★阿修羅♪ > 戦争a1 > 682.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/requiem_1b63.html
2008年3月13日 (木)
「Requiem 東京大空襲 広瀬美紀写真展」に出かける
NHK首都圏ネットワークで知って
最近、平日の夜6時10分から放送される「首都圏ネットワーク」を録画してみることが多い。3月10日の分を帰宅してみると、<リポート 東京大空襲 見えない痕跡を写したい>というタイトルで62年前の3月10日に東京を襲った大空襲の仮埋葬地と生き残った被災者の今を撮り歩いたフリ−・カメラマンの広瀬美紀さんのことを紹介していた。印象が強烈だったので、番組の中で紹介された広瀬さんの写真展「Requiem 東京大空襲」へ昨日、帰宅途中で出かけた。
「Requiem 東京大空襲 広瀬美紀写真展」
2008年3月5日(水)〜―18日(火)
10:00―19:00(最終日は16:00まで)
銀座Nicon Salon TEL: 03-5537−1469
(ニコンプラザ銀座1F)
知られていない東京大空襲の実態
「東京大空襲」の始まりとなった1945年3月10日の大空襲は深夜00:15の空襲発令から約2時間半にわたって、344の米軍B−29が低空から江東区、隅田区、台東区域に向けてナパーム製焼夷弾を浴びせた惨事である。死者は10万人以上(うち、縁者が引き取った遺体約2万人、無縁仏・行方不明者約8万8千人)、被災者100万人、被災区域約40.9平方キロメートルといわれている。その後、5月24日には250機、25日にも250機のB−29が東京西部の焼け残った地域に飛来し、焼夷弾による絨毯爆撃を行った。
記録によると、3月10日深夜の東京下町を襲った爆撃では、B29の先発部隊が江東区・墨田区・台東区にまたがる40kuの周囲にナパーム製高性能焼夷弾を投下して火の壁を作り、住民の退路を断ったという。その後に大量の焼夷弾が投下され、逃げ惑う市民には超低空から機銃掃射が浴びせられたという。
仮埋葬の場所となった公園、寺の数々の写真
少し遅れて会場に着くと、先に着いていた連れ合いは展示を見はじめていた。銀座松坂屋の横のビアホール「ライオン」のすぐ近くにある小さなサロンだった。記帳を済ませて入り、展示された写真とその下に掛けられた記事(被写体の被災者の談)を見て回った。モノクロ55点だったが、メモをとりながら回ったので結構時間が経った。その多くは、名前もわからず、数年間、遺体を仮埋葬した各地の公園や寺院だった。都内に90か所近くあるこうした仮埋葬地を撮り続けると同時に、体験者の取材撮影も手がけることで、生き残った高齢の被災者の思いが永遠に封印されるのを食い止めたいというのが広瀬さんの動機だったという。
浄心寺(現江東区、184人)、行船公園(現江戸川区、434人)、原公園(現墨田区、383人)、蔵前都有地(現台東区、773人)、法蓮寺(現江戸川区、25人)、妙久寺(現江東区、2865人)、隅田公園本所側(現墨田区、3682人)、・・・・・・と続く。
写真に添えられた被災者からの聞き書き
こうした各地の仮埋葬地の写真の間に、生き残った被災者の取材写真が並び、その下に広瀬さんの聞き書きのプレートが添えられていた。その中でメモを取ったいくつかを転記しておきたい。
「燃え上がる言問橋に人々が欄干にはりついていた。夜が明け、生き残った者が20人ほど集まったが他は全て焼死。本当の苦労はこれからだった。」(K. Mさん、当時14歳、戦災孤児)
「翌日、ひき上げてもひき上げても死体が浮き上がってくる。熱さ、爆風、ここから飛び降りた人の気持ちを思うと・・・・・」(O.Mさん、当時10歳、戦災孤児)
「翌朝、菊川橋の上は天井の高さ位に積み重なり、絡み合った黒こげ焼死体の山。川幅一杯、水も見えず覆われた水死体。公園で乾パン5粒。それが空襲から今まで公から頂いたもの。」(MKさん、当時10歳、戦災孤児)
国家賠償を求めて提訴した被災者、遺族の写真も
会場でもう一つ印象深かったのは、東京大空襲に対する賠償などを国に求めて2次にわたる提訴をしている被災者、遺族、裁判の写真が数多く展示されていたことだった。大空襲から62年を迎えた昨年3月9日、被害者や遺族計112人が国を相手どって、謝罪と賠償を求める訴えを起こした。そしてこの3月10日には新たに東京や埼玉など7都府県に住む69〜79歳の計20人が国に対して同様の訴え(第2次提訴)を起こした。戦争開始により大空襲を許した責任、戦後、旧軍人・軍属への補償をしながら、民間人の被害者に何の補償もしないのは不当というのが訴えの理由である。あわせて、補償の立法措置、犠牲者の追跡調査、国立追悼施設の建設を求めている。
前記のNHK・首都圏ネットワークが、今回の写真展のこの部分に全く触れなかったのは残念だった。東京大空襲の惨事を単なる過去の記憶としてではなく、現在、将来に突きつける課題を知らしめることも、おろそかにされてはならない。歴代の日本政府が東京大空襲の歴史的事実を後世に伝える責務を怠り、時の流れとともに人々の記憶から消えるままに放置しているなかでは、なおさらのことである。
展示会場での会話
私たちが会場にいたのが夕方6時半ごろだったからか、入館者はまばらだった。そんな中、展示を見ているさなか、受け付けで挨拶をする広瀬さんに「1歳の時、父母を亡くした」、「7歳の時に自分も 被災した」などと話しかける人たちの声が聞こえてきた。連れ合いも実兄から聞いたという、川口街道を逃げ歩いた光景を広瀬さんに話しかけていた。私も広瀬さんと少し会話を交わしたが、気さくで気取りのない大変さわやかな方だった。「ブログに載せます」と告げて会場を後にした。
この記事をご覧いただいた方にもぜひ、出かけていただければと思う。3月18日まで。