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(回答先: アメリカの「成功」という寓話:ファルージャに戻る(Falluja, April 2004 - the book) 投稿者 gataro 日時 2008 年 2 月 03 日 21:52:17)
http://teanotwar.seesaa.net/article/82246285.html
2008年02月03日
ファルージャに戻る 第二部 「米国がもたらしたのは破壊だけです」
パトリック・コックバーン(コバーン)によるファルージャからの報告、第二部。
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ファルージャに戻る 第二部 「米国がもたらしたのは破壊だけです」
2008年1月29日
パトリック・コックバーン
CounterPunch原文
ファルージャは、中に入るのが世界一困難な町である。バグダードからの道には27の検問所があり、重武装した兵士と警察が詰めていた。「全面的に包囲されています」とファルージャ病院のカマル医師は、必要な品々をリストアップしながら述べた。必要なものには、薬や酸素から電気と清潔な水まで、あらゆるものが含まれていた。
前回私がファルージャに入ろうとしたのは数年前のことで、そのとき私は米国の燃料運搬車列に対する襲撃に巻き込まれ、車からはい出して運転手とともに路肩に伏せ、米軍兵士とゲリラの交戦を見ていた。今、道路はそのときよりはるかに安全だが、けれども、ファルージャ出身者で、複雑な身元証明手続きを取らない限り、誰一人ファルージャに入ることはできない。2004年11月に米軍海兵隊が攻撃し、町の大部分を破壊して廃墟にした攻撃以来、ファルージャの町は封鎖されている。
道を歩くと、壁には銃痕があちこちに残り、建物はコンクリート・スラブの固まりと化していて、まるで戦闘が終わったのは数週間前のことのようだった。
私はユーフラテス川にかかる古い橋を見に行った。そこの鉄製欄干から、ファルージャ住人が、ゲリラに殺された米国人私営治安要員2名の焼死体をつり下げた----この事件から最初のファルージャ戦闘が起きた。一車線のその橋はまだそこにあり、近くには爆撃されたり爆破された建物の残骸が残っていて、壊れた屋根が道に張り出し、コンクリート・スラブがさびた鉄筋にくっついていた。
ファルージャの警察署長フェイサル・イスマイル・ハッサン・アル=ズバイ大佐は、ファルージャの状況が好転していることを示そうとした。
橋を見ているとき、人々が集まってきて、茶色いコートを着た老人が「電気もない、水もない」と叫んだ。
ほかの人々が、ファルージャには1日1時間だけ電気が通ると教えてくれた。フェイサル大佐は、水と電気について自分にできることはほとんどないと述べたが、集まってきた一人に対し、彼のレストランの外にあるレーザーワイヤーのフェンスは取り除くと約束した。
ファルージャの状況はしばらく前よりもよいのかもしれないが、復興にはほど遠い。病院の医師たちは、この6カ月で覚醒運動がアルカーイダを町から追い出して以来、銃撃や爆弾爆破の犠牲者が病院に運び込まれることはあまりなくなったと述べたが、人々は今でも、いつ何時戦闘がおきるかわからないように不安げに歩いている。
サダム・フセインの特殊部隊の士官だったフェイサル大佐は、警察署長になる前、「私はアメリカ人と闘っていた」ことを陽気に認めた。弟のアブ・マルーフは元ゲリラ指揮官で、ファルージャとその周辺で反アルカーイダの覚醒運動兵士1万3000人を率いている。大佐は、ファルージャの路上は現在とても安全だが、それでも彼の車列は警官の先導のもとでスピードを出して走り、顔を白い目出し帽で隠して、車の上から機関銃を構え、激しい身振りで対向車に道をどくように指示する。
警察署は大きな建物で、コンクリートと土の防壁で守られている。中庭に入ったとき、アルカーイダに対する戦いは終わったが逮捕は続いていることを示すしるしが目に付いた。警察署の別の側から20人の囚人が列をなして現れた。皆、白い目隠しをつけ、前の囚人の服の背中を掴んでいた。第一次世界大戦のとき、ガスで目が見えなくなり、一人の目が見える男----今回はそれは看守だった----の後ろに連なって歩いている男たちの写真を思い起こさせた。
大通りには新たな建物が建っていた。以前、私は、ハジ・フセインというレストランでケバブを食べていた。イラクでも最上のレストランの一つだった。それから、占領が続く中、敵意に満ちた視線を受けるようになった。店主は、二階の空き部屋で食べるほうが安全だと述べた。その直後、米軍の爆撃でハジ・フセインは破壊された。現在、ハジ・フセインは派手な色で再建され、うまく行っているようである。
以前、ファルージャには60万人が暮らしていたが、現在、何人が暮らしているのかを知っている市関係者はいないようである。フェイサル大佐は投資を期待し、私たちをファルージャ・ビジネス開発センターという白い新築のビルに連れて行ってくれた。建築資金の一部は米国国務省の部門から出ている。背の高い米軍兵士たちが、ビジネス開発会議を護衛していた。制服を着た米国人顧問が「これまでに米国人投資家一人を獲得した」と述べた。もう一人の米国人が「私はサラです。心理作戦担当です」と述べ、誇らしげに、新たに設置されたラジオ・ファルージャを案内してくれた。
町の反対側で、私たちは、1930年頃に作られた鉄橋を渡った。ユーフラテス川の逆側とを結ぶ今や唯一の道だった。川を半マイル下ると現代的な橋があるが、そこは米軍が占拠しており、地元の人々によると、駐車場として津くぁれているという。橋の逆側には、2004年のファルージャ包囲攻撃のとき、町から逃げ出そうとした人々が隠れた背の高い草むらからなる河原の向こうに、道の片側に爆弾で中身がむちゃくちゃになった建物があった。その向かいは病院だった。米軍司令官たちは、この病院のことを、米軍の爆撃で殺された人々の数を誇張していると非難してきた。
病院に不足しているものは何ですかと訊ねたところ、カマル医師は、飽き飽きしたように、「薬、燃料、電力、発電機、浄水システム、酸素、医療機器」と述べた。「米国の援助が、ビジネス開発センターにではなく病院に来たらと考えないでいることは困難です」。
フェイサル大佐は、状況はよくなっていると述べたが、黒衣装の女性たちが、子どもたちは医者にもかかれないと彼をやじった。
「毎日、20人の子どもが死ぬのです」とその中の一人が言った。「まさにこの部屋で、7人」。
医師たちは、出来うる限りのことはしていると述べた。「米国は私たちには何一つ提供しません」と子どもをあやしている母親の一人が言った。「持ってきたのは、破壊だけです」。
パトリック・コックバーン(コバーン)は、「The Occupation : War, resistance and daily life in Iraq」の著者。この本は2006年のNational Book Critics' Circle Awardベストノンフィクションの最終選考に残った。新著「Muqtada ! Muqtada al-Sadr, the Shia revival and the struggle for Iraq」は4月にScribnerから出版予定。
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ハリケーンで破壊された米国のニューオーリンズでも、人々とりわけ黒人の住居は復興されないままに、大きなコンベンション・センターが作られ、華々しい国際会議などが開催されているようです。
実は、この人の記事はいつも、何がいいたいのかわからず、背景も焦点も不明で、あまり得意ではないのですが、ファルージャを扱っているもののため、連続して紹介します。
投稿者:益岡