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イミョンバク政府への批判が高い。民主主義が後退しているという慨嘆を超えて、いまは独裁政権が復活したという話まで出てくる。はたしてこのような主張はどれだけの実効性を持つだろう?問題は、こんな発言や主張からイミョンバク政府の実態についての真摯な省察を見つけるのは難しいという事実だ。イミョンバク政府を独裁やファシズムのような'絶対悪'と規定して批判するのは、複雑な事案を鮮明にさせることはできると思うが、本当に重要な事案を覆ってしまうかもしれないところがある。'イミョンバク反対'という可視的なフレーズに便乗して、いろんな権力の複合体であり葛藤の具現体であるイミョンバク政府の問題を'イミョンバク'という'顔役'の問題に還元するだけでなく、進んではイミョンバク政府を出現するしかなくさせた客観的な脈絡をないがしろにしてしまうこともあり得るのだ。
イミョンバクとノムヒョン、どこが違うのか
メディア法のことで確認できるように、イミョンバク政府は'政治'に関心を示さない政府である。対話と協商というもっとも重要な管理能力の不在を赤裸々に表した事件が、まさにメディア法の強行処理だ。近代国家以来の合議制政治は、さまざまな勢力の利害関係を調整し直接衝突をできるだけ避けるようにすることだ。
もちろんイミョンバク政府の無能力によりこのような批判が発生するという事実を無視できない。街で発生する要求を国会議事党という物理的空間に呼び寄せて解消するのがブルジョア政治の機能だが、イミョンバク政府は国家安定という重要な前提のために、最小限にでも保障すべきブルジョア政治の基本すらも守らないため、政派と理念を超越して内外からの批判の渦中に立たされる。
今回のメディア法の処理過程は、イミョンバク政府の実態への一つの暗示を提供する。絶対多数の世論が反対するメディア法を職権上程する'勇気'は、過去に軍事独裁政権時代でのみ可能だったことだ。ノムヒョン政府が与大野小という有利な条件の中でも4大改革立法を押し通すことができなかった所以を思い出してみてほしい。そのときハンナラ党で提示した反対の論理は、急を要する'民生法案'を放っておいて国論分列の心配すらある理念的法案に執着するということだった。しかしその4大改革立法はメディア法のように強行処理で決着がつくどころか、ハンナラ党とヨルリンウリ党の'合意'で帰結した。進歩・改革勢力は'ボロボロ法'だと批判したが、4大改革立法の処理過程はノムヒョン政府の正体を正確に見せる過程でもある。
論難の余地はあるが、ノムヒョン政府が追求したことは近代的民主主義の概念に忠実な国家運営の合理化だったといえる。一部の保守勢力の主張のように、ノムヒョン勢力が一方的に反財閥政策を推進したと見るのは無理がある。ノムヒョン政府はこの合理化の哲学を古典的自由主義ではなく新自由主義から持ってきた。このような面から見るとノムヒョン政府もイミョンバク政府も違う口から話すだけで吐き出す言葉は同じなのだ。しかし、ノムヒョン政府とイミョンバク政府の違いは、このような合理化の中心に何を置くかによって発生する。ノムヒョン政府はイミョンバク政府に比べずっと新自由主義世界化の流れに忠実だったように見える。いうなれば、ノムヒョン政府の財閥批判は新自由主義的経済構造再編の論理と無関係ではない。新自由主義的改革・開放のための財閥規制は正当なものだと考えていた。
イミョンバク政府の目的はこのような基調を転覆させることだった。つまり、口では新自由主義を語り、ほかの政策は新自由主義的指向性を維持しながらも、財閥政策は保護主義方針を取るのがイミョンバク政府の特徴といえば特徴だ。ノムヒョン政府が'財閥不和'政策だったなら、イミョンバク政府は'財閥親和'政策なのであり、広く見ればこのような基調は世界化の流れに逆行する。韓国資本主義を構成する特殊な資本蓄積形態ともいえる財閥をめぐる問題は、社会葛藤と理念対決の残滓を抱えている。イミョンバク政府はこの問題を解決するために古い権威主義政権の頃の左右理念対決構図をあまりにも使いすぎるようだが、これは社会葛藤を政治的に調整する能力のないイミョンバク政府のアマチュアリズムを表しているところでもある。
道徳的批判は'報復対応'を呼び寄せるだけ
このように合議制民主主義の手順を効果的に運用できないイミョンバク政府に対し、'疎通'しないと批判することは自然である。しかし、あくまでもこのような批判は修辞的な次元に留まるだけで、イミョンバク政府にまつわる問題に根本的に接近するわけではない。社会はもともと疎通よりも普通に根拠している。この普通の葛藤を管理するのがまさに政治だ。しかし最初から'経済'を中心に置くしかなかったイミョンバク政府がこの問題についての明快な解決策を出すことを期待するのは前後が論理的矛盾である。
このような状況で、イミョンバク政府を反民主勢力、または独裁政権だと簡単に規定することは、あまり目立つほどの政治的効果を発揮できない。民主対反民主という古い構図を再び持ち出してくる瞬間、イミョンバク政府への批判は道徳的判断の問題に還元するしかなくなるのだ。これに対するイミョンバク政府の対応は、いわゆる自称'民主勢力'の道徳性に傷をつけることなのだが、環境運動連合幹部横領疑惑事件や、韓国総合芸術学校問題で見せてくれた'言論プレイ'はこれを間接的に証明している。イミョンバク政府への道徳的批判は、結局、同一な方式の報復対応だけを作り出すということだ。
この過程で'国民'は政治からさらに遠ざかるしかない。このような情況が新しい政治的対案を話さねばならない人々にとって有利だとは言いがたい。イミョンバク政府を反民主勢力だと包装することに精を出すよりも、彼らが話す民主主義とは誰の民主主義であり、どんな民主主義であるかの問題を提議する方式に方向を転換しなければならない。イミョンバク政府の問題は、韓国民主主義制度そのものの限界かもしれないという事実を認め、根本代案を提示するのが、今の私たちに与えられた課題かもしれない。
http://www.sisain.co.kr/news/articleView.html?idxno=4986
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