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http://mamechoja.blog22.fc2.com/blog-entry-254.html
選挙が終わった今、私たちの国は、期待に満ちたまなざしで未来を見つめています。
私自身の期待しているところもいくつかあります。
アフリカ系アメリカ人として初めて選出された私たちの次の大統領に、
まずお祝いの言葉を申し上げます。おめでとうございます。
キング牧師が、この日がやってきたのをご覧になったら、さぞかし誇らしく思われたことでしょう。
多様性を喜んで受け入れることで私たちの精神はより強くなるのです。
過去の緊張関係と不当行為を克服してゆき、より公正で人種差別のない社会になることが、
私たちには出来るのだと、私は期待しています。
私たちの間にさらなる分断を生むのではなく、私たちを結びつけるような、
その手助けのできる政権になると期待しています。
私は、自由(freedom)こそ、その諸々の障害を取り除く最良の方法であるといつも感じてきました。
自由な社会は、個人個人の重要性を強調するのです。
その人が重要なのは、ある特定のグループに属しているからではないのです。
これこそが、平等な取り扱い、公正さというものが成し遂げられる唯一のやり方です。
私たちは、この新しい政権の間に、より困難な経済的問題に直面することになります。
最悪な状況は、まだこれからやって来るのです。
問題のある住宅ローンが膨大にあり、
それらの変動金利の金利リセット(改定)はまだ始まっていませんし、
これから債務不履行に陥るものも出てきます。
すでに私たちは、前例のない額の赤字を計上しています。
支出は制御不能になっています。
大企業は、自分たちの補助金を握る政府にどんどん接近します。
この政権には、今回の経済危機に対して、
干渉主義や、官僚が大恐慌を長引かせた1930年代の大きな政府による支出よりも、
うまく対処してもらいたいです。
政府の新しい施策や過度の規制でがんじがらめにするような法案が飛び出てこないことを望みます。
アメリカの生産性にいらぬ干渉をして邪魔することにしかなりません。
早く再び、私たちの経済の安定した基盤を得られることを望みます。
経済の調整、修正というものは、生じる必要があるのだということ、そして、
それが、来たる不景気から抜け出す唯一の方法であることを私たちは理解する必要があります。
それを回避しようとすればするほど、長引かせることにしかならないのです。
何とかして、私たちが、健全なお金に復帰するやり方を見つけられるよう、
また、政府とのよしみを通じて企業が不公正を働くのを退けられるよう望んでいます。
私たちは、海外での破滅的な外交政策を変更しない限り、
自国での予算の問題に取り組むことは出来ません。
私は、新しい政権が、外交政策において、
多くのアメリカ国民が約束されたと思っている平和と外交を引き受けられると期待しています。
他の多くの国々も、そのように期待しています。
それは、選挙の後に寄せられたお祝いの気持ちからにじみ出ています。
国家の独立主権が尊重されることを望んでいるのです。
外交を通じて、暴力と戦争が回避できることを望んでいるのです。
私もそうであってほしいと思っています。
議論の余地のないことが一つあります。
過去に行われてきた私たちの攻撃的な外交政策が、
血を流し、富を消耗する、犠牲の大きなものだったということです。
私たちは財産を使い果たしています。
志願兵がどんどん減ってきていることで、そうした外交政策を取れるようになります。
こうした理由によって、
もし私たちが、軍隊をすべて志願兵で維持し続け、再び未来に繁栄を見るつもりなのであれば、
私が、私たちの外交政策が変わる望みを抱いても、それには十分な根拠があることになります。
外交政策を今と同じままで進めるためには、
その支払いのために借金と通貨膨張(インフレ)を通じた盗みが加速するのはもちろんですが、
軍隊は、強制的な兵役に戻らなければならなくなります。
我々が明らかに平和を欲しているときに、戦争と征服のためだけに、
そうした政策が国民(大衆)の支持を得るとは、私にはなかなか想像できません。
この移行期にあって、私は、未来に多くの期待を抱いています。
しかし、この国には今までたくさんの分かれ道がありましたが、悲しいかな、
間違った道を選択することがあまりに多すぎたと私は見ています。
私たちは、たくさんの話を聞いてきました。
その話が、どう行動に移されるのか、どういう政策になるのかを見るばかりです。
私は、期待を抱けるかぎり、私たちの未来に深い関心をずっと抱いていきます。
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真のリバタリアンであるならば、人々を個人個人として見るのです。
その人たちがどのグループに属しているのかは関知するところではありません。
こうしたことに人々を大いにかかずらわせているものに、
メディアが巧妙にやっているものがあるのです。
いつも私はこれにうんざりしています。
選挙運動や選挙を分析する際に、彼らは毎度毎度、選挙前や選挙後すぐに出てきて言うのです。
決してこうは言いません。「人々はそれぞれどう投票したのでしょう?」と。
彼らが言うのはこうです。
「イスラム教徒はどうしたでしょうか?」
「ユダヤ人はどうしたでしょうか?」
「女性はどうしたでしょうか?」
「彼らはどう投票したでしょうか?」とやるのです。
みんなを分類して枠にハメることを際限なくなっています。
そうやって、私たちは個人としては重要じゃない、あるグループに所属しているからこそ重要なのだ、
という考えに条件付けされているのです。