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孤立無縁感と苦しみの日々一気に読み終えた。『妄想(セクハラ)男は止まらない 勝利的和解・セクハラ裁判の記録』。役所で日々雇用のパートだった理子さんが上司から受けた強姦未遂など一連のセクシャルハラスメントの被害に苦しみながらも裁判に訴えた際の陳述書をまとめたパンフレットだ。リストラの話だと思い誘われた上司から強姦未遂を受け、雇用均等室に電話で相談したところ「あなたにも落ち度がある」「自分の気持ちをはっきり伝える必要がある」などといわれ、再び加害者にあったところ、また被害に遭い、人間不信の孤立無援感に襲われる。その後、職場ではストーカーまがいのセクハラを続けられ苦悩の日々を送る。 つづくセクハラ被害の過程で、加害者の誘いに乗ってしまったり、プレゼントを贈ったりと、ときに「なぜ?」と思ってしまうような行動も、理子さん自身によって書かれた陳述書には描かれている。それは「心理的監禁状態」である、と理子さんの裁判をささえたカウンセラーは言う。 「心理的監禁状態」とは何か鍵のかかった部屋に監禁されていたわけでも、鎖でつながれていたわけでもないのだが、現実に逃げることができなくなっている。このように物理的に監禁されているわけではないのに、現実には逃げることができなくなってしまう状態を、ジュディス・ハーマンは『心的外傷と回復』の中で、「心理的監禁状態」と名づけた。……ハーマンは「心理的コントロールの方法は被害者の『他者との関係においてある自己』という感覚を破砕するようにデザインされている」と分析する。この恐怖と孤立無援感によって被害者は逃げることができなくなってしまうのである。(73頁)実際、理子さんの陳述の中には、たくさんの「恐怖と孤立無援感」に立たされるさまざまな事例が、読んでいて辛くなるほど紹介されている。 職場における上下関係(理子さんの場合は日々雇用ということもあって雇用関係もある)、突然の強姦未遂によるパニック、加害者の暴走を収めなければならないという判断と家族には知られたくないという苦悩とそれでも誰かに知ってもらいたいという思いが絡まったプレッシャーの中で生き延びてきた理子さんの思いが強く伝わってくる。 知人の女性も同じ被害を受けたことを聞いた理子さんは、「もう絶対許せない」と決意し、職場の本部宛に加害者を告発する。職場本部の被害調査では、セクハラの認定ができなかったとして理子さんの要求を退ける。その過程で「セクシャルハラスメントと斗う労働組合ぱあぷる」と出会い、損害賠償請求の民事裁判を起こすことになる。 二次被害、三次被害も起こりうるセクハラ裁判を耐え抜き、二〇〇五年に理子さんの要求をほぼ受け入れた形で和解が成立する。 読み始めて、加害者の気持ち悪いセクハラ手法に、憤りと胃の奥のほうがズーンと重くなるような感覚にとらわれた。(被害者の受けた感覚はそんな生易しいものではないだろう。ときに記憶がなくなってしまうほどのショック、怒り、悲しみが理子さんを支配し、「心理的監禁状態」を余儀なくさせただろう。) しかししばらく読みすすめていくうちに、「なんで?」「そこでついて行ったらアカンやん!」という思いが何度もこみ上げてきたことも事実である。その都度、そのような行動が記されている箇所には、丁寧な「註」がページ下段につけられており、それを読んで「なるほど」「たしかに」と、自分の中の「被害者ならこうするはずだ」という「社会的妄想」をひとつひとつ反省する。 たとえば、「雨でも、寒い日でも、外で待たされる。それが嫌で、携帯の番号を教えた。何時に待っておけと言われたら、30分でも1時間でもそこで待たされる(註28)」と言う箇所の註は、 「註28:それなら相手の言いなりになって長時間待つのではなく、帰ればいいのではと思われるかもしれないが、もし、帰ってしまったら、後で被害者が何をしてくるかわからない。理子さんには、そのまま帰るという選択肢はなかった。」(46頁)という具合である。頭では分かっていると思っていた「被害者の気持ち」を全く理解していない自分に改めて気付かされた。 繰り返されている加害と被害註を入れた「ぱあぷる」のみなさんは、「あとがき」で次のように語っている。確かに、日常的に安全を確保できる生活をしている者からみると、自ら窮地に立つような理子さんの行動は「誰にも相談せずにひとりでそんな行動をとったら、他の人からも誤解を受けるのに」「下手するともっとひどいことになったのでは」「なんでそんなことするの」と見えることだったかもしれません。しかし理子さんは、被害のことを相談した複数の公的機関から二次被害にあい、その結果、「誰にもわかってもらえない、自分だけで解決しなければ」と孤立してしまいました。道理を説いても通じない恋愛妄想の加害者に、心理的に追い詰められた理子さんは、そこから脱出するためには妄想男の言動にあわせて、相手にわからせるしかないと思い、必死に考えた「作戦」に出たのです。(91頁) セクシャルハラスメントによる被害は決して他人事ではない。職場や家庭においてまったく無縁であるという人はいないだろう。左翼運動や社会運動においても同じである。加害と被害は繰り返されている。セクシャルハラスメント、性暴力、性差別は、つねに被害者の側の思いから出発しなければ、さらなる被害を招く。文章でしか知らないが第四インター日本支部の女性差別事件や、身の回りで起こったセクシャルハラスメント事件を思い起こしながらそう感じた。 「妄想社会」と闘いつづける本書には、各章ごとに掲載されている「ぱあぷるメンバーのつぶやき」、心理的監禁状態にあった理子さんの状態を分析した「カウンセラーの意見書」やどのような思いで裁判に取り組み、その中でどのような思いを感じたのかなどを理子さん、弁護士、カウンセラーによる鼎談「大きかった陳述書の力 今、裁判を振り返って」も収録されている。だが何といっても、五年にわたる裁判と勝利的和解を引き出した理子さん自身によるA4紙74ページにも及ぶ陳述書から構成された本文から発せられる理子さんの苦悩や悲しみ、そして尊厳を感じとることが大切ではないかと思う。このパンフレットに込められた理子さんや「ぱあぷる」の皆さんの思いをどれだけ受け止められたかは分からない。しかし「分かりたい」という思いを持続させるためにも、本書だけでなく、被害者の思いからつづられた同じような文献は、何度でも繰り返し読み続けたいと思う。自分自身もその構成員である「妄想社会」と闘いつづけるために。(H) |