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http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20081023/174903/
この連載では定期的にゲストを迎えて、それまで展開してきた議論に幅を持たせるようにしている。今回のゲストは弁護士の郷原信郎さん。いわゆる「コンプライアンス」の専門家として知られ、マスメディアでの発言の機会も多い。 郷原さんは1955年島根県の生まれ。東京大学理学部(地質学専攻)卒業後、三井鉱山に入社するが1年半で退社、改めて司法試験にチャレンジし、 1980年に合格したという異色の法曹人だ。東京地検特捜部、長崎地検次席検事を経て2005年から桐蔭横浜大学法科大学院教授、同大学コンプライアンス研究センター長。2006年に検事を退官、弁護士登録。コンプライアンス関連事業を手掛ける日本初の大学発ベンチャー企業として株式会社コンプライアンス・コミュニケーションズを設立し、その代表取締役も務めている。 武田 お忙しいところありがとうございます。今日はご専門の「法令遵守」について話をしたいと思っていますので、よろしくお願いします。 郷原 はい、こちらこそ。 武田 郷原さんはコンプライアンスの専門家と言われていますが、少し前に『「法令遵守」が日本を滅ぼす』(新潮新書)という本をお書きになった。これ、普通だったら逆ですよね。法令遵守を進めるのがコンプライアンスであり、それこそが日本を救うだろうと思われている。なぜ、正反対にそれが日本を滅ぼすのかということからお話して頂きましょうか。 郷原 法と人間との関係を根本的に問い直してみないといけないと思っています。 今、一番いけない方向に日本社会が向かってしまっている。それは「法令遵守」という言葉にこだわって、何も考えないで、「法を守ること」が自己目的化していることです。 忘れてはならないのは、法というのは手段だということです。手段以外の何ものでもない。ところが最近は法が目的になってしまって、人間の営みとか、生活の方が、法を守ることの下に来るようになっている。 日本人は、もともと法にあまりなじみがないものですから、ごくたまに、関わり合いになるときには、法令をそのまま守ればいい。何も考えないで守っていれば、すぐに通り過ぎてしまう、ということで済ましていたんですが、最近になって、法の世界がどんどん膨張してきて、法令と関わりを持つことが多くなってきました。 そうであれば、法をきちんと使いこなせるように、それが何のための法令なのかということを考えなければいけないのですが、それでも、何も考えないで遵守、遵守、遵守ということばかり言っているわけです。そんなことばかりやっていると、みんなが思考停止に陥ってしまい、この社会はダメになってしまいます。 武田 それと通じることをこの連載でも以前に賞味期限偽装の問題で議論したことがあります(「『(ほぼ)全員有罪』の社会システムが稼働した」)。確かに期限を偽るのは違法です。しかし違法は違法だという以外にも考えることはあるのではないか。極端な話、賞味期限切れ食品を食べて死んだ人はいないのに、会社が傾いて、特に非正規雇用のひとなどは大きく人生が狂うわけですよ。自殺者もいたかもしれない。この非対称というか、アンバランスはどう考えればいいのか。そうした「ねじれ」も、世間とマスメディアが「法律は遵守しなければいけない」の一言だけで突っ走ろうとして他をみない結果として起きるわけです。 郷原 遵守というような考え方が、マスメディアにも完全に染みついてしまっていて、法を、規則をとにかく遵守しなかったものは、そのまま悪というふうに考える方が強くなっています。これだとマスメディアの側は物を考えなくて済むので、物を考えるというパワーを次第に失いつつあるマスコミにとっては、非常に楽なやり方です。 武田 これは社会学者の橋爪大三郎さんがハートという法哲学者の法に対する考え方を紹介する時に使っていた比喩ですけど、草野球を例に考えます。 草野球では殆どの場合、ジャッジが出なくてもうまく進むわけですよ。フライが上がってもきちんとキャッチされれば誰が見てもアウトですよ。9回裏で一発逆転のチャンスであっても、そこまで明らかだったらさすがに誰も異議申し立てなんかしない。だから審判はいらないし、実際、子供が草原で試合やるときなんか、9人揃わないことだってあるわけで、アンパイアなんかいないこともある。 ただ試合中に時々、白黒つかないケースが起きてしまうんですね。ホームベースを踏んだのとキャッチャーがタッチしたのとどっちが早かったかとか。そのときは審判に判断を委ねざるをえない。審判がいない本当に牧歌的な草野球だと、もめると埒が明かなくなってしまう。 審判の出番はこのように白黒つける必要がある場合であって、その時は審判の言ったことに関しては従うという決まりは草野球だってある。裁定を審判に預けることで白黒つかなくてもめる場合に試合をスムーズに進めさせようとするわけです。 法というのはこういう構造をもっていて、ふつうは意識しないでも社会はうまくゆくんですね。いざというときだけ法の出番になる。そして法の出番になったらそれを遵守しないと泥仕合になったりするので、それを避けましょうよということになる。これが法治国家の構造でしょう。 郷原 そういう審判がほとんど出てこない世界が、市民はもともと法というものにあまり馴染みがなくて、法は、神棚に祭った伝家の宝刀のように、存在していることに意味があって、実際に使われることはほとんどないという旧来の日本の社会だと思います。それが、最近になって、日経新聞が良く使う「法化社会」という言葉に象徴されるように、審判がしょちゅう出てくる世界に変えていこうという動きが出てきているわけです。 武田 さっきの草野球の比喩で言うと、審判の出番が必要になる白黒つかないクロスプレイが最近になって特に増えているなんてことはもちろんないんですよ。そうではなくて、なんでもかんでもいちゃもんつけて白黒つけたがる傾向が強まったわけです。 フライをキャッチしてアウトで、済んでいたのが、それに納得しないで、それ以前に選手登録に規約上の問題があったんじゃないかとか、グローブが規定のサイズを外れているから、今のプレイは無効で捕球していてもアウトじゃないとか言い始める。そうしたいちゃもん体質がマスメディアから大衆社会の隅々まで一貫して浸透してしまった。 郷原 しかも、その際に、細かな規則にばかりこだわって、その規則を遵守していれば善、遵守していなければ悪というふうに単純な二分法で考える。これは実はすごく楽な方法で、実際には何も考えていないに等しい。 武田 そうそう、法令遵守か否かということでは、取材も調査も実は殆ど必要ないんです。今や違法行為を発見したり、通報するメカニズムはいろいろあるので、その作動を待っていれば「飛んで火にいる夏の虫」ですよ。で、既に違法行為に手を染めたとわかっているわけですからそれを告発する。確かに違法は違法なんで、何の躊躇もなしに告発できる。 こうした傾向はインターネットに助長されている面もあって、ネット上で人々が自由に情報発信ができると、非常に素晴らしい民主的な社会ができるかなと思ったら、集合知的なウィキペディア的なものも出来たけれど、それと同じサイズでいわゆる「集合愚」もできた。具体的に言うとチクリ合いや足の引っ張り合いのようなことが日常化してしまう。例えば企業の内部告発ってネットのおかげですごくし易くなっていますよね。 そこに「官」が絡んでくる 郷原 遵守至上主義の構造を利用しようとする人間が出てくるわけですよ。日本の内部通報者や内部告発者の多くは本物のホイッスルブロワーとはほど遠い。本物のホイッスルブロワーはもっと高い目的があって、こういうことは絶対に許せない、それを何とかしようというのが動機になって行われる告発です。 ところがたいていの日本の内部通報者や内部告発者は、まず個人的な感情や利害で動くんですね。あいつは気にくわない、何とかしてやりたいという動機があって、そこで、何らかの法令、規則違反が問題にされるのです。 以前、この連載で賞味期限問題を例に「総告発社会化」について議論したときには、「全員を有罪にしうる法律を施行しておいて、恣意的に取り締まるような方法がスムーズに運用されなくなった以上、グレーゾーンを廃し、法的対象になるか、ならないかの二分法そのものの線引きを、改めてクリアカットに行う必要がある」と考えた。 そうでないと社会は法の実際の適用水位を下げ、更にそうした法の施行を支える相互監視状況=総告発社会化も進んで、本当に全員が有罪として告発されるまで止まらない「法の暴走状態」になってしまうからだ。 だがこうした方向での対応は本当にできるのか。法曹界の内部にいた郷原さんにそのあたりを訪ねてみた。 武田 前に書いたときには、そういう状況になった以上は、やっぱり規則自体を変えていくしかないのかなと書いたんですけれども、その辺はどうなのでしょう。 郷原 解決策はものすごく難しいんですよ。何か特効薬のような法制度があるはずだと思っちゃうと、次にはそれが自己目的化してきちゃう。 武田 今の法律に変わって、別の法律が人を従属させて支配するようになる。つまり役者が入れ替わるだけ、ですか。 郷原 法令や規則を変えて新たな制度を作っても、それをそのまま守れらせれば良いと考えている官と、そのまま守れば良いと思っている民の関係が変わらない限り、結局同じことだと思いますね。 私はコンプライアンスにとって大事なことは「センシティビティー」と「コラボレーション」だと言っています。一人一人のセンシティビティーと、そのセンシティビティーを束ねていくコラボレーション。センシティビティーというのは外の状況を自分で察知して、自分で感じ取って、自分で考えていくこと。そういうセンシティビティーが必要だけれども個々人がセンシティブであるだけでは力にならないです。 武田 一人の力ではなんともしがたい。 郷原 組織全体でひとつの方向に動かなければならない。そのためには法令を遵守するだけではなく、自分たち独自の価値観を共有してコラボレーションする仕組みができていることが必要です。それが、組織の枠を超えてもっと高次元のところまでいけば、たとえば官と民との間でうまくコラボレーションができれば、法令や制度を改善するだけでなく、それを活かしていく力にもなっていく。 ところが実際にはそういうコラボレーションが法令遵守という言葉のためにどんどん困難になっている。遵守という言葉は全部上から下に向かうんですね。それの構造と「官」とが結びつくのです。規制緩和の結果、官は規制を通じた権力行使ができなくなってきた。そこで法令をつくって守れ。遵守しろ、何も考えないで守れと言い出した。 武田 まさに「依らしむべし。知らしむべからず」ですよね。 郷原 これが規制に変わる遵守による官僚支配です。 武田 法治主義の建前を取っているけれど実質的には官僚支配。このふたつは実は全然違うことだということに気付かないといけない。 郷原 官僚とか、立法する側がすべて世の中のことをお見通しで、全知全能の神であればそれはそれで良いんだけれども、今のような複雑で多様化した世の中では、官僚が考えることはずれまくっています。そんなずれまくった価値観を全部、遵守で押し付けていくものだから、世の中は混乱を極めてしまう。 武田 さっきの草野球のアンパイアの話を承けて続けると、健全な社会というのは判断や裁定の権限をうまく委譲して、委譲した先に対して権力を持たせてそれに従うという回路を経て物事を効率的に進めていくことができる。 ところが今はアンパイアに委譲もしないで、まず個々人が「こりゃ違法だ」と判断を下す。アンパイアの方は頼まれもしないのにしゃしゃりでてきてルールを守れ、守らないと処罰するとがなりたてている、そんなイメージでしょうか。 郷原 その中心にあるのが「遵守」という言葉です。だから、とにかく私は、この遵守という言葉を叩きつぶすしかないと考えました。 武田 次の創造のための破壊ですね。郷原さんがご覧になっていて、この種の悪しき法令遵守が顕著になったのはいつ頃でしょう。 郷原 2000年以降でしょう。背景になっているのは、自由競争原理を徹底する一方で、検察の幹部なんかもよく言いだした「事後チェック型の社会に転換をするんだ」という流れ。その中で法令遵守という言葉が幅を利かせ始めたのです。 武田 なるほど。 郷原 自由にすれば一方でルールによる制約も設けていかないといけないのは当たり前のことです。違法行為を行う人間に対する制裁を強化していかないといけない。それ自体は正しいのですが、それが何か一大キャンペーンみたいなものになって、日経新聞が「法化社会」という訳の分からない言葉をくっつけたりしたために、世の中がすべて法令中心のような雰囲気になってしまいました。 会社法や金融商品取引法で内部統制という言葉が使われるようになりましたが、法令遵守も、その内部統制の対象の重要なものにされました。法令を遵守するための体制整備が法令で義務付けられる、という話になって、ますます、法令遵守が自己目的化していったのです。 しかし、その法令と社会の関係が、それまでと大きく変わったかと言えばそうではありません。結局官僚がつくった、そして実態とずれているのに官僚が放置した法令がそのままの状態で、とにかく遵守、ということが続いているわけです。 武田 その時のイメージは、アメリカ型の、なんでも法廷で解決する社会になるということでしょう。確かに今の法令遵守的な動きはアメリカの影響はやっぱりすごくありますよね。影響というか、コンプレックスというべきかな。おそらくコーポレートガバナンスの浸透とか、そういったものとトレンドとしては軌を一にしていると思う。しかしアメリカの司法システムの特徴は巨額賠償社会だということですよね。 郷原 弁護士に膨大なコストを掛ける。なぜマクドナルドのコーヒーでヤケドしたという程度で、何十億も賠償が取れるかといえば、それはその賠償金の大半を弁護士に取らせるためです。悪質な違法行為なをやった企業からは懲罰的損害賠償として巨額の賠償金を取る。そのかなりの部分が弁護士に回るわけです。となると弁護士は儲かるので活発に訴訟を起こす。それによって違法行為が行われないようにしようということです。 武田 アメリカはアメリカで賠償額が肥大している問題点はありますが、少なくとも同じ法化社会といっても日米で違うわけですよ。日本の場合には官民の構図があってその中で法令遵守が機能する。アメリカは民事裁判の地平でしょう。 郷原 アメリカは非常に合理的な、機能的な考え方をしますね。被害を被る人が出ないようにするために一定の規範をつくって、それに違反した人間はもう徹底的にたくさんの金を取られる。それを追及した人にまでお金を与える。法はそのための「手段」であるという考え方が強いと思います。 ところが日本の場合は、もともと法の社会というのは、ある意味では独立した、孤立したもので、そこの部分では神聖不可侵だった。僕がよく言っている、神棚に祭った伝家の宝刀なんですよ。それは刃物として使うためじゃなくて、不可侵なものとして存在しているということで、みんなが何となく安心してきたわけですね。アメリカのように手段として使われる法ではなかった。ところがそういう存在だった法が突然動き出した。 そこに「ジャーナリズム」も絡んでくる 武田 個人と個人の水平関係の中で、しかも市民の使うものとして、アメリカの場合には法が機能しているわけです。日本の場合には「公」を経由しないと「私」と「私」の間の問題も解消できないと思っているわけですよ。 民事裁判というのは訴えた人と訴えられた人の間の訴訟だけど、それでも法が絡むとそこで「公ー私」の垂直関係が出て来てしまう。刑事訴訟と同じく、法への侵犯ということを尺度の中に取り込んで民事事件が裁かれているイメージを持ってしまう。そうした垂直的な法はできるだけ最小化するというのが、法治主義の原則だと思うんだけれども、それが最小化するどころか最大化されてきたのが最近の構図でしょう。法が野放図に広がっちゃって止まらなくなっている。 郷原 そうですね。 武田 そこで、そうした暴走を止めるために公私の垂直関係に第三者的にジャーナリズムが入れれば良かったんだけれども、それもまでも「公ー私」の関係の中に組み込まれてしまたった。これはたぶんオウム事件前後に変化があって、ワイドショーが全部ニュースワイドショー化して、ある種、司法の代わりに振る舞うようになった。そして違法者を罰する法令遵守的な発言で、勧善懲悪をやるのがバラエティ化した報道のパターンになっちゃいましたよね。 郷原 誇張し、娯楽化して面白おかしいニュースにしてやる。これはジャーナリズムの商業主義にもマッチするんですよ。世の中で色々なことが起きているのを伝えるニュースと、単なるドラマの作り話とどっちが面白いかといったら、それは作り話よりも事実の方が面白いですよね。 武田 まさに事実は小説より奇なり、です。 郷原 そしてそんな事実を更にドラマチックに伝えたらもっと面白くなる。そのやり方をうまく使ってきた典型が何といっても「みのもんたの朝ズバッ!」ですよ。 武田 確かに情報資本主義化というか、情報価値を求める方向をそのまま推し進めれば、刺激の強い情報が求められ、情報を刺激的に料理することが要請されるだけですが、少なくとも報道というセクションに関して言えば、そうした流れをただ受け入れるだけであるべきではなかったですね。 もちろん草野球でも白黒付かない場面って絶対にある。クロスプレーでどっちが先にベースに届いたかとか。そういう場面で助けて貰うために普段からアンパイアに立ち会って貰っているわけで、実際にアンパイアが不要な段階でもいてもらう。郷原さんがさっき神棚だとおっしゃったのもそういうことでしょう。 あるいは相撲の例の方が分かり易いかな。ここでも審判団は神棚みたいなものなんだけど、物言いがつくと出番となって、土俵脇でいろいろ合議して裁定を下すわけ。しかしそんな審判団の判定は実はない方が良い。せっかく盛り上がっている勢いに水を射すわけですから。だから行司判定に多少異論はあってもスルーする。 それと同じで法に訴えるのはできるだけ最小限にして、基本的には自分たちでうまくいかせたい。そうした市民社会で、法に頼るまでもない事件を承けて活動するのがジャーナリズムで、ジャーナリズムは審判にお出ましにならないで人と人との関係の中で問題を解決するために存在していた。 もちろんジャーナリズムが解決しようとしてもなかなか納得して貰えないこともあって、その対策としてジャーナリズムは調査の精度を高めて行ったわけですよ。TVの生中継中にビデオカメラの録画をすぐに再生できるようにして、非常に微妙なプレーがあったときにはそれで確かめたりする。そこではあくまでも事実ベースの解決法が示されているのであって、裁定権力を委譲された人が権限を踏まえて有無を言わさず白黒決着をつけるわけではない。司法とは裁定のメカニズムが違っていたわけです。 ところがニュースバラエティーというのは、あれは結局裁判ごっこでしょう。判決を下すようなゲームをしているわけですよ。番組自体が、裁判員制度の模擬みたいですね。 郷原 しかも、そのスタジオ裁判の質が恐ろしく悪いわけです。弁護士バッジを付けて出てきているコメンテーターも含めて。 武田 しかし、わけがわからなくなってきましたね。ニュースの司法化があり、一方で司法自体がバラエティー番組化して…… 郷原 今、検事も裁判員制度に備えても一生懸命プレゼンの練習をしているそうですよ、映像を使ってね。アニメで説明するかとか。あれはワイドショー化ですよ、法廷のワイドショー化。 武田 テレビの司法化と、法廷のワイドショー化が同時に進んでいて、どっちもだめになっていくということですかね。そのうちみのもんたみたいな検察官が出てきて(笑)。 郷原 そうそう、「いいですか。皆さん、こんなの許せますか」なんて言うんでしょうね。 次回は、裁判員制度についてお聞きする。 (つづく) |