ新聞というものだ。私は、朝日はまず1つ2つやるべきことをやった上で、廃刊にすべきだと考えている。

 まず、世界に発信することだ。英文、ハングル、中国語、フランス語、スペイン語。世界中の人々が日本に対して非常に悪い印象を抱いた。そのもとをつくった責任者として、世界にさまざまな言語で自分たちの間違いを発信すべきだ。

 その上で、当時の社長、編集局長、記事を書いた記者は全員名乗り出るべきだ。日本国の土台を揺るがすような大きな問題だから、社長も含めて編集局全体で議論をしたはずだ。そこに名を連ねた人々は自分たちが展開してきた言説、報道を明らかにすべきだ。

 自民党にも大きな要求を突きつけたい。河野洋平官房長官談話には「強制連行」の文字はないが、強制連行を認めた談話であるという印象が世界中に広がっている。河野氏自身が発表後の記者会見で「強制連行と考えてよいか」との質問に、「おおむねその通り」という趣旨の答えをしたのが原因だ。

 1992(平成4)年4月、吉田証言はでたらめだということが産経新聞で大きく報道された。翌年8月に河野氏は談話を出し、記者会見に応じている。国民の多くはなぜこんなことになったのか、河野氏自身に釈明をしてほしいという強い思いを抱いている。

 自民党は(河野氏を)党本部に呼び、(元)総裁としてどう考えているのか聞き、100%情報公開してほしい。それが当時政権与党だった自民党の責任ではないか。

 一日も早く教科書を書き換え、韓国の人々にも強制連行はなかったと伝えてほしい。申し訳ないという気持ちを、朝日も自民党も表明してほしい。正常にあり得た日韓関係をこのような形にした原因は、こちら側がつくったのかもしれない。その大きな原因の1つは朝日の虚偽報道だ。

 自民党は問題の深刻さをよく認識し、朝日には日本のメディアを代表すると自負してきたプライドと信頼にかけて、今申し上げたことを徹底してやっていただきたい。


365. 2014年8月19日 18:51:02 : 4l3dzws2NU
中川隆の母親でございます。ここ数年この場におきまして、皆様にご迷惑をおかけして申し訳座居ませんでした。この子は統合失調症を発症してから15年経過しております。なぜか1つのことに固執して、そのエネルギーは凄いものを感じますが、適切な友人も出来ず、1人部屋にこもって投稿を続けています。いわゆる病的なオタクとなっております。ですから、皆様この子に関してまともな対応を取らないよう、せつにお願い致します。

366. 中川隆 2014年8月19日 19:12:16 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

自民党のバイト工作員が既に完全に否定された与太話を必死で繰り返し何度も何度もコピペしてるんだね。

恥晒すだけさ。


367. 2014年8月19日 22:14:56 : I9jSF8yWD6
朝日慰安婦報道 「吉田証言」ようやく取り消し
2014年08月06日 01時17分

◆女子挺身隊との混同も認める

 日韓間の大きな棘(とげ)である、いわゆる従軍慰安婦問題について、朝日新聞が過去の報道を点検し、一部だが、誤りを認めて取り消した。

 韓国・済州島で慰安婦を強制連行したとする吉田清治氏の証言である。吉田氏は戦時中、労務報国会下関支部の動員部長だったとされる。

 朝日新聞は1982年9月、「済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』」とする吉田氏の発言をうのみにして報じた。

◆世界に誤解広げた一因

 これが韓国の反日世論をあおっただけでなく、日本について誤った認識が、世界に広がる根拠の一つとなった。今回、吉田証言を初めて虚偽と判断し、それをめぐる記事をようやく撤回した。

 もっと早い段階で訂正されるべきだった。92年には疑問が指摘されながら、20年以上にわたって、放置してきた朝日新聞の責任は極めて重い。

 朝日新聞は82年以降、確認できただけで計16回にわたって、吉田氏について記事にした。92年に歴史家の秦郁彦氏が吉田証言への疑問を指摘したが、修正することはなかった。

 97年3月の検証記事でさえ、吉田証言について「真偽は確認できない」と表記するにとどめた。

 吉田証言は、96年の国連人権委員会のクマラスワミ報告にも引用された。これが、慰安婦の強制連行があったとする誤解が、国際社会に拡大する一因となった。

 朝日新聞の報道におけるもう一つの重大な問題は、慰安婦と「女子挺身(ていしん)隊」との混同である。

 92年1月の1面記事で「主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる」と記した。

 この記事は、宮沢首相の訪韓の直前に報じられた。政府が慰安婦問題を調査し、元慰安婦への「おわびと反省」を表明する河野談話を作成する発火点となった。

 朝日新聞は今回、「女子挺身隊は、戦時下で女性を軍需工場などに動員した『女子勤労挺身隊』を指し、慰安婦とはまったく別」と、初めて誤りを認めた。

 「93年以降、両者を混同しないよう努めてきた」としているが、小学生まで慰安婦にしたかのような誤解を生むことになった。

 「当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられた」と釈明したうえ、他紙も同様の報道をしたと指摘している。

 読売新聞にも当初、女子挺身隊や吉田氏に関して、誤った記事を掲載した例があった。だが、90年代後半以降は、社説などを通じて、誤りを正している。

◆正しい歴史認識持とう

 疑問なのは、「強制連行の有無」が慰安婦問題の本質であるのに、朝日新聞が「自由を奪われた強制性」があったことが重要だと主張していることだ。

 朝日新聞は当初、吉田証言などを基に、慰安婦の強制連行を問題視してきた。だが、強制連行の根拠が崩れると、慰安婦が慰安所に留め置かれていたことに強制性があると主張するようになる。

 今回も、問題の本質は、「慰安所で女性が自由を奪われ、尊厳が傷つけられたことにある」としており、その主張は基本的に変化していない。

 フィリピンやインドネシアなども含め、戦時中に多数の女性の名誉と尊厳が傷つけられる行為があったことは確かである。政府・軍の強制連行はなくとも、現在の人権感覚では、許されないこともあっただろう。

 しかし、「戦場での性」の是非と、軍の強制連行があったかどうかは、区別して論じる必要がある。広義の強制性があったとして日本政府の責任を問うことは、議論のすりかえではないか。

 正しい歴史認識を持つためには、あくまで真実を究明することが欠かせない。

◆日韓関係の正常化を

 韓国の朴槿恵政権は、クマラスワミ報告などを根拠として、日本政府が6月に発表した河野談話の検証結果にも強く反発している。その頑(かたく)なな対日強硬姿勢は、簡単には変わるまい。

 政府は、安易な妥協をすることなく、慰安婦問題に関する日本の立場に対する韓国の理解を粘り強く求めていかねばならない。

 日韓関係は今、首脳会談が2年以上も開かれない異常な状態にある。両国のメディアや国民も、冷静に事実関係を把握したうえで、未来志向の関係の構築に向けて、それぞれの努力を心がけたい。


368. 2014年8月19日 22:58:12 : 3cdYZYbVIc

アホ右翼は朝日の嘘報道を信じ切ってるな。

右翼はそんなに朝日を信頼してるのか?


369. 2014年8月19日 23:53:42 : I9jSF8yWD6

どうだろうここは一つ朝日新聞の不買運動でもやってみようじゃないか。
中川さんどうだろう。
音頭をとってもらえないですか?


370. 2014年8月20日 07:04:00 : 3cdYZYbVIc
朝日新聞がまともだったのは本多勝一が居た頃だけだよ。

今はすっかり体制側の犬になってしまった。

今度の悪質な嘘記事も安倍に頼まれてやったんだろうな。


371. 中川隆 2014年8月20日 07:10:07 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

下のサイトを見ても、本多勝一は世界でも最高水準の天才ジャーナリストだったね:


本多勝一を応援する読者会のページ
http://www1.odn.ne.jp/kumasanhouse/hod/

小澤一郎にもこれ位の事は言って欲しかったけど、あの売国奴には無理だな:


1971年、本多勝一が中国において日本軍の足跡の取材を行った際(「中国の旅」)、南京において、日本軍に虐殺された様子をさめざめと泣きながら語ってくれたそのご家族の方に対し、取材のお礼のあいさつを兼ねて語った言葉です。

”「 南京大虐殺が行われていた当時、私はまだ幼児でした。おっしゃるように、たしかに”一般人民”としての幼児の私には、この罪悪に対して直接の責任はありません。

本質的には、中国の民衆と同じく、日本の民衆も被害者だった。ですから私は、同じ日本人の罪悪であっても、私自身が皆さんに謝罪しようとは思いません。

問題は過去より現在なのです。日本の一般人民は、日本敗戦後二十数年を過ぎた今なお、中国で日本人が何をしたかという事実そのものを知らされていません。

日本がまた侵略戦争への道を歩んでゆく危険があるとき、それを私たちがもし何もしなしで傍観しているとしたら、こんどは私たちに直接責任があることになるでしょう。過去の軍国主義を ”おわび” したところで、何にもなりません。現在の軍国主義への危険を阻止することこそ、真の謝罪になるのです。
今度取材した日本軍のツメあとの報道は、このような意味で現在の軍国主義の進行を阻止するための、ひとつの闘いになるものと信じます。」 ”

朝日文庫 『殺す側の論理』 ”「反省なき民族」のために”より  


372. 2014年8月21日 01:39:35 : I9jSF8yWD6
デマゴーグ、敗訴王の話はいいからw

捏造、虚報の朝日新聞を不買運動しませんか?


373. 中川隆 2014年8月23日 08:09:59 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
「慰安婦」と「挺身隊」を混同したのが誤報だったというのも日本国内だけの話


朝鮮では「挺身隊」として採用された女性が慰安婦業務をやらされたから どっちも同じもの

今回の朝日新聞の調査は明らかなヤラセ、嘘報告なんだけど、アホ右翼は朝日の言う事なら何でもすべて無批判に信じてしまうのが問題だ


374. 2014年8月23日 15:56:21 : I9jSF8yWD6
朝鮮では、挺身隊=慰安婦という誤った認識が戦時中からあったからな。

捏造、虚報の朝日新聞を不買運動しませんか?


375. 2014年8月27日 08:20:44 : BbXU33ngl6
なかった事の証明は困難だけれども、あった事の証明は証拠さえ示せばできる。

>朝日新聞は吉田清治さんの話が全羅南道でのできごとだったと良く知っていながら、わざわざ何の関係もない済州島でだけで聞き取り調査したのはその為さ。

吉田氏が全羅南道で女性を拉致して慰安婦としたという証拠さえ示せば「悪質な嘘は止めようね _ 吉田清治証言は虚構じゃない」という主張が証明できるのにしないのはなぜ?

できないのなら「悪質な嘘は止めようね _ 吉田清治証言は虚構だよ」。


376. 中川隆 2014年8月27日 19:36:27 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
朝日は全羅南道で調査すると吉田清治さんの話が真実だったとわかってしまうから、見当外れの済州島でインチキ調査したんだろ。

まあ実際の所、昔の朝鮮では慰安婦やってたのがわかると家族は結婚できなくなるし、娘も売春以外の仕事ができなくなるから、誰も本当の事は絶対に言わなかったんだけどね。


[32削除理由]:多重投稿

377. 2014年8月28日 11:40:44 : I9jSF8yWD6
全羅南道でもウソだとわかったら、全羅北道だと言い出す。
目に見えている。歴史なんて捻じ曲げてもいいし、ウソが平気な文化。
恩を仇で返すのも平気。盗み揺すりたかりは当たり前。

売春大国朝鮮では、募集を募ればいくらでも集まった。
現在では、売春婦を輸出する売春超大国である。
他国で日本人に成り済まして売春行為を行う。
韓国人男性も買春大好き。買春ツアーでいろんな国へ行く。
そろそろ気づきましょう朝鮮の売春は文化です。

捏造、虚報の朝日新聞を不買運動しませんか?


378. 中川隆 2014年8月28日 19:43:42 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
朝鮮以外の日本の占領地域すべてで強制連行の証拠が有るから、朝鮮だけ否定しても意味無いんだけどね。

379. 2014年8月29日 06:32:37 : I9jSF8yWD6
>朝鮮だけ否定しても意味無いんだけどね。

朝鮮は大嘘だということだなw
意味あるだろーよ。
君が大うそつきだということがわかったからなw

日本軍にも個人で罪を犯した人間はいる。
それは、日本軍によって裁かれている。
日本軍の規律は、トップクラスに厳しかった。
だから当時の覇権国家イギリスと同盟を組んでいた。
民度は今も昔もあまり変らない。
今の朝鮮人をみればわかるだろ。
感情的でいい加減で平気でうそをつく。
東南アジアをみればわかるだろ。
日本がいかに信頼されているか。
君がいくらがんばったところで意味無いんだよ。


380. 2014年8月29日 07:26:37 : 3cdYZYbVIc
昭和天皇の命令だったと言えないから個人犯罪に矮小化したんだろ

研究者も昭和天皇の戦争犯罪について書くと大学から追放されるから、何も言えないんだ。


381. 2014年8月29日 19:47:35 : I9jSF8yWD6
天皇がそんなこと命令する訳ないだろ。
御前会議で議題にも上がらんわw
大うそつき花盛りだな。
君と意見の一致するのは、朝日新聞が出鱈目だということだけだ。
捏造、虚報の朝日新聞を不買運動しませんか?

382. 中川隆 2014年8月29日 21:28:37 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

右翼は世間知らずだな。 これが真実:


天皇のロイヤルビジネスは、日本人の素人女性を騙して、日本郵船の貨物船に乗せて海外に性奴隷として売り、外貨を稼ぐというものでした。


日露戦争などの戦費もそれで出した。

同胞の日本人女でさえ騙して奴隷にして、船内で白人船員に強姦させて売春婦教育し、外国の売春宿に平気で売る事をしてきた日本人なので、朝鮮人従軍慰安婦の強制連行や戦地や日本軍進駐先(前記事のタイにも進駐していた)での住民強姦など朝飯前のことです。

(そんなことを否定したり事実を争ったりする方がどうにかしています)。


日本はもともとそういう麗しい国なのです。なので、マトモな人間なら、日本人であれ外国人であれ、「反日」になるのが自然です。
http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.com/

自国女性を海外に売るのが「ロイヤルビジネス」だった

「からゆきさん」と呼ばれたどちらかといえば普通の「娘の身売り」の陰には、さらに悪質な詐欺的人身売買が、国策として、天皇のロイヤルビジネスとして、白人商人と連携して組織的に、国策会社日本郵船(=三菱)により、大々的に行われていた。

そして、その人身売買こそが、日本資本主義の原初的蓄積過程だった。

つまり、近代日本国家は自国女を売って成立した。


戦前の日本は民族差別に反対してたとか言ってる方がいまだに多いが、実際のところは人身売買する上で邪魔だったというのが大きな理由のようだ。そもそもアメリカが排日移民法を作らざるを得なかったのは日本からあまりに膨大な日本人女性が売られてきたからにほかならない。


戦前の日本が差別を許さないとか、プロパガンダにもならない妄想…。

世界最大の賤業婦人(売春婦)輸出大国だったのに。

それも騙して海外へ連れ出すという極悪非道ぶり。


いわゆる「からゆきさん」なんてハイカラな名称付けられているのが、それ。

ジャパゆきさんは自分の意志でオーディション受けて、どういう場所で働くか承知で来るかも知れない、からゆきさんの大半は国策として騙された人や誘拐・拉致同然に連れだされた方々なのでまるっきり違う。


からゆきさんと言っても中国だけじゃない。

世界中に貨物船の片隅に押し込められ売られており、明治から昭和にかけて、その数は30万人以上とも言われている。

戦争責任を追求する大手マスコミでさえ、からゆきさんについては非情に及び腰。

理由はロイヤル・ビジネスだから。


おもに日本郵船=三菱と組んでいるが、三菱といえば岩崎弥太郎。

岩崎といえば龍馬。龍馬といえばグラバー。

グラバーといえば武器商人…ってな具合に背後は真っ黒の助。

そもそも武器を買うための資金として人身売買をはじめた。


グラバーといえばマセソン商会の元社員で代理人。

マセソンといえばアヘン商人。

ようするに茶を買うためアヘンを売るのが、武器を買うために女性を売る…にかわっただけ。

長州ファイブを留学させたのもマセソン商会。

岩崎=長州閥=天皇家は一蓮托生でアヘン・武器商とつるんでた。


騙して日本人女性を売った金で武器を買う。

その両方でピンハネすればボロ儲け。


三菱財閥が巨大化した最大の理由が人身売買…

などとは歴史の教科書や社史にも出てくるわけない。


人身売買であげた利益で武器を買い、それで戦争を行っては国民を虫けらのように死なせた。そういうビジネスを明治以来一貫して下衆なアヘン・武器商人と結託しながらやってきた。宗教も人種も違う連中を奴隷貿易するでもなく、自国の同胞女性を詐欺まがいに海外へ大量に売り飛ばすという豪快なことをしていた日本。


さうがの毛唐も

「オーマイガッツ!

ジャップのやつ正気の沙汰とは思えない。

オークレイジー」

なんて驚いたことだろう。


そういう背景により、クレージーなジャップによる人身売買を阻止するため、アメリカは排日移民法をつくってくれた。それを、差別だとかいうのだから凄い。


戦争の原因について


「カリフォルニア州への移民拒否については、 日本を憤慨させるに十分なものであった」

とは裕仁天皇のお言葉。これが戦争の原因なのだというから素晴らしい。


戦前の国策による人身売買の実態を隠蔽するため「からゆきさん」と混同されるようにイメージの偽装転換が巧妙になされている。実際はからゆきさんなんてレベルをこえた国策の人身売買が壮大なスケールで行わていた。


本来の「からゆきさん」なんてのは九州の貧しい農村部の女性が女衒に連れられアジアの娼館で働くというものだが、日本郵船とかがやってたのは基本的に詐欺。


「海外で教養を身につけよう」

「あこがれのアメリカで働こう」


なんてかんじで良家の子女から寒村にいたるまで処女を集めた。


私もこのブログで、アメリカの人身売買報告書が日本に異常に厳しいことを人種差別ではないかと批判したことがありましたが、見当違いだったかもしれません。

彼らは当然ながらこういう過去の事実を知っている。この件の被害者は日本人であり、欧米商人も関与していたので、あえて言挙げはしないが、日本国がこういう体質をもっているということには留意している。このような過去の犯罪行為について、日本人がほとんど知らされておらず日本国内に批判も反省もないことも見ている。

普通に「人身売買を防止する」という観点から見て、日本が要警戒国になるのは当然ですね。


これから必然的に貧しくなっていく日本ですが、日本女性は日本国家および天皇一族を警戒したほうが良いといえます。同時に、従軍慰安婦問題や南京強姦事件で騒いでくれる近隣国の人々に感謝しなければならない。被害者が日本人だけなら、誰も騒がず、語ろうとする者は口封じをされ、そんな過去はなかったことになります。

天皇と三菱とが一体になり、外国商人と連携して、国策でこのような犯罪行為を行った歴史が「なかったこと」にされている。何の反省もない。

このままでは、日本国家にカネが必要なときにはまた同じことが繰り返されることになるでしょう。


日本国=天皇=三菱等、

はその成立時から人身売買マフィアであり、芯から腐っていると言えます。初めから腐っているものはどうしようもありません。「日本の解体」が是非必要です。
http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.com/

天皇一族は売春業者

 19世紀初頭、世界帝国を建設しようと考えた英国はアジアに対し、アヘン=麻薬を売り、アジア人に英国に対する抵抗心を喪失させ、アヘン売買の利益でアジアを支配するための兵器を買う戦略を採用する。

英国のアヘン売買の中心となったのが、銀行ジャーディン・マセソンであった。マセソンは、英国がインドでアヘンを買い付ける資金を提供し、中国、日本にアヘンを運搬する船の建設費を出し、アヘンの売り上げはマセソンの銀行口座に振り込まれ、その資金で中国、日本を攻める兵器が購入された。兵器の代金は、マセソンの銀行口座で決済された。

マセソン、中国では香港に香港上海銀行(現在の中国の中央銀行)を支店として置き、日本では東京に日本銀行=日銀を支店として創立した。日本政府の井上馨、渋沢栄一に「命令」し、ノウハウを教え、日本銀行を創立させたのは、麻薬銀行マセソンのアレクサンドラ・シャンドである。

日本の中央銀行、日銀は麻薬銀行として創立された。しかし中国と違い、日本では麻薬は売れなかった。


困ったマセソンは、福沢諭吉と天皇に相談し、日本人女性を誘拐し「売春婦」として海外に「販売」する事にした。


貧しい農村の女性には海外で豊かな生活が出来るとダマシ、良家の娘達には洋裁学校を紹介するとダマシ、天皇と三菱財閥は日本人女性を「売春婦」として、海外に売り飛ばした。

天皇と三菱の経営する船会社、日本郵船がダマサレタ女性達を売春婦として海外に運んだ。大部分が処女であった日本人女性達は、船の中で「売春婦」として教育するため、英国人水夫達に毎日、強姦輪姦された。これは天皇の「命令」である。

天皇がダマシ、売春婦として海外に売り飛ばした日本人女性の数は、50万人を超える。大くの女性は、20歳代で梅毒等の性病で死に、または刃物で自分の喉を突き刺して自殺した。

天皇一族の財産はこうして作られた。


1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社


日本郵船が創立される。

明治維新により富国強兵の道を歩み始めた日本は、欧米からあらゆる兵器を購入し続けていたが、欧米への支払いに当てる資金が日本には無かった。

そこで福沢諭吉は、


「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」


という指示を天皇に与える。賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、天皇一族はこのプランに飛び付き実行する。

(福沢諭吉全集 第15巻)


1900年初頭から天皇の命令の下、

「海外に行けば良い仕事があり、豊かな生活が出来る」


という宣伝が日本全国で大々的に行われた。

日本の健全な家庭に育った当時の若い女性達は天皇の言葉を信じた。

天皇一族によりだまされ「売春婦として欧米に販売された」日本人女性の数は数十万人。

大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は「健全な女性を売春婦」として「売却」する事で、欧米の売春業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員で
あれば10数年分の給与を手に入れていた。

その金額が数十万人分=莫大な資金がこの天皇一族のサギ行為、女性の人身売買により天皇一族に転がり込んだ。 その資金の一部は戦争のための兵器購入に当てられたが、
大部分は天皇の「個人財産」として「蓄財」された。

天皇一族は自分の金儲けのために、健全な若い日本人女性をだまし、売春婦として欧米に「売却」して来た。

天皇一族は欧米の売春業者とタイアップした日本の売春業者であった。

天皇により経営される日本郵船により、欧米に「売却」された日本人女性は、1人残らず現地に着くと即座に売春宿に「連行」され監禁された。そして売春を強制された。

初めての外国であり、逃げ場も助けてくれる相手もいない。
数十万人の日本人女性が、天皇によって売春を強制された。

これが従軍慰安婦の原型である。


日本郵船の共同経営者三菱財閥もこの売春業で巨大化した。
この莫大な富を生む売春業に参加させてもらったお礼に、三菱財閥は昭和天皇の結婚後の新居を、全額三菱財閥の出資で建設する。

渋谷区下渋谷の第一御領地の「花御殿」が昭和天皇の新婚の住居であり、それは数十万人の日本人女性を「売春婦として販売した」利益で、三菱の天皇に対する「売春業参加のお礼」として建設された。

(山田盟子「ウサギたちが渡った断魂橋」 新日本出版社)。

また天皇が大株主であった船舶会社商船三井も天皇と協力し、同一の「売春婦・輸出事業」に従事する。 こうして日本人女性の「販売業者」として天皇一族が蓄積した財産は、第二次大戦後日本に進駐してきた

米軍GHQの財務調査官により調査され、当時の金額で1億ドルを超えると記録されている。

国民に対しては「自分は神」であるとしていた天皇は、女性の人身売買で金儲けし、また日清戦争、日露戦争で中国、ロシアから得た賠償金を自分の私財として「着服」していた。

戦争中全ての日本人は餓死寸前の中、軍需工場で「無給」で重労働を行っていた。
そうした重労働と日本人男性=軍人の死によって戦争によって得られた賠償金を、国民のためでなく自分の私的財産として天皇は着服し、密かに蓄財していた。

また日本軍が朝鮮、中国に侵略し、朝鮮人、中国人を殺害し略奪した貴金属は、天皇の経営する日本郵船によって日本に運び込まれ、日銀の地下金庫にある天皇専用の「黄金の壷」という巨大な壷に蓄財された。

中国、朝鮮から略奪された貴金属、そして賠償金=侵略戦争 は天皇の個人的蓄財のために行われていた。

この問題を調査したエドワード・ベアは、「天皇一族は金銭ギャングである」と吐き棄てるように語っている。

(エドワード・ベア「天皇裕仁」 駐文社)


1945年、日本の敗戦が決定的になると、天皇一族はこの蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ、海外に蓄財を「逃し」始める。

天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて、スイスに850万ポンド、ラテンアメリカに1004万ポンド等、広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念する。この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した蓄財は累計で5〜10億ドルに上るとしている。

(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)。

広島、長崎に原爆が落とされ膨大な死傷者が出、戦後日本をどのように再出発させるかを考えなくてはならない時期に、天皇はひたすら自分の蓄財を守るため数百回に及ぶ海外送金を繰り返していた。

日銀の地下金庫からは、莫大な金塊と貴金属が日本郵船により運び出され、アルゼンチンの銀行そしてスイス銀行まで遠路運搬されていた。

中国では日本に逃げ戻るための船舶が無く、逃げ遅れた日本人女性が中国各地で多数強姦殺人され子供が殺害されている最中、天皇は貴重な船舶を独占し、自分の金塊を遠路
アルゼンチン、スイス等に運び出していた。

天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く、日本人の事など何も考えていない事は明白である。

(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」マルジュ社)。


なお天皇が第二次大戦中「売春婦輸出業」を行っていた商船三井の共同経営者が、CIA(当時はOSS)の対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは何故なのか?

敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員であったのか?

天皇は戦後、このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を借り、CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に、港区の不動産を次々に買収し、またハイテク産業に投資し、莫大な蓄財をさらに莫大に膨れ上げさせて行く。
天皇は神でも「象徴」でもなく単なる金儲け主義の金融ビジネスマンである。

そしてここでも「何故か」CIAと天皇は「共同経営者」である。

天皇は、1940年代初頭からスイス銀行に少しずつ蓄財を「移し」始めるが、ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのもスイス銀行であった。

天皇はヒトラーに請願し、ナチス・ヒトラーの口座の中に「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい、そこに天皇一族の蓄財を隠していた。

天皇とヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する略奪ビジネスのパートナーであり、ナチスと天皇は一体であった。

(アダム・レボー 「ヒトラーの秘密銀行」 


ベストセラーズ・・また濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)。


1924年、米国は「排日移民法」という法律を成立させる。
日米関係はまだ険悪ではなく、日本から余りに多数の若い女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が社会問題化し、それを禁止した法律であった。


天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」

(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に、1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。

「米国のカリフォルニア州への移民拒否については、日本を憤慨させるに十分なものであった。」

この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。

日本人女性をだまし、売春婦として米国に「売却」する天皇の売春ビジネス=移民を米国が禁止した、それに憤慨激怒し米国と戦争を始めたと天皇自身が独白しているのである。

天皇一族は神でも「象徴」でも無く、人間のクズの集団である。

追記・・例え殺されても自分の命と引き換えに真実を語るのがジャーナリストの仕事である。

天皇に欺かれ売春婦にさせられた数十万人の日本人女性達の無念の人生のために、誰かが真実を語らなければならない。


383. 2014年8月30日 13:18:44 : w3M1BHSquE
ありゃりゃ、こりゃまた“痛いスレ”が有ったもんですなあ (≧∇≦)ノ彡 バンバン!

恥ずかしい追及コメントを隠したいのか 訳の判らぬ無駄な長文で誤魔化したって
誰も読んじゃくれませんぜ はよ消しなされ こんな無駄な記事は。


384. 2014年8月30日 16:20:40 : I9jSF8yWD6
ありゃりゃ
また成甲書房の本ですか。
この出版社は、朴甲東という朝鮮人によって設立されたのよ。
捏造本、オカルト本なの。
捏造、虚報の朝日新聞を不買運動しませんか?

385. 中川隆 2014年8月31日 21:42:40 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

悔しかったらまずこれを否定してみろよ:


昭和天皇は若いころから、宮中の書斎にはナポレオンの胸像が飾られていた(有名な話らしい)。パリを訪問したときに土産として自分で買ったもので、珍重していた。
「ナポレオンの軍隊は安上がりの徴集兵で」彼は「この軍隊を愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた。日本の軍隊は葉書一枚で徴兵された“民草”といわれる安上がりの軍隊で、ナポレオンの軍隊以上に愛国心に燃えていた。

ナポレオンは補給のほとんどを現地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。
ナポレオンは参謀部をつくり、機動力にまかせて、波状攻撃を仕掛けた。天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。」

「あの真珠湾攻撃は、そしてフィリピン、ビルマ、タイ…での戦争は、ナポレオンの戦争とそっくりである。」と鬼塚氏は書いている。そう言われれば確かにそうだ。

 つまり、昭和天皇はナポレオンを崇拝し、彼にならって大戦争を仕掛けるという壮大な火遊びをやったのである。真珠湾攻撃が「成功した」と聞くと、狂喜乱舞したと言われる。2・26事件当時の侍従武官・本庄繁の『日記』には、天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれているそうだ。

終戦の玉音放送が流れる日の朝、侍従が天皇を書斎に訪ねると、昨夜まであったナポレオンの胸像がなくなっており、代わってリンカーンとダーウィンの像が置いてあった、と…。
 この変わり身の素早さには驚かされる。つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。

戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。国民もそれに騙された。

 そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。

東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、

「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。

これは当時としては真実である。

しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。
責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。

それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。

 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。

キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。

みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2

『新日本女性に告ぐ!
 戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。女事務員募集。年齢十八歳以上二十五歳まで。宿舎、被服、食糧当方支給。』


 敗戦直後の昭和20年8月22日、この広告が新聞などに張り出される。「新日本女性に告ぐ!」などと勇ましいことを書いているが、これは単なる事務員の募集の求人広告ではない。

 この前日、近衛文麿国務相が「婦女子を性に飢えた占領軍兵士から守る」という狙いのもと「特殊慰安施設協会(RAA)」の設置を決めた。上の広告はこの施設で占領軍相手の売春をする女性を集めるものであった。大抵の女性は、はじめからこれがただの事務の仕事ではないことは気付いていたようだが、中にはやはり単なる事務の仕事だと思って応募してくるものや、慰安とは「歌でも歌えばいい」と思って応募してきた良家の子女もいたと言う。

 この売春施設の目的は性のハケ口を設けることによって、占領軍がレイプ事件などを起こさないためにという「性の防波堤」とも言うべきものであった。が、実際は占領軍によるレイプ事件は日常茶飯事であった。
http://www.hit-press.jp/column/shakai/shakai26.html


 戦争で身内を失った小町園の滝田ナツエさん (当時19) は、事務職募集広告で応募したが、空いてる唯一の職が慰安婦であると言われ、仕事につくように説得された。1952年の占領終了後に出版された鏑木氏の回想録によると、滝田さんは売春宿開業の数日後に列車に身を投げたとのことだ。「最悪の犠牲者は...『新日本女性』の広告に応募して来た、未経験の女性であった」とダウアー氏は書いている。

 鏑木氏によると、1945年の末までに35万人の米軍が日本に駐留し、米兵のためにRAAは最高時7万人の売春婦を雇っていたとある。そのためにそこに日本人以外の慰安婦が海外から来たと言う説があるが、それに関する明確な証拠はない。

 広島歴史研究所の田中利幸教授は、鏑木氏の提示した数字は根拠に乏しいとしているが、RAAはそのごく一部であり、公式記録に載っていない民間売春業者の数は更に多いであろうとしている。田中氏が発見した記録によると、米駐留軍幹部は、進駐軍の相手をする慰安婦のためにペニシリンを日本政府に提供し、RAAの売春宿のそばに予防施設を作り、兵隊達に使用を許可したとある。

 旧日本軍のための慰安婦と、進駐軍のために募集された慰安婦の類似性を駐留軍幹部は見過ごさなかった。GHQ衛生福祉厚生部のヒュー・マクドナルド上級士官の1945年12月6日の回想録によると、日本の慰安婦はしばしば強要されていたことを米進駐軍は把握していたと言う。「貧困の極致の両親に促され少女は契約を無理強いされた。時には自ら進んで家族のために犠牲になったとあるが、しかしながらそれは情報提供者の主観であり、かつてよりは一般的ではなくなったにせよ、都市部では少女の奴隷化の習慣はまだ存在している」と書いている。

8月15日の降伏の日、近衛宮は警視庁長官、伴信也を呼んで言った。「我々は日本の娘たちを守らなければならない。特に君にはそれを理解してもらいたい」。用意周到な中産階級の人々は、女たちを山中に隠れさせ、いざという時のために青酸カリ剤を持たせていた。

スラム街には、貞淑であろうとする権利も、国を思って自ら愛国者であろうと考える暇すらも与えられたことのない数千人の女たちが残されていた。今や、そうした女たちの出番であった。

伴長官は、東京の主要な娯楽業界――旅館、レストラン、麻雀荘、お茶屋、バー、売春宿など――の代表を招集した。

8月23日、こうしたお歴々によって、連合軍下士官のための「特殊慰安施設協会」が設立された。この団体は、勧業銀行による二百万ドル相当の株発行を資本とし、その株券は天皇の友人たちに販売された。数週間のうちに、同協会は、東京で33個所、地方で5個所、そして二つの婦人専門病院での事業を始めた。 

また同協会の別事業として、東京下町にあった軍需品工場がホテルに改造された。刀を鍬に作り直す事業などより、はるかに儲かるビジネスだった。

後にこの施設が最終的に廃止されるまでに、 「ウイロー・ラン」 と呼ばれたその工場は、250人の女たちによる生産ラインを持ち、一日に平均3,750人の兵士たちを受け入れるという生産高をあげた。

 特殊慰安施設協会とその付属組織は、 「一年一円」衆と称して天皇に仕える工業界人団体によって支援され成長した。

この団体は、化学、海運業界の重鎮であり、過去十ヶ月、和平派に属し、木戸内大臣と幾度も会談を重ねてきた、山下太郎によって組織、統率されていた。山下とその賛同者は、二億円、およそ1,400万ドルの基金を集め、天皇に献上した。

この贈呈が、その受け入れに木戸内大臣が二日を要したところからみて、何らかの見返りが要求されていたことが伺える。


 山下と 「一年一円」衆が引き受けた仕事のうち、最も難しかったものは、マッカーサー及びその側近との間の連絡業務であった。

宮中のご婦人たちの助言によれば、無能な国内警察による通訳用務が放棄され、外国語に通じたそうした国際経験ある婦人たちがそれを代行するようになれば、連合軍司令部との関係ははるかに円滑になる、というものであった。そこで、パリやロンドンに暮らしたことのある王妃や侯爵夫人たちの一団は、米国での良好なコネを持つビジネスマンの一団と協力し合うことに同意した。折角の貯蓄も目減りして見る影もない戦争未亡人には、新しい着物を買うための資金も用意された。名家の別荘は、その品格と遊興施設の程度によってランク付けされた。西洋の首都で見られるようなものをまねて、会員制のクラブが作られた。

裕福な才女たちのグループは名うての芸者を招き、男たちをもてなす芸に取り組んだ。

 日本は、マッカーサーが自分の兵隊たちに予測していた気の緩みにつけ込むための準備を万全に整えていた。和平派の特殊慰安施設協会は、まさしくその目的のために、国をあげての娼婦力を動員していた。

最初に米軍の機動部隊が東京に到着し、所定の兵営や工場に収まり、そこに検問所を設置した時より、兵員たちは、幾台ものトラックに満載されてきた女たちが検問所前で下車して準備が整い、通訳から「特殊慰安施設協会からの御挨拶です」と説明されてびっくり仰天した。

この最初の進呈は受け取りを拒絶され、そのトラック満載の贈り物は未開封のまま返品された。だが数週間のうちに、それが日本側の騙し打ちではないと判ると、アメリカ人たちはそれに打ち解け始めた。そしてすぐににマッカーサーは、「広がっていると報じられる占領軍メンバーと不品行な日本女性との間の乱れた関係に大きな懸念と深い困惑」を表すこととなった。

 戦前、日本の売春婦は、その小柄さ、その恥じない快楽主義、そして彼女たちの自尊と誠実さを込めた甘美なサービスで、国際的な評判を得ていた。

彼女たちは、主要都市の街外れにある、壁で囲まれ、飾り立てられた街区に住み、働いていた。その最も著名なものは、東京の吉原で、きらめく提灯とごった返す小路を持つ40エーカー〔16万m2〕ほどの治安の良い一画を形成し、金張りの龍と朱塗りの門、着飾った客引きや曲芸師と砂糖菓子売り、格子を通して垣間見える池や庭と縁側や格子窓の向こうの女たちといった、集積された東洋の魅惑と悪徳の場であった。

 空襲を生き延びたそうした女たちは、首都圏全体に霧散していた。少しでも英語が話せるものは、特殊慰安施設協会に雇われ、郊外の古びた宿屋や、同協会が下町に作ったキャバレーや売春宿で、そのサービスを提供するのを待ち構えていた。

アメリカ人による需要は、ついには、横浜の「ビック・ティッツ〔「大きなおっぱい」の意〕・バー」や。東京の「ハード・オン〔「勃起した」の意〕・カフェ」のような目立った歓楽場所を生みだし、占領が始まって1ヶ月も経たない時点で、歓迎されるとみられる所では、目立たないようにながら、あたかも偶然を装い、そうした女たちが商売を始めていた。

 米兵のうちには、まるで麻薬の幻覚であるかのような、そうした初期の出来事を経験したものがいる。日本の地方で、武器の隠し場所を捜索していた元第8軍団の軍曹が、1945年10月末のある日の経験を述べている。


 彼と同僚は、その日、東京の東方にある小さな海辺の町のほこりっぽい広場に、彼らの乗るジープを止めた。そこで彼らが、昼食のためにK号携帯糧食を開こうとしていた時、シルクハットを被り、黒く盛装した一人の紳士がやってきて、たどたどしい英語で、粗末な場所だがその屋根の下で、食事を摂ったらいかがかと申し出てきた。彼は、ジープの後方バンパーに立ち、海を見下ろす崖の上へと、砂利道を案内した。竹藪の前で車を止めさせ、崖の淵にある、古い宿屋へと小道を下った。

その玄関では、着物を着た四人の麗しい娘が、彼らの靴を脱がせ、二階の、漆塗りの食卓の置かれた畳敷きの部屋へと通した。座布団が差しだされ、ふすまが開けられると、素晴らしい景色がそこに広がり、眼下では波が磯に砕け散っていた。女中が、K号携帯糧食に加えるべく、ビール、おひつに入ったほかほかのご飯、数々の前菜を持って入ってきた。娘たちは、間違った英語をにぎやかにしゃべり、はしを使って米兵たちにそれを食べさせた。そして、指やマッチ棒やビール瓶をもちいた接客ゲーム――言葉を超越した遊び――を彼らに教えた。とっくり入りの燗のついた酒も出され、それを杯で飲んだ。

やがて、食事と歓談に満腹したところで、娘たちが言った。「お風呂に入りましょう」。

 折り返した階段を下りて、崖下のほら穴状の部屋へと案内された。その岩の床はおだやかに傾斜し、一方の壁は海に向かった開口部だった。その床の中央に、タイル張りの湯気をあげる浴槽があった。

娘たちは着物を取り、男たちの服を脱がせ始めた。娘たちは、手おけで火傷しそうなその熱いお湯を自らあびた。その行為は繰り返され、兵士たちは大喜びしてそれをまねた。皆がそうして洗い終わった時、娘たちは浴槽の中に身を沈めた。男たちは、それに従い、その40度を越える熱いお湯に体を入れ、ゆっくりと首までつかったが、火傷はしないようだった。彼女たちは、兵士たちの顔を手ぬぐいでふいて、女中が運んできたビールを小さなグラスで飲ませた。遠くでは、崖の影が、海面の上に長く延びていた。

 皆がよく浸かった頃、女中が清潔な木綿の浴衣を持ってきて、男たちはそれを着て、その帯を前で結び、その結び目を背に回すことを教わった。そして娘たちは、彼らを、二階の個室へと案内した。そこでは、畳の床の上に厚い布団が敷かれ、またしても、ビールが幾本か、食膳の上に並べられていた。

一人の娘が、「アメリカ風の愛し方をして」と、軍曹に手を巻きつけながら言った。軍曹は、一瞬息をのみ、圧倒され、夢中となって、そして、それを拒むには自分が余りに誇らしくなっているのを感じていた。

翌朝、彼は一人で眼を覚ました。隣の部屋の仲間を起こし、そのぜいたくな遊びの代金を請求された場合を心配して、彼らの手持ちの金をかき集めた。

女中がお茶とご飯をもってきた。朝食の後、彼らは、その黒の盛装の男にそれでよいかを尋ねた。その男は、その代金は、一人につき、煙草二箱で結構と言った。玄関では、昨夜の相手をしてくれた娘たちが、靴べらを手にして待っており、満面の笑みをうかべて礼をして、彼らが帰途につくのを見送った。


 そのような、初期の接触がもたらした体験や物語は、親密関係無しといった公式占領政策をアメリカのMPによって徹底させることを不可能にした。ジャングルで闘ってきた精鋭部隊が、すべて「米国内」に帰還し終わるまでに、そうした女たちは、米国人宿泊所や定期的な一掃取締についてのあらましを知っていた。

連合軍隊員によって占められたかつての日本軍兵舎や武器改造工場は、消灯時ともなると、ヒールの音や漂う香水の香り、溜息や何かのきしみ音などが響く、不可思議な時間帯となった。http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_1.htm


「米軍の本隊がまもなく到着する。宿舎は内村旅館である。

どのくらいの期間滞在するかわからないが、
署長は米軍から知覧の町民を守るようにとの中央の命令を受けている。

一番怖いのは婦女暴行であるが、これについては各方面の協力を得て、
彼らに当てがう女たちを確保した。

その女たちは、いわゆる慰安婦である。
 (赤羽礼子 石井宏著「ホタル帰る」草思社p188)


1945年8月18日、俗に言う終戦の日の三日後、内務省警保局長は進駐軍用に慰安施設を整備するように全国に無電を発した。9月4日には内務省保安課長も同様の命令を出している。内務省警保局というのは今日で言う警察庁のような物であり、全国の警察の元締めである。

「これを受けて各警察は慰安所の設置や慰安婦確保に奔走する。その模様を詳述しているのが『神奈川県警察史』だ。それによると空襲で焼けた花街に女性は残っておらず、警察が業者に公務乗車証明書を発給し、疎開先を回って勧誘させた。また、慰安所の布団や衣類、化粧品、消毒薬などの手配や運搬には、直接警察官が携わったという。」
とある。

 東京では警視総監坂信弥が指示して売春業者と飲食店経営者に「特殊慰安施設協会」を作らせ対応したという。この特殊慰安施設協会には、後に吉原などのソープランド経営者に連なる者達が沢山いたという。更に当時の大蔵省主計局長池田勇人(後の総理大臣)が日本勧業銀行に指示を出して資金を提供した。

「警察と大蔵省がバックの国策事業ゆえ、協会は堂々と新聞広告まで出して慰安婦を募っている。」

「進駐軍売春作戦の発案者とされる坂は、国務大臣近衛文麿から国体護持のために婦女子対策をと指示され、慰安所設置を決めたと生前語っている」
のである。占領下では米兵による強姦事件なども多かったために、反米感情が爆発して折角天皇制を存続させることに成功したのにそれが元の木阿弥となることを未然に防ぐためである。花街の女性を強姦に対する防波堤とした訳だ。

 で、特殊慰安施設協会に参加した売春業者達が戦時中に何をしていたかというと、当然の話であるが大日本帝国陸海軍の将兵相手に商売をしていた訳である。つまり従軍慰安婦=戦時性奴隷の手配に手を染めていたものも多数いた。

米軍相手に政府機関が売春婦を斡旋するという政策を取った背景には、日本軍将兵の間に強姦事件によって性病が蔓延したり占領地での人心掌握に支障が出ないように配慮した経験が生かされていた。

実際には日本軍の士気やモラルは非常に劣悪で、強姦殺人は日常茶飯事であった。毎日のこの記事だけでは従軍慰安婦=戦時性奴隷に日本政府や軍部が関わっていたことに対する状況証拠でしかないが、軍人に女性をあてがうという発想が、当時の日本人の感覚として極々普通の物であったことが分かるだろう。 
http://rounin40.cocolog-nifty.com/attenborow/2007/08/post_cfe5.html


「江東区女性軍」強制連行……。

「本土決戦が叫ばれた昭和二十年(一九四五年)に、国土防衛軍である「江東区女性軍」の編成にくりこまれた女性青年団埼玉第一中隊の百三人は、終戦の日に帰してもらえなかった。

「耐えがたきを耐えて、全日本婦人の楯となるべき……」

 と、お上が手早くつくった「国際親善協会RAA」(占領軍慰安婦)のうち、都内の四カ所に強制連行され、やみくもに米軍との交接を強いられた。

 そのことは埼玉らず、広島の女子青年団、そして川崎のM軍軍需工場など、他地区にも多くみられた。

 当時−−天皇のために捧げてたてまつると、血の宣紙を捧げてあった娘たちは、

「血書を捧げた君たちの忠誠を、天はみそなわしたもうたものであろう。君たちでなければ、日本人の操を、進駐軍の手から守り通すことはできない」

 占領軍慰安婦の持ちかけがお上からだされたのは敗戦直後の八月二十一日、RAAの誕生とともに二十六日には慰安婦の徴募がなされ、二十八日はRAAが宮城前で誓詞をなし、同日は厚木進駐の米兵に横浜の小町園が開所した。

 RAA発表による占領軍慰安婦は、昭和二十年十一月まで二万人、最盛期七万、閉鎖時の昭和二十一年(一九四六年)三月二十七日、五万五千であり、閉鎖は性病兵が増えたという米軍側の主張によった。」
http://blog.goo.ne.jp/ryuzou42/e/0b9d55f0b563f7420ee0432b3a409d22


要するに、従軍慰安婦も終戦後のアメリカ兵向け慰安婦も昭和天皇の命令で集められたのさ。


386. 2014年8月31日 22:31:25 : I9jSF8yWD6

くやしかったら朝日の不買運動してみろよ!

作文がそんなにたのしいか

捏造、虚報の朝日新聞を不買運動しませんか?


387. 2014年8月31日 23:46:37 : 3cdYZYbVIc
朝日がまともだったのは本多勝一がいた頃だけだよ

今は産経や読売と同じCIA系新聞だろ。 今度の済州島ニセ調査によるインチキ報道も安倍の指示だろ。


388. 2014年9月01日 02:16:58 : I9jSF8yWD6
済州島調査はいろんな人がやっているがな。
30年以上前からインチキ報道しているからな。
朝日なんて戦後一番のCIA系新聞だよw
3国を不仲にしておくのはCIAの最大の戦略だからな。
真実なんてどうでも良いんだよ。
ちなみに産経はCIA系ではないな。日本人系だな。
朝日新聞の不買宣言してみろよ。
なんだかんだ言ってできないんだろ。

389. 2014年9月03日 02:56:26 : w3M1BHSquE
やたらと長文書く人がいるようですが、誰も読んでいないと言う事が
何時になったら理解出来るんでしょうかね。

390. 中川隆 2014年9月03日 18:46:22 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
ここには慰安婦関係の資料を集めただけだから、アホに読んでもらう必要は無いのさ。

391. 2014年9月04日 03:37:12 : w3M1BHSquE
朝日新聞は とうとう池上さんにまで怒られてしまいましたね
一転してコラムを掲載すると平身低頭なようですが、その朝刊 読むのが楽しみですねえ^^

あ、でも 結果的に朝日新聞の売り上げ 伸びてしまいますか、複雑ですなあ^^;


392. 2014年9月04日 07:23:44 : 3cdYZYbVIc
朝日は戦時中は米英鬼畜とかやっていた戦争を煽っていた極右新聞で、一貫して体制側の犬だからね。

まともだったのは本多勝一が居たときだけ。

今回のインチキ調査も安倍に頼まれたんだろうね


393. 2014年9月05日 01:34:54 : I9jSF8yWD6
朝日新聞はなぜ池上彰氏のコラムを拒否したのか

問題の池上氏のコラムが掲載された。内容は当たり前のことを書いているようだが、朝日が認めたくないことが書かれている。

[吉田]証言に疑問が出たのは、22年前のことでした。92年、産経新聞が、吉田氏の証言に疑問を投げかける記事を掲載したからです。こういう記事が出たら、裏付け取材をするのが記者のイロハ。朝日の社会部記者が「吉田氏に会い、裏付けのための関係者の紹介やデータ提供を要請したが拒まれたという」と検証記事は書きます。この時点で、証言の信憑性は大きく揺らいだはずです。朝日はなぜ証言が信用できなくなったと書かなかったのか。

これは(私も含めて)多くの人が指摘している重要な疑問だ。「従軍慰安婦、消せない事実 政府や軍の深い関与明白」と題する1997年3月31日の記事はこう書く。

済州島の人たちからも、氏の著述を裏付ける証言は出ておらず、真偽は確認できない。吉田氏は「自分の体験をそのまま書いた」と話すが、「反論するつもりはない」として、関係者の氏名などデータの提供を拒んでいる。

わかりやすくいうと、こういうことだ:「日本軍が女性を誘拐した」という情報の売り込みがあった。しかし取材したら、裏が取れなかった。いくらおもしろい話でも、裏の取れない話は記事にしない。特に犯罪のからむ誤報については、事後的に判明した場合も訂正を出すのが報道のルールだ。これがもし「吉田清治が女性を誘拐した」という記事だったら、誤報と判明した段階で訂正を出すだろう。

ところが17年前に、朝日はそれを知りながらごまかし、「真偽は確認できない」と書いた。誤報で名誉を毀損された被害者が特定の個人ではなく、日本国民だったからだ。この問題は、いま一部の人々が準備しているように、名誉毀損訴訟の対象になりうる。

これは朝日の主張のコアにかかわる。先月28日の記事でも朝日がくり返し主張しているのは、「吉田証言を報じた記事を取り消しても河野談話はゆるがない。本質は強制連行ではなく女性の人権だ」という主張だ。

しかし池上氏が指摘しているように、今回の記事は事実関係の検証だから、なぜ1992年に誤報だとわかった強制連行を訂正しなかったのかということが本質である。この22年間に、この問題をめぐって日韓関係が紛糾したとき、訂正するチャンスは何度もあったのに、なぜ今回の記事でも、取り消したのに謝罪しないのか。それは謝罪したら、木村社長の進退問題になるからだ。週刊文春によれば、彼は

長年にわたる朝日新聞ファンの読者や企業、官僚、メディア各社のトップ、ASA幹部の皆さんなど多くの方から「今回の記事は朝日新聞への信頼をさらに高めた」「理不尽な圧力に絶対に負けるな。とことん応援します」といった激励をいただいています。「慰安婦問題を世界に広げた諸悪の根源は朝日新聞」といった誤った情報をまき散らし、反朝日キャンペーンを繰り広げる勢力に断じて屈するわけにはいきません。

と徹底抗戦を宣言している。本当は、悪いとは思っていないのだ。池上氏のように取り消した記事について謝罪するよう求めることが、なぜ「反朝日キャンペーン」なのか。木村氏は記者会見して、本質が誤報ではなく「女性の人権」であることを説明する義務がある。


394. 2014年9月05日 01:38:57 : I9jSF8yWD6
朝日「池上連載」掲載対応巡り「社内反乱」 現役記者から「はらわた煮えくりかえる」
朝日新聞が週刊文春と週刊新潮の広告掲載を拒否したのに続いて、池上彰さんの紙面批評コラムについても掲載が見送られていたことが明らかになった。いわゆる慰安婦問題での「吉田証言」をめぐる朝日新聞の検証記事の不十分さを指摘する池上さんの原稿の内容に、朝日側が難色を示したことが原因だという。
いずれのケースも異論を強硬手段で封じるという表現の自由にかかわる問題で、複数の現役朝日新聞記者からも公然と会社批判の声があがっている。池上コラムは朝日を含めて記事への辛口な論評が目立つ
ジャーナリストの池上彰さんが月に1回のペースで連載している「池上彰の新聞ななめ読み」をめぐる朝日新聞の対応について、記者から反発の声があがっている。このコラムは、朝日新聞を含めて、記事の切り口や表現について比較的辛口な論評が目立つことで知られている。
週刊文春がウェブサイトで2014年9月2日夜に報じたところによると、8月末に掲載予定の原稿では、朝日新聞の従軍慰安婦報道検証記事について取り上げ、「朝日は謝罪すべきだ」といった表現があったという。池上氏は検証記事の内容が不十分だったと判断しているようだが、朝日新聞側が「これでは掲載できない」と難色を示したところ、池上氏は連載の打ち切りを申し出たという。
この朝日新聞の対応には、記者からはツイッターで異論が相次いだ。神田大介テヘラン支局長は、
「事実だとすれば極めて残念であり、憤りを感じる」
「私は言論の自由、表現の自由を愛する者です。それが妨げられたことに憤っています」
とツイート。大阪本社社会部の武田肇記者も、
「私は組織に忠実な企業内記者の一人ですが、夕方、このニュースを聞いて、はらわたが煮えくりかえる思いでした。極めて残念です(査定に響きませんように…)」
と無念さをにじませた。ハフィントンポストに出向中の吉野太一郎記者も、
「なぜこんな判断に至ったのか理解に苦しむ」
■文春・新潮の広告拒否にも異論
池上氏の連載の問題以前に、朝日新聞の慰安婦問題に対する対応に反発する声もある。例えば、北海道報道センターの関根和弘記者は、読者から 「週刊誌の広告拒否はリベラルな朝日新聞としてはいかがなものかと」と問われ、
「広告については同感です」
と返信、広告掲載拒否に違和感を示した。デジタル編集部の古田大輔記者は、
「私は朝日新聞が吉田証言を採用したことは過ちであり、記事取り消しがいまになったことも大きな過ちであると考えていますし。記者の一人としては、読者の方々に大変申し訳ないと思います。ですが、『慰安婦問題は朝日の捏造』とはまったく思いません」
とツイートし、「吉田証言」記事の取り消しに32年かかったことを「大きな過ち」だとした。
朝日新聞は記者によるソーシャルメディア活用を積極的に進めている。各記者は、ツイートが「私見」や「個人的見解」だと断っているものの、これだけ多くの記者が自社批判を展開する事態は珍しい。

395. 中川隆 2014年9月05日 07:17:16 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

・朝日は安倍に頼まれてインチキ調査やっただけだから、過去の報道を否定する訳無いよ。
・昔の朝鮮では慰安婦の身元がわかったら、娘や妹は売春婦以外の仕事はできなくなるし、弟や息子は会社を首になって路頭に迷うんだよ

・だから身元がわからない様に嘘も入れなきゃいけないし、調査を公開されても困るんだ

それで吉田清治も本当に強制連行した場所は書けなかったんだ

これは朝日が一番良く知っている儒教社会 朝鮮の特殊事情なんだけどね


396. 中川隆 2014年9月06日 00:47:04 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

1996年の国連報告書(クマラスワミ報告)
http://www.awf.or.jp/pdf/0031.pdf


08. 2014年9月05日 15:00:07 : dUS2frfjbI

クマラスワミ報告で吉田の著書に言及しているのは注の10と11だけなんだね。

この注がついてる部分(9ページ前半)を削っても論旨にはほとんど影響ないように思うが。さらに後の方に吉田本に対する秦による批判にも言及しているね。
http://www.asyura2.com/14/senkyo170/msg/842.html


397. 2014年9月06日 10:08:52 : I9jSF8yWD6

強制連行の有無、検証あいまい 秦郁彦さん(現代史家)

 慰安婦問題の主要な争点は、官憲による組織的、暴力的な強制連行の有無と、慰安所における慰安婦たちの生活が「性奴隷」と呼べるほど悲惨なものだったか否かの2点に絞られよう。

 政治的、国際的次元に波及したこともあり、論争は必ずしも決着していないが、二十数年にわたり慰安婦報道を終始リードした観のある朝日新聞が、遅ればせながら過去の報道ぶりについて自己検証したことをまず、評価したい。

 関係者は、6月20日に公表された河野談話をめぐる政府の検証報告書を上回る関心と期待で読み通すのではあるまいか。

 今回の検証ぶりについて私なりに個別の論点を取り上げてみたい。慰安婦問題の初期イメージを形成し、その後の論調を制約したのは、1992年1月11日の朝日新聞かと思う。「従軍慰安婦」と題した用語解説に「主として朝鮮人女性を挺身隊(ていしんたい)の名で強制連行した。その人数は8万とも20万とも」(傍点は秦)とある。翌日の社説でも同趣旨を繰り返した後、過ちを率直に償おうと呼びかけ、解決の方向性まで社説として示したのだ。

 これほど誤認と誤報の多い記事は珍しいが、他のメディアが追従したこともあり、結果的に、当時の河野洋平官房長官が強制連行を認めて謝罪し、アジア女性基金を創設して元慰安婦たちに「償い金」を給付する路線が実現してしまう。

 今回の検証では、当時の情報不足に起因するとして挺身隊との混同は認めたが、総数と民族別内訳は不明としている。

 強制連行の有無については、済州島における慰安婦狩りを証言した吉田清治を16回も紙面に登場させたが、虚言らしいと判明した93年以降は起用をやめ、強制連行の4文字も「なるべく使わないようにしてきた」と強調した。

 それでも、前回の検証(97年3月31日)では吉田証言に関して「真偽は確認できない」と抑え気味だったが、今回は「虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした」と改めた。謝罪の言がないことに不満の人もいようが、画期的だと評価する人も多かろう。

 しかし、強制連行を根拠づける唯一の証言だった吉田証言を否定しながら、中国やインドネシアで戦犯裁判にかかった命令違反や個人犯罪の数例を引いたり、慰安所での「強制」や「軍の関与」を強調したりして、「朝日新聞の問題意識は、今も変わっていない」とあいまいに逃げてしまったのは惜しまれる。

 その関連だろうか、前回の検証では米軍がビルマで捕虜にした朝鮮人慰安婦たちの尋問報告から、慰安婦の置かれた境遇について「一カ月三百―千五百円の稼ぎを得て(中略)『都会では買い物も許された』」と引用したくだりを今回は落としてしまった。

 付け加えると、彼女たちの稼ぎは兵士の数十倍という高収入で故郷へ送金していたし、廃業帰国や接客拒否の自由もあった。奴隷とは言いかねるのに、なぜか国際常識化しかけている性奴隷説に朝日は追随しようとしているかに見える。

 冒頭で述べた2大争点を1勝1敗で切り抜けようとする戦略的配慮なのか。

 皮肉にも韓国では6月25日に元米軍用慰安婦122人が、性奴隷とされたことに補償と謝罪を求め、韓国政府を相手に提訴した。他にも、韓国軍用慰安婦やベトナム戦における性犯罪を追及する声もくすぶる。

 「自分のことは棚に上げ、他を責める」のは国際情報戦の定石とはいえ、日本も反撃姿勢に転じればよいのではないか。(寄稿)


398. 2014年9月06日 13:22:22 : 3cdYZYbVIc
この詐欺師、また嘘言ってる

『米軍がビルマで捕虜にした朝鮮人慰安婦たち』というのは慰安婦ではなく日本軍将校の妾だったんだな。

だから特別待遇だったのさ。 絶世の美女はブスより得に決まってるだろ。


399. 2014年9月06日 16:19:07 : I9jSF8yWD6

朝日新聞「幹部級」も自社批判ツイート続々 池上コラム問題で「9月革命」が起きたのか

一度は朝日新聞に掲載を拒否された池上彰さんのコラムが一転、2014年9月4日朝刊紙面で掲載されたのは、社内外の激しい批判が一因だった。朝日新聞では記者によるツイッターの活用を進めており、ツイッターを通じて社内からの批判も可視化された。一連の自社批判には、末端の若手記者にとどまらず、編集委員などスター記者、さらには管理職など「幹部級」記者にも広がり、その数はあっという間に数十人に膨れ上がった。

記者たちは、結果的にコラムが掲載されたことには安堵しながらも、コラムを実際に読んでみて「『この内容では掲載できません』の理由がますます分からない」などと当初の決定を改めて批判する声も多い。当初の掲載拒否の判断は木村伊量(ただかず)社長を頂点とする首脳陣が主導したとみられており、社内では「木村体制」への批判が高まっているともみられる。帝政ロシアが倒れた「10月革命」になぞらえて「9月革命」の可能性も指摘されはじめた。
社内の統制が取れていないので「情報が漏れ、現場が声を上げる」
池上コラム「一時不掲載」は木村伊量社長をはじめとする首脳陣が主導したとみられている
池上コラム「一時不掲載」は木村伊量社長をはじめとする首脳陣が主導したとみられている

2014年9月3日夕方にコラム掲載が決まってからも、当初の決定を批判する声は朝日社内でやまなかった。尾形聡彦・国際報道部デスクは

「池上さんのコラムの掲載を見合わせていたことは、朝日新聞として間違った判断だったと思います。今日、社内で多くの議論があり、私を含め大勢の記者たちが『即日掲載すべきだ』と意見しました。そうした議論を踏まえ、掲載が決まりました。読者のみなさんや池上さんに本当に申し訳なく思います」

とツイート。社内の声が掲載を後押ししたことを明かした。北野隆一・編集委員は、一連の経緯を

「今回、結果的に社内の議論がオープンになったのは決して悪いことではなかった。でも、そもそも新聞は載せた記事の中身が話題になるべきで、新聞社の内幕が話題になるのはちょっと恥ずかしい」

と振り返った。複数いる朝刊編集長のひとり、沢村亙(わたる)氏は、社内の統制がとれない体質が、災い転じて福となしたとみているようだ。

「うちの会社も官僚的な体質があるが、主筆とか社長とかトップの鶴のひと声で軍隊のように一糸乱れずに動くこともできない。だからこそ情報が漏れ、現場が声を上げる。つくづく危機管理には向かない組織と思うが、これはこれでいい、と思う」

天声人語・前筆者「『この内容では掲載できません』の理由がますます分からない」

9月4日朝になって紙面のコラムを読んだ記者からも、「不掲載」を支持する声は皆無だ。

07年から13年まで天声人語の執筆を担当した冨永格(ただし)特別編集委員は、

「厳しいけれど、いつもの『池上節』の範囲内だと思います。こういうことを書いていただくのがこのコラムの狙い、かつ人気の理由でしょう。『この内容では掲載できません』の理由がますます分からない」

と、コラムの掲載は当然だとの見方を示した。石合力・国際報道部長も、

「見識ある批判に対して、謙虚に耳を傾けたいと思います」

とツイートした。

今回の一連のツイートは、最初は末端記者クラスから始まったが、一気に中堅、幹部級まで広がったのが特徴だ。

「もし本当なら言論機関の自殺行為だ。朝日新聞社の対応に私は個人として賛同しない。少なからぬ同僚記者たちもそう思っている」(谷津憲郎・社会部遊軍長)
「北京出張で体調を壊し、帰宅すると冷蔵庫が『自然死』していて中は腐臭が漂い、池上彰さんのコラムの問題で会社の姿勢に腹が立って眠れず」(吉岡桂子・編集委員)
「掲載した上で、異論反論があるなら、紙面上で堂々と意見をぶつけ合えばいい。言葉には言葉で、それこそ読者は読みたいはず。いまからでも遅くない」(真鍋弘樹・ニューヨーク支局長)

「どの顔を思い浮かべても『こんな判断するわけない』という人物ばかり」

中でも冨永氏は、

「ネット上の罵詈雑言や週刊誌広告の煽情とはワケが違います。『善意の批判』までを封じては言論空間が成り立ちません。度量の広さを示すチャンスをみすみす逃したばかりか、発信力のある書き手を『敵』に回してしまった。何重もの意味で『らしく』ない、もったいない対応でした」
「私の年齢になると編集幹部の多くと顔見知りですが、不思議でならないのは、どの顔を思い浮かべても『こんな判断するわけない』という人物ばかり。ここから何とかリセットできないものでしょうか」

と、今回の判断についての不可解さをにじませた。

また、かなり早い段階から自社の対応を批判していた神田大介・テヘラン支局長は、

「別に記者アカウントの批判ツイートで決定がひっくり返ったってわけじゃないと思いますよ。もっと大きいうねりが社内であったようです」
「(まあ昔っから社内では、『朝日新聞のことを知りたければ文春・新潮を読め』ってよく言われたもんです。社員の知らない会社の話が満載)」

とツイート。社内で何らかの大きなうねりが起きており、それがまた週刊誌に報じられる可能性をほのめかした。


400. 2014年9月07日 07:46:34 : civGDtht5Y
吉田清治の捏造が明らかになったのに、自分の誤りが認められなくて未だに
捏造にしがみつく哀れなカルト信者がいるんですね。

401. 中川隆 2014年9月07日 10:34:02 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
>吉田清治の捏造が明らかになったのに


朝日の調査結果は20年前に吉田清治が言った内容から何も変わってないだろ。

吉田清治が強制連行したのは『全羅南道の済州島』でなくて本当は『全羅南道の某所』だったというだけさ:


全羅南道(ぜんらなんどう、チョルラナムド)は、日本統治時代の朝鮮の行政区画の一つ。

朝鮮西南部、全羅道地方の南部。南方の海上に浮かぶ済州島もその領域とする。北は全羅北道、東は慶尚南道と接する。


402. 2014年9月07日 12:48:32 : w3M1BHSquE
吉田清治証言は虚構

これは朝日新聞が、嫌々ながらもようやく認めた 動かざる事実
これを再び覆すのは、アメリカともう一度戦争やって勝つ事よりも難しい
諦めた方がよろしいかと

なあーーーに 気にすんなって どうせ元々 阿修羅なんて妄想カルトの巣窟
マトモな記事を見つける方が難しいアングラ掲示板なんだから ドンマイ ドンマイ。


403. 2014年9月07日 13:36:32 : 3cdYZYbVIc
朝日新聞の記者はみんな吉田清治証言が本当だと思ってるだろ。

だからインチキ調査やってお茶を濁したのさ。


404. 2014年9月07日 16:01:44 : w3M1BHSquE
キモイの極地ですねえ、自作自演のマッチポンプでコメント数を増やす
延々とたった一人で自分の記事に自分でコメント こりゃ擁護された吉田清治だって 迷惑だろうな

たとえばこんな記事ね
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/216.html

よくもまあ、恥ずかしくないもんですな^^;


405. 中川隆 2014年9月07日 21:14:15 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

俺が建てたスレはすべて個人的な資料保存用だから読んで貰う必要はないし、他の人にコメントまで書き込まれたら困るんだな。

406. 2014年9月08日 02:36:43 : I9jSF8yWD6
自作自演のマッチポンプ

ぴったりの表現ですね。


407. 2014年9月14日 02:46:27 : fSNERqK2z6
>>405
そういうのがやりたいなら自分のブログでやりなさいw
不特定多数が見て書き込める場所で「コメントを書き込まれたら困る」なんて
勝手に私物化するんじゃないよ。
そういう一般常識が欠落しているから、未だに吉田証言なんてデタラメを
事実だと言い張るんだろうけどな。

408. 中川隆 2014年9月16日 08:07:59 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

元慰安婦聞き取り映像公開=河野談話作成時の一部―韓国団体

時事通信 9月15日(月)20時56分配信

 【ソウル時事】韓国で戦後補償訴訟などを支援する民間団体「太平洋戦争犠牲者遺族会」は15日、日本政府が従軍慰安婦問題で旧日本軍の関与を認めて謝罪した河野洋平官房長官談話の作成に当たり、韓国の元慰安婦とされる女性に対して行った聞き取り調査の映像の一部を公開した。

 遺族会は当時、聞き取り調査に深く関わり、映像は非公開とすることで日本側と合意。しかし、「日本で河野談話を傷つける動きが極度に高まっているため、証拠の存在を知らしめる」として、公開することにした。

 約17分に編集された映像では、日本の総理府(当時)関係者に対し、元慰安婦だったという女性が

「外出は原則禁止で、常に軍人に監視された」

「給料はなかった」

などと話している。 


409. 2014年9月16日 22:37:58 : I9jSF8yWD6
朝日新聞社長が謝罪会見!吉田調書や従軍慰安婦記事は誤りだった...辞任の意向
2014/9/12 12:35
朝日新聞の木村伊量社長がきのう11日(2014年9月)に会見して、福島第1原発事故について政府の事故調査委員会が当時の吉田昌郎所長(故人)から聞き取った「吉田調書」の報道に謝りがあったとして謝罪した。責任をとって杉浦信之取締役の編集担当の職を解き、木村社長も時期を見て進退を決めるという。
スクープ「福島原発事故で東電社員逃げた」は記事一部取り消し

吉田調書は政府が非公開としていたのを朝日新聞が5月20日の紙面でスクープし、「(原子炉建屋の爆発で)東京電力社員ら650人が吉田所長の待機命令に違反して、10キロ南の福島第2原発に撤退した」と伝えた。しかし、当時の混乱の中で、所長命令が全員に正確に伝わらなかったこともあって、「逃げ出したような印象」の報道に現場から異論が出ていた。
朝日の驕り

政府は11日に調書を公開したが、吉田所長は、「2F(福島第2原発)へ行けとは言っていない...しょうがないなぁ」と話している。同時に「よく考えると、2Fにいた方がはるかに正しい」ともいっている。朝日新聞はこれを「命令違反、勝手に撤退」とことさらにアクセントをつけていたことになる。

木村社長は「職員が逃げ出したような印象を与えたのは謝りだった」として記事の問題部分を取り消し、読者と東電関係者に謝罪した。なぜそうなったかについては、「秘匿資料なので目にした記者が少なく、チェック機能が働かなかった」と説明した。今後は第三者機関により検証する。木村社長はまた「吉田調書は朝日が報じなければ知られなかったかもしれない。意義は大きかっただけに痛恨の極み」と無念さをにじませた。

続いて、過去の報道の謝りを認めた「従軍慰安婦問題」についても説明した。「済州島で慰安婦を強制連行した」とする一連の報道(1982年から16本)は、吉田清治氏(故人)の証言が虚偽であるとわかったとして、8月5日付の特集で取り消したが、「謝罪がない」「遅い」など批判がでていた。木村社長は「訂正が遅きに失した」として謝罪した。


410. 中川隆 2014年9月17日 00:23:31 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

2014年09月16日中国吉林省公文書館資料シンポ(社会科学院主催)

海南島に動員された韓国・朝鮮人

 韓国東亜政策研究院・東国大学の金教授は、海南島に移送された韓国人のことについての研究成果を発表した。

 何度か海南島に旅したことがある。そこで目撃した鉄道は日本軍が敷設したものとの説明を受けていた。日本軍が現地住民を強制動員した実績だと認識していたのだが、半島からも大量の韓国・朝鮮人を強制労働させていた。

 「半島からは強制労働者、一般労働者、慰安婦も動員させられていた。港湾・鉄道の建設工事に従事させられていた。三菱鉱業や浅野セメントで」

 日本軍は、現地の人たちだけでは不足と考えて、はるか植民地支配していた半島の人たちを、そして駐屯する日本軍のために慰安婦までも動員していたことになる。

 悪法の国家総動員法は半島にも及んでいたことになる。

 「1943年には、朝鮮愛国分遣隊として前後8回にわたって300人から400人が。年齢は24歳から40歳。総計2500人から3000人が動員されていた」

 むろん、まともな労働者としてではなかった。奴隷扱いだから、途中で倒れたり、亡くなったりしたものもいたに違いない。

 彼は恐ろしい話を生存者から聞いていた。「三亜では大きな穴を掘らされて、そこに1000人ほどを生きたまま埋めた」というのである。現地では1000人坑と呼んでいた。証拠の隠滅のためであろうか。人間扱いどころではない。これほどの非人道的な犯罪も珍しい。さらなる真相解明が待たれよう。

 以前に中ソ国境地帯を旅したとき、広大な草原の地下壕に驚かされたものである。日本軍の地下基地であるが、そこでは中国人を大量動員した。完了した後、皆殺しにしたという。同じようなことを海南島でも行っていたのであろう。

 海南島の慰安婦の多くは、戦後も半島に戻らなかった。戻れなかったのだ。もしも、慰安婦であることが知れたら、故郷で生活することは出来なかったからだ。慰安婦の人生ほど過酷で悲しいものはない。


李薇所長の総括

日本軍が書き残した資料ゆえに学術的価値は高い。
http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/52080868.html


411. 2014年9月17日 04:31:20 : I9jSF8yWD6
朝日新聞が福島第一原発事故をめぐる政府による吉田所長(当時)への聞き取り調査の結果を
まとめた、いわゆる「吉田調書」の自社報道について、訂正する方針を固めた。

これは朝日新聞が今年5月20日付けの朝刊で「吉田調書を入手した」と
スクープ記事として掲載していたもので、
そこでは「福島第一原発から職員の9割が所長命令に反して撤退した」などと報じていた。

これをソースとして、海外メディアからは「韓国のセウォル号に匹敵する責任放棄だ」と
報じられるなど影響 は国外にも波及していた。

一方で、産経新聞が8月18日に吉田調書を入手したとして報じた内容は、朝日新聞の報道と
は異なり職員は吉田所長の指示どおりに動いていたとし、朝日新聞の報道は誤っていると
批判していたが、朝日新聞が紙面で明確な反論をすることはなかった。

このような情報の錯綜を受けて、政府は吉田調書を9月中にも公開する方針を発表しており、
朝日新聞社内では事実関係が明らかになる前に、記事の撤回をすべきだとする声があがっていた。

こうした中、明日11日には、政府が吉田調書に関して何らかの発表を行うとの情報もあり、
社内で吉田調書報道の訂正を決定し、明日の朝刊に掲載することを決めた模様だ。

朝日新聞は8月には従軍慰安婦問題の一部報道を撤回し、その後も週刊新潮や週刊文春の
広告掲載拒否などで社会的な信頼を失墜しており、報道機関としての見識が厳しく問われている。

また、朝日新聞内部の匿名の関係者によると、すでに社内では、木村伊量社長の辞任もやむを得ない
との声も上がっており、11日中の社長記者会見がアレンジされた。
朝日新聞は創刊以来最大の危機を迎える。


412. 2014年9月18日 15:19:42 : 3cdYZYbVIc
俺が集めた資料を隠す為に右翼が必死にどうでもいい下らない長文を貼りまくっているね

俺に反論する能力がないから嫌がらせしてるという事か


413. 2014年9月18日 19:29:21 : I9jSF8yWD6
朝日新聞社長が辞任示唆…吉田調書の記事撤回、慰安婦問題でもおわび

「吉田調書」報道の誤りを認めて謝罪する朝日新聞の木村伊量社長、杉浦信之編集担当取締役

 朝日新聞は11日、東京都中央区の東京本社で会見し、東京電力福島第1原発所長として事故対応にあたった吉田昌郎氏=昨年7月死去=が政府事故調査・検証委員会の聞き取りに答えた「聴取結果書」(吉田調書)に関し、「所長命令に違反、原発撤退」と報じた記事の誤りを認め、撤回するとともに謝罪した。「慰安婦」問題についても訂正の遅れを謝罪した。木村伊量(ただかず)社長は、辞任を示唆した。
 午後7時半から行われた会見。朝日新聞の木村社長は約250人のメディアを前に「深くおわびを申し上げます」と苦渋の表情で頭を下げた。

 誤りの原因について、木村社長は「調書を読み解く過程で評価を誤った。記者の思い込みと記事のチェック不足が重なった」と説明した。

 その上で、自身の進退について「編集部門の抜本改革など再生に向けておおよその道筋を付けた上で、速やかに進退について判断する」と引責辞任する考えを示唆した。

 当面、役員報酬を全額返上。報道部門の最高責任者である杉浦信之取締役の編集担当の職を解き、関係者を厳正に処分するとした。「信頼回復と再生のための委員会」を立ち上げることも明らかにした。

 朝日新聞は吉田調書を入手したとして、5月20日付朝刊で「東日本大震災から4日後の2011年3月15日朝に、第1原発の所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ離れた福島第2原発へ撤退した」と断じた。さらに「東電はこの命令違反による現場離脱を3年以上伏せてきた」などと対応を批判していた。

 しかし、吉田調書を入手した産経新聞が8月18日付で「命令違反の撤退なし」と報道。政府は11日夕に、吉田氏の聴取結果書をホームページで公開した。

 木村社長は、慰安婦をめぐって1980〜90年代に出した記事を今年8月に取り消したことにも「誤った記事を掲載し、訂正が遅きに失した」と謝罪した。訂正が初報から30年以上となったことについては「1997年に検証したが、真偽が確認できなかった」と釈明。関係者の処分は「長い時間が経過し、責任を問うのは難しい」とした上で、過去の報道を検証するために有識者による第三者委員会を設置すると明らかにした。


414. 2014年9月18日 19:32:24 : I9jSF8yWD6
資料保存用として使わせてもらっている。

朝日新聞の悪行を暴こう!


415. 中川隆 2014年9月19日 16:07:50 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
フォローアップ投稿が簡単にできるのに、わざわざ俺が3年も前に建てたスレに嫌がらせしに来るというのが右翼のえげつなさだな。

416. 2014年9月20日 01:38:21 : I9jSF8yWD6
朝日新聞社長会見を、リスク管理のプロが一刀両断!  「メディア業界の『雪印事件』のようでした」

「朝日新聞の木村伊量社長が9月11日に行った記者会見は、外部から見て、経営として、危機を収束させる能力がかなり欠落しているように感じました。社長を補佐すべきコンプライアンスやリスク管理を担当する部署も十分機能しているとは思えませんでした」

こう語るのは、企業のリスク管理やメディアトレーニングなどの領域を専門とするコンサルティング会社「アーサメジャープロ」社長の熊澤啓三氏である。氏は、日産自動車で営業企画部や広報部、海外営業部門などに在籍、日産を退職後、米国系大手PR会社の日本法人2社で役員を務め、4年前に独立創業した。

多くの企業のリスク管理対応に助言を送っている熊澤氏に、木村社長の謝罪会見の問題点について聞いた。
第三者への丸投げは大間違い

――朝日新聞の木村社長の記者会見の在り方など、同社の危機管理対応について、専門家としてどのように見ていますか。

「当日はインターネットで記者会見を見ましたし、新聞や週刊誌、テレビで報じられた記者会見の評価も見ました。そこで感じたことを述べますが、その前に断っておきたいことがあります。朝日新聞社は非上場とはいえ、株式会社であり、新聞という『製品』を作っている企業ですので、一般的にメーカーが製品で不具合を起こした時にどのような対応を取るべきかという視点と、言論の自由を標榜し、国民の要望に代行する形で知る権利に対応していかなければならない報道機関としての特殊性を加味しながらの視点が必要になってくると思います」

――新聞という「製品」を作っている企業としての対応はどうですか。

「これは構造的にメディア業界の『雪印事件』だと映ってしまいました。雪印集団食中毒事件では、事の重大さについて経営トップの認識が甘く、把握できていないことや隠ぺい事実に対し、外部からの追及のたびに対応が後手に回って、結局は会社が潰れてしまいました。

朝日新聞は現在、存亡の危機にあると思っています。マスメディアにとっての『報道信頼性の毀損』とはそういう意味だと思います。すべての世論が正しいとは言いませんが、多くの世論は、朝日新聞にジャーナリズムを担う資格があるのかと思い始めています。

これは自動車会社に例えるならば、「おたくの造った車は、品質が悪く、トラブルが多いので買いたくない」と言われているのも同然です。財務体質が強く、不動産も多く持っているので、朝日新聞が潰れることはないと考えているのだとすれば、驕り以外の何物でもありません」

「社長会見の内容も、消費者(読者)を軽視していると感じました。自浄能力がないようにも見えます。その大きな理由は、会見を見ていると、木村社長は自社内で何が起こっているのかを完全に把握していないまま記者会見に臨んでいると見られるからです。

もし誤報に至ったプロセスと原因を内々では把握していて時間稼ぎで『現時点ではわからない』と対応したのなら、それは事実の隠蔽です。朝日新聞の読者を始めとする世間は、一連の問題が、記者ら関係者の個人的資質から生じたものなのか、組織風土など企業マネジメントによるものなのか、が知りたいところですが、木村社長はその点について説明しませんでした。しないばかりか、第三者で構成する委員会に検証を委ねると言っていましたが、それへの丸投げは大間違いです。

まず、自社で起こったトラブルは何が原因なのかを自力で調査し、防止策も含めた対応を考え、その調査手法や対策に問題があるか否かの判断を第三者に任せるべきです。これを一般的に自浄作用と言うのではないでしょうか。第三者に原因まで丸投げ的に調べてもらうということは、これは経営者としての仕事を放棄しています。木村社長は読者や国民に見える形できちんと責任を取らないと、朝日新聞に対する批判はさらに高まる可能性があります」
統制がとれていない

「また、木村社長だけに限らず、朝日新聞社の社員にも危機感が欠如していると感じる部分がありました。報道や表現の自由と、誤報防止・リスク管理は別次元で考えるべきです。

池上氏のコラム掲載が一時的に見合わせられた後、社内の記者からその対応がおかしいというツイッターが発信されましたが、自由闊達に社内が議論していると評する人もいますが、私はリスク管理の専門家として、一般企業ではありえない行為だと思います。事態が大きく動いている時に、会社の対応姿勢に対する個人的見解の発信だけならばいざ知らず、記者会見開催情報などの社内機密にあたる情報の漏洩は慎むべきです。企業の情報統制の在り方としては問題です。リベラルという大義名分の下、情報統制が取れていないわけです。

記者会見後に放映されたあるテレビ番組でも朝日新聞の記者の方が、この問題に関して、検証で紙面を割いているので、本来伝えるべきニュースが伝えられないといった主旨の発言をしていますが、見方によっては、これも反省していないように受け止められます」

「記者会見のセッティングにも問題があると思いました。解職通告を公表された編集担当の杉浦信之氏が質問に答えていたわけですが、誤報問題の責任を取って職を解かれる責任者が、特に今後の対応について説明しても、説得性や客観性に欠けます。あのようなケースでは責任を取る立場にある当事者が、会社を代表して答えるべきではありません。リスクマネジメント上の大きな問題だったと思います。

また、細かいことですが、杉浦氏の解職は会見時9月12日付と木村社長がコメントしましたが、4日経った16日時点でも朝日新聞の会社のホームページでは杉浦氏はまだ編集担当のままでした(17日時点では社長付きに変更)。こうした点も一般企業では信じられないことで、遅い対応では本当に反省はあるのかと思われかねないです」

――報道機関であるという一種の特殊性を加味して、今回の朝日新聞の対応を見ていくと、問題点はありますか。

「自動車メーカーや食品メーカーなどの場合、品質に問題があってそれが消費者に影響を与えた場合、監督官庁から査察や注意勧告を受けたり、状況によっては法的処罰を受けたりします。しかし、新聞を始めとするメディアは、誤報を流しても、そうしたことはほとんどありません。

朝日新聞のような大新聞が誤報を流して、社会を騒がせたうえ、自浄能力がないと見なされると、今の政治情勢などから想像して、今後はたとえば『誤報防止法』を制定しようといった動きが出かねません。朝日新聞が取っている一連の行為は、言論の自由を脅かしかねない行為であり、その自覚があるのでしょうか。言論機関が自らの首を絞めているようにも見えます」

「特に『吉田調書報道』については、何を以て誤報と判断したのか、そのプロセスを詳しく説明しないと、読者には分かりにくい問題です。私にもよく分かりません。福島第二原発への避難命令があったか否かよりも、東電の職員が福島第二原発に避難したことで、原発事故の収束作業に問題があったのか否かを、しっかり説明することも大事かと思います。

また、記者会見は、朝日新聞に誤報があったことを認めさせるためだけの会見であったようにも感じます。これは、記者会見を開いたのがメディア、質問する側もメディアというある種の特殊性から生じているのではないでしょうか。要は、ライバルの朝日新聞を『誤報追及』の一点でお祭り騒ぎのように追い落としたいだけの会見のようにも見えました」

「本来は、なぜ、『吉田調書』を誤報と判断して記事を取り消すのか、その判断に至った詳細のプロセスを説明しなければなりませんが、朝日新聞側も冒頭説明では全く説明しなかったし、質問する側も突っ込みが足りなかった。

また、今回の誤報訂正が何故正しいのか、その裏取り取材はどうしたのかという重要な説明も抜けていました。品質トラブルを起こした会社の記者会見ならば、そうした点に鋭く切り込むはずですが、それがなかったわけで、メディア業界以外の人からは、『業界お手盛り記者会見』と見なされても仕方ありません。

こうした記者会見がメディア業界内での『着地点』なのだとすれば、いずれこの朝日問題が他の新聞など既存メディア全体への不信感につながっていく可能性もあるでしょう。朝日新聞が今回の失地回復をするには、言論の自由を担保する誤報防止システムを、メディア業界の先頭に立って読者に見える形で自発的に構築する以外にないように思われます」

「私が見た限り、記者会見の中の木村社長の発言で、失言と取られても仕方がない部分が2ヵ所ありました。池上氏のコラム掲載見合わせ問題に関してです。木村社長は『私は感想を漏らしましたが、判断したのは杉浦(取締役編集担当)』などと説明しましたが、この発言では世間は、『あなたは見て見ぬふりをしていたのか』と受け止めます。完全に失言と言えるでしょうし、経営トップとしての無責任さが感じられる部分です」

「さらに、木村社長は『言論封殺という、私にとっては思わぬ批判を受けた』と述べています。私はこの『思わぬ』という言葉を聞いてとてもびっくりしたというか、これが報道機関のトップから出る言葉かと信じられませんでした。言論の自由を大切にしている新聞社だからこそ、ふだんから多様な意見に耳を傾けることを尊重していると思っていました。

だから池上氏のコラムを載せなかったら、これは言論の自由を自ら放棄することにつながると当然自覚しているはずですから、それなのに『思わぬ』という表現を使うということは、ふだんから多様な意見に耳を傾けることを放棄していると宣言したに等しいです。

これは、ふだんから交通安全の大切さを謳っている自動車メーカーの社長が高速道路でスピード違反をして大事故を起こした後に、その弁明として『道路に制限速度があるのを知りませんでした』と言っているのに等しいです」

「もし、これを木村社長が自らの言葉で発信しているとすれば、これだけで報道機関のトップとしては失格ですし、事前に作成した想定問答などに基づく発言だとすれば、朝日新聞社の広報やリスクマネジメント対応にはかなりの問題があると言えるでしょう。私が記者会見に出て質問できる立場にいれば、この2点も深く突っ込みたいところです」

「今回の朝日新聞の誤報問題で一般読者は、メディア報道における『事実』が時としてたいへん曖昧なものから組み上げられているものだと知ることができました。これは逆に言えば、メディアへの情報提供の際に曖昧さを極力排除しなければ危険であると考える良いきっかけになったとも言えます。企業側のコンサルタントとしては、『誤報防止はまずメディアへの情報の質を上げることから始まる』という重要な教訓を再認識したことになります


417. 2014年9月20日 02:39:04 : 1nyXAA13ks
右も左も清く正しく綺麗に生きたいってことに変わりはないと思う
互いに敵視してても元は同じ純粋な人間なんだよ

418. 2014年9月20日 16:36:06 : 3cdYZYbVIc
右翼には論理が通じないからなあ

419. 2014年9月20日 17:58:24 : I9jSF8yWD6
右翼呼ばわりしているが、私は右翼ではありませんよ。
左翼でもないけれど。
左翼には、論理が通じるのか?
ウソの歴史を撒き散らしているのに論理が通じるとは笑止千万。
阿修羅の板を勝手に私物化するようなバカな考えを持った人が論理が通じないとか言うなよw

420. 2014年9月20日 23:31:55 : 3cdYZYbVIc
クルクルパーコメント書かれると困るというだけさ

自分で新しいスレ建ててやってくれ

バカはバカ同士で群れて愉しくやればいいのさ


421. 2014年9月21日 10:58:38 : I9jSF8yWD6
たのしくやる気があるということだな。
クルクルパーコメント同士でやっていこうじゃないか。

こちらとしては、喧嘩売られてるので絶対に許さんがな。


422. 2014年9月24日 09:10:05 : WrqZG5OqdQ
421がクルクルパーだという話だけどな

423. 中川隆 2014年9月30日 22:59:51 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
日本の司法による事実認定―「河野談話」の真実性は歴史によって検証された

 
・各国の元「慰安婦」が、日本政府を被告として謝罪と賠償を求めた裁判で認定された事実


・一連の判決は、「各自の事実経過」として、元「慰安婦」が被った被害について、一人ひとりについて詳細な事実認定をおこなっています。

・八つの裁判の判決で、被害を事実認定されている女性は35人にのぼります。内訳は韓国人10人、中国人24人、オランダ人1人です。一人ひとりの被害に関する事実認定は、読み通すことに大きな苦痛を感じる、たいへん残酷かつ悲惨な、生なましい事実が列挙されています。その特徴点をまとめると、以下のことが確認できます。

1)35人の被害者全員が強制的に 「慰安婦」 にさせられたと事実認定した

・八つの裁判の判決では、35人全員について、「慰安婦」とされた過程が「その意に反していた」=強制性があったことを認定しています。「慰安婦」とされた年齢については、裁判記録で確認できるものだけでも、35人のうち26人が10代の未成年でした。

・韓国人の被害者のケース。甘言など詐欺によるものとともに、強圧をもちいての強制的な連行の事実が認定されています。たとえば、「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」の東京高裁判決(2003年7月22日)、「釜山『従軍慰安婦』・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟」の広島高裁判決(2001年3月29日)で認定された個々の被害事実のうち、4名のケースについて示すことにします。(〈 〉内は引用者)。

 ・「帰宅する途中、釜山駅近くの路地で日本人と朝鮮人の男性二人に呼び止められ、『倉敷の軍服工場にお金を稼ぎに行かないか。』と言われ、承諾もしないうちに、船に押し乗せられてラバウルに連行された」。

 ・「『日本人の紹介するいい働き口がある』と聞いて行ったところ、日本人と朝鮮人に、芙江から京城、天津を経て〈中国各地の慰安所に〉連れて行かれた」。

 ・「日本人と朝鮮人が来て、『日本の工場に働きに行けば、1年もすれば嫁入り支度もできる。』と持ちかけられ、断ったものの、強制的にラングーンに連れて行かれ、慰安所に入れられ〈た〉」。

 ・「日本人と朝鮮人の青年から『金儲(もう)けができる仕事があるからついてこないか。』と誘われて、これに応じたところ、釜山から船と汽車で上海まで連れて行かれ、窓のない三〇ぐらいの小さな部屋に区切られた『陸軍部隊慰安所』という看板が掲げられた長屋の一室に入れられた」。

 中国人の被害者のケース。そのすべてについて、日本軍人による暴力を用いての文字通りの強制連行が認定されています。「中国人『慰安婦』損害賠償請求訴訟(第一次)」の東京高裁判決(2004年12月15日)が認定した4名の被害事実について示すことにします。

 ・「日本軍兵士によって自宅から日本軍の駐屯地のあった進圭村に拉致・連行され、駐屯地内のヤオドン(岩山の横穴を利用した住居。転じて、横穴を穿(うが)ったものではなく、煉瓦(れんが)や石を積み重ねて造った建物も指す。)に監禁された」。

 ・「3人の中国人と3人の武装した日本軍兵士らによって無理やり自宅から連れ出され、銃底で左肩を強打されたり、後ろ手に両手を縛られるなどして抵抗を排除された上、進圭村にある日本軍駐屯地に拉致・連行され、ヤオドンの中に監禁された」。

 ・「日本軍が襲い、……銃底で左腕を殴られたり、後ろ手に縛られたりして進圭村に連行され、一軒の民家に監禁された」。

 ・「日本軍兵士によって強制的に進圭村の日本軍駐屯地に拉致・連行され、日本軍兵士などから『夫の居場所を吐け』などと尋問されたり、何回も殴打されるなどした上、ヤオドンの中に監禁され〈た〉」。


2)「慰安所」での生活は、文字通りの「性奴隷」 としての悲惨極まるものだった

・被害者の女性たちが、「慰安所」に入れられた後の生活は、一切の自由を奪われる状況のもとで、連日にわたって多数の軍人相手の性行為を強要されるという、文字通りの「性奴隷」としての悲惨極まりないものだったことが、35人の一人ひとりについて、具体的に事実認定されています。「慰安所」での生活は、性行為の強要だけでなく、殴打など野蛮な暴力のもとにおかれていたことも、明らかにされています。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-09-27/2014092704_01_0.html


424. 2014年10月02日 00:41:11 : qJReL1AR3I

朝日新聞の「吉田調書報道取り消し」を
市民派弁護士らが大批判
井上久男「ニュースの深層」

「吉田調書」を取り消した社長会見を報じる朝日新聞9月12日朝刊一面

平和と人権、報道、原発問題などにかかわっている、いわゆる市民派の弁護士が9月26日、「『吉田調書』報道に関して記事全体を取り消さなければならない誤報はなかったと思料します」などとして、同報道の検証を始めた朝日新聞社内に設置の「報道と人権委員会」が事実に基づいた検証を行うことなどを求めた申入書を朝日新聞社の木村伊量社長宛に提出した。
「報道の自由」が脅かされる

提出したのは中山武敏弁護士らで、全国の191人の弁護士が賛同、今後、賛同者はさらに増える見込みだという。

提出後の記者会見や会見後の囲み取材で中山弁護士は「今回の件で現場が委縮することで報道の自由が脅かされることを全国の弁護士は懸念している。『吉田調書』報道の関係者について朝日新聞の木村社長は厳正に処分すると言ったが、事実関係が正確に把握できていない状況で処分のことを言うのは、人権侵害にもあたる可能性がある」と、今回の朝日新聞の対応を批判した。

申入書では、「命令違反で撤退」したかどうかは解釈・評価の問題で、吉田所長が所員に福島第一近辺に退避して次の指示を待てと言ったのに、約650人の社員が10キロメートル南の福島第二原発に撤退したとの記事は外形的事実において大枠で一致しており、記事全部を取り消すと全ての事実があたかもなかったものになると思料する、などと指摘されている。

従軍慰安婦検証報道後に高まった朝日新聞批判は、主に競合紙や敵対的メディア、右翼らが行ってきたわけが、今回の批判は、朝日新聞と考え方が近いいわゆるリベラル派からのものであり、朝日は「左右両面」から批判にさらされていることを意味する。

要は、朝日のコア読者に近い層からの批判であり、木村社長は重く受け止めるべきではないだろうかと筆者は感じる。


425. 2014年10月02日 00:42:27 : qJReL1AR3I
市民派弁護士らが記者会見で言わんとするところは、9月11日の記者会見で朝日新聞の木村社長が、「吉田調書」の取材経緯など事実関係をまだ丹念に調べていない状況下で、記事を全面的に取り消し、関係者の処分を明言したことが、権力を監視し、知る権利に対応しようとしている現場の記者を委縮させ、報道機関としての使命を放棄することにつながる、ということである。

そして、それが民主主義の危機を招くということでもある。
マスコミ同士の「不毛な戦い」は政府の思う壺

そもそも「吉田調書」とは、原発で大災害が起こると、制御不能になり、想像もつかないような甚大な被害が出る可能性があることを、原発の現場の管理責任者が自ら認めた一級の資料であり、再稼働を急ぐ政府や東京電力にとっては国民に知られたくない資料だったと言えるだろう。

その資料を、記者がスクープした行為は、知る権利に十分に対応したものであり、朝日のスクープがなければ、情報開示を求める議論も起こらなかったかもしれない。

だが、「全員が命令違反」という評価は行き過ぎたとも言える。その行き過ぎた評価のみに焦点を絞って、「朝日新聞の報道は誤報」だと早々と決めつけてしまった木村社長の判断は、ジャーナリズムの方向性を間違った方向に導く可能性がある。

そうした意味で、記者会見に同席したマスコミ研究者である桂敬一氏(元東京大学新聞研究所教授)は「(記事取消は)戦後ジャーナリズム最大の危機だ」と語った。

また、同じく記者会見に同席したジャーナリストの斎藤貴男氏は、「吉田調書」報道に対する他メディアの異常なパッシングについても問題提起し、「現状のマスコミはあまりにひどい。同じ仕事をしていながら相互監視しているようにも見える。これでは結局、マスコミ全体が権力に屈していくことにつながる」などと話した。

要は、日本のマスコミは木を見て森を見ず、ということである。販売で競い合っている朝日新聞のライバル紙は、朝日の窮地をさらに叩き、世間に知らしめることで、朝日の読者を奪えると考えているが、マスコミ同士の戦いを高みの見物的に一番喜んでいるのは政府だ。

いずれ、マスコミ同士の不毛な戦いは読者の新聞不信を招く。今回の問題を契機に朝日の購読を辞めた読者は必ずしも競合紙に乗り替わっているわけではなく、新聞購読を止めているやに聞く。読者の新聞離れが始まり、それが新聞社の経営問題につながれば、権力の監視どころではなくなる。まさに政府の思う壺である。


426. 中川隆 2014年10月02日 18:51:03 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

元慰安婦が身元を絶対に明かさない理由


元日本軍慰安婦も元米軍慰安婦も事情は全く同じですね:


「米軍慰安婦」たちは朝鮮戦争(1950〜53年)が終わったあとも50年代から80年代、さらに90年代に至るまで、売春街(基地村)で米兵を相手にしていました。表向きの好条件と違って、その実態はかなり悲惨なものであり、引退後も元売春婦として差別を受けながら、孤独で貧しい生活を強いられてきたのです。

稼ぎはすべて雇い主のポジュに奪われてしまいます。それどころか、部屋代や化粧品代、美容品代などを請求されて借金は増えていく一方。鎮静剤と偽ってポジュから渡された薬はじつは麻薬で、その代金も借金に上乗せされており、いつ終わるとも知れない地獄の日々が続きます。

 一度は基地村から逃亡したキム氏でしたが、すぐにチンピラに連れ戻され、さんざん殴られました。ポジュから賄賂をもらっている警察はそうした暴力行為を見て見ないフリです。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20141001-00000001-voice-pol

吉田清治が最後の最後まで強制連行した場所と時を明かさなかったのも元慰安婦の事を慮ったからだったのですね。


427. 2014年10月02日 20:40:52 : qJReL1AR3I
吉田清治の正体は?
吉田清治長男の述懐 

詐話師「吉田清治」長男の述懐
「朝日に翻弄された私と父の人生」

 朝日は、吉田清治なる”詐話師”のホラ話に丸乗りし、慰安婦「大誤報」を垂れ流してきた。しかも、32年にわたって撤回しなかったために、1億国民を報道被害者にしたのと同時に、吉田氏の家族をまた、世間の冷たい目に晒し続けることになったのだ。吉田氏の長男(64)が述懐する。朝日に翻弄された父と自らの人生とはー。

「済州島で朝鮮人女性を狩り出した」などという父の虚言のせいで、国民に多大なる迷惑をおかけしたことには、息子としてただただ頭を下げるほかありません。
 しかし、世間から”詐話師”などと呼ばれてはいても、私にとっては昔気質で無口な父でした。
 父が生まれたのは、大正2年(1913年)の10月15日のことです。実は、本名は雄兎といいます。父の父、つまり私からすると祖父は、福岡県遠賀郡の貯炭場で現場監督を務めていて、かなり羽振りが良かった。ところが、スペイン風邪で若くして他界し、それから吉田家は没落していったそうです。
 日中戦争の起こった1937年、父は満州国地籍整理局で働いていました。その年、李貞郁という20歳の朝鮮人男性を養子に迎えた。後々、父の出自が疑われる原因にもなりましたが、父は、「朝鮮人や中国人は、日本人の10分の1しか給料が貰えなかった。差別はよくないし、日本人と同じになるように養子にしたんだ」と話していた。結局、私はその朝鮮人男性に会ったことはありません。
 父はその後、中華航空の南京支社に転職している。
 生前、「南京の夏は暑くて、屋根が焼けるようだった」「情報機関の軍人を、優先的に飛行機に搭乗させたから部長にまで出世した」などと話しているのを聞いたことがありました。
 終戦前には、すでに中国から引き揚げてきたようです。残っている写真などを見ると、42年には『労務報国会下関支部』に職を得ていました。父は、のちにそこの動員部長の肩書で、従軍慰安婦の本を書いたのです。
 44年に母と結婚し、5年後に私、さらにその2年後に弟が生まれました。
 戦後、父は『下関肥料』という会社を立ち上げたりもしましたが、仕事は長続きしなかった。というのも、私は物心ついてから、父がまともに働いている姿を見たことがありません。その代わりに、母が裁縫の内職などで家計を支えていましたが、家賃が払えずに追い出されては下関市内を転々としていました。
 高校生活を終えた後、私は自らの希望もあって、ソ連のモスクワ大学に留学しました。1年遅れで、弟も続いた。父はというと、当時、門司にある『小野田セメント』の子会社で、母と一緒に住み込みの管理人をしていました。ある時、賃上げ交渉に臨んだ労組が、
「こっちには、息子をモスクワ大学に留学させたバリバリの共産主義者がいるんだぞ!」と経営者側を突き上げ、そのせいで両親はクビになってしまった。やむなく、両親の面倒を見るために、モスクワから2年で戻ってきました。24歳くらいの時、弟と一緒に上京し、精密機械工場で働いたり、得意なロシア語を活かそうと翻訳サービスの会社で仕事をするようになった。上京後すぐに、生活が安定する間もなく両親を下関から呼び寄せました。

清田記者の電話
 父の4つ年下である母が亡くなったのは、私が30歳の頃です。肝臓がんを患い、60歳を超えたばかりだったのにあっけない最期でした。父が原稿用紙に向かうようになったのは、母の死期が近づいたことが一つのきっかけでした。
 ただ、私としては”自分史”でも残そうとしている程度にしか考えていなかった。ところが、ある日、父が1作目となる『朝鮮人慰安婦と日本人』(77年刊行)を持ってきたのです。立派な本だったのでびっくりしたのですが、「そんなタイトルじゃ、恥ずかしくて誰も買わないよ」と言うと、父はムッとして、「タイトルも目次も出版社に決められたんだ。内容も、何度も何度も編集者に書き直しさせられた」と言い返してきた。
 父は最初、本名で出版しようとしたのですが、出版社との打ち合わせで、”清治”というペンネームを使うことになったのです。さらには、養子の朝鮮人男性は83年に死亡しているのですが、その本では38年に戦死したことにしている。父は、ドラマチックなストーリーにするためだと話していた。つまり、身近にいた私から見ると、父はあくまでも私小説の類のフィクションを書いたつもりだったのです。
 とはいっても、その本をきっかけに、市民団体などから講演依頼が舞い込むようになり、朝日にその模様が大々的に取り上げられました(82年9月2日付・大阪本社版)。仕事らしい仕事をしたこともなく、人付き合いもほとんどなかった父がすっかり舞い上がってしまったのも無理はないかもしれません。
 挙げ句、2作目の『私の戦争犯罪』(83年刊行)では、従軍慰安婦の強制連行という話にまでエスカレートしてしまったのです。
 そのころ住んでいた都内のマンションには頻繁に記者が訪ねてくるようになりました。帰宅すると、精神を患って仕事を辞めていた弟から、「今日も、マスコミが来ていたよ」と教えられました。私自身、朝日の清田という記者からの電話を父に取り次いだ記憶があります。ただ、マスコミに煽られ、父の証言が政治問題になっても、たいして本は売れず、父が手にした印税はせいぜい数十万程度でした。しかも、それは韓国・天安市に建てた”贖罪の碑”に使ってしまった。
 他には、講演料収入というものもありました。「民団と朝鮮総連の両方から依頼が来るのは俺だけだ」なんて、父が自慢していたこともありましたけど、講演料は最高でも5万円、たいていは数千円でした。ですから、父の生活の面倒は相変わらず、私が見るほかになかった。私は結婚することも叶いませんでした。
”詐話師”のレッテルが貼られるようになってから、次第に記者が父を訪ねてくることもなくなった。晩年は直腸がんを患い、ほとんど寝たきり状態でした。2000年7月30日、86歳で息を引き取りました。
 朝日は記事を撤回するなら、せめて父の生きているうちにして欲しかった。もちろん、第一に父が悪いのはわかっていますが、父にだってなにかしらの言い分があったかもしれない。
 これでは朝日の都合で祭り上げられ、そして朝日の都合で切り捨てられたようなものです。もし、朝日に関わらなければ、父も私も違う人生があったはずなのです。


428. 中川隆 2014年10月03日 09:30:52 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
要するに、吉田清治長男は右翼から脅迫されるか大金を貰って、父親の残した資料をすべて処分してしまったから、何も証拠を出せないんだろうね。

429. 2014年10月03日 23:55:28 : qJReL1AR3I
要するに朝日とか左翼の市民団体にに脅されるか大金をもらってウソを突き通すしかなかったということだね。だから出鱈目なストーリーになってしまった。米軍慰安婦を題材に日本軍に置き換えて話を作り上げてしまったんだね。

430. 中川隆 2014年10月04日 08:50:09 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

性奴隷と日本の「淳風美俗」
http://kuantan2007.wordpress.com/


従軍慰安婦が日本軍や日本の官憲の「強制連行」でなかった、というか、慰安婦に関する朝日新聞の報道が嘘だったことを朝日新聞が白状したことで、右翼たちは大喜びしているようですが、欧米人から見れば、そんなことは何の特別な意味もないことであり、彼らの日本に対する見方が変わるわけではありません。

「強制連行」がなかったということは、韓国や福島みずほ氏にとっては痛手ですが、欧米の日本に対する評価には何の影響も与えません。日本人が悪いことをしていたという事実、日本人は今も反省がなく、今も悪いことを実は続けている、という事実。この認識を欧米は断固としてもっています。

アメリカ国務省が、日本の女子高生売春を人身売買だというのは、ふざけているのではなく、彼らの真面目な認識です。女子高生売春の話は極端だとしても、この欧米の認識は根拠のないものとはいえません。

いまさら言うまでもないことですが、日本においては、売春は常に人身拘束と不可分なものでした。小作人が凶作やデフレで小作料を払えなければ借金しなければなりません。娘がいれば前借り金で拘束された「年季奉公」に出すことになります。娘がいるなら娘を「売る」べきだ、というのが日本では当然の「義務」でした。

親(親権者)が法定代理人として契約する、契約の効果(権利義務)は未成年者本人に帰属する、つまり親が売るわけですが、人身売買に変わりはありません。

風俗産業における事実上の人身売買は今でも続いており、たとえば「吉原」で売春している人が本当に「自由意志」で働いているなどというのは事実に反したことです。彼らの大部分は今でも事実上の性奴隷であり、嫌でも逃げられない人々なのはちょっと想像してみればわかるはずです。

オカルト右翼(「日月神示」関係者)のブログに次のような記述を見つけましたが、これが日本の保守層の常識水準なのでしょう。


日本軍が強制的に慰安婦として連行したというのと、自分から仕事として慰安婦になったのでは180度違うわけです。歌舞伎町や吉原の風俗店で働いている女性は、自分の意志で働いているのであって、強制連行されたわけではないことは、誰でも知っています。
http://blog.goo.ne.jp/hitsuku/e/6b1c8998e6bc3c554cf9abe9b4ef8d0f

「誰でも知っています」と言い放つこの感覚が問題でしょう。欧米人が問題にしているのも、日本に土着しているこの感覚だと思います。我々はあいかわらず何の反省もなく変わっていません、とわざわざ言っているようなものです。

右翼はよく、売春は戦前は合法だったのだから問題ないとか、戦前は普通のことで、現代の感覚で判断してはいけない、などといいます。このような言い訳をすればするほど、彼らは不利になることがわかっていないようです。

戦前、「禁足制度」を伴う公娼制度の廃止は、我が国の「家族制度」「淳風美俗」を害する、と大まじめに主張する愛国者たちがいたのですが、慰安婦問題で「日本は悪くない」と言いつのる人々は、自分たちはこのような愛国者たちの後継者だと主張しているようなものです。「禁足制度」を伴う日本の公娼制度は国際的な基準からかけ離れたものである、という認識は、戦前にも存在したのです。1935年に書かれた

戸坂潤「日本イデオロギー論」(八 復古現象の分析 ――家族主義のアナロジーに就いて)
http://books.google.co.jp/books?id=2QZ0mAxk_UkC&pg=PT106&lpg#v=onepage&q&f=false

より。


….内務省は一九三五年の四月を期して全国的に公娼廃止を断行することに決定したと伝えられる(実は四月には断行されなかったが)。すでにこれまでに、秋田・長崎・群馬・埼玉・の各県では、公娼廃止即ち遊郭廃止が実行されている。前年警視庁では公娼制度に固有な禁足制度を撤廃し、同時に自由廃業の実質的な自由を多少とも尊重する方針を取ったが、之は内務省の今の方針の先触れをなすもので、天下の大勢がどうやら廃娼の必然性に帰着したように見えることは、否定出来ない事実だ。

….今日まで廃娼運動が目標として来た直接の目的は、婦女子児童売買乃至一般に人身売買と、それに当然伴わなければならぬ人身抑留とを、国家が法的に保護の責に任じるという、所謂文明国では非常に珍らしい公娼制度につきている。

…併し注目すべきことは、これよりしばらく前、二千名の全国貸座敷業者が、やはり同じ趣旨に帰着する処の存娼大会を持ったという事実である。処がその発表された宣言が今何より大切なのである。

曰く「西洋文明に心酔せる為政者識者が、徒らに国法無視の私娼を奨励して、国法に準じ家族制度を尊重して永き歴史を有する貸座敷業者を圧迫することは、将来救い難き禍根を淳風美俗のわが国家社会に残すものとして絶対反対す」というのである。

之は決して楼主達の与太気焔ではない。全く彼等の生活の叫びなのだ。そればかりではない。例の娼妓愛好家の議員達の云いたくて流石に云い切れなかった一点を、極めて率直に勇敢に云って退けたものに他ならないのだ。

私は議員達の大半が楼主達に買収されたとは到底考え得ない。それから実を云うとまさかそんなに愛娼家揃いだとも思わない。するとつまり彼等天下の選良達は、公娼制度がわが日本の「家族制度」と「淳風美俗」とかから離れることの出来ないものであり、いやしくも之を疑う者は之即ち「西洋文明」の唯物思想(?)に他ならぬ、と私かに信じているものと見做す他はあるまい。….

….つまり公娼制度の必要は、わが国三百年来の、否三千年来の、淳風美俗たる家族制度から結論される一結論だというわけである。処がこの滑稽な哲学は、案外一部識者の手近かな常識と縁遠いものではないのではないかと私は思う。無論こうした馬鹿げた常識(?)は、そのものとしては取るに足りないが、併しこうした馬鹿げた気分の動きが、案外思わぬ処で、民族精神の或る一つの秘密を告げているということが大切である。

公娼制度の問題は大にしてはその本質に於て無産者農民の桎梏の問題だが、之とつらなる家族制度の方は、抑々日本民族生活の本質なのだと今日主張されている。だから例の貸座敷業者の亭主達は、決して馬鹿に出来ない民族主義的社会理論の一端を本能的につかんでいるわけなのである。その成否はとに角として、存娼運動は、現在日本に於ける、復古観念の単に最も色情的な一表現に他ならないのだ。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000281/files/3596_39403.html


431. 2014年10月04日 16:57:40 : qJReL1AR3I

慰安婦問題を報じてきた欧米メディアが『必死の朝日擁護』を展開中。朝日新聞は”政治の被害者”という立場を強調

 朝日新聞社は11日、東京電力福島第1原発の事故当時の状況を記した「吉田調書」に関する5月掲載のスクープ記事を誤報と認め、取り消した。同社の吉田伊量社長は同日夜、記者会見を開いて「読者の信頼を傷つけた」などと謝罪した。 

海外各紙もこのニュースを報じている。ニューヨーク・タイムズ紙(NYT)やウォールストリート・ジャーナル紙(WSJ)は、この原発関連記事の問題だけでなく、慰安婦問題をめぐる誤報やジャーナリストの池上彰さんの連載コラムの掲載拒否問題など、最近の一連の朝日の不祥事についても併せて取り上げている。

 NYTは、今回の件について報じるとともに、いわゆる従軍慰安婦問題で、朝日新聞が日本軍による強制性の有力な証拠として度々取り上げてきた故・吉田清治氏の証言を虚偽と認め、関連記事を撤回した件についても詳しく論じている。

「(右派からの批判は)日本で最も抜きん出たリベラルの声である朝日新聞に打撃を与えるための、政治的なキャンペーンだという見方も多い」と、朝日も被害者だとする一部の国内世論を強調している。

 朝日新聞やNYTの執拗なデマ報道が「まじめで礼儀正しい日本人」という国際的なイメージを傷つけた罪は大きいが、NYTはまだ謝罪もしていない。彼らが20年かかって壊した日本人の名誉を元にもどすことは困難だが、彼らはこれから自分の嘘を徹底的に検証し、世界の有力紙に全面広告を出して謝罪する歴史的責任を負っていることを認識しなければならない。


432. 中川隆 2014年10月05日 09:17:36 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

朝日新聞社長は新聞に軽減税制を適用して欲しくてヤラセのインチキ調査させたんだろ。

今迄に「吉田証言」の内容自体が捏造だと示した論考は唯の一つも無い。

簡単にでっちあげられる様な話ではないからね。


433. 2014年10月05日 19:01:03 : qJReL1AR3I
ニューヨークタイムズという新聞社がこれまで「沖縄米兵少女暴行事件」「捕鯨問題」「尖閣諸島問題」「従軍慰安婦問題」「教科書問題」「北朝鮮日本人拉致問題」などに関して、長年のあいだ、多岐に渡って日本に対する批判的な報道を繰り返してきた新聞社であること、そしてニューヨークタイムズと朝日新聞社は提携関係にあること、ニューヨークタイムズの東京支局が、東京都中央区築地の朝日新聞本社内にあることを知っておくべきだと思います。


434. 中川隆 2014年10月13日 22:18:31 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

秦郁彦、吉見義明、第一人者と考える『慰安婦問題』の論点
http://www.youtube.com/watch?v=3ANBEo8Ju14


激論!慰安婦論!秦郁彦「高給娼婦だ!」vs吉見義明「強制性奴隷だ!」

議論⇒ガチ喧嘩!

http://www.youtube.com/watch?v=2SDsA6Tszg8
http://www.youtube.com/watch?v=KAmJyHMh23w
http://www.youtube.com/watch?v=taa5jd4rZ48



435. 中川隆 2014年10月13日 22:27:16 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
粛々と文字起こしに徹しようと思っていたのだけれど、気になってしょうがないので、寸評を。

一言一句拾って行く過程で気づくのは、秦郁彦の没論理ぶりが目立つということ。また、史料を用意して来ている吉見に対して、秦は他の事象に関する通念とのアナロジーに依拠した立論を繰り返す。

また、吉見は、批判的な人の色眼鏡で見れば、現在の価値観で歴史を斬っているように見えるかもしれないけれど、実際には、軍の行為が当時の刑法に照らしてどういう犯罪を構成しているかを繰り返し強調している。

_______


橋下徹大阪市長 軍自体が、日本政府自体が、暴行脅迫をして拉致をしたという、女性を拉致をしたというそういう事実は今のところ証拠で裏付けられていないので、そこはしっかり言っていかなきゃいけないと思いますよ。

[……]

当時、慰安婦制度ってのは各国の軍は持ってたんです。当時はそういうもんだったんです。ところがなぜ、欧米のほうですね、日本のいわゆる「従軍慰安婦」問題だけを取り上げられたかといったら、強制的に意に反して慰安婦を拉致してですね、そういう職業に就かせた「レイプ国家」だっていうところで世界は非難してるんだってところを、もっと日本人はねぇ、世界にどういうふうに見られてるかってことを認識しなきゃいけないです。


○時事ドットコム:橋下氏の発言要旨=従軍慰安婦問題


【2013.5.13】橋下徹 大阪市長 登庁時 ぶらさがり取材

南部広美 大阪市の橋下市長の会見の音声の一部をお聴き頂きましたが、この発言がきっかけとなり、慰安婦問題が再燃しました。

慰安婦問題の経過を辿ってみます。

慰安婦とは、1930年代から45年まで、日本の戦地・占領地で日本軍が作った慰安所で軍人の性の相手となった女性たちのことです。

その存在は以前から知られていましたが、1991年に元日本軍の慰安婦だった韓国人女性が謝罪と賠償を求めて名乗り出たことから、政治・外交問題となりました。

日本政府は、慰安所の設置や、慰安婦の募集に日本軍が関与した証拠はないと主張してきましたが、調査を進めた結果、1993年のいわゆる「河野談話」の中で、初めて軍の関与や強制性があったことを認め、謝罪しました。

1993年8月4日に、当時の河野洋平官房長官が発表した、いわゆる「河野談話」の概要です:

•慰安所の設置・管理および移送については、旧日本軍が直接あるいは間接的にこれに関与した。

•慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれにあたったが、その場合も、甘言・強圧によるなど、本人たちの意志に反して集められた事例が数多くあり、さらに、官憲などが直接これに関与したこともあったことが明らかになった。

•また、慰安所における生活は、強制的な状況の中での痛ましいものだった。


○慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話(平成5年8月4日)(外務省ウェブサイト)

そして、1995年に、女性のためのアジア平和国民基金、いわゆる「アジア女性基金」が設立され、元慰安婦に、首相のお詫びの手紙と民間募金によるお見舞金が渡されることになりました。


○慰安婦問題とアジア女性基金/デジタル記念館 (アジア女性基金公式サイト)

2002年までに、364人の元慰安婦が償い金を受け取りましたが、あくまでも国家による賠償を求め、受け取りを拒否した元慰安婦も数多くいます。

また、河野談話が出されて以降も、閣僚から「慰安婦は自由意志で買春をした」という発言があったり、第1次安倍内閣が「軍や官憲によるいわゆる「強制連行」を直接示すような記述も見当たらなかった」とする内容を閣議決定するなど、河野談話の見直しにつながるような動きも出ています。


○軍の強制連行の証拠ない 河野談話で政府答弁書(47NEWS)

○橋下徹大阪市長の慰安婦を巡る発言の背景となった安倍首相の「閣議決定」に関する発言について:辻元清美 ブログ:つじともWEB

また以前は、日本の歴史教科書の多くに慰安婦についての記述がありましたが、現在はほとんどなくなっています。

その一方で、国連では、「女性たちを強制的に「レイプ・センター」で性奴隷にした」という報告書が提出され、欧米では、日本に改めて謝罪を求める決議が相継ぐなど、この問題は、国際問題であり続けています。


○CONTEMPORARY FORMS OF SLAVERY: Systematic rape, sexual slavery and slavery-like practicesduring armed conflict (E/CN.4/Sub.2/1998/13)(国連ウェブサイト、PDFファイル、英語)

※国連人権委員会 差別防止・少数者保護小委員会で1998年に採択された、いわゆる「マクドゥーガル報告書」
"the McDougall Report" Commission on Human Rights, Sub-Commission on Prevention of Discrimination and Protection of Minorities

* * *

荻上チキ 今、冒頭のほうで南部さんのほうから、一般的な慰安婦問題の経緯の説明がありました。まず、これ自体についてもどうか、どう思っているのかと聞いてみたいと思うんですけども、秦さんは先ほどの解説、聞かれてどのように思われましたかねぇ?

秦郁彦 そうですね、細かいことを言いますとですね、多少違和感のある部分がないでもないんですけど、まぁだいたい要約の要約みたいなもんですから、大きな過ちはないと思います。

荻上 なるほど。吉見さん、いかがでしょうか?

吉見義明 経緯については特に異存はないですね。ただ、まぁ一点、歴史教科書ですけども、記述がなくなったのは中学校の歴史教科書で、それは全くなくなっているということですね。

荻上 なるほど。
http://radio-critique.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/session-22tbs20.html


橋下徹大阪市長の発言について

荻上チキ まず最初の論点として、何と言っても、やはり橋下市長の会見がきっかけになりました。それについても質問メールが来ているので読み上げて頂けますか?

南部広美 はい。ラジオ・ネーム「タクヤカンダ」さんからです。35歳男性のかたです。

「従軍慰安婦論争は昔からありましたが、橋下徹大阪市長の発言で再び注目を浴びました。おふたりは橋下市長の一連の発言についてどう思われますか? 政治的な面、歴的学な面でどう評価しているのか知りたいです。」

荻上 「政治的な面」と「歴的学な面」、ふたつ挙げて頂きましたよね。これやっぱりポイントになるなと思うんですけれども、秦さんは橋下市長のこの会見——秦さんの著書もこの会見で少し引用されていたりというか、名前を挙げられていたかと思いますけども——この会見について、いかが思いましたかねぇ?

秦郁彦 まず、政治的ということはね、歴史家の私からあれこれ言うべきことではないと思いますが、まぁ、とにかく舌足らずであったと。そういう部分があちこちに見られたと。その辺が大きくクローズ・アップされたと思うんですね。

これは全然予定していなかったのがですね、ちょっと逸れてこの問題に入ったということで。そういうことも考えてあげなきゃいかんだろうと思うんですけども。

事実関係に対してはですね、私は大体その通りだったと、ほぼ正確だというふうに感じてます。

荻上 なるほど。さきほど、一部だけ橋下市長の会見を流しましたけれども、インターネット上には全文見ることができるインターネット・サイトもあります。なのでそちらも確認して頂ければと思うんですが、先ほどおっしゃっていた「舌足らず」の面があるというところは、例えばどういったところにお感じになりましたかねぇ?

秦 例えばですね、新聞報道なんかでは、「当時の」というのが最初は抜けてたんですね、ですからまさに現在の時点でですね慰安所は必要だったというふうに彼は考えているという風に取られたようですね。ここが砲火が集中したところじゃないかと。後で言い直しましたよね。だからこれはですね、聞いてるほうも、彼はず〜っと戦後も後の生まれですし、「当時の日本軍の指導者たちが慰安婦を、慰安所が必要であると考えて設立した」とつまりそういう意味なんですね、本当は。

荻上 意図としては。

秦 えぇ。それがちょっと舌足らずになっちゃったということでねぇ、そういうのが他にも何箇所かあったと思います。

荻上 その後、メディアに対して「誤報だ」と言ったり、メディア側が「いや、誤報ではない」っていうかたちで、ちょっとしたそこも論争になったりしましたけども。

じゃあ、橋下市長の会見を見て、吉見さんはいかが思われましたでしょうか?

吉見義明 まぁ、ちょっとビックリするような、とんでもない発言だというふうに思いましたね。

荻上 「とんでもない」?

吉見 と言うのはですね、「舌足らず」だとおっしゃいましたけども、「慰安婦制度が必要なのは誰だって解るわけです」というふうにおっしゃっているわけで、まぁこれ素直に読めばですね、当時も現在も必要だったという発言になるわけですね。

それとセットになって、事実上沖縄の米軍に風俗業の活用を勧める、事実上売春を勧めるという考え方が、ピタリと平仄が合うわけですよね。

失言だとか舌足らずではなくて、まぁ、本音でそういうふうに言って、未だにそれを撤回していないという点が非常に大きな問題だと思いますね。

荻上 「今は許されませんよ」と言った橋下氏の発言、その後にあったように思いますが、それはまた別というようなかたちになるんでしょうか?

吉見 在沖米軍に風俗業の活用を勧めるということは撤回されましたけども、当時は、彼は、それでいいんだというふうに思ってたんでしょうね。ただし、前のほうの発言は「マスメディアの誤解だ」というふうに逃げてるわけですね。未だに撤回をしてないわけですが、それは、非常に不誠実な態度だと僕は思いますね。

荻上 先ほどの秦さんのほうが、歴史的な事実に関しては概ね正しいんじゃないかという話がありましたけども——

秦 大筋では。

荻上 大筋では——吉見さんの評価としては、歴史的な認識といいますか、彼の思想とはまた別に、認識の面ではどうでしょうか?

吉見 歴史的な事実としても、彼はよく知らないということではないでしょうか。

荻上 よく知らない? どういった点にお感じになりましたかねぇ?

吉見 ひとつは、慰安所で女性たちに対して強制があったということ自体を否定しているわけですよね。それから、慰安婦制度が性奴隷制度であるということも否定している。で、しかし、実際に女性たちは慰安所に閉じ込められて、数多くの軍人の性の相手をさせられた。それは、非常に酷い状態であるというわけですね。

しかも、慰安所の制度は軍がつくった制度ですけれども、例えば居住の自由もないわけですよね。それから、外出の自由もない、廃業の自由もない、拒否する自由もないような状況の中で軍人の性の相手をさせられているわけですので、そういう事実を彼は見ようとしていないっていうことでしょう。

「慰安婦」とはいつ出来た言葉で、誰が作った言葉か?

荻上 事実をめぐる議論はですね、秦さん吉見さん、それぞれご意見があるということなので、リスナーのメールからですね、たくさん質問が今日来ております。その質問を受けるかたちで、様ざまな事実についておふたりで話し合って頂きたいなというふうに思っております。

南部 まずはラジオ・ネーム「イガデン」さんです。「「慰安婦」とはいつできた言葉で、誰がつくった言葉なんでしょうか? そして、世界的には「慰安婦」と同じような意味の言葉はあるんでしょうか? 教えて下さい」というメールを頂いております。

荻上 それじゃあ秦さん、ちょっといかがでしょうかね、このメール?

秦 はっきりしないんですよ。

荻上 はっきりしない?

秦 つまりね、「慰安婦」というのは少なくとも日中戦争期の軍の公文書のなかにも出てくるんですよ、「慰安婦」という言葉はね。それで、それに「従軍」という言葉を付けたのは、戦後ね、千田夏光氏だと言われてるんですけど、これはまだ確実とは言えませんね。

慰安婦とはどういう存在か?——公娼制と慰安婦制度

秦 それでは慰安婦とはどういう存在なのかというと、当時日本は公娼制、つまり売春を政府が認めてたわけです。現在でも認めてる国はありますけどもね。その業に従事している女性たちですね、これを「娼妓」と呼んでいたわけですね。ですから、戦地における娼妓が慰安婦だと。実態はそういうことで、基本的には同じ公娼制の延長線上であったと考えていいと思います。

荻上 「延長線上」ということは、全く同じではない?

秦 それは当然のことながら戦地ですからね。だから、一番大きな違いはですね、内地の売春婦はですね警察が監督してたわけですね。で、戦地に行った場合には慰安所の慰安婦たちは憲兵と軍医が監督してた。その違いですけどもね。憲兵はセキュリティー、つまり秘密漏洩、そういうことを防ぐためにですね、やはり関与してたということで。

それ以外は、形態としては、そのまま延長線上ということでね。で、同じ女性が内地の遊郭で働いていて、で、今度は高い給料取れそうだということと、それから、動員が大規模になりますとね、内地から男がどんどん減っていくんですよ、戦地に移っちゃうわけです。ですから、そこへ移動して、同じことをやるという、そういう意味です。

荻上 なるほど。元もと公娼だったかたも参加されたという意味で言うと「延長線上」ということと、制度として違う部分もあるけれども、意味合いとしては同じだということになるんでしょうかねぇ?

秦 まぁ、制度上の違いではないですね、私に言わせれば。ほぼ同じと考えていい。

荻上 ほぼ同じ? 吉見さん、いかがでしょうか?

吉見 両者に関連があるということは言えると思いますけれども、明らかに別のものだと思うんですね。

荻上 公娼と慰安婦制度というものは?

吉見 えぇ。それはなぜかっていうと、内地にある公娼っていうのは民間の業者が全部運営してるわけですがねぇ、軍の慰安所っていうのはそうではなくて、軍が作りですね、軍が例えば建物を接収して業者に使わせる場合もありますけども。女性を集めるのも軍が直接やる場合、軍が選定した業者に集めさせる場合もありますけども、軍がやってるわけですよね。

それから、慰安所の規則も料金も軍が決めてるわけですね。それから実際にそこを利用するのは軍人軍属に限られてるわけです。民間人はそこを使えないわけですから、明らかに違うということだと思うんですね。

荻上 なるほど。

吉見 それからもうひとつは、内地の公娼制度も、僕は性奴隷制度だったと思いますけれども、それはなぜかっていうと、要するに、人身売買を基礎にして成り立っているわけですよね。確かに、人身売買は公認されていて犯罪ではなかったわけですけども。

慰安婦制度の場合は、公娼制度よりももっと、何と言うんですかね、性奴隷制度の性格が強い。それは例えば、内地の公娼制度の下ではですね、自由廃業という規定があったわけですね。自由廃業っていうのは、商業を辞めようと思えばすぐに辞められる権利なんです。ただ、これは実際は、紙の上の権利でしかないわけですけれども、一応そういう物があったわけですが——

荻上 公娼で携わっていた女性の告発とか日記見ても、辞めさせられないという文章も当時もありますし、まぁ、今の風俗などで辞めさせてくれない店とかもあったりしますけれどもねぇ。

吉見 建前としては辞められるという自由廃業の規定があったわけですけれども、軍の慰安所ではですね、自由廃業の規定すらないわけですよね。それは、明らかに違うと思うんです。

荻上 吉見さんのお考えでは、元もとの公娼制度も、今から考えたら性奴隷的だと言えるし、ましてや軍の関わった慰安所に関しては、公娼よりも一歩進んで、そういった評価は妥当だろうということですかねぇ?

吉見 それから、もうひとつはですね、国内では人身売買は犯罪ではなかったわけですが、当時の刑法で、国外に連れて行く場合はですね、「国外移送目的人身売買罪」というのがキチンとあるわけですよね。女性たちが人身売買で海外に連れて行かれて、慰安所に入れられたとすれば、これは犯罪なわけです。

荻上 日本政府が犯罪だとしていたと。

吉見 そうですね。当時の刑法で、それは3年以上の懲役という非常に重い刑罰を科すことになっていたわけです。

で、仮に人身売買されて慰安所に入れられたとすればですね、慰安所というのは軍の施設ですから、そうすると、そこで女性たちをいわば使役し続けるわけですから、軍の責任というのが生じてくる。まぁ、犯罪に加担をしていると言われてもしょうがないということであるわけですね。

明らかに違うと思います。

自発と強制の線引き

荻上 秦さんは、今の吉見さんの意見はどうですかねぇ?

秦 ちょっとそれは私は同意しかねますねぇ。

内地の公娼制をね、これ、奴隷だということになってくると、そうすると、現在のオランダの飾り窓だとか、ドイツも公認してますしね、それからアメリカでも連邦はだめだけれどネバダ州は公認してるんですよ。これは皆、性奴隷ということになりますね。

吉見 それは、人身売買によって女性たちがそこに入れられているわけですか?

秦 人身売買がなければ奴隷じゃないわけですか? 志願した人もいるわけでしょ? 高い給料に惹かれてねぇ。

吉見 それは、セックス・ワークはどういうふうに認めるかということについては色いろ議論があってですね、難しいわけですけれども、少なくとも、人身売買を基にしてですね、そういうシステムが成り立っている場合は、それは性奴隷制と言う他はないんじゃないですか?

秦 自由志願制の場合はどうなんですか?

吉見 それは、性奴隷制とは必ずしも言えないんじゃないですか。

秦 言えない? 公娼であっても?

吉見 うぅん、それは本人が自由意志で仮にそういうことを、性労働をしているのであれば、それは強制とは言えないし、性奴隷制とも言えないでしょうね。

秦 だからね、日本の「身売り」ってのがありましたね? 「身売り」ってのは人身売買だからこれはイカンってことになってるんですよ、日本の法律で。ですから——

吉見 いつ「イカン」ってことになってるんですか?

秦 人身売買自体は、ほら、マリー・ルイーズ号事件[※「マリア・ルス号事件」の誤り] の時からあるでしょ? ね? だから——

吉見 それは確かにあるけれども、建前なわけですよね。

秦 だから建前にしろ、建前にしろですね、人身売買ってのはだいたい、親が娘を売るわけですけれどもね、売ったという形にしないわけですよね。要するに金を借り入れたと。で、それを返済するまでね、娘がね、これを年季奉公と言ったりなんかするんですけれどもね、その間、性サービスをやらされるっていうことなんでね。

それで、娘には必ずしも実情が伝えられてないわけですよね。だからね、しかし、いわゆる身売りなんですね。

荻上 行ってみたら、こんなはずじゃなかったっていうような手記が残っているっていうのもあるわけですよねぇ。

秦 騙しと思う場合もあるでしょう。だから1936年の調査ってのがあるんですが、こういうその売春婦たちのですね、調査をやったところ、「なぜなったか?」ということについてですね、「家庭の事情」というのが96%なんですよ。つまりね、娘たちは、親が自分を売ったっていうことは思いたくないし、そうであってもですね、これはその、言うに忍びない。これは朝鮮の場合も同じだと思います。だから、そうするとね、娘たちは騙されたと感じるのもあるでしょう。親も言いそびれますよね。

荻上 はい……?

秦 だからね、これはね、んん……何て言うかな、これは自由意志か自由意志でないかっていうのは非常に難しいんですね。家族のためにっていうことは、誰が判定するんですか?

吉見 いや、そこに明らかに金を払って女性の人身を拘束してるわけですから、それはもう人身売買って言う他ないじゃないですか?

荻上 ちょっと時期はズレますけれどもね、『吉原花魁日記』とか『春駒日記』とかっていう、昔の、大正期などの史料などでは、親に「働いてこい」と言われたけど、実際に働いてみるまでそのことだとは思わなかったケースもあったりすると。

秦 うん、そうそう。

荻上 それは、親も敢えて黙っていたかもしれないし、周りの人も「いいね、お金が稼げて」と誉のように言んだけども、内実を周りは知らなかったっていうような話は色いろあったみたいですね。

吉見 実際にはあれでしょ、売春によって借金を返すというシステムになってるわけでしょ?

秦 うん。今だってそれはあるわけですよ。

吉見 それは、それこそ人身売買であって、それは問題になるんじゃないですか?

秦 じゃぁ、ネバダ州に行って、あなた、大きな声でそれは弾劾するだけの勇気がありますか?

吉見 もしそれが人身売買であれば、それは弾劾されるべき。

秦 志願してる場合ですよ、自発的に。自発かね、人身売買か、どこで区別するんですか?

吉見 何を言ってるんですか、あなたは?

秦 え?

吉見 売春で借金を返済するという契約の下で——

秦 契約じゃないんですよ、それは。借入金を返済するってことですからね、大審院はね、逃げても構わないと、ね。しかし、債務は残るということですからね、結局、辞められないんですよ。

吉見 いや、それは当時のですね、その判決自体に問題があるわけですよ。

秦 大審院の判決?

吉見 そうですね。

秦 だけど、みんな服さなきゃいかんですよ、当時の人間は。

吉見 うん、あの、結局ですね、ひとつの契約をふたつに分けてね、売春で借金を返すのは違法だけれども、借りた借金は返さなきゃいけないっていう判決が出るから、結局女性たちは遊郭から逃れられなかったわけですよ。

南部 泣き寝入りみたいな感じになっちゃうってことですかね?


明治33年大審院判決

明治三十二年(オ)第七十七号
明治三十三年二月二十三日第二民事部判決

 ○判決要旨貸

一 座敷営業者ト娼妓トノ間ニ於ケル金銭貸借上ノ契約ト、身体ヲ拘束スルヲ目的トスル契約トハ各自独立ニシテ、身体ノ拘束ヲ目的トスル契約ハ無効ナリ

 第一審 函館地方裁判所  第二審 函館控訴院

  上告人  坂井フタ  訴訟代理人 橋下好正

  被上告人 山田耕一  訴訟代理人 石尾一郎助
                   斉籐 孝治

○参考:坂井フタの自由廃業訴訟P1416−P1417(「函館市史」通説編2 4編13章1節4-2)
http://radio-critique.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/2-vs-session-22.html

慰安婦制度運営のメカニズム

荻上チキ ちょっとここで一旦整理させて下さい。

公娼制度の中で、人身売買などの、それこそセックス・スレイブ、性奴隷というように言われるケースももちろんあっただろうし、同意のものもあっただろう。それは、まぁ、個々人によって[見ないと]判らないけれど、全否定することも出来ないけれども、全員がそうだったとも言えないわけですよね? その実態っていうのは判らないと。

ただ、その慰安婦っていうもののなかで、公娼制度と同じようなものだという評価をするのであれば、そうしたものと同程度に、それこそ本人の意図に合ないものもあったんじゃないか——吉見さんの言いたいことっていうのは、そういったことなんでしょうかねぇ?

吉見義明 えぇっと、僕は、日本軍慰安婦制度っていうのはですね、ひとつは人身売買を基礎にして成り立っている。

それからもうひとつは、朝鮮から連れて行かれた女性たちの中に非常に多いわけですけども、騙して連れて行かれるケースが多いわけですよね。騙して連れて行くっていうのは、当時の刑法で言うと誘拐罪に該当するわけです。だから、誘拐罪を基礎にして成り立っている。ある場合には、法律用語で言うと「略取」と言いますけれど、暴行・脅迫を用いて連れて行くケースもあるわけですよね。

それから、もうひとつ付け加えて言いますと、例えば占領地なんかでは、軍が地元の有力者に女性を出せというふうに言って要求をしますよね。これは、現地の軍がオールマイティーなので断れない。そうすると、誰か犠牲者を差し出すということになるんですが、これは権力濫用による半強制。中国なんかでは、そういう例が非常に多かったと思いますが、そういうものを基礎にして成り立っているシステムであるというふうに思うんですね。

荻上 今の話は、意に反して売春、つまり慰安婦になる人がいたとした場合、それの、意に反してさせたのは誰かっていう議論につながってくると思うんですけども、秦さんのお考えではどうでしょうねぇ?

秦郁彦 それはねぇ、朝鮮人たちの身の上話ってあるんですよ。これは身の上話AとかBとかね、まぁ、酷いのになると5通りぐらいあるんですよ。

荻上 表現がっていうことですか?

秦 そうそうそうそう。それでねぇ、まぁ、どれが本当か判らないんですけどもね。だから、ある段階から、朝鮮人の慰安婦のねぇ、慰安婦になった動機としてはですね、主語を全部外しちゃったんですよ。つまり、騙されて、連行されてっていうのをね、これを取っちゃったんですですよね。

荻上 表現の中から?

秦 表現の上からね。これは向こうの支援団体の挺対協[=韓国挺身隊問題対策協議会]というのがね、当然、協議してやってると思うんですよ。


○한국정신대문제대책협의회(挺対協公式サイト、朝鮮語・英語)

荻上 「向こう」というのは韓国のことですかねぇ?

秦 韓国ですねぇ。

ですからねぇ、なぜ主語がないかというと、これは私に言わしむれば、これみんな「朝鮮人」なんですよ。朝鮮人の親が、朝鮮人のブローカーに売って、そのブローカーが朝鮮人の抱え主にまた売るということで、ここまではほぼ一本ですよ、この中でね。その他の内情っていうのは解りません。だから、それは一切韓国の側から出て来ないわけです。

だから私は初期の頃ねぇ、ブローカーを見つければね全貌がすぐ解るよって言うんですけどもねぇ、日本政府はねぇ、そんなことは到底韓国政府には頼めないって言うんですよね。一切出て来たことはない。それから、親が売ったという話も出て来ないわけですね。

だけど、だいたい私は大多数は今のルートで、それで抱え主になると日本人もいます、これが戦地に行って、軍と渡りを付けるわけです。するとこれは需要と供給ですからね、一種の商談なんですよ。ね。だから、どっちが頼んでとか、どっちが主導してとかっていう、そういう問題じゃないんですね。えぇ。

荻上 となると、そういった市場があって、それに、まぁ「商品」を提供していた側というのは、それこそ韓国の側、それこそブローカーであるとか、家族の側から提供していたのであって、そこに騙されたというものがあったとしても、それは軍の責任などを問われるような類のものではないんじゃないかということですかねぇ?

秦 それはなぜかって言いますとですね、このブローカーまでの段階で契約っていうのがあるわけですね。えぇ。あの、それから抱え主との間までも契約書がある。軍と抱え主との間でも、連れて来た慰安婦も、抱え主も、軍のメンバーじゃないんですよ、嘱託でもなければ。御用商人なんですよ。

荻上 「御用商人」?

秦 御用商人が女性たちを連れて「いかがですか?」と。ということで、一種の商談が行われると。その結果、両方の需要と供給が合致してですね、それでそこに慰安所が出来ると、まぁ、こういうことですよね、簡単に言えば。

荻上 ひとつだけ確認しておくと、御用商人っていうのは、誰にでもなれたわけではないんですねぇ?

秦 そうじゃないですねぇ。

荻上 許可制といいますか、軍の許可証を持っていないと、っていうところがあるわけですか?

秦 いやいやいや、そうじゃないです。

荻上 そうではない?

秦 それは、色いろなコネやなんかでねぇルートを付けて。御用商人ってみんなそうでしょう?

荻上 えぇ。

秦 「この人は宮中御用達」なんて看板出してるのもありますけどもねぇ、あれは本当に認めてるのかどうなのか判りませんよね。納入したことが1回でもあると、そういうふうに言っているかもしれません。

だから、私は御用商人だと考えればいいわけで、だから民法上の関係はそこで切れちゃうわけですね。ですから、軍のほうでは、その女性たちがね、どうやって連れて来られたかということは判らない。

荻上 その段階で軍の責任は切れているっていう話だと思いますけど。

秦 切れてます。

軍の責任と「無給軍属」としての慰安婦

荻上 吉見さんは、今の責任論についてはどうですかねぇ?

吉見 まず、業者ですけれども、これは軍が選定した業者ですね。あるいは、軍に頼まれて総督府が選定した業者が集めているわけですよね。身分は軍属の待遇を与えられていると思います。

秦 違います。

吉見 いや、違わないですよ。

秦 軍属名簿というのがありますよ、ちゃんと。それにはありません。軍属待遇と言われるでしょ?

吉見 えぇ。

秦 いかにも軍属と同じだと。しかし、軍属なら給料が払われるはずです。

吉見 いや、国会のですね厚生省の答弁なんかではですね、「無給軍属」だというような言い方をしてますね。

荻上 「無給軍属」というのは、給料は払われない?

吉見 給料は払われないけれども、純粋民間人だと軍用船に乗せるわけにもいかないし、軍の施設を使わせるわけにもいかないので、そういう身分を与えているということですよね。

秦 女にも与えたっていうことですか?

吉見 そうですね。

秦 女にも軍属の——

吉見 無給軍属。

秦 無給軍属、そんなのありませんよ。

吉見 というふうに厚生省の答弁はしてますよ、ちゃんと。

秦 それは一般論の話でしょ?

吉見 一般論じゃなくて、国会答弁でちゃんとそういうふうに——

秦 ちゃんと「慰安婦も」とか言ってるんですか?

吉見 言ってますよ、もちろん。

秦 それはありえないですね。

吉見 いや。

秦 いつごろの答弁ですか?

吉見 えぇっとですね、ちょっと待って下さい(書類を探す音)。

荻上 当時のということですね?

吉見 戦後ですね、戦後。

秦 南方へ行く場合はね、あらゆる人は全部ね船に乗って行かにゃいかんわけですよね。それで船は全部陸軍がコントロールしてるわけです、配船はね。だから、便宜供与なんですよ、それに乗る人は、色んな人は。

吉見 だから民間人は乗れないわけですよね?

秦 乗れますよ。便宜供与で。たくさん進出してるんです。

吉見 それは、だから軍属待遇にしているわけでしょ?

荻上 その軍属待遇が、船に乗せるというようなかたちで——

秦 正式の軍属待遇じゃないんですよ。

荻上 特別に、そういった場合に、この人たちを船に乗せていいというようなかたちで——

秦 許可するわけです。

荻上 その場その場で許可を出すというようなことになるわけですねぇ。

秦 そういうことです。

荻上 となると——

吉見 昭和43年の社会労働委員会の会議録、昭和43年4月26日ですね。


一応戦地におって施設、宿舎等の便宜を与えるためには、何か身分がなければなりませんので、無給の軍属というふうな身分を与えて宿舎その他の便宜を供与していた、こういう実態でございます。

という答弁があります。


○衆議院会議録情報 第058回国会 社会労働委員会 第21号(国立国会図書館ウェブサイト)

秦 誰ですか、答弁したのは?

吉見 これはですね、えぇ……実本政府委員って、あの、厚生省のお役人だと思うんですが。

秦 厚生省のねぇ。それは認識が間違ってますよ。

吉見 いや、あの、実態に合ってるんじゃないですかね。

秦 軍属待遇にするという辞令なんか出てないはずですよ。だからね、それは乗船許可を出すということはね、みなすという、そういうことであってですね、身分関係はないんです。

吉見 それからですね、あの、えぇ、外務省の公文書によりますと、慰安婦や慰安業者については「軍従属者」っていう身分を与えているわけですね。この「軍従属者」っていうのは、純粋な民間人ではないっていうことでしょうね。


○軍慰安婦の法的地位は「軍従属者」 - 永井和の日記 - 従軍慰安婦問題を論じる
○2.「慰安婦」はいたが、「従軍慰安婦」はいなかった?
※上記は、いずれも「軍従事者」関連史料を引用。

軍関与の犯罪か?

吉見 それから、もうひとつはですね、その軍によって選定された業者が、例えば人身売買とか誘拐という犯罪を犯して女性を海外に連れて行ってですね、軍の慰安所に入れるわけですよね。その時に、あの、軍の慰安所は女性たちをチェックしないかっていうと、チェックしてるわけですよ詳しく。

秦 どうやってチェックするんですか?

吉見 それはあの、契約関係調べたりですね、色んな書類を見てチェックしてるということは——

秦 いやぁ、それじゃわからんでしょ? そんなことを書く人はいませんよ。女たちも無理矢理連れて来られたなんて言いませんよ。そしたらね、結局、仕事を失うですよ。ね。いくらでも補給源はあるわけですから。そんなことは言いませんよ。

吉見 いや、そういう例があるんですよ、言っている。

秦 インフォーマルにでしょ?

吉見 いやいや。ひとつの例を示しますとですね、あの有名な『漢口慰安所』という軍医さんが書いた本の中にですね——

秦 あぁ、あの本ですね。

吉見 日本から連れて来られた若い女性がですね、前歴もないというふうに書かれているので、まぁ、売春の経験のない女性ですね、その女性が性病検査の時にですね、こういうふうに言ってるわけですね、


私は慰安所というところで兵隊さんを慰めてあげるのだと聞いてきたのに、こんなところで、こんなことをさせられると知らなかった。帰りたい、帰らせてくれ[……]。

というふうに泣いて、性病検査を拒んでいる。その日はできなかった。翌日、泣きはらしてですね体をブルブル震わせながら性病検査に応じるんですが、たぶん業者に殴られてそうされたんだろうというふうに、この長沢健一さんという軍医さんは言っているわけです。

荻上 軍の関係者の側が言ってるっていうことですか?

吉見 そうです。この女性は慰安所で働くということは聞いてるんだけども、慰安所というのは何か、軍人の性の相手をさせられるっていうことを知らないで来たわけです。ですからこれは騙して連れて来られてるわけですから、誘拐罪に該当するはずですね。

秦 それはどうやって立証するんですか、騙したということを?

吉見 この女性がそういうふうに言って拒否してるわけですから。

秦 信じるわけですか、その人の言うことを?

吉見 もちろんそうですよ。

秦 だってね、どの程度のインテリジェンスがある人か判らないけどもね、慰安所に行くと言ってですね、しかも戦地のですよ、誰か聞きゃぁいいじゃないですか、その辺の大人に?

吉見 それはあれですよ、秦さんのように教養のある人はそうだけれどもですね——

秦 だってそれはレベルの高い人でしょ、割と? 違うんですか?

吉見 いや、違いますよ。田舎から連れて来られた女性だというふうに。

それから、もうひとつ言いますとですね、この女性は重い借金を負っているというふうに長沢軍医は言っているわけです。

秦 それもおかしいですよね。

吉見 それで、つまり、誘拐罪でもあり、人身売買罪にもなるわけです。ところが、結局この女性は解放されないで、そのまま軍の慰安所に入れられてしまうわけですよね。これが犯罪だって言う認識が軍の側にないって言うのは、非常におかしいですよ?

荻上 認識としてっていうことですかねぇ?

吉見 そういう事態が起こったらですね、女性は解放して送り返さなきゃいけないはずですよね? 業者は逮捕しなきゃいけないっていうことになるわけで、もちろん、送り出した警察もちゃんとチェックしてないという問題はありますよね?

荻上 前提として、そういうふうに「いやだ、いやだ」と言った場合は、帰るっていう手はあったわけですか?

秦 借金を返せばね。借金を返せば何も問題ないわけですよ。

吉見 つまりその、借金を返すまでは何年か、そこに拘束されるわけですよね?

秦 親がねぇ、返さにゃいかんのですよ、親が。

吉見 それが性奴隷制度だっていうことですよ。

秦 親が売ったのが悪いでしょう?

吉見 秦さんが解ってないのはそこですよ。

秦 どうして?

吉見 借金を返せば解放されるっていうのであれば、それは、あれですよね、人身売買をそのまま認めてることになるじゃないですか?

慰安婦の生還率

荻上 ちょっとあの、ここで質問メールも来ているので1通読まさせて下さい。

南部 ラジオ・ネーム「ガリレオ」さんです。17歳の男の子ですね。

「歴史に少し興味をもっている高校生です。素朴な疑問なんですが、終戦後、従軍慰安婦だった女性のみなさんは無事ふるさとに帰ることは出来たんでしょうか? 多くの人がなくなったという本を読みましたが、事実はどうだったのか教えて下さい」。

荻上 その本のねぇ、タイトルもちょっと気になったりもしますけれども。これは、秦さん、どうでしょう?

秦 私は自分の本の中でねぇ、それを計算したんです。で、生還率はね、控え目に見て9割以上。

荻上 9割以上?

秦 えぇ。実際はねぇ、日赤の看護婦さんなんかがねぇ、96%以上なんですよ、生還がね。だいたい、慰安婦と、看護士さんがいる野戦病院はねぇ、前線から離れた比較的安全な場所にいたわけですね。

しかし、まぁ、戦争末期になりますとねぇ、そうもいかなくて、戦闘に巻き込まれたこともあるし、逃げ遅れてね。それから玉砕地っていうのがあるでしょ、島でね? そういうのも考慮しましてね、私は日赤看護婦さんの生還率より低かったことはないだろうと。

荻上 となると、だいたい9割以上はあるだろうと、控え目に見てっていうことですね。

吉見さん、どれぐらいのかたがかえられたんでしょうねぇ?

吉見 あのぉ……何%というのを計算したことがないから判らないんですけれども、たぶんですね、日赤の看護婦さんよりももっと生還率は悪かったんじゃないかと思います。

荻上 はいはい。それは——

吉見 というのは、慰安所の生活というのはとても厳しくてですね、毎日数人から数十人の男性・軍人の相手をさせられるという日々が続 くわけですよね。そのなかで、性病をうつされたり、体を悪くしたり、そこで病気で亡くなるというケースも非常に多いと思いますので……戦地で命を落とした 女性は決して少なくなかったんではないかということは言えると思うんですよ。

荻上 まぁ、これももちろん推計ということで、実際にそういった名簿がもちろんあるわけではないでしょうし、カウントすることは非常に難しい と思うんですが、この後も、橋下市長の会見などでもしばしば話題になる強制連行ということも話題になったりしますし、軍の関与とか、それから今後、責任、 今後というか、その論争以降の責任の取り方論、色いろ議論のポイントがあったと思いますので、そちら、お知らせを挟んで続けて行きたいと思います。
http://radio-critique.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/3-vs-session-22.html

慰安婦の生活状況——「楽しく」「暮らし向きは良かった」か?

荻上チキ この後ですね、強制連行や、あるいは河野談話をめぐる評価の話をしようかと思っているんですけれども、その前に、秦さんから先ほどの議論に対して補足があるということで、いかがでしょうか?

秦郁彦 最近吉見さんがですねぇ、しばしば繰り返しておっしゃってることなんですけれども、強制連行があったかどうかっていうのは大した話じゃないと。

荻上 ほう。

秦 今はね。現在は、4つの自由がなかった、慰安所における性奴隷という、こちらのほうがずっと重要なんだということを何度も言っておられるんで。

私は強制連行はなかったと思いますけれども、これ議論するとね、橋下さんのような議論になっちゃいますんでね。

その……今の……慰安所の状況はそんなに酷いものであったのかどうかということをちょっと申し上げたいと思うんですけどもね。

荻上 劣悪な環境で働かされた、だから性奴隷だっていうけど、そもそも劣悪だったのか疑問があると。

秦 そういうことです。

4つの自由ということは、これはね、吉見さんは、居住の自由・外出の自由・廃業の自由・接客拒否の自由がないというね、それは慰安所の女性たちは文字通りの性奴隷だというふうにね述べておられるわけですよ。

それで、吉見さんが編纂されたですね『従軍慰安婦資料集』っていうのがですね、これにですねぇ、1945年、北ビルマで捕えられた韓国人の慰安婦20人に対する米軍の尋問書というのが入ってるわけですよ、訳されたものがね。


○アメリカ戦時情報局心理作戦班日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日 APO689
※前出史料の日本語訳
○Report No. 49: Japanese Prisoners of War Interrogation on Prostitution - Segunda Guerra Mundial - Exordio
※前出史料の原文(英語)
◯アメリカ戦時情報局心理作戦班アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域軍所属APO689(テキサス親父公式サイト内)
※前出史料の原文(英語)・日本語訳・文書の画像
○慰安婦:米軍の捕虜尋問資料 第49号:イザ!
※前出史料の原文(画像)などへのリンク

秦 で、その中でどういう生活だったんだということを訊かれてですね、まぁ、こういう件があるんです:


兵隊さんと一緒に運動会、ピクニック、演芸会、夕食会などに出席して楽しく過ごした。

それから次にですね、


お金はたっぷりもらっていたので、暮らし向きは良かった。

荻上 慰安婦の当事者の発言ですか?

秦 そうですね、20人のねぇ、証言です。

それから、


蓄音機も持ち、都会では買い物に出かけることが許された。

と、


接客を断る権利を認められた。

それから、


一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。


兵隊さんから結婚申し込みの例はたくさんありました。

というのがありましてね、何よりも、月の収入はですね750円、彼女たちのね。その頃日本の兵隊さんはねぇ、命を的に戦ってるんですけど、月給は10円ぐらいなんですよ。

荻上 ううん。

秦 つまり75倍という高収入を得ていたわけですね。

荻上 高収入でかつ楽しかったという発言があるということですね。

秦 日赤の看護婦さんの10倍です、この金額は。さらに、軍司令官や総理大臣より高いんですね、この通りなら。だいたい似たり寄ったりだったと思うんで、私はこういう状況下にある女性たちがねぇ、性奴隷であったと思えませんねぇ。雇い主よりはるかに高い収入を得ている奴隷なんて、この世の中にいますか?

荻上 っていうのは今の、吉見さんへの質問っていうことですね?

秦 そういうことですね。

荻上 いかがでしょう?

慰安婦の「高給」と外地のインフレ

吉見義明 ええっとですね、あの、まず、これは女性たちがこういうふうに言ったとおっしゃいましたけれども、この尋問調書はですね、2名の業者と20名の朝鮮人女性のヒアリングをアレックス・ヨリチ(Alex Yorichi)という人が聞いてまとめてるわけです。どの部分が被害者の女性の証言であり、どの部分が加害者側の業者の証言かよく判らないっていう点があります。

それからもうひとつはですね、「将兵と一緒にスポーツ行事に参加」したというふうなことがありますが、これはたぶんですね、戦地で女性がいないので慰安婦をそういう所に連れ出すとか、宴会に連れ出すとか、そういうようなことであったと思います。夕食会に出席するということもあると思うんですね。

もうひとつは、高収入だということですけれども、当時のビルマのもの凄いインフレっていうことをですね考慮に入れておられないということは、非常におかしなことだと思います。

荻上 インフレ?

吉見 えぇ。ビルマはですねぇ、軍票を大量に徴発して、1943年頃からもの凄いインフレになるわけですね。

荻上 インフレというと、お金の価値が下がるということですね。

吉見 1945年に入ると、もう軍票はほとんど無価値。

それで、女性たちがなぜそれだけのお金を持っているかっていうと、慰安所に通う軍人がですね、持ってても何も買えないのでチップとして女性たちに渡すわけですよね。

南部広美 「軍票」っていうのは何でしょう?

吉見 軍隊が占領地で発行する「軍用手票」っていう紙幣に代るものですね。

南部 お金に代るもの。

吉見 この時期は、南洋開発銀行というところが、そういうものを出してたわけです。

荻上 後ほどお金に引き換えるっていう?

吉見 そうですよ、まぁ、一応現地の、まぁ、例えば1ルピーは日本円で1円ということになってたわけですけど、内地と比べてですね、もの凄いインフレになるので、外地金庫というのをつくってですね、そのインフレが内地に及ばないようにしてたわけですね。


○南方軍政と軍票政策 - 従軍慰安婦問題を論じる

○NHKスペシャル|圓の戦争(NHKオンライン)
○≪NHKスペシャル『圓の戦争』 より文字起こし≫|MelancholiaT

○「ビルマ方面で使用された軍票1ルピー」 奈良県立図書情報館
 「ビルマ方面で使用された軍票1ルピー」

吉見 現地では軍票を持っててもほとんど何も買えないので——

荻上 名目上の金額だけだったと。

吉見 ほとんどそういう状態になってるわけです。

それから、もうひとつはですねぇ、秦さんが引用されなかった所があるんですけれども、女性たちはそれだけのお金を持っているけれども、すぐに「生活困難に陥った」というようなことが書いてあるわけですね。

荻上 同じ証言ですか?

吉見 同じ証言です。で、もしそれがその、高額であればですねぇ、どうして生活困難に陥ることが起こるんでしょうかね? これはまぁ、インフレっていうことを考えないと解らないんではないかと思うんです。

それからもうひとつは、同じ引用された捕虜尋問報告のいちばん初めでですね、女性たちはどういうかたちでビルマに連れて来られたのかということを書いてる部分があるんですけれども、その部分を見ますとですね、こういうふうに言っています。1942年5月に、日本の周旋業者たちが、朝鮮にやって来て女性たちを集めたわけですけども、


その「役務」の性格は明示されなかったけれども、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。

これは誘拐ですよね、騙して行くわけですから。それから、


これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地における新生活という将来性であった。

これは甘言に該るので、これも誘拐罪を構成します。 


このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡金を受け取った。

というふうにありますんで、まぁ、人身売買でもあるわけです。

こうして、現地で慰安所の生活に拘束されたというふうに書いているんですよね。

「日本の周旋業者」の「甘言」?

荻上 はい。ちょっと、今のを質問に変えますと、当時インフレだったことを考慮しないのかというのが1点と、それからその、今読み上げて頂いた方がたのそもそも来た理由というものが、そもそも甘言、騙されて来ている方がたなので——

秦 それを騙したって——

荻上 誰が騙したんでしょう?

秦 まず、ほとんど朝鮮人でしょうね。

吉見 これ、「日本の周旋業者」って書いてありますよ。

秦 え?

吉見 「日本の周旋業者たちが朝鮮にやって来て」。

秦 「日本人の」ですか?

吉見 いやいや、「日本の」だから「日本人の」でしょう?


※註:該当箇所の原文は、”Early in May of 1942 Japanese agents arrived in Korea for the purpose of enlisting Korean girls for "comfort service" in newly conquered Japanese territories in Southeast Asia.”

"Japanese agents" だけでは「日本の」か「日本人の」かは不明だが、"arrived in Korea" とあるので、少なくとも "Korea" の外から来た "agents" であると読める記述にはなっている。

秦 当時日本人なんですよ、朝鮮人はね。だいたいね——

吉見 いや——

秦 朝鮮に住んでた日本人でねぇ、朝鮮語で朝鮮人を騙せるほどねぇ、朝鮮語上手い人は、ほとんど1人もいなかったと思います、えぇ。

吉見 元締めが日本の業者で、まぁ、手足としてですね地元の業者を使うってことはよくあることですよね。

それから、この周旋業者っていうのは、軍に選定された人物であって、軍から色いろ便宜を図ってもらって、まぁ、誘拐とか人身売買やってるわけですよね。

しかし、これは犯罪なわけでしょう? それで連れてった元はどこにいるのかっていうと、軍の施設である慰安所に入れるわけですよね。そうすると、そこで軍の責任が発生しないんですか? どういう風にお考えです?

秦 そこは関係はないわけですよ。朝鮮総督府の管内でですよ——

吉見 いやいや。

秦 朝鮮人が騙したということね、で、それをね、ちゃんと旅行許可を出してるわけでしょ? そすと、朝鮮人の巡査もいたわけですなぁ。それで、どうしてそういう騙しを摘発しなかったんですか?

荻上 ちょっと先ほどの話に戻って、気になったのが、先ほどそういう証言があって「楽しかった」という話があったということなんですけど、その他の慰安所でも同様に楽しかったということになるんでしょうか?

秦 例えば、こういうのがあります。文玉珠(ムン・オクチュ)というねぇ慰安婦なんですがねぇ、彼女の一代記が本になってるんですよ。これは山川菊栄賞をねぇ、もらった。本当にねぇ——

荻上 当事者の発言がということですか?

秦 いやぁ、その、回想記です、一代記です、元慰安婦のね。で、なるほど、これは非常に良くできてる、読ませる本なんですけどもねぇ。

で、彼女は色んな所を転々としたんですけど、最後はビルマに行ってるんですね。で、ラングーンにいたんです、首都のね。「利口で陽気で面倒見のいい慰安婦」として将軍から兵隊までね、人気を集めチップが降るように集まったと。

荻上 はい。

秦 それで、5万円貯金が出来たと、2年余りでね。

荻上 えぇ。

秦 そのうち5千円を軍用郵便で下関郵便局へ送ったわけですねぇ。

荻上 何年ごろの話ですか?

秦 昭和18年。戦争中ですね。ですからね、これなんかもですね、非常に楽しかったというのが基調なんですよ。

だからね、なかには悲惨な人もいたかもしれない。しかしねぇ、兵隊たちに良いサービスをしてもらうために、軍もそれなりに気を遣うわけです。それで、業者との間では、だいたい慰安婦側に立って有利になるようにしてやってる。ね。だからね、さっきの……要するに、米軍の尋問調書でねぇ、あれでも性奴隷とおっしゃるんですか?

吉見 そうですね。

秦 ほう。だって、4つの自由のうち3つの自由は完全にあったわけですよ。

吉見 いやいや。

秦 もうひとつ、居住の自由っていうのはねぇ、これはねぇ、居住の自由っていうのは看護婦さんもないですよ、居住の自由は。だってね、まさか、戦地でねぇ、バスで通勤なんていうねぇ、ね、アパートとか借りてなんていう、そんなことあり得ないでしょう?

吉見 それは、看護婦さんと、それから慰安婦の女性たちがさせられている事柄って、全く違うじゃないですか? その、看護をするというのはですね、本人にとってはそれは名誉なことですけれども、軍人たちの性の相手を毎日させられるっていうことと全く性格が違うんじゃないですか?

秦 それを論じたってしょうがないでしょう? 職業のひとつとして割り切ってんだから。その代りにね——

吉見 職業だとおっしゃいますけども、誘拐で連れて行かれた——

秦 嫌な仕事かもしれないけどね、軍司令官よりも高い給与もらってんだからからねぇ——

吉見 いや、それは——

秦 みんなねぇ、なりたがるんですよ。

吉見 それは幻想なわけでしょ?

秦 騙されてっていうのはおかしいですよ。

荻上 今、秦さんの話の中では、「なかでは」っていう話があったんですけど、なかでは困ってる人も、悲惨な例もあったけど——

秦 そりゃ、あるでしょう。

荻上 こういった豊かなケースもあったというお話があったんですが。

あの、論点としては強制連行という所が残っているので、吉見さんのほうから伺っていきたいと思うんですけど——
http://radio-critique.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/4-vs-session-22.html

「強制連行」——定義、軍の関与の有無

荻上チキ あの、論点としては強制連行という所が残っているので、吉見さんのほうから伺っていきたいと思うんですけど、強制連行に軍が、あるいは政府が関与した証拠は見つけられなかったということはね、河野談話などで言われたり、今でもそういうことが言われたりするわけですけれども、では、その「強制連行」、つまり吉見さんが例えば「甘言」とか「誘拐」とか色いろな話がありましたけれど、「強制連行」とはつまり何で、そうした事例はあったのかなかったのか、そのことについて、もう一度吉見さん、いかがでしょうか?


○慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話(平成5年8月4日)(外務省ウェブサイト)

吉見義明 えぇっと、強制の問題はですね、やっぱり慰安所での強制があったかどうかが全てだと思います。

荻上 労働実態が?

吉見 そうですね。労働というか、労働ではないですよね。

荻上 労働ではない? 

吉見 使役されるということですね。

もうひとつは、連れて行かれる過程で色いろな問題が起こっているわけですが、それは、軍・官憲が直接やるかどうかは一応外しますと、先ほど言いましたように、略取とか誘拐とか人身売買で連れて行くのがほとんどだったわけですよね。

で、そして、朝鮮半島で誘拐や人身売買があったということは、秦さんも認めておられるわけですが——

秦郁彦 当然ですよ。それが大部分ですよ。

吉見 たとえ業者がそういうことをやったとしても、その業者は軍に選定された業者である。で、実際に被害が生じるのは慰安所ですけれど、慰安所というのは軍の施設である、軍が作った軍の施設であるわけですね。そこで、女性たちが誘拐とか人身売買で拘束をされているというわけですね。当然、軍に責任があるということになると思うんです。

荻上 なるほど。

吉見 もうひとつは、軍・官憲が暴行・脅迫を用いてですね、連行したケースがなかったかどうかということですけれども、これは現在ではもう色いろ出てきてると思うんです。

荻上 えぇ。

吉見 まぁ、いちばん典型的なのは、オランダ政府が1994年に白人女性の被害についての報告書を出しましたけれども、それを見ますと、軍・官憲が関わった暴行・脅迫による連行のケースは、未遂を含めて8件か9件ぐらいあると思います。スマラン事件とか、マゲラン事件とか、フローレス事件とかですね。


○Gedwongen prosf itutie van Nederlandse vrouwen in voormalig IMederlands-lndië(PDFファイル、オランダ語)
※「日本占領下蘭領東印度におけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告」

○女性のためのアジア平和国民基金「慰安婦」関係資料委員会[編]『「慰安婦」調査報告・1999』(PDFファイル)

○公文書からみるスマラン事件(白馬事件)、他の解説。 - Transnational History

吉見 で、たぶん、それは否定できないんじゃないかと思うんですね。

秦 もちろん。

荻上 秦さんも本の中にそれは書かれてますしね。

吉見 それから、中国では4件、元慰安婦のかたが提訴されて、裁判になっておりますけれども、まぁ、裁判では敗訴しますけれども、裁判所は事実認定をしてるわけですよね。その事実認定の中で、いずれも、日本軍が暴行・脅迫を用いて連行したということを認定しているわけです。


○慰安婦の被害事実(証言を含む)が認定された8件の裁判 - Transnational History

荻上 それは、官憲や軍人がおこなったもので——

吉見 そうです。

荻上 でも、その、秦さんからすると、例えば、「それは、軍が命令したわけじゃないだろう?」っていうふうには——

裁判所による事実認定について

秦 これはねぇ、非常に大きな錯覚があるんですよ。

荻上 「錯覚」?

秦 「裁判所が認定した」と言われますけどね、十数件そういう訴訟を起こしてるんですよね。全部、敗訴なんですよ。

というよりね、最初から、訴訟を起こしてもね、これ、勝つ見込みはゼロなんですよ。ね。

じゃぁ、なぜ起こすのかっていうと、そういうことで運動を盛り上げて、たくさんのね、お仲間を集めて、募金もしてという一種の政治活動・経済活動なんですね。

で、裁判所ではですね、これは何かっていうと、戦前は国家無答責、国家は責任を負わない、過失についてね。それから、いちばん大事なのはね、時効なんですよ。

荻上 時効?

秦 えぇ。 いちばん長い時効でも20年なんですよ。

吉見 いや、今問題になってるのは、そういう事実があったかどうかっていう事実認定の——

秦 いや、だから、争わないんですよ、裁判所は。馬鹿馬鹿しいでしょう。もう、時効でダメだと判ってるのに。

吉見 裁判所は争わないんじゃない。

秦 裁判所は争わないんです。

吉見 裁判所は事実認定をしてるわけでしょ?

秦 しないんですよ!

吉見 裁判所の判決に書いてあるわけでしょ。

秦 だって、捜査に行ってないから。こういうふうに陳述をしましたというだけで、それに対してですよ——

吉見 いや、そういう事実があったという事実認定をしているわけですよね。

秦 「これは違ってる」とかそういうことは言ってないんですよ。

これは非常にね、だから、法学会で論争になってるんですよね。どうして、そういう時、検事側がですね、それに対して論戦を挑まないのかということなんだけれども、実際問題として、今の中国の話のようにですね、じゃぁ中国から証人を呼んで来てくれったってですね、中国が応じるはずないでしょう?

荻上 今、あの、非常に議論が盛り上がっているんですけれども、残り時間が短くなって、というか、残り時間が1分になってしまったので、ホントはですね、今後どういう議論をしていくべきなのかとか、あるいはアジア女性基金など色いろな経緯をふまえて、どういったルートがあり得るのかなど伺いたかったんですけど、まぁ、色いろ激論がかさむふたりなので、最後ひと言づつですね、この慰安婦問題について、若い世代を含めて、どういった所に注目してほしいか、ひと言お願いします。

秦さんいかがでしょう?

秦 もともと、この慰安婦問題というのは、後に支援勢力ということになりますけれども、日本と韓国の支援勢力がですね、やったことなんです、始めたことなんですね。

ですから、韓国大統領が来てですね、2〜3年後に、それで言ったことはね、この問題は、おたくの国の運動家とマスコミが一緒になってね、われわれを怒らせた——

荻上 経緯を知れということが——

秦 これは、おたくのほうで起こした——

荻上 はい、時間が……ひと言だったので。残り30秒。吉見さん、お願いします。

吉見 えぇ、慰安婦問題は色んな事実が発掘されてきていますので、そういう事実をですね、是非知って頂きたいということだと思いますね。

それから、国際的には、これは性奴隷制度であるという認識が定着しています。で、それはキチンと根拠があるものだと思います。

で、日本政府としてはですね、この問題を解決するためには、戦時性的賠償法案というのができてますので、補償法案というのができてますので、それを通せば問題は解決すると。


○戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案(衆議院ウェブサイト)

荻上 議論の経緯を、今だからもう一回学び直そうということですね。
http://radio-critique.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-78c7.html


関連する新聞記事
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436. 2014年10月14日 22:52:51 : qJReL1AR3I
主犯は吉見義明氏である
朝日新聞の特集はきのうが本論で、きょうは「識者のコメント」だけだ。その中では「強制連行の定義が曖昧だ」という秦郁彦氏の批判が重要だ。

最初、朝日は吉田清治のいうような「慰安婦狩り」が多数行なわれたと報道したのに、それが嘘だとわかると「挺身隊の強制連行」にすり替え、それが嘘だとわかると「強制性」に定義を拡大してきた。こういうごまかしの主犯が吉見義明氏だ。
彼は1995年に出した『従軍慰安婦』では「強制連行」という言葉を使わないで「朝鮮総督府が募集に協力した」と書いている。ところが韓国政府が「強制連行を認めろ」と要求してきたとき、それを肯定する朝日新聞の報道に協力した。その理由は、次のような論理だ。

その女性の前に労働者、専門職、自営業など自由な職業選択の道が開かれているとすれば、慰安婦となる道を選ぶ女性がいるはずはないからである。たとえ本人が、自由意思でその道を選んだようにみえるときでも、実は、植民地支配、貧困、失業など何らかの強制の結果なのだ。(『従軍慰安婦』p.103)

この定義に従えば、募集も斡旋もすべて強制だ。なぜなら娼婦はすべて「何らかの強制の結果」だからである。これは反証不可能なトートロジーだ。彼は1997年の「朝まで生テレビ」で「日本の植民地(朝鮮、台湾)については、強制連行を示す資料はない」と明言した。

要するに彼のいう「強制性」とは、公娼のことなのだ。公娼は政府が管理し、保健所の検査などが義務づけられていた。公娼の一部に人身売買があったことも周知の事実だ。女衒が女性をだまして連れてきた事例も多い。この定義によれば、韓国で朝鮮戦争の米軍用慰安婦122人が、韓国政府に補償を求める訴訟を起こしたのも当然だ。吉原の娼婦にも、同じ権利がある。

吉見氏のような話はいかにも「人権派」にみえるが、実は娼婦や韓国人を蔑視する自民族中心主義だ。国家と資本がすべてを支配し、民衆はそれに搾取されるだけという階級闘争史観は、吉見氏の時代までは歴史学の主流だったが、今は学問的には問題にならない。彼がその極左的な主張を朝日新聞を利用して世界に広めたことが、日韓関係をめちゃくちゃにした責任を反省すべきだ。


437. 2014年10月14日 22:53:46 : qJReL1AR3I
共産・志位氏も韓国批判「言論には言論で。懸念と憂慮」

【本紙前ソウル支局長起訴】

 共産党の志位和夫委員長は9日の記者会見で、産経新聞の加藤達也前ソウル支局長による朴槿恵(パク・クネ)韓国大統領に関するコラムをめぐり、ソウル中央地検が情報通信網法の名誉毀損(きそん)で在宅起訴したことについて「言論の自由、報道の自由は守られなければならない。言論による体制批判には言論で応えるのが民主主義のあるべき姿だ。懸念と憂慮を持っている」と語った。


438. 2014年10月14日 22:54:31 : qJReL1AR3I
「韓国は国際常識からかけ離れている」と強く批判、9日中に韓国政府に懸念伝達

【本紙前ソウル支局長起訴】
産経新聞ウェブサイトに掲載された加藤達也前ソウル支局長のコラム

 菅義偉(よしひで)官房長官は9日午前の記者会見で、産経新聞の加藤達也前ソウル支局長(48)が書いた朴槿恵(パク・クネ)韓国大統領に関するコラムをめぐり、ソウル中央地検が情報通信網法における名誉毀損(きそん)で在宅起訴したことについて「報道の自由、日韓関係の観点から極めて遺憾だ。国際社会の常識と大きくかけ離れており、本日中に事実関係を詳しく確認し、韓国に懸念を伝達したい」と述べた。

 菅氏は会見で「政府として韓国に繰り返し懸念を伝え、慎重な対応を強く求めてきた」とした上で、「民主国家においては最大限尊重されるべき報道の自由の関係では、法執行は抑制的でなければならない」と強調した。

 岸田文雄外相は記者団に「報道の自由、日韓関係にも関わる問題だ。事実関係を至急確認した上で今後の対応を考える」と述べた。外務省幹部も「日韓関係が改善に向けて動いているだけに、在宅起訴は大きなダメージだ」と語り、早期の日韓首脳会談実現の障害となる可能性を指摘した。

 一方、中谷元・元防衛庁長官は、日韓議員連盟(会長・額賀福志郎元財務相)が24日から訪韓する際に抗議する考えを示した。


439. 2014年10月14日 22:55:27 : qJReL1AR3I
自民・谷垣氏「報道の自由、日韓関係から見て大変残念」

【本紙前ソウル支局長起訴】

 自民党の谷垣禎一幹事長は9日、産経新聞の加藤達也前ソウル支局長による朴槿恵(パク・クネ)韓国大統領に関するコラムをめぐり、ソウル中央地検が情報通信網法の名誉毀損(きそん)で在宅起訴したことについて「報道の自由、日韓関係から見ても、大変残念なことだ」と述べた。その上で、「言論を保障する日本の法制度からいうと、極めて違和感がある決定だ」との見方を示した。官邸で記者団の質問に答えた。


440. 2014年10月14日 22:56:35 : qJReL1AR3I
「韓国はどこのグループにいるつもりか」「あまりに問題。毅然とした対応を」自民部会で韓国批判噴出

【本紙前ソウル支局長起訴】

 自民党の外交、国防両部会などの合同会議が9日午前、党本部で開かれ、産経新聞の加藤達也前ソウル支局長が書いた朴槿恵(パク・クネ)韓国大統領に関するコラムをめぐる問題で、ソウル中央地検が情報通信網法の名誉毀損(きそん)で加藤前支局長を在宅起訴したことについて、滝波宏文参院議員は「(韓国は)自由と民主主義の同じ価値観を持つと信じていたが、一体どこのグループに所属しているつもりなのか」と批判した。

 滝波氏は「自由と民主主義の基盤となる表現の自由をないがしろにする行動には、疑念を禁じ得ない」とも述べた。小田原潔衆院議員も「(滝波氏と)まったく同じだ」と同様の懸念を表明した。

 また、佐藤正久国防部会長は「あまりにも韓国の行為は問題だ。外務省には真剣に対応してもらいたい」と強調。北村経夫参院議員も「毅然(きぜん)として一貫した対応をお願いしたい」と述べた。

 外務省の冨田浩司北米局長は「私どもは起訴前から国連での外相会談などで強い関心を韓国側に伝えてきた。引き続きしっかりフォローしていく」と述べた。


441. 2014年10月14日 22:58:24 : qJReL1AR3I
「韓国は民主主義の国とは思えない」橋下氏が痛烈に批判

【産経前ソウル支局長 在宅起訴】
李明博・韓国大統領を表敬した橋下徹・大阪府知事。経済と観光分野における大阪府とソウル市関係強化など呼びかけた=2009年7月21日午後、ソウル市の青瓦台

 産経新聞の加藤達也前ソウル支局長が朴槿恵(パク・クネ)韓国大統領に関するコラムをめぐりソウル中央地検に名誉毀損で在宅起訴されたことについて、維新の党共同代表の橋下徹大阪市長は9日、「非常に恐ろしい。先進国、民主主義の国とは思えない」と批判し、日本政府に「全力を挙げて毅然とした対応を取り、韓国にもっと民主主義を重んじてもらうよう申し入れなければならない」と注文した。

「先進国どころか、後…。僕だったらメディア全部逮捕ですよ」

 橋下氏は「選挙で選ばれた公選職が批判を受けるのは当然。表現の自由を重んじる国なら公選職への名誉毀損(の適用)は可能な限り狭める」と指摘。

 「こんなことが許されるなら、僕なんかメディア全部逮捕ですよ」と述べ、在宅起訴を非難した。市役所で記者団の取材に答えた。

 また、大阪府の松井一郎知事は9日、「(政権に)批判的なことに対して、権力を使って罰を与えることは間違いだ」と述べ、韓国当局の対応を批判した。府庁で記者団に語った。

 松井知事は「自国に不利なことは一切報道させないというのは、韓国は本当に民主主義の国なのか」と指摘。「表現の自由は、どこの国でも、全ての人に認められる権利であるべきだ」と語った。


442. 2014年10月14日 22:59:47 : qJReL1AR3I
社民・又市幹事長「言論の自由を封殺する対応」

 社民党の又市征治幹事長は9日午前の記者会見で、産経新聞の加藤達也前ソウル支局長による朴槿恵(パク・クネ)韓国大統領に関するコラムをめぐり、ソウル中央地検が情報通信網法の名誉毀損(きそん)で在宅起訴したことについて「言論の自由そのものを封殺するような対応だ。厳しく批判しなければならない」と語った。


443. 中川隆 2014年10月15日 14:24:21 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

アホ右翼の騙りはもういいよ。

自分で新スレを建てて、アホはアホ同士 愉しくやってくれ


444. 2014年10月15日 20:43:33 : qJReL1AR3I
慰安婦火付け役 朝日新聞記者はお嬢様女子大クビで北の大地へ

「誤りがあったかも知れませんがそれは彼の長い記者人生のなかでごく一部のこと。それだけで彼を評価するのはどうかと思います」
 いわゆる従軍慰安婦問題の“火付け役”となった元朝日新聞記者の植村隆氏を非常勤講師として迎え入れた札幌市内の大学の学長はそう庇ってみせた。

 植村氏といえば、日本軍人相手に売春行為を強いられた朝鮮人従軍慰安婦がソウル市内に生存していることがわかったとする記事を書き、慰安婦問題の先鞭をつけた記者である。いまではこの記事に捏造と言えるほどの重大な誤りがあることが明らかになっているが、当時はこの記事をきっかけに韓国世論が沸騰し、日本政府はいわゆる河野談話を発表。強制連行を認めたとの印象を世界中に与える事態を招いてしまった。

 その植村氏、小誌2月6日号の記事「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」で明らかにしたように、今年3月で朝日を早期退社し、4月から神戸松蔭女子学院大学で教授となる、はずであった。

「文春の記事で批判が殺到し、神戸松蔭女子学院大学側は、植村さんと結んでいた雇用契約を3月に解消したのです。すでに朝日を退職することが決まっていた植村さんはこれに激怒して、解約の無効を求めて大学を訴えると息巻いていました」(朝日新聞関係者)

 2月6日号の取材では、植村氏は職場の朝日新聞函館支局を訪ねた小誌記者から走って逃げるばかりで、自らの記事について何ら説明することもなかった。

 女子大教授の夢も叶わず、朝日も退社した植村氏は今、北海道内の大学で非常勤講師をしているという。

「札幌市内にある私立大学の北星学園大学の非常勤講師です。慰安婦問題についての記事の誤りが明らかになり、処遇に困った会社が彼を北海道の支局で塩漬けにしていた2年前から講座を受け持つようになったことが縁だそうです」(同前)

 現地で田村信一学長を訪ねて問うたところ、出たのが冒頭の発言だ。田村学長はこうも言う。

「韓国からの留学生に韓国語で講義できる人材を北海道で確保するのはたいへんです。その点、彼は韓国語に堪能で、うってつけの人材だと思っています」

 だが、大学事務局に植村氏本人と連絡を取りたい旨を申し出たところ、植村氏が非常勤講師をしていることすら、なかなか明らかにしようとしない。

 同大学関係者が話す。

「非常勤講師をしていると知った保守系団体がキャンパスのそばでビラ配りをしたこともあって大学はナーバスになっているのです。学内で慰安婦問題の記事に触れるのはタブーで、誰も植村さんにこの話をしようとしません。

 大学では主に韓国からの留学生を対象に、『メディアで読む日本 そして世界』という講義などを担当しています。朝日の記事を学生に読ませて日本国内の問題や国際情勢について考えてもらうというもので、『早口だが、丁寧に教えてくれる』と評判です」

 韓国人留学生に対し、自らの捏造記事を用いて再び“誤った日本の姿”を刷り込んでいたとしたら、とんでもない売国行為だ。


445. 2014年10月15日 20:59:57 : b5JdkWvGxs
・アホ右翼の騙りはもういいよ。

446. 2014年10月16日 20:06:17 : qJReL1AR3I
韓国国会大揺れ 産経前ソウル支局長起訴めぐり「処罰軽い」「国益損ねた」

2014.10.15
 韓国国会が紛糾している。朴槿恵(パク・クネ)大統領の名誉を毀損(きそん)したとして、ソウル中央地検が産経新聞の加藤達也前ソウル支局長を在宅起訴した問題をめぐり、野党が「韓国のイメージ低下につながり、国益に反する」と批判しているのに対し、与党は「当然の措置」などと主張しているのだ。

 激しい論議は、前支局長の在宅起訴が決まった8日以降続いている。国際社会が「韓国=言論弾圧国家」などと指摘しているためだ。

 韓国メディアによると、最大野党、新政治民主連合の朴智元(パク・チウォン)議員(元文化観光相)は13日、国会での法務省への監査委員会で「韓国が言論の自由のない国であることを世界に広めてしまった。不必要な行為だ」と、起訴を強く批判した。

 さらに、「朴氏が(旅客船沈没事故の当日)7時間も所在不明だったとの問題を各国メディアが報じた。むしろ、(誤った判断をした)検察を起訴すべきではないか」と訴えた。野党議員からは「(大統領の名誉を守るため)韓国の国益を損ねてしまった」との主張が続いている。

 これに対し、与党セヌリ党側は「当然の処分」との意見のほか、「なぜ在宅のままなのか。在宅起訴は外国人記者への優遇措置であり、処罰としては軽い」などと反論している。

 朴議員ら野党は左派系で、歴史認識をめぐって産経新聞には日ごろから批判的だ。今回の起訴で、その産経新聞が“言論弾圧の被害者”となり、同時に韓国の国際的なイメージを低下させたわけで、「二重の逆効果を招いた」としている。


447. 2014年10月16日 20:12:25 : qJReL1AR3I

産経新聞を「目の敵」にする朝鮮日報 「元ネタ」提供したおとがめはなし
2014/10/14 18:47

韓国の主要紙「朝鮮日報」が、産経新聞の前ソウル支局長が韓国検察に起訴されたことに厳しい見方を示した。「言論の弾圧」という周囲の批判に異を唱え、非は産経側にあるとしたうえに批判の矛先を日本政府にまで向けた。

元をたどると、産経の記事は朝鮮日報のコラムを引用している。その事実には口をつぐんでいる。
「セクハラ問題」を言論の自由の問題にすり替えたと批判

産経新聞前ソウル支局長の起訴で、日本国内のメディアからは「言論の自由の侵害ではないか」との批判が相次いだ。さらに米国務省のサキ報道官は10月8日の記者会見で、韓国の法律に対する懸念を示しつつ、「言論と表現の自由を支持する」と強調した。

韓国メディアはトーンが違う。主要紙「中央日報」日本語電子版は2014年10月11日付の社説で、「今回の事態は産経が自ら招いた」と断言。一方で「公人に対する名誉毀損容疑で海外の記者を起訴したのは、国内外で極めて異例」と付け加えた。日本メディアに対して、起訴を批判する前に産経を批判すべきと注文をつけたが、同時に韓国政府と検察にも「起訴は不適切だった」との声に耳を傾けよと促し、バランスをとった格好となった。

朝鮮日報の場合、産経に対する攻撃的な論調が強い。10月13日に日本語電子版で配信されたコラムでは、起訴という判断については「残念なこと」とひと言で片づけ、残りは産経と日本政府への批判のオンパレードだ。産経側の「言論の弾圧」という主張に対して疑問を呈し、「口にするのも恥ずかしい男女関係の疑惑」を書いたのが原因だとする。韓国検察は「記事を装ったセクハラ」と判断した、しかも疑惑は事実無根だったにもかかわらず謝罪をしない産経が全面的に責任を負うべき、というわけだ。

菅義偉官房長官が、起訴について「民主国家ではあるまじき行為」と述べたことに対しても、「日本政府までセクハラという事件の本質を言論の自由の問題にすり替えている」とかみついた。
「低級な扇情記事」とは違うと主張する朝鮮日報記者

産経批判の急先鋒に立つ朝鮮日報だが、そもそも波紋を呼んだ産経の記事の「元ネタ」は、朝鮮日報に掲載されたコラムだった。見出しは「大統領をめぐるうわさ」。旅客船「セウォル号」沈没事故が発生した日、朴槿恵大統領に「空白の7時間」が見つかり、そこで、「大統領が誰かと密会していた」という世間のうわさが流れたとする。品のない雑談レベルだったはずが、韓国国会でのやり取りをきっかけにメディアでも取り上げられるようになったと説明。続けて、うわさ話に登場する男性の実名を出して「離婚していた」「大統領が議員時代に秘書室長を7年間務めた」と詳細を伝えている。

大統領とこの男性を明確に結びつけてはおらず、「口にすること自体、自らの地位を下げるもの」と考えるようなうわさとしか書かれていない。一方の産経記事は朝鮮日報に記事を引用しつつ、さらにうわさの「正体」についてズバリ「証券街の関係筋によれば、それは朴大統領と男性の関係に関するもの」と踏み込んだ。産経記事の中では、「緊密な関係」をにおわせる話も登場して、確かに生々しい。

とは言え朝鮮日報では、うわさ話について「世間の人々は真実かどうかを抜きにして、このような状況を大統領と関連付けて考えた」と書いている。ぼかした表現で、「世間の人々」が言ったことにして逃げ道を作っているが、大統領のスキャンダルが想像できそうな言い回しともとれる。

だが2紙の明暗は大きく分かれた。朝鮮日報は大統領府から口頭注意があったようだが、ほぼ「おとがめなし」で済んでいる。もちろん検察が起訴するという話は一切聞こえてこない。さらに、産経の元ソウル支局長が朝鮮日報のコラムを参考にした点についてはこれまで社説などで触れることはなく、「だんまり」を決め込んでいる。コラムを執筆した崔普植記者は韓国記者団に対し、自身が書いた内容はあくまで大統領の政権運営の批判であり男女関係という言葉は使っておらず、「低級な扇情記事」とは違うと主張し、産経側を強く批判したという。


448. 中川隆 2014年10月16日 20:34:02 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
アホ右翼の qJReL1AR3I がこういうスレとは何の関係もない長文を貼りまくっても荒らしと見なされないというのが阿修羅掲示板の問題だな

449. 2014年10月17日 21:35:04 : cclt7zPZ1w
全て吉田清治証言の虚言が起因している事象ではないか。
阿修羅の問題にすり返るなよ。
歴史の真実と向き合うと怒り出す朝鮮人。
一歩引いてあいまいに済ませようとしても怒る朝鮮人。
うそつき金たかりチンピラ国家。
女性の顔も偽者だらけ。


450. 中川隆 2014年10月18日 03:45:05 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
吉田清治証言の内容自体が間違いだという論考は今迄一つも存在しないよ

吉田清治が実際に強制連行したのは済州島ではなく全羅南道の某所だから、そこで調査しないと真偽の判定はできない


451. 2014年10月18日 15:38:44 : cclt7zPZ1w
全羅南道でないとわかったら次は全羅北道か。
堂々巡りの論法は止めなさい。
解決済みの事案をいつまでも持ち出してたかるのはよしなさい。
いい加減自立しなさい。
日本統治時代にどれだけ投資、開発したと思っているんだ。
どれだけ日本に関わりたいんだ。
恩を仇で返す国家は、いつまでも貧しいままですよ。
日本といっしょに白人からアジアを守った精神を取り戻しなさい。
そういった意味では、日本の門戸はいつでも開いている。

452. 2014年10月18日 19:19:02 : b5JdkWvGxs
>日本統治時代にどれだけ投資、開発したと思っているんだ。


日本政府が朝鮮農民の土地を取り上げたから日本に来ざるをえなくなったんだろ

朝鮮で作った米も日本に飢餓輸出したしな


453. 2014年10月18日 21:59:59 : cclt7zPZ1w
何にも知らないんだな。
発するごとに無知をさらけ出してるぞ。
日本流入を防ぐためにということもあったが、朝鮮人に仕事を与えインフラ整備をし政治をを教えたんだよ。
わけのわからない妄言は止めなさい。
人口も寿命も2倍に伸びているだろ。

454. 中川隆 2014年10月18日 23:40:17 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
無知蒙昧なアホ右翼に真実を教えてやるよ:


日本の施策によって農民が収奪された日本の朝鮮統治時代


当時の大半の農家は小作農です。

つまり販売する以前に小作料を取られます。

で、日本の統治時代の朝鮮では小作料で生産量の5割を取ることがまかり通っていたそうです。

そして手元の半分の米のうちいくらかを売り、それで来期の籾を買う。残った米ではとうてい生きていけないので、春窮となる、故郷を捨て流浪するという例がいくらでもあります。


朝鮮半島全体の春窮農家戸数については1930年、朝鮮総督府編「朝鮮の小作慣行」(1932)によると、

自作農   92(18.4)
自小作農 323(37.5)
小作農  838(68.1) 千戸(全体の割合)

で全体の48%以上が春窮だそうです。

日本の統治時代はまともな治世では無いですね。


次に、では小作農以外はどうだったかと言いますと、次の情報をご覧ください。

農民の戸数とその層の割合を示したものです。値は%です。

全体で100%にならないのは兼業農家がいたためです。

また、地主1は自分で小作を行わない地主、2は一部を自作する地主です。

自小作農は、自作と小作の兼業をしている農家です。


年  農家戸数 地主1 地主2 自作農 自小作 小作農 火田民
1918 2,652,484  0.6  2.5  19.7  39.4  37.8
1920 2,720,819  0.6  2.8  19.4  37.4  39.8
1922 2,712,465  0.6  3.1  19.7  35.8  40.8
1924 2,704,272  0.7  3.1  19.4  34.6  42.2
1926 2,753,497  0.8  3.1  19.1  32.4  43.3  1.3
1928 2,799,188  0.7  3.0  18.3  31.9  44.9  1.2
1930 2,869,957  0.7  2.9  17.6  31.0  46.5  1.3
1932 2,931,088  1.1  2.4  16.3  25.4  52.7  2.1


見てわかるとおり、自作、自小作が減り小作農が増加しています。

日本の統治時代の朝鮮では自分の土地を手放さざるを得ないほどの状況だったのがよくわかります。

さて、この人々は何が原因でそうなったのでしょうか? 

貴方が何度も示しているように米は十分に生産していたのですよね? 

なら豊かになるのではないでしょうか?


問題ない生産を行いながら貧しくなるとするなら、それは生産に対して正当な対価が支払われなかったことを意味します。当然ですね。


つまり

「当時の朝鮮の農家は日本の施策により米を収奪された」

というのを共通理解としてよろしいですね?


また、自小作農とありますが、終戦直後1945年の韓国のデータによると、

自小作農は716,000戸、そのうち耕地の50%以上を小作で行っている、

つまり実質的に小作に近い農家は378,000戸となっています。


完全自作農と自作の割合の方が多い自小作農は全体で3割程度。


当時の食料消費量の変遷について、単位は石(全体からの%)、

元データは朝鮮総督府農林局編「朝鮮米穀要覧」だそうです。


年平均  米      麦      粟     豆類    その他   合計
1915-18 0.70(35.6) 0.42(21.2) 0.28(14.4) 0.26(13.2) 0.31(15.7) 1.9766
1921-24 0.64(31.6) 0.42(20.6) 0.36(17.9) 0.26(12.9) 0.35(17.1) 2.0211
1926-29 0.51(28.1) 0.40(21.8) 0.37(20.2) 0.23(12.7) 0.31(17.2) 1.8163
1931-34 0.44(26.7) 0.42(25.2) 0.31(19.1) 0.21(12.5) 0.27(16.5) 1.6487


輸入していても消費量は見事に落ちていますね。

米の消費の割合が落ちている(それだけ貧しくなった)のも顕著です。


「日本の政策のもと、当時の朝鮮半島の農家は飢餓に苦しむほど困窮していた」で共通理解として良いですね?


参考資料:
朝鮮における産米増殖計画 河合和夫著
朝鮮食料品史 朴容九著


おまけ

穀物の輸入出

年,輸出(石),輸入(石),
1915-1919,3467857,387670,5年平均
1920-1924,5147524,1370072,5年平均
1925-1929,6284434,3649237,5年平均
1930-1936,11734219,2875314,7年平均
1937,8601017,2369537,
1938,12505611,1454957,
1939,8120099,2453789,
1940,1665637,3456780,
1941,4831000,1107000,
1942,7032000,786310,
1943,1576000,2048620,総督府資料に基づく
1944,4486000,1927166,朝鮮食料品史 朴容九著より

食品生産量
,米,麦,豆,小豆,粟,キビ
1919,12057,7270,3281,460,3816,538
1929,13702,7212,3990,810,5244,91
1939,14356,7570,2333,419,5029,89
1944,16052,7672,2696,605,3916,47


単位は千石 朝鮮食料品史 朴容九著より,,,,,,
http://www.han.org/hanboard/c-board.cgi?cmd=one;no=1586;id=


455. 2014年10月19日 00:03:02 : cclt7zPZ1w
で、人口も寿命も2倍に伸びた理由は?
全然説明になってないが??
真実を教えてくれよw細かい話はいいよ。大局的な話をしてくれ。
それともここでもうそつく気かな。

456. 2014年10月19日 00:19:47 : b5JdkWvGxs
朝鮮では三月から六月までは食糧が不足する春窮期。

それで朝鮮では昔から春窮期を越せる様な農作物を作っていたのに、日本政府が日本への輸出用に米しか作らせなくなったのさ。

それで一時的には生産高が増え、人口が増えたけど、何年かおきに必ず来る冷害を乗り切れなくなって、食べていけなくなった朝鮮人がみんな日本に渡ってきたのさ


457. 2014年10月19日 02:09:16 : cclt7zPZ1w
中国の属国だったころは非常に貧しかったからな。
ソウル周辺でも掘っ立て小屋だらけで食料にありつけず
平均年齢24歳という有り様だ。
米を作れるようになって人々は生き生きしていた。

李朝時代は旱魃、水害が繰り返し発生し、飢饉が日常化していた。統監府以前の朝鮮社会は、司法行政の綱紀が乱れ、教育、衛生はほとんど顧みられず、河川、林野が荒廃し、道路、橋梁もなく、港湾も船も車もほとんどなかった時代であった。それから20年後の昭和初期に朝鮮を訪れたアメリカの碩学(せきがく)ブルンナー博士は、朝鮮農村の実状を視察して、地方の古老にも接して今昔を比較し、天と地ほどの差が見られることに驚嘆した。朝鮮総督府は人さらい、草賊(盗賊)暗躍、飢民あふれる李朝末期の社会に、産業をおこし、治安を回復し、近代社会をつくったのであった。
列強が満州を支配するための送り込んだリットン調査団でさえ朝鮮のことを次のように言っている、
「自分は昨夜来東洋における一つの驚異を発見した。それは、今回の長い旅行における大きい収穫であつた。同時に、自分の今日までの研究不足をしみじみと愧(は)ぢている。何であるかといへば、朝鮮に対する全般的な認識の相違である。吾々は、朝鮮といふ所は、地理的には大体満州の延長であるから、相変らず匪賊(盗賊)が横行し、産業も振るはず、赭土(あかつち)色の禿山の下で、民衆は懶惰(らんだ)の生活を送つてゐるものとばかり思つてゐた。然るに列車が一度鴨緑江の鉄橋を越ゆるや車窓に隠見する事々物々、皆吾々の予想に反し、見渡す山河は青々として繁茂し、農民は水田に出て、孜々(しし)として耕作に従事し平壌その他工業地帯の煙突は活発に煙を吐き、駅頭に散見する民衆は皆さつぽりした衣服を纏(まと)い、治安はよく維持せられていて何ら不安はなく、民衆は極めて秩序正しく行動し、且つその顔に憂色がなく、満州に比べて実に隔世の観がしたのである。これはとりもなほさず、貴国の植民政策が妥当であつて、歴代の総督が熱心に徳政を施された結果であることを卒直にお歓びすると同時に、今後における吾々の朝鮮観を根本より改めるであらう」
と感想を述べている。
まぁ植民地ではないのだがな。

君の捉え方は悲壮感に満ちている。
ダメだったところもあるだろうが、日本はいいことをかなりしている。
当時の国家予算以上の金を朝鮮半島につぎ込んでいる。
今となってはこれがよくなかったのかもしれないな。
日本からは金がもらえるものだと植えつけてしまったかもしれない。
まぁ日本人として裕福になってもらおうと必死に動いていたというわけだ。
もっと自信を持とうではないか。
なんといっても中国から独立させてあげたのは日本ではないか。


458. 中川隆 2014年10月19日 09:41:11 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
悪質な嘘は止めろ!

朝鮮では日本の統治前には餓死する人は殆どいなかった。

朝鮮人が食っていけない様になったのは、

日本政府に農地を取り上げられ、

冷害に弱い米の栽培を強制的され、

作った米の半分を日本に飢餓輸出させられる様になってからだ。

日本の統治後は餓死者が続出し、金がある人間は日本に移住して来た。

それが今の在日朝鮮人だ。


459. 2014年10月19日 13:29:11 : cclt7zPZ1w
あなたは、本当に洗脳されてしまっている。
李朝時代の真実を知らなすぎる。
今の北朝鮮と同じようなものだったということを認識すべきだ。
ちゃんと勉強してください。

460. 中川隆 2014年10月19日 14:02:40 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
洗脳されているのはおまいの方だ。

餓死する朝鮮人が出て来たのは日本政府が朝鮮で作った米を日本に飢餓輸出し始めてからだ。

日本統治前はどんな貧乏な朝鮮人でも毎日大食らいしていたのは有名な話さ:

イザベラ L ハード「朝鮮紀行」 P203〜P204より

大食ということに関しては、どの階級も似たり寄ったりである。食事のよさは質より量で決められ、一日四ポンドのごはんを食べても困らないよう、胃にできるかぎりの容量と伸縮性を持たせるのが幼いころからの人生目標のひとつなのである。

ゆとりのある身分の人々は酒を飲み、大量のくだもの、木の実、糖菓を食間にとるが、それでもっぎの食事には一週間もひもじい思いをしていたかのような態度でのぞむ。

裕福な家では牛肉と犬の肉は大皿に盛る。また客のごちそうは銘々膳で供されるので、もてなす側は特別大事な客にはふんだんにふるまい、ほかの客には最小限度に抑えておくことができる。

わたしは朝鮮人が一度の食事で三ポンドはゆうにある肉を食べるのを見たことがある。

「一食分」が大量なのに、一日に三食か四食とる朝鮮人はめずらしくなく、一般にそれを慎む人々は好きなように食事もできないほど貧しい人と見なされかねない。

一度の食事で二〇個から二五個のモモや小ぶりのウリが皮もむかれずになくなってしまうのはざらである。

赤ん坊にまで食べさせる莫大な消費量の赤トウガラシがこの大食ぶりを助けているのはまちがいない。

朝鮮人には消化不良のたぐいの疾患が多いというのもうなずける。
http://kukkuri.blog58.fc2.com/blog-entry-573.html


461. 2014年10月19日 14:41:34 : cclt7zPZ1w
4人の外国人が見た韓国併合前の朝鮮

第一印象、住居等

イザベラ・バード:1894年始めてソウルを訪れたバードはソウルについて次のように述べている。58−60頁

「北京を見るまで私はソウルこそこの世で一番不潔な町だと思っていたし、紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世で一番ひどいにおいだと考えていた。都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい。礼節上2階建ての家は建てられず…」

「こういった溝に隣接する家屋は一般に軒の深い藁葺きのあばら屋で、通りからは泥壁にしか見えず、ときおり屋根のすぐ下に紙をはった小さな窓があって人間の住まいだと言うことが分かる。又溝から2,3フィートの高さに黒ずんだ煙穴がきまってあり、これは家の中を暖めるとと言う役目を果たした煙と熱風の吐き出し口である。」

「瓦屋根の反り返った上流階級の家屋でも、通りから見た体裁の悪さと言う点ではなんら変わりがない。」

シャルル・ダレ、住居の項にて:289頁

「貴方はみすぼらしい茅屋というものを見たことがあるでしょう。では貴方の知っている最も貧しい茅屋を、その美しさと強固さの程度を更に落として想像してみてください。するとそれがみすぼらしい朝鮮の住まいについての、殆ど正確な姿となるでしょう。」

「2階建ての家は探しても無駄です。そのようなものを朝鮮人は知らないのです」

韓国誌  573−574頁

「貴顕紳士の家にありては通常瓦葺きの門ありて廣き邸宅の入り口をなし、門に対して主屋あり。主屋は南に向きて……。家屋の高さは人の身長よりやや高きのみにして……」

「平民の家は前に記すものと著しく相違し、憫なる小屋にして、粘土よりなり、低矮なるが故に注意せざれば頭天井に触撃せらるべし。家の広さは最も大なるもの約4坪余りにして、3坪を超えざる物甚だ多く、外面の高さは僅かに4尺7寸とす。

マッケンジー  29−30頁、32頁

(開国後)「最初の数年間、朝鮮に入国した外国人の大多数が見たのは、開港地である釜山、済物浦及び首都だけに局限されていた。これらの場所で彼らは朝鮮の最も悪い面を見た。特にソウルには貴族や宮廷に寄生する食客の大群がおり、彼らは怠惰で不潔であり、農村地方では見られないような下劣さを感じさせるのであった。」

「当時の朝鮮人の生活を鮮やかに描くには、朝鮮民衆の陰影とミステリーを強烈に誇張して描かなくては不可能である。ソウルそれ自体については、どれをとってもそれがあまりに悪いとは言えないというくらいの状態であるが、一方地方の民衆に関する限りでは、その大部分が繁栄と潤沢の生計を維持していると言って大過ないであろう。……この国では乞食は殆どおらず、いてもほんの僅かであった。ここでは……貧民救済制度はその必要がない。」

杉本コメント

マッケンジーは乞食は殆どいないと書いているが、ダレは「乞食もかなりいる。……女乞食の組合がある。」と書いている。(265頁)

たぶん洗脳から抜け出せないんだろうなぁ。


462. 中川隆 2014年10月19日 14:49:37 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
要するに、

日本が統治する前の朝鮮は貧しかったけど食べるのには困らなかった。

日本が統治してからは役所とかに立派な建物は建てられたが、朝鮮人は食べられなくなって次々に餓死していった

という事さ


463. 2014年10月19日 16:24:59 : cclt7zPZ1w
やっぱり洗脳から抜け出せないな。
平均年齢が2倍で人口2倍になって乞食が激減したが、餓死者が増えた??
捉え方が素直じゃないよねー。
あなたは在日朝鮮人なのですか!?

464. 中川隆 2014年10月19日 16:50:44 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
アホの相手したくないけど


朝鮮で日本が統治してから餓死者が多数出る様になったのは、寒冷地なのに、日本内地に輸出する為の米作りに転作したため。


朝鮮で米だけ作ったら、たとえ日本に輸出しなくても餓死者が出るのは常識だったんだけどね:

朝鮮には春窮という言葉があるようです。秋に収穫した米、トウモロコシ、芋などの食物を冬のうちに食べつくし、春になると餓死者が出るようです。中世の言葉と思いきや、北朝鮮では今でも現実のようです。

 どこの国でも収穫の季節はあるものです。逆にまったく収穫の期待できない土地なんて、人はほとんどすんでいません。収穫があるということは年中飢えているわけではなく、収穫があって数ヶ月は食料があり、それを食べつくしたころに飢餓が起きるのが通例ではないでしょうか?
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3998244.html


人口増加ってのがあるけど、あれは豊かになったから人口が増加するのではなく、貧しいからこそ人口が増加するんだよな。

 人口爆発を起こしている国々をみてみると、かつて先進国の植民地となり、なかば強制的に換金作物(お金に換えるための作物。例えばコーヒー、紅茶、ゴムなど)を栽培させられた経験のある国々だということがわかります。

この換金作物こそが人口爆発の原因を探る大きな鍵となります。

 かつてこれらの国々が自給自足を行っていた頃は、貧しいながらも人口は安定していました。

食糧の供給量以上に人口は増えることができなかったからです。

しかし先進国の登場によって換金作物の栽培が始まると、換金作物を売ることで一時的には食料の供給が増えて人口が増加します。

人口が増えた結果、再び食料が不足しますから、作物の収穫量を上げるためにさらに無理な生産をします。

けれどもそのために地力が落ち、次第に人口を養うだけの作物が収穫できなくなり、不自然な人口爆発だけが残されるのです。

それで朝鮮人は日本の統治時代には春窮を越せなくなった:


日本の施策によって農民が収奪された日本の朝鮮統治時代


当時の大半の農家は小作農です。

つまり販売する以前に小作料を取られます。

で、日本の統治時代の朝鮮では小作料で生産量の5割を取ることがまかり通っていたそうです。

そして手元の半分の米のうちいくらかを売り、それで来期の籾を買う。残った米ではとうてい生きていけないので、春窮となる、故郷を捨て流浪するという例がいくらでもあります。


朝鮮半島全体の春窮農家戸数については1930年、朝鮮総督府編「朝鮮の小作慣行」(1932)によると、

自作農   92(18.4)
自小作農 323(37.5)
小作農  838(68.1) 千戸(全体の割合)

で全体の48%以上が春窮だそうです。

日本の統治時代はまともな治世では無いですね。


465. 2014年10月19日 19:40:03 : cclt7zPZ1w
どんだけ卑屈なんだよ
支離滅裂な情報を信用するなよ

世界では、植民地から開放されて人口爆発がおきているんだよ。
朝鮮は、日本統治時代に衛生的になり栄養失調がなくなり
インフラが整備され豊かな生活ができるようになって
人口爆発が起きている。
イザベラ L ハードも言っているだろ。


466. 2014年10月19日 21:31:16 : b5JdkWvGxs
おまい知恵遅れか?

植民地になったら搾取されるに決まってんだろ

だから食えなくなった日本に来たんだ


467. 2014年10月19日 23:30:36 : cclt7zPZ1w
ちゃんと理解しろ。
世界の植民地では、搾取されて人口も減る。
朝鮮では、裕福になり寿命が延びて人口が増えた。

そもそも朝鮮は植民地ではないだろ。
自ら植民地にしてくれとお願いするわけ無いだろ。
併合してくれとお願いしてきたんだろ。


468. 中川隆 2014年10月20日 00:25:43 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

>朝鮮では、裕福になり寿命が延びて人口が増えた。


そもそもその元データが間違っているんだよな:

2008-10-12 00:57:31
嫌韓厨が示す朝鮮の人口推移データを考察する

韓国併合(日韓併合)を正当化するどころか善政だったと嘯くバカが用いる根拠として、植民地朝鮮の人口増データがあります。

嫌韓厨らが良く用いるデータを下記に示します。


http://www.geocities.jp/kankokuchousen/kankoku-003.html

1753年  730万人  -
1850年  750万人  -
1906年  980万人 朝鮮は日本の保護国へ
1910年 1312万人 日韓併合条約
1920年 1691万人  -
1930年 1968万人  -
1940年 2295万人  -
1945年 2512万人 日本の敗戦
2004年 7130万人 韓国・48,598,175、朝鮮・22,697,553


このうち、1906年までの統計は正確さに大きな疑問があるので、本来ならそのまま使えません。

大体、1906年に980万人だった人口が、たった4年で1312万人になったということをそのまま信じるほうがおかしいわけですが、嫌韓バカにはそれがわかりません。


ありえない想定ですが、仮に4年間に誰も死ななかったとしましょう。すると、4年間に生まれた子供の数は332万人ということになります。

980万人全てが出産可能な年代の男女だったとして、490万組の夫婦がいたと仮定すれば、4年間に332万人の新生児が生まれることはありえるかもしれませんが・・・。
そんな人口構成はまずありえませんね。

もう少し現実的な想定をすれば、980万人の半数が女性として(490万人)とした場合、4年間で330万人の子供を生むためには、たとえば、以下の条件が必要です。

・女性1人が生涯に出産する人数=5人
・女性の平均寿命=30歳

(むちゃくちゃ簡単な計算でシミュレートしてみると、

4年間に生まれる子供の数=490万人×(5人÷30年)×4年=327万人

となり、大体330万人と一致します。)

しかし、この場合、朝鮮の成人女性のほとんど(1/3〜1/2)は妊娠中であることになりますから、やはり無理がありますねえ・・・。
どんだけベビーブームだったんだか・・・・。
ちなみに、この仮定では4年間に1人も死者がいないことになってますが、これも無理がありますね。

自然増加以外に考えられる可能性としては、国外からの流入ですが、わずか4年で数十万人規模の流入があったというのも無理があります(この時期(1906年〜1910年)最も増えた外国人は日本人ですが、4年間でわずか8万人程度にすぎません)。


まあ、ここまで回りくどい記述になりましたが、要するに言いたいのは、

「1906年の韓国人口980万人は、信頼できる数字ではない」

ということです。

すると、
1753年 730万人
1850年 750万人

も人口統計としては信頼できないことが予測できますね。


ところで、「朝鮮の歴史」(朝鮮史研究会編、三省堂、1995)によると、1717年の政府統計では、全国人口は682万9771口(154万7709戸)であるとされています(P184)。
ここから、上記の1753年、1850年データは、政府統計によるものであろうと想像できますが、そもそもこの政府統計は全人口を知るのに適しているのかどうか疑問です。
というのも、政府の人口統計は徴税を目的としているため、幼児や老人、白丁などの被差別民が含まれていない可能性があるからです。
実際、ネットで調べてみると以下の論文を見つけました。


「韓国の統計制度史」黄 仁相
http://www.ier.hit-u.ac.jp/COE/Japanese/Newsletter/No.13.japanese/Hwang.htm


「これらの調査は申告式であり、身分と収穫率にしたがって軍役と無関係な女子、賎・奴などの疎外層は調査対象から除外されたり漏らされたりした。 」
これによると、女子の人口はまるで加味されていないようですね(妻の記載欄はあるらしいが、上記論文の表現から判断すると「口」としてカウントされてはいないように思う。)。

また(参考として)、1721年に江戸幕府は全国人口を行ってますが(2600万人)、武士・公家は含まれてませんし、被差別民も除かれていたと言われています(「人口で見る日本史」鬼頭宏、PHP研究所、2007、P89)。実人口は、速水融の推定法によると、幕府調査人口に20%を加算したものではないかと言われています。

近代以前の人口統計では、人口調査結果をそのまま用いる事はできず、どうしてもこのような補正が必要となるわけです。

★1717年の朝鮮全人口を推定してみる

基本データ:朝鮮政府統計(1717年):154万7709戸 682万9771人

参考データ1:「軍役と無関係な女子、賎・奴などの疎外層は調査対象から除外」(「韓国の統計制度史」)
参考データ2:「(日本の)実人口は、速水融の推定法によると、幕府調査人口に20%を加算」して武士・公家・被差別民を加味する
参考データ3:朝鮮出兵時(1592年)に日本が予測した全朝鮮の石高:1191万6088石(「朝鮮の役」旧参謀本部、徳間書店、1995、P348)


参考データ1より、682万9771人は賎・奴などを除いた男子であるとして、賎・奴などを除いた女子を加味すると、

682万9771人×2=1365万9542人=1370万人

となる(男女比は1:1と想定)。

これから、賎・奴を加味した人口を推定するにあたって、速水融の推定法を援用する。
ただし、武士・公家にあたる人口については今回の統計においては考慮の必要がないため、20%ではなく7〜10%として推定する。

1370万人×1.07〜1.1=1470万人〜1510万人

となる。
したがって、1717年当時の朝鮮人口は約1500万人と推定できる。


この1717年から125年前の予測石高1200万石(参考データ3:約1200万人と推定)から考えても、妥当な推定ではなかろうかと思う。


さて、以上の手法を用いて以下の2時点の人口を推定してみるとこのようになる。

1753年 730万人→1560万人〜1610万人
1850年 750万人→1600万人〜1650万人


ちなみに、日本右翼のロビー活動を行う崔基鎬は、「日韓併合 歴史再検証」(崔基鎬、祥伝社、2004)に、韓国国定教科書からの引用として、1777年1804万人、1877年1689万人という数字を出している(で、人口が減っているのは李氏朝鮮が悪政だったからと主張しているわけだが)。


並べてみるとこうなる。

1717年 1500万人(朝鮮政府統計683万口からの推計)
1753年 1600万人(嫌韓提示資料(朝鮮政府統計?)730万人からの推計)
1777年 1804万人(崔基鎬による韓国教科書からの引用)
1850年 1650万人(嫌韓提示資料(朝鮮政府統計?)750万人からの推計)
1877年 1689万人(崔基鎬による韓国教科書からの引用)


さて、1906年の980万人ですが、山木さんが調べたところ、元ネタは日本人の警務顧問によるよる調査人数ということで、これまでの朝鮮政府統計とは、統計の取り方が違います。
http://d.hatena.ne.jp/yamaki622/20060423/p1

このため、1906年の980万人は男女込みの人数になってます(ただし男女比が不自然であり、統計の不完全さを物語っている)。
実際、「日本側は朝鮮人人口を1700万人くらいと予想していた」そうです。
(水野直樹「Q10 日本支配下で朝鮮の人口は急増したのか?」『日本の植民地支配』p30)

そもそも1906年と言えば、既に後期義兵闘争が始まっている時期です。この時期に日本の警察が戸口調査をしても、正確な統計が得られないのは当然でしょうね。
この980万人から、実際の人数を直接推計するのは困難ですので、その後のデータを参照してみましょう。
なお、(水野直樹「Q10 日本支配下で朝鮮の人口は急増したのか?」『日本の植民地支配』p31)の引用として山木さんが載せている推計を用います。

1910年 1631万人(警察調査1313万人からの推計)
1915年 1703万人(警察調査1596万人からの推計)
1920年 1763万人(警察調査1692万人からの推計)
1925年 1902万人(警察調査1854万人からの推計)
1930年 2044万人(警察調査1969万人からの推計)
1935年 2221万人(警察調査2125万人からの推計)
1940年 2355万人(警察調査2295万人からの推計)


では改めて、1906年の980万人を考えます。
並べてみるとこうなります。

1717年 1500万人(朝鮮政府統計683万口からの推計)
1753年 1600万人(嫌韓提示資料(朝鮮政府統計?)730万人からの推計)
1777年 1804万人(崔基鎬による韓国教科書からの引用)
1850年 1650万人(嫌韓提示資料(朝鮮政府統計?)750万人からの推計)
1877年 1689万人(崔基鎬による韓国教科書からの引用)
1906年  980万人(警察調査まま)
1910年 1631万人(警察調査1313万人からの推計)
1915年 1703万人(警察調査1596万人からの推計)
1920年 1763万人(警察調査1692万人からの推計)
1925年 1902万人(警察調査1854万人からの推計)
1930年 2044万人(警察調査1969万人からの推計)
1935年 2221万人(警察調査2125万人からの推計)
1940年 2355万人(警察調査2295万人からの推計)

明らかに1906年のデータがヘンとしか言いようがありませんね。

1877年と1910年の人口から判断すれば、1906年の人口もおそらくは1600万人程度であったと考えられますね。


では、実際に1600万人もいたにも関わらず、警察が調査できたのは980万人に過ぎなかったのはなぜでしょうか?

まず、考えられるのは日清戦争・日露戦争や日本軍による韓国占領・軍律支配、義兵闘争などの影響です(開国前後の1877年以降なので、李朝政府単独の問題ではありえない)。

特に日露戦争で日本は、緒戦で韓国内からロシア軍を撃退した後、韓国駐箚軍による占領支配を実行します。この支配にあたっては日本軍は軍律を定めて、軍の行動に対する妨害行為には死刑の適用まで行ってます(「悲劇の朝鮮」(アーソン・グレブスト)にも、日本兵による朝鮮人の射殺をドイツ領事の言として紹介されている)。こういった状況下で、日本に対して直接的な抵抗をした者、消極的な抵抗をした者が、警察による戸口調査から外れたことは十分ありえるでしょうね。

また、日露戦争の際には、戦火を避けようと土地を二束三文で手放した韓国人も多かったそうです(「植民地朝鮮の日本人」高崎宗司、岩波新書、2002、P90)。利にさとい日本人の中にはこういった土地を買いあさって戦後、巨万の富を築いた者もいたそうです。さらに、韓国駐箚軍も200万坪近い土地を軍用地として接収してますので(「軍用地と都市・民衆」荒川章二、山川出版社、2007、P39)、このようにして土地を手放し、大した金も得られなかった韓国人の中には、難民化した者も少なくなかったでしょうね。

こういったことの積み重ねが、結果として600万人もの調査漏れを生じた原因ではないでしょうか。(でなければ、よほど日本の警察が無能だったことになりますしね。)

要するに、この調査人口と実人口の乖離は、日本軍による苛烈な支配とそれに対する韓国人たちの対日感情を暗示している、といえそうです。
http://ameblo.jp/scopedog/entry-10150341914.html



469. 中川隆 2014年10月20日 00:39:33 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
人口増加は善政の証という勘違い


前回は、日本の朝鮮統治善政の根拠として嫌韓バカが用いる人口推移データに対して、若干の考察を以て補正してみたわけですが、

・嫌韓厨が示す朝鮮の人口推移データを考察する|誰かの妄想
http://ameblo.jp/scopedog/entry-10150341914.html


もちろん、嫌韓バカは

「日本統治期間中に人口が増加していることは変わらないじゃないかwww」

とか言って嘲笑するのでしょうが(そもそも怪しげなデータを使っての主張を恥ずべきなのだが、嫌韓バカの辞書が落丁が多く「恥」という字が存在しないので指摘しても無駄)、これには続きがあります。


朝鮮の人口推移


朝鮮人口(推計)

備考

・1717年  1500万人 (朝鮮政府統計683万口からの推計)
・1753年  1600万人 (嫌韓提示資料(朝鮮政府統計?)730万人からの推計)
・1777年  1804万人 (崔基鎬による韓国教科書からの引用)
・1850年  1650万人 (嫌韓提示資料(朝鮮政府統計?)750万人からの推計)
・1877年  1689万人 (崔基鎬による韓国教科書からの引用)
・1910年  1631万人 (警察調査1313万人からの推計)
・1915年  1703万人 (警察調査1596万人からの推計)
・1920年  1763万人 (警察調査1692万人からの推計)
・1925年  1902万人 (警察調査1854万人からの推計)
・1930年  2044万人 (警察調査1969万人からの推計)
・1935年  2221万人 (警察調査2125万人からの推計)
・1940年  2355万人 (警察調査2295万人からの推計)

これを見ると、補正後のデータでも1910年から1940年までに人口は1631万人から2355万人まで確かに増えています。

30年間の人口増加率は44%、1年平均増加率は1.2%である。

これ自体、既に山木さんが指摘しているとおり、同時期の日本の人口増加率とほぼ同じであって朝鮮の人口が急増したとはいえないわけです。



470. 中川隆 2014年10月20日 00:40:26 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
もちろん、これに対する反論として考えられるのは、


嫌韓ちゃん
「日本は、朝鮮に対しても日本と同様に扱ったため、朝鮮も日本と同様に人口が増加した」

というものです。

実は、この時期、日本の人口増加に日本自身が困り、海外移民や朝鮮への殖民などの人減らしを行ったり、朝鮮からの米の輸入により内地の食糧自給率を高めようとしたり(当然、朝鮮では米が不足する。いわゆる飢餓輸出の状態)するわけで、人口増加が善政の結果ではなく、むしろ当時の日本が決して先進国などではなく人口抑制ができない途上国であったことを物語っているわけですが・・・

しかし、そういってしまうとそれなりに知識のある人たちには「確かに人口増加したからって善政とは限らんよね」と理解できるでしょうけど、嫌韓バカや、その方面の知識を専門としない普通の人たちには理解しづらいので、もう少し説明を続けます。

ところで「日本の朝鮮統治が善政だった」という主張には、暗に「日本の統治は欧米の植民地支配とは違う善政だった」という欧米との比較が含まれています。

そこで、じゃあ、欧米の植民地ではどうだったかを調べてみましょう。

(この辺、嫌韓本には「人口が減った」とか色々書かれていますが、ソースが不明なもの、特定の一時期・地域の状況のみ示したものばかりで全体の傾向がわからないので、あまり役には立ちません)


アメリカのフィリピン統治

フィリピン政府の国勢調査のデータを示します。


Table 1. Population and Average Annual Growth Rate, Philippines: 1903-2000


Year

 Population(millions)

 Average Annual Rate of Increase Over Previous Year(percent)

1903  7.6 -
1918  10.3 1.9
1939  16.0 2.22
1948  19.2 1.91
1960  27.1 3.06
1970  36.7 3.01
1975  42.1 2.78
1980  48.1 2.71
1990  60.7 2.35
1995  68.6 2.32
2000  76.5 2.36

Sources: National Statistics Office (NSO), 1903-2000 censuses

http://www.census.gov.ph/data/papers/Senior_Citizens.doc

アメリカ人のタフトがフィリピンの初代民政総督となるのが1901年ですから、1903年の人口はほぼアメリカ統治前の人口と同じと見て問題ないでしょう。

すると、


フィリピン人口

1903年   760万人
1939年  1600万人

ですから、日本軍が侵攻する前までのアメリカ統治期間中(36年間)にフィリピン人は、2.1倍に増加したことになります。

36年間の人口増加率は110%、1年平均増加率は2%ですね。

あれ?日本の朝鮮統治では、30年間の人口増加率は44%、1年平均増加率は1.2%でしたよね?

人口増加が善政の判定基準なら、アメリカのフィリピン支配は善政だったわけ?じゃ、そこに武力侵攻した日本軍は一体何?

とおかしなことになりますね。


フランスのインドシナ統治


【嫌韓ちゃん】「いや、アメリカは例外で、イギリスやフランスの植民地統治が酷いのだ!」

とか言いそうなので、フランスのインドシナ統治、特にラオスの人口推移を見てみましょう。

(元データがフランス語なので、誤訳・誤解があれば指摘ください)


146 La Population du Laos de 1912 a 1945 1912年から1945年までのラオス人口

http://www.cseas.kyoto-u.ac.jp/fawg/France/france%20date.html

ラオス人口

1912年   649600人
1940年  1078000人

フランスがラオスを保護国化したのは1893年なので1912年には既にフランス植民地支配から10年以上経っていますが、古いデータが1912年までしかないのでこれを使いましょう。

1912年から1940年までにラオスの人口は66%増加しています。

28年間の人口増加率は66%、1年平均増加率は1.8%ですね。


イギリスのインド統治


【嫌韓ちゃん】「いや、アメリカは例外で、イギリスやフランスの植民地統治が酷いのだ!」

続いてイギリスの事例。

イギリス領インド帝国が成立したのは1877年。

インド人口の推移

インド人口

1877年  2.6億人
1900年  2.9億人
1905年  3.1億人
1940年  3.9億人

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/8280.html

1877年から1940年までにインドの人口は、50%増加しています。

63年間の人口増加率は50%、1年平均増加率は0.6%ですね。


まとめ

では、並べてみましょう。

日本の朝鮮統治      1910-1940年の人口増加率は44%  1年平均増加率は1.2%
アメリカのフィリピン統治 1903-1939年の人口増加率は110%  1年平均増加率は2%
フランスのラオス統治   1912-1940年の人口増加率は66%  1年平均増加率は1.8%
イギリスのインド統治   1877-1940年の人口増加率は50%  1年平均増加率は0.6%

この人口増加率を見る限り、朝鮮が取り立てて顕著な人口増加を示したとはいえません。インドよりは人口増加率が多いとは言え、朝鮮とインドでは元の人口が違いすぎますからねぇ。

そもそも20世紀初頭から、途上国を中心として人口爆発が始っているので、先進国化の度合いに応じた人口増加がどこの国でも起きているだけの話なんですがね。

要は、人口増加率を見たところで、善政かどうかなんて判断できないということです。


最後の抵抗


【嫌韓ちゃん】「結局、人口は増加したんだから、日本だけじゃなく、欧米の統治も善政だったんだ!」

ここまで無駄な足掻きをするバカもいないとは、思いますが・・・

上記のサイトから

中国人口の推移

中国人口

1945年   5.5億人
1950年   6億人
2000年  12.7億人

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/8280.html


中国共産党政権下の1950年から2000年までに人口は2.1倍に増加しています。

1950-2000年の人口増加率は110%、1年平均増加率は1.5%

人口増加→善政

ならば、中国共産党の統治は善政だということになってしまいますね。嫌韓は、反中ではないから構わないのでしょうかね?

では、韓国・北朝鮮についてみてみましょう。

韓国の人口は2005年で4700万人、北朝鮮の人口は2005年推計で2300万人、合計で約7000万人。

1945年の朝鮮の人口は嫌韓データを見ると2500万人なので、60年間で2.8倍、1年平均増加率は1.7%。

人口増加→善政

ならば、韓国・北朝鮮も善政だったことになりますね。

嫌韓バカの辞書は「整合性」とか「道理」とか言う言葉も落丁であるということが良くわかります。


追記

「朝鮮紀行」(イザベラ・バード)P425に記載された1897年ころの朝鮮人口。


(前略)ロシアの保護下に入らないかぎり1200万とも1400万ともいわれる朝鮮国民にはなんの前途もないという気がした。

1906年の日本の警務顧問による調査結果980万人がいかに実態と乖離しているかがわかりますね。当時(1890年代)朝鮮に滞在した外国人も朝鮮の人口は優に1000万人を超えていると把握しているわけですから。


追記2(2008/11/5)

緯度がどうとかいう馬鹿がいるので。

ソ連人口の推移

ソ連人口

1890年 11066万人
1913年 15619万人
1922年 15240万人
1940年 19597万人
1946年 17390万人

http://blogs.yahoo.co.jp/silkroad_desert9291/36310303.html

ロシア革命直前の1913年から独ソ戦直前の1940年までに人口は25%増加しています。

1913-1940年の人口増加率は25%*1、1年平均増加率は0.8%*2。

国土のほとんどが高緯度地方であり、なおかつレーニン・スターリンによる共産党支配の時期における人口増加率ですが、インドと大差ありません。人口の大きさを考慮すると、日本支配下の朝鮮とも大差あるとは言えないでしょう*3。

さて、緯度のせいという珍説を披露した嫌韓バカは次はどんな言い訳を考えてくるのでしょうかねぇ。
http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20081012/1223815346


471. 中川隆 2014年10月20日 00:54:12 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

朝鮮人の平均寿命が併合時(1910年)24歳だったものが、1942年には45歳まで伸びたというのも右翼が流した嘘

2009-11-17
「1910年の朝鮮人平均寿命26歳説」の謎


嫌韓バカによって流布されている説の一つである、1910年の平均寿命26歳説だが、ネット上では諸説あって、24歳説や、20代説など混在している。

問題はそのソースなのだが、これがどうもはっきりしない。

歴史関連のデマ・不正確さには定評のあるwikipediaには以下のような記載があり、


衛生面では、朝鮮半島で流行していたコレラ、天然痘、ペストなどの伝染病の予防政策も行われて乳児死亡率は減少し、また農地の開発により食糧生産量も激増したことで、人口は、併合時(1910年)の調査では13,128,780人[44]だったものが1944年の調査では25,120,174人となり、平均寿命も併合時(1910年)24歳だったものが、1942年には45歳まで伸びた[45][46]。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE

平均寿命関連の参考文献として、朝鮮総督府『統計年報』と黄文雄(笑)の『歪められた朝鮮総督府』があげられているのだが・・・。

実際に調べてみたが「統計年報」にも「歪められた朝鮮総督府」にも、1910年当時の平均寿命の記載は見当たらなかった。

つまり、ソース不明。

怪情報と言う他ない。

というわけで、ソースをご存知の方、ご一報いただければ幸いです。

ちなみに、日本人の平均寿命も30歳を超えたのは明治に入ってからなので、1910年当時の朝鮮人の平均寿命が20代であっても特に不思議ではないのだが、1910年の統計はかなり精度が低く平均寿命が計算できるようなものではないので、どうやって”26歳”という数字が出てきたかは不思議なのです。
http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20091117/1258473263


472. 中川隆 2014年10月20日 01:04:00 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

1910年当時の朝鮮総督府統計の不完全性

1910年の統計の精度がなぜ低いのか、について説明します。


「朝鮮総督府統計年報[第1冊]明治43年度」には、以下の人口調査結果が記載されています。


明治43年末(1910年)の朝鮮人人口は、1312万8780人。

明治43年末(1910年)の朝鮮人死亡者総数は、10万7308人。

明治43年末(1910年)の朝鮮人出生数は、17万5221人。

明治43年末(1910年)の朝鮮人死亡者のうち年齢5歳未満の数は、1万5338人。

もし朝鮮総督府の1910年当時の統計が正しいと仮定すると、以下の”事実”が導き出せます。


朝鮮総督府統計1910年が正しい場合に導き出せる”事実”

--------------------------------------------------------------------------------


明治43年末(1910年)の朝鮮人死亡率は、人口1000人に対して8.17人である。

明治43年末(1910年)の5歳未満の朝鮮人乳幼児死亡率は、出生1000人に対して87.5人である。

さて、ここで気がつくなら大したものですが・・・


まあ、気づかない人が多いと思うので、以下の事実を付け加えましょう。


2000年〜2005年の日本の平均死亡率は人口1000人に対して8.0人である*1。

*1:http://www.stat.go.jp/data/sekai/02.htm#h2-15

つまり、朝鮮総督府統計を正しいものとみなすと、1910年当時の朝鮮は人口1000人あたりの死亡者数が現代日本並みになってしまいます。これは年齢構成のせいだともいえるかもしれませんが、次はどうでしょうか?


明治43年(1910年)の日本における乳児死亡率は、出生1000人に対して161.2人である*2。

*2:http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suii01/soran2-2.html

同じ1910年当時の日本と比較して、朝鮮は乳幼児死亡率が半分と言う驚きの結果になってしまいます。


さて、まともな頭を持っていれば、1910年の朝鮮総督府の統計は精度が低いと判定するでしょう。この程度の精度しかない統計から平均寿命が計算できるとは考えられませんね。そこで前回の疑問に至ったわけですが、ソースを特定するに足る情報は得られませんでした。

惜しいのは、あのさ氏の


そこまでのデータが1910年当時の朝鮮でとれたとは思えないから、多分26歳という数字は死亡時年齢の平均をとったのだろう。


と、mechamote氏の


朝鮮王朝が近代的な統計を取っていたとは思えませんので、もしかしたら総督府に調査を命じられた学者が、衛生状況や栄養状況、乳児死亡率などから日本統治以前の概算値を推計したものかも知れません。そういう場合はお上に気兼ねして多少の色は付けるかも知れませんが、大きく実態とかけ離れた数値が出るわけでもないでしょう。まあソースがわからない今憶測してみても始まりませんが。


ですが、mechamote氏説は総督府に調査を命じられた学者が特定できなければ憶測の域を出ません。

あのさ氏の死亡時年齢の平均については、実は私も調べてみたんですが、26歳とか24歳にはなりませんでした。精度が低いので何とも言えませんが、死亡時平均年齢の推定値は中央値で約30歳、最小値をとれば26〜27歳にはなりますが、最大値は33〜34歳になります。朝鮮総督府のデータを素直に読む限り、死亡時平均年齢推定値としては約30歳と見るべきでしょう。


種明かし

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実は1910年当時の朝鮮の人口統計は届出に負うところが大きいのです。このため、出生者数・死亡者数は極めて不完全ですし、人口そのものも1910年の調査では調べきれてません。実際、併合以降数年については朝鮮総督府自身が「異常の増加」と呼んでいるほどです。


本府始政以来弊政の改革と民籍事務の整備とに伴い、人口は一時異常の増加を示したが漸次平調に帰し、明治43年末に於いて総数1312万余人であったものが、毎年30万人乃至70余万人を増加し、大正6年末には1661万余人に達したが、同9年以降は略常態に復し、昭和3年末現在数1866万7334人を算するに至った。

(「新興の朝鮮」朝鮮総督府、アジ歴レファレンスコード: A06032005800)

もちろん、届出された結果を実態からのサンプルとみなすことも統計上、無作為性が確保されないので不可です。念のため。


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管理者コメント:

嫌韓が日本の朝鮮支配を正当化する際に多用する言説の一つが

「日韓併合前の朝鮮の平均寿命は24歳または26歳」

というものだが、歴史関連デマの検証と反論で確かな実績のある「誰かの妄想」の管理人様が色々と検証をしてみてもその「24歳または26歳」のソースが出てくることはなかった。

つまり、この情報は何者かが日本の朝鮮支配を正当化する目的で根拠なく捏造して流布した情報である可能性が高いと見ていいだろう。

そもそも「平均寿命が延びたから日本の朝鮮統治は善政だった」というのであれば中国のチベット統治なども善政だったことになってしまうわけだが。
http://goodreporthunter.blog.fc2.com/blog-entry-40.html


473. 中川隆 2014年10月20日 01:16:10 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

日本統治下の朝鮮の人口増加率は同時期の欧米植民地などの人口増加率と比べても取り立てて顕著に増えたとは言えない。

よって人口増加は決して善政の証などではないことが一目瞭然なので、日本ウヨクの代表的な植民地支配正当化ロジックである「日本統治下で朝鮮の人口が増加したことは善政の証」が見事に破綻するわけだ。

だからこれは善政の証とやらというよりは日本ウヨクが無知な証とでも言ったほうがいいかもしれない。そして論破されれば「我々は最初から人口増加が善政の証とは言っていない」などと白々しくトボけて逃亡するのが嫌韓バカ。

連中には本当に恥というものがないのだろうか。
http://goodreporthunter.blog.fc2.com/blog-entry-30.html


474. 2014年10月20日 23:19:47 : cclt7zPZ1w
ほぅ人口増加が善政の証ではないと。
まぁそれだけではそうだろうねぇ。
餌やってれば、豚や鶏も増えるからね。
では、次のことはどうだろう。

1、日本が統治時代に朝鮮に投資した金額(1907年〜45年の37年間)/当時で21億円、現在で換算して63兆円これは一日辺り45億円

2、人口/1300万人は2500万人に増加

3、米の収穫/1000万石から2000万石に増加

4、平均寿命/1910年で25歳だったものが1944年には45歳になった(幼児死亡率が低くなったことが原因)

5、工業生産指数/1913年100として1933年には550と5.5倍になった(日本よりも伸びが高い)

6、公立小学校の数/100校が5000校に増加

7、鉄道総延長/100キロが6000キロに伸びた

8、識字率/1%が61%と大幅に向上した(標準朝鮮語を定めるハングル文字を普及させた)


475. 中川隆 2014年10月21日 09:39:31 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
おまい、どこまで頭悪いんだ


>平均寿命/1910年で25歳だった

というのが捏造だと言ってるだろ。

>米の収穫/1000万石から2000万石に増加

朝鮮では春窮で餓死しない様に色々な作物を少しずつ植えていたんだ
それをすべて冷害に弱い稲作だけにして、しかも出来た米の半分を日本に輸出していたんだから、何年かおきに必ず来る冷害になったとき餓死者が続出するのは当然だろ


476. 2014年10月21日 20:52:55 : cclt7zPZ1w
それ以外のものについてはどうだ?

1、日本が統治時代に朝鮮に投資した金額(1907年〜45年の37年間)/当時で21億円、現在で換算して63兆円これは一日辺り45億円

5、工業生産指数/1913年100として1933年には550と5.5倍になった(日本よりも伸びが高い)

6、公立小学校の数/100校が5000校に増加

7、鉄道総延長/100キロが6000キロに伸びた

8、識字率/1%が61%と大幅に向上した(標準朝鮮語を定めるハングル文字を普及させた)



477. 中川隆 2014年10月21日 21:22:52 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
おまい、日本政府が慈善事業やったとでも思ってるのか?

戦前の日本は麻薬売買で稼いでいて、朝鮮への投資もその為なのさ:


日本の戦争のための朝鮮のアヘン


朝鮮北部ににおけるアヘン畑に関してはほとんど報道されていない。

(日本による) 占領下では 朝鮮の北部で農民たちは強制的にアヘンを生産させられていたが、 これは中国における「アヘン作戦」のためであった。

この秘密の「アヘン作戦」は 日本の公式な組織である「興亜院」 (China Affairs Board) の命令のもとに 東京政府の国策として完全に承認されて実施された。


日本人が支配するアヘン屈で仕事をさせるために 朝鮮の麻薬の売人を何千人も引きずりこんだ。 まもなくして、豊かな店 (rich store) の 3 倍ものアヘン屈ができることになった。

危険な「白い麻薬」のために、百姓たちはより金をはたき、 より貧乏となった。 売人たちは「新しい種類のタバコ」を最も安いタバコよりも安く売ったり、あるいは無料で配った。 このタバコは最も哀れな人の間で人気が出ることになった。これはお買い得品などではなかった、 それにはヘロインが詰まっていたからだ。そして、麻薬中毒がこの地域全体に吹き荒れることになった。

朝鮮から、麻薬の売人を導入していますが、これは、朝鮮にも麻薬が蔓延していたことを意味します。 しかも、何千人もの麻薬の売人を導入できたということは、 朝鮮における麻薬の浸透状況もかなりひどかったことを意味しています。

従って、満州国において「麻薬の儲け」が満州国の産業開発の資金源になる以前に、 すでに朝鮮半島でも同様であった可能性が高いようです。 日本は朝鮮のインフラ整備に多額の資金を投与したようですが、 おそらくほぼ確実にこれは麻薬のもうけであったと思われます。

アヘンの生産地は現在の北朝鮮のようです。

現在の北朝鮮による麻薬の輸出と何らかの結びつきがある可能性があります。

「興亜院」は昭和 13 年 (1938 年) にできた組織で、 「政務・開発事業を統一指揮する為に設けられた」ようです。 従って、それ以前から「アヘン作戦」は実施されていたと考えるほうが適切で、 「朝鮮」においては日韓併合の直後からこのような活動があったと考える方が自然です。

日本語の Wikipedia によると、興亜院の長は総裁で内閣総理大臣が兼任しています。従って「アヘン作戦」 は日本国政府の方針です。

さて「アヘン作戦」とはどのようなものなのでしょうか ? 上で引用したページには 記述がありませんが、色々な英文のページから判断するとつぎのようなものです。


1. 必要とあれば、無料でアヘンを敵地にばらまきます。 (アヘン煙草とでも言ってよいと思うのですが、 箱に入っており、簡単に手渡しができたようです。)

2. これでアヘン中毒を蔓延させます。

3. ころあいを見計らい、戦争をふっかけます。敵の兵士がアヘン中毒ばかりであれば、 これで簡単に勝利できます。(これが関東軍の戦争の仕方でした。)

4. 占領した地域で、更に大量にアヘン中毒を作ります。

5. これでいくらでもアヘンが売れることになり、戦費が確保できることになります。

これって、戦争ですかね ? 暴力団の手口と似ていると思いませんか ?

最近では暴力団もあまり表立って、こんなことをしませんが、 麻薬中毒にしておいてから搾り取るのは基本的に暴力団の手口です。 だからこれは「麻薬テロ」です。そして、これが日本国政府の国策であったようです。
http://mailsrv.nara-edu.ac.jp/~asait/kuiper_belt/section4E/kuiper_section4E.htm


遼東半島・山東半島・満州そして上海租界地では、日本陸海軍の特務部が、治外法権の特権を利用して阿片の密売を公然と進めた。医薬品や中毒是正の目的とは無関係となり、中国人相手の阿片・麻薬販売の利益を得ることと、中国民衆の阿片中毒による弱体化が主目的となったのである。このとき陸海軍の手先として活躍したのが笹川良一、児玉誉士夫たちだ。戦後右派の黒幕となり日本を動かしていく曲者たちは阿片で莫大な財産を手中にする。自民党なんぞ阿片の金で動いていた麻薬党なのである。

植民地朝鮮半島でも、中国への阿片輸出のため、3万〜8万人が従事して、毎年、約8千haのケシを栽培し、毎年、約4万キロもの阿片を製造することとなった。

阿片・麻薬の需要は増大し、三井物産と三菱商事が、ドイツ・イラン・トルコ・シンガポールの阿片・麻薬を一手に輸入していた。実に欧米に成り代わった日本は大東亜阿片圏と言うべき阿片の毒牙をむき、三井・三菱の阿片船がアジアを往来した。

さすがに、日本政府による阿片販売は国際問題とされ、国際連盟の議題となっている。
『天津の日本人居留地は、今や世界のヘロイン製造、及び阿片喫煙の神経中枢として知られている。洋行あるいは外国商会名で経営される阿片あるいはヘロイン魔窟の数はまさしく千を超えている。

しかのみならず、白色麻薬を公然販売するホテル店舗、その他の建物が数百ある。……中国人・ロシア人及び外国人が汚れた板の上に横たわっており……魔窟の第1室には朝鮮人の女が。ヘロインと不純物とを混合する仕事に忙しい。……注射は汚い注射器で、時には自製の物でなされる。針は決して洗ったり、消毒したり、取り替えることはない。

梅毒が自由に針を介して一人の阿片常用者から他の者へ蔓延する。私は、胸一面が腐って壊疽のような肉塊をなしており、拳全部を差し込むことができるような穴が体にある阿片常用者を幾人も見たことがある。こんな腐敗しつつある辛うじて生命を保っている死体に、麻酔剤の注射器を次から次へと差し込むのである。(国際連盟阿片諮問委員会議事録よりエジプト代表ラッセル・パッシャの陳述)』

なんとも酷い、日本による阿片汚染の実態である。これが大東亜共栄圏の実態である。
http://www.asyura2.com/07/bd50/msg/347.html


つまり、戦前の日本政府の朝鮮への投資はすべて、中国人に売る麻薬を生産する為にやっていたのさ。 朝鮮に学校を作ったのも、言葉を教えないと麻薬の仕事を任せられないからさ。

日本政府が慈善事業なんかやるわけないだろ。


478. 2014年10月22日 04:17:31 : cclt7zPZ1w
ほんと極論が好きだねぇ。
アヘン作るためにそんな莫大な資金を投入するわけ無いだろ。
列強からの脅威に対抗するために決まってるだろ。
そんなこともわからないのか。
ソ連の侵攻により朝鮮では民族滅亡すかもしれないとまで恐れていたんだ。
日本の持つ資金と技術により工業化を成し遂げることということもあったが、
日本との共通意思であるソ連の脅威に対抗するための併合だろうよ。

中国で密売したかもしれないが、そもそも阿片というものの認識が現在とは
違うからな。シナは白人側についたんだからそんな国の心配をする必要も
無いだろ。アメリカと組んでアジアを食い物にしようとしたんだからな。
中国共産党も数年後には、危ないんじゃないか。
そうなったらチベット、ウイグル等には日本が支援しないといけないがな。


479. 中川隆 2014年10月22日 08:20:23 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
このアホは現在でも CIAが世界の麻薬の総元締めだというのも知らないんだろ

麻薬が一番儲かるのは今も昔も変わらない。だからそれが国家事業になるのさ。

日米戦争の原因は当時アメリカが独占していた麻薬売買を日本が取ろうとしたからさ


480. 中川隆 2014年10月22日 08:27:27 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
天皇一族は売春業者

 19世紀初頭、世界帝国を建設しようと考えた英国はアジアに対し、アヘン=麻薬を売り、アジア人に英国に対する抵抗心を喪失させ、アヘン売買の利益でアジアを支配するための兵器を買う戦略を採用する。

英国のアヘン売買の中心となったのが、銀行ジャーディン・マセソンであった。マセソンは、英国がインドでアヘンを買い付ける資金を提供し、中国、日本にアヘンを運搬する船の建設費を出し、アヘンの売り上げはマセソンの銀行口座に振り込まれ、その資金で中国、日本を攻める兵器が購入された。兵器の代金は、マセソンの銀行口座で決済された。

マセソン、中国では香港に香港上海銀行(現在の中国の中央銀行)を支店として置き、日本では東京に日本銀行=日銀を支店として創立した。日本政府の井上馨、渋沢栄一に「命令」し、ノウハウを教え、日本銀行を創立させたのは、麻薬銀行マセソンのアレクサンドラ・シャンドである。

日本の中央銀行、日銀は麻薬銀行として創立された。しかし中国と違い、日本では麻薬は売れなかった。


困ったマセソンは、福沢諭吉と天皇に相談し、日本人女性を誘拐し「売春婦」として海外に「販売」する事にした。


貧しい農村の女性には海外で豊かな生活が出来るとダマシ、良家の娘達には洋裁学校を紹介するとダマシ、天皇と三菱財閥は日本人女性を「売春婦」として、海外に売り飛ばした。

天皇と三菱の経営する船会社、日本郵船がダマサレタ女性達を売春婦として海外に運んだ。大部分が処女であった日本人女性達は、船の中で「売春婦」として教育するため、英国人水夫達に毎日、強姦輪姦された。これは天皇の「命令」である。

天皇がダマシ、売春婦として海外に売り飛ばした日本人女性の数は、50万人を超える。大くの女性は、20歳代で梅毒等の性病で死に、または刃物で自分の喉を突き刺して自殺した。

天皇一族の財産はこうして作られた。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/50371493.html


つまり、昭和天皇は麻薬と慰安婦で金を稼いでいたのさ。

女をうまく騙して異国に連れていって逃げられない様にすればいくらでも稼げるからな


481. 2014年10月22日 20:58:01 : cclt7zPZ1w
出鱈目ちゃんの天皇ネタはもういいよw

『日韓併合 韓民族を救った「日帝36年」の真実』 崔基鎬加耶大学客員教授
http://www.asyura2.com/0510/asia3/msg/901.html

外交評論家、加瀬英明氏が世話役となり、10月14日(木)、東京の北野アームスで出版を祝う会が開かれた。受付で渡されたのは崔基鎬加耶大学客員教授著『日韓併合 韓民族を救った「日帝36年」の真実』であった。最近韓国では、政治的に反日的な動きが強くなっている。そんな状況の中で、わざわざ「日帝36年が韓民族を救った」と題する理由は何なのか。著者は開会の挨拶で「私は歴史の真実を正直に書いただけです。韓国と日本は、アジアの安定のためにも両国のためにも、真の意味での協力が必要と思います。そのためには今のような歴史観では駄目です。歴史は歪曲せずに真実を見つめること。そうすれば、今後私たちがどう進むべきかを教えてくれます。日本には、昔から武士道があります。そういう素晴らしい精神を発揮してもらいたいと思います。この本が両国のために少しでもお役に立てば幸いです」と述べられた。日本の外交姿勢は韓国や中国に歴史認識で何か言われるとすぐに謝る。しかし崔氏は勇気を持って立ち向かっている。大いに学ぶべきことと思い取材をお願いした。

崔基鎬(チェ・ケイホ)氏 1923年生まれ。
明知大学助教授、中央大学、
東国大学経営大学院教授を経て、
現在、加耶大学客員教授

 日韓併合を検証する

 歴史をどう見るか。人によってその見方は違うと思います。また違って当然だと思います。しかし事実を曲げて、歴史を自分の都合で書き直すことになれば、それは歪曲したことになります。
  よく中国や韓国は、日本の教科書は歪曲していると非難しますが本当でしょうか。日本人は、そう言われると本当にそうかと思ってしまう人も多いと思いますが、日本人はあまり韓国や中国の状況を知りません。私に言わせれば、例えば韓国と日本を比較した場合、日本が十のうち一の歪曲があるとするなら、韓国は十のうち九は歪曲があると言っていいでしょう。日本についての歴史だけでなく韓国の歴史そのものを歪曲しています。韓国の権力者たちによって恣意的に作られた『国定教科書歴史編』は、まさにその傾向を強めています。
  その顕著な例は、李朝500年末期の政治紊乱に蓋をして、公然たる売官買職が横行し貧官汚吏が跳梁した事実をまったく教えず、日韓併合がなければ、李朝は立派な国家として独り立ちできたかのような書き方をしているところに表れています。これこそ、実態を知らない歴史観です。
  日韓併合のことに少し触れれば、併合を通じて全国民に教育が徹底され、近代的医療制度が確立し、農漁業と重工業が興り、社会のインフラ整備によって工業国家としての基礎が築かれたことは、明白な事実です。
  終戦後、独立した韓国・朝鮮の教育は、日韓併合を日本帝国主義の侵略政策の産物であったと糾弾しますが、それがいかに歴史の実態を無視した身勝手なことであり、自己中心的な解釈であるかはいうまでもありません。
  教科書では、例えば次の記述があります。
「日帝の狙いは、韓国を日本の経済発展に必要な商品市場と原料供給地にし、彼らの国家利益を増大させるものであった。日帝の産業侵奪政策で我が民族の経済活動は大幅に萎縮し、民族産業もその発展が抑えられて、沈滞するほかなかった」
  これには、あまりにも歴史の誤魔化しがあり、私などはコメントする気にもなりません。李朝500年を知らないか、故意に隠蔽しようとしているとしかいいようがありません。民族産業の芽を切り捨てたのは、ほかでもない李朝であり、李朝の下では経済発展など夢のまた夢でした。なぜなら近代化を唱える者や先進的な思想家は、反逆分子として、その親族までも処断されたのです。そういう史実を、忘れたとでもいうのでしょうか。
  本当に日韓併合が悪かったというなら、それが事実かどうかを検証してみようというのが私の立場です。大勢の人が虐待されたとか、従軍慰安婦にされたとかいいますが、私にはとてもそうは言えません。それは歴史の真実を知っているからです。それを今回、本に書いたということです。もし私が間違っていたら言えばいいです。


 隷属国家の李氏朝鮮

 私は80歳になります。ここまで生きてきて、やはり韓国のためにも日本のためにも、自分の思うことを正直に語りたい。それが本音です。ご承知の通り今の韓国では、植民地時代の日本統治を肯定的にとらえて発表することは、相当の覚悟がいります。極端な話、身の危険も覚悟しなければなりません。しかし私の使命として、どうしても言わなければならないと思っています。
  なぜなら、歴史を歪曲するということは、国の進むべき方向を間違わせてしまうからです。実のところ韓民族は、いつも身勝手な解釈で歴史を解釈し、これがもとで幾度も実態を見誤り、国を滅ぼしてきたのです。とくに危惧するのは、それが韓民族の宿痾であるということです。だからなおのこと私は、歴史の真実を見る重要性を訴えたいわけです。
  一つ最近の現象をいえば、北朝鮮寄りの韓国政府の動きがそれです。日韓併合前の朝鮮は李氏朝鮮によって支配され、それが500年続きました。その時代がどんなであったか。日本人はそれを知らなすぎます。大多数の国民が飢餓に苦しんでいても、一切顧みることなく自分の体制を守ることだけに専念する、そういう時代でした。いうならばいまの北朝鮮と同じです。
  北朝鮮は日本時代の遺産をすべて壊し、李氏朝鮮の時代に戻っているにすぎません。もし仮にいま、日本が北朝鮮を併合して統治するならば、金一族を除く北朝鮮国民は、随喜の涙を流すに違いないでしょう。
  そういう北朝鮮に対して韓国は、いま太陽政策と称して北朝鮮寄りになっています。李氏朝鮮時代の歴史を正しく知れば知るほど、それがいかにおかしなことであるかが分かります。では李氏朝鮮の実態はどうだったのか。またなぜ腐敗したのか。1392年に開国した李氏朝鮮は、その成り立ちに問題があります。
  明と高麗の戦いにおいて、高麗の重臣であった李成桂が、明との戦いで遼東地方の奪回に出陣します。ところが李成桂は密かに敵と通じて、威化島(鴨緑江下流の島)で軍を翻し、逆にときの高麗王と上官の崔瑩(総理兼参謀総長)将軍を殺し、政権を簒奪したのです。
  敵国であった明の力を得て打ち立てたその後の李氏朝鮮は、明のいいなりになって当然です。貢物を要求されれば断ることができず、人妻であっても供出しなければなりません。国民は奴隷民族化され、私有財産も没収されました。そして先制王権制度を変え、朝鮮民族が古代から高麗にいたるまで連綿と持ち続けてきた国際的自尊心を放棄し、明の属国として堕落が始まったのです。
  このような環境の中で階級制度は固定化し、創意工夫の精神は圧殺され、民衆は搾取と虐政を受けることになります。国王は名ばかりでなんら政策も施さず、その政府には国家の予算案すら存在しないという無軌道ぶりでした。いわば民衆は無政府状態に置かれていたのです。

 搾取されたのは日本

 そうした状況にある李朝を隣国において、1868年日本は明治を迎えます。当時の世界は強いものが弱いものを食う時代です。日本にとって清もロシアも大国です。その力が、清の属国になっていた李氏朝鮮、すなわち朝鮮半島から日本にやってくるという危機感が日本にありました。だからそれを防ぐために日本は、朝鮮としっかりと手を結ぶ必要があったのです。
  そこで1876(明治九)年二月、李朝と「日朝修好条規」を結びます。李朝成立後、484年が過ぎたときのことです。それは李氏朝鮮に、独立国家であってほしいという願いがありました。それが第一条にある「朝鮮国は自主の国」という言葉に表れています。これはきわめて重要な意義を持っています。
  しかしそうした清と朝鮮との主従関係を断ち切ろうとした日本の狙いは、実際その実現はほど遠く、民衆は相も変わらず、塗炭の苦しみを味わいつづけていたのです。
  1897年、李朝は国号を「大韓帝国」とあらため、年号を「光武」とし、王を皇帝と称し、表面的には510余年ぶりに明・清の束縛を脱し、独立国家を形成したのですが、清の保護下にある李朝の専横は変わるところがありませんでした。それは近代化と自主独立の道を拒否しつづけることであり、列強が蠢くなか李朝の存在は、東アジアの情勢に不穏な種を宿していたことになるのです。
 1904(明治37)年、日清戦争に次いで日露戦争を控えた日本は、こうした朝鮮の惨状を見かねて、目賀田種太郎(1853〜1926年)を財政顧問として派遣し、日本からの財政支援をもとに、李朝をまともな国として立て直すという態勢がようやく緒につくことになります。
  目賀田財政顧問と総監府は、朝鮮の歳入不足分を補填するために、日本国民の税金から、大韓帝国政府に無利子、無期限の資金「立替え」を実施したほか、直接支出で援助しました。
  例えば1907年度、朝鮮の国家歳入は748万円しかなく、必要な歳出は3000万円以上ありましたから、その差額は全額日本が負担しています。1908年には、これがさらに増えて、合計3100万円という巨額の資金を日本は支出しています。
  総監府時代の四年間に、日本政府が立て替えた朝鮮の歳入不足分は、1428万円にものぼっています。そればかりではなく、司法と警察分野などに日本政府が直接支出した金額は、立替金の数倍、9000万円に達しています。
  現在の朝鮮・韓国の歴史では、このような日本の特恵的支援には一言の言及もありません。そして侵略だけを強調していますが、これがいかに偏狭な歴史観であるかということが分かると思います。それら詳しい数字については本に書きましたが、日韓併合によって、搾取されたのは、韓国・朝鮮国民ではなく、日本国民であった事実を認めるべきでしょう。

 親日派というレッテル

 最近韓国では、親日派という言葉をつかって政敵を糾弾する動きがあります。しかし、そもそもおかしいのは親日派という言葉です。戦前から東京にいた私は、年に1〜2回はソウルとか当時の平壌に行きました。その当時の韓国人は日本人以上の日本人です。劇場に行くと映画の前にニュースがありましたが、例えばニューギニアで日本が戦闘で勝利をおさめたという映像が流れると、拍手とか万歳が一斉に出ます。
  私は劇場が好きで、日本でも浅草などに行って見ていましたが、韓国で見るような姿はごくわずかです。韓国ではほとんど全員が気違いのように喜びます。それは当時としてごく普通の姿ですから、特別に親日ということではありません。だから基本的に親日派という言葉はないのです。それを無理やり「親日派」という言葉のレッテルを貼って糾弾する。それが今の韓国で、政治的にやられていることです。
  レッテル貼りは日本でもよく行われていることです。例えば、右翼、軍国主義、戦争美化というような言葉がそれです。そういう言葉を発して思考を停止させ、悪いという印象を与えるのです。要は、政治的に自分達と違う相手に対し、または対決する相手に対し、親日派というレッテルを貼って非難する。しかも本人だけでなく、その親とか祖先とか、全てを否定してしまうのです。
  戦争が終わってマッカーサー司令部が日本人を引き揚げさせたときには、向こうの人は別れを惜しんだものです。それが実情です。ところが亡命していた者が海外から帰ってきて、列強の餌食となっていた李朝末期の朝鮮とその住民を救うために、当時の日本と併合させた賢臣(李完用など)の働きをなんら評価することなく反逆者だと言って非難しました。
  彼らは終戦から三年経った一九四八年、法律を作って裁判を起こし処罰するということをやりました。しかし親日派というのは、その場で生きるために、誰でも一緒に努力して仕事をしただけであって誰も処罰する人はいなかった。
  ただ、堕落した民族を復活させる方策を論文に書いた李光洙とかはやられましたが、それ以外にはいませんでした。だから親日派の裁判は、歴史的に一応終わっているのです。だから今さら親日派といって非難するのはおかしなことなのです。でも、そうしないと自分たちのやっていることが正当化できない。そういうことです。
  というのは、例えば北朝鮮から逃げてきた人が、日韓併合の時は経済は発展して私達は幸福だったというように、現体制に対し批判の思いがある。朝鮮戦争では金日成や馬賊みたいなソ連のスターリンらがやってきて、みんな強盗された。それで数百万名が命を失い一千万離散家族となっている。そうした不満の気持ちが国民にはあるのです。その批判をかわすために、日本を悪く言って自分たちの立場を守ろうとする。親切で人のいい日本人という印象を、国民の意識から無くすために指導者は反日を煽るわけです。

拉致黙殺の一点張り

 ですから、そうした動きは決して国民を守るということではありません。そのいい例が拉致家族の問題です。朝鮮戦争以降の拉致被害者は14万2953名と公表されていますが、身内が拉致されていながらその中に名前が見つからない家族の訴えには、まったく聞く耳を持たずで調べようともしません。
  私は以前から、拉致された人数は100万を超すとみられる理由を発表しています。それほど多く被害者がいるにもかかわらず、また日本が拉致被害者とその家族を保護している現実を参考にするでもなく、北朝鮮の指令に同調しながら黙殺の一点張りです。しかも人民を奴隷にし、餓死させている北朝鮮の政権を尊重している。それはもはや救出ではなく、拉致被害者とその家族を敵と見なしているといえるでしょう。
  そしてそれを正当化するために、歴史を歪曲し、北朝鮮を擁護し、空想と空理空論で徹底した反日・反米教育に熱中しているのです。なぜそのようになるのか。それは、権力者の動きをみれば分かります。近くでいえば、それが前大統領であり、それを現大統領も引き継いでいるということです。
  韓国では、李光洙が指摘しているように、虚言、騙すことが上手でないと、人気があっても大統領には当選しないのが実情といえます。前大統領は元来、共産主義者で死刑宣告の前科もあり、北朝鮮の金日成政権と密着し、骨の髄から北朝鮮の金政権支持者であることは周知の事実です。そういう彼が俄に「中道右派」だと虚言を吐くと、騙されることを好む朝鮮民族がたちまち彼に投票し大統領に当選しました。


  韓国の大統領は、法を無視してもかまわないほど専制的大権力を持っています。それが帝王的大統領と称される所以です。いうならば法治国家ではなく、人治国家ということです。
  その権力で、従来の死刑囚や北朝鮮のスパイ、日本人拉致の犯人、辛光洙までも釈放して北に帰したり、すでに潰れかけていた北朝鮮よりの全教組(教職員組合)に数十億ウォンの大金を支援して再興させたりしています。そうやって親北朝鮮政策をとりながら、国定教科書も書き直させ、放送局の支配層を全員親北朝鮮寄りに整理しました。
  すなわち絶対権力を持った元首が、敵国と内応し、国民と国家・財宝を主敵に提供し、徹底した嘘と騙しで敵の傘下に安住する。これは、前にも述べたように韓民族の宿痾であり、国難ということができます。そういう問題が韓国にはあるということを歴史が示しています。

韓国の本当の敵は中国

 その第一回目の受難は、西暦660年の百済の滅亡と、668年の高句麗の滅亡でしょう。これは金春秋(統一新羅の太宗武烈王)の売国的行為によるものです。
  第二の反逆は、先に述べた1392年、世界に誇る文化的祖国・高麗を亡ぼし、主敵の属国になり下がった太祖・李成柱によってなされました。
  第三の国難は、第二次大戦の終戦時におけるスターリンの走狗たちによる北朝鮮占領で、百万単位の虐殺者と、餓死者を出し、1000万の離散家族を発生させました。そういう北朝鮮の政権に阿諛追従し、太陽政策という美辞麗句で、主敵に大量殺人・核武装の資金と情報を提供して、反米・反日を内面から教育している金・蘆政権は第四の国難とも言えるでしょう。
  昔からこの国は、3000名の群衆が団結すれば政権を取れると言われています。これが北朝鮮工作の細胞が幅を利かせる理由でもあります。北朝鮮の現状は、2000名の核心部隊が組織力を持って2000万人民の生殺与奪権を握っている。それをいま、韓国にも応用しようとしているのです。
  歴史を直視せず、やみくもに「反日」を叫ぶのは、北朝鮮の思うツボです。そういうことに早く気づかなければなりません。
  さらに問題にしなければならないのは中国です。韓国は中国との戦いで結構勝利していたのですが、負けたことによって中国の言いなりにならざるを得ませんでした。それで保護下に置かれ、ただ命令に服従することを強いられました。しかも、そこを発展させるというようなことはしません。
  日本が台湾や朝鮮でしたように、インフラ整備とかいろんな設備をして学校を建て無料で教育させたようなことはしないわけです。一千年経っても一切そういうことはしないでしょう。それはロシアも全く同じです。要は隷属国家のままにしておいて、何の発展もさせないということです。
  そういう意味で、韓国、朝鮮の本当の敵は中国です。もちろん私は、中国に対して敵愾心を持てということではありません。地政治学的にそうなっているし、また歴史が証明しているところです。
  なのに、韓国も北朝鮮も、ロシアも中国もいい国、悪いのは日本、アメリカというわけですから話にならない。日本がやったいいことを、なかったことにしているのです。すなわち歴史の歪曲です。

 強い者に弱く弱い者に強い

 ならばこれを、どう解決していくかということになります。その第一は、歴史を直視することです。歴史ですから時代が変わり人が変われば、その見方にも違いがでてきて当然でしょう。でも歴史の事実はねじ曲げないという冷静な目で見ることです。それが根本にないと正当な評価ができないばかりか、お互いが協力しようにも協力できないからです。
  それに大事なのは、主張すべきは主張するということです。その意味で現在の日本は、残念ながら失格と思います。私が言いたいのは、こういう時にこそ日本にしっかりしてほしいということです。日本が朝鮮半島にしっかりと対処していかなければ中国が干渉してきて、李朝を属国にしてきたように北朝鮮や韓国を抱き込んでしまう恐れがあるからです。現実に高句麗の歴史問題も出ています。中国は自分の国の歴史だということですから、領土も自分のものだということになります。
  それは韓国に対してだけではありません。日本の領土である尖閣諸島を、自分のもののように言ったり、沖縄も自分の国だと思っています。台湾についても自分の領土だと譲りません。
  朝鮮半島、台湾までが中国の支配になったらどうなるでしょう。アメリカがいるから、そうはならないという考えもありますが、やはり日本は日本で考えていかなければならない問題です。アメリカと同盟を結んでいる立場からも考えることは重要なことです。中国は日本の生命線であるシーレーンも自分の管轄下に置きたいと狙っています。そうなれば日本の産業は成り立たなくなり、日本の経済力は急激に衰退するでしょう。
  ですから今のうちに日本は明治時代の武士道を覚醒させて、しっかりと韓国と手を組んで中国と対処してほしいのです。これはアジアの安定のためにも大事なことです。
  日本が強くなって韓国と手を組むとどうなるか。終戦前、満州で中国で活躍したのは日本人よりも韓国人でした。平均して中国人より韓国人の方が強さを発揮し、中国に対して強く出ました。日本が明治時代の日本軍隊のように強くなると、韓国、朝鮮の人は日本人以上に日本人になるのです。今の台湾において、日本人より日本人の生き方を伝承しているという事実。昔の日本人は、それほどに誠を尽くして現地で働いたということです。その意味するところは、併合自体が侵略でもなく略奪でもなかったということです。
  儒教、朱子学というのは、あくまで事大主義ですから、強いものには巻かれろ、逆に弱いものは踏んでもかまわないということです。大人の前では、いつもきちんとしているけれども、弱いものとか子供の前では威張る。これは中国でも同じことです。ですから日本が強くなって、中国にそして韓国に対処するようになれば、そこからはじめて対等な付き合いが始まることになるのです。日本が弱気で下手になって対応するので、中国も韓国も逆に強く出てきて、嘘のことでもそれを理由に自分の要求を突き付けてくるわけです。

 ソウル遷都は滅亡の運命

 小泉首相も小泉首相です。蘆溝橋に行って謝罪している。謝罪する必要はありません。日本がやったわけではないのです。撃たれた兵隊は、秋田の部隊で秋田にいます。私はインタビューして資料を取っています。
  中国のいう歴史認識の共有は、中国のいう通りにしろということです。そんなことはすべきでないし、できるはずもない。支那事変というのは、日本が中国共産党と戦った防共戦です。これをはっきりと認識しなければなりません。向こうはアジア、中国、日本を共産化しようとしていた。背後にはソ連のコミンテルンの野望がありそれと日本は戦った。日本の軍隊がいたからこそアジアは、日本が敗れるまで共産化されなかった。日本が敗れたために中国も満州も朝鮮も共産化されてしまった。
  それを知っている人は世界にいなかったわけではありません。ローマ法王のピオ11世はよく分かっていた。支那事変が始まった年の10月にメッセージを出しています。全世界の3億5千万のカトリック信徒に対して、日本の支那事変は侵略戦争ではない。共産党と戦っている。共産党が存在するうちは、全世界のカトリック教会、信徒は日本軍に遠慮なく協力せよといっています。だからこそ戦後マッカーサーが靖国神社を解体しようとしたときに、カトリックのビッター神父、バーン神父は反対した。
  靖国神社の近くに白百合学園という女学校があります。靖国神社の前を横切るときに生徒は頭を下げる。どうしてかと気になっていた。それはローマ法王にお伺いをたてたら頭を下げるようにと指導があったという話でした。
  結局中国共産党は戦争を一番望んでいた。昭和7年、満州事変の2年後に対日宣戦布告を出しています。昭和9年にも同じようなものを出しています。蒋介石の国民党軍と日本を戦争をさせて、その間に自分たちの勢力を伸ばして中国を共産化するという戦略だったわけです。
  支那事変が始まった後、毛沢東が出した指令があります。日本との戦争では、七分の力をもって党勢を拡大せよ、二分の力をもって国民党と妥協せよ、残りの一分の力をもって日本と戦争せよというものです。
  中国は共産党政権です。その共産党と防共戦を戦った日本の歴史観が合うわけがないでしょう。そういうことを日本は中国にはっきりという。それで初めて同じ土俵に上がることができるのです。日本は、論争の土俵に上がるまえから頭を下げているわけです。


482. 中川隆 2014年10月23日 02:19:51 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

とにかく、朝鮮併合以降、朝鮮人の消費する食料が大幅に減って餓死者が続出したというのが事実として残っている。

だから食っていけなくなった朝鮮人が日本に渡ってきたんだ。


483. 2014年10月23日 06:39:25 : cclt7zPZ1w
それはしっくりこないが、そういう人もいたのだろう。日本人のように裕福になりたいと思い日本に渡ってきた朝鮮人のほうが圧倒的に多い。
一方日本では当時は、現在よりも外国人を受け入れる体制が整っていなかった。コミュニティ社会であるから日本人でも新参者は受け入れがたいのに、外国人を地域に受け入れるという心理的な体制は全く整っていなかった。
地元住民の間で培われた地域コミュニティに馴染めない外国人がいることは、現在でもあるくらいだ。
世の中の流れが急すぎて社会の適用が全く追いつかなかった。なかなか難しい問題だ。

その後の敗戦でアメリカの統治によってマスコミ、教師といった職業に在日の人間を多く採用し検閲者として雇った。
白人の植民地支配の王道である白人との合いの子に支配させる論理と同じような考え方で、在日を利用したということだ。
そういった人たちの多数が、反日日本人になってしまったということだな。

嫌韓とか在日嫌いではない。現在ではそういった人は減った。
みんな反日日本人が嫌いなんだ。
その点をちゃんとわきまえたまえ。


484. 中川隆 2014年10月23日 07:57:53 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

要するにアホ右翼は何故朝鮮人が反日になったかわからないという事だね。

アホ右翼でもわかる様に纏めてやるよ:


朝鮮人が反日になった理由

1.飢餓輸出させた
2.農民の土地を奪った
3.日本に連れてきてタダ同然で強制労働させた
4.朝鮮の財産をすべて奪った
5.朝鮮女性を性奴隷にした

_______


1.飢餓輸出させた


日本で米が足りなくなったのは日清戦争がきっかけでしたが、それが日露戦争のとき顕著になったと東京外語大の大月先生は語っていました。

   それ以降は米不足が慢性的になり、1918年にはそれが頂点に達し「米騒動」が起き政権が揺らぎました。

この時、政府は次の三つの対策案を練りました。

 1。タイなどから外地米を輸入する。
 2。国内産の米を増産する。
3。朝鮮や台湾など植民地で米を増産する。

第1案のタイ米はパサパサしてまずく評判がさんざんで話になりませんでした。

私も数年前にはタイ米をけっこう食べましたが、カレーやチャーハンにでもしないとなかなか箸が進みませんでした。

   第2案ですが、内地米の増産はその余地があまりなく効果は期待薄でした。

そこで結局、第3案の植民地での産米増殖計画が本格的に採用され、1920年から始まりました。

朝鮮総督府は巨費を投じ、ダムや灌漑設備をつくったり、輸送用の鉄道や港湾などインフラの整備を始めました。

また米の品種も、早神力など日本人好みのものを奨励し、あわせて化学肥料を勧めました。さらに栽培技術も「正条植え」による田植えなどを巡査を動員してまで指導しました。(早神力を番組では「わせしんりき」と発音していました)


こうした努力の結果が、朝鮮の食生活を少しでも豊かにしたのであれば、かの江藤元長官の問題発言「日本は植民地に少しは良いこともした」という考えをある程度私も認めたいところです。

   しかし、事実は残念ながら忘暮楼さんの指摘通り、米の生産量は増えても朝鮮人一人当たりの消費量は逆に減り、「飢餓輸出」の現実が朝鮮農民を苦しめました。

   その実状を、番組は具体的にある農家の回想をとりあげ紹介していました。

秋に農民が米を70俵収穫しても、水利税や肥料代などもろもろ差し引かれ手元には15俵くらいしか残らないそうでした。

   しかも、これはかなりましな方で日本人の金融組合などに借金のある人は高利のかたにお米をとられ、手元にはせいぜい2、3俵しか残らないそうでした。

   これではとうてい食べていかれないので、農民は知恵を絞って米を土の中に埋めたり隠したりしたのですが、冷酷な借金取りもさるもの、針金で地面をつついてまでそれを見つけだし有無を言わせず持ち去ったとのことでした。

   このように、朝鮮の農民を苦しめた「産米増殖計画」は勢い余って日本の農家をも苦しめました。

安くてしかも品質の向上した朝鮮米の大量導入は内地米の暴落を引き起こし、これに世界的な恐慌が重なり農村では深刻な「娘の身売り」や、はては新たな植民政策「満蒙開拓団」を生み出しました。
http://www.han.org/a/half-moon/hm007.html#No.61


当時の生活しやすさの基準として「米」の消費量を取り上げるのが最適と思われます。

米はいうまでもなく日本・朝鮮ともに主食で、当時は白米を食べることが「ごちそう」でした。したがって、米の消費量は当時の生活水準のバロメータになるので、この統計をみることにします。

         朝鮮の米穀輸出・消費量

年次 日本に輸出 朝鮮人一人当た   日本人一人当た
    (1000石) りの米消費量(石) りの米消費量(石)

1912 │ 2,910 │ 0.7724 1.068
1917 │ 1,296 │ 0.7200 1.126
1920 │ 1,750 │ 0.6301 1.118
1922 │ 3,316 │ 0.6340 1.100
1924 │ 4,722 │ 0.6032 1.122
1926 │ 5,429 │ 0.5325 1.131
1928 | 7,405 | 0.5402 1.129

'31-34 8,456 0.4059 不明 (年平均)*

資料は、飯沼二郎著『朝鮮総督府の米穀検査制度』(未来社)、ただし
  *印は『朝鮮米穀統計要覧』1936年版


この表から、朝鮮人の米消費量は年々減る一方で、逆に日本人は人口増加にもかかわらず朝鮮米輸入のおかげで僅かずつ増加傾向にあることがわかり、植民地経営の恩恵に浴しているのが歴然としているのではないかと思います。

これからもうかがえるように、植民地の政策はほとんど日本内地本位で決定されました。その典型的な例が1920年、朝鮮での「産米増殖計画」でした。

  日本内地では1918年の米騒動や、1923年の関東大震災など米が慢性的に不足し、米価の値上がりが社会不安になっていました。
それに加え、タイなどからの米の輸入は貿易収支の悪化を招きました。

  こうした事態を打開する政策として、朝鮮での産米増殖計画を本格化し「更新産米増殖計画」として、1925年から10カ年計画で資本金2億8500万円を投下し約30万町歩の土地改良を行い、農事改良により800万石の米を増産するというプロジェクトにとりかかりました。

朝鮮総督府は巨費を投じ、ダムや灌漑設備をつくったり、輸送用の鉄道や港湾などインフラの整備を始めました。また米の品種も、早神力(わせしんりき)など日本人好みのものを奨励し、あわせて化学肥料を勧めました。さらに栽培技術も「正条植え」による田植えなどを巡査を動員してまで指導しました。

   こうした努力の結果が、朝鮮の春窮・絶糧農家を救ったのであれば、かの江藤元長官の問題発言「日本は植民地に少しは良いこともした」という考えをある程度私も認めたいところです。

   しかし、事実は残念ながら米の生産量は増えても朝鮮人一人当たりの消費量は逆に減り、「飢餓輸出」の現実が朝鮮農民を苦しめました。


こうした日本の収奪政策のもと、朝鮮農民は窮乏化していき、わずかばかりの土地を持っていた農家も次第にそれを手放さざるを得ませんでした。

その実体を表すのが次の表です。これは米どころの全羅北道において、土地所有が産米増殖計画による水利組合の設立の前後でどのように変化したかを示すものです。

          全羅北道、五水利組合の土地移動
                       (単位は町歩)
      日本人所有  朝鮮人所有   その他    合計
 1920年    3,674    4,181    2,694    10,549
 1931年    8,999    3,545    7,292    19,836
(東畑精一「朝鮮米穀経済論」)

  この表のなかで、その他としているのは東拓など日本人の土地会社などを含みます。東拓とは1910年代、「土地調査事業」で国有地とされた土地を総督府から安く払い下げてもらって成長した国策会社です。

  この表からすると、朝鮮人所有の土地は減っても、逆に日本人の土地は倍増以上の伸びを示しました。朝鮮全体でみても、1920年から1927年にかけて日本人の土地所有は25万町歩から40万町歩へと、1.6倍に増大しました。

  灌漑施設やインフラなど朝鮮の富は増えても、その恩恵に浴するのは支配者である日本人であり、それとは対照的に多くの朝鮮農民はやせ細っていったのが植民地の現実でした。
http://www.han.org/a/half-moon/hm023.html#No.187

要するに、日本人が酷使する農奴の数が増えただけ.

できた米はすべて日本に持って行かれる.

李朝時代は独立農だったのが食うや食わずになった.

感謝するバカは一人もいない.


_________


1.農民の土地を奪った


1910年の併合強行後、日本は朝鮮の植民地化を進めるが、その第1歩は、
土地の所有権の確定を目的とした土地調査事業であった。

国内における地租改正がそうであったのと同じように、それは植民地財政の基盤を固める意図からでたものであったが、その過程で耕作関係があいまいな多くの土地が、総督府に奪われることになる。

国有地に編入された耕地面積は朝鮮域内の全耕地の20分の1に達し、その多くは日本人に安価に払い下げられ、大規模な日本人地主が誕生した。

土地を失った朝鮮の民衆は、小作農化するか、あるいは日本や中国大陸へと流失していく。

民族の自立を損なう弾圧的な植民地か政策の展開は、第一次大戦後になると、
激しい独立運動の展開による抵抗に遭遇することになった。

1919年3月1日に朝鮮では独立を宣言して蜂起した民衆運動によって、それまでの植民地支配の枠組みを見直さざるを得なくなる。

 歴史上、「文化統治」への転換と評される斉藤総督の統治政策は、一方で「同化政策」を柱とする「民族としての抹殺」を意図するものであると同時に、農業振興政策による民衆生活の改善によって、日本による支配への不満を融和させようとするものであった。

朝鮮からの人口流失    人  

  日本へ 中国へ

1914 4,179 10,631
1915 5,046 13,281
1916 7,225 13,501
1917 17,463 18,911
1918 27,640 36,627
1919 35,975 44,344
1920 40,759 22,210


産米増殖計画の推進には、日本市場に適した品種の米を生産するという、輸出志向型の農業への切り替えが必要であり、この品種転換の強制と輸出志向は、朝鮮域内での食糧供給の不足、つまり「飢餓輸出」に帰結する。

日本国内では、1920年代に入って、つまり産米増殖計画が軌道に乗って、日本向けの米の輸出(移出)が増加しはじめるころには、当初の思惑とは異なって米の価格は低迷していたからである。

こうした農業振興政策の展開は、植民地を日本経済の一環に組み込み、日本への食糧供給基地化するという役割を果たすものであった。

しかも、このような飢餓輸出を生むような食糧供給基地化は、代替的な食料としての粟や高梁などの供給を、満州に求めることによって、東アジアにおける独自の経済圏を形成させることになる。
http://www.e.u-tokyo.ac.jp/~takeda/gyoseki/GAKU00-06.htm


1918年6月18日は、朝鮮総督府が植民統治の基盤を固めるために
1910年から8年間にわたり全国を対象に行った土地調査事業が終わった日だ。

同事業で大韓帝国の皇室と政府が所有する土地、村または門中の公有地、
そして荒蕪地はすべて総督府の所有になり、土地を奪われた農民ら数百万人は小作農に転落した。

大地主になった総督府は土地を東洋拓殖株式会社をはじめとする不二興業など土地会社と移住者に安価で譲った。

官吏の制帽と圓衫(韓国女性固有の礼服)で身を装った年老いた新郎・新婦(写真=独立記念館所蔵)は、当時朝鮮に渡って大地主になった日本人夫婦だ。

2人は伝統的な両班(ヤンバン 朝鮮時代の特権的な官僚階級)の地主とは異なる顔の「吸血鬼」だった。

当時の日本による帝国主義は領土を略奪したドラキュラだったというのが、韓国市民社会の普遍的な歴史の記憶だ。

ドラキュラに吸血されていなければ一世紀前の開化期にすでに自力で近代化を成し遂げたはずなのに、
日本の帝国主義のために実現できなかったということだ。
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=116883&servcode=100§code=140

日本の土地調査事業であぶり出された農民たちが職を求めて日本へ渡った。
具体的にはこの政策で新しく地主になった日本人の所有する鉱山や工場の労働者としていったり、先に渡って生活基盤を作った親戚を頼って渡った。

世界史で習った土地の「囲い込み政策」を。あれとほぼ同じ現象だ。

日本に来るきっかけとなった「土地調査事業」は、明治43年に朝鮮を植民地にした日本が、その直後から朝鮮全土で実施した、地形、所有権、地価などについての調査である。それまで朝鮮には土地の登記制度が確立していなかった。そこに登記制度を導入し、税収入の増加を狙ったのである。

 朝鮮の村では、共同所有地など所有権がはっきりしない土地が多く、急に登記せよといわれても無理だった。

また、手続きは複雑で、農民が自分で申請することは難しかった。
登記をしなかった土地はすべて、朝鮮総督府のものとなった。


耕していた農民は、追い出されるか、高い小作料に泣かされることになった。
多くの農民が、貞鎬さんの父母のように生活に困り、日本へ出稼ぎに行くことになった。

総督府に取り上げられた土地の多くは、後で国策会社である東洋拓殖株式会
社に払い下げられた。

東洋拓殖はさらに、日本からの移住者に土地を売り、日本の農家の二男、三男らがこの土地を買って、農業を始めた。

朝鮮の村には日本人の地主が増え、土地を取られた朝鮮人が日本人を恨み、今も消えない根強い反日感情が残った。

 朝鮮では、明治43年の日韓併合から、昭和5年までの20年間に、人口
が約30%増えた。土地調査事業と人口の増加により、慶尚南道など南部の人
を中心に、日本に出稼ぎに行くようになった。その数は昭和五年までで40万
人近くにのぼる。

総督府に接収された土地は、山本有造『日本植民地経済史研究』(名古屋大学出版会)によれば、約12万町歩に及ぶ。又定められた期間に申告しなかったり、所有権を証明する書類がないため接収された耕地が約2万7千町歩あり、接収された耕地は合計14万7千町歩である。当時の全耕地面積は 450万町歩であり、約3%である。

 これに正当な売買により取得した土地を加えた、1922年(大正11年)末の日本人農業者所有土地面積は、一般地主17万5千町歩、東洋拓殖8万町歩、合計25万5千町歩で、全耕地面積の6%弱である(朝鮮総督府『調査資料2ー7朝鮮における内地人』)。


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3.日本に連れてきてタダ同然で強制労働させた


朝鮮人戦時労働動員
著者:山田昭次、出版社:岩波書店

 朝鮮人が戦前、日本に渡ってきたのは自発的なものであって、強制されたわけではないという主張があるが、それは次のような調査結果からすると、まったく机上の観念論でしかない。

 1940年から始まった穀物供出制度により、朝鮮の農民は自家の飯半分まで取り上げられたので、貧困は一層激しくなり、農民の離村は強められた。

下層農民の衣服はボロ着で、着換えもなかった。
農民の主食は粟・稗・高梁・どんぐり・草根木皮そして副食物は野菜と味噌だけだった。

1939年と1942年の旱害のときには、餓死者や栄養不良による行路死亡者が多数発生した。

 そのような状況のなかで、ある農民は毎日ひもじい思いの生活を送り、妻子が栄養不足のために死ぬことを恐れ、1939年11月にすすんで募集に応じた。

すると、就業する職場も告げられないまま、日本に連行された。

 実は、私の亡父も三井の労務課徴用係として朝鮮に出向いたことがあります。
京城の総督府に出頭すると、既に三井から連絡が行っていて、
列車で500人ほどを連行してきたというのです。

三井の職員9人で500人もの大勢の朝鮮人を日本へ連れてきたというのですから、
なかには「自発」的な朝鮮人も少なくなかったと思います。
亡父は、やっぱり朝鮮では食えなかったからね、と自分たちの行為を正当化していました。

ところが、食べられないようにし向けたのは日本の政策だったわけです。


昭和14年(1939年)から昭和16年までの3年間に、日本へ渡航した朝鮮人は 107万人。

「募集」制度によって日本へ渡った朝鮮人は15万人。

 このように大量の出稼ぎ渡航者の存在と、強制連行者の併存が、戦時期の植民地朝鮮からの人口移動の実態だった。

つまり、日本の責任は重いということです。

 1939年に朝鮮に「募集」に言った人の体験談が紹介されています。

 当時、朝鮮はどこへ行っても失業者ばかりで、「募集」への希望者が殺到して断るのに苦労した。

 1941年2月、内務省警保局保安課長は、日本へ連れてきた朝鮮人が逃亡しないよう、
家族も日本へ呼び寄せることを促進するよう命じた。日本の官憲や企業は、家族呼び寄せを朝鮮人の逃亡などの防止手段として利用した。

その結果、特高月報によると呼び寄せた家族数は、1943年12月現在で4万158人になった。


貧しさという朝鮮人の生活条件の形成に日本が大きく関与していれば、朝鮮人の決断をそのような方向に導く条件をつくった日本の責任が問われねばならず、朝鮮人の対日渡航が自らの意志によると、単純に言えない。

そして、農民の貧窮化の発端は、総督府による土地調査事業に出発している。

 朝鮮人戦時労働動員は戦時下の植民地他民族抑圧の一つの形態だった。

朝鮮を日本の植民地としていた。

植民地下にあっても、朝鮮人は朝鮮人であって、日本人ではなかった。
日本人は、きちんとした事実認識をもつべきである。
http://www.fben.jp/bookcolumn/2007/02/post_1347.html


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3.朝鮮の財産をすべて奪った

1910年に朝鮮は完全に従属させられた。
公式には、日本は一つの『共栄圏』の創設を通して、東南アジアを西欧の植民地主義から保護すると称した。

 実際には大日本帝国はこの国の組織的な略奪、黄金と美術品(価値の高い陶磁器)の窃盗を監督した。文化的な遺産(仏教寺院)を破壊し朝鮮のアイデンティティを消し去る明らかな意図を持って、である。


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5.朝鮮女性を性奴隷にした


485. 2014年10月24日 07:11:00 : cclt7zPZ1w
李朝が朝鮮を支配した方法と酷似しているね。
バカな奴が日本と李朝を混同して纏めた内容を信じてしまったわけだ。
韓国は十のうち九は歪曲があると言われているが、それを信じてしまっては
どうしようもないぞ。
ちゃんと勉強しよう!
それともおまえはほんまもんの反日日本人かもな。
だったら捏造の確信犯だが、、
捏造することを生きがいにしているのかな。
両班は身体を動かすことを「下々のものがやること」とバカにしていた。
両班は自分では何も持たない。自分のキセルですらである。両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。
イザベラバードが言っていたよな。
賎人は奴隷として売買の対象になっていたが、日韓併合後、奴隷制度は廃止されたよな。
両班は、日本に併合を懇願して失敗したと思っているかもな。

486. 中川隆 2014年10月24日 09:39:08 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
植民地支配されるより同じ民族の李朝に支配された方がましに決まってるだろ。

植民地支配は慈善事業じゃないからな。

日本が支配していた時は作った農産物の半分は日本に取られていたんだ。

いくら立派な建物や学校ができたところで、その前の道に餓死した行倒れの人間の死体が沢山転がっていたんだから、朝鮮人が日本を憎む様になったのは当然さ。


487. 2014年10月25日 22:34:46 : cclt7zPZ1w
同じ民族ねぇ
李朝の支配層は女真人かモンゴル人だといわれているけどね。
人を奴隷として支配しているのがいいとは、困った価値観だね。
品質の悪い食料をそんなに日本で買いとっていたのに餓死者を
日本のせいにするとは、笑止千万だな。分析不足もいいとこだ。
アメリカの日中韓分断戦略に利用され、金で歴史を捻じ曲げる。
哀れやのぅ。

488. 2014年10月26日 00:12:17 : b5JdkWvGxs
そんな事言ったら、天皇も漢民族で日本人の敵だろ

489. 2014年10月26日 08:08:51 : cclt7zPZ1w
天皇は国民を奴隷としていないし、支配しているとはとてもいえないだろw
というかそんなこと言ったのはおまえだろw

490. 2014年10月26日 12:18:27 : b5JdkWvGxs
日本人(縄文人・弥生人の子孫)は負け組だろ

明治以降ずっと渡来人の漢民族の子孫が政治家や財界人になってるからね

天皇もチョンと同じ一重瞼だろ

朝鮮と同じさ


491. 2014年10月26日 13:54:51 : cclt7zPZ1w
負け組み根性でがんばろうや。
おまえもわけわからんことを言ってないで、
日本に住んでいる人たちが団結できるように
心を入れ替えてがんばってくれや。
いつまでも反日日本人をやってたってつまらんぞ。

492. 2014年10月26日 14:24:21 : b5JdkWvGxs
日本は単一民族じゃないから団結できる訳ないだろ

南京大虐殺や慰安婦強制連行をやったのは渡来人の漢民族の子孫

人のいい優しい日本人は縄文人・弥生人の子孫

民族自体が違うのさ


493. 2014年10月26日 20:16:53 : cclt7zPZ1w
>漢民族の子孫が政治家や財界人
例えば誰だ?

494. 2014年10月26日 20:54:08 : b5JdkWvGxs

漢民族 というのは Y-DNA が O3 の民族の事

皇族、公家、上級武士はすべて O3 で漢民族だよ。

今も一流大学出の過半数は O3 で漢民族だろ。

明治までは家柄で差別をして縄文人・弥生人の子孫とは結婚しなかったから、今でも2000年前と同じ遺伝子のまま混血してないよ。


495. 2014年10月27日 06:56:42 : cclt7zPZ1w
>漢民族の子孫が政治家や財界人
例えば誰だ?イメージがわかんぞ。

496. 2014年10月27日 12:20:41 : b5JdkWvGxs
長州、薩摩、土佐出身の政治家はすべて Y-DNA が O3 の漢民族だろ。

吉田茂、佐藤栄作、岸信介、安倍、麻生とか全部 Y-DNA が O3 の漢民族。

小沢、小泉一族も日本に渡ってきたのは最近だろうけど、漢民族系の朝鮮人だろ


497. 2014年10月27日 12:29:01 : b5JdkWvGxs
徳川・三河氏は三河国の山奥に住んでいたアウトサイダーの野武士出身みたいだから縄文・弥生系の日本人だろうな

明治維新の 徳川幕府 vs. 薩長連合 というのは 日本人 vs. 漢民族系朝鮮人 という対立関係でもあるんだな


498. 2014年10月28日 07:15:18 : cclt7zPZ1w
Y-DNA が O3というのは優秀なんだな。
遺伝子では、思想は分類できないということだな。
まぁ排外主義ではないからどうでもいいことだ。
捏造するけど、おまい意外と物知りだな。
反日日本人のルーツが知りたいんだがのう。

499. KAKU 2014年10月29日 15:38:10 : OWaaqdl/SQGjM : hcvl78Ht6g
「反日」などのレッテル貼りは自説に自信が無い人間がやること。
相手を委縮させ、無知な人間に感情的にアピールをする方法でも有りますね。
学説的議論とは自身が知り得る事実のみを提示して行うもの。
自国にとって(あくまでも個人的な判断で)不利な意見だから「反日」と短絡的に決めつけるのはどうかと思います。事実じゃ無いと思うなら反論すれば良いだけ。

まるで戦前〜戦中に国策である戦争批判をしたら「非国民」とレッテル貼りをして正しいことを言う者を黙らせ、一億総玉砕を謳い、国家心中しようとしていた軍国主義のようで気味悪いです。

中川さんの意見が「正しい」ことなのかどうかは置いておいて、有意義な意見の応酬の結論がレッテル貼りとは、情けない。


500. 2014年10月30日 02:17:54 : cclt7zPZ1w
別に黙らせるような言い方はしていないだろう。
こんなことで黙る中川隆でもない。
学説的議論をしていると思ったのか?

>皇族、公家、上級武士はすべて O3 で漢民族だよ。
>今も一流大学出の過半数は O3 で漢民族だろ。

こんな話はどうでもいい。信用もしていない。
真実であってもいい。俺には興味が無い。
情けないを思うのは自由だが、ピンボケした横槍をいれるな。
反日日本人はどういった人たちなのか思うことを言ってみろ。

朝日新聞のような捏造報道を繰り返す報道機関が日本にはある。
同じように歴史を捏造する日本人がいる。
事実と思っていることを議論するから真実が見えない。
反日日本人といわれる人たちは、なぜ捏造してまで事実を捻じ曲げるのか。
そこを突き詰めなければ答えは出ない。
友好関係も築けないと思うからだな。
仲を悪くし分断する戦略なのか?真実の意図がわからないんだな。


501. 中川隆 2014年10月31日 11:03:59 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
>反日日本人のルーツが知りたいんだがのう。


天皇一族が反日日本人のルーツですね。 大和朝廷は朝鮮から来た漢民族なので当然漢民族的・朝鮮人的行動様式になりますからね:


昔、三宅久行さんから聞いた話 2012/11/16 03:24


三宅さんが、日本史の江上さんから聞いた話だと。

あの騎馬民族説の江上さんですね。

そう。

天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、昭和天皇に質問したそうだ。
天皇は、オフレコならばと前置きして答えられた。


Q:天皇家の先祖は、どこから来たものだと思われますか?

A:朝鮮半島だと思う。

Q:どうしてそう思われますか?

A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。


と答えられたと。

三宅さんは続けて、これはいまわれわれが普通に食べている、もち米からの餅ではなくて、うるち米からつくる。

現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。
古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。
と教えてくれた。
http://akirakakun.iza.ne.jp/blog/entry/2928306/


昭和天皇と大本営は兵隊をわざと死なせるような作戦をやった

まともな戦争ではなかった――ほとんどが餓死か病死だった

武器も食糧も持たせず死ぬとわかった輸送船に乗せて送り出した

敗戦したとたんに、天皇も財界も官僚、政治家も平和主義者のような顔をした

そして日本はアメリカの属国になった


あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。

日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。

だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。精神主義とかいっているが、その気じゃないのだ。マッカーサーが日本に上陸するのが8月15日から2週間後の30日だ。司令官がすぐ乗り込めるのだ。


丸ごと米単独占領 支配階級・日本を米国に売る

占領軍には1発も銃弾は飛ばなかった。

あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。

マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。

ドイツの場合は行政機構は壊滅しており、官僚機構も軍隊も解体したが、日本は軍隊は解散させるが、官僚機構はすべてそのまま残した。日本は空襲でも官庁がやられていない。国会議事堂はそのままきれいに残った。大蔵省や日銀も戦前からの建物がそのままだ。

ドイツは戦争に協力したマスメディアなどはすべて廃刊になった。日本は違った。悪かったのは軍部だけで、天皇はじめ、官僚機構がそうだし、独占企業、マスコミ、全部が元元平和主義者のような顔をして生き残った。それが単独占領を保障したわけだ。みなアメリカに協力して民族的な利益を売り飛ばしていった。

アメリカは日本占領に50万人の兵力を用意していた。しかし20万人でよいといって削った経緯がある。戦前の体制がそっくりアメリカの配下になったからできたことだ。いかに日本の支配階級が売国的かがわかる。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/aratanabaikokutosennsounosyuppatutenn.htm


マサチューセッツエ大教授のジョン・Dダワーは米国の公文書館で天皇ヒロヒトの発言を見出した。


@ 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。

A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。


ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。
http://www.snsi-j.jp/boards/sirogane/152.html

天皇一族が反日日本人のルーツというのは神武天皇が大和を支配した時からずっと続いているんですね:


日本各地で収奪と悪徳の限りを尽くした皇族と平安貴族


射殺された清少納言の実兄、不正のかぎりを尽くして私腹を肥やす受領……。

藤原道長や藤原行成の日記に書かれていたのは、王朝貴族たちの犯罪と暴力だった!
 
風雅で優美なイメージの裏側に隠蔽されてきた衝撃の実態。

平安時代には支配階級・特権階級である貴族たちが、庶民から収奪の限りを尽くし、暴走に次ぐ暴走を重ねている。

これから、平安貴族の不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領、さらには殺人やその隠蔽をはじめとする暴走の実態を紹介し、平安時代の支配構造を明らかにしてゆく。

おそらく、現代日本の支配構造(特権階級の暴走)に繋がる源流がそこにあるからである。

●庶民からの収奪と云い、試験験制度と云い、現在の特権階級の暴走の原型は平安時代に出来上がっていた。

●これから、平安貴族の不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領、さらには殺人やその隠蔽をはじめとする暴走の実態を紹介し、平安時代の支配構造を明らかにしてゆく。おそらく、現代日本の支配構造(特権階級の暴走)に繋がる源流がそこにある。
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/850.html


502. 中川隆 2014年10月31日 12:46:46 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

日本の支配階級(皇族、公家、源氏・平家の系統の皇族系武士)になった漢民族は選民思想が強く、日本人を人間だと思っていなかった

6:名無しさん@涙目です。(WiMAX):2011/10/28(金) 18:06:18.76 ID:RNVRwNQp0

貴族遊びまくり庶民餓死しまくり
貴族が牛車で呑気におでかけする脇道には死体がゴーロゴロ


17:名無しさん@涙目です。(長屋):2011/10/28(金) 18:13:14.61 ID:j5KVDQzL0
>>6
あいつら死体が道に落ちてたらソッコーで家に帰って清めするだろ

28:名無しさん@涙目です。(東京都):2011/10/28(金) 18:15:52.73 ID:+z8ty5Br0

平安時代は和歌とか紫式部とかのほほんとした平和なイメージだけど あれは貴族の話。
一般市民は餓死しまくりで路上に死体が転がっていて政治機能はマヒだから次の時代に武家社会が到来した


37:名無しさん@涙目です。(アラバマ州):2011/10/28(金) 18:20:58.16 ID:T8Am9NQl0

藤原家の奴とか大体和歌詠んでは天皇や上皇にゴマすってるだけで何にもしてないよな


45:名無しさん@涙目です。(長屋):2011/10/28(金) 18:23:39.06 ID:j5KVDQzL0
>>37
あいつら道端に猫の死骸がありましたとかで仕事休むからな
自分とこの荘園管理以外仕事してないな
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/ojyuken/1331048080/


漢民族は中国でも、日本に来ても えげつなさは変わらないですね。  


503. 中川隆 2014年10月31日 18:01:41 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

結論は

南京大虐殺や慰安婦強制連行をやらせたのは昭和天皇と漢民族系日本人

戦争中でも困っている中国人や朝鮮人を助けた心優しい日本兵は縄文人・弥生人の子孫

つまり、遺伝子がチョンと同じ天皇一族が反日日本人のルーツという事で間違いないね:

鬼頭久二(1916年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、

「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」

ちゅう命令やった。

天皇陛下の命令やと言ったな。

当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。
http://www.geocities.jp/kk_nanking/
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/m/pages/468.html


504. 2014年10月31日 23:17:33 : cclt7zPZ1w
まず天皇を認めなければならないということか。
そこはまぁ大丈夫だな。
反日日本人と朝日新聞とのつながりがあるのか?

505. 中川隆 2014年11月01日 06:24:14 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

朝日新聞を左翼だと思うのはアホ右翼が無知蒙昧だから

朝日新聞のバックにはアメリカ支配層とCIAがいるんだよ:


朝日新聞と言えば戦前、戦中最も政府の国策にそって戦争を扇動した新聞屋として有名。

朝日新聞=左翼新聞と勘違いしている人が多くいますが朝日新聞は、大本営発表を最も多く広く宣伝して国民を洗脳した新聞屋でした。

戦後も体質は、まったく同じで左翼面した工作員みたいな新聞屋でアメリカの支配層の意向を最も強く受けて国民を洗脳する新聞屋です。
http://www.asyura2.com/09/senkyo60/msg/266.html


 


マッカーサーは45(昭和20)年9月15日、「プレスコード」(新聞紙法)を発したが、アメリカ占領軍の「検閲」の名による言論統制を四五年秋から非公然に開始した。検閲要員は1万人近くいた。その対象は、新聞・雑誌、放送・演劇脚本・映画、紙芝居・幻灯などのすべてにわたり、国民の手紙や葉書などの郵便物、電話の盗聴までやっていた。

そういうことについても、一切知らせてはならないと、徹底した検閲をやった。日本のメディアは、自分らで自主検閲するようにするし、朝日新聞なんかは自主検閲要領というのをプレスコードの線に沿ってつくっていた。それはいまでも続いているしもっとひどくなっている。

一方で、GHQは新聞やラジオなどを直接にも利用して、宣伝していった。第2次大戦についてのアメリカ軍を美化する心理作戦でも、商業新聞に直接GHQが原稿を書いていたり、NHKの「真相はこうだ」という特集などもそうだ。


米軍について悪くいうことを徹底して封じた。だから原爆の実態や空襲実態についても徹底し隠した。沖縄戦なども典型的で、日本軍がみんな殺したようなイメージをつくり出す。マニラとか長沙などへのアメリカ軍の爆撃もみんな隠蔽していた。安岡の戦争体験者が長沙へのアメリカの空襲を近年朝日新聞に投稿したら、ボツにされたといっていた。

戦後のアメリカの検閲のやり方を見ても、報道内容をチェックするばかりではなく、郵便物や電話まで開封、盗聴する。しかも検閲してないような格好をしてやる。

戦前の検閲は、伏せ字で検閲したことが分かる形だったが、アメリカの方はまだ陰険だ。内容は、原爆を公表してはならない、戦争の悲惨さを公表してはならない、反米的なものは許さないというものだった
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/aratanabaikokutosennsounosyuppatutenn.htm

戦後、日本が占領下におかれていた1952年まで、米占領軍は占領政策を批判するメディアを容赦なく弾圧した。かつて私が勤めたことのある日本評論社は、同社発行の月刊総合誌『日本評論』が米占領軍批判論文を掲載したことで発禁処分になり、倒産に追い込まれた。

 このことが日本のジャーナリズムを萎縮させた。日本のすべてのメディアがアメリカ批判を控えるようになった。このときのトラウマは、占領が終わったあともずっとつづいた。日本のジャーナリズムにおいてアメリカ批判は最大のタブーとなったのである。

日本にはCIAの情報網が網の目のように組織されて、日本の政治家や要人をすべて監視している。中曽根総理や小泉総理のようにアメリカのポチならスキャンダルは押さえ込まれて長期政権が出来るが、アメリカの言う事を聞かない総理は朝日新聞などにスキャンダルがリークされて短命政権になる。
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/msatou/06-08/060825morita.htm

【漆間巌副長官と朝日新聞のドス黒い関係】

CIA工作員の漆間巌副長官の出世を助けた朝日新聞と会計検査院
http://58807828.at.webry.info/201002/article_18.html


506. 2014年11月01日 06:33:02 : b5JdkWvGxs

今回の朝日新聞の

「済州島で連行」証言 裏付け得られず虚偽と判断

という報道も安倍に頼まれてヤラセのインチキ調査しただけだろ。

元々、吉田清治自身が

自分が慰安婦を強制連行したのは『全羅南道の済州島』でなくて本当は『全羅南道の某所』だった

と言っていたんだから、「済州島」だけで聞き取り調査したのは悪質な詐欺さ。 


507. 2014年11月01日 11:53:35 : cclt7zPZ1w
アメリカと反日日本人の朝日が組んだとなると
吉田清治を利用して全羅南道で強制連行したと
したほうがよかったのでは?
そのほうが日本を貶められるし金も取れるはずだが?

508. 中川隆 2014年11月02日 09:44:10 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

それから安倍も代表的な親韓の反日政治家だね:

「安倍晋三は日本一の親韓政治家」

そして、ご褒美に安倍首相は韓国から九州の自宅を安く譲ってもらった。


在日社会の重鎮と呼ばれ、韓国から勲章まで貰った大物パチンコ屋オーナー吉本章治こと薫応石から、自宅、事務所の提供を受けていたという話で、自宅敷地は660坪です。


安倍首相の地元、下関にはその象徴ともいうべき場所がある。下関市街を見下ろす高台にある首相の自宅。そして、JR下関駅駅前のだだっ広い敷地に建つ、事務所だ。

 このふたつはまったく離れた場所にあるのだが、どちらも元は同じ会社が土地、建物を所有していた。会社の名前は東洋エンタープライズ。下関で最大手のパチンコ業者で、親会社の七洋物産は福岡、山口で多くのパチンコ店を経営している。創業者・オーナーの吉本章治氏(故人)は、2002年には韓国から国民勲章「無窮花章」を受賞するなど、在日韓国人社会の重鎮でもある。

 実は、この東洋エンタープライズ、そしてオーナーの吉本一族は、安倍首相にとって父親の代から続く地元の有力スポンサーなのだ。吉本氏が無窮花章を受賞した際、パーティに来賓として出席した安倍首相はこんな挨拶をしている。

「吉本氏は四十五年前に父が国会選挙に出た時からの付き合いで、父が外務大臣の時、韓国に同行した」(「統一日報」2002年5月1日)

 その支援は小渕議員同様、政治資金収支報告書に記載されている政治献金だけではなかった。冒頭で紹介したように安倍首相の自宅と事務所はもともと東洋エンタープライズの所有で、安倍家はそれを賃借する形だったのだが、その家賃について当時、同社は取材に対し「両方あわせて月に約二十万ー三十万円」と答えている。いくら地方都市とはいえ、自宅は2174平方メートルの敷地に346平方メートルの建物。事務所はJR下関駅前の449平方メートルの土地つき建物である。あわせて20〜30万円というのはありえない安さだろう。

 しかも、自宅のほうは1990年に東洋エンタープライズから安倍晋太郎に所有権が移転されているのだが、その際、抵当権がついた形跡がない。そんなところから地元では「あんな豪邸を現金で買えるはずがない。安く売ってもらったにちがいない」という噂が飛び交い、以来、安倍首相の自宅は「パチンコ御殿」と呼ばれるようになったという。

両者を結びつける疑惑は下関だけではない。安倍事務所は福岡にもあったのだが、1980年から1986年の6年間、この事務所とスタッフを東洋エンタープライズの親会社の七洋物産が無償で提供していたこともわかっている。

 まさに癒着としか言いようのない関係だが、この関係は父親が亡くなって、秘書だった安倍が代議士になってからも変わらなかった。七洋物産からは毎年、限度額ギリギリの政治献金が提供され、安倍後援会が発行する自民党山口県第4選挙区支部の会報誌には毎号、東洋エンタープライズの広告が掲載されていた。

 そして、安倍はこの“パチンコ御殿”を1991年に堂々と相続し、事務所についても、同社からの賃貸を続けたのである。ちなみに、この問題は2003年、月刊誌「噂の真相」(休刊)が追及して、当時、官房副長官だった安倍から名誉毀損で訴えられているのだが、この裁判で「噂の真相」は再三にわたって、事務所の賃料を示す契約書を提出するよう求めている。ところが、安倍サイドはそれを拒否し、賃料を明かさないまま「賃貸人が負担すべき修繕費等はすべて借主負担という条件で借りている」と弁明した。安い賃料での提供を続けていたのは間違いないだろう。

「首相の不祥事については刑事事件になるか支持率が急落している状態でないと、報道しないという不文律のようなものが新聞、テレビにはある。

しかも、今は読売、産経の両紙が完全に安倍政権の広報紙のようになっていますからね。孤立するのは目に見えている。そんな度胸のあるメディアはありませんよ」(全国紙政治部記者)

 何を書いても「捏造」よばわりされている朝日あたりが開き直ってやらないか、とも思うのだが、まあ無理だろうな……。
http://lite-ra.com/2014/10/post-594.html


つまり、安倍晋三こそが反日日本人の代表で、読売、産経が安倍の売国をサポートしているんだ。

小沢一族は日本人の戸籍を買った済州島出身者だと言われているから、韓国の利益を第一に考えるのは当然だけど、靖国参拝とか一見右翼的なポーズを取っていた安倍が親韓の反日政治家だったというのは意外だよね。


509. 2014年11月02日 14:26:08 : cclt7zPZ1w
へーそうなんや。
朝日はなんであんなバカな報道を繰り返してきたんだい?
インチキ報道ばかりしてきたんだから途中で
やっぱり全羅南道でしたと変更するくらいできるはずだが。

510. 中川隆 2014年11月02日 15:56:16 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

昔の朝日の記者はみんな本多勝一に憧れて入って来たんだよ。

だから

朝日新聞の上層部は極右、体制側の犬

本多勝一に憧れて入った朝日新聞の記者は左翼、体制批判記事ばかり書いていた


という2局に分化していたんだ。

それがソ連崩壊後は体制批判していた記者が全員出世の道を閉ざされ、冷や飯食わされて、上層部の意向が紙面に反映される様になった。


511. 2014年11月02日 15:59:45 : b5JdkWvGxs

昔の大学生はみんなこういう感じだったからね:

本多勝一を応援する読者会のページ
http://www1.odn.ne.jp/kumasanhouse/hod/


512. 中川隆 2014年11月04日 22:02:16 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

戦場のうた / 元“慰安婦”の胸痛む現実と歴史 動画
http://www.dailymotion.com/video/x296o6h_%E6%88%A6%E5%A0%B4%E3%81%AE%E3%81%86%E3%81%9F-%E5%85%83-%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6-%E3%81%AE%E8%83%B8%E7%97%9B%E3%82%80%E7%8F%BE%E5%AE%9F%E3%81%A8%E6%AD%B4%E5%8F%B2_news?start=12

2014年民間放送連盟のテレビ報道部門最優秀賞。

戦時中140ヵ所の慰安所があったとされる沖縄。慰安婦に関する大阪市長の発言も伝えながら、「慰安婦」問題の背景、沖縄に慰安所を設置した日本軍の実態を、多くの証言や資料で明らかにした。被害女性の貴重な証言や、宮古島で「慰安婦」を見た住民、慰安婦と交流のあった住民の記憶などを丁寧に集め、「慰安婦」や住民、日本兵が当時何を思っていたのかを「うた」を手掛かりに探った。
2014年民間放送連盟のテレビ報道部門最優秀賞。TVディレクター原義和さん。
http://www.j-ba.or.jp/category/awards/jba101390#TVhoudo


最近、朝日新聞の記事の誤報謝罪から日本軍「慰安婦」問題が再び注目を集めている。相変わらず「強制連行」が問題視されているようだが、焦点がずれている。首に縄をつけて連行したというケースは少ないのだろう。

中国山西省などで、日本軍は中国人に対してそういう残虐なことをいくらでもやっていたようだ。そうした部隊が沖縄に送られて、占領者気分を引きずっていて、沖縄の住民とトラブルにもなっていた。日本軍の指導部が考えた対策の一つが慰安所の設置だった。

沖縄に展開した日本軍の陣中日誌などには、慰安所のことがたびたび出てくる。明らかに慰安所は日本軍の施設だった。部隊が移動すると慰安所も移動する。「慰安婦」は移動先に連れて行かれる。逃げることは許されない。抵抗したら殺される。

宮古島では、番組にもあるように「慰安婦」たちは住民と水場を共有していて、交流もあった。一見、自由に歩きまわっているようでも、島から逃げることはできない。本当の自由はそこにはなかった。これは、強制連行とも言って良いだろう。
日本は、侵略戦争と植民地支配で、重大な人権侵害を行っていたこと、そしていま再びセカンドレイプの形で被害者の人権を踏みにじっていることを認識し、それを恥じる感性を取り戻ることが大事なのではないか。


513. 2014年11月05日 01:58:49 : cclt7zPZ1w
あなたは、親韓の反日政治家の安倍首相を応援しているのかい?
それと本多勝一は、朝日新聞で上層部からかわいがられていたと聞いたが
こいつもアメリカの犬ですか?

514. 中川隆 2014年11月05日 12:27:04 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
本多勝一は朝日新聞ではずっと冷や飯食わされて出世できなかっただろ。

かわいがられていたんじゃなくて、本多勝一は朝日で唯一の花形記者だったし、朝日文庫から出ていた本多勝一シリーズが驚異的な大ベストセラーだったから、朝日の上層部も表立っては悪く言えなかっただけさ。


515. 2014年11月06日 06:14:40 : cclt7zPZ1w
朝日やその背後の米帝に利用されていたと言ったほうが正しいかもしれないね。

安倍首相は米帝とうまいこと戦っているんだろうな。
親韓の安倍首相を応援しているのか?


516. 中川隆 2014年11月06日 12:01:04 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
安倍も黒田も韓国も電通もロスチャイルドの犬だろ。 こういう事さ:


それにしても何が黒田日銀バズーカ砲ですか。
バカバカしい。
3日に為替が5円も動くなど。
もうめちゃくちゃです。
これを資本主義の末期的症状と言わずして何と言うのでしょうか。

米国の量的緩和が終了した。
そして間髪をいれず、今度は日銀の大量な量的緩和。

前にもこのような図を書いたのですが。


FRB・日銀とロスチャイルドの BIS(国際決済銀行)の関係
http://blog-imgs-42.fc2.com/g/o/l/goldentamatama/20130318091247657.jpg


FRBと日銀などBIS野郎の手下です。
子分仲間なのです。

もうFRBの金融緩和は4.5兆ドル(500兆円)に達してる。
これ以上何もできない。手詰まり状態だ。

どうしたらいいんだ。。

それで代わりに今回は、日銀に代理で量的緩和を行わせたのでしょう。
何が黒田バズーカ砲ですか。
要するにアメポチ砲。
アメリカ FRB様の代理金融緩和ということなのですた。

今起きてる急激な円安。
金融緩和終了で米ドルの金利が上昇し始めた。それで日銀の金融緩和じゃぶじゃぶマネーがいっきにドル購入に流れているにすぎません。

当たり前ですが、今までの株価の動きを知ってる人なら分かることです。

過去のFRBの金融緩和(QE1)(QE2)の終了後どうなったか。
そうすると次に起こるのは、新興国の株価暴落。
それで、それにつられてニューヨークダウの暴落。

今回も同じことが起こりそうだったということなのですた。
それで日銀が代わりに金融緩和を行った。
FRBが金融緩和を続行したのと同じです。
そのつけを日本国民が丸かぶりした金融緩和だったというだけです。
http://golden-tamatama.com/blog-entry-1672.html  



517. 中川隆 2014年11月06日 12:11:21 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

朝鮮も日本の植民地になる前から既に欧米資本に乗っ取られていて、一番最後に搾取しようとした日本がバカみただけさ。

昭和天皇もアメリカの手先で、戦前の日本の朝鮮統治政策はすべてアメリカの指示通りだったのさ:


日本が35年間にわたって行った朝鮮統治によって、本当に得をしたのは誰なのか?

“朝鮮統治”という1つのビジネス・モデルこの問題は余りにも複雑であり、単純化して述べてしまってはその本質を見誤る。

過去における朝鮮統治の問題を考える時、次のような質問をされたならば、皆さんはどのように答えるだろうか。

「日本による植民地統治下にあった朝鮮半島で、石油を売っていたのは誰なのか。

そこにも日本人による現地住民に対する“搾取”という絵柄が見て取れるのか」。


恐らく答えに窮する読者が多いに違いない。


「第2次世界大戦へと突入する直前まで、朝鮮半島で石油を独占的に販売していたのは、日本勢ではなく、英米勢だった」

というのが、この問いに対する正解なのである。


朝鮮統治が行われた1910年以降の大部分の時期において、現地での石油販売を独占していたのは米系のスタンダード社、そして英系のライジングサン社(後のシェル)なのであった。

なぜこれら2社が朝鮮マーケットを独占できたのかといえば、これらいわゆる「外油」に対しては、輸入に際して特例関税が課されていたからである。

具体的には、当時、日本のいわゆる「内地」に石油を輸入するにあたっては高額の輸入税が課せられていたのに対し、朝鮮という「外地」については消費者に安い石油を使わせるべしという理由で、無税に近い税率が設定されていたからである。

そのため、外国から輸入した石油を朝鮮へと転売する日本の石油企業は著しく不利な立場に置かれていたわけなのだ。

満州(現在の中国東北部)における鉄道などについてもいえるのだが、日本の大陸進出を巡るビジネス・モデルには、常にこれと全く同じ1つのパターンが見え隠れする。


すなわち、表向き「進出」していくのは紛れもなく日本である。

だが、その一方で目立たないが重大なセクター(インフラストラクチャー)で広く、着実に収益を上げていたのは米国勢、そして英国勢なのであった。


もちろん、第2次世界大戦の足音が響き始めると同時に、これら英米勢は駆逐され、日本勢が代わりに入っていくことにはなる。

しかし、だからといって「朝鮮統治」というビジネス・モデルは日本が単独で担ったものではなく、むしろステルス(透明)で、より狡猾な形でそれによって莫大な利益をあげていたのは他ならぬ英米勢だったのである。

そして問題なのは、こうした単純な「史実」であっても、私たち=日本人が学校で学ぶ機会はほぼ100パーセント無いという現実なのである。

確かに、過去の一時期において「不幸な出来事」が日朝間で生じたことは否定できない。

しかし、だからといって朝鮮統治というビジネス・モデルの展開によって現地が被った全ての償いを日本に対して求める一方、いわば“本当の黒幕”だった英米に対しては何も問わないという主張は、全く肯んずることはできないのである。

そして、こうしたダブルスタンダード(二重の基準)自身に見え隠れする虚構こそ、今の日本、そして東アジア・マーケットを見る私たち=日本の個人投資家の眼を曇らせる最大の要因でもあるのだ。
http://money.mag2.com/invest/kokusai/2009/03/post_105.html

李氏朝鮮は1895年清国冊封体制から離脱により、迎恩門での土下座の礼拝は終焉した。

その後、列強各国は利権を求め李氏朝鮮に殺到した。


1900年頃の李氏朝鮮が奪われた利権


ロシア (金鉱採掘権、石炭採掘権、森林伐採件、海関管理権、捕鯨権)

アメリカ(ソウルー仁川鉄道施設権、金鉱採掘権、電車、電燈、水道経営権)

イギリス(海関管理権、金鉱採掘権)

ドイツ (金鉱採掘権)

日本  (ソウルー釜山鉄道施設権、金鉱採掘権、漁業権) 

当時独立は風前の灯火、史実は日本による併合(植民地ではない)

列強に対して独立を保つ事は現実不可能と思える状況なんだが

いったい李氏朝鮮はどこに支配されたかったんだ。
http://2chnull.info/r/history2/1150845121/1-1001





李朝末期には森林伐採権・関税徴収権・漁業権・鉱山採掘権・鉄道敷設権などあらゆる利権を欧米に奪われてしまい, 財政が破綻し破産状態でした:


1896年
ロシアへ咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権
鐘城の石炭採掘権 豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権
アメリカには京仁鉄道敷設権
雲山金鉱(平北)採掘権
イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権
フランスには京義鉄道敷設権

1897年
ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権
軍隊の教育訓練権
ドイツに江原・金城、金鉱採掘権

1898年
アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権
日本へ京釜鉄道敷設権
イギリスに平南・殷山金鉱採掘権

1899年
ロシアへ東海岸における捕鯨権

1900年
ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権
日本に京畿道沿海の漁業権

1901年
フランスに平北・昌城金鉱採掘権
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:3EzcXDEIEAEJ:mobile2ch.net/news2/1114521477/%3Fguid%3DON+%E6%98%A5%E7%AA%AE&cd=27&hl=ja&ct=clnk&gl=jp



518. 中川隆 2014年11月07日 14:52:10 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
つまり、朝鮮から残った最後の一滴を絞り取ろうとした日本がババを引いたのさ。

欧米は朝鮮人に気付かれない様にスマートに収奪したから恨まれなかった。

日本人は既に干からびている朝鮮人から最後の一滴まで搾り取ったから朝鮮人に憎まれたのさ。


519. 2014年11月08日 17:58:42 : cclt7zPZ1w
両班が裕福になるために権利をあたえたんだろ。
李朝末期になって外資の投資を呼び込んで自分たちが裕福になろうとしたんだろ。
朝鮮人が非効率的な労働で疲弊して衰退が明らかなのは、両班もわかっていたんだろ。それでも奴隷制度を止める気が無く外資に頼ったといったところだろう。

はじめは外資も意気揚々と開発に取り組んだが、すぐに撤退していったな。
はっきりいって、搾取どころか採算があわないから見限られたということだな。


520. 2014年11月08日 20:46:01 : b5JdkWvGxs
搾取されなければ疲弊する訳ないだろ

朝鮮で餓死者が出る様になったのは日本の植民地になってからだ

それはできた農産物の半分を日本に輸出させられたんだから食べる物が無くなるわな


521. 2014年11月08日 23:38:06 : cclt7zPZ1w
そのころの朝鮮がどんなところだかわかっていないようだな。
両班に搾取されていただろ。
今の北朝鮮と同じ様な感じだぞ。
餓死者の統計なんてとってるわけないだろ。
日本統治になってから奴隷制は廃止され農作物生産は倍増しているだろ。
日本から金がくるから仕事が劇的に増えて公共事業もやるようになった。
日本から朝鮮に行く人はいないから朝鮮人は仕事を貰え、親日朝鮮人だらけ
だったじゃないか。
米帝や中国共産党に洗脳されて今の横暴な韓国になってしまった。
まったく認識が違うぞ。

522. 中川隆 2014年11月09日 00:46:03 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
>両班に搾取されていただろ。

おまいは経済が理解できてないだけ

両班に搾取された金は朝鮮国内でしか使われない。

両班に朝鮮農民が作った農作物を半分取られても、それは朝鮮国内で朝鮮人が食う。

しかし、日本に搾取された金は日本に行ってしまって朝鮮には帰ってこない。

日本に取られた農作物は日本人が食べてしまって、朝鮮人の食える食料は以前の半分になる。


523. 2014年11月09日 16:33:50 : cclt7zPZ1w
君のいってることはめちゃくちゃだな。
経済の前にまず奴隷制を理解しろよ。
金は日本からでているのであって日本に流れているのではない。
両班が略奪したら略奪された常民や賤民は食えなくなるだろ。
当然金も貰えない。

>それで日銀が代わりに金融緩和を行った。
>FRBが金融緩和を続行したのと同じです。

経済もまったく理解していないのはおまえだろ。
こっちは突っ込むのも説明も面倒だからほっておいたが
経済について勉強しないとまずいレベルぞ。


524. 中川隆 2014年11月09日 17:43:45 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
>金は日本からでているのであって日本に流れているのではない。


日本が出したのは朝鮮人から搾取するのに必要な投資資金だけだろ。

朝鮮農民の土地を奪って、小作人として使ってできた米の半分を日本に持ってきてるんだから、投資額を引いた米の代金だけ日本が奪った事になる。


525. 中川隆 2014年11月09日 17:44:44 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

フィリピン人の元慰安婦 「私の体験 強制の証明」


 当時の状況は強制そのものだった−。シンポジウム会場にはフィリピン人元慰安婦の姿もあった。フェリシダッド・レイエスさん、86歳。「残り少ない証言者になってしまった」と声を振り絞った。

 「ある日、学校の教室に日本兵が2人やって来て、私を連行しました。駐屯地の一室に閉じ込められ、毎日多くの日本兵からレイプされ続けました」

 1943年9月、マスバテ島のミラグロス町。日本軍は小学校の敷地に建屋を建て、駐屯していた。役場には「日本軍歓迎」の垂れ幕が掛かっていたという。

 「先生はフィリピン人でしたが、日本軍を恐れていたので私を行かせるしかなかったのです。当時14歳。自分で売春宿のようなところへ行くなどと考えられるはずがない。無理やり手をつかまれ、駐屯地に連れていかれ、被害に遭ったのです」

 5日目に高熱を出し、解放されたという。日本兵は家まで送ろうとしたが、断ってふらふらになりながら一人で帰り着いた。

 「私の体験はまさに強制的に連行され、被害に遭ったことの証明です。安倍首相をはじめ日本政府は強制連行はなかったと言っているが、まったくの誤りです」

 93年、日本政府に損害賠償を求めた訴訟(2003年に最高裁で棄却)の原告46人のうちの1人。訴状によると、戦争が終わるまで学校には行けず、自殺も考えたという。

【神奈川新聞】
https://www.kanaloco.jp/article/80127/cms_id/110703


526. 2014年11月09日 19:18:17 : cclt7zPZ1w
日本は、破産状態にあった朝鮮を建て直し、救った
日韓併合前、李朝末期の朝鮮の人々は、極貧の中にあった

 かつて「日本は朝鮮の人々に対して、とてつもなく悪いことを繰り返してきた」ということが、よく言われてきました。
 これはもともと韓国の人々が叫んだものです。いわゆる「韓流歴史観」です。それに同調した日本国内のいわゆる「反日的日本人」もそう叫んできました。
 しかし、朝鮮半島の日本統治時代は、彼らが言っているほど悪いものだったのでしょうか。いいえ、もしあの日本統治の三六年間がなかったならば、今日の朝鮮半島、とりわけ韓国の繁栄は決してなかったでしょう。


破産状態にあった朝鮮

 一九世紀から二〇世紀前半にかけての世界は、弱肉強食の植民地化の時代でした。西欧の列強諸国はアジア各国を次々に植民地化し、アジアの国々から搾取して、自国を富むものとしていました。
 大東亜戦争(太平洋戦争)前には、アジアのほとんどの国は、西欧諸国の植民地となっていたほどです。そうした中、ただひとり、西欧諸国の植民地とはならずに、アジアで自主独立を保ち、近代的な国家を築き上げた国がありました。
 日本です。日本は必死な思いで明治維新を成し遂げ、西欧諸国と同じような力をつけようと努力し、それに成功していました。これによって日本は西欧の支配をまぬがれ、対等の立場で生き抜こうとしていたのです。
 そうした中、お隣の朝鮮は、国造りの面で非常にたち遅れていました。当時の朝鮮は、いわゆる李朝(りちょう)末期の時代で、混乱し、国としての体さえなしていない状態であり、崩壊寸前でした。防衛力もなく、財政は破綻し、国家的破産状態にあったのです。
 朝鮮の民衆はつねに、飢餓と、疫病と、重い税金にあえぎ、極貧の中を細々と命をつないでいました。支配者層は支配者層で、その貧しい民衆から搾り取ることしか考えてない独善的な人々でした。
 彼ら王族と「両班」(ヤンバン・官吏貴族)は、労働を蔑視する人々で、みずからは決して労働をしませんでした。そして、人口のほとんどを占める一般民衆を、生かさず殺さずの状態におき、そこから搾取していました。
 当時朝鮮にいたイギリス人旅行家、イザベラ・バードは書いています。
「朝鮮には二つの階級しか存在しない。盗む側(王族・両班)と、盗まれる側(平民・奴隷)だ」


「朝鮮には二つの階級しか存在しない。盗む側(王族・両班)
と、盗まれる側(平民・奴隷)だ」(イザベラ・バード)

 また朝鮮では、学問は排他的な朱子学があるだけで、科学も、医学もありませんでした。学校も病院も治水施設等もほとんどなく、中国の文豪・魯迅からは「世界一貧しい国」とまで呼ばれた国が朝鮮でした。
 外国人は、ソウルを「世界有数の不潔な街」と評し、道で糞尿を踏まずに歩くのは不可能だったと述べています。街には鼻をつく悪臭が満ちていました。また当時の朝鮮にいた宣教師は、あまりに水がきたないので、風呂に入れば、入る前よりも汚れてしまうほどだったといいます。
 商売はいまだに物物交換が主流で、ろくな産業も道路もありませんでした。また人々は、冬の寒さをしのぐ薪とするために山の木をみな切ってしまうので、山がいたるところハゲ山と化していました。そのために泥水が流れだし、農業も壊滅状態にありました。
 しかし一番の問題は、そんな極貧の状態で、内乱が頻発していることでした。政治は混乱し、いまや李朝末期の朝鮮は崩壊寸前だったのです。国際連盟の事務局次長であった新渡戸稲造は、「枯死国朝鮮」と呼び、国家的な死に瀕したのが朝鮮だと述べました。
 また当時、朝鮮人の玄永燮は、
 「日韓併合前の朝鮮は地獄であったといってもよい」
 と述べています。


助け舟を出した日本

 そんな状態でしたから、朝鮮が西欧の植民地となるのは、もはや時間の問題だったのです。あるいは中国(清)の一部となるか、ロシアの一部となるか、といった状態でした。こうした朝鮮の実情を、「他国のこと」として放置しておくことは簡単なことだったでしょう。
 しかし日本には、これを放置しておくことのできない事情がありました。地図をみればわかりますが、ユーラシア大陸から日本列島に向かって、グィと突き出た形になっているのが、朝鮮半島です。
 この朝鮮半島に、もしロシア、中国(清)、または西欧の勢力がいすわってしまえば、日本はその侵略から自国を守る方法がなくなってしまいます。そうなれば、朝鮮は、いわば日本の喉元(のどもと)に突き出されたナイフのような役目を果たしてしまうでしょう。
 ですから日本にとっても、朝鮮半島の実情は決して無視できないものだったのです。朝鮮が自立的な独立国家として力をつけてくれない限り、日本も危うい状態が続くでしょう。
 また朝鮮は、かつて古代の日本に、大陸の先進文明を伝えてくれた国です。いわばお世話になった国です。その国がいまや崩壊しようとしており、外国の餌食になっていく姿を、日本がじっと見ているわけにはいきません。
 これは、たとえば長屋に住んでいる人の場合にも似ています。お隣でボヤがあったり、ドロボウが入り込めば、決して無関心ではいられないでしょう。また、お隣の家族が病気であったり、極貧の状態におかれていれば、やはり何かしらしてあげようと思うのが人情というものです。
 それで明治の日本が願ったことは、朝鮮半島に、外国に侵されることのない、日本と同じ独立の気概と力を持った近代的国家が誕生することでした。そのために日本は、官民をあげて朝鮮の近代化運動を支援していきました。
 日本は、朝鮮に助け舟を出したのです。


李朝末期のソウル南大門

 それにはまず国交がなければなりません。日本は、朝鮮との間に対等な国交を求めました。友情を持っておつき合い出来れば、朝鮮の近代化を支援していくことも可能になるでしょう。それで日本は、外交官を朝鮮に派遣しました。
 ところが当時の李王朝(李氏朝鮮)の政府は、この申し出を冷たくあしらったのです。というのは、中国の属国であった朝鮮には、旧態依然とした唯我独尊的な思想が幅をきかせていたからです。
 朝鮮には「中華思想」というものが強く支配していました。これは、中国は世界文明の中心であり、そこから遠ざかる国ほど「野蛮で」「劣った国」であるという思想です。
 この思想を持った朝鮮からみると、中国から遠い日本は「野蛮な国」であり、「劣った国」です。彼らは、日本が西欧列強の支配から独立を守るために明治維新を成し遂げた意味がわかりません。
 朝鮮の人々は、洋服を着て西洋のマネをし始めた日本人を、「禽獣」にも等しい者とみなし、軽蔑して、日本の使節を追い返すことまでしました。


東亜のトラブルメーカーだった朝鮮

 日本と朝鮮の関係について書いたある中学生用の歴史教科書には、
「日本人の心の中には、朝鮮人を差別する間違った意識がありました」
 と書かれています。しかし、これは歴史の事実の半分しか述べていません。実際は、このように朝鮮人が、先に日本人を蔑視したのです。
 とはいえ、朝鮮人による日本人への蔑視は、日本人にとって大きなことではありませんでした。それは朝鮮人の自由として、ほっておくとしても、朝鮮がこのような旧態依然とした体制でいる限り、いずれ朝鮮が崩壊し、そこに列強の勢力がいすわってしまうことは目に見えています。
 そこで、日本は朝鮮を、強引なかたちでですが開国させます。それまで朝鮮は、かたくなに鎖国政策を続け、自分の中にこもっていたのですが、通商を始めさせ、外国に対して門戸を開かせたのです。日本もかつて黒船のペリー提督によって無理矢理、開国させられました。しかしそれが結局は良かったということを、日本人は知っていたのです。
 朝鮮は、日本に対して開国すると、続けて西欧諸国に対しても開国しました。しかし、朝鮮の内部では、近代化を推し進めようとする人々と、それまでの旧態依然とした伝統にこもろうとする人々が対立し、内乱やクーデターが起きていました。
 こうした不安定な中、王族は「勢道(せいどう)政治」――すなわち王の一族が国を私物化し、国政を欲しいままにする政治を続けていました。
 日本の大使館も二度襲われ、多くの日本人が虐殺される事件も起きました。しかし大使館を襲うことが、国際社会の中でどんな意味を持つかということも、朝鮮の支配者にはわかりません。
 また朝鮮の支配者は、あるときは近代化のために日本と手を組んだかと思うと、今度は自らの保身のために清国(中国)に媚びを売り、次にはロシアに媚びを売るというように、一貫性のない、行き当たりばったりの政治を行ないました。
 その無節操な行動に、日本だけでなく周辺の国々も振り回されていきます。当時の朝鮮は、世界から「東亜(東アジア)のトラブルメーカー」と思われていました。そして日本は、この朝鮮のために、日清・日露の二つの戦争を戦わざるを得なくなったのです。


朝鮮を独立させるために動いた日本

 日清戦争は、清国が条約を破って朝鮮に軍隊を出したことから始まりました(一八九四年)。
 清国は、それまでにも朝鮮を属国化し、年貢を取り立てていましたが、朝鮮に対する支配を強化しようと働きかけてきました。朝鮮を隷属させようと働きかけてきたのです。
 中国には、もともと「天下、王土に非らざるものなし」といって、見えるところすべては中国の王の領土、中国の版図だという領土意識があります。要するに、手の届く世界はぜんぶ俺のもの、という意識です。
 今日も中国は、台湾は俺のもの、チベットは俺のものというように、見えるところは全部自分の領土という姿勢を取り続けています。本当はそんなことを言える資格は全くないのですが、当時、清国は、朝鮮に対してもそのような強引な態度に出てきました。
 清国によるこの朝鮮の奴隷化を放置しておくならば、朝鮮はますます自立できず、近代化に取り残されるでしょう。それで日本は、清国のくびきを朝鮮から排除しようとします。日清戦争がこうして勃発しました。
 当時の日本人には、日清戦争は決して侵略戦争ではなく、義戦であるという明確な認識がありました。明治天皇の詔勅に、
 「朝鮮は、(日本)帝国が、そのはじめより、導き誘って諸国の仲間となした一独立国である。しかし清国は、ことあるごとに、自ら朝鮮を属国であると主張し、陰に陽に朝鮮に内政干渉し、そこに内乱が起こるや、属国の危機を救うという口実で、朝鮮に対し出兵した」
 それで、やむを得ず、朝鮮を清国から解き放つために戦いを決意した、としています。当時、クリスチャンの内村鑑三も、これは朝鮮独立のための義戦だと書きました。
 内村鑑三はまた、この義戦は「文化を東洋に施きたく、その平和を計るにあり」とし、「日本は東洋における進歩主義の戦士、ゆえに進歩の大敵である支那(清国)諸国を除けば、日本の勝利を希望しないものは、世界万国にあるわけがない」と書いています。
 日本はこの日清戦争に勝利し、朝鮮を清国から独立させます。一〇〇〇年にわたって中国の属国であった朝鮮は、このとき初めて独立国家となりました。その宣言(下関条約)に、
「朝鮮は自主独立の国であって…」
 と明記されています。永年の中国のくびきから朝鮮を解き放ち、独立国としたのは日本でした。


日清戦争時の広島予備病院。日本は
朝鮮の独立のために清国と戦った。

 しかし、日清戦争が終わった後、今度はロシアが朝鮮半島にねらいを定めてきました。ロシアは当時、膨張主義と侵略を繰り返し、領土を広げていました。朝鮮がロシアの手に落ちれば、朝鮮の未来がないばかりか、日本も危ない状況となります。
 そこで、ここに日本とロシアが戦う日露戦争が勃発しました(一九〇四年)。日露戦争も、やはり朝鮮半島をめぐる戦いでした。ロシアは、強大な白人の帝国でした。もし、この戦いに日本が破れれば、朝鮮も日本もロシアに占領され、ロシアの一部となったでしょう。
 つまり、これは朝鮮と日本の存亡をかけた戦いだったのです。しかし、日本はこの戦いにも完全な勝利をおさめます。そのとき、世界中の人々が驚愕したことは言うまでもありません。東洋の黄色人種の島国が、白人の強大な帝国ロシアを打ち倒したからです。


朝鮮を救う残された道

 日本はこうして、清国とロシアのくびきを、朝鮮半島から何とか排除しました。けれども、それで朝鮮人自身に、自主独立の国造りの意識や、気運が生まれたわけではありません。
 このあいだも、ずっと日本は、朝鮮が近代化して力をつけていけるように、あらゆる側面から支援していました。かつて日本に明治維新の志士たちがいたように、朝鮮人の間にも、朝鮮の維新を成し遂げようとする志士たちがいました。日本に留学して学ぶ朝鮮人も多くいました。
 日本はそうした朝鮮人を援助していきます。日本が願ったのは、「朝鮮人による朝鮮人のための朝鮮維新」でした。しかし彼らの働きは、朝鮮国内の根強い「華夷秩序」(かいちつじょ 中華文化圏以外を野蛮な国とする)思想や、「衛正斥邪」(えいせいせきじゃ 朱子学の伝統以外を排除する)思想に阻まれてしまいます。
 そして朝鮮人による朝鮮維新は、残念ながら、失敗に終わります。クーデター、裏切り、あざむきが渦巻きました。朝鮮を自立させるために尽力してきた伊藤博文も、満州のハルピンで朝鮮人に暗殺されてしまいます。


朝鮮を自立させようと尽力した伊藤博文

 朝鮮はもはや、ひとり立ちできない状態でした。こうして朝鮮人自身による近代化の道が挫折したとき、日本はみずから朝鮮統治に乗り出しました。日本は、日本と朝鮮を一つの国家、合邦国家としたのです。いわゆる「日韓併合」(にっかんへいごう)です(一九一〇年)。
 これには、朝鮮側でも「一進会」のように日韓併合を推し進めた朝鮮人グループがありました。彼らは、日本と一つになることが、朝鮮を救う唯一の残された道だと考えていました。彼らの協力のもと、日韓併合が実現したのです。
 日本が朝鮮を併合したのは、朝鮮という領土を欲しくてのことではありません。朝鮮という貧しい国と一つになることは、日本にとって大きな荷物となることは目に見えていました。
 しかし、朝鮮を自立させることは、日本の望みであっただけでなく朝鮮国内の開化派の切なる願いであり、日本はそれを助けたかったのです。
 併合国家、合邦国家というのは、近代ヨーロッパでも、たとえばノルウエーとスウェーデン、ノルウエーとデンマークなどが、かっては同君合邦国家を作ったことが知られています。オーストリア・ハンガリー帝国、チェコスロバキアなどもそうです。
 それは世界でもよくある方法であり、国を建て直すための効果的な方策だったのです。日韓併合は、正当な法的手続きによったものでした。当時の列強諸国も承認し、また賛成しています。中国も反対せず、ロシアも承認しました。これは、朝鮮を救い、自立させる最後の手段と考えられました。
 これは、たとえば家長に仕事がなく、病気がちで収入のない崩壊寸前の家庭に、国が生活保護の制度を適用することに似ていないでもありません。その家庭が立ち直るまで、援助をしながら自立を助けていくのです。
 同様に、日本は直接、朝鮮の再建と自立に取り組んでいったのです。日韓併合により、以来、三六年間、朝鮮は日本の領土の一部となりました。


生まれ変わった朝鮮

 日韓併合当時、日本人は決して朝鮮を「植民地」とは考えていませんでした。むしろ日本本土の延長と考えていました。西欧の植民地ではどこも、搾取が行なわれていましたが、日本は朝鮮に対し巨額の投資を行なって、国造りをしていったのです。それは朝鮮を、日本本国の延長と考えたからです。
 朝鮮統治は、最初から最後まで、日本にとってはいつも「持ち出し」でした。日本の税金によって朝鮮の建て直しを行なったのです。もともと朝鮮には、搾取できるような富も、資源もありませんでした。搾取というなら、日本政府は日本人から搾取して莫大な富を朝鮮半島につぎ込んでいったのです。
 たとえば黄文雄著『韓国は日本人がつくった』(徳間書店)によると、朝鮮での歳出はいつも一五〜二〇%の赤字で、その赤字分はいつも日本本国から補填されていました。また朝鮮の京城帝国大学の図書館予算は、東京帝国大学の一〇倍にものぼりました。
 地租(土地の税金)にしても、日本国内が二五%だったのに対し、朝鮮ではたったの三・八%。それだけ朝鮮人の負担を軽くしたのです。
 米価の設定も、生産者の手取り価格は一石あたり五〇円であるのに対し、消費者価格は四三円(一九四一年)。逆ざやです。つまり、生産者からは高く買い取り、消費者には、買った値段より安く売っていたのです。
 いかに朝鮮の人々が手厚く保護されていたか、この一事をみてもよくわかります。


日韓併合時代、朝鮮における政治の中心だった朝鮮総督府

 また、日本による統治以前、朝鮮は衛生事情がきわめて悪く、西洋医学もなかったため、毎年、疫病によって多くの人々が死にました。しかし日本は、朝鮮国内の衛生事情を改善し、医学知識を教え、病院を建てました。その結果、疫病も猛威をふるうことはなくなりました。
 日本統治以前の朝鮮は、どこへ行ってもハゲ山で、土地はやせていて、毎年、多くの餓死者を出しました。当時の朝鮮を旅したジェロトケビチの『朝鮮旅行記』や、シャルル・ダレ神父の『朝鮮事情』にも、その惨憺たる状況が描かれています。
 しかし、そこにダムを造り、治山、治水事業を行ない、やせた土地を開墾し、荒れ地を農地に変えていったのは日本人たちでした。日本人はまた朝鮮人に愛林思想を教え、山に木を植え、また効率のよい農作技術も教えていきました。
 こうして「日帝三六年」の間に、農業生産は飛躍的に拡大したのです。朝鮮の人口も、二・四倍に増加しました。これには衛生事情の改善や、医療、また食糧事情の改善などが影響しています。
 日本統治以前、朝鮮にはろくな道路も、港湾も、鉄道も、空港もなく、整った貨幣制度もなく、近代的な法律体系もなく、産業の基盤となるインフラはほとんどありませんでした。しかし日本は、それらのものを、わずか三六年で疾風怒濤のように整備していきました。
 李朝末期の朝鮮はまた、ソウルを除くほとんどの地域で、強盗のはびこる社会でした。内乱も頻発し、道にころがる死体を見るのは日常的なことでした。けれども日本統治下で治安は安定し、強盗の多くは姿を消し、また李朝末期に比べれば内乱もはるかに少なくなったのです。朝鮮人の玄永燮は、
 「日韓併合によって旧来の習はすべて改められ、生命に満ちあふれた新朝鮮に生まれ変わった」
 と述べました。


日本は奴隷制を廃止した

 日本が朝鮮を併合したとき、朝鮮の王族は尊重され、日本の皇族からの厚い待遇を受けました。これは、かつてのフランス革命のときにルイ一六世がギロチンにかかったことや、ロシア革命の際に王室が滅ぼされたことと、きわめて対照的です。
 またイギリスがビルマを植民地としたとき、ビルマの王室は悲劇の運命を歩みました。しかし日本統治下の朝鮮王室は、存続しただけでなく、きわめて厚遇されていたのです。
 一方、日本は、朝鮮にそれまで存在していた奴隷制を断固、廃絶しました。朝鮮には、あのインドのカースト制にも匹敵するひどい階級差別が存在していたのです。これは日本の江戸時代の士農工商とも違い、東アジア社会ではほかに見られない最も頑強な階級差別でした。
 とくに最下級の奴婢は、売買される奴隷であり、財物とみなされ、家畜と同様の扱いを受けていました。主人が奴隷を殺しても、殺人罪にはなりませんでした。奴隷は、朝鮮人口の約四三%もいました。


朝鮮の奴隷(奴碑)。日本はこれを廃止し、万民平等とした。

 日本はその奴隷制度を廃止し、階級差別をなくし、そこに万民平等を敷いたのです。
 朝鮮の国土開発計画は、こうした元・奴隷を「労働者」として雇うことによって行なわれました。その際、日本は彼らに「日当」を支払いました。当たり前のことと思うかもしれませんが、かつての李朝朝鮮時代には奴隷に給料が支払われることはなかったのです。
 日当が支払われたことは、朝鮮半島の歴史始まって以来、破天荒のことでした。日本統治時代は彼らにとって、文字通り奴隷からの解放であったのです。日本の強権統治を批判する向きもありますが、このような未開社会を改革するには、強権統治以外にはなかったでしょう。
 李朝時代の朝鮮の階級別人口は、奴婢(奴隷)が約四三%、良民(常民)が約五〇%、残りの約七%は「両班」(ヤンパン)と呼ばれる人々でした。良民は普通の人々、「両班」は特権階級の官吏、公務員です。日本はこうした階級制度の廃止を断行しました。
 階級制度の廃止で、奴婢と良民は喜びました。しかし両班にとっては、それは特権の喪失を意味しましたから、彼らは日本に対し恨みを持ち続けました。日本が大東亜戦争に負けて朝鮮半島から引き上げていったとき、朝鮮の指導者となったのは、この両班の流れをくんだ人々でした。
 彼らは、朝鮮の教育界を反日一色にしていきました。


両班が反日運動の流れをつくった

 日本に恨みを抱いたこの「両班」と呼ばれた人々について、もう少しみてみましょう。
 李朝時代の朝鮮に君臨した支配層は、王族とこの両班でした。一方、江戸時代まで日本を支配していたのは、武士たちです。
 支配層の考え方や思想は、国全体の国民性に深く影響します。
 日本の武士たちは、忠実、誠実、勤勉、正直、勇気、先取性、自主独立等を人間の徳と考える人々でした。また「滅私奉公」という言葉があるように、私利私欲は悪であり、公に奉仕することこそ人の道という考えを持っていました。
 一方、朝鮮の両班の人々は、労働を蔑視し、「箸と本以外に重いものを持たない」といわれるほどの労働蔑視論者でした。彼らは、額に汗して労する農民たちをさげすみながら、その農民たちから搾取して自分たちの生活を支えていました。
 両班は、儒教の一つである朱子学を奉ずる人々でした。朱子学では、人間を「君子」と「小人」に分けます。小人とは一般の働く人々で、君子は、働かずに身を動かさないことが原則なのです。聖人君子は働いてはいけないとされ、彼らは極端に労働をさげすみました。
 スポーツも、彼らは忌み嫌いました。すなわち、本を読み、労働せずに暮らすのが彼らにとって正しい生き方なのです。怠惰と、異常に高い気位が彼らの特徴でした。その最高の美徳は、働かずに得る不労所得でした。両班の実態について、グレゴリー・ヘンダーソンは『朝鮮の政治社会』のなかで、
 「国家と民衆を食い物にして私腹を肥やすことしか考えていなかった」
 と記しています。彼らは「公」に奉仕するのではなく、私利私欲に生きる人々だったのです。そして、国内では極度に頭を下げる事を嫌い、少しでもプライドが傷つけられるような事になれば、烈火のごとく怒りだす人々でした。
 しかしその一方、両班は、中国に対しては「事大主義」(じだいしゅぎ)を通しました。事大主義とは、大きな勢力に逆らわず、ペコペコして、追従して生きる態度をいいます。
 一〇〇〇年にわたって中国の「属国」であった朝鮮では、宗主国・中国の意向にいつもペコペコして、年貢を納め、中国の要求には何でもお従いしますという態度がしみついていました。両班はその代表的な人々だったのです。
 中国に対するその卑屈な態度は、そのうっぷんを晴らすかたちで、国内では逆に、彼らの異常に高い気位となって現われていました。


自己批判をした韓国人

 この事大主義は、ほかにも、その後の韓民族の民族性の多くの源泉となりました。朝鮮の作家であり、思想家でもある李光洙(一八九二年〜?)は、李朝の成立によってゆがめられた韓民族の民族性を、次のような言葉で表しています。
「虚言、詐欺、相互不信、美辞麗句、空理空論、阿諛迎合、面従復背、大勢従応、無知、悪口、卑屈、臆病、無決断、反社会的利己心…」
 属国根性はこれらを韓民族に植えつけた、というのです。
 大東亜戦争後にも、韓国の優れたリーダーであった朴正熙大統領(一九七九年に暗殺された)は、自著の中で韓国人の民族性の欠点をきっぱり指摘し、自己批判をしました。彼は、韓国民が克服すべきものとして次の事柄をあげています。
1 事大主義
2 怠惰と不労所得の観念
3 開拓精神の欠如
4 企業心の不足
5 悪性利己主張
6 健全な批判精神の欠如
7 党派意識
8 特権・エリート集団意識
 いずれも、一見してかつての両班たちの伝統から来たものであることが、わかります。どんな民族にも、もちろん欠点はあります。日本人にもあります。しかし、韓民族が今日も持つこれらの欠点は、両班の精神性を受け継いだものであることを知る必要があるでしょう。
 これらは、日本統治時代に形成されたものではありません。それ以前からあったものです。そして、日本統治時代が短かったために両班の特質が消し去られず、それが今も韓民族の中に生き続けていることが問題なのです。
 もし日本に罪があったというなら、日本の最大の罪は、朝鮮での統治が短かすぎて両班の精神性を消し去れなかったことでしょう。


強制連行、従軍慰安婦は本当か
 
 近年、かつての日本軍による朝鮮人の「強制連行」が騒がれたことがあります。朝鮮人を無理矢理連れてきて、日本で働かせたというのです。これを言い出したのは、在日朝鮮人でした。
 しかし、事実は全く逆です。日本統治時代に、多くの朝鮮人が貧しい朝鮮を離れ、われ先にと、裕福で高い給料をもらえる日本に働きにやって来た、というのが事実です。
 彼らの流入は、日本の内地の失業者を増やしただけでなく、犯罪者となって悪事をする者も多くいました。それで政府は、これ以上朝鮮人が日本に流入しては困ると、制限をかけたほどです。
 強制連行どころか、阻止したいほど勝手に入ってきたのです。そして日本の敗戦後は、彼ら朝鮮人は、望むなら「タダで」朝鮮に帰ることもできました。費用は国が払ってくれたのです。しかし多くの朝鮮人が日本に残りました。
 そして戦後五〇年もたってから、在日朝鮮人は、自分たちは「強制連行」されて連れてこられた、と騒ぎ立てたのです。
 しかし、もし強制連行なら、なぜこの五〇年間、韓国から帰還要求がなかったのかの質問に、彼らは答えようとしません。また、もし強制連行ならなぜこの五〇年間、韓国に帰ろうとしなかったのか、の質問にも彼らは答えません。
 さらに、彼らは日本での劣悪な労働環境などを口にしますが、当時は日本人もみなそうだったのです。たとえ劣悪な労働環境であっても、朝鮮で働くよりは給料が高かったので、彼らは望んで日本に働きに来ていました。
 にもかかわらず、彼らは自分が被害者であると言いたがるのです。このような被害妄想は、日本人には到底理解できません。しかし、ここに両班以来の精神性が今も生きているのをみるのです。
 いわゆる「従軍慰安婦」にしてもそうです。韓国は一九八〇年代意向、日本に対してしきりに「従軍慰安婦」問題を追求してきています。しかし、韓国の歴史をひもといてみるならば、「慰安婦」というのはもともと韓国の文化であったことがわかります。
 朝鮮半島は昔から、アジア最大の「貢女」の産地とみなされていました。そこからいつも中国に対して、「慰安婦」が届けられていました。そうした「慰安婦」は、日本の吉原などの大衆文化とは違い、国家管理売春として行なわれていたのです。
 最近まで韓国は管理売春国家として有名でした。「妓生」などは今でも存在します。韓国では昔から「慰安婦」の輸出や売却、韓国人経営の「慰安所」の輸出などがなされてきたのです。
 韓国人は、かつて日本が多くの朝鮮女性を「従軍慰安婦」として強制連行したと非難しますが、そもそもその事実を示す客観的証拠など存在していません。また、たとえあったとしても、日本を非難するよりもまず、自国がなしてきた数多くの慰安婦の歴史を反省するほうが先決でしょう。
 台湾の歴史家・黄文雄氏は、韓国人の欠点として、「悪いことを反省するのではなく、他人のせいにする」ことをあげています。残念ながら、ここにも両班以来の精神性が残っているのです。


韓国は他国を侵略したことがない?

 今も韓国では、両班の流れを汲んだ反日的な人々がつくった教科書を用いて、歴史教育が行なわれています。そこには一体どんなことが書かれているのでしょうか。そこには、
 「韓国は、他国から侵略されたことはあるが、他国を侵略したことは一度もない平和愛好の民族である」
 と書かれています。そして多くの韓国人は、教えられたとおり、これを事実として疑いません。けれども、実際には韓国は何度も他国を侵略しています。
 元寇のとき、朝鮮半島の高麗軍約一万人は、モンゴル軍に合流して日本を二度侵略しました。その際、彼らは壱岐(いき)、対馬(つしま)の住民を虐殺しています。また二〇〇人の童男童女を強制連行して、高麗の王に献上しました。


壱岐にある元寇の船の碇(いかり)石。左京鼻沖で
発見された。高麗(朝鮮)軍は、二度にわたって
日本を侵略し、壱岐・対馬の住民を虐殺した。

 ソウルの「戦争記念館」には、韓国も二度にわたり日本を侵略したことがある、と明記されています。また、朝鮮が清国の軍隊と合同で五回にわたって明を討ちに出たことや、羅禅遠征などは、「征伐」だから、あるいは強制された不本意な参戦だから、「侵略」ではないというのでしょうか。
 最近では、韓国軍は、ベトナム戦争のときアメリカ軍に合流し、「ベトコン」(南ベトナム解放民族戦線)叩きに出かけています。あれが侵略でなくていったい何なのでしょうか。
 このように、韓国が一度も他国を侵略したことはないという話は、韓国人に自信を与えるものでしょうが、作り話であり、史実とはまったく関係のない虚言です。
 これに限らず、韓国の歴史教科書は、多くのウソと偏向した知識とで書かれています。両班以来の自分本位の伝統は今も生きているのです。韓国の人々は、もっと自国の歴史を直視する眼を持つ必要があるでしょう。「正しい歴史認識」は韓国人にも必要なのです。
 韓国が「侵略された」という話にしても、かつて朝鮮戦争(一九五〇〜五三年)のとき、中国共産軍は、朝鮮半島の北から南までをくまなく蹂躙しました。このときの韓民族の犠牲者は、「日帝三六年」の比ではありません。
 「日帝」時代の反日運動の犠牲者は、多く見積もっても一万人以下です。そして日帝時代に、朝鮮半島の人口は倍増したのです。一方、朝鮮戦争の推定死傷者は五〇〇万人にも達し、半島の人口は激減しました。そのうち、かなり多くの者が中国共産軍による犠牲者です。
 にもかかわらず、韓国人は中国による侵略には一言もふれず、日本による「侵略」は声高に叫びます。いまだに両班時代の「中華主義」が、韓国人の知性をくもらせているとしか言いようがありません。
 韓国人が、自分の民族の優秀性を誇る性向は、決して悪いことではないでしょう。しかし、いつまでも被害者意識から抜け出せず、「悪いのはすべて日本」と責任を他に押しつけ、自己批判できないのであれば、世界は誰も相手にしないでしょう。
 「日韓併合時代の真実は長老に聞け」で述べたように、今日の韓国人の反日主義は、戦後の初代韓国大統領・李承晩の徹底した親日派排除、および虚偽に満ちた反日教育によって生じたものです。それは戦後になって作られたものなのです。
 私は以前から不思議に思ったものです。韓国には「犬も歩けば教会にあたる」といわれるほど教会が多く、クリスチャンが人口の三〇%もいるというのに、なぜ神の祝福が中程度にとどまっているのか。
 韓国人の反日感情は、韓国に対する神の祝福を押し下げているのです。聖書には、憎しみを持っていては祈りは聞かれないと、書かれています。韓国は、本当はもっと神の祝福を受けていいはずなのに、存分に受けないまま終わってしまっているのです。
 もったいない話です。もし韓国人クリスチャンが率先して、自国の歴史を客観的かつ冷静な目で見、反省すべきことは反省し、感謝すべきことは感謝できるようになるなら、韓国は偉大な神の祝福を受け、もっと大きな世界的貢献をなす国となっていくことでしょう。
 日本人クリスチャンは、その韓国の同胞のために祈っていくべきではないでしょうか。 


527. 2014年11月09日 19:31:43 : cclt7zPZ1w

>日本が出したのは朝鮮人から搾取するのに必要な投資資金だけだろ。

あほ。ソ連の侵攻に対抗できないといって李朝が日本に泣きついてきたから、
日本もソ連の脅威という共通認識で朝鮮を併合した。
植民地ではないし、朝鮮が裕福になり軍隊をもって日本軍としてちゃんと
戦えるように経済を強くしなければならず投資したんだろ。

>朝鮮農民の土地を奪って、小作人として使ってできた米の半分を日本に持ってきてるんだから、投資額を引いた米の代金だけ日本が奪った事になる。

何意味わからないこといってんだよ。
投資額のほうが圧倒的に多いんだよ。さらに李朝時代奴隷だった人にもちゃんと
給与を与えて仕事を与えたから経済が回るようになったんだよ。


528. 中川隆 2014年11月09日 22:39:27 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
おまいが知恵遅れだというのは良くわかった。

迷惑だから自分で別スレを建ててそこでやってくれ

アホの相手をしてる暇はないんだ

[12削除理由]:管理人:言葉使い

529. 2014年11月09日 23:55:23 : cclt7zPZ1w
おまえほどじゃないけどな。
そんなこといわずに知恵遅れ同士でがんばろうや。

おまえがでていくのは自由だが、そんなさびしいことは止めてくれよ。

アホの相手は俺がとことん付き合わなきゃならんのだ。


530. 中川隆 2014年11月10日 00:35:20 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

どうせ俺が何を書いてもおまいの IQ では理解できないんだ。

知恵遅れは知恵遅れ同士、他の所で愉しくやってくれ。


531. 2014年11月10日 00:51:16 : cclt7zPZ1w
理解するものはするし、しないものはしない。
おまえもあまり理解できていないしな。知恵遅れだな。
ただそれだけのはなし。

なんだその捨て台詞は
別の場所へいっちゃうのか。
さびしい膿。たまには戻ってこいよー


532. 中川隆 2014年11月10日 08:41:15 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
俺が3年も前に建てた (それも本スレではなく単なるフォローアップ投稿) にここまでしつこく嫌がらせストーカーをやるというのはやはり工作員か。

533. 2014年11月10日 21:53:56 : K0ALzO10xk
なんだもう戻ってきたのか。
おまい、工作員に狙われるほど大物なのか?
だれだおまえ

534. 中川隆 2014年11月12日 22:45:46 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

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論評「朝日検証記事」の検証
(経済ジャーナリスト・今田真人、2014年10月4日初稿、同13日確定)

 従軍慰安婦問題での吉田証言を「虚偽」と断定した朝日新聞2014年8月5日付。

その根拠を紙面の該当個所を紹介しながら、検討していきたい。

 @ 朝日が吉田証言を「虚偽」と断定した記事

 朝日は、8月5日付の特集の中の「『済州島で連行』証言――裏付け得られず虚偽と判断」と題する記事で次のように書く。後で、逐次検討するため、記事のまとまりごとに、アルファベットをつけた。

 A「疑問――日本の植民地だった朝鮮で戦争中、慰安婦にするため女性を暴力を使って無理やり連れ出したと著書や集会で証言した男性がいました。

朝日新聞は80年代から90年代初めに記事で男性を取り上げましたが、証言は虚偽という指摘があります。」


 B「男性は吉田清治氏。

著書などでは日雇い労働者らを統制する組織である山口県労務報国会下関支部で動員部長をしていたと語っていた。

朝日新聞は吉田氏について確認できただけで16回、記事にした。

初掲載は82年9月2日の大阪本社版朝刊社会面。大阪市内の講演内容として『済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』』と報じた。

執筆した大阪社会部の記者(66)は『講演での話の内容は具体的かつ詳細で全く疑わなかった」と話す。90年代初め、他の新聞社も集会などで証言する吉田氏を記事で取り上げていた。」


 C「92年4月30日、産経新聞は朝刊で、秦郁彦氏による済州島での調査結果を元に証言に疑問を投げかける記事を掲載。

週刊誌も『『創作』の疑い』と報じ始めた。東京社会部の記者(53)は産経新聞の記事掲載直後、デスクの指示で吉田氏に会い、裏付けのための関係者の紹介やデータ提供を要請したが拒まれたという。」


 D「97年3月31日の特集記事のための取材の際、吉田氏は東京社会部記者(57)との面会を拒否。

虚構ではないかという報道があることを電話で問うと『体験をそのまま書いた』と答えた。

済州島でも取材し裏付けは得られなかったが、吉田氏の証言が虚偽だという確証がなかったため、『真偽は確認できない』と表記した。その後、朝日新聞は吉田氏を取り上げていない。」


 E「しかし、自民党の安倍晋三総裁が2012年11月の日本記者クラブ主催の党首討論会で

「朝日新聞の誤報による吉田清治という詐欺師のような男がつくった本がまるで事実かのように日本中に伝わって問題が大きくなった」

と発言。一部の新聞や雑誌が朝日新聞批判を繰り返している。」


 F「今年4〜5月、済州島内で70代後半〜90代の計40人に話を聞いたが、強制連行したという吉田氏の記述を裏付ける証言は得られなかった。」


 G「干し魚の製造工場から数十人の女性を連れ去ったとされる北西部の町。魚を扱う工場は村で一つしかなく、経営に携わった地元男性(故人)の息子は

『作っていたのは缶詰のみ。
父から女性従業員が連れ去られたという話は聞いたことがない』

と語った。」


 H「『かやぶき』と記された工場の屋根は、韓国の当時の水産事業を研究する立命館大の河原典史教授(歴史地理学)が入手した当時の様子を記録した映像資料によると、トタンぶきとかわらぶきだった。」


 I「93年6月に、吉田氏の著書をもとに済州島を調べたという韓国挺身隊研究所元研究員の姜貞淑(カンジョンスク)さんは

「数カ所でそれぞれ数人の老人から話を聞いたが、記述にあるような証言は出なかった」

と語った。

 J「吉田氏は著書で、43年5月に西部軍の動員命令で済州島に行き、その命令書の中身を記したものが妻(故人)の日記に残っていると書いていた。

しかし、今回、吉田氏の長男(64)に取材したところ、妻は日記をつけていなかったことがわかった。

吉田氏は00年7月に死去したという。」

 K「吉田氏は93年5月、吉見義明・中央大教授らと面会した際、

『(強制連行した)日時や場所を変えた場合もある」

と説明した上、動員命令書を写した日記の提示も拒んだといい、吉見氏は

『証言として使えないと確認するしかなかった』

と指摘している=注@。」


 L「注@ 吉見義明・川田文子編『従軍慰安婦』をめぐる30のウソと真実」(大月書店、1997年)」

 M「戦争中の朝鮮半島の動員に詳しい外村大・東京大准教授は、吉田氏が所属していたという労務報国会は厚生省と内務省の指示で作られた組織だとし、

『指揮系統からして軍が動員命令を出すことも、職員が直接朝鮮に出向くことも考えづらい』

と話す。」

 N「吉田氏はまた、強制連行したとする43年5月当時、済州島は『陸軍部隊本部』が『軍政を敷いていた』と説明していた。

この点について、永井和・京都大教授(日本近現代史)は旧陸軍の大部隊が集結するのは45年4月以降だと指摘。『記述内容は事実とは考えられない』と話した。」

 O「読者のみなさまへ――吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。

当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。

済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。

研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました。」


 A虚偽と判断するにはあまりに根拠がない

 朝日の「検証記事」の最大の問題点の一つは、朝日の取材記者が2回、吉田氏に証言を裏付ける話を聞こうとして「拒否」された(CとDの個所)理由について、明らかにしていないことだ。

 私もジャーナリストの端くれだからわかるのだが、取材対象者に特定の質問への回答を拒否される場合、なんらかの拒否理由を示されているはず。

とくに、記事の該当部分Cでは、

「(朝日新聞の)東京社会部の記者(53)は産経新聞の記事掲載直後、デスクの指示で吉田氏に会い、裏付けのための関係者の紹介やデータ提供を要請したが拒まれたという」

と書いている。取材対象者と面会しているわけで、それなりの信頼関係が記者と取材対象者の間に存在したことがわかる。そのときに、吉田氏は、裏付けのための関係者の紹介をなぜ拒んだのか、データ提供の要請をなぜ拒んだのかを話したはずである。


 「裏付けのための関係者」とは元軍人や元特高関係者であり、当時、その脅迫やおどしがあったかもしれない。

戦中のデータなどはそもそも、戦後の戦犯追及を逃れるために組織的に焼却されたといわれており、要請自体が無理難題だったかもしれない。

 2回目の吉田氏への取材、つまり、記事の該当部分Dでは、記者は、面会を拒否されている。

これは、朝日のその記者と吉田氏の間に信頼関係が存在しないか、朝日の取材目的に吉田氏が賛同しなかったことを示している。

つまり、いまはやりの言い方では「ノーコメント」と言われたわけだ。

それでもその記者は、電話取材を敢行し、

「虚構ではないかという報道があることを電話で問うと『体験をそのまま書いた』と答えた」

と書く。この取材経過は、いわば「けんか腰」のものであり、ずいぶん失礼なやり方だったと思われる。実際は口語だから、「虚構」などという言葉は使わず、

「あなたの証言はうそだと産経が書いているけど、どうなんですか」

と記者が電話で挑発し、吉田氏はぐっとこらえて冷静に

「体験をそのまま書きました」

と答えたのだろう。ようするに産経新聞の記者のように、頭から吉田氏の話を「つくり話」と断定して、朝日記者は電話したと思われる。

 吉田氏へのこの2回の取材のありようをもっと詳しく聞きたいものだ。少なくとも、吉田氏が裏付け話を拒否したことをもって、吉田証言が「虚偽」というのは、あまりに一方的であり、根拠とはなりえない。

 問題点の2つ目は、記事の該当部分Dの後半である。

97年3月31日の特集記事の作成過程で、「済州島でも取材し裏付けは得られなかった」というが、どんな取材で、誰に話を聞き、何と答えたのか、この記事ではまったく明らかにされていない。

それとも、朝日は「図書館に行って朝日の当時の縮刷版を読め、そこに書いてある」という態度なのか〈注1〉。

その特集記事には、本当に「誰に話を聞き、何と答えたか」が書かれていて、それぞれの話の裏どりもされているのか。結論だけの押し付けであり、「裏付けは得られなかった」というだけである。

朝日の社内検証の内容は「知らなくていい、信用しなさい」ということか。


 朝日の1回目の検証作業では、「真偽は確認できない」と結論したというが、1回目の検証作業も、今回の検証作業も、それ以上でも、以下でもない。

「真偽は確認できない」ことをもって「虚偽」と判断する論法は、裏付けが様々な理由でできない、あらゆる歴史的証言を「虚偽」とすることになる。

その理由には今回のように、相手が裏付け取材を拒否する場合もあるし、取材者側の力量不足・努力不足もある。

戦争中の加害者にしろ、被害者にしろ、当事者の証言には大きな苦痛と勇気がいるものであり、それ自身が重い価値を持つ。朝日には、そうした証言者に対する謙虚さを感じることができない。


 問題点の3つ目は、記事の該当部分F以降の「検証」である。

 該当部分Fの40人の済州島の住民への聞き取りは、その内容が明らかにされていない。

その40人は、本当に当時を知る人間なのか。当時、何をしていた人間なのか。

もし、当時を知る年配の人間がいても、はたして

「地元のあの家の娘は、ここで強制連行された」

と話すだろうか。それは、儒教道徳の強い韓国では、その娘の親類・縁者の名誉を傷つける最悪の行為になるだろう。

ましてや、当時を知らない年配者に何人話を聞いても「知らない」といわれるだけで、現地での「慰安婦狩り」を否定することにはならない。同じことは、すべての慰安婦の強制連行に言えることだ。

 同じ論理で、現在までに名乗り出ている元「慰安婦」らの韓国の出身地で、それぞれ40人程度の年配者の聞き取り調査をしたらどうなるか。

「あすこに住んでいた〇〇さんが元慰安婦だと名乗り出ているが、本当に昔、警官や日本軍人に、暴力的に連行されたのか」と。

そういう取材が、逆に元「慰安婦」を出身地で孤立させ、親類縁者に多大な迷惑がかかることを、朝日は知らないわけがない。


 該当部分Gの「検証」には笑ってしまう。

「干し魚の製造工場」の経営に携わった地元男性(故人)の息子の証言だが、その息子は当時何歳だったのか。父親の当時の経営内容を直接知っていたのか。

息子は、父親とは別人格であり、「父から女性従業員が連れ去られたという話は聞いたことがない」という話は、なんの証明にもならない。

 該当部分Hの「検証」もそうだ。

「かやぶき屋根」は、吉田氏の著書『私の戦争犯罪』のP121に出てくる記述だが、「慰安婦狩り」をした製造工場の屋根が、かやぶきか、トタンか、かわらぶきか、が吉田氏の著書の「核心部分」でないことは、吉田氏の著書を読んだものなら、明らかだ。こういう「検証」を「重箱の隅をつつく」という。

 該当部分Iであるが、93年6月に姜貞淑さんが

「(済州島の)数カ所でそれぞれ数人の老人から話を聞いたが、記述にあるような証言は出なかった」

と語ったというが、こういう超あいまいな伝聞情報をいくら重ねても、体験者の証言を「虚偽」と断定することはできない。


 該当部分Jについて。故人の妻が日記をつけていたかどうかを、「今回、吉田氏の長男(64)に取材」して、「日記をつけていなかったことがわかった」というが、「済州島の慰安婦狩り」は1943年のことで、いまから、71年前のことだ。

吉田氏と別人格の64歳の息子の発言が、どうして、母親が日記をつけていないことの証明になるのか。朝日の認識論は、とてもあやうい。

 該当部分Kについて、93年5月当時、吉見義明・中央大教授らと面会した際のことだが、吉田氏が

「(強制連行した)日時や場所を変えた場合もある」

と説明した上、

「動員命令書を写した日記の提示も拒んだ」

という。

これも「強制連行した日時や場所を変えた」とは書かれていないし、「強制連行した」という記述はカッコ書きだ。

「場合もある」とは、どんな場合だったのか。そこまで吉見氏は突っ込んで聞いたのか。

いずれにしても、引用が朝日新聞にとっては孫引きである。

朝日の直接取材に対して吉田氏が言った話ではない。

吉見氏が「証言として使えないと確認するしかなかった」というのも、学者のそれぞれの研究方法の問題であり、証言として使えると思う学者も当然いるだろう。

日記の提示を拒んだというのは、その理由も、やり取りも明らかでないが、高齢の吉田氏が日記をもうなくしていたことも考えられるし、吉田氏が吉見氏を信頼に足る人物と考えていなかったことを示しているかもしれない。

吉見氏が「証言として使えない」と判断したことと、吉田証言の真偽は、関係ない。吉見氏は、歴史の審判者ではない。


 該当部分Mについて。労務報国会に対して、

「指揮系統からして軍が動員命令を出すことも、職員が直接朝鮮に出向くことも考えづらい」

と話す外村大・東京大准教授の指摘が紹介されるが、一学者が「考えづらい」といっているだけであって、吉田証言は間違いだとは言っていない。一つの見解にすぎない。


 該当部分Nについて。

「吉田氏はまた、強制連行したとする43年5月当時、済州島は『陸軍部隊本部』が『軍政を敷いていた』と説明していた」

というが、これはどこで吉田氏が言っているのか。

吉田氏の著書『私の戦争犯罪』のP103の記述は

「決戦下のこのごろは、朝鮮半島防備のために陸軍部隊が警察署を管理し、朝鮮人島民20万人を直接統治して、事実上の軍政を敷いていた」

とある。「事実上」という言葉を朝日の記事は、意図的かどうかはわからないが、引用していない。


永井和・京都大教授(日本近現代史)は旧陸軍の大部隊が集結するのは45年4月以降だと指摘したというが、話がかみあっていない。吉田氏は、

「旧陸軍の大部隊が集結する」時期を問題にしているのではなく、「陸軍部隊が警察署を管理し、朝鮮人島民20万人を直接統治」していた時期を問題にしている。

朝日は、永井氏が「記述内容は事実とは考えられない」と結論したというが、まったく説得力がない。逆に吉田証言のリアルさを浮き彫りにしている。

 該当部分Oについて。この部分が吉田証言についての朝日の「検証記事」の結論部分だが、これまで、ひとつひとつ分析したように、吉田証言を「虚偽」とするには、あまりに根拠がない。

全体の印象を言えば、吉田証言の枝葉末節を取り上げ、難癖をつけているようにみえる。こんな「検証」で、吉田証言を「裏付け得られず虚偽と判断」と結論するのであるから、朝日も落ちたものである。


 意味深なのは、該当部分E。自民党の安倍晋三総裁が2012年11月に記者会見で、吉田氏を「詐欺師のような男」と指摘したくだりだ。

もし、権力をチェックするジャーナリズムを自認するなら、朝日新聞は、安倍総裁(現首相)に、まずその根拠をただすべきだった。

公人中の公人の発言である。故人に対して公の場で、「詐欺師のような男」と「詐欺師」よばわりをしたのだから、安倍氏は、それを証明する義務がある。

しかし、朝日はそれをした形跡がない。むしろ、安倍氏の意向に沿い、その発言の裏取りをするような形で取材班をつくり、いいかげんな検証で、吉田証言は「虚偽」だという、

先に結論ありきの記事を書いたように読める。

朝日の「検証記事」は安倍総裁に対して、あなたの圧力に屈しましたよと、問わず語りに「告白」している文章ではないのか。安倍首相が大喜びするはずである。

 〈注1〉この記述を書いたあと、念のために近くの図書館に行き、朝日の縮刷版で97年3月31日付の特集記事を調べた。

残念ながら、朝日自身による済州島の裏付け取材については、そういう取材をしたという事実も書かれていない。その特集記事には

「済州島の人たちからも、氏の著述を裏付ける証言は出ておらず、真偽は確認できない」

とあるだけである。


 B吉見教授の著書は吉田証言を本当に否定したのか――アッと驚く誤読!、朝日や赤旗は日本語がまともに読めないのか?


 吉田氏を「詐欺師」よばわりする安倍首相は、何を根拠にしているのか。

安倍首相にしろ、朝日にしろ、赤旗にしろ、その最大の根拠の一つとしているのは、吉見義明・川田文子編著『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』(1997年6月24日、大月書店発行)という著作のP26・27の記述だ。

(写真は、吉見教授らの問題の著作)


 安倍晋三衆院議員(当時)は97年5月27日の衆院決算委員会第二分科会で、次のように発言し、議事録が残っている。


 「そもそも、この従軍慰安婦につきましては、吉田清治なる詐欺師に近い人物が本を出した。この内容がもう既にめちゃくちゃであるということは、従軍慰安婦の記述をすべきだという中央大学の吉見教授すら、その内容は全く根拠がないということを認めております」(下記別項で関連発言部分全体を紹介)


 朝日は今回の「検証記事」のKとLで、この著書の記述の一部を引用している。繰り返しになるが、再掲する。


 「吉田氏は93年5月、吉見義明・中央大教授らと面会した際、

『(強制連行した)日時や場所を変えた場合もある』

と説明した上、動員命令書を写した日記の提示も拒んだといい、吉見氏は

『証言として使えないと確認するしかなかった』

と指摘している=注@。」

「注@ 吉見義明・川田文子編『『従軍慰安婦』をめぐる30のウソと真実』』(大月書店、1997年)」

 「しんぶん赤旗」2014年9月27日付の「検証記事」も、同じ部分が引用・紹介されている。念のため、次に示す。

 「『慰安婦』問題に取り組んできた吉見義明中央大教授は、93年5月に吉田氏と面談し、反論や資料の公開を求めましたが、吉田氏が応じず、

『回想には日時や場所を変えた場合もある』

とのべたことなどから、

『吉田さんの回想は証言としては使えないと確認する」
(『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』97年6月出版)としました。

『吉田証言』の信ぴょう性に疑義があるとの見方が専門家の間で強まり、…」

 ただし、安倍氏は、この本が発行される1997年6月24日より少し前の同年5月27日に、国会で

「中央大学の吉見教授すら、その内容は全く根拠がないということを認めております」

と質問している。

安倍氏はこの著書が発行される1カ月前に、吉見教授の「見解」を知っていたことになる。吉見教授が吉田氏と面会したのは「93年5月」(同著)。それが何を意味するのかは、まだわからない。

 それはともかく、同著の該当個所を改めて読んで驚いた。この吉見教授の文章は、

「吉田清治さんの本での告白が強制連行の証拠とされてきたのが、現地でのその後の調査で、この告白はウソだと証明された」

という「ゆがめられた言説」に対して

「実際はどうなのかを、ひとつひとつ事実にもとづいてあきらかにした」(同著「はじめに」)ものだからだ。


 吉田証言が「ウソ」だという「ゆがめられた言説」に反論して、吉見教授は次のように書く。

 「吉田清治さんは、『私の戦争犯罪』(1983年)という本のなかで、軍の動員命令により、徴用隊10名の一員として朝鮮の済州島にいき、現地の陸軍部隊とともに、華中(中国中部)方面に送る慰安婦として205名の女性をつかまえ、『女子挺身隊』の名目で輸送した、と記している。

だが、現在、朝鮮で強制連行があった証拠として、この本をあげる人はいない。

いまでは研究はずっとすすんでおり、これによらなくても、強制連行や強制使役があったことは証明できる」


 「(動員命令書が奥さんの日記に書いてあるのであれば、日記のその部分を公開してはどうかなどとの要請に対して)吉田さんは、日記を公開すれば家族に脅迫などが及ぶことになるので、できないと答えた。

そのほか回想には日時や場所を変えた場合もあるとのことだった。

そこで、私たちは、吉田さんのこの回想は証言としては使えないと確認するしかなかった」


 詳しい同著の記述は、PDFでダウンロードできるようにするので、そちらを熟読してほしい。
http://masato555.justhpbs.jp/111118.pdf


 吉見教授の著書は、吉田氏が本に書いた核心的事実である

「朝鮮で慰安婦の強制連行があった」

ということを、いまでは、吉田氏の本によらなくても、証明できるとのべているのだ。そして、吉田氏に、その正しさがすでに研究で立証されているので、名誉回復のために、いくつかの疑問に反論すべきだと忠告しているにすぎない。

吉田氏はその忠告に「家族に脅迫などが及ぶ」というもっともな理由で拒否したわけだ。


 したがって、吉見教授の著書は、吉田証言を否定しているものではなく、むしろ、「ウソだと証明された」という「ウソ」に反論し、吉田証言を「真実」として擁護しているものだ。

 それをまったく逆さに描く、安倍首相や朝日、赤旗の認識は、吉見教授の著書の著しい誤読である。

安倍首相は誤読だけでなく、吉田氏への激しい敵意すら感じる。朝日や赤旗の「検証記事」を書いた担当者は、日本語がまともに読めていないようだ。責任は重大だ。

 もしかしたら、吉見教授の著書の該当記述の冒頭に「ゆがめられた言説」として紹介されている文章、つまり、

「吉田清治さんの本での告白が強制連行の証拠とされてきたのが、現地でのその後の調査で、この告白はウソだと証明された」

という黒線で囲われた記述を、該当記述の見出しや要約と思ったのかもしれない。そのページのコピーだけを読めば、そうとも読めなくもない。そういうことなら、朝日や赤旗の「検証記事」の吉見教授の著書の紹介の仕方が自然に納得できる。

しかし、それは重大な誤読である。

各項目の初めの黒線で囲われた記述は、吉見教授らの見解の見出しや要約ではない。見出しや要約であるなら、目次にも記載された

「強制連行によって慰安婦を集めたケースはない」

とか、

「責任を問うなら、朝鮮人業者を追及したらどうか」

などの他の項目の黒線で囲われた記述が、すべて吉見教授らの見解となる。

そんな馬鹿な、である。実際は、そういう「ゆがめられた言説」=「ウソ」に吉見教授はすべて事実で反論して「真実」を示しているのだ。

 吉田証言が「真実」であるという吉見教授の著書を、なんとか真逆にするために、朝日や赤旗の検証記事は、引用まで改ざんしている。

 朝日の検証記事では、吉田氏が

「(強制連行した)日時や場所を変えた場合もある」

と説明したと書いているが、吉見教授の著書には

「回想には日時や場所を変えた場合もある」

と書かれている。「回想には」という言葉をカッコ書きの「(強制連行した)」に変えている。

朝日の検証記事は、吉田証言を何が何でも「ウソ」にしたい意図がみえみえである。


 赤旗の検証記事でも同様の改ざんがある。赤旗の検証記事は、吉見教授らが

「吉田さんの回想は証言としては使えないと確認する」

としている。吉見教授と吉田氏の間で「証言としては使えない」という確認があったかのように読める。

しかし、実際の吉見教授の著書は

「そこで、私たちは、吉田さんのこの回想は証言としては使えないと確認するしかなかった」

と書かれている。確認したのは、吉田氏を訪ねた「私たち(吉田氏以外の人間)」の間であることがわかる。吉見教授と吉田氏との確認なら「確認するしかなかった」という主観的な文章にはならない。

やはり、吉田証言の真実性を何とか打ち消したい意図を感じる改ざんである。


 ともに、新聞社の検証記事であり、こんな核心部分の短い文章を改ざんしたのでは、検証記事全体の「信ぴょう性」が著しく失われてしまう。

 もう一つ、引用の改ざんには、あえて重大な文章を隠すという方法がある。朝日と赤旗の検証記事は、吉見教授の著書の引用で共通して隠している文章がある。少し長いが次に引用する。

 「この証言自体の信頼性はどうか。これに疑問をいだいた秦郁彦教授は、済州島にいって調査したが、現地でえられた証言は否定的なものばかりだといっている。このほか、この証言にたいする多くの疑問がだされているが、吉田さんは反論していない。そこで、私たちは、1993年5月に吉田氏を訪ね、積極的に反論するように勧めた」


 つまり、吉見教授は、秦郁彦氏の「調査」を研究者として信用し、その「使い走り」のような形で吉田氏に面談し、ただしているということだ。

秦郁彦氏がどういう人物かは、あとで詳しくのべるが、国家犯罪としての従軍慰安婦はなかったと主張するタカ派の論客の一人であることは有名である。

こういう態度が、吉田氏には、吉見教授が秦郁彦氏と「同類」に映ったかもしれない。吉田氏が吉見教授を相手にしなかったのもわかる気がする。


 ところで、吉田氏に反論を促した吉見氏らの行動だが、やはり、それは戦中の権力機関の幹部として、さまざまな脅迫に負けずに命がけで証言してきた吉田氏への配慮や敬意が、欠落していると思わざるをえない。


 当時の「時代の雰囲気」を知る者は、吉田氏を含め、戦争犯罪を証言する加害者らが、どんなに元軍人や保守勢力から、暴力的脅迫を受けていたかを記憶している。

私も当時、ジャーナリストとして、吉田氏自身が、日常的に元軍人・元特高警察関係者らしき者から、暴力や脅迫を受けていたことを知っている。これは、いまのヘイトスピーチや在特会らのデモどころではない、異常極まるものだった。


 そういう「時代の雰囲気」の中で、当時、80歳過ぎの高齢の吉田氏に、研究者のような詳しい反論をせよと要求し、国家犯罪の証人として矢面に立ち続けるべきだと忠告する神経を私は理解できない。しかも、裏付けにつながる話を拒否したからといって

「私たちは、吉田さんのこの回想は証言としては使えないと確認するしかなかった」

という言い草はないだろう。


 従軍慰安婦の強制連行の裏付けを示す責任が、その加害体験を証言した高齢の吉田氏に第一義的にあったとは思えない。戦争犯罪の加害者が、勇気を持ってその歴史的事実を証言することは、闇に埋もれた歴史的真実を明らかにするうえで大きな意味を持っている。その証言をもとに、裏付けの事実を探し、真実を追求することは、むしろ、吉見教授などの研究者やメディアの責務なのではないか。
                       


 

 Cタカ派論客の秦郁彦氏と『週刊新潮』に依拠する検証記事

 
 朝日と赤旗の検証記事は、タカ派論客で有名な秦郁彦氏の「調査」を全面的に肯定することで成り立っている。

 吉田証言を最初に批判したのが、産経新聞社発行の月刊誌『正論』1992年6月号に掲載された秦氏の論文「昭和史の謎を追う 従軍慰安婦たちの春秋」と、その論文をもとに秦氏の見解などを報じた産経新聞92年4月30日付記事とされる。(その論文は『正論』2014年11月号に全文が再録されている)

 この論文は、赤旗日曜版1992年1月26日号の吉田インタビューと、朝日92年1月23日夕刊の吉田証言を、名指しで批判している。そして、これらの記事は、いずれも今回の赤旗と朝日の検証記事で取り消されたものだ。朝日と赤旗の検証記事は、そういう点で、秦論文による攻撃に、そのままま屈服した形になっている。

 その秦論文だが、吉田証言を「虚構」とする根拠は、済州島に秦氏が行き、吉田証言を否定する現地の新聞「済州新聞」89年8月14日付を入手したという話が中心である。

 その新聞の引用に目を疑う。その済州新聞には

「慰安婦狩りの話を、裏づけ証言する人はほとんどいない」

と書かれているという。

「ほとんどいない」とは、少数だが、裏付け証言をする人がいたということだ。

それなのに、秦氏は、これをもって「慰安婦狩りの虚構」と見出しをつける。

その記事を書いた許栄善記者は秦氏に「何が目的でこんな作り話を書くんでしょうか」と聞いたという。

 次に示す秦氏の答えぶりが、秦氏の立場と品性を端的に表している。

 「有名な南京虐殺事件でも、この種の詐話師が何人か現われました。彼らは土下座してザンゲするくせがあります」

 秦氏が吉田氏を「職業的詐話師」と誹謗中傷してきたのは有名だが、同様に秦氏は南京虐殺事件でも、それを証言する者を「詐話師」とののしっていたことがわかった。まさにタカ派のデタラメ論客なのである。

 こういういかがわしい学者の話を最大の根拠にして、吉田証言を「虚偽と判断」とか「信ぴょう性がない」する朝日と赤旗の検証記事の信ぴょう性は、完全にゼロだといわざるをえない。

 ちなみに、赤旗の検証記事は、『週刊新潮』に掲載された吉田氏のコメントをそのまま引用し、朝日以上に特異なものとして注目されている。『週刊新潮』は公安情報誌ともいわれる、共産党や民主団体を権力機関の情報組織でしかわからないような情報を使い、謀略的に攻撃してきた超タカ派の週刊誌である。

 赤旗の検証記事の末尾に掲載された「『吉田証言』の記事を取り消します」と題する訂正記事には、次のように書かれている。

 「吉田氏自身がのちに、『本に真実を書いても何の利益もない』『事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやることじゃありませんか』(『週刊新潮』96年5月2・9日号)などとのべています。『吉田証言』は信ぴょう性がなく、本紙はこれらの記事を掲載したことについて、お詫(わ)びし、取り消します。赤旗編集局」

 ここにその歴史的な特集記事を、PDFでダウンロードできるようにしたので、じっくりと読まれたい。
http://masato555.justhpbs.jp/44444.pdf


 赤旗が間違いないものとして掲載した吉田氏のコメントは、赤旗記者が直接取材したものではなく、『週刊新潮』記者が取材したものだ。伝言ゲームでも正確な情報を伝えるのは至難の業だが、こういうタカ派のメディアを通じたのでは、真実からますます遠ざかってしまう。

 吉田氏のコメントの引用も、改ざんが明らかである。

吉田氏が「本に真実を書いても何の利益もない」と言ったと赤旗は書いているが、実際の『週刊新潮』の記事にはこうある。

「秦さんらは私の書いた本をあれこれ言いますがね。まあ、本に真実を書いても何の利益もない。関係者に迷惑をかけてはまずいから、カムフラージュした部分もあるんですよ」。

赤旗の引用は、本人の意図をねじまげる最悪の改ざんである。もう一つの引用も意識的な改ざんというほかはない。ぜひ、じっくりと読み比べていただきたい。


 報道機関であるはずの朝日と赤旗の検証記事のデタラメさはあまりにひどく、その政治的立場の変節・退廃はあまりに深刻である。

 その他、まだまだ、明らかにしていない多くの問題点があるが、それは、別の論評に譲りたい。請うご期待である。
                       (おわり)


〈参考資料〉

☆安倍晋三氏の「吉田証言」中傷質問(1997年5月27日、衆院決算委員会第二分科会の議事録から)

○安倍(晋)分科員 先ほど申し上げましたように、特にことし、中学の教科書、七社の教科書すべてにいわゆる従軍慰安婦の記述が載るわけであります。この問題に絞って幾つか質問させていただきたいと思うわけであります。

 私も従来から我が国の歴史教科書の記述については問題点が多いな、こう思っておりました。しかし、この従軍慰安婦の記述については余りにも大きな問題をはらんでいるのではないかと私は思います。

これは私だけではなくて、そういう問題意識を持っている議員はたくさんいるのですね。ことしになって、特にこの記述に疑問を持つ若い議員が集まって、日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会というのを発足いたしました。当選五回以下に絞っているにもかかわらず、自民党だけで六十名近い議員が集まって、勉強会を既に八回、文部省からも説明要員として御出席をいただいたわけでございますが、勉強会を重ねてきました。それぐらいたくさんの議員が問題意識を持っているということであります。

 それはなぜかといえば、この記述そのもの、いわゆる従軍慰安婦というもの、この強制という側面がなければ特記する必要はないわけでありますが、この強制性については全くそれを検証する文書が出てきていないというのは、既に予算委員会、先ほど私が申し上げました小山議員、片山議員の質問の中で、外政審議室長の答弁等々から明らかであります。唯一のよりどころは、十六名の元慰安婦の人たちの証言ということでありますが、これはやはり私どもの勉強会におきまして、石原元副長官に講師としてお越しをいただきまして証言をしていただいたわけでございますが、もう既に、これは十六名の人たちから聴取をするというときに強制性を認めるということで大体方針が決まっていた。それを否定するというのは、とてもそういう雰囲気ではなかった。これは実際の話としてお話があったわけであります。明らかにこれは外交的配慮から強制性があったということになってこの官房長官談話につながったのだ、私はこういうふうに思います。

 そもそも、この従軍慰安婦につきましては、吉田清治なる詐欺師に近い人物が本を出した。この内容がもう既にめちゃくちゃであるということは、従軍慰安婦の記述をすべきだという中央大学の吉見教授すら、その内容は全く根拠がないということを認めております。しかし、この彼の本あるいは証言、テレビでも彼は証言しました。テレビ朝日あるいはTBSにおいてたびたび登場してきて証言をいたしました。また、朝日新聞は大々的に彼の証言を取り上げて、勇気ある発言だということを新聞紙上で扱って、その訂正はいまだかつて一回もしていない。テレビ局も新聞もそうであります。

 しかし、今は全くそれがうそであったということがはっきりとしているわけであります。この彼の証言によって、クマラスワミは国連の人権委員会に報告書を出した。ほとんどの根拠は、この吉田清治なる人物の本あるいは証言によっているということであります。その根拠が既に崩れているにもかかわらず、官房長官談話は生き、そしてさらに教科書に記述が載ってしまった。これは大変大きな問題である、こういうふうに思っております。

 ただ、それならたくさん教科書があるのだからそういう教科書ばかりにはならないだろうと思っていたら、すべての教科書にこの記述が載ったということであります。当然、中等段階でありますから教科書は無償でありまして、国の予算も教科書全体として四百三十五億円ついております。歴史の部分については十億円がついているということであります。

 七社それぞれ記述が若干違うわけであります。慰安婦と書いてあったり、従軍慰安婦と書いてあったり、あるいは慰安施設をつくったということでありますが、実態は、最も多く売れている、十億円のうち四億円は東京書籍株式会社であります。この東京書籍に至っては四億円、十分の四ですね。「従軍慰安婦として強制的に戦場に送りだされた若い女性も多数いた。」強制性を堂々と書いております。

 そしてまた、次は大阪書籍、一・九億円であります。「慰安婦として戦場に連行しています。」という形で書いてありますが、これは強制性をかなり疑っている、強く示唆しているということではないかと思います。

 そしてさらに教育出版社、これは一億八千万円でありますが、「従軍慰安婦として戦地に送り出された。」と書いてあります。

 一社だけ、慰安施設をつくったということでありますが、これは清水書院であります。強制性については余り言及をしていないわけでありますが、これは結局三千万円だけであります。十億円のうち三千万円でしかないということであります。

 ということは、予算的には多くの、ほとんどの教科書が強制性を疑わせる記述になっているのだ、こういうふうに思います。

 問題は、私はこれは採択の現場にもあるのではないかと思うわけであります。我々は、この東京書籍の社長も含めて、教科書会社の人たちを呼んで話を伺いました。彼らが言うには、本音ベースで言えば、こういう教科書をつくらないと教科書を採択してもらえないということでありました。

 そのときに、大阪の現場の先生、大阪府の桜丘中学校教諭の長谷川先生にもお越しをいただいたわけであります。彼の証言でありますが、「採択権は現場の教師に実質的には握られている。枚方市では教師が投票し、その投票の上位となった教科書が教育委員会に報告され、それが採択される。」「教科書会社は教育委員会よりも現場教員、その思想傾向におもねるようになる。」ということであります。

 日教組の組織率は、今極めて低下をしているわけでありますが、残った先生方は大変先鋭化をしております。そして、思想的な傾向も強まっているわけでありまして、教科書会社は営利を上げるためにみずから内容を社会主義化することによって利益を上げているという大変皮肉な結果になっているということであります。

 さらに、この教科書の採択に大きな影響を持っているのが、労働組合、出版労連であります。共産党系の労働組合の出版労連というグループ、これは教科書執筆者がつくっている労働組合でありますが、それが極めて大きな影響力を持っております。そしてもう一つ、大阪の場合は大同協、つまり同和教育研究協議会という部落解放同盟系の組織であります。これらがいわゆる事前チェックを行いながら、こういう傾向でなければ採択はさせないという大きな圧力をかけているというお話が現場の先生から、そういう生々しい証言があったわけであります。

 この現場の採択の状況について、文部省は問題点を把握しておられるのでしょうか。
(以下略)
http://masato555.justhpbs.jp/newpage117.html


535. 中川隆 2014年11月12日 22:51:56 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

資料と解説(従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ)


@朝日訂正記事は「極右」と自称する木村社長の出来レース?


【資料】『文芸春秋――週刊文春臨時増刊』(2014年10月3日号)の記事「『朝日』社内で今何が起きているか」から

(P69〜70)
――8月5日、6日の2日間にわたり、計5面もの紙面を割いて、過去30年余にわたる慰安婦報道の問題点を突如検証し始めた朝日新聞。その内幕を朝日の政治部記者が語る。

 「号令を発したのは一昨年に社長に就任した木村(伊量)氏です。

…政治部一筋で、旧田中派を担当。政界のドンだった金丸信元幹事長に深く食い込み、他の記者が家の前で待っているのに、木村氏だけが家中に呼ばれることもありました。

リベラルな朝日にあって保守派として知られ、彼自身も『自分は朝日の極右だ』と自認しています」


 この3月に行われた「人事異動」が直接の契機になったようだ。

 「3月の人事で、編集担当執行委員に杉浦信之氏、その下のゼネラルエディター兼編成局長に渡辺勉氏が就任しました。入社が木村氏の2期上で、目の上のたんこぶだった吉田慎一元編集担当上席執行委員がテレビ朝日の社長に転出したことで、検証しやすい環境が整った。問題記事を書いた植村隆記者(後述)が3月に早期退職したのも追い風となり、春先に号令をかけたのです。

 実際の検証記事は渡辺氏が主導しました。『慰安婦問題について、事実関係を徹底的に調べろ』という指令の下、特報部を中心に、社会部や政治部からも人が集められ、10人ほどのチームが極秘で結成されました」(同前)――

(P71〜)
――17年前にも、朝日が吉田証言を取り消す寸前までいっていたのに社内の「セクショナリズム」で潰えたのだ。当時の政治部関係者の話。

 「朝日は、歴史教科書に従軍慰安婦が登場した97年にも、従軍慰安婦問題取材班″を立ち上げた。このときは政治部と社会部、外報部の混成チームが作られました」

 だが、当時の紙面では、「(吉田証言の)真偽は確認できない」と記されたのみ。

 「実はチーム内で喧々囂々たる議論になったんです。これは虚偽だと完全に否定したほうが、この際はっきりとけじめがつけられるじゃないかと政治部は主張したのですが、社会部からは『絶対にない、という証明はできない』という主張があった。

吉田証言を報じてきたのは社会部サイドでしたから、彼らの『完全否定はしたくない』という主張が結果的には反映された形です」(同前)

(P87〜)
――木村氏は社内専用ホームページ「風月動天」に、ひと月に一度、自ら文章をアップする。全社員にメールでその通知が送られてくるのだが、同ページは外部の人間には閲覧不可能。また小誌のような他メディアに内容が漏れないよう、

「閲覧する際には、個々人のパスワードを打ち込まなければならず、誰が印刷したかまで、会社側が把握できる」(現役社員)という。

今回小誌は…慰安婦検証チームが密かに立ち上げられた今春以降の木村メール全文を入手した。…(朝日は傲慢だとする声を紹介したあと)こうした声と、木村メールの温度差はいかばかりか。


 (2014年8月28日付の木村メールからの引用として以下の文章を紹介)

《2年前に社長に就任した折から、若い世代の記者が臆することなく慰安婦問題を報道し続け、読者や販売店ASAの皆さんの間にくすぶる漠然とした不安を取り除くためにも、本社の過去の慰安婦報道にひとつの「けじめ」をつけたうえで、反転攻勢に打って出る態勢を整えるべきだと思っていました。

今回の紙面は、これからも揺るぎない姿勢で慰安婦問題を問い続けるための、朝日新聞の決意表明だと考えています》――


【資料の解説】上記の資料に多くの解説はいらないと思う。

要するに今回の朝日の「検証」記事は、「極右」と自称し、自民党幹部と癒着した政治部出身の木村社長が、吉田証言を虚偽とするために、強引に部下に書かせたということだろう。

 97年当時の「検証」では、「絶対にない、という証明はできない」と主張して、吉田証言否定論に抵抗したのが、社会部だった。政治部は「けじめをつける」という、極めて政治的な思惑を優先して社会部と対抗した。その結論が「(吉田証言の)真偽は確認できない」という当然で理性的な見識だった。

 吉田証言に限らず、調査報道を担当するのは、どの新聞社でも通常は社会部だ。社会部記者が自首した容疑者の犯行を裏付け取材するのに、目撃者の話など、別の人間の証言や証拠が出てこないからといって、犯人ではないという結論を出すだろうか。ましてや、その自首した容疑者を「ウソつき」というだろうか。社会部のベテラン記者なら、そうした犯罪報道の論理は痛いほどわかっているはずだ。赤旗でも同じだと思う。

 今回の朝日の「検証」は、自民党と癒着する政治部出身の社長が「号令」して実施した。「政治部一筋」というが、政治部しかやったことがない片寄った経歴では、「検証」の責任者としての資格が問われる。「最初に結論ありき」の政治的な「検証」だと言われてもしかたない。これを世間では出来レースと言う。

 この記事を日頃、朝日の慰安婦報道を敵視する週刊文春が報じたところが、おもしろい。まじめな事実の取材は、おのずと真実に近づくのかもしれない。
            (経済ジャーナリスト・今田真人)


A吉田清治氏の息子が朝日訂正記事に悲痛な抗議


【資料】『週刊新潮』2014年9月18日号の記事「詐話師『吉田清治』長男の述懐『朝日に翻弄された私と父の人生』」から

(P27)
――(記事では吉田氏の長男(64)の述懐を紹介)詐話師″のレッテルを貼られるようになってから、次第に記者が父を訪ねてくることもなくなった。

晩年は直腸がんを患い、ほとんど寝たきり状態でした。

2000年7月30日、86歳で息を引き取りました。

朝日は記事を撤回するなら、せめて父の生きているうちにして欲しかった。

もちろん、第一に父が悪いのはわかっていますが、父にだってなにかしらの言い分があったかもしれない。これでは、朝日の都合で祭り上げられ、そして朝日の都合で切り捨てられたようなものです。もし、朝日に関わらなければ、父も私も違う人生があったはずなのです。――


【資料の解説】故・吉田清治氏を「詐話師」と生前から誹謗中傷してきたメディア「週刊新潮」を通してさえ、吉田清治氏の息子さんの悲痛な抗議の声が伝わってくる。

 吉田証言を「虚偽」とか「信ぴょう性がない」とかいって一方的に取り消した新聞社のモラルの欠如がうかがわれる。朝日や赤旗は、取り消し記事(訂正記事)を出す前に、遺族におわびに行ったのだろうか。

 「死人に口なし」というより、むしろ、「死屍に鞭打つ」行為に思えてならない。
           (経済ジャーナリスト・今田真人)


B否定本なのに、ボロボロ出てくる吉田証言の肯定的事実


【資料】秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(1999年、新潮社発行)から

(P232〜233)
――私は(吉田氏が慰安婦狩りをしたと本に書いている)この貝ボタン工場のあった城山浦にも行ってみた。海女の研究家でもある康大元(慶応大学出身)の通訳により、老人クラブで4、5か所あった貝ボタン工場の元組合員など5人の老人と話し合って、男子の徴用はあったが慰安婦狩りはなかったらしいことを確認した。

 公立図書館では1976年頃に吉田が済州島を旅行したときの関連記事を新聞で探して見つからなかったが、思わぬ拾いものがあった。

 1989年に吉田著が韓国語訳(清渓研究所現代史研究室)されたとき、『済州新聞』の許栄善記者が書評を兼ねた紹介記事を書いていたのである。1989年8月14日付の記事の邦訳は次の通りだ。

 解放44周年を迎え、日帝時代に済州島の女性を慰安婦として205名を徴用していたとの記録が刊行され、大きな衝撃を与えている。しかし裏付けの証言がなく、波紋を投げている。(ついで吉田著の概要を紹介)

 しかしこの本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で15〜16人を強制徴発したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を、裏づけ証言する人はほとんどいない。

 島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信憑性に対して強く疑問を投げかけている。城山浦の住民のチョン・オクタン(85歳の女性)は

「250余の家しかないこの村で、15人も徴用したとすれば、大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」

と語った。

 郷土史家の金奉玉は「1983年に日本語版が出てから、何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨している。――

(P242)
――さすがに最近では研究者の間でも、吉田証言を信じる人はいなくなったようだが、虚構と決めつけるのもためらわれる心境の人も少なくないらしい。

 一例を『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』(大月書店、1997年6月)から、吉見義明教授の記述を引用しよう。

 (吉見氏らが93年5月に吉田氏を訪ね、吉田氏に多くの疑問に反論するよう指摘したが拒否され、「私たちは、吉田さんのこの回想は証言として使えないと確認するしかなかった」としている記述が紹介されている)

 吉見と一緒に吉田と会談した上杉聰の説明は、ややニュアンスがちがう。1997年3月25日「教科書に真実と自由を」連絡会の記者会見で、上杉は秦の済州島調査に触れ、1993年に伊貞玉が済州島で一人の被害者と推定される証言者を見つけたが、周囲からの説得と制止で証言がとれなかった事実があると紹介した。

 しかし、この女性が吉田の慰安婦狩りの該当者だったのかを含め、要点ははっきりしない。

 上杉は、そこから飛躍して、「島内には緘口令が敷かれてきた可能性を否定できない」と語り、「秦氏の論拠だけで吉田氏の証言を嘘と断定することはできないのである」と結論した。

 まだ、未練が捨てきれないようだが、…。


【資料の解説】この本は、吉田証言の虚偽を「立証」した秦郁彦氏の代表作といわれるが、実際にどんな決定的証拠が書かれているのかと期待して読んだが、がっかりした。

 秦氏が、その「立証」の最大の根拠にしているのが、この本に書かれている済州島の現地調査であり、現地の公立図書館で入手した「済州新聞」の記事だ。その記述は「慰安婦狩りはなかったらしい」とか、「慰安婦狩りの話を、裏づけ証言する人はほとんどいない」とかいう、なんとも自信のないものである。

「ほとんどいない」というのは、数人はいたというふうにも受け取れる。

 また、別の個所では、上杉聰氏が記者会見し、「1993年に伊貞玉が済州島で一人の被害者と推定される証言者を見つけた」と指摘していることも紹介している。

 秦氏は、こうした吉田証言の裏づけになる事実に、ことごとく冷淡である。なぜ、「済州新聞」の記者に、「ほとんどない」と書いた真意を問いたださなかったのか。なぜ、上杉氏の指摘した「証言者」のことをもっと追究しなかったのか。

 秦氏は、吉田氏を最初から「詐話師」として疑うという、先入観にとらわれた主観的な記述を展開しているが、肝心の客観的な「立証」がない。逆に、ボロボロと吉田証言を肯定する事実が出てくる。何とも奇妙な著作である。
             (経済ジャーナリスト、今田真人)

C済州島にも慰安婦にされた娘が何人もいた″と、あの西岡力教授が証言


【資料@】『「従軍慰安婦」朝日新聞VS.文藝春秋』(文春新書、2014年10月20日発行)所収の西岡力論文「朝日『慰安婦報道』22年後の詐術」から

(P12)
――吉田氏が慰安婦狩りを行ったという済州島出身の在日朝鮮人に高峻石(コジュンソク)という共産主義革命家だった人物がいる。日本語で何冊か、朝鮮の共産主義運動などについて本を出しているが、彼が本当は日本人には教えたくないがといいながら、

「日本統治時代、済州島の自分の村である未亡人が若い娘を何人か連れて中国で慰安所を経営して金を儲けた。それで村から若い娘らがその慰安所に働きに行っていた。吉田が言うような慰安婦狩りなどきいたことない」と話した。――


【資料A】西岡力著『よくわかる慰安婦問題』(2012年12月14日、草思社発行)

(P89)
――済州島出身の左翼知識人である在日朝鮮人高峻石氏は友人の佐藤勝巳氏に、「吉田のいうような日本軍による慰安婦狩りなどなかった。自分の村でも慰安婦が出ている。

自分の親戚にあたるある未亡人が、村の娘ら何人かを中国に連れていって慰安所を開き大金をもうけて話題になり、村から別の娘たちもその慰安所に出稼ぎに行った。

当時の済州島でも貧しさで身売りする娘が珍しくなかったのに、なぜ、軍がわざわざ慰安婦狩りをする必要があるのか。もしそんなことがあれば、噂はすぐ広まったはずだが、聞いたことがない」と話していた。――


【資料@Aの解説】「ひょうたんからこま」とはよく言ったものだ。強制連行否定論者の急先鋒の一人、西岡力・東京基督教大学教授が、新書の論文や著書で、済州島にも慰安婦にされた若い娘が何人もいたという有力情報を書いている。著書の方を読むと、この情報は「また聞き」のようだが。

 西岡教授は、これらの娘は、あくまで貧困の結果、自主的に売春婦になったという留保をつけているが、そうだろうか。

 娘の身売りと慰安婦の強制連行は、娘の身になって考えれば、紙一重である。娘の親が日本軍管理下の売春業者に娘を売ったとしても、娘にとっては、自発的であろうはずがない。また、身売りが娘にとって「出稼ぎ」であるわけがない。身売りされた娘は「奴隷」であって、「大金をもうけた」のは、娘ではない。逃亡の自由は、もちろん、ない。

 身売りされた段階で逃げようとすれば、現地の警察や日本軍兵士が、暴力を使って捕まえるだろう。それは、慰安婦狩りと同じである。娘が抵抗をせず、その結果、警察などの暴力行使がされない場合もあったかもしれない。だからといって、強制連行はなかったと言うのは、欺瞞である。

 済州島で慰安婦狩りをしたという吉田証言が、皮肉にも西岡教授によって裏付けられてしまったようだ。
            (経済ジャーナリスト、今田真人)


D朝日OB「(安倍と2回会食した木村社長は)事前に口約束していたのでは」


【資料】レポート「まだ大揺れが続く朝日新聞社 事態収拾ができないあきれた事情」(ビジネス情報誌『エルネオス』2014年11月号)

(P46)
――木村社長の慰安婦報道の検証姿勢だが、朝日OBのD元論説委員は、

「安倍政権に擦り寄るためにやっているのではないか」

とその動機を疑問視する。木村社長は、朝日を不倶戴天の敵とみなす安倍首相との関係回復を急務としていた面があり、2013年2月7日に帝国ホテルで、同7月22日に永田町「黒沢」で会食している。

D氏は

「中江さんも松下宗之さん(故人)も現職の社長時代は、時の権力に進んで近づかないようにしていた。木村君はそうした配慮に欠ける。今回の慰安婦検証報道も、事前に安倍首相との間で『検証して訂正します』と裏で口約束していたのではないか」

と疑う。

 D氏のような「安倍と握った」という見方はマスコミ界に広くある。

政権との手打ちのために慰安婦報道の検証記事を企てたとしたら、その後の展開はとんだ読み違えだっただろう。――


【資料の解説】朝日OBのこの話は、今回の検証記事が、木村社長による、安倍政権への擦り寄りのための茶番劇だったのではと指摘するものだ。

 2013年に木村社長が安倍首相とホテルや料亭で2回も会食するなど、絵にかいたような権力との癒着である。安倍政権の広報紙のような産経や読売ならまだしも、朝日の社長がそれをやったことが深刻である。

 レポートは、この見方が「マスコミ界に広くある」と指摘する。ところが、権力批判を使命とする赤旗には、そういう見方を紹介する記事がこれまで(14年11月1日現在)、まったく掲載されていない。朝日の検証記事が、安倍政権との癒着の産物だと批判したら、その矛先が自分にも向くからだ。朝日をまねて、あわてて吉田証言記事を取り消したことが、赤旗の権力批判の筆をも鈍らせている。
            (経済ジャーナリスト、今田真人)
http://masato555.justhpbs.jp/newpage116.html



536. 中川隆 2014年11月12日 23:01:13 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

経済ジャーナリスト・今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」
http://masato555.justhpbs.jp/newpage113.html

まあ、誰が見ても今度の朝日新聞の吉田証言検証はヤラセのインチキ調査だというのは明らかですね。

新聞の消費税に軽減税制を適用して欲しくて、安倍に胡麻を擂ったという事でしょう。


[12削除理由]:管理人:重複コメント

537. 中川隆 2014年11月15日 20:23:15 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

このスレは何故か核心部分がすべて削除されてしまいました。

『削除コメント表示切り替え』を押して表示して下さい。


538. 中川隆 2014年12月11日 00:20:25 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

黙して語らぬ戦中派と断絶された歴史の罠 内田樹

 
父親たちの世代、「戦中派」には「戦争経験について語らない」という一種「暗黙の了解」のようなものがあったように思います。

戦地で実際に行なわれたことや見たことについては子どもたちには語らない。

もとは「善意」から出たことだと思います。「戦争がどれほど醜悪で過酷なものか、自分たちがどれほど残酷で非情だったか、そういうことは子供たちには伝えまい。無言で墓場まで持って行こう。子供たちは無垢な戦後民主主義の申し子として未来の日本を担って欲しい」そういう思いだったのではないかと思います。だから「黙して語らず」を貫いたのだと思います。

――「戦争」が語り継がれなかったことによる歴史の断絶によって表面化した「負の側面」

最も顕著なのは「歴史修正主義」の登場でしょう。これは日本に限らず、ドイツやフランスでも同じなのですが、戦争経験者世代が社会の第一線から退場しはじめると、どこでも「歴史修正主義者」が現れます。

彼らは歴史の「生き証人」がいなくなった頃を見計らって登場します。

「戦中派の沈黙」ゆえに戦争の記憶が伝えられなかった戦後日本では、とりわけ歴史修正主義は暴威をふるいました。

現場を見た生身の人間がいなくなった頃になって、断片的な文書だけに基づいて、戦争について言いたい放題の「事実」を語り出した。

従軍慰安婦の問題にしても、実際に戦地で慰安所に通っていた兵隊たちが生きていた間は「強制性はなかった」「軍は関与していない」などということをうるさく言い立てる人間はいなかった。慰安婦がどういう制度であるかを誰でも知っていたからです。

証人たちがいなくなった頃になってはじめて「慰安婦問題は捏造だ」と言い出した。


彼らは戦争の生き証人である「戦中派」の退場を狙って、あるいは「語られなかった歴史」の断絶を利用して、知りもしない戦争を語り、自己都合で書き換えた歴史を信じさせようとしている。そして、その目的が国益の増大ではなく、私的利益の増大であることが問題なのです。
http://blog.tatsuru.com/2014/12/10_1617.php


539. 2014年12月13日 14:29:30 : K0ALzO10xk

「強制連行」をでっち上げたのは植村隆ではない
きのう発売の『文藝春秋』に、「慰安婦問題『捏造記者』と呼ばれて」という朝日新聞の植村隆元記者の手記が掲載されている。28ページにわたる記事のほとんどが「他社もやっていた」という言い訳と、彼が迫害されて職を失った話で、反省も謝罪もない。
特に大きな問題は「女子挺身隊」という日本政府による徴用を意味する言葉を、私的な慰安婦に使ったことだ。問題の1991年8月11日の記事はこうなっている。

日中戦争や第2次大戦の際、「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、1人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)が聞き取り作業を始めた。

これについて植村は「意図的な捏造ではない」と主張し、「他社も挺身隊と書いていた」とか「朝日の記事でも過去にそうなっていた」などという。

この情報は当時のソウル支局長(小田川興)から教えてもらったと主張し、義母がその「挺身隊」を指弾する遺族会の幹部だったことは偶然だという。慰安婦問題を取材しているうちに、同じ問題を調べている妻と出会って結婚し、あとから義母が遺族会の幹部であることを知ったという。都合のいい偶然だ。

最大の疑惑は、金学順が「戦場に連行された」と言ったのかという点だ。これについて1991年12月6日に提出された慰安婦訴訟の訴状では「14歳からキーセン学校に3年間通ったが、1939年、17歳の春、『そこへ行けば金儲けができる』と説得され、養父に連れられて中国へ渡った」と書いている。ところが12月25日の植村の記事では、こうなっている。

その後は子守をしたりして暮らしていました。「そこへ行けば金もうけができる」。こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました。仕事の中身はいいませんでした。近くの友人と2人、誘いに乗りました。17歳(数え)の春(1939年)でした。

訴状には「14歳からキーセン学校に通った」と書かれているのに、17歳でいきなり「連行」されたように書いている。しかも訴状ではキーセンに仲介したのは養父(おそらく朝鮮人の女衒)だが、植村の記事では「地区の仕事をしている人」に連れて行かれたことになっている。

訴訟が起こされたのは記事が出る前であり、彼は訴状を読んだことを認めている。それなのに14歳から17歳の部分を落としたのはなぜか。彼は「弁護団の聞き取り要旨にはキーセンのくだりがなかった」などと言い訳をしているが、そのすぐ後で「キーセンだから慰安婦にされても仕方がないというわけではない」と書いている。

つまり植村は、キーセンに売られた経歴を知りながら落として「連行」の話にしたのだ。これは単なる誤報ではなく、芸者になる訓練をしてから慰安所に売られたという金学順の話を「女子挺身隊の名で連行」されたという(本人が言っていない)話に仕立てた捏造である。

植村は「だまされて慰安婦にされた」と書いているが、だました主語は誰なのか。「挺身隊の名で連行」したなら朝鮮総督府か日本軍だが、人身売買なら女衒である。これはまったく違う話だが、肝心の点をぼかしている。しかし彼は一つ重要な告白をしている。

私は[8月11日の記事の]本文では、この女性が「だまされて慰安婦にされた」と書いた。暴力的に拉致する類の強制連行ではないと認識していた。[…]

私自身は<女子挺身隊の名で>は、決して<女子挺身勤労令によっての連行>ということを意味したものではなかった。植村は記事では<だまされて慰安婦にされた>とはっきり書いており、強制連行とは書いていない。

なぜか最後の文だけ主語が「植村は」となっており、第三者が介入した形跡があるが、それはともかく、彼が金学順について書いた署名記事は2本だけで「旧日本軍の慰安所設置などを示す資料が発見されたという92年1月の有名な記事は私が書いたものではない」という。つまり強制連行をでっち上げて政治問題にしたのは、植村ではないのだ。

それが誰であるのかを彼は書いていないが、当時の彼の上司で慰安婦問題に熱心だった北畠清泰(故人)ではないか。つまり慰安婦デマは植村の個人的な犯罪ではなく、大阪社会部の組織ぐるみの犯罪なのだ。その部長だった渡辺雅隆社長が、問題を解明できるとは思えない。

植村は自分を言論弾圧や脅迫の被害者として描きたいようだが、その問題を解決するのは簡単だ。逃げ回らないで記者会見を開いて、以上の疑問に答えることである。それをしないで一方的に手記を載せても、誰も説得できない。

追記:1992年1月の「軍関与示す資料」の記事を書いたのは、辰濃哲郎記者(東京社会部)だと思われる。本人がそう証言している。ただし「挺身隊として強制連行」という囲み記事を書いたのは別人だろう。


540. 2014年12月13日 14:45:55 : K0ALzO10xk
テレビ朝日が捏造報道を拡散。気がつかれないように高等テクニック。ヤフーニュースとのカラクリ。

麻生さんの、「子供産まないのが問題」発言。

巧みに、わからないようにすり替える技。(テレ朝にしかできない!)

捏造、誤報と知っててヤフーニュースを利用して、世論を騙すテクニック。

ヤフーニュースが(意図的に?)麻生総理の発言を変えて報道した事を利用して、テレビ朝日で大宣伝。世論を誘導して、麻生総理を悪者に大変身させる必殺技を駆使。

麻生総理は、(若者)6人で(高齢者)1人、どんどん子供産まないから、(若者の負担が増えていく)。子供産まないのが問題なんだからね。と言っている。

若者の負担が増えるのは、子供を産まないのが問題なんだ。

と言っているにであって、「子供を産まない方(ほう)が問題だ」とは言っていない。

産まない方(ほう)と言われると、産まない人たちという事に受け取れる。
子供を産まない方。すなわち、子供を産まない人が問題(悪いの)だ。というすり替えを、上手にやっているのである。

6人が1人、3人が1人、若者の負担が増えるのは、子供を産まないのが問題なんです。

当たり前の事を、説明しているだけだ。

もう一度文字起こし↓

昔みたいに、働いている人、6人で高齢者1人の対応をしていたのが、今どんどん子供産まないから、なんか高齢者が悪いようなイメージ作っている人がいっぱいいるけれども、子供産まないのが問題なんだからね。長生きしたら悪いなんて言ってもらっちゃ困りますよ。
子供が生まれない結果として、3人に1人の高齢者、もう少しすると2人に1人になります。そりゃ間違いなく税金が高くなるということですよ。

テレビ朝日12月9日 グッド モーニング(4:55〜8:00)

Photo

野党の声として、「子供を産めない人間が悪いかのような発言はゆるせるものではない」と批判の声も。

産まない人たちが問題だと言ったとして、言ってもいない事を騒ぎ、喚き、大問題にしようと公共の電波を使って捏造、ウソ、虚偽報道を垂れ流すテレ朝。

朝一の報道からさらに、この手を駆使して報道しまくりです。

麻生さんは、選挙中だし、説明しても世論がこれだけテレビ朝日に誤誘導されているとこに言い訳がましく聞こえてしまうので潔く誤解を招いたとして釈明したのだと思われるのだが、

選挙期間中に麻生さんがテレビ朝日に文句を言う事は無いだろう。
自民党全体の事を考えて、身の潔白を証明するのは、後でもできる。と思っているかもしれない。

しかし、麻生さんが釈明した→発言を認めた

ということをいいことに、たたみかけようと麻生さんに対する捏造誤報報道をし続けるテレ朝。↓

ワイドスクランブル(テレビ朝日)(10:30〜13:05)

タイトルは麻生大臣   「誤解招いた」  「産まない方が問題」

麻生大臣

結果として産まないということ申し上げて、選挙の時ですからワーっと時間はあと2分しかありませんという状況で追われていますから、きちんと説明するというのは少々省いちゃったところがありますので誤解を招いたという点に関しましては私どもの方として手が抜けたというか、時間をかけるべきだったという思いはあります。

水谷修

言葉足らずというか「子供を安心して産めない」のがっていう「ま」を「め」に変えれば済んだ事なんですね。麻生さんコミックがお好きだと言って、いつも車の中にコミックを持っておられる。もう少し日本の古典的な本を読んで、、、、。たぶん悪意はないと思います。日本語の使い方を大臣として恥ずかしくないように。

橋本大二郎

弁明の中でも「手を抜いた」を「手が抜けた」と言ってほしかった。

Photo_3

10:30のテレ朝ニュース「産まない方が問題」発言

Photo_4

17:00のニュースJチャンネル「子供を産まない方が問題」発言


などなど、
麻生さんがあたかも、子供を産まない人が悪いという発言をしたかのように、麻生批判を展開し続け、

そして、夜のしめくくりの「報道ステーション」では、インタビューする記者から勘違いさせられたままの海江田党首の発言を取り上げて、どんどん世論に嘘を広めていくという高等テクニックだ。

Photo_2
ずる賢く、テロップには「産まないのが問題」発言と打っている。
海江田党首が「子供を産まない人が悪いという発言は、、、、」
とコメントしている映像を宣伝している。

何度も言うが、麻生さんは負担が増えるのは、子供を産まない事が問題なんだ。
という当たり前の事を言っているのに、いつのまにか、

「子供を産まない人が悪い。」という風に1日かけてテレビ朝日は誘導していったのだ。

今は選挙真っ最中。

立場がおありの麻生さんを応援し、我々が立ちあがり、テレビ朝日に文句を言おうではないか!

総選挙後の喧騒の中で憲法改正すべきではない。(喧騒の中で憲法を改正した)ナチスを見習え。と発言した時も。「当時のドイツのような事になるなよ」という話をま逆にすり替えられて報道したのは誰あろう、朝日新聞だった。http://houdoumimamoru.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-8200.html

負けるな麻生。

民主党の革丸君が言っていた

「閣僚の失言。これは決定的なものがない。期待するなら麻生(太郎副総理兼財務大臣)さんくらいか。麻生さんはテレビに出る機会はあるの?」

「マスコミの世論調査報道の後。これは君らマスコミに期待だ。ここで自民党がさらに強くなるのか、それとも風がこちらに吹くのか。本当に期待している」


革丸君の期待に応えようと、必死のテレ朝。

我々国民はよ〜く監視しよう!


541. 中川隆 2014年12月19日 23:14:56 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

韓国の売春婦が置かれている立場 2014年12月19日 日刊大衆


――著書を拝読して、「韓国に売春事情を扱うメディアが存在しない」ということに驚きました。

実際に韓国で取材をしたんですが、取材がもの凄く大変でした。

いくら説明しても理解してもらえなくて、なんでこんなに話が伝わらないのかって思ったら、日本の実話雑誌のようなメディアが全く存在しないようなんです。性のことを扱うジャーナリストもいなくて、たまに新聞が扱う程度だから、

現地の売春婦からしたらメディアに出るなんて考えられないし、信用できないし、性売買防止法で徹底的にやられているから、人を全く信用しないんです。

まあ大変でした。

――売春婦が置かれている立場も過酷なようですね。

韓国人は、日本とは比べ物にならないくらい地域の繋がりが強いんです。

家と家、地域、学閥など。

もし知り合いにバレたら、今まで生きてきた人生が全て終る、

くらいの感じで、ビビり方がハンパじゃないんです。

日本みたいに風俗嬢がTwitterをやっているなんて、ありえない。

また、ネットが発達しているので、すぐに広まってしまう。
日本の書籍もすぐに翻訳されて出回るので、もの凄く警戒されました。
http://news.livedoor.com/article/detail/9596174/


542. 2014年12月23日 14:20:07 : KbBTViOhgo

韓国人も知らない!?「韓国の売春婦」のリアルな実態
2014年12月19日 19時0分

日刊大衆
ネット上に数多く存在する嫌韓派だけでなく、ジャーナリストを標榜する人物も「日本では5万人の韓国人売春婦が暗躍している」というフレーズをしばしば使う。この数字の根拠は、2010年10月、韓国ハンナラ党の国会議員パク・ソヨン氏の「日本で韓国国外で売春を行っている韓国人女性は10万人以上に達し、そのうち5万人が日本で売春を行っている」とした発表にある。
しかし、本当に5万人もの売春婦が日本に存在しているのだろうか? その実態を探るべく、2014年10月24日に「日本人が知らない韓国売春婦の真実」(宝島社)を上梓した著者・中村淳彦氏に話をうかがった。


――著書を拝読して、「韓国に売春事情を扱うメディアが存在しない」ということに驚きました。

実際に韓国で取材をしたんですが、取材がもの凄く大変でした。いくら説明しても理解してもらえなくて、なんでこんなに話が伝わらないのかって思ったら、日本の実話雑誌のようなメディアが全く存在しないようなんです。性のことを扱うジャーナリストもいなくて、たまに新聞が扱う程度だから、現地の売春婦からしたらメディアに出るなんて考えられないし、信用できないし、性売買防止法で徹底的にやられているから、人を全く信用しないんです。まあ大変でした。

――売春婦が置かれている立場も過酷なようですね。

韓国人は、日本とは比べ物にならないくらい地域の繋がりが強いんです。家と家、地域、学閥など。もし知り合いにバレたら、今まで生きてきた人生が全て終る、くらいの感じで、ビビり方がハンパじゃないんです。日本みたいに風俗嬢がTwitterをやっているなんて、ありえない。また、ネットが発達しているので、すぐに広まってしまう。日本の書籍もすぐに翻訳されて出回るので、もの凄く警戒されました。

――韓国人といえば「整形文化」が有名ですが。

取材した殆どの売春婦が言っていたけど、「整形は投資」という考え方らしいんです。韓国には前借金文化があって、闇金から整形代を借金して、それを売春して返す。多様性のある日本の風俗産業とは違い、韓国の風俗産業では「若くて美人」ってことだけに価値があるから。

――売春がはびこる背景に、若者の貧困問題もあるようですが?

ソウルに行ったら、物価はほぼ東京と変わらない。でもアルバイトの時給は300〜400円という現状がある。88万ウォン世代という言葉があるように、多くの若者は月収9万円程度で非正規の仕事をするしかない。当然、親元を出られず、大卒でもまともな暮らしができるのは一握りという現実があるんです。売春婦になれば、日本円に換算して60万〜90万円は確実に稼げる。正直、日本で売春するより韓国で売春をしたほうが儲かる。実際に取材した7〜8人の売春婦は、全員大学を卒業していました。

――「買う」側の男性の心理も気になりますね。

韓国で驚いたのは、とにかく飲み食いが凄い。もう、新宿や池袋の何倍もあるような繁華街で、朝までガンガンに酒を飲んで飯を食ってるの。ギンギラギンだよ。夜中、終電過ぎても。よくお金があるな、って思うけど。そうやって朝まで飲み食いする中で、売春という遊びがセットになっているんです。数字の根拠は詳しく本に書いたけど、韓国には約37万人の売春婦が存在します。これは人口比で日本の約2倍以上。この巨大なマーケットを、韓国人の男性が支えているんです。


543. 中川隆 2014年12月24日 16:05:43 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

吉田清治証言がやはり真実だったとわかってから、このスレでも右翼の嫌がらせが酷くなりましたね。

544. 2014年12月24日 22:30:33 : KbBTViOhgo
The New York Times’ “Whitewashing History in Japan” Whitewashes Journalistic Due Diligence
December 10, 2014 |

The International edition of the New York Times recently published an article titled “Whitewashing History in Japan“, written based on an interview from a former Asahi Shimbun reporter named Takashi Uemura.

Predictably, the narrative was heavily one-sided and based on the premise that the Japanese military forced sexual slavery upon people known as comfort women. Uemura responded to the criticisms launched against him and the Asahi Shimbun by saying that “they want to bully us into silence”. The article went on to paint the Abe administration and the Japanese right wing as historical revisionists intent on overturning the 1993 apology issued in the Kono Statement.

Primary source information was also missing from the article regarding the facts behind the issue. Instead, the article simply regurgitated what others have claimed about the comfort women.

The only evidence that the article provided to back up the narrative of forced prostitution was the words of the alleged, former comfort women. The author failed to submit any additional primary source materials. Earlier this year, the Asahi Shimbun apologized for reporting as fact without performing any background checks Seiji Yoshida’s discredited claims that he “forced comfort women into enslavement”. Perhaps the New York Times hasn’t yet learned the folly of reporting without due diligence.

What the New York Times article failed to mention was primary source information, such as the Interagency Working Group’s (IWG) report on Nazi and Japanese war crimes, which it submitted to Congress in 2007. After spending 30 million dollars to go through over 8.5 million newly declassified documents, opened to the public under the Nazi War Crimes Disclosure Act and the Japanese Imperial Government Disclosure Act, the IWG was unable to find any evidence that gave credence to the claims of forced prostitution by the Japanese government or military. In fact, the report goes on to give an apology to the special interest groups who were eagerly looking forward to such evidence.

Furthermore, “Report 49″ provided by the United States Office of War Information (OWI) in 1944 described the interview of 20 captured Korean comfort women. The report clearly identified them as paid prostitutes instead of sex slaves, and went onto describe how they participated “in sports events with both officers and men, and attended picnics, entertainments, and social dinners”.
The primary source documents clearly noted that the comfort women were highly paid prostitutes.

Interestingly, a group of South Korean women recently sued their government saying that U.S. forces in South Korea treated them as comfort women. While the U.S. media immediately responded by saying that they were prostitutes, those same media outlets have continued to refer to those comfort women, who had served the Japanese military, as sex slaves.

Both Japanese and U.S. military bases, during their respective times, had “comfort stations” where men paid for sex with prostitutes. But curiously enough, those same prostitutes became “sex slaves” in name when served the Japanese military.

Perhaps it’s time for both the Japanese and Western media to return to primary source research and to deliver the real story.


545. 2014年12月27日 00:09:32 : b5JdkWvGxs

>>KbBTViOhgo

ネットウヨさん、必死だね


546. 2014年12月27日 00:42:46 : KbBTViOhgo
そんなことないよー
選挙ではどこの政党を応援してたんだい?


547. 中川隆 2014年12月27日 15:15:25 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
俺は選挙行った事一度もない


548. 2015年1月01日 09:00:02 : zcmYB6veRg
てっきり小沢教かと思ったが、、
阿修羅だとなぜか多いからな。
中国からのバイトだろうがな。
君は違うんだな。

549. 中川隆 2015年1月04日 12:45:04 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

強制連行実態 2015年01月04日

 韓国紙・中央日報は、2014年12月31日付の記事で、韓国政府による強制連行の初の大掛かりな実態調査を完了した、と報じた。

 その結果、企業名簿を作成した。現存する日本企業は三菱や三井など291社、新たに東芝やトヨタなど66社を確認した。

 1931年から45年までの韓国人の強制動員数は約783万人と推計、

このうち日本に連行されたものは102万人。

彼らを4042箇所(1329社)に送り込んだ。

このうち1737箇所は現存の291社が運営していた。

女性は性奴隷にして戦場の日本兵のもとへと送り込んだ。
http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/52091951.html


550. 中川隆 2015年4月13日 11:39:04 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

元日本人記者「10代後半の慰安婦20名、強制連行されてきた」2015.04.12


奈良新聞勤務、河瀬俊二氏…慶尚南道統営市を訪問「聯合ニュースの記事を見て来た」

奈良新聞記者出身の日本人活動家が日帝強占期に日本現地軍飛行場の工事現場に連れられてきた朝鮮人男性と慰安婦女性がいたという証言を記録した取材ノートのコピーを慶尚南道党統営市で公開した。

河瀬俊二(67)氏は10日、統営市庁の会見ルームで日本軍慰安婦のお婆さんと共にする統営市民の会の代表とともに記者会見を開き、40年前の取材ノートの一部をコピーした資料を紹介した。

河瀬氏は奈良県の日刊紙の奈良新聞社で1971年から1984年まで13年間記者として勤務した。

彼は1975年8月、日本現地でインタビューした在日朝鮮人の姜正市(当時、65歳)氏の証言などを作成した取材ノートを根拠で、日帝強占期に日本の奈良県天理市「柳本飛行場」工事現場に朝鮮人男性3人が強制的に動員され、女性20人余りが慰安婦として連行されてきたと説明した。


http://blog-imgs-73.fc2.com/k/a/n/kankokunohannou/20150412-05.jpg
http://blog-imgs-73.fc2.com/k/a/n/kankokunohannou/20150412-06.jpg


原本は別に保管しているが、全体の分量が数百ページだ。 二重の朝鮮人強制被害に対する部分は20ページほどだ。

取材ノートには手で描いた施設物の配置図なども含まれているが、現在、飛行場施設配置図と比較すれば、相当部分が一致する。

慰安婦女性20人のうち半分は統営、その残りは晋州出身だ。

彼らのほとんどの年齢が10代後半ということ以外に名前など具体的な名簿と住所は確認されなかったと説明した。

河瀬氏は「慰安所が軍人たちが利用したかどうか対しては、被害当事者証言がないため、確認できず、工場労働者が利用したと結論を下した」と話した。

ただ「慰安所を利用する人が軍人ではなかったとしても位置が海軍管轄地域にいたという点に注目しなければならない」と強調した。

このような取材内容は奈良新聞に連載された。 1985年、1987年、1992年3度にわたって本に出た

河瀬氏は「新聞社の社風が非常に自由であり、在日韓国人問題や差別に対し、自由に取材することができた」と説明した。

河瀬氏は記者会見に続き、慶南道立統営の老人専門病院に入院中の生存最高齢の慰安婦被害者キムボクドゥク(98)おばあさんに会った。

さらに、2年前には市民の会が社会の各界各層の募金で、統営市の南望山彫刻公園の入口に建設した慰安婦追悼碑「正義碑」を見て回った。

河瀬氏は「おばあさんが思ったより健康で、安心した」「いつまでも元気だったらいいな」と話した。

彼は13年、記者生活以後ジャーナリストで「柳本飛行場案内板の撤去を考える会」で活動している。


この会は、この飛行場の工事に朝鮮人男性と女性が動員されたという内容などを盛り込んだ案内板を設置したが突然撤去したことをめぐり、様々な批判的な活動を行っている。

一方、河瀬さんの今回の訪問は、聯合ニュースが2013年4月慰安婦追悼正義碑建立ニュースを日本語ニュースで送稿したこと縁になった。

河瀬さんは

「仲間の活動家が資料として出していたが聯合ニュース記事を昨年の秋に見て取材ノートを思い出した」とし

「若い頃は韓国という名前を見慣れずに大きな関心を寄せる事も無かったが、案内板の撤去に関連した活動をしながら興味を持つようになった」と述べた。

日本軍慰安婦と一緒に統営市民の会は、河瀬さんが属しているミーティングの活動に力をボテルできるように、彼は行う運動関連の署名を行い、その結果を日本に送る予定だ。 河瀬さんは、来る15日、ソウル光化門で予定されてセウォル号の惨事1周期文化祭など、国内のイベントに出席し、19日出国する計画である


聯合ニュース
http://goo.gl/KX8PVD


551. 中川隆 2015年4月17日 22:49:33 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

4月17日 朝日新聞 朝刊より

戦時中、日本に動員された朝鮮人犠牲者の追悼碑を、撤去するよう求める動きが最近、各地に広がっている。「強制的」という文字をテープで隠したり、副教材から説明を削除したりした自治体も現れた。史実に揺らぎが生じているのか。朝鮮人強制連行の歴史を追いかけて20年以上になる外村大・東京大学教授に聞いた。

 ――強制連行の歴史に長くこだわってきたのは、なぜですか。

 「どうせ韓国の味方でしょうとか、どうも『反日』らしいとか、色眼鏡で見られがちですが、私は日本近現代史の、実証を重んじる研究者です。戦前の日本帝国の実像は、裏側からのほうがよく見える。今後、日本がどんな社会をつくっていくかを考えるうえでも大切な歴史です。韓国・朝鮮人のためというより日本人自身のため、未来のために記憶し、伝えていくべきだと思っているのです」

 ――強制連行は「なかった」と主張する人がいますが。

 「とんでもない。朝鮮半島で、日本内地への暴力的な労務動員が広く存在していたことは、史料や証言からも否定しようがありません。政府は1939年から毎年、日本人も含めた労務動員計画を立て、閣議決定をした。朝鮮からの動員数も決め、日本の行政機構が役割を担った。手法は年代により『募集』『官あっせん』『徴用』と変わりましたが、すべての時期でおおむね暴力を伴う動員が見られ、約70万人の朝鮮人が主に内地に送り出されました」

 「こんな当たり前の史実が近ごろ、なぜか曲解される。誤解や間違いも目立つ。歴史家の常識と、世間の一部の感覚とが、ずれてきたように感じています」

 ――なぜ、こんなことに?

 「特に90年代半ばからですね、史料の発掘が進み、いろんな話が出てきました。朝鮮人の待遇が日本人よりよかったとか、自ら望んで来た人がいたとか。いずれも事実の断片ではあるんですよ。じゃあ暴力的な連行や虐待は例外的だったかというと、それは違う」

 「事実というものは無限にあるものです。都合のいい事実だけをつなぎあわせれば別の歴史も生まれる。でも、それは『こうあってほしい』というゆがんだ願望や妄想に近い。慰安婦問題で国が直接、連行を命じた文書が出ていないことに乗じ、強制連行までも『なかった』ことにしたい人がいるのでしょう」

    ■     ■

 ――事実の断片と歴史の本筋。どうすれば見分けられますか。

 「何が一般的で、何が例外的な出来事だったかを見分けるには、幅広い史料にあたり、ミクロとマクロの両方から押さえる必要があります。日本の統治機関である朝鮮総督府の調べでは、太平洋戦争開戦前年の40年に朝鮮農村で『転業』を希望していた男性は24万人程度しかいなかった。朝鮮内部の動員や満州への移民もありましたから、その年だけでも底をつく人数です。翌年から人集めが大変になったのは疑いようがない」

 「実際、内務省が調査のため44年に朝鮮に派遣した職員は、動員の実情について『拉致同様な状態』と文書で報告しています。厚生省から出張した職員も45年1月、村の労務係の言葉として、住民から『袋だたきにされたり刃物を突きつけられたり命がけ』だと報告している。それほど抵抗が広がっていたのに、日本帝国は無理に無理を重ね、逆に動員数を増やしていったのです」

 ――そこまでして動員したのは、なぜですか。

 「政府が目指していたのは、あくまでも戦争勝利でした。そのために労働力を総動員し、石炭や食料を増産しようとした。朝鮮人の多くが投入されたのも炭鉱です」

 「炭鉱は重要産業なのに人手不足で困っていた。待遇が悪く、監獄部屋に象徴されるように労務管理も劣悪だったからです。本来なら機械化と意識改革を進めるべきでした。しかし業界は朝鮮農村の困窮や無知につけ込み、安い労働者を確保しようとした」

 「ただ、朝鮮に行政機構は整っていませんでした。識字率が低く、ラジオはおろか電気すら通っていない村々で、日本内地に渡る労働者を集めるのは非常に困難な作業だった。とにかく若い男を呼び出し、最後はトラックに押し込むような事態になったのです」

    ■     ■

 ――「募集」段階では強制とは言えないという人もいます。

 「初期の段階から当局は深く関わっていました。たとえば会社の募集係に同行し、日本人の警官が家の前に立つ。役人から呼び出しがかかる。それだけで多くの朝鮮人が恐れをなし、おとなしく応じたのです。断って大変な目に遭った、というような話が出回っていましたから。それが植民地というものです。その後、戦局が悪化するにつれ、暴力性は誰の目にも明らかになっていきました」

 ――最後は徴用までした、と。

 「そこが誤解されがちですが、『徴用』は国民徴用令に基づき、国が責任をもって配置するもので国の栄誉を担う労働者だったんです。弔慰金や別居手当など援護もついてきた。だから日本人は戦争初期から徴用されました。ところが、朝鮮人にこの制度が適用されたのは戦争末期の44年です。徴用令を適用しないまま、多くを動員したのが特徴でした」

 ――なぜでしょう。

 「日本人と違って、ちゃんとした権利を持つ主体ではなく、法に基づく行政命令がなくても動かせる、と見なされたからでしょう。安くても、厳しい職場でも、つべこべ言わずに働いてくれるだろうと。差別意識があったのです」

 ――最近の外国人労働者問題の議論に似ていますね。

 「そうなんです。人手不足が深刻な分野で、賃金アップや労働環境の改善によって日本人を定着させるのではなく、低賃金でも働いてくれそうな外国人を期間を限って連れてくる、という発想は同じです。省庁をまたいで人員確保に関わる部局が多数あり、利害や思惑の違いを抱えていて、きちんとした方針を打ち出せなかった点も似ている。結果として、なし崩し的に動員が広がっていきました」

    ■     ■

 ――裏側から、日本帝国のどんな姿が見えてきましたか。

 「戦争に勝つための国家運営や構想、政策とはほど遠かった現実です。総力戦では、まさにその国の素の姿が現れます。英国のように労働運動が盛んな国では、労働者の意見を取り入れたほうが生産性も上がると考えた。日本では民主主義も労働運動も弱かったので『ともかく働け』となった」

 「朝鮮に長く住んだ役人の中には、創氏改名に反対した人もいたんですよ。ところが、そういう声は上に届かず、現地の事情に疎い役人が無理な計画を立てた。動員数を達成するため老人や病人まで送り出し、すぐに送り返すようなことまで起きていたのです」

 「民主主義を欠いた社会が、十分な準備も態勢もないまま無謀な目標に突き進めば、結局はその社会でもっとも弱い人々が犠牲になる。社会全体も人間らしさを失っていく。そういう歴史として記憶すべきだと思っています」

 ――戦後70年で出す首相談話が議論になっています。

 「朝鮮半島で起きた歴史を踏まえれば、村山談話にも小泉談話にもあった『植民地支配』への『おわび』は盛り込んで当たり前です。ただ、特定の言葉が入るかどうかだけが注目されることには違和感もある。村山談話には『若い世代に語り伝えて』いくとありますが、では歴代政府はその後、何をしたのか。もっと具体的な行動を積み重ね、信頼関係を築くことこそが大切なはずです」

 「日本には朝鮮をルーツに持つ人も、中国をルーツに持つ人もいます。戦後は一緒に手を携えて、民主的で平和な日本を築いてきました……ということが言えるようになればいいのですが」

 ――歴史を見る目も、外交関係に引きずられがちですね。

 「その時期を生きた私たちの祖先を尊重したい、という思いは私も同じです。ただ、足尾鉱毒事件を闘った田中正造は、日韓併合で浮かれているような民族は滅びると批判していた。朝鮮の植民地官僚の家庭で育った作家の梶山季之も、日本人の責任を問う作品をいくつも残しています。植民地支配に何の矛盾も感じずに職務を遂行した人だけを、私たちが継承すべき日本人の姿だ、歴史だと言うのは、とても不自然です」

 「怖いのは、学校教育の現場で、強制連行の問題は厄介だから触れずにおこう、という雰囲気が広がることです。その気配はすでに現れている。生徒にしてみれば授業では教わらず、書店に行けば嫌韓本が山積みなんです。なかった論を信じ込みはしないまでも、語られてきた歴史は少し違うのではないか、という疑いを持つ人が増えてもおかしくない」

 「追悼碑の問題も、自治体は明らかに腰が引けている。地元の人々が強制連行の歴史を掘り起こした地域も少なくないんです。そんな歴史があったということを自治体トップがきちんと認め、発信する。歴史の真贋(しんがん)を見抜く力が、いま私たちに求められています」

 (聞き手・萩一晶)

    *

 とのむらまさる 66年生まれ。早稲田大学社会科学研究所助手をへて07年から東京大学大学院総合文化研究科准教授、今春から教授。著書に「朝鮮人強制連行」。
http://www.asyura2.com/15/senkyo183/msg/377.html


 


552. 中川隆 2015年5月12日 12:24:25 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

・資料庫 Fight for Justice 日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任
http://fightforjustice.info/?page_id=608

553. 2015年5月14日 17:53:11 : w3M1BHSquE
>>552
あんたの 妄想的陰謀論は 眉を顰めざるを得ないが この慰安婦に関してだけは
そのリンクは とても参考になると思う 有り難く保存させて頂く。

だがやっぱり、吉田証言は 虚構だった可能性は 極めて高くなった事だけは認めような 悪い事は言わん

しかしな、吉田証言が 例え嘘でも法螺でも、【慰安婦という戦争犯罪】 が消えて無くなる訳では無い
あの国家体制の責任は 何一つ否定できるものでは無い とも言っておくぞ。


554. 中川隆 2015年7月26日 06:42:30 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

経済ジャーナリスト・今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/310.html

中曽根元首相が「土人女を集め慰安所開設」! 防衛省に戦時記録が(リテラ)
http://www.asyura2.com/14/senkyo170/msg/574.html

『報道特集』 がついに中曽根元首相の「土人女を集め慰安所開設」文書を報道! 息子の弘文が慰安婦否定の責任者ってなんの冗談
http://www.asyura2.com/15/senkyo189/msg/423.html


555. 中川隆 2015年7月26日 12:47:47 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

TBS 報道特集 「インドネシアでの戦時性暴力」  慰安所設置に関わった中曽根元首相 インドネシア元慰安婦の辛い証言
http://www.asyura2.com/15/senkyo189/msg/448.html

556. 中川隆 2015年7月27日 05:49:55 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

吉田証言の虚偽を謝罪して以降、口をつぐんでいた当の朝日新聞も、その少し前に慰安婦問題の本質を検証する重要な記事を出している。

 7月2日付朝刊に17面の1ページを使って掲載されたその記事のタイトルは、「【慰安婦問題を考える】「慰安所は軍の施設」公文書で実証」。日本近現代史家である永井和・京都大学大学院教授へのインタビューを中心に、「河野談話以降」の慰安婦関連研究の現状を記したもので、警察や軍の公文書など13の資料を引用しながら、慰安所が日本軍によって設置された施設であったことを実証的に明らかにしている。その内容を紹介しておこう。

 まず、慰安所が作られた経緯だ。1996年に警察大学校で発見された複数の公文書は、日中戦争開始直後、日本国内の行政を担う内務省の警保局が慰安婦の募集や渡航に関する報告をしていたことを示している。たとえば、その公文書のうちのひとつ、上海総領事館警察署長が長崎水上警察署長に送った依頼文では、「前線各地における皇軍の進展に伴い」、「施設の一端として前線各地に軍慰安所」を「設置することとなれり」と記されている。永井教授はこう解説している。

「まず37年12月、中国に展開した中支那方面軍で『将兵の慰安施設の一端』として『前線各地に軍慰安所』を設置するよう定められました。上海の日本軍特務機関と憲兵隊、日本総領事館が業務分担協定を締結。軍の依頼を受けた業者が日本内地と朝鮮に派遣され、『皇軍慰安所酌婦3千人募集』の話を伝えて女性を集めました」

 ようするに、日本軍と警察、領事館が中国戦線の前線に慰安所設置を命令し、業者に女性収集を要請していたのだ。しかも、この命令の事実は地方の警察には秘密にされていたらしい。

 それを示すのが、当時の和歌山と群馬の県知事が、内務省警保局長や内務大臣、陸軍大臣に宛てた複数の文書である。いずれも業者による女性募集を問題とするもので、とりわけ和歌山では、「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」という文書名からわかるように、当初、不審な者たちが女性を連れ去る誘拐の線を疑っていたようである。

「和歌山県の警察は『軍の名をかたり売春目的で女性を海外に売り飛ばそうとしたのではないか』とみて、刑法の国外移送目的拐取の疑いで業者を取り調べました。しかし大阪の警察に問い合わせた結果、軍の依頼による公募とわかり、業者は釈放されています。大阪など一部の警察には事前に内々に軍からの協力要請が伝えられていたのです」(永井教授の談、朝日新聞より)

 こうした国内での経緯があって、38年2月、内務省は軍の要請にもとづく慰安所従業婦の募集と中国渡航を容認するよう通達し、また、軍との関係を隠すよう業者に義務づけた。これも内務省から各庁府県長官に宛てた文書から明らかになっている。さらに同時期、陸軍省副官から北支那方面軍および中支那派遣軍参謀長にあてた依命通牒では、女性の募集にあたっては地方の憲兵や警察当局と連絡をとるよう、中国駐屯の日本軍が命じられていた。つまり、業者は好き勝手に売春を斡旋していたわけではなく、行政の方針や軍命のもと庇護され、超法規的に慰安婦となる女性を調達していたのである。

 そして、この特集記事で注目すべきは、永井教授が2004年に発見した「改正野戦酒保規程」(37年9月29日付)という資料である。これは、陸軍大臣から陸軍内に通達された公文書で、その内容は、軍隊内の物品販売所である「酒保」に「慰安施設を作ることができる」との項目を付け加えていた、というもの。つまり、わざわざ慰安所設置のために軍の規定を変更していたわけだ。

 これは、慰安所が民間ではなく軍の施設であることを裏付ける証拠のひとつとなる。たとえば産経新聞は社説や同社発行の保守系雑誌「正論」誌上で、慰安婦は「民間業者が行っていた商行為」で「自ら志願した娼婦」などと主張しているが、上記の公文書などの存在を(おそらくはあえて)無視した言説だろう。しかも産経が悪質なのは、他ならぬ鹿内信隆・元産経新聞社長が著書で、陸軍経理学校時代に“慰安所のつくりかた”を教わったと証言していることまで、知らぬ存ぜぬを突き通していることだ。鹿内元社長は、桜田武・元日経連会長との対談集『いま明かす戦後秘史』(サンケイ出版)のなかで、はっきりとこう言っている。

「(前略)軍隊でなけりゃありえないことだろうけど、戦地に行きますとピー屋(註:慰安所のこと)が……」
「調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が将校は何分、下士官は何分、兵は何分……といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが『ピー屋設置要綱』というんで、これも経理学校で教わった」

 事実、本サイトでも既報のとおり、靖国偕行文庫に所蔵されている、陸軍経理将校向け教科書『初級作戦給養百題』にも「慰安所ノ設置」が業務のひとつとして記されている。永井教授が発見した「改正野戦酒保規程」に、上述の鹿内氏の証言……どうみたって、これらは一つの結論を導き出すだろう。永井教授は朝日新聞紙上で、このよう結論づけている。

「慰安所は民間業者が不特定多数の客のために営業する通常の公娼施設とは違います。軍が軍事上の必要から設置・管理した将兵専用の施設であり、軍の編成の一部となっていました」
http://www.asyura2.com/15/senkyo189/msg/475.html


557. 中川隆 2015年7月29日 20:33:38 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

日本が強制徴用した中国人労働者は1000万人以上―中国紙
http://www.recordchina.co.jp/a115074.html

2015年7月28日(火) 12時31分


2015年7月28日、西安日報は「日本が強制徴用した中国人労働者は1000万人以上」と題する記事を掲載した。

記事は、「中国人民抗日戦争記念館で行われている『偉大な勝利、歴史の貢献』をテーマとした展示会の展示資料には、1931〜1945年に日本が強制徴用した中国人労働者が1000万人以上であるとの記録が残されている」とし、「当時、中国各地で数千人規模の中国人が強制徴用され、軍事施設の建設や鉱山の採掘などに従事させられた。非人道的な虐待を受けたり、虐殺されたり、餓死するケースもあった」としている。

北京市資料館の資料によると、旧日本軍が北京市で作成した1944年の労働者リストには、12万人の名前や住所が記されているという。また、中国人民抗日戦争記念館の李宗遠(リー・ゾンユエン)副館長は「国内の労働力不足を補うため、日本は4万人余りの中国人労働者を日本に送り、135の施設で苦役に就かせた。日本企業の搾取の方法は残酷極まりなく、多くの中国人労働者が死傷した。日本で死んだ人数は6830人にのぼるという統計もある」などと解説した。

展示会の目立つ場所には、日本の35の企業の373点に及ぶ報告書と外務省の報告書32点が展示されており、中には1943年4月〜1945年5月に日本に強制的に連行された労働者の氏名や契約書、死亡診断書などが含まれているという。(翻訳・編集/北田)


558. 中川隆 2015年9月26日 07:19:46 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

慰安婦問題で右派からリンチ受けた元朝日・植村記者が産経の阿比留記者に反撃! 産経側の失態を次々と暴露
http://lite-ra.com/2015/09/post-1528.html

阿比留瑠比『歴史戦 朝日新聞が世界にまいた「慰安婦」の嘘を討つ』(産経新聞出版)
http://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%88%A6-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%81%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AB%E3%81%BE%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%8C%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%98%98%E3%82%92%E8%A8%8E%E3%81%A4-%E7%94%A3%E7%B5%8C%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88-%E7%94%A3%E7%B5%8C%E6%96%B0%E8%81%9E%E7%A4%BE/dp/4819112538

2015.09.25. 産経新聞「従軍慰安婦報道」のみっともない真実(1) リテラ


 朝日新聞がいわゆる「吉田証言」に関する従軍慰安婦関連の記事を取り消したことに端を発した昨夏の報道問題では、右派メディアやネット右翼たちが執拗に“朝日バッシング”を繰り返した。なかでもそのスケープゴートにされたのが、過去に従軍慰安婦の記事を2度執筆した、元朝日新聞記者・植村隆氏だ。

 植村氏の記事は朝日が虚偽だと認めた「吉田証言」とは無関係だが、右派メディアは、植村氏が1991年に元慰安婦の証言テープの内容を含むスクープ記事を出したことについて「事実上の人身売買であるのに強制連行されたように書いた」などとして、「植村は捏造記者だ!」と個人攻撃に血道をあげた。


 そして、同時期の「吉田調書」報道の一部訂正や、安倍官邸と自民党が“朝日潰し”の動きを誘導したことで、植村氏は一連の朝日報道問題の“アイコン”に仕立て上げられた。非常勤講師を務めている北星学園には脅迫が殺到、さらに本人だけでなく娘にも殺害予告が届くなど、“リンチ”とも呼べる状況が続いたのである。

 それから1年後の今年8月4日、“朝日バッシング”の急先鋒だった産経新聞紙上に、植村氏のインタビュー記事が掲載された。

 インタビューしたのは、産経新聞政治部編集委員・阿比留瑠比記者。第一次政権時代から安倍首相べったりの論陣を張り、NHKの岩田明子記者とともに“安倍首相の助さん格さん”といわれている人物だが、阿比留記者はこの間の朝日叩きにも異常な執念を燃やし、植村氏に対しても、「(植村氏の)この誤った記事が慰安婦問題に火が付いた大きなきっかけとなった」(産経新聞2014年8月8日付)「植村氏もそうですが、朝日の方々は本当に誰も反省しない。『自分が悪かった』『自分の責任だ』との思考が欠落しているのではないかと思うほどです」(産経新聞出版『「正義」の嘘』所収)などといった批判を浴びせてきた。
 
 つまり、今回のインタビューは、朝日問題勃発から1年、産経がエースの阿比留記者を投入し、植村氏を徹底的にやり込めてやろうとオファーしたらしい。実際、記事は1面、3面、27面を使ったもので、その内容も〈【植村元記者に聞く】「テープ聞いたの一度だけで記事書いた」〉〈【インタビュー詳報】証言テープ「僕は持っていない」〉という見出しをみてもわかるように、徹底して朝日と植村氏をこきおろすものだった。

 ところが、その紙面記事掲載から約1カ月後、“対決”は意外な展開を見せる。産経が8月29日からWeb版で全10回に分け、超長文の「インタビューの詳報」を改めて公開したのである。

 この“詳報”は、産経側がインタビューに際して植村氏に「記事とは別に『一問一答』を載せる」ことを約束した結果で、会話をほとんどそのまま載せることになったらしい。

 そして、録音テープを一字一句書き起こしたようなその文章を読んでみると、産経紙面版とは180度正反対のやりとりが展開されていたのだ。

 取材している側であるはずの産経の慰安婦問題に対する不勉強、取材不足、思い込みが次々露呈。阿比留瑠比記者は、植村氏から逐一矛盾を指摘され、反論できずにたじたじになっていく−−−−。

 それでは、そのハイライトをお伝えしよう(以下、一問一答は産経新聞Web版からの引用/一部省略あり)。

 ──そもそも、取材当日、やってきたのは阿比留記者と外信部の原川貴郎記者のふたりだったが、実は、植村氏へのインタビュー申し入れは別の記者の名前で行われていた。植村氏がOKを出すと、当日、いきなり阿比留記者が現れたという。インタビューは本番に入る前に、植村氏の“逆質問”から始まった。

植村「突然、その、えーっと、取材担当者が変わったというのはなんか理由があるんですか」
原川「特にないんですよ。たまたまいただいた日にちというのがどうしてもその記者の取材が入っていて動かせないということで。そういう経緯です」
植村「ふーん」
原川「それじゃあもう一人、原川の他に誰を取材に行かせるかということで阿比留記者になったと…」
植村「なんとなく裏読みする人がいてですね、阿比留記者が最初から申し込んだら植村が断るんじゃないかと」
阿比留「はは」

 率直に言えば産経側は“騙し討ち”を狙っていたわけだが、植村氏がなぜ最初にこの質問から入ったのかというと、「植村は産経から逃げ回っている」という言説がネット上に出回っているからだった。産経も紙面で植村批判を繰り返し、昨年12月には〈【朝日慰安婦報道】植村氏は産経の取材を受けよ〉との見出しで、あたかも植村氏が産経の取材から逃げているかのような印象を与える記事まで載せていた。

 しかし、事実はそんなことはなく、植村氏は過去に文書での回答はしているし、1月には会見で会った当の阿比留記者から「取材をさせて欲しい」と言われ、その場でOKまでしていたのだが、いくら待っても正式な取材依頼が来なかったという。

 そのことを植村氏に追及された阿比留記者は「その後は植村さんにスポットをあてる理由が特になかった」などとシドロモドロに。一方、植村氏は「せっかく阿比留さんが来たんで、これは私にとっても、とっても大事なチャンス」とやる気満々。植村氏の“逆質問”はさらに続く。

植村「あのー、私は、『歴史戦』(産経新聞出版)という本を読ませていただいて。ここに 阿比留さんの序文がありまして、ここを見るともういきなり植村の話が出てくるんです」
阿比留「ああ、質問のところですね」
植村「質問のところね。これ、阿比留さんの文章だと思うんですけど、『記事では(元慰安婦の)金(学順氏)は匿名となっていたが、親から売られたという事実への言及はなく、強制連行の被害者と読める書きぶりだった』というのが書かれていた。これについてちょっと最初に教えてほしいの。やっぱりこれだけの部数の本にこういうふうに書かれているということでね。これ、一体どういうことですか。『親から売られたという事実への言及がなく』というのはどういう意味ですか」

 ここは解説が必要だ。植村氏が書いた慰安婦に関する署名記事は2本ある。まず、1991年8月11日付朝日新聞(大阪版)に掲載された最初の記事は、元従軍慰安婦だった女性の一人がソウルに生存していることがわかったというもの。この女性は、後に日本政府に対して戦後補償を求める訴訟に加わり有名になった金学順さんだが、報道は韓国で慰安婦の実態調査をしている「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)が聞き取り調査をはじめ、聞き取りテープを公開したという内容だった。

 ふたつ目の記事は、この金さんが訴訟に向けて弁護団の聞き取りを受ける際に弁護団に同行し、金さんが語った生い立ちや慰安婦にされる過程を書いたもので、同年12月25日付の朝日新聞(大阪版)に掲載された。

 ここで問題になっているのは、ふたつ目の記事に関することで、金学順さんの経歴が縷々書かれているのに、金さんが母親に40円で「妓生を養成する家」(キーセン学校)に養女に出された(売られた)事実が触れられていないというものだ。キーセンとは韓国の芸者のことで、売春婦ではない。ところが。阿比留記者ら右派メディアは金さんがキーセン学校に通っていたのだから、自らの意思で売春婦にちがいなく、それを書かなかった植村氏の記事は意図的だと批判しているのだ。ところが、これに対して、植村記者がこうつめていく。

植村「ちょっと待って。要するにキーセンに売られたことが問題なんですか」
阿比留「私は重要なことだと思っているんです」
植村「キーセンに売られたということと慰安婦になったことがどう関わっていると…」
阿比留「例えば、売春婦という場合もありますけども、いわゆる軍関係じゃなくて。すでにキーセンに40円で売られた段階で、そういうふうになる可能性がですね、当時の朝鮮、日本でも似たようなものだったといいますか、あったわけですから、そういったことを個人の来歴の中ですね、どういう育ち方をしたかということについて重要だと私は考えました」
植村「可能性があるということで、個人の、まあ売春婦みたいな、可能性があるということでそういうのを書く必要があるんでしょうか」
阿比留「あのー、その人のですね、どういう立場でどういうふうな暮らしをしていたかということはやはり必要だと思いますね」

 当然のように「キーセンに売られたことを書くのは必要」と主張する阿比留記者。すると、この答えを受けて、植村記者は意外な事実を突きつける。

植村「ああ、そうですか。(言いたいことは)分かりました。じゃあ産経新聞は、親から売られたというのを当時、書かれていたんでしたっけ」
原川「キーセンについては、当時の訴訟を受けての記事などでは、そういうくだりはありませんね」
植村「個人の来歴を、もし仮に阿比留さんが必要だと思えば、当時、産経新聞は書くべきだったんですかね」
阿比留「私は産経が、過去の記事全部をチェックできているわけじゃないので分かりませんけれども、書いた方が正確であろうと思います」
植村「なるほどね。書いた方が正確だったと。分かりました。それはまあ、あの、意見ですね」

 “朝日植村は金さんがキーセン出身だったことを書け”“最初から金目当ての売春婦だったのではないか”などと主張していた産経も紙面ではこれに言及していなかったのだ。いや。産経だけではない。1991年12月6日の金学順さんらの提訴を報じた5つの全国紙は、どこも「キーセン学校」の経歴を書いていなかった。

 しかも、驚くべきは、植村記者に問われた阿比留記者が、「過去の記事全部をチェックできているわけじゃない」と回答したということだろう。

 そもそも、他社の慰安婦報道について批判するならば、最低でも比較するため、自社がどのように扱ったかぐらいは把握しておかねばならないだろう。だが、阿比留記者は自社の記事も読まないまま、朝日と植村記者を口撃していたのである。

 まさに赤っ恥だが、これはまだ序の口。産経と阿比留記者は次々に失態をさらけ出す。

 次の論点になったのは、植村氏が最初に書いた記事の前文(リード)に〈「女子挺(てい)身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた……〉という文言があったことだ。日本国内では「挺身隊」といえば軍需工場などに勤労動員する組織のことを指していたことから、阿比留氏ら右派メディアは、植村氏がわざとこの両者を混同・誤用し、さらには「連行」という言葉を使って、人狩りのようなかたちの「強制連行」をイメージさせたと主張したのだ。

 だが、これについても植村氏は逆質問で、阿比留氏を追いつめていく。

植村「それからもう一つ。強制連行の被害者だという書きぶりだったと。これはどういうふうに」

 実は、植村氏の記事には「強制連行」という言葉はいっさい出てこない。植村氏自身も、金学順さんが(吉田清治証言にあるような)暴力によって無理やり連れ去られたという認識は当時もいまもないと一貫している。ただ、父親が死んで家が貧しかった金さんが「そこへ行けばお金が稼げる」と騙され、本人の意に反して戦場で売春行為を強制された事実は間違いないとの判断にはブレがなく、そのことは記事にもきちんと書いている。

阿比留「女子挺身隊の名で戦場に連行されたという、『戦場に連行』というふうにされると、連行にはそもそも強いるという意味がありますからね、強制連行を意味するんじゃないかなあと普通は読めるわけですね」
植村「うーん、なるほどね。普通は読めると…。(言いたいことは)分かりました」

 ところが、金学順さんが「連行された」という表現は、植村批判の急先鋒である国際基督教大学教授の西岡力氏も、産経の月刊誌「正論」の中で使っていたのだ。植村氏は、阿比留記者らにそのことを指摘する。

植村「この場合の連行というのは、原川さんどういう意味ですか。強制連行の意味ですか」
原川「ま、あの、強制連行というか、ま、あの、どこかに連れて行かれたんだろうなと…」
植村「だから僕もどこかに連れて行かれたんだろうかなという、原川さんと同じ考えで使ったんですよ」
阿比留「でも『戦場に連行』と書かれています」
植村「じゃあこの(西岡氏の論文中の)『連行』というのは強制連行の意味にとるんですか」
阿比留「それは西岡さんに直接聞いていただかないと、無責任に答えるわけにはいかない」

 これまで植村氏の記事については植村氏に直接聞くこともなく、“無責任”に「強制連行の被害者と読める書きぶりだ」と批判し続けてきた阿比留記者が、西岡氏の論文については「本人に直接聞かないと」と言葉を濁した。植村氏は、西岡氏がどういうつもりで書いたのかを聞いているのではなく、阿比留氏が西岡氏の文章にある「連行」という言葉をどう読むかと聞いているのだ。ついに、阿比留氏の論理破綻が始まった──。

植村「じゃあ最後に。『強制連行の被害者と読める書きぶりだった』とあるんですけど、私は何回も繰り返しているから阿比留さんももちろんご存じだと思うんだけど、だまされたって書いてはいるんだけど、これってやっぱり強制連行の被害者と読める書きぶりと、阿比留さんは判断される」
阿比留「やはりリード(前文)を読むとですね、『女子挺身隊の名で戦場に連行された一人が』と書いてありますので、これは強制連行というふうに普通、読めるんじゃないかと思います」
植村「読めるんじゃないかと。もう一つ質問させて欲しいんですが、ところで強制連行って書いたらまずいんですか」
阿比留「強制連行? まあ、主語が問題ですよね」
植村「じゃあ僕がもし仮に強制連行と書いたとしてなんか問題があるんですか」
阿比留「要は主体がですね軍や官憲による強制連行であるか、あるいは民間の業者や、女衒その他もろもろが無理矢理引っ張っていったと。主語、主体が誰によるかによって全然話が違ってくると思うんですね」

 阿比留記者の理屈によると、「強制連行」と書くと、必然的に民間業者ではなく軍や官憲(警察)が関与したと読めるようになる。金学順さんについては軍や官憲が関与した事実はないのに、植村氏の記事ではあたかもそう読めることが問題なのだと主張し始める。

植村「なるほど。で、私の記事も軍や官憲が強制連行したみたいな書きぶりだったというふうに解釈されたの?」
阿比留「最初の女子挺身隊の名で戦場に連行され、と書くと、軍や官憲が主体であろうと普通は考える。それは植村さんの意図がどこにあったかは、これから、後で話していただければいいんですけど。そう読み取れるということです」
植村「そうするとやはり金学順さん、軍や官憲じゃないのにあれを書いたから強制連行と読める書きぶりだったというふうに書いているわけだね」

 ここで、植村氏はやおら1991年12月7日付の産経新聞(大阪版)の記事を取り出した。それを見て絶句する阿比留記者──。この続きはぜひ、次回を読んでほしい。

(野尻民生)


559. 中川隆 2015年10月27日 19:29:52 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs


女子挺身隊と慰安婦の混同も…慰安婦「誤報」の元祖は朝日新聞でなく産経新聞だった! 阿比留記者また赤っ恥
http://lite-ra.com/2015/10/post-1626.html
2015.10.27. リテラ

 産経新聞出版が出した『歴史戦 朝日新聞が世界にまいた「慰安婦」の嘘を討つ』という本がある。〈朝日新聞が世界にまいた「慰安婦」の嘘を討つ〉というサブタイトルからおわかりの通り、昨年8月の朝日新聞の慰安婦報道に関する検証・記事取り消しを受け、ひたすら朝日新聞を攻撃するために書かれた本だ。著者は「産経新聞社」と記されている。一般に著者名を「◯◯新聞××取材班」としている本はよくあるが、新聞社そのものというのは珍しい。実際には同社の名物記者、阿比留瑠比氏らが中心となって執筆している。

 社を代表して序章を書いているのが阿比留記者だ。その筆致はなかなか勇ましい。

事実に基づかない積年の慰安婦報道を通じ、日本の国際的な地位と名誉を傷つけ、国民の誇りを奪い続けてきた朝日新聞がついに“決壊”した

朝日新聞はいまだに、慰安婦問題で自社が犯した過ちの数々、自社の歴史を直視するつもりはないようだ。朝日新聞との「歴史戦」は、今後も続く

産経新聞は長年にわたり、歴史問題に取り組んできた。特に、日本の国際的名声を大きく毀損してきた慰安婦問題に関しては朝日新聞など他紙との論戦も辞さず、徹底的に検証を重ねてきた

手前みそになるが、産経新聞による地道な検証記事の積み重ねが、慰安婦問題に関する韓国や左派メディアによる「洗脳」を解いた部分もあると自負する

産経新聞は非力ながら(中略)、「戦後レジーム」の申し子である朝日新聞の動向を監視し、問題があればその都度、非を鳴らし、改めさせなければなるまい。
 そして今後も歴史問題と正面から向き合い、こつこつと事実を報じる努力を続けたい。例え匍匐前進であろうと、継続すればいつかは大きな前進となるはずだ

 こうした“立派”な主張を繰り返す阿比留記者が、24年前に韓国で初めて慰安婦だったことを名乗り出た女性の記事を書いた元朝日新聞記者の植村隆氏への直撃インタビュー(産経新聞デジタル版に掲載)を敢行したが、逆に反撃されてタジタジとなった経緯は本サイトでも2回にわたって詳報した。この本、『歴史戦』でまずヤリ玉にあげているのが植村氏の記事なのだ。阿比留記者、というより産経新聞社の主張はこうだ。

 朝日新聞は 昨年8月、済州島で日本の軍や官憲が韓国人女性を暴力的に狩り集めて従軍慰安婦にしたとする、いわゆる「吉田証言」に関する記事は誤りを認めて取り消したが、その他の従軍慰安婦に関する“誤報”は取り消していない。その最たるものが、植村氏が書いた記事だというのである。

 植村氏の記事は1991年8月11日付の朝日新聞大阪版に〈思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く 韓国の団体聞き取り〉の見出しで掲載された。産経をはじめとする“親安倍メディア”は、掲載から20年も経った最近になって、これを誤報だ捏造だと騒ぎ始めた。攻撃のポイントは2点あって、ひとつは植村氏が記事の前文に〈「女子挺身隊」の名で戦場に連行され…〉と書いたことだ。「女子挺身隊」と「慰安婦」は別モノなのに、植村氏はわざとそれを混同させ(事実を捻じ曲げ)、あたかも強制連行されたかのような書きぶりになっているというのである。もう一点は、この女性が親からキーセン学校(韓国の芸者養成所)に売られた事実があるのに、植村氏の記事ではそのことに触れていないというものだ。

 そんな記事が朝日のスクープとして報じられたため、韓国世論に火がついて、いわゆる慰安婦問題が日韓の懸案として燃え上がった。植村氏の記事こそが、誤った認識を世界に発信した“元凶”だというのである。

 ところが当時の新聞各紙を検証すると、産経を含む朝日以外も「女子挺身隊」「慰安婦」は同じものだという前提で記事が書かれていることがわかった。91年9月3日付産経新聞大阪本社版には〈「挺身隊」の名のもとに、従軍慰安婦として狩りだされた〉と、ほとんど植村氏の記事と同じ表現が使われている。キーセン学校の経歴についても、植村氏が記事を書いた時点では産経を含む主要5紙はどこも触れていない。「キーセンだから慰安婦になっても仕方がない」という立場はとらないという、当たり前の人権感覚なのである。

 いずれにせよ、これで朝日新聞の植村氏の記事こそが「従軍慰安婦問題の元凶」というのは、いくらなんでも無理だろう。それどころか、当時の産経はこの女性が「日本軍によって強制連行された」と、確認できただけで最低2回、ハッキリそう書いているのだ。そのうちのひとつ、1993年8月31日付の産経新聞大阪本社版の記事を紹介しよう。


太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年ごろ、金さんは日本軍の目を逃れるため、養父と義姉の3人で暮らしていた中国・北京で強制連行された。17歳の時だ。食堂で食事をしようとした3人に、長い刀を背負った日本人将校が近づいた。「お前たちは朝鮮人か。スパイだろう」。そう言って、まず養父を連行。金さんらを無理やり軍用トラックに押し込んで一晩中、車を走らせた


 記事に出てくる金さんというのが、植村氏が書いた「女性」のことだ。植村氏の記事では、女性は「騙されて慰安婦にされた」とされていて、「強制連行」や「軍」という言葉はひとつも出てこない。何のことはない。「日本軍によって強制連行された」というフレーズは、朝日ではなく産経が“世界に拡散”させていたのである。

 阿比留記者ら産経新聞「歴史戦」取材班は、この程度の自社の歴史すら検証していなかった。そこで、先のインタビューで植村氏から「(歴史戦と大袈裟なことを言うなら)産経新聞の先輩記者と歴史戦をまずやるべきじゃないですか」とやりこめられたのだ。

 ちなみに、金さんが日本の軍人に脅され、連れ去られた事実はない。だが、誤解のないように断っておくが、筆者は当時の産経の報道を批判するつもりはさらさらない。前出の産経新聞の記事は金さんの記者会見での証言を元に書いたものだ。金さんの証言はその後、二転三転した。半世紀も前の記憶だから、これは仕方がない。産経の記者は、その金さんのその時点での証言をきちんと伝えただけなのだ。これを誤報と批判されたら、新聞など成り立たない。というか、新聞はもともと“誤報”の巣窟なのだ。

 例えば、後に冤罪が判明した足利事件の菅家利和さんや厚労省汚職事件の村木厚子さんの逮捕時の報道は、いま振り返るとデタラメの垂れ流しだ。だが、当時の記事を取り消したりお詫び訂正した新聞社はひとつもない。それは、その時点において記者が真実だと信じた情報を正しく伝えた、という意味においては誤りではないからだ。これが新聞というメディアの欠陥であり限界なのだ。阿比留記者を始めとする最近の産経記者は、こうした新聞のメディアとしての特異性を知らないのだろう。でなければ、『歴史戦』などという恥ずかしい本は出せないはずだ。

 しかも阿比留記者は反省もないようで、2週にわたる本サイトの記事について「リテラには酷い書かれようだった」と社内で漏らしているという。ならば、勉強不足の阿比留記者にもうひとつ重要な情報を教えてあげよう。


560. 中川隆[1094] koaQ7Jey 2015年12月23日 17:47:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[442]

「バッシングに屈しない」=慰安婦報道で元朝日記者


 【ソウル時事】元朝日新聞記者で従軍慰安婦報道に関わった北星学園大(札幌市)非常勤講師の植村隆氏が13日、ソウルで記者会見し、「不当なバッシングには絶対に屈しない」と強調した。

 植村氏は「1991年の記事で、当時韓国で慰安婦の意味で使われていた『挺身隊』という言葉を使った。

それが原因で『捏造だ』などと激しいバッシングを受けてきた」と説明。

「当時は他のメディアも同様の表現を使っていた。私は捏造記者ではない」

と述べた。また、

「勤務先の大学だけでなく、家族まで脅迫される異常な事態になった。攻撃の異常さが違う」

と訴えた。(2015/08/13-19:44)


561. 中川隆[1842] koaQ7Jey 2016年3月08日 09:37:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1793]

6. 2016年3月08日 09:28:14 : eCkVyzTNOA : XFFN7imlNZU[56]

   「慰安婦」が売春婦だったと言うのであれば当時の「娼妓名簿」を示す必要がある。当時売春婦は自らの意思で「娼妓名簿」に登録しなければ売春は出来なかったのだ。
     娼妓取締規則1900年内務省令(朝鮮では1916年)
   第一条 十八歳未満の者は娼妓たるを得ず(朝鮮では17歳)
   第二条 娼妓名簿に登録せられざる者は娼妓稼を為すことを得ず
  
   従って戦前の朝鮮においては「売春婦であるためには娼妓名簿記載の証明が必要」であり、「娼妓名簿記載が無ければ売春婦とは認められない」ということである。
http://www.asyura2.com/16/senkyo202/msg/500.html#c6

562. 中川隆[3484] koaQ7Jey 2016年8月01日 18:10:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3839]

慰安婦にされた女性たち−フィリピン
http://www.awf.or.jp/1/philippine-00.html


 日本軍は、1941年12月、アメリカ領であったフィリピン・ルソン島へ上陸し、直ちにマニラを陥落させ、1942年1月3日から、軍政を実施しました。日本軍の軍政下で、フィリピン人は激しいゲリラ戦を展開し、抵抗運動を行いました。日本軍はゲリラ討伐を理由に、残酷な作戦を実行しました。フィリピンでのBC級戦犯裁判では、起訴381件の内、住民虐殺が138件、強姦が45件と多数を占めています。

 フィリピンでは、マニラをはじめ、占領地の各都市には軍慰安所がつくられ、日本人、朝鮮人、中国人の慰安婦が送り込まれましたが、現地のフィリピンの女性も慰安婦にされていました。

  フィリピン地図

 まずマニラ(地図中-2)には、連合軍資料にある警察報告によれば、慰安所12軒、兵下士官用5軒がありました。

捕虜の供述では、朝鮮人、フィリピン人、中国人の女性がいる慰安所が5ないし6軒あったとされています。

北部ルソン島では、バヨンボン(1)に慰安所がありました。

中部ビサヤ地方では、マスパテ島(3)に軍人倶楽部という慰安所がありました。

パナイ島のイロイロ市(4)には二つの慰安所があり、1942年には、第一には12人から16人、第二には10人から11人の慰安婦がいたことが確認されています。

セブ島のセブ(5)には、慰安所を経営する日本人業者が一名いました。

レイテ島のタクロバン(6)には、フィリピン人が経営する慰安所があり、9名のフィリピン人女性がいました。

同島のブラウエン(7)にも慰安所が1944年8月までには開設されました。

 南部ミンダナオ島のブツアン(8)には1942年にフィリピン女性3名の慰安所が開設されました。

また同島のカガヤン(9)には、1943年2月に第三慰安所ができたので、三つの慰安所があったことがわかります。

同島中央のダンサラン(10)にも慰安所がありました。

また同島のダヴァオ(11)にも、慰安所があり、朝鮮人、台湾人、それにフィリピン人の慰安婦がいました。

 
 また、フィリピンでは、軍の占領地域で現地部隊が一般女性を強姦した上に、暴力的に拉致・連行して、駐屯地の建物に監禁し、一定期間連続的に強姦をつづけたことも多かったことが証言されています。この被害者達も慰安婦被害者と考えることができます。そのような女性の中には父や夫を目の前で殺された人も少なくありません。
 


フィリピン政府による医療福祉支援事業の評価報告書より

(全文はこちら)
http://www.awf.or.jp/pdf/0197.pdf


多くのロラ(おばあさん)たちは、日本兵たちによって強制的に自宅から連行された。なかには仕事中や、両親に頼まれた用事で外出した際に連れ去られた者もあった。多くは当時、まだ独身であったが、既婚者も含まれていた。

ビコールに住むロラのひとりは、その頃住んでいた村に日本兵がやってきたとき、自宅で眠っていたという。

日本兵たちは村中の男たちと若い女たちを集めて村の小学校に連行し、翌朝までそこに留め置いた。彼女たちはその後、そこから市庁舎まで連れて行かれた。

また別のロラは、母親に食料の買い出しを頼まれ、近くの町へきていたところを連行された。

このほか、マラボンにある埠頭の近くで“シシッド”(ウェット)・ライス(船荷から漏れて海に沈んでいるコメ)を採っていたところを連行されたというロラもいる。


ロラたちは、もとは市庁舎や州政府の庁舎だったもの、個人の邸宅、小中学校や高校の校舎、病院や教会であったものを徴用した日本軍の兵営、あるいは駐屯地に連れて行かれた。

ロラのひとりによれば、マニラのある教会では毎夜、そのいたる所で日本兵によって女性がレイプされていたという。

ロラの自宅が駐屯地に徴用されたという例もあるほか、慰安婦たちを収容するのにトンネルが利用されていたという報告もある。

ロラたちが慰安婦として監禁されていた期間は、3日間から1年以上と、ロラによって様々であった。

4か月以上にわたって監禁されたロラたちが25%、3か月間が17%、1か月間が16%であった。

ロラたちはその全員が、監禁されていた期間にレイプされている。

ビサヤに住むあるロラは、家にやってきた日本兵たちに家族が尋問を受けている間に、7人の日本兵からレイプされた。

そして、その日から7日間、毎晩3人から5人の日本兵がやってきては彼女をレイプしたという。

マニラに住んでいるロラのひとりは、拘束されてから1か月にわたってレイプされ続けた。

6〜7か月にわたって駐屯地に監禁されていたが、この間には週に3日ほど3人以上の兵士がやってきて、彼女を次々とレイプしたという。
 


マリア・ロサ・ヘンソンさんロサ・ヘンソンさんの場合

マリア・ロサ・ヘンソンさんは、1927年12月5日、フィリピンのマニラ近郊パサイで生まれました。大地主の父とその家事使用人であった母の間にできた婚外子でした。

1942年2月、彼女は日本兵にレイプされました。
そのとき、彼女は家で使う薪を採りに、叔父や近所の人々と出かけたのですが、みんなと離れたときに、日本兵三人につかまり、レイプされたのです。

彼女は二週間後にも同じ日本人将校に見つかり、ふたたびレイプされました。

彼女は日本軍に激しい怒りを感じ、抗日人民軍、フクバラハップに参加しました。一年間活動したのち、1943年4月、アンヘレス市の郊外の検問所で日本軍にとらえられ、司令部に連れて行かれ、そこで、「慰安婦」にされてしまったのです。

ロサ・ヘンソンさんは、兵舎として使われていた病院に連行されました(フィリピン人元慰安婦のための弁護士委員会)。

ヘンソンさんとほかの女性6人が、ここで日本兵たちに性行為を強要されたのです。

その後3か月してヘンソンさんは、もとは精米所であった別の慰安所に移されました。日本軍に協力していたフィリピン人から、日本兵のために洗濯をしてやれば金を稼げると言われ、ヘンソンさんとほかの何人かの若い女性たちは洗濯をするようになりました。あるときそのフィリピン人の協力者に連れられて、2階建ての家に連れていかれました。そこには3人の日本兵が待ち構えていたのです。そこには約1年間にわたって監禁されていました。昼の間は洗濯をし、夜になるとレイプされたのです。

(ロサ・ヘンソンさんの証言記録はこちら)
http://www.awf.or.jp/3/oralhistory-00.html#philippine


ロサ・ヘンソンさんは、1944年1月、ゲリラによって救出されました。連合国の上陸によってフィリピンは日本軍の占領状態から解放されたのです。


563. 中川隆[3485] koaQ7Jey 2016年8月01日 18:11:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3840]

慰安婦問題とアジア女性基金 日本軍の慰安所と慰安婦 慰安婦にされた女性たち
http://www.awf.or.jp/1/index.html


564. 中川隆[3751] koaQ7Jey 2016年8月27日 11:59:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4137]

【慰安婦問題】朝鮮人は「国家総動員法」に縛られていた…中国で慰安婦の強制動員を裏付ける資料が中国で見つかる

【長春聯合ニュース】 :2014/03/24

 第2次世界大戦中に日本人が書いた慰安婦に関する手紙が中国で見つかった。
韓国の女性が旧日本軍慰安婦として中国に多数連れて行かれたことを裏付ける貴重な資料。

慰安婦の強制動員があったことは被害者の証言などで明らかになっているが、強制性を立証できる文書の発見は異例だ。

 当時、旧満州国の関東軍司令部などが残した日本軍の資料10万冊に対する研究を進めている中国吉林省の機関、
記録保管所が24日、整理を終えた旧日本軍慰安婦関連の25件について聯合ニュースなど韓国メディアを通じ公開した。

 このうち6件に韓国人慰安婦に関する内容があり、
1941年に日本軍の北安地方の検閲当局がまとめた「郵政検閲月報」には軍慰安所の状況を詳しく記した手紙が含まれている。
黒竜江省・黒河に住む日本人が長崎県の知人宛てに送ったこの手紙は、慰安所の兵力はわずか20人程度、
全員が朝鮮人で、「国家総動員法」に縛られていると記している。

 郵政検閲月報は日本軍が軍事機密などの外部流出を防ぐため軍民を対象に実施した手紙と電報の検閲制度で、
各地域の憲兵部隊が検閲結果を関東軍憲兵隊に定期的に報告していた。

 記録保管所側は「文脈と日本風の女性の名前が出ている点を総合すると、『兵力』とは『軍慰安婦』を指すとみるべきだ」と説明した。

 また記録保管所は、中国の蕪湖(現安徽省)地域にいた109人の軍慰安婦のうち
韓国人が36人と記された日本軍憲兵隊の「南京憲兵隊管轄区内の治安回復状況報告書」や、
韓国人慰安婦を「特殊慰安婦」と表記した日本軍の資料、
日本軍が公金を使って軍慰安婦を計画的に募集したことを示す満州中央銀行の電話記録なども公開した。
いずれも日本軍の組織的な軍慰安婦運営を強く裏付ける文献と強調している。

 記録保管所は同日、海外メディアに保管室入室を初めて許可し、関連文書の原本撮影も認めた。
尹懐所長は「韓国は中国の近しい隣人で、同じ苦難を経験した間柄」としながら、韓国と今回の成果を共有し研究の更なる発展に役立てたいと話した。

 韓国の成均館大東アジア歴史研究所関係者は24日、
「『総動員令に伴う朝鮮人慰安婦』という部分は軍慰安婦が大勢動員されたことを示す文献という点で大変重要な資料」と評価した。

 韓国政府もこれら文書の存在事実を確認し、外交ルートを通じ中国政府に閲覧を要請したとされる。

 一方、日本の右翼団体などは慰安婦問題について、旧日本軍や官憲が強制連行したことを示す根拠はないと主張している。

ソース 聯合ニュース 2014/03/24 12:01
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2014/03/24/0200000000AJP20140324001100882.HTML


565. 中川隆[6172] koaQ7Jey 2017年1月20日 08:48:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6621]

2009-07-28
■[どくしょのじかん]論破より先にすることがある


桜井誠氏はご自身のブログ『Doronpaの独り言』の7月27日付のエントリでこう言っている。


慰安婦という名の「売春婦」を「日本軍に強制連行された可哀想な性奴隷」などとねつ造歪曲して声高に叫び、日本国民へいわれなき罪悪感を植え付けようとしているだけではなく、つい数か月前までランドセルを背負っていた年端もいかない子供たちに「強姦」「売春」「性奴隷」などを教え込もうとする行為は、子供への性虐待以外の何物でもないと断じます。

彼は、ご自分の著書『反日韓国人撃退マニュアル』(晋游舎、2009年)の中で朝鮮人男子の強制連行について

「…正しくは「徴用」のこと」であり「悪いイメージを植え付けるために、戦後になって朝鮮人がつくった造語である。(69ページ)」

と主張し、従軍慰安婦についても

「…「慰安婦」に「従軍」という言葉を加えることで「日本軍に強制連行された性奴隷」と誤解させることを狙った、反日プロパガンダのための造語(77ページ)」

と述べている。それなら、そんな敵のプロパガンダ用語などをわざわざ使わずに、「慰安婦の徴用などなかった」と主張すればよいだろう*1。

中学生に「慰安婦」のことを伝える理由、教える理由はこれ↓


http://f.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20090728170811


1925年に当時の日本政府が批准した『婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約』では21歳未満を児童つまり子どもと規定している。

日本政府は本条約の植民地への適応を行わなかった*2が、朝鮮における公娼制の下限は満17歳であり、上図で16歳以下に限ってみたとしても16歳以下の元「慰安婦」は89名、全体の51.5%に及ぶ。

この傾向は、韓国を含めたアジア各国の元「慰安婦」でもみてとれる。以前のエントリで『DAYS JAPAN』2007年6月号の『特集「慰安婦」100人の証言』という記事を基に描いたグラフがあるのでそれを再掲する。

http://f.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080628173338


「年端もいかない子供たち」が「強姦」され、「売春」を強要され、日本軍の「性奴隷」を強要されたのだ。

安倍元首相の言うところの「狭義の強制性」の有無など全く重要ではない。

「慰安婦」と言う言葉自体が実態を表していないのだ。


*1:もっともそう主張したところで間違いである。韓国人元「慰安婦」の場合、国民徴兵令で公式にに徴用されたケースは極めて少なく、女子挺身隊で徴用されて慰安婦にされたケースが数例確認されているが、この中には女子挺身隊の名簿に名前が記されているケースが複数ある。

*2:以前は、海外に渡る船舶の上は日本領土だから条約違反だという説が有力であったが、最近は、慰安所のシステム自体が軍中央、日本政府の政策であったことから条約自体に違反しているという説が優勢である。
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20090728/p1


2008-06-29
■[どくしょのじかん]どくしょのじかん Part 2 -その3(下)


DAYS JAPAN (デイズ ジャパン) 2007年 06月号 [雑誌]
出版社/メーカー: デイズジャパン
発売日: 2007/05/19


この雑誌の特集記事『「慰安婦100人の証言』のデータを視覚化してみて、あらためてショックを受けたのが次のグラフ。


http://f.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080628173338


アメリカ軍のミッチナの捕虜尋問報告書*1に書かれている通り、"comfort women"ではなく、まさに"comfort girls"*2ではないか!


国際法も国内法も遵守しなかった日本軍、未成年の女性を「性の道具」として使役し、彼女たちの一生を台無しにし恥じ入ることがなかった日本軍、不幸な身の上にあった女性を食い物にした日本軍・・・

あなたの愛する娘が同じ目にあったら許せるか?戦争だから仕方がないと言えるか?貧しさが原因で身売りした売春婦じゃん!と斬り捨てることができるのか?

さらに、最初に提示した『慰安所マップ』を違う形で提示しよう。

http://f.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080628220422


これでも強制連行がなかった!と言えるのか?


ここでデータ化して表すことはできない、この100人の女性が『慰安所』で受けた性暴力、身体の傷、心の傷こそが問題なのだ。同じくデータ化できない、『慰安所』の地獄の年月を生き残っても、女性としての幸せを奪われ、恥と自己否定と想像を絶するトラウマの中で何十年も生きてきた女性たちの辛く厳しい日々こそが問題なのだ。

わたしたちの北朝鮮の拉致被害者への思いは非常に強い、とても素晴らしいことだ。そして被害者や被害者家族の望む形で拉致問題を解決しなければならない。だからこそ、同じ思いを元『日本軍性奴隷』にされた女性たちにも向けてほしい。


慰安婦問題は国益の問題ではない、国の名誉の問題でもない。反日プロパガンダでもなければ、日本を貶める陰謀でもない。被害を受けた女性たちに加害者が何をすべきかの問題なのだ。


ネット上では、彼女たちの証言をじっくり読めるページは少ないが、日本軍が慰安所システムを作ったことのどこが問題なのか、被害者に対して何がなされるべきなのかも含めた日本語の報告書がある。ぜひ、目を通してみてほしい。彼女たちが望むことは何か?私たちが出来ることは何か?かんがえてみてほしい。


■日本:60 年を経てなお待ちつづける 日本軍性奴隷制のサバイバーに正義を (アムネスティ・インターナショナル日本)

 http://www.amnesty.or.jp/modules/mydownloads/visit.php?cid=8&lid=30


*1:Japanese Prisoners of War Interrogation Report No. 49.

*2:womenは成人女性、girlは未成人女性の意
http://d.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080629/p1


566. 中川隆[6287] koaQ7Jey 2017年1月24日 16:39:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6739]
あなたは知っていますか?日本の軍隊は太平洋戦争で心の高揚に『ヒロポン』を常用させていました


覚せい剤服用

日本は、1941年大日本製薬メタンフェタミン製剤「ヒロポン」(覚醒剤)武田長兵はアンフェタミン製剤「セドリン」(覚醒剤)を海軍、陸軍に大量に納入しました。

特効薬として特攻隊員に菓子袋に入れてカジュアルに支給しました。
製品は、「ヒロポン」の周りをチョコレートで包み『菊のご紋章』を付けて納入していました。

出撃前に注射やチョコレートを特攻隊員に食べさせていました。それを食べた若者は、意気揚々と戦地に出撃し散っていきました。むごい、悲しいことです。これを書くと、涙がでます。

九州の基地では、1036人の特攻隊員に「アンプル」を投与。国を守るため計6000人が玉砕していきました。悲しい事実です。
精神を高揚させ、人間性を失くす「ヒロポン」は慰安婦問題や、南京事件を起こした悲しい現実があります。

日本政府は、大日本製薬 武田長兵商店に、覚醒剤の製造中止を勧告、昭和26年(1951年)覚醒剤取締法が制定されました。
西堀貞夫の父、西堀孝一は軍医として特攻隊のヒロポン支給の恐ろしさを知り、軍上層部に進言、ニューギニアの戦地アインで戦死しました。

この想いが私たちの原点です。患者の会には、この真実を知るたくさんの遺族の方がお見えになります。
映画「永遠の0」では明かせなかった特攻隊員の死の真実。彼らはヒロポンで人間性を失くし玉砕しました。
http://www.onkyo.tokyo/guntai.php


567. 中川隆[6325] koaQ7Jey 2017年1月25日 21:04:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[6777]

慰安婦関係の資料は、日本軍が焼却しまくって、証拠隠滅した。


【慰安婦関係 資料焼却】


慰安婦の資料を焼いた証拠は国会議事録に記録されている。


 議事録によれば、

 「8月14日の閣議決定にもとづいて陸軍大臣から正式の焼却命令が出た。
 部隊では命令以前から焼き始めている。
 8月28日に(何もかも焼くなと)注意はしたが、中止命令は出ていない。
 一般書類も全部焼いてしまい、後の処理に困るほどだった。」
 
 国会議事録。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/003/1332/00310181332005.pdf


衆議院 不当財産取引調査特別委員会
昭和23年10月18日

質問者 民主自由党 鍛冶良作(法務委員長代理)

答弁者 元陸軍中将 吉積正雄(元軍務局長)

鍛冶委員長代理 軍の関係書類を擁棄せよという命令が出たということを承ることがあるのですが、さような事実はあつたのですか。


吉積證人 ありました。

鍛冶委員長代理 それはどういうところから命令が出て、また実際どういうところで行われたかを承りたいと思います。

吉積證人 これはその時代の陸軍大臣の阿南元大将が、その当時の高級副官に機密書類を燒くように命令せいというので、命令輩出したと聞いております。

鍛冶委員長代理 どういう機関を経てどういう方面に……。

吉積證人 陸軍省の副官から陸軍全般に通達されたと聞いております。

鍛冶委員長代理 正式の命令ですか。

吉積證人 そうです。

鍛冶委員長代理 陸軍大臣の命令として、陸軍大臣から高級副官にそういうふうに話があつて出たのですか。

吉積證人 機密書類の保管者は高級副官であります。
それで高級副官がこれを起案して出したというふうに聞いております。

質問者 日本共産党 徳田球一

答弁者 前項に同じ 元陸軍中将 吉積正雄(元軍務局長)

徳田委員 こまかいものだがひとつお聽きしたい。
阿南陸軍大臣の高級副官の名前は御存じありませんか。

吉積證人 美山要藏と申します。

徳田委員 この人が軍の帳簿を燒却せよという命令を出したわけですね。

吉積證人 軍の機密書類と私は聞いております。

徳田委員 機密書類というと軍の作戰に関するものでありましようが、兵器や機材をもつておる帳簿、軍需品その他の帳簿、これが非常に大事でありまして、この命令でこれが燒かれておるんじやないでしようか。

吉積證人 この命令が相当徹底しませんで、普通書類も全部燒いたわけであります。この命令がもとになつて、燒けと言わぬものまでも相当燒いたところもあります。

(中略)

吉積證人 これは実情を申し上げますが、一つはそれまでの陸軍の者は、機祕密書類と言えばすぐ頭に形式的に浮かんでくるものがあります。
そのほかに敗戰という非常に大きな衝動を受けておりましたので、さつき申し上げましたように、機秘密書類でも何でもないものまでも燒いております。

殊に経理上の書類まで一部燒いたものがあります。
そういうふうに非常にトラブルが起きておりました関係上、あとでこれは燒いては非常に困るというものまでも、事実において燒いたものが一部あります。

徳田委員 こういうものを燒いたために、非常に障害になつておるのですが、この燒いたものを八月二十八日に燒いてはいかぬ、取消すという命令が出ておるのではありませんか。

吉積證人 それには燒くことについてまでは出しておらぬのです。
注意はしたと思いますが、燒きましたのは十四日の晩くらいから燒いておりますので、これは実際は通知を出しましたけれども、実情は通知を受ける前に燒いたところが相当あります。

これはもう軍の習慣といたしまして、たとえば軍が重囲に陷るというときに終計機密書類を燒くとか、そういうくせから燒いたのだろうと思いますが、命令を出す前に燒いたと私は思います。  
http://www.asyura2.com/16/warb19/msg/565.html


568. 中川隆[7311] koaQ7Jey 2017年3月24日 12:52:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7785]

韓国のヘルパー、元慰安婦に「日韓合意の支給金は体を売って受け取った金」と侮辱メール
http://www.recordchina.co.jp/b172205-s0-c30.html
2017年3月23日(木) 11時50分


2017年3月22日、韓国・聯合ニュースによると、韓国の元慰安婦の介護に当たっていたヘルパーが、元慰安婦に平手打ちを加えさらに侮辱したとの訴えがあり、警察が捜査に乗り出した。

告訴状によると、日本の介護福祉士やホームヘルパーに相当する療養保護士のAは、昨年10月から昌原(チャンウォン)市の療養病院で元慰安婦Bさんの介護を担当した。聴覚障害・認知症・脊椎疾患などを患うBさんは、韓国女性家族部の支援で、昨年9月から療養病院に入院し治療中だった。

24時間介護を担当していたAだが、介護の最中、Bさんが自分の言うことを聞かないと言って病床のBさんの額を数回平手打ちする騒ぎがあったという。これをめぐり口論となった後、Bさんは先月10日にAを解雇した。

Bさんの娘は、Aがその後「韓日の慰安婦問題合意で支給されたお金は体を売って受け取ったお金ではないか、恥を知れ」とBさんを侮辱するメッセージを送ってきため、警察に告訴状を提出したと話している


569. 中川隆[7340] koaQ7Jey 2017年3月26日 13:07:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7816]


March 25, 2017
今もマレーシアのテレビで戦時中の日本兵を描いたドラマをやっている。中国大陸が舞台。中国語のドラマだが日本語も出てくる。字幕はマレー語のみ。日本語のところもマレー語字幕のみだが、華人も読める。

日本軍の蛮行は、マレー半島でも語り継がれている。日本兵の行くところレイプや拉致は当たり前。女狩りをして監禁して輪姦することなど日常茶飯事だった。慰安婦強制連行など、あったに決まっているのであって、なかったという方がおかしい。

日本兵の蛮行は、こんなにみんなが親切にしてくれるマレーシアでも、決して忘れられることなく語り継がれている。このことを忘れてはならない。
https://kuantan.me/2017/03/25/march-25-2017-at-1036pm/


570. 中川隆[7967] koaQ7Jey 2017年4月24日 16:46:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8458]

慰安婦「連行」文書など提出 内閣官房へ 2017年04月21日
http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/b9a9b784a3c7eafeff4667c75a656bb4

――慰安婦「連行」文書など提出 内閣官房へ
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201704/CK2017041702000219.html

文書は軍が強制的に慰安婦にしたことを示したもの。

ワシントン・ポストに「THE FACTS」と題したインチキ意見広告を載せた櫻井よしことその仲間たちは、間違ってましたの広告を出すべきだろな。〔9:03 - 2017年4月20日 〕—―


〔資料〕

「慰安婦「連行」文書など提出 内閣官房へ公文書館 新たに19件182点」

   東京新聞(2017年4月17日 夕刊)

☆ 記事URL:http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201704/CK2017041702000219.html

 旧日本軍の慰安婦問題で、国立公文書館が新たに関連する公文書十九件百八十二点を内閣官房に提出したことが分かった。専門家は「軍の関与と強制連行を示す記述が随所にある」と指摘。一方、内閣官房は取材に「強制連行を示す記述は見当たらないという政府認識は変わらない」としている。
 十九件は、法務省がまとめた戦後の東京裁判やBC級戦犯裁判の記録。このうち「バタビア裁判25号事件」資料には、日本海軍のインドネシアの特別警察隊元隊長が戦後、法務省関係者に「二百人くらいの婦女を慰安婦として奥山部隊の命によりバリ島に連れ込んだ」と証言した記述があった。「ポンチャナック裁判13号事件」の判決文には「多数の婦女が乱暴な手段で脅迫され強制させられた」との内容が書かれていた。
 十九件は法務省から一九九九年度に公文書館へ移管されていた。市民団体から「慰安婦問題の政府調査に必要な文書では」との指摘を受けた法務省は、内閣官房に報告するのが妥当と判断。公文書館が今年二月、コピーを内閣官房に提出した。
 公文書館で十九件の大半を見つけた関東学院大の林博史教授(近現代史)は「軍が強制的に慰安婦にしたことを明確に示している」と述べた。
 内閣官房副長官補室の鳥井陽一参事官は「軍人が売春を強要したとして有罪判決を受けたことは認識している」とした一方、「個別の資料の評価はしていない。全体として見ると、強制連行を直接示すような記述は見当たらない」と話した。
 安倍政権は軍の関与と強制性を認めた九三年の河野洋平官房長官談話を踏襲する一方、二〇〇七年には「河野談話までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲による強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」との政府答弁書を決定している。

〔資料−2〕

「慰安婦関連文書19件提出」

   朝日新聞(2017年4月18日)
http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/b9a9b784a3c7eafeff4667c75a656bb4


571. 2017年9月03日 01:32:19 : 1nnSpRByVM : FgCI4hCGkSc[3]
 
中川隆大先生が言うならきっとデマに違いない。
過去の氏の投稿から間違いなくそう確信する。
第一、吉田清治氏自身が死ぬ前にデマだったと白状しているじゃないか。
 

572. 中川隆[-5808] koaQ7Jey 2017年11月25日 09:33:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
「シンガポールには600人の韓国人慰安婦がいた」韓国の研究チームが新たな情報を公開=韓国ネットも注目
http://www.recordchina.co.jp/b221403-s0-c30.html
2017年11月24日(金) 17時0分


2017年11月23日、韓国日報は、韓国の研究チームがシンガポールの旧日本軍慰安所の実態を初めて公開したと報じた。

韓国女性政策研究院(女政研)は22日、シンガポール国立文書保管所やアーカイブなどを通じて、旧日本軍が日本統治時代に慰安所の設立と管理に組織的に関与したことを立証する史料を140件以上発掘したと明らかにした。これまで旧日本軍慰安所の研究は主に中国一帯を中心に行われており、東南アジア地域にも韓国人慰安婦が存在したという証言や写真などが公開されたことはあったが、具体的な記録が韓国の研究チームによって確認されたのは初めてだという。なお、韓国人慰安婦は約8〜20万人と試算される中で、韓国政府が公式的に確認した被害者は238人にすぎないとされている。

東国(トングク)大学人間科未来研究所のオ・ヨンイン研究教授チームなどが参加した女政研の「日本軍慰安婦記録物発掘・整理・解説」報告書によると、日本がシンガポールを占領・統治した1942〜1945年に運営していた慰安所は10カ所と把握された。旧日本軍が組織的に慰安所を設立したり、ブローカーが運営したりもしたという。記録では、第二次世界大戦の終わりごろまでにシンガポールに居住していた韓国人慰安婦は600人余りと推定されている。

シンガポール国立文書保管所に保管されたさまざまな口述資料も明らかになった。オ・ヨンイン教授は「シンガポールでは歴史保存のために1979年から4100人あまりを対象にインタビューを行い国立文書保管所でアーカイブを作っており、口述記録の保存がしっかりしている。そのうち52件が慰安婦に関する記録だった」と説明。「慰安婦記録物のユネスコ登録への保留が決定し、客観的な史料が重要になっているだけに、今回の研究が国際社会連携の扉を開くことになるだろう」と期待を寄せた。

これを受け、ネットユーザーからは「あまりにも痛ましい歴史」「すべての真実は明らかになるようになっている!」「旧日本軍の蛮行は極めてひどかった」など憤るコメントが相次ぎ、「韓国の国力が日本を上回らない限り、絶対にしっかりした謝罪を受けられないだろう。だからみんな力を合わせて国力を高めよう」「そのためには国に力がないと。みんなで国の経済発展のために頑張ろう」と意気込む声が上がっている。

一方で、少数派意見として「それなのに今でも親日派の勢力が横行している国」「でもみんな日本に行くし、日本の製品を使ってるでしょ?」「韓国がかつて日本の被害に遭ったことを問い詰めたいのなら、かつて朝鮮が中国(明や清)やモンゴル(元)に献上していた貢女は何?慰安婦のことを騒ぐのは左派の金づるになるからで、純粋に元慰安婦のおばあさんたちのためではない」などとするユーザーも見られた。(翻訳・編集/松村)


573. 中川隆[-5802] koaQ7Jey 2017年11月27日 12:23:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017.11.27
戦争中に占領地で慰安婦を組織した日本の支配層は大戦後、日本で日本人を慰安婦にした女性観


大阪市がサンフランシスコ市との姉妹関係を解消するのだという。サンフランシスコ市内に建てられた慰安婦像とその維持費の寄贈を受け入れる決議案にエドウィン・リー市長が署名、これに大阪市の吉村洋文市長が反発しているとも伝えられている。

いわゆる「慰安婦」を日本軍が使っていたことは否定できない。日本軍の管理下、彼女たちが強制された行為を考えれば、性奴隷と呼ばれても仕方がないだろう。兵士としてその様子も見てきた人から筆者自身、日本兵の無様な様子を聞いたことがある。その無様な様子を現地の人々は目撃していたのだ。「なかったこと」にしようとすれば、日本人の置かれた状況が悪くなるだけである。

こうした女性の数は5万から30万人と言わている。敗戦が決定的になった後、日本軍は自分たちに都合の悪い書類を大量に処分したこともあり、正確な数字はわかっていない。その多くは工場労働者や看護婦の採用だと思って応募したというが、中には暴力的に連れ去られたケースもあったようだ。いずれにしろ、誘拐であることに変わりはない。

日本軍がこうした仕組みを作り上げた理由は日本兵による現地女性に対するレイプ対策だったとも言われている。今でも沖縄ではアメリカ兵によるレイプ事件が問題になり、第2次世界大戦の終盤、中国へ侵攻してきたソ連軍も似たことを行ったようだ。つまり、戦争ではこうしたことが引き起こされる。

日本が特殊なのは、軍という組織がレイプを統制しようとしたことにある。そうしたことをすると組織の責任が問われるため、通常は行われない。慰安婦を生み出したのは日本の男性支配層が抱く女性観にあると言えるだろう。

昭和天皇の「終戦の詔勅」が放送された直後、東久邇稔彦内閣は内務相による占領軍向けの性的な慰安施設設置を命令、「特殊慰安施設を可及的すみやかに整備せよ」という指令が内務相警保局長から全国の警察へ伝えられている。そしてRAA(特殊慰安施設協会)が8月26日に設置され、本部事務所は銀座の歌舞伎座に置かれた。施設で働く女性の数は、東京都内だけで約1600人、全国で4000人に達したという。

施設で働く女性として当初は水商売を生業とする人々が想定されたようだが、何が行われようとしているかを理解できた「遊興業者」が警察の協力要請に難色を示したこともあり、簡単には集まらない。そこで新聞広告で一般女性を集めている。広告には「女子事務員募集、年齢18才以上25才まで。宿舎、被服、食料全部当方支給」、「特別女子従業員募集、衣食住及高給支給」、「キャバレー・カフェー・バーダンサーヲ求ム」といったことが書かれていた。応募した女性の少なくとも半数は身体を売る仕事だと知らずに応募したと言われている。

大森海岸の料亭「小町園」が慰安所第1号に指定されたのは1945年8月27日。厚木基地へ到着した連合国軍先遣部隊の兵士がそこへ行く。その後、同じような施設が全国に設置されたが、1946年1月21日にGHQから「日本における公娼廃止に関する覚書」が出され、内務省は同年2月2日に内務省令第3号を公布、即日これを施行し、警保局公安発第9号「公娼制度廃止に関する件」の通達が発せられ、この仕組みは廃止へ向かう。同年3月10日にはGHQの命令によって全ての慰安所に進駐軍将兵が立ち入ることを禁じられ、RAAは1949年4月22日に閉鎖された。

日本の支配層は自国の女性に対してもこの程度は平気で行う。侵略先のアジア諸国では推して知るべしだ。

慰安婦の問題が浮上すると、商売として行っているのだから問題がないと言う人が出てくるが、そうした状況を作り出したことが最大の問題だ。

第2次世界大戦の前、JPモルガンの強い影響下にあった日本では新自由主義的な経済政策が採用されて庶民の生活は悪化、東北地方では娘の身売りが増え、欠食児童、争議などが問題になっている。支配層は裕福になり、庶民は貧困化、つまり貧富の差が拡大したわけだ。こうした経済政策を推進したのは浜口雄幸内閣。そうした政策に反発する人も少なくなかった。

その結果、浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡し、32年2月には大蔵大臣でJPモルガンと最も親しくしていた井上準之助が本郷追分の駒本小学校で射殺され、その翌月には三井財閥の大番頭だった団琢磨も殺された。5月には五・一五事件が引き起こされている。そして1936年2月には二・二六事件だ。血盟団にしろ、二・二六事件の将校にしろ、娘を身売りしなければならないような状況を作った支配層への怒りが行動の背景にはあるだろう。(別に、行動を肯定しているわけではない。念のため。)

この間、1932年にアメリカで実施された大統領選挙でウォーオル街が担いでいたハーバート・フーバー大統領は再選されず、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選した。1933年から34年にかけてJPモルガンをはじめとする勢力がクーデターも目論むが、これは失敗している。(その辺の事情は本ブログで何度か書いているので、今回は割愛する。)日本の支配層が従属していたウォール街のホワイトハウスでの影響力が小さくなり、日本が迷走する一因になったと言えそうだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201711270000/


574. 中川隆[-5687] koaQ7Jey 2018年2月08日 10:42:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
中東と同じように東アジアでもアメリカは孤立化を深め、軍事同盟国と見なされているのはオーストラリア、インド、そして日本。

侵略作戦を始めるためには韓国の協力も必要で、日本と韓国との対立は好ましくない。

慰安問題で2015年に日本と韓国が合意したが、バラク・オバマ政権でNSC(国家安全保障会議)の安保副補佐官だったベン・ローズによると、​オバマ大統領は日韓両国の首脳との会う際、数年にわたり、毎回のように慰安婦の問題を採りあげ、両国の対立を解消させようとしていた​という。それが彼の戦略で重要だったからだ。

合意の翌年に朴槿恵大統領のスキャンダルが発覚、2017年に失脚している。

朝鮮半島の軍事的な緊張が高まる中、文在寅大統領はこの問題を持ち出して日本との軍事的な協調関係を揺さぶったと見ることもできる。戦争へ突き進むアメリカと日本、それに応じる準備を進める中国とロシア、朝鮮半島での戦争を回避しようとする韓国。これまでアメリカの戦略にとって好都合な言動を続けてきた朝鮮だが、ここにきて韓国と協調する姿勢を見せている。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201802080000/

[12初期非表示理由]:管理人:混乱したコメント多数により全部処理

575. 中川隆[-5581] koaQ7Jey 2018年2月27日 17:12:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

ソウル市、旧日本軍の「朝鮮人慰安婦」虐殺映像を初めて公開
2/27(火) 15:45配信 中央日報日本語版

中国雲南省騰沖で朝鮮人慰安婦が虐殺されて捨てられる場面を撮った写真。米軍写真兵フランク・マンウォレン(Frank Manwarren)氏が撮影した。(ソウル市・ソウル大人権センター提供)


ソウル市が三一節(抗日独立運動記念日)99周年を記念して27日に開催した韓日中「日本軍慰安婦国際カンファレンス」で、旧日本軍の朝鮮人慰安婦虐殺を見せる映像を初めて公開した。

終戦前の1944年、中国雲南省騰沖で朝鮮人慰安婦が虐殺されて捨てられる場面を見せる19秒間の白黒映像だ。ソウル市とソウル大人権センターが2016年と17年の2回、米国立公文書記録管理局(NARA)を訪問して資料調査と発掘作業を行った結果、撮影から70余年後に映像が公開された。

映像には朝鮮人慰安婦が旧日本軍によって殺害された後に捨てられる残酷な場面が映っている。周辺では遺体を埋葬しにきたとみられる中国軍兵士2、3人の姿も見える。連合軍164通信隊写真中隊のボルドウィン兵士が1944年9月15日に撮影したもので、映像の場所は中国雲南省騰沖と推定される。

ソウル市とソウル大人権センターはこの映像資料1点をはじめ、写真資料2点、当時の米中連合軍が作成した作戦日誌をはじめ、旧日本軍の慰安婦虐殺を裏付ける文書14点も共に公開した。映像と共に公開された連合軍情報文書には騰沖が陥落する直前の1944年9月13日夜、旧日本軍が朝鮮人女性30人を銃殺したと記録されている。旧日本軍が慰安婦を虐殺したという証言、記事などが公開されたことはあるが、朝鮮人慰安婦を含む旧日本軍の慰安婦虐殺現場が撮影された映像が公開されたのは今回が初めて。

朴元淳(パク・ウォンスン)ソウル市長は「国を失って力がない祖国で女性と少女がどんな苦痛を経験したのか、あまりにも胸が痛む現実を私たちは直視している」とし「このような不幸な歴史も記録して記憶してこそ二度と繰り返さないだけに、今後もソウル市が可能なすべての力と資源を集中し、歴史を記憶して正す作業に率先していく」と述べた。


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576. 中川隆[-5587] koaQ7Jey 2018年2月28日 08:29:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

27日、旧日本軍の「慰安婦虐殺」の現場を撮影したとみられる映像が韓国で初公開された。

서울시, 일본군의 조선인 위안부 학살 영상 최초 공개 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=FlakpUUyTM8


2018年2月27日、旧日本軍の「慰安婦虐殺」の現場を撮影したとみられる映像が韓国で初公開された。

KBSなど複数の韓国メディアによると、中国、インド、ビルマ(現ミャンマー)で戦闘を行った米中連合軍164通信隊写真隊所属の兵士が中国雲南省騰衝市で撮影したとされる同映像には、慰安婦女性たちが日本軍に殺害され、捨てられる様子が映っている。周辺には死体を埋葬しにきたとみられる中国軍兵士の姿も確認できる。

これまで日本軍が慰安婦を虐殺したとする証言や記事などはあったが、映像が公開されたのは初めてのことという。

同映像を発見したソウル市関係者は「人権センターと共に16年と17年の2度にわたって米国の国立公文書記録管理局を訪問し、地道な資料調査と発掘作業を行った。撮影から約70年後にようやく公開できた」と説明。また、映像の状況について「敗戦が迫った1944年9月、日本の作戦参謀だった辻政信大佐が中国の松山・騰衝に駐屯していた日本軍に事実上の玉砕(集団自決)命令を出し、これを拒否した慰安婦たちを日本軍が殺害した。当時、松山には24人、騰衝には最低30人以上の慰安婦がいた」と明らかにしたという。(翻訳・編集/堂本)

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577. 中川隆[-5575] koaQ7Jey 2018年2月28日 15:44:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
旧日本軍の朝鮮人慰安婦虐殺 映像資料を初公開=ソウル大研究チーム(聯合ニュース)
http://www.asyura2.com/17/warb21/msg/714.html
 

  2018/02/27 16:08 聯合ニュース

【ソウル聯合ニュース】韓国・ソウル市とソウル大人権センターは27日、韓中日の専門家が出席して行われた旧日本軍の慰安婦問題に関する国際カンファレンスで、同軍による朝鮮人慰安婦の虐殺を証明する映像(https://youtu.be/DbmcBD2aN-k)を初公開した。


米軍の写真兵が撮影した、日本軍による朝鮮人慰安婦虐殺の現場(ソウル市・ソウル大人権センター提供)=(聯合ニュース)

 約19秒のこの記録映像は、太平洋戦争で日本が敗戦する直前の1944年9月に中国・雲南省の騰衝で米中連合軍が撮影したもので、44年9月13日夜に日本軍が朝鮮人女性30人を銃殺したという内容の米中連合軍の文書を裏付ける記録だ。朝鮮人慰安婦が日本軍によって虐殺された後、1カ所に捨てられた様子が収められており、遺体を埋めに来たとみられる中国軍の兵士が遺体の靴下を脱がせる場面もとらえられている。

 米中連合軍は44年6月から中国とミャンマーの国境地帯にある雲南省の松山と騰衝の日本軍占領地に対して攻撃を開始した。同年9月7日に松山を、1週間後の14日には騰衝を陥落させた。当時、ここには日本軍に連れてこられた朝鮮人慰安婦70〜80人がいた。

 映像が撮影された日時は騰衝の陥落翌日の同年9月15日だ。陥落当時、連合軍の捕虜となり生き残った23人を除く朝鮮人慰安婦の大部分は日本軍が虐殺したと推定される。

 敗戦が近付くと、日本の作戦参謀だった辻政信は松山・騰衝に駐屯していた日本軍に「支援兵力が到着する10月まで抵抗を続けよ」と事実上の玉砕(集団自決)命令を下した。ソウル大人権センターの鄭鎮星(チョン・ジンソン)教授率いる研究チームは、これを拒否した朝鮮人慰安婦らが一部の民間人とともに虐殺されたと明らかにした。

 日本軍によるこのような慰安婦虐殺は、連合軍も把握していた。研究チームは騰衝の陥落直前の9月13日夜、日本軍が朝鮮人女性30人を銃殺したと記録した連合軍の情報文書を発見・公開している。

 これまで旧日本軍が慰安婦を虐殺したという証言や記事などが公開されたことはあったが、虐殺現場を収めた映像が公開されたのは初めてだ。

 今回公開された映像は、ソウル大研究チームが2016年に発見した慰安婦虐殺現場の写真と同じ場所で撮影されたものと確認された。写真と映像の中の遺体の服装が同じで、写真の中の中国人兵士が映像にも登場する。

 研究チームは、戦時に米軍写真部隊の写真・映像撮影担当兵士が2人1組になって動いた点に注目し、映像を追跡した。写真があるということは必ず同じ場所で撮影した映像もあるとみて、米国立公文書記録管理局(NARA)に保管されている資料をしらみつぶしに探し、ばらばらになったフィルムの山を一つずつ確認した。

 昨年7月に研究チームが初めて公開した旧日本軍の慰安婦の映像も、このような過程を経て発見された。


昨年7月に初公開された慰安婦の姿を収めた映像の一場面(ソウル市・ソウル大人権センター)=(聯合ニュース)

 研究チームは、慰安婦が虐殺されたことを示す写真を発見した翌年の昨年に映像も探し出したが、すぐには公開できなかった。虐殺という敏感な問題であることから、分析の正確度を高めるため研究に時間をかけた。

 研究チームに所属する聖公会大のカン・サンヒョン教授は「日本政府が(旧)日本軍の慰安婦虐殺を否定している中、戦争末期に朝鮮人慰安婦が直面していた状況と実態を教えてくれる資料だ」と説明した。

 鄭教授は「慰安婦被害者の証言以降、世界のあちこちで埋もれていた資料が発掘されている」とし、「これらの資料が(被害者の)おばあさんの証言と驚くほど一致することを確認した」と述べた。

 研究チームの資料発掘を16年から支援してきたソウル市は「戦争中に女性を戦場に動員し、性的慰安の道具に使用し虐殺したようなことを再び繰り返してはならない」とし、「日本はこれを否定するのではなく、認めて謝罪しなければ再発を防ぐことはできない」と強調した。

 研究チームに所属する東国大のパク・ジョンエ研究教授は「日本が責任を認め、慰安婦問題について心からの謝罪をすべきだ」とし、「世界的に起こっている(セクハラを告発する)『Me too』や(告発した人を支持する)『With you』運動も結局は(旧)日本軍慰安婦問題とつながっている」と主張した。

 日本の植民地支配に抵抗して1919年に起きた三・一独立運動から99年となることを記念し、ソウル市庁で開かれたこの日の国際カンファレンスでは、韓中日3カ国の慰安婦問題専門家が各国が所蔵する関連資料の状況を共有し、協力策を議論した。

 日本からは、「女たちの戦争と平和資料館」 (wam)の事務局長で、90年代から女性の人権と戦時中の性暴力問題に積極的に声を上げてきた渡辺美奈氏が出席した。


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578. 中川隆[-5565] koaQ7Jey 2018年2月28日 17:27:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

日本軍“慰安婦被害者虐殺”映像が初めて出てきた
2018-02-27 23:36 修正:2018-02-28 07:24
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/29893.html

1944年に雲南省で米軍が撮影 
裸の死体が大量に積まれ 
「朝鮮人30人虐殺」記録を後押し 
虐殺を否定した日本の主張に正面から反論 
19秒の映像に凄惨な現場 
米軍文書「日本軍が銃殺」と明示 
発掘教授「極端な人権抹殺事例」

中国の騰衝城で集団銃殺された朝鮮人慰安婦を見せる映像が公開された。連合軍は前線が崩れる前夜「日本軍は(騰衝)城内にいた朝鮮人女性30人を銃殺した」と記録している。ある中国軍人が遺体を見ている場面=ソウル市・ソウル大人権センター提供//ハンギョレ新聞社

 日本軍が敗戦直前に朝鮮人「慰安婦」被害女性たちを集団虐殺した事実を見せる映像と文書が初めて出てきた。

 ソウル市とソウル大人権センターは27日、ソウル市庁で開かれた「韓・中・日 日本軍“慰安婦”国際カンファレンス」で、朝鮮人慰安婦被害者の虐殺現場を撮影した映像を初めて公開した。映像は、ソウル市とソウル大人権センターのチョン・ジンソン教授の研究チームが2016〜2017年に二度にかけて米国立文書記録管理庁(NARA)を訪れて資料調査と発掘作業を経て公開したものだ。

 日本軍が「慰安婦」被害者を虐殺したという記録は、当時中国国民党の機関紙「掃蕩報」(1944年9月18日)など一部のメディアの記事としては残っているが、映像が公開されたのは初めてだ。これまで「慰安婦」の強制連行と虐殺を否定してきた日本政府の主張に正面から反論する資料である。

 映像では埋葬しにきたと見られるある中国軍人が、裸にされた遺体を見回し、ある遺体から靴下を脱がせる場面が出てくる。画面の片側には煙が広がり始めている。研究陣は「公開本では曇らせて処理したが、元の映像では頭がなかったり身体の一部だけが残っている遺体もあり、当時の残忍な状況をうかがわせる」と話した。

 ナチスドイツのユダヤ人虐殺現場を見るようなこの映像は、1944年9月15日に中国雲南省の騰衝で、連合軍164通信隊写真中隊のボールドウィン兵士が撮ったものだ。長さ19秒の映像の中間7秒は、騰衝城門付近、前後の6秒は騰衝城内を映している。映像を発掘したソウル市とソウル大人権センターは、同時に公開された連合軍報告文書などを通して、この映像が「当時日本軍に強制動員された朝鮮人慰安婦被害者が集団銃殺された現場」という結論を下した。

 1944年5月、米中連合軍は中国の西南側に沿って日本軍の通信線を切る「サルウィン作戦」を繰り広げ、日本軍が占領した雲南省のスンサン、騰衝、龍陵を順に占領した。敗戦が差し迫った1944年9月、当時日本の作戦参謀であった辻政信大佐は、中国のスンサンと騰衝に駐留していた日本軍に「支援兵力が到着する10月まで抵抗を続けよ」と指示した。歴史学者は、これを事実上の「玉砕(強制的集団自決)指示」と解釈している。スンサンと騰衝には朝鮮人慰安婦70〜80人がいたが、玉砕を拒否した朝鮮人慰安婦被害者の大部分を日本軍が殺害したと推測される。9月14日、米中連合第54軍が午後6時55分に報告した情報文書には「9月13日夜、日本軍は(騰衝)城内にいる朝鮮人女性30人を銃殺した」と記録している。

 昨年、研究陣は日本軍慰安婦として連れて行かれたがスンサンを脱出した女性7人を撮影した写真を公開した。写真には臨月の女性が写っていたが、2000年12月に東京で開かれた「日本軍性奴隷戦犯女性国際法廷」の準備過程で写真の中の臨月の女性は自身であると明らかにしたパク・ヨンシムさんであった。当時の人名簿と捕虜記録を通じてみる時、スンサンと騰衝にいた慰安婦被害者23人は脱出し、30人は集団虐殺されたと見られる。その他に確認できない死も多い。

上の大きな写真は1997年に公開されたが明確な説明や関連資料がなく慰安婦被害者虐殺の証拠として認められるか論議があった。下の二枚の写真は今回公開された映像で、映像内の中国兵士(赤丸内)が遺体から靴下を脱がす姿が含まれている=ソウル市ソウル大人権センター提供//ハンギョレ新聞社

 1997年に中国で虐殺された朝鮮女性たちの遺体を写した写真が報道された。当時の写真には明確な説明や関連資料がなく、慰安婦被害者虐殺の証拠として認定するのに論議があった。研究陣は、戦争当時は動画記者と写真記者が一緒に活動したという点に注目して、これまで写真と共に撮影されたかも知れない映像を探してきた。今回公開された映像と写真には、同じ身なりの中国軍人が出てくる。撮影角度と遺体の状態を見る時、映像と写真は同じところで撮影されたと推定される。

 発掘を進めた聖公会大のカン・ソンヒョン教授は「当時の戦況を報告した文書はすべて受動態の文章であったが、唯一1944年9月14日の記録だけが『日本軍が銃殺した』と主体を明示した。すでに発見された写真と今回確認した映像、文書を交差分析し、慰安婦虐殺の客観的証拠として提示することができた」と話した。

 今回の虐殺動画は、日本軍が朝鮮人慰安婦被害者をどんな存在として取り扱ったかを明確に見せる資料だ。種々の軍資料から日本軍は慰安婦被害者を人間ではなく“特殊補給品”に分類し、強制的に連れてきて性的道具として使い廃棄するかのように虐殺した。

1944年9月7日スンサン地域の収容所から脱出し連合軍に捕虜として捕らえられた朝鮮人女性の写真は、日本軍が戦況が不利になるたびに“廃棄処分”しようとした朝鮮人慰安婦の境遇を伝える。右端の妊娠した女性がパク・ヨンシムさん=ソウル市ソウル大人権センター提供//ハンギョレ新聞社

 カン・ソンヒョン教授は「日本は安倍政権になって慰安婦被害者の証言さえ明確な証拠ではないとし握りつぶしてきたが、今回公開された資料を通じて戦時動員体制で強行された極端な人権抹殺事例を正面から直視しなければならない。最近の日本における修正歴史主義、証拠主義傾向を覆す事例になることを希望する」と話した。

 今回のカンファレンスに参加した「日本軍『慰安婦』問題解決全国行動」の小林久公氏は「日本政府は慰安婦強制連行を直接示す資料は目につかないとし、相変らず責任を否定している。だが昨年、日本の国立公文書館が日本軍がバリ島などに直接慰安婦を動員し性奴隷生活を強要した記録文書182点を内閣官房に提出するなど、慰安婦資料を通じて真実は明らかになり続けている」として安倍内閣の態度変化を求めた。

 韓国、中国、日本の慰安婦問題専門家が参加したカンファレンスで、パク・チョンエ東国大学対外交流研究院研究教授らは、男性軍人の視角で記録された残忍な動画と写真を公開する前に感じた悩みを話し「日本政府の加害責任を立証する資料はすでに豊富なのだから、今後は資料を公開する前に慰安婦の人権と個人情報を保護する方法を討論しなければならない時期」とも提案した。

ナム・ウンジュ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )


http://www.hani.co.kr/arti/society/area/833978.html
韓国語原文入力:2018-02-27 20:37
訳J.S
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/29893.html

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579. 中川隆[-5500] koaQ7Jey 2018年3月23日 05:40:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8578]

Miho Koto 一般公開
3月22日, 21:50
おっと!!!――慰安婦新たな証言。
従軍記者だった永井荷風語る、大概は騙せレて連れていかれた。
村上春樹語る、相手があることだから、相手が納得するまで謝る。
https://plus.google.com/107168806224260684409/posts/Ad2VNUvBk7N


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580. 中川隆[-5499] koaQ7Jey 2018年3月23日 05:41:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8578]

「洗濯していたところ、日本巡査に連れ去られた」…慰安婦被害者事例集を出版
2018年03月22日16時37分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]


1945年10月、タイ・ウボンラーチャターニーで撮影された慰安婦女性写真。右はタイでノ・スボクさんの家族が運営していた喫茶店と家族。(写真=ソウル市)

貧困のせいで14歳の幼い年に嫁に行くことになったノ・スボクさん。ノさんは21歳になった年に家政婦として働きに行った釜山(プサン)で洗濯をしていたところ、日本巡査に連れ去られた。40日余りの航海の末にノさんが到着したところはシンガポール。彼女はそこで地獄のような慰安婦生活を余儀なくされた。朝には軍人の服を洗ったり清掃をしたりし、午後には弾薬筒を運びながら一日に60人の兵士を相手にした。このように8カ月を過ごした後、タイに移されたノさんは日本が連合軍に降参すると英国軍の捕虜収容所に収容された。戦争が終わった後、彼女は故郷に戻ることができずマレーシア、タイなどの地域を転々としたあげくにタイで結婚して家族を作った。2011年、タイで死亡したノさんは生前に「やっと命だけをつないでいく生ける屍に他ならなかった」と証言した。

旧日本軍慰安婦被害者16人の生々しい証言と米国やタイ、英国の現地調査を通じて新しく発見された資料を盛り込んだ事例集『連れ去られる、捨てられる、私たちの前に立つ』が22日、出版される。ソウル市がソウル大学人権センターの鄭鎮星(チョン・ジンソン)教授研究チームと共に発掘した事例集の副題は「写真と資料で見る旧日本軍慰安婦被害女性の話」だ。

この事例集は慰安婦被害女性の生涯を扱うことに集中した。ソウル市が昨年発刊した証言集が被害状況の説明に焦点を合わせたとすれば、この事例集には植民地社会でどのような生活をして連行されるようになったか、帰還旅程、帰還後の生活まで説明する。

特に、その間被害者の証言があっただけで大きく注目されなかったタイの慰安婦関連資料が目を引く。事例集にはタイのカーンチャナブリー・アユタヤ収容所の他にもウボンラーチャターニー地域に慰安婦がいたとのことを見せる資料が盛り込まれた。ウボンラーチャターニー収容所を管理した英国軍大佐が朝鮮人慰安婦5人の写真を残し、回顧録に彼らが助けを求めた事実を残したものだ。

韓国政府に被害登録ができなかった被害女性の話もある。被害が明らかになったがすでに亡くなった被害者、中国に住みながら国籍回復をあきらめたか国籍回復中に亡くなった被害者、遅まきながら被害を公開して政府登録の過程を進めていくうちに亡くなった被害女性の話だ。

事例集は22日から購入できる。ソウル市は旧日本軍慰安婦に関する歴史的事実を知らせる市民を対象にした講演会も開催する。ソウル大学人権センター関係者は「慰安婦被害女性の話を中心に旧日本軍慰安婦問題の歴史を理解できる契機になれば良いだろう」と話した。ソウル市関係者は「これまでは生存しておられる慰安婦被害者の証言がこれを代替したとすれば、これからは事例集のように資料と証言集に記録して史料として体系的に管理し、具体的証拠を通じて慰安婦の実態を明確に証明していきたい」と明らかにした。
http://japanese.joins.com/article/857/239857.html

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581. 中川隆[-5498] koaQ7Jey 2018年3月23日 05:44:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8578]

「韓国人慰安婦を強制連行」と書いたのは朝日でなく産経新聞だった! 植村記者に論破され阿比留記者が赤っ恥 
LITERA(リテラ)


[画像] 「韓国人慰安婦を強制連行」と書いたのは朝日でなく産経新聞だった!
植村記者に論破され阿比留記者が赤っ恥 


 昨夏の朝日報道問題で「捏造記者」の濡れ衣を着せられた元朝日新聞記者・植村隆氏と、「安倍晋三シンパ」の3本指に入る産経新聞の名物編集委員・阿比留瑠比記者との"インタビュー対決"が話題になっている。

 と言っても、産経新聞紙上に掲載された記事のほうではなく、その後、産経のWeb版で公開された"インタビューの全文書き起こし"と見られるやりとりについてだ。なんと、そこには、"ホーム"であるはずの産経の阿比留記者と同行した外信部・原川貴郎記者が、"アウェー"の植村氏に論破され、くるしい言い逃れに終始している模様が描かれていたのである。

 本サイトは前回、そのインタビューに至る経緯や、前半のハイライト部分を紹介した。今回解説していくのはその佳境、いわば"KOラウンド"だ。引き続き、一問一答を産経新聞Web版から引用(一部省略)しつつ、"対決"の様子を解説席からお届けしていこう。

 ──産経側はかねてから、植村氏が1991年にスクープした慰安婦問題の記事について、"元慰安婦の金学順さんがキーセン(韓国の芸者)として人身売買されたことを隠し、「女子挺身隊」として国家によって強制連行されたように書いた"と主張していた。しかし実のところ、植村氏の記事には「強制連行」という言葉はいっさい出てこない。だが、阿比留氏らはそれでも"植村記事の「女子挺身隊の名で戦場に連行され」との記述は、軍や官憲の指示で「強制連行」が行われたとしか読めず、虚報である"と言ってはばからない。

 そんななか、インタビュー中、植村氏が、1991年12月7日付の産経新聞(大阪版)をおもむろに取り出し、阿比留記者に見せると......。以下はそのやりとりだ。

植村「一つお聞きしたい。そうしたら、阿比留さん、この記事はどう読む?」
阿比留「ああ、(記事は)間違っていますね」
植村「間違っている?」
阿比留「はい」
植村「どこが間違っているんですか?」
阿比留「『日本軍に強制的に連行され』という(部分)」
植村「これは産経新聞の記事ですね?」
阿比留「だから、うちが間違っているんですね」
植村「訂正かなんかやられたんですか」
阿比留「これは今日、初めて見ましたから訂正したかどうかはちょっと分かりません」

 まるで、急激に青ざめていく阿比留記者の顔色が見て取れるかのようだ。植村氏が示した産経新聞の記事には〈金さんが17歳の時、日本軍に強制的に連行され、中国の前線で、軍人の相手をする慰安婦として働かされた〉とハッキリそう書いてあった。これは金学順さんの記者会見での発言を元に書いたものだという。さらに、1993年8月31日付の産経新聞大阪本社版にはこんな記事も載っていた。

〈太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年ごろ、金さんは日本軍の目を逃れるため、養父と義姉の3人で暮らしていた中国・北京で強制連行された。17歳の時だ。食堂で食事をしようとした3人に、長い刀を背負った日本人将校が近づいた。「お前たちは朝鮮人か。スパイだろう」。そう言って、まず養父を連行。金さんらを無理やり軍用トラックに押し込んで一晩中、車を走らせた〉。

 日本軍が暴力によって現地の人々を強制連行していく──まるで「吉田証言」のような話である。しつこいようだが、これは産経新聞の記事だ。

植村「これも強制連行ですね。両方主体が日本軍ですけど、それはどうですか」
阿比留「間違いですね」
植村「間違いですか? ふ〜ん。これがもし間違いだったら、『朝日新聞との歴史戦は、今後も続くのだと感じた』って阿比留さんは書かれているんだけど、産経新聞の先輩記者と歴史戦をまずやるべきじゃないですか。原川さんどうですか」
原川「私、初めて見ましたので、どういう経緯でこうなったか、どこまで調べられるか。これちょっと日付をメモらせてもらって」
植村「いや、あげますよ。調べて、間違いだったらそれがどうなのか、どうするのかも含めて知らせてください。歴史戦というものは、もし歴史戦を皆さんがやっておられるんであれば、たぶん真実のためにやっておられると思うんです。皆さんがね。であれば、先ほど間違ったとおっしゃったことに対しても、謙虚に向かうべきだと思います」

 なんのことはない。「朝日は世界中に慰安婦に関する嘘をばら撒き、日本を貶めた」と批判している産経新聞こそが、「(金学順さんは)日本軍に強制連行された」とハッキリと報道していたのである。ちなみに、朝日には金学順さんに関して「強制連行」と書いた記事はひとつもない。なぜなら、第一報を書いた植村氏に、金さんが強制連行されたという認識がなかったからだ。

 そして、何より驚くのは、産経新聞で慰安婦報道の先頭に立っている2人の記者が自社の慰安婦報道についてほとんど把握していなかったという事実である。他社に対して"歴史戦"を挑むというなら、まずは自社の報道ぶりを検証するのが最低限の作業だろう。しかし、それどころか、阿比留記者らはまさに自分たちが批判している植村氏の記事すら、きちんと読んでいなかったようなのだ。

 いったい、彼らは何と戦っていたのだろうか。真実を探索するという本分を忘れ、"朝日叩き"それ自体が目的化しているとしか思えない。これはなにも、阿比留記者個人だけの話ではないだろう。昨夏以来、ある雑誌は、こんなふうにして「朝日慰安婦報道の検証」に気炎を上げていた。

「廃刊せよ! 消えぬ「反日」報道の大罪」(14年10月号)
「言い逃れは許されない 「慰安婦」報道の国辱責任」(14年11月号)
「決定版40ページ! 朝日慰安婦報道「有罪」論」(15年4月号)
「訂正1年 朝日は「慰安婦」を反省したか」(15年9月号)

 すべて、産経新聞社刊行の論壇誌「正論」の表紙に踊った見出しである。産経新聞社は、自社の慰安婦「強制連行」報道を訂正せぬまま、しかも、社員記者たちは植村氏の記事をまともに読んですらいないまま、この1年間、ひたすら「廃刊」「大罪」「国辱」「有罪」と、がなりつづけていたわけである。

 この時点ですでに勝負あったというのはおわかりいただけただろうが、上で解説したのは、長い長いインタビューのほんの一部の入口に過ぎない。

 その後、インタビューは一連の植村氏からの"逆質問"が終わり、攻守が代わる。ところが、阿比留記者らからの質問は本当に重箱の隅をつつくようなものばかり。その典型が今年8月4日付の特大記事でも執拗に見出しに使われている「証言テープ」に関するものだ。阿比留記者らはこのテープの存在に異様にこだわり、「テープはいまどこにあるのか?」「テープを聞いたのは一度だけか?」「たった1回聞いただけで記事にしたのか?」「テープには『挺身隊』という名前は出てきているのか」という質問が繰り返される。

阿比留「それでですね、私ども、ちょっと不思議なのはですね、誰とも分からない、挺対協が出元とはいえですね、誰とも分からない、名前も分からない、証言テープだけですね、しかも1回聞いただけでですね、このような記事にできるものかなあと不思議なんですね」
植村「うーん、なるほどね」
阿比留「記者の作法としてですね」

 阿比留瑠比は1966年生まれ、植村隆は1958年生まれ。記者としての経験は植村氏のほうが明らかに長い。ここで植村氏が再び問うた。

植村「阿比留さん、僕の記事(1991年8月11日付朝日新聞大阪本社社会面記事)って読まれたことあります? きちんと」
阿比留「きちんとと言うか、どの記事ですか」
植村「だから僕のその、批判されている記事」
阿比留「ああ、読みました」
植村「じゃあ、ちょっと見てみましょう...」

 植村氏の記事は新聞記者として訓練を受けた人なら誰でもわかるような基本的セオリーに則って書かれている。植村氏はまず、当時のソウル支局長から聞いた「ソウルにいる元朝鮮人従軍慰安婦の女性が語り始めたらしい」という情報を元に、以前から取材で知り合っていた挺対協の尹貞玉・共同代表に取材を申し込んだ。ところが、証言者はマスコミの取材を受けることを拒否しており、名前も教えられないと言われた。だが、挺対協が聞き取りをしたテープは聞かせてもらえるということになり、植村氏は、元慰安婦の証言テープを聞いた上で、尹代表の話を元に記事を書いた──という経緯である。

 したがって、記事はこの経緯に沿って(1)元慰安婦の女性がソウル市内に生存し、挺対協が聞き取り調査を始めた、(2)挺対協は女性の話を録音したテープを記者に公開した、(3)以下、挺対協の尹代表らによると......という構成になっている。つまり、テープはあくまでも尹代表らの話の真実性を裏付ける材料のひとつに過ぎず、記事は尹代表らの話を元に書かれているということだ。もし、この報道が"記者の作法として"許されないのだとしたら、警察の発表記事などいっさい書けないことになってしまう。いまや産経の「顔」とまでいわれる阿比留記者が、それを知らないはずはないのである。

 もうひとつの争点(?)である「慰安婦」と「挺身隊」の混同・誤用問題も、植村氏の話には説得力がある。これは朝日新聞社も昨年8月の検証記事では混同があったと認めているが、植村氏の主張によれば、そもそも当時の韓国では「慰安婦」という言葉は一般的でなく、この問題に関心のある学者も調査団体の関係者も、あるいは元慰安婦の人たち自身も、みんな「挺身隊」という言葉を使っていたというのだ。「挺身隊」は韓国語で「チョシンデ」という。金学順さんが名乗り出たときも、「チョシンデハルモニ(挺身隊のおばあさん)がついに名乗りを上げた」と言われたそうだ。なにより、韓国の慰安婦問題に関する調査団体が「韓国挺身隊問題対策協議会」と名乗っていることからしても明らかだ。

 当然、当時は日韓の新聞の多くが「挺身隊」という言葉を使っていた。1991年9月3日付産経新聞大阪本社版には〈『挺身隊』の名のもとに、従軍慰安婦として狩りだされた〉と、ほとんど植村氏の記事と同じ表現が使われている。読売も、毎日も例外ではない。にもかかわらず、植村氏だけがバッシングされ、新しい職場に「辞めさせろ」「殺せ!」といった抗議や脅迫が届くといった事態が起きているのだ。いかに異常なことかがわかるだろう。

 しかし、植村氏は「他紙も間違っているではないか!」とは非難しない。それは、どの会社のどの記者も、その時代時代で真実を追求しようと一生懸命に取材し、記事を書いた結果だからだ。実際、阿比留記者らをそう諭す場面もある。

 だが、一方の阿比留記者らは、植村氏が韓国語ができ、韓国の留学経験もある韓国の専門家だから一般の記者とは違う、といった訳のわからない理屈を展開しようとしたり、阿比留記者も原川記者も実は元慰安婦を直接取材したことがないということが明らかになったり(理由は「韓国語ができないから」。植村氏も「通訳を使えばできるよ」と当然のツッコミを入れている)、とにかく読みどころ満載の"インタビュー対決"なのだ。

 しかも、産経がみっともないのは、8月4日付の紙面で〈「強制連行」「挺身隊」本紙も過去に使用〉とこっそり記事を載せている点だ。元朝日記者の植村氏からの指摘でわかったということにはいっさい触れず、謝罪も訂正もしていない。朝日新聞に対して「廃刊してお詫びしろ」と迫っていたのに、自分たちの誤報に対するこの態度はいったいなんなのか。

 しかも、これは「産経は正義、朝日は廃刊しろ!」と叫んできた右派知識人やネトウヨたちも同罪だ。

 そもそも朝日新聞バッシングは最初から右派メディアと官邸によって恣意的に仕掛けられたまったく中身のないものだったのだ。「国賊」という言葉は、朝日ではなくバッシングを仕掛けた連中にこそぴったりの形容詞である。
(野尻民夫)
https://news-livedoor-com.cdn.ampproject.org/c/news.livedoor.com/lite/article_detail_amp/10633890/?usqp=mq331AQGCAEYACAB

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582. 中川隆[-6544] koaQ7Jey 2018年3月29日 12:54:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-9298]
ロシアや中国との連携を強め、東アジアの軍事的な緊張を緩和させようとしている韓国政府はアメリカや日本の好戦派に抵抗している。バラク・オバマ政権は軍事的な緊張を高めるために日本と韓国を連携させる必要があり、慰安婦問題の解決を求めていた。

 同政権でNSC(国家安全保障会議)の安保副補佐官だったベン・ローズによると、​オバマ大統領は日韓両国の首脳との会う際、数年にわたり、毎回のように慰安婦の問題を採りあげ、両国の対立を解消させようとしていた​という。合意の翌年に朴槿恵大統領のスキャンダルが発覚、2017年に失脚している。それに対し、文在寅大統領は慰安婦問題を再燃させた。日本との軍事的な協調関係を揺さぶったと見ることもできる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201803290000/

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583. 中川隆[-11068] koaQ7Jey 2018年4月23日 07:52:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11947]

日本兵の残虐行為は覚醒剤が原因だった

あなたは知っていますか?日本の軍隊は太平洋戦争で心の高揚に『ヒロポン』を常用させていました

覚せい剤服用

日本は、1941年大日本製薬メタンフェタミン製剤「ヒロポン」(覚醒剤)武田長兵はアンフェタミン製剤「セドリン」(覚醒剤)を海軍、陸軍に大量に納入しました。


特効薬として特攻隊員に菓子袋に入れてカジュアルに支給しました。
製品は、「ヒロポン」の周りをチョコレートで包み『菊のご紋章』を付けて納入していました。


出撃前に注射やチョコレートを特攻隊員に食べさせていました。それを食べた若者は、意気揚々と戦地に出撃し散っていきました。むごい、悲しいことです。これを書くと、涙がでます。


九州の基地では、1036人の特攻隊員に「アンプル」を投与。国を守るため計6000人が玉砕していきました。悲しい事実です。
精神を高揚させ、人間性を失くす「ヒロポン」は慰安婦問題や、南京事件を起こした悲しい現実があります。


日本政府は、大日本製薬 武田長兵商店に、覚醒剤の製造中止を勧告、昭和26年(1951年)覚醒剤取締法が制定されました。
西堀貞夫の父、西堀孝一は軍医として特攻隊のヒロポン支給の恐ろしさを知り、軍上層部に進言、ニューギニアの戦地アインで戦死しました。


この想いが私たちの原点です。患者の会には、この真実を知るたくさんの遺族の方がお見えになります。
映画「永遠の0」では明かせなかった特攻隊員の死の真実。彼らはヒロポンで人間性を失くし玉砕しました。
http://www.onkyo.tokyo/guntai.php


ドーピングを誘発しやすい社会だから覚醒剤が浸透していく


1945年、日本の敗戦の後、どさくさに紛れて売られていたのが「ヒロポン」と呼ばれる薬だった。

ヒロポンというのは、文字通り「疲労がポンと取れる」という意味で付けられた安易なものだったが、その内容は今で言うところの「覚醒剤」だった。

戦時中は兵士や特攻隊の士気を鼓舞させ、労働者や女工たちに眠気防止で武器弾薬を作るために使われていて、大日本製薬の主力の薬のひとつだった。

この当時はヒロポンの成分であるメタンフェタミンが強い依存性を持つことが知られていなかったので違法ではなかった。新聞にも、堂々と「除倦覚醒剤」と銘打って売られていた。

「除倦覚醒剤」とは要するに「疲れを除き、覚醒する薬」という意味で、このメタンフェタミン系のドラッグを「覚醒剤」というのはここから来ている。

戦中は軍民共に戦争に駆り立てられていたので、「疲れた」などと言っている場合ではなかったのである。

だから、軍需企業・民間企業共に、ヒロポンを大量にストックしていたのだが、敗戦後、この薬が闇市を通して社会に大量流通するようになった。


終戦後の作家は、みんなドラッグ漬けだった

ヒロポンは社会の底辺で広がっただけではない。有名人でもみんなこの薬を使っていた。何しろそれは違法ではなかったのである。

漫才トリオの正司歌江、ミヤコ蝶々、中村八大、桂文楽、六代目笑福亭松鶴等はみんなこのヒロポン中毒になっていた。作家で言えば、『堕落論』で知られている無頼派の坂口安吾もヒロポン中毒だった。

無頼派と言えば、織田作之助も田中英光も同じジャンルに入るのだが、この2人もまた坂口安吾と同じくヒロポン中毒だったと言われている。

織田作之助などはヒロポンを注射しているところを写真を撮られて、それが出回って話題になったという。

何か物を書くというのは孤独で単調な作業だ。そして、集中しなければならないので、精神的にも激しい疲労が蓄積する。当時の作家は、それをヒロポンで乗り切っていたのである。

芥川龍之介は小説『歯車』で幻覚を描いているのだが、この幻覚はヒロポンから来ているという説と、睡眠剤から来ているという2つの説がある。

そこには、歯車が見えたとか、銀色の翼が見えたとか、黄色いタクシーが見えたとか、過去の罪の残像が繰り返し現れるとか書かれていて、その幻影に主人公が怯えている。

ストーリーもなく、ただ意識の変容を揺れ動いているだけなので、どちらかと言えば睡眠剤のような雰囲気がある。詳しくは分からないが、精神的には相当追い詰められていたことが窺い知れる。

この小説の最後は、誰か自分が眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはいないか」となっている。実はこの小説は芥川龍之介が服毒自殺した後に発表されたものだった。その「死にたい」という述懐は本心であったと思われる。

荒正人という小説家もいたのだが、この人は自分だけでなく妻にもお手伝いさんにもヒロポンを飲ませて、一家総ヒロポン依存症になっていたという。

萩原朔太郎はヒロポン中毒ではなかったが、コカイン中毒だった。しかし、ヒロポンでの幻影は小説『猫町』で触れている。

私たちが今、日本の戦後文学としてありがたく詠んでいる文学は、その多くが覚醒剤で「ドーピング」された精神状態の中で書かれていた可能性がある。


無頼派作家、坂口安吾。執筆はヒロポンと共にあった。


ヒロポンがもたらす集中力は凄まじい効果だった

ヒロポンが意識集中のために使われていたというのは、覚醒剤依存者が48時間ずっと麻雀をやっていたとか、賭け将棋をしていたという逸話からも読み取ることができる。

凄まじい集中力が得られるので、ヒロポンが合法だった時代の学生は、東大受験のためにヒロポンを使うのが当たり前だったという。

この「受験のためにヒロポンを使った」というエピソードを聞くたびに私が思い出すのは、タイで知り合ったあるレディーボーイのことだ。

英語を流暢に話す彼はいったいどうやってその英語力を磨いたのか。もちろん、そこには仕掛けがあった。アンダーグラウンドでは、記憶力でさえも金で手に入ったのである。

(記憶力でさえ金で手に入れる。危険な方法が裏で流行している)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131023T0342460900.html


別にこのレディーボーイのやっていることはおかしなことではない。欧米のエリートたちも、スマートドラッグを使って同じようなことをやっている。

アスリートはドーピングで最強の身体的パフォーマンスを手に入れるが、エリートたちもまた「スマートドラッグ」というドーピングで最強の頭脳を手に入れていたということだ。

言うまでもないが、このスマートドラッグも覚醒剤とよく似た成分(アンフェタミン系)が入っているので、言ってみればヒロポンの現代版である。

副作用はもちろんある。しかし、副作用があったとしても、現役時代に最高のパフォーマンスが発揮できれば、地位も収入も約束されるわけで、これで人生を逃げ切ることができると考える人たちもいる。


ヒロポン錠。「疲労の防止と恢復に!」と堂々と宣伝されていた。この薬は1951年に覚醒剤取締法が制定されるまでは「合法」だった。


覚醒剤には潜在的に巨大な需要があるとも言える

戦後の混乱期にヒロポンを使っていた人は、どちらかと言えば快楽が欲しいというよりも、もっと労働したい、疲労を取りたい、馬力が欲しい、という切実な発想から摂取されたので、皮肉なことに真面目な人であればあるほど依存地獄にハマっていった経緯がある。

そして、ヒロポン依存になると、虫が身体を這い回るような幻覚や、わけの分からない幻聴に悩まされるようになり、暴れ回るような異常行動を引き起こす。

そのため、1951年には覚醒剤取締法が制定され、警察が大々的な摘発を行ったので、乱用者は激減していった。

しかしヒロポンは覚醒剤として生き残り、現代でも有名な歌手や野球選手が次々と覚醒剤依存に堕ちて逮捕される姿が繰り返されている。

今後も、「大物」が逮捕されるような流れが続くだろう。

覚醒剤はいったん地下に潜ることはあっても、絶対に廃れることがなく歴史を刻むのである。欧米でも、覚醒剤は「メス」「スピード」「アイス」と言われて依存者が減るどころか増え続けている現状がある。

覚醒剤はそれ自体に快楽があるというよりも、自分がこれからやりたいことを猛烈な集中力で取り組める「ドーピング作用」が強い。それが、恐ろしい魔力なのである。

自分の潜在的な能力を、一瞬にして最強フルマックスの状況に持っていけるのが覚醒剤である。そんなものを覚えてしまったら、覚醒剤のない人生など考えられなくなる。

現代社会は、常に人々に最高のパフォーマンスを求める時代である。そうしたプレッシャーは誰にでもかかる。言ってみれば、ドーピングを誘発しやすい社会なのだ。

そのプレッシャーは坂口安吾や芥川龍之介の時代よりも、はるかに強いと言える。だから、覚醒剤は今でも潜在的に巨大な需要がある。覚醒剤の流行はこれからも起きていく。


いかにも作家という雰囲気を醸し出している芥川龍之介。晩年は睡眠薬のベロナールやらジアールを大量に飲んでおり、結局は服毒自殺に追い込まれた。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160316T0122080900.html


覚醒剤については

経験者としての意見です。
http://www.asyura.com/0310/dispute13/msg/131.html


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584. 中川隆[-13456] koaQ7Jey 2018年7月14日 09:10:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16546]
「私は捏造記者ではありません」 ー 植村(札幌)訴訟結審
http://article9.jp/wordpress/?p=10720
2018年7月13日 澤藤統一郎の憲法日記


植村隆元朝日新聞記者が、櫻井よしこらを訴えた名誉毀損損害賠償請求訴訟(札幌地裁)が先週の金曜日(7月6日)に結審した。判決言渡は11月9日の予定。原告・弁護団そして支援者は意気軒昂である。

櫻井よしこや西岡力らは、産経や週刊文春、WiLLなどを舞台に、植村隆を「捏造記者」として攻撃した。櫻井や西岡に煽動されたネット右翼が、植村本人だけでなく、その家族や勤務先の北星学園までを標的に攻撃して、大きな社会問題となった。問題とされた植村隆の朝日の記事は、1991年8月のもの。常軌を逸したバッシングというほかはない。

ことは表現の自由やジャーナリズムのありかたにとどまらない。従軍慰安婦をめぐる歴史修正主義の跋扈を許すのか、安倍政権を押し上げた右翼勢力の民族差別やリベラル派勢力への攻撃を默過するのか、という背景をもっている。

私も、同期の友人たちと語らって、植村・北星バッシングへの反撃の声をあげた。そのときの率直な気持は、この社会の動向に、薄気味悪さだけでなく恐ろしさを感じていた。伝えられている、あのマッカーシズムの雰囲気を嗅ぎ取らざるを得なかったのだ。この訴訟、この判決は、この社会の健全さを占うものとしての重みをもっている。

リベラルバネが多少は働いて、いま櫻井よしこや西岡力の影響力は明らかに落ちてきている。判決が、植村ではなく櫻井よしここそが「捏造ジャーナリスト」であることを明らかにするものとなるよう期待したい。

「植村裁判を支える市民の会」が立派なホームページを作っている。
http://sasaerukai.blogspot.com/

そのサイトから、結審(2018年7月6日)の法廷と、2年前3か月の第1回法廷(2016年4月22日)での、原告植村隆渾身の意見陳述を引用しておきたい。

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     結審(2018年7月6日)法廷での意見陳述

今年3月、支援メンバーらの前で、直前に迫った本人尋問の準備をしていました。「なぜ、当該記事を書いたのか」、背景説明をしていました。こんな内容でした。

私は高知の田舎町で、母一人子一人の家で育ちました。豊かな暮らしではありませんでした。小さな町でも、在日朝鮮人や被差別部落の人びとへの理不尽な差別がありました。そんな中で、「自分は立場の弱い人々の側に立とう。決して差別する側に立たない」と決意しました。そして、その延長線上に、慰安婦問題の取材があったと説明していました。

その時です。突然、涙があふれ、止まらなくなり、嗚咽してしまいました。

新聞記者となり、差別のない社会、人権が守られる社会をつくりたいと思って、記事を書いてきました。それがなぜ、こんな理不尽なバッシングにあい、日本での大学教員の道を奪われたのでしょうか。なぜ、娘を殺すという脅迫状まで、送られて来なければならなかったのでしょうか。なぜ、私へのバッシングに北星学園大学の教職員や学生が巻き込まれ、爆破や殺害の予告まで受けなければならなかったのでしょうか。「捏造記者」と言われ、それによって引き起こされた様々な苦難を一気に思い出し、涙がとめどなく流れたのでした。強いストレス体験の後のフラッシュバックだったのかもしれません。

本人尋問が迫るにつれ、悔しさと共に緊張と恐怖感が増してきました。反対尋問では再び、あのバッシングの時のような「悪意」「憎悪」にさらされるだろうと思ったからです。

「そうだ、金学順(キム・ハクスン)さんと一緒に法廷に行こう」と考えました。そして、金学順さんの言葉を書いた紙を背広の内ポケットに入れることにしたのです。

この紙は、私に最初に金学順さんのことを語ってくれた尹貞玉(ユン・ジョンオク)先生の著書の表紙にあった写真付の著者紹介の部分を切り取ったものです。その裏の、白い部分に金学順さんが自分の裁判の際に提出した陳述書の中の言葉を黒いマジックで、「私は日本軍により連行され、『慰安婦』にされ人生そのものを奪われたのです」と書きいれました。

私の受けたバッシング被害など、金さんの苦しみから比べたら、取るに足らないものです。いろんな夢のあった数えで17歳の少女が意に反して戦場に連行され、数多くの日本軍兵士にレイプされ続けたのです。絶望的な状況、悪夢のような日々だったと思います。

そして、私は、こう自分に言い聞かせました。「お前は、『慰安婦にされ人生を奪われた』とその無念を訴えた人の記事を書いただけではないか。それの何が問題なのか。負けるな植村」

金さんの言葉を、胸ポケットに入れて、法廷に臨むと、心が落ち着き、肝が据わりました。

きょうも、金さんの言葉を胸に、意見陳述の席に立っています。

私は、慰安婦としての被害を訴えた金学順さんの思いを伝えただけなのです。

そして「日本の加害の歴史を、日本人として、忘れないようにしよう」と訴えただけなのです。韓国で慰安婦を意味し、日本の新聞報道でも普通に使われていた「挺身隊」という言葉を使って、記事を書いただけです。それなのに、私が記事を捏造したと櫻井よしこさんに繰り返し断定されました。

北海道新聞のソウル特派員だった喜多義憲さんは私の記事が出た4日後、私と同じように「挺身隊」という言葉を使って、ほぼ同じような内容の記事を書きました。記事を書いた当時、私との面識はなく、喜多さんは私の記事を読んでもいなかったのです。喜多さん自身が直接、金学順さんに取材した結果、私と同じような記事を書いた、ということは、私の記事が「捏造」でない、という何よりの証拠ではないでしょうか。その喜多さんは、2月に証人として、この法廷で、櫻井よしこさんが私だけを「捏造」したと決め付けた言説について、「言い掛かり」との認識を示されました。

そして、こうも述べられました。「植村さんと僕はほとんど同じ時期に同じような記事を書いておりました。それで、片方は捏造したと言われ、私は捏造記者と非難する人から見れば不問に付されているような、そういう気持ちで、やっぱりそういう状況を見れば、違うよと言うのが人間であり、ジャーナリストであるという思いが強くいたしました」この言葉に、私は大いに勇気づけられました。

1990年代初期に、産経新聞は、金学順さんに取材し、金学順さんが慰安婦になった経緯について、少なくとも二度にわたって、日本軍の強制連行と書きました。読売新聞は、「『女性挺身隊』として強制連行され」と書きました。

いま産経新聞や読売新聞は、慰安婦の強制連行はなかったと主張する立場にありますが、1990年代の初めに金学順さんのことを書いたこの両新聞の記者たちは、金さんの被害体験をきちんと伝えようと、ジャーナリストとして当たり前のことをしたのだと思います。私は金さんが、慰安婦にさせられた経緯について、「だまされた」と書きました。「だまされ」ようが「強制連行され」ようが、17歳の少女だった金学順さんが意に反して慰安婦にさせられ、日本軍人たちに繰り返しレイプされたことには変わりないのです。彼女が慰安婦にさせられた経緯が重要なのではなく、慰安婦として毎日のように凌辱された行為自体が重大な人権侵害にあたるということです。

しかし、私だけがバッシングを受けました。娘は、「『国賊』植村隆の娘」として名指しされ、「地の果てまで追い詰めて殺す」とまで脅されました。

あのひどいバッシングに巻き込まれた時、娘は17歳でした。それから4年。『殺す』とまで脅迫を受けたのに、娘は、心折れなかった。そのおかげで、私も心折れず、闘い続けられました。私は娘に「ありがとう」と言いたい。娘を誇りに思っています。

被告・櫻井よしこさんは、明らかに朝日新聞記者だった私だけをターゲットに攻撃しています。私への憎悪を掻き立てるような文章を書き続け、それに煽られた無数の人びとがいます。櫻井さんは「慰安婦の強制連行はなかった」という強い「思い込み」があります。その「思い込み」ゆえなのでしょうか。事実を以て、私を批判するのではなく、事実に基づかない形で、私を誹謗中傷していることが、この裁判を通じて明らかになりました。そして誤った事実に基づいた、櫻井さんの言説が広がり、ネット世界で私への憎悪が増幅されたことも判明しました。

「WiLL」の2014年4月号の記事がその典型です。金さんの訴状に書いていない「継父によって40円で売られた」とか「継父によって・・・慰安婦にさせられた」という話で、あたかも金さんが人身売買で慰安婦にされたかのように書き、私に対し、「継父によって人身売買されたという重要な点を報じなかった」「真実を隠して捏造記事を報じた」として、「捏造」記者のレッテルを貼りました。「捏造」の根拠とした「月刊宝石」やハンギョレ新聞の引用でも都合のいい部分だけを抜き出し、金さんが日本軍に強制連行されたという結論の部分は無視していました。

しかし、櫻井さんは、私の指摘を無視できず、2年以上経っていましたが、「WiLL」と産経新聞で訂正を出すまでに追い込まれました。実は、訂正文には新たな間違いが付け加えられていました。金さんが強制連行の被害者でないというのです。日本軍による強制連行という結論をもつ記事に依拠しながらも、その結論の部分を再び無視していました。極めて問題の大きい訂正でしたが、櫻井さんの取材のいい加減さが、白日のもとに晒されたという点では大きな前進だったと思います。支援団体の調べでは、この種の間違いが、産経、「WiLL」を含めて、少なくとも6件確認されています。

提訴以来3年5か月が経ちました。弁護団、支援の方々、様々な方々の支援を受け、勇気をもらって、歩んでまいりました。絶望的な状況から反撃が始まりましたが、「希望の光」が見えてきたことを、実感しています。

そして櫻井よしこさんをはじめとする被告の皆さん、被告の代理人の皆さん。長い審理でしたが、皆様方はいまだに、ご理解されていないことがあると思われます。大事なことなので、ここで、皆様方に、もう一度、大きな声で、訴えたいと思います。

「私は捏造記者ではありません」

裁判所におかれては、私の意見を十分に聞いてくださったことに、感謝しております。公正な判決が下されることを期待しております。

**************************************************************************

    第1回法廷(2016年4月22日)での原告意見陳述

■「殺人予告」の恐怖
裁判長、裁判官のみなさま、法廷にいらっしゃる、すべての皆様。知っていただきたいことがあります。17歳の娘を持つ親の元に、「娘を殺す、絶対に殺す」という脅迫状が届いたら、毎日、毎日、どんな思いで暮らさなければならないかということです。そのことを考えるたびに、千枚通しで胸を刺されるような痛みを感じ、くやし涙がこぼれてきます。

私は、2015年2月2日、北星学園大学の事務局から、「学長宛に脅迫状が送られてきた」という連絡を受けました。脅迫状はこういう書き出しでした。

「貴殿らは、我々の度重なる警告にも関わらず、国賊である植村隆の雇用継続を決定した。この決定は、国賊である植村隆による悪辣な捏造行為を肯定するだけでなく、南朝鮮をはじめとする反日勢力の走狗と成り果てたことを意味するものである」

5枚に及ぶ脅迫状は、次の言葉で終わっています。

「『国賊』植村隆の娘である●●●を必ず殺す。期限は設けない。何年かかっても殺す。何処へ逃げても殺す。地の果てまで追い詰めて殺す。絶対にコロス」

私は、足が震えました。

大学に脅迫状が送られてきたのは2014年5月末以来、これで5回目でした。最初の脅迫状は、私を「捏造記者」と断定し、「なぶり殺しにしてやる」と脅していました。さらに「すぐに辞めさせろ。やらないのであれば、天誅として学生を痛めつけてやる」と書いていました。

娘を殺害する、というのは、5回目の脅迫状が初めてでした。もう娘には隠せませんでした。「お前を殺す、という脅迫状が来ている。警察が警戒を強めている」と伝えました。娘は黙って聞いていました。

娘への攻撃は脅迫だけではありません。2014年8月には、インターネットに顔写真と名前が晒されました。そして、「こいつの父親のせいでどれだけの日本人が苦労したことか。自殺するまで追い込むしかない」と書かれました。こうした書き込みを削除するため、札幌の弁護士たちが、娘の話を聞いてくれました。私には愚痴をこぼさず、明るく振舞っていた娘が、弁護士の前でぽろぽろ涙をこぼすのを見て、私は胸が張り裂ける思いでした。

なぜ、娘がこんな目にあわなければならないのでしょうか。1991年8月11日に私が書いた慰安婦問題の記事への攻撃は、当時生まれてもいなかった高校生の娘まで、標的にしているのです。悔しくてなりません。脅迫事件の犯人は捕まっていません。いつになったら、私たちは、この恐怖から逃れられるのでしょうか。

■私への憎悪をあおる櫻井さん
櫻井よしこさんは、2014年3月3日の産経新聞朝刊第一面の自身のコラムに、「真実ゆがめる朝日報道」との見出しの記事を書いています。このコラムで、櫻井さんは私が91年8月に書いた元従軍慰安婦の記事について、こう記述しています。

「この女性、金学順氏は後に東京地裁に 訴えを起こし、訴状で、14歳で継父に40円で売られ、3年後、17歳のとき再び継父に売られたなどと書いている」。その上で、櫻井さんは「植村氏は彼女が人身売買の犠牲者であるという重要な点を報じ」ていない、と批判しています。しかし、訴状には「40円」の話もありませんし、「再び継父に売られた」とも書かれていません。

櫻井さんは、訴状にないことを付け加え、慰安婦になった経緯を継父が売った人身売買であると決めつけて、読者への印象をあえて操作したのです。これはジャーナリストとして、許されない行為だと思います。

さらに、櫻井さんは、私の記事について、「慰安婦とは無関係の「女子挺身隊」と慰安婦が同じであるかのように報じた。それを朝日は訂正もせず、大々的に紙面化、社説でも取り上げた。捏造を朝日は全社挙げて広げたのである」と断定しています。

櫻井さんは「慰安婦と『女子挺身隊』が無関係」と言い、それを「捏造」の根拠にしていますが、間違っています。当時、韓国では慰安婦のことを「女子挺身隊」と呼んでいたのです。他の日本メディアも同様の表現をしていました。

例えば、櫻井さんがニュースキャスターだった日本テレビでも、「女子挺身隊」という言葉を使っていました。1982年3月1日の新聞各紙のテレビ欄に、日本テレビが「女子てい身隊という名の韓国人従軍慰安婦」というドキュメンタリーを放映すると出ています。

私は、神戸松蔭女子学院大学に教授として一度は採用されました。その大学気付で、私宛に手紙が来ました。「産経ニュース」電子版に掲載された櫻井さんの、そのコラムがプリントされたうえ、手書きで、こう書き込んでいました。

「良心に従って説明して下さい。日本人を貶めた大罪をゆるせません」

手紙は匿名でしたので、誰が送ってきたかわかりません。しかし、内容から見て、櫻井さんのコラムにあおられたものだと思われます。

この神戸の大学には、私の就任取り消しなどを要求するメールが1週間ほどの間に250本も送られてきました。結局、私の教授就任は実現しませんでした。

櫻井さんは、雑誌「WiLL」2014年4月号の「朝日は日本の進路を誤らせる」という論文でも、40円の話が訴状にあるとするなど、産経のコラムと似たような間違いを犯しています。

このように、櫻井さんは、調べれば、すぐに分かることをきちんと調べずに、私の記事を標的にして、「捏造」と決めつけ、私や朝日新聞に対する憎悪をあおっているのです。

その「WiLL」の論文では、私の教員適格性まで問題にしています。「改めて疑問に思う。こんな人物に、果たして学生を教える資格があるのか、と。植村氏は人に教えるより前に、まず自らの捏造について説明する責任があるだろう」

「捏造」とは、事実でないことを事実のようにこしらえること、デッチあげることです。記事が「捏造」と言われることは、新聞記者にとって「死刑判決」に等しいものです。

朝日新聞は、2014年8月の検証記事で、私の記事について「事実のねじ曲げない」と発表しました。しかし、私に対するバッシングや脅迫はなくなるどころか、一層激しさを増しました。北星学園大学に対しても、抗議メールや電話、脅迫状が押し寄せ、対応に追われた教職員は疲弊し、警備費は膨らみました。

北星学園大学がバッシングにあえぎ、苦しんでいた最中、櫻井さんは、私と朝日新聞だけでなく、北星学園大学への批判まで展開しました。

2014年10月23日号の「週刊新潮」の連載コラムで、「朝日は脅迫も自己防衛に使うのか」という見出しを立て、北星学園大学をこう批判しました。「23年間、捏造報道の訂正も説明もせず頬被りを続ける元記者を教壇に立たせ学生に教えさせることが、一体、大学教育のあるべき姿なのか」

同じ2014年10月23日号の「週刊文春」には、「朝日新聞よ、被害者ぶるのはお止めなさい “OB記者脅迫”を錦の御旗にする姑息」との見出しで、櫻井よしこさんと西岡力さんの対談記事が掲載されました。私はこの対談の中の、櫻井さんの言葉に、大きなショックを受けました。

「社会の怒りを掻き立て、暴力的言辞を惹起しているものがあるとすれば、それは朝日や植村氏の姿勢ではないでしょうか」

櫻井さんの発言には極めて大きい影響力があります。この対談記事に反応したインターネットのブログがありました。

「週刊文春の新聞広告に、ようやく納得。もし、私がこの大学の学生の親や祖父母だとしたなら、捏造で大問題になった元記者の事で北星大に電話で問い合わせるとかしそう。実際、心配の電話や、辞めさせてといった電話が多数寄せられている筈で、たまたまその中に脅迫の手紙が入っていたからといって、こんな大騒ぎを起こす方がおかしい。櫻井よしこ氏の言うように、「錦の御旗」にして「捏造問題」を誤魔化すのは止めた方が良い」

私はこのブログを読んで、一層恐怖を感じました。ブログはいまでもネットに残っています。

櫻井さんは、朝日新聞の慰安婦報道を批判し、「朝日新聞を廃刊にすべきだ」とまで訴えています。言論の自由を尊ぶべきジャーナリストにもかかわらず、言葉による暴力をふるっているようです。「社会の怒りを掻き立て、暴力的言辞を惹起している」のは、むしろ、櫻井さん自身の姿勢ではないか、と思っています。

■「判決で、救済を」

「言論には言論で闘え」という批判があります。私は「朝日新聞」の検証記事が出た後、複数のメディアの取材を受け、きちんと説明してきました。また、複数の月刊誌に手記を掲載し、自分の記事が「捏造」ではないことを、根拠を上げて論証しています。にもかかわらず、私の記事が「捏造」であると断定し続ける人がいます。大学や家族への脅迫もやむことがありませんでした。こうした事態を変えるには、「司法の力」が必要です。

脅迫や嫌がらせを受けている現場はすべて札幌です。櫻井さんの「捏造」発言が事実ではない、と札幌で判断されなければ、こうした脅迫や嫌がらせも、根絶できないと思います。

私の記事を「捏造」と決めつけ、繰り返し世間に触れ回っている櫻井さんと、その言説を広く伝えた「週刊新潮」、「週刊ダイヤモンド」、「WiLL」の発行元の責任を、司法の場で問いたいと思います。私の記事が「捏造」でないことを証明したいと思います。

裁判長、裁判官のみなさま。どうか、正しい司法判断によって、「捏造」記者の汚名を晴らしてください。。家族や大学を脅迫から守ってください。そのことは、憲法で保障された個人の表現の自由、学問の自由を守ることにもつながると確信しています。

(2018年7月13日)


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585. 中川隆[-13751] koaQ7Jey 2018年8月16日 20:11:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17887] 報告

終戦わずか2週間後「東京の慰安婦」は米軍のいけにえにされた 「次から次へ、体じゅう痛くて…」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56962
2018.08.15 貴志 謙介 元NHKディレクター・プロデューサー 現代ビジネス

ようやく見えた「戦後ゼロ年」の真実

今年も8月15日がめぐってきた。だが、73年前の敗戦をめぐる記憶は日々確実に薄れている。

とりわけ記憶の劣化が著しいのは、敗戦直後の一年間、いわゆる「戦後ゼロ年」であろう。みじめな焼け跡暮らし、占領の屈辱、飢え、虚脱感、思い出したくもないヤミ買い。高度成長という威勢の良い華やかなサクセス・ストーリーの陰で、暗い役回りを押し付けられたせいかもしれない。

だがもっと本質的なことは、敗戦直後の時代には、その時代を経験した人であっても知ることのできなかった秘密がたくさんあるということだ。

占領軍は、情報をコントロールしていることを悟られないような巧妙なやり方で検閲をおこない、メディアを支配する情報戦を仕組んでいた。その結果、占領政策にとって都合の悪い出来事や情報は隠されたまま、いわばブラックホールのなかへ姿を消してしまった。

「戦後社会の原点」とみなされる時代であるにもかかわらず、多くの真実が欠落し、核心がぼやけたまま風化してしまったのである。

ところがここへ来て、思いがけず、戦後ゼロ年をめぐる新しい視野がもたらされようとしている。原動力のひとつは、機密資料の公開である。たとえば、2007年に機密解除された10万ページのCIA文書があり、150万点に達するGHQの検閲記録がある。A級戦犯に対するIPS(国際検察局)の尋問記録やアメリカ戦略爆撃調査団の調査報告も公開された。

こうした極秘文書を多くの証言とつきあわせていくと、驚くべき真実が続々と浮かび上がってくる。まず、時計の針を敗戦から3日後の1945年8月17日にあわせてみよう。

日本政府がつくった「性の防波堤」

この日、組閣された東久邇内閣の国務大臣に就任した近衛文麿がなによりも急いだことは何だったか。

実は近衛は入閣直後、ただちに警視総監の坂信弥を呼びつけ、米軍相手の売春施設を作るよう要請したのである。

40万人の占領軍上陸を2週間後に控え、日本の戦争指導者がもっとも恐れたことは、兵士による性犯罪であった。そして「性の防波堤」と位置づけられたのが、「国策売春組織」、すなわち「特殊慰安施設協会(RAA)」であった。

RAAをめぐる公式記録『R・A・A協会沿革誌』はこう述べている。

〈R・A・A協会が、その使命を忠実に達成する為、真先に開業したのは慰安所である。進駐軍将兵にとって、何よりも先ず慰安すべき面はセックスの満足であった〉

電光石火のごとく霞が関が動いた。外務省・内務省・大蔵省・運輸省・東京都・警視庁など、主要官庁がこぞって協力。座長役を務めたのは、大蔵省の主税局長・池田勇人(のちの首相)である。池田の号令で大蔵省がポンと3300万円を出す。現在の価格に換算すれば10億円を超える。

占領が始まる前に、政権の中枢にいた政治家や軍人、そして官僚が何を置いても、外国の軍隊による性暴力にこれほど強い恐怖感を抱いたのは、なぜだろう。国家が主導した売春施設を準備した警視総監・坂信弥は、内務省の資料のなかでこう証言している。

「東久邇さんは南京に入城されたときの日本の兵隊のしたことを覚えておられる。(略)それで、アメリカにやられたら大変だろうなという頭はあっただろうと思います」(大霞会編『続内務省外史』、地方財務協会)

軍国主義者がおびえていたのは、結局のところ、来るべき占領軍の蛮行というよりも、鏡に映った己の姿、日本軍の影だったのではあるまいか。

「からだじゅうが痛くて…」

8月28日、午前9時、RAAの幹部20名が皇居前広場に集合した。『R・A・A協会沿革誌』によれば、ここで全員が宮城に向かい宣誓式を行ったという。宣誓の主旨はこうである。

〈(RAA協会は)戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の難事業を課せらる。(略)『昭和のお吉』幾千人かの人柱の上に、狂瀾を阻む防波堤を築き、(略)「国体護持に挺身せんとするに他ならざることを重ねて直言し、以て声明となす〉

敗戦国であるドイツやイタリア、あるいはソ連に占領された東ヨーロッパの国々にも、占領軍を相手にする売春婦は大勢いた。しかし、国家が号令を発して、莫大な予算を投じ、官僚がプロジェクトを組み、「国体護持」のために女性を犠牲にするという“理想”を高らかに掲げた国はほかにない。

8月27日、RAAは、占領軍の上陸地点に近い品川の大森海岸に「慰安所第一号」として、「小町園」を開店した。ポツダム宣言の受諾からわずか2週間しかたっていない。

50人の女性、それも大半はシロウトの女性が送り込まれ、10畳、20畳の大部屋をカーテンや屏風で仕切り、30ほどの部屋が作られた。待ちかねたように、米兵がどっと押し寄せ、障子や襖を蹴破って、土足のまま押し入ってくる。女たちは恐怖のどん底へ投げ込まれた。

「恐怖におびえるまもなく、兵隊が入ってくるなり私を抱くと、しびれるほど唇を吸う。(略)入れ替わりに、つぎの兵隊がくる。(略)つぎからつぎへと抱いては送り、送っては抱き、(略)からだじゅうが痛くて……。」(『東京闇市興亡史』より)


RAAが横須賀に設けた慰安施設「安浦ハウス」(米軍資料)

女とみると、手あたりしだい

『R・A・A協会沿革誌』によれば、小町園を皮切りに、立川「キャバレー富士」、調布「調布園」、福生「福生営業所」、北多摩「ニューキャッスル」、築地「宮川」、人形町「花家」、向島「迎賓館大蔵」、若林「R・A・Aクラブ」が次々とオープン。

東京だけで33か所。従業員は450人。ダンサー2000人。350人の「慰安婦」。ひとりの女性が最高で一日60人を相手にした、との証言もある。


銀座松坂屋近くにRAAがつくったキャバレー“Oasis of Ginza”(Photo by gettyimages)

一方、RAAの幹部連中は何をしていたか。戦前に吉原で遊郭を経営していた経歴を持つRAA営業所長・岡本清次の談。

「RAAの仕事は国家の肝煎りですから、国から給料もらっているような身分でした。基本給千百円、手当て千百円の計二千二百円というのは、当時としてはそうとうな高給取り」

「食事のほうは、米兵からの土産もあったし、なにしろ警視庁から食券がきていましたから。(略)兵隊がもってくる牛肉は、ブ厚くてスキヤキにするとほんとうにうまかった」

当時、警視総監であった坂は、「RAAがあったおかげで占領軍兵士による強姦事件はほとんどなかった」と主張している。しかし、近年公開された米軍の極秘資料は、それがまぎれもなく“虚偽の申告”であり、実態はむしろ逆であったことを示唆している。

米兵による暴行事件は、8月30日にはじまり、RAAの営業によっても止むことがなかった。1945年11月中に発生した米兵の犯罪は、婦女暴行、強姦、盗み、おどし、たかりなど、554件に達している。報道が禁止されていたゆえ、一般に知られなかっただけなのである。

特に強姦事件や強盗事件が多かったのは、小町園に近い大森海岸であった。売春婦の紹介業を務めていた菅原道雄は、その理由をこう証言している。

「大森で、強盗・強姦事件が頻繁におきたのも慰安所と関係ありますね。タバコや洋服を『金にかえてくれ』といってくるヤツが多かったし、それもないヤツは強盗をしてまで女を抱く金を得ようとする。慰安所にはGIが行列をなしていてあぶれちゃうヤツがでるんですよ。そうなると、手あたりしだい、女とみると襲いかかるのです。

夜の八時ころだったでしょうか。大森から大森海岸へ行くまっ暗な道で女の人の悲鳴をきいたことがあります。たぶん素人の人でしょうが強姦されていたんです。私は一目散に逃げましたよ。だって、アメちゃんは刃物をもってましたからね」

RAAの組織と人脈から、占領終了後、赤線や基地売春が生まれた。国家がつくりだした巨大売春施設こそ、戦後の売春産業の源泉であったのである。

いまも残る「東京ブラックホール」

戦後ゼロ年のブラックホールに迷い込んだのは、国家の「いけにえ」となった女性ばかりではない。占領下の東京には、いたるところに、ブラックホールが存在していた。

あらたに発掘された映像からも、その痕跡がみつかる。たとえば、東京湾から引き揚げられた大量の金塊の映像。数兆円にもおよぶ日本軍の隠匿物資の一部である。もとはといえば、本土決戦のために軍が国民から徴用した物資であり、こうした莫大な財産は国民には返還されず、高級軍人や官僚など特権階級に横領されて、ヤミ市に横流しされていたのである。

戦後ゼロ年、飢餓やインフレは、戦争中より深刻だった。もし、隠匿物資が国民を救うために使われていたら、どれほど多くの戦災者が救われていたことだろう。

人々を苦しめた敗戦直後の地獄は、物資の隠匿に狂奔したエリートの不正によってもたらされたのである。その事実を、私たちの記憶のなかに、あらためて刻み込んでおかなくてはならない。

膨大なCIA文書から、戦後ゼロ年にどのような権力構造が生まれていたかを知ることもできる。たとえば、占領軍は、表向きは「日本を民主化し、軍国主義者を追放する」政策を推進したが、裏では大本営の参謀を戦犯の訴追から外し、対ソ諜報戦の手先にしていた。

米軍の諜報機関に囲い込まれた軍や特務機関の残党は、アメリカの後ろ盾を利用して密輸や謀略を重ね、密かに影響力を拡大していく。軍国主義の残党、ヤミ成金、官僚や政治家を問わず、占領軍に深く食い込んだ者だけが権力を確保し、利権を得た。

こうして戦後ゼロ年を出発点として、アメリカの秘密工作に積極的に協力した日本の支配層との合作で「世界最大の親米国家ニッポン」が造られていく。そのときできあがった権力構造のDNAは、いまも日本を支配している。

戦後ゼロ年は、戦前のしがらみを断ち切った年ではなく、むしろそれを温存し、戦争を推進した旧支配層を取り込んで、アメリカの国益に沿った日本社会の改造が開始された年だったのである。

『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』という本では、いままで視界から失われていた闇を見つめ、わたしたちの記憶の欠落を埋めていくことを試みた。復元された戦後ゼロ年の姿を現在の日本と重ね合わせれば、いまの日本を呪縛する仕掛けも見えてくるにちがいない。


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586. 中川隆[-13519] koaQ7Jey 2018年9月28日 06:37:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18859] 報告

『朝日』元記者・植村隆裁判で西岡力氏が自らの「捏造」認める
http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2018/09/26/antena-332/
佐藤和雄|2018年9月26日10:23AM 週刊金曜日

 
 尋問を終えた西岡力氏。東京・霞ヶ関。(撮影/高波淳)


「慰安婦」問題否定派の旗手である麗澤大学客員教授の西岡力氏――。彼の論考や発言は、国家基本問題研究所理事長の櫻井よしこ氏をはじめ、右派言説の論理的支柱となり、影響を与え続けてきた。その西岡氏が9月5日に東京地裁で尋問に答えた内容は、彼らに失望と嘆息を与えるかもしれない。西岡氏が、いくつかの重要部分について「間違い」を認めたからだ。

東京地裁では、元「慰安婦」記事を「捏造」と記述され名誉を傷つけられたとして、元『朝日新聞』記者の植村隆・韓国カトリック大学客員教授が西岡氏らを相手取り、損害賠償などを求めた訴訟が2015年1月から続いている。

植村氏は1991年8月、韓国での「慰安婦」問題に取り組む市民団体への取材やその聞き取り調査に応じた女性(のちに記者会見で名乗り出た金学順さん)の録音テープを聞いてスクープし、同年12月にも証言を記事化した。

西岡氏は、植村氏の記事に対し、『週刊文春』2014年2月6日号で「名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。捏造記事と言っても過言ではありません」とコメントした。

しかし、尋問で「そう訴状に書いてあるのか」と問われると、「記憶違いだった」と間違いを認めた。金さんの記者会見を報じた韓国『ハンギョレ』新聞の記事を著作で引用した際、「私は40円で売られて、キーセンの修業を何年かして、その後、日本の軍隊のあるところに行きました」という、元の記事にない文章を書き加えていることを指摘されると、「間違いです」と小声で認めた。

西岡氏はまた、元「慰安婦」の証言集は読んでおりながら、「挺身隊」名目で「慰安婦」にさせられた韓国人女性の証言は「覚えていない」とし、自らの主張と異なる最新の調査・研究結果も読んでいないと答えた。

(佐藤和雄・ジャーナリスト、大学非常勤講師、2018年9月14日号)

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

587. 中川隆[-13530] koaQ7Jey 2018年9月28日 07:03:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18877] 報告
「私は捏造記者ではない」慰安婦報道の植村隆・元朝日新聞記者の会見スピーチ(全文)
http://www.bengo4.com/topics/2536/
2015年01月09日 16時33分 弁護士ドットコムニュース


■《慰安婦報道問題》植村隆 元朝日新聞記者 記者会見 主催:日本外国特派員協会

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慰安婦問題の記事を書いた元朝日新聞記者の植村隆氏が1月9日、東京・有楽町の外国特派員協会で記者会見を開き、週刊誌記事などで「捏造」と批判されていることについて、「私は捏造記者ではない。不当なバッシングに屈するわけにはいかない」と主張した。植村氏はこの日、「捏造記者」と報じた文藝春秋と西岡力・東京基督教大学教授に損害賠償を求める訴えを起こした。


植村氏は朝日新聞記者時代の1991年8月、元慰安婦だと初めて名乗り出た韓国人女性が証言しているテープをもとに、記事を書いた。朝日新聞社が昨年8月に虚偽であると判断した故・吉田清治氏の「慰安婦狩り」証言の報道とともに、慰安婦問題が大きくクローズアップされるきっかけとなった。


植村氏は2014年に朝日新聞社を退職し、現在は北星学園大学(札幌市)で非常勤講師を勤めているが、大学に対して、植村氏の退職を求める脅迫状が届き、大きな問題になった。植村氏の記事をめぐっては、昨年8月の朝日新聞社の検証で、「記事に事実のねじ曲げない」としながらも、「女子挺身隊=慰安婦」という表現は誤っていたと認めている。


以下、植村氏が外国人記者に向けて語ったスピーチの全文を紹介する。


●冒頭スピーチ全文


みなさま、お忙しいところ、私の記者会見に来ていただきまして、ありがとうございます。パリの新聞社襲撃事件で多数の記者たちが亡くなったことに、本当にショックを受けています。1987年5月には私の同期の小尻知博記者が支局を襲撃されて殺される事件がありました。同じジャーナリストとして、こうした暴力には絶対に屈してはいけないと改めて思いました。


私が非常勤講師として勤めている北星学園大学にも昨日また、脅迫状が送られてきました。匿名性に隠れた卑劣な脅迫行為は、絶対に許すことができないと思います。なぜ、北星学園大学に脅迫状がくるかというと、私がそこに勤務しているからであります。去年、週刊文春の記事で、私が「捏造記者だ」というレッテル貼りをされました。それで、まったく私の記事とは関係ない大学にまで、こうした脅迫行為がおこなわれています。


私は訴訟準備のために東京にいて、大学には行っていなかったのですが、私のために大学が脅迫にさらされることに心が痛みます。本日、週刊文春を発行する文藝春秋および、その週刊誌にコメントを発表した東京基督教大学の西岡力氏の両名を名誉毀損の被告として、裁判を起こしました。私は私の人権、私の家族の人権、家族の友人の人権、勤務先の北星学園大学の安全を守るために、この訴訟を起こしました。


私は24年前の大阪社会部時代に、慰安婦と名乗りでた韓国のおばあさんのつらい体験の記事を署名入りで2本書きました。この記事が原因で、23年間ずっとバッシングを受けています。この記事で私が存在を報じたのは金学順さんという人で、韓国でカミングアウトした第1号の慰安婦です。彼女の勇気のある証言で、慰安婦の生の証言が世界に伝わって、たくさんの被害者が名乗り出るようなりました。そういう意味では、慰安婦問題が世界に知られるようになった証言者第1号のおばあさんでした。


1年前の週刊文春(2月6日号)の記事に、1991年8月の記事が批判的に紹介されました。この見出しを見ていただければわかりますが、「慰安婦捏造 朝日新聞記者がお嬢様女子大学の教授に」とあります。


西岡氏はこの週刊誌のコメントで、私の記事に対して、「強制連行があったかのように記事を書いており、捏造記事と言っても過言ではない」とコメントしています。


(私の記事では)本文2段落目に、「女性の話によると、中国東北部で生まれ、17歳のときにだまされて慰安婦にされた」と書いてます。そこには触れないで、(西岡氏は)「強制連行があったかのように書いており、捏造」としています。これはフェアではないと思います。


私の記事はリードで「女子挺身隊」という言葉を使いました。当時、韓国では慰安婦のことを女子挺身隊、あるいは挺身隊という言葉で表現していました。しかし、西岡氏は1992年4月の文藝春秋で、「重大な事実誤認」と批判していました。その当時、西岡氏は、「朝日に限らず日本のどの新聞も、金さんが連行されたプロセスを詳しく報じず、大多数の日本人は、当時の日本当局が権力を使って金さんを慰安婦としてしまったと受け止めてしまった」と書いています。


しかし、その後は、私だけを狙い撃ちにして批判しています。98年頃から、批判が「捏造」という言葉に変わりました。同じ1991年の記事に対して、評価を変えてしまっているのです。フレームアップだと思います。結局、その流れで、去年の2月の週刊文春の記事は私を「捏造記者」とレッテル貼りしました。これはフレームアップの延長線上だと思います。


この記事が原因で、私の転職先の神戸の女子大学にいやがらせのメール、電話が多数殺到しました。そして私がいま勤務している北星学園大学にはさらに多くの抗議のメールや電話がくるようになりました。抗議電話の一部は、インターネット上に公開されて、さらに憎悪が煽られています。


標的は大学だけではありません。私の家族、娘にまで及びました。娘の写真がインターネット上にさらされ、誹謗中傷が書き連ねられています。たとえば、「こいつの父親のせいで、どれだけの日本人が苦労したことか。おやじが超絶反日活動で、贅沢三昧に育ったのだろう。自殺するまで追い込むしかない」。私のパートナーは韓国人です。つまり、私の娘は父親が日本人で、母親が韓国人なのです。娘に対してヘイトスピーチのような、コリアンを差別するようなコメントも書かれています。


週刊文春の「捏造」というレッテル貼り、そして西岡氏の言説が、結果的にこうした状況を引き起こしたのだと思います。私は言論の場でも手記を発表して反論しています。それだけではなく、法廷でも捏造記者ではないことを認めていただこうと思っています。


私は「捏造記者」ではありません。不当なバッシングに屈するわけにはいかないのです。


              ◇


<慰安婦報道>元朝日新聞記者 文春と西岡教授を提訴
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150109-00000055-mai-soci
毎日新聞 1月9日(金)17時32分配信


 従軍慰安婦報道に関わった元朝日新聞記者の植村隆氏(56)が9日、記事を捏造(ねつぞう)したと報じられ名誉を傷つけられたとして、文芸春秋と西岡力・東京基督教大教授に1650万円の賠償などを求める訴訟を東京地裁に起こした。弁護団は同様の報道を順次提訴するといい、「中傷を完全に打ち消す」としている。


 訴状によると、文芸春秋は週刊文春の昨年2月6日号と8月14・21日号で、西岡氏は書籍や雑誌で、植村氏が執筆した記事を「捏造と言っても過言ではない」などと報じた。「いわれなき中傷を流布され、家族を含め激しい迫害を受けている」と主張している。


 植村氏は提訴後に記者会見し「不当なバッシングには屈しない」などと話した。


 週刊文春編集部は「記事には十分な自信を持っている」、西岡氏は「私が書いていることは、憲法が保障する言論の自由の中だと思っている」とコメントした。【山本将克】


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

588. 中川隆[-13361] koaQ7Jey 2018年10月21日 13:36:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19411] 報告

櫻井よしこに続き西岡力も「捏造」を法廷で白状! 安倍応援団や右派の朝日・慰安婦報道叩きのデタラメが次々露呈
https://lite-ra.com/2018/10/post-4323.html


2018.10.20 櫻井よしこ、西岡力、文春…朝日・慰安婦報道叩きのデタラメが次々露呈 リテラ

    
    『真実 私は「捏造記者」ではない』(岩波書店)
https://www.amazon.co.jp/%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E7%A7%81%E3%81%AF%E3%80%8C%E6%8D%8F%E9%80%A0%E8%A8%98%E8%80%85%E3%80%8D%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84-%E6%A4%8D%E6%9D%91-%E9%9A%86/dp/4000610945/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1540096531&sr=1-1&keywords=%E7%9C%9F%E5%AE%9F+%E7%A7%81%E3%81%AF+%E6%8D%8F%E9%80%A0%E8%A8%98%E8%80%85+%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84


「慰安婦問題は朝日新聞が捏造した」という右派のおきまりのフレーズが、まさに自らに突き刺さる事態となっている。元朝日新聞記者の植村隆氏が提訴した裁判で、植村氏を「捏造記者」などと攻撃した極右言論人たちの嘘とでっち上げが、次々と白日のもとに晒されているのだ。

 念のため振り返っておくと、植村氏は、2014年に朝日新聞がいわゆる「吉田清治証言」に関する従軍慰安婦関連の記事を取り消した問題で、右派メディアやネット右翼たちからスケープゴートにされた記者だ。植村氏は朝日が虚偽だと認めた「吉田証言」とは無関係だが、過去に従軍慰安婦の記事を2度執筆しており、その内容が「事実上の人身売買であるのに強制連行されたと書いた」などとして、右派から「植村は捏造記者だ」と総攻撃を受けた。

 しかし、植村氏はその後、自分への攻撃の多くが根拠のないことをひとつひとつ実証的に反論し、極右言論人と出版社を相手取って複数の裁判を起こした。そのひとつが、櫻井よしこ氏と櫻井氏の原稿を掲載したワック、新潮社、ダイヤモンド社を相手取った札幌地裁の名誉毀損裁判である。当時、本サイトでも詳しく伝えたように、今年3月の口頭弁論では、櫻井氏が本人尋問にて、植村氏を「捏造記者」と書いた根拠に関する重要な事実関係の間違いを認めている。

 そして今秋、慰安婦否定論の急先鋒で“安倍晋三のブレーン”のひとりといわれる西岡力氏と、「週刊文春」の版元・文藝春秋を訴えた東京地裁の法廷でも、たて続けに連中の悪質なウソと捏造が暴かれた。いい機会なので丁寧に解説しておこう。

 そもそも、一連の“植村バッシング”に火をつけたのは、「週刊文春」2014年2月6月号の記事「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大学教授に」だ。この記事が大きくネットで拡散され、植村氏が同年4月から教壇に立つ予定だった神戸松蔭女子学院大学に「なぜこんな者を教授にするのか」「辞めさせろ」などの大量の電話や約250通ものメールが殺到。植村氏自身も著書『真実 私は「捏造記者」ではない』(岩波書店)のなかで〈私の人生が大きく狂うことになった〉と記しているように、結果、大学側は就任前に植村氏の内定を取り消してしまった。さらに、記者時代から非常勤講師を務めていた北星学園大学にも「なぶり殺しにしてやる」などの脅迫が殺到し、本人だけでなく娘にも殺害予告が送られる事態に発展した。

 実は、この問題の文春記事のタイトルの元になったのが、掲載された西岡氏(当時・東京基督教大学教授)のコメントだった。

「植村記者の記事には、『挺身隊の名で戦場に連行され』とありますが、挺身隊とは軍需工場などに勤労動員する組織で慰安婦とは全く関係がありません。しかも、このとき名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。植村氏はそうした事実に触れずに強制連行があったかのように記事を書いており、捏造記事といっても過言ではありません」(「週刊文春」2014年2月6日号)

 この西岡氏のコメントは、札幌地裁、東京地裁両裁判の重要な争点と重なっている。西岡氏はほかにも「植村記者が記事で言及した女性は日本軍に強制連行されたのではなく、親に身売りされて慰安婦になっていたのです」(「週刊文春」2014年3月13日号)などと、繰り返し断じてきた。

■朝日・慰安婦報道を「捏造」と攻撃し続けた西岡力のほうが捏造していた!

 西岡氏が「捏造記事」と言いふらしているのは、朝日新聞1991年8月11日大阪朝刊に掲載された植村氏の署名記事「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口を開く」だ。挺身隊問題対策協議委員会(挺対協)が、元慰安婦の金学順さんに聞き取りをしたテープ等を元に、〈「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」〉の生存などを報じたもので、その後、金学順さんは日本国を相手に集団提訴に踏み切った。

 西岡氏の言う「このとき名乗り出た女性」は金学順さんを指し、「親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き」がこの提訴時の訴状のこと。「韓国紙の取材にもそう答えているというのはハンギョレ新聞の記事のことだ。

 その後も西岡氏は著書などで、ハンギョレ新聞を根拠として「金学順は40円でキーセンとして売られた」という趣旨の主張を続けてきた。いわゆる“慰安婦たちは日本軍に強制連行されたのではなく、キーセンとして合法的に売られた”という「人身売買説」である。

 ところが、だ。実際には、訴状のなかに「親に身売りされて慰安婦になった」などという記述はまったく存在しなかった。さらに「韓国紙で金氏が40円で売られたと話している」という根拠も、なんと西岡氏が“捏造”したものだったことが裁判のなかで判明したのだ。

「週刊金曜日」2018年9月29日号に掲載された、水野孝昭・神田外語大学教授によるレポートによれば、原告弁護団から訴状に「親に身売りされた」との記載がなかったことを追及された西岡氏は、「記憶違いだった」と虚偽を認めた。

 また、ハンギョレ新聞の記事は西岡氏自身も翻訳しているのだが、原告側弁護士が記事原文とそれを引用した西岡氏の著書の初版を比較。「私は四〇円で売られてキーセンの修行を何年かして、その後、日本の軍隊のあるところの行きました」という西岡氏の翻訳について、この記述は原文にはないと追及すると、西岡氏は「ありません。間違いですね」を認めたというのだ。「週刊金曜日」は、その9月5日東京地裁での本人尋問の一部をこう伝えている。

 弁護士「いかにも本人の発言であるかのような、この文章はどこから持ってきたのですか」

 西岡氏「覚えていないですね。まずいですね」

 弁護士「まずいですよね。これは記事の引用ですか? 元の文書がどこかにないとおかしいですね?」

 西岡氏「おかしいですね」

 弁護士「それとも月刊『宝石』の記事をもとにして、あなたが勝手に作って書き足した言葉ですか?」

 西岡氏「うーん、覚えてないですね。これ間違いですね」

■西岡力・櫻井よしこが根拠として提出した記事に、強制連行を裏付ける記述が

「まずいですね」で済む問題ではない。もはや“捏造”どころか、西岡氏による「創作」というべきだろう。なお、西岡氏と原告側弁護士とのやりとりに出てくる「月刊『宝石』の記事」というのは、ジャーナリスト・臼杵敬子氏が同誌1992年2月号に寄せたもので、そのなかには金学順さんの証言が掲載されている。西岡氏はこの記事を証拠のひとつとして裁判に提出しているのだが、むしろ「宝石」記事には、金学順さんが強制連行されたことを裏付ける証言が掲載されていた。

〈着いたところは満州のどこかの駅でした。サーベルを下げた日本人将校二人と三人の部下が待っていて、やがて将校と養父との間で喧嘩が始まり「おかしいな」と思っていると養父は将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかに連れ去られてしまったのです。
 私とエミ子は、北京に連れて行かれ、そこからは軍用トラックで、着いたところが「北支のカッカ県テッペキチン」(鉄壁鎭)だったと記憶しています。中国人の赤煉瓦の家を改造した家です。一九四〇年春ごろでした。〉(「宝石」での学順さんの証言)

「養父」というのはキーセン学校の経営者のことだが、日本人将校がその養父を暴力で脅して排除。金学順さんは日本軍のトラックで連れて行かれたという証言だ。前述のハンギョレ新聞も“養父は日本軍による武力で私を奪われた”と同じ趣旨を学順さんの発言として報じている。つまり、西岡氏はどこにも書かれていない「親に身売りされて慰安婦になった」というくだりをでっち上げただけでなく、こうした日本軍による強制性を裏付ける証言を意図的に無視してきたのだ。

 それだけではない。西岡氏はいたるところで“挺身隊は慰安婦とは関係なく植村氏の虚偽である”と主張しているが、そもそも事実として、金学順さん本人が1991年8月14日の会見で「挺身隊」という言葉を用いている。また、当時の社会認識として、韓国メディアも日本メディアも「女子挺身隊」と「慰安婦」は同じものだという前提で記事を書いており、これは1991年9月3日付産経新聞大阪本社版にも〈「挺身隊」の名のもとに、従軍慰安婦として狩りだされた〉と表現しているとおり。端的に言って西岡氏の誤りだ。

 西岡氏は〈自分で、キーセンに売られたと話している老女を「挺身隊として強制連行された慰安婦」として、平気でウソを書く新聞記者〉(『増補新版 よくわかる慰安婦問題』草思社)と植村氏を攻撃するが、「平気でウソ」をつくとは、まさに西岡氏のことではないのか。

 ようは、植村氏を「捏造記者」呼ばわりして攻撃し、殺害予告まで起きたバッシングを扇動した西岡氏のほうが、実は、証言や資料を捻じ曲げ、あろうことか「慰安婦の強制連行はなかった」という右派の“願望”にそうよう捏造までしていたのである。

 前述したもう一つの裁判、札幌地裁の法廷での櫻井よしこ氏の虚偽判明も、西岡氏のデタラメとよく似た同じ構造をしている(詳しくは本サイトの過去記事を参照https://lite-ra.com/2018/04/post-3921.html)。いずれにしても、こうしたデタラメな言説を繰り返された結果、植村氏は不当にも“血祭り”にあげられてしまったのだが、その責任は西岡氏や櫻井氏らだけにあるのではない。極右言論人にまる乗りしてバッシングキャンペーンを張った「週刊文春」などのメディアもまた同罪だろう。

■文春で植村バッシング記事を手がけたのは、官邸に近いあの記者だった!

 実は、9月5日の東京地裁では、もうひとつの興味深いことがあった。それは、証人尋問に、前述の“植村バッシング”に火をつけた「週刊文春」2014年2月6日号の記事を手がけた記者が立ったことだ。その元文春記者とは、あの竹中明洋氏である。

 あの、と言っても、すぐにはピンとこないかもしれない。竹中氏はもともと、NHK記者などを経て「週刊文春」の契約記者に転身。本サイトでも取り上げてきた「週刊文春」の“沖縄バッシング”記事の多くに関わってきたとされるが、2016年に別名でライバル誌である「週刊新潮」に密かに寄稿。これが文春側にバレて契約解除となって以降は、フリージャーナリストとして活動中だ。

 昨年出版した著書『沖縄を売った男』(扶桑社)の帯には菅義偉官房長官のコメントが写真付きで飾られ、自民党青年局の定例昼食会で講演するなど、竹中氏は安倍官邸・自民党との距離が極めて近い。先日の沖縄知事選では、自民公明などが推薦する佐喜真淳陣営の一員に加わっていたことも取りざたされた。

 9月5日の口頭弁論では、その竹中氏が、問題の文春記事を取材・執筆した記者として証言台にあがった。「週刊金曜日」9月28日号の中町広志氏によるレポートによれば、原告側弁護士から取材の経緯や狙い、反響について聞かれた竹中氏は、詳細については「覚えていない」と発言。裁判長らから当該記事以前の慰安婦問題の取材歴について質問されると「記憶の限りでは、ありません」と答えたという。

 しかし、竹中氏の取材には様々な点で問題が指摘されている。竹中氏は記事を書くにあたって、2014年1月に神戸松蔭女子学院大に電話で質問したという。だが、植村氏が前掲の著書『真実』で明かすところによれば、竹中氏は「植村さんは捏造記事を書いた人ですよ」などと大学側に語っていた。さらにメールでは、植村氏の記事が〈重大な誤り〉〈意図的な捏造〉〈日本の国際イメージを大きく損なった〉などと指摘されているとしたうえで、〈貴大学は採用にあたってこのような事情を考慮されたのでしょうか〉などと連ねてあったという。

 前述した「週刊金曜日」によると、法廷で電話の真意について尋ねられた竹中氏は「記憶にない」と答えたというが、植村氏によれば、竹中氏は同年8月には北星学園にも質問状を送付。やはり〈大学教員としての適性には問題ないとお考えでしょうか〉などとしていた。結果的として松蔭女子学院大は植村氏の教授内定を取り消してしまったように、これでは取材というよりも、ほとんど「圧力行為」や「恫喝」と受け取られてもしかたがあるまい。

 いずれにしても、植村氏が桜井氏らと西岡氏らを提訴したふたつの裁判は、「従軍慰安婦は朝日の捏造だ」とがなりたてる極右界隈のデタラメと捏造を満天下に知らしめた。しかし、こうした連中の卑劣な実態を報じるメディアは少なく、朝日さえもいまだに一連のバッシングで萎縮している状況だ。札幌地裁のほうはいよいよ11月9日に判決が下る。マスコミは、いまこそ真実を伝えるべきである。


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589. 中川隆[-13363] koaQ7Jey 2018年10月21日 14:14:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19414] 報告

朝日新聞の慰安婦報道を「捏造」と糾弾していた櫻井よしこの「捏造」が裁判で明らかに!2018.04.02.
https://lite-ra.com/2018/04/post-3921.html


本サイトで連日お伝えしているように、朝日新聞のスクープによる公文書改ざん問題の直撃を受けて、安倍応援団メディアや極右御用評論家のトンデモぶりが次々明らかになっている。周知の通り、連中は事あるごとに「森友問題は朝日のフェイク」「捏造報道の朝日は廃刊せよ」などとがなりたててきたわけだが、改ざんが事実であることが発覚して“捏造”“フェイク”が自分たちであることを満天下に知らしめてしまったのだ。

 しかし、実はこうした構図は森友文書改ざんだけではない。まさに安倍応援団と極右論壇が「捏造」「国賊」と叫んで一斉に攻撃していた朝日新聞の慰安婦報道をめぐる裁判で重鎮・櫻井よしこ氏の嘘とインチキが明らかになった。

 この裁判というのは、元朝日新聞記者・植村隆氏が起こした裁判。周知のように、植村記者は、2014年、朝日新聞が「吉田証言」に関する従軍慰安婦関連の記事を取り消した問題で、右派メディアやネット右翼たちからスケープゴートにされた記者だ。植村氏は朝日が虚偽だと認めた「吉田証言」とは無関係だが、過去に従軍慰安婦の記事を2度執筆しており、その内容が「事実上の人身売買であるのに強制連行されたと書いた」などとして、右派から「植村は捏造記者だ!」と総攻撃を受けた。そして、非常勤講師を務めている北星学園には脅迫が殺到、さらに本人だけでなく娘にも殺害予告が届くなど、“リンチ”とも呼べる状況が続いたのである。

 しかし、その後、植村記者は反撃に転じた。自分の身に降りかかった攻撃の多くが根拠のないことをひとつひとつ実証的に反論し、「捏造記者」などと攻撃した極右言論人と出版社に対し、裁判を起こしたのだ。

 今回の裁判はそのひとつで、櫻井よしこ氏と、櫻井氏の原稿を掲載した「WiLL」の発行元ワック、新潮社、ダイヤモンド社を相手取って、札幌地裁に名誉毀損の損害賠償を請求する訴訟を起こしたものだ。

 たしかに、これらのメディアで櫻井氏は植村氏のことを「捏造記者」と誹謗中傷していた。たとえば、「WiLL」(ワック)2014年4月号の「朝日は日本の進路を誤らせる」なるタイトルの記事では、〈朝日新聞が日本国民と日本国に対して犯した罪のなかで最も許し難いものは、慰安婦問題の捏造〉〈日本人による「従軍慰安婦」捏造記事〉〈日本を怨み、憎んでいるかのような、日本人によるその捏造記事〉として植村氏を名指しして書き連ねている。

 ところが、3月23日に開かれた第11回口頭弁論、被告の櫻井氏の本人尋問で、その根拠がまったくのデタラメであることが暴かれてしまったのだ。どうしようもなくなった櫻井氏が全面的に自らの誤りを認める場面もあった。

自ら誤りを認めた後も、訂正することなく植村記者攻撃を続ける櫻井よしこ


 櫻井氏が、「捏造」と攻撃したのは、朝日新聞1991年8月11日付大阪朝刊に掲載された「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口を開く」と題する植村氏の署名記事など。挺身隊問題対策協議委員会(挺対協)が金学順さんに聞き取りをした証言テープ等を元に、〈「女子挺身隊」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」〉の生存などを報じたものである。報道の3日後、金学順さんは実名で記者会見をし、同年12月には日本国を相手に集団提訴。植村氏は弁護士らの元慰安婦からの聞き取り調査に同行し、同12月25日に金学順さんの証言を記事にした。

 ところが、櫻井氏は金学順さんが東京地検に提訴した訴状のことをもちだして、前出の「WiLL」記事のなかで、こう書いていた。

〈訴状には、十四歳のとき、継父によって四十円で売られたこと、三年後、十七歳のとき、再び継父によって北支の鉄壁鎭という所に連れて行かれて慰安婦にさせられた経緯などが書かれている。
 植村氏は、彼女が継父によって人身売買されたという重要な点を報じなかっただけでなく、慰安婦とはなんの関係もない「女子挺身隊」と結びつけて報じた。〉

 つまり、櫻井氏がいう「捏造」の根拠のひとつは「訴状には金学順さんが継父によって40円で売られ、さらに再び継父によって連れられて慰安婦にさせられた、という記述があるのに、植村氏はこれを無視するという意図的な捏造報道を行った」というものだ。

 ところが、実際の訴状には、櫻井氏がいう「継父によって四十円で売られた」なる記述は、そもそも存在していなかった。つまり、櫻井氏のほうが訴状にないことを“捏造”して、植村氏に対し「捏造記者」などという攻撃を繰り返していたのである。

 実は、この点は、2016年4月22日の第一回口頭弁論でも植村氏側が指摘しており、櫻井氏はその後の記者会見で「訴状にそれが書かれていなかったということについては率直に私は改めたいと思いますが」(産経ニュース「櫻井よしこ氏会見詳報(2)」より)と、訂正する旨の発言をしていた。だが、これ以降も、櫻井氏は一向に反省した様子はなく、「WiLL」16年7月号は櫻井氏の意見陳述全文を掲載し、「恥なき朝日と植村元記者へ」なるタイトルまでつけて、植村氏を攻撃していた。

 しかし、今回の尋問で、植村氏側の弁護士から改めて「継父によって四十円で売られた」という記述が訴状にないことを追及され、櫻井氏はそのことを法廷で認めざるをえなかった。

 しかも、櫻井氏への反対尋問では、さらに杜撰な実態が露呈した。櫻井氏は植村氏側弁護士から「継父によって四十円で売られたという話の根拠はなんなのか」と問い詰められ、1992年2月の月刊「宝石」(休刊/光文社)の記事からの引用の間違いだったと釈明した。その「宝石」記事はジャーナリストの臼杵敬子氏によるもので、金学順さんの証言が掲載されている。

 ところが、である。実は「宝石」記事の金学順さんへのインタビューにも、やはり「継父によって四十円で売られた」「十七歳のとき、再び継父によって北支の鉄壁鎭という所に連れて行かれて慰安婦にさせられた」なる記述は、どこにもないのである。


櫻井よしこが根拠と主張した記事には、強制連行を裏付ける記述が!


 まず、「宝石」記事にある金学順さんの証言によると、学順さんが14歳の時、母親が再婚したが〈私は新しい父を好きになれ〉なかったとして、こう振り返っている。

〈その後、平壌にあった妓生専門学校の経営者に四十円で売られ、養女として踊り、楽器などを徹底的に仕込まれたのです。
 ところが、十七歳のとき、養父は「稼ぎにいくぞ」と、私と同僚の「エミ子」を連れて汽車に乗ったのです。〉

 学順さんがいう「養父」とは「妓生専門学校の経営者」のことであって、「継父」(=「新しい父」)ではない。また、金学順さんは挺対協の聞き取りに対しても〈母は私を、妓生を養成する家の養女に出しました〉〈それから母は養父から四十円をもらい、何年かの契約で私をその家に置いて行ったと記憶しています〉(『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』明石書店)と、同じような証言をしている。よしんば、櫻井氏が「養父」と「継父」を勘違いしたとしても(それも致命的なミスであることに変わりはないが)記述と言い逃れとのペテン的矛盾は明らかだろう。

 しかもきわめつけは、櫻井氏が出典だとする「宝石」記事では、上の引用部の直後に、むしろ強制連行を裏付ける記述が続いていることだ。

〈着いたところは満州のどこかの駅でした。サーベルを下げた日本人将校二人と三人の部下が待っていて、やがて将校と養父との間で喧嘩が始まり「おかしいな」と思っていると養父は将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかに連れ去られてしまったのです。
 私とエミ子は、北京に連れて行かれ、そこからは軍用トラックで、着いたところが「北支のカッカ県テッペキチン」(鉄壁鎭)だったと記憶しています。中国人の赤煉瓦の家を改造した家です。一九四〇年春ごろでした。〉(「宝石」での学順さんの証言)

 つまり、養父は学順さんを「四十円で売った」とはどこにも書かれておらず、逆に日本人将校らに暴力で脅されて土下座までして、その場から排除されたという証言である。そして、金学順さんは日本軍のトラックで鉄壁鎭に連れて行かれたというのだ。

 すなわち、櫻井氏がいう〈十四歳のとき、継父によって四十円で売られ〉〈十七歳のとき、再び継父によって北支の鉄壁鎭という所に連れて行かれて慰安婦にさせられ〉〈継父によって人身売買された〉なる主張は「宝石」記事からはまったく読み取ることが不可能なデタラメであり、逆に、本当にこの証言を出典としたのならば、櫻井氏はわざと日本軍による強制連行をネグったことになる。

 ようするに、櫻井氏は、訴状に書かれていないことを「捏造」しておいて、出典を間違えたという言い訳でも自分に都合の悪い「重要な部分」を外していた。にもかかわらず、植村氏を「捏造記者」呼ばわりし、メディアで何度も言いふらして攻撃した。デタラメとしか言いようがない。


嘘だらけ!櫻井よしこは、福島瑞穂と架空の会話をでっちあげた過去も


 櫻井氏のペテンの暴露はまだある。櫻井氏は、学順さんが自らを「挺身隊」とは称していないと主張し、植村氏の「捏造」だと主張した。ところが、91年8月14日の会見では、学順さんは実際に「挺身隊」と言っていたのだ。

 裁判を傍聴していたジャーナリストの安田浩一氏がネット番組『NO HATE TV』(3月28日放送)で、この部分についての櫻井氏と植村氏側弁護士のやりとりをこう紹介している。

「これは韓国各紙がきちんと報じている。弁護士は、韓国各紙の翻訳を一つ一つ櫻井さんに見せて、これは認めますね、とやっていった。櫻井さんはしょんぼりと、はい「認めます」「認めます」というかたちで認めた。自らの調査、取材のいい加減さ、あるいは認識の甘さというものは、全部、法廷でもって明らかになったわけです」

 さらに、原告弁護士は反対尋問の終わりに、櫻井氏の別の捏造事件についても質問していた。本サイトでも以前取り上げたことがあるが、櫻井氏が1996年の講演会で、まだ国会議員になる前の福島瑞穂氏について、本人が言ってもいないことを「捏造」して吹聴していたのだ。

 月刊誌「創」(創出版)1997年4月号で福島氏本人がこう明かしている。

〈1996年12月上旬頃、桜井さんから電話がかかってきた。「福島さんに対して実に申し訳ないことをしました。講演をしたときに、うっかり口がすべって『従軍慰安婦の問題について福島さんももう少し勉強をしたらどうですか』と言ってしまったのです。本当に申し訳ありませんでした」といった内容の謝罪の電話であった。12月29日ごろ、講演録の冊子を見て心底驚いた。
「私は福島さんを多少知っているものですから、あなたすごく無責任なことをしているんではないですか、というふうに言いました。せめてこの本を読み、せめて秦郁彦さんの研究なさった本を読み、済州新聞を読み、そして秦郁彦さんなどの歴史研究家の従軍慰安婦の資料を読んでからお決めになったらどうだろう、吉田清治さんの本を証拠として使うこと自体がおかしいのではないかと言ったら、ウウンまあ、ちょっといろいろ勉強してみるけど──というふうにおっしゃってましたけれども……」となっているのである。
 講演や話し言葉のなかで、うっかり口がすべったり、不確かなことをしゃべってしまうことはもちろんある。しかし、この講演で話されている私との会話は、全く存在しない架空の虚偽のものである。〉

 ようするに、櫻井氏は論敵である福島氏との虚偽の会話をでっちあげ、さも自分が言い負かしたかのように語っていたのである。安田氏は、この“発言捏造事件”について原告弁護士が櫻井氏を追及したときの光景をこう伝えている。

「ここで弁護士がとどめの一言を言うんです。『あなたが言っていることはまるっきり嘘ではないですか』と、そう指摘したわけです。櫻井さんはなんと答えたかというと、『朝日が書いたことも嘘でしょ』。ここで尋問終わりです(笑)」

 この開き直りかた……。もはや唖然とするレベルだが、いずれにせよ、司法の場で明らかにされたのは、植村氏と朝日新聞を「捏造」と散々攻撃してきた櫻井氏のほうが実は「捏造」を犯していたという事実だ。結審は7月の予定だが、現段階で完全に「勝負あり」と言って差し支えないだろう。


「日本軍が慰安婦を強制連行」と書き広めたのは、朝日ではなく産経新聞


 しかし、忘れてはならないのは、こうしたペテンを駆使して植村氏や朝日を攻撃、「慰安婦問題は朝日の捏造」という印象操作をしかけてきたのは、櫻井氏だけではないということだ。たとえば、この裁判でも櫻井氏側は懲りずに「植村氏は挺身隊と慰安婦を意図的に混同させた」などとがなりたてているが、安田氏も指摘しているように、当時は韓国メディアも市民も慰安婦のことを挺身隊と言って、日本のメディアも一様に「挺身隊の名で連行された」と慰安婦について説明していた。

 この点について本サイトでも過去に検証したことがある。いい機会なので繰り返しておくが、当時の新聞各紙を見てみると、産経を含む朝日以外も「女子挺身隊」「慰安婦」は同じものだという前提で記事が書かれていた。たとえば1991年9月3日付産経新聞大阪本社版には〈「挺身隊」の名のもとに、従軍慰安婦として狩りだされた〉と、ほとんど植村氏の記事と同じ表現が使われている。これは産経が「誤報」をしていたという意味ではなく、当時の社会認識として「挺身隊」と「慰安婦」が混同されていたということを意味する。

 それどころか、当時の産経は金学順さんについて「日本軍によって強制連行された」と、確認できただけで最低2回、ハッキリとそう書いているのだ。うちのひとつ、1993年8月31日付の産経新聞大阪本社版の記事を紹介しよう。

〈太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年ごろ、金さんは日本軍の目を逃れるため、養父と義姉の3人で暮らしていた中国・北京で強制連行された。17歳の時だ。食堂で食事をしようとした3人に、長い刀を背負った日本人将校が近づいた。「お前たちは朝鮮人か。スパイだろう」。そう言って、まず養父を連行。金さんらを無理やり軍用トラックに押し込んで一晩中、車を走らせた〉

 ちなみに植村氏の記事では、「強制連行」という言葉はひとつも出てこない。ようは、「日本軍によって強制連行された」というフレーズは、朝日ではなく産経が広めたものだったのである。

 ところが、産経はこうした自社の記事をチェックすることなく、朝日新聞、とりわけ植村氏を“慰安婦問題のスケープゴート”に仕立て上げ、櫻井氏ら極右界隈で一丸となって植村氏を血祭りにあげたのだ。

 そして、冒頭に触れたように、朝日バッシングで勢いづいた極右界隈は、「慰安婦大誤報を犯した朝日は信頼できない」「フェイク新聞」などと繰り返し叫び立てることで、慰安婦の存在自体はもちろん、ありとあらゆる朝日報道が虚報であるかのごとく印象操作を続けた。

 その意味では、今回、植村氏が起こした裁判で明らかになったのは、櫻井よしこという“極右の女神”の信じられないようなペテンとデタラメだけではない。極右界隈が事実を簡単に捏造し、自分たちに不都合な事実を覆い隠し、さらにそこに安倍首相ら極右政治家がのっかって、朝日新聞というメディアと植村氏を潰しにかかった。その民主主義国家とは到底思えないグロテスクさが、あらためて、白日のもとにさらされたと言っていいだろう。

〈私は「捏造記者」ではない。これからも、闘っていく。決して屈しない。〉

 植村氏は2016年の著書『真実』(岩波書店)の最後に、あらためてこう決意を示していた。判決を待ちたい。

(編集部)


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590. 中川隆[-13362] koaQ7Jey 2018年10月21日 14:15:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19414] 報告

従軍慰安婦強制連行 _ 吉田清治の話はやっぱり事実だった

経済ジャーナリスト・今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」
http://masato555.justhpbs.jp/newpage113.html



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591. 中川隆[-13567] koaQ7Jey 2018年11月10日 23:13:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20461] 報告

2018年3月25日 札幌第11回■詳報
櫻井よしこ氏が自身のウソを認める!
「捏造決めつけ」記述にも重大な誤り
http://sasaerukai.blogspot.com/2018/03/11_25.html


札幌訴訟の第11回口頭弁論が3月23日、札幌地裁で開かれ、原告植村隆氏、被告櫻井よしこ氏に対する長時間の本人尋問があった。

この尋問で、櫻井氏は、いくつかの記述に誤りがあることを認めた。この記述は捏造決めつけの根拠となるものであるため、植村氏に対する誹謗中傷が根も葉もないものであることがはっきりした。櫻井氏本人がウソを認めたことにより、櫻井氏の根拠は大きく揺らぎ、崩れた。櫻井氏はその一部については、訂正を約束した。


傍聴券交付に252人の列
尋問は午前10時30分から、植村氏、櫻井氏の順で行われ、午後5時前に終了した。両氏が法廷内で向かい合うのは第1回口頭弁論(2016年4月)以来2年ぶり。裁判大詰めの場面での直接対決となり、傍聴希望者は最多記録の252人。抽選のために並んだ列は地裁1階の会議室からあふれて廊下、エレベーターホールへと伸びていた。63枚の傍聴券に対する当選倍率は4.0倍となった。関東や関西、九州から前日に札幌入りした植村支援者もこれまた最多の20人ほど。一方で、櫻井氏側の動員によると思われる人たちの姿もいつになく目立った。

満席となった805号法廷は、開廷前から熱気とともに緊迫した空気に包まれた。弁護団席に、植村氏側は34人が着席した。東京訴訟弁護団からは神原元・事務局長ほか6人も加わっていた。櫻井氏側はいつもと同じ7人と新たに2人の計9人。いつもは空席が目立つ記者席は15席すべてが埋まった。傍聴席最前列の特別傍聴席には、ジャーナリスト安田浩一氏、哲学者能川元一氏のほか、新潮社やワックの関係者の姿もあった。


午前10時32分、開廷。裁判長が証拠類の採否を告げた後、植村氏に証言台で宣誓をするように促し、尋問が始まった。尋問の前半は植村氏、後半は櫻井氏。自身の弁護団に答える主尋問、相手側からの質問に答える反対尋問という順で行われ、重要な争点についての考えが明らかにされた。この中で、櫻井氏のこれまでの言説には重大な誤りや虚偽があることがはっきりした。


植村氏の尋問

植村氏は、1991年当時の記事執筆の経緯と、捏造決めつけ攻撃による被害の実態を詳しく説明した(別掲・陳述書要約を参照)。質問は植村弁護団若手の成田悠葵、桝井妙子両弁護士が行った。主尋問は淡々と進み、予定の1時間で終わって昼休みに入った。

午後1時再開。植村氏への反対尋問が始まった。質問したのは、浅倉隆顕(ダイヤモンド社)、安田修(ワック)、野中信敬(同)、林いづみ(櫻井氏代理人)、高池勝彦(同)の5弁護士。尋問は1時間40分にわたった。質問が集中したのは、植村氏が記事の前文で「挺身隊」「連行」という用語を使ったこと、また、本文でキーセン学校の経歴を書かなかったことについてだった。このほかに、記事執筆の開始・終了時間や、慰安婦関連書籍の読書歴、関連記事のスクラップの仕方など、争点とは直接関連のない質問も繰り返された。


植村氏は終始ていねいに答えたが、「吉田証言」についてのやりとりで、怒りを爆発させる場面もあった。
朝日新聞社は1997年に「吉田清治証言」(済州島で「慰安婦」を狩り出したとの証言)について調査チームを作り、検証作業を行った。当時ソウル特派員だった植村氏もチームに加わり、済州島での調査結果メモを提出した。安田弁護士はそのメモについて、2014年に朝日新聞の慰安婦報道を検証した第三者委員会の報告書は「あなたの調査はずさん、という表現をしている」と言った。ところが同報告書には植村メモについて「徹底的な調査ではなかったようである」と書かれているものの、「ずさん」という表現は一切ない。
植村氏は、「名誉棄損裁判の法廷で名誉棄損発言をするのですか」と激しく抗議した。安田弁護士は植村氏の剣幕に圧されて「怒らないで下さい、謝ります」と述べ、そのまま尋問を終えてしまった。廷内のあちこちから失笑と溜息が聞こえてきた。


主任弁護人格の高池弁護士はこれまでの弁論ではほとんど発言しなかったが、今回は質問に立った。しかし、慰安婦問題や植村氏の記事について深く踏み込んだ質問はなかった。意外だったのは、植村氏が朝日新聞を早期退職して大学教授を志した理由や、植村氏が東京と札幌で提訴したことなど、訴訟の基本的な情報についての質問だった。植村氏が、自由な立場で研究と著作活動ができる場として大学教授の道を選んだこと、バッシング当時も現在も札幌市の住民であることを伝えると、高池弁護士は怪訝な表情を浮かべた。初めて知った、という表情に見えた。

植村氏の反対尋問が終わった後、岡山忠広裁判長とふたりの陪席裁判官から、植村記事の「(女子挺身隊の)名で」「連行」の意味、韓国内での「挺身隊」という表現や吉田証言の韓国内での影響などについて、質問があった。植村氏の尋問は午後2時50分に終わり、10分間の休憩に入った。


櫻井氏の尋問

午後3時、再開。櫻井氏の主尋問が始まった。櫻井氏は、林いづみ弁護士の質問に答え、慰安婦問題に関心を持つようになったきっかけと基本的な考え、これまでに行った取材や研究内容を語った。自身の著述や発言に誤りがあるとの指摘についても釈明し、「間違いですからすみやかに訂正したい」と述べた。朝日新聞の慰安婦報道については、「海外で日本の評価を傷つけた」との持論を繰り返し、植村氏の記事についても「意図的な虚偽報道だ」とのこれまでの主張を繰り返した。主尋問は45分で終わった。


続いて植村側の川上有弁護士が反対尋問を行った。川上弁護士は、櫻井氏の著述の問題点を具体的に指摘し、取材や確認作業の有無を徹底的に突いた。ゆっくりと柔らかい口調はまるでこどもを諭す小学校教師のようだが、中身は辛辣なものだった。刑事事件を多く手がけてきたベテラン弁護士ならではの面目躍如である。

川上弁護士は、櫻井氏が書いた記事やテレビ番組での発言を突き付け、櫻井氏が主尋問であらかじめ認めていた間違いについて、畳みかけた。「ちゃんと確認して書いたのですか」「どうしてちゃんと調べなかったのですか」「ちゃんと訂正しますよね」。櫻井側弁護団はその都度、証拠書面の提示を求めた。証言台上の書面を確認し終えた櫻井側弁護士は、自席に戻らずにそのまま立ち続けた。川上弁護士は「いつまでそばにいるんですか、証言誘導の誤解を招きますよ」と指摘した。そうこうするうちに、櫻井氏の声はだんだんと小さくなっていった。


櫻井氏が間違いを認めたのはこういうことだ。

月刊「WiLL」2014年4月号(ワック発行)、「朝日は日本の進路を誤らせる」との寄稿の中で、櫻井氏は「(慰安婦名乗り出の金学順氏の)訴状には、14歳の時、継父によって40円で売られたこと、3年後、17歳で再び継父によって北支の鉄壁鎮というところに連れて行かれて慰安婦にさせられた経緯などが書かれている」「植村氏は、彼女が継父によって人身売買されたという重要な点を報じなかっただけでなく、慰安婦とは何の関係もない女子挺身隊と結びつけて報じた」と書き、植村氏を非難した。しかし、訴状には「継父によって40円で売られた」という記述はない。「人身売買」と断定できる証拠もない。なぜ、訴状にないことを持ち出して、人身売買説を主張したのか。誤った記述を繰り返した真意は明かされなかったが、世論形成に大きな影響力をもつジャーナリスト櫻井氏は、植村氏の記事を否定し、意図的な虚偽報道つまり捏造と決めつけたのである。

川上弁護士は、櫻井氏がWiLLの記事と同じ「訴状に40円で売られたと書かれている」という間違いを、産経新聞2014年3月3日付朝刊1面のコラム「真実ゆがめる朝日新聞」、月刊「正論」2014年11月号への寄稿でも繰り返したことを指摘。さらに、出演したテレビでも「BSフジ プライムニュース」2014年8月5日放送分と読売テレビ「やしきたかじんのそこまでいって委員会」2014年9月放送分で、同じ間違いを重ねたことを、番組の発言起こしを証拠提出して明らかにした。これらの言説が、植村氏や朝日新聞の記事への不信感を植え付け、その結果、ピークに向かっていた植村バッシングに火をつけ、油を注いだ構図が浮かび上がった。

櫻井氏、訂正を約束

では、櫻井氏はなぜ「訴状に40円で売られたと書かれていた」という間違いを繰り返したのか。
櫻井氏は、ジャーナリスト臼杵敬子氏による金学順さんインタビュー記事(月刊「宝石」1992年2月号)が出典であるとし、「出典を誤りました」と主張した。櫻井氏はこれまでに提出した書面でも、「宝石」の記事で金さんが「平壌にあった妓生専門学校の経営者に四十円で売られ、養女として踊り、楽器などを徹底的に仕込まれたのです。ところが十七歳のとき、養父は『稼ぎにいくぞ』と、私と同僚の『エミ子』を連れて汽車に乗ったのです。着いたところは満洲(ママ)のどこかの駅でした」と語ったことを根拠に、「親に40円で妓生に売られた末に慰安婦になった」と主張してきた。だが、川上弁護士は、「宝石」の記事で、櫻井氏の引用部分の直後に、こういう記述があることを指摘した。

「サーベルを下げた日本人将校二人と三人の部下が待っていて、やがて将校と養父の間で喧嘩が始まり『おかしいな』
と思っていると養父は将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかに連れ去られてしまったのです」
つまり、櫻井氏が出典である、と主張する「宝石」にも、養父が40円で売って慰安婦にしたという「人身売買説」の根拠となる記述はどこにもない。むしろ、養父も日本軍に武力で脅され、金さんと強引に引き離されたという証言内容から、櫻井氏が強く否定し続けてきた日本軍による強制的な連行を示す記述があるのだ。
この直後部分をなぜ引用しなかったのか。川上弁護士は、櫻井氏が自身の「人身売買説」に都合の悪い部分を引用せず、植村氏の記事を捏造と決めつけたことのおかしさを指摘した。そして、「櫻井さんは、訴状にないことを知っていて書いたのではないですか」などと述べ、同じ間違いを繰り返した理由を厳しく問い質した。櫻井氏は「訴状は手元にあり、読んで確認もしたが、出典を間違った」と、弁解に終始した。川上弁護士が紙誌名を逐一挙げて訂正を求めると、櫻井氏は「正すことをお約束します」と明言した。ただ、テレビについては「相手のあることなので」と語り、約束は保留した。


じつは、この問題は2年前からくすぶり続けている。2年前、第1回口頭弁論の意見陳述で植村氏は、WiLLと産経新聞の「訴状に40円で売られたと書かれている」という間違いを指摘、「この印象操作はジャーナリストとしては許されない行為だ」と批判した。そして、櫻井氏は口頭弁論後の記者会見で「ジャーナリストですからもし訴状に書かれていないのであるならば、訴状に、ということは改めます」と誤りを認めた。しかし、WiLLでも産経新聞でも、訂正しなかった。そのため、植村氏は2017年9月、東京簡裁に調停申し立てを行い、産経新聞社が訂正記事を掲載するように求めている。その審理はまだ継続している。


櫻井氏が間違いを認めたのはこれだけではなかった。「週刊ダイヤモンド」2014年10月18日号。「植村氏が、捏造ではないと言うのなら、証拠となるテープを出せばよい。そうでもない限り、捏造だと言われても仕方がない」と櫻井氏は書き、その根拠として、「(金学順さんは)私の知る限り、一度も、自分は挺身隊だったとは語っていない」「彼女は植村氏にだけ挺身隊だったと言ったのか」「他の多くの場面で彼女は一度も挺身隊だと言っていないことから考えて、この可能性は非常に低い」と断定している。

この記者会見は1991年8月14日に行われた。韓国の国内メディア向けに行われたので、朝日新聞はじめ日本の各紙は出席していない。植村氏も出席していない。しかし、記者会見で金学順さんはチョンシンデ(韓国語で「挺身隊」)をはっきりと口にしている。それは、韓国の有力紙「東亜日報」「京郷新聞」「朝鮮日報」の見出しや記事本文にはっきりと書かれている。

櫻井氏はこの点について「これを報じたハンギョレ新聞等を確認した」と述べている。たしかにハンギョレ新聞には「挺身隊」の語句は見当たらない。しかし、そのことだけをもって断定するのは牽強付会に過ぎるだろう。川上弁護士は、韓国3紙の記事反訳文をひとつずつ示し、櫻井氏の間違いを指摘した。櫻井氏は、間違いを認めた。櫻井氏の取材と執筆には基本的な確認作業が欠落していることが明らかになった。


櫻井氏の22年前の大ウソ
川上弁護士は最後に、櫻井氏の大ウソ事件について質問した。

1996年、横浜市教育委員会主催の講演会で櫻井氏は「福島瑞穂弁護士に、慰安婦問題は、秦郁彦さんの本を読んでもっと勉強しなさいと言った。福島さんは考えとくわ、と言った」という趣旨のことを語った。ところが、これは事実無根のウソだった。櫻井氏は後に、福島氏には謝罪の電話をし、福島氏は雑誌で経緯を明らかにしているという。

「なかったことを講演で話した。この会話は事実ではないですね」

「福島さんには2、3回謝罪しました。反省しています」

「まるっきりウソじゃないですか」

「朝日新聞が書いたこともまるっきりのウソでしょう」

最後は重苦しい問答となった。こうして、70分に及んだ櫻井氏の尋問は終わった。櫻井弁護団からの補強尋問はなかった。裁判長からの補足質問もなかった。


尋問終了後、岡山裁判長は今後の進め方について双方の意見を求めた上で、次回口頭弁論で結審すると宣言した。閉廷は予定通りの午後5時だった。


次回開催日は7月6日(金)。開廷は午後2時。この日、最終弁論で双方がまとめの主張を行って審理は終結し、9月以降に予想される判決を待つことになる。
http://sasaerukai.blogspot.com/2018/03/11_25.html

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【速報】櫻井よしこ氏のずさんな取材を司法が追認!? 植村隆氏の名誉を毀損したが「捏造」と信じたのは仕方なかった!? 「言論で勝って裁判で負けた、悪夢のような判決」! 2018.11.9
https://iwj.co.jp/wj/open/archives/435438

 元朝日新聞記者の植村隆氏(現・「週刊金曜日」発行人)が1991年8月、朝日新聞記者時代に執筆した元従軍慰安婦に関する記事をめぐり、植村氏が記事を「捏造」と繰り返し誹謗中傷した、ジャーナリストの櫻井よしこ氏と株式会社新潮社、株式会社ワック、株式会社ダイヤモンド社を名誉毀損で札幌地裁に訴えていた裁判で、2018年11月9日、岡山忠広裁判長は植村氏の請求をすべて棄却する判決を言い渡した。

 IWJは判決を受けた札幌地裁前の旗出し、続く判決報告記者会見を生中継した。

 以下に、記者会見の内容を速報で伝える。

弁護団共同代表の伊藤誠一弁護士「不当で残念な判決だと考える。櫻井よしこ氏が3つの雑誌(週刊新潮、月刊WiLL、週刊ダイヤモンド)に書いた植村さんへの批判は、事実と異なる記事で、植村氏の名誉や社会的信用を毀損したことは認めながら、櫻井さんがそのような記事を書いた相当性が認められると。名誉毀損として、慰謝料を払わせるほどの違法はないとして、原告側の請求を棄却した。

 この訴訟の特徴は、著名なジャーナリストが責任ある言説をしていないことを問題にしました。当然行われるべき取材がなされないままで、櫻井さんは植村さんを攻撃した。

 櫻井さんの批判は、『言論の自由の中で違法とは言えない』という判決となっている。当然控訴して戦う」


▲伊藤誠一弁護士

■札幌地裁前 「不当判決」の旗出し

■「植村裁判札幌訴訟 判決報告記者会見」


◦日時 2018年11月9日(金)15:30過ぎ〜(旗出し:15:45予定)/16:30〜(記者会見)
◦場所 札幌地方裁判所前/北海道高等学校教職員センター(札幌市中央区)
◦主催 植村裁判弁護団

弁護団声明についての説明「櫻井氏の言論によって、植村さんの名誉が傷つけられたことは認定されています。この判決は『捏造』との表現をめぐるものです。ジャーナリストのずさんな言説を免責する判決は非常に問題がある」

植村隆氏「悪夢のような判決。言論で勝って、法廷で負けてしまった。

 櫻井さんは本人尋問で間違いを認め、訂正を出した。この法廷と今日の判決がどうつながるのか?

 北海道新聞のOB記者でソウル特派員だった喜多義憲さんは、私が書いた記事の3日後に金学順(キム・ハクスン)さんに直接取材されて、キムさんが『挺身隊だった』と言っていることも確認して記事を書かれている。当時私は喜多さんと全く面識なく、喜多さんも私の記事を見てなかった。

 当時を知っている他社の記者が、『捏造であるとか虚偽であるとか、そのものが理解を超えた、言いがかりのように感じました』と証言した。

 利害関係のない人物の証言が判決に一切評価されていない。ジャーナリストの皆さん、これは悪夢ではないですか。正義が法廷で実現されていないんです。

 そして、判決要旨に『ハンギョレ新聞以外の報道にも養父または義父が営利目的で金学順氏を慰安婦にしたことを示唆するものがある』とあるが、裁判長、ふざけるな。ハンギョレ新聞を読んだのか?ハンギョレ新聞には、『養父または義父が営利目的で金学順氏を慰安婦にしたことを示唆するもの』など、出ていません。

 こんな判決を許したら明日は他のジャーナリストが同じ犠牲を受けるんですよ。それは、皆さんかもしれません。歴史の事実に向き合おうとするジャーナリストに対する不当な攻撃なんです。私は徹底的に戦います。ありがとうございました」


▲植村隆氏

神原元弁護士「判決は櫻井よしこさんが、『金学順さんが人身売買によって慰安婦になったと信じたのかもしれない、さらに植村さんが知っていて書かなかった、と櫻井さんが信じたとしても仕方ない』という、とんでもない不当判決だ」


▲神原元弁護士

弁護団「20数年前の記事に対して、ずさんな取材をした櫻井さんに、やさしい判決」

神原弁護士「この判決は櫻井さんの記事が虚偽であることすら証明できないとし、櫻井さんの意図についてはふれていない。この判決では事実なんかどうでもいいことになっている」

上田文雄弁護士「この裁判は市民の関心が非常に高かった。しかし、残念ながら判決は不当。

 一般市民が酔っ払って言っている話とジャーナリストの発信は違う。倫理性や真面目さについて、非常に低い水準で裁判所は判断した。まっとうなジャーナリストに対する侮辱だ」

朝日新聞記者「真実性の部分は、本人尋問などで、『櫻井さんの書いていることは真実ではない』との心証を裁判官は持ったと思いますが、どうか」

弁護団「真実性には裁判所はふれていない。櫻井さんを免責するものとなっている」

質問者「真実性を捨象して判断するということは、櫻井さんを、ジャーナリストに対してというより一般の人として扱っていることになる」

植村氏「ジャーナリストと一般の人は違う。こんなずさんなことが櫻井さんだと免責される。強い疑問があります」

質問者「植村さんが受けた実害を判決は考慮していないように思える」

植村氏「私の大学との契約が攻撃されたり、娘の顔写真がさらされて警備までついた。櫻井さんが私を捏造記者だと繰り返し攻撃したことが原因のはず。法廷で間違いを認めたのは櫻井さん」
https://iwj.co.jp/wj/open/archives/435438

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592. 中川隆[-13593] koaQ7Jey 2018年11月11日 17:25:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20521] 報告
捏造したのは櫻井よしこのほうなのに…「慰安婦報道を捏造」と攻撃された元朝日記者・植村隆の名誉毀損裁判で不当判決
https://lite-ra.com/2018/11/post-4354.html
2018.11.11 植村隆の名誉毀損裁判で不当判決!櫻井よしこの捏造を無視 リテラ

     
     櫻井よしこHP『プロフィール』より


「日本の名誉を毀損したのは植村隆のほうだった」「やっぱり植村隆は捏造記者だった」

 9日の夕方から、右派メディアやネトウヨがこんな言葉をがなりたて、大喜びしている。元朝日新聞記者の植村隆氏が、ジャーナリストの櫻井よしこ氏と、櫻井氏の記事を掲載した新潮社、ダイヤモンド社、ワックを相手取り、「捏造」などとされて名誉を傷つけられたとして訴えた裁判で、9日、札幌地裁が植村氏の請求を棄却したのだ(岡山忠広裁判長)。

 しかし、これは「不当判決」としか言いようがないものだ。そもそも、この裁判では、植村氏のことを「捏造」と攻撃した櫻井氏のほうの“根拠捏造”が、被告の本人尋問などで明らかになっていた。ところが、判決はそのことに一切ふれることなく「被告が真実であると信じる相当の理由がある」などと結論付けたのだ。

 具体的に解説しよう。まず、この名誉毀損裁判を起こした植村氏は、2014年、朝日新聞が「吉田証言」に関する従軍慰安婦関連の記事を取り消した問題で、右派メディアやネット右翼たちからスケープゴートにされた元朝日新聞の記者だ。植村氏は朝日が虚偽だと認めた「吉田清治証言」とは無関係だが、過去に従軍慰安婦の記事を2度執筆しており、その内容が「人身売買であるのに強制連行されたと書いた」などとして、右派から「植村は捏造記者だ!」と総攻撃を受けた。そして、非常勤講師を務めていた北星学園大学には脅迫が殺到、さらに本人だけでなく娘にも殺害予告が届くなど、“リンチ”とも呼べる状況が続いたのである。

 しかし、その後、植村記者は反撃に転じた。自分の身に降りかかった攻撃の多くが根拠のないことをひとつひとつ実証的に反論し、「捏造記者」などと攻撃した極右言論人と出版社に対し、裁判を起こしたのだ。今回の札幌地裁での裁判はそのうちのひとつである。

 札幌地裁の判決はまず、櫻井氏の記事について「原告の社会的評価を低下させる事実の摘示や意見ないし論評がある」と認めた上で、櫻井氏が記事で展開していた「金学順氏は継父によって人身売買され、慰安婦にさせられた」という主張が、「真実であると認めることは困難である」と結論付けている。つまり、裁判所も、櫻井氏の記事が事実でない可能性があることを認めていた。当然、植村氏の記事が「捏造」だとも、植村氏が「捏造記者」だともまったく認定していない。

 ところが、その後、判決文は一転。櫻井氏が金学順さんのことを「継父によって人身売買された女性」と「信じ」、「植村氏が事実と異なる記事を敢えて執筆した」と「信じたこと」はさまざまな資料に記載があったためやむをえなかった、と続けるのだ。

■存在しない記述を根拠にした櫻井を正当化するトンデモ判決!

 はっきり言うが、この判決はめちゃくちゃだ。なぜなら、裁判所は櫻井氏が「金学順氏は継父によって人身売買された女性」と信じた根拠として、「金学順氏が日本国政府を訴えた訴状」「金学順氏を取材した内容をまとめた臼杵氏執筆の論文」の記載などをあげているが、そもそもこれらの資料には、そんな記述など一切ないからだ。

 そのことは、今年3月23日の第11回口頭弁論の櫻井氏の本人尋問で暴かれ、櫻井氏自身も誤りを認めている。

 まず、この口頭弁論で問題になったのは、「WiLL」(ワック)2014年4月号の記事(「朝日は日本の進路を誤らせる」)。櫻井氏は〈日本を怨み、憎んでいるかのような、日本人によるその捏造記事〉などと植村氏を批判するために、前述した金学順さんの訴状をもちだし、こう書いていた。

〈訴状には、十四歳のとき、継父によって四十円で売られたこと、三年後、十七歳のとき、再び継父によって北支の鉄壁鎭という所に連れて行かれて慰安婦にさせられた経緯などが書かれている。
 植村氏は、彼女が継父によって人身売買されたという重要な点を報じなかっただけでなく、慰安婦とはなんの関係もない「女子挺身隊」と結びつけて報じた。〉

 つまり、櫻井氏は「訴状には金学順さんが継父によって40円で売られ、さらに再び継父によって連れられて慰安婦にさせられた、という記述があるのに、植村氏はこれを無視するという意図的な捏造報道を行った」と攻撃していたのだ。

 ところが、実際の金学順さんの訴状には、櫻井氏が言う「継父によって四十円で売られた」なる記述は、存在していなかった。つまり、櫻井氏のほうが訴状にないことを“捏造”して、植村氏に対し「捏造記者」などという攻撃を繰り返していたのである。

 それだけではない。原告側弁護士から「継父によって四十円で売られたという話の根拠はなんなのか」と問い詰められた櫻井氏は、1992年2月の月刊「宝石」(休刊/光文社)の臼杵敬子氏執筆の記事からの引用の間違いだったと釈明した。

 これが裁判所の言う「金学順氏を取材した内容をまとめた臼杵氏執筆の論文」なのだが、実は、その臼杵論文=「宝石」記事にも、やはり「継父によって四十円で売られた」「十七歳のとき、再び継父によって北支の鉄壁鎭という所に連れて行かれて慰安婦にさせられた」なる記述はなかった。

■櫻井よしこがもちだした資料には、逆に「日本軍の強制連行」の記述が

 まず、「宝石」記事にある金学順さんの証言によると、学順さんが14歳の時、母親が再婚したが〈私は新しい父を好きになれ〉なかったとして、こう振り返っている。

〈その後平壌にあった妓生専門学校の経営者に四十円で売られ、養女として踊り、楽器などを徹底的に仕込まれたのです。
 ところが、十七歳のとき、養父は「稼ぎにいくぞ」と、私と同僚の「エミ子」を連れて汽車に乗ったのです。〉

 学順さんがいう「養父」とは「妓生専門学校の経営者」のことであって、「継父」(=「新しい父」)ではない。しかも、この「宝石」記事には、上の引用部の直後、金銭で売られたどころか、逆に日本軍の強制連行と性暴力を物語る記述が続いていた。

〈着いたところは満州のどこかの駅でした。サーベルを下げた日本人将校二人と三人の部下が待っていて、やがて将校と養父との間で喧嘩が始まり「おかしいな」と思っていると養父は将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかに連れ去られてしまったのです。
 私とエミ子は、北京に連れて行かれ、そこからは軍用トラックで、着いたところが「北支のカッカ県テッペキチン」(鉄壁鎭)だったと記憶しています。中国人の赤煉瓦の家を改造した家です。一九四〇年春ごろでした。
 日本軍が占領したその集落には三百人ほどの日本兵が駐屯していました。トラックで夜着いた私たちは、将校に案内され、真っ暗な部屋に入れられ、外から鍵をかけられ閉じ込められたのです。そのとたん、私は「しまった」という後悔でいっぱいでしたが、もうどうしようもありません。
 次の朝、馬のいななきで人々が生活しているのがわかり、室内から外をうかがうと隣りの部屋には三人の朝鮮人女性がいるのがわかりました。(中略)将校が私を小さな部屋に連れて行き、服を脱げと命令したのです。
 当時、私は十七歳。何も知りませんでした。そのときのことを考えるだけでも心臓が爆発しそうです。とにかく必死で逃げようとしました。「嫌だ!」と叫ぶと、その日本兵は「この野郎! 朝鮮人のくせに!とののしり、私を殴り、足で蹴り揚げ、暴力で犯したのです。」(「宝石」での金学順さんの証言)

 念のために言っておくが、これは櫻井氏が自分の主張の出典とした資料だ。ところが、そこには櫻井氏の主張する「継父が金学順さんを四十円で売った」とはどこにも書かれておらず、「妓生専門学校の経営者」が逆に日本人将校らに暴力で脅されてその場から排除された、そして、金学順さんは日本軍のトラックで鉄壁鎭に連れて行かれたという証言が掲載されていた。

 櫻井氏が本当にこの証言を出典としたのならば、櫻井氏はわざと日本軍による強制連行をネグったことになる。

■なぜ裁判所は“根拠捏造”を無視してまで櫻井よしこらを「勝訴」させたのか

 また、裁判所はもうひとつ、櫻井氏が信じた根拠として「韓国の新聞報道」もあげており、これは櫻井氏側が証拠として提出したハンギョレ新聞と思われるが、ここにも、「宝石」などと同様の〈生活が苦しくなり、14歳の時に母親に平壌にあるキーセンの検番に売られた。3年間の検番生活を終えた金さんが最初の就職だと思って検番の養父についていった所は、兵士3000人余りが所属する北中国・鉄壁鎭の日本軍小部隊の前だった〉とあるだけで、慰安所にお金で売られたという記述はない。

 それどころか、このハンギョレ新聞にも、〈私を連れていった養父も当時、日本人にカネももらえず私を実力で奪われたようでした〉という、強制連行の記述があった。

 いずれにしても、法廷でこうした事実を突きつけられた櫻井氏は、金学順さんの訴状に記載されていない記述についての自らの誤りを認め、「WiLL」7月号は訂正文を掲載。また、産経新聞6月4日付でも同様の誤りを訂正している。

 にもかかわらず、札幌地裁の判決は、こうした資料をもとに、櫻井氏が「金学順氏が継父によって人身売買されて慰安婦にされた女性であると信じた」ことは「相当の理由がある」というのだ。この裁判長は本当に提出証拠や本人尋問の記録をちゃんと読んでいるのか。

 また、百歩、いや1万歩譲って、これらの資料を目にした櫻井氏が「金学順氏は継父によって人身売買された」と誤読したことがやむをえなかったとしても、だからといって、なぜ櫻井氏が植村氏のことを「捏造」などと攻撃することが正当化されるのか。

 そもそも植村氏は、朝日新聞の記事に金学順さんが「日本軍に強制連行された」などと書いているわけではなかった。〈女性の話によると、中国東北部で生まれ、十七歳の時、だまされて慰安婦にされた〉と書いただけだった。

 ところが、櫻井氏は〈植村氏は、彼女(金学順さん)が継父によって人身売買されたという重要な点を報じなかった〉などとして〈真実を隠して捏造記事を報じた〉と攻撃したのだ。

だとしたら、自らが出典とした資料にハッキリとある強制連行の記述をネグった櫻井氏だって「捏造」になるのはもちろん、情報の取捨選択をしているほとんどの報道が「捏造」ということになるだろう。

 なお、櫻井氏が「捏造」だとがなりたてる1991年8月11日付の植村氏の署名記事は、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が金学順さんから聞き取った証言テープがもとになっているのだが、同記事でキーセンについて触れなかった理由について植村氏は「証言テープ中で金さんがキーセン学校について語るのを聞いていない」「意図的に触れなかったわけではない」と説明している(朝日新聞2014年8月5日朝刊)。

 とにかく、この櫻井氏が植村氏に向けた「捏造」攻撃は、どこからどう見ても根拠がなく、名誉毀損なのだが、しかし、札幌地裁の裁判長は前述したように、まったく理屈にならない理屈をつけて、請求棄却を言い渡した。判決文を読むかぎり、岡山裁判長は櫻井氏らを勝訴させるという結論ありきで、まともに証拠資料に目を通してなかったとしか思えない。それとも、もしかして、裁判所までが歴史修正主義者に乗っ取られようとしているのか。

 植村氏側はこの判決直後、控訴することを表明。また、もうひとつ、西岡力氏と文藝春秋を相手取った東京地裁での判決も控えている(詳しくは過去記事参照 https://lite-ra.com/2018/10/post-4323.html)。控訴審やこちらの裁判では真っ当な判断が下されると信じているが、いずれにしても本サイトではレポートを継続し、右派による歴史修正の杜撰な実態とその卑劣さ何度でも伝えてゆく。


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593. 中川隆[-13587] koaQ7Jey 2018年11月12日 06:25:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20536] 報告
控訴審では真っ当な判決で悪夢を晴らそう ー 植村勝訴の逆転判決を
http://article9.jp/wordpress/?p=11436
2018年11月11日 澤藤統一郎の憲法日記

植村隆元朝日新聞記者が、無茶苦茶なバッシングを受けて、やむにやまれずの提訴に踏み切った2件の名誉毀損損害賠償請求訴訟。1件は札幌地裁、もう1件は東京地裁係属事件。いずれも、「私は捏造記者ではありません」と、痛切な声を上げての訴え。櫻井よしこらに対する札幌地裁訴訟が先行して判決となった。私も原告訴訟代理人の一人として、11月9日判決の勝訴を確信していた。敗訴の報告に、いまだに信じられない思いである。これで勝てないのか。

とは言え、さすがにこの「不当判決」も、櫻井の名誉毀損言論の最重要部分について真実とは認定していない。「金学順氏が慰安婦とされるに至った経緯に関する部分が真実であるとは認めることは困難である」としつつも、「被告櫻井が上記のように信じたことには相当の理由があるということができる」としたのだ。櫻井は、その程度の確度の記事で、植村の新聞記事を「捏造」と決めつけたのだ。その背景には、抜きがたい歴史修正主義のイデオロギーがある。

判決批判については、「植村裁判を支える市民の会」のホームページをお読みいただきたい。URLは以下のとおり。ここに、法廷の経過報告、判決要旨、判決全文、弁護団声明、「支える会」声明などのすべてが掲載されている。
http://sasaerukai.blogspot.com/

そのサイトから引用しておきたい。

闘いは再び始まった!
訴審に向け あふれる判決批判、闘う決意

 植村さんが立った。「悪夢のような判決でした。私は法廷で、悪夢なのではないか、これは本当の現実なんだろうかとずっと思っていました。今の心境は、言論戦で勝って、法廷で負けてしまった、ということです。櫻井氏は3月の本人尋問ではいくつもずさんな間違いを認めていった。あの法廷と今日の法廷がどうつながるんだろうか」「激しいバッシングを受けたとき、これは単に植村個人の問題ではないということで、様々なジャーナリストが立ち上がってくれました。いまも新聞労連、日本ジャーナリスト会議、リベラルなジャーナリストの組織も応援してくれています」「この裁判所の不当な判決を高等裁判所で打ち砕いて、私は捏造記者でないということを法廷の場でもきちんと証明していきたいと思っています」。

まったく同感である。

ぜひご覧になっていただきたいもう一つのサイトがある。

「捏造したのは櫻井よしこのほうなのに…『慰安婦報道を捏造』と攻撃された元朝日記者・植村隆の名誉毀損裁判で不当判決」という、リテラ(編集部)の記事。いつもながらの、問題に真正面から切り込む熱のこもった緻密な内容。
https://lite-ra.com/2018/11/post-4354.html

私は、この微妙な判断をした判決に櫻井よしこがどう反応するか、この人のホームページでのきちんとした発言に注目しているのだが、本日(11月11日)夜までのところ音沙汰なしである。訴訟の過程で、自分の記事の間違いを具体的に指摘されて訂正している。それでも、判決主文では勝訴した櫻井がなんというのだろうか。いまだに、植村記事を捏造と言えるのか。

おそらく、櫻井よしこは安部英(元帝京大学医学部教授)から名誉毀損で訴えられた訴訟の高裁判決の悪夢を思い出しているに違いない。

2003年当時、櫻井自身が、「高裁判決での逆転敗訴はジャーナリズム全体への冒涜」という標題で次のような記事を自分のサイトに掲載している。

「2月26日、東京高裁大藤敏裁判長、高野芳久、遠山廣直両裁判官によって、私は逆転敗訴の判決を言い渡された。元帝京大学副学長安部英氏から名誉毀損で訴えられていた件である。

 高裁判決は、地裁判決とは正反対の内容だった。一審判決で真実、あるいは真実と信ずるに相当の理由があったとして認められた記述が、ことごとく否定された。

 ひと言でいえば、このような判決を出されたのでは、調査報道は成り立たなくなる。事は私一人の問題にとどまらず、日本のジャーナリズム全体に影響する問題と言わざるを得ない。

 大藤裁判長らは、私の取材した薬害エイズ被害患者の言葉も、信じられないとして退けたが、本当に彼らの言葉は信ずることができないのか。」

 この判決には控訴審が続く。高裁判決が「地裁判決とは正反対の内容となり、一審判決で真実、あるいは真実と信ずるに相当の理由があったとして認められた記述が、ことごとく否定される」逆転判決となる可能性は、けっして小さくない。日本の民主主義のために、その日の来たらんことを切望したい。

なお、ウィキペディアが、安部英対櫻井よしこの訴訟経緯をこう簡潔に紹介している。

「フリージャーナリストの櫻井よしこが『安部元副学長が製薬会社、ミドリ十字のために加熱製剤の治験開始を遅らせた』などと記述したことについて、安部は損害賠償などを求め民事訴訟を起こしたが、一審は記事内容に真実性があるとして安部の全面敗訴、二審は記事内容を真実ではなく真実相当性もないとして安部の逆転勝訴、最高裁は真実相当性があったとして安部の逆転敗訴となった。」

 本件も、真実性の有無ではなく、相当性存否の判断で微妙に結果が分かれた判決例である。櫻井の植村に対する批判の言論の真実性が否定された点で、ジャーナリストとしては大きな顔はできまい。傲岸な態度をとり続けることは不可能だ。

にもかかわらず、櫻井よしこや西岡力らが、「捏造」と断定して記事を書けば、付和雷同のネトウヨたちが、人権侵害のバッシングを積み重ねる。この人たちの責任は大きいのだ。控訴審での、植村逆転勝訴判決を期待する。植村の悪夢を晴らして、櫻井にこそ悪夢がふさわしいのだ。

(2018年11月11日)



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594. 中川隆[-13621] koaQ7Jey 2018年11月24日 08:31:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21052] 報告
現在の「技能実習生」の扱い方を見れば、かつての「徴用工」や「慰安婦」の実態も容易に想像できる(読む・考える・書く) 2018-11-17
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/11/17/134003

日本で働く外国人技能実習生の悲惨な実態が次々に明らかになっている。

ある寺院には、2012年以降に死亡したベトナム人の若者たちの位牌だけで81柱が並んでいる。

https://www.asahi.com/articles/ASLBF53B0LBFUTIL00J.html
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 東京都港区にある寺院「日新窟」。棚の上に、ベトナム語で書かれた真新しい位牌がぎっしりと並ぶ。2012年から今年7月末分までのもので81柱。この寺の尼僧ティック・タム・チーさん(40)によると、その多くが、20、30代の技能実習生や留学生のものだ。今年7月には4人の若者が死亡。3人が実習生、1人は留学生で、突然死や自殺などだった。

 7月15日に自殺した25歳の技能実習生の男性は、会社や日本に住む弟、ベトナムの家族に遺書を残していた。塗装関係の仕事をしていたが、「暴力やいじめがあってつらい」とつづられていた。「寂しい。1人でビールを飲んでいる」と弟に電話があった翌日、川辺で首をつっているのが見つかった。
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もちろんこれは氷山の一角に過ぎない。ベトナムでは、現地の日本大使館書記官が、技能実習生制度は「ベトナムの若者の人生をメチャクチャにしている」と警鐘を鳴らすほどの事態に至っている。

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/241236/1

さらに、今年前半の半年だけで4,279名の技能実習生が失踪。

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長妻昭氏「外国人技能実習生、失踪者は今年1〜6月までで何人いるか」
山下法相「4279名です」
長妻昭氏「これ、異常ですよ。逃げた方が悪いのか。私はそう思わない。逃げざるを得ない。こういう現状を放置して新たに外国人労働者を受け入れる。非常に無責任だ」#kokkai #国会中継 #国会2018
— shinkai10911 (@jubilee0710) 2018年11月1日
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失踪の背景には、最低賃金以下の異常かつ違法な低賃金、職場での差別やいじめ、暴力(性暴力含む)の横行がある。

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https://t.co/6VQe6M5DBe"茨城県のシソ生産農家が中国人女性の技能実習生(25)に深夜2時3時まで時給300円の深夜残業を強いただけでなく、セクハラ行為を働き、実習生側から未払い賃金などの賠償を請求されている。この裁判で被告訴訟代理人を務めているのが丸山議員"
— 外教 (@yuantianlaoshi) 2016年2月24日
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東京新聞1面。技能実習生たちの証言。

・飛び降り自殺を図った中国人女性「職場でいじめに遭いました。仕事を頑張っても認めてもらえない」「今、うつ病の治療を受けています」

・指を切断し治療費の自己負担と帰国を求められた中国人男性「けがをしたら、なぜ帰らないといけないのか」 pic.twitter.com/sM39kAjh6Z
— 望月優大 (@hirokim21) 2018年11月8日
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

しかも、在留資格の制約で技能実習生には転職の自由がなく、過酷な職場から逃げようとするとそれ自体が違法行為となり、入管収容→強制送還となってしまう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
外国人技能実習生にも最低賃金は適用されるから、300円は当然違法ですよ。問題は、外国人がその違法な企業での実習を辞めて自分で転職すると、それ自体が別な違法行為(入管法違反)になり日本から追い出されてしまうということです。 https://t.co/rJOAmLSfEd
— Shin Hori (@ShinHori1) 2018年11月9日
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ブラックな実習先にあたった技能実習生は転職の自由もなくまずその実習先に閉じ込められる。

実習先から逃走して在留資格を失った元実習生は次に入管に摘発され収容所に閉じ込められる。

これだけ転職の自由やジョブマッチの大切さが語られる時代に「人手が足りない」だけで残していい制度ではない。
— 望月優大 (@hirokim21) 2018年11月9日
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「外国人技能実習制度」の実態は、「我が国が先進国としての役割を果たしつつ国際社会との調和ある発展を図っていくため、技能、技術又は知識の開発途上国等への移転を図り、開発途上国等の経済発展を担う「人づくり」に協力する」(by厚労省)などというご立派な建前とはまるで違う。これは、弱い立場の外国人を、搾取されても逃げることのできない安価な労働力として企業や農家に供給する現代の奴隷制度にほかならない。

その背景には、自分たちより「遅れている」と見なすアジア諸国の人々への、日本人の根深い差別意識がある。

そういえば、安田浩一氏の著書『差別と貧困の外国人労働者』の中に、次のような印象的な一節があった。[1]

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 本文へ入る前に、結論めいたことをひとつだけ述べたい。
 外国人労働者の姿、置かれた環境は、その国(受け入れ国)の民度を測る重要なモノサシになるのではないか、ということだ。少なくとも私は、外国人労働者が漏らすため息と憤りの言葉から、あらためて「日本」を思った。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

敗戦による「民主化」から70年以上が経っても、なおこのザマなのだ。「人権」など問題にもされなかった戦時中における「徴用工」や「従軍慰安婦」(日本軍性奴隷)たちへの扱いがどのようなものだったかは、容易に想像できる。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
徴用工が高給取りだっただの、相変わらず汚物のようなデマが湧いてきているが、教育実習生を時給数百円で搾取したうえに、住居費だ制服代だのとハイエナのようにむしり取る今の日本をみてれば、一瞬で出鱈目だと分かりそうだけどな。
— ペロンパー (@klezmer722) 2018年11月1日
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「日本の外で甘言で騙して若者を集めて、連れて来たら日本人でないことを利用して好き放題に搾取する」ってやり口、従軍慰安婦から技能実習生までこの国の常套手段なんだよな。そうやって日本がアジアに振り撒いた被害の事実はその後何十年にわたって日本への不信と摩擦を生み続けてる。
— シュナムル (@chounamoul) 2018年11月3日
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

[1] 安田浩一 『差別と貧困の外国人労働者』 光文社新書 2010年 P.7
 https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AB%E3%83%9D-%E5%B7%AE%E5%88%A5%E3%81%A8%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%8A%B4%E5%83%8D%E8%80%85-%E5%85%89%E6%96%87%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%AE%89%E7%94%B0-%E6%B5%A9%E4%B8%80/dp/433403568X


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595. 中川隆[-13621] koaQ7Jey 2018年11月24日 15:46:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21079] 報告
櫻井よしこが植村隆裁判の不当判決に乗っかり会見で「捏造攻撃」を正当化! ネトウヨは「植村を極刑にしろ」
https://lite-ra.com/2018/11/post-4389.html
2018.11.24 植村隆裁判の不当判決で調子に乗る櫻井よしことネトウヨ  リテラ

    
    16日放送の『櫻LIVE』(言論テレビ)より


 ジャーナリストの櫻井よしこ氏からの「捏造記者」との攻撃に対し、名誉毀損で訴えた元朝日新聞記者・植村隆氏が、今月9日の札幌地裁判決(原告の請求棄却)を不服として、22日、札幌高裁に控訴した。

 周知のとおり、植村氏は、2014年の朝日新聞慰安婦報道問題で、朝日が訂正をした「吉田清治証言」とはまったく無関係であるにもかかわらず、元慰安婦の金学順さんに関する記事を書いたことで、右派やネット右翼から総攻撃を受けた記者だ。内定していた再就職先や勤務先の大学に抗議が殺到、さらに家族への殺害予告まで送られるなど、スケープゴートにされた植村氏への“リンチ”は過激化した。

 しかし、植村氏は不当なバッシングに沈黙していたわけではない。2015年、自らを「捏造」などと攻撃した右派言論人らに対し複数の裁判を起こした。そのひとつが、ジャーナリストの櫻井よしこ氏と、氏の記事を掲載した出版3社を相手取った札幌地裁の裁判である。法廷では、原告弁護団の追及により、櫻井氏が「植村記事は捏造」とした根拠のデタラメが次々とあらわになった。しかし、札幌地裁が今月9日に下した判決は、原告・植村氏の請求をいずれも棄却するものだった。

 植村氏は今月15日、日本外国特派員協会での会見で「この判決を私は、言論戦、言論の戦いで勝って判決で負けてしまった悪夢のような判決だというふうに思っています」と述べていたが、その通りだろう。札幌地裁判決がいかに「不当判決」であったかは、本サイトの11日付記事(https://lite-ra.com/2018/11/post-4354.html)で詳しく解説したので、ぜひご一読いただきたい。

 しかし、植村氏の控訴を受け、またぞろネットでは、異常としか言いようがない“植村バッシング”が再燃している。控訴を伝える時事通信の報道がYahoo!のトップニュースになったのだが、そのコメント欄が、こんな脅迫めいた文言や誹謗中傷、そして悪質なデマで埋め尽くされているのだ。

〈できる事なら国家反逆罪で極刑にして欲しい〉
〈この反日極左売国奴「植村隆」を許すつもりも無ければ、願わくば惨殺体で発見される事を切に祈るよ。〉
〈間違いなく捏造記者です。あと2回チャンスがありますが2回とも敗訴して頂かねばなりません。〉
〈むしろ最高裁まで行って、決定的に捏造であることが明らかになれば良い〉
〈あなたは、捏造記者に認定されたんだ。悪あがきはよせ。〉

 「極刑」「惨殺体」などという書き込みは、まさに2014年に植村氏とその家族が被害にあった殺害の示唆を彷彿とさせる。そして、コメント欄に多く見られた「植村は捏造記者と認定された」というような話は、完全なるデマである。

 簡単に振り返っておくが、そもそも札幌地裁の判決は、植村氏の記事を「捏造」と攻撃した櫻井氏の記事には「原告の社会的評価を低下させる事実の摘示や意見ないし論評がある」と認定しながらも、櫻井氏が参考にした資料や社会状況から「真実であると信じる相当の理由がある」として免責したというものだ。

 しかし、「真実と信じる相当の理由」を認めること=「真実相当性」を認定することと、摘示事実の「真実性」を認定することは、まったくの別モノである。実際、長い判決文の隅から隅まで読んでも、札幌地裁は「原告の記事は捏造であった」とも「原告は捏造記者である」とも、あるいは「原告は事実と異なることを知りながら記事を執筆した」などとも認めていない。つまり、裁判所は櫻井氏が摘示した「植村氏は捏造記事を書いた」ということについて「真実である」とは、まったく認定していないのだ。

 それどころか、裁判の主要な争点のひとつである櫻井氏の“金学順さんは継父によって人身売買されて慰安婦にさせられたのに、植村氏はそれを知りながら意図的に書かないことによって強制連行を印象付けようとした”という主張にかんして、判決文は〈「継父によって人身売買され慰安婦にさせられた」という事実が真実であると認めることは困難である〉と言及している。ようするに、櫻井氏の主張の前提にある「人身売買説」自体の真実性を認めていないと言っていいだろう。

■判決文が植村記者の捏造を認めていないことを否定した櫻井側弁護士

 繰り返すが、ネトウヨたちが口走っている「裁判所は植村を捏造記者だと認定した」という話はまったくの事実無根である。しかし驚くのは、櫻井氏側が公の場で、こうしたデマを助長するような発言をしていることだ。

 植村氏が会見を開いた翌16日の午後、櫻井氏も日本外国特派員協会での会見に臨んでいた。その質疑応答での一幕でのことだ。まず、北海道新聞の記者がこのように質問した。

「植村さんが捏造したということは、判決では認定しませんでしたけども、櫻井さんはいまでも植村さんが記事を捏造したとお考えでしょうか」
「櫻井さんは1998年に植村さんの名前を出して、植村さんが『誤報』、もしくは『混同』しているというふうに批判されました。けれども、次に2014年になって記事を書かれた時に、突然『捏造した』という記事に変わりました。なぜ、何を根拠に『捏造』という表現に変えたんでしょうか」

 これに対して櫻井氏はこう述べた。

「私は、植村さんの記事については、『捏造したと言われてもしかたがないだろう』という意見を申し上げたと思います。時間が経つにつれていろんなことがわかってきて、植村さんがそのようにしたのではないかという疑問が、強くなったために、捏造したと言われても弁明できないのではないかと、仕方がないだろうということを書きました。以上です」

 櫻井氏は自分が使った「捏造」という言葉のまずさがわかっていたのか、明らかにごまかしながら、しかし、それでも自分の「捏造」攻撃があたかも正当であるかのように強弁した。しかも、そこに櫻井氏の主任弁護人である林いずみ弁護士がこう付け加えたのである。

「一点だけ。いま北海道新聞の長谷川さんが、この判決は捏造を認めなかったというふうにおっしゃり、昨日の(会見で配布された)植村さんの判決の要約もそのように書いていると思いますが、そのようなことはありません」

 ようするに櫻井氏の主任弁護士は、裁判所が植村氏を「捏造」と認めなかったことを否定しにかかったのである。これではまるで、「裁判所は植村氏を捏造記者と認定した」なるデマを振りまいているネトウヨを扇動しているようなものではないか。

■櫻井よしこはネットTVで全面勝訴宣言も、植村は控訴

 何度でも言うが、判決文のどこにも「原告は記事を捏造した」などとは書かれておらず、ましてや、主要な争点である「人身売買説」については「真実であると認めることは困難である」とハッキリ述べられているのだ。逆に言えば、これは被告・櫻井氏側が「人身売買説」を立証する必要があるにもかかわらず、それができていないと指摘しているのである。当然、“植村氏は金学順さんが人身売買されたという経緯を知りながらそれを書かなかった”という櫻井氏の主張の前提条件が崩れたと解するのが妥当だろう。

 しかも、この「人身売買説」に関しては、逆に櫻井氏の記事のほうの誤りが暴露されてきたことは、本サイトでも何度かお伝えしてきたとおりだ。たとえば櫻井氏は「WiLL」(ワック)2014年4月号の記事のなかで、1991年12月に金学順さんが日本国政府を集団提訴した際の訴状を持ち出して、〈訴状には、十四歳のとき、継父によって四十円で売られたこと、三年後、十七歳のとき、再び継父によって北支の鉄壁鎭という所に連れて行かれて慰安婦にさせられた経緯などが書かれている〉とし、〈植村氏は、彼女が継父によって人身売買されたという重要な点を報じなかった〉などと批判していた。ところが、実際の訴状には「継父によって四十円で売られた」なる記載など存在しなかったのである。

 なお、法廷で追及された櫻井氏は、金学順さんの訴状に記載されていない記述についての自らの誤りを認め、「WiLL」2018年7月号は訂正文を掲載、また産経新聞2018年6月4日付でも同様の誤りを訂正している。

 つまり、櫻井氏のほうが訴状にないことをでっち上げて、植村氏に対し「捏造記者」などと攻撃を繰り返していたのだ。付言すると、櫻井氏が参照した、金学順さんの発言に基づいて書かれたハンギョレ新聞の記事には、櫻井氏が「人身売買説」の根拠とする記述のすぐ後ろに、〈私を連れていった養父も当時、日本人に金ももらえず私を武力で奪われたようでした〉との記述がある。これは日本軍による強制連行の記述だが、櫻井氏はこうした部分については完全にネグっていた。そしてここにきて、弁護士が「判決は植村氏の捏造を認めなかったということではない」という新手の攻撃を加えてきているのである。

 櫻井氏は、記者会見のあった16日の夜、自らが主催するネット番組『櫻LIVE』(言論テレビ)で、「わたくしの、全面勝訴です」「全面勝訴で、私も非常に嬉しかったんですね」「ほんとに日本人の名誉とか日本国のこととか、(自分の記事の目的は)公益以外の何物でもない」などと勝ちどきをあげた。

 だが、まだ終わっていない。むしろ、札幌地裁の不当判決によって、ネトウヨたちがまたぞろ植村氏の生命と生活を脅かすような異常なバッシングを再開し始めている。札幌での控訴の行方はもちろん、本サイトではこの歪んだ社会状況をも含めてレポートを続けていくつもりだ。

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

596. 中川隆[-13634] koaQ7Jey 2018年11月25日 08:09:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21112] 報告

従軍慰安婦強制連行 _ 吉田清治の話はやっぱり事実だった


経済ジャーナリスト・今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」
http://masato555.justhpbs.jp/newpage113.html



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597. 2018年12月15日 13:55:53 : Vqo6O3yUHY : _bGJdyuN8i0[1] 報告
吉田清治はクズ
598. 中川隆[-13275] koaQ7Jey 2019年1月01日 08:26:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告

 【日本人慰安婦の話〜橋下“維新の会”は聞け 美輪明宏】(2013年6月のライブドアニュースより)

 今日はですね、橋下さんが発言しちゃって問題になっております、従軍慰安婦問題。
あれは若い方はトンチンカンで、何の話だか全然お分かりにならないんじゃないかと思いますね。10代後半20代30代の方なども。

 従軍慰安婦というのは半世紀以上前の第2次大戦の戦争中のお話でしょう。メディアは終戦記念日に近くなると、爆撃でやられた話とか、そういった人たちを取材した話ができますでしょう。

 でも従軍慰安婦の人たちは直に話を聞けないんですよね。

 韓国と中国の従軍慰安婦の人ばかりが取り上げられますけれども、日本人の従軍慰安婦の人たちもいたんですよ。いっぱいいたんです。

 でも日本人慰安婦たちは何故取り上げないのかといったら、その人たちが、もう酷い目に遭ったんですね。

 まず、私が何故そんなことを知っているかと言いますと、終戦後にその人たちが満州、つまり今の中国から引き揚げてきたんですね。

 引き揚げてきて私、長崎でございましょう。長崎には丸山遊郭という有名な、女郎さん遊女たちがいて売春する、そういう街があったんですね。
坂本龍馬なども遊んでいたような有名な所ですね、日本の3大遊郭という。

 これが、戦争中にカフェやバーも遊郭もみんな閉店させられて全部が商売営業停止になったんですよ。そしてその人たちは行き場が無くなったんですね。

 どういう人たちが遊女になっているかというと、人身売買が当たり前の時代でしたから、貧しい農家の娘さんたちが、自分が売られていけばお父さんもお母さんも弟たちも飢え死にしないで済むからといって、女衒(ぜげん)と言われる人買いに連れられて遊郭に身を売られていったんですね。

 一家の犠牲になっている貧しいお嬢さんたちが多かったんです。

 閉鎖されて行き場が無くなった時に、軍の出先機関で大政翼賛会という組織があったんです。

 そこの人に「満州に良い仕事があるぞ」と声をかけられ、カフェとか遊郭があるから、そっちへ行って稼げばいいということで、そして喜んでそちらへ行ってみたらなんと、話が違って従軍慰安婦だったというんですね。

 従軍慰安婦の人たちは、軍に従うと書いてあって第一線を付いて周るんですね。
そして筵(むしろ)みたいなものを敷いて、コーリャンという麦よりももっと不味(まず)い穀物で作った真っ黒いおにぎりですけれど、私も長崎で食べたことがありますけれど、食べられた物じゃないです。

 それを枕元に置いて食べながら、表には兵隊たちが木札をもってズラリと並んで、それを一人ひとり(セックスの)相手をして。

 そして敵が来たら身を守るためといって銃の練習をさせられて、敵が押し寄せてきますでしょう、馬賊とか匪賊(ひぞく)とか。そうすると兵隊と一緒に戦うんですって。

 戦って流れ弾に当たって死んだら、今度は日本婦人がそういうことをしていたというと恥になるからといって、モンペやなにかを脱がして支那服に着替えさせられて、そして放り出されるんですって。

 そして埋めてももらえない。焼いてももらえない。野ざらし、雨ざらし。山犬の食い荒らすままになっていて。

 終戦後に引き揚げてくるときに、まず軍人の将校たちと家族がトラックに乗って逃げて、自分たちは置いてきぼりになったんですって。

 他の移民団、開拓団の人たちと一緒になって、命からがら引き揚げてきて村に帰ったら、村の恥さらしとか面汚しとか言われて。

 そして家へ帰ったら、自分はお父さんお母さん、一家のために売られて行ったのに、「お前のやっていたことが世間様に知られたら、家の恥になる、出て行ってくれ。」と。

 だから、みんな自分が従軍慰安婦だったというのを隠しているんですよ。

 だから日本人の従軍慰安婦は一人も出てきませんでしょう。そういう事情があるんですね。


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

599. 中川隆[-12776] koaQ7Jey 2019年1月23日 18:29:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告
西岡力3つの大ウソ - 植村裁判資料室 2018年11月30日

「植村記者の記事は捏造」説が崩れた3つの理由

西岡力氏は1992年以来、慰安婦問題で植村隆さんが書いた記事を「重大な誤り」「捏造」と批判・攻撃してきました。しかし法廷で提出された証言や資料により、記事を「捏造」とする主張の論拠がいずれも誤っていることが明らかになっています。西岡氏による「捏造」説と、その誤りについて、以下にポイントを3つ示して説明します。 <甲につく数字は、証拠番号の略記>

ウソその1


西岡氏の主張@

植村氏は「『女子挺身隊』の名のもとで戦場に連行された」と、韓国人元慰安婦・金学順さん本人が語っていない経歴を加えた。

▽「初めて名乗り出た元慰安婦の女性の経歴について『《女子挺身隊》の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた』と書いたのだ。本人が語っていない経歴を勝手に作って書く、これこそ捏造ではないか」(正論2014年10月号=甲5)

▽「植村記者の記事には『挺身隊の名で戦場に連行され』とありますが、挺身隊とは軍需工場などに勤労動員する組織で慰安婦とは全く関係ありません」(週刊文春2014年2月6日号=甲7)

明らかになった事実@ 

金学順さん本人が「私は女子挺身隊だった」「強制的に引っ張って行かれた」と話している。

▽1991年8月14日の金学順さんインタビューについて伝える北海道新聞91年8月18日記事:「初対面のハルモニが『私は女子挺身隊だった』と切り出した」(甲50)

▽91年8月14日、金学順さんが名乗り出た初めての記者会見での発言:「16歳ちょっとすぎたくらいの(私)を引っ張って行って。強制的に。泣いて。出ていくまいと逃げ出したら、捕まって、離してくれないんです」(会見を伝える韓国KBSテレビの映像=甲109、発言の日本語訳=甲110)

▽金さんの会見を報じた翌8月15日付の韓国紙報道:東亜日報「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた私」(甲20)、中央日報「私は挺身隊だった」(甲21)。ハンギョレ新聞「私を連れて行った養父も当時、日本軍人にカネももらえず武力で私をそのまま奪われたようでした」(甲67、西岡氏の翻訳=甲67の2)

ウソその2


西岡氏の主張A

金学順さんは「親に身売りされて慰安婦になった」「四十円でキーセンに売られた」と話したのに、植村氏が記事で触れていない。

▽「このとき名乗り出た女性(金学順さん)は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。植村氏はそうした事実に触れずに強制連行があったかのように記事を書いており、捏造記事と言っても過言ではありません」(週刊文春2014年2月6日号=甲7)

▽「その女性が日本政府に対して裁判をおこした訴状を見ると、『四十円でキーセンにうられた』と書いてあったのです。その女性は韓国の新聞のインタビューでも、『自分はキーセンに売られた』と言っていたのです」(明日への選択2007年5月号)

▽「金氏がキーセンとして売られたことも書いていない。…あえて『キーセン』のことを書かないことで、強制連行をより強調したかったのか、誤報というよりも、明らかに捏造である」(中央公論2014年10月号=甲6)

明らかになった事実A

「親に身売りされて慰安婦になった」という表現は、金さんの訴状(甲16)にも、韓国紙の記事(甲67、西岡氏の翻訳=甲67の2)にもない。金さんがキーセン学校に入ったことと慰安婦にされたことは関係ない。

金学順氏は「養父は(日本軍)将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかへ連れさられてしまった」(乙10)、「姉さんと私は別の軍人たちに連行されました。…私たちにそのトラックに乗れと言うので乗らないと言いましたが、両側からさっとかつぎ上げられて乗せられてしまいました」(乙19)と明言しており、「日本軍によって戦場に連行されて慰安婦にされた」ことは明白。

西岡氏は、金さんは「親に身売りされて慰安婦になった」、「四十円でキーセンにうられた」と主張。論拠として、月刊『宝石』の臼杵敬子氏論文(1992年2月号=乙10)と『未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集1』に掲載された金学順氏の証言(乙19)を提出した。しかし、キーセン養成学校に通ったのは14歳の時で、慰安婦にされたのは17歳の時。キーセンと慰安婦にさせられたこととは関係ない。

ウソその3


西岡氏の主張B

義母の裁判を有利にするために記事を書いた。

▽「原告は、韓国人である義母の起こした裁判を有利にする目的で、義母から便宜をもらい、金学順がキーセンに身売りされた事実を意図的に隠し、あたかも金学順が吉田清治証言のような強制連行の被害者であるかのごとく、事実を改ざんして意図的な捏造により記事にした」(『よく分かる慰安婦問題』増補版第3刷=甲3)

▽「原告のリーダーが義理の母であったために、金学順さんの単独インタビューがとれたというカラクリです」(「いわゆる従軍慰安婦について歴史の真実から再考するサイト」=甲4)

明らかになった事実B

植村記者が金学順さんの第一報を書いたときの団体は義母の団体(遺族会)とは関係ない別団体。朝日新聞の第三者委員会報告書(甲64)は、「義母を利する目的」や「捏造」との説を否定している。

 まず植村氏が1991年に金学順さんの情報を聞いたのは義母からではなく当時の朝日新聞ソウル支局長からだった(MILE1991年11月号=甲13、小田川興・元ソウル支局長の陳述書=甲57)。金学順さんの第一報を書いたとき聞き取りをしていた団体は「韓国挺身隊問題対策協議会」で、義母の団体「太平洋戦争犠牲者遺族会」(遺族会)とは関係ない別団体だった(甲9=文芸春秋2015年1月号、義母の梁順任氏の陳述書=甲158)。誤りを指摘され、西岡氏は訂正したとしている(正論15年2月号=甲107、正論15年3月号=甲108)。

朝日新聞の慰安婦報道を検証した第三者委員会は報告書(甲64)で「植村の取材が義母との縁戚関係に頼ったものとは認められないし、同記者が縁戚関係にある者を利する目的で事実をねじ曲げた記事が作成されたともいえない」(42ページ)と書き、「義母を利する記事」との説や、植村記者の記事が捏造であるとの説を明快に否定した。
https://sites.google.com/site/uemuraarchives/nishioka201809


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600. 中川隆[-12776] koaQ7Jey 2019年1月23日 18:32:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22228] 報告

2018年9月27日

西岡氏に批判広がる


本人尋問で重要な証拠の改変や誤りを認めた被告西岡力氏への批判がネット上で広がっている。きっかけは、週刊金曜日が26日に「週刊金曜日オンライン」で公開した記事。「西岡力氏が自らの捏造認める」との見出しで、本人尋問の重要なポイントを報じている。この記事はすぐにYahoo!ニュースに転載され、さらにツイッターで拡散が始まった。ツイッターには、本人尋問を終えて東京地裁を出る西岡氏の姿をとらえた写真も貼りつけられていて、「西岡劇場」の様相を呈している。

『朝日』元記者・植村隆裁判で西岡力氏が自らの「捏造」認める | 週刊金曜日オンライン

http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2018/09/26/antena-332/

以下は9月26日午後3時現在の#西岡力についてのタイムラインからの抜粋である。このほかに、中島岳志、平野啓一郎氏らの本文なしリツイートも多数ある。

※抜粋にあたっては、ツイート本文の一部を削ったものもある。
https://twitter.com/search?q=%EF%BC%83%E8%A5%BF%E5%B2%A1%E5%8A%9B&src=typd

■望月衣塑子

めちゃくちゃである。何の学術的裏付け、根拠もないまま植村氏を批判。結果、植村氏や家族や大学は誹謗中傷、脅迫に晒され続けた。その罪はあまりにも重い
■佐藤 章
この裁判記事によれば西岡力はほとんど捏造じゃないか。自分が捏造しておいて他者を捏造呼ばわりするのは学者として人として失格だろう。恐らくは櫻井よしこもそうだろう。植村隆は捏造などするような人間ではない。西岡と櫻井は、記者会見を開いて謝罪すべきだ。

■masa

慰安婦問題を少しかじったら誰もが知ってる名前だろう。そして、裁判で捏造を認めた、この人物は北朝鮮拉致被害者の「救う会」の会長でもある。では「家族会」は?一緒に多くの集会を開いているだろうから、YouTubeででも確認するとよいかもしれない。

■細かい情報‏

西岡氏はまた、元「慰安婦」の証言集は読んでおりながら、「挺身隊」名目で「慰安婦」にさせられた韓国人女性の証言は「覚えていない」とし、自らの主張と異なる最新の調査・研究結果も読んでいないと答えた。

■まりーべる321

#ヤフコメ が酷いですね。 #ネトウヨ さん達、いい加減にして欲しいです。

■World Peace Productions

#西岡力 本当に学者なのか?恥を知れ嘘つき野郎

■Hiroshi Takahashi

櫻井よしこさんも自分がウソ吐いたのを白状したし、西岡力さんも自分がウソ吐いたの白状したし、阿比留瑠比さんも自分の矛盾をアウェーの植村隆さんに突っ込まれて白旗上げたし、これだけウソ吐きのウソがばれてるのに、ウソを信じたい人たちは目を覚まさないんだよなー。


■佐藤 章‏
植村隆はぼくの昔の同僚だが、捏造などするような人間では決してない。人間である以上細かいミスはあるだろうが、優秀なジャーナリストであることは間違いない。捏造は、櫻井や西岡である。お仲間の杉田や小川のレベル、人間性を見てもよくわかる。
■渡辺輝人
酷いな。歴史修正主義って、日本語だと、修正なんて生易しいものじゃなくて、歴史の意図的改ざんなんだよね。

■ Hiroshi Takahashi

櫻井よし子に続いて右派の連中、ボロボロやんかw。

■想田和弘

シャレにならんな。→『朝日』元記者・植村隆裁判で西岡力氏が自らの「捏造」認める

■ソウル・フラワー・ユニオン‏

西岡力。櫻井よしこといい阿比留瑠比といい、嘘をつきまくって結局白旗。汚辱にまみれたカルトの不誠実な人生。

■能川元一

西岡力も櫻井よしこも、実に軽々しく「捏造」という非難を他者に浴びせてきたから、自分たちのミスを「捏造」呼ばわりされても自業自得なんだよね。

■宋 文洲

嘘吐きはウヨの始まり

■m TAKANO‏

植村隆裁判で、事実に基づいた緻密な追求によって櫻井よしこに続いて西岡力も白旗を揚げざるを得ない状況に追い込まれた。いわゆる右派論客こそ捏造だらけであることが、この裁判を通じて明らかにされた。

■北丸雄二

「慰安婦」問題否定派の旗手である麗澤大学客員教授の西岡力、捏造だったって。

■森達也(映画監督・作家)

ここまでの展開はさすがに予想できなかった。思想信条は違っても尊敬できる人であってほしいのに、下劣すぎる本質がどんどん顕わになる。

■tany

<西岡氏が、いくつかの重要部分について「間違い」を認めた> って、間違いじゃなくて<嘘をついた>だよね。 櫻井よしこやネトウヨはどうするんだろう。

■hiroshi ono

なんか、最近YuTubeでも歴史改ざんやヘイトまき散らす(自称)保守系ネット番組が相次いで締め出されたり、新潮の雑誌が休刊に追い込まれたり、櫻井よし子や今回の西岡力が裁判で自ら捏造デマ流してたこと認めたり、潮目が変わって来た感じ。日本の自浄作用に期待します。

■西大立目‏

結局「捏造」してるのは朝日叩いてる連中なんですよね。 小川榮太郎とか櫻井よしことか西岡力とか そしてコイツラは未だに「保守論壇誌」だの「産経新聞」だので朝日叩きのお仕事継続中

■デマを生む人信じる人の思考回路研究‏

「慰安婦問題」を否定する人々の拠り所とされてきた西岡力氏の言論。西岡氏は、元朝日新聞記者の植村隆氏の書いた慰安婦記事は捏造だ〜と言い続けてきた。しかし実際は逆で、西岡氏の方が自らの言論に都合よく事実を捏造していたことを東京地裁で認めた。

■you u you

これホントだったら大変なことだと思うんだけど。植村さんを叩いている人達は西岡さんに事実確認したほうがよくない?

■Kawase Takaya

人を嘘つき呼ばわりしていた奴が本当に嘘つきだった。これで事の理非が分からなければ、病膏肓に入るとしか。

■スワローヲタフク

西岡力って、確か「救う会」の会長で、アベのブレーンだよな。まさに、アベ政権に「巣食う会」になりましたとさwww

■河原 淳

櫻井よしこに続いて西岡力もー。 安倍首相を取り巻く右派論客のウソが次々に暴かれている。平然とウソをつき、他人を容赦なく攻撃し排斥する。安倍首相にも通じる。

■akabishi2‏

司会は櫻井よし子。救う会会長は西岡力。植村裁判で実質的に「捏造」を認めた2人が、拉致被害者の運動に深く関わっているのは偶然でもなんでもないことは、普通に考えればわかることなのに、誰もそのことを口にできないし書けないもんなー

■清水 潔‏

おいおい。 西岡氏は、植村氏の記事に対し「名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。捏造記事と言っても過言ではありません」とコメント。 しかし尋問で問われると、「記憶違いだった」と間違いを認めた。

■T−T‏

櫻井よしこも西岡力も裁判でデマを認めて、いま沖縄知事選でデマが飛び交っていると問題になっているけど与党候補からはデマで困っているという声は出ていないということ。

■藤井 太洋

慰安婦=プロの娼婦説の引き金を引いた西岡力が、発端となった記事の捏造を認めたのか。大きな一歩になるな。 そもそも慰安所にはプロも、騙された人も強制連行された人もいたのだろう。だからといって移動の自由がない戦地の慰安所に収容していいわけがないのだ。

■河信基

この男が横田夫妻を操り、拉致問題を10年間拗らせた張本人。廃刊になった新潮45の常識外に偏った常連寄稿者の一人でもある。

■宿坊の掲示板ほぼbot‏

「慰安婦」問題否定派の旗手である西岡力氏。彼の論考や発言は、櫻井よしこ氏をはじめ、右派言説の論理的支柱となり、影響を与え続けてきた。その西岡氏が9月5日に東京地裁で尋問に答えた内容は、彼らに失望と嘆息を与えるかもしれない。西岡氏が、いくつかの重要部分について「間違い」を認めたからだ

■Veem.atomic‏

朝日新聞の慰安婦問題、結局は捏造ではなくて、捏造だと言ってた西岡力氏が、否定の根拠を捏造(記憶違い)だと裁判で認めた訳だ。 朝日を責めてた人達、これからどうするんだろ? 謝罪するのかな?

■ウツボマン

しかし、安倍応援団、ひどいね。百田尚樹に青山繁晴、櫻井よしこに西岡力。小川榮太郎に山口敬之、竹田恒泰。よくもこれだけのメンバーを集められるもんだ。

■川上 哲夫

元朝日新聞記者・植村隆さんの、元「慰安婦」記事を「捏造」と週刊誌に書いた西岡力の記事こそが【捏造】であったことを本人が認めた。仕方なく認めた

■toriiyoshiki‏

「金曜日」の記事を読んで思うのは、西岡力氏の学者・研究者・言論人としてのモラル崩壊ぶりである。自説を補強するため、新聞記事のありもしない一節をでっち上げるなど、あってはならないこと、人並みの良心さえあればとても考えられないことである。

■toriiyoshiki

朝日新聞の従軍慰安婦についての記事を「捏造」だと非難してきた御本人が、自らの論拠が事実上の「捏造」だったことを認めるに至ったお粗末の顛末。これは裁判記録として残るから、もう言い抜けはできまい。

■ryozanpaku

『植村氏が起こした民事裁判で、西岡力氏は今年9月5日、植村氏を批判する根拠としていた元「慰安婦」の訴状と韓国紙の記事について、そのいずれも引用を誤っていたうえ、自らが記事を改竄していたことを認めた。植村氏の記事が「捏造だ」という主張はもはや根拠を失っている。』 西岡、謝れ!

■Joshua Martin あたま抱え中‏

2014年当時、西岡力に私もすっかり騙されていた。

「名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。」→嘘でした!

「私は40円で売られて、キーセンの修業を何年かして、その後、日本の軍隊のあるところに行きました」→加筆捏造でした!

■ウツボマン‏

こんな記事までチェックしてるのに、西岡力と櫻井よしこの嘘がバレたことに対するコメントはまだですか?

■二宮力

西岡力氏が救う会の会長だからな。拉致問題は解決しないよね。させるつもりもないのだろう。

■盛田隆二

「慰安婦」問題否定派の旗手・麗澤大学教授の西岡力氏。氏の論考は櫻井よしこ氏をはじめ、右派言説の論理的支柱となってきたが、その西岡氏が『朝日』元記者・植村隆裁判の尋問で、自らの「捏造」を認めた。 ――植村氏の記事を「捏造」呼ばわりした西岡氏が「捏造」していた。

■michi-to‏

西岡力が自らの捏造(従軍慰安婦は日本軍の強制ではなく親に売られたという嘘)を認める。嘘ネタで慰安婦を誹謗した櫻井よしこ、百田。慰安婦に謝れ。

■根村恵介‏

レイプジャーナリスト、捏造記者、ウヨクエンタメ作家、お追従評論家…安倍晋三のまわりはいかがわしい人物だらけ。

■朝守飛阿弥

「「私は40円で売られて、キーセンの修業を何年かして、その後、日本の軍隊のあるところに行きました」という、元の記事にない文章を書き加えていることを指摘されると、「間違いです」と小声で認めた」…お粗末。

■名もなき投資家(一般市民)

【「慰安婦」問題否定派の旗手である麗澤大学客員教授の西岡力氏。彼の論考や発言は、国家基本問題研究所理事長の櫻井よしこ氏をはじめ、右派言説の論理的支柱となり、影響を与え続けてきた。(略)西岡氏が、いくつかの重要部分について「間違い」を認めた】 自称愛国者達の精神的支柱が崩壊

■結城秀二郎‏

慰安婦問題をめぐっては、さきに櫻井よしこ、最近では西岡力。いずれも裁判で敗訴、ねつ造告白。船橋市西図書館は、歴史修正主義の本を、とにかく処分してほしい。差別や偏見まるだしで、公営図書館の歴史書として置くわけにはゆくまいと思われる。

■雪之丞‏

この 西岡力 (拉致被害者救う会会長)とか、杉田水脈(新しい歴史教科書をつくる会理事) を擁護した 藤田信勝(新しい歴史教科書をつくる会副会長) とか、全員歴史歪曲派であることに注目しよう

■双極鑷子‏

「西岡力氏が自らの「捏造」認める」櫻井よし子と同じ、偽証罪の懲役を恐れたんだよね。今の社会なら、デマ屋として今までどおり生きていけるからなあ。

■Tommy‏

「『慰安婦』なんて捏造ダー」系の皆さんが、とても困ったことになってしまった。捏造と主張してきた西岡力が自らの捏造を認めてしまったのだから。とは言え、そういう人達がこれで考え方を変えるとも思えないが

■とも

ダブルスタンダードがダメなのは当たり前、嘘や捏造偽造がダメなのも当たり前、西岡力さんのように自分の主張を有利にするために文章を書き換えるのもダメなのは当たり前、人間を生産性がないなどと切り捨てるのがいけないのも当たり前。意見が違った相手でも思いやりを持つのも当たり前。

■アオイ模型:自宅療養中

「捏造」を主張していた側が「捏造」してたという、ありがちな展開。けど、今後もこれが「事実」として叫ばれ続けるんだろうね

■Noby Lucha Libre‏

西岡力や櫻井よし子や阿比留瑠比などが捏造と主張している内容はそれ自体が捏造。「この人はウソつき」というウソ。だまされた人々は怒りの矛先を不誠実な連中に向けるべきだろう。

■水谷千春

西岡力はあの八木秀次と同じ麗澤大学なのか。知らなかった。

■nitonasuk‏

こんな連中が関与すべき話では無い。繊細な問題だしナショナリズムを背景に解決できる問題でも無い。イデオロギー的に中立な両国の学者が時間をかけ解決すべきだ。

■適菜収。完全bot。

アホくさ。。でも、「捏造」を認めただけ、自称文芸評論家の小川榮太郎よりはマシだよね。

■中野昌宏 Masahiro Nakano‏

こういう結末。当然ですね。

■相原たくや

捏造を認めたということは、詐欺師であることを認めたわけである。全面的な謝罪の上で、筆を折るべきだろう。

■sara-K-HMJ‏

櫻井よしこや西岡力が故意に「親が売った」というデマを吐き被害者を貶めバカウヨがSNS上で蔓延させた。今もそのデマを根拠に被害者攻撃は続いている。安倍晋三や駐米大使もそのデマと同類の発言をしている。コイツラにきっちり責任をとらせろ

■omelette

【「私は40円で売られて,キーセンの修業を何年かして,その後,日本の軍隊のあるところに行きました」という元の記事にない文章を書き加えていることを指摘されると,「間違いです」と小声で認めた。】 元の物に無い文を勝手に作るのは、「間違い」ではなく、「捏造」

■能川元一‏

あの二人はなにか勘違いしたとか筆が滑ったとかであんなこと描いてるわけじゃない。あれは二人の世界観そのものなんだから。櫻井よしこや西岡力があれだけ法廷でド詰めされても「捏造記者」呼ばわりを謝罪もせず撤回もしてないのを見ればわかるじゃん。

■エリン

この 西岡力 って奴のデマに、脊髄反射で共感したのが 櫻井よしこ らであり、加害に加担した罪は大きい。西岡氏は大学教授を辞し、櫻井よしこは物書きとして筆を折るべきだ。

■もぎたてのいとうじん

なんだか、とてもいい加減だね。となると、この人の一部始終、信頼に値しない…と考えるべきじゃないかな。

以下略
http://sasaerukai.blogspot.com/2018/09/blog-post_27.html

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

601. 中川隆[-12401] koaQ7Jey 2019年2月05日 21:27:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告
2017年には強制連行についての新資料が見つかっています。

http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/193/meisai/m193164.htm

http://tamutamu2015.web.fc2.com/iannfusiryou2017koubunsyokan.htm


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国立公文書館から内閣官房副長官補室が2017年入手した「慰安婦」関係文書に関する質問主意書と答弁書
http://tamutamu2015.web.fc2.com/iannfusiryou2017koubunsyokan.htm

慰安婦「連行」文書提出 公文書館、内閣官房に

「慰安婦」資料に“強制連行” 「ご指摘のような記述」

紙氏質問主意書に政府回答

 安倍内閣は、日本軍「慰安婦」問題に関連する182点の資料を国立公文書館から新たに入手したことを認め、資料の中にある強制連行をしめす具体的な記述について、「ご指摘のような記述がされている」との答弁書を閣議決定した。日本共産党の紙智子参院議員の質問主意書への答弁。

 政府が認めた具体的な記述は、東京裁判やBC級戦犯の裁判記録の一部で、次のようなものです。

 「偽組織人員を利用し工場設立を宣伝し四方より女工を招致し麗澤門外に連れ行き強迫して妓女として獣の如き軍隊の淫楽に供した」(「桂林市民九名の宣誓供述書広西省」)

 「ある婦人と14歳になるその妹は、強制的に数週間、約50名の日本兵と雑居させられ、その虐待と暴行を受けました」(「カゾーラ・フエルナンの宣誓供述書」)

 「其の命により20名の少女・婦人等は自己の意思に基かずして(中略)慰安所に入所せしめたる上強制的に淫売婦たらしめたり」(「BC級ポンチャナック裁判・第13号事件」)

 政府の答弁書は「ご指摘の『「慰安婦」関係文書』は、いわゆる従軍慰安婦問題に関連する資料として初めて内閣官房に提出されたものである」とし、「ご指摘の『「慰安婦」関係文書』において、ご指摘のような記述がされている」と回答。6月27日に閣議決定しました。

 紙議員は、2月に国立公文書館がこれらの文書を政府に提出した後、文書の写しを入手。「『慰安婦』の強制連行を示す記述のある文書がない」としてきた政府にたいし、具体的な記述の有無を質問した。

 紙議員は「政府が、これらの記述を認めたことは問題解決の第一歩です。これが強制連行をしめす記述ではないというなら、強制連行とはどういうものなのか、説明するべきでしょう。高齢になった被害者たちのために一刻も早い解決をめざし、全力をつくします」と決意をのべた。


第193回国会(常会)

質問主意書

質問第一六四号

国立公文書館から内閣官房副長官補室が本年入手した「慰安婦」関係文書に関する質問主意書

右の質問主意書を国会法第七十四条によって提出する。

  平成二十九年六月十六日

紙 智子   

       参議院議長 伊達 忠一 殿

国立公文書館から内閣官房副長官補室が本年入手した「慰安婦」関係文書に関する質問主意書

第193回国会(常会)

答弁書

答弁書第一六四号

内閣参質一九三第一六四号

  平成二十九年六月二十七日

内閣総理大臣 安倍 晋三   

       参議院議長 伊達 忠一 殿

参議院議員紙智子君提出国立公文書館から内閣官房副長官補室が本年入手した「慰安婦」関係文書に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。


 内閣官房副長官補室は、本年二月三日に国立公文書館から十九簿冊、百八十二点の日本軍「慰安婦」関係文書(以下「「慰安婦」関係文書」という。)を入手し、その写しを本年四月二十四日に紙智子事務所が受け取った。それらの文書について、以下質問する。


一 内閣官房副長官補室は、本年二月三日に国立公文書館から「慰安婦」関係文書を入手したのか。

四 「慰安婦」関係文書は、いわゆる東京裁判およびアジア各地で行われたBC級戦争犯罪裁判の関係文書であり、全部で十九簿冊、百八十二点の文書であるか。

一及び四について

 御指摘の「「慰安婦」関係文書」については、平成二十九年二月三日に、独立行政法人国立公文書館から、いわゆる従軍慰安婦問題に関連する資料として、百八十二点の資料が内閣官房に対して提出されている。また、お尋ねの「いわゆる東京裁判およびアジア各地で行われたBC級戦争犯罪裁判の関係文書」の意味するところが必ずしも明らかではないが、当該資料には、極東国際軍事裁判所の裁判又はアジア等で行われたいわゆるBC級戦争犯罪裁判に関する記載が含まれている。


二 「慰安婦」関係文書は、「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」(以下「内閣官房長官談話」という。)の時には入手していなかった文書であり、政府による「慰安婦」に関する調査において初めて入手したものであるか。

二について

 お尋ねの「政府による「慰安婦」に関する調査」の意味するところが必ずしも明らかではないが、御指摘の「「慰安婦」関係文書」は、いわゆる従軍慰安婦問題に関連する資料として初めて内閣官房に提出されたものである。


三 政府は、「慰安婦問題については、政府において、平成三年十二月から平成五年八月まで関係資料の調査及び関係者からの聞き取りを行い、これらを全体として判断した結果、同月四日の内閣官房長官談話(中略)のとおりとなったものである。また、同日の調査結果の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかったところである」と閣議決定(以下「本件閣議決定」という。)を行っているが、内閣官房副長官補室が内閣官房長官談話の発表以降に入手した「慰安婦」関係文書も、本件閣議決定でいうところの政府による「関係資料の調査」の対象となるべきものであり、今後、「政府が発見した資料」の範疇に含まれるものと考えられるが、如何か。

三について

 お尋ねの趣旨が必ずしも明らかではないが、御指摘の「関係資料の調査」については、政府としては、これまで、平成四年七月六日と平成五年八月四日の二度にわたり、その結果を発表したが、事柄の性質上、その後も新しい資料が発見される可能性はあることから、そのような場合には、関係省庁等に対して内閣官房に報告をするよう求めており、御指摘の「「慰安婦」関係文書」も、その求めに応じて内閣官房に報告されたものである。


五 「慰安婦」関係文書には、次の記述があるか、以下質問する。なお、原文はひらがな表記に直し、人名を伏せ字又は記号とする。

1 (政府の通し番号二九の二)「桂林市民九名の(桂林市内に於ける日本軍残虐行為)宣誓供述書広西省」に「偽組織人員を利用し工場設立を宣伝し四方より女工を招致し麗澤門外に連れ行き強迫して妓女として獣の如き軍隊の淫楽に供した」との記述があるか。

2 (政府の通し番号三〇の二)カゾーラ・フエルナンの宣誓供述書に「各地ではフランス人女子に対する凌辱行為も若干行われました。ある婦人と十四歳になるその妹は、強制的に数週間、約五十名の日本兵と雑居させられ、その虐待と暴行を受けました。その一人は発狂しました。彼女達は二人ともその後処刑されました。また別の例では(中略)更にまた数地方では原住民女子は売淫行為を強制されました」との記述があるか。

3 (政府の通し番号三一の一二)「BC級(オランダ裁判関係)バタビア裁判・第25号事件(1名)」の法務省面接調査でバリ島海軍第三警備隊特別警察隊隊長からの聞き取りとして「私の一番恐れていた事件は、慰安所事件であった。これは慰安婦の中には、スラバヤから蘭軍下士官の妻君五人の外、現地人七十人位をバリ島に連れてきた件である。(中略)この外にも、戦中の前後約二百人位の婦女を慰安婦として奥山部隊の命により、バリ島に連れ込んだ。私は終戦後、軍需部、施設部に強硬談判して、約七十万円を本件の工作費として貰い受け各村長を介して住民の懐柔工作に使った。これが完全に功を奏したと見え、一番心配した慰安所の件は一件も訴えが出なかった」との記述があるか。

4 (政府の通し番号三三の一)「BC級(オランダ裁判関係)ポンチャナック裁判・第13号事件(13名)」の起訴状に「本被告は(中略)特警隊が強制売淫をなさしむる目的を以て彼女等の意思に基かずして少女婦人を拉致せるを黙認せり。(中略)又本被告は〇〇に対しカタバンの少女・婦人等をポンチャナックに連れて来り慰安所に入所せしむべく命じたり。其の命により二十名の少女・婦人等は自己の意思に基かずして(中略)慰安所に入所せしめたる上強制的に淫売婦たらしめたり」との記述があるか。

 (政府の通し番号三三の三の二)同事件の判決文に「第一被告はポンチャナック特警隊分遣隊隊長としTKTに依り犯罪行為が行われたることを知りいたる上、多くの場合に自ら命令を与えたり(処刑、及び慰安所用に婦女を探すこと)」との記述があるか。

 同判決文に「斯かる最大級の野蛮なる振舞いをしても住民を絶えず恐怖におののかしむには未だ足りずとて、敵は婦女子を慰安所にいれて之に売淫を強制することに依り犯罪を重ねたり」との記述があるか。

5 (政府の通し番号三五の二)「BC級(オランダ裁判関係)バタビア裁判・第69号事件(12名)」に「婦女達は交互にこの手術台に乗せられ一番検査に都合の良いやうな恰好をした。之を眺めているものが見て、大声で笑ひたてた。恐れと痛みから台から降りやうとすると、手荒く取扱はれた(中略)此の時〇〇の行動も極めて唾棄すべきものがあった。即ち、彼は煙草の火で陰毛や大腿部を焼いたりして、皆で大笑ひの種にした。(中略)三名の娘が失神したが、名は憶へていない。此の三名は正気づかせる為に打ち殴られたり、大声で怒鳴られたりした。既に第一日目である日曜日の午前中に十八名〜二十名の客がとられ、その上夜間にも仕事があった。月曜日の朝には既に数名の娘は起き上れず、歩けもしなかった。B姉妹は逃げ出して終った。然し、彼女達は火曜日の朝には警察の手に依って捕った。送り帰されて来てから、彼女等は裸にされ、洗濯夾を乳首につけられて、便所の掃除をさせられ、通りがかりの日本人から侮辱された。」との記述があるか。

6 (政府の通し番号三五の三六)前記第69号事件の判決に「被告は(中略)婦女子を抑留所より連行し之を慰安所に入れることが、たとえそれが自由意志にて行はれたにせよ、人道及び国際条約の侵反行為なりと悟る程には本件を深く考えざりき。(中略)(日本人)自らが設けたる抑留所の非人道的な悪状況(食料、宿舎)を利用して抑留所より志望者を募集すること自体が既に道義と人道に反する行為なるも、本件の場合はそれと共に又戦争の法規慣習に対する違反行為なり。更に「兵站係将校」」をも兼務しありたる被告は、斯かる計画を是認し、その計画に協力し、更に、本計画が如何に実行され、又その結果開設されたる慰安所が如何に経営せられたるやの監督を全く行はざりし事実に依り、犯罪行為に責任を負はざるべからず。(中略)被告は高級将校として和蘭人婦女子が一般的に、又、主義として日本人の慰安所に慰安婦として働くために抑留所を離るることを欲さざること及び斯かることは偽瞞乃至暴力を用ひて始めて可能なることを当然知りいたる筈なり。(中略)被告〇〇を強制売淫の為の婦女子の連行、売淫の強制、強姦なる戦犯行為に依り懲役15年に判決す」との記述があるか。

7 (政府の通し番号三六の七四)「BC級(オランダ裁判関係)バタビア裁判・第106号事件(1名)」の〇〇中将に対する「判決文」に

 「次の部下が下記の刑に処せられていることを考慮し、即ち

 a 強制売春の為の婦女子のら致、売春強制及び強姦罪で死刑

 b 強制売春の為の婦女子のら致、売春強制罪で懲役十年

 c 被逮捕者の悪待遇罪で懲役七年

 d 被逮捕者の悪待遇及び強姦罪で懲役十六年

 e 強制売春の為の婦女子のら致罪で懲役二年

 f 売春強制罪で懲役二十年

 g 売春強制罪で懲役十年

 h 売春強制罪で懲役十五年

 i 売春強制罪で懲役七年

 j 強制売春の為の婦女子のら致、売春強制、強姦罪で懲役十五年

 (中略)この本人の自由意志に反してキャンプから連れてきた婦女子を遊女屋に入れることを容認したと言うことは、婦女及び娘達は、自己の意志に反してスマランの遊女屋に入れられたものであり、又、〇〇一味に対する事件の審理の際にも既に明らかにされた如く、彼女等は、如何なる条件の下にも遊女屋を出ることは許されず監禁され、上記判決に証拠充分と認められ且つ本件においても右判決に基いて確実と見られているが如く或は強姦或は悪待遇で売春を強制されたことが判明している故に、同時に彼の部下が犯した「売春強制」、「被逮捕者の悪待遇」及び「強姦」と言う戦争犯罪を容認したと言うことにもなることを考慮し(中略)本判決の頭初に掲げた被告人〇〇に対し、起訴事実のうち、証拠不十分のものについては無罪を、証拠充分のものについては売春の強制、強姦、監禁した者の悪待遇なる戦争犯罪に有罪を宣告し、よって懲役十二年の刑に処す」との記述があるか。

  右質問する。

http://tamutamu2015.web.fc2.com/iannfusiryou2017koubunsyokan.htm


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602. 中川隆[-12398] koaQ7Jey 2019年2月05日 21:44:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

2018.10.2
右派論壇の一時の勢いに陰り、慰安婦訴訟で「訂正」相次ぐ
山田厚史:デモクラシータイムス同人・元朝日新聞編集委員+ 
https://diamond.jp/articles/-/180999


 旧日本軍による強制はあったのか――。従軍慰安婦を巡る論争は、いま法廷に舞台を移している。

 戦後の歴史観をめぐる「歴史戦」が、論戦から法廷での淡々とした証拠調べ、事実認定へと変わってきた中で、朝日新聞を「記事取り消し」に追い込んだ弾劾の急先鋒だった評論家・ジャーナリストの櫻井よしこ氏や問題の「火付け役」西岡力・麗澤大学客員教授が、逆に裁判で主張の誤りを追及され、不本意な訂正に追い込まれている。

 最近でも、「新潮45」が性的少数者であるLGBTへの差別問題で休刊に追い込まれるなど、右派論壇の勢いに陰りが見える中で、歴史戦も右派は最前線で押し戻され気味だ。

産経、櫻井氏の文章を訂正
“孫引き”だった慰安婦「証言」

 6月4日の産経新聞の看板コラム「美しき勁き国へ」にこんな訂正が載った。

訂正の内容はこうだ。

「平成26年3月3日の当欄に『この女性、金学順氏は後に東京地裁に訴えを起こし、訴状で、14歳で継父に40円で売られ、3年後、17歳の時再び継父に売られたなどと書いている。』とあるのを、『平成3年から4年に発行された雑誌記事、韓国紙の報道によると、この女性、金学順氏は14歳のときに親から養父に40円で売られ、17歳のときその養父によって中国に連れて行かれ慰安婦にされたという。』に訂正します」

 訂正された記事は、櫻井よしこ氏が2014年3月3日の「美しき勁き国へ」に載せた「真実をゆがめる朝日報道」と題する文章だ。

 慰安婦としての過去を証言した金氏を紹介した植村隆・元朝日新聞記者が書いた記事(1991年8月11日)を取り上げ、「捏造を朝日は全社挙げて広げたのである」と断罪した。

 櫻井氏は「この女性、金学順氏は後に東京地裁に訴えを起こし、訴状で、14歳で継父に40円で売られ、3年後、17歳のとき再び継父に売られたなどと書いている。植村氏は彼女が人身売買の犠牲者であるという重要な点を報じず、慰安婦とは無関係の『女子挺身隊』と慰安婦が同じであるかのように報じた」と「美しき勁き国へ」で主張した。

 ところが、「訂正」によると、継父ではなく養父に40円でキーセンにとして売られたことなどという記述は「訴状」ではなく、韓国新聞や日本の雑誌に書かれたことの「孫引き」と櫻井氏は認めた。

 元慰安婦が自ら訴状にしたためたことと、メディアに載った記事の引用では、主張の根拠の重みがまるで違う。

 この「事実誤認」は札幌地裁で進められている民事訴訟で植村氏が指摘した。櫻井氏は法廷後の記者会見で「率直に改めたい」と認めた(2016年4月22日)。

 ところが産経新聞は訂正を渋り、植村氏は17年9月、東京簡裁に調停を申し立てた。裁判所の調停ででやっと産経新聞は訂正に応じたが、櫻井氏が「誤り」を認めてから訂正が出るまで2年近くかかった。

 産経は、この事実誤認を認めたら「歴史戦の敗退」を印象付ける、と憂慮したのだろうか。

「強制連行」に触れず
「人身売買」を主張

 同様の訂正はワック出版が発行する月刊誌「WiLL」(2018年7月号)でも出された。櫻井氏が書いた「朝日は日本の針路を誤らせる」(2014年4月号)の訂正で、産経の正論コラムと同時期にほぼ同じ論評が載った。


櫻井氏は論戦の最前線に立っているが「後ろにいる参謀役は西岡氏」と植村氏側は見ているようだ。札幌での訴訟は櫻井氏と同氏が寄稿した新潮社、ワック社、ダイヤモンド社を訴え、東京地裁では西岡氏と文藝春秋社を訴えた。

 9月5日、東京地裁民事103号法廷で行われた西岡氏に対する被告人本人尋問で、植村氏の代理人、穂積剛弁護士が西岡氏に問いただした。

「あなたは週刊文春2014年3月13日号で、(元慰安婦の金学順さんは)『強制連行されたのではなく、親に身売りされて慰安婦になった』と言っている。貧困のためにキーセンに身売りし、義父に慰安所に連れて行かれたことがポイントになっているが、身売りは14歳の時、慰安所はその3年後。義父に連れていかれた時が大事なポイントではないですか」

 これに対し、西岡氏は「両方とも大事です」と答えた。

 そこで穂積弁護士は、西岡氏が証拠として提出している月刊誌「宝石」(1992年10月号、光文社・すでに休刊)の記事を示し、こう尋ねた。

「ここに『私たちは日本の兵隊に取り囲まれ、将校と養父の間で喧嘩が始まり「おかしいな」と思っていると養父は将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかに連れ去られてしまったのです』として、その後私は慰安所に連れていかれ日本兵の相手をさせられた』という証言が書かれています。義父が売り飛ばしたのではなく日本軍が奪ったのではないですか」

 これに対し西岡氏は「そう書いてあるが、本当かどうか裏付けを取らないとわからない。私はその可能性はかなり小さいと思う」と答えた。

 穂積弁護士が「日本軍が武力で奪ったことことが本質だと思うが、全くあり得ない解釈でしょうか」と、重ねて問うと、西岡氏は「あり得ない解釈とはいえない。当時はそう考えるのが多数派だった」と答えた。

 この証人尋問で、西岡氏は、「軍による強制連行」は多数派の認識だった、と証言したのだ。

 櫻井氏も西岡氏も「養父に慰安婦にされた」ことを、「人身売買であって、強制連行ではない」ことの証拠にしている。しかし両氏がその証拠として提出した雑誌には、養父は駅で日本の将校に脅されて連れさられ、自分たちは日本兵に慰安所に連れて行かれた、と書かれていた。

 西岡氏が証拠とした韓国紙ハンギョレ新聞にも、金学順さんの言葉として「私を連れて行った義父も当時、日本軍人にカネももらえず武力で私をそのまま奪われたようでした」と報じている。

 いずれも「強制連行」を示す記述には触れず、自分の主張に都合のいい箇所だけを摘み食いして、「人身売買」というストーリーを仕立てあげたとも見える展開である。


「宝石」の記事で、金氏が仲間と一緒に日本兵に連行されたと証言していることについて、西岡氏は「裏付けが取れない」と言う。そして「その可能性はかなり小さい」というが、それは西岡氏の勝手な主観だろう。

「強制連行はなかった」という結論が先にあって、自分の歴史観に合う都合のいい事実だけを取りあげるということなら、それは学者としての良心が疑われかねない。

 西岡氏も、櫻井氏と同様に雑誌などの「孫引き」を事実かのように述べた誤りを犯したことを、「記憶違いだった」「私の言葉で要約した」と認めた。そして訂正については「裁判が終わってから必要があれば考える」と述べた。

 だが「率直に改めたい」と潔かった櫻井氏に比べると、往生際の悪さが印象に残った。

「歴史観修正」に注力
朝日元記者を標的に

 東京と札幌で進められている慰安婦問題をめぐる2つの訴訟の争点は同じだ。

(1)慰安婦にされた金氏に対する軍による「連行」の事実はあったのか、(2)「女子挺身隊」という言葉は朝鮮で慰安婦を表す表現として使われていたか、(3)植村氏は義母の裁判を有利にするため記事を書いたのか、である。

 植村氏は西岡氏らから、韓国人である義母が関係する元慰安婦などを支援する団体の運動と絡めて非難された。義母が関係する運動を手助けするため記事を書いた、つまり金氏が親に売られて慰安婦にされたのに、女子挺身隊として戦地に連行されたと捏造したというのだ。

 今回の二つの訴訟は、記事を「捏造」したと名指しされた植村氏が、名誉回復を求め、自身に向けられた憎悪のような攻撃に反撃するために起こしたものだ。

 裁判では、金氏だけでなく軍が関与して慰安婦にされた人たちの事例などが、植村氏側から証拠としていくつも提出されている。

「挺身隊」は、日本では勤労動員などに使われているが、韓国では慰安婦を表す言葉でもあった。

 櫻井氏がキャスターを務めた日本テレビでも「女子挺身隊という名の従軍慰安婦」という番組を放送した(82年3月)。産経新聞も1991年9月3日の紙面で、「第二次世界大戦中『挺身隊』の名のもとに、日本従軍慰安婦として戦場に駆かり出だされた朝鮮人女性たち」と書いている。

 植村氏が金学順さんの証言を書いたのもこのころ。挺身隊という言葉は韓国で慰安婦と同義語だった。


植村氏の義母・梁順任さんは韓国の太平洋戦争犠牲者遺族会の役員をしていた。遺族会は金学順さんが日本政府を訴える賠償請求訴訟を支援したが、植村氏が最初に取材した当時は、金氏との接点はなく、訴訟の動きなどはなかった。

 植村氏が大阪社会部の記者として朝鮮問題に熱心であることを知っていた当時のソウル支局長が、金氏の証言テープがあることを伝え、取材させたと証言している。

 産経に集う右派論壇は、慰安婦問題を「歴史戦」と位置付け、戦後の歴史観の修正に力を注いできた。

 朝日新聞が、「済州島で慰安婦狩りがあった」という吉田清治氏の証言をもとにした82年9月の記事を「事実ではなかった」と取り消したことをきっかけに、「従軍慰安婦などなかった」という歴史修正の動きが力を増した。

 従軍慰安婦は儲かる仕事で、動機はカネだ。「強制連行」だとあおったのは朝日新聞で、歴史をねじ曲げた情報を世界に発信し、日本と日本人を卑しめた――。そんな言説が噴出した。標的が植村記者だった。

 金学順氏は、慰安婦とした初めて名乗り出て、顔をさらし悲劇を語った。生き証人の登場は「歴史修正」を目指す人たちにとって不都合だったのかもしれない。

 金氏は親に売られただけ。キーセンから慰安婦にされたのは養父のカネ儲けのためだ。挺身隊と慰安婦は関係ない。

 訴状に40円で売られたとあるのに、植村氏は記事で触れず、書かれてもいない「女子挺身隊として戦場に連行された」などと加筆した、と集中砲火を受けた。

右翼論壇の「やり過ぎ」
世論のバランス感覚が働く

 それだけではない。「週刊文春」は植村氏が朝日を退職して神戸松蔭女子学院大の教授になる、という情報を察知し「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」という記事を掲載(2014年2月6日号)。この中で西岡氏は植村氏の記事を「捏造記事と言っても過言ではありません」と述べている。

 記事の掲載に際して「週刊文春」は神戸松蔭女子学院大にこんな質問状を送った。

「重大な誤り、あるいは意図的な捏造があり、日本の国際イメージを大きく損なったとの指摘が重ねて提起されています。貴大学は採用にあたってこのような事情を考慮されたのでしょうか」

 この記事が出ると、大学に電話やメールが殺到した。植村氏は事実上の就任辞退を迫られたという。

 記事を書いた元文春記者の竹中明洋氏は東京地裁の証人尋問で「思った以上に反響が大きかった」と述べた。


大学を追われた植村氏には、朝日新聞記者時代から務めていた北海道の北星学園大学非常勤講師として迎えられた職だけが残された。

 竹中記者は「『慰安婦火付け役』朝日新聞記者はお嬢様大学クビで北の大地へ」と追い打ちをかけ、この時も大学に質問状を送り付けた。「大学教員としての適性には問題はないとお考えでしょうか」。

 記事は大学への攻撃に火をつけた。

「貴殿らは我々の度重なる警告にも関わらず、国賊である植村隆の雇用継続を決定した。この決定は、国賊である植村隆による悪辣な捏造行為を肯定するものだ」との書き出しで、学生や教職員に危害が及ぶことを警告する脅迫文書が送られるようになる。

 脅しは家族にまで広がった。長女の写真が実名といっしょにネットにさらされ、「必ず殺す。何年かかっても殺す。何処へ逃げても殺す。絶対にコロス」などの脅迫文が繰り返し届けられた。

 それから4年がたち、憎悪のごとく吹き荒れた右派論壇の足元で、その主張の根拠が訂正された。裁判の過程で「捏造」は言いがかりであることが明らかにされつつある。

 最近では、力を増す差別的言論に便乗した「新潮45」が杉田水脈議員(自民党)を担いでLGBTに対する不条理な言説で世のひんしゅくを浴びた。

 上滑り気味の右翼論壇の「やり過ぎ」に世論のバランス感覚が働いているようにも見える。時の勢いに乗った右翼の「歴史戦」もまた、押し戻されつつある。

(デモクラシータイムス同人・元朝日新聞編集委員 山田厚史)


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603. 中川隆[-10661] koaQ7Jey 2019年4月24日 04:03:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1406] 報告

2019.04.24
米支配層が維持しようとした天皇制官僚体制の恥部がひとつ明らかに https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904230000/

 インドネシアのバンカ島で日本軍の兵士は1942年2月、22名のオーストラリア人看護師を銃殺したという。海の中を行進させ、機関銃で射撃、ひとりを除いて殺害したのだが、その前に看護師は兵士から性的暴行を受けていたことを示す証拠の存在が明らかにされた。(​英語​、​日本語​)証拠を隠滅し、なかったことにするという手法は今でも使われている。NGT48のケースもその一例だが、隠しきれないこともある。

 日本のアジア侵略は1872年の琉球併合から始まるが、アメリカとの戦争は1941年12月7日の真珠湾攻撃から。1942年6月のミッドウェー海戦で日本の艦隊が敗北するまで日本側は勝ち戦だと考えていたようだ。そうした中、バンカ島での虐殺は引き起こされたことになる。

 外国へ攻め込んだ軍隊の兵士が女性に性的に暴行するという話はしばしば聞く。日本軍に限った話ではない。日本軍の特徴はブレーキがきかなくなることにあると言えるだろう。性的暴行への対策として日本軍が作り上げたのが慰安婦の仕組みだ。戦争経験者は次のような文章を残している。

 「日本軍は前線に淫売婦を必ず連れて行った。朝鮮の女は身体が強いと言って、朝鮮の淫売婦が多かった。ほとんどだまして連れ出したようである。日本の女もだまして南方へ連れて行った。酒保の事務員だとだまして、船に乗せ、現地へ行くと『慰安所』の女になれと脅迫する。おどろいて自殺した者もあったと聞く。自殺できない者は泣く泣く淫売婦になったのである。戦争の名の下にかかる残虐が行われていた。」(高見順著『敗戦日記』)

 「あえて言いますが、ほとんどの男は、とても自分の家族、自分の女房や子供たちに話せないようなことを、戦場でやっているんですよ。中国戦線では兵士に女性を●姦することも許し、南京では虐殺もした。そのにがい経験に懲りて、日本軍は太平洋戦争が始まると、そうしたことはやるな、と逆に戒めた。」(むのたけじ著『戦争絶滅へ、人間復活へ』岩波新書、2008年)

 「そこで、出てきたのが『慰安婦』というものです。その主体は朝鮮から来た女性たちでした。日本の女性も来ましたが、これは将校専用です。』(前掲書)

 「女性たちにここへ来た事情を聞くと、だまされた、おどされた、拉致された、というように、それは人によってさまざまだった。」(前掲書)

 「何人もの女性たちを船に乗せてインドネシアまで連れてくるためには、軍の了解が絶対に必要です。・・・やはり、慰安婦は軍部が一つの作戦としてやったことで、まったく軍の責任だった。」(前掲書)

 敗戦後、日本の将兵が戦場で行ったことを批判的に語るおとなもいたが、多くの「元兵士」にとって身に覚えのある話であり、口にすることはできなかっただろう。勿論、事実を否定することもできない。1945年に20歳代だった人は1975年でも50歳代だ。日本社会には戦場の記憶が鮮明に残っていた。荒唐無稽な話はできない。

 戦争経験者が少なくなるに連れ、妄想を平然と口にする人が増えてくる。メディアもそうした妄想の拡散に協力した。

 それでも慰安婦の存在を否定できないため、商売として行っているのだから問題がないと言う人もいるが、その考え方は日本人の堕落、退廃を示している。

 第2次世界大戦の前、JPモルガンの強い影響下にあった日本では新自由主義的な経済政策が採用され、庶民の生活水準は悪化し、東北地方では娘の身売りが増えた。欠食児童、争議なども社会問題になっている。こうした貧富の差を拡大させる政策を推進したのが浜口雄幸内閣だ。

 そうした政策に反発する人も少なくなかった。その結果、浜口首相は1930年11月に東京駅で銃撃されて翌年の8月に死亡、32年2月には大蔵大臣だった井上準之助が本郷追分の駒本小学校で射殺され、その翌月には三井財閥の大番頭だった団琢磨も殺された。井上は当時、日本でも最もJPモルガンに近いとされていた人物。団もウォール街と緊密な関係にあった。

 その年の5月には五・一五事件が引き起こされ、1936年2月には二・二六事件だ。血盟団にしろ、二・二六事件の将校にしろ、娘を身売りしなければならないような状況を作った支配層への怒りが行動の背景にはある。

 井上が殺された1932年に駐日アメリカ大使として日本へやってきたジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて緊密な関係にある。このことは本ブログで繰り返し書いてきた。グルーのいとこがジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥と結婚していたのである。しかもグルーの妻の曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーである。

 グルーは秩父宮、松平恒雄、徳川家達、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂、岸信介などと昵懇にしていたが、中でも親しかったのは松岡洋右。戦争が始まり、離日する直前にグルーが岸とゴルフしたことも有名な逸話だ。安倍晋三の祖父は大戦前からアメリカの支配層と親しかったのである。

 戦前の天皇制官僚システムはウォール街の影響下にあったわけだが、1933年から45年4月にかけての期間はウォール街と敵対関係にあったニューディール派がホワイトハウスで主導権を握った。ニューディール派の中心的な存在がフランクリン・ルーズベルト大統領だ。

 ルーズベルトが急死するとウォール街がホワイトハウスを奪還、ドイツのナチは救出され、日本の天皇制官僚システムは存続することになる。戦争責任も曖昧なまま幕引きになった。

 しかし、連合国の内部には天皇制官僚システムを破壊するべきだと考える人も少なくなかった。日本軍と直接戦ったイギリスやオーストラリア、そしてソ連。日本が降伏した直後はアメリカが日本をコントロールできる状態だったが、時間を経ればそうした国々の軍人や官僚が日本へやってきて民主化を要求、天皇制の廃止も主張する可能性が高い。それに留まらず、天皇の戦争責任は必ず問われる

 大戦後、日本占領の中枢だったGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の中にも天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張した将校が多かったのだが、焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。ビッターは闇ドルにも手を出していた人物で、CIAのエージェントだったと見られている。靖国神社とCIAには何らかの関係があるのだろう。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)

 ウォール街は日本を支配するシステムとして大戦前から天皇制官僚システムを使っていた。それを戦後も存続させるため、戦争責任の追及と民主化の推進という儀式を早く終わらせる必要があった。

 そこで1946年1月に戦争犯罪を裁くとして極東国際軍事裁判(東京裁判)を設立、48年11月に判決が言い渡されている。その年の12月23日に東条英機、広田弘毅、松井石根、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章が処刑されているが、これは「民主化」を演出するセレモニーにすぎない。本来なら処罰されて当然であるにもかかわらず被告席にいない人がいた。

 そして新たな憲法が制定される。その憲法は第1条から第8条で天皇制の存続を定めている。「象徴」という修飾語をつけてはいるが、天皇制の存続を謳っている。「戦争の放棄」を定めたその後、第9条だ。

 戦後日本の進む方向を決めたジャパンロビーの中心にはジョセフ・グルーがいた。内務官僚、思想検察、特別高等警察といった戦前日本の治安体制の中枢は戦後も要職に就いている。「国体」は護持されたのだ。

 バンカ島での出来事をオーストラリア政府が封印したのは日本の「国体護持」を望むウォール街の意向に沿った行動だと言えるだろう。その国体に関わる儀式が近く行われる。

(注)●は楽天による検閲
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201904230000/

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

604. 中川隆[-10660] koaQ7Jey 2019年4月24日 04:04:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1407] 報告
1942年に日本兵、豪の看護師21人を銃殺する前に何を 真実追求の動き(日本人は虐殺などしない??)
http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/630.html


 南京など虐殺事件は中国人などの捏造で、日本人は虐殺などしない誇り高い軍人だった、と言い張る層があるが。大戦中の大日本帝国軍の蛮行とされているはそれだけではない。真実を明らかにするには、当時の全ての証言と資料の発掘が必要だが。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(ここから)
2019年4月22日 15時59分 BBC News
1942年に日本兵、豪の看護師21人を銃殺する前に何を 真実追求の動き

*写真拡大
(画像)https://lpt.c.yimg.jp/amd/20190422-47986990-bbc-000-view.jpg
ギャリー・ナン、シドニー

第2次世界大戦中の1942年、オーストラリアの女性看護師の一団が、日本軍兵士たちによって殺害された「バンカ島虐殺事件」。いま、一人の歴史研究者が入手した証拠から、ある事象が浮かび上がりつつある。看護師たちは殺害前、日本兵たちに性的暴行を受け、オーストラリア当局がそれをひた隠しにしてきたというのだ。

「この真実を発掘し、ついに公表するには、複数の女性の力が必要だった」

軍事史を研究するリネット・シルヴァーさんがこう言う「真実」とは、1942年2月にインドネシア・バンカ島で、海の中へ歩かされ、機関銃で銃撃されたオーストラリア人看護師22人の身に起きたことを指す。看護師たちは1人を除いて全員殺された。

「それだけでぞっとした。でも、殺害前に強姦されていたなんて、語るにはむご過ぎる真実だった」。シルヴァーさんは、新著で詳しく書いた証言について、こう話す。

「オーストラリア軍の高官たちは、悲しみに暮れる遺族たちに、家族が強姦されていたという不名誉を与えたくなかった。恥ずべきことだと思われていたので。レイプは死よりもひどい運命と考えられ、ニュー・サウス・ウェールズ州では1955年まで(加害者が)絞首刑による極刑で処罰されていた」

●唯一の生存者
看護師のヴィヴィアン・ブルウィンクルさんは、虐殺事件で体に銃弾を受けたが、死んだふりをして生き延びた。ジャングルに身を隠し、やがて戦争捕虜となり、のちにオーストラリアへ帰国した。

第2次世界大戦後に開かれた東京裁判では、ブルウィンクルさんは強姦について「話すのを禁じられた」と、シルヴァーさんは言う。ブルウィンクルさんは2000年に死去したが、何があったのか、テレビキャスターに伝え残していた。シルヴァーさんが今回調べたのは、その内容だ。

「ヴィヴィアンは命令に従っていた」とシルヴァーさんは言う。「(強姦被害について黙ったのは)タブーというのもあったし、オーストラリア政府には多少の罪悪感があったのだろう。政府高官は、1942年の香港侵攻の際、日本兵がイギリス人看護師たちをレイプし、殺害したのを知っていた。それなのに、オーストラリア人看護師をシンガポールからなかなか避難させなかった」

オーストラリア政府によれば、虐殺の実行者は今も特定されず、「罪について何も処罰されていない」。

オーストラリア国防軍の報道官は、この性的暴行の訴えについて新調査に着手するかは、政府の判断次第だが、関係者の家族が、こうした犯罪調査の担当部署に「歴史的な新証言を提供することはできる」と説明する。

●何が起きたのか調査
シルヴァーさんのほかにも複数の女性が、看護師たちへの性的暴行の証拠を発掘した。テレビキャスターのテス・ローレンスさんと、伝記作家のバーバラ・エンジェルさんだ。

エンジェルさんは、ブルウィンクルさんが着ていた看護師の制服に残された、色違いの糸と銃弾の穴について調べた。

その結果、上半身のボタンがいったん引きちぎられ、後に(ブルウィンクルさんの死後、制服が展示された際に)、そこだけ違う色の糸で縫いつけられた様子がうかがわれた。

さらに、制服の2カ所に残る銃弾の痕(銃弾が入った時の穴と出た時の穴)がぴったりそろうには、ブルウィンクルさんの制服は腰のあたりで開かれ、前の部分が下がっていたはずだということも浮かび上がった。

ローレンスさんは2017年、ブルウィンクルさんから生前に打ち明けられたという話を報じた。それは、「ほとんどの」看護師が銃殺される前に「暴行された」という内容で、ブルウィンクルさんは、そのことを公表したかったができず、秘密はブルウィンクルさんを「苦しめた」と言っていたという。

シルヴァーさんはこのほか、バンカ島でマラリアの手当てを受けていた日本兵の証言にも言及している。その兵士はオーストラリアの調査官に、当時、悲鳴を聞いたと話した。また、兵士たちが「海岸で楽しんでいるところで、次は隣の小隊の番だ」と聞かされたと証言していた。

シルヴァーさんはさらに、看護師たちに起きたことの詳細を記録した文書から、重要な証言部分が抜き取られていたことも発見した。検閲があったとシルヴァーさんはみている。

その証言はジーン・ウイリアムズさんによるもので、東京裁判の豪州戦争犯罪局のために夫のハロルド・ウイリアムズ少佐がどのような調査を実施したかという内容だった。

豪ニュー・サウス・ウェールズ大学のピーター・スタンリー教授(軍事史)は、シルヴァーさんの主張は決して意外ではないと話す。

「この話が表に出るのをずっと待っていた。長年、うわさされていたし、ヴィヴィアンさんを知る元女性兵ちが私に話してくれたこともあった。第2次世界大戦中に香港やフィリピン、シンガポールで記録された、日本兵による性的暴行とも一貫性がある」

●軍の「人気者」
シルヴァーさんによると、オーストラリア人看護師たちは、虐殺される前の1941年までシンガポールで「何の悩みもない、幸せな人生」を送っていた。

「看護師たちは軍の人気者で、食事や酒をごちそうしてもらっていた」とシルヴァーさんは言う。「看護師たちは、平時の軍隊にありがちな、訓練中の事故や、自動車事故、マラリアといった問題に対応していた」

1941年12月8日、日本軍は真珠湾攻撃の数時間前にシンガポールに侵攻した。それを機に、看護師たちの人生は一転したとシルヴァーさんは言う。「看護師たちは、戦闘による負傷者の多さに圧倒された。シンガポールでは民家も病院として使われた」。

ブルウィンクルさんが1945年と1946年に話したいと思っていた「ありのままの真実」を伝えるのは、重要なことだとシルヴァーさんは言う。

「もし私がこの秘密を語らなければ、私自身も、沈黙の風潮と政府の圧力に加担して、加害者を守ることになってしまう」とシルヴァーさんは言う。「看護師たちの話を語る必要がある。それでやっと、彼女たちの正義が実現する」。

シルヴァーさんのもとには最近、看護師たちを個人的に知っているという人たちからメールが届くという。「寝た子を起こすなと言われるのではないかと少し心配していたが、私をけなすような内容のメールは1通も受け取っていない」。

オーストラリア戦争記念館(AWM)には、すでに看護師たちの虐殺についての展示はある。しかしシルヴァーさんは、性的暴行の訴えがあることも展示に反映してもらうよう希望している。

AWM館長のブレンダン・ネルソン博士はBBCの取材にこう述べた。「私たちは訴えを否定も軽視もしない。実際、戦争ではレイプや性的暴行が武器として使われることは知られている。しかしながら、事件の唯一の生存者であるブルウィンクルさんは約20年前に亡くなっていて、何が起きたのかわからないし、今後も確実に知ることはできない」。

●#MeTooと比べて

シルバー氏は性暴力被害への連帯を示す世界的な「#MeToo」の運動を意識しながら、次のように言う。「問われている社会的道徳観は同じだ。女性は何か発言したくても、待つよう強いられていると感じてきたし、犠牲者として責任があると思わされてきた。#MeTooはヴィヴィアンに、ついに告発する自信を与えただろう」。

「女性の歴史作家は一般的に、どれだけ銃が使われたかよりも、人間的な要素に興味を引かれる。女性は共感力がある」

今回の証拠を発掘した3人の歴史研究者が3人とも女性だったことが、そのことをよく示しているとシルヴァーさんは言う。「歴史(history)が『彼の話(his-story)』として語られるのをずっと聞いてきた。今回はその反対だ」。

(英語記事 A WW2 massacre and revealing 'an awful secret')
BBC News
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(ここまで)
 残念ながら行われてるのは事実の隠ぺいの方が多い。

■南京虐殺世界遺産に抗議の自民党・原田委員長が荻上チキのラジオで「虐殺は捏造」と断言! ネトウヨのデマ信じる浅薄ぶり晒す
http://www.asyura2.com/15/senkyo195/msg/418.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 10 月 24 日 21:00:05: igsppGRN/E9PQ


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605. 中川隆[-10441] koaQ7Jey 2019年5月01日 13:35:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1648] 報告

南京大虐殺や慰安婦強制連行を否定するチャンネル桜関係者や水島総社長の問題は

歴史学の研究者は全員極左なので言う事は一切信用できない

という判断をしていて、

西岡力や渡部昇一の様な詐欺師や田中英道の様なパラノイアのキチガイだけを出演させて嘘八百のデマを拡散している事なんですね。

南京大虐殺や慰安婦・徴用工強制連行は既に証明されていて否定できる筈もないのに、詐欺師の詭弁で視聴者を騙そうとしている。

そもそも、吉田清治さんの慰安婦強制連行の証言でも、歴史学会では疑っている人は昔から殆ど居ないのに、まだ詐欺師呼ばわりしているんですね:

経済ジャーナリスト・今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」
http://masato555.justhpbs.jp/newpage113.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

606. 中川隆[-10440] koaQ7Jey 2019年5月01日 13:47:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1649] 報告

チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html

従軍慰安婦問題で詐欺師 西岡力と櫻井よしこが流した悪質な嘘とデマ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/133.html

吉田清治が詐欺師だというデマを広めた秦郁彦は歴史学会では誰にも相手にされない、資料改竄・捏造の常習犯だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/136.html

今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」_ 吉田清治の話はやっぱり事実だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/132.html

従軍慰安婦は売春婦として認可されない 13才、14才から働き始めているので売春婦では有り得ない
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/137.html

朝鮮や中国からの徴用工が日本の職場でバタバタと死んでいった理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/134.html

チャンネル桜の常連の三橋貴明はチャンネル桜関係者の受け売りしかできないアホだった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/374.html

朝鮮人認定された天才ジャーナリスト 本多勝一 vs. 詐欺師の似非学者 渡部昇一
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/130.html

櫻井よしこ はその時点で一般大衆に受けそうな意見を受け売りしてるだけの無知蒙昧・無定見なオバサン
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/217.html

チャンネル桜や正論で大活躍中のアホ右翼・アホ陰謀論評論家 まとめ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/228.html

朝日新聞陰謀論 _ なんでもみんな朝日新聞が元凶だというアホ右翼の妄想
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/233.html

日本のアホ右翼は太平洋戦争はアジアを植民地支配から解放する為にやったというデマを流しているが…
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/157.html

世界に比類なき日本文化 _ 名誉白人認定されたいアホ右翼は欧米人に金渡して「日本スゴイ!」と言わせている
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/235.html

アイヌ人は先住民ではない、日本人は単一民族だというデマを撒き散らすチャンネル桜
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/323.html

こうしてベストセラーは創られる _ 「見計らい本」で書店にヘイト本が並ぶ現象が問題に
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/225.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

607. 2019年5月03日 17:44:32 : YXSoAYdZfM : SWhKQ0JyYjdtVWM=[69] 報告
ところで吉田氏が
「済州島で慰安婦狩りを行わなかった、別の場所だ」
「関係者に迷惑がかかるためフェイクを混ぜた」
と発言していたとされ、さらに長男(養子ではないと思われる)が
「当時済州島には行っていないと言っていた」と証言している件に関してはいかがお考えでしょうか?
608. 中川隆[-10365] koaQ7Jey 2019年5月10日 10:21:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1737] 報告

従軍慰安婦・南京大虐殺等の戦争犯罪の証拠になる公文書を米軍の占領前にすべて焼却させた元法相 奥野誠亮


敗戦時の公文書大量焼却事件の主犯は奥野誠亮である。

2016-11-27
史上最悪の証拠隠滅犯の死
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/11/27/141537


16日、奥野誠亮(元内務官僚・衆院議員・文相・法相)が死んだ。103歳だという。よくもしぶとく生き延びたものである。


朝日新聞(11/18):

奥野誠亮さん死去 文相・法相を歴任

(略)1963年、自治事務次官を経て、旧奈良全県区から衆院議員に初当選した。衆院議員を13期務めた後、2003年に90歳で引退した。国土庁長官だった88年、日中戦争について「日本に中国侵略の意図はなかった」と発言し、国内外で批判を浴び、同長官を辞任した。

毎日新聞(11/17):

奥野誠亮さん死去 筋金入りの保守派、ミスター内務省

(略)1938(昭和13)年入省。地方局事務官として戦争終結方針策定に当たり、内務省解体も体験し、自治事務次官から政界入り。連続当選13回で文相、法相、国土庁長官を歴任し、卒寿(90歳)で引退した。

 閣僚としての歴史認識をめぐる発言で時に物議をかもしたこともあったが、真骨頂は「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の会長としての活動と、自主憲法制定を求める運動。自著の回顧録のタイトル「派に頼らず、義を忘れず」をそのままモットーに万事に生涯無派閥を貫き「保守のバックボーン」ともいわれた。

 大いに存在感を発揮し筋金入りの右派だったが、決して硬直した右派ではなく、リベラルにも寛容な議論好きだった。(略)

 
朝日も毎日も、訃報でこの男の最も重大な「業績」を伝えていない。こちらは歴史を作ってきたどころか、貴重な歴史史料を抹殺し、正しい歴史認識の構築を妨害し続けてきた証拠隠滅犯なのだ。

読売新聞(2015/8/11):

占領前文書焼却を指示…元法相 奥野誠亮さん 102

(略)

 「総理(鈴木貫太郎首相)は戦争の終結を固く決意している。ついては内務省で戦争終結処理方針をまとめてもらいたい」。1945年8月10日朝、迫水久常・内閣書記官長から、内務省に極秘の要請があった。

 そこで、灘尾弘吉内務次官の命を受け、内務省地方局戦時業務課の事務官(現在の課長補佐クラス)だった私が各省の官房長を内務省に集め、終戦に向けた会議をひそかに開いた。

(略)

 もう一つ決めたことは、公文書の焼却だ。ポツダム宣言は「戦犯の処罰」を書いていて、戦犯問題が起きるから、戦犯にかかわるような文書は全部焼いちまえ、となったんだ。会議では私が「証拠にされるような公文書は全部焼かせてしまおう」と言った。犯罪人を出さないためにね。

 会議を終え、公文書焼却の指令書を書いた。ポツダム宣言受諾のラジオ放送が15日にあることも聞いていたので、その前に指令書を発するわけにはいかないが、準備は整っていた。

(略)

 15日は、正午の玉音放送の直後、私を含む内務省の4人で分担し、全国の地方総監府に公文書焼却の指令書を持って行った。

(略)

 奥野さんは鹿児島で特別高等警察(特高)課長などを務め、内務省に戻ると、公文書焼却の極秘作業に深くかかわるなどして終戦を迎えた。32歳だった。

 強く印象に残っているのは、自身が時折敬愛の念を込めて「天皇さん」と呼ぶ、昭和天皇の姿だという。

 「天皇さんはマッカーサー(連合国軍最高司令官)に対し、飢えた国民を救ってくれと求めた。そして、全国を歩き回り、我慢してくれと国民に呼びかけた。あの行動が、日本が再起する機会の一つになった」

 戦後は保守政治家になり、1世紀余を生きてきた奥野さん。「二度と戦争をしないのは大事なことだ」と平和の尊さを訴えている。

この国では、国家的重大犯罪の証拠を大量に抹殺した隠滅犯がそれをまるで手柄のように自慢げに語るばかりか、御用マスコミが当たり前のようにそれを紙面に載せて疑問も示さない。

奥野はさらに具体的な内容を1960年の座談会で語っている。


高文研 @koubunken
奥野誠亮死去。奥野ら旧内務官僚が1960年、総務省の自治大学校史料編集室で行った、8月15日・16日前後の公文書焼却をはじめとする敗戦処理について語り合った座談会の一部抜粋。(『ドキュメント 横浜事件』高文研刊から転載) pic.twitter.com/37kkqb2ddC
14:22 - 2016年11月18日

奥野 僕が思い出すのは、十五日の何日か前に、終戦処理の方針をきめなければいけないので……これは入江さんから伺ったのです、終戦になるのだと。(略)

 そのほか公文書は焼却するとかといった事柄が決定になり、これらの趣旨を陸軍は陸軍の系統を通じて下部に通知する。海軍は海軍の系統を通じて下部に通知する。内政関係は地方総監、府県知事、市町村の系統で通知するということになりました。これは表向きには出せない事項だから、それとこれとは別ですが、とにかく総務局長会議で内容をきめて、陸海軍にいって、さらに陸海軍と最後の打ち合わせをして、それをまとめて地方総監に指示することにした。十五日以降は、いつ米軍が上陸してくるかもしれないので、その際にそういう文書を見られてもまずいから、一部は文書に記載しておくが、その他は口頭連絡にしようということで、小林さんと原文兵衛さん、三輪良雄さん、それに私の四人が地域を分担して出かけたのです。それが何日に出発したかは覚えていないのですが……。

入江 十六日だと思います。

奥野 そのときわざわざ運輸省からパスまでもらって、上陸してきたのとぶつかったらこうこうしろということまで話し合いをして、各人が地域を分担して出かけていった。その結果軍の持っている物資が流され、文書は焼いてしまうということになった。(略)

奥野が主導したこの焼却決定の結果、ありとあらゆる犯罪の証拠が闇に葬られた。


能川元一 @nogawam
奥野誠亮が「焼いたw」と(いまだに)自慢話として証言している敗戦時の公文書隠滅だが、隠滅された文書の中には、日本軍「慰安婦」の総数や南京事件での捕虜殺害規模をいまよりは正確に推定する材料となったはずの文書が含まれていた可能性が極めて高い。
17:15 - 2015年10月19日


昼寝猫 @tcv2catnap
霞ヶ関のみならず中国、満州でも書類焼きまくった。特に東條内閣機密費や関東軍謀略の原資となった、アヘンな。大日本帝国最大級の外道官業の実態が闇に。
2:11 - 2016年11月19日

堀家康弘 @kounodanwawoma1
朝鮮総督府では敗戦直後に一週間もかけて、念入りに証拠文書が燃やされている。奥野元法相によれば「犯罪者を出さないため」
つまり、犯罪行為の隠滅がなされたのである。
14:36 - 2016年1月5日

ワイド師匠 @feedback515
朝鮮でも焼いた。僕の曽祖父が当時、朝鮮で手広く商売をしており、その中に大きなケシ畑もあった。今考えるとそれはアヘンの原料。大伯母(祖母の妹)の話では8/15の午後に大量の書類を焼却したという。ただその書類が何であったのか詳細は不明。https://twitter.com/tcv2catnap/status/799661247448784896


昼寝猫‏ @tcv2catnap
霞ヶ関のみならず中国、満州でも書類焼きまくった。特に東條内閣機密費や関東軍謀略の原資となった、アヘンな。大日本帝国最大級の外道官業の実態が闇に。
9:11 - 2016年11月18日

 
戦争犯罪を隠蔽し、戦争責任を否定することで日本を再び「戦争ができる国」にしようと画策し続けてきた奥野が「平和の尊さを訴えている」とはいったい何の冗談か。こんな男が何十年も国会議員をやり、文相や法相を歴任するのだから、国策企業も政治家も、何をやらかしても責任を取ろうとしないのは当たり前である。


名前は秘密 @assami7154
こういう歴史のうやむやが、結局、誰も責任を取らない体質となり、ひいては東電を生み、フクシマを招き、同じ構図で東京オリンピックや豊洲市場があるのです。結局は奥野がやった事は小さな縄張りの保守で国益の多大な損出、歴史的汚点
20:33 - 2016年11月17日

奥野は結局何ひとつ反省せず、どのような犯罪の証拠を焼かせたのかも白状しないまま死んだ。こういう者たちがのさばるのを許し続けてきた結果が今なのだ。
 
【2016/11/28追記】99さんからコメント経由で頂いたTV番組の画像の一部を貼っておきます。

奥野誠亮

70年経ってこの言い草。この無反省、傲岸不遜は、怪物的とでも形容するしかないですね。【追記終り】
 
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/11/27/141537


▲△▽▼

2018-05-04
日本政府の公文書隠蔽・廃棄・改ざん(要するに嘘つき)体質はあまりに根が深い
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/05/04/222222

■ 安倍政権だけの問題ではない日本政府の嘘つき体質

森友・加計学園問題や自衛隊のイラク・南スーダン日報問題が示すように、日本政府の公文書隠蔽・廃棄・改ざん体質は、安倍政権の下で極まっているように見える。

確かに、国会答弁で平然と見えすいた嘘をつき、嘘だという証拠を突きつけられてもまた別の嘘をついて誤魔化そうとする安倍政権の虚言癖体質は異常としか言いようがない。しかし、日本政府(単に自民党政権というだけでなく、中央官庁の高給官僚たちをも含めた行政府全体)の嘘つき体質は、安倍政権などよりはるかに以前からのものではないのか。

2001年に情報公開法が制定されて以来、開示請求した文書がことごとく全面黒塗りの「海苔弁」状態で出されてうんざりさせられた例は枚挙にいとまがない。

民主党・鳩山政権時には、沖縄の普天間基地問題をめぐって、外務省が県外移設は不可能とする「極秘文書」を捏造し、鳩山首相を騙して移設を諦めさせるという事件が発生している[1]。(結局この方針転換が原因となって鳩山内閣は総辞職に追い込まれた。)


 民主党政権時の2010年4月19日、防衛、外務の官僚たちが、官邸に鳩山首相を訪ねた。
 前年夏の総選挙で鳩山が唱えていた「米軍基地の沖縄県外への移設」についてレクチャーするためだ。

 官僚の一人は「アメリカ大使館と交渉した結果こうなった」と言って、3枚つづりの文書を鳩山に差し出した。

 文書のタイトルは「普天間移設問題に関する米側からの説明」。右肩には『極秘』の判が麗々しく押されている。

 “極秘文書”には米軍のマニュアルとして次のように書かれていた ―

 「航空部隊と陸上部隊の訓練の一体性を考えると、移転先は普天間から65マイル(105km)以内に限る」。

 沖縄全島は70マイル。沖縄以外はダメということだ。(移転先の候補にあがっていた)徳之島はあきらめろという内容である。

 「アメリカがそういう条件であれば、沖縄以外に持って行くことは不可能」。鳩山は県外移設を断念した。

(略)

 鳩山は決定打となった米軍マニュアルについて琉球新報に調べてもらったが、そんなマニュアルはどこにもなかった。

 極秘の指定期間は2015年4月18日。極秘が解除されたため、鳩山側近の川内博元衆院議員が外務省に問い合わせた。

 文書を扱う大臣官房総務課は「公文書ではない。外務省が作成したものかどうか分からない」と回答した。“極秘文書”はガセだったのである。

中曽根政権時代の1987年には、核兵器持ち込みに関する密約文書を公開しないよう、外務省が米側に要請するという事件も起っている[2]。


 【ワシントン山崎健】日本の外務省が1987年、米政府に対し、核兵器の持ち込みに関する密約を含む50年代後半の日米安全保障条約改定交渉など、広範囲にわたる日米関係の米公文書の非公開を要請していたことが、西日本新聞が米情報自由法に基づき入手した米公文書で明らかになった。密約などについて米側は要請通り非公開としていた。米公文書公開への外務省の介入実態が判明したのは初めて。

(略)

 文書によると、日本側が非公開を求めたテーマは(1)「核兵器の持ち込み、貯蔵、配置ならびに在日米軍の配置と使用に関する事前協議についての秘密了解」(2)「刑事裁判権」(3)「ジラード事件」(57年、群馬県で在日米軍兵士が日本人主婦を射殺した事件)(4)「北方領土問題」(5)「安保改定を巡る全般的な討議」。(1)(2)については「引き続き(公開)禁止を行使する」との結論が明記されていた。

 日米外交史に詳しい菅英輝・京都外国語大教授は(1)について安保改定時の「米核搭載艦船の通過・寄港を事前協議の対象外とした核持ち込み容認の密約」だと指摘。今も関連文書の一部は非公開だ。(2)は53年の日米行政協定(現在の日米地位協定)の改定時に、米兵らの公務外犯罪のうち重要事件以外は日本政府が裁判権を放棄したとされる問題とみられるという。

この密約について、当然歴代首相や外相は承知しており、事実を知りながら嘘の答弁を繰り返してきた[3]。


岡田克也外相は9日、日米の密約に関する外務省調査結果と有識者委員会の検証報告書を公表した。併せて公開された機密文書から、政府が1968年に核兵器搭載の疑いのある米艦船の寄港・通過を黙認する立場を固め、その後の歴代首相や外相らも了承していたことが判明。寄港の可能性を知りながら、「事前協議がないので核搭載艦船の寄港はない」と虚偽の政府答弁を繰り返していた。非核三原則は佐藤栄作首相の67年の表明直後から空洞化していたことになる。見つからなかった重要文書も多く、有識者委は破棄の可能性など経緯調査の必要を指摘した。

(略)

 この文書は歴代首相や外相への説明に用いられており、余白には当時の佐藤首相が読んだことや、田中角栄、中曽根康弘、竹下登の各氏らが首相在任時に説明を受けたことを示す記載がある。また、添付された89年のメモには、首相就任直後の海部俊樹氏に説明したと記されている。

(略)

 朝鮮半島有事の際に、在日米軍が事前協議なしに出撃できるとの密約についても、根拠とされてきた非公開の議事録の写しが見つかり、有識者委は「密約」と位置づけた。

■ 敗戦時の文書大量焼却以来の「伝統」か?

このような隠蔽・嘘つき体質の元をたどっていくと、まずは敗戦時の公文書大量焼却事件に行き当たる。主犯は奥野誠亮である。


能川元一 @nogawam
奥野誠亮が「焼いたw」と(いまだに)自慢話として証言している敗戦時の公文書隠滅だが、隠滅された文書の中には、日本軍「慰安婦」の総数や南京事件での捕虜殺害規模をいまよりは正確に推定する材料となったはずの文書が含まれていた可能性が極めて高い。17:15 - 2015年10月19日


堀家康弘 @kounodanwawoma1
朝鮮総督府では敗戦直後に一週間もかけて、念入りに証拠文書が燃やされている。
奥野元法相によれば「犯罪者を出さないため」
つまり、犯罪行為の隠滅がなされたのである。
14:36 - 2016年1月5日


この奥野誠亮は鈴木善幸内閣で法相を勤めている。
重大犯罪の証拠隠滅犯が司法行政のトップとなったわけだ。


■ 実は明治維新までさかのぼる?

とはいえ、日本政府のこうした嘘つき体質は敗戦前後から始まったものではない。戦前戦中はもっとひどく、政府はすべてを知りながら「臣民」には嘘ばかり吹き込んでいた。歴史の転機をなした重大事件について、たとえば1928年の張作霖爆殺事件が関東軍の河本大佐らによる犯行だったことも、1932年の柳条湖での満鉄線爆破が関東軍による自作自演の謀略だったことも、一般人民がその真相を知り得たのは敗戦後である。

南京大虐殺についても、政府首脳部は当然その事実を知っていた。当時外務省東亜局長だった石射猪太郎は次のように書いている[4]。


 南京は暮れの十三日に陥落した。わが軍のあとを追って、南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告が我々を慨嘆させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事の身辺が危いとさえ報ぜられた。昭和十三年一月六日の日記にいう。

 ◯上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ。

(略)
 私は三省事務局長会議で度々陸軍側に警告し、広田大臣からも陸軍大臣に軍紀の粛正を要望した。軍中央部は無論現地軍を戒めたに相違なかったが、あまりに大量な暴行なので、手のつけようもなかったのであろう、暴行者が、処分されたという話を耳にしなかった。当時南京在留の外国人達の組織した、国際安全委員なるものから、日本側に提出された報告書には、昭和十三年一月末、数日間の出来事として、七十余件の暴虐行為が記録されていた。最も多いのは強姦、六十余歳の老婆が犯され、臨月の女も容捨されなかったという記述は、殆ど読むに堪えないものであった。(略)
 日本新聞は、記事差止めのために、この同胞の鬼畜の行為に沈黙を守ったが、悪事は直に千里を走って海外に大センセーションを引起した。あらゆる非難が日本軍に向けられた。わが民族史上、千古の汚点、知らぬは日本国民ばかり、大衆はいわゆる赫々たる戦果を礼賛するのみであった。

そもそも、この国を不正義かつ無謀な戦争に引きずり込んだ政治家や官僚連中がまともな処罰もされずに復活を遂げたことが戦後の嘘つき政府の始まりなのだ。周知のとおり、東条内閣の商工大臣だった岸信介は敗戦からわずか12年で首相となった。その孫が安倍晋三である。

で、この戦前の嘘も、昭和になって急に始まったというわけではない。明治維新以来、政府の体質などずっと変わらなかったのだから、当然最初から嘘だらけだったのだ。

明治維新は、幕府を支持していた孝明天皇の不可解な「病死」(毒殺の疑いが濃厚)の後、15歳の若さで即位した明治天皇による「討幕の密勅」によって本格的に始動する。しかし、この密勅は偽造されたものだった[5]。


 これが慶応三(一八六七)年十月十三日のこと。十四日には前さきの権ごんの大納言正親町おおぎまち三条実愛さねなるが右の二人を召し、薩長両藩への「討幕の密勅」を下した(薩摩島津家宛ては十三日付)。これは慶喜が大政奉還の上表を提出した日でもあるから、奉還の動きと密勅降下の請願は舞台の表と裏で同時に進行し、ゴールに同着した形となった。
 これによって薩長は挙兵の大義名分を得た、と思う向きもあろうが、幕末史最大の問題点がここにある。討幕の密勅二通は同文で「詔みことのりす」と始まり、「賊臣慶喜を殄戮てんりく(誅殺)し速かに回天の偉勲を奏し」とつづいてゆく(原文は和風漢文)。「詔す」とあるからには天皇の発した詔書らしいが、辰筆しんぴつの日付もないし辰裁した印の「可」の字もない。摂政・大臣以下の連署もなければ「天皇御璽」も捺されていない、ないない尽くしの代物で、その写真版を見ると本文の次行最下部に「奉」とあり、三人の署名が並んでいる。
 正二位藤原(中山)忠能、正二位藤原(正親町三条)実愛、権中納言藤原(中御門)経之。「奉」とあれば天皇の意志を奉じた綸旨りんじのようだが、ならば文は三人称になるべきなのに「朕」という一人称が使われているので綸旨でもない(石井孝『維新の内乱』参照)。しかも三人の署名は同じ筆であり、今日、これらは岩倉が国学者玉松操に書かせたものと知れている。要するに岩倉と右の三人は大久保らから「相当の宣旨」がほしいとせっつかれ、偽文書を捏造して不敵にも密勅と騙ったのだ。

天皇の命令を記した詔書といえば、まさに公文書中の公文書である。明治政府の成立を可能にしたその公文書第一号がそもそも偽造だったのだ。そんなやり方で権力を握った連中やその後継者たちが隠蔽捏造にまったく躊躇しなかったのは当然と言えるだろう。

■ 明治維新どころではない。日本の歴史はその始まりから嘘だらけ

では、幕末維新期の「志士」たちが嘘つき日本政府の元祖・元凶なのか。

確かに、直接的にはそう言っていいだろう。しかし、公的記録を改ざんし、あるいは捏造するという手口自体はもっとはるかに古く、この国の歴史の黎明期から始まっている。

現存する日本最古の歴史書である古事記は712年、次の日本書紀は720年に成立している。ほぼ同時代に二種類の史書が作られた理由が不明である上、古事記は後の史書にその成立が記載されていないことから偽書説が唱えられたこともあるが、現在ではほぼ否定されている。

この古事記と日本書紀の内容は、全体としてはよく似ているが、いくつか重大な違いがある。

たとえば、景行天皇ことオホタラシヒコオシロワケ(12代)の九州大遠征。日本書紀によれば、景行は軍を率いて九州に渡り、ほぼ時計回りに九州を一周しながら多くの敵を打ち破る大遠征を行っている。日本書紀の記載のとおりなら、このときヤマト王権は初めて九州全土を支配下に収めたことになり、まさに赫々たる大戦果と言える。

図版出典:[6]

ところが、景行のこの重大な事績が、古事記には一切現れないのだ。古事記に出てくる景行の事績といえば、「田部たべを定め、また東あづまの淡あはの水門みなとを定め、また膳かしはでの大伴部おほともべを定め、また倭やまとの屯家みやけを定めたまひ、また坂手さかての池を作りて、すなはちその堤に竹を値ゑしめたまひき」という程度でしかない[7]。池を作って竹を植えたなど、どう考えても九州大遠征より優先して書くべきことではないだろう。

これは一体どういうことなのか。古田武彦氏が説明するとおり、実際に行われた大遠征を天皇家の史書である古事記が無視することなどあり得ない以上、日本書紀が話をでっち上げた(あるいは天皇家以外の史書から剽窃した)と考えるしかない[8]。


 (六)一番肝要の点、それはこの華麗な景行の九州大遠征譚が『古事記』に全く出現しないことである。これは記紀間の大矛盾だ。
 以上、この矛盾をいかに解くべきか。その根本は(六)にある。記紀いずれが原形、いずれが改変形か、という問題である。これに対するわたしの基本の立場は次のようだ。“記紀ともに、近畿天皇家内の成立である以上、天皇家にとって有利に加削することはあっても、不利に加削することはありえない”――この公理だ。
 そして右の有利、不利とは、もってまわった考察や、一部のインテりにのみ通じるような、うがった見方の類からではなく、万人に通ずる明々白々たる印象にもとづくものでなければならぬ。
 このような立場から見るとき、問題の景行の九州大遠征譚が、近畿天皇家にとって赫々たる大勝利譚であり、光栄ある大親征譚の形をとっていることは、疑いを容れない。
 これを記載した『書紀』の方が原形であるとすると、『古事記』の作者(伝承者・記録者等)がこれを削除したこととなる。これは先の公理によってみると、ありうることではない。
 これに対して『古事記』の方が原形とした場合、『書紀』はこれを付加・挿入したこととなろう。この方が、先の公理から見ると、ありうるケースである。
 以上の吟味によってみれば、景行の九州大遠征譚は、他からの挿入によるもの、そのように見なすほかはないのである。

この他にも、ヤマトタケルことヲウス(景行の子)による東北地方の蝦夷征伐、神功皇后ことオキナガタラシヒメ(14代仲哀の妻の一人)による九州筑後での征伐など、古事記には現れず日本書紀にだけ書かれている征伐譚が存在する。

私は、古事記は日本書紀の「ボツになった試作品」だと考えている。なぜボツになったかといえば、天皇家の支配を正当化するための嘘の程度が足りず、当時の権力者を満足させることができなかったからだろう。

千数百年の時を経ても、時の権力者の都合に合わせて記録を改ざんし、あるいは継ぎ合わせて辻褄を合わせる官僚たちの心根は大して変わっていないのではないか。まさに骨絡みの嘘つき体質と言うしかない。

[1] 『外務省と防衛省が首相をハメ、辺野古に戻させた』 田中龍作ジャーナル 2016/2/4
[2] 『外務省 核密約 米に非公開要請 「際限ない」米側不快感』 西日本新聞 2017/1/3
[3] 『核密約 歴代首相ら黙認 外務省極秘メモ公開』 朝日新聞 2010/3/10
[4] 石射猪太郎 『外交官の一生』 読売新聞社 1950年 P.305-306
[5] 中村彰彦 『幕末・明治の残照 86』 東京新聞 2017/10/1
[6] 古田武彦 『古代は輝いていた(2)』 朝日新聞社 1985年 P.118
[7] 武田祐吉訳注 『新訂 古事記』 角川文庫 1987年 P.110
[8] 古田 P.120-121

http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/05/04/222222  


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609. 中川隆[-9858] koaQ7Jey 2019年6月04日 22:40:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2573] 報告

河野談話を守る会のブログ 秦郁彦論説の嘘・デタラメ・捏造・歪曲・誤解
https://www.google.co.jp/search?hl=ja&ei=YnH2XP2CEYuymAWKkb2oDg&q=%E7%A7%A6%E9%83%81%E5%BD%A6%E8%AB%96%E8%AA%AC%E3%81%AE%E5%98%98%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%83%BB%E6%8D%8F%E9%80%A0%E3%83%BB%E6%AD%AA%E6%9B%B2%E3%83%BB%E8%AA%A4%E8%A7%A3%E3%80%80&oq=%E7%A7%A6%E9%83%81%E5%BD%A6%E8%AB%96%E8%AA%AC%E3%81%AE%E5%98%98%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%83%BB%E6%8D%8F%E9%80%A0%E3%83%BB%E6%AD%AA%E6%9B%B2%E3%83%BB%E8%AA%A4%E8%A7%A3%E3%80%80&gs_l=psy-ab.3...2930.2930..4643...0.0..0.173.173.0j1......0....1..gws-wiz.5PvrtoTbrew


河野談話を守る会のブログ 『慰安婦問題の決算』=秦郁彦は歴史学者の肩書を返上せよ!
https://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/66169965.html


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610. 中川隆[-9349] koaQ7Jey 2019年6月22日 20:38:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3138] 報告
自ら『主戦場』を宣伝してくれる右派出演者たち
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/06/22/191326


■ 映画『主戦場』の衝撃

日本軍性奴隷(いわゆる「従軍慰安婦」)問題を扱ったミキ・デザキ監督の『主戦場』が、ドキュメンタリー映画としては異例の大ヒットとなっている。

何も知らない日系米国人の若造など丸め込むのは簡単だと見くびった右派の「論客」たちが嬉々として言いたい放題しゃべりまくり、ついで彼らの主張が何の根拠もないデタラメであることが一つひとつ暴かれていくのだから何とも衝撃的だ。

いま、日本の中学教科書には、右派から集中攻撃を受けた学び舎のものを除いて、日本軍性奴隷問題は一切書かれていない。このため若い人たちの大半はこの問題自体を知らないか、知っていてもマスコミやネットからの影響で間違った認識を持っている。

しかしこの映画は、監督自身が対立する両派の主張を聞きながら真相に近づいていくという構成をとることで、そうした人々の心にも届く力を持っている。それがこの映画の凄いところだ。

■ 提訴で始まる第二幕

映画が公開されて初めて自分たちが何をやらかしたか気付いた右派は、上映差し止めと損害賠償を求める訴訟を起こした。

旧日本軍の慰安婦問題を取り上げたドキュメンタリー映画「主戦場」について、修士論文に使うためと言われ取材を受けた内容が、商業映画に使われたのは不当などとして、ケント・ギルバート氏(米国弁護士・タレント)ら5人が映画の上映差し止めと計1300万円の損害賠償を求める訴えを6月19日、東京地裁に起こした。

原告はほかにトニー・マラーノ氏(注:テキサス親父)、藤岡信勝氏、藤木俊一氏、山本優美子氏。これ以前に、抗議する共同声明に名を連ねていた加瀬英明氏と櫻井よしこ氏は原告にならなかった。

一方の被告は、同作の監督をつとめた日系アメリカ人のミキ・デザキ氏と配給会社。

●「極右」などレッテル貼られた

訴状によると、原告は、原告へのインタビューを学術研究と卒業制作のために使う旨の合意があったのに、デザキ氏はそれに違反し、商業映画として映画を一般公開したと指摘。承諾なしで配給されており、原告が有する著作権や肖像権を侵害しているなどと主張している。

そのうえで、映画の冒頭で、原告らは「歴史修正主義者」「極右」「性差別主義者」などのレッテルを貼られ、いわれなき誹謗中傷を受けたとし、「修復不可能なほどに名誉を毀損された。原告らは執筆・言論・教育活動などをしており、今後の活動への悪影響は計り知れない」とした。

しかし、この映画は彼らが言ってもいないことを捏造したり、発言内容を歪曲したりはしていない。十分な長さのインタビュー映像をそのまま使っているのだから、文脈を無視した発言の切り取りにも当たらない。これが誹謗中傷だと言うのなら、まともな倫理感を持った人に聞かれたら軽蔑されるような愚かな発言を彼らがしているというだけのことだろう。

また、映画の公開に関しても、デザキ氏は記者会見で出演者と交わした承諾書と合意書を示し、彼らが一般公開される可能性を知っていたと反論している。それどころか、ケント・ギルバートなど劇場公開前にツイッターで宣伝までしている。(このツイートについた数多くのリプライが笑える。)

どう考えても、この訴訟で原告に勝ち目はない。しかも、こうして訴訟になったことで『主戦場』はさらに話題を集め、ますます多くの人が観に行くことになるだろう。

では、どうして原告らはこんな訴訟を起こしたのか。多分、これだけのヘマをやらかした上、訴訟も起こさず「やられっぱなし」に甘んじていたら、「業界」に居場所がなくなってしまうからではないだろうか。あくまで自分たちの「顧客層」向けに、強がって見せるためだけの訴訟なのだ。

http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/06/22/191326


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611. 中川隆[-9329] koaQ7Jey 2019年6月23日 14:44:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3158] 報告

補給無視が略奪を生み、略奪が強姦・虐殺を生んだ
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/19/203639


前回記事
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/18/112919

でも書いたように、旧日本軍は大戦末期どころか日中戦争初期の段階でもまともな補給を行わず、飢えた兵たちが住民の食糧を盗んで腹を満たすしかない状態を放置していた。三好氏の部隊は10月中旬には予備隊となって後方に下げられたので厳しい飢えはおよそ一ヵ月半程度で終わったが、前線部隊では上海戦に続く南京攻略戦の過程でも大差のない状態が続いていただろう。

補給がなければ食糧は「徴発」と称する略奪に頼るしかない。そして兵たちが略奪に慣れ、それが当たり前の日常になれば、奪った者勝ちで必要以上に奪いつくすようになっていく。中国で日本軍は「蝗軍」とも呼ばれた。何年かに一度大発生して作物を食い尽くす蝗いなごの大群のように、日本軍の通った後には何も残らなかったからである。以下、南京攻略戦に従軍した兵士たちの陣中日記から、「徴発」関連部分を紹介する[1]。(注:日記の執筆者名はすべて仮名。カタカナ書きは平仮名に直した。)
 
近藤栄四郎(伍長)日記:


[11月16日] 途中敗残兵の屍体等参[散]見する、(略)支那民を使って荷物を負はせ服従しなければ直ちに射殺であるから仕方なくついて来る、でも処々に屍体あり、また行軍中も射殺実況を見た事も数度、戦敗国の惨。

 団子等して食ふ、途中食物や砂糖等徴発しての行軍等今日も八里位か。(P.320)

[11月21日] 今日も行軍、でも割合に昨日より道がよくてよかった、顧山鎮を通過して先きの部落へ宿営する、途中の町々の徴発には実際目を覆はしむるものあり、各部落の火災も其通り、人を殺傷するも其通り、敗残兵及其他の死体も相当見ゆ、精米所の建物の中へ宿り米には不自由なし、餅米もある粳うるち米もある。(P.321)

[11月22日] 今日は一日滞在である。午前中徴発の為町へ各分隊より出て行く、塩、醤油、甘藷等町の一軒へ徴発品を集積する。

 午后洗濯したり休養する、徴発品の分配もする。

 久しぶりに風呂入る、徴発のシャツで寒さも苦にならずよかった、(略)(P.322)

黒須忠信(上等兵)日記:


[11月22日](略)陳家鎮に午后五時到着、米味噌醤油等の取集めで多忙な位である、或は濡もち米を徴発或る者は小豆をもって来て戦地にてぼた餅を作っておいしく食べる事が出来た、味は此の上もなし、後に入浴をする事が出来て漸ようやく我にかへる、戦争も今日の様では実に面白いものである、(略)

[11月23日](略)午后四時南国に着す時に雪は少し降って来た、始めての雪である、暴飯[飲?]から腹をこわしたらしい、今后充分体の保養に務[努]めなければならない。

[11月25日](略)午后四時祝塘郷に着して宿営す、(略)我等五分隊二十四名は宿舎に着く毎ごと大きな豚二頭位宛あて殺して食って居る、実に戦争なんて面白い、酒の好きなもの思ふ存分濁酒も呑む事が出来る、漸く秋の天候も此の頃は恵まれて一天の雲もなく晴れ渡り我等の心持も明朗となった。(P.346)

[11月28日] 支那の学生軍らしきもの五名我が宿舎の前にて突殺す、自分も此の際と思ひ二回ばかり銃剣にて突き刺す、三十〆[貫]もある豚二匹並に雞にわとり三拾以上を我が×隊にて徴発おかずにして御馳走此の上もなし。(P.347)

宮本省吾(少尉)日記:


[12月7日] 午後五時、常州東方二粁の村落に露営す。

 給養は徴発に依る。

 豚、鳥、チャンチーの御馳走にて満腹となす。(P.132)

[12月12日] 本日は出発を見合せ滞在と決定す、早朝より徴発に出掛ける、前日と違ひすばらしい獲物あり、そうめん、あづき、酒、砂糖、鶏、豚、皿、ランプ、炭あらゆる物あり正月盆同時に来た様にて兵隊は嬉しくて堪らず、晩にはぼた餅の御馳走にて陣中しかも第一線と思はれぬ朗らかさである。(P.133)

高橋光夫(上等兵)日記:


[12月15日] 四時に竜潭に着す、この途中にて支那人二人を殺す、この日も夕食、朝食をうべく一里余部落に入る、聯隊中の食料を集めてきた、其の途中一方わ[は]水郷口月一方わ[は]川にて、ニーヤにちようはつ[徴発]品をおわせて、銃を片[肩]に故郷を望むも戦場の風景と思ふ、夜わ[は]なにかの工場に宿舎をとる。(P.289)

柳沼和也(上等兵)日記:


[12月15日] 其の辺の敗残兵を掃蕩に出て行ったが敵はなくして別に徴発して来た、支那饅頭うまかった、(略)(P.166)

近藤栄四郎(伍長)日記:


[12月16日] 午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く、そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る、丁度見本展の様だ、お蔭で随分酩酊した。(P.326)

柳沼和也日記:


[12月21日] 小隊は中隊の先[尖]兵として進んだが本道上の大きな橋が三つもこわれて居たので進軍に大きな支障を来たした、◯◯部落に入る、此の部落に入ると支那酒がうまかった。

[12月22日] 第七中隊は先[尖]兵中隊として一路全椒に向って行った、后[午]後二時に全椒に着いたが本隊の来るまで侍って居た、そして設営により好い家に入ったが六中隊と交代して別な家に入る、二階でかへって好い家だ、品物を徴発して又うまい御馳走もある。(P.167)

宮本省吾日記:


[12月24日] 滁県にて守備の説も当らず午前八時出発、滁県を後に全椒県に向ふ、風は肌に寒く行軍には良い日和である、途中雞にわとりの徴発物あり夜はしばらくぶりで雞汁を馳走になる(略)

[12月25日] 兵は馬並に野菜、豚の徴発に出掛ける、種々の御馳走を作る。(P.135)

遠藤高明(少尉)日記:


[12月27日](略)第一分隊に於て支那糯もち米を徴発、杵をつくり石臼にて餅を搗つきたり、志るこ雑煮を馳走になる。(P.221)

大した戦闘もなくほとんど行軍ばかりの追撃戦で、食い物でも酒でも奪い放題となれば、貧しい出身の兵たちにとってはそれこそ「実二戦争ナンテ面白イ」ということになるだろう。そして、徴発するには民家に踏み込むわけで、そこで略奪に抵抗などされれば殺し、若い女など見つければ強姦する、という結果になる。

南京占領から10日ほども経ってから、ようやく略奪や強姦、発砲(=殺人)を禁止する命令が出された。軍がわざわざこんな命令を出すということは、こうした非行がよほど目に余る状態になっていたということだ。
 
斎藤次郎(輜重特務兵)日記:


[12月22日](略)今日の目的地は滁より南方七、八里の全椒県、午后三時到着、住民は日章旗を振りかざし爆竹をあげて我が部隊を歓迎した、聯隊長よりの注意がある、「婦女子に対し暴行をせぬ事。徴発の際は相当なる代価を支払ふ事。みだりに発砲せぬ事等」、我が部隊も此の処に守備に就くらしい(略)(P.40)

宮本省吾日記:


[12月27日] 風寒し、午前八時半出発、江浦県に向ふ、(略)当街は今迄になく支那軍も日本軍も未だに入らず、営業も正午迄行って居る様で日本軍の到来にて驚き然し日本軍を歓迎する有様にて種々好意を見せて居る、徴発も無理な事をせぬ様命令が出て物を始めて売買する様にて勿論支那の貨幣にて買ふ、(略)(P.136)

そして、自軍の食糧さえ略奪に頼っている状態で捕虜に食わせる米などない、面倒だから始末してしまえ、ということになる。

遠藤高明日記:


[12月16日] 定刻起床、午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く、午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に逢ひ一般情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分のーを江岸に引出しIに於て射殺す。

 一日二合宛あて給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものの如し。(P.219)

補給を無視した無茶な作戦が略奪を生み、略奪が南京大虐殺にまで至る強姦・大量殺戮を生んだのである。

【2016/12/23追記】
この記事だけ読んで、引用中に出てこないから「強姦」は憶測だとか言い出す人がいるので、加害証言を一例だけあげておく。(南京戦当時第十六師団歩兵三十三連隊第三大隊の兵士の証言[2])


 (強姦は)そこら中でやっとった。つきものじゃ。そこら中で女担いどるのや、女を強姦しとるのを見たで。婆さんも見境なしじゃ。強姦して殺すんじや。もう無茶苦茶じゃ。
 陥落して二日ばかりたったころじゃ。下関あたりに徴発に出たときじゃ。民家のあるとこに米や食べ物を徴発したんじゃ。そんな時に女も徴発するんじや。家の長持ちの蓋を開けると中に若い嫁さんが隠れとったんじゃ。纏足で速く逃げられんで、そいつを捕まえて、その場で服を脱がして強姦したんじゃ。ズボン一つでパンツみたいな物は穿いておらんで、すぐにできた。やった後、「やめたれ」て言うたんやけどな、銃で胸を撃って殺した。暗黙のうちの了解やな。後で憲兵隊が来て、ばれると罪になるから殺したんじゃ。それを知っとるさかい、やった後、殺すんじや。

[2] 松岡環編 『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて』 社会評論社 2002年 P.275-276
【追記終り】

[1] 小野賢二・藤原彰・本多勝一編 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 大月書店 1996年
 
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/12/19/203639

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612. 中川隆[-9299] koaQ7Jey 2019年6月24日 10:30:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3190] 報告
従軍慰安婦映画『主戦場』の悪辣な手口 2019.05.23 (初出・月刊『Hanada』2019年6月号)
https://hanada-plus.jp/posts/1974


(※5月24日発売の月刊『Hanada』2019年7月号に本記事の続報が掲載されています。併せてご購読ください)

■ミキ・デザキと名乗る青年

 いまから二年ほど前、ミキ・デザキという上智大学の院生を名乗る青年が、保守論壇でお馴染みの言論人にアプローチしてきた。「慰安婦問題に焦点を当てたビデオドキュメンタリーを作りたいから取材させてほしい。修士修了プロジェクトです」というのだ。

 デザキ氏のメールのひとつにはこうある。

「慰安婦問題をリサーチするにつれ、欧米のリベラルなメディアで読む情報よりも、問題は複雑であるということが分かりました。慰安婦の強制に関する証拠が欠落していることや、慰安婦の状況が一部の活動家や専門家が主張するほど悪くはなかったことを知りました。私は欧米メディアの情報を信じていたと認めざるを得ませんが、現在は、疑問を抱いています。(中略)

 大学院生として、私には、インタビューさせて頂く方々を、尊敬と公平さをもって紹介する倫理的義務があります。また、これは学術的研究でもあるため、一定の学術的基準と許容点を満たさなければならず、偏ったジャーナリズム的なものになることはありません」

 アプローチされたのはケント・ギルバート、櫻井よしこ、藤岡信勝、杉田水脈、山本優美子、テキサス親父ことトニー・マラーノ、テキサス親父事務局の藤木俊一などの諸氏。全員、デザキ氏の言葉を信じて協力した。中立公正なドキュメンタリーが作られると期待して。

 そして時は流れ、2019年3月27日、私は渋谷にある小さな映画館に向かっていた。デザキ氏の映画の試写会があると聞いたからだ。なんでも、デザキ氏の取材依頼を受諾した前出の人々は全員が後悔しているという。デザキ氏の映画が期待に反して、「新たな慰安婦プロパガンダ映画」であることが判明したというのだ。

 何があったというのだろうか? 前評判では、慰安婦性奴隷説推進派と反対派の双方から公平に意見を聞くということだった。推進派からは、吉見義明氏、戸塚悦朗氏、林博史氏、中野晃一氏、植村隆氏などの名前が見える。さらに韓国の挺対協代表のユン・ミヒャン氏、『帝国の慰安婦』を上梓して起訴されたパク・ユハ氏の名前まで挙がっている。これだけの人々が出演しているのだから、何があったのか、どんな映画になったのか、確認する必要がある。その映画のタイトルは『主戦場 The Main Battleground of The Comfort Women Issue』。

■チラシへの違和感

 映画のチラシを見て、私には引っかかるものがあった。そこにはこう書いてある。

《驚くほどスリリング!!!!

いま最も挑戦的なドキュメンタリー

 あなたが「ネトウヨ」でもない限り、彼らをひどく憤らせた日系アメリカ人 YouTuber のミキ・デザキを、おそらくご存じないだろう。ネトウヨからの度重なる脅迫にも臆せず、彼らの主張にむしろ好奇心をき立てられたデザキは、日本人の多くが「もう蒸し返して欲しくない」と感じている慰安婦問題の渦中に自ら飛び込んでいった》

 これが、公正中立なドキュメンタリーを作ろうとする人間が書く文章だろうか? この文章から、彼がユーチューバーであること、彼の動画が多くの人々を憤慨させたことは分かるが、なぜ、どうして憤慨させたのかはわからない。

 こういう場合、まずは彼がどのような動画を制作して、なぜ炎上したのか、確認しておいたほうが良さそうだ。

 デザキ氏の動画はすぐに見つかった。ここでは、彼の動画をふたつだけ紹介しておこう。

■「ちんちん欲しいなあ!」

 まず、「Racism in Japan(日本では人種差別がありますか?)」という動画だ。デザキ氏は以前、沖縄の糸満高校に赴任して英語を教えたことがあるようだ。この動画は、その時の体験をもとに作成されている。デザキ氏が日本語で生徒たちに語りかける。

「日本にも人種差別があると思う人は手を上げて!」

 どのクラスでも数人しか手を挙げない。デザキ氏はこれを不満に感じて、カメラに英語で語りかける。

「私は、アメリカにもひどい差別があることを知っています。アメリカのほうがましだと言いたいわけではありません」

「でも、日本にも人種差別が存在します。日本には江戸時代、部落民という最下層の民が存在していましが、いまでも部落出身者は差別されています。日本語にはバカチョンカメラという言葉があって、これは朝鮮人を侮蔑する意味です。さらに、同じ日本人同士でも、沖縄県人は差別されて、戦争のときは日本軍によって弾除けにされました。そしていまでも、本土で部屋を借りることもできないのです」

 もう一本の動画のタイトルは「Shit Japanese Girls Say」。日本語タイトルは「日本の女の子がよく言うこと」となっているが、直訳すれば「日本人女性が言う糞(たわごと)」(https://youtu.be/CGdWhnTYukM)である。

 なんとこの動画には、髭を生やしたまま女装をしたデザキ氏が登場する。カツラをかぶり、可愛い子ぶったいまどきの日本人女性が口にしそうなお決まりのフレーズを、くねくねとポーズを取りながらしゃべり続ける。

「バナナダイエットで5キロせたって!」

「ねえねえ、誰にメールしてるの?」

「これ、バーゲンで買った」

「うざ!」

「超がつかない?」

「えーっ、B型あ?」

「最近、いい出会いないなあ」

「やめて、恥ずかしい!」

「こうやって揉んだら大きくなるって!」

「韓国行こう! 最近、韓国語勉強してるよ! カムサムニダー!」

 これが延々と続き、どういうオチになるのかなと思っていたら、突然終わって The End の文字。と、次の瞬間、髪を金髪に染めて三つ編みにしたような男がアップで登場し、海に向かって叫ぶ。

「あー、ちんちん欲しいなあ!」

 彼は、この動画でいったい何が言いたかったのだろうか? タイトルに Shit とあるように、基本的には日本人女性を嘲笑している。外国人向けに発信していて、なんと68万回も再生されている。

 そんな彼が製作した『主戦場』とはどんな映画であっただろうか?

「ハロー、フォークス!(やあ、みんな!)」

 映画は、テキサス親父ことトニー・マラーノ氏と事務局の藤木俊一氏、「論破プロジェクト」主催の藤井実彦氏の三人が、慰安婦像が鎮座するカリフォルニア州グレンデール市の公園を訪れるシーンで始まる。「テキサス親父」の動画をそのまま流している。デザキ氏のナレーションが入るのだが、彼が冒頭に「テキサス親父」を取り上げた理由は、どうやらマラーノ氏が自身の動画でデザキ氏を取り上げたことがあるかららしい。 

■なぜ西岡力氏に聞かないか

 ここから、様々な人が入れ代わり立ち代わり登場し、異なる意見をぶつけ合っていく展開となる。デザキ氏がいうところの「驚くほどスリリングな」展開になるはずなのだが、私は早々に強い違和感を覚えざるを得なかった。それは次の2点だ。

 まず、中立な立場から問題の本質を探ると言いながら、慰安婦性奴隷説反対派を頭から「歴史修正主義者」(revisionist)」 「否定論者(denialist)」と決めつけてレッテル貼りをしている。これでは、自ら性奴隷説推進派の視点に立って映画を作っていることを宣言しているようなものだ。反対派の立場から取材に協力した人々に失礼だ。これではデザキ氏のメールは完全に嘘で、利用するために騙したことになる。

 次に、出演者に偏りがあることだ。反対派における慰安婦問題の第一人者である秦郁彦氏と西岡力氏が登場しない。秦氏の名前は出てくるから、デザキ氏が秦氏を認識していたことは明らかだか、西岡氏にいたっては名前すら出てこない。これは根本的な問題である。

 映画は、専門家ではない反対派の人々の意見に、推進派の学者(専門家)が反駁する形で進行する。吉見義明氏や林博史氏を出すなら、対で秦郁彦氏、西岡力氏を出演させ、専門家同士の議論でなくてはフェアな議論とはいえない。

 この点については、4月4日に外国人特派員協会で開かれた試写会と記者会見の席で直接デザキ氏に質問、デザキ氏の答えは次のようなものであった。

「秦先生にはインタビューしたかったが、連絡すると奥さんに夜電話してくれと言われた。アメリカ人の習慣としては夜電話するのは気が引けたので、翌朝電話したら怒られて取材を断られた。西岡先生に関しては、ネット上の言説を見た限り、他の人々の主張と大差ないのでコンタクトしなかった」

 この時点で、60点ぐらい減点しなくてはならない。研究者同士の議論がなくては、攻守の交代がない野球を見ているようなものだ。ほとんどの反対派の人は西岡氏の著作から学んでいるのだから、言説が似ているのは当たり前なのである。しかし、25年以上も研究してきた専門家の知識は深みが全く違うのだ。

■構成上の大きなミス

 ケント・ギルバート氏についてはほぼノーカットで採用したようで、反対派論陣の要になっているが、櫻井よしこ氏もわずかしか出てこないし、唯一の学者である藤岡信勝氏も慰安婦問題そのものについては多くを語っていない。

 推進派のほうは、吉見義明(歴史学者)、林博史(歴史学者)の他にも中野晃一(政治学者)、阿部浩己(国際法学者)、小林節(憲法学者)などの諸氏の他、韓国からもイ・ナヨン(社会学者)キム・チャンロク両氏(法学者)など、多数の学者が登場する。ソウル大学のイ・ヨンフン教授のように、慰安婦性奴隷説に異を唱える実証主義的な韓国人学者もいるが、まったく無視されている。映画構成上の最も基本的なところで大きなミスがある。

【慰安婦20万人説】

 この数字に関して、ギルバート氏と藤木氏が、「そんなに大勢の慰安婦がいて、一日に何十回も性行為を強要されたとしたら、日本兵は一日に6回もセックスをしなきゃならない計算になる」と主張する。するとデザキ氏は、「以上の計算はひとまずおくとして、20万人という数字はどのように算出されたのか?」と吉見氏に水を向ける。

 吉見氏はこう説明する。

「日本の陸海軍の軍人数は、最大で350万人くらいですが、最前線には慰安所がなかったと仮定すると、ある時点で300万人くらいの兵隊に対して慰安所がつくられたと仮定します。日本軍の場合には100人に一人の割合で慰安所を設置するという基準を持っていますので、そうすると3万人という数字が出ますよね。で、仮に半分入れ代わったとすると45000で、全体で一度入れ替わったとすると六万という数字が出ますので、まぁ最低で5万くらいかなと」

 質問は20万人の計算根拠だったはずだが、全く答えになっていない。挺対協のユン・ミヒャン氏にいたっては、「私たちは研究者による数字を用いているに過ぎません」と言う。

 また、女たちの戦争と平和資料館の渡辺美奈氏は「大きな人権団体などが、慰安婦問題についてレポートを書く、と。そのとき相談をされれば、20万人という数字は使わずにもう少しアバウトな数を使うことを勧めます。40万人と聞けば、40万人という数字を使おうと思うんです。わざわざどれが一番いいかと考えずに、多いほうを使うということも多分あると思うんですね」と正直に答えている。

 この議論で、20万人という数字はまったく根拠がないことがわかる。吉見氏がするような説明を聞いていつも思うのだが、「仮定」が多すぎる。また、「最低でも5万くらい」というのは需要の話である。仮に5万人の需要があったとしても、戦争の最中に5万人供給できた保証はどこにもないのだ。

■学習不足のデザキ氏

 この人数をめぐる議論の結論は「20万人説には根拠がない」となるはずだが、デザキ氏は次のように結論する。

 この議論からわかることは、これらの数字は、

・明らかに両陣営から政治的意図をもって利用されてきた。

・修正主義者たちはこの数字の算出方法を理解していないようだ。

・慰安婦について実際のデータは存在しない。

 よって、概算の言及には注意が必要だ。

 数字を政治利用しているのは、明らかに性奴隷説推進派のほうである。また、「修正主義者たちはこの数字の算出方法を理解していないようだ」は全く意味不明だ。吉見氏の主張も含めて、もちろん検証されているに決まっているではないか。デザキ氏が、これらのインタビューの外では全く学習していないことがわかる。

 この20万人という数字が独り歩きし始めたきっかけは、朝日新聞の1992年1月11日付の朝刊である。朝日は用語解説として、次のように書いた。

「従軍慰安婦 1930年代、中国で日本軍兵士による強姦事件が多発したため、反日感情を抑えるのと性病を防ぐために慰安所を設けた。元軍人や軍医などの証言によると、開設当初から約八割が朝鮮人女性だったといわれる。太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その数は8万とも20万ともいわれる」

 要するに、慰安婦と勤労奉仕の女子挺身隊という全くの別物を混同したことに起因する数字なのである。

 これを遡ると、70年代に「従軍慰安婦」という言葉を創作した千田夏光という作家に突き当たる(慰安婦は存在したが、従軍慰安婦という職業は存在しなかった)。千田は著書のなかで、知人から入手したソウル新聞の切り抜きのなかに、「1943年から45年まで、挺身隊の名のもと若い朝鮮婦人約20万人が動員され、うち5万人ないし7万人が慰安婦にされた」と書いてあったと主張した。

 しかし、研究者が該当記事を探したところ、実際には「挺身隊に動員された女性は日韓合わせて20万人で、そのうちの5万〜7万人が朝鮮人女性だった」という記述だったのである。つまり、慰安婦とは何の関係もなかった。

 朝日新聞は2014年8月になって、慰安婦と挺身隊を混同したことを認めて該当記事を撤回した。

 このように、何の根拠もない数字が、慰安婦問題を政治外交問題化したい勢力に政治的に利用され続けているのが実態なのだ。これも西岡氏のような研究者が入っていれば容易に指摘できたことだ(参考:『朝日新聞「日本人への大罪」』西岡力、悟空出版)。

【強制連行】

 2007年の安倍首相による国会答弁が流れる。

「まぁいわば、官憲が家に押し入っていって、人さらいのごとく連れていくという、そういう強制性はなかったということではないかと、こういうことでございます」

 これに対して、「性奴隷」という言葉をわざわざ創作して国連に持ち込んだ戸塚悦朗氏が、こう反論する。

「その強制っていうのを安倍さんは、縄で縛って連れて行ったって言ってるわけ。だけどね、強制っていうのは法律上で言うと『自由意志でない』っていうことなんですよ。自由意志でないっていうのは、騙された場合も自分の本当の意志ではない。そうするとね、大部分の韓国からの女性は騙されたんですよ」

 ここでいきなり、強制連行が「騙された」に変換してしまう。

 ギルバート氏、藤木氏が「女性のリクルートは主に朝鮮人業者が行い、騙したケースもあったと思われる」と答え、杉田水脈氏が「当時の新聞記事を見ると、日本政府や軍(総督府や警察)が悪徳業者を逆に取り締まっている、そういう新聞記事がいくつも残っている」と付け加える。すると、林博史氏がこう反論する。

「朝鮮半島の新聞記事は慰安婦とは全然関係ない。警察は従来から悪徳業者が騙して売春目的で連れて行こうとするのは取り締まっていたが、軍の依頼であれば黙認して処罰しなかった」

 警察が悪徳業者の犯罪行為に関して、軍の依頼に基づくかどうかで取り締まったり黙認したりできたのか。以前、そのような主張を聞いたことがあるが、結局根拠がなかった。そんなことをしたら治安が維持できないはずだが、林氏にはぜひ詳細な証拠を映画内で示していただきたかった。

 結局、話はいつものパターンでインドネシアで発生したスマラン慰安所事件に飛ぶ。オランダ人女性が強制的に慰安婦にされた事件だ。この事件に関しては、報告を受けて調査した日本軍将校によって慰安所は閉鎖され、女性たちは救出された。

 この点をギルバート氏が指摘すると、吉見氏がこう反論する。

「それは被害者が白人女性で、連合国側から責任を追及されることを恐れたからであって、アジア人女性を解放したというケースは聞いたことがない。明らかに、白人女性に対する対応とアジア人に対する対応が違っていると言えるのではないか」

 この主張も推論の域を出ていないのだが、デザキ氏はこう結論する。

「インドネシアの件は動かぬ証拠だ。朝鮮人女性が強制連行されたという証拠はないかもしれないが、国際批判のリスクを犯してまで白人女性を連行したことを鑑みると、アジア人女性にそうしたであろうことは想像に難くない」

 ここでもまた想像だ。推論や想像ばかりして、いったい何のために議論を設定したのか? スマラン慰安所事件は、当時においても刑事犯罪である。このような刑事犯罪が朝鮮半島や他の地域でも発生した可能性があるという推論はできるが、朝鮮半島で大勢の一般朝鮮人女性が軍隊によって強制連行されたという推論には結びつかない。だから戸塚氏も、「騙したのも強制のうちだ」という議論をしているのだ。完全に循環論法に陥っているのがわからないのか?

【性奴隷】

 ここでの議論は、「慰安婦はお金が払われ、貯金や送金もでき、契約が終了すれば帰国でき、買いものに行け、日本人と一緒にスポーツ観戦や夜会にも出かけていたのだから、性奴隷と呼ぶことはできない」という性奴隷説反対派の主張に対し、推進派は「いまの国際法に照らせば奴隷の範疇に入る」と反論するいつものパターンだ。

 しかし、私は吉見氏の反論に興味をひかれた。慰安婦にレクリエーションの機会があったという指摘に対して、吉見氏はこう反論する。

「そういう機会がないと、たぶん生きていけないという状況にあったからではないかと僕は思うんです。たとえば、アメリカの黒人奴隷も土曜や日曜にはみんなで集まって音楽会を開いたり、ダンスをしたりしているわけですよね。それから狩猟に出かけたり。そういうふうにしないと生きていけないような絶望的な状況にあったら、奴隷主もそれを認めていたということがあるんですね」

 はたして、奴隷主は自ら奴隷を引率してイベントに出かけたり、奴隷女性と恋に落ちて結婚したりしていたのか? 元恋人だった日本兵を懐かしむ元慰安婦もいる。そのような強引な類推をしてまで、何が何でも日本人を悪魔化したい動機が理解できない。

 ここで国際法学者の阿部浩己氏が登場して、国際法の観点からの慰安婦性奴隷説を次のように解説する。

「奴隷制というのは、人が別の人によって全的支配を受けることをいう。元慰安婦が高額の支払いを受けていても、外出をしていても、それは全体的な支配のもとで許可を得てそれができていたのだから、奴隷制ということになるんです」

 そこまで奴隷の定義を広げると、一般のサラリーマンも十分奴隷になってしまいそうである。もっとも、社畜という言葉があるぐらいだから冗談にもならない。性奴隷説推進派がそのような国際法の定義を持ち出すのなら、潔く次のように認めるべきだ。

・慰安婦は、性奴隷という言葉から想像される一般通念としての奴隷ではない

・国際法上の奴隷の定義を当てはめるのであれば、日本軍の慰安婦に限らず、世界中で過去から現在まで売春に従事している女性の多くが奴隷であると定義できる

 このように、デザキ氏の「主戦場」はこれまでの議論を深めることに成功していない。それは、彼自身の知識が浅いこと、最初から偏見を持っていること、前述したように、専門家同士の議論にしなかったことが原因だ。

■後半で一気に脱線

 それにしても、今回登場した性奴隷説推進派の面々で最も異色なのは、ケネディ日砂恵氏ではないだろうか。直接会ったことはないが、ナレーションにあるとおり、数年前には一部の保守系論者からもて囃されていたのに、忽然と姿を消してしまったのは知っていた。今回、その彼女が突然登場して、かつての彼女の仲間や支援者を批判しだしたのには驚いた。秦郁彦氏の「南京虐殺は小規模ながら発生した」という説に接して目が覚めたのだという。

 そして、自分自身が米国人ジャーナリストらと日本で広めたIWG報告書(ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班による報告書。クリントン政権下で開始され、8年の歳月と30億円の費用をかけて機密文書を検証したが、日本軍の慰安婦制度については特段目新しい発見はなかったとされるもの)について、日本の保守派が考えるような価値はないと断定して、次のように述べた。

「IWGの目的はナチスの戦争犯罪を調査することでしたから、日本軍の慰安婦制度に関する情報が見つからなかったのは、キッチンの引き出しで靴下を探すような行為だったからです」

 宗旨替えするのは個人の自由だが、事実まで曲げてはいけない。IWGはもともとナチスの犯罪調査を目的としていたが、在米の中華系反日団体である「世界抗日連合会」の強い要望を受けて、日本軍の戦争犯罪を含めることになったのだ。

 だから、日本軍に関してもナチス同様に調査された。その結果、再確認されたのは、当時の米軍は慰安婦を一般的な売春婦だと見做したので、犯罪行為として追及しなかったということだったのだ。

 デザキ氏は映画のなかで、頻繁にグレンデールやサンフランシスコで開かれた公聴会の映像を取り上げ、いかに日本側の反対が不成功に終わったかを強調する。そのなかで、慰安婦像が建てられてから日系子女へのいじめが発生するようになったという現地日系人の訴えを否定する反日団体の主張を一方的に受け入れ、そのような言説は杉田水脈氏が国会で流布したもので、杉田氏自身は被害者の母親らに直接会って話をしていないと指摘する。

 日系人の訴えを事実無根と決めつけてかかるのは、反日団体のメンタリティと何ら変わりはない。私自身が北米を回って調査して得た結論は、いじめや嫌がらせは存在したということだ。

 私は複数の母親に会って詳しく話を聞いた。たしかに、在米暮らしが長いとはいえ、日本人である母親たちは、被害を警察に届けたり、病院で診断書をもらうことで証拠を残すという発想はなかったし、それを指導するリーダーもいなかった。しかし、母親たちは共同で安倍首相に嘆願書を書いて送っている。普通の母親たちが、よほどの懸念がなくてそのようなことをするだろうか?

 デザキ氏も認めるとおり、この映画は2時間と長い。私がデザキ氏にアドバイスできる立場にいたら、後半はカットするように強く勧める。

 デザキ氏は後半、一気に脱線してしまう。それは、チラシに書かれている「いまだに燻り続ける論争の裏に隠された“あるカラクリ”を明らかにしていく」という部分だ。そのカラクリの暴露こそ、デザキ氏の本領発揮となるはずだったが、残念ながら映画を台無しにしてしまった。

■加瀬英明氏が黒幕!?

【日本会議】

 長い映画の後半、そろそろ疲れてきた頃、突然「日本会議」という文字が画面に躍ってびっくりする。慰安婦問題とは何の関係もないからだ。すると、慶應大学名誉教授の憲法学者である小林節氏が登場し、解説を始める。小林氏によると、日本会議は安倍総理と政界に強い影響力を持ち、「明治憲法を復活させ、人権がなかった時代の日本に回帰することを目指している。そして、その日本会議のキャンペーンを広告塔としてリードしているのが櫻井よしこ氏である」という。

 さらに、「日本会議は靖國神社を含む神道組織に支えられており、それゆえに櫻井氏はたぶん、無料で神社の境内に事務所を構えている」と続ける。そして、極め付きは次のひとことだ。

「日本会議の戦前回帰の思想は恐ろしい。しかし、自分は反対することで殺されてもいいと思っている」

 心底驚き、そして呆れた。まず、日本会議にせよ、櫻井よしこ氏にせよ、明治憲法の復活を目指しているという事実は全くない。そして、これは小林氏にとって朗報だが、保守派界隈で小林氏の名前を聞くことは滅多にない。小林氏の命を狙う意味は皆無で、そんな動機を持った人は絶対にいないから安心していただいていいと断言できる。

 日本会議に確認したが、デザキ氏から取材依頼を受けたことはないという。ここでもまた、基本的な検証作業を怠っている。

 代わりに、外交評論家で日本会議東京都本部会長の加瀬英明氏が登場し、多くの保守系団体をぐ黒幕的存在として紹介される。たしかに、加瀬氏はかつての活発な執筆評論活動や政財界との繋がりから、保守系団体に世話人的に名義貸しをしているケースが散見される。

 しかし、慰安婦問題に積極的に関与しているわけでもリードしているわけでもなく、日本会議本体を代表する立場でもない。だから、デザキ氏の質問に対してほとんど答えを持っていないのだ。加瀬黒幕説はまったくの虚構である。

 デザキ氏が見出したとするカラクリとは、こういうことだ。「日本会議と安倍政権は日本の再軍備を実現し、日本は無謬であるという國史観に沿って栄光ある戦前に回帰しようと目論んでいる。その際、歴史上の恥部である慰安婦問題は不都合なのでなかったことにしてしまいたい。だから慰安婦たちを黙らせ、慰安婦問題の存在を否定しようとしているのだ」と。

 公正中立な立場から慰安婦問題を検証するはずだったのに、どんどんずれていった挙句に、最後は何の検証もせずに「トンデモ陰謀論」に飛んでしまった。

 そして、デザキ氏は日本国民に警告する。「平和憲法を改正して再軍備すれば、私の国であるアメリカの戦争に巻き込まれることになるぞ!」と。

 デザキ氏は知らないのかもしれないが、日本には自衛隊があり、再軍備はとっくの昔に実現している。しかし、現行憲法との不整合から、防衛に支障をきたすから安倍政権は憲法の一部改正を行おうとしている。同時に、日本と直接関係がない戦争に巻き込まれたくないから、集団的自衛権の行使に制約を設けているのだ。

 デザキ氏は記者会見で、「なぜ、日本の歴史修正主義者たちが慰安婦問題を隠蔽しようとしているのか興味を持った」と正直に動機を述べた。だから最初から偏っているのだ。

 それでも私は、デザキ氏の作品を肯定的に捉えたい。『主戦場』を見て、慰安婦性奴隷説推進派の人々が、如何に論点をすり替え続けることで慰安婦問題の解決を妨げ、永遠に慰安婦問題を継続させようとしているかがよくわかるからだ。

■製作動機そのものが偏向

 何が慰安婦問題を大きな国際問題にまで発展させてしまったか。それを考えるには、何が日本政府に対する当初の糾弾(Original Accusation)だったのかを思い出す必要がある。

 朝日新聞と吉田清治という詐話師が広めた話はこうだ。

「朝鮮半島で日本の軍隊が民家から若い女性を引きずり出して拉致し、日本兵のための性奴隷にしたり、女子挺身隊として徴用されたあとに慰安婦にしたりした。その被害者は20万人にも上る」

 まさか大新聞社が完全な虚偽報道をするとは思わなかったので、当時の日本人は(米国人のケント・ギルバート氏を含めて)しばらくの間信じてしまった。

 しかし、やがてそれが荒唐無稽な作り話であることがわかり、日本国民は憤激した。朝日新聞は、デザキ氏が映画内で言うように政府に圧力を掛けられたのではなく、世論に抗しがたくなって虚偽を認めて記事を撤回し、社長も辞任した。

 しかし、世界では依然として上記の「糾弾」が独り歩きし、次々と慰安婦像が建てられ、歴史的事実として碑文に書き込まれていった。証拠が薄弱であるとわかると、被害者のほとんどは証拠隠滅のために日本軍によって殺されたというさらなる虚偽が加えられた。明らかに、この問題を政治的に利用しようとする勢力が存在する。

 だから、もともと慰安婦に同情していた日本人も反論せざるを得なくなってしまったのだ。そして、その状況は悪化するばかりである。

「主戦場」を見てもわかるように、吉見氏を筆頭とする性奴隷説推進派は、明らかに極端に誇張された糾弾が事実ではないことを知っているのだが、それを繰り返す反日活動家たちを窘めるよりも、技術的(technically)には強制連行で性奴隷だったと解釈できるという、もともとの糾弾内容から離れた議論を継続しながら日本だけを悪魔化し、結果として反日団体の活動を是認している。まるで、この問題が永遠に継続されることを望んでいるかのようだ。

 慰安婦問題は、韓国政府や反日活動家たち、そしてデザキ氏のような性奴隷説推進派たちが「日本が加害者で韓国が被害者」という単純で一方的な構造に固執する限り、解決することはないだろう。

 最近、Thomas J. Ward と William D. Layという米国コネチカット州にあるブリッジポート大学の二人の学者が、米国の公園に建てられる慰安婦像に関する論文を発表した(Park Statue Politics : World War II Comfort Women Memorials in the United States)。

 この論文の結論は、「慰安婦像は韓国側のストーリーだけを伝えているので不十分である。現実には、韓国人が女性集めを商売として慰安婦制度のなかで大きな役割を演じていたし、戦後も独自の慰安婦制度を運営した。また、米軍兵士も戦後慰安婦制度を利用した。米国に建てられる慰安婦像は政治的問題を引き起こすもので、責任の所在を明確にするものでも、和解を促すものでもない」というものだ。

 デザキ氏の『主戦場』も、慰安婦像と同じ役割しか果たさないことは明白だ。問題解決を遠ざける偏ったジャーナリズム、いや、プロパガンダに過ぎない。

 最後に、大変僭越なのを承知のうえで、保守系言論人の方々に助言したい。将来、取材依頼があったら、たとえ大学院生でも、必ず素性をチェックすることだ。もしその依頼者がユーチューバーで、自身の動画のなかで女装して登場し、「ちんちん欲しい!」と叫んでいたら、おそらくその依頼は断ったほうがいいだろう。

(初出・月刊『Hanada』2019年6月号)
https://hanada-plus.jp/posts/1974



▲△▽▼

映画『主戦場』が炙り出す「保守派」の虚妄と理論破綻
古谷経衡 5/20
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190520-00125557/


映画『主戦場』ポスターと月刊誌『Hanada 6月号』


1】次第にしどろもどろになっていく「保守派」

映画『主戦場』パンフレット等


 現在公開中のミキ・デザキ監督によるドキュメンタリー映画『主戦場』は、いわゆる「保守派」「右派」とされる歴史修正主義者の虚妄がこれでもかと炙り出される意味で痛快である。

 日韓両国や市民団体の中で係争の対象になっている「従軍慰安婦問題」について、韓国人の元慰安婦らに寄り添うべきだという人々と、それに真っ向から反対し「彼らは単なる売春婦にすぎない」と主張する人々(劇中では日本の右派。または歴史修正主義者)を、押しなべて交互に尺をとって、並列的に並べている。

 ドキュメントの中では、元慰安婦らの主張が正しいと言っているわけでも、日本の右派が正しいと言っているわけでもない構成から始まっていくが、ドキュメントが進んでいくにつれて、明らかに日本の右派や歴史修正主義者がその理論に破綻をきたし、しどろもどろになっていくさまがこれでもか、と描かれている。

2】おなじみの”従軍慰安婦は売春婦”論

 特に劇中登場する杉田水脈代議士、新しい歴史教科書を作る会の藤岡信勝氏、日本のテレビタレント、ケント・ギルバート氏などは、「従軍慰安婦は売春婦である」と言ったり、「しかし高い給料が払われていたので性奴隷ではない」と言ったり、その理屈が二転三転して安定していない。

 従軍慰安婦が単なる売春婦であるのなら、その娼婦に支払われた給与が高額であるか否かは関係のないことだが、彼らは給料が高いから「単なる売春婦ではない」という。支離滅裂である。またジャーナリストの櫻井よしこ氏は「朝日新聞がこの問題を世界に拡散し、日本軍が強制連行をしたという間違った事実が広がった」という。

 これは国連のクマラスワミ報告の中の「故・吉田清治による作話(朝日新聞が誤報と訂正した)」ことを指していると思われるが、クマラスワミ報告で吉田清治証言が使用されているのは傍証としてわずか2か所で、クマラスワミ報告は吉田清治の虚言がなくとも成立する。こんな簡単な基礎も踏まえていないで「ジャーナリスト」とは片腹痛い。

 更に、”異様”と映るのは自称歴史研究家の加瀬英明氏が登場する後半の下り。「歴史学者の秦郁彦氏の本は読んでいますか?」と問われると「秦?秦さんは私の友人ですが…。ワタシ他人の本は読まないんです。だから読んでいません」と答えるという無知ぶりをさらけ出すことだ。

 秦郁彦氏は実証史学の権威で、従軍慰安婦問題については同氏の『慰安婦と戦場の性』(1999年、新潮社)が史学科に在籍する学部生でなくとも読める分かりやすい必携本となっており、日本軍の強制連行について早期に否定的な見解を示しているにもかかわらず、加瀬氏はこの従軍慰安婦問題の「基礎の基礎」と言える本を「読んでいない」と公言して、あまつさえ自らを「歴史研究者です」と満面の笑みで言ってのけるのである。

 ちなみに加瀬氏は『中国人 韓国人にはなぜ「心」がないのか』(2014年、ベスト新書)という異様なタイトルの本を刊行しており、歴史研究者を通り越して単なる差別主義者の顔をのぞかせる。

 以上、ざっと笑えるところだけを取り出しても、このような痛快なドキュメントは初めてで、本稿執筆時点で首都圏では公開館数1(シアターイメージフォーラム。5月24日よりアップリンク吉祥寺、あつぎのえいがかんKikiでも)だが、6月にかけて全国で上映館数が増えるから、値千金なので見たほうが良い。


3】監督への個人攻撃に終始

月刊Hanada 6月号


 さてこの映画『主戦場』。先月4月20日公開からちょうど丸ひと月が立つが、いわゆる日本の保守派や右派や歴史修正主義者は、この映画を「反日映画」「偏向映画」「パヨク映画」などと脊椎反射的に罵る以上、体系的反論や批評がひとつもでていない。

 そこで探すと、今月号(2019年6月号)の月刊誌『Hanada』に

『総力特集 韓国の恥部 ドキュメント『主戦場』 従軍慰安婦映画の悪辣な手口』(P.316〜329、山岡鉄秀氏)
https://hanada-plus.jp/posts/1974


という一片を見つけた。これのみが、本稿執筆時点でほぼ唯一『主戦場』に対する保守側、右派側からの紙面上での反論・反証になっているが、中身は徹底的にこの映画の監督、ミキ・デザキ氏への個人攻撃に終始していて陳腐なものである。

 山岡氏は映画『主戦場』とはまったく関係のない、ミキ・デザキ監督が過去にアップロードした動画をあげつらって執拗にこう述べている。


(前略)なんとこの動画には、髭を生やしたまま女装をしたデザキ氏が登場する。カツラをかぶり、可愛い子ぶったいまどきの日本女性が口にしそうなお決まりのフレーズを、くねくねとポーズしながらしゃべり続ける。

「バナナダイエットで五キロ痩せたって!」
「ねえねえ、誰にメールしてるの?」
「これ、バーゲンで買った」「うざ!」

(中略)

「韓国行こうよ!最近、韓国語勉強しているよ!カムサハムニダ!!」

これが延々と続き、どういうオチになるのかと思っていたら、THE ENDの文字。と、次の瞬間、髪を金髪に染めて三つ編みにしたような男がアップで登場し、海に向かって叫ぶ。

「あー、ちんちん欲しいなあ!」

彼は、この動画で一体何が言いたかったのだろうか?

出典:月刊Hanada ドキュメント『主戦場』従軍慰安婦の悪辣な手口(P.318-319、強調筆者)
https://hanada-plus.jp/posts/1974


 私も、この動画だけで、ミキ・デザキ監督が何を言いたかったのかは正直言ってよくわからない。しかしながらこの山岡氏の論法は、「この主戦場という映画を撮っている監督は、”ちんちん”などという卑猥な言葉を口にする動画を撮影している愚劣な人間だ」という周辺の評価にすぎず、肝心の『主戦場』の映画評にはなっていない。

 繰り返すが上記の動画は、映画『主戦場』とは全く関係のない、たんなる別の動画である。

 しかし映画『主戦場』では、在米ユーチューバーの「テキサス親父」ことトニー・マラーノ氏が、「アメリカでは絶対にヤりたくない女には、こうするのさ!」といって、慰安婦像(少女像)に紙袋を被せて大爆笑している模様が映し出されているが、こちらのトニーの「醜態」については、その行為が劇中であるにも関わらずなんら言及がない。

 要するに、この山岡氏の作文は、映画『主戦場』以外の、監督の過去の行状をあげつらうだけで、肝心の映画への言及はいくらたっても始まらないのである。


4】秦郁彦を出せ!でも秦郁彦を読んでいない保守派

慰安婦問題では必携書と言える

「慰安婦と戦場の性」(秦郁彦著、新潮社)
https://www.amazon.co.jp/%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E3%81%A8%E6%88%A6%E5%A0%B4%E3%81%AE%E6%80%A7-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E7%A7%A6-%E9%83%81%E5%BD%A6/dp/4106005654


 山岡氏は以下ようやく映画『主戦場』の内容に触れ、こう続ける。


映画は、専門家ではない反対派(右派)の人々の意見に、推進派の学者(専門家)が反駁する形で進行する。吉見義明氏や林博史氏を出すなら、対で秦郁彦氏、西岡力氏を出演させなくては、専門家同士の議論でなくてはフェアな議論とはいけない。この点については、(2019年)4月4日に外国人特派員協会で開かれた試写会と記者会見の席で、直接デザキ氏に質問、デザキ氏の答えは次のようなものであった。

「秦先生にはインタビューしたかったが、連絡すると奥さんに夜電話してくれと言われた。アメリカ人の慣習としては夜電話するのが気が引けるので、翌朝電話したら怒られて取材を断られた。西岡先生に関しては、ネット上の言説を見た限り、他の人々の主張と大差ないのでコンタクトしなかった」

この時点で、六十点ぐらい減点しなくてはならない。

出典:月刊Hanada ドキュメント『主戦場』従軍慰安婦の悪辣な手口(P.320、カッコ内筆者)

 おわかりいただけただろうか。山岡氏は櫻井よしこ氏やケントギルバート氏や藤井信勝氏や杉田水脈氏は、(こんなに頑張って劇中でしゃべっているのに)議論に値する専門家ではない、と切り捨てている。そして秦郁彦氏を出さない時点で「マイナス60点」としているが、その秦郁彦氏の著作を「読んだことがない」と劇中で言い切る加瀬英明氏については特段何のマイナス評価も下していないのである。

 つまりこの山岡氏の月刊Hanadaでの理屈は、映画『主戦場』は、元従軍慰安婦に寄り添う人々の側にだけ専門家を出して、それに反対する右派、保守派、歴史修正主義者には素人しかいないのは不公平である、と言っているに等しい。

 しかし私の知る限り、トニー・マラーノ氏も、藤岡信勝氏も、杉田水脈氏も、「なでしこアクション」代表の山本優美子氏も、ケントギルバート氏も「(彼らなりに)がんばって活動をやっている」人々だし、すくなくともネット右翼界隈の中では論客とされているのだから、議論の相手として認めてもいいのではないか。特に加瀬氏は、自らが「秦郁彦の本を読んでいないけど専門家」と名乗っているのだから、そこは認めてもよいのではないか。

 山岡氏の論は、いわゆる元従軍慰安婦に寄り添う人々に鋭敏な反発を示しながらも、それに抗する「保守派」「右派」「歴史修正主義者」は、「素人」として一蹴し、映画の中に秦郁彦氏と西岡力氏の登場を切望している。はからずもこれに関しては、筆者も全く同じ意見であるが、ここまで「素人」と劇中に登場する「保守派」の人々をこき下ろすのも、逆説的に痛快だ。

 山岡氏は『Hanada』に寄稿するぐらいだから「保守派」「右派」と見做されているのだろうが、身内をかばっているように見えて、実は身内を容赦なく打擲している。それが意図してのことだとしたのなら、なかなか見どころがある。

5】また「ちんちん」か。

 そして山岡氏は、こう結んで終わる。


(前略)将来、取材依頼があったら、たとえ大学院生でも。必ず素性をチェックすることだ。もしその依頼者がユーチューバーで、自分の動画の中で女装して登場し、「ちんちん欲しい!」と叫んでいたら、おそらくその依頼は断ったほうがいいだろう。

出典:月刊Hanada ドキュメント『主戦場』従軍慰安婦の悪辣な手口(P.329)

 また「ちんちん」が出た。それも結句で。どうもお下品に過ぎる監督への個人攻撃を中心にしたお粗末な作文が、今のところ唯一の『主戦場』に対する反論であることからも、いわゆる「保守派」の言語感覚というものの程度が推して知れよう。(了)
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20190520-00125557/


▲△▽▼

2019-05-19
『主戦場』への遠吠えリンクまとめ
https://apeman.hatenablog.com/entry/2019/05/19/225316

戦時性暴力 文献紹介


先日ご紹介した山岡鉄秀に加えて、ケント・ギルバートが『正論』の6月号で負け惜しみを書いています。

とるに足らない内容ですが、「性奴隷の定義がどんどん勝手に広げられていく」と「かつてのGHQの「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」のようで洗脳そのものです」というクレーム(いずれも96ページ)には笑いました。

映画は「性奴隷」の定義について国際法を参照しつつ出崎監督の見解を示していくのですが、カリフォルニア州弁護士にとってこれは「勝手に」なのだそうです。後者については、右派論壇が盛んに言い立てる「WGIP」論の空虚さを示すものです。その他、現時点で気づいたものをメモ。


-テキサス親父日本事務局 2019年4月16日 「フェイキュメンタリー・フィルム 切り取り・デマ・捏造のカタマリ」

-日本会議 2019年4月19日「ドキュメンタリー映画「主戦場」について」

小林節なんかに取材したせいで、たしかにあの映画の日本会議に関する記述には事実に反するところがあったので、この抗議については「負け犬の遠吠え」とは言い切れないですね。

-なでしこアクション 2019年4月23日 「映画「主戦場」について」

その他動画をいくつか。

-字幕【テキサス親父】 慰安婦欺瞞ドキュメンタリー「主戦場」-Part1 - YouTube

-字幕【テキサス親父】 慰安婦欺瞞ドキュメンタリー「主戦場」・その2 - YouTube

-【上念司の深掘りPart5】@ ヤッちまった師匠SP!まさかのケント師匠が騙されて反日映画に出演!? - YouTube

-従軍慰安婦映画『主戦場』の悪辣な手口|山岡鉄秀|『月刊Hanada』2019年(令和) 6月号|花田紀凱[月刊Hanada]編集長の『週刊誌欠席裁判』 - YouTube


https://apeman.hatenablog.com/entry/2019/05/19/225316

▲△▽▼

>従軍慰安婦映画『主戦場』の悪辣な手口|山岡鉄秀

>映画は、専門家ではない反対派の人々の意見に、推進派の学者(専門家)が反駁する形で進行する。吉見義明氏や林博史氏を出すなら、対で秦郁彦氏、西岡力氏を出演させ、専門家同士の議論でなくてはフェアな議論とはいえない。


まあ、専門家(?)の秦郁彦氏、西岡力氏を出演させてもダメージが大きくなるだけなんですけどね:

吉田清治が詐欺師だというデマを広めた秦郁彦は歴史学会では誰にも相手にされない、資料改竄・捏造の常習犯だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/136.html

従軍慰安婦問題で詐欺師 西岡力と櫻井よしこが流した悪質な嘘とデマ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/133.html

今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」_ 吉田清治の話はやっぱり事実だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/132.html

河野談話を守る会のブログ 秦郁彦論説の嘘・デタラメ・捏造・歪曲・誤解
https://www.google.co.jp/search?hl=ja&ei=YnH2XP2CEYuymAWKkb2oDg&q=%E7%A7%A6%E9%83%81%E5%BD%A6%E8%AB%96%E8%AA%AC%E3%81%AE%E5%98%98%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%83%BB%E6%8D%8F%E9%80%A0%E3%83%BB%E6%AD%AA%E6%9B%B2%E3%83%BB%E8%AA%A4%E8%A7%A3%E3%80%80&oq=%E7%A7%A6%E9%83%81%E5%BD%A6%E8%AB%96%E8%AA%AC%E3%81%AE%E5%98%98%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%83%BB%E6%8D%8F%E9%80%A0%E3%83%BB%E6%AD%AA%E6%9B%B2%E3%83%BB%E8%AA%A4%E8%A7%A3%E3%80%80&gs_l=psy-ab.3...2930.2930..4643...0.0..0.173.173.0j1......0....1..gws-wiz.5PvrtoTbrew


河野談話を守る会のブログ 『慰安婦問題の決算』=秦郁彦は歴史学者の肩書を返上せよ!
https://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/66169965.html



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613. 中川隆[-9298] koaQ7Jey 2019年6月24日 13:05:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3191] 報告
社会科学者の随想 2019年06月23日

従軍慰安婦問題に関する映画『主戦場』2019年4月封切りから2ヵ月が経ったころ,実際にこの作品を観賞した人たちの感想をめぐって(その1)
http://blog.livedoor.jp/bbgmgt/archives/1075054438.html

【『主戦場』 “SHUSENJO:The Main Battleground of The Comfort Women Issue”2018年製作映画】


【監 督  ミキ・デザキ,上映日 2019年04月20日 上映時間:122分】

【製作国  アメリカ・日本・韓国】

【ジャンル  ドキュメンタリー】
【脚 本  ミキ・デザキ】


 以下に長々と数回に分けて紹介していくが,これらの感想は,投稿された期日のあとになれば順次,読むことができた一覧である。それはともかく,この作品『主戦場』を劇場に実際にいって鑑賞してから,これらの感想を読みなおしてみた。

 そこで,冒頭から本ブログ筆者なりに “先入観的な感想” となる。「左側(革新ないしはリベラル側)」の関係者たちは,なるべく事実の追究にもとづいて発言しようとする努力が観てとれるのに対して,「右側(保守ないしは国粋側)」の人士たちのいいぶんは,一様に,ただこの『美しく国』にあっては従軍慰安婦に関する「歴史の問題」など,けっして存在してはいけない〔するはずもない〕ものだと決めつけたい心情:思いこみを,正直に表出させていた。

 第2次大戦後になってからは,アメリカであっても韓国であっても,あちらこちらの戦争・戦場において,旧日本軍の慰安所に似た施設をもっていたではないかという「右側からの反論」は,特殊・具体的に強調できる歴史問題の実例であったが,それをあえて普遍・抽象の次元にまで引きずりこんでから,この問題の意味を可能なかぎり希薄化させようと必死の議論を試みている。

 片やできるだけ歴史研究の成果・業績を武器に論じようとするが,片やもっぱら自分たちの理念・信条をもってのみ対するのであるから,その議論がはじめから噛みあうわけもなく,後者は前者に位負けしていた。双方の立ち位置からして顕著に「質的な重み」に差があった。


 右側陣営において隠しようのない議論の粗雑さは,結局「歴史の判断」に耐えうる素性・組成をもちえない。それゆえ,問題の全体について発言する彼らは,闇雲的かつ問答無用的にも一般論で否定しつそうとする。その議論の方途は論理的であるよりも感情的に先走っている。


 いわく「日本人は間違ったことはちゃんと謝る」(映像どおりの文句ではなく,文意をとって表現)が,某国の連中はそうではないといった具合に,相対的な違いでしかありえない「差」を絶対話法で語るゆえ,信頼度の面でもどうしても勝てない。


 相手との議論が真正面からまともに成立できて出発しているのではない。初めから否定するために話しているとなれば,この否定の立場が相手側の発言をのっけから完全に無視するといった,無限の螺旋階段を駆け上っていくほかない。


 しかもそれは『バベルの塔』内に設けられていたごとき「彼らの専用階段」であった。歴史観・世界観の差異をたがいに話しあうのではなく,まず相手をみくだすことを主眼とする右側の基本的な姿勢は,初めから,不毛を約束されたかのような「非生産的な雰囲気」を濃厚に漂わせていた。


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614. 中川隆[-9299] koaQ7Jey 2019年6月25日 09:57:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3194] 報告
『慰安婦問題の決算』=秦郁彦は歴史学者の肩書を返上せよ! 2018/3/2
https://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/66169965.html


     エロ・グロ・ナンセンス

第10巻でもっとも迫力があるのは、日本軍の残虐行為を描いた

@斬首
A銃剣術の刺突
B妊婦の腹裂き
C女性器に一升瓶を押し込む

4コマ続きだろう。


しかし@〜Bは洋の東西を問わず流通してきた残虐物語の定番と言える。Aの代わりに赤ん坊を空中になげ、銃剣で刺すシーンが入ることもある。われわれの世代だと、どこかで見聞きしたはずだ。

マニアの間では起源をめぐるろんそうも起き、赤ん坊を放り上げるのはトルコ軍かロシア軍の得意技らしいと書いた論文を読んだことがある。

そこで元兵士に聞いてみると、彼は銃剣を構える動作を試みた後、「技術的に無理だと思うよ」と答えた。マスコミで流通している斬首写真の多くは、日中戦争期の中国の特務工作部が、アマ俳優を使って撮影した「やらせ写真」であることが立証されているが、さりとてこの種の行為がなかったとは言えまい。

しかしCは見聞きした記憶がなく、ゲンの作者が思いついた空想シーンと断じてよいと思う。念のため友人の医師に聞いてみたが、「物理的に不可能」という返事だった。
  (『慰安婦問題の決算』(p116)

これは秦郁彦の「慰安婦」問題がらみの最新作『慰安婦問題の決算』のp116である。最初に書かれている「第10巻」というのは、『はだしのゲン』の第10巻の事だ。要するに『はだしのゲン』に書かれている内容を秦郁彦が否定的に扱っているのである。


             

問題視しているのはこのシーンである  

https://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/66169965.html


皇軍が戦争中にやったことをゲンが話しているシーンである。嫌なシーンだが、皇軍がしばしばこの手のことをやっていたのは、多くの記録が物語っている。

 @ 「銃剣術の的にした話」                


例えば、「銃剣術の的にした話」は、皇族である三笠宮崇仁も戦地で陸軍参謀時代に同僚から聞いたという。
( 『This is 読売』1994-8 )


<殿下にインタビュー>

「最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から『新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる』という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体なんだったのかという疑義に駆られました」(p56)

A捕虜を試し切りしたり銃剣で刺すのは

        よくあることだった


十二月十三日 天気晴朗
一、本日正午高山剣士来着す
  捕虜七名あり 直に試斬を為さしむ
  時恰も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頚二つを見込(事)斬りたり
(第十六師団長、『中島今朝吾日記』より)

陸軍の兵士が、その五人を鉄の垣根のところへ連れ出し、江へ面して手すりに向こうむきに並ばせては、後ろから銃剣で突き刺すのである。その様子は、とてもまともに見ていられない。海軍中尉も、この様子を見て「とても後ろから斬りとばすことはできない」とやめてしまった。
               (『偕行』1985年1月号 P32「住谷盤根氏の回想」)

一将校が軍刀で日本刀の切味を試さんとしたら少しのすきをみて逃げ出したのを自分と××君と二人で追い・・・(略)・・・
             (『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 P36「斉藤次郎陣中日記」

十一月二日、夜半、中国軍正規兵一名を捕えた。
朝、小隊長伊藤少尉が、軍刀の試し切りをすると斬首する。
               (山本武『一兵士の従軍記録』)

陸軍第五十九師団師団長陸軍中将藤田茂筆供述書「俘虜殺害の教育指示」

「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此の機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」 「此には銃殺より刺殺が効果的である」
   (『侵略の証言−中国における日本人戦犯自筆供述書』新井利男・藤原彰編)


鬼になる洗礼

 昭和7年(1932年)1月のある日だった。入営して二ヶ月にもならない。兵舎から200メートルほど離れた射撃場からさらに100メートルの所に、ロシア人墓地があった。その墓地に三中隊の60人の初年兵が集められた。大隊長や中隊長ら幹部がずらりと来ていた。「何があるのか」と、初年兵がざわついているところに、6人の中国の農民姿の男たちが連れてこられた。全員後ろ手に縛られていた。上官は「度胸をつける教育をする。じっくり見学するように」と指示した。男たちは、匪賊で、警察に捕まったのを三中隊に引き渡されたという。はじめに、着任したばかりの大隊長(中佐)が、細身の刀を下げて6人のうちの一人の前に立った。だれかが「まず大隊長から」と、すすめたらしい。内地からきたばかりの大隊長は、人を斬ったことなどなかった様子だった。部下が「自分を試そうとしている」ことは承知していたろう。どんな表情だったか、土屋は覚えていない。彼は、刀を抜いたものの、立ちつくしたままだった。「度胸がねえ大隊長だナ」と、土屋ら初年兵たちは見た。すぐに中尉二人が代行した。 ヒゲをピアーッとたてた、いかにも千軍万馬の古つわもの、という風情だった。こういう人ならいくら弾が飛んできても立ったままでいられるだろうな、と思った。その中尉の一人が、後ろ手に縛られ、ひざを折った姿勢の中国人に近づくと、刀
を抜き、一瞬のうちに首をはねた。土屋には「スパーッ」と聞こえた。もう一人の中尉も、別の一人を斬った。その場に来ていた二中隊の将校も、刀を振るった。後で知ったが、首というのは、案外簡単に斬れる。斬れ過ぎて自分の足まで傷つけることがあるから、左足を引いて刀を振りおろすのだという。三人のつわものたちは、このコツを心得ていた。もう何人もこうして中国人を斬ってきたのだろう。

首を斬られた農民姿の中国人の首からは、血が、3,4メートルも噴き上げた。「軍隊とはこんなことをするのか」と、土屋は思った。顔から血の気が引き、小刻みに震えているのがわかった。そこへ、「土屋!」と、上官の大声が浴びせられた。 上官は「今度は、お前が突き殺せ!」と命じた。

・・・「ワアーッ」。頭の中が空っぽになるほどの大声を上げて、その中国人に突き進んだ。両わきをしっかりしめて、といった刺突の基本など忘れていた。多分へっぴり腰だったろう。農民服姿、汚れた帽子をかぶったその中国人は、目隠しもしていなかった。三十五、六歳。殺される恐怖心どころか、怒りに燃えた目だった。それが土屋をにらんでいた。

目前で仲間であろう三人の首が斬られるのを見ていたその中国人は、生への執着はなかった、と土屋は思う。ただ、後で憲兵となり、拷問を繰り返した時、必ず中国人は「日本鬼子」と叫んだ。「日本人の鬼め」という侵略者への憎悪の言葉だった。そう叫びながら、憎しみと怒りで燃え上がりそうな目でにらんだ。今、まさに土屋が突き殺そうという相手の目もそうだった。
恐怖心は、むしろ、土屋の側にあった。それを大声で消し、土屋は力まかせに胸のあたりを突いた。
         (『聞き書き ある憲兵の記録』朝日新聞山形支局「元憲兵 土屋芳雄の話」)


秦は「@〜Bは洋の東西を問わず流通してきた残虐物語の定番」と述べ、得意の「どこにでもあった論」で誤魔化そうとしているが、到底誤魔化せるようなものではないだろう。


B赤子を銃剣で刺し殺す話

赤子を銃剣で刺し殺す話も、創価学会青年部が熊本第6師団の元兵士の回想を集めた『揚子江は哭いている』はこう書いている。      


 日本軍の急進撃のため、路傍に取り残されて泣いている赤ん坊がいた。母親が殺されたのか置いて逃げたのかわからないが、一人ぽつんと残されていた。その子を歩兵の一人が、いきなり銃剣でブスリと、串刺しにしたのである。
 赤子は、声を出す間もなく、即死した。
 突き刺した兵は、さらに、刺したまま頭上に掲げた。それも誇らしげに・・・。「やめろ」という間もない、アッという間の出来事であった。
                    (『揚子江は哭いている』P93〜P94)


 C「一升瓶を女性の性器に叩き込む残虐行為」


「Cは見聞きした記憶がなく、ゲンの作者が思いついた空想シーンと断じてよい」と秦は書いているが、”バカを言うな”と言うしかない。


秦は色川大吉が戦時中の出来事を半自伝的に書いた『ある昭和史 自分史の試み』を読んだこともないのだろうか?

秦にとっては、歴史学者として先輩になるわけだが。

このブログではすでにここに書いている。

               (『ある昭和史 自分史の試み』p68)


まさに『はだしのゲン』が描いた通りのシーンであり、『はだしのゲン』の作者である中沢啓治はこうした話を読んだり、出征兵士から聞いていたのかも知れない。近現代専門の歴史学者秦郁彦よりも漫画家中沢啓治の方が歴史に詳しいという事実に我々は失笑せずにはおれない。


この色川大吉の話は吉田裕教授(近現代専門の著名な歴史学者)も『天皇の軍隊と南京事件』に引用している。秦の「見聞きした記憶がなく」や「ゲンの作者が思いついた空想シーンと断じてよい」は、秦の不勉強から生じた見解であると断じてよいだろう。

イメージ 1
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https://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/66169965.html

(吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』)


『はだしのゲン』への攻撃は在特会とその周辺がはじめたことである。まるで歴史資料を知らないレイシストたちが、日中戦争時に皇軍兵士が犯した罪悪について無知なのはまだしも教育の弊害として情状酌量の余地がないでもないが、専門研究者であり近現代史について数多くの著作をし、南京事件に関しても本を書いている秦がそれに同調し、「見聞きした記憶がなく、ゲンの作者が思いついた空想シーンと断じて」しまうのは甚だしい不見識である。


また、たとえ色川の『ある昭和史 自分史の試み』を読んだこともなく、あるいは読んだが失念している場合でも、日中戦争史の強姦で、異物を女性器に入れて殺害する行為は、様々な著作物に書かれていることなので、「性器に一升瓶を入れて殺す」もあったかも知れないと考えるのが正しい考察の仕方であろう。


例えば、秦が『現代史の争点』P10で、「シンドラーとは比較にならぬほどの義人」「インパクトと説得力を持っている」と高い評価を与え、*関西の新聞に「資料的な価値は高い」とコメントしたという「ラーベの日記」には、

1938年2月3日
局部に竹をつっこまれた女の人の死体をそこらじゅうで見かける。吐き気がして息苦しくなる。七十を超えた人さえなんども暴行されているのだ。
                             (ジョン・ラーベ『南京の真実』P222)


と書かれている。


  *http://www.history.gr.jp/nanking/rabe.html

南京大虐殺に関する資料は全てイチャモンをつけるという東中野センセイの姿勢をよく表している文章だが、秦のコメント自体には違和感はない。

イメージ 3
イメージ 4
https://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/66169965.html

(『現代史の争点』)


自分がこれほど高い評価を与えた「ラーベの日記」を、まさか読んでないなんてことは無いだろう。


さらに秦は『南京事件』(p121)に「小原立一日記」を掲載しており、「殺して陰部に木片を突っこむ」と書いている。


十二月十四日

最前線の兵七名で凡そ三一〇名の正規軍を捕虜にしてきたので見に行った。色々な奴がいる。武器を取りあげ服装検査、その間に逃亡を計った奴三名は直ちに銃殺、間もなく一人ずつ一丁ばかり離れた所へ引き出し兵隊二百人ばかりで全部突き殺す・・・・中に女一名あり、殺して陰部に木片を突っこむ。


自分でも皇軍が女性の陰部にいたずらをする例を書いているのである。


南京事件では強姦が嵐のようになされており、家族を殺された夏さんの母親も性器にビンを押し込んで殺害されたという。https://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64396076.html


しかし、秦郁彦は「見聞きした記憶がない」ようである。歴史学者という肩書に恥ずかしくないのだろうか?

【備考】その他「強姦殺人+性器へのいたずら」


川沿いに、女たちが首だけ出して隠れているのを引き揚げてはぶっ殺し、陰部に竹を突きさしたりした。杭州湾から昆山まで道端に延々とそういう死体がころがっていた。昆山では中国の敗残兵の大部隊がやられていて、機関砲でやったらしいが屍の山で、体は引き裂かれて、チンポコ丸出しで死んでいた。そのチンポコがみな立ってるんだ、ローソクみたいに。「チンポコ3万本」と俺たちはいっていたが、3000人以上はいたろうな」(p46)
『証言記録三光作戦―南京虐殺から満州国崩壊まで』 森山康平 1975「第10軍に従軍したカメラマン河野公輝の話」


もっと残虐な行為をする者もあった。妊娠している婦人を連行して全裸にし、大きく膨らんだ腹に刀で突き立てる者、木の間に女の両手両足をゆわえ、子宮に手榴弾を指し込み爆発させる者等・・・・・とにかく手当たり次第に、女という女には、ありとあらゆるいたずらをしたのである。女たちにどれほど酷い事をしたかという話しが、兵隊仲間で興味本位に、しかも得意げに語られていたものである。(元軍曹T氏)

(月刊誌『潮』1971年7月号、特集「大陸中国での日本人の犯罪=100人の証言と告白」より)

支那の時より軍紀は概して良好で、それにそんな悪いことをする間もないほどの急進撃だったからな。女の死体の陰部などに竹の棒をさし込むような凌辱を加えられてあったのを一度だけ見たけれど、あんなことはさすがに嫌な気がして面をそむけちまった。
                                        昭和17年、シンガポール
(鮎川信夫著『鮎川信夫著作集第七巻』思潮社、1974)

変態性欲的行為トシテハ勿論其例ハ多クハナイ。其ノ例トシテハ死人ノ陰部ニ悪戯セルモノ(男女)捕虜ノ陰部ニ特ニ悪戯スル者(即チ陰茎ニ油ヲ注ギ是ニ点火セルコト)或ハ他兵若クハ支那人(殊ニ夫ノ前)ニ見ラレツヽ性交セル者、或ハ性交ニテ足ラズ虐待シ或ハ是ヲ銃殺セル者等ヲ挙ゲル事ガ出来ル。亦支那婦人中ニハ金ヲ貰ヒテ陰部ヲ見セル悪風ガアル。兵モ是ニ興味ヲ感ジ脅迫ノ上見ルコトニ止マラズ遂ニ強姦ニ及ンダ例モアツタ。上海事変ノ時ニハ女ノ乳首ヲ切リ取リ紙ニ包ミテ持チ歩キタル兵ガアツタト聞イタ。今度ノ事変ニハ女ガ逃ゲテ居ラナカツタカラコンナ例ハナカツタト思フ。
  (『戦場心理ノ研究 』 p78 https://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/64338135.html)

銃剣で突きさしたり、妊娠している女の腹に刺して子供を引きづり出しました。私も4,5人やりました。相当残酷な事をしたもんです
               連続強姦殺人で死刑になった小平義雄談
(『新評』1971年8月)


それにしても、敵側の惨虐は報道し得ても、「皇軍」の残虐は報道できない―。

 町はずれの路傍で姑娘が、地べたに腰をおろしていた。近づいてみると、上衣はつけていたが、下着も下穿きも脱がされていた。二十歳前後だろうか。その頃流行の断髪姿、顔立ちも整った美人だったが、兵隊に犯されて立つ気力を失ってしまったのだろう、手だけはわずかに動いて、眼は大きく開いていたが、どこをみているのか、うつろな瞳だった。通りがかって兵隊がやったものだろう。裸の股の間に棒キレがさしこまれていた。 女はそれを抜いて捨てる気力もないようにみえた。兵隊たちが立ちどまって覗きこんでいた。そのとき、小隊長らしい将校がやってきて、兵隊に向って「かたづけろ!」とどなった。

 いったいどこへ片付けろというのだろう。病院もなければ、住民もいない。手当するようなところもない。数人の兵が姑娘をかついで行った。

 夕暮どき、私は兵隊たちにきいた。
 「あの女、どこへかたづけた!」
 「焼いちゃいました。あんな恰好でころがっていたのでは、死んでも浮かばれないでしょうから、マキを積んで、その上にのせて、焼いちゃいました」。

 彼女は虫の息だったが、たしかに生きていた。すると、彼女は生きたまま焼かれたのである。

(『侵掠』小俣行男P53〜P54)
(追記2018-3-9)

https://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/66169965.html


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615. 中川隆[-9046] koaQ7Jey 2019年7月16日 07:19:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3648] 報告
Q2.慰安所設置の指揮・命令系統はどのようなものだったのですか?
https://wam-peace.org/ifaq/ifaq-02

日本軍慰安所が最初に設けられたのは、1932年はじめの上海です。このとき上海派遣軍の参謀副長と高級参謀が慰安所設置の指示を出し、参謀が実際の設置にあたりました。1937年からの日中戦争の際には、中支那方面軍が慰安所設置の指示を出し、その下にある上海派遣軍は参謀二課(補給などの後方担当)が案を作って南京での慰安所設置を進めます。華北にいた北支那方面軍では参謀長が慰安所設置を指示しました。このように陸軍の派遣軍司令部が直接、慰安所設置にあたっていました。

派遣軍の指揮下は、軍−師団−旅団−連隊−大隊―中隊という順になっていますが、それぞれの段階で、補給などの後方担当の参謀や副官、憲兵などが「慰安婦」の徴集や慰安所設置にあたっています。もちろん軍の頂点にいたのは大元帥であった天皇でした。


https://wam-peace.org/main/wp-content/uploads/2018/07/5621deba8a18b839c7a4321764bb05e8.gif
https://wam-peace.org/main/wp-content/uploads/2018/07/2a831ec055ed4fee4e1d0936ea40500d.gif


海軍の場合は、海軍省、各艦隊司令部、占領行政にあたった海軍民政部などが慰安所の設置運営に関わっています。

1938年の内務省資料を紹介しましょう。中国の華南にいた第21軍が「慰安婦」を集めるために参謀を東京に派遣しました。その参謀は陸軍省の課長とともに内務省警保局(現在で言えば警察庁)に出向いて女性集めを依頼しました。それを受けて警保局では、警保局長の名で府県知事に通牒を出して、県が業者を選定して女性を集めさせること、また業者に便宜を供与するように指示しています。参謀本部のスタッフも女性の輸送に関わることになっています。内務省から指示を受けた府県では、業者を選定し、集められた女性の身元を調査し身分証明書を出す必要がありましたが、そうした仕事は警察がおこないました。知事→県警察部長(現在の県警本部長)→各警察署長と指示が伝えられ、警察署の警察官が動いたことは間違いありません。

つまり中国への派遣軍、中央の陸軍省・参謀本部という陸軍の組織だけでなく、内務省警保局、府県知事・県警察部長・警察署というように日本政府の中央から地方機関までが「慰安婦」の徴集と送り出しを組織的におこなっていたのです。このときには台湾総督府にも同様の依頼をおこなっており、そこでも台湾総督府の地方組織・警察が組織的に動いたことはまちがいありません。これは日本や台湾の女性を「慰安婦」として連れて行った例ですが、このように日本軍慰安所制度の設置運営は日本軍の機構全体にとどまらず政府・地方行政全体が関わった、国家ぐるみの行為でした。

さらに付け加えれば、実は上海の日本軍慰安所に女性を日本から連れて行こうとした業者らが女性の国外移送誘拐罪で逮捕され、1937年3月に大審院(現在の最高裁判所)で有罪が確定していました。ところが内務省警保局は翌38年2月、つまり慰安所開設が本格化する時期に、女性の送り出しを「必要已むを得ざる」と認める通牒を出しました。つまり最高裁判所が犯罪であると認めた行為を放置するだけでなく、ここで紹介した1938年の資料のように政府自らが犯罪行為を手がけたのでした。だからその通牒には、業者が自発的にやっているかのように装い、政府や軍の関わりを秘密にするように指示していたのです。そういう点からも慰安所制度は日本の国家ぐるみの犯罪であったと言えるでしょう。


(注)
軍司令官や師団長を補佐し作戦計画や命令を作るのが参謀です。そのトップが参謀長、次に参謀副長、そして参謀たちです。参謀の中で最も重要な作戦を担当するものを高級参謀とも言います。
https://wam-peace.org/ifaq/ifaq-02

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616. 中川隆[-8869] koaQ7Jey 2019年8月06日 13:11:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3863] 報告
八代弁護士、河村たかし、松井一郎が“慰安婦問題はデマ”とネトウヨ並みフェイク! あらためて中曽根証言など日本軍関与の証拠を見ろ
https://lite-ra.com/2019/08/post-4885.html
2019.08.06 八代弁護士が「慰安婦問題は史実に基づかない」とネトウヨ並みデマ リテラ

    
    ネトウヨなみのデマ!  (『ひるおび!』より)


 安倍政権による韓国への輸出規制と「ホワイト国」除外、あいちトリエンナーレでの「平和の少女像」などの展示中止……。国交正常化以来最悪と言われる日韓関係のなか、日本中がグロテスクな嫌韓ムードと歴史修正主義に染まっている。

 それは安倍政権周りの政治家やネット、右派メディアだけではない。地上波のワイドショーでもネトウヨとなんら変わらないヘイトや歴史修正主義が堂々と語られるようになった。

 5日放送の『ひるおび!』(TBS)でも、慰安婦問題など含む作品を展示した「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれた件をとりあげるなか、八代英輝弁護士がこんな発言をしていた。

「当然、この社会的風潮のなか、この慰安婦像。この慰安婦問題っていうものが史実に基づかないものであること。あるいはこの慰安婦像に対して嫌悪感、反感をもつ方っていうのは多くいるってことは、当然認識した上での展示ですから。ある程度の反感というのは想定されたんでしょうけど、それが、私は『想定を超えてしまった』って認識は甘いんでないかというふうに思うんですよね」

 八代弁護士は「表現自体をさせないという風潮は危険だなと思う」などとエクスキューズをいれつつも、「私自身はこれ(少女像)を置いて、こんなものあってはならないと議論するということはアリだと思いますけどね」と続けるなど、嫌韓煽りを剥き出しにしていた。

 さらには、落語家の立川志らくも、いつもの物知り顔でこうコメントした。

「結局、こういうことをやると、日本人の多くは不愉快に思って許さないという結果が出た。これを『平和の少女像』って言う人がいることが、私は不思議でしょうがない。平和の少女像って言うなら、日本人の誰もが見て、これは平和だなって思えるならいいんだけれども。そりゃ韓国の人はそうかもしれないけど、日本人にとっては多くの人が反日の像だと思ってるわけでしょ? 本来、芸術ならば、これを反日像だと思っている人が見ても、思わず感動して涙を流す、そういうものを私は展示してほしい」

 本サイトでも解説した(https://lite-ra.com/2019/08/post-4880.html)ように、「平和の少女像」が「反日」だというのは完全にネトウヨの論理であり、歪曲した解釈だ。それを「みんなが思ってるんだから反日に決まってる」と言い張り、表現の自由を踏みにじる卑劣なテロ予告者ではなく、議論を換気しようとした展示や作品のほうを問題視する。その倒錯ぶりと付和雷同には、呆れ果てるしかない。

 とくに聞き逃せないのは、八代弁護士が発した「慰安婦問題っていうものが史実に基づかないものである」とのセリフだろう。八代弁護士は、つい先日も朝日新聞を韓国の中央日報、ハンギョレ新聞と並べて「反日三羽ガラス」と揶揄するなど、テレビの全国放送ネトウヨぶりを全開していたが、今度は慰安婦それ自体がなかったかのような発言をしたのだ。

はっきり言っておくが、慰安婦の存在は捏造でもなんでもなく。歴史的な事実だ。弁護士の資格を持つ人間が、地上波の昼間の番組で、保守派の学者でさえ言わないような歴史修正主義丸出しのデマを口にしていいのか。

 いや、八代弁護士だけではない。「平和の少女像」展示に圧力をかけ、「表現の不自由展」への攻撃を煽った河村たかし名古屋市長も、今日の会見で「やっぱり慰安婦ってあったのかと、そういうふうに見られる」などと発言していた。つまり、河村市長も慰安婦は存在しないと信じ込んでいるのだ。

 さらに、日本維新の会代表の松井一郎・大阪市長からはもっととんでもないデマ暴言が飛び出した。松井市長は5日会見で「事実ではない慰安婦の像」「日本人を蔑み貶める、誹謗中傷」「慰安婦問題というのは完全なデマ」「朝日新聞自体が誤報だと謝罪しているわけですから」「事実ではないデマの象徴の慰安婦像は行政が主催する展示会で展示するべきものではない」などと語り、慰安婦は完全なデマと言い放ったのである。

■中曽根康弘元首相が海軍主計長時代に「土人女を集め慰安所を開設」の記録

 こうした連中の妄言の根拠は、2014年、朝日新聞が慰安婦関連記事の虚偽を認め、訂正・謝罪したことだ。朝日が訂正したのは、とっくのとうに虚偽であることが分かっていた吉田清治証言に関するものだけだったが、当時、ネトウヨや極右メディアがこの謝罪を意図的に拡大解釈し、あたかも戦中に「慰安婦」自体の存在がなかったのようなデマを喧伝しまくった。意図的かどうかは知らないが、八代弁護士や河村市長らはこのネトウヨ歴史修正の詐術に丸乗っかりしているということだろう。

 だとしたら、本サイトとしては何度でも、その欺瞞と詐術を明らかにしておく必要がある。戦中の日本軍が各地に慰安所をつくり、現地の女性たちや朝鮮半島の女性たちを慰安婦にして、兵士の性暴力の相手にさせられたのは客観的事実だからだ。

 日本軍が侵略したアジアの各地に慰安所をつくったことは残された軍の記録や通達からも明らかであり、歴史学的にも議論の余地はない。軍が斡旋業者を使って騙して女性を連れ出した証拠や、現地の支配者や村長に命じて女性を差し出させた証拠もいくらでもある。そして、慰安所で現地の女性や朝鮮半島から連行した女性を軍が性的搾取したことは、多くの被害女性だけでなく、当時の現地関係者や元日本兵、元将校なども証言していることだ。

 たとえば、海軍出身の中曽根康弘元首相は、回想記『終りなき海軍』のなかで、当時、設営部隊の主計長として赴任したインドネシアで〈原住民の女を襲う〉部下のために〈苦心して、慰安所をつくってやった〉ことを自慢話として書いている。この中曽根証言は、防衛省のシンクタンク・防衛研究所の戦史研究センターが所蔵している当時の文書「海軍航空基地第2設営班資料」において、〈気荒くなり日本人同志けんか等起る〉ようになったところで〈主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設 気持の緩和に非常に効果ありたり〉と記されているように、歴史事実として裏付けされたものだ。

■産経の総帥も自著で軍時代の慰安所設立を自慢「女の耐久度とか消耗度も決めていた」

 また、陸軍出身の鹿内信隆・元産経新聞社長は、桜田武・元日経連会長との対談集『いま明かす戦後秘史』(サンケイ出版)のなかで、慰安所と慰安婦が軍主導であった事実をあけすけに語っていた。

「(前略)軍隊でなけりゃありえないことだろうけど、戦地に行きますとピー屋(引用者註:慰安所のこと)が……」
「調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が将校は何分、下士官は何分、兵は何分……といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが『ピー屋設置要綱』というんで、これも経理学校で教わった」
 
 実際、靖国偕行文庫所蔵の『初級作戦給養百題』(1941年)という陸軍主計団記事発行部が発行した、いわば経理将校のための教科書の記述にも〈慰安所ノ設置〉が業務のひとつとされており、この鹿内証言も軍の資料と完全に一致する。

 朝鮮半島の女性たちを慰安婦にした証拠も枚挙にいとまがない。

 日本はアジア・太平洋戦争で東南アジア各国を侵略、傀儡政権を樹立したり、軍の統治下に置くなどの支配を進めていったが、たとえばシンガポールでは現地の華僑を粛清した後に、日本軍の宣伝班の下で刊行された新聞に“慰安婦募集の広告”が出ている。そうした慰安所に大勢の朝鮮人女性も動員されたことは「16歳の時にシンガポールの慰安所に連れて行かれた」という朝鮮人元慰安婦の証言だけでなく、近年発見されたビルマ(現・ミャンマー)とシンガポールの慰安所で帳場の仕事をしていた朝鮮人男性の日記からも明らかになっている。また、独立自動車第四二大隊にいた元日本軍兵士も「トタン塀」と呼んでいた慰安所には「娼妓は朝鮮人が多かったが、マライ人もいた」と証言している。

■米朝会談の舞台となったセントーサ島では朝鮮人女性が騙されて慰安婦に

 昨年、米朝会談の舞台となったシンガポール南端のセントーサ島(旧称・ブラカンマティ島)でもまた、朝鮮人女性たちが慰安婦として働かされていた。しかも、彼女たちは別の仕事だと騙されて連れてこられたのだ。

 当時、東南アジアで通訳として従軍していた永瀬隆氏が証言している。永瀬氏は、日本が戦中につくらせたタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道で陸軍の通訳をしていたことで知られる日本人男性だ。日本軍による泰緬鉄道建設にあたっては、数万人のアジア人労働者や連合国軍の捕虜が非人道的な扱いを受け犠牲となっている。永瀬氏は戦後、反戦平和の立場から個人でその慰霊と償いの社会活動を続け、2011年に亡くなった。

 その永瀬氏が生前、月刊誌「MOKU」(黙出版)1998年12月号での高嶋伸欣・琉球大学教授(現・名誉教授)との対談のなかで、セントーサ島での体験を語っていた。シンガポールでも数か月の間、陸軍の通訳として勤務しており、その時、慰安所の女性たちや軍の部隊長と話をしたことをこのように振り返っている。

「(セントーサ島には1942年の)十二月中旬までいました。十一月になって隊長が僕を呼んで、『実は朝鮮の慰安婦がこの部隊に配属になってくるんだが、彼女たちは日本語がたどたどしいから、日本語教育をしてくれ』というんです。僕は『嫌なことをいうな。通訳はそこまでしなきゃいけんのか』と思ったけど、その隊長はもう島の王様気取りでおるんです。仕方がないから、慰安婦の人たちに日本語を三、四回教えました」

 永瀬氏は「そのうちに、僕は兵隊じゃないから、慰安婦の人も話がしやすいんだな」と思ったという。そして、朝鮮人女性たちに慰安所にきた理由を聞くと、騙されて連れて来られたというのだ。

「それで僕も『あんたたちはどうしてここへ来たんだ』と聞いたら、『実は私たちは、昭南島(シンガポール)の陸軍の食堂でウエイトレスとして働く約束で、支度金を百円もらって軍用船でここへ来たんだけど、着いた途端に、お前たちは慰安婦だといわれた』というんです」
「それを聞いて、ひどいことをするなと思った。いま考えてみても、強制的に連行して慰安婦にするよりも、そうやって騙して連れてきて慰安婦にするほうが、僕は罪は深いと思います。
 とにかく、それから島の中に慰安所ができたんですが、隊長が慰安所の兵隊にくだしおかれる前に、慰安婦を毎晩代わりばんこに次から次へ味見しているという話を聞きました」

■「慰安婦は存在しなかった」の嘘が堂々とまかり通る恐ろしさ

 つまり、日本軍は、彼女たち朝鮮人女性に性的労働をさせることを告げず、まして嘘の説明で騙して慰安所に連れて行ったケースが明らかに存在した。そして、前述した中曽根元首相らの証言や当時の軍資料のように、日本軍が従軍慰安婦に積極的に関与していたことも歴史的な事実なのである。

 八代弁護士が言うような「慰安婦問題は史実に基づかない」というのが、いかにフェイクであるかが分かるだろう。歴史修正主義者たちは、こうして慰安婦問題を矮小化しているのだ。

 恐ろしいのは、こうした歴史的な事実を否認する発言が、当たり前のようにワイドショーで飛び出し、他のマスコミが検証を放棄した結果、少なからぬ視聴者が何ら疑念をもたないでいることだ。実際、八代弁護士の発言の嘘を検証したり、批判的に取り上げるマスコミは、いまのところ皆無。それどころか、Twitterでは「よくぞ言ってくれた!」というような賞賛まで受けている。

 繰り返すが、安倍政権が煽動する“嫌韓”を、応援団やマスコミが増幅し、それがごく当たり前のように社会に蔓延しているのが、いまの日本社会だ。その結果起きたのが、平和の少女像などの展示に対する異常なバッシングであり、放火テロまでほのめかす脅迫だった。歴史的事実や、それに向き合うための表現まで「反日」と糾弾され、封殺されてしまう状況は、もはや“嫌韓ファシズム”と呼ぶべきかもしれない。

 しかも、こうしたメディアの扇動によって、国民の世論じたいもどんどん冷静さを失っている。

 政府が先月実施した「ホワイト国除外」に関するパブリックコメントには、寄せられた4万666件の意見のうち、「除外」に賛成が実に約95%で、反対はわずか約1%だったという。これは、安倍応援団やネトウヨの組織票の可能性が濃厚だが、他方、FNNと産経新聞が3、4日に実施した世論調査でも、「ホワイト国除外」を「支持する」が67.6%に登り、「支持しない」は19.4%にすぎなった。

 ワイドショーをはじめとするマスコミには、自分たちが取り返しのつかない状況を作り出しているという自覚はないのだろうか。

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

617. 中川隆[-8837] koaQ7Jey 2019年8月16日 00:59:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3903] 報告
終戦記記念日にあらためて言いたい!「慰安婦はデマ」こそデマだ! 日本軍関与、強制連行…歴史修正主義者たちはこの証拠を見よ
https://lite-ra.com/2019/08/post-4903.html

2019.08.15 終戦記記念日にあらためて言いたい!「慰安婦はデマ」こそデマだ! リテラ
   
   

 74年目の終戦記念日を迎えた今日、やはり、取り上げておくべきは日本軍「慰安婦」問題だろう。第二次安倍政権の誕生とともに、右派政治家やネット右翼による歴史修正主義は一気に勢いづき、「反日バッシング」の大号令のもとで大日本帝国賛美への傾きを増している。その象徴が、戦中の日本軍による「慰安婦」問題だからだ。

「平和の少女像」が展示された「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」は、脅迫や政治家の圧力によって中止に追い込まれたが、ネトウヨだけでなく、いまや政治家たちもが剥き出しの歴史修正発言を平然と繰り出しており、かたや、それを批判・検証する動きは鈍い。

「慰安婦問題は完全なデマなんだから。軍が関与した強制連行はなかったわけだから。それは一報を報じた朝日新聞自体が誤報と謝罪しているわけだから」「事実ではないデマの象徴の慰安婦像は行政が主催する展示会で展示するべきものではない」(松井一郎・大阪市長)

「名古屋市と愛知県は認めたのかと、国の補助金も入っているような(芸術祭で)国も韓国の主張を認めたのかと。やっぱり従軍慰安婦ってあったのかと、そういうふうに見られるじゃないかと」(河村たかし・名古屋市長)

 言っておくが、「慰安婦はデマ」「慰安婦はなかった」という発言こそ、はっきりとしたデマだ。そもそも、2014年に朝日新聞が訂正・謝罪したのは「慰安婦狩り」を創作した吉田清治証言にかんするもののみ。戦中の日本軍がアジア各地に慰安所をつくり、女性たちを「慰安婦」にして、兵士の性暴力の相手にしたのは事実である。

 まず、軍が慰安所づくりに主体的に携わったことを示す公的文書や元日本軍人の証言はいくらでもある。先日の記事(https://lite-ra.com/2019/08/post-4885.html)でも触れたが、たとえば、海軍出身の中曽根康弘・元首相は回想のなかで、インドネシアで「苦心して、慰安所をつくってやった」ことを自慢話として書いている。陸軍出身の鹿内信隆・元産経新聞社長はある対談で、「調弁する女の耐久度とか消耗度」などを含む慰安所の設置方法を経理学校で教わったと語っている。これらの証言は防衛省などが保持する当時の軍の史料でも裏付けされており、つまり、慰安所と「慰安婦」が軍主導であった事実を示している。

 アジアへの侵略戦争のなか、日本軍は戦地または占領地に軍直営や軍専用の慰安所をつくり、あるいは民間の売春宿を指定するかたちで慰安所にした。たとえば、防衛省の防衛研究所が所蔵する史料「常州駐屯間内務規定」(1938年3月16日、独立攻城重砲兵第二大隊が作成)では、中国現地の〈慰安所使用規定〉として部隊ごとに使用する曜日が決められていたほか、〈使用時間ハ一人一時間ヲ限度トス〉とあり〈支那人 一円○○銭〉〈半島人 一円五十銭〉〈内地人 二円○○銭〉とされている。軍が慰安所をつくり、朝鮮や現地の女性を「慰安婦」にしていたのは客観的にも議論の余地がないのだ。

 そこで、歴史修正主義者たちは「軍が関与した強制連行を示す証拠はない」などと言って「慰安婦問題はデマだ」と嘯くわけだが、しかし、これも問題を矮小化する典型的手口としか言いようがない。

 だいたい、歴史修正主義者たちは「軍がトラックで村に乗り込んできて、娘たちを連れ去って慰安婦にした」というようなケースだけを「強制連行」とするが、「強制」とはそもそも「本人の意思に反して無理矢理行わせること」だ。

 朝鮮人元慰安婦の証言で多いのは、「工場で働かせる」「稼げる仕事がある」などと甘言を弄して「慰安婦」にすることを隠し、騙して慰安所へ連行するケースだ。軍が直接的に連行せず業者を使っていても、元締めの業者は軍が選定し、慰安所では軍人の相手を強制されたのだから、当然、軍の責任は免れない。

■「いい仕事がある」と騙され貨車に詰め込まれ日本憲兵から「逃げようとしたら殺すぞ」と

 たとえば、朝鮮人元「慰安婦」の朴永心さんは1939年、17歳のとき、騙されて南京の慰安所へ連れていかれた。当時務めていた洋品店に、腰にサーベルをつけた日本人の巡査がやってきて、「お金が稼げるいい仕事がある」と誘われ、どういった仕事かはわからなかったが親孝行になると思い、ついていったという。

〈巡査は、私たちを憲兵に引き渡すとそそくさと姿を消してしまいました。私たちは屋根のついた貨車(有蓋貨車)に詰め込まれました。真夏だというのに貨車には窓がなく、風が通らないので中は蒸し風呂のような暑さでした。ブラウスが汗で肌にべったり張りついていたのを覚えています。
 一緒に乗り込んできた憲兵は「逃げようとしたら殺すぞ」と私たちを脅し、娘たちが互いに話すことも禁じました。トイレに行きたくても外に出してもらえず、我慢ができなくなると恥ずかしいなんて言ってられない。貨車の中で用を足さねばなりませんでした。本当につらかった。
 私たちは黙ったまま、暗い貨車の中で身を寄せ合って座っていました。「帰りたい」と泣き叫んでも殴られるだけで、どうすることもできなかったのです。「だまされた」と気がついたときにはすでに手遅れでした。〉【脚注1】

 明らかにそこには日本の官憲の「関与」があり、女性たちは「慰安婦」になることを「強制」されていたわけだが、さらに、東南アジアでは直接的に日本軍によって連行されたという証言も多い。

〈1943年のある夜、日本兵がやってきて、家々から若い女性を引きずり出しました。私は腕から乳飲み子をもぎとられ、むりやりトラックに押し込まれ、トンロックホテルで降ろされました。そこは陸軍専用の慰安所でした。〉(ロザリン・ソウさん/マレーシア・ペナン島生まれ)【脚注2】

〈日本軍の占領下、オランダ人は抑留所に入れられました。1944年2月、抑留所に日本軍の将校がきて、若い女性を広場に整列させ、「慰安婦」にする女性を選びました。私をふくむ16人の娘が「七海亭」に連行されました。私たちは恐怖で身を寄せあって祈りましたが、ひとり、またひとりと寝室に連れていかれました。私は日本刀をつきつけられて強かんされました。私はこの最初の夜を決して忘れません。翌日からは日本兵が列をつくってやってきました。2カ月後、慰安所は突然閉鎖され、私たちはボゴールの抑留所に移されました。日本兵は「慰安所のことを話したら、家族ともども殺す」と脅しました。私は沈黙するしかなく、周囲から「日本の売春婦」とよばれて、つらい思いをしました。〉(ジャン・ラフ=オハーンさん/オランダ領ジャワ島生まれ)【脚注2】

 安倍首相は第一次政権時に「言わば、官憲が家に押し入っていって人を人さらいのごとく連れていくという、そういう強制性はなかった」(2007年3月5日参院予算委員会)と答弁したが、これは真っ赤な嘘なのである。

■日本軍によって両親を虐殺され、慰安婦にされたフィリピン女性

 目の前で日本軍によって肉親を虐殺され、「慰安婦」にさせられたケースさえある。フィリピン人元「慰安婦」のルフィーナ・フェルナンデスさんの証言だ。1942年に日本軍がフィリピンを占領したとき、フェルナンデスさんは14歳だった。場所を移しながら避難生活を送るなか、マニラ郊外の家に日本軍が入ってきた。

〈この家に戻るとすぐ私たちの家に日本軍が入り込んできました。彼らは私の父を当時強かった反日ゲリラの容疑者ということで、逮捕しようとしていました。父は前から山に行ったり、マニラに行ったりしていて、反日運動など何ひとつ行っていません。そのことを日本軍の兵士に言いました。しかし、兵士はいっこうに耳をかそうとせず、父を殴りつけました。そして、私は避難生活の間に一五才になっていましたけれど、私を見つけて日本軍の兵士が連れて行こうとしました。それをみた父が逆上して、私を連れ戻そうと日本軍の兵士に抵抗した時に、父は私の見ている前で日本軍の兵士になぐり殺されました。そして次は母の番でした。母も私をかばおうと日本兵の前に立ちはだかると、兵士が何度も何度も母のおなかを殴りつけ、母はそのまま死んでしまいました。兄弟は私の目の前で殴られ続けました。私は止めようとしましたが、私も頭をひどく殴られ意識を失った状態で車の中に連れて行かれました。遠ざかる意識の中で泣き叫ぶ兄弟の声が聞こえなくなりました。おそらく彼らも殺されたのだとその時思いました。
 私の家族はこうしてすべて殺されました。これは私にとって、とてもつらい信じられない出来事でした。そのことだけでも私は五〇年間日本人と日本軍に対する怒りで苦しみ続けてきました。〉【脚注3】

 そして、慰安所での女性たちの境遇は「凄惨」や「壮絶」という言葉ではとても言い表せないほどのものだった。数々の証言からは、虐待や暴行は日常茶飯事であり、まさに兵士たちが女性を「モノ」扱いしていたことが伺える。

■日本兵から「皇軍のため」「一〇〇人でも二〇〇人でも入ってくるだけ奉仕をしろ」と

 たとえば、朝鮮人元「慰安婦」の李桂月さんはこう証言している。15歳になった年に、村の区長に「仕事を斡旋するから、いい所に行こう」と言われ向かった先で日本の軍人に引き渡され、ハルピン近くの慰安所に連れて行かれた。

〈日本軍は「慰安婦」たちが言うことを聞かないとひどく殴りました。ある日、私は部屋に入ってきた将校に「体の調子が悪い」と言って相手をすることを拒絶したのですが、将校は「皇軍の言うことが聞けないのか」とどなり、連続びんたを食らわせました。あまりの痛さに目がくらみ、あごががくがくしました。将校は私を押し倒して腹や胸を蹴り、しまいには軍刀のさやで額を殴りました。私のあばら骨は折れ、額からは血が流れ、とうとう私は完全に気を失ってしまいました。〉
〈また、ある日、「タナカ」が部屋に入って来たときに私が横になったまま起き上がらないので靴で触り、「死んでない」と言いながらたばこに火をつけて私の腹に押し付けました。私の体が熱さと痛さでひくひくとするのを見て、「タナカ」は「おもしろい」と言い、たばこを取り替えながら更にあちこちにたばこの火を押し付けたのです。たばこを押し付けられてやけどをしたところは水ぶくれになり、化膿してしまいました。〉
〈日本兵は「皇軍のために頑張れ」と言い、「一〇〇人でも二〇〇人でも入ってくるだけ奉仕をしろ」と命令しました。それで、日曜日にはご飯を食べる時間も、便所に行く時間もなく「奉仕」させられました。一日中数十人もの日本兵に犯されると、指を動かす力もなくなり、失神するほどでした。一緒に連行されて来たヨンジャとイ・プニは、日本兵の暴行で殺されました。ヨンジャは病気になって腹が膨れ上がりましたが、日本兵はにんしんしている女は不必要だと言って軍刀で彼女のお腹を切り裂きました。しかし、胎児はおらず、水みたいなものがあふれ出ただけでした。ヨンジャは腹水の病気だったと思います。〉【脚注1】

 彼女たちは騙されたり、暴力によって無理矢理に「慰安婦」にさせられただけではない。慰安所では、兵士の性暴力の相手を拒めず、居住も強制され、監視によって外出や逃亡もできなかったという証言がほとんどだ。また当時の日本は、女性や児童の売買を禁じる国際条約や、満21歳未満の女性を国外へ連れて行くことを禁じる国際条約に加入しており、これらにも違反していた。なにより、戦争遂行のために女性の自由を奪い、強制的に男性の性暴力に晒すのは、深刻な人権侵害にほかならない。

 冒頭に述べたように、敗戦から74年を迎えるこの国では、「慰安婦」の存在を否定するデマが勢いづいている。女性の人権を擁護し、被害と惨禍を繰り返すまいと決意することが「反日」などと呼ばれ、バッシングや脅迫の対象となってしまう社会。そうした歪んだ状況を正さない以上、同じことが繰り返されないという保証はない。そのことを決して忘れないでほしい。

(編集部)

■引用元と主な参考文献
【1】アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編/西野瑠美子、金富子責任編集『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集1』明石書店
【2】アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編『フィールドワーク 日本軍「慰安婦」』平和文化
【3】アジア・フォーラム編『元『慰安婦』の証言──五〇年の沈黙をやぶって』皓星社
【他参考】日本軍「慰安婦」問題webサイト制作委員会編/吉見義明、西野瑠美子、林博史、金富子責任編集『Q&A「慰安婦」・強制・性奴隷』御茶の水書房


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618. 中川隆[-10890] koaQ7Jey 2019年9月17日 05:21:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1899] 報告
秦郁彦 VS 吉見義明
https://www.nicovideo.jp/watch/sm24444064

2013-07-03
慰安婦問題の討論・秦郁彦vs吉見義明、秦郁彦は歴史家の名を利用するのやめたらどうだろう
https://dj19.hatenadiary.org/entry/20130703/p1


6/13、TBSラジオ番組で秦郁彦氏と吉見義明氏による「従軍慰安婦」問題についての15、6年ぶりの討論があった。取り上げるのが遅くなったが秦郁彦氏の誤魔化しや詭弁があまりに酷いので批判しておこうと思う。


●2013年06月13日(木)「秦郁彦さん、吉見義明さん、第一人者と考える『慰安婦問題』の論点」(対局モード)- 荻上チキ・Session-22
http://www.tbsradio.jp/ss954/2013/06/20130613-1.html



■ポッドキャスティングで聴く
http://podcast.tbsradio.jp/ss954/files/20130613main.mp3

■Youtubeで聴く
https://www.youtube.com/watch?v=3ANBEo8Ju14


まず視聴した感想を書くと、「慰安婦」として動員された女性たちは貧しいのが通例であり、経済的にも社会的にも弱い立場にあったわけだが、こうした女性たちに対する秦郁彦氏の蔑視と冷淡さは相変わらずひどいものだった。
彼女たちが被った慰安所での性暴力、強制売春といった犯罪被害は少しも顧みられることはないし、史料の都合のいいつまみ食いと、それを全体の問題にすり替えた粗雑な否定論も目立つ。

公娼については「家族のため」にやったこと、慰安婦については「売った親が悪い」と、家父長制や昔の家制度の論理で個人の自発性や自己責任に落とし込み消化されるだけなのだ。

まぁそんな秦郁彦氏でも、吉見義明氏に従軍慰安婦の被害の実態をツッコまれると、言葉の言い換えや詭弁で誤魔化そうとしてだいぶボロが出ていた。

以下は、ラジオ番組から人身売買や性的奴隷に関する発言の一部を文字起こしたもの(時間はYoutubeによる)。


19:05 〜
秦郁彦
内地の公娼制をね、これ、奴隷だということになってくると、そうすると、現在のオランダの飾り窓だとか、ドイツも公認してますしね、それからアメリカでも連邦はだめだけれどネバダ州は公認してるんですよ。これは皆、性奴隷ということになりますね。

吉見義明
それは、人身売買によって女性たちがそこに入れられているわけですか?

秦郁彦
人身売買がなければ奴隷じゃないわけですか?志願した人もいるわけでしょ。高い給料にひかれてね。

吉見義明
セックスワークをどういうふうに認めるかということについてはいろいろ議論があって難しいわけですけれど、少なくとも人身売買を基にしてですね、そういうシステムが成り立っている場合は、それは性奴隷制というほかはないじゃないですか。

秦郁彦
自由志願制の場合はどうなんですか?

吉見義明
それは性奴隷制とは必ずしも言えないんじゃないでしょうか。
秦郁彦
公娼であっても?

吉見義明
それは本人が自由意志でですね、仮に性労働をしているのであればそれは強制とは言えないし、性奴隷制とも言えないでしょうね。

20:15 〜
秦郁彦

日本の身売りというのがありましたね。それで身売りというのは人身売買だから、これはいかんということになってるんですね、日本の法律でね。

吉見義明

いつ、いかんていうことになってるんですか?

秦郁彦

人身売買、自体はマリア・ルス(マリアルーズ)号事件の頃からあるでしょ、だから。

吉見義明

それはあの〜確かにあるけれど、それは建前なわけですよね。

秦郁彦

建前にしろですね、人身売買ってのは、だいたい親が娘を売るわけですけれどね。売ったという形にしないわけですよね。要するに金を借り入れたと、それを返済するまでね、娘が、これを年季奉公とか言ったりするんですけどね、その間、その〜、性サービスをやらされるっていうことなんでね。
それで、娘には必ずしも実情が伝えられてないわけですね。だからね、しかし、いわゆる身売りなんですね。

荻上チキ
(着いてみたら)こんなはずじゃなかった、という手記が残っているわけですね。

秦郁彦

う〜ん騙(だま)しと思う場合もあるでしょう。ね。
(中略)
だからね。これは、う〜ん、なんていうかな、自由意志か、自由意志でないかは非常に難しいんですね。家族のためにということで誰が判定するんですか。

吉見義明

いや、そこに明らかに金を払ってですね、女性の人身を拘束しているわけですから、それは人身売買というほかないじゃないですか。

荻上チキ
ちょっと時期は違いますけれどもね、『吉原花魁日記』とか『春駒日記』とかっていう、昔の大正期などの史料などでは、親に「働いてこい」と言われたけど、実際に働いてみるまでそのことだとは思わなかったケースもあったりすると。

秦郁彦
うん、そうそう。

荻上チキ
それは、親も敢えて黙っていたかもしれないし、周りの人も「いいね、お金が稼げて」と誉のように言んだけども、内実を周りは知らなかったっていうような話は色いろあったみたいですね。
吉見義明
実際にはあれでしょ、売春によって借金を返すというシステムになってるわけでしょ?

秦郁彦
今だってそれはあるわけでしょ。

吉見義明
それは、それこそ人身売買であって、それは問題になるんじゃないですか?

秦郁彦
じゃぁ、ネバダ州に行って、あなた、大きな声でそれは弾劾するだけの勇気がありますか?

吉見義明
もしそれが人身売買であれば、それは弾劾されるべき。

秦郁彦
志願してる場合ですよ、自発的に。自発かね、その〜どこで区別するんですか?

吉見義明
何を言ってるんですか、あなたは?

秦郁彦
え?

これは当時の公娼制度に関連したやり取りだが、秦氏が当時の日本での人身売買を基礎にした公娼制度と、現在の様々な法令によって女性の人権がある程度、保護されたうえで公認されている売春を同列に語っていることにまず驚く。このやり取りを聴いただけでも、秦郁彦氏が「自由売春」と、犯罪である「強制売春」の区別がついていないことは明らかだろう。いや、わかっていてわざとそこに触れないよう回避していると見るべきか。

そもそも秦氏は1999年の著書『慰安婦と戦場の性』のなかで、公娼制度とは「まさに「前借金の名の下に人身売買、奴隷制度、外出の自由、廃業の自由すらない二〇世紀最大の人道問題」(廓清会の内相あて陳情書)にちがいなかった(同書p.36)」と公娼制度が奴隷制度であることを認めていた。
さらに同書では、「「慰安婦」または「従軍慰安婦」のシステムは、戦前期の日本に定着していた公娼制の戦地版として位置づけるのが適切かと思われる。(前書p.27)」と述べていた。

この論理なら、「公娼制度の戦地版」である慰安婦制度も同様に奴隷制度という認識になるはずである*1。ところが今回の吉見義明氏との討論では、最後まで公娼制度や慰安婦制度が奴隷制度であることを認めることはなかった。

とはいっても秦氏はこの後(後段の文字起こし部分)で、朝鮮半島から慰安婦として動員された女性たちの「大部分」が「誘拐や人身売買」の被害者であることまで認めた。そして、身売り=人身売買の被害者は「借金を返す」までの期間、身体を拘束され性行為を継続的に強要される状況にあったことも認めている。これは暗に奴隷状態であったことを認めているに等しい。

国際的な定義では、こうした他者の支配下に置かれ、自分のことを自由に決定する権利が奪われ所有物として扱われる地位や状態は奴隷状態であり、こうした状況で継続的に性行為を強要される状態を性的奴隷状態と定義しているのだから。(こちらを参照:性奴隷の定義を無視し「慰安婦は性奴隷ではない」と叫んでも反論になってない - Transnational History 性奴隷の定義を無視し「慰安婦は性奴隷ではない」と叫んでも反論になってない - Transnational History)



36:26 〜
荻上チキ
前提としてそういったふうに(連れて行かれた女性が慰安所での性行為を拒否し)イヤだイヤだといった場合は、帰る自由といったものはあったんですか?
秦郁彦
借金を返せばね。借金を返せば何も問題ないわけですよ。

吉見義明
え〜つまり、借金を返すまで何年間かそこ(慰安所)に拘束されるわけです。
それが性奴隷制度だっていうこと。

秦郁彦
そうすると親がね、返さなきゃいけんのですよ。親が売ったのが悪いでしょ。
吉見義明
秦さんがわかってないのそこですよ。
秦郁彦
どうして?
吉見義明
借金を返せば解放されるというのであれば、それは人身売買を認めてることになるじゃないですか。


53:35

吉見義明
先ほど言いましたように略取とか誘拐とか人身売買で連れて行くのがほとんどだったわけですよね。
そうして朝鮮半島で誘拐や人身売買があったということは、え〜、秦さんも認めておられるわけですね。

秦郁彦
当然ですよ。それが大部分ですよ。

吉見義明
それでたとえ業者がそういうことをやったとしても、その業者は軍に選定された業者である。で実際に被害が生じるのは慰安所ですけど、その慰安所というのは軍の施設である。軍がつくった軍の施設であるわけですね。そこで女性たちが誘拐とか人身売買で拘束をされているわけですね。
当然、軍に責任があるということになると思う。


このやり取りでは吉見氏が、人身売買により身体を拘束された女性たちが借金を返すまでは解放されず性行為を強制されるシステムは性的奴隷制度であると指摘するが、秦氏は「親が売ったのが悪い」と親の責任にして話を逸らしている。
しかしこの後で秦氏は朝鮮半島では「誘拐や人身売買」のケースが「大部分」だったことを認めており、そうであるなら貧困により生活が困窮し娘を売った親も、その多くは偽りの説明を告げられ騙されていたと推測するのは難しいことではないだろう。

ビルマでの尋問調書『日本人捕虜尋問報告 第49号』には次のように記述されている。


1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南 アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵 を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地――シンガポール――における新生活という将来性であった。このような偽りの説明 を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡金を受け取った。

日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日
http://a777.ath.cx/ComfortWomen/proof_jp.html


長くなるので文字起こしの引用は省略するがYouTubeの40分(http://youtu.be/3ANBEo8Ju14?t=40m)ごろから、秦氏は呆れたことに上のビルマでの捕虜尋問調書を持ち出し、慰安婦がどれだけ楽だったかを力説している! しかし吉見氏にその解釈の間違いをことごとく反論され、みごと撃沈しているが(その討論の文字起こしはこちら)。


最後に秦氏の詭弁を批判しておこう。

今回の討論では秦氏は慰安婦の問題に直接絡めて言及したわけではないが、このエントリの冒頭部分の文字起こしにあるように「秦:人身売買がなければ奴隷じゃないわけですか?志願した人もいるわけでしょ。高い給料にひかれてね。」だとか、吉見氏の発言「人身売買であれば、それは弾劾されるべき。」に対し「秦:志願してる場合ですよ、自発的に。自発かね、その〜どこで区別するんですか?」などと、「志願」や「自発的」な側面があれば人身売買や奴隷に当たらないとの認識を披露している。そしてつい最近も産経新聞への寄稿で慰安婦募集の広告に「応募者は少なくなかったろう」などと述べているぐらいだから*2、「自発」や「志願」なら人身売買や奴隷とは呼べず軍の責任も免責されると考えているのだろう。
しかしこの「自発的」なのか「志願」なのか、といった問題設定自体が、初めから問題を否認するための偽りの問題設定、あるいはすり替えと言わざるを得ない。


日本政府も署名している国連の「人身取引(人身売買)補足議定書」の定義は次のようになっている。


人身取引(人身売買)の定義
Protocol to prevent, suppress and punish trafficking in persons, especially women and children, supplementing the United Nations Convention against Transnational Organized Crime
和訳:国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約を補足する人、特に女性及び児童の取引を防止し、抑止し及び処罰するための議定書
英語原文:http://www.unodc.org/documents/treaties/UNTOC/Publications/TOC%20Convention/TOCebook-e.pdf
外務省 和文テキスト:http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/treaty162_1.html
(日本政府はtraffickingを人身売買ではなく人身取引と和訳している。)


Article 3. Use of terms
第3条
(a) “Trafficking in persons” shall mean the recruitment, transportation,transfer, harbouring or receipt of persons, by means of the threat or use of forceor other forms of coercion, of abduction, of fraud, of deception, of the abuse of power or of a position of vulnerability or of the giving or receiving of payments or benefits to achieve the consent of a person having control over another person, for the purpose of exploitation. Exploitation shall include, at a minimum, the exploitation of the prostitution of others or other forms of sexual exploitation, forced labour or services, slavery or practices similar to slavery, servitude or the removal of organs;
(a) 「人身取引」とは、搾取の目的で、暴力その他の形態の強制力による脅迫若しくはその行使、誘拐、詐欺、欺もう、権力の濫用若しくはぜい弱な立場に乗ずること又は他の者を支配下に置く者の同意を得る目的で行われる金銭若しくは利益の授受の手段を用いて、人を獲得(募集)し、輸送し、引き渡し、蔵匿し、又は収受することをいう。搾取には、少なくとも、他の者を売春させて搾取することその他の形態の性的搾取、強制的な労働若しくは役務(サービス)の提供、奴隷化若しくはこれに類する行為、隷属又は臓器の摘出を含める。
(b) The consent of a victim of trafficking in persons to the intended exploitation set forth in subparagraph (a) of this article shall be irrelevant where any of the means set forth in subparagraph (a) have been used;
(b) (a)に規定する手段が用いられた場合には、人身取引の被害者が(a)に規定する搾取について同意しているか否かを問わない。
(c) The recruitment, transportation, transfer, harbouring or receipt of a child for the purpose of exploitation shall be considered “trafficking in persons” even if this does not involve any of the means set forth in subparagraph (a) of this article;
(c) 搾取の目的で児童を獲得し、輸送し、引き渡し、蔵匿し、又は収受することは、(a)に規定するいずれの手段が用いられない場合であっても、人身取引とみなされる。
(d) “Child” shall mean any person under eighteen years of age.
(d) 「児童」とは、18 歳未満のすべての者をいう。

(強調は引用者による)


一読してわかるように、搾取の目的で、暴力、誘拐や詐欺、同意を得る目的で行われる金銭の授受、弱い立場に乗ずるなどの手段が用いられている場合、自発的どころか、たとえ本人が同意している場合であっても人身売買に該当 (b項)することに変わりはないのである。

また、「自発的」や「志願」といった事実が一部にあったとしても、それによって女性たちが「慰安婦」になることを「同意」していたと見なすことはできない。なぜなら朝鮮半島からの動員では職種を偽ったり明かさずに甘言で騙して国外へ連れて行く誘拐や就業詐欺(人身売買を含む)といったケースが数多く報告されており*3、秦氏も朝鮮半島では「誘拐や人身売買」のケースが「大部分」だったことを認めているのだから。

まぁ日本軍の場合、上記の人身売買の定義にある、獲得(募集)、輸送、収受といった3つの過程すべてにおいて組織的に関与・介入しており、国家責任が問われないよう見せかけるには秦さんもこうした詭弁を弄するしか選択肢がないのだろう、とは思うが。


*1:秦郁彦氏は慰安婦制度を公娼制度へと一般化させようと差異を無視している。一例をあげるなら、公娼制度では建前上とはいえ法規定(娼妓取締規則)により「廃業の自由」が保障されていた(もちろん実態は違っていたのだが)、しかし慰安婦制度にはそうした廃業の自由を保障する法規定すら存在しなかった。

*2:こちらを参照:秦郁彦氏は従軍慰安婦の話題になるとバカになる - 誰かの妄想・はてな版 秦郁彦氏は従軍慰安婦の話題になるとバカになる - 誰かの妄想・はてな版

*3:誘拐、詐欺、人身売買の数多くの事例はこちらを参照:日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態 - Transnational History 日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態 - Transnational History。他にも、元朝鮮人慰安婦19人による証言集でも、甘言に騙され連れて行かれたケース(人身売買を含む)が最も多くを占める。参照『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』明石書店 ,1993年


https://dj19.hatenadiary.org/entry/20130703/p1


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

619. 中川隆[-15250] koaQ7Jey 2019年11月29日 22:09:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2325] 報告
中曽根康弘死去であらためて振り返る従軍慰安婦 中曽根の「慰安所つくった」証言と「土人女を集め慰安所開設」防衛省文書(リテラ)
http://www.asyura2.com/19/senkyo267/msg/697.html
https://lite-ra.com/2019/11/post-5119.html


2019.11.29 中曽根康弘「慰安所つくった」証言と「土人女を集め慰安所開設」文書 リテラ

     
左・中曽根元首相の“手記”が収録されている『終りなき海軍』(文化放送開発センター)/右・中曽根元首相が慰安所を設置させたことを示す資料


 中曽根康弘元首相が、101歳で死去した。メディアでは、国鉄民営化や日米安保体制強化などを功績として振り返っているが、負の側面も非常に大きい政治家ある。

 たとえば、現在の日本社会にもつながる右傾化・歴史修正主義の台頭や新自由主義路線の端緒となり、日本の戦後民主主義政治を歪めた張本人だ。こうした功罪の罪の部分も検証されるべきだが、なかでも本人が一度は告白しながら途中からダンマリを貫いたこの問題はきっちり検証するべきだろう。

 そう、日本軍の従軍慰安婦問題だ。

 中曽根元首相が戦時中、海軍主計士官(将校)の地位にあったことは有名だが、その当時、自ら慰安所の設置に積極的に関わり、慰安婦の調達までしていたことを、戦後に自分の“手記”の中で自ら書いているのだ。

 しかも、これは中曽根元首相の思い違いでも妄想でもない。防衛省にも中曽根元首相の“慰安所づくり”証言を裏付ける戦時資料が存在している。

 本サイトでは、2014年夏、朝日新聞の慰安婦記事バッシングが盛り上がり勢いづいた右派の、慰安婦の存在や日本軍の関与までなかったことにしようという歴史修正主義の動きに抵抗するため、この中曽根“慰安所づくり”証言とそれを裏付ける戦時資料について詳しく報じた。(ちなみに、フジ産経グループの総帥だった鹿内信隆にも中曽根元首相と同様に、慰安所づくりへの関与発言があり、やはり本サイトが記事にしている(https://lite-ra.com/2014/09/post-440.html)。

 中曽根元首相の証言は、従軍慰安婦に日本軍が組織的に関与していたことを物語る重大な証言だったが、手記出版から30年ほど経ってからこの記述がクローズアップされると、中曽根元首相は一転否定、その後ダンマリを通してきた。

 中曽根元首相には、従軍慰安婦問題とりわけ日本軍の関与について、自らの口で明らかにする歴史的責任があったはずだが、それはかなわなくなってしまった。

 中曽根“慰安所づくり”証言とそれを裏付ける戦時資料から、従軍慰安婦の存在と日本軍関与が事実であることを報じた記事を再録する。「慰安婦は存在しなかった」というデマが大手を振って罷り通るいま、あらためてご一読いただきたい。
(編集部)

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●中曽根元首相が「土人女を集め慰安所開設」! 防衛省に戦時記録が

 朝日新聞の慰安婦訂正記事で右派陣営が勢いづいている。「朝日は責任をとれ!」と気勢をあげているのはもちろん、自民党の政務調査会議は河野談話も朝日報道が前提だとして「河野談話を撤回し、新たな官房長官談話を!」とぶちあげた。また、同党の議連では朝日新聞関係者、さらに当時の河野洋平元官房長を国会に招致して聴取すべき、という意見までとび出している。
 
 だが、朝日や河野洋平氏を聴取するなら、もっと先に国会に呼ぶべき人物がいる。それは第71代日本国内閣総理大臣の中曽根康弘だ。
 
 大勲位まで受章した元首相をなぜ従軍慰安婦問題で審訊しなければならないのか。それは先の大戦で海軍主計士官(将校)の地位にあった中曽根元首相が、自ら慰安所の設置に積極的に関わり、慰安婦の調達までしていたからだ。

■中曽根が手記で「原住民の女を襲う」部下のために「苦心して、慰安所をつくってやった」と自慢

 何かというと左翼のでっちあげとわめきたてて自分たちを正当化しようとする保守派やネトウヨのみなさんには申し訳ないが、これは捏造でも推測でもない。中曽根元首相は自分の“手記”の中で自らこの事実を書いており、しかも、防衛省にそれを裏付ける戦時資料が存在していたのだ。そこには、部隊の隊員によるこんな文言が書かれていた。

「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」

 まず、“手記”の話からいこう。中曽根が慰安所設立の事実を書いたのは『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)。同書は戦中海軍に所属し、戦後各界で活躍した成功者たちが思い出話を語った本だが、その中で、海軍主計士官だった中曽根も文章を寄稿していた。

 タイトルは「二十三歳で三千人の総指揮官」。当時、インドネシアの設営部隊の主計長だった中曽根が、荒ぶる部下たちを引き連れながら、いかに人心掌握し戦場を乗り切ったかという自慢話だが、その中にこんな一文があったのだ。

「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」

 おそらく当時、中曽根は後に慰安婦が問題になるなんてまったく想像していなかったのだろう。その重大性に気づかず、自慢話として得々と「原住民の女を襲う」部下のために「苦心して、慰安所をつくってやった」と書いていたのだ。

 ところが、それから30年たって、この記述が問題になる。2007年3月23日、中曽根が日本外国特派員協会で会見をした際、アメリカの新聞社の特派員からこの記載を追及されたのだ。

■防衛省に、中曽根「慰安所づくり」証言を裏付ける客観的証拠が!

 このとき、中曽根元首相は「旧海軍時代に慰安所をつくった記憶はない」「事実と違う。海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」「具体的なことは知らない」と完全否定している。

 だが、これは明らかに嘘、ごまかしである。そもそもたんなる休憩や娯楽のための施設なら、「苦心」する必要があるとは思えないし、中曽根元首相の弁明通りなら、『終りなき海軍』の“手記”のほうがデタラメということになってしまう。だが、同書の編者である松浦敬紀はその10年ほど前、「フライデー」の取材に「中曽根さん本人が原稿を2本かいてきて、どちらかを採用してくれと送ってきた」「本にする段階で本人もゲラのチェックをしている」と明言しているのだ。

 いや、そんなことよりなにより、中曽根元首相の慰安所開設には、冒頭に書いたように、客観的な証拠が存在する。 

 国家機関である防衛省のシンクタンク・防衛研究所の戦史研究センター。戦史資料の編纂・管理や、調査研究を行っている研究機関だが、そこにその証拠資料があった。

 資料名は「海軍航空基地第2設営班資料」(以下、「2設営班資料」)。第2設営班とは、中曽根が当時、主計長を務めていた海軍設営班矢部班のことで、飛行場設営を目的にダバオ(フィリピン)、タラカン(インドネシア)を経てバリクパパン(インドネシア)に転戦した部隊だが、この資料は同部隊の工営長だった宮地米三氏がそれを記録し、寄贈。同センターが歴史的価値のある資料として保存していたものだ。
 
 本サイトは今回、同センターでその「第2設営班資料」を閲覧し、コピーを入手した。

 宮地氏の自筆で書かれたと思われるその資料にはまず、「第二設営班 矢部部隊」という表題の後、「一 編制」という項目があり、幹部の名前が列挙されていた。すると、そこには「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」という記載。そして、資料を読み進めていくと、「5、設営後の状況」という項目にこんな記録が載っていたのだ。

「バリクパパンでは◯(判読不可)場の整備一応完了して、攻撃機による蘭印作戦が始まると工員連中ゆるみが出た風で又日本出港の際約二ヶ月の旨申し渡しありし為皈(ママ)心矢の如く気荒くなり日本人同志けんか等起る様になる
 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設気持の緩和に非常に効果ありたり」

 さらに「第2設営班資料」のなかには、慰安所設置を指し示す証拠となる、宮地氏の残したものと思われる手書きの地図も存在していた。

■インドネシアで民家だった場所を、日本軍が接収し慰安所に作り変え!

 それはバリクパパン「上陸時」の様子(昭和17年1月24日)と、設営「完了時」の様子(17年1月24日〜同年3月24日)を表す2点の地図資料だ。バリクパパン市街から約20km地点のこの地図から、中曽根たちが設営したと思われるマンガル飛行場滑走路のそばを流れるマンガル河を中心に民家が点在し、またマンガル河から離れた場所に民家が一軒だけポツリと孤立していることがわかる。

 そして2つの地図を見比べてみると、“ある変化”があることに気づく。「上陸時」から「完了時」の地図の変化のひとつとして、その孤立した民家の周辺に、設営班が便所をおいたことが記されている。さらにその場所には「上陸時」にはなかった「設営班慰安所」との記載が書き加えられている。

 つまり、上陸時に民家だった場所を日本軍が接収し、「設営班慰安所」に変えてしまったと思われるのだ。 

 もはや言い逃れのしようはないだろう。「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」という記載。それを裏付ける地図。中曽根元首相が自分で手記に書いたこととぴったり符号するではないか。

 しかも、「土人女を集め」という表現を読む限り、中曽根主計長が命じて、現地で女性を調達したとしか考えられないのである。

 実際、インドネシアでは多くの女性が慰安婦として働かされており、彼女たちは日本軍に命じられた村の役人の方針で、どんなことをさせられるのかもしらないまま日本兵の引率のもと連れ去られたことを証言している。そして、年端も行かない女性達がいきなり慰安所で複数の日本兵に犯されたという悲惨な体験が語られ、その中にはこのパリクパパンの慰安所に連れてこられたという女性もいる。
 
 つまり、中曽根首相がこうした“強制連行”に関与していた可能性も十分あるのだ。

 朝日新聞の訂正で勢いづいた保守・右派勢力は銃剣を突きつけて連行したという吉田証言が虚偽だったという一事をもって、強制連行そのものを否定しようとしている。さらには従軍慰安婦への軍の関与そのものを否定するかのような虚偽を平気でふりまいている。

 しかし、もし、強制連行はない、軍の関与もないといいはるならここはやはり、「土人女を集め」たという元主計長・中曽根康弘を国会に喚問して、どう「集め」たのか、「苦心」とはなんだったのか証言させるべきではないのか。一メディアの誤報をあげつらうより、そのほうがはるかに「歴史の検証」になると思うのだが、いかがだろう。

(エンジョウトオル)



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

620. 中川隆[-15229] koaQ7Jey 2019年12月01日 15:26:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2301] 報告
2017-05-21
「大勲位」元首相に中曽根康弘主計中尉の慰安所設営を思い出させてあげよう
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237
「大勲位」中曽根康弘が今月27日に99歳になるとかで、これを祝う会が開かれたそうだ。

27日に99歳を迎える中曽根康弘の白寿を祝う会が開かれ、安倍晋三ら約230人が集まった。 
読売新聞の渡辺恒雄・グループ本社主筆は、改憲をめぐり「いよいよ安倍内閣で実現の運びとなれば、中曽根さんにとって非常にハッピー」と述べた。https://t.co/Dxuap7P3i1
— BARA (@BARANEKO) 2017年5月15日


■ 慰安所設営を自慢していた中曽根康弘
岸信介や奥野誠亮もそうだったが、ロクでもない政治屋ほどしぶとく長生きするのにはうんざりだ。
それはともかく、中曽根といえば軍隊時代にインドネシアで慰安所設営に関与し、しかも自分でそれを自慢げに書いている[1]。
二十三歳で三千人の総指揮官
(略)
 まず私は、海兵団に兵隊をもらいにいき、部隊を編成した。また、呉の海軍建設部に集結しつつあった三千人の徴用工を組織する任務もあった。そして、必要な糧食、資材、弾薬、それに零戦や一式攻撃機を飛ばす莫大なガソリン、爆弾を調達して、これをわずか七日間に、四隻の輸送船に満載したのである。これはまさに大事業であった。
(略)
 われわれの船団が、第三の上陸地バリクパパンに進入したときのことである。そのとき突然、オランダ、イギリスの駆逐艦と潜水艦が襲撃してきた。(略)
 三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。(略)
この本の出版は1978年だから、やがて日本軍性奴隷(いわゆる「従軍慰安婦」)制度が大問題になるなどとは思ってもみなかったのだろう。だから気軽に書いたわけだ。
■ 言い訳を否定する「第2設営班資料」
問題が大きくなり、この文章についても指摘されるようになると、自分の作った「慰安所」は強制売春施設ではない、と言い訳を始めた。2007年、外国特派員協会での記者会見では、「海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」と述べている[2]。
だが、2011年、民間団体「平和資料館・草の家」が、防衛省所蔵の資料から中曽根と同じ「第2設営班」の工営長だった海軍技師宮地米三氏のメモを発見したことで、この言い訳も成り立たなくなった[3]。
 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。
 中曽根氏は『終りなき海軍』の本で「私は苦心して、慰安所をつくってやった」と書くなど慰安所建設は認めていました。しかし、外国特派員協会の記者会見でも「慰安所は軍人らが碁を打つなど休息所の目的で設置した」と、いわゆる「慰安婦」を置く慰安所設置は否定していました。
碁を打って休息するような施設を作るのに、どうして「土人女を集め」る必要があるのか?
最近では「もう記憶にない」とか言っているようだが、以下の資料[4]を見れば自分が何を作ったのか思い出せるのではないだろうか。
《第2設営班編成表》 主計長中曽根康弘の名がある

《設営後の状況》 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設

《1942年3月11日》 慰安所(設営班)開設

《322基地(バリクパパン)地図》 設営班慰安所


[1] 松浦敬紀編 『終わりなき海軍』 文化放送開発センター出版部 1978年 P.91-98
[2] 廣川高史 『中曽根元首相:旧海軍時代に慰安所つくった記憶ない−慰安婦問題』 Bloomberg 2007.3.23
[3] 『「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表』 しんぶん赤旗 2011.10.28
[4] 日本政府未認定の日本軍「慰安婦」関連公文書リスト#70 『海軍航空基地 第2設営班資料』 女たちの戦争と平和資料館Wam

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/21/105237

▲△▽▼

中曽根が設営した慰安所で性暴力を受けた被害者の証言
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932

中曽根「大勲位」元首相の慰安所関与を取り上げた前回記事に、こんなコメントがついた。
慰安所というのは売春のための施設でしょうか?そういうもと決めつけて資料を読んでいませんか?

慰安というのは日本語で何を意味していますか?例えば女性にお酌をしてもらってお酒を飲める場所は、慰安施設言い換えれば慰安所と言えますよね?
慰安は売春だけを指すものですか?
なら、そうであったという証拠をだすべきでしょう、できなければ下世話な想像しかできない阿呆のたわごとにすぎません
ひとつ下の「99」さんのコメントの画像を見ろ、としか言いようがないのだが、何の根拠もなく自らの願望を書き散らしていればいいのだからネトウヨは気楽なものである。
この画像の番組(TBS報道特集「インドネシアでの戦時性暴力」2015年7月25日放映)でも証言しているスハルティさんは、元参議院議員の吉川春子氏に、次のように具体的に中曽根の作った慰安所での経験を語っている[1]。
 私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)
 スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。

 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくてもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので、「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。
ついでに、上記の報道特集から、当時インドネシアで「慰安所」を体験した元日本兵の証言も紹介しておこう。
金平:軍の慰安所とかにね、何回かやっぱり行かれたんですよね? そのときの気持ちって、どういう気持ちだったんですか?
元日本兵:要するに突撃一番ですよ。なにしろ、男としての遊びだけですよ。公衆便所と似たような感じ。ただ公衆便所は、ついた朝顔のとこにふっかけるんだけど、見たこともない女性の服をこうしてやるわけだから(笑いながら)要するに、コンドームは必ずつけてですね。
金平:突撃一番っていうのは、軍から支給された?
元日本兵:支給してたんですよ。コンドームを。
このインドネシアのようなケースの場合、「慰安所」で行われていたのは売春などではなく、日本軍による未成年の少女たちの組織的監禁・強姦だろう。性病の心配のない処女を狙って集めたのだ。阿呆のたわごとはいい加減にしてほしい。

[1] 吉川春子 『アジアの花たちへ』 かもがわ出版 2008年 P.53-54

https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/28/131932



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

621. 中川隆[-15242] koaQ7Jey 2019年12月01日 15:38:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2314] 報告

2019-12-01
中曽根康弘が(ようやく)死んだ
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/01/142525


10月29日、中曽根康弘が死んだ。101歳だったという。

■ 中曽根の葬儀こそ「民営化」すべき
この中曽根もそうだし、岸信介(1987年、90歳没)や奥野誠亮(2016年、103歳没)もそうだが、社会に悪をなすロクでもない政治屋ほどしぶとく長生きして天寿を全うするパターンが多くて嫌になる。

政府は国葬や国民葬を検討しているそうだが、「日本のサッチャー」中曽根の葬儀は「民営化」して徹底的にコストカットすべきだろう。それこそがこの男にはふさわしい。

■ 中曽根、インドネシアに「慰安所」を開設
中曽根の悪行は数え上げたらきりがないが、この男が政治家としてやらかしたことはとりあえず脇に置いて、ここでは海軍時代の中曽根が慰安所(レイプセンター)の設営に直接関与していたことを取り上げる。
なぜそれが分かったかというと、出世した旧海軍出身者の自慢話を集めた本(松浦敬紀編著『終りなき海軍』)の中で、まるでいいことでもしてやったかのように自分で書いていたからだ。[1]


 われわれの船団が、第三の上陸地バリクパパンに進入したときのことである。そのとき突然、オランダ、イギリスの駆逐艦と潜水艦が襲撃してきた。(略)
 三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。(略)
この本の出版は1978年。この当時は、まさか日本軍性奴隷制度が重大な戦時性暴力事件として世界から非難されることになるとは思いもしなかったのだろう。また、中曽根がバリクパパン(インドネシア)に作った慰安所は海軍直営であり、これは「業者が勝手にやった」式のウソを吹き飛ばす貴重な証言でもある。
■ 問題が大きくなると慰安所での性行為強制を否定
ところが、日本軍性奴隷制度が国際問題化し、バリクパパンの事例についても注目が集まるようになると、中曽根は、自分の作った「慰安所」は他とは違って強制売春施設ではなかったと言い出した。2007年に日本外国特派員協会で行った記者会見では、「彼ら(注:設営隊作業員ら)が集まったりあるいは碁・将棋をやったり、そういう彼らが娯楽をやる場所が欲しいと。そういう彼らの話もあって、そういうことをやったわけであります」などと述べている。
しかし、これがウソであることは、2011年に防衛省資料の中から中曽根が主計長を務めていた設営部隊の資料が見つかったことで明らかになった。[2]
 今回見つけたのは「海軍航空基地第2設営班資料」。当時の第2施設隊(矢部部隊)工営長の宮地米三氏(海軍技師)の自筆を含めた資料をもとに1962年に防衛省(当時庁)がまとめたものです(26ページ)。第2設営班の主計長が中曽根氏です。
 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。


画像出典:女たちの戦争と平和資料館Wam
中曽根の「慰安所」が碁や将棋を打つためのただの集会所だったなら、どうして「土人女を集め」る必要があるのか?
さらに、この中曽根の慰安所で性行為を強制された被害者の証言もある。この女性は被害当時まだ15歳で、処女だった。これだけでも明白な戦争犯罪である。
吉川春子『アジアの花たちへ』(かもがわ出版 2008年)P.53-54:
 私は東ジャワで生まれました。村長・副村長が私の家にきました。「各村長に日本軍から指示がでて、どういう女の子がいるか調査するように言われた」とのこと。そして、「壮年はロームシャ(労務者)に、青年はへイホ(兵補)に、女の子は遠いところで事務の仕事をさせる」と言われたので、二人でやってきたということでした。(略)一五歳の時でした。そこに集められた少女たちは、スラバヤ行きのトラック二台に乗せられました。そのとき母が、「おまえともう一度会えるのか、会えないのか」と叫びました。(ここでスハルティさんは涙をぬぐいました)
 スラバヤ港から船に乗せられて出航しましたが、一昼夜の後、船は連合軍から攻撃され撃沈しました。気がついたら木の机にしがみついていました。どれくらい漂流したかはわかりませんが、日本の軍艦に助けられてバイフアカン港に上陸しました。軍艦の上で身体検査をされて、オーケーが出た者から下船させられました。名前を呼ばれ、グループごとに別れました。私のグループは一八人でした。
 石油会社の幹部の住んでいるところに長屋があって、慰安所になりました。病院に連れてゆかれ、一八人の女性と身体検査を受けさせられました。小野という男が私を連れてゆき、彼から暴行を受けました。……中曽根のつくった長屋の慰安所に行くことになると小野に言われました。そこでは、五時間に五人に「奉仕」しなければなりませんでした。一人の男が三回犯す場合もありましたが、平均二回でした。夕方五時が 「労働」 の始まりです。
 連合軍がどんどん爆弾を落とし、中曽根の部隊は誰もいなくなりました。「今日からここで働かなくてもいい。別の町に行ってもいい。自分で選択してくれ」と言われましたので、「ジャワに返してほしい」と要求しました。戦争なので山の中を通って逃げました。
TBS報道特集『インドネシアでの戦時性暴力』(2015/7/25放映):
ナレーション:スハルティさん。15歳のとき、学校に入れると誘われて、ジャワ島からこの街に連れてこられたという。
スハルティ:昔の日本人はすべて悪かったです。良い人はいませんでした。 よく殴って殺していました。殴って、水に入れて。
 無理やり慰安所に連れてこられて、私には何もできないですよ。ジャワから連れてこられて、逃げるにしても、どこに行けばいの?
 涙があふれるばかりでした。死にたくなるほど後悔しました。学校に入れると言ったのに、あんなことになって。
 私の処女を奪ったのは、オノという人でした。
金平:もしよかったら、その時に慰安所で起きたことを話してください。
(略)
金平:医師はどのようにチェックをしましたか?
スハルティ:女性は7人で、みんな新品だと言われました。検査したのはインドネシア人の役人と、日本人の医者です。
 みんな新品だ、と役人が言いました。全員処女だったということです。
ナレーション:日本軍は、性病と縁のない、インドネシアの少女たちに目をつけたのだ。
TBS「報道特集」は、取材結果に基づいて中曽根に質問状を送り、自身の開設した慰安所の性質や、インドネシアの少女たちを集めた目的などを聞いている。しかし、中曽根事務所が電話で回答してきた内容は、「以前、外国特派員協会で申し上げたとおりで、それ以上でもそれ以下でもない」というものだったという。
結局、中曽根はその後も自分の作った「慰安所」について何も語らず、説明責任さえ果たすことなく死んだ。

[1] 松浦敬紀編 『終わりなき海軍』 文化放送開発センター出版部 1978年 P.91-98
[2] 『「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表』 しんぶん赤旗 2011/10/28

https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/01/142525

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

622. 中川隆[-15188] koaQ7Jey 2019年12月08日 17:21:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2253] 報告
慰安婦の軍関与と強制性を示す公文書を内閣官房が保有していた! 共同の報道で明らかになった「青島総領事の報告書」(リテラ)
http://www.asyura2.com/19/senkyo267/msg/890.html
https://lite-ra.com/2019/12/post-5132.html
2019.12.08 慰安婦の軍直接関与と強制性を示す公文書を内閣官房が保有! リテラ

    

 戦中の日本軍をめぐる慰安婦問題で、軍の関与と強制性を示す新史料を共同通信がスクープした。6日の共同通信によれば、内閣官房が2017、2018年に新たに収集した23件の関連公文書のうち、在中国日本領事館の報告書に、こんな記述があったという。

「陸軍側は兵員70名に対し1名位の酌婦を要する意向」
「軍用車に便乗南下したる特殊婦女」

 同じく共同によれば、この「酌婦」や「特殊婦女」は、別の報告書内で「娼妓と同様」「醜業を強いられ」と説明され、慰安婦を指しているという。共同は「青島総領事の報告書」の一部画像を公開しているが、文書には「機密」と記されている。内容の全容は、この後明らかになっていくだろうが、軍が女性たちを強制的に慰安婦にしていたことを示す公文書であることは間違いないだろう。

 本サイトが政府関係者に取材したところ、従軍慰安婦関連公文書の収集を続けている内閣官房はこの新史料を把握しながら、公表していなかった。それを共同通信が独自ルートで入手したということらしい。これは、内閣官房が、慰安婦についての軍関与や強制性を否定したい安倍政権を忖度して“隠蔽”していたとしか考えられない。

 いずれにせよ、現在、報じられているセンテンスには「陸軍側は兵士70名に対し」「軍用車に便乗」とあり、公文書として軍の直接的な関与を示しているのは確定的。さらに、別の報告書には「醜業を強いられ」とあることから、女性たちを強制的に従軍慰安婦にした証拠となる。

 ところが、ネット上ではこの新史料報道に対しも、またぞろネトウヨたちがこんなふうに喚き立てている。

〈はい嘘。娼妓は遊女、醜業は売春を指します。慰安婦ではなく売春婦だったことの証拠です〉
〈売春婦がいたことは、事実ですが?〉
〈そりゃ領事館で働くエリート様から見れば売春婦は醜業だろうよ〉
〈この資料を素直に読めば、軍や政府は関与していないと受け取れる〉

 この期に及んで、慰安婦の軍関与を否定し、「単なる売春婦だった」などと嘯く頭の悪さはつくづく呆れる。そもそも、この新史料に限らず、日本軍が組織的に女性たちを慰安婦にしていたことは、これまでの史料や当時の軍関係者の証言からも明らかになっていることだ。

 たとえば、先日亡くなった海軍出身の中曽根康弘元首相は、自らの回想記のなかに、インドネシアで「苦心して、慰安所をつくってやった」ことを自慢話として書いている。また、陸軍出身の鹿内信隆・元産経新聞社長も「調弁する女の耐久度とか消耗度」のチェックなどを含む慰安所の設置方法を経理学校で教わったと語っている。これらの証言は防衛省などが保持する当時の軍の史料でも裏付けされている。つまり、慰安所と「慰安婦」が軍主導であった事実を示しているのだ。

 ネトウヨたちは「醜業」という言葉をとってきて「売春婦のことだ!」と理解できないことをほざいているが、軍関係者が当時、自分たちで慰安所をつくりながら、それを侮蔑的な言葉で表現していたことも、こうした数々の証言から明らかになっていることだ。たとえば前述の鹿内信隆氏は慰安所のことを「ピー屋」と呼び、軍内部での侮蔑的な言い回しを口にしていた。そうした言葉を根拠にいくら「売春婦」だと決めつけても、なんの説得力もない。

■産経グループの総帥も陸軍時代に「調弁する女の耐久度とか消耗度まで決めた」と自慢

 しかも、慰安所を「ピー屋」と呼んでいた鹿内は同時に、女性たちを戦場の性の道具にした慰安所が、軍の計画に基づいて実行されていたという事実もあからさまに明かしているのだ。元日経連会長である桜田武氏との対談集『いま明かす戦後秘史』(サンケイ出版/絶版)で、陸軍時代の思い出話としてこんなふうに述べている。

〈鹿内 (前略)軍隊でなけりゃありえないことだろうけど、戦地に行きますとピー屋が……。
 桜田 そう、慰安所の開設。
 鹿内 そうなんです。そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が将校は何分、下士官は何分、兵は何分……といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった。〉

 これは陸軍が慰安婦の調達に関与し、戦地の慰安所での時間や料金などの取り決めを作り、そのノウハウを軍の経理学校で士官に叩き込んでいた、ということを意味しているわけだが、本サイトでも以前検証したように、この鹿内氏の証言は、当時の軍関連史料からも裏付けられている。

 たとえば1941年に陸軍主計団記事発行部が発行した『初級作戦給養百題』は、いわば経理将校のための教科書だが、そこには「慰安所ノ設置」が任務として掲載されている。また、防衛省の防衛研究所が所蔵する史料「常州駐屯間内務規定」(1938年3月16日、独立攻城重砲兵第二大隊が作成)では、中国現地の〈慰安所使用規定〉として部隊ごとに使用する曜日が決められていたほか、〈使用時間ハ一人一時間ヲ限度トス〉とあり〈支那人 一円○○銭〉〈半島人 一円五十銭〉〈内地人 二円○○銭〉とされている。軍が慰安所をつくり、中国・朝鮮や現地の女性を「慰安婦」にしていたのは客観的にも議論の余地がないのだ。

 6日に共同通信がスクープした内閣官房収集の外務省公文書は、「陸軍側は兵員70名に対し1名位の酌婦を要する意向」「軍用車に便乗南下したる特殊婦女」という公開されている部分だけをみても、以前から判明していた軍による関与・管理の事実を補強している。さらに「醜業を強いられ」という表現からは、慰安婦たちを強制的にそうした状況に追いやっていたということをほかならぬ当局が認識していたことがはっきりと読み取れる。

 朝日新聞の吉田清治証言に関する報道の取り消し後、慰安婦問題をめぐっては、「軍関与も強制性もなかった」「ただの売春婦だった」という虚論が大手を振ってまかり通っている。それは、安倍首相を中心とした極右勢力が朝日バッシングを奇貨として、一気に歴史修正の動きを勢いづけたことが最大の要因だが、それに対し、しっかりと反証してこなかったマスコミにも責任がある。

 新史料については近日中の全容公開が待たれるが、今回の共同通信のスクープのように、メディア側が率先して情報を出したり、史料や証言を発掘していかねば、政府はいくらでも“不都合な真実”を隠蔽していくだろう。こと安倍政権下では、歴史問題においても報道機関の矜持が試されているのだ。

(編集部)


慰安婦「兵70人に1人」と記述 外務省文書、軍関与を補強
https://this.kiji.is/575662572528616545
2019/12/6 21:44 (JST)12/7 07:36 (JST) 共同通信


「陸軍側は兵員70名に対し1名位の酌婦を要する意向」との記述がある青島総領事の報告書

 旧日本軍の従軍慰安婦問題を巡り、関連する公文書の収集を続ける内閣官房が2017、18年度、新たに計23件を集めたことが6日、分かった。うち、在中国の日本領事館の報告書には「陸軍側は兵員70名に対し1名位の酌婦を要する意向」「軍用車に便乗南下したる特殊婦女」などの記述があった。「酌婦・特殊婦女」は別の報告書内で「娼妓と同様」「醜業を強いられ」と説明され、慰安婦を指している。専門家は「軍と外務省が国家ぐるみで慰安婦を送り込んでいたことがはっきり分かる」と指摘する。

 1993年の河野洋平官房長官談話が認定した「軍の関与」を補強する資料と位置付けられそうだ。


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

623. 中川隆[-15112] koaQ7Jey 2019年12月18日 16:30:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2155] 報告

2019-12-15
慰安婦(日本軍性奴隷)を南方に運んだ徴傭船船員の証言
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/15/130500


日本郵船の大型貨客船三池丸(11,738トン)は、北米航路への就航を予定して建造されたが、結局一度も本来の航路を航海することなく、竣工直後の1941年10月に陸軍に徴傭され、南方への兵員や物資の輸送に使われた。

三池丸(画像出典:Wikipedia)

この三池丸に、徴傭直後から約1年半陸軍軍属として乗船していた元船員の男性が、南方の戦地への「慰安婦」の輸送の状況について証言している。この男性(以下、Sさん)は、戦後60年を経て関係者のほとんどが亡くなり、生き残りが自分ひとりとなったことを機に証言を決意されたらしい。他に類を見ない貴重な証言だと言える。[1]

 女性たちは、あまり人目につかぬように三等客船[船室?]の一番下の部屋に押し込められていたという。

 船の丸窓は、固く閉じられ、絶えず監視がついていた。監視には業者の男が二人ほどつき、船室から段が上がったとこで、始終、番をしていた。女性たちが用を足しに行くのにもその都度、監視がついた。

 絶海の波間に浮かぶ船内のどこに逃げ場があるというのだろう。女が絶望のあまり自死するのを怖れて、そこまで監視が厳しかったと考えるしかない。
 朝鮮人の女性たちは、大概二〇〜三〇人の規模で船に積み込まれていたとSさんは、記憶している。

 女性たちが、朝鮮から連れてこられたことは言葉でわかったという。髪はボサボサで化粧もしておらず、憔悴しきった様子に見え、絶えず泣いていたとSさんは、当時を振り返る。あまり容貌のきれいな人はおらず、年齢も二〇歳代後半から三〇歳ぐらいに見えたという。もっともこの時、Sさん自身がまだ非常に若く、絶望と憔悴の淵にある女性たちの面差しが年齢より老け込んで見えたのかもしれない。また、朝鮮半島から連れてこられていたら、監禁同然の状態を何日も過ごし、身仕舞を整えることもできなかったはずだ。

 当時、Sさんは三等給仕の職務にあり、閉じ込められた女性たちの部屋の係りを受持ち、寝具や食事の手配を行なった。体の具合が悪くなったりした者がいれば、上司に報告し、船内の医務室に連れていくこともあったという。

 ただ女性たちに話しかけることは、堅く禁じられていた。朝鮮語の会話の内容は聞き取れなかったが、女性たちは絶えず泣いていた。

 軍隊という巨大な機構は、兵隊の嗜好品を積み込む意識のまま、生身の女たちを船倉に押し込んだ。

 傍目から見ても女性たちの様子が可哀相だから、Sさんは女衒とみられる見張りの男性に思い切って、

「泣きよるやないか。どうしたんか。あんたたちは、どうしてこんなことをするのか。」

と問い質してみた。その男は、いきり立つでもなく思いの外、落ち着いた口調で答えたそうだ。

「おいたちも好んでじゃない…。やりとおない。しかし、軍の命令で、何日までに女を何人連れてきて船に乗せろと言われる。もし、その命令をきかんやったら、おいたちが憲兵にやられる。おいたちも命がけだ。」

 聞き取りの途中、私は思わず、もし業者の男が憲兵の命令に背けば、監獄に入れられることになるのかと問いかけた。Sさんは、クックックッと呆れたような笑い声を洩らし、かすれた声で言下に言ってのけた。

「憲兵なんて、そんな生易しいもんじゃない。すごい権力を持っていたんだから。警察でも震え上がるくらいのもんだった。今のひとたちには、わからんやろう。」

 Sさんは、三池丸と共に陸軍軍属として徴傭され、幾多の戦地に兵士を輸送し、また自身も一九四三年には召集され、陸軍開部隊に入隊、泥沼の中国戦線に送り込まれた経験をもつ。軍隊という機構の凄絶なまでの暴力性、システマティックな残忍さはいやというほど、知悉している。女衒の男の言い分は、おそらく文字通りのことであったろう。

三池丸は1942年に計3回、宇品から昭南(シンガポール)に航海している。Sさんの記憶が正しければ、このうちの2回の航海で朝鮮人「慰安婦」たちの連行が行われたことになる。

Sさんが船を下りた後、三池丸は1944年7月、パラオ北方で米潜水艦によって撃沈された。

[1] 平尾弘子 『慟哭の航路 ― 日本軍「慰安婦」を運んだ陸軍徴傭船』 季刊戦争責任研究 2006年春季号 P.62
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/15/130500

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

624. 中川隆[-15114] koaQ7Jey 2019年12月18日 16:32:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2157] 報告

2019-12-12
帝国陸軍「兵70名に一人慰安婦を用意しろ」←軍関与が確定
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/12/235319


■ 共同通信のスクープ
12月6日、共同通信が、日本軍慰安所(レイプセンター)制度への軍の関与を裏付ける外務省文書の存在をスクープした。


(略)在中国の日本領事館の報告書には「陸軍側は兵員70名に対し1名位の酌婦を要する意向」「軍用車に便乗南下したる特殊婦女」などの記述があった。「酌婦・特殊婦女」は別の報告書内で「娼妓と同様」「醜業を強いられ」と説明され、慰安婦を指している。(略)

断片的に報道されている内容からだけでも、軍が行政側に「慰安婦(軍用性奴隷)」の割り当てを要求し、提供された女性たちをまるで軍需物資のように軍の車両で戦地に輸送して、慰安所で将兵との性行為を強要していたことがわかる。
これらの文書は、日本軍と政府機関が組織的に慰安所制度の運用に関与していたことを示す明白な証拠と言っていい。

ちなみに、報告書にあるような「慰安婦」たちの輸送がどのようなものだったかは、村瀬守保氏が日中戦争時の中国で撮影した下の写真などから伺うことができる。[1]

 戦地での移動は、戦局の進むにつれて、前進します。多くは無蓋のトラックで、荷物同様に運ばれる有様でした。

 終戦後、彼女達には、敵国人としての、一層悲惨な運命が待ち構えているようでした。

■ ネトウヨ狂乱

公文書という証拠を突きつけられてネトウヨは逆上、上記のYahoo!ニュース記事にはわずか一日程度の間に5,000件以上のコメントが書き込まれている。

典型的なコメントをみつくろってみるとこんな感じだ。


サンプル1:
慰安婦はいた それは事実 だが誘拐や拉致かどうかが問われているのでは?
占領地で、無法な行為をしない為に慰安婦のような専門の職業があった。

「慰安婦」の大半は就業詐欺により集められ、騙されたと気づいたときにはもう逃げられない状態に陥っていたのだから事実上の誘拐である。また、日本軍が慰安所を作るようになったのは確かに日本兵による強姦があまりに多発したからだが、しかし慰安所を作ったからといって強姦が減ったわけではない。その理由は、例えば南京戦に従軍した兵士による下記の証言などから理解できるだろう。[2]

慰安所作っても強姦は減らんわ。慰安所の女はだいたい朝鮮人やった。将校用、一般用と分かれておった。料金は一円か二円くらいやったかな。(略)わしの分隊はまだましやったけど、他の兵隊は無茶苦茶や。分隊の兵隊は、ほぼみんな(強姦を)やっとった。街に行ったら“ただ”やからな。


サンプル2:
歴史は善悪論でも、道徳論でもなく、その時代の価値観に沿って理解すべきものだと思います。それが完璧にできるようになったとき、恒久平和が訪れるのではないでしょうか。

慰安所の実態は「その時代の価値観」どころか当時の時点でも違法(日本も批准していた「醜業を行わしむる為の婦女売買禁止に関する国際条約」「強制労働に関するILO 29号条約」等違反)だったし、だからこそ政府はバレないようにコソコソやっていたのだ。こんな寝言を言っている限り、恒久平和が訪れることなど永久にない。


サンプル3:
現在では、理解されないかもしれませんが・・当時は常識だったのでは
特に軍隊ともなれば当時ではどこの国の軍隊もほぼ近い事をしていたのではないかと思います。

当時、軍中央が強制売春施設の設置を計画し、推進していたのは日本とナチスドイツくらいのものだ。連合国の軍隊のまわりにも売春宿があったことは事実だが、軍がこれを作らせたり、管理・統制するなどということはなかった。また、沖縄戦のような激戦地の最前線にまで「慰安所」を作ったのは日本軍だけだろう。


サンプル4:
軍の《関与》が問題なのではなく、軍による《強制》があったかどうかが重要なのに、相変わらず卑劣な左派メディア共同通信はミスリードを続けてますね。単なる関与であれば、現在の風俗店を管轄してる警察と同じようなものです。

現在の警察が、業者を選定して警察官専用の風俗店を作らせたり、その利用規則を決めたりしているのか? 本当にそう思っているのなら、あんたらのやっていることは慰安所を設営した旧日本軍と同じだと警察庁に言いに行ったらどうか。
まったく、ネトウヨのバカさ加減には限りがない。

[1] 村瀬守保 『私の従軍中国戦線』 日本機関紙出版センター 1987年 P.106
[2] 松岡環 『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』 社会評論社 2002年 P.276
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/12/12/235319

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

625. 中川隆[-15113] koaQ7Jey 2019年12月18日 16:35:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2156] 報告

2017-05-05
「慰安婦」強制連行についての貴重な加害証言
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/05/162533


神奈川新聞のサイトに、日本軍性奴隷(いわゆる「従軍慰安婦」)の強制連行に関する貴重な加害証言[1]が掲載されていたのでメモ。

証言者は92歳になる元牧師の男性で、衛生兵として中国に出征した際の体験を語っている。

 中国山西省盂県に出征したのは1944年2月。当時21歳。城壁で囲まれた大隊の拠点に慰安所はあった。

 「慰安婦としていたのは20代ぐらいの6、7人。日本の着物ではなかった。兵隊たちが『朝鮮ピー』と呼んでいたので、彼女たちが朝鮮の人々なのだと分かった」

 半年後、分遣隊として数十キロ離れた上社鎮という占領地区に移り、慰安所は強姦の歯止めになるどころか性的欲求をあおり、拍車を掛けていることを知る。

 「慰安所は大隊本部にしかなかった。だから兵隊たちは『討伐』と称し、村々で食料を奪うのと同時に女性たちを強姦していった」

 犯す前、松本さんは避妊具を手渡した。「気を付けろよ」。病気になるなという念押しだった。

(略)

 やはり分遣隊が「討伐」に繰り出したある日、逃げ遅れた女性を拉致した。

 「20〜30代ぐらいまでの7、8人。兵隊たちにとっては『戦果』だった」

(略)

 「女性たちは自ら歩かされ、連れてこられた。悲鳴を上げたり、騒ぐこともなかった。あの状況で逃げ出したり、抵抗したりすることにどんな意味があったか。抵抗すればいつ危害が加えられるか分からない。その絶望になぜ思いをはせないのか」

 女性たちは駐屯地の兵舎の片隅に監禁され、「兵隊たちはそこで代わる代わる強姦した。私は避妊具を配り続け、やはり女性たちの性病検査を行った」。

 1週間ほどたち、隊長の判断で女性たちを村に戻すことになった。松本さんは

「女性たちの体力が低下したからだ」と思った。隊長は交換条件として、村長に命じた。
 「ほかの女を連れてこい」
 別の2人が連れてこられた。

(略)

 「私たちは中国や朝鮮の女性を性の奴隷として扱っていた」

 そして、自身がそう認識することができたのも戦後になってからという事実にこそ目を向けなければならないと、松本さんは言う。

 ニワトリや豚を盗むように女性を連れ去り、犯す−。「戦地は倫理、道徳、品性、誇りも何もないモラルのない人間がつくりあげられていく人間改造場だった」。松本さんは中国や朝鮮の人々には何をしても構わない、という空気が蔓延していたと振り返る。

(略)

 証言するということは過去の自分と向き合うことだ。「正直、つらい。できれば黙っていたかった」。過去の否定は、いまの自分を否定することでもある。

 同じように人は望みたい歴史にしか目を向けようとしない。

 「何をしてきたのかを知らなければ、同じ過ちを繰り返す。語らないことでまた責任が生じる」

(略)

 「悪いのは政治家だけだろうか。そうした政治家を選んできたのは、過去と向き合ってこなかった私たち一人一人でもあるはずだ」

日本軍性奴隷制度の研究者たちが繰り返し指摘しているとおり、性行為を拒否することも逃げ出すことも許されない慰安所での強制性こそが最大の問題なのだが、右派は連行時の物理的強制性だけに問題を矮小化してこれを否定しようとしてきた。
だが、この証言が示すように、中国や東南アジアのような戦地・占領地では、あからさまな強制連行による現地女性の性奴隷化が日常的に行われていた。「慰安婦」強制連行の存在もまた否定しようのない事実なのである。
 
[1] 『相模原の男性が語り続ける 慰安婦への加害の記憶』 カナロコ 神奈川新聞ニュース 2017.4.20
https://vergil.hateblo.jp/entry/2017/05/05/162533

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

626. 中川隆[-13690] koaQ7Jey 2020年2月20日 10:38:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-222] 報告
差別されるセックスワーカーの悲哀を見てきた

タイは寛容な国として知られているのだが、この国には差別がないのか。
タイ人はとても柔軟で、誰でも受け入れる包容力があって、流れ者にはとても居心地が良い。あまりの優しさと包容力の深さに、抜け出せなくなるような安心感が社会にある。

しかし、このタイでも差別意識はある。私は売春に従事する膨大な女性に出会ってきたが、彼女たちはそのビジネス故に、そして貧しさ故にあまり良く思われていないのは、部外者である私も徐々に知るようになった。

タイは階層社会だ。上流階級と貧困階級はまったく違う世界に生きている。その中で夜の女というのは、最底辺のそのまた下のクラスに見られているというのは、一緒にいる私でさえも肌感覚で分かるようになった。

そしてタイは学歴社会でもある。学歴のある人間とない人間の差はあまりにも明確に線引きされており、学歴のない人間はどれだけ有能でも出世できないという社会でもある。

現在のシンガポールは多民族国家だが、それでは差別がなかったのだろうか。私はあるスリランカ女性が好きになって、彼女としばらく一緒にいたことがある。

(ブラックアジア:リーパ。ゲイランの街に立つ女の凶悪な目付きに惹かれた)
https://blackasia.net/?p=3262


ところが、私の泊まっていたホテルの中国系シンガポール人は、彼女のことを「ダーティー・ブラック・スキン」の女だと言って侮蔑した。「薄汚い黒い肌の女」だというのである。

そして、「そんな女をこのホテルに連れ込むな」と私に言い放った。客の私にそのようなことを言い放つのだから、その差別感情に私はショックを受けるしかなかった。

カンボジアではどうだったか。カンボジア人は昔から激しい差別感情をベトナム人に持っているのは有名な話だ。

そのカンボジアの売春地帯では、貧しいベトナム女性が大量に売られて売春していたのだが、それがまたベトナム人差別を増長させていた。

私が売春で生きているベトナム女性と一緒にプノンペンの街を歩いていたら、あるカンボジア人の老人が彼女にツバを吐きかけた。街を歩いているだけの女性に向かって、ツバを吐くという行為にその拒絶感の強さが窺い知れた。

理解? 配慮? そんなものはどこにもなかった

貧しいというのは差別につながる。売春ビジネスもまた差別につながる。だから貧しいセックスワーカーが置かれている立場というのは、どこの国でも激しい差別の渦の中にある。

バングラデシュでも貧しいセックスワーカーは激しい差別の中にあって、彼女たちが病気になっても医者は診察を拒絶し、彼女たちが死んでも葬儀屋は葬儀を拒み、共同墓地での埋葬すらも断られる。

スリランカで私が売春する貧しい女性と一緒に店に入ったら、私たちの目の前にいたテーブルのスリランカ人は彼女を見て途中で席を立って消えていった。

普通のスリランカ人が彼女を見る侮蔑の表情、そして一緒にいる私に対する嫌悪の表情はとても深い断絶に思えた。スリランカ社会が彼女を見る「冷たい目」はすべて真実である。恐ろしほどの冷たさであった。

彼女たちは、そういった拒絶感を朝から晩まで受けている。どこの国に行っても、私が好きになった夜の女たちの99%は社会から嫌われ差別されていた。
理解? 配慮? そんなものはどこにもなかった。ある時は陰湿に、ある時は露骨に、差別感情がそこに見出された。それが現実だ。

アジアの底辺で、社会から拒絶されながら生きている女性たちの姿を見て感じたのは、人間は「違い」に対する拒絶感をどうしても克服できないという冷徹な現実だったのである。

人は多様であり、人種も、人生も、考え方も、非常に大きな違いが存在する。その「違い」の中に対立や拒否感が生まれると、それが差別という感情になって育っていく。どうあがいても、人間はそこから逃れられない。

この「違いを排除する」という人間社会にある感情は、やがては深い対立を生み出すことになる。現代社会はこの感情を消す処方箋を持っていない。
https://blackasia.net/?p=17236

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

627. 中川隆[-11849] koaQ7Jey 2020年8月15日 13:35:44 : XAcXkcJt3k : TjQybE9UVUxDQy4=[14] 報告
終戦記念日に従軍慰安婦問題を改めて問う 慰安所をつくっていた中曽根元首相! 防衛省に「土人女を集め慰安所開設」の戦時記録(リテラ)
http://www.asyura2.com/20/senkyo275/msg/109.html

2020.08.15 【終戦記念日特別企画】日本の加害責任を検証するアンコール特集 その1 終戦記念日に改めて問う従軍慰安婦問題 慰安所をつくった中曽根元首相! リテラ

    
左・中曽根元首相の“手記”が収録されている『終りなき海軍』(文化放送開発センター)/右・中曽根元首相が慰安所を設置させたことを示す資料

 75年の節目を迎えた今年の終戦記念日。テレビなどでも数日前から、先の戦争を扱ったドキュメンタリーやドラマ、映画などが放送されているが、気になるのは、その数自体が数年前に比べて少なくなっていることと、放送されているものもほとんどが国のために命を散らした兵士の美談や空襲被害にあった日本人の悲劇や苦労話ばかりだったことだ。日本があの戦争で引き起こした「加害」についてふれるものがほとんどないのである。

 それはおそらく、先の戦争が侵略戦争であったことを否定しする歴史修正主義がこの国を覆い尽くしていることの証だろう。安倍政権と一体化した歴史修正主義勢力はこの間、南京虐殺、従軍慰安婦、徴用工などが日本軍の責任ではなかったとするデマを振りまき、日本軍の戦争犯罪を検証する報道に抗議と圧力をかけ続けてきた。

 その結果、メディアは日本の加害責任について沈黙するようになり、南京虐殺、従軍慰安婦、徴用工などの犯罪はなかったことになってしまったのだ。

 そこで、本サイトでは75年目の終戦記念日のきょう、特別企画として、日本の加害責任を改めて問うアンコール企画をお届けする。

第一弾は、朝日新聞が吉田証言記事の誤報を認める訂正記事を出した2014年の夏に配信した記事だ。朝日の訂正で保守・右派勢力が勢いづき、メディアには強制連行や従軍慰安婦への軍関与を否定するような論調があふれるなか、本サイトは中曽根康弘元首相が海軍主計長時代にインドネシアで現地女性を集めて慰安所を造っていたことを自伝で自慢していたことをスクープ。防衛省に保存されていたそれを裏付ける戦時記録も発掘した。

 この記事を再録するので、ぜひ、この機会に従軍慰安婦の真実を知ってほしい。
(編集部)

…………………………………………………………………………………………………………

 朝日新聞の慰安婦訂正記事で右派陣営が勢いづいている。「朝日は責任をとれ!」と気勢をあげているのはもちろん、自民党の政務調査会議は河野談話も朝日報道が前提だとして「河野談話を撤回し、新たな官房長官談話を!」とぶちあげた。また、同党の議連では朝日新聞関係者、さらに当時の河野洋平元官房長を国会に招致して聴取すべき、という意見までとび出している。
 
 だが、朝日や河野洋平氏を聴取するなら、もっと先に国会に呼ぶべき人物がいる。それは第71代日本国内閣総理大臣の中曽根康弘だ。
 
 大勲位まで受章した元首相をなぜ従軍慰安婦問題で審訊しなければならないのか。それは先の大戦で海軍主計士官(将校)の地位にあった中曽根元首相が、自ら慰安所の設置に積極的に関わり、慰安婦の調達までしていたからだ。

 何かというと左翼のでっちあげとわめきたてて自分たちを正当化しようとする保守派やネトウヨのみなさんには申し訳ないが、これは捏造でも推測でもない。中曽根元首相は自分の“手記”の中で自らこの事実を書いており、しかも、防衛省にそれを裏付ける戦時資料が存在していたのだ。そこには、部隊の隊員によるこんな文言が書かれていた。

「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」

■中曽根首相が自伝で「原住民の女を襲う」部下のために「慰安所をつくってやった」

 まず、“手記”の話からいこう。中曽根が慰安所設立の事実を書いたのは『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)。同書は戦中海軍に所属し、戦後各界で活躍した成功者たちが思い出話を語った本だが、その中で、海軍主計士官だった中曽根も文章を寄稿していた。

 タイトルは「二十三歳で三千人の総指揮官」。当時、インドネシアの設営部隊の主計長だった中曽根が、荒ぶる部下たちを引き連れながら、いかに人心掌握し戦場を乗り切ったかという自慢話だが、その中にこんな一文があったのだ。

「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」

 おそらく当時、中曽根は後に慰安婦が問題になるなんてまったく想像していなかったのだろう。その重大性に気づかず、自慢話として得々と「原住民の女を襲う」部下のために「苦心して、慰安所をつくってやった」と書いていたのだ。

 ところが、それから30年たって、この記述が問題になる。2007年3月23日、中曽根が日本外国特派員協会で会見をした際、アメリカの新聞社の特派員からこの記載を追及されたのだ。

このとき、中曽根元首相は「旧海軍時代に慰安所をつくった記憶はない」「事実と違う。海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」「具体的なことは知らない」と完全否定している。

 だが、これは明らかに嘘、ごまかしである。そもそもたんなる休憩や娯楽のための施設なら、「苦心」する必要があるとは思えないし、中曽根元首相の弁明通りなら、『終りなき海軍』の“手記”のほうがデタラメということになってしまう。だが、同書の編者である松浦敬紀はその10年ほど前、「フライデー」の取材に「中曽根さん本人が原稿を2本かいてきて、どちらかを採用してくれと送ってきた」「本にする段階で本人もゲラのチェックをしている」と明言しているのだ。

 いや、そんなことよりなにより、中曽根元首相の慰安所開設には、冒頭に書いたように、客観的な証拠が存在する。 

■防衛省に保存された戦時記録に「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設 気持の緩和に非常に効果あり」

 国家機関である防衛省のシンクタンク・防衛研究所の戦史研究センター。戦史資料の編纂・管理や、調査研究を行っている研究機関だが、そこにその証拠資料があった。

 資料名は「海軍航空基地第2設営班資料」(以下、「2設営班資料」)。第2設営班とは、中曽根が当時、主計長を務めていた海軍設営班矢部班のことで、飛行場設営を目的にダバオ(フィリピン)、タラカン(インドネシア)を経てバリクパパン(インドネシア)に転戦した部隊だが、この資料は同部隊の工営長だった宮地米三氏がそれを記録し、寄贈。同センターが歴史的価値のある資料として保存していたものだ。
 
 本サイトは今回、同センターでその「第2設営班資料」を閲覧し、コピーを入手した。

 宮地氏の自筆で書かれたと思われるその資料にはまず、「第二設営班 矢部部隊」という表題の後、「一 編制」という項目があり、幹部の名前が列挙されていた。すると、そこには「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」という記載。そして、資料を読み進めていくと、「5、設営後の状況」という項目にこんな記録が載っていたのだ。

「バリクパパンでは◯(判読不可)場の整備一応完了して、攻撃機による蘭印作戦が始まると工員連中ゆるみが出た風で又日本出港の際約二ヶ月の旨申し渡しありし為皈(ママ)心矢の如く気荒くなり日本人同志けんか等起る様になる
 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設気持の緩和に非常に効果ありたり」

 さらに「第2設営班資料」のなかには、慰安所設置を指し示す証拠となる、宮地氏の残したものと思われる手書きの地図も存在していた。

 それはバリクパパン「上陸時」の様子(昭和17年1月24日)と、設営「完了時」の様子(17年1月24日〜同年3月24日)を表す2点の地図資料だ。バリクパパン市街から約20km地点のこの地図から、中曽根たちが設営したと思われるマンガル飛行場滑走路のそばを流れるマンガル河を中心に民家が点在し、またマンガル河から離れた場所に民家が一軒だけポツリと孤立していることがわかる。

 そして2つの地図を見比べてみると、“ある変化”があることに気づく。「上陸時」から「完了時」の地図の変化のひとつとして、その孤立した民家の周辺に、設営班が便所をおいたことが記されている。さらにその場所には「上陸時」にはなかった「設営班慰安所」との記載が書き加えられている。

 つまり、上陸時に民家だった場所を日本軍が接収し、「設営班慰安所」に変えてしまったと思われるのだ。

■何も知らされず慰安所に連れて行かれたインドネシアの女性達  いきなり慰安所で複数の日本兵に犯されたという証言も

 もはや言い逃れのしようはないだろう。「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」という記載。それを裏付ける地図。中曽根元首相が自分で手記に書いたこととぴったり符号するではないか。

 しかも、「土人女を集め」という表現を読む限り、中曽根主計長が命じて、現地で女性を調達したとしか考えられないのである。

 実際、インドネシアでは多くの女性が慰安婦として働かされており、彼女たちは日本軍に命じられた村の役人の方針で、どんなことをさせられるのかもしらないまま日本兵の引率のもと連れ去られたことを証言している。そして、年端も行かない女性達がいきなり慰安所で複数の日本兵に犯されたという悲惨な体験が語られ、その中にはこのパリクパパンの慰安所に連れてこられたという女性もいる。
 
 つまり、中曽根首相がこうした“強制連行”に関与していた可能性も十分あるのだ。

 朝日新聞の訂正で勢いづいた保守・右派勢力は銃剣を突きつけて連行したという吉田証言が虚偽だったという一事をもって、強制連行そのものを否定しようとしている。さらには従軍慰安婦への軍の関与そのものを否定するかのような虚偽を平気でふりまいている。

 しかし、もし、強制連行はない、軍の関与もないといいはるならここはやはり、「土人女を集め」たという元主計長・中曽根康弘を国会に喚問して、どう「集め」たのか、「苦心」とはなんだったのか証言させるべきではないのか。一メディアの誤報をあげつらうより、そのほうがはるかに「歴史の検証」になると思うのだが、いかがだろう。

(エンジョウトオル)

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

628. 中川隆[-9549] koaQ7Jey 2020年11月28日 11:49:33 : fhXpTNTSFo : d2lndk56TWlqQjI=[14] 報告
安倍前首相がSNS投稿で”事実誤認”
慰安婦報道の最高裁判決で削除要求
2020/11/28 ©株式会社全国新聞ネット
https://www.47news.jp/47reporters/5544289.html

 従軍慰安婦報道に関する名誉毀損訴訟を巡り、安倍晋三前首相が会員制交流サイト(SNS)に事実と異なる投稿をしたとして、削除要求の内容証明を送りつけられる騒動が起きている。

訴訟は、従軍慰安婦に関する記事を「捏造(ねつぞう)」と決めつけられたとして、朝日新聞元記者の植村隆氏(62)がジャーナリストの桜井よしこ氏(75)らに損害賠償を求め、札幌地裁に2015年に提訴。一、二審は請求を棄却し、最高裁が今月18日に上告を退けて原告敗訴が確定した。(共同通信=新崎盛吾)

 安倍前首相は自身のフェイスブックに20日、植村氏の敗訴確定を報じた産経新聞の記事を添えて「植村記者と朝日新聞の捏造が事実として確定したという事ですね」と投稿した。しかし、確定判決は植村氏に対する名誉毀損を認めた上で「植村氏が事実と異なる記事を執筆したと(桜井氏が)信じたのには相当な理由がある」とした内容。植村氏も「法廷では桜井氏自身が事実誤認を認め、捏造でなかったことも裁判で明らかになった」と話している。

札幌地裁での本人尋問後、記者会見する桜井よしこ氏=18年3月、札幌市
 植村氏は1991年8月、韓国で元慰安婦として名乗り出た女性の記事を朝日新聞に掲載した。桜井氏らはこの記事について「『女子挺身隊の名で戦場に連行』という本人が述べていない経歴を加えた」「親に人身売買された経緯を書かなかった」ことなどを根拠に、新聞や雑誌で「捏造」と指摘していた。

 ▽「娘を殺す」と脅迫状

 事態はその後、2014年1月30日発売の「週刊文春」が掲載した「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」との見出しの記事をきっかけに、大きく動き出す。朝日新聞を退職予定だった植村氏の再就職をやゆした記事だったが、内定先の大学に抗議や嫌がらせの電話とメールが殺到し、再就職は破談に。非常勤講師を務める札幌の大学には、爆破予告などの脅迫状が相次いで届いた。

 さらに文春が同年8月6日発売の号に「慰安婦火付け役 朝日新聞記者はお嬢様女子大クビで北の大地へ」との続報を掲載したことで、バッシングはさらにエスカレートした。

札幌高裁の判決後、記者会見する植村隆氏=2月6日、札幌市
 植村氏の娘の実名や高校名、顔写真などがネット上にさらされ「(娘を)必ず殺す」と書かれた脅迫状が届き、警察が身辺警護に動いた時期もあった。植村氏は、家族や勤務先の大学を巻き込んだバッシングを止めるため、桜井氏らを札幌地裁に、同様の主張をしていた西岡力・東京基督教大教授(当時)と文芸春秋を東京地裁に、それぞれ提訴した。

 ▽辞任後、初めての感想投稿

 安倍前首相のフェイスブックのフォロワーは60万人余り。9月16日の首相辞任後、靖国神社参拝など自身の行動を計5回発信していたが、記事の感想を投稿したのは初めて。19日にツイッターで産経新聞の電子版記事をリツイート(転載)した後、同じ記事をフェイスブックで引用紹介。翌日に自らの投稿にコメントする形で「植村記者と朝日新聞の捏造が事実として確定したという事ですね」と書き込んだ。
https://www.47news.jp/47reporters/5544289.html

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

629. 2020年11月29日 01:12:50 : fhXpTNTSFo : d2lndk56TWlqQjI=[31] 報告
安倍晋三が植村隆と櫻井よしこの裁判めぐり「植村記者の捏造確定」とデマ投稿! 裁判で捏造が明らかになったのは櫻井なのに(リテラ)
http://www.asyura2.com/20/senkyo277/msg/565.html


2020.11.28 安倍晋三が植村隆と櫻井よしこの裁判めぐりデマ投稿! リテラ

    
    安倍晋三Facebookより

 元朝日新聞記者の植村隆氏が、「従軍慰安婦」問題に関する記事をめぐり「捏造記者」などと攻撃を受け、櫻井よしこ氏らを名誉毀損で訴えていた裁判で、19日に最高裁が一審・二審に続き、植村氏の請求を棄却した。

 この判決が不当判決であることは後述するが、呆れたのは、安倍晋三・前首相がこの判決に大はしゃぎしてとんでもない行動に出たことだ。判決を報じた産経新聞のニュースを自身のツイッターとFacebookでシェアし拡散、さらにFacebookではこんなコメントまで付けたのである。

〈植村記者と朝日新聞の捏造が事実として確定したと〉〈いう事ですね〉

「桜を見る会」前夜祭をめぐって真っ赤な嘘をついていたことがバレても、なんの説明責任も果たそうとしない人間が、こういうことだけネトウヨ脳まる出しでしゃしゃり出てくるのだから始末に負えない。

 しかも、これ、中身が完全なデマなのだ。先日、この安倍前首相のFacebookの投稿に対し、植村氏側が「事実無根」「名誉毀損」であるとして記事の削除を求める内容証明を送ったことが明らかになったが、当然だろう。

 断っておくが、これは判決が不当だと考えているから言っているわけではない。実際の判決の内容と照らしても、安倍前首相の「植村記者と朝日新聞の捏造が事実として確定した」という投稿は、完全なデマなのだ。

 そのことを説明するために、まず裁判の内容を簡単に振り返っておこう。2014年、朝日新聞が「従軍慰安婦」をめぐる「吉田清治証言」の報道を取り消した問題で、右派メディアやネトウヨから袋叩きにされるという状況が起きたが、その際、バッシングの対象になったひとりが植村元記者だった。

 実際は、植村氏は朝日が虚偽だと認めた「吉田清治証言」とは無関係だったのだが、過去に「従軍慰安婦」の記事を執筆していたため、「人身売買であるのに強制連行されたと書いた」とされ、「植村は捏造記者だ!」と総攻撃を受けたのである。非常勤講師を務めていた北星学園大学には脅迫が殺到、さらに本人だけでなく娘にも殺害予告が届くなど、“リンチ”とも呼べる状況が続いた。

 だが、植村氏はこうした理不尽なバッシングに泣き寝入りするなく、ひとつひとつ根拠のないことを実証的に反論。「捏造記者」などと攻撃した極右言論人と出版社に対し、名誉毀損の損害賠償を求める裁判を起こした。

■安倍の投稿はデマ!裁判所は植村氏の「捏造」を「確定」なんてしていなかった

 今回、そのひとつである櫻井よしこ氏との裁判で、最高裁が植村氏の請求を棄却したというわけだ。

 しかし、最高裁は植村氏の記事を「捏造」だなどと一言も言っておらず、一審=札幌地裁の判決を支持したにすぎない。

 そして、札幌地裁もまた、植村氏の記事を「捏造」だと認定していない。長い判決文の隅から隅まで読んでも、「原告の記事は捏造であった」「原告は捏造記者である」、あるいは「原告は事実と異なることを知りながら記事を執筆した」などといった記述は一切出てこない。

 それどころか、判決文は櫻井氏側の主張のほうを「真実であると認めることは困難」としていた。

 櫻井氏は植村氏を攻撃する記事で“金学順さんは継父によって人身売買されて慰安婦にさせられたのに、植村氏はそれを知りながら意図的に書かないことによって強制連行を印象付けようとした”という主張を展開していたのだが、判決文は〈「継父によって人身売買され慰安婦にさせられた」という事実が真実であると認めることは困難である〉と言及していたのだ。

 判決自体は植村氏の請求を棄却しているが、それは櫻井氏の記事が「真実」と認められたわけではなく、「真実と信じる相当の理由があった」ことが認められたからにすぎなかった。名誉毀損裁判では表現の自由を尊重する立場から、それが真実でなかったとしても、真実だと信じてもやむをえない状況や理由、つまり「真実相当性」があれば、悪意はないとして違法性は阻却されることになっている(実際の裁判ではそういうふうには運用されていないが)。今回はそれが適用されたに過ぎず、櫻井氏の主張の真実性、つまり植村氏の記事が捏造であることが事実と認定されたわけではないのだ。

 にもかかわらず、安倍前首相は「請求棄却」という点のみをもって、「植村記者の捏造が確定」などというまったくのデマを拡散。植村氏への個人攻撃を扇動した。

 安倍前首相は以前、菅直人元首相から訴えられた裁判でも、同様のすり替えデマをやっている。福島原発事故の後、安倍前首相がメルマガで〈やっと始まった海水注入を止めたのは、何と菅総理その人だったのです〉〈これが真実です〉と断言したが、これは完全にデマだった。海水注入を止めるよう指示したのは東京電力の武黒一郎氏であり、福島第一原発の故・吉田昌郎所長はその指示を無視して海水注入を継続させたというのが“真実”であり、これは吉田所長も証言していた。

 しかし、東京地裁が「記事は事故対応の詳細が判明する前に発信されていた上、菅元首相の資質や政治責任を追及するもので公益性があった」などとして真実相当性を認め、菅直人氏の請求を棄却すると、安倍首相は「私をおとしめようとした訴訟で、菅氏に猛省を求めたい」などと説教強盗のようなコメントを出したのである。

■櫻井氏は存在しない記述をもとに植村氏を「捏造」と攻撃していた

 自分にとって都合のいいように事実を歪めてSNSでデマを拡散する──そのやり口は一国の首相経験者とは思えないネトウヨ脳まるだしぶりではないか。

 もっとも、今回の問題については、安倍前首相のデマ拡散以外にもうひとつ指摘しておかなければならないことがある。それは、裁判所の判決の不当性だ。

 先に、植村氏の請求棄却の理由となった「記事の真実相当性」について、名誉毀損裁判では表現の自由を尊重する立場から、それが真実でなかったとしても、真実だと信じてもやむをえない状況や理由があれば、悪意はないとして違法性は阻却されることになっていると説明したが、実はメディア報道をめぐる最近の名誉毀損裁判では、この真実相当性が認められて勝訴するケースはほとんどない。ほんの少しでも間違いや証明できない記述があれば、報道した側の敗訴というのがほとんどなのだ。

 ところが、この裁判では「真実相当性」が信じられないくらい拡大解釈されて判決が下されている。というのも、今回の櫻井氏の場合は、「真実と信じる根拠」そのものが存在しない捏造だったからだ。

 裁判所は判決で、櫻井氏が「金学順氏は継父によって人身売買された女性」と信じた根拠として、「金学順氏が日本国政府を訴えた訴状」「金学順氏を取材した内容をまとめた臼杵氏執筆の論文」の記載などをあげた。だが、そもそもこれらの資料には、そんな記述など一切ない。

 そのことは、2018年3月23日の第11回口頭弁論の櫻井氏の本人尋問で暴かれ、櫻井氏自身も誤りを認めている。

 まず、この口頭弁論で問題になったのは、「WiLL」(ワック)2014年4月号の記事(「朝日は日本の進路を誤らせる」)。櫻井氏は〈日本を怨み、憎んでいるかのような、日本人によるその捏造記事〉などと植村氏を批判するために、前述した金学順さんの訴状をもちだし、こう書いていた。

〈訴状には、十四歳のとき、継父によって四十円で売られたこと、三年後、十七歳のとき、再び継父によって北支の鉄壁鎭という所に連れて行かれて慰安婦にさせられた経緯などが書かれている。
 植村氏は、彼女が継父によって人身売買されたという重要な点を報じなかっただけでなく、慰安婦とはなんの関係もない「女子挺身隊」と結びつけて報じた。〉

 つまり、櫻井氏は「訴状には金学順さんが継父によって40円で売られ、さらに再び継父によって連れられて慰安婦にさせられた、という記述があるのに、植村氏はこれを無視するという意図的な捏造報道を行った」と攻撃していた。

 ところが、実際の金学順さんの訴状には、櫻井氏が言う「継父によって四十円で売られた」なる記述は、存在していなかった。つまり、櫻井氏のほうが訴状にないことを“捏造”して、植村氏に対し「捏造記者」などという攻撃を繰り返していたのである。

■なぜ根拠そのものが捏造だった櫻井氏に「真実正当性」が認められたのか?忖度による不当判決

 それだけではない。原告側弁護士から「継父によって四十円で売られたという話の根拠はなんなのか」と問い詰められた櫻井氏は、1992年2月の月刊「宝石」(休刊/光文社)の臼杵敬子氏執筆の記事からの引用の間違いだったと釈明した。

 これが裁判所の言う「金学順氏を取材した内容をまとめた臼杵氏執筆の論文」なのだが、実は、その臼杵論文=「宝石」記事にも、やはり「継父によって四十円で売られた」「十七歳のとき、再び継父によって北支の鉄壁鎭という所に連れて行かれて慰安婦にさせられた」なる記述はなかった。

 また、裁判所はもうひとつ、櫻井氏が信じた根拠として「韓国の新聞報道」も挙げており、これは櫻井氏側が証拠として提出したハンギョレ新聞と思われるが、ここにも、「宝石」などと同様の〈生活が苦しくなり、14歳の時に母親に平壌にあるキーセンの検番に売られた。3年間の検番生活を終えた金さんが最初の就職だと思って検番の養父についていった所は、兵士3000人余りが所属する北中国・鉄壁鎭の日本軍小部隊の前だった〉とあるだけで、慰安所にお金で売られたという記述はなかった。

 それどころか、このハンギョレ新聞にも、〈私を連れていった養父も当時、日本人にカネももらえず私を武力で奪われたようでした〉という、強制連行の記述があった。

 いずれにしても、法廷でこうした事実を突きつけられた櫻井氏は、金学順さんの訴状に記載されていない記述についての自らの誤りを認め、「WiLL」2018年7月号は訂正文を掲載。また、産経新聞2018年6月4日付でも同様の誤りを訂正している。

 にもかかわらず、札幌地裁の判決は、こうした資料をもとに、櫻井氏が「金学順氏が継父によって人身売買されて慰安婦にされた女性であると信じた」ことは「相当の理由がある」というのだ。

 この裁判長は本当に提出証拠や本人尋問の記録をちゃんと読んでいるのか。もし読んでいて、この判決を出したのだとしたら、何らかの政治的意図があったとしか考えられない。

 実際、安倍政権下では、原発をめぐる訴訟や家族制度をめぐる訴訟などで、地裁レベルから政権を忖度する判決が連発されていた。

 そして、同じく植村氏が西岡力氏と文藝春秋を相手どり東京地裁に訴えた裁判でも、西岡氏らのデタラメと嘘が明らかになっているにもかかわらず(詳しくは過去記事参照)、一審・二審と植村氏側の請求が却下されている(植村氏は最高裁に上告)。 

 本サイトでは以前、安倍官邸が最高裁判事の人事にも介入していたことを報じたことがある(https://lite-ra.com/2017/03/post-2997.html )が、政権忖度によって、裁判所も歴史修正主義に汚染されてしまっているのではないか。

 しかも、その裁判所の不当判決を利用して、歴史修正主義勢力・ネトウヨの親玉である安倍前首相がさらなるデマを拡散するという最悪の事態。こうした状況を押しとどめるためにも、植村氏にはぜひ、内容証明で記事削除を求めるだけでなく、安倍前首相を名誉毀損で訴えてもらいたい。

630. 中川隆[-9417] koaQ7Jey 2020年12月09日 07:29:16 : hL0yAobYvA : Z0UuOENibGdrenM=[2] 報告
安倍前首相が朝日新聞と植村隆に対するFacebookの“デマ”投稿を説明なく削除! 抗議を受けこっそりなかったことに(リテラ)
http://www.asyura2.com/20/senkyo277/msg/723.html
    
    削除された安倍晋三Facebook

「桜を見る会」前夜祭をめぐる嘘が完全にバレたにもかかわらず、国民に一言も説明せず逃げ切りを図ろうとしている安倍前首相。その姑息さにはいまさながら呆れ果てるが、しかし、このウソつき前総理が自分のついた大ウソをごまかそうとしているのは、この一件だけではない。

 元朝日新聞記者の植村隆氏に対してFacebookで拡散した例のデマを、こっそり削除していたのだ。

 安倍前首相が問題の投稿をしたのは、植村氏が「従軍慰安婦」問題に関する記事をめぐり、櫻井よしこ氏らを名誉毀損で訴えていた裁判で、最高裁が植村氏の請求を棄却した翌日11月20日のこと。安倍前首相はこの判決に大はしゃぎで、判決を報じた産経新聞のニュースを自身のツイッターとFacebookでシェアし拡散、さらにFacebookではこんなコメントを付けていた。

〈植村記者と朝日新聞の捏造が事実として確定したと〉〈いう事ですね〉

 しかし、本サイトでも報じたように(https://lite-ra.com/2020/11/post-5713.html)、このコメントは完全なデマだった。最高裁は植村氏の請求を棄却したが、植村氏の記事を「捏造」だなどと一言も言っておらず、一審=札幌地裁の判決を支持したにすぎない。

 そして、札幌地裁もまた、植村氏の記事を「捏造」だと認定していない。長い判決文の隅から隅まで読んでも、「原告の記事は捏造であった」「原告は捏造記者である」、あるいは「原告は事実と異なることを知りながら記事を執筆した」などといった記述は一切出てこない。

裁判所が植村氏の請求を棄却したのは、櫻井氏の記事について「真実と信じる相当の理由があった」という真実相当性が認めたからにすぎなかった。名誉毀損裁判では表現の自由を尊重する立場から、それが真実でなかったとしても、真実だと信じてもやむをえない状況や理由、つまり「真実相当性」があれば、悪意はないとして違法性は阻却されることになっている(実際の裁判ではそういうふうには運用されていないが)。今回はそれが適用されたに過ぎず、櫻井氏の主張の真実性、つまり植村氏の記事が捏造であることが認定されたわけではないのだ。

いや、それどころか、一審の判決では、櫻井氏側の主張のほうが「真実であると認めることは困難」とされていた。

 櫻井氏は植村氏を攻撃する記事で“金学順さんは継父によって人身売買されて慰安婦にさせられたのに、植村氏はそれを知りながら意図的に書かないことによって強制連行を印象付けようとした”という主張を展開していたのだが、判決文は〈「継父によって人身売買され慰安婦にさせられた」という事実が真実であると認めることは困難である〉と言及していたのだ。

 にもかかわらず、安倍前首相は「請求棄却」という一点のみをもって、「植村記者の捏造が確定」などというまったくのデマを拡散。植村氏への個人攻撃を扇動したのである。

■安倍前首相のこっそり削除に植村氏は「通知も理由説明も一切ない」とコメント

しかし、問題はこの後だった。デマを拡散した安倍前首相に対して、植村氏サイドは抗議。投稿は「事実無根」「名誉毀損」であるとして、11月24日、記事の削除を求める内容証明を送った。

 すると、安倍前首相は12月4日までに、上述のFacebookのコメントをこっそり削除してしまったのである。

これまで幾多の嘘が発覚しても開き直り、知らぬ存ぜぬを決め込むことを繰り返してきた安倍前首相。朝日新聞や野党についても、ネトウヨまる出しの誹謗中傷を多数発信・拡散してきたが、自らのFacebook投稿を削除するというのは異例といっていい。

この背景には「桜を見る会」問題で追い詰められているというのもあるだろうが、それ以上に、今回のデマは訴えられたら敗訴確実だからだろう。植村氏の代理人である神原元弁護士は本サイトの取材にこう話す。

「判決は植村氏の記事が捏造だとは一切認定していません。むしろ、裁判を通じて、植村氏の記事が捏造でなく、櫻井氏の記事のほうが真実でないことが明らかになっています。安倍氏の投稿は明らかに事実に反しており、名誉毀損にあたります。削除は当然ですし、こちらの削除要求に応じたということは、安倍前首相もそれを認めたということでしょう」

もっとも、安倍前首相は投稿を削除はしたが、なぜ削除をしたのか、Facebookで何の説明もしていない。植村氏サイドにも謝罪も説明も一切していない。

自分の歴史修正主義に都合のいいように事実を歪め、SNSでデマを拡散しながら、それがデマだと指摘され都合が悪くなると一転、攻撃相手に何の説明もなく、勝手に削除する。そのやり口は一国の首相経験者とは到底思えないものだ。

植村氏はこの削除を受けて「削除は間違いに気づいたからだと思うが、私への通知も理由説明も一切ない。安倍氏のフェイク情報は今も広範囲に拡散したままで、こっそり消せば免罪されるものではない」とコメント。今後も説明を求めていく姿勢を示したが、当然だろう。

 むしろ、安倍前首相ら右派の歴史修正主義の嘘を広く世間に認識させるためにも、植村氏には、安倍前首相を相手に名誉毀損裁判を起こすことを強く提案したい。

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