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【日経ビジネス:伊東乾の「常識の源流探訪」】「徐燃化」と海軍技術将校の記録;科学的失敗事例として考える「終戦」
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伊東 乾の「常識の源流探訪」
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「徐燃化」と海軍技術将校の記録
科学的失敗事例として考える「終戦」
2008年8月12日 火曜日 伊東 乾
経営戦略 戦艦 特攻 燃料 ナノテクノロジー
中国では北京で8日からオリンピックが始まりましたが、西のはずれ、新疆ウイグル自治区のクチャでは10日未明、懸念された通り同地区の独立を求める勢力によって爆弾テロ事件が起こされました。また黒海とカスピ海に挟まれたグルジア共和国の南オセチア自治州では11日未明、ロシアの軍事介入も報道されています。
またこれに先立つ8月5日にはルワンダ共和国政府から、1994年の大虐殺にフランス政府が積極的に関与したとする報告書が発表されています。同報告書は120人の目撃証言に基づいて仏軍兵士が殺人やレイプに直接関わった事実を告発、故ミッテラン元大統領やバラデュール元首相ら当時の仏政府首脳が名指しで批判されました。
そんな国際情勢も意識しながら、戦争の問題を考えたいと思います。
今年はことさらに暑い8月になりました。63年前の今月、人々はどんな暑さの中にいたのでしょうか。戦後生まれの私には、想像することしかできません。
今回は最初に読者の皆さんにお願いがあります。もし皆さんの中に、あるいはご家族やお知り合いに、旧海軍軍人として技術に関わったご経験のある方がおられましたら、お話を聞かせていただけないでしょうか?
大学での研究プロジェクトとして、今年度から新たに3本のテーマを走らせることにしたのですが、その1つとして「旧日本軍の技術政策とその失敗」のケーススタディーを始めています。遠隔地でも全く構いません。ちなみに今回ご紹介する井上勝也先生からのお話は、すべてお手紙とメールなどの電子媒体だけで伺っています。状況が整えば私の方から参上もいたします。編集部までご一報を頂ければ幸いです。
● 失敗研究と経営戦略
いまや経営の神様と言っても過言でない野中郁次郎さんは、元来は防衛問題の専門家として失敗事例を研究される過程から、ストラテジストとしてビジネスをターゲットにされた研究史をお持ちです。私は軍事には全くの素人で、ハト派の音楽家に過ぎませんが、基礎科学のバックグラウンドを持つ大学教員として政策立案などに関わるうちに、「理系」「ハト派」の観点からの軍事技術研究に、かなりポッカリと穴が開いていることが、だんだん分かってきました。
防衛専門家をはじめ、軍事の研究は日本にも蓄積があります。また、それらのビジネスなどへの転用も、野中さんなどの先行業績があります。それらは大変に参考になるのですが、専門的、科学的な観点から見ると、一つ食い足りないというのが正直なところです。比喩が多いのです。
技術などの詳細が記されているのは、むしろ軍事テクノクラートの方ですが、こちらはビジネス転用といった観点と距離がある。比喩を超えて、強力な経営戦略など民生に転用可能なテクノロジーやイノベーションの観点が、けっこう手付かずで残っています。
第2次世界大戦中に技術開発に関わっていた人たちは、戦後どうしていたのでしょうか…ソニーの井深大、盛田昭夫両氏など、戦後の技術開発を支えた当事者が、戦時中、とりわけ海軍の技術将校として敗戦を迎えた経験を持っているのは、広く知られています。
また、こういう人たちに話を聞く、というのも、今まで多くの例があります。立花隆氏のような人の労作が拝見できます。
いろいろ立派なお仕事と思って読むのですが、やはり専門に踏み込んだ話がどれくらいあるか、というと、質・量ともに限られているように思います。現場のインタビューでは、もっと詳しいことが語られているのかもしれません。でも一般読者の目に触れるところでは、読み物としての「評論」の範疇に収まるところで止まってしまっている。何とも惜しく思われます。
読者がいて成り立つ、評論出版の経済があるわけだから、無理ないところと思いますが、もう少しそれを、一定の範囲ですが、奥深く踏み込んで考えてみたいと思ったわけです。
● 旧軍事技術者が支えた技術立国
若い日に経験した成功や失敗は、専門家に基礎を与えます。昭和20〜30年代に、日本に成功をもたらしたトップエンジニアたちは、もれなく戦時の経験を持っていました。こうした大きな「背景」は決してバカにしてはいけないと思います。
前著『バカと東大は使いよう』にも書きましたが、1945年時点で20歳だった人々は1985年近辺に定年を迎えます。この冷戦末期を境に「電子立国」「技術立国」といった日本のお家芸に影が差し始める。やがて突入する「平成構造不況」にイノベーション側から人材の交代が原因を作っているようにも思うのです。
そしていまや戦後のベビーブーマー、団塊世代の方々が現場を去ろうとしている。こんな今だからこそ、伝えてゆかねばならない、残してゆくべき大切なものがあると思っています。
● 「蝋管蓄音機」と「新型爆弾」:88歳のパワーポイント
実は、こういう仕事をしなければ、と思った個人的な動機があります。
私は以前、音楽本来の仕事で、19世紀末に開発されて人類史上初めて実用化された録音機器「蝋管蓄音機」について調べていたことがあります。
現在でも、数は少ないですが、実際に音を聞くことができる蝋管蓄音機が保存されていて、その1つを拝借すべく補聴器の「リオネット」で知られるリオン株式会社の本体、小林理学研究所をお訪ねしました(「リオン」は「理学」と「音響」を組み合わせた造語とのこと)。
理事長の山下充康先生から、前理事長の五十嵐寿一先生が原爆投下直後の広島で現地調査に当たったことがある、というお話を全く偶然に伺いました。
当時五十嵐先生は88歳。大変お元気で、電子メールでの問い合わせに始まって、2005年8月9日(長崎原爆投下の日)には、私が主催する東京大学大講堂(安田講堂)でのシンポジウムで、原爆投下直後の「廣島」に関する詳細な講演をしていただきました。
1916年生まれの五十嵐先生は東京大学理学部物理学科をご卒業後、海軍技術将校として音響の研究に携わられました。潜水艦や魚雷の探知装置の基礎研究、開発のお仕事です。
五十嵐先生は戦後も一貫して音響研究に携わられ、東京大学教授(宇宙航空研究所長)として音響、振動、騒音などの分野で膨大な業績を上げられました。1970年代には、騒音公害の基準策定や環境アセスメント条例の制定などに尽力されています。ここでは常に市民への福祉の立場に立って、的確な科学的指導を行政に対しても貫いておられます。軍人経験のある理工学者は、こうした局面で、下の世代の人と明確に違う筋を一本持っていることを、常々感じます。
定年後は補聴器など、やはり高度な科学技術を福祉に生かす基礎研究を指導されました。2005年の時点でも毎週1回、学習院大学の学生さんたちとゼミナールを開いておられましたが、翌年、肺炎のため五十嵐寿一先生は急逝されました。かえすがえす残念でなりません。
その五十嵐先生に、結果的には生涯でたった一度、最初で最後になってしまいましたが、原爆投下直後の「廣島」について、公開の場でお話をいただいたのが、私たちの安田講堂でのシンポジウムでした。あれからまる3年が経ちました。
88歳の先生は、ご自身で長大なパワーポイントファイルをお作りになり、登壇直前まで詳細な訂正を繰り返されました。
呉の海軍工廠の施設で探知機研究をしていた8月6日。やがて東京から連絡があり、日本製の原爆開発を検討したことがある理化学研究所の仁科芳雄博士を団長とする「仁科調査団」が急遽組織され、廣島市内に足を踏み入れた8月8日。3時間の調査と、やはり3時間余りの議論を通じて得られた「新型爆弾は原子爆弾であろうと思われる」という結論に至る経緯…。
当事者から科学の言葉で伺って、被災地が目の前に見えるように思いました。
今も私の研究室にある五十嵐先生のパワーポイントは、そのまま私が死蔵していてはいけないものだと思っています。音楽の仕事で蝋管蓄音機を拝借に行ったところ、期せずして原爆の仁科調査団に繋がっていった。こうした偶然から、私は(むしろ音楽家として)引き受けるものを感じないわけにいかないのです。
同じシンポジウムでは、やはり投下直後の長崎で、一医学生として、原子野で10日以上にわたって被災者医療に従事された土山秀夫先生をはじめ、様々な方にお話をいただきました。
土山先生の原子野でのご経験が戦後の研究やお仕事に、様々なレベルで決定的に繋がっていることも、伺っていて目からうろこでした。この世にかつて存在する、最も残酷な環境。医療というよりはただ、1日目に絶命した人はこういう症状、2日目に絶命した人はこういう症状…と、医薬も方法もな く、苦しみながら亡くなっていった人たちを見守ることしかできなかった原子野での体験。
その直後、平和が回復されると、土山先生なんと江戸川乱歩に認められて、医学の傍らで推理小説作家を始められるのです。10余年にわたって、片や医学者としての研鑽を重ねながら、昭和20〜30年代、雑誌「宝石」上などで一線の作家としても活躍されました。後に、海外留学を期に筆を折られますが、医学のご専門はもとより、長崎大学医学部長、長崎大学長を経て、現在も「世界平和七人委員会」委員などとして、多忙な毎日をお過ごしであるのは、ご存じの方も多いと思います。
事実は、第三者の想像を超えたリアリティーを持つものです。単にストーリーで伝えるという以上に、当事者の正確な表現で、場合によっては転用すら可能な形で、様々な経験を伝えてゆくこと、とりわけ失敗を価値に転化してゆくことが、何よりも大切です。
とりわけ五十嵐先生のパワーポイントについては、小林理研とご遺族に相談して、いつかどこかで、適切な形で広く世に残る形にしたいと思っています。
● 特攻燃料からナノテクノロジーまで
千葉大学名誉教授の井上勝也先生とは、全くの偶然で数ヵ月前に、ネットを通じてお知り合いになりました。私は理科教育に重きを置く高校で学んだのですが、同じ高校の43年ほど先輩に当たられることが、そもそものきっかけでした。
新日鉄基礎研究所の立ち上げメンバーでもある井上先生は、石炭の研究から発展して鉄や炭素などの無機化学でパイオニア的な業績をあげてこられました。終戦から60余年、そうした先駆的な研究は、現在のナノテクノロジーにまで繋がっています。
また、専門の研究と並行して井上先生は大変に優れた教育者でもあられます。千葉大学理学部の創設、神奈川大学理学部の創設など、いくつもの教育機関の創始に重責を果たされました。初心者向けの科学解説にも素晴らしいお仕事がたくさんあります。何を隠そう、ちょうどルワンダ行きの準備をしていた私は、現地で学生に演示する実験のテーマを、井上先生から頂いたのでした。スチールウールは鉄なのに、マッチの火で簡単に点火することができます。ルワンダの高校生たちが大変に喜んだ実験は、井上先生からテーマを頂戴したものであります。
ある時、そんな井上先生の御著書を読んでいると、先生が第2次世界大戦中、海軍技術将校として特攻機の燃料開発に携わっておられたことが、さりげなく書かれていました。
五十嵐先生の「仁科原爆調査団」以来の衝撃と、何かうまく言えないものを強く感じました。そして井上先生に当時のことをいろいろとお伺いしました。
昭和16年の秋、真珠湾攻撃直前の時期のこと。井上先生がまだ学生時代、呉の海軍工廠で技術大尉だったお兄さんが帰省されて、先生にきつく説教なさったそうです。学生には分からないだろうけれど、いま時局は大変なことになっている。大きな声では言えないが、瀬戸内海の連合艦隊停泊地で戦艦陸奥が爆沈した。そんなところまで敵潜水艦が来ているのかもしれない…。
やがて昭和18年の秋、井上先生も大学を卒業して海軍技術将校として任官します。とりわけ昭和19年秋から20年の夏までの戦争の最末期、井上先生は大艦主砲の発射火薬を製造する工廠に勤務して、戦局の変化を軍事技術者として痛感します。
というのも、次々に大型火薬が「不要」「製造中止」になってゆくのです。
● 発射火薬による艦砲の制御
1946年、最初のコンピューターが開発されたのは、ミサイルの弾道計算、もっと明確に書けば、核弾頭を配備した弾道ミサイルの配備のためでした。それ以前、つまり第2次世界大戦のおしまいまで、大砲の弾は発射角度と弾薬でコントロールするしか、基本的に手がなかった。広島や長崎の原爆も、輸送機で運んで、落下傘をつけて投下したものです。
改めて言われれば当たり前の事実ですが、月にロケットが飛んで40年、私たちはこうした事実を忘れがちであるように思います。
主力艦の主砲火薬は、一つひとつ調合の違う、極めて高度な、戦時技術の結晶のようなものだった。ところが「これはもう製造不要」という通達が来る。それはすなわち、その軍艦が轟沈されて、すでに海上には浮かんでいないという事実を示していました。
次々ともたらされる「製造不要」の通達。もう日本は主力戦艦をほとんど持っていないことが、技術者の目には明らかでした。
手元には原料火薬ばかりが残ります。といってもそれらも限りがあるもの。軍部はこれらの軍事物資をどう生かすかを考えた。
高度なテクノロジーを駆使したはずの巨艦はすでに沈んで存在しない。相手の戦艦、空母に向けて、爆撃機から切り離して、火薬ロケットに点火して飛び込んでゆく「桜花」という特殊攻撃兵器が発案されました。「特攻」の始まりです。
軍艦主砲の発射火薬は精密極まるものだったけれど、もうそんなものを作る必要はない。そこでそれらの品質を低め、徐燃性組成にして大型化した。「最後まで燃え尽きないで推進するだけ」のロケット花火のようなものです。
その先に、人が腹ばいになってわずかに進行方向を変える操縦装備をつけた。これが「桜花」の実際だったそうです。
また水上攻撃用には、モーターボートのようなものに同じ燃料をつけた「回天」も作られた、と井上先生が知らされたのは、戦後になってからのことでした。
井上先生からお話をお伺いして、限られた軍事物資をどのように「合理的」に使って、特攻兵器が作られていったのか、その詳細を、まるで手に取るように知ることができました。
あとから、ただただ感情的に「人命を軽視する非情な武器」「二度とあのようなことを繰り返してはいけない」とのみ繰り返しても、具体的にどういうプロセスを踏んで、「ああいうこと」になったのか、それが分からなければ、人は簡単に同じ誤りを繰り返します。
ここ数週ご覧いただいている読者には「大阪府の財政」を例に挙げると、突然反応があったのをご記憶と思います。「非常時」という時に、どういう判断を下すか。当事者は、それがベストと思ってすべてを判断します。
ナチスドイツのホロコーストも、旧日本軍の特攻兵器も、そもそも原子爆弾自体からして、本来は優秀な能力を持った、大変な人数のテクノクラートが、上からの命令で、必死に工夫して作ったものでした。
「桜花」「回天」などの戦争末期の悲壮な兵器もまた、優秀な技術者たちが、残された最後の材だけで、様々に工夫をして作ったものであることが、当時を知る方から伺うとよく分かります。
井上先生は、神奈川県平塚市にあった高精度発射火薬を徐燃組成化して特攻燃料とする工場に勤務されましたが、製造や開発は、司令部からのスペックに基づいて「製造部」の村田技術中佐や「研究部」の日野技術少佐などが、大変な苦心をして事に当たったものだろうとのことでした。村田中佐、日野少佐、いずれも東大工学部出身のたいへんな逸材だったそうです。この原稿にお名前をお出しすべきか、と井上先生にお伺いしたところ、こうやって光の当たるところで語ることで、故人はきっと地下で喜んでいるに違いない、とのことでしたので、アルファベットのイニシャルではなく苗字で記しました。
砲の発射火薬は、ニトログリセリンとニトロセルロースを目的別の割合で混練したものでした。多かれ少なかれ「可塑剤」が加えられ、この種類と量の工夫によって反応速度=燃焼のスピードが変化します。井上先生は「発射火薬工場」のご勤務でしたが、ニトログリセリンとニトロセルロースは(事故を避ける、あるいは爆撃なども想定してのことでしょう)おのおの別の工場で作られていたそうです。可塑剤など添加物の加減はニトロセルロースの製造工場で行われた可能性が高いのでは、とのことでした。
● 「徐燃化」から考える平和利用
一挙に爆発するのではなく、少しずつ燃やしてゆく「徐燃化」という言葉と発想は、私には大変に衝撃的な発想でした。
考えてみれば、核兵器と原発などの平和利用とを隔てているのも、この「徐燃性」。あるいは反応スピードの制御と、利用目的の方向性にほかなりません。
莫大な原子の結合エネルギーを一瞬にして解放してしまえば、1つの都市が瞬時に壊滅してしまいます。それをゆっくりゆっくり、反応を制御しながら、人類に役立つエネルギー源として利用する「徐燃化」の研究こそが、戦後の原子力平和利用の全体に通底するものだと言っても、大きく外れない。
旧日本軍が、いよいよ末期だという時、それまでの高度な技術から、一方では「徐燃化」という技術の知恵を使いながら、他方で「海往かば」の玉砕思想で開発を進めた。
そこで何が起きたか。そして、そのうちのどこをどう改めた時、戦後にどういう技術からどんな応用が実現されたか。
そうしたプロセスを一つひとつ、世代の下った私たちは、きちんと両目を開けてみるべきだと思うのです。
五十嵐先生にお願いした、安田講堂での講演では、「廣島」での調査の話の後、最後にプルサーマルやトリウム溶融塩炉など、核軍備の解体とそれに伴う平和利用への、極めて具体的な言及がありました。88歳の五十嵐先生が、そういう専門外の先端技術に完全に通じておられたのにも、大変に驚き、深く尊敬の念を抱きました。安田講堂のシンポジウムでのお話も、核拡散を防止する、技術側から実効性を伴う積極的な提言を行うべきだと、大変に力強く述べられて結びとされています。
…ああ、こういう人が、廣島の現地を見て、戦後に同じ「音響技術」を環境アセスメントや騒音公害防止に役立てて、地道な仕事をえんえん積み重ねてきたのだな…。
88歳の五十嵐先生のパワーポイントを見て、あまりに感激していた私は、そこで思考が止まっていました。
でも今改めて考えるなら、戦後の、軍事技術の平和利用への第一歩、あるいは第ゼロ歩は、戦争末期の軍事開発と地続きだったのではないだろうか? いや、末期の軍事技術そのものが、実は「徐燃化」という理系の知恵と、玉砕思想ではない別の指導理念との結合によって、別のものに転化したケースも多かったのではないかと思うのです。
● 科学的失敗事例として「終戦」を捉え直す
戦争のことを語る時、軍事に疎い私は(良くないことかもしれませんが)、いろいろ表現を選んでしまいます。それできちんと伝わらないことも多いと自覚しています。
ちょうど1ヵ月前、7月15日付で「アフリカの太鼓に教えられたこと」(第50回)を書いた時、「シベリア抑留の『羅生門』」として、私は「ここには記しませんが、武田泰淳の『ひかりごけ』のようなもっと凄まじい事態も起きていた」と、あえて記しました。
多くのひとがピンとこないかもしれないと思いながら、刺激が強すぎないよう、直截的な表現を 回避したのです。
2週間後の8月1日、毎日一冊!日刊新書レビューで、朝山実さんの「地獄の日本兵」(新潮新書)評を読んでいて、私は恥ずかしくなりました。「履き替えられる靴、そしてサルの肉」として、ニューギニア戦線で起きていた、日本兵による日本兵の計画的殺人や物資略奪、とりわけ人肉食の事実を、きちんと書いておられたからです。
ひと月前、私はどうしてもこの連載に、そこまであからさまに書くことができませんでした。4年の間シベリアに抑留されて、生きて帰ってきた自分の父親も間違いなく死体から服を奪っただろうこと。そうでなければ100%凍死していたのですから。そしてさらに自分の父にもまた、もしかするとそれ以上のことがあったかもしれない。それがあって、生きて復員して、自分を作ってくれて、もう父が死んで36年になりますが、今に至っている。
生々しすぎると思われた細部にこそ、本当は足を踏み入れねばならないのだと、改めて痛感しました。8月になってから、それを含む原稿を佐藤優さんが責任編集する「WEB国家」に書きました。この話題には数週後に、また触れると思います。
能書きや、べき論の倫理ではなく、一つひとつのローカルな判断、技術的妥当性や合理性など、小さな積み重ねから、戦争を考え直す必要があると思います。
その時、自分自身にも直結する痛みを持って、失敗学を構築できるかどうかに、すべてがかかっているように私は感じます。
科学的失敗事例として「終戦」を考えるという観点、しかも「今度はうまくやって勝とう」とかいうのではない、本質的に未来を切り開く、具体的細部にわたる過去の再検討が、一番大きな知恵を与えてくれると思うのです。
井上先生からは、当時海軍艦政本部で技術系人事を一手に行っていた三井再男大佐について調べることをお勧めいただきました。三井大佐も戦後は公職を追放され、キヤノンに長年奉職されて、井上先生も公私にわたって長年親しく仕事されたとのことでした。終戦を挟んで戦中と戦後と、研究者たちが一貫して持っていたものについて、科学史や技術史を専門とする仲間とも協力しながら、息の長いスパンで考えたいと思っています。
もし旧海軍技術将校などのご経験をお持ちの読者、あるいはご家族にそういう方がおられ、貴重な事実をご存じの読者がおられましたら、どうかご一報を頂きたく、末尾ながら再びお願いを申し上げます。
(つづく)
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伊東 乾の「常識の源流探訪」
私たちが常識として受け入れていること。その常識はなぜ生まれたのか、生まれる必然があったのかを、ほとんどの人は考えたことがないに違いない。しかし、そのルーツには意外な真実が隠れていることが多い。著名な音楽家として、また東京大学の助教授として世界中に知己の多い伊東乾氏が、その人脈によって得られた価値ある情報を基に、常識の源流を解き明かす。
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伊東 乾(いとう・けん)
1965年生まれ。東京大学大学院物理学科博士課程中退、同総合文化研究科博士課程修了。松村禎三、レナード・バーンスタイン、ピエール・ブーレーズらに学ぶ。2000年より東京大学大学院情報学環助教授(作曲=指揮・情報詩学研究室)、2007年より同准教授、東京藝術大学講師。基礎研究と演奏創作、教育を横断するプロジェクトを推進。『さよなら、サイレント・ネイビー 地下鉄に乗った同級生』(集英社)でオウムのサリン散布実行犯豊田亨の入信や死刑求刑にいたる過程を克明に描き、第4回開高健ノンフィクション賞受賞。メディアの観点から科学技術政策や教育、倫理の問題にも深い関心を寄せる。他の著書に『表象のディスクール』(東大出版会)『知識・構造化ミッション』(日経BP)など。
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