★阿修羅♪ > 戦争a5 > 174.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
真実を知りたい: 旧日本軍 細菌戦部隊−生体解剖 軍医の証言
http://hide20.blog.ocn.ne.jp/mokei/2008/05/post_8ca4.html
旧日本軍は、細菌戦の他に生体解剖や人体実験をやったことでも知られているが、下記は元陸軍軍医の証言の一部である。「細菌戦部隊」731研究会編(晩聲社)より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
陸軍病院の軍医として
元陸軍軍医 湯浅 謙
手術演習
二回目の手術演習は、その年の秋です。憲兵隊からもらい下げてきた二人の中国人を、生体解剖しました。演習の課題としては、腸管の切開と縫合、咽頭部の気管切開、睾丸の摘出などをやりました。日本の病院では経験できない手術なのに「これらはすべて戦地で軍人が負傷したときに役立つ」と、生きている中国人を殺したのです。
そのほかでは、病院長の特命を受けて、中国人の生体解剖の終わった人の脳の皮質をはぎとり、500ccのアルコール瓶10本に詰めたことがあります。これは日本の臓器製薬会社の研究・開発用として内地へ送られた、と聞きました。またある時は、衛生兵の初年次教育のおり、解剖学を一日も早く覚えさせるために、一人の中国人を生体解剖して皆に見せたことがあります。
1943年(昭和18年)の12月には軍医の集団教育が行われました。弾丸摘出手術の練習のため太原監獄内で4人の中国人を看守が拳銃で射ち、その体に入った弾丸を摘出する手術にかかわりました。切開や縫合手術などの実地訓練を、より多く積むためです。その後1945年(昭和20年)、私が潞安(ロアン)陸軍病院の庶務主任であった時北支那方面軍から機密命令が降りてきました。内容は「手術演習の実施計画を立てて提出するように」というものでした。そのため、私は1ヶ月おきに演習を行う計画を立てて提出しました。幸いに、当時は部隊の移動のため実施できませんでしたが。手術演習に人体が必要になると憲兵隊に電話し、トラックで衛生兵が犠牲となる中国人を取りに行きました。憲兵隊で受け取ると、病院側は領収書を憲兵隊に提出するといったかたちで手術演習は準備されました。こうして私は3年6ヶ月の間、7回にわたって14人の中国人を生体解剖し、殺害しました。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
生きている人間に 旧日本軍の生体解剖
http://ameblo.jp/sukinakoto/entry-10020559312.html
日本がこんなことをしていたとは…
大戦末期に比で生体解剖 元海軍衛生兵が証言
太平洋戦争末期に、旧日本軍がフィリピンのミンダナオ島で行った捕虜の生体解剖を、元海軍衛生兵の牧野明さん(84)=大阪府枚方市=が25日までに証言した。
戦時中の生体解剖は旧満州(中国東北地方)の731部隊や九州大病院のケースが知られているが、フィリピンで行ったという証言はこれまでなかったという。
61年余り家族にも言えず、夢に見るなど苦しみ続け、「なぜ今更」と証言に反対する戦友もいたが「このまま埋もれさせては亡くなった人が浮かばれない」と決意。戦争体験の語り部として、悲惨な歴史を伝えていくつもりだ。
牧野さんは海軍の第33警備隊の医務隊に所属。1944年8月、ミンダナオ島サンボアンガ航空基地に配属された。生体解剖が始まったのは同年12月。22歳だった。
「捕虜を連れてこい」。上官の30代の軍医に命じられ、米軍のスパイとして捕まった住民男性2人を連れて行くと「これから解剖する」と告げられた。場所は病院にしていた学校。おびえきった2人に服を脱ぐよう命じ、手足を手術台に縛りつけた。顔に布をかけエーテルをかがせると、数分で意識を失った。
「おれが死んだらおまえが治療をしなくてはならないから」と軍医に言われ、震える手で腹にメスを入れた。「これが肝臓だ」。軍医に示されたが、頭に入らなかった。「命令とはいえ、罪のない者に何とむごいことをしているのか」。心の中でわびた。
手足の切断、血管縫合、開腹手術−。生体解剖は翌45年2月まで続き、女性や子どもを含む約30人が犠牲になった。軍医の「おい、やるぞ」という一言で始まり、息を吹き返すことがないよう最後にロープで首を絞めた。遺体は部下が運び出して埋め、解剖は医務隊だけの秘密にされた。
「命令に逆らえば殺される。そんな時代だった」と牧野さん。45年3月、米軍がミンダナオ島へ上陸。日本兵はジャングルを敗走した。「必死で逃げながら空を見上げたら、真ん丸な月が出ていた。故郷でも見てるのかと思うと、心細くて涙が出た」
牧野さんは数年前から枚方市の小中学校で語り部活動をしている。「生々しすぎ」生体解剖の話はしなかったが「こんな悲惨なことを二度と繰り返してはいけない。1人でも2人でも戦争の真実を伝えていきたい。機会があれば、償いの証言を続ける」と話す。(FRASH24)