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年が知れますが、1973年の8月、金大中事件が起きた際の驚きは、今も忘れる事が出来ません。
その時、私は、高校生でした。朝日新聞の一面で、この事件について読んだ時、本当に驚きましたが、同時に、白昼堂々、こんな無法な事件が起きた事への怒りが湧き上がった事をよく覚えて居ます。
私が、金大中(きんだいちゅう)氏の名前を知ったのは、その時が初めてでした。それから数日を経て、韓国大使館の金東雲書記官の指紋が現場から検出され、KCIAの関与が最早明らかに成りながら、当時の田中角栄内閣が、事件をあやふやにしようとする姿勢に、高校生ながら、怒り心頭に達した事も忘れられません。
そして、その金大中氏が、ソウルで発見された時の驚きも忘れられません。特に、その際、金大中氏が語った拉致後の状況に関する証言に、国際政治の恐ろしさを感じさせられました。氏の証言の中で最も印象的だったのは、氏が、船から海に投げ出されようとしたまさにその時、突然、船の上に航空機(米軍機?)が現れ、氏の殺害を阻止したと言ふ驚くべき話と、拉致直後、日本国内を車で移動中、拉致実行犯たちが、検問を避けようとする中で、「アンの家に行こう」と言ったとする証言を、恐ろしいと感じた事が忘れられません。前者は、高校生だった私に、アメリカの情報収集力の凄さを印象ずけましたし、後者の逸話は、日本国内に、そんな地下組織が有る事の怖さを印象ずけたと言ふ点で、とにかく、高校生だった私にとって、この二つの逸話は、強烈な物でした。
その後、韓国に戻された金大中氏が、政治的迫害を強められて行く際、私は大学生に成って居ました。その間、私は、金大中氏を救出する為に何かをしたいと言ふ思ひから、署名を集めた事も有りました。それほど、若い私は、朴政権を憎み、金大中氏を尊敬して居たのです。
その後、私の彼を見る目は変はって行きました。特に、彼と北朝鮮の関係については、若い頃には、考えてもみなかった事が多々有ったらしい事を知りました。そして、若き日の私が救出に情熱を持ったこの人物が、北朝鮮のスパイと同様の政治家として、韓国を裏切る光景を見た際、彼(金大中氏)を信じた若い頃の自分を自嘲した事も忘れられませんが、それはともかくとして、晩年の金大中氏が、自身が拉致されたこの事件について、余り語ろうとしなかったのは、何故だったのでしょうか?
そして、私を含めた多くの日本人が、金大中氏を救ふ為に活動した事を、彼は、どう思って居たのだろうか?と思はずには居られません。
2009年8月20日(木)
西岡昌紀
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■拉致の真相語らぬまま…金氏死去で解明困難に
(読売新聞 - 08月19日 03:03)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=933446&media_id=20
拉致の真相語らぬまま…金氏死去で解明困難に
(読売新聞 - 08月19日 03:03)
東京・九段での拉致事件、「光州事件」での死刑判決、そして大統領就任と、その後の南北融和……。韓国の発展に伴う激動の中で、波乱万丈の人生を送った金大中(キムデジュン)氏(85)が18日、ソウル市内の病院で亡くなった。
「何とか真実を話してほしかった」。元警察幹部は、外交問題にまで発展した拉致事件の真相が解明されないまま、本人が死去するという現実に唇をかみ、長年の支援者は、知日派として日韓両国の友好に尽くした功績を惜しんでいた。
「大変な事件になった」。1973年8月8日午後1時すぎ、金氏が東京・九段のホテルグランドパレスから拉致された直後、当時の警視庁外事2課長で、その後、警視総監を務めた井上幸彦さん(71)は、そう直感した。金氏は71年の大統領選で敗れた後、日本や米国で民主化運動を続け、当時の朴正煕(パクチョンヒ)政権を厳しく批判していた。
井上さんが自ら関係者の事情聴取にあたるなど事実確認に走ると、韓国の情報機関・中央情報部(KCIA)の影が浮かび上がった。拉致現場からは、韓国大使館の1等書記官(当時)の指紋も検出された。
しかし、1等書記官の事情聴取は韓国政府に拒否され、その後の捜査は頓挫する。警視庁が、金氏から事情聴取できたのは、93年10月、米国からの帰路に成田空港に立ち寄った際のわずか約1時間だけだった。
実行犯とみられる1等書記官が国外に逃れたことから、公訴時効は停止しており、警視庁は捜査を継続しているとしているが、本人の死で真相解明はますます困難になった。
「外交という大きな壁を前に、十分に事情聴取ができなかったことに歯がゆさが残った。大統領にまでなった金氏から最後まで真実を聞けなかったことは非常に残念」。井上さんは悔やしそうに語った。
この事件の前の70年代前半、ソウルの自宅を訪ねたノンフィクション作家・佐藤早苗さん(75)は、優しい流暢(りゅうちょう)な日本語でインタビューに応じてくれた姿が忘れられない。金氏は「窓の外をのぞいてごらん」と自宅を監視する人間の存在を指摘しながら、「このままでは韓国は世界に置いていかれてしまう」と当時の軍事政権に反対する姿勢を強調したという。
金氏は、80年5月の「光州事件」の首謀者として死刑判決も受けた。死刑執行の阻止を日本から訴え続けた東大名誉教授の和田春樹さん(71)は「穏やかな笑顔の向こうに、いつも何事にも屈しない意志の強さがにじんでいた」と人柄をしのんだ。
金氏は大統領就任後、日本文化の開放を進め、2002年には日韓両国でサッカーのW杯を共催した。和田さんは「知日派の大統領でなければできなかったこと。功績と共に、未来志向の日韓関係とは何かを改めて考える必要があるのではないか」と話した。