★阿修羅♪ > 戦争a5 > 365.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
(回答先: 『戦場のメリー・クリスマス』 西岡昌紀 投稿者 西岡昌紀 日時 2008 年 12 月 23 日 15:17:30)
聖書関連の著作は今でも見かけますね。戦時中に南京大虐殺を公然と糾弾して東大学長の座を追われ、迫害を受けながら個人誌で軍部への激しい批判を展開した方です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%86%85%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E9%9B%84
壮年期
1917年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、住友総本店に入社し、別子銅山に配属される。当時の別子銅山には、後に住友を辞して無教会主義のキリスト教伝道者となる黒崎幸吉が先に赴任しており、黒崎の伝道集会で聖書講義を行ったりもした。1920年、新渡戸稲造の国際連盟事務次長への転出に伴い、後任として母校の経済学部に呼び戻され助教授となる。イギリス・ドイツへの留学を経て、1923年に教授に就任し、植民政策を講ずることとなった。
矢内原の植民政策学は、統治者の立場から統治政策として考えるのではなく、社会現象としての植民を科学的・実証的に分析し、帝国主義論の一環として扱っている点に特色がある。前任者の新渡戸の学風を発展的に継承しているものといえよう。その研究の結実の代表的なものが、各国語に翻訳された『帝国主義下の台湾』(1929年)である。このような矢内原の姿勢は、しだいに軍国主義的な風潮が強まる中で体制との緊張関係を深めていくこととなった。
1937年、盧溝橋事件の直後、『中央公論』誌に「国家の理想」と題する評論を寄せた。国家が目的とすべき理想は正義であり、正義とは弱者の権利を強者の侵害圧迫から守ることであること、国家が正義に背反したときは国民の中から批判が出てこなければならないこと、などの内容が抽象的一般的な形で述べられており、特に時局に対して具体的に批判を行うものではなかったが、この論文は大学の内外において矢内原排撃の格好の材料として槍玉に挙げられた。同じ頃、矢内原が個人的に発行していたキリスト教個人雑誌『通信』に掲載された彼の講演の中の一言、「日本の理想を生かすために、一先ず此の国を葬って下さい」が、不穏の言動として問題となった。結局1937年12月に、事実上追放される形で教授辞任を余儀なくされた。辞職後は『通信』に代わって『嘉信』を発行し、また自宅に土曜学校を開いてキリスト教信仰に基づく信念と平和主義を説き続けた。