四月九日の早朝、後のイスラエル首相メナヒム・ベギンに率いられたイルグンと、同じく後のイスラエル首相イツハク・シャミルに率いられたシュテルン・ギャングのユダヤ人テロリスト123名が、まだ寝静まっていたアラブ人の村デイル・ヤシンを襲撃し、子供を含めた二〇〇人の村民を惨殺した。
彼らはこの戦争犯罪の残虐行為が対外の監視団員に発見されるのを避けるために犠牲者の遺体を焼こうとしたが、うまくいかず、遺体を国際赤十字の目から隠そうと、その一部を井戸に投げ込んだ。だが、赤十字は翌日現場に到着し、事件を世界へ公表した。
事実、生存者の証言を、パレスチナの1948年四月十三日、十五日、十六日付公文書「犯罪捜査課調査報告書」(文書番号179/110/17/GS)で知ることができる。その中で、イギリスの査問官リチャード・キャトリン副監察長官はこう述べている。
「この供述の記録がなかなか進まないのは、女性たちがヒステリー状態にあり、供述中何度も泣き崩れたためでもある。しかし、襲撃したユダヤ人たちによって、数多くの性的暴行が行われたことは疑いがない。多くの女子学生がレイプされ、惨殺された。高齢の女性も性的暴行を受けた。
少女が文字通り真っ二つに切り裂かれたという例もある。多くの幼児が切り刻まれて殺された。
わたしはまた、ライフルの台尻でひどく段られたという104歳とされる老女を見た。女性たちは腕からブレスレットを、指から指輪をもぎとられ、イヤリングを盗るために耳を切り取られた女性もいた」
(略)
五月十五日に国連がパレスチナを独立したユダヤ人国家とアラブ人国家に移譲すると、イスラエルはトラックに積んだ拡声器で、ただちに国外退去しなければ虐殺すると大声でアラブ人に通告し、またも軍によってアラブ人(今日ではパレスチナ人として知られる)を襲撃した。
デイル・ヤシン村の虐殺のことが記憶に新しかった八〇万人のアラブ人は、慌てふためいて逃げ出した。彼らは近隣のアラブ諸国に助けを求めたが、それらの国々はユダヤ人によるロシアのスターリン主義政権から供給されたイスラエル軍の最新の兵器にはかなわないため、これに関与しようとはしなかった。
この一連の大量殺戮の戦争犯罪によって、ユダヤ人は今やかつてのパレスチナの土地の七八パーセントを支配することとなった。これは、彼らがコントロールする国連によって不当に与えられた五七パーセントという数字にも反している。
アラブ人たちの多くはクリスチャンだったが、彼らがこの大量虐殺の間に盗まれた家や財産や仕事の補償は一切なされず、これらの人々は結果として難民キャンプのスラムに行くことになった。その上、少なくとも半分のアラブ人は命からがら逃げ出してきたために、出生証明書を残してきたままだった。イスラエルはその後、アラブ人のうち市民権を証明できる者だけに故郷、すなわち今はイスラエルとなっている場所に帰ることを許可する法律を通過させた。これによって、
四〇万人のアラブ人が故郷に戻ることができなくなり、残してきた財産のすべてを失うこととなった。