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今回は、6月28日にノースカロライナ州パインハーストで死亡した退役軍人、ジョセフ・ドワイヤー氏について書かれたNYタイムズ紙社説を以下に翻訳した。 開戦当時、ドワイヤー上等兵は米国で英雄的兵士として讃えられた。彼の映像は世界中に配信されたので、誰もが記憶にとどめたのではないかと思う。この英雄は、戦場から帰還しても、何らかの理由で怯え苦しみ続けていたらしい。イラク戦争後のアメリカ社会を映す象徴的な死であるように感じられる。 ドワイヤー上等兵の喪失(Losing Private Dwyer)by ローレンス・ダウンズ:NYタイムズ紙2008年7月15日付社説2003年3月25日、イラクのアル・ファイサリア付近の戦闘で巻き添えに遭い、負傷したアリ少年を抱えるジョセフ・ドワイヤー上等兵。撮影者ウォーレン・ジン氏の追悼文によれば、撮影当時4歳だったアリ少年とは2003年6月に再会できたというが、その後の少年の運命は不明であるという。 左の写真には、アメリカ国民がイラク戦争について2003年の開戦当時に信じたがっていた全てが詰まっている。陸軍衛生兵ジョセフ・ドワイヤー上等兵は、所属する部隊がユーフラテスからバグダッドまで進軍する中、負傷した少年を抱きかかえている。少年は半裸で無力だが、兵士に信頼を寄せている。ドワイヤー上等兵の顔は緊張しながらも穏やかだ。 強靭で私欲なき米国軍兵士のイメージとして、この写真以上のものが考えられるだろうか。イラク戦争がイラク国民の解放という戦勝物語の真っ只中にある頃、米国中の新聞各紙や雑誌が、この写真を大きく取り上げ、ドワイヤー上等兵を時のヒーローに仕立て上げた理由も、容易に理解できよう。 そうした物語はしかし、数年で悲痛なものに変わった。そして、悲しみだけが蓄積され続ける。先月ノースカロライナ州で、ドワイヤー氏は亡くなった。 31歳の彼は、深刻なほど病んでいた。何年もの間、ドワイヤー氏は心的外傷後ストレス障害(PTSD)と薬物依存症の治療を繰り返していた。彼は恐ろしい妄想と暴力・激情の発作にさいなまれていた。彼の妻は、彼女自身と幼い娘を守るために、夫の下を去った。6月28日、通報を受けた警察がドワイヤー氏のアパートに駆けつけた際、彼は独りだった。警察官がドアを蹴破ると、薬瓶と洗濯用溶剤の空き缶にまみれて死にかけていたドワイヤー氏を発見した。友人によれば、ドワイヤーは苦痛を和らげるために溶剤を吸引していたという。 戦場から帰還して以来、ドワイヤーはずっと破滅的な終末へと向かっていた。 親友のうち二人、アンジェラ・マイナーとディオンヌ・ナップは、テキサス州エル・パソに近いブリス陸軍訓練センターで同僚だった衛生兵である。しばらくの間、彼女らは一緒に働き、食事をし、映画に行き、軍の慣習とは異なり、互いをファーストネームで呼び合う仲の良いグループだった。 ジョセフは頼れる人物だった、とマイナーは言う。頼まれなくてもオイルを交換しタイヤを検査してくれたり、オンボロ自動車で午前3時に迎えに来てくれたりする男性だった。ナップの話では、ジョセフは彼女の息子ジャスティンにとって叔父のような存在だったという。幼稚園で問題があっても、ドワイヤーが園に来れば息子はいつも喜んだ。 ナップはイラク派遣に召集されたが、ドワイヤーは彼女の代わりに任務に着くと主張した。ナップがシングルマザーだったからだ。当時、ドワイヤーには子どもがなく、それ故に9/11テロ直後志願したのだった。戦地に派遣されてから彼の写真が国中の新聞やテレビに登場すると、皆が驚かされた。 数ヵ月後、ドワイヤーは帰国した。彼は有名人になったことに戸惑っていた。痩せこけた上に、彼は苦悩していた。ドワイヤーは怯えていた、とマイナーは言う。むしろ偏執的だった、とナップは評した。 エル・パソの風景がイラクに似ていることは何の助けにもならなかった。車を廃車にしたこともあった。ドワイヤーの話では、路上に箱を見つけた際に、爆弾だと思ったのだという。もう映画にも出かけられなくなった。人が多すぎるからだ。レストランでは、常に壁を背にして座るようになった。 イラク人が殺しにやってくる、とドワイヤーは言った。アンジェラとディオンヌへ四六時中電話をかけ、昼夜問わず夢の中まで追いかけてくる“悪霊”の話を漠然と話し続けた。浸礼派教徒になったドワイヤーは、安堵を求めて、昼食時でさえ執拗に聖書の言葉を探していた。コンピューターショップで買ったスプレー缶を吸引してハイになっていることも、友人たちは気づいていた。 マイナーは言う。「真昼間に電話してくるんです。だから私は、“あなた、何でベスト・バイ(量販店)に居るの?仕事はどうしちゃったの?”と聞いたものです。また飲んだくれて、気分が悪かったんでしょう。」 2005年10月、友人たちはドワイヤーを心配し、アパートのドア越しに銃と溶剤の缶を手渡すよう説得した。ドワイヤーは申し出を拒否した。 数時間後、妄想に囚われたドワイヤーは、アパートで銃を乱射した。SWATチームが駆けつけると、ドワイヤーは喜んだという。ナップの話では、その時ドワイヤーはイラク人がどこに居るか説明したという。逮捕されたドワイヤーは、放免されてまもなくノースカロライナ州パインハーストに引っ越した。両親は息子を助けようとしたが、うまくいかなかった。「息子は戦争を乗り越えられなかった。ジョセフは二度と帰還できなかったんです。」母親のモーリーンは記者に言った。 治療と投薬でドワイヤーを救えたかどうかは判然としない。配置後の検査の際、苦しみを隠して嘘を言ったと彼は認めていた。家族のところへ帰りたかったのだ。マイナーによれば、エル・パソでもドワイヤーは治療の予約をすっぽかすことがあったという。ナップとマイナーによれば、ただひとつだけドワイヤーの助けになったと思われるのは、イラクで待ち伏せ攻撃に遭い、その恐怖と死を経験した同僚の退役軍人に相談することだったという。しかし、それも少なすぎ、且つ遅すぎた。両女性ともに、米軍がドワイヤーを見逃したことには不満を感じている。 ドワイヤー上等兵は、RPG攻撃と衝撃的な暴力の中を生き抜いて、家族や友人の居る場所に戻ることが出来た。だが、彼の中の一部は、どうしようもなく怯えたままイラクの路上に永久に取り残された。彼を抱えて無事に連れ戻す者はいなかった。 |